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わらべうた



533


慶応二年、六月。
長州領である屋代島への砲撃を持って第二次長州征討が開始された。
「先生、戦況が不利…というのは誠ですか?」
巡察を終えた一番隊の一人が総司に尋ねてきた。
開戦された当初は幕艦によって易々と幕府軍が勝利を収め、隊士たちもこのまま長州を攻略するに違いないと意気揚々だったが、このところは占領した屋代島の奪還を許し、芸州口で幕府歩兵隊などがあっけなく壊滅した…など悪い知らせが続いていた。
一人が不安を吐露すると、それは自然と伝染する。
「一橋公の弟君が藩主である浜田城も陥落されたとか」
「俺は敵の木造船の砲撃で幕府の鉄製蒸気船が壊滅したと聞きました」
「まさか!そんなことがあり得るのか?」
「幕軍の歩兵は何をしているんだ!」
普段は任務を忠実にこなし、文句ひとつ言わない隊士たちが声を上げていく。総司は困惑しながらそれを受け止めるしかなかったが、
「皆、先生を問い詰めても仕方ないだろう!」
という島田の一喝でとりあえずは収まった。
だが彼らが耳にしたことは総司もすでに近藤から聞き及んでいた。
「…確かに、幕府軍は苦戦を強いられているようです。戦に慣れていない幕府軍が戦力を増強してきた長州を相手に戸惑っているのでしょう。…歯がゆい気持ちはわかりますが、私たちにできるのは天子様や大樹公がいらっしゃるこの都をお守りすることですよ」
総司が穏やかに諌めると隊士たちは「はい」とうなずいた。隊内でも選りすぐりの隊士たちだ、己の感情を抑えるすべはよくわかっている。
「では、解散しましょう。お疲れ様でした」
総司が声をかけると隊士たちは解散したが、島田と山野が残った。
「どうしました?島田さん」
「いえ…伍長として皆にはあのように諌めましたが…むしろ自分こそ焦燥感に駆られているのです」
島田は肩を落とした。
「自分も幕府の戦況を憂いていますが…むしろ…幕軍の情けない噂に失望しています」
「噂?」
「幕軍は大島を占領した後、島民に乱暴狼藉を働き…民家へ放火を繰り返したそうです」
「…」
「幕府に忠実な人間こそが武士なのだと思っていましたが…敗者へのそのような仕打ちは武士としてあるまじき行為であると思います。結果的に島は奪還されたそうですが…それは当然の結果でしょう」
「…そうですね」
温厚な性格だが熱い忠義を秘める島田にとって、戦況よりも落胆した知らせだったのだろう。がっくりと肩を落とす島田に山野がそっと寄り添い、励ました。
「そのような不忠の武士はごく一部でしょう。先輩のような歩兵もいるはずです」
「…そうだろうか」
「そうですよ。きっとここから盛り返して勝利を収めるに違いありません」
山野が口にした肯定の言葉に、島田は頷いて受け入れた。二人の間に流れる空気はほかの隊士たちとは違う。穏やかで優しくて、ぬるま湯のように心地よい。
「…じゃあ私は土方さんへ報告へ行きますね」
そんな空気に充てられて総司はそそくさと背中を向けた。けれどその足取りはひどく重たい。
(…僕もああして寄り添えたらいいのに)
土方とはあれから巡察の報告以外にろくに会話を交わしていない。近藤と喧嘩をした時以上にピリピリと張り詰めた空気を醸し出している。それは隊士たちが気にしていた長州征討の戦況のこともあるだろうが、一番は総司の煮え切らない態度のせいだろう。
察しの良い土方は、総司と斉藤の間に何があったのだと気がついてしまった。けれど総司はそれを口にすることはできない。今まで斉藤が隠し続けてきた秘密を簡単に教えることなど当然できるはずがなかった。
(もっとちゃんと…僕が強ければいいのに)
つらい過去を誰にも話すことなく顔に出すことのなかった斉藤のように、土方の前でシラを切ることができれば良かったのに。
総司はふと右手首に薄っすらと残る赤い痣に目をやった。あの後、土方の怒りが刻まれたように真っ赤に腫れていたが、今ではそれが消えかかっている。
(このまま、消えなくてもいいのに)
そんなことを思いながら左手で摩った。あの時の土方のなんとも言えない表情が脳裏に残っていた。


梅雨の合間の六月の快晴は、自然と気分を高揚させる。
「旦那様ァ、花札せぇへん?」
甘えた声で伊東に声をかけてきたのは、妾の花香だった。年齢を感じさせない愛らしい子供のようなまん丸な目を向ける。廓へ通う男どもはそれで難なく籠絡されてしまうのだろうが、伊東はそうではなく、あっさりと受け流した。
「また花札かい?」
「へぇ。旦那様がお留守の間に強うなりましたえ」
花香は自慢げに笑った。ずいぶん長い間留守にしたので彼女の腕は鍛えられていることだろう。伊東も微笑んで返したが彼女に付き合う暇はない。
「残念だが、私はいま忙しいんだ。内海に付き合ってもらったらどうだ?」
「いやや。内海様は勝っても負けても無表情で面白うない。篠原様や服部様は弱いし…」
「では鈴木に相手してもらいなさい」
今日は内海と鈴木を同行させていた。無愛想な鈴木もまた面白みのない人間であるが、花香にとって伊東の実弟である彼とは距離を縮めておきたいはずだ。すると予想通り不承不承という表情を浮かべながら「そうしてもらいます」と部屋を出て行った。
伊東は一人きりになった部屋で手紙を開いた。送り主は名もなき男…最初の長州行きの際、長州藩士赤禰武人と近藤を暗殺しようと目論んだ一味の一人だ。伊東が男の命を助け、ありったけの金を渡して別れたが、二度目の長州行きの際に再会を果たし、西国を回る手助けをしてくれた。それまで数々の汚い仕事を請け負っていた男は沢山のツテを持っていて、顔が効いた。
(良い拾い物だった)
伊東はそう思っていた。
都へ戻る際、再びありったけの金を渡し長州の状況を伝えてくれるように指示している。いつ裏切るかわからない無頼の者だが、今のところは忠実に働いてくれていた。
男からの手紙には長州征討の戦況が書かれていた。大島を奪還したことを皮切りに長州は士気を上げ、芸州口や石州口で勝利を収めているということ。そして隣接する廣島藩が幕府の出兵を拒み、いつ寝返ってもおかしくない状況だということ。そして今度は小倉で海を挟んだ戦がが始まるのではないかと噂されていること。
「…思った通りだ」
予想通りの報告に伊東は自然と笑みがこぼれた。
このままいけば長州が勝利を収めるだろう。三百年続いてきた幕府がたった一藩に敗れる…その事実は衝撃を持って伝えられ、長年続く幕府の安寧は崩れるに違いない。薩摩藩や廣島藩のように幕府を見限り出兵を距離する藩は増えていくだろう。そして長州藩や薩摩藩が政局を牛耳るようになれば、世の中は変わる。
(あとは…朝廷だ)
天子様…孝明天皇は将軍家茂公に妹を降嫁させ幕府との距離を縮めて公武合体を推し進めている。民には朝廷を重視する考えが強く、天皇の一挙手一投足で政局は左右される。
(西国と連携しながら…朝廷との足掛かりを作る)
今後の自身の身の振り方について考えていたところで、「失礼します」と内海が顔を出した。
「どうした?」
「いえ…花香さんがあちらの部屋にいらっしゃったので、私は席を外させて頂きました。お邪魔ですか?」
「いや、いい」
伊東は笑った。内海は相変わらず花香のことが苦手なようだ。
「花香は鈴木と花札を?」
「はい」
「あんな無愛想な男と花札など、面白くないだろうな」
「…まあ、花香さんは親しげに鈴木君に声をかけているようですが…反応は薄いというか」
「眼に浮かぶようだ」
伊東はハハッと笑った。その軽快な反応に内海は「ご機嫌ですね」と目ざとく反応した。
「ああ、まあ…そうだな。思った通りにことが運んで喜ばしいことだよ」
「それは良いことですが、そういう時こそ身の回りにご注意ください。特に土方副長は…」
「わかっているよ」
内海に言われなくとも、伊東は土方の敵意を認識していた。片腕である山崎も帰還したので一層伊東の身の回りを注視されることだろう。
けれど今の伊東にはそれが苦痛ではなかった。
(それさえも…面白いと思える)
不適に微笑む伊東を内海は心配そうに見ていた。







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解説
長州征討で幕府の富士山丸、八雲丸、翔鶴丸は砲撃を仕掛けてきた高杉晋作率いる丙寅丸を追跡し、見失いました。


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