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わらべうた



534


しとしとと涙のような雨で地面を濡らしながら雨雲が屯所を覆う。特に夜に降る雨はその姿を闇に隠し、まるで一面に雨が降っているような錯覚を与えていた。
静かな屯所に明かりが灯っているのは土方の部屋だ。
「…以上、捕縛者一名、もう一人には逃げられました」
斉藤の端的な報告に対して、土方を相槌も打たなかった。機嫌が悪いのだろう…斉藤はそう察したが、
「二人とも捕縛しねぇと意味がねえだろう」
という言葉でやはり機嫌を損ねているのだと確信した。いつもなら悪い成果でも「そうか」と言って必要以上に責めることはないので、わざわざそれを口にしたということは余程のことだ。
「申し訳ありません。雨で視界が悪く、見失ったようです」
「言い訳だ」
「はい」
斉藤は素直に認めた。不機嫌な彼に対して抗ったところでますます苛立ちを増長させてしまうのだ。
試衛館食客ほどではないが、長い付き合いである斉藤はそれがわかっていたしそれを恐れることはない。
「失礼します」
こういう時はさっさと退くに限る…そう思ったのだが、土方が「待て」と引き止めた。
「…何でしょうか」
「浜田城が陥落した。海峡を挟んでの戦でも幕府側の小倉藩が苦戦していると聞いている」
「…」
「お前が知っていることを教えろ」
土方の目は、まるで敵対する人間を問い詰めるような厳しいものだった。
斉藤は居住まいを正して身構えた。
「…俺は皆が知っている以上のことは何も知りません」
「今更隠すな。お前が会津や幕府となんらかの繋がりがあることはわかっている…さっさと言え」
「…」
今までになく強い口調だった。
これまでそのことについて土方が示唆することはあっても、直接的に指摘することはなかった。彼の不機嫌の要因がそこにあるのだと思った時、斉藤もまた疑念を抱き咄嗟に
「沖田さんが何か?」
と尋ねた。
土方が突然斉藤の身辺について言及するのは、総司が何か言ったのだと思ったからだ。斉藤の話した重たい過去を抱えきれず、一番近くにいる土方に相談してもおかしくはないし、それくらい彼を追い詰めていることもわかっていた。
だが土方は「ふん」と鼻で笑っただけだった。
「やはり、あいつの隠し事はそのことか」
「…試したのですね」
「まあな」
その一言で斉藤は土方がカマをかけ、またミスを犯したのは自分なのだと気がついた。話の流れで総司の名前を出すのはおかしいと誰でもわかる。それに総司がそれまで隠してきた斉藤の思いを簡単に踏みにじることはない。
(いつもならこんな馬鹿げた失態はしない…)
斉藤は思った以上に自分が動揺していたのだと悟った。
土方は腕を組み直して一息ついた。
「あいつは何も言わない。近藤先生と同じで随分と頑固だからな。…ただお前のことが心配だと、それだけだ」
「…」
「…何か言ったらどうだ」
土方に促されたが、斉藤は即答することはできなかった。部屋の外から聞こえるシトシトとしたもの淋しい音だけが二人の間に流れていた。
「…心配をかけていることはわかっています。本当なら話すべきではなかった…苦しませることだとわかっていました」
「だったら、何故話した。巻き込むとわかっていただろう」
「…俺の我儘です。いつまでもあの人に『親切な友人』だと思われることに、限界を感じ…いっそ自分とは違うのだと突き放したいと思いました」
光が眩しければ眩しいほど、影は際立つ。
思い焦がれるほど、己の卑小さに気がつく。
「俺は…自分の意思に関係なく、誰でも殺せる醜悪な存在です。たとえ同じ殺人でも沖田さんのそれとは違う。だから惹かれ…だからこそ、これ以上近づくべきではないと思います」
あの優しく穏やかな若様を、恐れさせ傷つけた。そんな自分が誰に心を許し、許されることが出来るというのか。
(あの人にこれ以上、惹かれるのが恐ろしい)
その先に何があるのか、考えるだけで身震いがする。
(いっそ…この雨に流れていけばいいのに)
いつまでも止まない雨に打たれ続けていけば、身体が心が冷えて、熱い塊のようなこの想いが姿を潜め、灰になるだろうか。
沈黙した斉藤に、土方はゆっくりと口を開いた。
「…お前は総司に嫌われたいのか?」
「…」
「お前はあいつが好きなんだろう?」
土方の直球の問いかけに、斉藤は一瞬言葉を失った。
「…何故、あなたがそんなことを聞くのですか」
「さあな…俺も、お前に嫉妬しているのかもしれない」
「何故です。あなたは紛れもなくあの人の気持ちを得ている。俺を羨むことなど何も…」
「そうでもない。もしかしたらあいつの心を占めているのは近藤先生が一番で、俺とお前はほんの少しの違いしかないのかもしれない」
「まさか…」
「この間は俺の目の前でお前は『違う意味で特別』だとぬかしてやがった。…だから少なくとも今は、お前のことばかりを考えているようだ。俺はそれが…思った以上に、気にくわない」
斉藤は土方の不機嫌の理由を見誤っていたのだと気がついた。彼の機敏さなら総司の考えていることなどすぐに理解してしまう、だからこそ苛立っていたのだ。
「…あの人のことは俺も特別に思っています。その理由はおそらく…とても子供染みたものです。でもその気持ちを俺は持て余していた…というよりも扱いに困っています」
「困る?」
「こういうことが、昔から苦手です」
家族でさえ見放す無口さ故に、孤独だった。だがそれを孤独と思うことなく生きて、心の中にポッカリと空洞があった。
最初にそれを埋めてくれたのは若様だった。分け隔てない無償の優しさに触れ、『友人』だと笑った若様の顔がいつまでも忘れられない。けれどその信頼を裏切ったのは自分の中に眠る凶暴さだった。
だからそれまで以上に人との関わりを避けてきた。そうするべきだと思っていたし、たった一人で生きていくことに何の迷いもなかった。若様への『忠義』を貫くことだけが贖罪になるのだと信じた。
けれど、ここに来てまた出会ってしまった。
「…いつか、また…傷つけることが怖い」
その言葉は自然と溢れていた。その言葉が自分のものだと気がついて、ハッと咄嗟に口を噤んだが既に遅い。
(俺はそんなことを恐れていたのか…)
御託を並べて取り繕っていても、己の根底に眠る弱さがある。…だがその事実に、愕然とすることはなかった。
(嫌われたくないと…そんな人間らしいことを思っていたのか)
そしてまた目の前にいた土方も軽く笑った。
「総司はそんなに弱くない。昔は俺や近藤先生の言いなりだったが…今は違う。それはお前もわかっているだろう」
「…ええ」
決められたレールの上で皆に守られて生きる若様とは違う。彼には彼のはっきりとした道があり、強い心でその道を歩むのだと決めている。
孤独を選び、一人で生きるよりも余程苦難な道を歩む彼を誰が弱いというのだろうか。
「総司はお前が放って置けないと言っていた」
「…いつものお節介です」
「ああ、そうだろう。だが一つだけ言っておく。…お前の過去に何があったのかは知らねぇが、総司を想うことで生きていく糧になるというのなら、勝手にすればいい。俺はお前に渡すつもりはないがお前の気持ちまで遮ることはできない」
「…」
「だから、あいつがお前のことを『特別だ』と言った気持ちを…蔑ろにするな。あいつを傷つけたくないというのなら、逃げるな」
『鬼の副長』と揶揄する人々は、近藤が光で土方が影だと言うのだろう。しかし斉藤からすれば土方もまた光の中の存在であり、どこまでも眩ゆい。
(…相変わらずこの人は酷なことを言う)
実らない思いを持ち続ける苦しさを押し退けて、思い続けろと言う。決してそれが土方の望みと言うわけではなく、総司のための言葉なのだろう。
だが幾分か気持ちが楽になっているのも事実だった。土方は、斉藤自身が否定した気持ちを肯定したのだ。
「…わかりました」
「最後に聞かせろ」
「はい」
「子供染みた理由って、なんだ?」
尺で向き合って重たい話をしたというのに、土方が気にしていたのはそこなのかと斉藤は内心苦笑した。
「…俺なんかに優しく接してくれた。ただそれだけのことです」








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解説
なし
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