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わらべうた



538


総司と斉藤は松本とともに大坂へ向かった。
最初は大樹公との面会に難色を示していた松本だが、斉藤の思いを汲み弟子として入城できるように取り計らってくれた。
「お前たちは俺の弟子だ。ボロが出ちゃまずいから一言も喋るなよ」
「わかりました」
総司は答え、斉藤は頷いた。
相変わらず寡黙で無口だが、その表情にはいつもはない緊張が見えた。友人との数年ぶりの再会…その経緯を思えば単純な喜びではなく、戸惑いや憂いがあるのは当然だろう。
都を発った翌日、未だに雨の降る大坂にたどり着く。
荘厳な大坂城は大樹公が入場していることもあり警備の人数も多く、物々しい雰囲気だったが、幕府御典医の松本とその供だというとすんなり中に入ることができた。
(静かだ…)
十徳に身を包んだ松本とともに廊下を歩くが、世間の喧騒から隔離された城は、戦時中だというのに静かで空気が重たい。
(それくらいお加減が悪いのだろうか…)
総司は嫌な予感に苛まれながらちらりと斉藤を見る。彼も同じ考えだったのか、冴えない表情をしていた。
雨の音だけが聞こえるなか、城の奥へ進む。すると
「こちらへ」
年老いた女が松本を見るや案内した。その部屋に足を踏み入れると、広間に数名の紋付袴姿の重鎮たちが居並び、御簾の向こう…その先にいる大樹公の様子を伺っていた。松本は手慣れたようにその御簾の向こうへ向かって行くが、流石に総司と斉藤には躊躇いがあった。
「斉藤さん…」
「…大丈夫だ」
再び足を踏み出そうとした時、
「待て」
とすぐ側に控えていた紋付袴姿の男が小さな声で二人を呼び止めた。総司は露見したのかと一瞬で冷や汗をかいたが、男の視線は斉藤のみに注がれていた。鋭い眼光が混じり合った時、斉藤もその男に気がついたようでグッと唇をかんだ。
「…貴様…何故ここに…」
「…」
「篠原殿、知り合いですか?」
さらに別の重臣が声をかける。『篠原』という名前には当然聞き覚えがある…かつて斉藤を大樹公に引き合わせた側近の男であり、新撰組として都にやってきてからもなにかと彼から『雑用』を任されていたと聞く。
(誤魔化せない…)
このまま騒ぎになって追い出されるのかーーと総司が思った時、松本が引き返してきた。
「俺の弟子に何か用か?」
「ま…松本法眼、この男は…」
「弟子だ。…おい、二人とも。こんなところに突っ立ってねぇで一緒に来い」
「は、はい!」
総司と斉藤は松本の手招きに応じて場を離れた。松本が「なにやってんだ」と咎めるように二人を見据えた。
総司は斉藤とともに御簾の向こうに足を踏み入れる。松本と同じ格好をした数名の医者と身の回りの世話をする小姓や女中たち、そしてその中心には当然、大樹公が臥せっていた。
総司たちは松本の後ろに控えた。松本が他の医師らと病状について意見を交わしているが、とても耳には入らない。
総司にとって、今目の前にいる若き大樹公はまさに雲の上の存在であり、本来であれば総司の身分では一生目にかかることはないのだ。そのため直視することさえ憚られるが、松本の弟子としていつまでも頭を下げているわけにはいかない。遠慮がちながらもちらりと、目を閉じて苦痛に耐える横顔を見る。
(お若い…)
自分よりも年若だとは知っていたが、思った以上に幼さを残した青年という風貌だった。血の気のない肌とは対照的に上気した頬…一呼吸ごとに苦しそうな様子は素人の総司からしても重い病であることを実感させられた。
ふと、隣にいる斉藤に視線をやる。彼は表情を変えずにいたが、握りしめた拳だけはずっと小さく震え続けていた。
(斉藤さん…)
「浮腫を取り除いて差し上げることが肝要かと存じます。竹内法印」
松本はそう進言した。『法印』とは『法眼』よりも上の地位ある医師のことだ。『法印』と呼ばれた年老いた医師は頷いて指示を出す。
「芫菁発泡膏を心部に貼り、利水薬をお飲ませせよ」
「はい」
「かしこまりました」
虚ろな大樹公を小姓が支え、剃髪姿の医者が薬を飲ませた。
その傍で複雑そうに顔を歪める医師たちの姿があった。
「漢方医だ」
松本は小声で総司に耳打ちした。
「漢方医は今まで上様の症状について『脚気』だと主張し、手を尽くしてきたが一向にご快方に向かわれない。上様に進言しいまようやく西洋医学の出番ってところだ」
「…先生、大樹公のお加減は…」
「ああ…眠りが浅くいらっしゃる。…芫菁発泡膏ってのは劇薬でな…漢方医はことごとく使用を拒否してきたが、身体の老廃物を吐き出すにはうってつけの薬だ。これで楽になられると良いのだが…」
「…なるほど…」
薬を飲んだ大樹公はゆっくりと身体を倒し、そのまま浅い眠りにつく。その健やかな寝息にその場の家臣たちを含めた全員が安堵した。
松本は切り出した。
「法印、ここは私と弟子が上様のお側にお仕えいたします。しばらくお休みになってはいかがですか」
「うむ…連日の看病で目が疲れておる。法眼の言う通り、休ませてもらおう」
「はい。上様には静かな環境での安眠が必要です。家臣の皆様もご退出ください」
松本の指示で、側に控えていた竹内法印をはじめとした医者たちと御簾の向こうにいた家臣たちがぞろぞろと退出していき、数名の小姓と女中が残った。
静かな閨に大樹公の浅い吐息だけが響く。
松本は時折手首の脈や体温を図りながら看病を続けるが、総司はなにもできずにただ見守り続けるしかなかった。そして斉藤もまた微動だにせずに横たわった大樹公の姿を目に焼き付けるように見つめ続けた。
すると御簾の向こうからひとりの女がやってきた。年老いていながらも凛とした老女は羽織を引きずりながら歩き、大樹公ではなく、斉藤の前で膝を折った。
「…久しいですね」
「…」
「相変わらず無口なご様子。まさかお忘れですか」
「…ご無沙汰をしております。浪江殿」
口を開いた斉藤は深々と頭を下げた。大樹公の教育係の『浪江』だ。彼女は篠原のように敵意を向けることはなく、淡々とした表情だった。
「…まさかこんなところでお会いすることになろうとは思いもよりませんでした。…松本法眼の弟子とか?」
「…」
「それは仮の姿ですよ」
松本が斉藤の代わりに返答する。松本があっさり正体をバラしてしまうということは浪江を信用しているのだろう。浪江は「法眼らしい」と苦笑した。
「どういう経緯かはお尋ねせぬが…しかし、そなたが参られたこと、上様はお喜びになるでしょう。そなたが姿を消してから、上様は随分と落胆されました」
「…自分は…上様を喜ばせるような存在ではありません」
「あの夜、何があったのかは存じませぬ。しかしながら上様がそなたのことを悪く言うことはなかった。千代殿…数年前に亡くなられましたが、また『イチ』に会いたいと漏らしていたようです。一方でもう会えないのだろうとも…」
「…」
浪江は息を吐きながら「あとは頼みましたよ」と口にした。松本に言ったのか、斉藤に託したのか…総司にはよくわからなかったが、そのまま立ち上がると無駄のない仕草で閨を出て行った。

陽が沈み、夜になる。
蝋燭に炎が灯され淡い明かりが部屋を照らしていた。遠くから雨の音が聞こえるーーー城の厚い壁越しでも聞こえるほどの大雨のようだ。
物音一つ許されないような静けさの中、大樹公がゆっくりと目を開けた。
「…上様、ご気分は如何にございますか?」
松本が穏やかな声をかけると、大樹公は「うん」と頷いた。
「夢の中で…法眼…其方がいるような気がしていた。…懐かしい、江戸の…言葉が聞こえた…」
「光栄です。ですが…おそらく私ではありませぬ」
「ふむ…?」
大樹公の虚ろな瞳がぼんやりと周囲を見渡す。すると松本が斉藤を手招きするようにして呼んだ。
人払いをし誰もいない絶好の機会ーーーしかし斉藤は動こうとはしなかった。
「…斉藤」
「…」
「斉藤さん」
総司は軽く斉藤の背中を押した。彼はここまできて戸惑っていた。消えてなくなった存在に徹した自分が今更本当に姿を現していいのか、と。
けれど、そんな迷いはすぐに消え失せた。
「…イチ…」
その声に導かれるように、斉藤は腰を上げ大樹公…若様の元へゆっくりと向かったのだった。













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解説
なし
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