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わらべうた



539


その再会はとても静かなものだった。
寝床の傍に腰を下ろした斉藤は大樹公と目を合わせることなく深く深く頭を下げた。
そんな斉藤を大樹公は慈愛に満ちた瞳で見た。
「久しいな…まさか、こんなところで…会えるとは思わなかった」
「はっ…」
「イチ、顔を上げて…」
「できませぬ」
二人の間に流れる雰囲気は決して『友人』ではなく、『君主と臣下』だった。それは斉藤が別れの際に忠臣でいることを誓ったためだが、大樹公は酷く寂しい顔を浮かべた。
大樹公は頑なな様子を見て少し諦めたように息を吐くと、天井を見つめた。
「…私はずっと、イチに再会できたなら、謝らければならないと思っていた…。あの時、この身を助けてもらいながら、一時の恐怖に苛まれイチを怖れたことを…」
「当然のことです。故意ではなくとも…自分は上様に刃を向けたのです」
「いや…『友人』だと何度も言ったのは私の方なのに…情けないことだ。それにあのあと苦労をかけたのだろう…江戸を出て、名前を変えて…篠原から聞いた」
「…苦労など…何も。自分が選んだことです」
「それが本当なら…顔を上げてくれ。その顔を見せてくれ」
「…」
大樹公の言葉に斉藤は躊躇いながらゆっくりと頭を上げた。それでも伏し目がちになり目を合わせようとはしなかったが、「もっと近う」という言葉には逆らえずにすぐ傍に寄った。
大樹公は斉藤をまじまじと見て、微笑んだ。
「イチは、あの頃よりも大人になった」
「…もう、何年も経ちます」
「うん。…今は新撰組にいるんだろう。会津は…其方たちをとても頼りにしていると言っていた」
「…もったいないお言葉です」
「イチが一人孤独ではなくて良かった…」
大樹公はスッと息を吸い、虚空へとゆっくりと吐いた。言葉の一つ一つが苦しみとともに吐き出されるような状況だが、それでも目を閉じ、再び口を開く。
今まで抱えてきたものを吐き出すように。
「…私は、あの後も一人だった。将軍となり、多くの臣下を抱え、女中に囲まれ…何不自由ない暮らしなのに、それでも一人だった…」
「…」
「籠の中の鳥…まさに、それにふさわしい。私の存在など…世間を上手く動かすための、飾りに過ぎぬ」
「そのようなことはございません。上様は立派にお勤めを果たされていらっしゃいます!」
口を挟んだのは松本だった。将軍の御典医として側に使える松本には見過ごせない言葉だったのだろう。大樹公は「すまない」と苦笑した。
「法眼の言う通り…与えられた、勤めだけは果たそうと…ただそれだけであった。でもひとつ…良いこともあった」
「良いこと…」
「親子(ちかこ)に…巡り会えたことだ」
和宮親子内親王は孝明天皇の妹で徳川家に降嫁し、大樹公の正室となった皇女だ。傍目には朝廷と幕府を結びつける政略結婚として捉えられている。
「不本意な結婚にも関わらず…親子は、私に尽くしてくれた。彼女の優しさに触れ、ぽっかりと空いた穴が埋まっていく…親子との時間は、そのような、心地だった…」
親しげに『親子』と呼ぶ大樹公の表情は柔らかい。周囲の思惑とは関係なく、二人の間には夫婦としての愛情が芽生えていたのだろうということを伺わせた。
大樹公は再び斉藤へと目をやった。
「こうしてイチに会えた…わがままを、言わせてもらえれば…親子にももう一度、会いたいものだ…」
「無論でございます!良順、この身を賭しましても、必ずやご本復を…!」
「ありがとう、法眼…」
力強い松本の言葉に大樹公は頷いたが、途端に咳き込み始めた。松本は身を乗り出して背中をさすり木桶を準備する。するとその激しい咳を聞きつけ、世話役の小姓らが集まり始めた。
「…斉藤、ここまでだ。なにかお伝えしなきゃならねぇことはないのか」
「…っ」
斉藤は目を泳がせた。真っ青な大樹公の顔色と弱り切った身体に動揺して何も言葉が出てこないのだ。
すると大樹公は力を振り絞るように這い蹲り、斉藤の両腕をつかんだ。
「若様…!」
「…言いたい、ことが…あるのは、…私の方だ…」
「若様、ご無理は…!」
「親子と…一度、だけ…本当の蛍を、見た。覚えている…?源氏物語の、『蛍』だ…」
ひーひーと大樹公の息は荒いが、斉藤を掴む手の力は強かった。斉藤も握り返す。
「覚えて…おります…」
「…とても不思議な…生き物だ。美しい、光を放ちながら…暗闇を、飛ぶ。人間にはできない…美しい、光景だった…」
「…はい…」
「でも…イチとみた、あの星空には敵わない…」
「…!」
若様とイチ…短い時間であったが『友人』として見上げた荒れ山の星空が、いま斉藤の脳裏に鮮明に蘇った。若様が子供のようにはしゃぎ、手を伸ばす無邪気な姿がはっきりと。
あの瞬間は、斉藤にとっても人生最良の時間だったと思えたのだ。両親は健在、兄弟もいたのに何故かたった一人で生きてきた…そんな風に思えていた自分の人生の中で、唯一の輝かしい時間だった。
「また…共に行こう。『友人』として…親子とともに…」
「…!」
「もう限界です!上様!」
松本は数名の小姓と共に大樹公と斉藤を引き剥がした。床に臥せった大樹公は堰を切ったように荒い息を繰り返し、全身で呼吸する。
奥で休んでいた医師たちも駆けつけ閨は騒然となった。


深夜、大坂城を出る頃には雨は止んでいた。だが黒く厚い雲が月や星を隠してしまったせいであたりは朝陽が昇るまで真っ暗闇に包まれるだろう。
そんな旅籠までの道を総司と斉藤は無言で歩いていた。並んだ二つの提灯がゆらゆらと揺れている。
あれから大樹公はどうにか持ち直されたが、意識を失い今は安静を強いられている。そんな状況の中で無力な二人は何もできず、松本には「旅籠で待っていろ」と帰された。当然の判断だろう。
斉藤は道中、何も口にしなかった。
「…お会いできて良かったですね。松本先生の大胆な作戦は相変わらずですけど…上様もお喜びでしたから」
「…」
「きっとこれから持ち直されますよ。松本先生もおっしゃっていたじゃないですか。ようやく西洋医学の出番だって…だからきっと大丈夫ですよ…」
根拠のない言葉が吐き出されれば吐き出されるほどに、総司は虚ろな無力感に苛まれる。大樹公の様子を見て本当は先の明るい展望など考えられず、また大樹公もそれを自覚しているように見えた。
ぬかるんだ道を歩く。バランスが取れず体の重心が歪んでいるような錯覚を覚えた。
そうしてようやく旅籠にたどり着き、二人は二階の部屋へと上がった。
「もう…休みましょうか?」
「…」
「斉藤さん…」
部屋に灯された一本の蝋燭。淡い光は斉藤の影のある表情を映し出す。
(何を思っているのだろう…)
悲しみや慟哭、虚しさや悔しさーーー想像できうる以上に、きっと斉藤は言いようもない苦しみを味わっているに違いない。
「…羽織、濡れてるから脱いだ方が良いですよ」
部屋に入っても羽織すら脱ごうとしない斉藤に手を伸ばした時、突然その手首を掴まれた。
「え…」
「…頼みがある」
それは振りほどけないほど強い力だった。
「た、頼み…って…?」
「一度だけでいい」
「何が…」
「抱かせてくれ」
その短い言葉の意味を理解する前に、組み伏せられて背中を強く打った。その背中の痛みに気を取られていると互いの乾いた唇が重なった。
「ん…ぅ!」
総司は自由な片手で斉藤の肩を押したが離れることはなく、顔を背けて拒もうとしても顎を掴まれてしまう。
それは優しい口付けなどではない。獣が餌を食らうような獰猛さで口腔が飲み込まれてしまうように激しい。
「ぃ…ぁ…はっ!」
呼吸さえ塞がれ苦しい。けれど斉藤の方がもっと苦しそうに顔を歪めていた。
「さ、いとう…さ…」
「終わって…嫌ってもいい。だから…」
その先を斉藤は口にしなかったが、何も言わずに受け入れてくれとそんな風に続く気がした。
彼の牙が首筋から肩口に降り、そのまま噛み付いた。
「ぃっ…た…!」
傷になって染みる。噛み跡はおそらく深く刻まれた。
「さい…ん…!まって…」
「待たない」
斉藤は袴の紐に手を伸ばし、あっさりと解いてしまう。
「斉藤さん…!」
「…犬に噛まれたようなものだと思えばいいだろう。どうせ…副長に何度も抱かれているのだから」
「そんな…」
昏く虚ろな目には正気がなかった。普段の彼なら絶対に口にしない自分本位で横暴な言い方だった。
総司は、彼がこんな風に振る舞うのは、自分を軽蔑するように促しているのではないかと思った。嫌われて責められて…それでもいいから苦しさを紛らわせたい、そんな願望が見えた。
(僕は…そんなことを、したくない…!)
総司は渾身の力で斉藤を突き飛ばした。不意をつかれた斉藤はそのまま尻餅をつく。
「…斉藤さんが、こんなことをして気がすむのなら好きにしてください」
「…」
「私は軽蔑しません。でも…今までの全部が…きっと無かったことになってしまう。私と斉藤さんの間にあったのは、こんな一時の感情で無くせるほど簡単なものだったんですか…?」
「…」
「今の斉藤さんの気持ちを分かるなんて、簡単には言えません。でも…こんなことをしても結局は何の慰めにもならないと思うんです。何も変わらない」
「ああ…そうかもな…」
乱れた髪をかきあげた斉藤は深いため息をついた。先ほどまでのどう猛な牙は隠れたがそれでも身を削られるような悲しさがまとわりつく。
「だが…それでもいい。それくらい、苦しい」
「…斉藤さん…」
「俺にとって若様が人生の全てだった。若様を失うのならもう何も意味などない」
荒波に流され溺れかけている人に手を差し伸べない人などいない。それが近しい人なら尚更だ。
総司は項垂れる斉藤にゆっくりと手を伸ばした。そして腕をいっぱいに広げて抱きしめた。そうすることしかできない自分が歯がゆいまま、朝を待った。









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解説
なし
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