NEXT

わらべうた



543


誰に対しても大きな懐で受け止める井上が激昂しているのを見たのは、総司とスイカを食べた暑い日からさほど経っていない頃だった。
隊務を終えた六番隊の隊士たちがぞろぞろと部屋に戻る中、
「死番だってわかってるくせに二日酔いたぁどういう了見してやがる!」
まさに怒髪天を衝くような怒りの声が響き、屯所にいた全ての隊士達の視線は一箇所に集まった。井上の前で立ち尽くしているのは組下である三浦だ。顔を真っ赤に染め眉を釣り上げる井上に対して、三浦は淡々とした表情を崩すことはない。
「…何事もなく勤め終わりました。問題はありません」
「ああ、そうだ!雑魚みてぇな浪人ばっかりでてめぇはついてたんだからな!」
「…」
「そういうことを言ってんじゃねぇってわかってんだろ!責任感を持って勤めろって言ってんだ」
井上の説教に対して三浦は涼しい顔のままだ。何があったのかはそのやりとりで周囲にも朧げに理解でき、二日酔いで巡察に出た三浦に非があるのは明らかなのだが、彼はまさに暖簾に腕押し、聞こえてすらいないのではないかという澄ました態度だ。
それがますます井上の怒りに火をつけようとしたところで、「まあまあ」と原田が仲裁に入った。
「源さん、きっとこいつも反省しているだろうからその辺にしとこうぜ」
「む…」
「三浦も一言『すみません』て言えば済む話だろう?な?」
原田の言葉に少し冷静になったのか井上は口をへの字にしたまま頷いたが、今度は三浦が噛み付いた。
「問題なく隊務を終えたのに責められるなど心外です。自分は確かに体調不良でしたが死番として任務を果たしました」
「てめぇ、いい加減にしろよ!」
言い返したのは井上ではなく、導火線の短い原田だ。噛みつかんばかりに感情をむき出しにし、あっという間に三浦の胸ぐらを掴んだ。だが三浦は動じず
「私闘は禁じられていますよ」
と原田を煽る。「なんだってぇ?!」とさらに息巻く原田に、遠巻きに見ていた隊士たちが駆け寄りようやく二人を引き剥がした。
両腕をつかまれながら尚も怒りを滲ませる原田とは対照的に三浦は「ふん」と息を吐きつつ襟を正すと強気な態度を崩さなかった。
最初は無関係を装っていた隊士たちもあまりにも強情で無礼な三浦の様子に「おい」「いい加減にしろよ」と反感の声を挙げる。次第に二人だけではなく周囲にまで嫌悪が広がっていき、雰囲気が悪くなっていく。
それを止めたのは、それまではなしの中心にいた井上だった。
「三浦」
先程とは打って変わったような落ち着いた声で三浦の前に立った。
「死番でお前が死ぬのは勝手だが、その骸を持ち帰らなきゃならねぇのは俺たちだ。お前が一人死ぬと迷惑がかかる」
「…」
「人は一人では生きられねぇし、一人で死ぬこともできん…ヤケになって馬鹿な真似をするんじゃねぇ」
井上はそれだけ言うと背中を向けて去っていく。原田も「くそ」と毒を吐きながらもその場を後にしてその場はなんとなく解散となった。
三浦は俯いたまま、静かに気配を消した。


「…で、それを黙って見ていたと?」
土方に鋭く指摘され、総司は苦笑した。
「だって私が出て行ったところで火に油を注ぐだけじゃないですか」
土方は過去に総司と三浦の間にあった蟠りを知っているので「それはそうだな」と頷いた。総司は続けた。
「それにあの温厚な井上のおじさんを本気で怒らせるなんて、試衛館にもなかなかいなかったですよ。大物だなあ」
「呑気なことを言っている場合じゃねえだろ。せっかく帰藩なんて願っても無い話が持ち上がってるんだ、厄介なことが起こる前にお引き取り頂かねぇと」
「土方さんは相変わらず三浦君が邪魔なんですね」
「当たり前だろう。剣もロクに使えない、世間知らずの坊っちゃまを預かってやってるんだ。勝海舟の後ろ盾がなきゃとっくに法度違反で処断してる。…お前だって面倒だと思っているんだろ?」
「面倒…とは少し違いますけど」
三浦の行動は目に余るものがあり土方が邪魔者扱いするのは当然だろう。総司も最初彼が一番隊に配属された時には辟易としたものだが、しかし簡単に『面倒』と割り切れないところもある。
総司が言葉に詰まっていると、「もういい」と土方が話を切り上げた。三浦のことを考えるだけで疲れるのだろう。
「そんなことより、長州征討は終わったようだ」
「終わった?休戦ですか」
「表面上はな。実際には…全面敗北だ」
土方は苦々しく吐き捨てた。
六月から始まった長州征討は、当初は幕軍が優勢と思われていたが、長州の反撃に会い次第に膠着状態に陥った。軍艦の撤退や小倉藩の孤立など想定以上の長州の戦力を前に徐々に幕軍が不利となるなか、全軍の長であった将軍が死去した。それにより幕府が朝廷から休戦の勅命を得て、停戦状態になったのだという。
総司は首を傾げた。
「将軍家を継がれた一橋様が自ら出陣されるって噂を聞きましたけど…」
「小倉が陥落したって話を聞いて怯んで取りやめだ。豚一公は口だけ達者な食わせ者のようだ、気に入らねえ」
次期将軍となるであろう一橋慶喜は豚を好んで食したため、『豚一公』と揶揄される。忠誠心の厚い近藤がこの場にいれば一喝されるような物言いだが、停戦の経緯だけでなく、徳川家だけ継承し将軍の職には就かないという慶喜の煮え切らない態度に辟易としているのは土方だけではないのだろう。
しかし総司にとっては手の届かない遠い世界の話としか感じられなかった。
すると土方が一枚の紙を広げた。
「豚一公の話はとにかく…。この人相書きに見覚えはないか?」
「女…ですか?」
総司は広げられた紙を手にしてまじまじと見る。髪が長くほっそりとした輪郭は女のようで最初は検討もつかなかったが、細部に目を凝らすよりも遠目でみると見覚えのある顔だった。
「…河上、河上彦斎ですか?」
河上彦斎と対峙したのはもう一年ほど前になる。英…当時は宗三郎と名乗っていた彼に近づき、間者に仕立てようとしたが失敗、火をつけて去って行ってから邂逅することはなかった。
河上は稀代の人斬りとして名を挙げているが、実際には小柄で色白の女顔であったためイメージとはかけ離れた容貌なのだが、何度も顔を合わせた総司にはその射抜くような眼差しが焼き付いていた。
土方は「やはりか」と続けた。彼も一度対峙したことがあるためその予感があったのだろう。
「最近洛内を騒がせている『人斬り』だそうだ。幕府側の役人を何人か殺している。河上は長州の奇兵隊に加わっているという話だったからもしや人違いかと思ったが…こっちに戻ってきやがったんだな」
「…」
総司は土方の言葉が耳に入らなかった。
思い出すのは河上と対峙したあの火事の日。宗三郎を人質に取りながら、彼は人殺しの理由について
『邪魔だからだ』
とはっきり答えた。家畜と同じだと迷いなくさも当然のことのように微笑む男にはきっと言葉など通じないのだろうという隔たりを感じたが、一方で彼が『同じ類の人間だ』という厳然たる現実も突きつけられた。総司が彼との斬り合いに一種の興奮のような喜びを覚えていたのも確かなのだ。
だからこそわかる。
(…呼ばれているのだろう)
わざわざ都へ戻り思想なき人斬りを繰り返すのは、そうしていれば治安維持を務める新撰組、そして総司の耳に自分の存在が知れると思っているはずだ。
「英に聞いたが、河上はお前に執着している部分がある。気をつけておけ」
「…わかりました」
総司は人相書きを土方に返しながらふと思い出す。
(そういえば…三浦君の父君を殺したのも河上だった…)
河上は佐久間象山を暗殺し、それが理由で三浦は新撰組に仇討ちのために入隊した。そしてまた三浦の名前が挙がった頃に河上と邂逅することになるーーー偶然に違いないが、必然とも言えるタイミングに意味があるのだろうか。
そんなことを考えた。







NEXT


解説
なし
Designed by TENKIYA