わらべうた 587.5 鏡




前日の雨のせいでぬかるんだ山道を歩く。山頂に届く頃、ふと立ち止まり目深に被った傘の隙間から眼下に見える都の姿を眺めた。不自然に均等な道は整然と十字となっている。
「まる たけ えびす に おし おいけ あね さん ろっかく たこ にしき…」
ふと口をついて出た通り名の歌は、さて誰に教えてもらったものだっただろうか。座敷で芸妓に聞いたのか、路上で遊ぶ子供が歌っていたのか…記憶にない。けれど脳裏に刻まれてしまった。
ここで過ごしたのは人生のうち、数年でしかない。親しい友人も行きつけの店もなく、いつも点々と居場所と姿を変えていた自分には碁盤の目のような街並みに愛着もない。
「兄ちゃん、ここから見る景色は最高だろう?」
中年らしき旅人が声を掛けてきた。傘を被り常に表情を隠して近寄り難いようにしていたはずだが、この中年は気にすることなく満面の笑みを浮かべている。よほどのお人好しだろう。
(あの男もお人好しだった)
「あそこが御所、こっちが東寺、向こうに見えるのが清水さんだ。田舎もののわしには目の眩むような立派なお寺さんばっかりだナァ」
中年の男は親切にもあちこちを指差す。彼は田舎から上京し病気がちな女房のために手を合わせにきたのだという。そんな長々とした身の上話に相槌は打たずに聞き流すが、彼が語るのにつられて思い出す。
(あのあたりで斬ったな…)
静かな夜に舞う血飛沫を。
月の光に照らされた骸を。
「兄さんは故郷に帰るのかい?」
中年の男は目尻に皺を刻みながら尋ねてきた。
お人好しの柔和な表情、女房の病を気遣う穏和な口ぶり…ふとそれを崩してみたいと思った。
「ああ…仕事が終わったのさ」
「ヘェ」
「あちらと向こうと…あのあたりで人を殺した」
男と同じように指さしながら、淡々と答える。
すると中年の男は「は?」と言いながら一気に青ざめた。それが決して冗談ではないということを感じたのだろう。後退りして
「ほ、ほな…」
と逃げるように駆け出していった。
バランスを崩しながらまるで熊に襲われたかのように這いつくばるように必死に逃げる…先程までの饒舌な語り口からは正反対の、滑稽な後ろ姿が面白くて仕方ない。
「行くか…」
高らかに笑いたい衝動を堪えながら、踏み出した足を再び止めた。
(あのあたりだな…)
最後の邂逅となった場所。
久々に死に物狂いで剣を振るい、鏡の中の自分を殺すような命のやりとりだった。
(呆気ない終わり方だったが…)
彼が吐血し倒れた時、不思議とトドメを刺す気持ちにはなれなかった。首を刎ねて勝利に浸ることなど簡単だったのにそうしてしまうのが惜しいと思えた。
こんな終わり方は認められない。
こんな終わり方は望んでいない。
こんな終わり方はーーー不本意だ。
「…ふん…」
目の前の虫を祓うかのように人殺しを繰り返してきた自分にとって、そんなふうに生かしておきたいと思ったのは初めてだった。
誰かの生を望んだ。
それは自分を殺せなかったことと同義だ。
「…」
河上は再び歩き出す。
これから故郷へ戻り同志と呼ばれる者たちとともに倒幕へと動く。暗殺者として恐れられる自分が表舞台に出ることはないが、それでも故郷へ戻ることは悪くないと思える。そんなほんの少しの人間らしい感情…鏡の向こうの自分に唆されたのだろう。
きっとそのせいだ。
(また殺し合おう)
河上は背を向けた。







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