わらべうた630.5 盃




永倉と原田の顔を真正面からまじまじと見るのは久しぶりのような気がした。
(なんか…皆んな、大人になったんだなぁ…)
藤堂はそんなことを思いながら、指先で空になった猪口を弄った。二人にやや強引に呼び出され、混雑した居酒屋に来ていた。酒の席があちこちで肴を囲んで賑わっているが、三人の空気は重い。ポツポツと交わされる雑談もさほど続かず、あのおしゃべりな原田ですら伏し目がちに視線を落としていた。
「あの…話って?」
二人はなかなか本題に入らなかったが、ようやく永倉が重い口を開いた。
「……実は、土方さんに聞いたんだ。お前が…出て行くって」
「…」
(そんなことだろうと思っていた)
藤堂に驚きはなかった。数日後に伊東が戻れば本格的に分派に向けて動き出すのだから土方が先に話しても不思議ではない。
「…出て行くっていうほどのことではないです。要するに隊を離れて別の目的で動く、別働隊だと、俺は思ってるし…」
「そんな甘いものじゃないだろう?伊東参謀はきっと…もっと、何か企んでいるはずだ」
永倉の物言いに藤堂は
「企んでるって、そんな言い方…!」
と思わず噛み付く。国や新撰組のことを思って敢えて動く伊東を非難して欲しくはなかったのだ。
しかし、永倉は藤堂のリアクションを見て何も言わなかったが一層複雑そうな顔をした。
先日の居続けで永倉も伊東に何か思うことがあるのかもしれないが、藤堂は譲れなかった。
「…とにかく、伊東先生のお考えに俺も賛同したんです。ほんの少し前までは味方だったはずの薩摩が幕府と手を切って、長州と同盟を結ぶような世の中なんです。俺たちだってなんでも法度に縛られるのではなく、柔軟に考えて動く必要があると思うんです!」
「俺だって法度にはうんざりしてる。でも、山南さんはその法度に殉じたんだぞ。分派なんて建前で実際は脱走だろう。簡単に否定するのか?」
「…永倉さん、いま山南さんの話は関係ありません。ただ近藤先生や土方さんが『分派』を認めたように、世の中は変わっていると言いたいのです」
永倉の口から出る『山南』の名前が重く心にのしかかる。そのせいか、つい感情的になって言い返してしまった。
永倉は「そうか」と重く唸る。すると隣にいた原田は何も言わず、ハラハラと涙を流していた。
情に厚い彼のそんな姿を見て、藤堂は一気に熱が下がる。
「は、原田さん?」
「…お前、変わっちまったんだなぁ…」
「変わった?俺がですか?」
「昔はさ、試衛館にいた頃だけどさ…くだらないことを夜な夜な喋って大笑いして、おフネさんやおツネちゃんに呆れられてさ…近藤さんや山南さんが話す小難しいことも学のない俺たちにはわかんねえって笑い飛ばして…」
原田が「くそ」と手の甲で子供っぽく涙を拭う。見かねた永倉が懐紙を差し出すと遠慮なく鼻を噛んだ。
「俺はそれが続くと思ってたし、続いてると思ってたけど…お前は違うんだな」
「…」
「お前は…まるで参謀みたいだな。試衛館食客じゃなくなっちまったんだな…」
寂しそうに目を真っ赤に腫らす原田が、藤堂をまっすぐにみていた。同情を込めた
その眼差しを真正面から受け止めるには、藤堂はすでに心が離れすぎてしまった。
目を逸らすしかない。
「…試衛館食客と言われるのが辛くなったんです」
「なんでだよ」
「皆…あの頃とは違う。俺だけじゃない、もうどこにも試衛館食客なんていない」
無垢な若葉のようだった自分たちは、手を汚し血を流したくさん殺した。敵だけではない、仲間でさえも切り捨てた。本当にあの頃のままだというのなら、もうどこにもいない。
「変わったのは俺じゃない。皆…同じです」
だから自分だけ責められるのはお門違いだ。
藤堂の気持ちが伝わったのか、永倉は黙り込み、原田は俯いた。
言いすぎたのかもしれない。
(でもこれくらい言わないと…わかってもらえない)
「俺は…俺が言いたいのは、自分にとって居心地の良い場所が伊東先生の近くだというだけで…それを否定してほしくはないし、皆を嫌いになったわけではないということです」
青年期を過ごした試衛館の思い出は確かに心の中にずっとあって、忘れたわけではない。
将来に不安はなく、自分にはなんでもできるはずだと信じてやまなかった。
いま少しだけ大人になって見えてくるのが変わって。
したいことよりも、すべきことを考えるようになっただけだ。
「だから…俺のことは放っておいてください」
見損なったと思われたって良い。自分を信じて進むだけだ。
永倉は酒を煽った。隣の原田は唇を噛み真っ赤な目をして藤堂を見た。
「…わかったよ」
嘆いていたのが嘘のように頷いた。そして続けた。
「わかったけどよ、それでもあえて言う。新撰組に残ってくれよ。俺は…お前と敵対したくねぇよ」
凝り固まった心に初めて、その言葉が身に染みた。いつも率直で感情を隠さない彼だからこそ一点の曇りもないありのままの気持ちなのだと伝わってくる。
「…ごめんなさい」
その気持ちが有難くて、藤堂は深々と頭を下げた。伊東についていくと決めてから一度もぶれなかった決意がほんの少しだけ揺れたのは、まだ藤堂の中に試衛館食客としての情が残っていたからなのだろうか。
「…振られちまったな、新八っあん」
原田は茶化して笑う。永倉も表情を和らげて「仕方ない」と答えた。
「少なくとも俺たちはお前を敵だと思っちゃいない。これからも何かあったら頼ってくれ」
「そうだぞ、平助。変な気を回すなよ」
原田は酒と肴を頼み、「飲もう!」といつもの調子で乾杯の音頭を取る。永倉がそれを諌めながらも付き合って、次第に藤堂を巻き込んでいく。
昔からのやりとり。
今も変わらないそれが無性に懐かしく、たまらなく愛しい。
(ありがとう)
口にはしなかった。これが最後ではないし、別れではないのだと信じていたからだ。








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