わらべうた 番外編 Dearest



心のなかでどうしようもなく、止めどなく、何かがあふれてしまいそうな時がある。
それは、誰かを苦しめているとわかってしまったとき。
それは、血を浴びた同志をむかえたとき。
それは、悲しい笑みを浮かべたあいつの顔を見たとき。
わかっていたことなのに、予想できたことなのに、胸がつっかえて、何も受け付けなくる。
思考も、感情も、すべてが止まってしまうことがある。

そんな時には、あのころへ思いを馳せて自分を慰める。
いつからこんな癖が身についてしまったのだろうか。
情けないな、と苦笑しながら目を閉じて、俺はその甘美な優しさに触れる。

指先の冷たさとは裏腹に、彼の体温はいつも温かいのだ。





わらべうた ―Dearest― 1




あれは文久の年が始まった頃、俺が二十七、総司が二十歳前の試衛館でのことだ。
俺は相変わらずの低血圧で、目覚めが悪くほかの食客に比べても起きるのが遅い。
おてんと様が空の真ん中に来る前に目が覚めれば良いくらいで、朝餉と昼餉を一緒にすることも少なくない。
そんな俺を起こしに来るのが、総司の仕事だった。
「歳三さーん、歳三さーん、起きてくださいよー」
蒲団をかぶったままの俺の身体を揺さぶり、目覚めを促すが簡単に起きる俺ではない。
夢うつつ、総司の言葉は聞こえているのだが瞼がどうしても重いのだ。
もちろん朝に弱いということもあるのだが、昨日は馴染みの女に引きとめられてしまい、帰ったのは朝方に近かった。
忍び足で試衛館に帰り、床に就いた時はすでに空が明るかった。
だから俺は数刻しか寝ていないのである。
もちろんそんなことを総司が知る由もなく、容赦なく俺の身体を揺さぶり続ける。
「もう、朝餉の時間は過ぎてますよー?今日の味噌汁はなんと茄が入ってる豪華仕様だったんですよー?
 このままじゃ原田さんの胃の中におさまってしまいますよー?」
「……いい、…」
特に空腹というわけではない。
だが、総司はそれでも諦めてくれる様子はなかった。
「もー。もう少ししたら門下生も集まってくるし、私だってこんなことしてる暇ないんですからねー?
 起きてくれないと墨で顔に落書きしますよー?」
「……」
「もう、起きてくれないなら…」
こうだ!
と言わんばかりに、総司の両手によって俺の鼻と口が塞がれる。
それまで穏やかな寝息を立てていた俺の呼吸が急に苦しくなるのは言うまでもない。
俺はかっと目を覚まし、総司の両手を掴み取り怒鳴った。
「…っなにしやがる!死ぬだろうが!」
「だって起きない歳三さんが悪いんじゃないですか」
悪びれもなく総司は笑っていた。おかげで俺は最悪な形で布団を飛び出すことになってしまった。
してやられた、と俺は苦い顔をする。
「ったく…昨日は遅かったんだよ。もう少し寝かせろ」
「知ってますよ。吉原の芸妓に熱を上げてるそうですね。明け方に忍び足で帰ってきたってわかるんですからね」
「なんでお前が女の事を知ってるんだよ」
「伊庭君が教えてくれたんです」
得意げに語る総司をみて「ああそうかよ」と俺は嘆息した。
伊庭は俺の悪所仲間である。出自は江戸でも名高い伊庭道場の跡取り息子、という彼だが気さくな人柄で
俺ともすぐに打ち解けた。最近は試衛館にも顔を出すようになり食客の奴等とも打ち解けている。
彼がここに通うのはもっぱら試衛館の大先生、周斎先生のお小遣いを狙っているのだと俺は思っているのだが。
「なら、俺が疲れてるのも知ってるだろ。とりあえずもう少し寝かせろ」
俺は再び布団をかぶろうとしたのだが、総司がその掛け布団を剥いでしまった。
朝の寒さが身にしみた。
「もう、忘れちゃったんですか?今日が何の日だか!」
「あ?」
総司は口を尖らせて俺を睨んでいる。
そういえばやけに総司の機嫌が良い気がする。目がどこか輝いているし、まるで縁日の子供のように落ち着きがない。
それに朝起こすのもいつもはもう少し怒気があったりもするのだが、今日はなんだか楽しそうだった。
俺は思考を巡らせた。
「…今日だったか?」
「今日です!ほら、早く着替えてください、客間に伊庭君を待たせてるんですから!」
やっぱり総司は嬉しそうに手を引いた。


今日は刀の試し斬りの会が催される日だったのだ。
刀はその刀工の銘によってその価値が決まるのはもちろんだが、実際にそれがどの程度斬れるのか
それによっても価値が変動する。
ただ、この太平の世でなかなか刀を試し斬りすることは叶わず、上級武士たちはその真偽を確かめるべく
山田浅右衛門という、罪人の仕置きを扱う「御様御用」(おためしごよう)に刀を預け
その刀がどの程度斬れるのかを判定してもらう。
その判定によって刀の価値が変わり、また利用してその判定を金を積むことによって
良くしてもらう…というのはよくあることのようで、当然のことながら山田浅右衛門にそれを依頼することは
金がかかる。
なので俺たちのような下級の者たちは、仕置の手伝いをする弾左衛門にそれを依頼する。
もちろん山田浅右衛門のように、評価されると箔が付く…というわけではないのだが、
刀を持つものとして、その刀がどの程度斬れるのかというのは知っておきたい事だったのだ。
そして今回その出番が俺たちに回ってきた、ということだった。
俺自身も前々から楽しみにしていたし、それはもちろん総司も例外ではないようだ。


俺が着替えて客間に向かうと、総司の言うとおり伊庭がいた。
「おはようございます。昨夜はずいぶんと励まれたみたいですね?女の尻を追いかけまわすのも良いですけど
 沖田さんに迷惑をかけちゃ駄目ですよ。朝っぱらから…まるで女房みたいじゃないですか」
「女房じゃないです!」
茶化す伊庭に総司が反論した。
伊庭は有名道場跡取りらしく、凛とした佇まいと涼しげな目元が印象的な美男子だが、その性格は
取り澄ましたところもなく人懐っこく明るい。総司と違って子供っぽくないのは、やはり育ちが良いからなのだろうか。
実際、総司のほうが年上のはずだがこんな風に伊庭にからかわれているあたり、子供だと思ってしまう。
「俺が尻を追い回してんじゃねぇよ。女のほうが帰っては泣くと引き留めるんだよ」
「女は芝居が上手いですからね。そんな涙に騙されるようじゃ、いつか痛い目見ますよ?」
「うるせぇなあ」
口の上手い伊庭に苦笑する。そのうち、総司が俺に朝餉を持ってきた。
「で、なんでお前がいるんだ?」
俺は朝餉に手を伸ばしつつ、伊庭を見る。
今日試し斬りができるのは試衛館の門人たちからさらにくじで選ばれたものだけで、伊庭の出番はない。
死体の数が限られている為、野次馬は集まるものの斬る人数は少ないのだ。
「まあ死体が余ったら斬らせて頂ければとは思いますけど…一応、俺の刀は三つ胴の銘が入ってるので
 それはまたの機会でも大丈夫なんです。ただ…まあ、これは俺のお節介かもしれないのですが…」
伊庭が歯切れ悪くいった。普段は言いたい事を言いたいこと以上に大げさに快活にしゃべる伊庭だからこそ、
そんな様子は珍しかった。
総司も傍で不思議な顔をしている。
「なんだよ、はっきり言えよ」
俺は伊庭に先を促した。
「…実は今日の催しに、講武所の連中も顔を出すんですよ。もちろん教授方の面々も…」
「あん?」
俺は急に不機嫌になった。総司がその様子を察して、何か言いたそうな顔をしているが気にする俺ではない。
講武所というのは幕府直属の部下たちが通う道場みたいなものだ。以前、試衛館の道場主である勇さんが
その教授方に推挙されることがあったが、直前で「農民の子である」という理由で落選してしまった。
そのことで講武所に殴りこみ、暴言を吐いたのは、つい先日のことだったりもする。
「俺もこの間啖呵を切っちまったものあって、ちょいと心配で…今更焚きつけるのも本意じゃないですし
 様子見で連れて行ってほしいんですよ」
「それは構わねえが…売られた喧嘩は買うのが礼儀だ。お前に止められたからって耐えるって約束はできねぇぞ」
あの一件は心の整理はついているものの、やっぱりどこかしこりはある。
もしまた暴言を浴びせるようなら、容赦なく叩き斬ってやると思うほどだ。
だが、伊庭は「わかってますよ」と言った。
「だから俺が行くんです。沖田さんと二人なら貴方も少しは我慢できるでしょ」
「…ったく」
俺は野生のイノシシかよ。と俺は内心嘯いたが、それを口に出すとまた伊庭に
「あなたがイノシシなら野生のイノシシが可愛く見えますね」などと笑われるにきまっている。
「というわけで、沖田さんよろしくお願いしますね」
「はぁ…」
総司が曖昧な返事をする。
俺は冷たくなった朝餉を、素早く平らげた。












長い散歩道を抜けて、浅草へ向かう。
俺と総司そして試衛館のくじで選ばれた門人数人は、刀の試し斬りを数日前から楽しみにしていた。
特に総司ははしゃいでいるようで、「はやくはやく」と俺は急かされ続けた。
俺も内心は刀で試し斬りをしたくてうずうずしているものだから、別に悪い気はしなかった。
だが、そんな様子を見て、伊庭の野郎はもの言いたげにくすくす笑っていた。



わらべうた ―Dearest― 2



「なに笑ってやがる」
俺は伊庭の肩を叩いた。強く叩いたつもりはなかったのだが、伊庭が大げさに痛がる。
「痛いなあ…。骨が外れたらどうしてくれるんです」
「その時は家伝の石田散薬を売りつけてやるよ。酒と一緒に飲めば効果ばつぐんだ」
「それは絶対酒のおかげですよね?」
伊庭の言い分に俺はもっともだ、と大きくうなずいた。
石田散薬は俺の実家である土方家が行商している万能薬だ。風邪、腹痛はもちろん打ち身や捻挫にも効く…
という触れ込みで、俺も若いころは手伝って商いをしていた。その由来は河童のお告げ…とかいう胡散臭い
ものだから、俺自身は全く信じていない。
「そういえば、土方さんは行商をしていた頃その石田散薬をもって道場を訪ねていたんでしょう?
 道場破り紛いのことをして、怪我をした門人に売りつけていたとか」
「一石二鳥だろう。薬も売れて、俺の腕も上がる…ってそんな話、誰に聞いたんだ」
「沖田さんに決まっているでしょう」
「…」
いったいどれだけ俺の話をしているんだ、と俺は前を歩く総司を軽く睨む。
総司は気が付いていない様子で、門人の井上のおじさんと楽しそうに歩いていた。
井上源三郎は総司の親戚にあたるらしく、総司を試衛館に誘ったのも彼だと聞いている。
親と子ほど年齢の離れた二人なので、総司が一番なついている門人でもあった。
「沖田さんを見てると尻尾振ってる犬を思い出すんですよね。土方さんの話をしてるとウキウキしてるんです」
「それはあいつの悪だくみなんだよ。俺の悪口を吹聴して楽しんでるんだ」
「えー?そんなことないと思いますけどね〜?」
伊庭は何か言いたそうな顔をしていたが、俺はあえて無視をした。伊庭が何を考えているかなど手に取るようにわかるのだから。


しばらく歩くと浅草に到着した。浅草には弾左衛門の家がありそこで試し斬りが行われる。
弾左衛門の家は立派なもので、広大な土地に大庭園が広がっていた。
俺の家もそこそこに豪農といわれるがこれほどではない。
俺たちだけではなく他の道場の者や野次馬たちをいれても全く問題ない。もうすでに来賓が何人か集まっていた。
俺たちは試し斬りの準備を始める。そこには菰包みの死体が並んでおり、俺は一瞬顔を顰めたがすぐに冷静を繕った。
やはり罪人のものとはいえ、死体を凝視するのは気分的にも良くはない。これから斬るのだから
そんな弱気なことをいうわけにはいかないのだが。
だが、そんな俺に対して総司の様子は変わらなかった。
「番手桶も柄杓も刀掛も…見事に設えてありますね。歳三さん、今日は何体死体があるんですか?」
嬉しそうに俺に訊ねてくる総司を俺は軽く諌めた。
「馬鹿。はしゃぐんじゃねえよ、不謹慎だろ」
すると総司は「すみません」と肩をすくめた。
「四体みたいですね」
代わりに答えのは伊庭だった。伊庭も伊庭で死体を前に気分が高まっているようだ。
やっぱり武家の出だとこういう場面で気分が高揚するのだろうか。
俺がふとそんなことを思っていると、伊庭が俺の袖を引いた。
「土方さん。あそこにいるのが講武所の教授方ですよ」
伊庭は目線だけで来賓席を示した。俺はそちらに目を向ける。
そこには三、四人のお偉いさん方がこちらを見ていた。以前俺が喧嘩を吹っ掛けた講武所の
松平も顔を出しているようだ。あちらももちろん俺に気が付いているようで険悪な様子でこちらの様子をうかがっている。
明らかな敵意だった。
「ちっ…」
「頼みますから喧嘩は止めてくださいよ。こんなところで乱闘騒ぎなんて」
「わかってるよ」
俺は一度深呼吸をして、そこから目を外すことにした。
ここで喧嘩しても不興を買うだけでなんの得もない。
もちろん俺もわかっているが、あの松平の目を見るといろいろなことが思い出されて苦い気持ちになるのだ。
勇さんが講武所教授方の候補になったとき、それを身分の問題で却下したのも松平だったし
さらに俺にそのあと喧嘩を吹っ掛けてきたのもあいつの手下だった。
そのせいで俺と総司はあいつらの奇襲にあい、総司に人を斬らせてしまった…。
俺は総司に目を向ける。しかしやつは全くそのことを気にしない風で、死体を見てウキウキしているようだ。
俺ばっかりがカリカリしているようでなんだか馬鹿らしくなってしまった。

俺たち、試斬者は稽古着に着替え来客が集まるのを待った。
そんなとき。
「八郎ー!」
続々と集まる来客の中から、伊庭に親しく声をかける男がいた。
すらりと背の高い容姿で、真面目そうな顔つきをしている。美男子というわけではないが
凛々しい顔立ちが目立つ男だった。
「小太、」
伊庭は立ち上がり彼を迎える。
駆け寄ってきた男は近くで見ると尚いっそう背が高く、隣に並ぶ伊庭と頭一つ分ほど違うようだった。
「土方さん、紹介しますよ。本山小太郎。評定所の書物方を務めている俺の友達です」
「はじめまして。いつもお話には聞いてます」
本山、という男は愛想良く俺に軽く頭を下げた。「土方です」と俺も立ち上がる。
彼の話は伊庭から少しは聞いていた。武骨で頑固者で融通が利かない、と文句を言っていたこともあるが
俺が勇さんの事を愚痴るのと一緒で、伊庭が本山さんのことを信頼しているのからこその言い方だった。
「どうしたんだ。今日来るって言ってたっけ??」
「言ったよ。お前、俺と待ち合わせしてたのすっかり忘れてるだろ。俺が待ち合わせの場所で
 どれだけ待ちぼうけ食らったと思ってんだよ」
「………あ、ごめん」
伊庭はすっかり忘れていたようで、今思い出した、という風に手をついた。
本山さんは呆れた様子で肩を落とす。だが、それはいつものことだったようで「まあいいや」と俺を見た。
ふとそこで、本山さんの後ろにもう一人男がいたことに気がついた。
「土方さん、丁度紹介したい人がいるんです。試し斬りを依頼された斉藤さんです」
「ああ、『四字がんまく』の」
斉藤といっても、以前姿を消した斉藤一のことではない。幕臣の山岡鉄舟先生と懇意の北辰一刀流の
使い手だと名乗る斉藤元司だ。斉藤の詳しい素性は知らないが『四字がんまく』は相当な業物だ。
「よろしく。今日は世話になる」
やや不遜な態度の男は俺に『四字がんまく』を渡すと、そのまま去って行ってしまった。
男の背中を見送りながら、俺は渡された『四字がんまく』を見る。備前の作であるそれは美しい名刀だった。
「ふうん。刀は立派ですけど、あの人は何なんですかね」
伊庭が不満そうに俺の手元を見た。刀は気になるようだが、どうやら男の態度が気に食わなかったようだ。
「俺も良く知らないんだ。幕臣の山岡先生のお知り合いだというだけで…」
本山が申し訳なさそうに俺の顔を見た。特に俺は気に障ったわけでもないので「気にするな」と声をかける。
斉藤元司という男よりも刀のほうが俺の興味をそそったのだ。
……だが実は、この斉藤という男が後に清河として俺たちの前に現れることになるのだが、
それを思い出すのはずいぶん先の話となる。




そうこうしている間に試し斬りの時間がやってきた。
俺、総司、井上源さん、そして数人の門下生が自慢の刀をもって死体の前に立つ。
死体は首のないものだ。刑死者は首を晒されるためここにはない。その死体を輪切りにするように試し斬りは行われる。
まずは門下生たちがそれぞれの刀で死体を斬って見せた。
大勢の観客が見守る中だったが彼らは無事に斬って見せ、喝采を浴びた。
源さんも「えいっ!」と渾身の気合いを上げて骸を叩き斬る。
道場でも木刀を振り回す胆力を持つ彼だったので、豪快に斬って見せると観客からの一層の喝采を浴びていた。
そして俺の番になった。俺はまず自分の『用恵国包』で両肩をつなぐ線にあたる部分を斬って見せた。
『用恵国包』は佐藤家…つまり姉さんの嫁ぎ先だが、そこの彦五郎おじさんが俺に買ってくれたもので
今の俺にとっては身の丈に合わない良い刀だ。もちろん死体を一刀両断にして見せた。
そして斉藤から預かった『四字がんまく』をつかい胸のあたりの乳割を狙う。
これもまた大業物で難なく斬って見せたので、きっと斉藤は文句は言わないだろう。
そして最後に別の依頼者から頼まれていた『長曽根虎徹』。これは大名も刷くという有名な刀だ。
勇さんがほしがっている刀でもあったから、ひどく羨ましがられたものだった。
そしてこれも、やはり大業物であったから特に俺は苦労することなく死体を斬って見せ、賞賛の声を浴びた。
ふいに講武所の来賓席を見る。周りの喝采をどこ吹く風、という相変わらず嫌な感じだ。
「ち…っ」
俺は軽く舌打ちして、刀を納める。
これで俺の出番は終わりだ。あとは総司の『大和守安定』の試し斬りを残している。
少し長めの刀身で総司は構える。
「…ん?」
俺はその姿に違和感を覚えた。
講武所の連中に奇襲をかけられたあの時とは明らかに違っていた。そして道場で門下生をしごく姿とも違う。
その横顔は周囲の何も聞こえていないかのように、研ぎ澄まされていて、まるで漂う空気が違う。
そう、まるで別の世界の人間。そして別人のように澄ました顔をしている。
「総司…」
率直に、美しいと感じた。普段から姉に似て綺麗な顔をしているとは思っていたが刀を持つと
それがさらに色を増す。
総司はそんな俺に全く気がつかず、刀を振り落としてやはり見事に斬って見せたのだった。









「ね、ね、歳三さん。その『四字がんまく』やっぱりいい切れ味でしたね!ちょっと見せてくだいよ」
「ああ…」
試斬会が無事に終わり、弾左衛門の手代たちが後片づけを始めだした頃。
総司は俺が使った斉藤の『四字がんまく』に興味津津、という様子で駆け寄ってきた。
その様は、確かに伊庭の言うように犬が尻尾を振っている…というのに違いなく、まるで子供のようだが
俺の脳裏には、刀を振り下ろした時の、総司の横顔が残って仕方なかった。



わらべうた ―Dearest― 3



「お疲れ様でした」
安堵した様子で声をかけてきたのは伊庭だった。
「ああ。無事に終わって良かった。あいつらの前で恥をかいたら一生出歩けねぇところだった」
あいつら、というところで俺は来客席の講武所教授方に目を向けた。数が減っていたので
きっと何人か帰ったのだろう。
「まあ、それも心配だったんですけどね。……それにしても、驚きました」
「何が」
「沖田さんですよ」
伊庭は「当然でしょう」と言わんばかりに俺を見る。
当の総司はというと『四字がんまく』をネタに源さんや門人たちと騒いでいるようだ。
普段はそうでもないのだが、刀のことには意外と目がないところがある。
「だから、何がだよ」
俺はわかっていながら、伊庭に聞いた。俺の見間違いじゃないか、確かめたかったのだ。
「あの刀を持った時の雰囲気…ですね。普段から整った顔立ちをされてるとは思いましたけど、それが
 鋭利な殺気を孕むと際立つというか…。あれは殺気だったのでしょうけど、見惚れるほど清らかでしたね」
俺が思った『綺麗だ』という感想とはやや違うようだが、伊庭も何かを感じたらしい。
あの刀を振り下ろした瞬間。
正直、釘付けにさせられた。
「…あいつ、きっと俺達とは違う世界の人間なんだろうな」
「そうかもしれません。天賦の才と言葉でいうのは簡単だと思いますが、でも、それしか言いようがない」
「どうした、お前にしてはベタ褒めだな」
「正直な感想です。土方さんもそう思ったのでしょう?」
伊庭に訊ねられたが、俺は頷かなかった。
俺が感じたのはそういう剣客としての評価ではない。また、何か違うもののような気がしたのだ。
俺が答えあぐねていると、「まあいいか」と伊庭が話を切り上げた。
「この話はまたにしましょう。
 それよりもこの後はお時間ありますか?沖田さんも誘ってどこか飯でも食いにいきません?」
時間はすでに昼を過ぎていた。試し斬りの興奮で気にならなかったが、終わった途端腹が空いていた。
案外緊張していたのかもしれないな、と俺は心の中で苦笑する。
「そうするか。お前の幼馴染はいいのか?」
「ああ、小太ですか?あいつは勤めに戻りましたよ。俺と違って真面目なんです」
付き合いが悪い、と伊庭がぼやいた。文句を言う子供のような伊庭の表情に、おや、と俺は妙な違和感を感じた。
それはこいつが試衛館で普段見せる表情とは全く違う、年相応の表情だったからなのだろう。



浅草・両国界隈はさすがに多くの店が立ち並んでいて客も多かった。
普段は稽古ばかりで出歩くことが少ない総司だが、今日は試し斬りもあり、興奮した様子で伊庭と並んで歩いている。
「沖田さん、そこの右の店はうまい大福を置いてるんです。帰りに買って帰りましょう」
「そうなんですか。近藤先生に買って帰ろうかなぁ」
「ちなみにこしあんとつぶあんはどちらが好みなんです?」
「私はつぶあんのほうが好きですね」
「あ、気が合いますね。俺もなんです。甘さがこしあんよりもつぶあんのほうがあっさりしてるような気がして
 好みなんですよね」
俺よりも年の近い二人は同世代らしく和気あいあいと話し込んでいる。甘いものが苦手な俺としてはとても
入っていけるような話ではない。
俺は総司の後姿を見つめ続けた。
あの時。あの試斬会の時に感じた違和感。
普段からつかず離れず一緒にいる俺と総司だが、あの瞬間だけは何かが違っていた。
伊庭は「天賦の才」と評したが、それは俺にとって聞きなれた評価だった。
総司と初めて出会ってからもう十数年経つが、総司の剣の腕は幼いころから周囲も認めていたものだ。
それを「天賦の才」と呼ぶものは多かったし、俺も口に出したことはないがあいつの才能は認めていた。
だから、あの時。死体を一刀両断にして見せたあのとき。あんなに驚くことはなかったのだろうと思うのに。
「歳三さん」
俺が考え事をしていると、総司がくるりと振り返る。俺は思わずドキっとしてしまった。
総司はそれに目敏く気がついたようだ。
「どうしたんですか?なにか心配ごとでも?」
「ああ…いや、なんでもねぇよ」
「ふうん。伊庭君が知っている蕎麦の美味しい店がすぐそこにあるみたいなんですけど。蕎麦でもいいですか?」
「ああ、そうだな」
特にこだわりのなかった俺は頷いた。総司はなおも不思議そうな顔して「変なの」と首をかしげたが
構わずまた前を向いて伊庭と並んで歩き始めた。
俺はまたしばらく考え込んで、しかし思考を停止した。
それは、前方を歩く二人が、立ち止まったからだ。


総司たちが向かっていた蕎麦屋の手前。そこにはすでに人だかりができていた。
浅草は旅装姿の者も多く普段から賑わいがあるのだが、それとはまた違う険悪な雰囲気だった。
皆、遠巻きにその様子を見ているだけで不安そうな顔をしている。
その視線の先には数人の浪人風の男たちが、たった一人の男を取り囲み大声をあげていた。
「どこを見て歩いているのだ!」
「貴様、鞘が当たったにも関わらず知らぬ顔を決め込むのか!」
「無礼だ!」
浪人風の男たちは口々に一人の男を責め立てる。責められている男の方はそれでも特に臆するわけでもなく
「すまぬ。当たったのはそうなのかもしれない」
と素直に非を認めている。だがそれは口だけのようで、特に申し訳ないとは思っていなさそうだ。
男は浪人たちとは違って小奇麗な衣服に身を包んだ容姿で、少し言葉に訛りがあるようだ。
田舎から出てきたどこかのご家中なのかもしれない。
「しかし、こうして謝っているではないか。騒ぎ立てるほどのことでもあるまい」
「なに!鞘を当てていながら口答えするのか!」
「土下座だ!」
「それ以上口答えするのなら…!」
男たちは次々と刀を抜いた。
漂漂としている武家風の男にも少し問題があるような気もするが、一人に対して数人で刀を抜くというのは
些か卑怯だ、と俺は思った。それは前にいた総司と伊庭も同じだったようだ。
「どうします、土方さん」
伊庭が俺に訊ねた。その顔は少し楽しそうだ。
普段から喧嘩っ早いと諌められることも多い俺だが、この伊庭も江戸っ子らしく売られた喧嘩は必ず買う主義だ。
「加勢するか」
「そうですね。鞘当てで喧嘩なんて流行らないことをする者もいるんですね」
伊庭は少し呆れた風に言った。
だが、その隣で総司は少し苦い顔をしていた。
「なんだよ、お前は来ないのか?」
俺が声をかけるが、総司の表情は相変わらず冴えない。
「いや、そうじゃないんですけど…。あの武家風の人。確か試し斬りの時にいたような…」
総司の疑問は襲われている武家風の男にあったようだ。
しかし、浪人風情の男たちは刀を抜き今にもその男を斬らんとしている。時はなかった。
「いくぞ」
俺は二人に声をかけ、野次馬から飛び出した。

俺たちの登場に一番驚いた顔をしていたのは、その武家風の男だった。
総司が言っていたように試斬会の見物をしていたのかもしれないが、今はそれを問う暇はない。
浪人たちが俺たちに登場に息巻いていたからだ。
「なんだ貴様らは!」
色の黒い男が俺たちを睨みつける。
「鞘当てなんて流行らないことで騒いでんじゃねぇよ。多勢に無勢だ、俺たちが加勢してやる」
「名を名乗れ!」
「試衛館師範代、土方だ」
まさか伊庭や総司に名乗らせるわけにもいかず、俺が答えた。
…実際、伊庭が名乗れば男たちも怯むかもしれないのだが、それでは面白くない。
売られた喧嘩も買う主義だが、喧嘩と花火は江戸の華なんてよく言ったもので俺も例外ではないのだ。
「そちらは…六人か。こちらは四人。だが十分だ。相手してやる」
俺がわざと挑発した物言いをする。伊庭が俺の後ろで何やら笑っているようだが、気にすることではない。
実際、天賦の才の持ち主が二人もいるのだから十分であると俺は思ったのだ。
「畜生!調子に乗りやがって…!」
そして予想通り、後ろに控えていた男が挑発に乗り、刀を抜いて飛びかかってきた。
こちらが名乗ったのにあちらは名乗りもしない。無礼なのはどっちだ、と俺は鯉口を切る。
だが、そこで俺の予想を裏切ることが起きた。

野次馬たちの中から、幼いガキが飛び出したのだ。ガキは俺たちの諍いには気がついていない様子で
上を向いていた。ガキの視線の先には竹トンボが空を舞う姿があり、俺はとっさにこのガキが竹トンボを
追いかけて飛び出したのだとわかった。
だが、不運にもそれは飛びかかってきた男の間合いだ。あの場所ではガキが斬られる。
「待て!」
背後でとっさに伊庭が叫んだ。
だが猪突猛進で突き進んでくる男にそんな言葉が聞こえるはずもなく、男の歩みは止まらない。
そして竹トンボを追うガキの耳にも入っていない。
俺は刀を抜いた。このまま茫然と待っていれば斬られるのはガキだけでなく、俺も巻き添えを食らうだろう。
「くそ…っ」
ガキを助ければ、俺が斬られる。悪いがこれは不運だとあきらめるしかないのか。俺がそんな覚悟を決めた時だった。
俺の横をまるで風のように総司がすり抜けた。
「総司!」
まさか、身代りになるつもりか。
俺は焦ったがそうではなかった。
総司は飛びかかってきた男と子供の間合いに走り込み、一瞬にして男の振りかざした刀を払いのけた。
男の上半身は反るほどに跳ね上がった。そしてガキを脇に抱えたかと思うと、そのまま素早く男の背後に回り込み刀を一閃させた。
…と、実はこのとき、瞬時には理解できなかった。
その時は総司がまるで風のように駆け抜けて、いつの間にかガキを脇に抱えて男を斬り伏せていたようにしか見えなかったのだ。
そしてその姿に既視感もあった。
同じだ。
あの試し斬りの時と同じ…。
総司の脇に抱えられたガキはまだ茫然としている様子だ。無理もない、俺だって総司の素早さにはついていけなかったのだ。
総司はガキを降ろして、自分もしゃがみ込んだ。子供の目線に合わせて話をするのはあいつの癖のようなものだ。
そしてなにを言うのかと思っていると。
「はい。竹トンボ」
…いつの間に拾っていたのか。
それを総司はガキに渡して、にっこりとほほ笑んでいた。
ガキは…女の子だったのだが、何が起こったのかわからないのだろう、不思議そうな顔をしてうなずくと、
野次馬にまぎれて元来た道に戻って行った。
「すごい…」
伊庭が感嘆の声を漏らしていた。きっと無意識なのだろう。口がぽかんと開いたままだ。
俺だって開いた口がふさがらない。子供を助け、竹トンボを拾ってやり……そして斬れ伏した男を峰打ちにしていたのだ。
総司は数人の男たちのほうを見た。
「これ以上、やりますか?」
まるで「一緒に遊びませんか」と聞いているような軽い口調だったが、まさかこの総司の技を見て
斬りかかってくる程、愚かではなかったようだ。
「く、くそ…!覚えてろよ!」
男たちはありきたりな台詞を吐き捨てて去って行ってしまったのだ。



そして責められていた武家風の男は俺たちに礼を述べた。
特に総司に対して、名前や道場を訊ねていたようだが俺の耳にはあまりそのやり取りが入ってこなかった。
ただ、目の前で起こった総司の華麗な手捌きを、
「綺麗だった」
と素直に言ってしまうほど、動揺していたのだ。





結局その日は。
武家風の男…名前は安西というそうだが、その男からお礼として受け取った金で蕎麦を食いお開きとなった。
総司は特に変わった風もなく蕎麦を食べていて、伊庭もいつもの調子で俺や総司をからかいながら喋る。
いつも通りの賑やかな食事となった。
ただ、俺だけが取り残されたかのように。



わらべうた ―Dearest― 4



試衛館に戻った時はすでに夜を迎えていた。食客たちは夕食を終え、各々個人の時間を過ごしていた。
勇さんは山南さんとの世情の会話で忙しそうだし、原田、永倉、藤堂は他愛のない話をしている。
そこに総司が加わって今日の試斬会の話で盛り上がっているようだが、俺はどうもそのなかに入っていく
気分ではなく、何気なく刀の手入れを始めた。
月明かりに煌く刀身。その刃を見ているとどうしても総司の奴の顔が浮かんでくる。
試し斬りの時もそうだが、あの喧嘩の時もそうだ。
伊庭はあいつのことを「清らかな殺気だった」と言ったが、俺が感じたのはそれよりもっと神秘的なものだ。
綺麗だった。
女にしか言わないようなセリフだが、素直な感想がそれなのだから仕方ない。
総司の稽古は、弟子たちも嫌がる荒稽古といわれていて、実は総司の稽古に限って理由をつけて休む
門人もいるのだ。総司がそのことに憤慨していることもあったが、俺は仕方ないと思っている。
天才に凡人の気持ちなどわからないのだ。
だから、総司の稽古姿を見ても、現実離れしている、とは感じても綺麗だとは感じたことはない。
ない、はずだったのに。
「歳三さん」
「うわっ!」
突然、総司が声をかけてきた。
さっきまで大部屋にいたのに、縁側に来ていたとは…俺は不覚にも気がつかなかった。
そんな俺を総司は首をかしげながら見る。
「…やっぱり歳三さん、今日変ですよ」
「な、なにがだよ」
「私のことをじーっと見てるかと思ったら、突然目を離したり。いつもは伊庭君と一緒になって
 からかってばっかりなのに、今日は無口だったし…。なにか悪いものでも食べたんですか?」
総司は総司で目敏く俺のことを見ていたらしい。
ただ、その理由を食当たりとしか考えられないのはやっぱりこいつらしいといえばこいつらしい。
「なんでもねぇよ。お前がはしゃいでるからそういう風に見えただけだろ」
「嘘ですね。目が泳いでますよ」
…ちっと、俺は心で舌打ちする。いつもは吃驚するぐらい鈍感なくせに、こういうときだけ変に勘のいいやつだ。
総司は俺の隣に腰掛け、俺の顔をずっと見つめていた。
俺は色んなことを悟られないように顔をそむけるが、総司は俺の視界に入ろうとさらに顔を寄せてくる。
総司の髪が俺の頬に触れるほどに。
俺は仕方なく総司の方へ顔を向けてやる。総司の心配そうな眼差しとは裏腹に俺は邪なことを考えていた。
やっぱり、こいつ女みたいだ。
前々から姉さんに似て、色は白いし目はくりくりしてデカイとは思っていた。黒目の部分の方が多いのは血筋なのか、
見つめられるとまるで見透かされているようだ。
そして同じ稽古をしているはずなのに、ずいぶん華奢で肉が付かないせいで俺に比べて細い。
こいつ、本当に男なのだろうか…。
俺はふいに何か確かめたくなって、総司の股間に手を入れた。そしてそこにあるものを掴む。
「うひゃぁ!」
総司は変な声を上げて、俺の傍から慌てて離れる。
顔を真っ赤に染め、まるで初な女のように慌てていた。
「な、な、なな…なにするんですか!」
狼狽して叫ぶ総司に、俺は平静を装う。
「いや、お前男だよなって思って」
「はぁ?!あたりまえじゃないですか、いまさらなにをいってるんです!
 やっぱり変な物を食べたんですね!頭がおかしくなっちゃったんですか?!」
捲くし立てる総司に俺は「そうかもな」と素直に認めてやる。すると総司は虚をつかれたような顔をして
「やっぱりおかしい」とつぶやいた。
そんなの、お前に言われなくたってわかってる。
俺は言葉には出さず、ため息をついた。本当はわかっている、その答えを出すことが躊躇われるだけなのだから。



翌日。試衛館に訪れたのは意外な人物だった。
「安西さん…?」
俺と総司はちょうど稽古の途中だったのだが、勇さんの奥さんであるつねさんが道場に客を案内してきた。
それは昨日助けたあの武家風の男、安西だった。
昨日と同じように小奇麗な身なりをした男は、やはり呑気な顔して軽く頭を下げてくる。
俺たちは稽古を中断し、安西の元へ駆け寄った。
「申し訳ありません。稽古中だとは知らず…」
安西はにこりと笑って総司を見る。
「いえ、それよりもどうされたのですか?」
「頼みたい事があって、失礼ながらお邪魔させていただきました」
「頼みたい事?」
「私と試合をしていただきたいのです」
安西はその表情を崩さず総司を見る。どうやら昨日の喧嘩の件で総司のことに興味がわいたのだろうか…。
俺は若干苛立ちを感じながら、横やりを入れた。
「すみません。今日は道場主の近藤が出稽古に出かけているのですが」
「ああ、あなたは土方さんでしたね。昨日はご迷惑をおかけしました。ですが私が試合をしていただきたいのは沖田さんなのです」
安西は物怖じする気配はなくまっすぐに総司を見つめていた。
総司は困ったような顔をしていた。
試合をしても良いのかどうかは大体勇さんが決めていることだった。むやみやたらに試合を受け入れて
もし負けてしまったら、看板を持っていかれることもある。
もちろん総司の腕なら心配はないのだが、気が進まないものは進まない。
総司の代わりにどう断ろうか、俺が逡巡していると、案内してきたつねさんが口をはさんだ。
「あの、お義父様にはお話してあります」
遠慮がちに言うつねさんに総司は「あ、そうなんですか」と表情が一変する。
「それでしたら構いません。どうぞ」
もともと試合をすることが好きな総司は一気に油断して、安西を道場へ案内する。
稽古中だった門人たちも「これで休憩ができる」と言わんばかりに安西を招き入れた。
俺は気が進まなかったのだが、周斎先生が言うのなら何の文句もない。
道場の隅に下がってその様子を見守ることにした。


安西はその呑気な様子とは裏腹に北辰一刀流を修めている一流の剣客だった。
物腰柔らかそうで、それでいて強情な性格なのだろう。試合の申し込みにも有無を言わせない所があったし
昨日の喧嘩だってもっと謝っていれば良かったものの、安西はそれをしなかった。
筋を通すところは筋を通す性格なのだろう。俺は少し苦手に感じていた。
その安西が竹刀を構える。
北辰一刀流は食客の中でも山南さんと藤堂が修めているのもあって、見慣れた構えだったが
その雰囲気が一変したことに、俺はまず驚いた。
まるで昼行燈を絵にかいたような表情が急に真剣なものになり、目の前の総司をまるで射抜くかのように強い目線で見つめている。
剣を持つと性格が変わるのだろう。
「始め!」
審判を務める門人が声を張り上げる。
だが二人は容易に打ち込まず、軽く竹刀を合わせては様子をうかがっている。
俺などは苛々して打ち込んでしまう性格なので、その緊張感に思わず唾を飲み込んだ。
仕掛けたのは総司のほうだった。
竹刀のぶつかる音が道場中に響き渡る。
安西はそれを軽く避けて見せたが、その表情は少し崩れたようだ。
総司の体躯を見るとまるで力がなさそうな感じだが、竹刀を持つとどこにそんな胆力があるのかと
疑ってしまうほどの強さがある。打ち込まれれば骨にその衝撃が伝わるほどなのだ。
その後もバシバシと竹刀の音が響き続ける。門人たちは固唾をのんで見守っている。それがしばらく続いた。
総司がこれほど本気で打ち合うことはほとんどないので、安西は総司に相手に事足りる腕前なのだろう。
だが。
「…違うな」
俺は呟いていた。
今打ち合っている総司の顔は、俺が昨日見た「綺麗だ」と思った総司の横顔ではない。
あれは伊庭が言っていたとおりあくまで殺気を孕んだ時の美しさ…ということなのだろうか。
だとすれば、この試合はあいつの本気ではないということだ。
「末恐ろしいな」
俺は苦笑した。

俺がそんなことを考えている間に、決着がついた。
激しい撃ち合いの末、やはり総司に軍配が上がった。面を狙った打ち込みが安西を直撃したのだ。
見守る門人たちが感嘆のため息を漏らす中、総司は面をとり安西と向き合う。
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、無理なお願いをかなえてくださってありがとうございました。やはり貴方はお強い」
安西は素直な感想を述べ、笑った。負けたことに関しては何も思っていないようだ。
お互いに健闘を称えあい終わりなのか、とおもいきや。安西は思いもしないようなことを言った。
「総司さん。やはり貴方は沖田勝次郎さんの御子息に間違いありません」
「え…」
「隠していて申し訳ありません。私は安西彦五郎。白河藩江戸詰を拝領しております。
 あなたを探していたのです」







安西は沖田勝次郎…つまり亡くなった総司の父上だが、その知り合いであったようだ。
そして試し斬りの時に総司の腕を見て、「まさか」と思い試合を申し込んだ。
総司の父は北辰一刀流を修めたようで、剣の型は違ったようだが安西は総司がその子であると確信したらしい。
「私は沖田さんにとても世話になっていました。何の恩返しもできないうちにお亡くなりになってしまい
 ずっと後悔していた…。貴方は奥方によく似ていらっしゃるようですが、剣の腕は父上に似て一流です。
 きっとお役にたてるかと思います」
そして安西は総司に仕官の話を切り出したのだった。



わらべうた ―Dearest― 5



俺は伊庭を呼び出して、彼の勧める料亭に足を運んでいた。
安西との試合が終わったときちょうど勇さんが帰ってきて、仕官の話が始まった。
もちろん総司の仕官の話に勇さんは舞い上がっていた。先日自分がその夢に破れたこともあって我が事のようにはしゃいでいた。
しかし、俺はなぜか居たたまれなくなって試衛館を抜け出したのだ。
伊庭の紹介する料亭『鳥八十』は上野広小路にあり、こじんまりした佇まいである。板前は三十は超えている快活な江戸弁の男だった。
鳥料理が自慢だという店はどうやら伊庭が常連にしている場所であり、それは幼馴染も同じだったらしい。
そこには試斬会で出会った本山さんがいた。
「なんだ、来てたのか」
「来てたのかって、なんだよずいぶんな挨拶だな」
本山さんはどうやらずいぶん飲んでいるようだが、顔色を全く変えないあたり酒豪らしい。
伊庭と俺は本山さんと同じ机に腰掛けた。
「鎌吉、いつもの」
「へぇい」
板前の名前は鎌吉というらしい。そして手なれたように年増な女中が酒を運んできた。
「土方さんも一緒とは珍しいですね。初めてじゃないですか、ここにくるのは。ここはもともと俺が八郎に紹介したんですよ。
 そしたらこいつのほうが入り浸っちまって、いまや鎌吉がこいつの好き嫌い全部把握しているような感じで…」
「ああ、もう。今日はそういう話はいいんだよ」
伊庭が隣の本山の肩を叩く。ちょっと照れくさそうにしている伊庭を見るのは新鮮だ。
「それより、沖田さんの話ですよ。仕官っていうのは本決まりなんですか?」
大体の話は伊庭に話していた。
安西が道場に来たこと、試合をしたこと、そして実は総司の父の旧知であり仕官の話を持ちかけたこと。
伊庭も驚いたようだが、「安西という男のことは気になっていたんです」とやや納得した様子だった。
「ああ。もともと総司は武士の出だ。願ってもない話だろう」
「近藤先生はなんて?」
「ガキみたいに喜んでいるさ」
そうでしょうねえ、と伊庭が苦笑する。
昔から勇さんは総司のことを猫っ可愛がりしているところがある。幼い頃に口減らしでやってきた総司を弟のようにしているのだ。
「沖田さんって、あの『大和守安定』の方ですよね」
本山さんが俺に訊ねる。そういえば本山さんと挨拶を交わした時は総司はその場にいなかった。
俺は頷いた。
「ああ、試衛館の塾頭をやってる」
「若いですよね。死体を叩き斬ったときの迫力もほかの方とは違って…あ、すいません」
「いや、その通りだと思う」
俺と総司では『格』が違う。それは明らかだったし、俺も認める所だった。
「ふぅん、小太でも迫力とかわかるんだ」
「ま、俺自身はわかんねぇけど、講武所のお歴々たちが溜息漏らしてたからさ。きっとそうなんだろうって」
「なぁんだ」
伊庭は本山の皿にあった焼き鳥をつまんだ。「こら」と本山が叱るが気にする伊庭ではない。そうしているとまるで兄弟のようだ。
きっと俺と総司の関係も、こんな風に映っているのだろう、と不意に思った。
あいつが仕官したら、もうあんな風に戯れることもない。同じ釜の飯を食うこともないし、はしゃいだり喧嘩することもない。
道が違えるとはそういうことなのだろう。
もともとの生まれというのは皮肉なものだ。どうしたって俺はあいつと同じところには立てないのだ。
もちろん、あいつの仕官を祝福しないわけではないが、どうしたって想像ができないのだ。
あいつが俺の傍からいなくなること。
あいつと違う道を歩むこと。
「土方さんはどうするんですか?」
伊庭が唐突に俺に訊ねる。
「どうするって言われてもな…」
「きっと土方さんが引きとめたら沖田さんは行かないと思いますよ。いくら近藤先生が勧めたとしても、あなたがうんと言わない限り」
「なぜそんなことが言い切れるんだ。俺はあいつの兄弟子で師匠は勇さんだ。勇さんの言うことを一番に聞くだろう」
それはそうですけどね、と伊庭は笑った。何か含みを持たせた言い方だが、伊庭は何も言わない。
伊庭の言いたいことは何となくはわかっている。
あいつは自分の意志よりも周りの意見を聞く性格だ。それは依存している…というよりも自分が役に立つ場所が
試衛館だけだと思い込んでいる。
「…俺はあいつに仕官を勧める。俺や勇さんの夢をあいつがかなえてくれるっていうなら、それも悪くねぇよ」
俺は自分の感情を殺す。
あいつが俺の傍にいればいい、だなんて傲慢な考えは総司のためにはならない。
そんなことは分かっている。分かっているが整理がつかないんだ。
だから安西の話も聞かず、ここにいるのだ。

しばらくして、板前が料理を運んできた。伊庭の好物ばかりを並べた料理だったらしく、伊庭が上機嫌で箸を取る。
本山さんが仕返しのようにさらに手を伸ばした。俺もそれらをつまみつつ、酒を飲む。
普段は酒はあまりやらないが、今日はいくら飲んでも酔えなかった。
最も、伊庭も本山さんもまるで酒を水のように飲んでいたのでちょうどよかったのだが。
「小太、お前俺の茄子とったな」
「さっきは俺の鶏をつまんだじゃねぇか。これであいこだろう」
「あいこじゃない。茄子は鶏より大きかったし、俺は鶏より茄子の方が好きなんだからな」
「ああ、もう。わかったわかった」
まるで夫婦漫才のようだな、と内心苦笑する。
そういえば伊庭の方が総司よりも年下なのだったなと改めて思った。普段は伊庭の方が大人びていて総司をからかう余裕まで
あるようだから気がつかないが、二つほど違うはずだ。
もしこの二人のように年も同じだったら、総司とはもっと違う関係になれていたのだろうか。
俺がそんな他愛のないことをつらつら考えていると。
「ちょいと厠へ」
と伊庭が席を立った。慣れた様子で店の奥へ消えていく。
本山さんと二人きりになり、少し沈黙が続く。昨日今日会った仲であまり話題も思いつかない。
どうしたものかな、と思っていると本山さんの方が口を開いた。
「八郎は」
「え?」
「一応幼馴染なんで、幼いころから知ってるんです。昔は本の虫で竹刀を持つことも嫌がるような貧弱もので…。
 お父上なんかも散々心配されたそうです」
何を話すのかと思いきや、いま厠に立った御仁の話らしい。酒が入っているため少し饒舌だ。
「俺も何度も稽古に誘ったんですが、ああ見えて強情で全然いうことを聞いてくれなくって。そうしてみんなが諦めて
 まあ学者の道に進むのも悪くないって思いだした頃ですよ。あいつが竹刀を急に持ち出したのは!」
「へぇ」
「で、なんで急にそんなつもりになったんだ?って聞いたら、『宮本武蔵の絵を見ていたら無性に剣の道に進みたくなった』
 ……てぇ、あいつに言わせれば運命的な出来事なんでしょうが、こっちからすれば『はぁ?』って感じじゃないですか」
それは聞いたことがなかったな、と俺は笑う。聞こえるのだろう、板前も笑うのを堪えているのがわかる。
「でもみるみる上達していきやがって…。剣を始めたのは俺の方が先なのに追い抜かれて、いまや『子天狗様』なんて呼ばれちまって。
 いつの間にか手の届かない所にいっちまったのが……なんか無性に、悔しいような寂しいような気持で。
 俺の後ろについてきてばっかりだったのに、いつの間にか俺の前を歩いてて、俺はそれに追いつけない。そういうのが、なんか、嫌で」
本山さんはさらに酒を煽る。
「俺、沖田さんのことはよく知らないですが、…そういう感じ、わかります。まあ、なんとなく…なんですけど」
だんだん彼のろれつが回らなくなっていく。それなのにどんどん酒を飲んでいくものだから俺も思わず「そのくらいに」と
声をかけようとしたとき、本山さんはいきなり机に突っ伏したかと思うと寝息を立て始めた。
どうやら酒が回ってしまったようだ。
板前の…鎌吉が「いつものことです」と言いながら羽織を持ってくる。それを本山さんに掛けると空いた酒瓶を持って
また戻って行った。
「あーあ…またやってる」
ちょうど折よく伊庭が戻ってきた。寝息を立てる本山さんの様を見て「仕方ねぇなあ」とほほ笑んだ。
「すいません、こいつ平気な顔をして飲んでるのに急に寝ちまうんですよ」
「仲が良いんだな」
「仲が良い…っていうか、小太がいるから俺は羽目を外せるんだと思いますよ。こいつだけは絶対離れないって知ってるから、かな」
いつもは大人びている伊庭が、本山さんの前だけでは表情をくるくる変える。
もともと試衛館でもお調子者で通っているようなところもあるが、それとはまた違う。
きっと本山さんの前では泣いたり笑ったり怒ったりするのだろう。俺の前で総司がそうするのと同じだ。
「土方さん。俺、もっと我儘に言ってもいいと思いますよ」
「我儘?」
「仕官なんかしないで、ここにいろって。それをあの人はきっと嫌がったりはしないでしょう?」
「俺は…」
「俺ならそういいます」
誰に、とは言わず伊庭は笑う。
幼馴染は鼾を立てて、深い眠りについていて、その言葉を聞くことはなかった。






『鳥八十』を出て伊庭と別れた後。俺は飲みすぎた頭を抱えながら帰路についていた。
今日は全然酔えなかったのに、飲みすぎたようだ。視界は曇るし足元はふらふらする。
「っ…畜生…」
しばらく土手で休んで行こうか、とつらつら考えていると。
「歳三さーん!」
向かいからよく知った声が聞こえた。



わらべうた ―Dearest― 6



総司は提灯を手にしてこちらに走ってきた。どうやら俺を迎えに来たらしい。
「歳三さん!どこに行ってたんですか!」
大声で叫ばれると俺の酔った頭に痛みを与える。俺は「わかったわかった」と繰り返し、総司に黙るように言った。
総司も酒の匂いで察したのだろう、酔ってふらつく俺に肩を貸してくる。
「どうしちゃったんですか?急に姿が見えなくなって…こんなに飲んでくるなんて珍しいじゃないですか」
「…お前こそ、どうなったんだ」
「何がです?」
何がって、決まってるだろう。
と言おうとしたところで俺の酔いは限界に達した。俺は川べりを指差してあっちに連れて行け、と総司に示す。
総司も心得て「大丈夫ですか」と言いながら俺を抱えて土手まで移動した。
真っ暗やみの川べりに二人で腰掛ける。まるで人目を忍ぶ恋人のようだが、そんなことを総司は全く気が付いていないのだろう。
俺の背を摩りながら、顔色をうかがってくる。
俺としては吐き気はしなかったが、しばらく横になっていたい気分だった。
「…総司」
「何ですか?あ、吐いちゃいますか?」
「膝、貸せ」
俺は強引に総司の膝に頭を乗せた。女のように柔らかい肉ではなく、骨っぽい膝枕だが仕方ない。
総司は特に不満も言わず「仕方ないですね」と膝枕を許した。
「弱ってる歳三さんなんて滅多に見れないですもんね。いつもは強情なくらいだから弱みを見せるのが嫌いなんですよね」
「うるせ……」
こいつ、酔ってる俺をからかってるのか。
と俺が軽く睨むと、総司は意外にも深刻そうな顔をしていた。
「でも、だから、心配です。昨日だって様子がおかしかったし…こんなこと、一度もなかったじゃないですか」
「総司…」
やや曇った視界に見える総司の表情はまるで子供のようで。すこし歪んで見えるのは泣きそうになっているからなのだろうか。
しかし、俺はそれを見ていないふりをした。
「お前……仕官、どうなったんだよ…」
「え?ああ、お断りしました」
総司があまりにあっさり答えるものだから、俺は二の句が継げなかった。
「断った」だと?
俺は総司の膝枕から上半身を起こし、その勢いのまま総司の両肩をつかんだ。
「馬鹿やろう!お前、絶好の機会だろうが!」
「歳三さん、痛い…」
「それをお前、あっさりそんな捨ててんじゃねぇ!第一、かっちゃんは…」
かっちゃんはそれを了承したのかよ、と俺は叫ぼうとしたが、そこで酒が回ったようだ。俺の視界が眩み、力が抜けた。
俺は総司の上に倒れこむようになってしまい、総司もそれを受け止めきれなくて二人で草むらに倒れこむ。
まるで俺が総司を押し倒しているようだ。
「く…っ」
「もう、急に叫んだりするからですよ…」
総司が呆れ気味に言うが、それに俺は言い返すことができない。
「…仕官なんて、できるわけないじゃないですか。だって私は近藤先生と歳三さんの家来なんですよ」
「馬鹿…!そんなガキくさいこと言ってねぇで、仕官しろって」
「それ、近藤先生にも言われました。ママゴトみたいなことを言うなって」
総司が苦笑する。
「…私は物心ついた時には既に両親はいなくて、姉の元で育ちました。そりゃあ、仕官できれば家族は喜ぶと思います。
 けど、それは私の意思じゃない。なにより近藤先生に恩返しができません」
「俺と、かっちゃんの夢をお前が叶えるんだ。それは恩返しにはならないのかよ」
「それも近藤先生に言われました」
同じことを言うんですね、と総司が笑う。俺はなんだか照れくさくなって軽く舌打ちした。
「たとえ剣の腕が一流だと誉められても、それは近藤先生のおかげなんです。近藤先生がいなかったらこんな風にはなっていない。
 だから私の剣の腕は近藤先生のためにあるって、ずっと思ってきたんです」
月明かりが総司の顔を照らす。その表情は、瞳は、何の憂いもない後悔もない。ただまっすぐな強さを秘めている。
そしてその瞳でまっすぐ、俺を見つめてくる。
「だから、何度転んだって、何度躓いたって、私は近藤先生と、そして試衛館の皆と一緒に武士になりたい。
 私の生まれは確かに武士ですけど…そんなの、同じ釜の飯を食べてるんだから、関係ないでしょ。私は沖田勝次郎の息子である前に
 試衛館の塾頭で、食客で、居候なんですよ」
「お前なあ…」
かっちゃんの言ったとおり、ママゴトみたいな事だ。絶好の機会が巡ってきているのに、家族ごっこみたいな試衛館の方が大切だなんて。
仕官できる機会なんて今度いつあるかわからない。もしかしたら一生ないのかもしれないのに。
…でも、まあ、こいつらしい。
こんなことを言われたら、仕官なんて勧められないじゃないか。
「…かっちゃんは、何て言った?」
「本当に馬鹿だって。でも、したいようにしろって。ちょっと呆れられちゃいました」
かっちゃんも同じことを思ったのだろう。このまっすぐな目に見つめられては、もう何も言えはしないと。
「…勝手にしろ」
「はい、勝手にします」
総司は満足そうに微笑んで、なぜか俺の背中に手をまわした。まるで抱きしめるかのように。
総司の心臓の音が聞こえる。総司の体温が伝わる。総司の息遣いが聞こえる。
そして、俺は、それに酷く安心する。
総司はここにいる。俺の傍に居続ける。俺たちは、同じ道を歩んでいくことができる。

もう随分前から気が付いている。
厄介だから、見ないふりをしていた。伝えることはできないから、もどかしかった。

俺はこいつが可愛い。俺の隣にいないと満足できない。―――きっと、俺は、このどうしようもない弟分に、惚れているんだ。


俺は抱きしめられていた総司に全身を預けた。なんだかすべてを認めた途端、力が抜けてしまった。
「う…歳三さん、重い…」
総司が息苦しそうにバシバシと俺の背中をたたくが、知ったことではない。抱きしめてきたのは、誘ってきたのは、こいつの方なのだから。
「…それにしても、どこに行っていたんですか?」
「伊庭んとこ…だ」
「ふぅん…」
総司はなぜか不満そうに返事した。
「何だ、妬いてるのか?」
「ばっ、馬鹿言わないでください!伊庭君にまで迷惑をかけて申し訳ないなって思ってただけなんですから」
顔を真っ赤に染めて、まるで女のように動揺する。俺は「ふうん」と知らぬふりをして、でもにやにやと総司の顔を見た。
総司は不貞腐れていた。
「…仕官の話が出たとき、歳三さん真先に出て行っちゃったじゃないですか。引き留めてくれるって思ったのに」
「俺はさらさら引き留めるつもりなんてなかったけどな。なんでそう思ったんだよ」
「だって、私が仕官しちゃったら誰が歳三さんを起こすんですか?」
朝、目が覚めて。
いつも最初に見る顔はこいつの顔だった。
「…そうだな」
俺は認めるしかない。
きっと、こいつなしで生きていくことが、できないのだということを。
「わかったよ。俺がいつかお前たちを侍にしてやる。その時までは仕官なんてするんじゃねぇ」
「はい。仕方ないですね。待っててあげます」
俺の照れ隠しなんて総司にはきっとお見通しに違いない。笑うのを堪え切れない総司に抱きしめられて、俺も笑った。
川辺に生える夏草の匂いと、川が流れる音と、そして総司の体温が伝わる。
いまの俺には、とりあえず、それで十分だった。
「ちょ、歳三さん…寝ちゃうんですか?」
総司が慌てたように俺の肩を叩く。俺は寝たフリをして寝息をたてた。総司はしばらく俺の肩を叩いていたが、諦めたのかため息をつく。
「こうしてるのも…悪くない、かな」
小さく呟いた総司の言葉は、しっかりと俺の耳に届いていた。


我儘で、頑固で、ガキっぽくて、口煩くて、意地っ張りで。
弟みたいな、子分みたいな、友人みたいな、家族みたいなお前に。
惚れてるなんて今は言えない。

けれど、お前は最愛の存在だ。
それはきっといまも、未来も変わらないのだろう。

だからお前は俺の傍にいればいい。いてくれれば、それだけでいいんだ。




Dearest【名詞】【可算名詞】親愛なる人,いとしい人; あなた,おまえ.


わらべうた番外編―Dearest―最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は本編にいれることができなかった、総司の仕官エピソードを交えた番外編となっております。
あとはいつ、土方が総司のことを好きになり自覚したのか…というのが裏テーマ(裏?)となっております。
わらべうた100話に出てくる内容にアンサーするようなカタチの番外編となります〜
あと、時期的にはわらべうた33話あたりのお話のつもりでかいています。

前述のように仕官のエピソードがベースになっているのですが、
実際に総司が十九歳のころ、免許皆伝になった頃に仕官のお話があったそうです。(もちろん諸説ありますが)
とある藩の剣術指南役として仕官できるチャンスだったのですが、もちろん総司はそれを辞退してます。
そして辞退するときに「達磨の絵」を差し出して断ったといわれているそうです。
なぜ達磨だったのか…達磨といえば七転び八起き、決して挫けぬ精神を象徴しているものなので、
いくらへこたれたって、私はここで頑張ります!という意思を示したかったのでは?
ということみたいです(なんて適当な解釈…!(>_<))
これが白河藩であるというわけではないのですが、今回はわかりやすく白河藩にしちゃいました。

それでは、わらべうた本編の方もたのしんでいただければ幸いです。


2012.6.4〜2012.6.21連載

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