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夜に飛ぶ鳥  Birds fly at night




薄闇のなか、遠くから波の音が聞こえた。幾度となく、終わることなく、切れ目なく繰り返される音を遠くに感じながら、俺はぼんやりとワイングラスを片手に夜風を浴びていた。
背中越しに煌びやかな宴会…榎本に言わせれば「パーティー」が催されている。入れ札の結果決まった、榎本を総裁とする箱館新政府の門出を祝うのだと言う。異国風の料理や酒、派手なドレスに身を包んだ女たちに囲まれて、最初は物珍しく思っていたものの、すぐに飽きた。眩しすぎた。それに、こんなものがただの目くらましに過ぎないと、俺はどこか悟っていたのだ。
そんなものよりも、このベランダから眺める景色の方が美しい。ポツリポツリと灯がともった家、夕焼けに照らされて揺れる水面。京にいた頃の喧騒がまるで嘘のような静けさに包まれている。
日が落ちて、黒と赤が混じりあう。昔は手をのばせば届くような気がしていた空も、今では果てしなく遠く感じた。あの空の先に死んでいった友がいる。大切な人がいる。必死に戦い続ける俺を見下ろしていることだろう。そう思えば、こんな地上にいつまでも這いつくばっていないで、さっさと彼らの元へいきたいという衝動に駆られてしまう。
けれど、まだその時ではない。
死に急ぐようなことをすれば、俺はきっとあいつらに怒られてしまうだろう。
「何をしているんですか?」
馴染みの声が聞こえた。多くの仲間や隊士が死んで、俺の前から去って行ったが、不思議なことに古くからの友人である彼がいま傍に居る。
「お前こそ何やっているんだよ、伊庭」
伊庭八郎。
その昔、俺が試衛館の食客だった頃に知り合った年下の男だ。目元が涼やかで人目を惹く。彼に対して出会った時から俺は対等な口をきいているものの、本来は幕臣の家柄で時が時なら俺と知り合うこともなかったような存在だ。
(だが、それももう昔の話だな…)
箱館新政府には新撰組の様な浪人から大名や幕臣まで様々な出自の者が参加している。身分が上だからと言って総裁になるわけでもなく、大名を差し置いて幕臣である榎本が総裁となっているのがいい例だ。そもそも伊庭は自分が幕臣だからといって偉ぶるような性格ではない。むしろ、身分などに囚われず、自由に振る舞っていたいと願い、それが性に合っているのだろうとも思う。
だが、伊庭はどこか目立つ存在だった。
「人に囲まれて疲れてしまいました」
伊庭は飄々とそんなことを言ってワインとグラスを右手にしていた。
彼には左手首がない。箱根での戦の折に斬られたのだという。本人は利き手ではないので問題ない、銃だって自在に扱えると強情を張るが本音はわからない。江戸で名を馳せた『小天狗』としての誇りを失う…俺なら発狂しそうなものだ。
しかし、そうであったとしても伊庭は決してそんなことを口にはしないだろう。飄々とした外面で隠した内面は、誰よりも強い信念を持っているのだ。
彼の持ってきたワインを受け取って、二人で近くのテーブルと椅子に腰かけた。部屋の中ではいまだに騒がしいパーティーが続いている。
「こんなところでのんびりしていていいんですか?陸軍奉行並でしょう」
俺がグラスにワインを注いでいると伊庭はそう言って揶揄してきた。俺は入れ札の結果、伊庭よりも高い地位となってしまったのだ。
「面倒な役どころを押し付けられただけだ」
「またそんなことを言って」
毒づく俺に伊庭は苦笑して続けた。
「俺は土方さんが陸軍奉行並っていうのは妥当だと思いますけどね。あ、いや、もっと上でも良かったんですよ?なんていったって隊士からは軍神なんて崇められているそうじゃないですか。連戦連勝…土方さんの隊に配属されたら死なないなんていう話を聞きました」
「買いかぶり過ぎだ。勝ち続けていたなら、こんなところにまで来ていない」
「そりゃそうですけど」
それを言っちゃ御仕舞だ、と伊庭は笑った。その笑い方が江戸にいたときのそれに似ていて、俺は少し懐かしい気持ちになった。
お互い、ここまでの道のりは過酷なものだった。俺は新撰組副長として転戦を続けて、恩のある会津でも負け、追い詰められるように北へとやってきた。そして伊庭もまた、遊撃隊として戦い、左手首を失いながらも戦い続ける道を選んでここへとやってきた。
「でもこんなところまで来なきゃ…お前とは会えなかったかもな」
俺はグラスに注いだワインを一気に飲みほした。
お互いのことは噂では聞いていた。しかしその真偽はわからずに、二度と会えないだろうと思っていた。
俺はここまでの間に昔からの馴染みの仲間を沢山失って箱館にやってきたが、伊庭と再会できたのは唯一幸運なことだったとも思える。
すると伊庭も力を抜いて笑った。
「そうですね…今日も明日も分からない日々でしたからね。まあ、今だってそうであることに違いはないですけど」
四方を海に囲まれた蝦夷では、新政府軍が攻め込んで来ればすぐにわかる。逆に言えば、それまでは平穏な日常が遅れると言うことだ。それは戊辰での戦から戦い続けてきた俺にとっては、久々の安息の日々とも言えた。
いや…もしかしたら、江戸にいた頃以来の、安寧かもしれない。新撰組副長となってからは、失っていた。
「…そう言えば」
俺は空になったグラスにワインを注ぐ。伊庭のグラスはあまり減っていない。
「俺はどうしてお前と知り合ったんだろうな」
「え?」
伊庭は首を傾げた。何を唐突に…と思ったのかもしれない。
「いや、お前とは昔からの馴染みだとは思うが、何故出会ったのかは…あんまり覚えてねえと思っただけだ」
いつの間にかそこにいて、いつの間にか試衛館の仲間とも仲良くなっていた。俺には伊庭と出会ったという明確な記憶があまりなかったのだ。
しかし、それを聞いた伊庭の反応と言えば、唖然としていた。
「信じられない。覚えてないんですか?」
「……そんなに衝撃的な出会いだったのか?」
「少なくとも俺にとっては衝撃的だったんですけど…やだなあ、俺は土方さんの無二の友人だと思っていたのに。自信無くします」
伊庭はわざとらしく肩を落として見せた。…この言い草を聞く限りでは、どうやら伊庭はよく覚えているらしい。
「教えろよ」
「いいですけど…結構、長い話になりますよ」
「いい。どうせ宴はまだまだ続くんだ」
くだらないパーティーとやらに参加するよりは、伊庭と昔話に花を咲かせている方がいいに決まっている。
伊庭は苦笑しつつ
「そうですね」
と頷いた。
心地よい風が髪を靡く。潮の香りがする風はいまだに慣れない。
この未開の地で、俺は伊庭の語る故郷での眩しい日々に想いを馳せることにしたのだった。








義父からは「悪い遊びはやめておきなさい」と遠回しに何度か言われたが、それでも俺はこの家からこっそり逃げ出す悪い癖をやめることはできなかった。
夕暮れ時、台所から漂う夕食の匂いから何となく今晩の献立を予想しながらも、俺はその食事を摂ることはないのだと苦笑する。義母や義妹が作る夕食に何か不満があるわけではなかったが、家族で過ごす夕食時の団らんにはすっかり飽きていたのだ。
それよりも今は、興味をそそるものがある。
俺は足音を立てないようにこっそりと部屋を出て、下駄を手に庭を横切る。その向こうに裏口があり、重たい扉がある。これが最大の難関だ。音が聞こえれば泥棒と間違えて家人が飛んできてしまうのだ。その軋む音をどうか誰にも聞かれませんように…と俺は願いながらゆっくりと閉じた。
「…ふう」
今日も成功したようだ。
その確信を得て俺は安堵のため息を漏らすが
「どこに行くんだ?」
とすぐに声をかけられて、一瞬身が竦んだ。また説教を食らうのか…しかし、よくよく見るとその声の主は
「…なんだ」
幼馴染の本山小太郎だった。俺がその顔を見てため息をつくと、彼は不満げに
「何だとはなんだ。人がせっかく訪ねてきたというのに」
と愚痴った。俺に対して正面を切って文句を言うのはこの男くらいのものだ。
「はいはい」
「今日、本を返しに約束だっただろう。今からどこへ行くんだ」
「気が向いたから散歩だ」
「何が散歩だ。朝まで帰って来ないつもりだろう」
「長い散歩だからな」
俺は軽く聞き流しながら、手にしていた下駄を落として足の指を入れてそして夕闇迫る町の中へと歩き出す。すると両手に書物を抱えたままの小太も何故かついてきた。
「本なら家人に預けておけばいいのに」
「俺は、お前に、これを返しに来たんだ。お前が受け取ればいいだろう」
「そんな重いモノ持って遊郭になど行けるものか」
「やっぱり吉原に行くんじゃないか」
小太に目敏く指摘され、俺は「ちっ」と思わず舌打ちをしてしまった。
彼の言うとおり、俺が誰にも何も告げずに家を抜け出して向かうのは…吉原だ。先日、道場の兄弟子たちに連れて行ってもらって以来、男の性なのかすっかり嵌ってしまい、文字通り連日連夜足を運んでいるのだ。
「お前、つい最近までは遊郭などひと時の現実逃避だと嘲笑っていたじゃないか」
「そうだったかな」
「女に嵌るのは暇な人間だ、俺は暇じゃないとも言っていた」
「そんなことは忘れた」
小太の追及から逃れるように俺は足早に歩く。しかし小太も諦めることなく俺の背中にぴたりと張り付いて離れる気配はない。
そのうち、どんどん日は暮れて夜になった。俺は提灯を持参していなかったが、小太は持っている。俺は仕方なく彼の提灯の灯りを借りることにする。
小太の言うとおり、俺は吉原に行くまではそれが馬鹿らしい遊びだと思っていた。朝になれば消えてしまう、まるで浦島太郎のような恋に何の意味があるのか。気が付いたときに白髪の爺になっていては遅いのだと、足しげく通う男を侮蔑していた。
しかし、その気持ちはコロリと変わってしまった。
「女なんてどれも同じかと思っていたら、そうでもなかったんだ。上辺だけの時間だからこそ、女も男も己の内心を惜しげもなく吐露する。吉原はそういう発見ができる場所だから、俺は見聞を広めているんだ」
もっともらしい言い分だが、それは言い訳なのだろう。
幼馴染にはそれがすぐにわかったようで、小太は苦笑した。
「だからって、お忍びで遊びに行くことはないだろう。一言、言ってくると言えば礼子さんだって心配しないで済むものを…」
「……面倒だからいい」
義理の妹の名前を出されて、俺は顔を顰めた。おそらく小太には見えていないだろうが。
小太のなかで、礼子はお転婆な娘のままなのだろう。確かに少し前までは男にも負けない強情さで、義母などは良く叱りつけていた。嫁の貰い手があるのだろうか…と真剣に悩んでいたほどだ。
しかし礼子は少し変わった。思春期を経て、異性の目を気にし始めたのか、身の回りのことに気を遣い始め琴や読み書きなどの稽古事も始めたらしい。妹の成長に皆は喜んでいたが、俺は微妙な気持ちになった。
妹が、女になる。
(…女へ興味が沸いたきっかけも、礼子なのかもしれない)
女とは何か。
あんなにもうっとりとした視線を向けるのが女なのか。
それが知りたい。
そう思うと、吉原へ通う悪癖は、もとはと言えば義妹のせいなのかもしれないがそれは単なる責任転嫁だろう。
「それで、気に入った女でも居るのか?」
小太は俺を引き留めることを諦めたのか、共についてくることにしたらしい。それはそれで面倒ではあったが、この男を追いかえす方がもっと面倒だ。伊庭の家に戻って告げ口をされれば、家人が気を揉むことだろう。
「まあ何人か。裏を返すことはないな」
「へえ」
小太は意外そうな反応をした。そして
「じゃあまだ抱いていないのか」
と訊ねてきた。
花魁は初めて会う客を「初会」と呼び、二度目を「裏」という。高級な遊女は初会から肌を許すようなことはなく、二回目である裏もまだ様子見だ。ようやく三回目に様々な慣例を経てから肌を重ねることができるのだ。
しかし俺は「いや、抱いた」と答えた。その答えに何故か小太は咳き込んだ。
「お、お前…?」
「初会で抱いてくれと頼まれたから抱いた」
「はぁーっ…」
驚きと嘆息と…色々なものが混じりあい、小太は提灯のほのかな明かりでわかるほど、呆れた表情で俺を見ていた。
「さすが、巷で話題の伊庭の小天狗様は違うな。女の方が媚を売ってくるってことか?」
小太は少し茶化してそんなことを言ってきた。彼の揶揄に俺は「まあな」と曖昧に答えつつ、彼に聞かれないようにこっそりとため息をつく。
伊庭の小天狗…そのあだ名は、あまり好きではない。
剣術を始めたのは一年ほど前だろうか。嫌だ嫌だと拒み続けたが、あるきっかけで剣を取ることにした。もともとの才能か血統か、俺の腕はみるみる上達していった。
これが単なる田舎道場ならそこまで話題にならなかっただろう。しかし俺は名門道場の跡取りという立場に居る。道場の将来を担う後継者が、才能を秘めている…噂は一人歩きしていつの間にか「小天狗」などと言われるようになってしまった。
噂に敏感である吉原の女たちはそれを知っていた。だからこそ、俺の名前を出せばすぐにすべてを許した。気に入ってもらえれば、貢がせることができる…そう考えているのだろう。
(いや…それが悪いわけじゃない)
女だって好きで吉原にいるわけではない。金に困り、泣く泣く売られてくるのだ。そんな彼女たちが藁をも使う気持ちで俺を頼るのは仕方ないことだろう。
けれど、やりきれない気持ちになる。
それはまだ俺が割り切れていないからなのだろう。
「それで、今日はどこの店に行くんだ?」
小太が訊ねてきたので、俺は
「稲本楼の小稲かな」
とあっさりと答えた。
しかしこれにもまた、小太は大げさに「はぁ?!」と大きな声を上げた。その声は吉原までの田舎の畦道に良く響いた。
「声が大きい」
「お、お前…小稲と言えば、当代きっての花魁じゃないか。いくらお前だってすぐに会えるような…」
「安心しろ。もう初会は終わっている」
「ほ…本当か?」
小太は目を丸くして驚いていた。
小稲は吉原で一番の美女と言われている。美女、というだけならいくらでもいるが、小稲は歌、舞、所作…どれをとっても一流の花魁で、その美貌と魅力からご家老や幕臣にもなじみが多く、あまりに高級すぎて庶民には手が出せないと言われているのだ。小太もそのことを知っていたのだろう。
「ど…どうだったんだ?」
小太が何を聞きたいのかはよくわからなかったが、
「まあ…初会から気を許すような女じゃなかった。さすがに気品にあふれていて、まるで高級な調度品のようだ」
触れれば価値が下がる。
けれど触れなければ、その魅力はわからない。
だからこそ、
(わからないものは…知りたい)
女だけじゃない。俺の中にある欲求の根源はそれだ。
この世の中に俺が知らないものがある…それを知りたい。知りたくて、居ても立っても居られない。
そんな衝動が俺の中で波打つのだ。
だが、幼馴染はそんなことを知る由もなく
「…調度品なあ…お前の例えは微妙だな」
などと言って苦笑した。
「うるさいな」
俺はまた足早に歩き出す。
吉原があかりが、見え始めたのだ。






田舎道を歩いてようやくたどり着いた吉原は、いつものことながら世情とは隔離された異空間のように思えた。
真っ暗な夜に眩いほどの灯り。人形のように飾り立てられた女たちは男たちの下卑た視線を交わしつつ、少しでも金払いの良い男を探す。男も男で、女を見比べてあれがいいだの、これがいいだの指を差して笑う。
まるで偽りと偽りがぶつかるようだ。
それが汚らわしいと思っていたのはついこの間までのこと。
案外、慣れてしまうのだ。
客引きも諸共せずに、目的地に向けて颯爽と歩く俺と違って、小太は視線を泳がせて戸惑ったように俺のあとに続いた。俺はため息交じりに振り向いて、足を止めてやった。
「…何だ、初めて来たわけでもあるまいし」
「それはそうだが…何度来ても慣れないんだよ。まるで…ふわふわと浮いているようだ」
「大丈夫だ、浮いているのは確かだ」
「…どういう意味だ」
小太が憮然として訊ねてきたが、俺は答えずにまた歩みを進めた。
そんな幼馴染のおろおろと落ち着かない様子をみて、俺は何だか安堵した。理由は良くわからない。この生真面目で純朴な男が吉原の女を目の前に動揺しているのが…面白くもあった。
「ついたぞ」
しばらく歩いたさきの俺は店の前で、足を止めた。稲本楼…吉原の中でも名高い名店だ。小太も「ほう」と感慨深そうに店を見上げていた。朴念仁とは言えども、興味があるのだろう。
「お前も来るか?」
俺はそう誘うと、小太は少し悩んだ顔をしたが
「いや、俺はいい」
と首を横に振った。もともと本を返しにきただけだという彼はそこまで手持ちがないのだろう。俺が「奢るぞ」と食い下がると、少し嫌そうな顔をした。
「…いい。お前が女にモテている姿を見たってちっとも面白くないからな」
「ふうん…じゃあ、引き返すのか?」
「ああ。夜の長い散歩だったと思って引き返すよ」
そうあっさりと返答し小太は踵を返す。しかしもう一度振り向いて笑った。
「今夜のことは黙っておいてやるよ。だから吉原通いもほどほどにしろよ。それから本は、また今度返しに行く」
「…ああ」
「じゃあな」
小太はひらひらと手を振って、元来た道を戻っていく。人混みに流されつつ、雰囲気に酔いつつ…しかし、きっと彼は女の華やかさに目を奪われることもなく、迷うこともなく家路につくのだろう。
「俺は…」
そんなお前が、少しだけ羨ましい。
何も確かなものなんてないのに、振り向かずに歩くことができるその強さが…羨ましい。
「まあ伊庭先生!」
ぼんやりと小太の姿を見送っていると、店の奥から顔見知りの遣り手婆が顔を出した。
「いらっしゃいまし!どうぞ!どうぞ!」
彼女は俺の腕を強く引く。俺は振りほどけるはずのそれに逆らうことなく、店の中に足を踏み入れたのだった。


小稲は別の客の相手をしているということだったので待つことにした。禿が相手にやってきたが、小さな子供と何を話すべきか考え込んでいる間にいなくなってしまった。
あの朴念仁の小太でさえも名前を知っているという小稲は、きっと引っ切り無しに客のもとを回っていることだろう。俺はまだ一度しか会っていないが、小稲が何故評判になったのか…何となく感じ取っていた。
小稲は嘘が上手い。
本人は嘘を付いているつもりはないだろうし、絶対にそんなことを認めないだろうが…この偽りだらけの吉原で、その身を置く術を良く知っている。客の顔を一目見ただけで自分がどんな女を演じればいいのか悟るのではないか。そう思えるほどだ。
俺はそれが悪いとは思わない。それに男はきっと騙されたくて小稲の元へ向かうのだ。騙されている間は至上の喜びを味わうことができるから。もちろん、それを自覚している男は少ないだろうが。
(ああ…知りたいな…)
小稲が何を思っているのか知りたい。
好きでもない男を、好きだと告げるその唇が、本当は何を語らいたいだろうか。
吉原一の遊女だと祭り上げられたその身で、その心に何を隠しているのだろうかと。
「…ん?」
俺が待たされた部屋の囲炉裏を弄っていると、隣の部屋から声が聞こえてきた。最初はボソボソとした小さな声で話している内容は良くわからなかったが、次第にその声は大きくなっていく。
男と…女。それはもちろんこの店では当然の組み合わせではあったが、女は二人いるようだ。
(二人も買うとは…)
余程の女狂いか、と俺は苦笑したが、しかし聞こえてくる話は穏やかなものではない。
「うちのこの子!どっちに惚れてますの?」
耳に入ってきた女の悲鳴に、俺は途端に興味が沸いた。襖の方に身を寄せて、聞き耳を立てる。
「お前が一番だって、うち言われました!」
「うちも言われてます!」
互いに主張し合う女の声。小稲ではないようだが、それは飾り立てた遊女のものではなく、「女」としての野性味あふれる金切声だ。
(へえ…二股か…)
俺は少し感心した。稲本楼にいる女は決して安い女ではない。それぞれそれなりに気品や気位のある女だ。そんな女二人に化けの皮を剥がさせるほどに迫られる、色男がいるようだ。
しかし残念ながら男がどう答えているのか、声は聞こえてこない。
(どんな男だ…)
知りたい。
俺はその好奇心に駆られて不謹慎だとは思いつつ、こっそりと襖を開けた。だが残念ながら女の背中で男の姿は見えない。
「歳さん、うちと心中しても構わないってそう言ってくれた!」
「そんなん嘘!うちは身請けしてくれるって何度も…」
「それこそ嘘や!」
女はきっと睨みあい、どうにか男の寵愛を受けようとしているのだろう。歳さん、と呼ばれた男はどうこたえるのだろう。彼女たちの本気を目の前に、何を口にするのだろう。
(知りたい…)
が、男の答えを聞く前に女の一人が手を上げた。思いっきり引っぱたいたのか、此方にまで筒抜けになるほどの平手打ちの音が響いた。しかしやられた女も黙っているわけはなく
「何すんの!」
と同じように女の頬を叩いた。俺は襖の隙間から覗いているだけだったが、それでも女たちは掴み合い、髪を引っ張り…まるで子供の様な喧嘩を始めてしまった。
女同士の喧嘩を目にするのは初めてだった。女というものは誰もが大人しい人形のようなものだと思っていたのに、こんなにも荒々しい表情を見せるのか…正直、驚いた。すると
「やめねえか!」
と、ようやく男の声が聞こえた。さすがに二人の仲裁を始めたようだ。それからはバタバタと騒がしい音が響いてきて、店内も「なんだなんだ」と騒がしくなってくる。しかし女たちは周囲の目など見えなくなっているようで、男の仲裁も無視して互いに罵倒を浴びせはじめる。
「やめろやめろ!」
そこで別の男の声が聞こえてきた。店の者だろう。
(関わるのは面倒だな…)
俺はこっそり覗いていた襖を閉じて、今度は無関係を装うことにしたのだが、その次の瞬間に隔てていた襖がこちらの部屋に雪崩れ込むようにして倒れて、女が二人転がってきた。
「うわっ!」
どうにか襖の下敷きになるのは免れることはできたが、さすがの俺でも驚きを隠すことはできない。
それでも女たちは取っ組み合いを続けている。髪が乱れ、服が崩れている。その姿はかつてお転婆だった義妹の姿とも重なったが、子供であった彼女と一緒にするのは義妹に失礼だろう。
いつの間にか集まってしまった野次馬と、周囲の注目を浴びる女たちから、俺は男の方へと目を向けた。
そう、それが土方歳三という男との出会いだった。


「お騒がせして…申し訳ございません」
ようやく身体が空いた小稲は俺の顔を見るなり頭を深々と下げて謝ってきた。禿たちが運んできた酒を手にしながら、俺は笑った。
「いや…なかなか見られない、面白い見世物だった」
「…まあ…」
俺が茶化すと、小稲も戸惑いつつも少し笑った。
あれから女たちは店の者に慰められてどうにか落ち着いたようだ。男の方も疲れた表情を浮かべてうんざりしたように頭を掻いていた。
想像通りの色男だった。いや、思っていた以上だ。
遊び人の雰囲気を醸し出しているのに、流れている空気は静寂だ。そこにはまるで手の届かない清らかさがあるようで…彼の存在は浮世離れしていた。
(武士…ではないか)
身に着けていた衣服や雰囲気から察するに金持ちの町人か商人の次男坊あたりか…。
「あの御仁は?」
俺は小稲に訊ねるが、彼女は首を傾げた。
「ええ…土方さまとおっしゃいます。つい先日、店の方へ来られて…うちは良く知らないのですが…」
「そうか…」
俺は酒を飲みほした。
つい先日、店にやってきてそれなりに気位の高い二人の女を虜にした。惚れさせた。それだけの風貌ではあったが、しかしそれでもあそこまで女を追い詰めたりするほどにはならないはずだ。
土方という男は、これからどうするのだろう。どちらかの女を選ぶのか…それとも、どちらの女も選ばないのか。彼女たちの囁いた言葉は全て嘘だったのだとしたら
(大した役者だ…)
きっと吉原一の演者だろう。
彼は何を思って女に触れるのだろう。
「…伊庭さま?」
「え?」
「何だか…楽しそう」
小稲が微笑む。吉原で一番の美女がそこにいる。しかしこの美しい顔を立ちを見てもいまの興味は別の方向へと向かっていた。
(土方…)
彼のことが知りたい。







箱館の夜はゆっくりと過ぎていく。
賑わうパーティーはきっと夜更けを通り越して朝まで続くのだろう。榎本を中心として、戦場とは思えない盛況ぶりだ。
皆、新しい道が開けたのだという希望に満ち溢れた錯覚を、夢だと知りながら味わっている…俺は冷めた視線でその様子を見ていた。
「…話、聞いています?」
向かいに座る伊庭が、視線を逸らした俺に不満げに訊ねてきた。
伊庭の話は、宣言通り長かった。しかし、かつて文学少年であったせいか、語りが上手い。その当時の状況が見えてきそうなほどに臨場感があったので聞き入ってしまったほどだ。
「聞いているさ。…だから、何となく思い出してきたところだ」
伊庭の話を聞いていると、当時の状況を思い出してきた。浮足立っていた青年期に、何度となく訪れた吉原の町。賑やかで明るくて…そう、まるでこのパーティーと同じように一時の夢を与えてくれる。世の中が変わった今頃は、あの場所はいったいどうなってしまっているのだろう。
「稲本楼の小稲…か。残念ながら顔を拝んだことはねえな」
「そりゃ、土方さんに買えるような妓じゃなかったからでしょう?」
「うるせえな」
俺が顔を顰めると、伊庭は「冗談ですよ」と笑うがしかし彼の言うとおりだ。
稲本楼の小稲…確か、正しくは三代目の小稲で吉原一の美女に与えられる称号である名前を受け継いだ女だ。俺の様な浪人どころか、士の身分を持った者でさえも小稲が「うん」と言わなければ会えない高嶺の花。
だが、伊庭はちゃっかりと小稲と良い仲になり、長く関係を続けていた。伊庭が惚れていた、というよりも小稲が伊庭に惚れていたのだろう。しかし伊庭も小稲には少し気を許しているところがあったようだ。
(不思議な男だ)
吉原一の女に惚れられながらも、彼は流されなかった。夢を見に来たのだと言いながらも、夢には溺れなかった。あの頃の彼は子供だったはずなのに、今と同じ強さを持っていたように見える。大人びていて、まったく可愛くはなかった。
「…というか、話を逸らさないで下さいよ」
今の伊庭は、あの頃と同じように軽快に笑った。
こんなことで騙されてくれるとは思っていなかったが、すっかり見抜かれていたようだ。
「…覚えてねえんだから仕方ねえだろう」
「やだなあ、惚けないでくださいよ。あんな修羅場を披露しておいて忘れたなんて言わせませんよ」
「…」
伊庭の語る修羅場は稲本楼で起き、二人の女が俺を取り合って喧嘩を始めた。取っ組み合いになり、店中が大騒ぎなった…と、聞かされても、残念ながら俺の記憶にはない。
「人違いじゃねえのか」
俺が食い下がるが
「そんなわけないですよ。小稲があなたの名前を教えてくれたんですから」
と、伊庭は認めてはくれない。俺は腕を組みなおして唸った。
「…女との諍いは数えきれねえくらいある」
それが正直な感想だ。二股、三股なんてものは日常茶飯事。その当時の俺は、女の数こそが男の誉れだと本気で信じていたのだ。
伊庭は少し目を丸くしたが
「ははっ!さもありなん!」
と大声で笑い手を叩いた。
そしてグラスにワインを注いだ。
「あはは…あーあ、面白いなあ。まあ、覚えていなくてもいいですけど。とにかく俺にとっては衝撃的な出会いだったんですよ。髪を振り乱して喧嘩をする女を見たのは初めてだったし、そんな女が取りあう男はえらく色男だし。何だかとても印象深かったなあ」
減らず口ばかりの伊庭が素直に俺を称賛している。
「…お前がそうやって素直に俺を褒めるときは、何かを企んでいるときに違いない」
「酷いなあ。その頃の俺は素直で純朴な青年だったんですよ。何も企んでなんていませんよ」
心外だ、と文句を言いつつ、伊庭はワインを口にする。
「ただ…あの出会いで、俺の興味があなたに注がれたことは確かだったんですよ」
伊庭はワインを俺の方へ向けて、俺はグラスを差し出した。
この赤い酒は、そう言えばあの吉原の提灯に似ている。
ゆらゆらと頼りなく揺れて、俺たちを誘うのだ。



面白い人に出会った。
俺は小太に会うなりそう言って報告した。翌日、宣言通り本を返しに来た小太は訝しげに
「次はどこの女だ?」
と訊ねてきた。無粋な奴だ。
「女じゃない」
「…じゃあ陰間か?」
「そうじゃない。なんでそうなるんだ」
小太の口から「陰間」という言葉自体が出ることが意外だったのだが、小太は「別に」とその理由については話す気はない様だ。
俺は早速、昨晩起きた出来事を話した。
稲本楼で待っていると、隣の部屋から女が髪を振り乱して喧嘩をしていた。そしてその傍らにいた男は「土方」というらしく、とんだ色男だった。
俺としてはできるだけ詳細に事件を語ったつもりだが、小太は「ふうん」淡白な反応しか見せなかった。生真面目な彼は、女手揉めるような男を軽蔑している節があるのだ。
しかし、「うーん」と考え込むように腕を組みなおした。
「土方…聞いたことのある名前だ」
「そうなのか?武士か?浪人か?」
「いや…俺が知っているのは商人、だな」
意外な返答だった。
「商人…?」
「薬売りで石田村の土方、という名前を聞いたことがある。何でも、道場という道場に顔を出して、試合を挑むそうだ。腕はそこそこあって、舐めてかかった奴は負けてしまう。本人は腕試しという目的もあるだろうが、持参した薬を道場で売りつけるそうだ」
「それは頭がいいな」
剣の腕を試し、そして傷口に聞くのだと薬を売る。まさに一石二鳥だ。
「まあ…そう言われれば、そうかもな」
小太は俺の称賛を不承不承、という感じだったが、しかし俺の確信は深まった。
(あの男に違いない…!)
男は確かに見目が良かった。通り過ぎれば男であっても振り返る、そういう人を惹きつける目元をしていた。けれど、それだけでは女にはモテない。
女は瞬時に男を見抜き、自分にとって有用か、見定める。どんなに整った男でも中身が伴わないなら欲さない。
おそらく彼は頭がいいのだ。それを本人が自覚しているかどうかはわからないが。
「それで、その男は薬売りを続けているのか?」
俺の興味は一気に、その土方という男に注がれた。会ってみたい、話をしてみたい、どんな男なのか知りたい…その欲求は抑えきれなかった。
幼馴染である小太もそのことはわかっている。俺が「気になる」と言ったらとことん追求するのだとその身をもって良く知っているのだ。
しかし、彼は「残念だが」と顔を顰めた。
「最近は薬売りの話はとんと聞かない。お前に言われるまで俺も忘れていたくらいだ」
「どのくらい前の話だ?」
「そうだな…一年以上前かな」
「…そうか」
確かに残念だ。すぐに会えるだろうと思っていた当てが外れたが…だったら吉原中を虱潰しにあたるしかない。
(それもそれで楽しそうだ)
幸い、まだ吉原には足を踏み入れていない店も多い。それらをあたっていればいつかあの男に出会えるだろう。
「しばらくは吉原に通うかな」
彼に沸いた興味は彼に相対するまで消えることはないのだ。
自然と嬉しそうに笑っていたのか、小太が嫌そうな顔をして
「お前…いつまで吉原に通うのか?」
と訊ねてきた。
「いつまで?…お前は変なことを聞くなあ」
「いつになったら落ち着いて腰を据えて剣術に取り組むのかって聞いているんだ」
「失礼な。俺は剣術の稽古を怠けているわけじゃない」
「それは…そうだが」
俺が言い返すと、小太は何も言えなくなったのか口をへの字に曲げた。
しかし、彼が何を言いたいのか…俺にはわかる。
けれど敢えて俺は何も言わなかった。それを口にすれば、何かが変わるような気がしたからだ。






「何か見えます?」
まるで語尾まで美しい音を並べて、小稲が俺に話しかけてきた。俺は稲本楼にやってくるなり彼女を放って、窓辺で行き交う人を眺めながら酒を飲み続けていたのだ。
「いや…いつもの光景だ」
俺は少し誤魔化すように答えた。当然、小稲は俺の生返事を見透かしているに違いないが、「そうですか」とあっさりと返答した。そして膝に置いた三味線をまた弾く。
彼女がつま弾く音に耳を傾けつつ、俺はまた窓の外に視線を向けた。
小稲の三味線は心地よい。身体の芯に語りかけるような音は、いったいどうやって奏でているのだろうと不思議に思う。しかし、それでも、今の俺の興味は小稲のそれではない。
(いない…か)
土方歳三という男。
あの一件から数日が経ち、すっかり姿が見えなくなってしまった。あれだけの騒ぎを起こしたのだから来辛いのかもしれないが、
(そういうことを気にするような男には見えなかった)
根拠のない勘に違いないのだが、きっとあの男は何にもなかった顔をして吉原にやってくるのではないか…そういう予感があるのだ。
すると、小稲の三味線の音が止まった。
「…伊庭さま」
やや硬い表情の小稲が俺を見ていた。あまりにつれなくしてしまったか…俺はそう思い
「すまない」
とすぐに謝った。女に不満があるときにはすぐに謝るべし…これは誰に聞いた鉄則だったか。しかし小稲は「いいえ」と首を横に振った。
「誰ぞ…お探しですか?」
「…ああ」
「ご友人?」
「いや、知らない男だ」
小稲の質問に答えつつ、俺は自らの返答に思わず笑いそうになった。
そうだ、名前しか、噂しか、知らない男だ。そしてその男もまた俺のことを知っているわけではない。
なのにどうして、こんなにも気になってしまうのだろう。
目の前の美しい女を放ってまで、どうしてだろう。
小稲は三味線を傍らに置くと、ゆっくりと立ち上がり俺の隣に腰を降ろした。そして、俺が見ていた方へと視線を向けた。小稲はまるで子供のように窓から身を乗り出したが、
「…なんにも、見えませんねえ」
と呟いた。
だが、決して何も見えない訳ではない。吉原の仄かな灯りがあちこちに灯っていて、座敷からも光が漏れている。男たちが「夢」と嘯く場所は今宵も騒がしい。けれど、それは小稲にとって見慣れ過ぎた景色として「見えている」ものではないのだろう。まるで額縁のようにいつも固定された飾りでしかない。だから彼女にはその光景が「見えていない」…そう認識しているのだろう。
ここにいる大抵の女は、望んでここで生きているわけではないのだという。家の事情や生まれの理由でここに売られてくる者が多い。
小稲もきっとそうなのだろう。
だとしたら、寂しげに外を「見えない」というのが、途端に酷く哀れに聞こえてくる。いま目の前にうつる場所だけが外であり、そんな狭い場所しかわからないのだと言っているような気がした。
しかし、小稲は微笑んだ。
「…伊庭さまはまるで、夜に飛ぶ鳥を探していらっしゃるよう」
「夜に飛ぶ鳥?」
「ええ…羽音だけが聞こえる鳥を…この暗闇の中に探していらっしゃるのでしょう」
ああ。
そうかもしれない。
小稲の言葉は不思議とすとん、と心に落ちる。
「伊庭さま…」
彼女の形の良い唇が、こちらに近づいた。
化粧の匂い。
芳香の色。
これまれ小稲に感じたことのない色気に、一瞬で脳が揺れた。肩に触れた指先から、侵食されるかのようだ。
濃すぎない紅が重なる。
手慣れているはずなのに、まるで幼い口付け。
目の前の小稲はまるで童女のように顔を真っ赤にしている。
その顔を見て俺は悟る。どうやら、自惚れではないようだ、と。
小稲は俺に惚れているらしい。
吉原一の美女が、誰よりも俺が良いのだと言っている。
(夜に飛ぶ鳥…)
小稲はそれを俺だと決めた。
俺は誰をそれと決めるのだろう。



パーティの声が騒がしい。懐かしい昔話を邪魔する様だ。
しかし、俺は伊庭の話を遮るように
「お前の自慢話はいい」
とそれ以上を拒んだ。伊庭がモテるなんてことは昔から知っている。顔が良くて、御曹司で剣の腕もあり、実は生真面目で一途な性格だと知れば、女は大抵落ちる。そんなのは傍からいくらでも見てきたのだ。
すると伊庭は
「昔は散々、俺の方が聞かされてきたんだから、たまには聞いてくださいよ」
と笑った。
確かに小稲とのなれそめを聞くのは初めてだ。俺も聞きたがらなかったし、伊庭も話したがらなかった。機会がなかったと言えばそれまでだが、俺からすると伊庭が故意に避けていたようにも思える。
(ま…結局、こいつが選んだのは別の人間だ…)
小稲に惚れられておきながら、伊庭は別の人間を選んだ。しかも男だ。それはあの頃のことを思い起こせば、考えられないような話だ。
しかし、だからと言って彼が女にのめり込むということはなかったように思う。小稲でさえ落とせなかった…伊庭は遊んでいながらも、泥濘に嵌るようなことはなかった。
(俺と違って…か)
あの頃の俺は女と添い遂げるような気持ちで吉原に足を運んでいたようなものだが。
俺は昔の俺に苦笑して、グラスのワインを口にした。
「それで?お前はいつ俺を見つけた?」
残念ながら伊庭との出会いについて記憶が抜け落ちている俺は、ここまで聞いてもその片鱗を思い出すことはできなかった。
すると伊庭は
「意外と、それからすぐでしたよ」
と笑った。



連日、吉原に通うことについて家族のだれもが俺を責めることを諦めたように思う。年齢的にも女に興味が向いてもおかしくはない…義父がそんなことを漏らしているのを聞いた。だから家人も納得したのだと思う。恨みがましい目を向ける義妹を除いては。
そしてこの男もまた、諦めていた。
「今日も行くのか」
こっそりと裏口から出た俺をつかまえて、小太は顔を顰めた。
「お前は俺の兄か何かなのか?」
「兄だったらもっと強く引き留めている」
「良かったな、手を焼く弟じゃなくて」
俺は「じゃあな」と小太を振り切って歩き出したが、しかし彼はついてきた。
「吉原に行くのか?」
そう訊ねると
「ちょっと…そこまで、散歩だ」
曖昧な理由をこじつける小太の言い分。不器用な彼らしいそれを俺は「そうか」と聞き流してやった。
そのまましばらく無言で歩いていると
「小稲のこと、聞いた」
と小太が切り出してきた。
「ああ…そう」
俺は特に報告することもない。周囲から見れば名の知れた、気高い女が幕臣の御曹司に落ちた…そんな噂が語られているのかもしれないが、俺からすれば一人の女がまた俺に惚れてしまった。ただそれだけのことだったからだ。
「本気なのか?」
真摯な眼差しを向ける小太に俺は吹き出して笑った。
「はははっ…本気って、何のことだよ」
「本気は…だから、その…女に対して本気で惚れているかどうかってことだろ?」
「お前は相変わらず、ガキっぽい発想だなあ」
「ガキっぽいとはなんだ!」
小太は珍しく声を出して怒ったが、俺はおかしくて仕方ない。この男はここまでウブだとは知らなかったのだ。
「たかが『遊び』だろ?本気になってどうするんだよ」
「どうって…請け出したり、するんじゃないのか?」
「絶対にないな」
俺は淀むことなく否定した。
そんなことがあるわけがない。
どんなに目を逸らしていても、自分が幕臣の家柄だということは自覚している。いずれは由緒あるところから妻を迎えて、家を、血を守る。
「残念ながら…俺はそこまで、馬鹿じゃない」
馬鹿のふりはする。女にうつつを抜かして、毎晩で歩いて、朝に帰る。義妹に冷たい目で見られて、遊んでばかりいると思わせる。
でも、心根から愚かになったわけではない。
(本当は惚れるなんて、そんな感情がわからないのかしれない)
達観しすぎていて、冷静に判断しすぎていて、大人びすぎたのか。
すると小太が足を止めた。そして、とても寂しげな顔をして
「俺は帰る」
と告げた。そして俺の返答を待つこともなく、背中を向けて去って行った。
その背中を俺は何となく見ていた。
彼が俺の言葉を聞いて何を思ったのか…聞いてみたいと思いながら。








小太と別れて吉原に向かう。
いつもは家人がどれだけ心配しても、義妹に軽蔑の眼差しで見られても気にならなかったというのに、頭の中は何故か小太の寂しげな顔で埋め尽くされていた。あいつはまるで捨てられた子犬の様な目で俺を見ていた。
そんな小太のことが可哀そうだとも思い、しかしその一方であいつには絶対に分からないのだろうとも思った。
いや、彼だけが愚かだということではない。
(誰も…俺のことをわかるわけがない)
家族も、
幼馴染も、
義妹も、
そして、小稲も。
皆、期待の眼差しで見る。
俺に何かを求めている。
それが将来か、安定か、熱望か、愛欲か。
とにかく俺に対して何かを期待している。『伊庭の小天狗』という肩書に、幻想に、夢を見ている。
だが、そんなのは俺にとって迷惑でしかないのだ。
(今の俺に、何が為し得ると言うのか)
ほんの少し、剣術ができただけだ。ほんの少し、血筋が優れていただけだ。それに、もし誰かが焦がれるようなものを持っていたとしても、持っているのは俺ごときだ。
(皆…目を覚ませばいい)
俺の中身はどうしようもない一人の男で、毎晩女との時間に明け暮れるようなだらしない一面もあれば、周囲の期待を裏切って己の自由を優先させることもある。そんな俺に気が付いて、早く失望をしてくれればいい。
そうすれば、この重荷はもう少しは軽くなるだろう。
そうすれば、解き放たれるだろうか。
「喧嘩だ!」
誰かが叫んだ言葉で、ハッと我に返った。いつの間にか吉原はすぐそこに迫っていて、夕暮れは暗闇へと変わっていた。
ざわざわと騒がしい声は吉原の方から聞こえてくる。目を凝らすと、吉原の門前が野次馬で溢れている。
俺は駆け出した。妙な予感がしたからだ。
彼ではないか。
土方歳三ではないか。
俺は確信じみたものを感じながら、野次馬を掻き分けて前に進んだ。野次馬は思った以上に押し寄せていて、思った以上の大騒動になりかけていた。その人混みに押し出されるように、俺は一番前に躍り出た。
「あ…っ」
思わず声が出た。
月と提灯の光しかないが、彼は稲本楼で見た男…浮世離れした色男、土方歳三に間違いなかった。そして彼と向かい合うのはどこかの浪人風情が五、六人。刀を構えて土方と向かい合っていた。
一方の土方と言えば、片手に提灯を持ちゆったりと構えていて男たちを相手に余裕の表情だ。
「貴様が土方か!」
「おユウを寝取ったのはお前か!」
息巻く男たちをよく見ると、後方で腕を組み偉ぶる男がいた。他の男たちと比べても身形が良いので、彼が親分格なのだろう。
しかし、土方は「ふん」と鼻で笑う。
「寝取ったとは、可笑しいじゃねえか。お祐は身請けされたわけじゃねえ…誰がモノにしようが、構わねえはずだ」
「何だと!」
「おユウはこちらにおられる御方の馴染みだ!それは既に周囲に知れたことだろう!」
「知らねえな」
土方の返答はどれもこれも火に油を注ぐものばかりで、男たちの怒りが増していく。一方で野次馬達は盛り上がり、もっとやれと声が飛ぶ。彼はわかっていて彼らを煽っているのだろう。
状況は単純明快なものだった。彼らの親分格の女を、土方が寝取った。その事実を知った子分たちが土方に詰め寄っている。吉原といういわば浮世の遊びを楽しむ場で、女は求められれば誰とでも寝る。そんなわかりきった作法の中で、土方を責めるのはどこか無粋な気がするが、土方があのような態度を取れば怒りたくもなるだろう。
(相変わらず…面白い)
俺の口角が自然と上がる。
きっと土方という男には、何の重荷もないのだろう。気にする外聞も、周囲の過剰な期待もない。明日は明日の風が吹く…そんなことを思いながら、生きているに違いない。
あんなふうに飄々と生きられたらいい。
まるで、夜に飛ぶ鳥のように。
「とにかく、この御方に謝れ!」
「何故だ」
「な、何故とは…!」
「愚弄するのか!」
男たちはさらに剣先を土方へと詰める。するとようやく土方もゆっくりと刀を抜いた。
ついに斬りあいか…野次馬達がわっと盛り上がる。しかし、俺は現実的にこの勝負が土方の不利だと思った。いくら技量があったとしても、人数には押されてしまう。しかもこの闇のなかで正確に刀が振れるなら、土方という男の名はもっと有名だったはずだ。
だが、土方にはいまだ余裕がある。
「愚弄するも何も…俺ぁ、お前たちの親分の名前さえ知らねえ。名前くらい聞かせてくれてもいいんじゃねえのか」
「お…お前などに聞かせられるか!」
「なるほど、余程高貴な御方ってことか?おユウは手練手管のない、つまらない男だと笑っていたが」
「貴様!!」
男たちの怒りが最高潮に達したその瞬間、土方は手元の提灯の灯りを吹き消した。辺りは一気に暗くなり、俺の目にもうっすらとしかその姿が映らない。
しかし、一方では耳元で刀がぶつかる音が木霊した。状況としては五分五分だが、多勢に無勢だろう。咄嗟に俺は己の刀を抜いた。野次馬を抜け出して、月明かりを頼りに刀を薙ぐ。
斬れば面倒なことになるので、俺は峰打ちで相手を払っていく。男たちの剣術の腕前は大したことはない。道場に通う門下生の方がよほど使えるだろう。一方で土方と言えば
(我流…?)
余裕があったので、どこかの剣術の免許を持っているのかもしれない、と思っていたのだが、どうもその剣筋から察するにどこかの流派に属しているというわけではなさそうだ。
それで、あんな大口をたたいたのか。
(やっぱり、面白い…!)
心が躍った。
彼のことで知っていることと言えば、見目が整っていて、女に良くモテて、だらしなくて、薬売り…ただそれだけ。
しかし確信した。
土方という男はきっと今まで自分の周りにいなかった人間だ。
きっとこの先、俺を楽しませてくれるに違いない。
だから。
(こんなところで死なれたら困る!)
俺は立ちはだかる男たちを、適当に薙ぎ払い、親分格の男の元へ走った。男は俺が近づいたことにも気が付かなかっただろう。俺は刀を鞘に納めて、彼の右腕を握った。
「何者だ…!」
男は驚く。俺は耳打ちした。
「私は伊庭八郎と言います」
「伊庭…っ?」
皮肉なことに、俺の名前を聞くと男が怯んだのがわかった。俺は続けた。
「あなたの名前は存じています。ここで騒ぎになって困るのは貴方の方なのでは?」
丁度、遠くの方から笛の音が聞こえる。騒ぎを聞きつけて町方がやってきてしまえば、この『高貴な御方』にも良い結果とはならない。
俺の忠告を察した男は「くっ」と悔しそうな声を上げたが
「引き上げるぞ!」
と子分たちに声をかけ、さっさと去って行ってしまった。状況の分からない男たちは戸惑いつつも、男に従って場を去っていく。
見物をしていた野次馬達は中途半端な結末となり、不満げな声を上げたが俺は構わず土方の手を取った。
「行きましょう」
「…っ?どこにだ」
「町方が来ます。ここに居ては面倒なことになる」
「…ちっ…」
土方は納得していないようだったが、近づく笛の音と足音を聞いて俺と共に駆け出した。
川辺の道を吉原とは反対側に逃げ出して、町方や野次馬の気配が消えた頃に足を止めた。月が川の光に反射して、先ほどよりも明るく土方の顔が見える。
そして彼もまた俺の顔を見た。
「…お前、誰だ?」
そう聞かれるのは酷く新鮮な気持ちだった。不審な顔で俺を睨む土方に対して、俺は笑って返した。
「ようやく、つかまえた」
夜の鳥を。
この鳥は俺をどこへ連れて行ってくれるのだろう。
「あ?なんだって?」
「…いえ、こっちの話です」
そして、俺に何を魅せてくれるのだろう。
「俺の名前は…」



「寒いでしょう。なかへお入りくださいまし」
西洋風の衣服に身を包んだ女が、テラスで話し込む俺と伊庭に声をかけてきた。確かに小さな雪が降り始めていて、パーティーもそろそろ佳境だ。
「すぐに入ります」
愛想よく伊庭が返答すると、女は微笑んで去っていく。
「やっぱり長い話になりましたね。思い出しました?」
「…残念ながら、やっぱり覚えてねえな」
その記憶の輪郭をうっすらと思い出しただけで、その後、伊庭とどのような会話を交わしたのかはわからない。俺の中ではおそらく新撰組副長としての記憶が濃いすぎて、試衛館にいた頃が遠い昔のことに思えて仕方ないのだ。
そんな俺を伊庭は笑った。
「いいですよ。俺は覚えているってことを伝えられましたから」
「別に…忘れてもいいだろう」
俺にとっては若気の至りだ。今となっては、あの時の俺が女のことについて羽目を外しすぎていたのだとわかって、僅かながらも恥ずかしさがある。
しかし伊庭は首を横に振った。
「たぶん、忘れませんよ」
「何故だ」
「…さあ、何故でしょう」
伊庭は立ち上がり、ワインを片手にテラスから外をみた。
彼は何を見ているのだろう。
何を探しているのだろう。
(こんな、北の大地に…)
飛ぶ鳥は、どこにいるのだろうか。






























最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
タイトルを決めて、このタイトルならどんな話だろう?と考えるのが好きなのですが、今回もそんな感じで書き始めました。
本編も含め、今後もお付き合いいただければ嬉しいです。

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