2014.5 慰霊展
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ソラカナタ第2部序章




蒼のオト


海の音が、相馬の耳を掠めていく。さらさらと小気味よい音は、最初ここに来たときには耳鳴りのように感じたが、今では生活の一部になった。
昼と夜の狭間。赤と黒が混ざる。不思議な時間を、この場所で感じている。
一歩踏み出せば海に落ちるような場所で、相馬は腕を組んでずっとその空気の中にいた。
目を閉じて、何かを感じながら。遠くにいってしまった者たちの、声を聞きたいと願いながら。
「相馬様!」
明るい声で呼ばれて相馬はゆっくりと目を開けた。振り返ると、マツが手を振っていた。
「ここにいらっしゃいましたか」
「私に何か…?」
伊豆新島で代々大工を家業としている植村甚兵衛の元へ身柄を預けられて一年が経とうとしていた。昔から流れ者がやってくるのだと、この島の人々は暖かく相馬を受け入れてくれている。そこには新撰組という名前さえ伝わっていなかったので、何だか新鮮な気持ちだった。
特に植村の長女であるマツは、当初相馬の世話係のような役目を果たしてくれていて、今では寺子屋の手助けをしてくれている。マツが相馬を見る目はあからさまで、周囲は「夫婦になればいい」だなんて持て囃すけれど、相馬は全くそんなつもりなかった。
「子供たちが探していました」
「…そうですか」
相馬は自分でもどうかと思うほど、冷たく返した。新撰組に居た頃は「親切者」のひとりだったのに、ここに来てからは誰かに優しくするということができなくなっていた。
(いや…そんな、必要を感じなくなってしまった…)
もちろん、誰彼かまわず、無視をしたり距離をとったり蔑んだりするわけではない。今では島で寺子屋をさせてもらっているのだから、島の人々にも島民として存在を許してもらっているのだとは思う。ただ、マツのように親切にされればされるほど、冷たく返してしまう。
(どうしてだ…)
他の島民へは優しくできるのに、マツへはどうしても張りつめた空気を拭うことができない。
「相馬先生ー!」
「ああ」
遠くから手を振って駆けてくる子供…寺子屋に通っている太一の元へ向かう。マツの横を通り過ぎる時に、彼女が「あ…」と何か言いたげにしたが、相馬は聞こえないふりをした。
「先生、父ちゃんの本、ここが読めないんだ」
「どれ、貸してみなさい」
相馬は太一の古びた本をとり、「ここは…」と話し始めた。
波の音が聞こえる。
ゆっくりと、打ち付ける、優しい水音、風の音。汐の匂い、風の匂い――。
いつもとかわらない音は同じなのに、あの海と同じなのに、あの時と同じにおいがするのに。
(どうして――俺は、ここに一人)
眩しいあの思い出は、どこへ行ってしまったのだろう。まるで水飛沫のように、消えてしまった、あの日々は。
どうして、ここにはお前がいないのだろう。それをずっと、この場所で、お前が死んだ海とは違う場所で、問いかけつづけている。
――答えを、知っているのに。
「先生?」
太一が相馬の袖を引いた。いつの間にかぼんやりしていたようだ。
「…あ、すまない」
「先生もつまんねえよなあ。おれも、剣がしたいんだ。先生、剣もしてたんだろ?教えてよ」
駄々をこねるように太一は相馬に懇願した。「ダメだ」と優しく拒絶したが、子供相手では遠回しな表現は通じない。
「先生、しんせんぐみって所にいたんだろ?父ちゃんに聞いたんだ、先生はきっとすごい遣い手なんだって!」
子供は純粋で無垢で…時に残酷だ。大人が遠慮して口にしないようなことも、平気で尋ねてくる。相馬は答えに困った。
「こ、こら、太一ちゃん!」
すると、遠くで聞いていたのだろう、マツが慌ててこちらに駆け寄って、太一の手を引いた。
「マツねえちゃんだって、前にいってたじゃんかよ。相馬先生のことが気になるってさあ、夜も眠れないってさあ」
「太一ちゃん!」
この太一少年は口が軽いようだ。マツが顔を真っ赤にして「すみませんすみません」と謝ってきて、その一方で太一の口を乱暴に押さえつけた。口を塞がれ、悶える太一が「うーうー」と唸るが、マツは必死に口を閉じさせようとしている。
その光景が何だかおかしくて…相馬は「ふふ」と微かに笑った。するとマツの手のひらから逃れた太一が、
「先生が笑った!」
と相馬を指さして大声で言った。すかさずマツが「人を指さしてはいけません!」と手をはたいたので、ついに太一も
「マツ姉ちゃんの鬼!」
と言いながら、軽やかに逃げていく。マツは追おうとしたが、「もう」とため息をついて断念した。
「ごめんなさい、相馬様。あの子は落ち着きが無くて…」
「いえ、気にしていません。それに本当のことですから」
相馬としてはこれ以上の追及を避けるようにあっさりと答えたつもりだったが、マツは少し考え込むようにして、しかし顔を上げてまっすぐに相馬を見据えた。相馬はその視線の既視感を持った。
「…本当のことなんて、誰も知りませんわ」
「え…?」
まっすぐに見据えた彼女の瞳には、ゆるぎない強さを感じた。
(まるであいつのような)
その懐かしさと同時に思い出す痛み。
「本当のことなんて…わからない。ここに流れていらっしゃる方は皆そうです。ある方は何故こんな場所に来てしまったのだと嘆き、ある方は身に覚えのないのだと喚き…ある方は何も言いませんでした。だから、本当のことなんて、誰にも、私にも…相馬様にしかわからないのですよね」
相馬は何一つ語っていない。ここに来た理由も、「新撰組時代の罪状の為」ということしか伝えていない。それ以上を語る必要も、理由も意味もなかったからだ。しかし、マツはずっとその目を離すようなことはしなかった。
「でも、私は知りたいのです。相馬様がこの海の果てを…時折、こうしてずっと眺めていらしゃる。その姿がいつも、悲しそうで寂しそうで…苦しそうで」
マツは手を伸ばした。
「今にも…死んでしまいそうで」
袖を握って、少しだけ引き寄せた。まるで引き留めるように。
「…死を選ぶ方はいままで沢山いました。前の日までは明るく笑っていたのに、次の日になれば世の中に、人生に、この先に絶望して…死を選ぶ人は山ほど見てきました。この島は昔からそうです」
マツはこの島で生まれ育ったのだという。子供の頃から、新しい人がやってきては、死を選ぶ姿を見てきた。
しかしマツは俯いた目を、相馬に向けた。
「でも、相馬様は違う」
その目が、視線が、重なるたびに。彼女が喋れば喋るほど、暴かれていくようだ。
「貴方は…死にたいことを、誰かの為に、我慢しているように見えます」
心の奥底に秘めた想いを。
「死にたいと何度も何度も、きっといま、この瞬間でさえ思っている。私のこの手を振り払って、あの崖から飛び降りてしまいたいと…いつも、思っている。けれど、相馬様はそれをしない。それをしてはいけないのだと暗示をかけているように…そんなひとは、初めてです。そんな強さを持ったひとを見るのは…初めてなんです」
「おマツさん…」
「だから、私はその強さに、相馬様に…惹かれてしまっているのだと思います」
頬を少し赤く染めて、しかしはっきりとした口調で、マツは告げた。
波の音が激しくなる。赤と黒の混じった空が、次第に闇に染まりその赤を覆い尽くす。
長い沈黙ののちに、相馬はふっと唇を綻ばせた。
「…そんなに笑えていませんかね」
「え?」
「太一が言っていたでしょう。それこそ指差して…そんなに、珍しいことですか?私はそんなに笑えていませんか?」
相馬はマツの肩に手を伸ばした。そして引き寄せるように抱きしめて、その首元に顔を埋めた。
(ああ、やっぱり違う)
あの時に抱いた肩とは違うのだと、一瞬で理解した。
「私は…生きていますか?」
「…相馬様」
マツが戸惑う。しかし、相馬が抱きしめる腕は強くなるばかりだ。
そして、久々に、本当に久々に、目元が熱くなって、流れる涙が止まらなくなって。
(生きているんだろうか…)
最近、どちらが本当なのかわからなくなる。
ここで平穏に寺子屋の先生なんかやって生きている今が、本当なのか。それともあの激動の戦いを生き抜いていた日々が、本当なのか。
いまだに信じられないのだ。
(俺が生きて…あいつが死んでしまったことを…)
ずっとずっと傷口が開いたままで、歩きつづけてきた。
「生きてほしい」
と、そう願われたこの身体を、どうしていいのかわからずに、ここまでやってきた。
子供のように喚くように泣く相馬の背中に、おずおずとマツの細い腕が絡まった。ぎゅっと抱きしめる強さは、どこか母親のそれに似ているようなぬくもりがあって
「貴方は…生きていますよ。私の、傍で」
そう赤子をあやす様に言う、彼女の言葉に救われた。冷たく流れていた涙が、少しだけ暖かくなるような気がした。

海の音が、耳を掠めていく。
ようやく気が付いた。
この場所で聞く音は、あの時に聞いた音とは、全然違う。
穏やかで、優しい、音なのだと。
全てを許して、流して、跡形もなくしてしまいそうなほどの、穏やかな波が重ねる音。

でもあの時に聞こえたのは、お前を奪っていくだけの荒々しい音だった。




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