迷子の足音



  2


 店を出た二人はこれから遊郭・吉原に遊びに行くというので、本山とはここで別れることにした。
「相変わらず、クソ真面目だな」
 遊郭に興味がなく女を冷やかすくらいならまっすぐ家に戻るという本山に対し、伊庭はそう言ってからかうように笑った。
 ほんの数年前、彼が悪い遊びを覚える前は同じ女に興味のない本の虫だっただろう…と言い返したい気持ちは山々だったが、土方の前であるのでグッと言葉を飲み込んだ。
「じゃあな」
 本山はくるりと背を向けて歩き出す。背後で二人が逆の方向へ向かうのを感じた。
 少しの疎外感と寂しさがあった。それは少年の頃、伊庭がようやく剣を手にしたと聞いた時に感じたものと同じだ。それまで手の届く場所にいたはずの友人が、いつのまにか巣立ち、遠い場所へ羽ばたこうとしている。
 きっと伊庭は『馬鹿らしい』と一蹴するだろうけれど、その時の本山は本気でこのまま彼が離れて行くのではないかと危惧したものだ。
(そんなわけないのに…)
 幼い頃は本山の方が一回り大きな体格だったため弟分のように連れ回したが、今では伊庭が本山を追い越し先へ先へと歩いて行ってしまう。このまま土方と共に本山の知らない場所へーーー。
「…阿呆か、俺は」
 本山は両手で頬をパチンと叩いた。
 確かに伊庭は先を歩いているのかもしれない。けれど自分はあの頃のような子供ではない。
(逃げるなら、近づくだけだ)
 本当は家に戻るつもりだったが、気を取り直し、元来た道を辿ることにした。


 本山が御徒町の『錬武館』に戻ると稽古を終えたばかりの中根淑に鉢合わせた。寒い冬にもかかわらず湯気が立つほどの汗をかいたようで、井戸で汗を流していた。
「小太さん、坊ちゃんはなんと?」
「…その坊ちゃん、と呼ぶのを八郎は嫌がると思いますが…」
 中根は伊庭の実父である秀業に学んだ、三つほど年上の兄弟子だ。伊庭曰く剣術だけではなく知識にも優れ儒学や文化にも造詣のある、尊敬すべき存在だと認めている男だ。一方で中根の方も伊庭の才能を評価しているようで、弟のように可愛がっていた。
 そんな中根に、伊庭がなぜ今更剣を置くなどと言い出したのか尋ねても知らないどころか、逆に問われる始末だった。
 本山は腕を組み、ため息をついた。
「…八郎は何も言いません。尋ねてもはぐらかすばかりで…」
「見た目には優男だが、あれでなかなか頑固なところがあるからなあ」
「笑い事ではないのですよ」
 義父である秀俊から頼まれているという責任もあるが、それ以上に本山には『勿体ない』という気持ちが勝っていた。
「…数年前、剣を取ったばかりだというのに八郎の剣の腕はこの辺りでも評判になる程になりました。あいつは道場を継ぐのは誰でも良いのだから、自分じゃなくてもいいなんて捻くれたことを言っていましたが…ああ見えて周囲の考えをちゃんと理解しているはずです。だから自分が何をすべきか、俺なんかに言われなくてもわかっているはずなのに…」
 簡単に投げ出せるものなら、あの時剣を取らなかったはずだろう。今更捨ててしまえるものなら、もうとっくに捨てていたはずだろう。
 だから、それは本当の理由ではない。本山には確信があったのだ。すると中根が汗を拭き終えた手拭いを肩に掛けた。
 そして本山から視線を外すように遠い場所を見た。冬の薄暗い空。まるで天が低くなってしまったように狭く感じ、中根の視線の先には何もない。けれど彼は何かを見つめていた。
「これは独り言だと思って聞いて欲しいのだが…」
「は…」
「ある腕の立つ男がいた。礼儀正しく先生にも気に入られ、坊ちゃんとも仲が良く、藩に戻って道場を建てる予定だった。…だが、それができなくなった」
「…」
 本山は『何故ですか』と口を開けて咄嗟に手で止めた。中根は『独り言だ』と言ったので相槌を打つわけにはいかない、と真面目な気質が働いた。
 けれど、
「稽古の時に…不運にも坊ちゃんの剣先が男の目を潰した」
「な…!」
 その中根の言葉には流石に驚きを隠せなかった。彼は目を伏せながら続けた。
「避けられなかったのか、男の慢心なのか…それはわからぬ。不運な事故で坊ちゃんを責める者はいなかった。ただ片目の視力を失った身では、道場を開くのは難しいだろうな…」
 稽古中の怪我は良くあることで、捻挫や骨折くらいならどこの道場でも日常茶飯事だ。しかし剣術道場を開こうとしている者が片目を失ったとなれば、道場を開くどころかその先の道が閉ざされてしまうだろう。
 伊庭が責任を感じていないわけがない。
「八郎は…なんて…」
 中根は難しい顔を浮かべて首を横に振った。
「傍目には平常心で過ごしているように見えるが…何も語らぬ。ただ事実として剣を置くと言い始めたのはその数日後だったことは確かだ」
「…」
「独り言ではなくなってしまった」
 中根は苦笑して「後は任せた」と言ってまだ動揺したままの本山の肩を叩いて去って行ってしまった。
 本山はしばらくその場に立ち尽くしたが、気が漫ろなまま道場の方へ歩いた。そして門弟たちがいなくなりガランとした道場の前に立つ。
 数年前、剣を取りメキメキと腕を上げていく伊庭の姿をこうして道場の外から良く眺めていた。書物ばかり見ていた目が、剣先を見つめていた。頁を捲っていた指先にマメがいくつもできていた。背が伸び筋肉がつき…まるで別人になっていく幼馴染を目の前に、彼をそうさせたのは一体なんだったのだろうと今でも本山は思っている。そして未だにその答えを知らないまま。
(…きっと、その答えに俺はいないのだろう)
 彼を奮い立たせることも、彼の背中を押すこともできなかった。彼は自分の運命を知っていたかのように、いつのまにか自分の足で立ち上がり、その道を歩き出したのだ。
(そんな俺に何が言えるのだ)
 誰に責められなくても、自分を責めているに違いない。
 あの時何も言えなかった自分が、今度何が言えるというのだろう。
「…俺は…」
 その言葉の続きが出てこなかった。
 ただ脳裏を浮かぶのは、剣を持った幼い伊庭の横顔と、土方と共に花街へ駆けていく伊庭の姿だけだった。


 陽が落ちる頃になるとさらに冷え込んだ。伊庭は吉原からの帰りだったため家人に咎められるのは面倒だと思い、出来るだけ足音を立てないように道場を横切ろうとしていたのだが、
「もうお帰りかい」
 と声をかけられた。伊庭は身が竦むような心地で振り向く。
「…中根さんか、吃驚した」
「お化けかと思ったか」
「当たり前でしょう。蝋燭も灯さないで…何をしているのですか」
 道場で胡座をかく中根は薄く笑って「月が明るいよ」と言った。そして重たい腰を持ち上げるように立ち上がると、草履を履いて伊庭に近づいた。
「良い女はいたかい?」
「…ええ。ただ今日は連れがいましたからね。こうして朝帰りせず早く帰ってきたというわけです」
「礼子さんは拗ねていたよ」
 中根が『礼子』という名前を出すと伊庭はあからさまに嫌な顔をした。
 礼子とは秀俊の実子だが、伊庭を養子に迎えたことで兄妹になった間柄だ。幼い頃は友達の一人として遊びまわっていたのに、思春期を過ぎると距離ができた。伊庭が唯一公然と『苦手』としている相手だろう。
「…良いんですよ、礼子は。色恋にうつつを抜かすということ自体が気にくわない年頃なのでしょう」
「まあ、そういうことにしておこう」
「それで、何ですか?」
 月の淡い光が二人の間に差し込んだ。伊庭が問い詰めると、中根は苦い顔をした。
「いや…少しお喋りが過ぎたことを謝ろうと思いまして」
「…もしかして小太に何か?」
「察しが良いですな」
 中根はそう言って褒めたが、伊庭はそれを受け取る気にならず、彼が腰をかけていた場所に腰掛けた。
「別に…小太ならそうするだろうと思っただけです。帰り際もなにか物言いたげにしていた。土方さんの手前、何も言いませんでしたが…」
「坊ちゃんのことは良くご存知で」
「坊ちゃんは勘弁してください」
 門弟からすれば大きな道場の子息なのだろうが、『坊ちゃん』という歳はとうに過ぎた。しかし伊庭がため息混じりに拒んでも、中根は微笑んだまま何も答えなかったのでそれ以上の言及は諦めることにした。
「…それで、但野のことを話したのですか」
「独り言のつもりでしたが」
「お節介な小太なら食いつくでしょう」
 伊庭は但野のことを思い出す。
 彼は気さくな男だった。頭一つ大きな体躯で見た目には威圧感があるが、口を開くとエクボが目立ちその瞬間に『良い人間だ』ということがわかる。そんな男だった。
 だからこそ、師匠に気に入られその期待に応えようと本人も努力を怠らない…そんな良い循環のなかで腕を上げ免許を得た。
 但野はこのまま江戸に残るつもりだったそうだが、残してきた妻子に乞われ国に戻り道場を開くことになった。その最後の日だったのだ。
『アアアアアァァァ!』
 伊庭は無心に剣先を見ていた。その先に但野がいるということは意識せず、いつも通りの突きだった筈だ。
 けれど気がつけば、但野が右目を抑えて倒れこみのたうち回っていた。それから稽古をしていた門下生が集まり始め、嵐のように時間が過ぎて行った。
 そのなかで『但野は右目の視力を失った』と聞かされた。そして、彼は道場を去ることになった。
『八郎さんのせいじゃァありません』
 最後の挨拶、但野はいつも通りのエクボを作って笑った。けれどの目の奥に悲しみが過ったことに気がつかなかったわけではない。
(お前のせいだと責めてくれればどれだけ楽だっただろう)
 けれど、但野は決して責めないだろうということがわかっていた。それは彼が優しいだけのせいではない。
(将来の心形刀流の後継者に言えるわけがない…)
 世話になったと頭を下げて去っていく但野の姿は、大きかったはずなのに伊庭には小さく見えた。何か大切なものを失った背中だった。
 この瞬間ほどこの身分を、立場を、生まれを恨んだことはない。
「小太は…何か?」
「…道場をしばらく眺めて、何も言わずに帰りました」
「そうですか…」
 本山は何を思ったのだろう。
 口先ばかりの幼馴染を軽蔑しているのではないか。
「…では、失礼」
 中根は短く頭を下げて、去って行った。その姿が見えなくなると伊庭は体を横たえた。
 真っ暗な夜空に反抗するように月が眩く輝いていた。





 





 
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