迷子の足音



  3


 数日後、本山は壮麗な吉原大門の前で立ち尽くしていた。
 真っ黒な板で葺かれた屋根を有する人の背丈を大きく超えた冠木門。威圧感のある出で立ちだが、この門をくぐればこの世とは隔絶された『異空間』なのだから、その一歩である門が仰々しいのも仕方ないのかもしれない…と本山は思った。
 吉原遊廓。幕府公認の色街だが世間と隔絶するように周囲には忍び返しの板塀と深い堀がある。通称『お歯黒ドブ』と呼ばれて、底が見えないほど真っ暗だ。遊女の逃亡を防ぐために作られた…とも言われるが、真相のほどはわからない。
 吉原への入り口は本山の目の前にある大門のみであり、まだ昼見世の時間だが多くの男たちが往来している。そこに女の姿は皆無だ。女の客は特別な手形が必要であったし、遊女の出入りは大門を入ってすぐの会所で厳しく見張られていた。また町奉行の与力や同心らが出入りの客たちの顔を見て、手配者や不審な人物ではないか目を配っていて、少しの緊張感がある。
 本山が門を見上げていると
「兄さん、入らないのかい?寒ぃだろう?」
 すでに酩酊状態の男が声をかけてきた。皆が勇み足で吉原へ向かう人波の中で、毅然と立ち尽くす本山の存在は浮いていたのだろう。
「…人を待っているだけだ」
「そうかぁ」
 男は「うひひ」と妙な笑みを浮かべてそのまま大門をくぐっていった。
 面倒なことに巻き込まれては困るか、と思い本山は大門の中には入らず、距離を置いた。
 本山が吉原を苦手としているのは生来の生真面目さのせいだろう。貧しい田舎から売られてきた遊女たちは決して望んで吉原という監獄に身を投じたわけではない。借金を背負わされ、花のように美しい時期をここで過ごすことになる。
(正直に言えば、俺は女たちのことを不憫だと思っている)
 誇りを持ってここに身を置く者には失礼な感想かもしれないが、本山は同情せずには居られない。そしてそんな女たちを相手に、気軽に擬似的な色恋を楽しむ…という頭の切り替えがどうしてもできなかった。
(その人生を背負えるわけじゃあるまい…)
 本山は過去に想いを馳せた。今ではすっかり吉原に対して距離があるが、それは悪い失敗があるせいだ。
 数年前、父に連れられ『筆下ろしだ』とからかわれながら女と褥を共にした。それが『朝顔』という花魁だった。細長の面立ちで美人とは一口に言えないが、書や琴、唄に秀でて何よりも床上手だった。
 純粋無垢だった青年期の本山は年上の朝顔に『女』を学んだ。色恋に疎かった反動か、のめり込むように通い周囲を呆れさせたが、父は
『しばらくは好きにさせれば良い』
 と放任したため、逢瀬は更に加速したのだ。
 そんな本山を朝顔は憎からず思ってくれたのか、『貴方様だけがあちきの情夫』だと口説き、その誓いを立てる『起請(きしょう)』を認めた。そしてそんな朝顔の愛情に答えたいと本山が身請けを考え始めた頃、朝顔から贈られたのは『小指』だった。
 それが愛情を示す最たる行為だというのはわかっていた。けれど本山はそれを受け取った時にサッと血の気が引いたのだ。
(俺は何をしているんだ…)
 冷静に足元を見れば、幕臣の家柄である自分が身を固める前に身請けなど許されるはずがない。父も『遊び』だと思っているからこそ今は放任してくれているのだ。
 それに、朝顔へ対する感情は本当に『愛』なのか、わからなくなっていた。
 はじめての女に逆上せ上がって、浮かれているだけではないのかーーー小指を授けてくれる朝顔と迷う自分の心は不釣り合いなのではないか。
 思い悩む本山に対して
『やぁっと気がついたか』
 と、伊庭が笑って指差した。そして深刻な本山をからかうように饒舌に語った。
『お前はウブな色恋ってのを初めて知ってその熱に冒されていただけなんだよ。それか女の不憫な生い立ちに同情しているだけだ。自分なら救えるんだと驕っているのだろう?』
 本山は言い返せなかった。その頃は愛情と同情の違いさえよく考えなかったのだ。
 しかしそれに気がついたからと言って、その苦悩が解消されるわけではない。
『…しかし、今更引き返せるのか…。小指までもらっちまったんだぞ。切ったものは今更くっ付かないだろう』
『へえ、小指。見せてみろよ』
 本山は躊躇いながらも、何重にも包み込んだ懐紙を開き、恐る恐る伊庭に見せた。伊庭はまじまじとそれを眺めると『ハハッ』と笑った。
『小太、悪いがこれは偽物だよ』
『…偽物?』
『少なくとも半月以上前に切ったものだ。ほら、腐りかけているだろう?』
『本当だ…』
 本山は目を丸くして驚き、伊庭が説明してくれた。
 誓いを立てるたびに何本も小指を切り落としてはキリがない。それにもし間夫に逃げられてしまえば切り損になり女郎としての価値も下がるため、女たちは死体から切り取った指を買うことがあるらしい。
『今度、その朝顔の指を見てみろ。きっと小指は健在なはずだ』
『…もう行かないよ』
 本山は伊庭の指摘を素直に受け入れた。するとそれまでの時間が突然空虚で空っぽなものに感じてしまい、結果として吉原への足が遠のいたのだ。
 しかし、反比例するように伊庭は吉原に足繁く通うようになった。冷静で客観的な部分を持ち合わせる伊庭は、本山のように女にうつつを抜かすことはないだろうが、それはそれで複雑な心境だ。
「…おっと…」
 あれやこれやと考え込んでいる間に、昼見世が終わる時間になった。一旦店を閉じ、女たちは化粧や髪を直したりして夜見世に備えるのだ。吉原大門から外に出る男が増え始める中、本山は目を皿にして目的の人物を探した。
「あ…っ」
 声を上げるのと同時に足を踏み出す。そして歩を進め距離を縮めた。
「土方さん!」
 人混みの中にあっても目立つ端正な顔立ちは、その姿を見付けるのにはとても容易だった。声をかけられた土方も「ああ」と眼を開く。
「本山さんか。どうしてここへ?」
「試衛館に伺って、近藤先生にこちらだろうとお聞きしました」
「それで昼見世が終わるまで待っていたのか?」
「…まあ、ここは苦手なので」
 本山が曖昧に濁して答えると、土方は苦笑した。
「残念ながら、今日は伊庭とは一緒じゃないんだ」
「いえ八郎を待っていたわけではありません。…少し土方さんにお話があって」
「へえ…」
 吉原大門の前で呑気に立ち話、というわけにも行かず二人は雪と泥が混じった道を連れ立って歩き出した。
 太陽が傾き、山に沈もうとしていた。鈍色の雲が夕焼けを飲み込むような不穏な空の様相…『苦手』だと感じていた土方と共に歩くのはなんだか不思議な心地だった。
「…それで、話ってのは?」
「あ…。その…八郎のことですが…」
「やっぱりそうか」
 土方は本山の言葉に笑っていた。本山の口から出るのが大抵伊庭の話ばかりなので、予想通りだったのだろう。
「この間も話したが、伊庭には変わった様子はない。とは言っても飄々としたやつだから何が本音で何が冗談なのかわからねえことはあるが…」
「些細なことでも良いんです。土方さんは何か…感じませんか?」
「…些細なことねぇ…」
「お願いします」
 本山は必死に食い下がる。その様子を見て土方は少し怪訝な顔で見返した。
「何か事情でも?」
「…詳しくは言えません」
 門弟に怪我をさせた…そのことを伊庭が土方に話していない以上、本山がベラベラと話すわけにはいかない。それは土方からすれば随分自分勝手な言い分に聞こえるだろうが、彼は少し考え込むようにして口を開いた。
「…確信はねぇが…投げやりな感じはある」
「投げやり…」
「ああいう奴だから悟らせはしない、些細なことだ。酒が入ると『どうせ幕臣だ』とか『不自由な身』だとか…笑いながら自分を卑下するように言う。それくらいのことだ」
「…」
 本山はそれが伊庭の根底にある劣等感だと知っていた。頭や剣の腕に秀でているくせにどこか自分を肯定できていないのは、昔からのことだ。それを飄々と笑いながら誤魔化すのが彼の常なのだ。
 けれどそれを試衛館で口にしているとは思わなかった。
「…失礼なことですよね。すみません」
 本山は代わりに謝った。
 試衛館には浪人身分の食客たちが集っていると聞く。彼らからすれば伊庭の置かれた状況や待遇はなんの不満のない恵まれたものだと思うだろう。
 しかし土方は
「そんなことを気にする奴らじゃない。だいたい酒が入って誰も真剣に聞いちゃいないんだ。それにどんな立場にいても悩むことくらいあるだろう」
「…そうですね…」
 本山は不意になぜ伊庭が土方のいる試衛館に足を踏み入れるのかわかった気がした。
 彼らは温かく、器が大きい。瑣末なことに心を囚われないのだろう。
 おそらく試衛館では誰も伊庭のことを『幕臣』だとか『後継者』だとかそんな目では見ていないのだ。なんの期待も柵(しがらみ)もない一人の人間として存在できる場所…それが彼にとって試衛館であり土方という存在なのだ。だからこそ、些細なことであったとしても本音を漏らすことができた。本山にとってそれは安堵できる事実であったし、けれど一方で虚しい現実にも感じられた。
 自分の前では何一つ感情を漏らさなかった伊庭が、いったいどんな顔をしているのだろう。
 土方はふっと苦笑した。
「…まあ、絶対に言わないだろうが、寂しいのかもな。もうすぐ試衛館はもぬけの殻になる」
「もぬけの…殻?」
 言葉の意味がわからず、本山は首を傾げた。すると土方は少し驚いたように立ち止まった。
「聞いてないのか?俺たちは数日後に出立する浪士組に加わることになっている」
「浪士組…?!」
 本山は声を上げて驚いた。
 将軍家茂公が京へ上洛するにあたり、その警護として身分を問わずに志あるものを募って結成されるのが浪士組だ。幕臣の間では素性の知れない浪人に警護を任せるなんて、と怪訝な顔をするものが多い。もちろんその浪士組の噂は本山の耳には届いていたが、試衛館の面子が参加することは知らなかった。
「そ、そうだったのですか…」
「ちっ。あいつ、本当に何も話してねぇんだな」
 土方は乱暴に頭を掻くようにしてため息をつく。
 けれどその事実を知ったことで、本山の中に伊庭の感情が流れ込んでくるようだった。
 但野という門弟を怪我で追い込んでしまったこと。
 心の拠り所であった試衛館という場所がなくなってしまうこと。
 それが剣に対する無気力の原因であるに違いない。伊庭にとって剣になんの意味も見出せなくなったのではないだろうか。
(俺には…何ができるのだろう)
 あとで知ることばかりの自分が、彼のために何ができるのか。何が言えるのか。
(踏み込めない…)
 本山は振り返った。
 遠くに見える吉原大門が、先ほどよりも大きく見えた。



 





 
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