迷子の足音



  4


 但野が道場を去った日。
 伊庭がふらりと試衛館にやってくると、食客たちはいつにも増して浮き足立った様子でこう言った。
『道場をあげて浪士組に参加することが決まった』
 浪士組のことは伊庭の耳にも入っていた。上洛する将軍家茂公の警護役として浪人たちを派遣する…江戸には浪人が大勢いたことで治安が乱れていたので、『毒を以て毒を制する』という思惑があったのだろう。
 しかしそんな事情など食客たちには関係ない。日頃から鬱屈したやり場のない情熱を持て余してきた彼らは、ついに自分たちにも日の目を見る日がやってきたのだと喜んでいた。
 それについ先日、試衛館の道場主である近藤が、講武所教授方に推挙されながらも身分を理由に拒まれたという苦い経験があった。その分、彼らのその興奮は倍増されていた。
 伊庭は
『良かったですね』
 と微笑んだ。剣の才能を秘めた彼らがいつまでも『貧乏道場』と嗤われて窮屈な思いをしていることを不憫に思っていた。たとえ幕府にとってのお払い箱としての浪士組だとしても、堂々と誇りを持って働けるというのは願っても無い話だろう。
 伊庭は試衛館の食客たちに囲まれながら、ちらりと土方の顔を見た。幼馴染であり盟友である近藤が目を潤ませるほどに喜ぶその隣で、満足気に微笑んでいた。彼がそんな表情をしているのは初めて見た気がした。
(良かったと…思わなければならない)
 彼らの喜びに水を差さないように、伊庭は己の感情を閉じ込めようとした。けれどそうすればそうするほど息が詰まりそうな苦しさを感じた。
 本当は但野の一件を話して楽になりたかった。立場や身分など関係のない彼らに慰められたかった…そんな甘えがあったのだ。
 けれど伊庭はどうにか堪えて、彼らが宴会をするというので夜まで付き合い、浪士組の経緯やこれからの試衛館について、そして彼らの輝きに満ちた将来への展望を聞いた。浪士組の活動はたった半年のことだというのに、彼らはまるで自分たちの人生が大きく変わるのだという妙な予感を秘めているのか、目を輝かせて熱く語った。伊庭はその話に頷きながら
(まるで遠くへ行くみたいだな…)
 と孤独感を覚えた。勝手な感傷に違いないのに、彼らの笑い声が頭上を通り抜けて行くようだった。
 虚しさが募るなか、伊庭は家に戻ることにした。
『悪かったな』
 見送りにやってきた土方がそう言った。
『…謝ることなんてことありませんよ。とても楽しい宴会でした』
『嘘つけ。ずっと何か物言いたげにしていたくせに』
『…』
 いつもならそんなことありませんよ、と返していただろう。余裕を見せて決して自分の感情を悟られないように距離を置くために笑っただろう。
 だがそれができないほど、伊庭の心は疲れていた。そのことに土方は気がついていたのだ。土方は『そこまで送る』と言い出してしばらく隣を歩いた。
 二人の手元で提灯がゆらゆらと揺れていた。頼りない仄かな明かりの揺らめきが、自分の心のように見えた。その明かりに誘われるように口を開いたが、
(…だめだ。いま、この人の前で弱みを見せたくはない)
 伊庭は思い直し、ゆっくりと息を吐いた。
『…本当に良かったと思っていますよ。講武所での一件以来、心配していましたから。近藤先生のあんなに嬉しそうな顔は久し振りに拝見しました』
『ああ…かっちゃんは素直に喜んでるようだな』
『土方さんは違うんですか?』
『どうかな』
 そう曖昧に答えた言葉が、彼の照れ隠しだということを伊庭は承知している。きっとほかの試衛館の食客たちも同じだろう。
 彼らの温かな家族のような関係が、伊庭にとっては羨ましかった。誰かのために喜び、怒り、悲しむ…同じ熱を共有する。だから言葉はいらないし、その顔を見れば何を考えているのかわかる。血が繋がっていないのに、魂が共鳴するような空気が試衛館にはあった。
(そのなかにいたかった…)
 彼らの飛躍は喜ばしいけれど、どこか遠くへ行ってしまうような寂しさがある。そして但野の件も相俟って、今はただ虚しいのだ。
『他に言いたいことがあるんじゃないのか?』
 土方はそう言って話を促した。けれど伊庭は首を横に振った。
『いいえ…ありません。あったとしてもまた今度にします』
 答えないことが、答えなのだと、伊庭はそういう笑みで返した。きっと土方ならそれ以上聞いてこないだろうということがわかっていたからだ。
 すると土方は少し疑うように伊庭を見たが『そうか』と言ってそれ以上は何も言わなかった。
『ここまでで良いですよ。女子じゃあるまいし、一人で帰れますから』
 もうすっかり試衛館が見えなくなっている。まだ宴会は続いているのに、長く土方を引き止めるわけにはいかないだろう。
 すると土方は足を止めた。そして
『お前は行かないのか?』
 と尋ねた。どこへ…それはもちろん浪士組だろう。身分や出自を問わない浪士組は誰でも参加できる。
 それを問われて伊庭は驚いた。土方が誘ってきたことを驚いたわけではない。その考えが自分になかったことに驚いたのだ。
 そしてその答えは決まっていた。
『行けませんよ』
 何の葛藤もなくその言葉が出た。
 寂しさや虚しさとは別の場所に、自分の立場を自覚すべきだという責任感がある。自分の意思や我儘のために何もかもを捨てることはできない。
 そんな伊庭の返答を土方は予感していたのだろう。それ以上は追及しなかった。
『お前は大人だな』
『まあ、土方さんよりは』
『うるせえな…じゃあな』
『ええ、また』
 伊庭は踵を返して試衛館に戻って行く土方を見送った。彼の後ろ姿が闇に溶けて手元の提灯の明かりだけが浮かんでいた。


 朝から大粒の雪が降っていた。まるで石ころのような雪がまっすぐと落ち、地面は薄く膜が張ったように凍りつつある。
 浪士組の出立まで数日。
 伊庭はこっそり傘と草履を持って裏口へやってきた。家に居づらいのでここのところは連日出歩いている。雪が降った寒い日だとしても、小言ばかり口にする礼子がいる家にいるよりはマシだった。
(今日も鎌吉のところへ行こう)
 ここのところ連日、足を運んでいるのは『鳥八十』だ。伊庭の顔を見れば鎌吉は喜ぶし、料理は旨い居心地の良い場所だ。
 物音を立てないように裏口の扉をあけて外に出る。すると「あ」とそこで仁王立ちで待っていた本山と目があった。
「やっぱり来たな」
 本山は伊庭がやってきたことを予感的中だと言わんばかりに満足気にしている。しかし頭上や肩口に雪を被っている姿は伊庭には間抜けにしかみえなかった。
「…いつから待っているんだ?」
「日が昇ってからだ」
「馬鹿だなあ」
 伊庭は仕方なく持ち出した傘を広げた。頭一つ大きい本山を覆うようにして
「とりあえずここから離れよう」
 と誘って歩き出すことにした。家人に見つかるのは面倒だ。
 早朝の町は人影はまばらだ。シャリシャリと凍り始めた雪の音が二人分だけ響く。それがやけにうるさく聞こえるのは、一本の傘を分け合って歩いているせいだろう。
「…」
「…」
 不思議と二人とも何も話さなかった。
 伊庭は本山の言葉を待つつもりだったのだが、当の本人は口を開こうとしない。雪が積もるほど待っていたくせにその唇は固く閉ざされている。
 そうしてしばらく歩き続け、その沈黙に疲れた頃、本山が足を止めた。メインの道から外れた人気の無い裏路地だ。
「ここに入ろう」
「…は?」
 本山の視線の先を見て、伊庭は思わず声を漏らす。そこがひっそりと佇む出合茶屋だったからだ。
「お前…ここがどこだかわかっているのか?」
「わかっている。たしかに不本意だが、誰にも邪魔されずお前と二人で話しがしたいのだから仕方ないだろう」
「不本意なのは俺の方だ。こんなところ誰かに見られてみろ」
「だからこうして朝早くから待っていたんだろう。いいから入るぞ」
「ちょ…」
 強情な本山が伊庭を無視して暖簾をくぐる。男同士で茶屋に入ることやその相手が幼馴染である本山だということは伊庭を躊躇わせるが、彼を置いて帰るほど冷酷にはなれない。伊庭は周囲を見渡し人影ないことを確認すると、顔を隠しながら茶屋に入った。
「二階だって」
 本山は店の女将から案内を受けたようで、まるで平気な様子で階段を上って行く。
(まさか来慣れているのか?)
 伊庭は怪訝に思いながら本山の後をついて行き、角の部屋に入った。
 四畳ほどの狭い、簡素な部屋だった。湯のみが二つに枕が二つ。けれど布団が一組だというところがなんだか生々しい。
 同じことを考えたのか、本山が布団を折りたたんで部屋の隅に寄せた。そして膝を折り二人は向かい合って座る。
「…それで、話って?」
「剣をやめるつもりか?」
 なんの前置きもない、ストレートな質問だった。飾らない言葉は彼らしいと思うが、伊庭はそれに素直に応える気持ちはなかった。伊庭が何も答えないでいると、本山は続けた。
「但野という男のことを中根さんから聞いた。不運な事故だが…お前がそれを気に病んで剣を止めるのは違うと、俺は思う」
「但野はそんなことを願っちゃいないって?随分ありきたりなことを言うんだな」
 そんな同情の言葉は聞き飽きた。伊庭が吐き捨てるが、本山はそれで怯むような男ではない。
「ありきたりだろうが、なんだろうが、それが俺の気持ちなのだから仕方ないだろう」
「…もうちょっとマシな物言いはないのか」
「お前みたいに頭が良くないのだから仕方ない」
 長年連れ添って来た幼馴染に皮肉を言っても通じない。球を打っても跳ね返って来るようだ。伊庭はため息をついた。
「だいたい、但野のことだけが理由というわけでは…」
「知ってる。試衛館のことだろう?」
「…」
 本山が知っているのは、素直に伊庭にとって意外なことだった。意図的に本山に試衛館のことを話すのは避けていたからだ。
 本山は大きなため息をついた。そして頭を掻き、眉間に皺を寄せる。
「…正直、それ以上はわからん。他にも何かあったのかもしれないが、お前が何を考えているのか、俺が…何を言えばいいのか、ずっと考えていたが考えれば考えるほどわからない。俺は自分が思った以上に間抜けだ」
「自分で言うか…」
「だから、お前に聞くことにした。話すことはできなくても、聞くことはできる」
 実直な眼差しだった。本山という人間の本質は昔から何一つ変わらない。真面目で融通が利かない。他人に対しても、自分に対しても。
 そんな彼を茶化して誤魔化すのは簡単だ。けれどあまりにも真っ直ぐに尋ねてくるものだから、逃げるのが馬鹿らしくなってしまった。
「…大層な理由なんてない。つまらなくなっただけだ」
「つまらなくなった?」
「全部、つまらなくなったんだ。剣も身分も、立場も環境も…自分も、つまらない」
 剣を持つ先に、何がある。
 『小天狗』なんてちやほやされたところで、一人の人生を歪めてしまっただけだ。いくら鍛えたところで、役立てる場所へと易々と羽ばたくこともできいない。
 その決断すらできない自分が、ひどくつまらない。
「…」
「呆れているんだろう?人よりも恵まれた場所にいるくせに、何を甘えたことを言うのかって」
「そんなこと思っていない」
「じゃあ、何だよ」
 今度は伊庭が問い詰める。呆れているんだろう、嗤っているんだろう、と詰め寄った。
 すると本山は言葉を選ぶように、慎重に口を開いた。
「剣が嫌いになったのか?」
「…」
 その質問は伊庭の心を抉った。
 辞めたいと思っても、嫌いになったわけではない…その伊庭の本心を見抜いたような問いかけだったのだ。
 伊庭が俯くと、本山は続けた。
「俺は、お前が日に日に腕を上げて行くのを見ていた。俺の方が先に剣を始めたのに、悔しいことにお前がどんどん追い抜いて行って…でもいつも楽しそうだった」
「…」
「やりたくないのなら、やらなくてもいい。ただ全部何もかも捨ててしまうことはない…と俺は思う」
 拒み続けた同情。
 けれど幼馴染の言葉はまるで沁みるように、滲むように響く。
 そして小さな窓の外からしとしとという騒がしい音が聞こえてきた。大粒の雪が冷たい雨に変わったのだろう。
(溶けてしまえばどちらも水なのに…)
 伊庭はそんなことを思った。


 


 
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