迷子の足音



  5


 それから二人は他愛ない雑談を交わした。とりとめのない内容だが互いに決して核心には触れなかった。伊庭は何も言うつもりもなかったし、本山も言いたいことは言ったのだろう、聞くことはなかった。長年の付き合いでこれ以上踏み込んではならないとわかっていたからだ。
 そうしていると煩かった雨音は次第に消えた。するとここがどういう場所だったのか必然的に思い出すことになる。薄い壁越しに男女の睦み合う激しい声が聞こえてきたのだ。
「お盛んなことだ」
 伊庭は笑ったが、本山はみるみるうちに顔を真っ赤に染めた。
「で、出よう、八郎」
「何いやらしい想像をしているんだ、ウブだなあ」
「うるさい」
 本山はせっせと羽織に袖を通し、腰をに刀を帯びる。伊庭は仕方ないなと思いながら同じように腰を上げた。
「小太、あれから『朝顔』には会ってないのか?」
「…会ってない」
 本山は苦い顔をした。彼が吉原に寄り付かなくなった原因なのだから仕方ないだろう。
 伊庭は笑った。
「請け出されたようだ」
「ほ、本当か?」
「『吉原細見』を隅々まで読破している俺が言うのだから、本当に決まっている」
 本当は『吉原にはいない』というだけで『請け出された』という確証はなかった。けれど花街に疎い本山にはそれで十分だったようで
「そうか、良かった」
 と少し嬉しそうに笑っていた。
 生来真面目な彼は一時、朝顔の口説きに絆されて随分のめり込んでしまった。同じ言葉を別の男に吐いているとも想像できない、ウブな青年だったのだ。彼女は本山にとって青春の苦い思い出かもしれないが、それなりの情は未だにあるのだろう。
 すると、隣の部屋から聞こえる男女の声がさらに激しさを増した。
「出るぞ、八郎」
 いたたまれなくなったのか耳まで真っ赤に染めた本山がさっさと部屋を出て行ってしまう。
(ウブなのは今でも変わらないか…)
 伊庭は内心笑いながら「はいはい」と返事をして、羽織を着て後に続いた。
 階段を降り、女将に二百文ほど渡して店を出た。幸いなことに周囲に人の気配はなかったので誰にも見られないうちにとさっさと店から離れた。
 雨上がりの雲間から陽光が差し込む。雪が舞い、雨が降り、陽が覗く。まだ昼前だと言うのに目まぐるしい変化だ。
(なんだか今日は忙しないな…)
「八郎、これからどうするんだ」
「…本当は鎌吉のところへ行くつもりだったがなんだか疲れた。家に戻る」
「だったら家まで送る」
「…女子じゃあるまいし、気色悪いことを言うな」
 まるで出合茶屋で当てられたのかという申し出だ。伊庭が怪訝な顔をすると本山は至極真面目な顔で返した。
「気色悪いのはお前の方だ。俺はお前がフラフラ何処かに遊びに行かずちゃんと家に帰るのか監視するだけなんだぞ。妙な想像をするな」
「はいはい…」
 伊庭は仕方なく受け入れて、二人並んで家への帰路につく。
 雪と雨が混じった地面は所々に水たまりができていた。子供たちがその大きな水たまりに集まって泥遊びをしている。無邪気な笑みを浮かべ手先が汚れてしまうのも厭わずに。
(あんな風に目の前のものだけ見て居られるならどれだけ楽だろう…)
 子供のように明日のことを知らずに生きられる時間は短い。成長すればするほど自分の特殊な立場を理解し、自分を戒めるように行動を抑制し、その視野が自然と狭くなってしまう。自分は特にそれが早かったように思う。大人になるとはそういうことなのだろうと諦めていた。
(だから…彼らが羨ましい)
 試衛館の食客たちは、都へと向かう。治安の乱れた危険な場所だとしても、そこにある『何か』を期待して足取り軽く駆け抜けて行くのだ。伊庭が躊躇する一歩を、簡単に踏み出してしまう。
「どうした、八郎」
「…いや…なんでもない」
 伊庭は泥遊びをする子供たちから目を逸らした。


 家の門前には中根の姿があった。彼は伊庭と本山の姿を見つけると駆け寄って来た。
「坊ちゃん、やっと帰ってきましたね」
 相変わらずの『坊ちゃん』という呼び方には意を唱えたかったが、中根の顔には焦りがあった。
「何かあったのですか?」
「すぐに客間にお越しください」
「客間に?」
 伊庭は怪訝な顔をした。
「義父上のお呼び出しですか?」
「いや…坊ちゃんを訪ねて客人が来ているのです」
「客人?」
「山岡先生です」
 その名前に伊庭よりも先に「鉄舟先生?!」と本山の方が驚いた。
 山岡鉄舟ーーー山岡鉄太郎。幼い頃に神陰流を修め北辰一刀流の創始者である千葉周作に剣を学び、槍術をも身につけたまさに『武術の達人』として名を広めている人物だ。またそれだけではなく禅や書にも秀でた人格者としても有名で、江戸で彼のことを知らない人間はいないだろう。今では講武所の世話役を勤めている。
「なぜ俺に…?」
「立会いを申し込まれている」
「義父上ではなく?」
「ああ、『伊庭の小天狗』に」
 中根の返答に伊庭は思わず盛大なため息をついた。
 本来であればこちらから手合わせを願いたいほどの御仁だが、今の伊庭にはその気力はない。それに剣を置いて数日が経っている状況では山岡の相手にならないだろう。
「…悪いけれど、留守だと言って断ってくださいよ」
「断れるなら迎えには来ませんよ。私もやんわりとお引き取り願おうかと思いましたが、坊ちゃんが来るのを待つと頑なにおっしゃっています」
「じゃあ渋り腹で立会いなどできそうもないとお伝えください」
「しかし…」
「八郎」
 逃げ腰の伊庭を諌めたのは、中根ではなく本山だった。
「鉄舟先生は実直なお人柄で有名だ。それにお前が最近稽古を避けているのは門弟も知っていることでいずれ耳に入る。だから仮病なんかより、せめてお前の口からお断りを申し上げるべきだろう」
「…わかったよ」
 伊庭としては気がすすまないが、本山の正論には返す言葉がない。仕方なく中根とともに道場へ向かうことにした。すると本山が「俺も行く」と同行した。
「…なんでお前も来るんだ?」
「お前のことは秀俊先生から頼まれているからな。うっかり逃げ出されたら困る」
「…」
 本山の言い分は、いつもなら『俺はそんな子供ではない』と聞き流すことができたが、今はそれができなかった。感情に任せて『うるさい』と叫んでしまいそうだった。
(それこそ八つ当たりだな…)
 伊庭は気持ちを落ち着かせながら、屋敷に足を踏み入れ母屋の方へ向かった。
「今は客間で礼子さんが相手をしているはずだ」
「わかりました」
 中根に導かれるままに、客間へ向かう。彼は気を利かせて「私は稽古へ行きます」と席を外してくれたが、本山は客間までついてきた。
「…もう逃げ出さないから、お前は待ってろよ」
 障子の前で伊庭は本山に耳打ちする。けれど本山はあからさまな不満顔を作って
「俺に聞かれたら困る話なのか?」
 と拗ねた。
 伊庭としては山岡にお引き取り願うためには多少の嘘をつかなければならないと思っていたので、色々と事情を知っている本山がいてはやりづらいと思ったのだ。けれどそんな心情を本山が察するわけがない。
「聞かられたら困る話だ」
 そうきっぱりと言い切ると、本山は「わかったよ」と渋々引き下がった。彼の姿が見えなくなってようやく伊庭は襖の引き手に手を掛けた。
「失礼します…」
 ゆっくりと開くと、山岡と礼子がリラックスした様子で談笑を交わしていた。伊庭は山岡を一目見て深々と頭を下げた。
「ご無沙汰をしております」
「ああ…急に訪ねてすまない。礼子さんに付き合ってもらっていたよ」
「ではわたくしはこれで…」
 礼子が恭しく頭を下げて伊庭と入れ替わるように部屋を出て行った。
 講武所に世話役として勤める山岡と伊庭は初対面というわけではない。心形刀流の宗主は講武所の教授方として出入りしていたし、養父である秀俊とともに何度か会話をしたことがある。けれどもこうして一対一で向かい合うのは初めてのことだった。
 山岡は武士然とした無骨な顔立ちをしている。数々の流派を収めたというだけあって立派な体格は誰が見ても明らかであるし、眼光の鋭さは彼の腕前の自信を表しているかのようだ。けれども礼子に向かって朗らかに接する姿には彼の人の良さが滲み出ているようだった。
「君にあのような年頃の妹がいるとは知らなかった」
「ええ、まあ…血の繋がりはありませんが」
「…ああ、そうか。秀俊先生の娘か」
 伊庭家の複雑な状況を知っているのか、山岡は納得した顔をして「そうかそうか」と繰り返した。礼子がどのような話をしたのかはわからないが、これ以上彼女のことを突っ込まれては面倒だと思い、伊庭は話を変えた。
「それで…今日はどのようなご用件でいらっしゃったのでしょうか」
「ああ…いや、なに大した話ではない。是非とも『伊庭の小天狗』殿に立ち合ってもらいたくてな」
「…」
 伊庭は何かの間違いであってほしいと思っていたが、残念ながら中根の言うことは本当だったらしい。山岡は大した話ではないと言ったが、かの山岡鉄舟から試合を申し込まれた側からすれば大事件だ。
(数日前の俺なら光栄だと思っただろう…)
 けれど伊庭の心は踊らないどころか、冷静なままだった。
「しかし…なぜ、今なのでしょうか?山岡先生は浪士組の取締役として、数日後には上洛されるのでは…?」
 何の因果か、試衛館が道場をあげて参加する浪士組の取締役を務めるのが山岡なのだ。つまりは数日後には大勢を引き連れて江戸を立つことになっている。そんな多忙な中、わざわざ試合を申し込む理由がわからなかったのだ。
 すると山岡は微笑んだ。
「なに、浪士組の取締役と言っても友人の清河の手伝いというか、監視というか…つまり枢要な役割ではない。ただ、当分戻られなくなるかもしれぬと思い心残りを果たしておくべきかと思っただけだ」
「心残り…ですか」
「ああ、君と立ち合ってみたいとずっと思っていたんだ」
 山岡のまっすぐな眼差しが伊庭を捉える。威圧感のある大きな体躯なのに剣術のことになると純粋な少年のように目を輝かせている。
(どんな嘘偽りも…通じまい)
 伊庭はそう悟った。本山の言う通り、下手な嘘は看破されてしまうだろう。
 伊庭は観念して頭を下げた。
「…光栄なお申し出ですが…辞退をさせてください」
「何故だ?」
「山岡先生。…我が心形刀流の流儀をご存知ですか?」
 伊庭の問いかけに、山岡は当然だと言わんばかりに頷いた。
「その名の通りだと理解している」
「そうです。なによりも心を第一に、技術の練磨はそれ以下。心が正しければ形は正しくなり、逆に心が歪めば形が歪み、剣が歪む」
 死別した実父・秀業は厳格な人物であったと聞く。心形刀流の理念を体現したような性格で軟弱を嫌い、不真面目な門弟はすぐに破門にした。その厳しい姿勢が評価され、門下生を増やし『江戸四大道場』の一つと呼ばれるまで勢いを増している。
 伊庭は秀業の実子であり、また十代目を継ぐことになるであろうと言われている立場だ。だからこそ、軽々しく立ち合うわけにはいかなかった。
「…俺は今、心が歪んでいます」
「ほう…?」
「ですから、名高い山岡先生にお相手など以ての外、道場に立つ資格すらないのです。ご勘弁ください」
 伊庭は深々と頭を下げた。
 すると不意に道場を去った但野のことが頭をよぎった。誰よりも熱心に剣術に励んでいた彼は伊庭のこんな姿を望んでいなかっただろう。けれどわかっていてもこの足が、手が、心が動き出すことを拒む。
(情けないが…本当は怖いんだ)
 但野が伊庭の竹刀を避けきれず、目を突かれ昏倒した瞬間を覚えている。人のものとは思えない叫び声がこだまして、のたうち回る但野を呆然と見ることしかできなかった。
『ほら、やっぱり。剣は傷つくのが定めじゃないか』
 立ち尽くす伊庭にそう投げかけたのは幼い頃の自分だった。剣を始める前の幼い頃、剣は人を傷つける道具だとそう思っていた。相手だけではなく、自分すら傷つける。
 だからもう何も傷つけないように、剣を置いた。
 ただそれだけのことだ―――。




 


 
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