迷子の足音



  6


 山岡は冷えた茶に手を伸ばし、ゆっくりとそれを口に含んだ。
「心が歪んでいる…か。まるで先代のようなことを言う」
 ポツリと呟いて、彼はフッと息を吐くように笑った。
「見目は心形刀流の後継には見えないほど細身で端整だが、君は先代によく似ている。血は争えないな」
「…父ですか…」
「講武所で『心が歪んでいる』と幾人もの子弟たちが叱られていたのを思い出したよ」
 山岡は感慨深そうに語るが、伊庭にはその自覚はなかった。
 父は厳しい人だったと記憶している。自分にも他人にも厳しく、まさに『心形刀流』の宗主に相応しい質実剛健な人物だっただろう。それに対して違う生き方を模索していた伊庭は正反対の道へと歩み、未だに流派にそぐわない流行を好む伊達者だと言われている。そのため父子を『似ている』と語る者はいなかった。
 しかし山岡は確信を持って話を続けた。
「先代から幼い頃の君のことを聞いていた。書物ばかり好み内気で稽古など一切興味のない様子だが…いつか剣を取りその道を歩むだろうとおっしゃっていた」
「父が…ですか…?」
「ああ。君の心を見抜き、信じていたのだと思う」
「…」
 伊庭は驚いた。
 父は跡取りの自覚がない息子に何も言わなかった。もともと世襲ではなく実力で後継者が選ばれてきた心形刀流の歴史があり、跡取りは自分でなくても良いという諦めの気持ちが父にはあるのだろうと、伊庭は勝手に思っていた。そしてコロリで亡くなるまで父は何も言わなかったのだ。
「そんな君がたった数年で『伊庭の小天狗』とまで言われるまで名を轟かせた。先代が言っていた通りの道を歩むことになったのは、おそらく君の『心』に確かな剣への情熱があったからだろう」
「情熱…」
「やはり先代はそれを見抜いていた」
 山岡が伊庭を見た。その眼差しは厳しかった父のそれに似ていた。姿なきものを見つめる探求者の眼差し。
「そんな君と同じ剣道を歩む者として手合わせをしたいと思うのは当然のことだろう?」
「…しかし、俺は…」
 心が歪んでいる。
 父の口癖がいつの間にか染み込んでいたのだろうか。
 最初は言い訳のように口をついて出た言葉だったが、案外的を射ていた。但野の件、そして浪士組の件が自分の心を惑わせ狂わせている。その迷いを隠す余裕すらないほど狼狽えているのだ。
 それを山岡に悟られないわけがない。
「…たとえ何があろうとも、その心に灯った情熱の炎は簡単に消えやしない。時に燻り、その姿が見えなくなっても、風が吹けば再び大きく燃え上がる」
 山岡は茶を一気に飲み干して茶托へ置いた。
「何故、心が歪んでいると語るのかは聞くまい。だが、君がそう思うのは誰よりも情熱を持って剣と向かい合っている証拠だと思う」
「…」
「勝手な申し出で申し訳ないが、出立が近いのでな。…また明日来る。その時には是非とも考え直して、手合わせを頼む」
「先生…しかし、俺は…」
 山岡は伊庭の言葉を無視して腰を上げ部屋を出て行く。その時ちょうど茶を持ってきた礼子と鉢合わせたのでそのまま彼女が見送る形になった。
 伊庭はしばらく呆然としていた。
 人格者として知られる山岡にしては強引な約束だった。もしかしたら伊庭の現状を誰かから耳にして発破をかけたのかもしれない。義父か礼子か中根か…それはわからないが、考えても仕方ないことだ。
 伊庭は背中から畳に倒れこんで天井を仰いだ。
 まるで大木のような男だった。何を話したとしても、きっと彼の前では何もかもが言い訳のように響くだろう。彼の全身から滲み出る武道の達人としてのオーラが、今の伊庭には眩い。
(心か…)
 伊庭はゆっくりと目を閉じた。
 幼いながらも大人びた少年時代の自分が指をさして笑っている。
『剣なんて誰かが傷つくのが定めなんだ』
 そう思い込み、ひたすらに稽古を避けていた。そんな自分を見つめる実父はそれでも剣を取るはずだと信じていた。
 父と山岡が見えると言う心に灯る情熱。その灯火がどこにあるのかーーー本当は分かっている気がした。


 一方。
 伊庭に席を外せと言われ、本山は玄関でぼんやりと時間を過ごしていた。
(俺にできることはない…)
 思い悩む伊庭に幼馴染として気の利いた言葉は思いつかなかった。ただ彼の話を聞いて、自分の思いを伝えることしかできず、それさえも伊庭にとって迷惑なだけなのかもしれない。
 しかし
『剣が嫌いになったのか?』
 その問いかけに、伊庭は窮した。きっと心の何処かにまだ剣への諦めない気持ちがあるはずだ。
 そうしていると大きなものと小さなもの…二人分の足音が聞こえてきた。振り向くとこちらにやって来る山岡と礼子の姿があった。
「まあ、本山様…このようなところに」
「あ、ああ。勝手にすまない。…山岡先生、もうお帰りですか?」
「うむ。残念ながら振られてしまった」
「…そうですか…」
 本山は内心落胆した。山岡ほどの剣客を目の前にすれば伊庭の闘志に火がつくのではないかと期待していたのだ。
 山岡は礼子が揃えた下駄を履く。伊庭から立合いを断られたと語るが、何故か気分を害した様子はない。
「ではまた明日」
「は、明日…?」
 山岡は上機嫌な様子で去って行った。
(八郎はなんて言ったのだろう…)
 本山は突き動かされるように客間へと駆け込んだ。するとそこには仰向けで目を瞑ったまま微動だにしない伊庭の姿があった。
「八郎?!」
 何かあったのではないかと本山は驚いて膝を折り両肩を掴んで彼を揺すぶった。
「おい、どうした、八郎!」
「…うるさい、騒ぐな」
 ようやく瞼を開けた伊庭は、どこか気怠げで億劫そうに見えた。
「どうした。調子が悪いのか?」
「違う。…少し疲れただけだ」
「そ、そうか…」
 本山はひとまず安堵したが、伊庭の表情は冴えない。そしてそのまま体を大の字に広げたまま動かなかった。
 二人の間に少しの沈黙が流れたが、本山は堪えきれず尋ねた。
「その…山岡先生とはどんな話をしたんだ?」
 本山は伊庭の表情を伺いながら問いかける。だが伊庭も聞かれると分かっていたのだろう、表情を変えなかった。
「…試合を申し込まれた。浪士組として出立する前にどうしても手合わせをされたいようだ」
「お前は断ったんだよな?」
「ああ…」
「それにしては上機嫌な様子だったが…」
 本山は首をかしげる。いくら人格者の山岡でも若輩の伊庭からつれなくされれば思うところがあるはずだ。
 本山の疑問に、伊庭は天井を仰いだまま答えた。
「…明日、また来るそうだ」
「明日?」
「ああ。考え直して欲しいと言われた」
「なるほど…」
 山岡が去り際『また明日』と口にした意味をようやく理解する。
「小太」
「ん?」
「俺は父と似ていると思うか?」
「なんだ、藪から棒に…。父上とは先代の秀業先生のことか?」
 伊庭と養父である秀俊の間に血縁関係はないので似ているわけがない。それ故に「当たり前だろう」と伊庭に嗜められてしまった。
 本山は頭を掻いた。
「そうは言っても俺はあまり顔を合わせる機会がなかったからな…幼心に怒らせたら怖い人だとは思っていた。門弟が次々破門された時はゾッとしたな」
「そうだな…俺も、父が怖かった」
 精悍でありながら遠くを射抜くような強い眼差し。その目に見つめられるとまるで責められているように感じていた。もっともそれは自分が剣術から逃げているという負い目があったせいかもしれない。
 すると本山が続けた。
「でも…たしかに似ているかもしれないな」
「え?どこが?」
 伊庭はそれまで脱力していた上半身を起こし、本山の方へ向く。すると彼は言葉を探しながら答えた。
「どこ…と言われると困る。上手くは言えない」
「上手くなくていいから言えよ」
 伊庭は本山の肩口を掴み揺さぶると、彼は「わかったわかった」と言った。
「…お前が、剣術の稽古を始めた頃に…なんとなくそう思ったんだ」
「そんな昔に?」
「宮本武蔵の絵を見て奮起したとか言っていただろう。あの頃、お前はそれまでの内気な性格が嘘みたいに剣に取り憑かれていった。その様子がまるで先代のように見えたんだ」
「…」
 伊庭には自覚はなかった。けれどあの頃、今まで避けていたのが嘘のように剣術が楽しくて次から次へと技を習得した。父もまた大勢の門下生を抱えその指導に力を入れていた。剣へ熱中する姿が父と重なったのかもしれない。
(だが…それでも…)
「似ていようが似ていまいが、お前はお前だろう?」
「!」
 まるで心の声が漏れたかのように、本山の言葉が代弁していた。伊庭がハッと驚くと、本山はゆったりと笑っていた。至極当たり前のことを口にしただけだと言わんばかりだった。
「どうした?」
「いや…お前の言う通りだ。誰に似ていようと似ていまいと…関係ない」
「うん」
「だが…たぶん、俺には父の…心形刀流の血が流れている。理性では剣を置きたい、逃げ出したいと思っても…いずれは戻りたいと思う心がある」
 それを山岡は『情熱』だと言った。この体のどこかにまだそれが残っている。
『剣を取ることで誰かを傷つけ、己が傷つくのが定めだとしても?』
 幼い頃の自分が問いかける。伊庭は答える。
『それでも…心を裏切ることはできない』
 剣を取ることを諦めることはできない。
 たとえ但野のように傷つけてしまっても。
 たとえ試衛館の食客たちのように自由に羽ばたくことができなくても。
(俺はまだ…全部を捨てられない)
 立ち止まることがあったとしても、歩み出すことを止めるのは難しい。
「それでいいんじゃないか?」
「小太…」
「たとえ誰に非難されようと、否定されようとそれがお前の歩む道なら、俺は手助けするし応援するぞ」
 お人好しの幼馴染の励まし。
 少し前なら同情なんていらないと突っぱねていただろう。思い通りにならないことに不貞腐れてやげやりになっただろう。
「小太、ちょっと目を瞑ってくれ」
「何だ?」
「いいから」
 本山は戸惑いながらも目を閉じた。そうして無防備になった男の胸に抱きつく。
「お、おい!何やって…」
「昔はよくこうやって慰めてくれただろ」
「それはお前が俺よりも小さかった頃だろう!」
「うるさいな。ちょっとだけ我慢しろ」
 彼の背中に腕を回す。そして心臓に耳を当てると早鐘のように激しく鳴り続けていた。
(なに緊張してるんだか…)
 内心からかいながら本山の懐かしい熱に浸る。厚くなった胸板は変わっていたが、そこに包まれる安堵感は変わらない。
(俺には戻る場所がある…)
 剣という道。
 伊庭という家。
 そして本山の幼馴染という場所。
 そんな些細で当然で当たり前だと思っていたことが、本当はとても大切で恵まれていることなのだと気がつくことができた。
(取り戻せないものはあるけれど…)
 立ち止まるわけにはいかない。
 伊庭はゆっくりと本山から離れた。すると彼は茹でタコのように赤面していた。
「…何でそんなに顔を真っ赤にしているんだ?生娘じゃあるまいし、朝顔にもしてやっていたのだろう?」
「あ…朝顔朝顔って何度も言うな。青春の汚点を…」
「汚点なのか?」
「汚点だよ!」
「ふうん…俺はそうは思わないけど」
 伊庭は腰を上げ、腕を伸ばして深く息を吸った。心の靄が全て晴れたわけではない。けれどその出口は見えた気がした。
「…じゃあ、早速手助けしてもらおう」
「お、おう、なんでも言ってくれ」
「稽古の相手だ。明日は天下の山岡鉄舟を相手にしなければならない。鈍った腕を一晩でそれなりに使えるようにしなければならない」
「俺に相手をしろって言うのか?!」
 本山は大声をあげた。剣を始めたのは本山の方が先だが、今ではすっかり伊庭に追い抜かれてしまっている。いくら数日稽古をしていないとは言っても稽古にならないだろう。
 すると、どこからともなく中根が顔を出した。
「じゃあ、坊ちゃん、俺が相手をしましょう」
 中根は心なしか嬉しそうな表情を浮かべている。伊庭は照れ隠しのように目を逸らし
「…どこから聞いていたんですか?」
 と訊ねると中根は「何も聞いていませんよ」と穏やかな微笑みで答えたのだった。




 


 
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