迷子の足音



  7


 クタクタになった身体を横たえた時、眩しい朝陽が差し込んでいることに気がついた。
(ああ…朝か…)
 その光を手のひらで遮りながら目を閉じる。
 あれから夜通し稽古を続けた。数日間、鈍っていた身体を元の感覚に戻すには相当の打ち込みが必要で、本山と中根で代わる代わる相手をしてもらった。手足も凍る二月の夜だというのに常に汗だくで稽古をこなしたが、不思議と軽快に身体は動いた。まるで待ちかねていたように、水を得た魚の如く。
「…坊ちゃん、調子はどうですか」
 中根の問いかけに、伊庭は目を開けてゆっくりと頷いた。
「悪くない。元どおりとはいかないかもしれないが…」
「そうですかな。ここ最近で一番活き活きと剣を振っているように見えましたが」
「…」
 伊庭は身体を起こす。道場を見渡すと隅で壁にもたれかかるようにして眠る本山の姿があった。彼はもともと剣よりも学の人間だ、夜通しの稽古など慣れていないし、身体に堪えたことだろう。
「あいつは俺に振り回されてばっかりだな…」
 但野のことも試衛館のことも本山には関係ないのに、ここ数日悩ませてしまった。
 伊庭が苦笑いして呟くと、中根も一緒に笑った。
「それを苦には思っていないのだから良いのでしょう。損得勘定無しで動くことができる…幼馴染とは有り難いものだ」
「どうかな…。いつかつまらないことに命を投げ出すんじゃないかって心配になるよ」
 中根から手ぬぐいを渡され、伊庭は立ち上がった。そして「顔を洗ってくる」と告げて道場を出た。
 眩い朝だった。薄く凍った庭の地面に陽が照りつけてキラキラと輝き、鳥のさえずりが澄んだ空気に響いて心地よく鼓膜を鳴らす。冷たい空気を一気に肺に吸い込んで、吐く。白い息が空中に舞うがすぐに消えた。
 徹夜明けだというのに、頭はすっきと冴えていた。
「…よし」


 腕の中に収まった彼は、思ったほど大きくはなかった。
 昔から小柄だとは思っていたが、剣を取り『伊庭の小天狗』として名を馳せ、女遊びを覚え、じぶんの知らない友人を増やし…あっという間に大人の階段を駆け上がって行った彼は、手の届かない遠い場所で大きくなったと思っていたのに。
 あの頃と変わらないまま、この腕の中にいた。匂いやぬくもりが、あの泣いてばかりいた内気な少年の頃と変わらずに。
(俺が勝手に思い込んでいただけだったのか…?)
 彼が変わってしまった、遠くへ行ってしまったのだと勝手に嘆いていた。挙句に試衛館という自分が踏み込めない場所に嫉妬していた。
 大人になれなかったのは自分の方だ。
 そして
『朝顔にもしてやっていたんだろう?』
 意地悪く問う彼に
(お前と朝顔は違うだろう)
 と言いかけた。それは男と女だけの違いではない。
(俺はもう色恋にかまけて我を忘れるようなことはしない)
 手痛い失敗を経て、理解した。同情なのか、恋情なのか…その違いくらい分かっているつもりだ。
(だから…)
 だからーーー。
「本山様」
 凛とした女性の声が響いてハッと目が覚めた。本山の顔を覗き込むように見ていたのは伊庭の義妹である玲子だった。
 本山は反射的に身体を起こした。そして周囲を見渡し、ここが伊庭の部屋だと気がつく。
「…えっと…」
 いつの間に寝入っていたのは記憶は定かではないが、伊庭の稽古に付き合って朝を迎えたのは覚えている。
 熱が入った稽古は本山ではほとんど相手にならず中根が相手をしていたが、それでも伊庭の気迫はいつも以上のものだった。いつまでも見ていられる光景だったが、昨日は朝早くから伊庭を待ち伏せしていたので睡魔が押し寄せて、いつのまにか眠ってしまったのだろう。
 礼子はクスクスと笑っていた。
「とてもよくお眠りになっていらっしゃいました。何度かわたくしが起こしに参ったのですが、寝入っておられて…もうお昼になってしまいました」
「昼っ?!」
 本山は布団から飛び出て障子を開けた。見上げた空の真ん中に登る太陽。冬にしては暖かな日差しが差し込んでいる。
「れ、礼子さん、八郎は…」
「兄上でしたら道場に。山岡先生がいらっしゃってご一緒に…」
「ありがとう!」
 本山は部屋を出て駆け出した。礼子が引き止めるように呼んだけれどそれも耳に入らないほど急いだ。
 全身には疲労と痛みがある。けれど寝過ごして試合を見逃しては何の為に稽古に付き合ったのか、と伊庭に笑われてしまうだろう。
 母屋の先にある道場にはすでに多くの門下生が集まっていた。本山は野次馬のように集る彼らをどうにかかき分けて中に入る。
 そうして前進してようやく視界が開けたが、そこはピリリとした緊張感に包まれていた。上座では伊庭と山岡が向かい合って身支度を整えている。ただそれだけだというのに、山岡には剥き出しの闘志が感じられ、伊庭はそれをあえて受け流している…そんな二人の駆け引きが見えるようだった。
 上座と反対側には大勢の門下生が居並んでいて、伊庭の義父であり心形刀流の当主である秀俊の姿もあった。
「小太さん」
 小声で呼ばれ視線を移すと、その末席に中根の姿があった。手招きされ隣に腰を下ろす。
「そろそろ起こしに行こうかと思っていた所だ」
「すみません…あれから八郎は一睡もしていないのですか?」
「目が冴えてしまったと言っていたが…はは、そうではあるまい」
「え?」
 中根は小さく笑っていた。
「楽しくて仕方ない…だから早く鉄舟先生と戦いたくて仕方ないのさ」
 本山は伊庭を見た。徹夜明けの疲れは見えず、その凛とした目が真っ直ぐに山岡を捉えていた。
 別人のようだった。『つまらなくなった』と嘯いていたことがまるで夢だったのかのように、たった一晩で彼は変わっていた。
 本山がただその姿を呆然と眺めていると、身支度を終えた二人が静かに対峙した。
 場の緊張は高まった。山岡と伊庭のどちらが強いかという単純な興味だけではない。数日稽古を休んでいた伊庭がどの程度できるのかという懐疑的な視線と、後継者として相応しいのか吟味する門下生たちの品定めの雰囲気が漂う。
 そのことに伊庭が気づかないわけがない。けれど山岡に向かい合って立つ姿はそんなもの意に介さない強さを醸し出していた。
「ーーー始め!」
 審判役の門下生の声が響く。しかし二人は正眼に構えたまま動こうとはしなかった。互いに相手の呼吸を読むように見つめあっている。
 本山は息を飲むことさえ憚られるような空気を感じた。高みにいる剣士同士であるが故の緊張感だ。
 そして、痺れを切らした山岡が先に動いた。小手調べのような打ち合いに過ぎなかったが、本山は手に汗握って見守った。
 やがて激しい打ち合いとなり、その構図は攻めの姿勢を見せる山岡と守りに徹しそれを受け流す伊庭というものだった。傍目には伊庭が圧されているように見える。
 しかし伊庭の横顔に焦りはない。冷静に一手一手に正確な対応をしている。
 山岡は伊庭と距離を取った。そして俊敏な動作で駆け出し、突きを繰り出した。『鉄砲突き』と呼ばれる山岡の得意技は有名で、門下生たちからも「あっ」という声が上がった。
 鋭く勢いのある技。山岡の獰猛さが滲み出る突きだったが、それを伊庭はギリギリのところで躱した。
 体勢を立て直した山岡は続けざまに突きを繰り出した。そうした技を駆使しなければ形勢が変わらないと悟ったのだろうが、今度も伊庭はさらりと避けた。それは一度目よりも余裕を持った回避で、伊庭は山岡の動きを予想していたということだろう。
 鉄壁さえ破るような一撃は、一歩間違えれば命を落としかねないほどの苛烈さがある。見ているだけの本山でさえ、突きの瞬間は己の身を狙われているような電撃が走る。
 けれど伊庭は涼しい顔をしていた。数日間稽古から離れ、たった一晩で取り戻したとは思えない姿だった。
 『伊庭の小天狗』ーーーその渾名を本人は不服そうにしていたし、本山にも馴染みはなかった。けれどこうして目の当たりにしていると、彼がどうしてそのように呼ばれるようになったのかがわかる。
 冷静な観察力、ずば抜けた反射神経、そして怯みを知らない毅然とした度胸。
(…俺はわかったぞ、八郎…)
 彼には心形刀流の血が間違いなく流れている。それどころかその後継者なんて狭い器には収まらず、もっと遠くへと飛び出していくだろう。
(何があってもお前は、剣とともに生きていくんだ…)
 そしてそれを彼もまた実感していることだろう。
 二度目の突きを外されて、山岡は奮然とした様子で伊庭に竹刀を向けた。そして踏み込んだ渾身の一撃はそれまでの二回の突きとはまるで違っていた。呼吸さえゆるされない凄まじい速さで、真っ直ぐに繰り出され突進する。
(八郎…!)
 本山は無意識に身を乗り出した。
 すると伊庭はギリギリまで間合いを保って躱した。しかし山岡の勢いは止まらずそのまま道場の羽目板を突き破ってしまった。
「…っ…」
 誰もが息を呑んだ。もし自分ならどうなっていたのか、躱せていなかったらーーーその場にいた誰もが想像しただろう。それくらい山岡の突きは激しい衝撃があったし、伊庭のギリギリの間合いも危ない距離だった。
 山岡は竹刀を引き抜いて伊庭を見る。その表情には勇ましい獰猛さはない。
「…久しぶりに楽しい勝負だった。これ以上は互いに怪我をすることになる」
「そうですね。ご出立前に山岡先生にお怪我を負わせるわけには参りません」
 山岡は最初の立ち位置に戻り、二人は深々と頭を下げた。
 一気に場の緊張感は解かれ、騒がしくなる。伊庭を讃える声や山岡の突きに驚く声が入り混じったなか、本山は深く息を吐いた。
「…引き分け、どころか常に冷静な対応を貫いた坊ちゃんの勝ちとも言えますな」
 中根は本山にそう言うが、
「俺は…勝ち負けなんてよくわかりません」
 と素直な気持ちを述べた。ハラハラして中根のように冷静には見られなかった。
「それに、八郎も勝ち負けを求めていたわけではない気がします…」
「…そうだな」
 彼が山岡との試合で得たかったものは、決して勝利という名誉ではない。
(そうだよな…)
 消えかかった情熱という名の灯火。それを再び明るく灯したかったのだろう。


「山岡先生!」
 伊庭は道場を去る山岡を追いかけた。
「ん?どうした」
「あの…お願いがあります」
「お願い?言っておくが俺は負けたつもりじゃあないぞ?」
 山岡はそう茶化して笑った。先ほど対峙していたとは思えない朗らかな冗談に、伊庭もつられて笑った。
「実は、浪士組には俺の馴染みの友人たちが参加することになっているのです」
「ほう、そうだったのか」
「はい。試衛館という田舎道場の門人たちです。腕も立ち、志し熱く…必ず役に立つ者たちです。どうか気にかけてくださると有難いです」
「試衛館か…わかった、覚えておこう」
「ありがとうございます」
 伊庭は深々と頭を下げた。浪士組の幹部にいる山岡は義理堅い人物だ。引き受けてくれたからには、決して先日近藤が講武所の教授方に推挙が取り消されたようなことにならないだろう。
 伊庭が安堵すると、山岡は「そうだ」と思いついたように口を開いた。
「俺からも頼みがある」
「自分にできることでしたら」
「うん、たまには小稲に会いに行ってやったほうがいい」
「は…?」
 山岡の思いもよらない話題に、伊庭は驚いた。
 小稲は吉原で馴染みの女だ。美貌と教養でその名は知られているので、山岡が知っていてもおかしくはない。
「君は吉原では有名だからな。『伊庭の小天狗が剣を置くらしい』なんて門下生が漏らした言葉が皆に伝わってもおかしくはないだろう」
「そ、それは、そうですが…」
「小稲とはある座敷で顔を合わせたのだが、俺のことを知ってどうか手合わせをと頼まれたよ。君はきっとまだ剣への未練があるはずだと…。まあ俺も『伊庭の小天狗』に興味があったのだから一石二鳥なのだが」
「…」
 伊庭は絶句する。浪士組出立直前に試合を申し込まれることにはたしかに違和感があったのだが、そこには小稲の働きかけがあったなどカケラも気づかなかったのだ。
「女は怖いな。何でもわかっているんだよ」
「は…はは、そうですね」
 伊庭は苦笑するしかない。それに小稲のいう通り、山岡の剣に感化されて心に残っていた小さな火種が息を吹き返したのだから。
 山岡は伊庭の肩に手を置いた。
「半年後には江戸に戻ってくる予定だ。その時こそ決着をつけよう」
「はい。是非」
 そうしていると大粒の雪が降ってきた。山岡は傘を被り去っていく。伊庭はそれをどこまでも見送ったのだった。





 


 
目次 次頁→