迷子の足音



  8


 浪士組の出立を明日に控え、伊庭は土方と共に『鳥八十』を訪れた。
「らっしゃい!」
 威勢良く声を上げる鎌吉は額に絞りの手ぬぐいを巻き、いつもと変わらない様子で出迎えた。伊庭にとって今日までは激動の数日だったのだが、彼にとっては変わらない平凡な毎日だったのだろう。そう思うと何だか可笑しく思えてきた。
「何笑ってるんだ」
「いえ、何でもありませんよ」
 目敏い土方の追及を避けながら、いつもの席に座る。勝手知ったる鎌吉は酒とお通しを持ってきた。顔がにやけている。
「どうしたんだ?」
「どうしたも何も、伊庭先生、聞きましたぜ。あの『山岡鉄舟先生』との死闘!」
 伊庭と山岡との試合の様子については、門弟たちの口から瞬く間に広まった。もともと互いに名が知られていたということもあるが、山岡が繰り出した本気の突きを伊庭が涼しい顔をして避け続け、結局は勝負がつかないまま終わったという劇的な結末も話を広めた要因だろう。今では尾鰭がついてまるで宮本武蔵と佐々木小次郎の戦いのように壮大な決闘として語られているらしい。
 そんな町の噂話を鎌吉は我が事のように誇らしく教えてくれたが、伊庭にとっては恥ずかしさや気まずさしかない。
 しかし
「その話、試衛館にも伝わってる」
 と土方がニヤニヤと付け足したので一層ため息をついた。
「やだなあ。別にそんなつもりで試合をしたわけじゃないのに。それに何だか俺が涼しい顔をして鉄舟先生を負かしたみたいになっているけど、内心はビクビクしていたんですから。本当に首の皮一枚で生き残ったようなもので」
「どうだか。お前の心の臓には毛が生えていなさそうだからな」
「失礼な」
「でも良い顔になった。数日前は死んだ魚みたいになってたくせにな」
「…そうですかね」
 伊庭は余裕を見せてそう答えたものの、図星だった。
 剣を置くと自分で決めたくせに、全てに悲観的で投げやりになっていたことに土方は気がついていた。だがそのくせあっさりと山岡との試合で剣への気持ちを取り戻した。その切り替えの早さには自分でも笑ってしまうほどだったが、特に土方には知られたくなかった。
(この人の前では俺は格好をつけたいのだろう…)
 弱みを漏らすことができる本山とは違う不思議な距離感だ。土方に対してどこか『憧れ』があるからこそ、隣に並びたいと背伸びしているような感覚がある。悩んでいたとしてもそれを気付かれたくはなかった。
 また、こうもあっさりと気持ちを入れ替えることができたのには訳があった。
 山岡との試合の後、義父である秀俊に呼び出された。そして聞かされたのは道場を去った但野のことだった。
『但野から文が来た。国に戻って子ども相手に剣を教えているらしい』
『え…?しかし、片目が…』
『もともと但野は道場を開くのを許されるほどの腕前だ。子供相手なら支障はないだろうし、あいつはまだ諦めていないようだ』
『どういうことですか』
 秀俊が差し出した但野の手紙を受け取り、伊庭は恐る恐る目を通した。
 内容は無事に国に帰り、子供相手の道場を手伝うことにしたということ。そして隻眼ではあるが再出発を果たし心形刀流を軸に隻眼の自分なりに剣術を身につけるのだということ。
 但野の手紙には恨み節などひとつもない。ただただ前を向いて歩くのだと記されていて、加えて伊庭のことを気遣う言葉も添えられていた。
『…わかったか?』
 何が、とは言わない。秀俊は先代の実子である伊庭に気遣って滅多に叱ったり怒ったりということはない。しかしだからと言って意思の疎通ができていないのではなく、多くを語らずともわかるだろうという信頼を置いてくれているのだ。
『わかりました』
 伊庭は頷いた。
 もう迷いはなかった。山岡が『情熱』と語った炎は再び、確かに灯った。
 伊庭は鎌吉に適当につまみを頼み、ようやく落ち着いて土方と向かい合う。
「明日は出立ですね。今日は俺が奢りますから好きなものを頼んでくださいよ」
「やっぱり、お前は来ないんだよな」
「前日に何言っているんですか」
 土方の誘いを真に受けず伊庭は「はは」と笑い飛ばすが、彼は真剣だった。
「別に一人くらい増えても何のことはないだろう。お前の場合は支度金も必要ないしそれこそ、山岡先生が幹部で名を連ねているんだから容易いはずだ」
「それはそうかもしれませんが…そんなに俺に来て欲しいんですか?まさか寂しいとか?」
「……食客たちはそう言っていたな」
 土方は誤魔化したが、もちろん伊庭はそれが照れ隠しだということを知っている。
 土方は社交的な人間ではない。伊庭と最初に会った時も敵意を剥き出しにしてなかなか警戒心を解かなかった。だからこそ身内だと決め込んだ人間に対しては胸襟を開いて迎え入れる。それ故に試衛館食客たちが皆参加する場に伊庭がいないことが気がかりなのだろう。まるで置いてけぼりにするような後ろめたさがあるのだ。
 だが、伊庭の答えは決まっていた。
「…行きませんよ」
 以前土方から同じことを尋ねられた時、伊庭は『行けません』と答えた。それは自分を取り巻く環境がそれを許さないから『行けない』と答えたのであって、自分の意思は介在していなかった。だが、今は違う。
 何の躊躇いはなく、答えた。
「試衛館の皆さんと一緒にいるのは楽しいですけど、それが俺の『居場所』というのは少し違う気がします」
「へえ」
「俺には俺の為すべきことがある…それがいつか土方さんたちの人生にいつか交わることがあるのなら良いなとは思います。だから今回は『行きません』」
 互いに信じた道が交わり、何のしがらみも後悔も無く共に生きることができる…そんな日がいつか来る気がする。今の伊庭にはそんな確信があるのだ。
 そう悟った時、ようやく迷子の足音が聞こえなくなった。彷徨い続けた心が住処を見つけたのだ。
「それに、俺が勝手に都なんて行ったらきっと小太に叱られる」
「そうだな…わかったよ。お前のお守りをしないで済んだ」
「何ですか、誘っておいてその言い草は」
「子守は総司だけで手一杯だ」
「…ひどいなぁ」
 土方は笑いながら酒を手に取った。いつも酒はあまり嗜まない彼が自ら手を伸ばすのは珍しい。それだけ出立に向けて気持ちが高揚しているのだろう。
 一方で伊庭は胸にチクリと刺さる痛みを飲み込んで穏やかに笑った。
「無事に戻って来てくださいね」
「ああ」


 文久三年、二月八日。
 目を覚ました本山はゆっくりと身体を起こした。
 伊庭との一晩ぶっ通しの稽古から数日は身体のあちこちが悲鳴をあげていたが、ようやくいつも通りの目覚めを迎えた。
 障子を開けて縁側に出る。今日は浪士組出立の朝だと言うのに、小雨が降っていた。
(雪じゃないだけマシか…)
 そう思いながら、着替えを始めた。
 今日は伊庭と伝通院へ見送りに向かう約束をしている。浪士組は身分を問わず参加できることに加え、支度金として十両が支給される話が広まり、二百名以上の大所帯となったらしい。
 伊庭が、道場をあげて参加する試衛館食客たちを華々しく見送りたいということで、本山も呼ばれたのだが
(…そう言っても俺は土方さんしか面識がない)
 ので伊庭ほど気乗りがしない。むしろ彼らと言うよりも、伊庭と顔を合わせることに気後れしていた。
(…俺は朝顔と八郎を比べているのか…?)
 あの日から心が騒ついている。脳裏には山岡と対峙する凛とした姿が、身体には抱きしめた感触がいつまでも消えず残っている。
 そして、
『朝顔にもしてやっていたんだろう?』
 伊庭にとって何気ない一言だったとしても、その言葉が焼き付いて離れない。たとえ行為としての名前が同じだとしても、残った感情の名前が明らかに違うのだ。
(確かめよう…)
 本山は襟を正し、部屋を出た。そして伝通院へと向かったのだった。

 伝通院の周辺は出立を見送る人々や野次馬でごった返していた。まるで祭りのように人が溢れ、足の踏み場はなく歩くのも難しい。これでは試衛館食客たちの姿はおろか、伊庭を見つけるのも難しいだろう。
(困ったな…)
 人波に流されながら本山は途方に暮れる。このままでは埋もれて浪士組の姿さえ捉えられないと思い、人混みを外れて高台へ移動した。
 すでに出立が始まっていた。二百人もの浪士たちがぞろぞろと歩く光景は大名行列というよりも仮装行列のように浪人や農民、商人などさまざまな身分の者が混じっている、まさに有象無象という言葉が相応しい。
 目を凝らして試衛館の集団にいるはずの土方の姿を探すが、なかなか見つからない。
 すると、
「一旗あげて来いよーーっ!」
 聞き覚えのある声が聞こえてそちらに目をやった。そこには案の定伊庭の姿があり、彼の視線の先には手を振って答える土方ら試衛館食客たちの姿があった。彼らは小雨の中でも晴れ晴れとした表情を浮かべて笑っていた。いつもは無愛想な土方でさえどこか満たされた表情で答えている。
 そして彼らは歩いていく。二百名以上の浪士組の一員として胸を張り前へ前へと進んでいく。やがてその姿が見えなくなった。
(八郎…)
 その間、本山はずっと伊庭の顔を見ていた。
 手を振って激励の言葉を叫んで笑顔で見送ったその顔が、次第に雨に濡れて曇っていく。そしてただ一点を見つめて唇を噛んでいた。
 共に道を歩むことができなかったという寂しさや悔しさではない。そんな単純な感情ならとっくに整理できているだろう。
(俺もあんな顔をしていたのかもしれないな…)
 本山は苦笑した。
 彼の顔を見て全てを悟る。そして同時に自分の気持ちの輪郭もはっきりとした。
(俺はお前が好きらしい)
 いつからだとか、なぜだとか、そういう『答え』は今はまだわからない。
 ただただその感情が溢れて、今にも泣きそうな彼を抱きしめたいと思ったのだ。







 


 
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