Blue day ー青の日ー

幾度となくうちよせる波。
冬の冷たい海は、足の指先に触れるだけでまるで氷のように冷たい。
ふと足を止めて、何気なくその場に腰を下ろす。海の先…地平線の向こうを見ようとして、でも見えなくて俯いた。
そして俯いた先にあった細かい粒子状の砂に、何気なく指を立てて、線を引く。
絵でもない、文字でもない。ただ心の赴くままに指先を遊ばせる。まるで子供のように、意味もなく、無心に。
すると、突然大きな波がうちよせてきて、足首まで濡らした。そしてその波は砂を平らに戻してしまう。
指の痕ひとつない。
一瞬で掻き消される。
波が攫って行く。まるでそこに何もなかったかのように真っ白に戻す。
(あの時と同じだ…)
そんな風に思って、胸が締め付けられ、目を閉じた。痛みをこらえる為に縋った真っ暗な瞼の奥で、しかし思い出したくもない光景が勝手に浮かんできた。
ガトリング砲の無機質な発射音。木霊する仲間たちの悲鳴。そして、
「…っ…く、…!」
海に消えた彼のことを。
もう涙は出てこない。枯れてしまったのだ。しかし代わりに襲ってくるのはこんな息切れだ。まるでまだあの場所にいて、銃で撃たれ続けるような衝撃と、後悔ばかりを繰り返す縛り付けた縄のような感覚が身体が残っている。
息を荒げるそのなかで、うっすらと開いた瞳が右手の甲に残った痕を恨めしく睨みつけた。
『約束破って、ごめんな』
彼はそういって、この甲に小柄を突き立てた。そして一瞬だけ気を取られた隙に、彼はこの手を離して、青に落ちた。自分から、それを望んだ。
(いや…あいつのせいじゃない)
仕方なかったんだ…そう自分を慰めることはできない。
掴んでいられなかった。守ってやれなかった。助けてやれなかった…すべて、自分のせいだ。
この手を離さなければ、失うこともなかったはずなのに。こんな悲しみを味わうことはなかったのに。
どうしようもないとわかっていても、やるせない気持ちだけが残っている。
身体の力が抜けて、両膝を海に向かい合うようについた。彼を奪った青をただ力なく見つめる。
この青の中に彼がいるはずだ。
この青の中に彼が生きているはずだ。
(青…)
皮肉なものだ。
かつて自分の人生で一番誇らしいと思った色が、彼を奪ってしまったなんて。



明治二年三月。のちに宮古湾海戦と呼ばれることになる、新政府軍軍艦・甲鉄(ストーンウォール)奪取作戦(アボルダージュ)は、旧幕府軍の目論みから大きく外れ、甚大な被害を齎した。原因は天候悪化により接舷に向かない『回天』で作戦を決行したこと、また突入口との高低差があり、旧幕府側の兵士の投入が遅れたこと…と様々あったが、開戦早々、新政府軍との兵力の圧倒的な戦力差は明らかであった。
形勢不利と見た荒井郁之助が作戦中止を決め、『回天』は宮古湾を離脱した。わずか三十分ほどの出来事であったという。
しかしそれだけに留まらず、新政府軍により追撃を打許し、機関故障を起こしていた『高雄』は『甲鉄』と『春日』により捕捉。乗組員は田野畑村付近に上陸し、船を焼いたのちに盛岡藩に投降した。
結果は惨敗と言えた。

殴り書きのような手紙に目を通した伊庭は、大きなため息をついた。隣にいた本山にその手紙を投げるように渡し、自分は椅子から立ち上がり窓辺から外を見る。もう四月だというのに、雪が降り続いていた。
「甲賀艦長が戦死…か」
本山は寂しげにつぶやいて続けた。
「接舷予定だった『蟠竜』と『高雄』の機械故障が痛かったな…」
「ただでさえ頼みにしていた『開陽』を失い、『甲鉄』も奪取できないとなれば、もう海軍は頼りにならない。今回のことは自ら墓穴を掘ったような結果になってしまった」
「…」
伊庭の指摘に本山は二の句が継げない。数少ない勝利への活路をこの作戦で見出しつつあったが、この失敗でさらにその道は狭まってしまったのだ。
本山は手紙を折りたたんで机に置き、窓辺に立つ伊庭の隣にやってきた。
「…野村が死んだそうだな」
「ああ…『回天』の離脱に間に合わなかったのだろう。相馬も怪我をしているらしい」
伊庭は「くそ」と悔しげに呟いた。
「あの作戦を聞いた時点で嫌な予感はしていた。希望的観測ばかりで、無謀で…失敗した時の危険が大きすぎたんだ」
「八郎、終わったことを言っても仕方ないだろう」
「終わったことなどと簡単に言えるものか!」
伊庭は声を荒げた。
「『高雄』を失い、百名以上の兵士を投降させ、仲間が死んだ。敵はこの雪の先に今か今かと開戦を迫っている。この状況で敵討ちも出来ず、のうのうと雪解けを待つのが、どれだけ苛々するか!」
伊庭は苛立ちを吐き捨て、片方しかない拳を強く握りしめた。しかし本山は穏やかに
「落ち着けよ」
と返答した。
「開戦は遠い先の話ではない。振り返る暇が在ったらこの先のことを考えろ…いつものお前なら、そういうだろう」
先の尖った鋭利な苛立ちが、穏やかな本山の慰めによって少しだけその影を潜める。しかし伊庭には
「わかってる…」
と力なく返答するので精一杯だった。
本山はきっとわかっているのだろう。伊庭が苛立ちで、悲しみや後悔を誤魔化しているということを。分かりすぎるくらいに、分かっているのだろう。
「なあ…」
「何?」
雪が風と舞い、目の前を真っ白にする。
「どうせ死ぬのなら…あいつらは一緒に死ねた方が…良かっただろうか」
この真っ白な世界で、この先いったい何が起こるのだろう。勝利を願ってやまないのに、何故だろう、思い浮かぶのはあまり良い未来とは言えない。
そんな場所に一人で残されるくらいなら、一緒に死にたかったと…相馬は今、そんなことを思っているのではないだろうか。
二人がどのように別れたのかはわからないが、いつ、どんな時であったとしても、納得できる最期なんてない。
(俺だって…同じだ)
遺されるのも、残していくのも…どちらも嫌だ。
だから怖い。
「八郎…大丈夫だ」
肩を抱いた幼馴染が耳元で優しく鼓膜を撫でる。
「俺はお前を残していったりしない」
どこへも。
どこにも。
重くて、甘くて、穏やかな誓い。
(ずるいな…)
伊庭は内心苦笑する。彼にそう言ってほしかったから、こんな弱気なセリフを吐いているのだと、誰よりも自分が良く知っていたからだ。
本当は野村と相馬の残酷な別れを目の前にして、いつか自分たちにもそんな運命が訪れるのではないかと…それが、怖かったのだ。
けれどそれを口にしてしまうと、それが本当になってしまいそうで。
だからかわりに別の言葉を口にする。
「小太…寒い」
もっと強く抱きしめろ。
そんな言葉で誤魔化した。