Petal ー花びらー



雪が解け始め、春の海はその色を少しずつ変え始めた。
例え自分がそこに立ち止まっていたとしても、時間は経ち、季節は移ろう。出歩くのも億劫だった寒さは、時を経て和らいでいく。
時が傷を癒してくれる、と誰かが言った。それは先輩の島田だったか、古参隊士の尾関だったか、もしくは憧れの土方だったか…覚えていない。「そんなものだろうか」とその時は思ったが、しかしいまだにこの傷は塞がることなく、傷み、膿みつづけている。だからまだ、この痛みを時が治してくれるのかわからない。
深い傷が未だに相馬を苦しめる一方で、だが、もう一つの感情が生れていた。
(何をしているんだ、俺は…)
俯瞰する自分が、いい加減にしろと自分を責める。
『お前は次期、新撰組の隊長で』
『こんなところでのんびり悲しみに浸っている暇などないはずだ』
『まだ戦争の最中だ――』
(そうだ…そうなんだよ…)
戦は終わっていない。たとえ結果が見えていたとしても、まだ戦わなければならない。この足を踏み出して、この手に刀を握り、目の間に立ちふさがる敵を斬らなければならない。
「そうなんだ…」
頭は理解している。ただ、動かないのは、身体と…
「あ、ここにいた!」
相馬の思考を遮る様に、明るい声が聞こえた。砂浜に駆けてくる青年…よりは少年と言った方が良い彼は、それでも立派な新撰組隊士だ。
「市村君…」
「探しましたよ!五稜郭で土方先生が待ってます!」
まだ十五だという彼は、これからが育ち盛りなのかまだ背丈も低く、新撰組でも浮いた存在だ。新撰組が幕臣に取り立てられた頃、兄とともに入隊した。兄は江戸で脱走をしたが、弟である彼は新撰組に残った。土方の傍に侍る田村とも年が近く、底抜けの明るさと幼さ故か、隊士たちに可愛がられている。
「…すぐに行く。先に戻っていてくれ」
しかし、今の相馬にとっては彼の明るさが苦しかった。彼の明るさに答えられない自分がもどかしく、また彼がかつての野村に重なって見えたからだ。
だが、市村は邪気のない明るさで続けた。
「ダメです。相馬さんと一緒に戻ってくるように、と土方先生からの言いつけですから」
「…」
残念ながら土方附きの市村は相馬の思うようにはしてくれないようだ。相馬は軽くため息をついた。
「…わかった、行こう」
「はい!」
市村は頷いて、先んじて歩き出す。
相馬は歩き始める前に、海を一瞥した。
(…また、来る)
心の中で語りかける。その海の先に野村がいるような気がした。

久々に足を踏み入れた五稜郭はバタバタと忙しない様子だった。雪が解け、新政府軍の総攻撃も近い…新撰組にも流れている憶測だが、どうやらそれも本当らしい。
市村と共にやってきた土方の部屋で、軽くノックをする。すると土方の返答が聞こえてきたので、市村がドアを開いた。
「土方先生、遅くなりました。相馬さんをお連れしました」
市村に促され、相馬も部屋に入る。あれ以来まともに顔を見ることが無かった土方が、椅子に腰かけて座っていた。
(だいぶ…お疲れのご様子だ)
相馬はすぐに気が付いた。多くの戦力と戦艦を失った旧幕府軍。いくら軍神と崇められる土方でも、形勢逆転の策を練るのは難しいのだろう。
「相馬、ここに座れ。…市村は席を外せ」
土方の命令に、市村は少し不満げだったが「わかりました」と部屋を出て行く。相馬は躊躇いつつも、土方に従って目の前の椅子に座った。
しかし、土方は相馬を傍らに座らせたまま、何も話そうとはしない。五稜郭周辺の地図に目を向けて黙ったままだ。
「用件…は…」
相馬が切り出すと、土方は「ああ」と、だが気のない返事をして、少し言いづらそうに話し始めた。
「総司がな…」
「…沖田先生が?」
土方は唐突に口にする。ここにはいない人の名前。もういなくなった人の名前。野村と同じ場所に行ってしまった人の名前。
しかし土方は、それをまるで昨日聞いたかのように懐かしく話す。
「あの宮古湾へ向かう前の夜だ…俺の夢に出てきた。いつもの懐かしい頃の思い出かと思ったが…あの日は違った」
「違った…といいますと…」
「俺を引き留めた」
「…」
相馬の呆然とした顔をみて、土方は「ふっ」と苦笑した表情で息を漏らした。
「所詮、夢の話だ。戯言だと思ってくれればいい…ただ、俺の印象に残っていただけだ。だが、もしあの時あいつの言うことを聞いていたら…と、考えなかったと言えば、嘘になる」
「…そう、ですか…」
土方らしくない現実味のないことではあるが、しかし、もしかしたら、本当の言付けだったのかもしれない。
結果から言えば、宮古湾での戦は完全な負け戦だった。不運が重なり過ぎた戦は、あっけなく負けて、あっけなく人が死んでいった。退却さえできなかった戦艦が、そのまま港へ向かい降伏したという話も耳にした。何の得もない戦だったのだ。
(それでも…俺たちは、何もしないではいられなかった)
だから、きっとその話を事前に聞いていたとしても、この戦に突き進んでいったことだろう。
すると、土方が椅子から立ち、そのまま傍の窓辺に足を向けた。
「…相馬、野村は自分で落ちたのだろう?」
「っ!」
淡々とした土方の物言い。しかしその言葉で、自分のなかにカッと熱が宿った。
誰も触れなかった、誰も語ろうとしなかった、誰も訊ねなかったあの瞬間――それは思い出すだけで、あの場面に戻る感覚が残っている。
頭を砕くかのようなガトリング砲の破裂音。大きな波に揺れる船。投げ飛ばされた野村の身体。
「あ…あいつは…、自分から、飛び出して…行きました」
喉が、舌が、唇が、声が、身体中が震えていた。
相馬は咄嗟に右手の甲に、左手の手のひらを重ねた。野村が突き立てた小柄の痕が、疼いた気がした。
「…ガトリング砲の…的を、自分の方に向けるために…!」
(俺を逃がすために)
そして身体中を撃ち抜かれた野村は、船体が揺れるのと同時に海に投げ出されそうになった。相馬はすべてを擲って彼の手を掴み、落とさないようにと必死に掴んだ。
あの時、相馬は自分が死ぬことを考えていなかった。ただただ、野村を助けなければならないと思い、一心不乱に彼の身体を繋ぎとめた。
けれど、野村は。
「俺が見たのは、そのあとくらいだ。お前がつないだ手を、あいつは自分で離した…そうだろう?」
「……ご存知、でしたか」
「ああ…」
その場に居た者はほとんど戦死している。その為野村の死は乗り移った甲鉄で勇敢に戦った、戦死として伝わっている。野村が相馬の手を自ら離し、海に落ちたことを知る者はいない。
野村の最期を知っているのは、二人だけということだ。
土方は窓を外を見続けていた。積もった雪が解け、土と混じり濁った色になっている。
しかし、相馬はその場で俯いた。
「…土方先生がなにをおっしゃりたいのか、わかっています。野村は自分で落ちた、俺を救うために落ちた…だから、俺は野村の分まで生きなければならない、戦わなければならない…俺にはその責任がある。野村だってそれを望んでいる。…そうおっしゃりたいのでしょう」
「…」
土方は何も答えない。外の景色に目を向けたまま、その唇を開くこともない。
何も答えてはくれない。
「でも、無理です…!」
相馬はまるで吐き出す様に叫んだ。
「俺だって、何度もそう言って、自分で自分を奮い立たせようとした!…でも、わからないんです。野村の分までって、なんですか?あいつが生きたかった分を生きるって、どうやって生きればいいんですか?!」
それを、教えてくれるのは野村しかいない。だから、ここで土方に怒りや苛立ちをぶつけても何の意味もない。この人は答えを持っているわけではない。
そんなのはわかっている。
でも野村の最期を見た土方なら、何かを示してくれるのではないか。
同じような想いをした土方なら、この気持ちを理解してくれるのではないか。
そんな期待をした。
しかし、土方はやはり何も答えなかった。まるで聞こえていないかのように、涼しい顔を崩すこともなかった。
だから、誰にも打ち明けなかった、口にするつもりもなかった本音を、漏らしてしまった。
「こんなに苦しいくらいなら、あの時一緒に落ちれば良かったんだ…!」
あの極寒の海の中。
一人で落ちてしまうなら、二人の方がまだ良かったかもしれない。
この想いは、助け出された後、ずっとこの胸の中にあった。野村と一緒に死ぬことを選べなかった自分が、情けなくて悔しくて…殺してしまいたいほど憎かった。
すると土方がようやく窓の外に向けていた視線を、項垂れた相馬の方に向ける。そして一、二歩近寄り、そっと震える相馬の肩に手を置いた。
「…無謀な戦を起こしてしまった責任は痛感している。嵐で回天しか接舷できないと分かった時に引き返せば良かった…そう後悔もしている。だから、野村が死んだのも、沢山の兵が死んだのも、指揮官である俺の責だとわかっている。だが…俺は、お前を助けたことを後悔などしていない」
「…」
あの時。
野村がいなくなり、突然の絶望に打ちひしがれる中、ロープを垂らしそれに捕まる様に懇願したのは土方だった。生き長らえさせたのは、彼だった。
死ねばよかった。助かりたくなかった。
相馬のその言葉は、きっと助けた側の土方の心を抉ったことだろう。
けれど、相馬には謝ることはできなかった。表面的な謝罪を口にすることはできるけれど
(でも…今の自分は、本心から助かったことを喜べていない…)
土方の行動を認めてはいない。有難かったと受け取ることができない。生きていて良かったと思うことができない…。
俯いたままの相馬を、土方は責めなかった。肩に置いた手を離し、「話はそれだけだ」と告げた。
相馬は力なく立ち上がり、
「失礼します…」
と告げて部屋を出ようとした。しかし、ふと足を止めて振り返った。
「土方先生…」
「何だ」
淡々とした土方には、やはり疲労の影がある。しかし相馬は思い直した。
(疲労じゃない…)
責任は痛感している。
俺の責だとわかっている。
土方は生き残った指揮官としてその責任を一身に引き受けようとしている。疲労の奥に悲嘆に暮れる彼の暗い感情が見えた気がした。
「…俺は、土方先生を憎んでいるわけではありません」
「…」
「俺は、俺自身が…許せない、だけです」
その言葉に偽りはない。土方を気遣って、嘘を付く余裕などいまの相馬にはない。
すると土方は
「そうか…」
とだけ呟いた。
相馬は振り返ることなく、部屋を出た。重い扉を閉めて、深く深く息を吐いた。
「久しぶりだ…」
自分の気持ちを暴露して、叫んだのは。
少なくとも京にいた頃の自分なら、上司である土方の前で感情を爆発することなどありえなかっただろう。自分は土方とそんなに距離の近い隊士ではなかったし、土方は自分にとっては孤高で、厳かで…そして少し怖い存在だった。
ついこの間まではそう思っていたのに…と、そんなことを考えていると、向かいから人影が近づいてきた。
「…島田先輩」
「よぉ」
手を挙げて島田は相馬の前で足を止めた。島田とも宮古湾から帰還して以来、顔を合わせていない。
「どうも…ご心配をおかけして申し訳ありません」
相馬は一礼した。隊士たちの面倒見の良い島田が、敢えて相馬と距離を取っているのは気を遣ってのことだろう。
「土方先生に用事ですか?いま、部屋にいらっしゃいますよ」
「ああ…いや、俺はお前を探していたんだ。市村から土方先生の所へ向かったと聞いてな」
島田は真っ直ぐに相馬を見つめた。
「お前、この先どうするつもりだ?」
「この先…とは」
「新政府軍は宮古湾の一件で勢いに乗ったらしい。今日明日にも上陸しようかという話だ。…土方先生から何も聞いていないのか?」
聞いていない。
むしろ土方はそんな切羽詰まった様子を、微塵も見せなかった。
相馬が何も答えないでいると、島田は顔を顰めた。
「新撰組の隊長として、お前には俺たちを率いてもらわなければならない。…正直に言わせてもらえれば、今のお前にその能力と気持ちがあるのか、俺には疑問だ」
「…同感です」
自分のことは、自分がよくわかっている。
こんな状況で部下である隊士たちの命を預かり、先陣を切って戦うことなどできない。
(この場所にいてもいいのかさえ、わからない…)
自分の存在は士気を下げてしまう。島田に言われなくともよくわかっていた。
すると、島田は「はぁ」と大きくため息をついて続けた。
「…だが、土方先生は頑としてお前を隊長から外すつもりはないということだ」
「え?…何故…」
「知らん。お前には悪いと思ったが俺は何度も相馬を外す様にお願いしてきたが、先生は理由を語らないんだ」
「…」
土方の信頼。
『お前なら新撰組を守れる』
あの時の言葉を、その時の自分は喜んで受け取った。紆余曲折あったものの、是非務めさせてほしいと願った。
だが、今は違う。
(今は…重すぎる…)
困った表情のままの島田に、相馬はもう一度頭を下げた。
「…俺からお願いして、外してもらいます。島田先輩のお手を煩わせるようなことは致しません」
「そうか…」
「失礼します」
相馬は島田との話を切り上げて、通り過ぎる。
「相馬!」
すると島田から声がかかった。相馬は振り向くことなく立ち止まった。
「これでいいのか?」
島田の問い。
そんなのは、とっくに自分にも問いかけていたが、しかし人から言われると、その意味は違って聞こえた。
これでいいわけないだろう。
そう問いただす様に聞こえた。
だが、相馬は何も答えずに、止めた歩みを再び進めた。
島田はもう何も言わなかった。