36.5℃




 ―36.5℃―  〜本山×伊庭〜



 痛いほどの視線を感じていた。その視線は食いつくように一点を見つめたまま動くことを知らない。 身を焦がすような熱いまなざしに、いつの間にかこちらも彼を視界に入れないことができないでいた。

(なんだろう……この視線)

 目の前にいる名の知らない若者は、脇腹を強打し動けないまま床で身悶えていた。何とか立ち上がろうと 竹刀を杖にするものの、それさえもままならず息は荒いままだ。

 だが、それを為した伊庭のほうは、彼よりもその脇で稽古を見学する男のほうに目線がいっていた。
 涼しい顔で、壁にもたれ掛かるようにしてこちらを眺める――いや、凝視する男。 伊庭よりも頭一つ分ほど背が高く、凛々しい顔をしているがその目はなぜか伊庭だけに向けられていた。 激しく稽古し、前後左右に動いても伊庭だけを目で追い、その目は射抜くほど強く…。

 伊庭は講武所に来ていた。講武所は旗本御家人およびその子弟たちを対象とした武術訓練機関であり、 伊庭の養父に当たる秀俊が教授方を勤めていたのだ。それに付随して足を運んだものの、やはり「小天狗」と言わしめる 伊庭に敵う相手はおらず、また講武所の平和呆けにも似た風潮に嫌気が差していた。
 16歳までは本の虫と称されるほど剣術には縁のない生活をしていた伊庭だが、いざ剣術を始めると上達するのは早かった。 だが16歳までに詰め込まれた知識は同世代に比べると群を抜いていて、剣術だけでなくこの世の中を憂い、 弁も立つ若者へと成長した。そのことを養父は喜んだが、同世代の講武所の者たちは出る杭は打つといわんばかりに 伊庭を嫌っていた。だが、そんな下等な人間と付き合う気にもなれず、伊庭自身は大して気に止めなかった。 周りの嫌悪にも似た冷ややかな視線には慣れたつもりだ。
 しかし、この男だけは違った。

「ありがとうございました」
「…ありがとう…ございました」

 家柄だけが取り柄の若者が悔しそうに伊庭に頭を下げる。その礼儀作法は節々だらしなく、伊庭は思わず舌打ちをしてしまった。

 そしてふと、彼がいた場所をみる。だが既に本山小太郎の姿は無かった。



 稽古が終わると客間に招かれた。そこでは秀俊が「今日はどうだった?」といつもと同じように問う。 最近は伊庭に稽古をまかせっきりなのだ。だが伊庭は憮然と

「講武所に行くのはやめにします」

 伊庭が言い放つと秀俊は困ったように苦笑した。

「やっぱりそういうと思ったよ。けど君には近いうちに教授方として…」
「それも嫌です。あんな人間、稽古する気にもなれません」

 伊庭が気も使わずきっぱりと述べると、さすがの秀俊も厳しい目をした。

「そうは言っても、いざとなったとき大樹公の親衛隊を勤めるのは彼らなんだ。しっかり稽古をしてやらないと幕府にも関わる」
「わかっています。でも俺は嫌です。養父さんだけで十分ではないですか」
「そうはいかない」
「それに彼らだって、俺みたいな者に稽古されるのは嫌みたいです。…結局、何の利益もないですよ」
「八郎」

 嗜めるように低い声で名前を呼ばれ、伊庭は「すみません」と呟くように謝った。もちろん、伊庭もわからずやではない。養父の事情も 理解しているつもりだが、どうしてもどうしようもない稽古を続ける気力がわいてこないのだ。
 伊庭道場では飽き足らず講武所にきた。だが期待したほど得るものは何もなかった。時々やってくる教授方との手合いは 心躍るものの、それ以外ではまるで孤立した一匹狼だ。皆が遠巻きに伊庭を見ている。剣術の才も秀でているが、その家柄もずば抜けて 有名な伊庭の周りには誰も近寄ってこなかった。群れあうのは好きではないが、特に敵意されるために訪れたわけでもないのに。

(…疲れる)

 ため息はこぼしたものの、本音はこぼせなかった。
 だがこの疲労の原因はほかにもある気がする。



 彼の視線に気がついたのは一週間前だ。ふと気がつくと壁にもたれ腕を組むようにしてこちらを見ていた。 その態度に(失礼だな)と思ったのが最初だ。まるで物見見物でもするようにこちらを眺めていたからだ。 そして伊庭の稽古が終わると姿が見えなくなる。まるで幻だったかのように不意にいなくなってしまうのだ。
 最初は周囲と同じただの冷ややかな視線の一つなのだろう、と思っていたがそれとは少し違った。
 本山の視線は、伊庭を足先から頭の上の隅々まで観察するかのように細やかだった。またそれに悪意はなくむしろ興味を感じた。 それに気がついて以来、彼に見られているという意識が体中を支配する。

(…本当、疲れる)

 客間を出て、深いため息をつきながら頭を抱えた。もう何度ため息をついたか分からない。

 いままで感じたことのない視線を向けられることは伊庭に常に緊張を与えた。剣術も気がつかれない程度だが、集中力を欠いている。 それがさらに伊庭に苛立ちを与えていた。
 もしかしたら講武所に足を踏み入れたくないという理由の一端でもあるかもしれない。

 突然、昼の日差しに眩暈がした。

「…おっ、と」

 足が縺れ、転びかけたところを誰かに支えられた。片手で抱きしめるようにされ、驚いたもののその腕の力でバランスが保たれ転倒は免れた。

「す、すみま…せ…」

 咄嗟にその腕から離れようとすると、かえって強く抱きしめられた。彼の胸元に顔を押し付ける形になり、その体温を感じた。

「な…っ」
「…大丈夫ですか、伊庭せんせ」

 呼ばれた名前が、妙に冗談ぶった物言いだった。それが癇に障り力ずくでその体温から離れた。
 二、三歩後ずさり、その男の顔を見て驚いた。

「もと…」
「本山小太郎。…知っていてくれたんですね」

 光栄だなと付け足しながら、彼はせせら笑った。いつも見つめられていたまなざしを至近距離で向けられ、伊庭は言葉に詰まった。 実際、彼と話をするのは初めてだった。資料として彼を知っていたものの、現実とはわけが違う。

「…すまなかった」

 妙な緊張が走り、伊庭は踵を返した。これ以上近くにいたくなくて、拳を握り締めたまま彼に背中を向ける。

「せんせ」

 本山の声が呼んだ。伊庭はぎこちなく振り向いた。だがその先にあったのは、伊庭とは反比例した満足そうな笑顔だった。

「少し顔色が悪いようですよ。…せっかくの花のかんばせが勿体ない」

 誰のせいだ。
 思わず罵りそうになったが、伊庭がぐっとその衝動を堪え彼の言葉を無視した。
 いくら離れても、いくら歩いても、彼の視線が纏わりついたままのような気がした。最終的には駆け出して、その場を離れていた。





 気分が乗らないまま再び講武所を訪れたのはそれから三日後のことだった。しばらくは、具合が悪いとか何とか理由をつけては 断っていた出稽古も、もう言い訳が尽きてしまったのだ。
 もちろん、講武所の怠惰な稽古の様子を想像するだけで気が重くなってしまうこともあるが、一番の理由はあの視線にまた見つめられることだ。 何か言いたいことがあればはっきりいえばいいものを、なぜかあの男は視線だけで語ろうとする。それが悪意ではないから余計にタチが悪い。

「どうしろって…言うんだよ」

 最近は夢にまで見るようになった。

 講武所に到着すると早速稽古を始めた。いつものようにのろのろと素振りを始めるのだが、そこに本山の姿は無かった。 内心ほっとするものの、今度はどうして彼がここにいないのか……そのことを考え始めてしまった。
 見続けるだけの稽古に飽きたのだろうか、別の用事があるのだろうか……いればそれはそれで迷惑だと思うのに、いなければ何かぽっかり穴が開いてしまった かのように思う。
 変だ。頭がくらくらして、まるで熱に侵されたかのように熱くなる。

「若先生。終わりました」
「あ、…ああ、じゃあ基本打ちを」
「はい」

 100本の素振りがいつの間にか終わっていたらしい。それに気がつかなかった自分にどうかしている、と投げかけた。
 伊庭は己を叱咤して、稽古に集中すべく、竹刀を強く握った。




「若先生。乱取りをしてもらえませんか」

 一通りの稽古が終わり汗を拭っていると、数名の男たちが伊庭の元にやってきた。伊庭よりも年上でいつも小ばかにしたように伊庭を見ている男たちだった。 だが伊庭はそんな感情をおくびにも出さず、にっこりと微笑んだ。

「構いませんが」

 乱取りというのは柔術に使われる用語だが、時折剣術にも使われる稽古の方法である。自由に技を掛け合い、乱れ稽古、地稽古とも呼ばれる。 つい昔までは形だけの稽古であるが、「風雲急を告げる」稽古方法として最近流行っているらしい。いわゆる練習試合のようなものだ。

「先生くらいの腕前なら二、三人相手にできるでしょう。どうです、俺たち全員と一気にやってもらえませんかね」

 侮蔑と厭味を含ませた男の目。あまり背の高くない伊庭は彼らを見上げた。まるで獲物を捕らえたかのように不気味な微笑を浮かべている。
 ここで断れば彼らが「卑怯者」「意気地なし」と罵るのは分かっていた。本来ならこんな茶番に付き合ってはいられないのだが、 鬱憤と晴らすにはちょうど良い。

「いいでしょう」

 男たちの申し出にあっさり頷き、伊庭は再び面に手を伸ばした。

 相手は合わせて三人。あくまで乱取りなので審判はいないが、周りの人間が興味津々というように取り囲んでいた。 どちらが勝つのかその行方を見守っているように。

「若先生、いいですか」
「……ああ」

 伊庭は一気に神経を集中させた。目を閉じ、あたりの音に耳を澄ます。しん…と静まり返った道場に背後に足音が響いた。

「やぁぁっ!」

 北進一刀流を修めているという若者が背後から竹刀を振り上げる。伊庭は咄嗟にそちらに竹刀を傾け、相手の竹刀を払いのけると 渾身の力で面を打った。よほど強打したのか彼はそのまま倒れこむ。
 だが、残った二人は背中を向けた伊庭に好機と言わんばかりに襲い掛かる。一人は突きの構えで、もう一人は正眼で。 遅いとしか言いようのない突きを払いのけ、正眼の男と向き合う。力任せに彼を押すと「むっ」と呻きながら男の体重が下がっていく。 だが後方にいた男が再び竹刀を振りかざした。伊庭は押しやっていた男から逃れ、背後からやってきた男の小手を弾いた。 男は竹刀を落とし、痛そうに手の甲を抱えた。
 残りは一人。この中では一番の使い手だった。十分な間合いを取り、集中を一気に彼に傾ける。男は突きの構えから正眼に変えた。 二人で円を描くように間合いを取り続ける。緊迫した時間が流れた。

 だが、ふっと身体の重心が崩れた。誰かの足に躓いたのだ。

(しまった…!)

 それが一番最初に倒れこんだ男の足だと気がついたとき、視界にたくらみが成功した不気味な微笑が目に入った。 仕組まれていた、と感じたもののいまさらバランスを元に戻すことはできず転倒せまいと手をつくのが精一杯だった。
 だがもちろん、男たちが狙っていたように背を向ける結果になる。

「そこだぁ…っ!」

 正眼に構えていた男が、急に突きの姿勢に戻り突進してきた。その勢いは練習試合の域を超えている。伊庭は悟った。 彼らは本気で怪我…あるいは自分を殺そうとしている。そして練習試合による事故だと主張するのだろう。

(…くそっ)

 彼らへの憎しみではなく、こんな安易な作戦に引っかかってしまったことが悔しく、情けなかった。
 だが押し寄せる突きの勢いを交わすには体勢が悪すぎた。伊庭は本能的に両手で突きを受け止めようとした。

「く…っ」

 体中に衝撃が走った。そのままの勢いで壁に衝突する。
 だが思っていたほどの痛みはなく、まさか外れたのかと恐る恐る目を開けた。

「もと…っ?」
「いたた…」

 なぜかいなかったはずの男――本山小太郎がなぜか伊庭を背中にして守るように倒れこんでいた。彼は左肩を押さえ眉間にしわを寄せていた。 周囲がざわめき始める。

「お、おいどうする…」
「なんでこんなことに」

 仕掛けてきた男たちがなぜかそわそわとしていた。表情は暗く、先程の勝ち誇った笑みはどこにいったのだろうと思った。

「…え…」

 やがてショートしていた思考が動き始め、伊庭は状況を理解した。伊庭の代わりに本山があの突きを受け止めたというのだ。

「け、怪我はないか?」

 しかし、本山は痛みを堪えつつも、笑顔をこちらに向けた。

「おっ…お前のほうだろう…っ!肩、外れているんじゃないのか?!」

 伊庭が本山の左肩に触れると、激痛が走ったのか本山が顔を歪め、冷や汗を流し始めた。完全に肩が脱臼していた。
 今度は伊庭が真っ青になり、道着を脱ぎ、その布で彼の肩を固定する。門下生が脱臼してしまったのを手当てすることには慣れていたが、 それが自分をかばった結果の怪我だと思うと、酷く動揺した。だが、今度は本山がなぜか目を逸らした。

「…せんせ、それはちょっと…」
「いいから。立てるか?近くにいい医者がいるから…」

 肩に掴まれというと本山は最初は遠慮したものの、伊庭が強引に彼を背負った。
 周囲はそれを遠巻きに眺めながら、二人を見送った。




 伊庭は行きつけの医者を講武所に呼んだ。先代から主治医として伊庭家にやってくる初老の医者は、慣れた手つきで難なく本山の腕を嵌めた。 「しばらく安静にするように」と言い聞かせ、本山の首から左腕を吊るように布で固定する。
 その様子を見守りながらどうしてこんなに自分が動揺しているのだろう、と思った。
 命に関わるような怪我でもないのに、胸が苦しくて仕方ない。どうしてかばったんだと怒鳴ってしまいたいくらいだった。 彼が守ってくれたのだと分かっているのに、素直にそれを認められない自分がいる。
(…けど、どうして庇ってくれたんだろう)
 その答えが聞きだせずに、伊庭は医者を見送った。

「せんせは怪我は?」
「……先生じゃなくていい。同い年なんだし」
「じゃあ八郎」

 これまでの敬称――というには甞めた言い方だったが――はどこに言ってしまったのか、本山は早速呼び方を、親族しか呼ばない呼び捨てにした。 自分から構わないといったものの、いまさら引っ込めようもなく伊庭は許容するしかなかった。

「怪我は…ない。おかげで」
「そりゃあ良かった」

 だから変になる。この男が満面の笑顔を浮かべるから。

 どうしてしまったんだろう。

「あの…な、なんで庇ったんだ…というか、ずっと見てて、なんで…というか…いや、だから、どうして…」

 支離滅裂な言葉しか出てこなかった。自分の高鳴る気持ちを抑えようと必死で、そこまで気が回らず…結局、本山の顔など一瞬たりとも見ないまま 言葉を並べていた。だが意外にも本山は嬉しそうに答えた。

「俺がずっと見てたの…知ってたんだ?」
「知ってるに決まってるだろっ!あんなに食い入るようにずっと見ていたじゃないか…っ」
「だって綺麗だったから」

 あっさりと答えた本山に思わず伊庭は「はっ?!」と目を見張った。しかしなんでもないことのように本山が首をかしげた。

「剣術。まるで舞踊みたいに流れるみたいで綺麗だし、目の保養。今日は仕事に手間取って遅れたんだ」
「あ…そう」

 からかわれたのか、褒められたのか…伊庭は笑顔の意図を読み取れなかった。だがその顔に悪意はないようなのはわかった。 講武所の連中とは違う、心からの表情を映し出していた。

「ああ、そうだ。あいつらに言っておいてくれないか。俺は大丈夫だって」
「え?」
「あいつらだってそこまで悪気があったわけじゃないんだ。八郎も許してやれよ」

 なんでもないことのように本山は微笑んだが、伊庭はそれに頷くことはできなかった。

「……見逃すわけにはいかない。養父も知っていることだし、問題になるだろう」
「だから、そこを何とか、な?」
「なんでそんなことをしなくちゃならねぇんだ」

 伊庭は鋭くにらんだ。

「あの乱取り、最初から悪意を持って仕組まれたものだろ。旗本の子息であろうものが、卑怯じゃないか!」
「だーかーら。あいつらだって理由が…」
「理由なんて、俺が邪魔だっただけだろうっ!」

 どうして平然と笑えるのだろう。こんな酷い怪我になって、もし打ち所が悪かったらどうするつもりなんだ。

「俺が目障りだっただけじゃないか…っ!なのにお前がこんな怪我をして…。こんなところ、もう二度と来ない」
「はちろー。聞けって」
「俺が憎いなら闇討ちでも辻斬りでもすればいい。そっちのほうがよっぽど正々堂々としているじゃないか」
「八郎」

 本山の声に耳を傾けないでいると、突然彼の低い声が伊庭を制した。
 そして気がつけば、彼の脱臼していないほうの手が顎を引き寄せ、体温が重なった。唇が触れた。舌が絡まった。息が――止まりそうになった。

「…んっ…ぅ」

 肉厚なのに器用に動く舌が口内を嬲った。歯列を舐められ、捻るように舌を絡ませ、吸い上げられる。 悔しいが味わったことがないほど、気持ちの良い口付けだった。身体が知っていたように痺れ、動かなくなっていく。
 おかしい。
 初めてであったはずなのに、どうしてこんなにも彼に従順になっているのか。
 彼の手が着物をまさぐり始める。身体中が疼いていく。

「…気持ち良い?」

 やっと離れ、最初にもらした彼の一言で現実に戻った。
 伊庭は渾身の力で彼の胸板を押し、離れた。彼が脱臼した腕を「うっ」といいながら庇ったが、そんなことさえ気にする余裕はなかった。

 なんだ?今のは、――接吻?なんでそんなことをする必要があるんだ?相手は――男だ。

「ば、っ…馬鹿野郎…っ!」

 伊庭は触れられた唇を拭った。何度も、何度も袖で。けれども、その生ぬるい感触は離れることを知らず――刻み込まれたと思った。

「気持ちよかったろ?」
「…はっ?」
「ずっと、触りたいと思ってたんだ」

 あっさりといわれた一瞬、何を言っているのか理解できなかった。だが、その単語を一つ一つ頭で並べると怒りが湧き上がってくるとともに、 羞恥が顔がそまった。その台詞は…まるで女に言うようなもので。言われる所以などないはずの音ばかりで。

「ふ、ふざけんなっ!」

 気がついたときには拳を振り上げてまで本山を殴っていた。思ったとおり彼の頬にクリーンヒットした。だが彼はまだ満足そうに微笑んだままで。

「顔真っ赤」
「うるさいっ!」

 まるで言葉が通じない異国人のように、本山は平然と言う。伊庭は耐え切れなくなって立ち上がり、客間を出ようとする。 これ以上傍にいたら、おかしくなるんじゃないかと思った。まるで駆け出すように動く心臓が止まらない。いつも見つめられていた瞳に、射抜かれた。

「八郎」
「っなんだよ…っ」
「もうちょっと周りを見ろよ」
「……うるさい…っ」

 伊庭は毒づくと、逃げるように客間から離れた。

 彼が言ったとおり、触れられた場所が熱く疼いてたまらない。動き始めた心臓は止まることを知らない。

 本当は。
 本当は、彼にありがとうとお礼が言いたかったのに。

「いまさら……っ」

 いえるわけがない。
 もう、あの瞳に囚われるのは二度と御免だ――。




 伊庭の意思は無視され、乱取りを仕掛けてきた若者は何の処罰も受けることなく終わった。噂によると本山が庇ったということだが、 被害者である彼がそういうのなら処分を下すこともできなかったのだろう。
 三日が経ち、伊庭はいつもどおり講武所に向かった。逃げたと言われるのは癪だし、本山に会う手段がそれしかない。

(別に…会わなくてもいいんだけど)

 むしろ会いたくもない。
 だが、伊庭を庇った上での怪我だ。見舞い位しなければ体裁が悪いし、気持ちも落ち着かない。できればはやく彼の怪我が治るように、 月日が経つのを待ちたいものだ。
 ……とシビアに考えていたつもりだが、本当はずっと落ち着かなかった。
 ねっとりとしたあの彼の口付けが何度も反芻し、仕舞いには夢にも現れるようになってしまった。

(…どうかしてる)

 そんな自分を蔑むこともできず、伊庭は悩み続けていた。

 そんなわけでいっそのこと正面からぶつかってしまおうと思った。しかし、思っていた以上に講武所の雰囲気は険悪なものだった。 先日の乱取り事件から三日。伊庭が道場に現れると、一気に沈黙し、視線が伊庭に集まった。それは好奇な感情もあり、敵意を向けられたようでもあり。
 馬鹿らしいと思った。
 自分の何が気に食わないのかは朧にわかっているつもりだ。だがそれがあからさまな敵意に直結するほどに膨れ上がるものだろうか。

『もうちょっと周りを見ろよ』

 本山の言葉が脳裏をよぎった。何が見えていないというのだろう、何がわかっていないというのだろう…。

「若先生」

 伊庭のことを若先生と呼ぶのは講武所の人間だ。伊庭が近々教授方へと推挙されるという噂が広まって以来、まるで厭味のように皆がそう呼び始めた。

「…なにか」

 振り返るとやはり先日の乱取りのときの男たちがいた。加え、前以上に腰巾着が多くなっているようだ。ぞろぞろと伊庭を取り囲む。

「この間のことですけど。若先生もあのままじゃあ引き下がれないでしょう?……守ってもらうなんて、恥ずかしいじゃないですか」
「……」

 本山のことだろう。守ってもらったつもりはないのだが、事実なので伊庭は押し黙る。すると調子を良くした男が用意していた言葉を放った。

「決着をつけませんか」
「決着…?」
「講武所での乱闘は禁止ですし、先生も体裁が悪い。……今夜、裏の寺の境内で待っています」

 どうやら強制的な挑戦状を叩きつけられたようだ。言葉の節々に憎しみや憎悪を感じる。それはいままで向けられたことのない感情だから、 伊庭にとっては新鮮ではあるが、決して良い気はしない。

「…いいでしょう」

 しばし逡巡したものの、伊庭は頷いた。鬱憤を晴らすにはちょうど良い――いまはとにかく、無心になっていたい気分だった。




 空には三日月しかなかった。星の小さな煌きも雲の奥に隠れてしまったようで、あたり一面は真っ暗だった。 よく稽古で利用するこの場所も例外ではなく、夜に包まれていた。人の声一つしない。そしてそこに人工的な炎の光が加わると、比例するようにさらに闇は深くなった。

 やってきたのは伊庭と、5,6名の男たち。炎で半分しか顔は見えないが挑戦状を叩きつけてきた彼らに間違いはないようだ。

「試合ですか、乱取りですか…。どちらにしても夜は冷えます。サッサと終わらせましょう」

 ため息交じりに話しかけると、どこからともなく舌打ちが聞こえた。

「…俺たちは、あんたのそういうところが気に食わないんだ」

 別に牽制したつもりはなかったのだが、彼らの気に障ったようだ。暗闇で表情は見えないが、一気に空気が重くなるのがわかった。

「気に食わないのは分かっています。お互い顔も合わせたくないでしょう。だからはやく終わらせようって言っているんです」
「…若先生。こんなところじゃ顔もよく見えない。……そこに古い廃屋があるんです。汚いですが、十分使える。少し話をしましょうよ」

 リーダー格のような男が伊庭に提案した。伊庭としては話し合ったところで解決する問題ではないとは思ったものの、彼らの気が済むんなら、と頷いた。

 境内の横にある廃屋は昔は祠として使われていたようで、仏壇のあとや神棚のようなものが残っていたが、使えない場所ではなかった。 だが伊庭が最初に足を踏み入れると、埃っぽさで咽てしまった。もう何年も人が使った形跡がないようだ。人気が全くないため不気味だった。

 伊庭が顔を顰めていると突然、明かりが消えた。伊庭が振り向くと木製の重厚な扉が閉められていた。

「…おいっ!出せ!」

 伊庭一人取り残された祠には一切窓がない。真っ暗な暗闇で感覚だけを頼りに扉を開けようとする。だがガチャと鍵をかけたような音がして 彼らの意図が理解できた。

「若先生。しばらくその中にいてくださいよ」
「こんな真似…っ 許されると思っているのか!」

 伊庭が思いっきり扉を叩く。だが手が痺れただけで、その扉はびくともしなかった。

「大丈夫ですよ。誰かが来て、運がよければ出られます」

 外から聞こえたのはあのリーダー格の男の声だ。勝ち誇ったように余裕ぶったそのトーンに伊庭は憤った。

「……っ この卑怯者…!」

 伊庭は罵った。だが彼らはせせら笑うように答えた。

「卑怯者で何が悪いんですか」
「…っ?」
「若先生みたいに誰もが頭が良いわけじゃない、剣術ができるわけじゃない、身分を得ているわけじゃない。そんな俺たちの気持ちがわかりますか」
「…なんだよ、それ」
「考えたことがないんですよね」

『もうちょっと周りを見ろよ』 

 そういった本山の言葉が脳裏をよぎった。

「貴方が卑怯だと思うことは俺たちにとっては正義かもしれない。……そういうことです」
「……っ」
「俺たちはあんたの見下したような目が気に入らないんですよ」

 見下した目。
 伊庭は何か図星を差されたような気がした。そういえば彼らを責めるばかりで、自分は彼らを理解しようとしただろうか。 彼らが自分に向けた目を理解しようとしただろうか。
 本山の言葉の意味はそういうことだったのだろうか…?

 しばらく逡巡していると、男たちの気配が消えた。もともと人気のない山の中にある神社だ。辺りはシーンとして何の音も聞こえなかった。 伊庭は何度か扉を押したが、重厚なそれは軋むだけで動きそうもなかった。
 伊庭は早々に諦め、暗闇の中で膝を抱えた。しばらく頭を冷やすのもいいかもしれないと、思った。

「そういえば…昔もこんなことがあったな…」

 暗闇の中で思い出したのは幼い頃のことだ。
 本を読むことが好きで、剣術の稽古に身を入れなかった日々。それでも許してくれていた養父に「将来は学者になる」というと酷く叱られたことがあった。 普段は何をしても許してくれていた養父だが、「自分の立場を考えて、思い直しなさい」と、伊庭を倉に閉じ込めた。 当時十五歳だった伊庭は、暗闇という恐怖におびえながら、はやく朝が来ないものかと考えた。
 そしてどうしてこんな家に生まれてしまったのだろうと思った。せめて医者かそこらに生まれていたら、きっと学者になる夢も賛成してもらえるのに。
 人からは羨ましがられる家柄が、あの頃は重荷で仕方なかった。

「あいつらも…同じか…」

 結局、講武所の彼らも同じなのだろう。家柄が良いと褒められて、けれども剣術ができず、世の中の激動についていけず…その矛盾に苛立って。 何もかもを手に入れているように見えた伊庭を疎んじた。

『もうちょっと周りを見ろよ』

 そう諭した本山はきっと伊庭のことを伊庭以上に知っていたのだろう。試合中に彼が向ける視線の中に、そういう意図がもしかしたら含まれているのかもしれない。 もしそうなら自分はさぞ滑稽に映っただろう。プライドばっかりで壁を作り、相手を理解しようともしなかった自分を…。

 伊庭は唇に触れた。三日前に刻み込まれた口付けの感触は、いまだ残ったままだった。そして「八郎」とあの柔らかな声が名前を呼ぶ。

 暗闇の中で瞼に映る彼の顔。どうしてこんなに思い出されるのだろう。まるで……。
 まるで……。

 伊庭はそのまま、暗闇に落ちていった。




 倉庫に閉じ込められたあのとき、結局、その扉を開いてくれたのは養父だった。
 朝日を迎えた倉庫は冷えていて、すぐに囲炉裏の前に連れて行かされた。冷え切った身体を布団に包まり暖を取りながら、 養父には二度と「学者になりたい」などといわないと決めた。それは倉庫の中に閉じ込められることが怖かったからではなく、 扉を開いたときの養父の表情が酷く後悔を滲ませ、淀んだものだったからだ。
 誰にもあんな顔をさせたくない。そう思った。


 …意識を取り戻し始めた時。自分の身体が妙に温かいことに気がついた。それは懐かしいような、心地よいぬくもりで自然と身体を寄せて しがみつくようにしていた。まるで赤子が母を求めるように。

「そんなに必死に抱きつかれると……困ったな」

 暗闇の中の孤独を味わっていたはずなのに、違う男の声がした。
 伊庭ははっと目を開けて、目の前の男を見た。明かりを持ち込んでいたらしくぼんやりと想像していた通りの男が目の前にいた。

「本山…っ?」
「お迎えに上がりましたよ。せんせ」

 本山が冗談めいて微笑んだ。

「なんでここが…っ」
「あいつらも大人数でこういうことするのがどれだけ目立つかわかってないんだよな。人数が多ければ多いほど計画は漏れやすい。 ま、こんな作戦に引っかかるのもどうかと思うけど」
「……っ」

 伊庭は返す言葉がなく目を逸らした。
 だが、目を逸らしたい理由は他にもあった。伊庭が今まで「温かい」と感じていた場所が本山の胸の中だったのだ。そうとも知らず 抱き返したことを考えると…いまさら羞恥が伊庭を襲った。

「…悪かったな…っ」
「嘘だよ」

 伊庭は急に腕を引かれ、強く抱きすくめられた。もちろんそれは目の前の男に。

「おい…っ、なんのつもり…っ」
「お前がいなくなったって聞いてあいつらにこの場所聞き出して。倒れてるお前を見て俺がどれだけ心配したとおもってんだ…っ」

 本山の声が心なしか震えていた。吐き出していた言葉が大げさな比喩ではないことを悟った伊庭は、抱きしめた腕を解くことなく、ただ 「ごめん」と謝った。
 この祠に閉じ込められたのは自分のせいではないが、それまでの軽率な行動は伊庭自身が本山の注意を聞き入れず起こしたものだ。 彼に責められても仕方ないと思った。

「詫びなら違う形でしてくれよ」
「え?…っおい!」

 本山の右手が急に袴の中に入っていった。弄るような動きの目的は伊庭にでもすぐに理解した。

「てめ…っ!なにしやが…っ」

 彼の硬骨な右手が激しく伊庭の尻をかき乱した。まるで揺さぶるような律動は確かに伊庭に快楽に近いものを与えるが、それが決定打にはならない。
 そのうち彼の太い人差し指が、一番奥の窄まった場所に触れた。揉み解すようにして差し入れてくる。

「っ…!」
「やめろって」

 伊庭は傍においていた長刀から柄を手にして、本山の喉元に突きつけた。
 本山は伊庭に触れていた手を離すと、まるで犯罪者が捕まるかのように両手を挙げて見せた。

「…ごめん。調子に乗りすぎた。でもおまえそんな危ないものを人の喉に突き刺すなよ」
「当然だ。身の危険を感じたんだ」
「…全く、空気を読めない奴だな」

 本山は苦笑すると小さくため息をついた。

「はやく俺のものになっちまえよ。どうせそうなる」
「誰がそんなことを言ったんだ。お前は気ちがいか?預言者か?男に抱かれるなんて真っ平ごめんだ」
「自分からさそっておいてよく言う」
「誘ってない!」
「俺に抱きついてきながら、そんな気はないだって?なんて思わせぶりだだ」

 だからそれはそういう意味じゃない。
 だが、そんな否定を彼が受け入れてくれる様子はない。伊庭は小さくため息をついて本山の顔を見た。

 いつかこの男を好きになるときが来るのだろうか。
 知り合ったばかりの、何も知らない、この飄々とした男を?

 でも、ただ今は。

「…膝」
「ん?」
「膝貸せって!」

 伊庭は強引に本山を正座させると、その膝に突っ伏すように顔を埋めた。

「俺は眠いから朝まで寝かせろ。そしたらさっきのことは忘れてやる」
「お前は酷い男だな。生殺しだ…」
「じゃあさっさと嫌いになれ」
「それは無理」


 今は、このぬくもりに抱かれたいと思った。

 少し高めの本山の体温は、伊庭の少し低い体温と混ざり合って空気に、溶けた。いつか同じ体温をもう一度共有することがあるのだろうか。 そんなことを思いながらゆっくりと瞼を閉じた。









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