Doll



僕には人間の基本的な愛に欠けていると思う。
親に愛されたことを知らない、可哀相な子供だと客観視した僕が僕を見る。
人を愛したって、裏切られるのを待つだけだ。
人に愛されたって、幻滅されるのを待つだけだ。
それなら、何も知らない方がいい。
愛すことも、愛されることもしなければいい。

そんな僕に光をくれたのは、「あの人」だった。
僕が何も求めない変わりに、「あの人」は僕を求めた。
親に教えられなかった愛を、「あの人」は僕に教えた。


けれどそれによって僕の人付き合いが変わったわけではなかった。
僕の愛は「あの人」限定のものだから。
だから「あの人」は僕の一番。
一番の、人。



Doll −ドール− 1



新選組屯所、八木邸。
結成間もない狼たちが群れをなす巣だと、京ではもっぱらの評判だ。
田舎であるうえ、このような有様だから誰もこの近所に寄りつかない。
今では向かいの前川邸とともに、家だけ貸し出してどこかに「避難」しているという状況だ。

そんな狼の中に、一人眩い美青年がいる。


「思いを遂げさせてくれ…!」
名前も知れない隊士が、青年を近所の壬生寺に呼び出していた。
青年の名前は楠 小十郎。つい先日入隊したばかりの新入隊士だった。
十七歳、という年齢に相当する若々しさ、色白、目元はぱっちりしていて可愛らしい、という言葉がよく似合う。
楠は小さく「はぁ」と溜息を付いた。
入隊してから何度目だろうか。数えるのも馬鹿らしい。
理由はわからないでもない。
男ばかりの集団、そして遊郭に通うほどの金を持ち合わせていない。近所に女が寄りつくわけがない。
それでは変わりに、と目がいったのが楠のような美男子、ということだ。
「……申し訳、ないんですけど」
望んで美男子に生まれたわけではないので、もちろん男色に興味のない楠は丁重にお断りしようと思っていた。
自分が新入隊士の身分、というは百も承知している。
だからといって先輩の言うことを何でもほいほいと聞く程、楠は子供ではないのだ。
「僕はそういうことに興味はありません、それに……」
それに、と口にしようとした言葉を飲み込んで、楠は男の返事を待った。
だが、それは芳しくないものだったのは言うまでもない。
「…できない」
男は小さく呟くと、楠の肩をつかみ壬生寺の壁に押しつけた。
「ぐっ」と唇を噛んだ楠を、狂気に変わった男の目が見つめる。
「可愛い顔して、従順じゃないんだな…」
その言葉が皮肉なのか、それとも褒め言葉なのか。
楠にはわからなかったが、次に男が為すことは野生の本能でわかる。
押し倒した男の袖をつかみ、試しに
「やめてください」
と頼むが、聞き入れる様子はまるでない。
別に不慣れなことではなかった。こうやって言い寄らせるのも、身体をつなげるのも……。
「……それでは仕方ないですね」
楠の言葉に、「諦めたのだ」と思いこんだ男が「じゃあ」と袴に手をかけようとした所で
グッっと男の手首をひねり、「ぎゃあ!」と悲痛に叫んだのを聞いて脇腹を鞘で突く。
刀を抜いていないとはいえ、これはなんの防具もしていなかった男にとっては激しい衝撃で
「う、ウッ……!」
と、男はその場に座り込んだ。
座り込んだ男を見下すように、楠は「もう近づかないでください」と言い放ち、
その場を去る。
男は恨みがましい目で楠を見つめるが彼が振り返ることはなかった。


楠が壬生寺の裏路地からでると、そこにある人物と鉢合わせた。
新選組副長、土方歳三。
芹沢鴨の死そして新選組となってから、彼が「変わった」という人は多い。
鬼のように。
「……何をしているんだ」
裏路地から出てきたのを不審に思ったのか、土方が楠に尋ねた。
楠は躊躇いながらもハッキリと
「…先輩の隊士に言い寄られまして」
と答える。すると土方は苦笑して「そうか」と言って
「お前もなかなか大物だな」
と付け加えた。
「…副長こそ、何をされていたんです」
楠は逆に聞き返した。雨が降りそうな空模様に、散歩は不審だ。
「さぁ、なんだと思う」
「僕にはわかりません」
きっぱり答えると、土方はうっすらと笑みを浮かべ、そして何も言わなかった。
楠から見ても、土方は相当に男前だと思う。自分とは違う種類の美男でもあると思う。どこか、気高いような。
そしてもしかしたら、女との待ち合わせかも知れないな、と思う。
最近ではさっぱり女の近づかない屯所だが、彼はまた別だろう。
歩けば女が寄る、というのがもっぱらの評判だから。
楠は一礼してその場を去ろうとした。空も、そしてこの男も雲行きが怪しい。

「気にならないのか?」
去り際に土方が楠に投げかけた。
「……別段、気になりません」
何が、と聞きたかったが聞ける立場ではないだろう。
ふと足を止めて彼の答えを待った。


「…女を待っている、といえばお前は妬くか?」
「妬きません」
きっぱりと答えた楠をやっぱり土方は笑った。嘲笑ではない、どこか穏やかな微笑み。
「貴方に女がいようと僕には関係ありませんから」
「…顔がそういっていないが」
「見間違いでしょう」


「僕は貴方を愛してませんから」
「へぇ」

面白い玩具を見つけたかのように土方は楠を見つめた。その強い瞳で。
だが楠がたじろぐことはない。堂々と正面を見て言い切った。

「愛すことと、抱かれることは別でしょう」
「感情のない玩具か、」
はい、と頷いた楠は土方に負けをとらない微笑みで「では」と壬生寺を後にした。


「そろそろ雨が降りますよ」
楠は立ちつくしたままの土方に、言った。
ちょうど空を見上げると灰色の雲がスピードを上げて空を覆っていた。
と、その隙をつかれて土方が楠の傍により、細い顎を手に取った。
しばらく眺めるようにして楠を顔を見渡す。
楠は動かなかった。抵抗もしなければ拒否もせず、従順でもなかった。
「……なんです」
「吸いたいと思って」
「どうぞ」
「そうか」

雨がポツリ、ポツリと頬を流れそして重なった唇を濡らした。





朝早く、楠はゆっくりと副長の部屋から縁側へ出た。
土方はまだ健やかな寝息を立てて寝ていた。そしてまだ隊士たちは誰一人起きていない。
ほ、と息を吐いて部屋を後にしようとした。



Doll −ドール− 2



「早いですね、楠君」
突然声をかけられ、ハッと振り向くと優しげな男の顔があった。
副長助勤、沖田総司。新選組で一番の剣客だ。
「…おはようございます」
部屋から出たのを見られなかったら良いが…と、ちらりと総司の顔を見た。
だが彼は微かに微笑んで
「稽古に差し障りがないようにしてくださいよ」
と諭すように言った。どうやら総司は楠と土方の関係に気が付いているらしい。
だがその言葉が嫌みなのか、そうではないのか、楠にはつかむことができなかった。
彼の表情は変わらなかったから。
「……すみません」
「貴方が謝ることじゃないでしょう」
敵意を向けられたような気がした。その鋭い目が稽古のそれと同じだったから。

楠は総司が苦手だった。
別段直接何かをされた、というわけではないが清純そうな印象が自分には合わないものだと
野生の本能で感じていた。
清純、という言葉も似合っているのか、そうでないのかもよくわからない。
だが彼は血を浴びてばかりいるのに、どうしてか「白」というイメージが消えないのだ。
それに彼の微笑みは、本当に心から笑っているのかそれとも嘲笑を含んでいるのかわからない。
何もわからない。どうしていいのかわからない。
楠にとって一番関わりたくない人物の一人である。
「…それでは、失礼します」
小さく頭を下げると「ええ」とやや義務的な口調で総司が返事をして、二人はその場を去った。
楠が総司が振り返って自分を睨んでいることに、気が付かないフリをして。


「……寝たフリしたって無駄ですよ。私にはわかりますから。起きてくださいよ」
総司がそのまま向かったのは副長の部屋だった。
土方が寝ている隣には微かに楠の体温が残っていた。
「…行ったか、奴は」
のっそりと怠そうに土方が体を起こした。着物がすっかりはだけている。
色香の後が漂っているようで、総司は一度目を逸らした。
「どういうつもりですか」
総司が厳しい口調で尋ねた。

総司が楠と土方の関係に気が付いたのは、つい先日だった。
今日のように少し早めに総司が厠に向かう途中、からかいがてら土方を起こそうと
部屋を尋ねると抱きかかえられるように楠が寝ていた。
驚きよりもむしろ疑問の方が総司には強かった。
どうして楠を相手にするのか。
楠は確かに美男だが、それまで土方に男色の気は無かったはずだ。
楠が目覚めさせた、と言えばそれまでだが。

「どういうつもりって…どういうつもりだと思う?」
なぞなぞのように尋ねる土方に、口を尖らせて拗ねてみせる。だが土方は答えなかった。
もともと答えるつもりなどないようにも思える。
「……楠君だけ特別扱いというのもどうかと思いますよ」
「妬いているのか」
「…妬いてます」
素直に口にするのは癪だったが、総司はあっさりと返事をした。
すると土方が吹き出すように笑った。
「お前はあいつが嫌いか?」
「……そもそも、まだ入隊して間もないのに好きも嫌いもないですよ」
楠にはどこか冷めたような、一歩引いたような、そんな雰囲気を感じる。
まだ十七歳のくせに、行動の一つ一つは冷静沈着で、全く子供らしくない。
かわいげがあるかと聞かれれば答えはゼロだ。
「…私は彼が間者ではないかと思ってます。土方さんに近づくのだってそのためで…」
「滅多なことを口にするな」
ピシャリ、と副長の声で土方が制した。総司も口を噤むしかない。
こんな発言は総司らしくなかった。
「じゃあ答えてください。何故土方さんが楠くんをそんなに気にするんです。」
「……さぁ。身体の相性が良かったからかな」
ふっと小さく息を吐き込むように笑って、土方は布団からでて羽織を被った。
そして今日は天気がいいな、と呟いて総司を置いて部屋を出た。
総司は眉間にシワを寄せたまま、俯いた。




楠は桶に水を汲み、顔を洗った。
もう六月も終わるという頃なのに、まだ朝の水は冷たい。温かかった肌には目を覚ます丁度良い冷たさだった。
まだ鐘が鳴っていないらしく、隊士たちは誰一人起きていない。
隊士部屋からは鼾さえも聞こえる。
楠は怠い腰を抱えながら、手ぬぐいを濡らした。
土方の手管は慣れたものだった。
男の扱いは慣れない、と言っていたのだが一夜にして楠を翻弄した。
楠にとって初めての男ではないのだが。

「……楠」
背後から野太い男の声がした。耳元で囁くその声にぶるりと寒気がする。
背後の気配に気が付かなかったわけではなく、わざと気が付かないフリをしたのだが。
「……おはよう、ございます」
男は昨日無体を強いた男だった。
その顔は昨日の様子とはまるでちがう、正気が抜けたような、亡霊のような。
男はグッと楠の細い腕をつかんだ。
そのつかむ手に優しさなど少しもない。愛しさなどひとかけらもない。
「……できてたのか」
男は譫言をいうように、虚ろな目で頭一つ違う楠を見下ろす。
なんのことだ、と聞き返そうとした所で
「副長とできていたのか」
と。
「なんのことですか」
さも、心外だ、という顔をして楠が聞き返した。
土方とのことを隠しているわけではない。別に誰に知られても構わないと思っていた。
だが周りがうるさいのはあまり好きではなかったと言うだけで。
それは土方も同じだったと言うだけで。
男は急に胸ぐらをつかんだと思うと、引き寄せ嘲笑するように続けた。
「……接吻の後、残ってるぜ」
「……」
確かに胸元には赤い印、もとい刻印が刻まれている。
バッと隠すように男から逃れる。
「…別に、できているわけではありませんから。遊びでしょう」
きっとそうに決まっている。
土方が何を考えて自分を抱いているのかは知らないが、きっと本気ではない。

「……じゃあ遊びなら誰にでも抱かれるのか」


「どうぞ」





別に何を求めるわけでもないのだ。
土方にも、この男にも。
優しさも、愛しさも、何も要らない。

「あの人」で、ないのなら―――…。






昨日の雨から一転。カラリと晴れた日。
その昼過ぎ。
屯所で戸板で運ばれてきた隊士がいた。
血まみれで、壮絶な死に顔をしていたので刹那、誰も彼が誰だかわからなかった。
だが、男の名前は眞田、と言って新入隊士の一人だった。


Doll−ドール− 3


「……ひでぇな」
肩口から背中を一刀両断された眞田の致命傷を沈痛な眼差しで見ながら、原田は息を飲んだ。
眞田は原田の十番隊に配属された隊士だった。
特に親しかったわけではないのだが、初めて、自分の組から死人を出したのが衝撃だったらしい。
死に様もとても直視できないような状態だった。
するとその隣に野次馬の中から、総司が死体を覗きにやってきた。
「…誰です?」
「眞田だ。ほら、この間の新入隊士の試験でお前と打ち合っただろ」
「…そうでしたか」
総司は切り裂かれた死体を見ても、狼狽えることはなかった。
男とは打ち合った、らしいのだが総司の記憶に全くない。
「見つけたのは誰だ」
自分の組のことは組頭が責任を持つ、というのが決まりだったので原田が事務的な口調で
野次馬に尋ねた。するとその中の一人が手を挙げて野次馬から抜け出す。
「私です」
「場所はどこだ」
「壬生寺の少し奥です。私は早朝調練に出たのですが、その時に眞田君が血まみれで…」
「辺りに人は?」
隊士は首を振る。原田は「ちっ」と舌打ちをして溜息を付いた。
考えられるのは隊内での私闘か、新選組の恨みを持つ長州の仕業だが
隊内で彼の評判はそれほど悪くはないし、素行も女関係も問題ない。
「昨日はいたんだな」
「はい。しかし、眞田君は朝早くに起きてどこかに行ってしまって…」
彼を引き留めれば良かった、と隊士は顔を歪めたがどうしようもないことも知っている。
総司は彼の肩を叩いて、野次馬の中に戻した。

「……辻斬りか」
「新選組に恨みを持つ人は大勢いますからね。それこそ、不特定多数」
「そうだな」
二人で不謹慎ながら苦笑をした。
「刀を抜いてねぇ所からして、相手は並の辻斬りじゃねぇな。」
死体をもう一度見た原田が確認するように総司に同意を求める。
総司もあっさり同意して「ええ」と頷いた。
「背中で一刀両断。立派な後ろ傷でしょう。彼の運と腕が悪かった」
きっぱり総司が言い切ると野次馬達は、ごくり、と息を飲んだ。
今度は我が身に降りかかるのかも知れない、そして総司は同じ言葉を吐くのかも知れない。
原田でさえも、ぶるり、と身震いを起こしそうだったが
「ま、原田さんも気を付けてくださいよ」
と総司が軽い冗談を言う物だから、つられて「コノヤロウ」と笑った。


「葬儀の必要はありませんね。立派な士道不覚悟、生きていたとしても切腹でしょうから。
 彼の身柄は故郷から兄が引き取りに来るそうです」
淡々とした総司の報告を、土方は顔を逸らして聞いた。
総司はいつの間に、こんなに人の死に鈍感になってしまったのだろうか、と。
別に非難するつもりはない。きっと自分も随分鈍感になってしまったのだろうから。
だが、総司の変貌を見守るのは、随分と哀しかった。
……それを口にすると、総司は怒るのだが。
「……死んだのは、誰だったか」
「眞田です。十番隊の。まだ新入隊士だったから土方さんも知らないかも知れないです」
「眞…田か」
反復した土方の表情が変わったのに気が付いて、総司が
「知り合いですか」
と尋ねた。いや、と答えてもういい、と総司を下がらせる。
総司は疑問と、不本意とを顔に浮かべて部屋を出た。

「眞田か」
しん、となった部屋で一人きりでもう一度死んだ男の名前を繰り返した。
決して彼のことを詳しく知っているわけではなかった。むしろ情報は皆無に等しい。
だが、男とは一度面識があったはずだ。
あの、雨の日。
何気なく出かけた壬生寺で楠にあったとき。楠を無体に襲おうとしていた男。
あれは誰だ、と問いつめたときに楠は
「眞田さんです」
と答えたのだ。



「楠」
厠に出かける……という自分の中だけの口実を作って土方は平隊士たちの部屋を通り過ぎようとしたとき。
土方はさも、「たまたま」を装って楠を呼んだ。
楠は部屋の隅で書見をしていたのだが、土方の声に気が付いてこっちにやってきた。
部屋にいた隊士たちは猛獣にあったように、ビクビクしているものや、
その行動に疑問を感じるものがいたが、構わず土方は部屋に楠を入れた。

「眞田が殺された」
土方の言葉に「知っています」と楠は答えた。
白皙の美少年は、顔色一つ変えず土方の顔を見つめ返した。
「お疑いですか」
「……眞田に恨みを抱いてるってのは、お前以外に思いつかなかったんでな。だが疑ってはいねぇ」
「嘘は信頼を無くしますよ」
楠はまるで大人のような口ぶりだった。返って土方の方が安易な質問か、と思った程に。
「貴方は僕を疑っている」
「否定はしないのか」
「疑われている僕が、何かを言ったところで疑われている事実は変わりませんから」
可愛くないな、と思う。
何事にも初々しく無いというか、土方が初めて楠に手を出したときもそうだった。
いつものことだ、という風に身を任せた。感情のない人形のように。
「……疑っているが、確証はない」
「そうですね」
今朝の事件については知っているのか、楠は動揺一つしなかった。大木のように。
まるで俺が振り回されているようだな。
土方が己を嘲笑していると、楠がぽつり、と口を開けた。
「……結局貴方も、他の人間と変わらない」
彼は…蔑むような、批判するような……どこか悲観している瞳だった。
「全身全霊で、僕を愛するなんてできないくせに、所有権だけ主張する」















消えるはずのない傷を。
忘れるはずのない痛みを。
「あの人」は癒してくれた。



Doll −ドール−4



「十番隊だけ恨まれているんじゃないですか?」
戸板で新たに運ばれてきた死体に、総司は肩を竦ませて苦笑した。
眞田の殺害からまだ三日も経っていない今朝。
屯所に運ばれてきたのは、またもや後ろ傷を負った、十番隊の若い平隊士だった。
無骨で大柄の男だが、刀は背中から腹にかけて貫かれている。
「…矢部だな」
原田は血だらけのその死体を見て確認した。
普段は明るい彼だがさすがに二度も続くと気色が悪いのだろうか。
総司が軽口を言えるような状態ではなかった。
「また目撃者はなし。またこの人がどうして夜中に屯所に出たのか、それも不明。
 これじゃまたこの間のように、犯人の探しようがありませんね」
「ああ。それにまた俺の隊だ。どっかから恨みでも買ってんのかもしれねぇな」
「身に覚えが?」
「ねぇ…けど」
その言葉には躊躇いが籠もっていた。あながち身に覚えが全くない、とは言い切れないのだろう。


矢部の死体を処理し、原田と総司は報告のために副長室に向かおうとした。
だが、その途中で重苦しく原田が口を開いた。
「実はな、総司。俺は眞田と矢部に共通点があることを知ったんだよ」
「え?」
妙に重々しく告げるので「ここではやめましょうよ」と隣の壬生寺に誘った。
丁度子供達はまだ集まっていないのか、誰もいなかった。
「で、共通点とは…?」
「実はな…ああ、これはあくまで俺の推測だから土方さんに伝える必要はねぇんだけど」
と付け加えた。
「二人とも楠に言い寄ってたんだ」
「……」
楠、と言う名前を聞いただけで総司の胸には深い、暗黒のようなものが渦巻いた。
これは嫌悪だ。
「…眞田は楠を何度も口説こうとしたらしい…。まぁ念願叶うことはなかったらしいんだが。
 矢部の方は楠については異常って位つけ回してるらしくてな。隊じゃ崇拝者っていわれてるよ」
「……」
「あの綺麗な顔じゃ想像しにくいが、俺は楠を疑ってるよ」
「…わかりました。私も彼については昔から気になってたんですよ」
負の存在として。

「はぁぁ!こういう話は俺も苦手なんだけどなぁ。そもそも男のどこがいいのかわっかんねぇしな」
急に明るい口調になった原田は、どうやら総司にすべてをはき出してすっきりしたようだ。
総司も先程の負の感情から離れ、つられて微笑んだ。
だが原田は大きく首を傾げて続ける。
「しかし土方さんも楠にめろめろだろ?」
「……原田さん、知っていたんですか?」
「つうか、隊じゃ知ってない奴はいねぇぜ」
総司はてっきり土方と楠の関係は誰も知らないものだと思っていたのだが。
「ここ二、三日の間にどんどん広まってる。ま、土方さんも別に隠してるわけじゃねぇみたいだしな。
 この間は堂々と平隊士部屋から楠を呼び出したらしいしな」
「……へぇ」
雲が覆っていく。じわじわと、蝕むように。
「楠も若いくせにその辺堂々としてるし。これで楠に手を出す奴は少なくなるとは思うがなぁ〜」
「……そうかも、知れませんね」
ま、昨今の男色騒動もこれで収まるだろ、と原田は軽い冗談を言って壬生寺を後にしようとする。
総司はグッと歯を噛みしめて、原田の後に続いた。







「また、殺されたそうですね」
淡々と語った楠の口調は、少しも焦りを感じていない落ち着き払った言葉だった。
人が死ぬことにまるで慣れてしまっているような。
どこかの誰かに、似ているような。
土方は溜息混じりに一息ついて、お茶を飲み干した。温かかったはずのお茶は、既にぬるくなっていた。
「…お前じゃないんだろう。一晩中俺の隣で寝ていたからな」
証拠ならある。そう言った言葉を覆すように楠は小さく笑った。
「夜の内に抜け出して殺したっておかしくありませんよ。矢部さんは僕にとって良い存在ではありませんでしたから」
全く自分を擁護するつもりはないのか、または開き直っているのか。
ただその声色だけは変わらなかった。
「…楠、一度尋ねたかったことがある」
「何です。僕が殺人犯かってことですか?それとも長州の間者といういことですか?」
土方は悪びれもない楠の問いに答えなかった。
「…お前が口にする『あの人』ってのは誰だ?」
「……」
それまで器用な程巧みに動いていた彼の口唇が、少しだけ震えて閉じられた。
それは畏怖の態度ではない。むしろ僅かに口元を綻ばせている。
「…言えません。「あの人」は僕にとって神様です」
「……ふん」
神様、か。
意外に幼稚な表現に初めて彼の本質に触れた気がした。
「それに…名前も知らない」
「え?」
胸に手を当てて、まるでその思い出に再会するように楠は微笑んだ。
「……その時、まさに死のうとした僕に…手をさしのべてくれたのは「あの人」です。
 「あの人」が僕を生かしてくれたといっても過言ではありません」
まるで神様に跪く天使のような微笑み。
柔らかな光があふれ出し、楠が別人のように土方には映った。
うっとりとした、何かに魅了されたような。
「…だから、僕は何も要らない。「あの人」以外、なにも、何も要らない……」
だから、俺も要らないのか。
思わず口に出そうとした言葉を、土方は咄嗟に噤んだ。
この子供に必死になる自分が、馬鹿げているではないか。
だってそうだろ。
楠は、何も求めていない。
その「あの人」だけを求めているのだ。

「……じゃあお前は「あの人」とやらのために「間者」として俺を騙すために抱かれる…のか」


「…すべてを知った上で僕を抱く貴方が僕にはよくわかりませんけど」
「俺だってわからないことを、お前がわかるはずはない」
どうして楠を抱くのか。
そして抱いた後に必ず訪れるのは後悔だけなのに。
偽りでもその純粋なものを犯してしまった後悔だけなのに。
「俺はお前を見ると……苛々するんだ」
「……」
楠は刹那驚いた顔を見せたが、すぐに不思議そうに土方を伺った。
「…見た目純粋そうに見えるくせに、腹黒くて何を考えているのかさっぱりわからねぇ。
 抱けばそれでお前を征服した気分になれる瞬間はあるが、それでも後に残るのは後悔だけ。
 綺麗なはずのものを汚してしまったような罪悪感だけだ」
土方は楠が綺麗だとは一瞬も感じたことはなかった。
確かに傍目に見れば白皙の美少年、を称されるだろう。
同姓を魅了する程、女のように楠は可憐なのだから。
しかし彼を心から綺麗だと思ったことはない。
それは、それ以上の綺麗なものを自分は知っているからだ。
「……総司」


ああ、そうだ。
楠の内面はまるで総司の裏側。

楠を抱いた後に残るのは、総司を抱いたという妄想の罪悪感。
総司のすべてを征服してしまいたい。
心のどこかでの願望が、楠に向けられたのだ。
楠を征服することで総司をすべて手に入れたかのような、仮想妄想。
手に入らないものを、代用する。
そう、楠は人形に過ぎないのだ。




「馬鹿か…俺は……」
ぽつりと呟いた土方の言葉の意味が楠にわかるはずはなかった。







またあの日の、夢を見た。


Doll−ドール− 5



僕は京に来ていた。いや、来ていたという表現は可笑しいのかも知れない。
正しくは…そう、たどり着いた。浮浪の果てにたどり着いた。
まだ肌寒い風が吹く、三月のことだった。

僕はその頃人間として、最悪の生活を送っていたと言うことを自覚している。
遊里近くで欲を求める有象無象の男達を誘い、身体を売り物にした。
挙げ句に男達の財布を奪い、見つかれば容赦なく殺した。
真っ赤に染まる男と自分の手を、汚いとも思わなかった。
生きるために必要なことだから。生きるために仕方ないことだから。
僕は自分を正当化して、生き続けていた。

僕は母に捨てられた。
貧困のためでも、生活のためでもなかった。
ただいらないから。そしていらないと捨てられた僕を、誰も拾ってはくれなかった。
哀れむ目で僕を見て、そして見ていないふりで通り過ぎた。
ああ。僕は要らないのだと。
今まで信じて生きていた。


そんな中たどり着いた京は華やかだった。
僕は西国出身なのだが、今までにこのように華やかな街はなかった。
夜になっても真っ暗になることはなく、花街はいつでも賑わいを見せていた。
だから僕には生きやすい環境だった。
母に唯一感謝しているのは、僕が母に似て生まれたと言うことだった。
母は花街の出身で、艶やかで美しい女性だった。…もう、他人としか思えないのだが。
そんな母の名残を道具に、僕は生きた。
飢えた狼の血を啜り、がむしゃらに、ただただ、生きるだけに執着して。

目の前の男が血だらけで倒れていた。財布を盗もうとした僕に気が付き、僕を殺そうとしたからだ。
僕は逆に男の刀を奪い、男の脇腹に刺した。何の感情も躊躇いもなく。
「……ふぅ」
僕には安堵感しかなかった。もう四日も何も食べていなかった。生きていられた。その安堵感しかなかったのだ。
僕は罪を覚えることも忘れたのだ。


ガサッと僕の隣で枯れた草が動く音がした。風の自然な音ではない、明らかに人為的な音だった。
僕は刺したばかりの男の脇腹から刀を抜き、その人影を待ちかまえた。
殺そうとしていた。
「……何をしているんだ」
男は提灯を僕に翳し、確認するように尋ねた。
「…やぁぁ!」
僕は刀を振りかざし、男を斬りつけようとした。が、男は軽々と避け逆に僕の手首を取った。
提灯の光で微かに見えた男は表情を変えること無かった。
「…くっ……」
僕は目を瞑った。ついに死ぬ日が来たのだと、感じた。
だが、その瞬間は訪れなかった。つかまれた腕が離されることもなかった。
僕は恐る恐る目を開いた。
男の顔は見えなかった。提灯の光がすっかり消えてしまったからだ。
「…ったく、消えちまったじゃねぇか……」
男は提灯を拾い上げながら不満そうに呟いた。
「……殺すなら、殺せ」
僕は唸るように言った。役人に捕まるくらいなら、死んでも良かった。
それに僕の人生は殺されても仕方のないものだったのだから。
だが男は飄々と答えた。
「俺にお前を殺す理由はないんでな」
男は僕が殺した男に気が付いて、気が付いていないフリをしていた。
何故そんなことをするのか。
僕に近づきたい理由でもあるのか……。
「……僕を、抱きたいの?」
僕は男の胸にすり寄るように近づいた。
いつものやり方だった。こうすれば愚かな男達は僕を抱く。そのことを僕は熟知していた。
僕に酔いしれる間に、僕はこの男を殺せばいい。
だが男は僕の予想した答えをくれなかった。
「抱く理由もないんでな」
つかんでいた僕の手首ごと僕を離した。
僕はその喪失感に震えた。はじめてだった。僕を抱かない男は。
「……ここで何をしているんだ」
男は尋ねた。
男の顔は見えない。提灯も消えてしまい、辺りには月の光と遠く離れた花街の光しかない。
うっすらとその口もとが見えるだけだった。
「…何も」
口にするには難しかった。どう説明すればいいのかわからなかった。
それにこの男に同情を求める気は無かった。
そしてこの男が助けてくれると思わなかった。
「……何もしてない、か。」
男は僕の言葉を反復しただけで、苦笑した。
僕はこの男がわからなかった。僕に興味を持ったのか。それとも哀れみ蔑んでいるのか。
「あんたこそ、何してんの」
僕は尋ねた。男は長居をするようだったから。
「あっちに行くつもりだったんだがな」
あっち、と言って指した方向はやはり花街だった。顔は見えないが男は若そうな声をしていた。
「じゃあ行けば。僕に構ってないで」
「そうしたいのは山々だがな」
男は僕の言葉を聞いても、僕から離れるつもりはないらしい。
すると男は突然黒い羽織を僕の肩に掛けた。男が着ていたものらしいそれには仄かな暖かみがあった。
「いらない」
僕は掛けられたそれを突き返そうとした。
哀れみならいらないから。
だが男は微笑した。
「人の親切は素直に受け取るもんだぜ」
「……親切じゃない」
僕はどんどん温かくなる自分の身体に苛立ちを感じた。
人の哀れみでこんなに暖かくなるなんて。
「親切じゃない。……あんたは僕に親切をして自己満足してるだけだ」
「……自己満足。…そうかもな」
男はあっさりと僕の言葉を認めた。だが笑った。
「生きるために何でもするんなら、人の親切も素直に受け取ることだな」
「…な……」
「人を殺せて、羽織を受け取れねぇ道理はねぇだろ。生きるためならな。
 確かに俺は自己満足だがな。だが人に親切なことをして何が悪い」
「……」
男は自信たっぷりに言い切った。
男の言うことに間違いはなかった。僕はその矛盾に気が付いていなかった。
さらに男はどこからか財布を取り出し、その中にある有り金をすべて僕の手に握らせた。
「これでしばらく過ごせるだろ」
金は三両もあった。
「なんで……僕にそんなことするの」
僕には驚きよりも疑問があった。初対面のはずの男にこんなに親切にされる程、僕は綺麗な人間ではないから。
「……お前が言うように自己満足、だな」
男は茶化して答えた。
「…僕は……そんな施しを受けたくない」
「お前は生きる気がないのか」
男が尋ねた唐突な質問に、僕は口を閉ざした。
こんなに惨めで卑劣な生き方をするのなら、死んでしまった方がましだ。
僕は何度もそう思って、何度もその思考をやめた。
死ぬことはできなかった。惨めだと知っていてもできなかった。
それは最後のプライド。
「……僕は、生きることで母に仕返しがしたかった。
 僕を捨てた母に、僕は生きて生きて仕返しがしたかった……」
ポツリ、ポツリと僕は呟いた。
何を言ってるんだ。同情なんて要らないから、だから誰にもこんなこと言わなかったはずなのに。
溢れてくる。
だってこの男が、あまりにも優しい声色をしているから…
「でも死んでもいい。死んでも僕は要らないから」
あの日の母親の言葉を今でも覚えている。
いらないから、要らないからどこかに行ってしまえと。
そう言って幼い僕を草むらに捨てたのだから。
待って、と。どうしてと泣きじゃくった僕を、母は振り返ることもしなかった。
だって、いらないから。

「じゃあお前が死んだら、俺が泣いてやるよ」


「……え……?」
「だから俺のために生きろよ。お前がお前を要らないというんなら俺が拾ってやるから」
ああ。
この男は、僕の一番欲しかった言葉を言ってくれた。
涙が溢れそうだった。見知らぬ男に何を捧げてもいいと思った。
「……僕を、拾ってくれるの……?」
「いいぜ。拾ってやるよ。だから、この金でちゃんと服を買って……」


「………に来い」

涙で顔がクシャクシャになった。





「……ッ!」
僕はぱっちりと目を覚ました。
涙の浮かぶ目を擦り、辺りを見回すとまだ夜が明けていないらしく起きているものは誰もいなかった。
不快な男達の鼾が鳴り響くだけで。
「……ぁ」
またあの夢だと感じた。
あの日であった男はどこかに「来い」と言ったのだ。「拾ってやるから」と。
でもどこに行けばいいのか、僕は聞き逃しわからなかった。
身なりを整えて京をあの人を捜し彷徨っていると、男に出会った。あの人ではなく、あの人の部下だと語る男に。
そしてその部下は僕に命じた。
「間者」として「壬生浪士組」に潜り込めと。

僕はよろこんで頷いた。例え会えなくてもあの人は僕が死んだら泣いてくれると言ったのだから。
顔も知らない、名前も知らない、けど、あの人の声色だけは覚えている。
残されたのはあの日の羽織だけだった。










「おい、まただぜ」
「ああ……。また楠の信奉者か……」
「もしかしたら、あれじゃね?」
「……楠に関係する人間が殺されてるな……」



Doll−ドール− 6



「またですよ、土方さん。そろそろ情に絆されないで処罰を与えてください」
業を煮やしたように総司が土方に報告した。
これで隊の謎の殺人事件も三件目である。そしていずれも十番隊の隊士だった。
今回もまた隊士は一人で夜の街に出かけ、死体で帰ってきた。
そしてすべての共通点は「楠」であることは明らかだった。
「この一連の事件に楠君が関係していることは明らかです。
 このままだと隊の志気に関わります。それに原田さんだってご立腹ですよ」
「わかってる」
憮然として土方は言った。その態度に総司はムッとした。
この様子だと今回も楠にはお咎めなしだろう。それで納得する程今回の事件が小さいとは思わない。
「楠君がお気に入りなのはわかりますけど、そろそろ目が覚めてもいいんじゃないですか!
 確かに殺された隊士は全員後ろ傷。局中法度に反するとは思いますけど、このままだと死人が増えるばかりで……」
「……お気に入り?」
土方は不機嫌そうに総司を見た。総司は「お気に入りでしょう!」と怒鳴りつけた。
「寝所に連れ込むくらいですからね!相当お気に入りだって、隊内でも噂です。」
「…妬いているのか?」
「だから前にも言ったでしょう!妬いてます、どうしてそんなに土方さんが一人の人間に固執するのか…わからなくて」
今まで一緒にいたのは自分だったはずなのに。
見目麗しいだけのあの何でもない人間に、土方を取られたのは苦痛だった。
だから……。
「……ッ!」
急に土方が総司の手首を強引に引き寄せた。
総司はその痛みに顔を歪ませたが、土方の顔は真摯だった。
「……土方、さん?」
バランスを崩して土方の胸に雪崩れ込んだ総司を、土方は強く抱きしめた。
その力は凄まじいもので総司の細い身体は折れてしまいそうだった。
「ちょ…痛い、離してください……。冗談もほどほどに……ぅんッ……」
強い力で頬を引き寄せられ、総司は急に与えられた土方の舌の生暖かさにドキドキした。
口内を支配される。
「……土方……さん、」
「楠を……お前の代わりにしていたといったら、どうする」
密接した土方の唇が首筋に愛撫をし、小さく呟いた。




噂の渦中の楠は自分の行李を漁っていた。
隊内でまた一人殺されたことは耳に届いていたが、自分には関係のないものだ、と耳を通り過ぎていった。
それよりも大切なことがあった。
昨日の夢に出てきた「あの日」。
あの時に「あの人」が残していった羽織はどこに行ってしまっただろうか。
ふと思いついたその疑問に楠は焦った。
近頃は隊のことや土方のことですっかり手入れを忘れてしまっていた。
「……なんてことだ」
楠はガックリと肩を落とした。自分が生きているのは「あの人」の為なのに
どうしてこんな大切なことを忘れてしまっていたのだろう。
「…あった」
行李の奥に綺麗に折られて入れられていた羽織は、虫に食われた様子もなく楠はほっと息を吐いた。
その大きな羽織は楠が着るにはぶかぶかだった。
それにこの羽織は「あの日」の「あの人」の匂い、温かさ、声色が蘇ってくる。
触れるだけで心が躍る。
「あの人」に会うことは「あの日」から無かった。
自分は「あの人」の間者でいるつもりだが、本当に「あの人」が自分のことを覚えているかどうか何てわからない。
不安だった。
「あの人」はどこにいるのか……。

「……左三つ巴……」
この羽織に残された、唯一の「あの人」の影。


「楠」
楠は背後から声を掛けられ、ハッと振り返った。いつもなら気配を感じているはずなのに気抜かりだった。
声を掛けたのは同じ隊の城崎だった。楠には親しく接してくれる隊士だった。
城崎には男色の気がないのか、楠も少しは心を許している。
「なに?」
「いや、お前元気かなと思ってさ」
頭をかきながら照れた風に尋ねる城崎に楠は苦笑した。
あの一連の事件のことを言っているのだろう。
隊の人間は楠が犯人だと信じて疑わない人間ばかりなので、城崎のような人は珍しい。
楠には数少ない、友人と呼べる男だった。
「大丈夫だよ。僕じゃないし」
「まあ、そうだよな……」
城崎は楠の平気そうな顔を見て安心したように肩を撫で下ろした。
そして「ん?」という風に楠の羽織を見た。
「いっつもその羽織、大切にしてるよな」
「…うん、大切なものなんだ」
楠は羽織を抱きしめて微笑んだ。
楠の答えに「へぇ」と城崎が感心したようにその羽織をのぞき込んだ。
すると「あれ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「この家紋、俺見たことあるぜ」
「え……ッ?!」
「ああ、えっと確か…」
ごく、っと喉を鳴らし城崎の言葉を待った。楠はその羽織を握りしめた。
城崎の親戚が、友人か……それとも……。
「副長の家紋じゃないっけ」





総司の代わりだったのか。
楠の代わりだったのか。
自分はどちらを望んでいたのか。

手に入れたのは何だったのか。










哀れだと、感じた。
美しさの中に悲しさを、微笑みの中に憂いを、感情の中に影をもっていた。
儚げな美貌を眺めながら支えてやりたいと良心的に思い、また裏では支配したいと思った。
それは楠に向けられた感情か。
それとも楠の中に似た、総司に向けられた感情か。

壊れ掛けたこの感情が、段々と音を立てて崩れるのを聞いた。


Doll−ドール− 7


「……総司」
ときは既に夕方になっていた。
総司が土方の部屋に訪れたのが確か昼過ぎだったので、随分と身体を重ねたことになる。
総司を支配した。
その達成感は予想に反して土方の元になかった。
楠を抱いてまで手に入れようとしたはずなのに、どうしてか今この姿を楠に見せたくない、という感情が先にあった。
楠がこの姿を見たら、悲しむだろうか。いや、あの楠だから何とも思わないのかも知れない。
裏切られたと、罵るだろうか。やっぱり、と土方の所行を笑うだろうか。
「……チッ」
内臓がむかむかして落ち着かなかった。
「……土方さん?」
と、その隣でゆっくりを総司が体を起こす。「いたたた…」と小さく呟いて。
「…大丈夫か」
「大丈夫です。ただ…夜の巡回は変わってもらえませんか」
「そうだな…永倉当たりに頼んでおくか」
ありがとうございます、と総司は微笑んで土方を問いつめもしなかった。
どうしてこんなことをするのか、と聞きもしなかった。
まるで、知っていたかのように。総司は拒まず受け入れたのだ。
「…総司」
「なんです。今更忘れろなんて言わないでくださいよ」
「ああ……」
実感が湧かなかった。
手に入れたいと思っていた総司を手に入れても、どこかいつもの朝に似ていた。
そう、楠と過ごす朝に。



『副長の家紋じゃないっけ?』
城崎の言った言葉がまだ耳にまとわりついて消えない。
まさか、と思ったものの自分は土方の家紋を知らないし、城崎にそれ以上問いつめるわけもいかなかった。
『左三つ巴』なんてどこにでもある家紋だ。もしかしたら偶然一緒であるだけなのかもしれない。
だがもしかしたら、と楠も思った。
あの優しい声色は、確かに土方のそれに似通っていた。
普段優しく囁かれたことなど無いから、よくわからないがどこか思い当たるような気もする。
だとしたら、土方は自分にあったことなど忘れていたのだろうか。
それとも隠しているのだろうか……。
夕暮れ時。もうすぐ夕食の鐘が鳴るだろうが、このままでは夕食が喉に通らないだろう。
「……」
羽織を再び丁寧に折って、楠は行李の蓋を閉めた。
真実を確かめようと思った。
例え違う、と言われてもその真相が聞きたかった。
土方が「あの人」であって欲しいとは思わない。いや、未だによくわからないのだ。
それにもし土方が「あの人」であったら自分はどうするというのだ。
好きだというのか、愛しているというのか、それともこれまでの自尊心もすべて捨てて縋って生きるというのか。
だが、どれにも当てはまらないような気がする。
自分と土方。その間にあるものは何だったのか。
そして土方は自分のことをどう思っているのか。
ただの遊びだと思っているのか、楠をからかっているのか……。
「……ただの捨て駒…かな」
嘲笑うように呟いたその一言が、一番自分に似合っているような気がした。

平隊士部屋から副長の部屋までは随分と距離がある。
それに誰も自分から副長に近づくような隊士はいなかったし、楠も今の関係がなければつながりなど持たないだろう。
そういえばきっかけはなんだったのだろう、と思う。


閉められた障子の前まできて、楠は音も立てず座った。
部屋には人の気配がある。土方はいるのだろう。安心して
「失礼します、楠ですが…」
と声を掛けた。
するとガサガサッとなかで何か慌てるように物音がした。
楠は障子を開けるわけにもいかず、耳を澄ます。
「…総司、離れろ」
「いやです。隠す必要などないでしょう」
中で土方と総司が口論をしているようだった。すると
「どうぞ、入ってください」
と総司の方が部屋にはいることを許可した。
ここは副長室でもちろん総司の許可を取ってはいるべきではないのだが、楠はすっと障子を開けた。
「……ッ」
楠はすぐに目を逸らした。
今、何かいけない光景を見てしまったような気がしたからだ。
総司の着物がはだけそこには愛撫の跡があった。ぴったりと土方に寄り添った総司の様子は艶めいていて
そのもともとの美しさを一層引き立てる。
ああ、そうか。
と楠は逸らした目を再び戻した。
この光景を自分はまっすぐ見なければならない。
土方とは遊びの仲だったのだから、こんなことで嫉妬を剥き出しにしてはならないのだ。
こんなことで動揺してはいけないのだ。
自分には平気だ、と取り繕わなければならないのだ。
そうしなければ……自分はどんどん崩れる。
「すいません、邪魔しちゃって。土方さんに用ですか、」
楠に言葉を掛けた総司はどこか誇らしげで、楠を馬鹿にするように言うのだが楠は表情を変えなかった。
むしろ優しく微笑んだ。
「こちらこそお邪魔しました。僕の用は何でもないので、また後日」
「待て、楠……」
土方が言いかけた言葉を遮るように楠は障子を閉めた。
手が震えていた。
悔しさでも、悲しさでもない、嫉妬心でもない。
この感情はなんなのだ。
「……どうして」
「あの人」以外の他人にどうしてこんなに心をかき乱されなければならないのか。
土方なんて、自分の遊び相手に過ぎない。情報を手に入れるための情報源に過ぎない。
そうだろ…?
何度も言い聞かせて楠は部屋を去った。


「……気になるんですか、楠君のこと」
総司は問いつめるように土方に尋ねた。土方は何も答えないまま、楠がいた障子を見ていた。
楠は泣かなかった。むしろ何か哀愁を込めた微笑みを向けた。
これで自分との関係は終わる、そんな微笑みだった。
楠は何を思ったのだろうか。何の用だったのだろうか。
それを考えると心が張り裂けそうだった。隣に総司がいるはずなのに……。
自分はあの泣かない子供を可哀相だと思っているのだ。
「自分は選ばれなかった」、そういう目を土方に楠は向けた。
じゃあどうすればいいのだろうか。
この罪悪感は誰に向けられたものなんだろうか……。
「……私は、彼が間者だと思います。それに監察方も楠君が野菜売りに小さな紙を手渡すのを確認したそうです」
「…そうか」
土方は別段驚きもしなかった。楠は自ら間者だと名乗っていたし、土方も知っていたのだ。
それに楠に情報と言える情報は何も与えた覚えはない。聞き出されもしなかった。
そういえばそれでいて何で傍にいたのだろうと、疑問に思う。
総司は構わず続けた。
「間者だと確認された以上、斬り殺しても異存はありませんね」
「…待て」
「待ちません。間者であり、一連の事件の犯人なら……斬っても誰も文句は言わないでしょう」
総司の言っていることは正論だった。
正論だったこそ…なにも土方には言えなかった。
楠がいなくなればすべてが解決するのかも知れない。
総司を選び、斬り捨てると決めた以上……仕方ないのか。
「…失礼します」
総司は土方の側を離れて部屋を出た。その言葉に土方は返事をしなかった。




やはりその日の夕食は喉を通らなかった。
「あの人」を土方に問いつめることもできなかったのもそうだが、先程目撃した光景が忘れられなかった。
まるで夢を見ているようだった。
土方がどうして自分を抱いたのか、その答えがわかったような気がした。
自分は総司の代わりだったのだ。
土方が時折寝言で「総司」と呟くのを何度か聞いたことがあったので、簡単に納得できた。
自分は身代わりに過ぎなかったのだと。
土方と総司が結ばれた以上、自分の役目は終わったのだ。
「……殺される、か……」
呟いて自嘲した。
もう土方は楠を必要としない。しかも間者だと言うことを知っている土方は、自分を斬って捨てても可笑しくはない。
馬鹿みたいだな、と思う。必要としない、と言う言葉がこんなに痛いだなんて。
母親からの「いらない」という言葉は、こんな感情を楠に産まなかった。
この感情をどう説明できるのか。
……こんな間者になる前の、あの見窄らしい暮らしの方が自分には性に合っていたのかもしれない。
「あの人」に会いたいという自分の願いが間違っていたのかも知れない。
「あの人」は神様。自分は神様に手が届く程、良い人間ではないのだ……。
神様に近づきたいと願ったから…罰が与えられたのだ。
「楠、具合悪そうだな」
夕食の箸が止まっていたことに気が付いた城崎が、楠を心配した。
「うん、大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないだろ?ほら、俺の漬け物やるから食べろよ」
城崎が寄越した水菜の漬け物に苦笑した。
「城崎ー。自分が嫌いなものを僕に寄越さないでよ」
ばれたか?と舌を出して城崎が笑った。
ははは…と微笑んで、城崎の顔を見た。そして段々と霞んでいくのを感じた。
「楠?」
「……あ…れ……」
ぽつり、ぽつり、と落ちてくるのは自分の涙に違いなかった。
どうして涙がでるのだろうか。
「楠、おい、どうしたんだよー!」
城崎が慌てて楠に手ぬぐいを差し出す。楠はそれを受け取らなかった。
涙が止まりそうもない。それを自分で止めようとも思わない。
この涙がすべてを証明していた。
「僕は……」
土方が好きだった。
「あの人」という存在で壁を作っていながらも、心に痛みを与えるのは土方だった。
身代わりだ、と見せつけられたとき捨てられたような錯覚に悲しかった、悔しかった……。
そう、認めてしまえばこの訳のわからない感情に説明ができる。
土方が「あの人」であっても、なくてもきっと変わらない。
僕は土方を愛している。
でももう今更取り戻すことはできない。
叶うこともないこの感情が消えることを願う以外に、自分にできることなどないのだ……。








数日後。
九月の空は晴れ晴れとしていて、いっそのこと楠は逃げてしまいたいと思った。
壬生屯所の外は水菜の畑が九月の太陽の輝きを浴びていた。
楠の手には真っ黒の「あの日」の羽織があった。
「左三つ巴」の家紋について未だ土方に尋ねることができなかった。
いや、むしろもう聞かなくても良いと思っている。
もしそうだったら自分は何としてでも自分のものにしたくなるから。
…もう取り返しは付かない。平静を保つためにも自分にとって「あの人」は手の届かない神様で良い。
愛しい気持ちなど、いつか消えていけばいい……。
この羽織も燃やしてしまう方がいいのかも知れない。
「楠…!」
そんなことをぼんやりと考えていた楠の背後では、切羽詰まった男の声が響いた。
土方ではない、総司でもない。
誰だろう…と振り返るとそこに振りかぶった刀の姿があった。

刀が九月の空にきらめいていた。


「……くッ」
血飛沫が楠の肩から腹に掛けて上がった。
よろりとふらついた楠はそのまま水菜畑に倒れ込んだ。
痛みよりも驚きだった。
そして霞んでいく視界で見えたのは……十番隊組長、原田の姿だった。
「一連の殺人事件、それに間者の疑いでお前を成敗する……!」
原田は激昂した様子で刀をもう一度楠に向けた。
「ちが…ッ!僕じゃない!!」
楠は叫んだが、振り下ろされた刀は止まることなく楠の肌を貫いた。
「ぐ……ッああぁ!」
楠は急所をはずれたその痛みに悲鳴を上げた。
だが、原田の言った言葉だけは冷静に受け止めた。
誰を、殺したというのか……。
「……僕じゃない…!」
楠の視界が霞んでいく。ああ、もう死ぬのだ。
腕を切られてしまった。刀を抜けない。足を切られてしまった。もう歩けない。
……そして助けてくれる人間など、自分にはいない。
「黙れ!この期に及んで口答えをするか?!
 お前のやったことは明白なんだ、次々と俺の隊の奴を殺しやがって……!」
「……ッ」
もう何も言えない。もう殺すことを原田は決めている。
「楠ーッ!」
集まってきた野次馬の中に城崎の姿があった。青ざめて座り込んでしまっている。
そしてその隣に…。
「待てッ!!原田……!」
真っ赤に染まった水菜をかき分けて、土方が駆けつける。
その声に原田はピクッととどめを刺そうとした刀を止めた。
そして土方は原田を殴りつけた。
「……ッ!土方さん!! 間者であるこいつを殺して良いって俺は総司から聞いたぜ!」
水菜の中に倒れ込んだ原田はうめいた。
「総司から…だと?」
沖田先生か……。
楠は自然と納得ができた。総司には自分が邪魔なのだろう、と本能的に感じていた。
それが現実になっただけで、そう驚きもしなかった。
それよりも土方が自分を抱きしめ、何度も名前を呼ぶ方が……幻のようだった。
「楠、楠……!しっかりしろ……ッ!」
「…副長……もう、いいんです」
楠は残された力で必死に微笑んだ。もう助からないことを知っていた。
「僕が…間者であったことは……嘘では…ありません」
「……ッ」
土方は血だらけの楠を抱きしめた。下唇を噛んで震わせている。
「……副長……最期に……一つだけ……聞かせてください……」
楠は自分の手にあった羽織を渾身の力で土方に渡した。
「この羽織は……あなたの…ものですか……」
貴方があの人なのですか。
土方は動揺しながらもその羽織を受け取ると、家紋を見つけそして縫い目を見た。
「……ああ……俺のだ……」
「そう…ですか……」
楠は微笑んだ。
「じゃあ……僕が貴方に惹かれたのは当然だった……」
僕はまるで神の光に吸い寄せられた、愚かな人間だ。
傍にいた神に気づきもしないまま。
「じゃあ……お前が言う「あの人」は…」
勘づいた土方が必死に楠に尋ねる。だが楠は首を横に振った。
「……「あの人」は僕の中に…いた、幻の……あな…ただった……」
ゴフっとはき出した血は楠の頬を染める。
「……悪ぃ…楠……ッ」
楠を抱きしめる目の前の男は目に涙を潤ませていた。
そして楠は目を閉じて、笑った。
「約束を守ってくれて…ありがとう……」
「楠……?」

『お前が死んだら、俺が泣いてやる』
優しい声色が楠を包んだ。


「……楠……!!」
楠は微笑んだまま、ガクッと力無く土方の腕のなかで温かさを失った。
「……ッ」
やりきれない重いが、どんどん、どんどんあふれ出す。
悪かったのはすべて自分の中のあやふやな思いだ。
総司の暗い影をもつこの少年を、抱きしめてやりたかった。
ただそれだけの感情が……楠を殺してしまった。

「……幸せそうな死に顔ですね」
土方が抱きかかえた楠の死に顔を見て総司は微笑んだ。
「……お前……」
「泣かないでくださいよ。貴方は「鬼の副長」なんですから」
総司が土方のほおに流れていた一筋の涙を見て、からかった。
それが土方を元気づけるためのものだったのか、それとも楠がいなくなったという達成感のものなのか……。
「……総司」
「はい」
「仕組んだのか…?」
「何を言っているんですか」
総司は何でもない顔をして、土方に微笑んだ。
「……何でもねぇよ……」
抱きかかえた冷たい楠を城崎に預け、土方は屯所の門を潜った。
城崎の泣き声が聞こえてくるのを、目を閉じて聞いた。



その後、一連の殺人事件はぴたりと止まりその容疑は楠のものと確定した。
後味悪そうにしていた原田だが、これで証明できただろう、と言って満足げにしていた。



楠の墓は水菜畑が見渡せる丘に作った。
そこは涼やかな風が吹く、土方の秘密の基地だった。




06’2’1〜3’14



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