リビドー




もう何も覚えていなかった。

今までの言葉の発し方も、目の合わせ方も、呼吸の仕方も、何も覚えていなかった。
あの夜にすべて忘れてしまった。

衝動的なリビドーが、すべてをなくしてしまった。




リビドー 1




試衛館の空はいつものように青くて、白い雲が流れ、雀がチュンチュンと鳴いていて。
今日も何一つ変わらないいつもの、繰り返される一日にすぎなかった。
そしてこの青年が訪れることも、またいつもと変わらないことだった。
「こんちはー。お邪魔しますよー」
返事もないまま、慣れたようにその青年は玄関に上がった。
伊庭八郎 十八歳。心形刀流伊庭道場 伊庭家の嫡男で今は「伊庭の子天狗」として
江戸中に名を馳せている青年である。
その知的な美貌で吉原ではもっぱら噂の彼だが、吉原で「美男の双璧」と呼ばれる噂の男と仲がいい。
彼がこの試衛館にいる、土方歳三である。
「歳さーん。いないんですかー?」
客間や土間をのぞくが、いつもは食客たちで賑わっているはずのそれらに誰もいなかった。
今日は出かける、という風には聞いていなかった。昨日一緒に酒を飲んで普通に帰ったはずだ。
記憶をたどってみても、別にいつもと変わらなかったと思う。
伊庭がおかしいな、と首を傾げていると。
「…うわッ!」
廊下で突っ立っていた伊庭にぶつかったのは
「沖田さん?」
どこからか走ってきた様子の総司だった。心なしか息が切れている。
そして倒れ込むように伊庭の腕に寄りかかった総司の顔色は悪かった。
「どうしたんですか?青い顔して…」
「な、なんでもありません、ごめんなさい」
総司はそういって伊庭の腕から離れようとするが、足がよたついて上手く立っていない。
がくがくと震えているし、バランスもとれていない様子だ。
伊庭は抱えるようにして聞いた。
「どこか具合でも…そうだ、歳さんはどうしたんです」
ビクッと総司の肩が震えた。
「ああ、伊庭。捕まえてくれたか」
「あ、どうしたんですか」
目の前に現れた総司を探していたらしい土方は安心したように肩をなで下ろした。
だが反対に伊庭の腕の中にいる総司は、どんどん汗を流している。
「…沖田さん?」
総司のこんな顔を見るのは初めてだった。
鼻の頭まで真っ赤になっていた。
「…ったく、お前今更…」
「…ッ!」
総司はドンッと急に伊庭の腕を突き放し、またよたついたままの足で走り出した。
行き先は玄関のようだ。
「総司!」
総司は土方の言葉も答えず、試衛館を逃げるように走っていってしまった。




「どういうことなんです、」
伊庭は持ってきた饅頭をほおばりながら尋ねた。
総司に食べさせようと思って持ってきたので、甘いものが苦手な土方は手を出さない。
「大体今日、どうして誰もいないんですか」
「あー。いろいろあって皆、留守だ」
説明がめんどくさいのか、土方は茶を啜った。
饅頭をほおばりながら、伊庭がちらりと土方を見る。
いつになく落ち着かない彼から察すると、要するに、つまり、伊庭の思っている通りらしい。
「…で?」
「………」
「…察するに、突っ込んだでしょ」
伊庭の一言に、土方はブブッと茶を吹き出した。
「お前!言葉を選べ、言葉を!!」
「あ、否定しないんですね」
揚げ足を取るような伊庭の口調に、はぁとため息をついた。
「ったく、そうだよ」
「それにしても、沖田さんガクガクだったじゃないですかー。吉原の女郎とは違うんですから
 もう少し手加減をしてあげたらどうなんです?」
「あのなぁ」
心配する、というよりはからかう様子の伊庭に土方は唖然とするばかりだ。
気を使う、という考えはみじんにもないらしい。
「でも突然じゃないですか。昨日は普通に俺と飲んで、沖田さんと全然そんな雰囲気じゃなかったじゃないですか。
 歳さんにしては行動が素早いというか、なんていうか。」
昨日は確か伊庭と土方が飲み、総司は隣で二人の話に耳を傾けていただけだ。
酒が苦手な総司はいつもそうしている。
「あいつが水と間違えて酒を飲みやがったんだよ」
「うわー。お約束」
伊庭が帰宅後。
後かたづけをしていた総司が、酒を水と間違えて一気のみをした。
「酒が入ったらふらふらになるだろ、あいつ。俺が仕方なく部屋に運んでやったんだよ」
するとトロンとした瞳で、総司が意外な行動を取り始めたのだ。
「沖田さんが誘ったんですか」
「ああ」
「どんな感じ?どんな感じ?」
「お前……噂に群がる町娘じゃあるまいし」
興味津々、という具合に伊庭が瞬きをぱちぱちと繰り返した。
「…とにかく、朝起きたらいきなり狼狽えやがって」
「そりゃそうでしょうねぇ」
「俺の頬を殴って出ていきやがった」
「あ、ホントだ」
よく見れば色男の頬が少し腫れているようだ。よっぽどの力で殴られたらしい。
「それで、どこにいったんでしょうねぇ。このままじゃあ、歳さん、強姦魔ですよ」
「…そのうち戻ってくるだろ」
また土方がため息を付いた。





結局その日、総司が戻ってくることはなかった。
何も持たず走り去っていったので、宿に入るのは無理だ。もしかしたら故郷の日野に戻ったのかもしれない。
とにかく、土方は明日まで待ってみるか、と昨夜のことを後悔しながらつぶやいた。

一方伊庭も帰路についていた。
土方と一緒にやけ酒でもつきあおうかと思ったのだが、土方にそんな余裕はないようだったので
仕方なく、こうして早い時間のご帰還となっている。
(それにしても…なぁ)
土方が総司に手を出すとは思わなかった。
総司のことを土方が特別に大切にしているのは知っていたのだが、まさかそれが直接的な愛情だとは。
そういえば吉原で特に女に熱を上げることがないのも、そのせいなのかもしれない。
確かに総司は女顔で、そこらの女よりはよっぽど綺麗な顔をしている。
誘われれば確かに理性を保っていられないのも、わかるというか。
「ま、おかげで吉原の評判は俺だけってことだな」
くくっと笑って、軽い足取りで家に向かった、のだが。
「ん?」
薄暗い夕闇のなかで、座り込んだような人影があった。
「…沖田さん?」
「あ……」
伊庭家の門のそばで、小さく丸まって座っていたのは、総司だった。
きっと日野の方に帰っている、と思っていただけに伊庭は驚いた。
「どうしたんですか?」
「…お願いがあって」
「え?」
弱々しい顔で総司がグッと伊庭の袴をつかんだ。
「私をしばらくの間、置いてくれませんか? 土方さんには内緒で…」
「…は?」
年上の総司が、子供のように、そして可愛らしく見えたのは気のせいではないのを伊庭は本能で感じていた。
やばい。
どこかでそう思っていた。



今日もいつもと変わらない、日だったはずなのに。
















忘れてしまったすべての代わりに、覚えているのはあの夜の吐息だけだった。



リビドー 2



「家中のものには事情を話してますから、どうぞくつろいでください」
伊庭は自分の部屋に布団をひきながら、隅で体を堅くしている総司に話しかけた。
総司は膝を抱えたままこくんとうなずいて、小さく
「…ありがとうございます」
と言った。だが
「俺は別の部屋に行きますから、自分の部屋だと思って…」
と伊庭がいうと
「ちょ、ちょっとまってください」
と急に慌てた。
「伊庭さんはどこに?」
「俺はまぁ…客間にでも。この部屋狭いですしね」
伊庭の部屋は元々は広いのだが、数年前の「本の虫」の名残が残っていて山のように本が積み重なっている。
まるで学者のような部屋になっていて、崩れたら一溜まりもない。
こんなところに布団を二組ひくなど、自殺行為なのだ。だが。
「…一緒に寝てください」
「はぁ?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまって伊庭は慌てたが、総司は必死だった。
「ひ、一人じゃ怖くて…」
総司が伊庭の袴をギュッと掴んで、潤んだ瞳で伊庭を見た。門の前で伊庭を待っていたときのように。
「怖いって…。俺がそばにいる方が怖くないですか?その、歳さんとのこともあったし…」
言葉を濁すと総司は顔を背けたが、それでも掴んだその手は離さなかった。
「一人だと…いろいろ思い出してしまって」
「………」
いやな予感はしていたのだ。
門前で出会ったときもこんな顔をしていた。
もう縋るものは何もない、という必死で、しかしどこか甘えた表情。
こんな総司を見るのは初めてで、ただでさえ動揺していたのに。
どうも「一緒に寝てください」の意味を取り違えそうになるではないか。
「…分かりました。もう一組布団をひきますから、沖田さんは風呂にでも…」
総司は嬉しそうに笑った。



総司が湯船に出かけた後。
「…歳さんの気持ちが分かってきた…」
ポツリとつぶやいて、ため息を付く。
出来るだけ二組の布団を離そうとしても、この部屋の狭さではぴったりと敷き布団がひっついてしまう。
こんなことなら部屋を片づけておけば良かった、と今更嘆いても仕方ないのだが。
今度は伊庭が膝を抱えてしまった。
こんな夜になって酒によって誘われれば、それはもう男の性。
土方のとった行動に、思わずうなずいてしまう。
…こんなそばで寝息でも立てられた日には、きっと何かが起こりそうだ。
別に総司をそんな目で見たことはなかったのに、…今日はおかしい。
だが、普通に考えてこのようなシチュエーションで何も起こらないのもおかしい。
いや、沖田さんもその覚悟なのか?
いやいや、いきなり俺に乗り換えたのか?
「…『据え膳食わぬは武士の恥』……」
自分を擁護するようなフレーズを思い出し、思わず首を振る。
もし衝動的な気持ちに駆られて、ことに至ったとして、その後が問題なのだ。
総司との信頼は崩れ、土方との友情にもヒビが…それどころか今度は恋敵となってしまう。
「うっわ、やだやだ」
あの土方が本気の相手を寝取ったと知れば、自分は殺されかねない。
剣術では負ける気がしないのだが、恋愛が絡むとまた別だ。恐ろしい。

そんないろいろなことに思考を巡らしていると。
「いい湯加減でしたー」
さっぱり、した様子で総司が部屋に戻ってきた。
「…そ、そうですか」
上気した肌に、潤んだ瞳、そして濡れた髪…。
「お、俺も行って来ます!」
あわただしく部屋を出ると総司は不思議そうに首を傾げた。




二人並んで床に入り、伊庭がほのかに灯っていたろうそくの光を吹き消した。
あたりは真っ暗になり総司は一瞬、目を強く瞑ったがいつもとは違う布団の香りに、安心した。
「…大丈夫なんですか?」
「えッ?」
大丈夫か、と聞いたのは伊庭ではない。
「俺ですか?大丈夫ですよ、女に飢えてるわけじゃありませんし、そんな、沖田さんに手を出すなんて……」
はっはっは、とから笑いをするがその言葉に自信はない。
「あ…そうじゃなくて。私を匿っていたこと土方さんにしれたら怒られるんじゃないですか…?」
「あぁ…大丈夫ですよ。そんな。まぁ怒られるときは一緒に怒られてください」
「…はい」
総司が嬉しそうに返事をした。

絶対据え膳だ。

「そ、それより昨日のこと…覚えているんですか」
紛らわそうとそんな話題を振ったのだが、「あ…」と後で後悔してしまった。
総司もすぐに返事をしない。
きっと聞いてはいけなかったはずだ。
「すいません、いいんです、無理矢理話してくれなくても…」
「……あの夜」
総司は伊庭の言葉を無視するように話し始めた。すぐとなりの布団からは、微かな動揺を感じた。
「…酒を飲んだことは覚えているんですが…実はあまり記憶がなくて」
「まあ沖田さんは普段から酒、飲みませんもんねぇ」
「でも、…ふっと我に返った瞬間があったんです」
すると総司は布団を頭からかぶった。
「…気が付いたら、その、裸…だったからびっくりして、離れようとして、嫌がろうとしたのに…。」
消えるような小声でつぶやいた言葉だった。
「でも……その……くで」
「え?」
「き、気持ちよくて…」
「はぁ」
なんだかイロボケ話を聞かされているような気がしてきた伊庭だったが、そのまま蚊のような声を聞き続ける。
「どんどん、体が言うことをきかなくて、何もできなくなって…。
 それどころか土方さんが言うままに、いろんな格好にされて…」
ど、どんな?
そんな疑問が頭を走ったが、伊庭は手で押さえてまでして言葉を止めた。
「だからきっと土方さんは…私のこと、いやらしいって思ってるんです。そう思ったら、もう…合わせる顔もなくて」
「はぁ」
なかなかまっすぐな思考回路だとは思うが、何か脱線している気がする。
(土方さんのことをどう思っているんですか)
そんなことを思いながらも、それを口に出さなかったのは…何故か。
その時の伊庭には分からなかった。
だが総司はそんな複雑な伊庭の心情を知るはずもなく、相変わらずの小さな声で話し続ける。
「それまで、どうやって話して呼吸して目を合わせていたか…もう思い出せないんです」
たった一日でこんなの自分が弱い人間だと思い知らされるなんて。
やり場のない羞恥に困惑して、土方が近づけたその顔を叩いてしまった。
逃げて落ち着いて、でもまだ恥ずかしい。
「どうすればいいのかな………」
ポツリ、とつぶやいた言葉を最後に、総司はスースーと安らかな寝息を立て始めた。

「寝た…」
疑問でもなく、自分に言い聞かせるように伊庭はつぶやいた。
総司はこれから朝まで眠るだけだろうが、自分は欲望との忍耐だ。
…だがどう考えてもこれは据え膳だ。
自ら食ってくれ、と言わんばかりではないか。
「いいのか…?」
半ば、やめておけ、と警報が鳴り響く。だが伊庭はもう片方の心情に従うことにした。
気づかれないように、音もなく小さな火を立てて隣にいる総司を見た。
疲れていたのかぐっすりと眠っていて、声をかけても起きそうもないだろう。
伊庭はその安心しきった顔を眺め、ゆっくりとその頬にふれた。
「……無防備にもほどがあるんじゃないですか?」
総司は答えない。
伊庭の指先が総司の唇に触れ、器用に唇を開かせた。
それでも総司は起きなかった。
そして伊庭は己のそれをふれるように近づけた。そして触れた。
「ん…」
総司が身じろぐようにしたので、伊庭は少し唇を離したがそれでももう一度押し当てた。
器用に割った口唇を舐め、舌の暖かさに触れた。
唾液を絡めると、総司が顔を背けてしまった。
「……なにやってんだか」
伊庭は自嘲するようにして、自らの布団に戻った。



口唇は、舌は、暖かかった。










  

確実に広がるリビドー。
浸食するように。蝕むように。



リビドー 3



「納豆に梅干しを入れるんですか?」
翌朝。総司が不思議そうに尋ねた。
昨夜の伊庭の行動など全く覚えていないどころか知らない総司は、気分爽快、体調良好、という具合に朝を迎えた。
だが対称的に、伊庭の方は魑魅魍魎、一触即発、という具合の絶不調。目元にクマが。
それによく昨夜は…我慢できたと自画自賛したい気分だった。
「美味しいんですよ。梅の果汁がいい感じに絡まって」
「へぇ」
朝食は炊き立ての白米、具だくさんのみそ汁、新鮮な塩鮭、自家製の漬け物。そして納豆だった。
伊庭はこれもまた自家製の梅干しを加えて、絡むまで混ぜるのが好みだった。
「試衛館は卵とかですか?」
「ネギとか…でもやっぱり何も入れないですけど」
試衛館で並べられたことのないような朝食のボリュームに目をきらきらさせながら、総司は
口運んだ塩鮭は絶妙の塩加減を、思わずかみしめるようにして食べてしまう。
もう二度と食べられないかもしれないなぁと思いながら。
納豆をすでに完食した伊庭はその様子をくすくす笑いながら眺めていた。
「朝飯ぐらいで感動してくれるんなら、夕飯も楽しみにしててくださいよ。妹に言っておきますから」
「妹さんがいらっしゃったんですか?」
初めて聞いた言葉に総司は首を傾げた。これまでおくびにも出したことがない。
「血は繋がってないですよ。俺の義父の娘です」
「へぇ」
どんな人だろう、とカリカリの漬け物を口にした。
これもまた塩加減が良かった。


「三国志、水滸伝、弘道館記述義…あ、日本外史」
本の虫だった、という伊庭の部屋を明るくなった朝に眺めてみると、夜見たときよりも
より多くの本が埋まっていることに気が付いた。
だがそのほとんどが歴史書、医学書…それに漢文体の中国のもの。
総司が知っている本は数えるほどしかなかった。
「暇なら読んでください。ま、取り出すにはちょっとした技術が必要なんですけどね。
 一冊抜くと、何十冊っていう本が崩れて来る可能性があるんです。人工的雪崩です」
「近藤先生の書斎もすごいなぁって思っていたんですけど、伊庭さんの部屋は書斎と言うよりは書庫というか。」
総司のまっすぐな感想にププッと吹き出だしながら、伊庭はなめらかに筆を進めていた。
その横で暇を持て余しながら、ぐるぐる見回している。
どの本も茶色く焦げるように色あせていて、本の虫だった、というのは嘘ではないな、と再確認する。
そんな風に歩き回っていると「ん?」と総司は立ち止まった。
一角に、色の賑やかな本が積み重なっていた。
これなら雪崩を起こさずに取れそうだな、と思い手を伸ばした。
だが、数冊取って開こうとすると、
「わわああぁぁぁー!!」
いつ気が付いたのか伊庭が大声を上げ、慌ててその本を取り上げた。
筆を投げたようで畳に転がり、墨が四方に飛び散ってしまっていた。
「え?」
「これはだめです!」
「どうしてですか?」
あからさまにわざとらしく、かたくなに伊庭が隠すものだからますます気になり、総司は問いつめるように尋ねた。
昔から気になるとそれから目が離せなくなる性格なのだ。
それを了解している伊庭は、あきらめたようにため息を付いた。
「……じゃあ聞きますけど、黄表紙って読んだことがあるんですか?」
「キビョウシ…キビョウシ……」
反復するとフッと、ある日の記憶が蘇ってきた。
確か原田と永倉、それから土方でこそこそと本を読んでいた時があった。
あのときも総司がのぞくと、こんな風に隠されてしまって「これはお前にはまだ早い」と怒られてしまった。
「何ですか」と尋ねると「黄表紙」と帰ってきたが、内容は教えてもらえず……。
結局、総司はその答えを教えてもらえないまま、数年間忘れていたのだ。
「ほら、やっぱり。だめですよ」
「でも私はあのとき「まだ早い」って言われたのに、伊庭さんはもう読んでいるんですよね?」
それには社会経験と世俗的常識って言うのが必要なんですよ。
そんなこと言えず、だが総司にも反論できずにいると、総司が無理矢理本を奪い取ってしまった。
意を決して総司は開き、伊庭は仕方なく見守った。
「………………え?」
総司の反応に伊庭は頭を抱えた。
呆然絶句状態とはこのようなことを言うのか。目は見開いたままで口はぽかんと開いている。
半ば間抜けだが、一方の伊庭は立つ瀬がない。
総司が開いたページは男と女が絡み合っている、クライマックスのシーン。
「…い、伊庭さんまでこんな本を読んでいたんですか?!」
「当たり前です!!」
思わず大声で肯定して、伊庭は「しまった」と後悔した。
総司の伊庭を見る目がみるみる変わってしまう。
変態扱いか?……だがもう弁解する気にはなれなかった。
「…普通の男なら持ってますよ。もてない男はね、こういう本を読んで勉強したり欲を発散したりするんです」
本当に温室の花、深窓の姫君だったのだな、と思わず納得してしまう。
「で、でも伊庭さんはもてるじゃないですか!」
「そりゃそうです。その本を読んで勉強したんですからね」
生娘のように顔を真っ赤にして、目が泳いでいる。ぱくぱくと、開いた口が魚のように動く。
可愛い。
ふっとそんなことを思ってしまったのが間違いで、伊庭は小さく深呼吸をした。
昼間はだめだ。
そんなことを言い聞かす。そして誤魔化そうと口だけが動いた。
「でも沖田さんだってこういうことをしたんですよ。分かってますか」
「……ッ!」
伊庭が開いたページを見た総司は、息が詰まったように驚いた。
意地悪なことを言ってしまったかもしれない。
そんな後悔はあとからした。


黄表紙を掴んでいた総司の手をゆっくりと解いて、代わりに己の手を絡めた。
「…伊庭さん?」
伊庭の力強さにすぐに引き寄せられ、総司は抗うまもなく抱き寄せられた。
まるで、その黄表紙の一場面ように。



「兄上」
微妙な距離に障子越しの穏やかな女性の声が響いた。
兄上、と呼んだあたり、朝食時に話に出ていた義理の妹らしい。
「土方さまがお越しです」
「!」
その言葉に反応したのは伊庭ではなく、総司だった。
「……客間に待たせておいてください」
「はい」
彼女は音も立てず立ち去っていった。





土方の顔はギャグに近かった。
「……吉原の色男がそんな青白い顔でよく町を歩けましたね……明日の吉原は色男に何があったのかで話題沸騰」
思わず感心してしまうが
「…お前も似たような顔じゃねぇか」
「ははは…」
一晩にして痩せこけた爺さんのように土方が指摘した。げっそりとしていた土方は一睡もしていないと言う。
…事情が事情だけに言えないが、伊庭も今日は徹夜だ。
色男が二人そろってあの人に振り回されているな、と内心苦笑した。
「…それで、沖田さんは」
一応聞いてみると
「日野の方に行ってみたんだが…帰ってなかったよ」
「日野に?!だって、まだ朝ですよ?」
「……」
照れくさいのか、それとも落胆したのか、土方は項垂れた。
総司の実家がある日野は田舎道を通り、たどり着くまでに半日かかる。
そんな遠くに朝のうちに行って帰るのは至難の業だ。
「どこに行ったんだか…」
頭を抱えて、つぶやいた。
「今頃……泣いてんのかな」
伊庭は口をつぐんだ。
まさかいまさら「沖田さんならここにいますよ」とも言えない。冗談なんて通じない。

この人は本気だった、そして同じだった。

その夜に消えてしまったものを、取り戻したいと。


そして襖越しに息を潜めている、この人も。










罪と、背徳とを感じ、口唇に触れた。
この先のことを考える猶予などなかった。


リビドー 4



「…沖田さん」
土方が伊庭家を去った後。今度は総司が膝を抱えて落ち込んでいた。
襖越しに聞こえる土方の一言一言が、総司の中ではっきりと頭で反復され、胸が痛かった。
あんなに憔悴させてしまったのは、自分だ。
『泣いているのか』
違う、泣いてなどいない。
泣いているのは、あの人だ。
痛かった。
胸を押さえて、握りしめることでしかこの痛さに耐えられなかった。

一方の伊庭は頭をかいた。
今にも泣き出しそうなこのひとをどうやって慰めれば良いのだろうか。
……赤子をあやす方法なんて知らなかった。
「……歳さんといい、あなたといい。俺はお二人の意外な一面に振り回されている気分ですよ」
そうぼやくと、総司が「え?」と頭を上げた。
「…意外な一面?」
「この間までは歳さんがあんなに色事で悩むなんて思っていませんでしたよ。まったく、百戦錬磨が聞いてあきれます。
 きっと奉公先の女とできたときだって、あんなに落ち込んで帰ったことなんてなかったでしょうに。
 あーあ。初な歳さんなんて気持ち悪い。それに沖田さんは沖田さんで……」
男色に全く興味のなかった俺をたった一晩で落とすし。
そう紡ごうとした言葉を、とどめた。
「私は?」
「……あんなに飯を美味しそうに食う人だったなんて知りませんでしたよ」
「へぇ」
適当なごまかしは総司を納得させるには十分だった。

「…土方さん、あの様子じゃ何も食べていないんですよね」
土方が座っていた座を眺めながら、総司はつぶやいていた。
自分は伊庭の家の朝食を嬉々として口に運んでいた。
申し訳なくて、情けない気持ちでいっぱいだ。
ますます腕に力が入り、抱えた膝をもっと強く抱えた。そして下唇を噛みしめる。
日野までどれくらいの距離だったのだろう。
一睡もしないで、食事もとらないで、ただただ、探してくれていたのに。憔悴したあんな声なんて聞いたことがなかったのに。

自分は、逃げてばかりの、弱虫。



(ああ、もう…)
可愛いったらありゃしない。
隅にうずくまって膝を抱える様子も、ひどく落ち込んでいる様子も、泣きそうなその瞳も。きっと悪趣味だろうが。
思う相手は土方と言うところは気に入らないものの、一つ一つの仕草に胸が高鳴る。
こうやって悩む相手が自分だったらどれだけ嬉しいか。
こんなこと一度もなかったのに。野郎趣味など外道だと蔑んでいたのに。
たった一晩で何もかもが変わってしまった。世界が逆転したかのように。
「責任…取ってくれないのかな」
つぶやいた言葉は総司の耳にどいていなかった。


一日はあっという間に過ぎ、総司は試衛館に帰ることも出来ず、そのまま伊庭家でもう一泊お世話になることになった。
その晩のおかずは、炊き込み飯にカレイの煮付け、つくね汁。
妹に一言いっておいたおかげもあって、夕食は賑やかな具合となった。
ただ、優れないのは客人の表情だけで。
「沖田さま?どこか具合でも……」
伊庭の妹が顔をのぞき込んで総司の顔色をうかがった。箸が全く進んでいなかった。
「あ、いえ」
「お口に合わないものでもありましたか?作り直しますけど…」
「そんな、とんでもない。美味しいです」
手を振った総司に彼女は一応納得の表情をして見せたものの、それでもどこか心配そうだった。
伊庭に似ているわけがないが、成熟しかけた少女のかわいらしさは試衛館ではおおよそ見られないものだった。
しかし大道場の娘として、聡明さも兼ね備えた雰囲気できっと将来は知的な美人になるだろう。
(原田さんがいたら…大騒ぎだろうなぁ)
そんなことを考えて、また胸騒ぎが起こった。
痛い。
逃げているのは自分の方なのに、痛かった。
「沖田さま、どうぞ」
キリキリと、ちぎれるように。
「…ありがとうございます」
痛かった。



「…失敗した」
大きくため息を付いて、伊庭は自分の部屋に敷いた布団に総司を寝かせた。
妹に総司が酒がだめだ、ということを含ませていなかったため、酌をした妹の杯を総司が飲み干してしまった。
案の定、総司は卒倒しすぐに気を失った。
妹は慌てて医者を呼ぼうか、と言ったが大変なのは総司ではない。
「俺だよ…」
酔った総司の世話など誰が出来ようか。土方でさえもできなかったのに。
それに今の自分にそれだけの自制心と、脱欲心があるとは思えない。
抑制するものはなにもない。
…一世一代の決心とはこういうことをいうのか。
絶大な信頼を失うが、己の欲を満たす。
…後で降りかかるだろう困難は、考えるだけで胃潰瘍になりそうだが。
はぁぁと、頭を抱えて、寝ている総司の脇で盛大なため息を付いた。
とりあえず、我慢だ。
言い聞かせた言葉にさえ、力強さなどなかった。

「伊庭…さん?」
そんな自問自答を繰り返していると、うっすらと瞼を開けた総司が虚ろに伊庭の顔を見た。
まだ酒が抜けていないらしく、顔が火照り目が潤んでいる。
「あ、ああ…。気が付きましたか」
「ん…」
総司が目をこすって、もう一度伊庭を見た。
(あ)
胸の高鳴りを感じ、伊庭は目をそらした。やばい、と本能的に感じていた。
寝ぼけた総司はじぃっと伊庭を見ていた。
「あ、み、のどは渇きませんか?水ならありますから…」
膝をついて伊庭は水を差し出すが、総司は受け取らない。
あからさまな伊庭の態度にも関わらず、総司は伊庭を見つめ続けた。
そして
「お、沖田さん!」
その細い腕を伊庭の肩から、首へと絡め自身へと近づけた。
伊庭も突然のことに慌て、思わずバランスを崩した。総司を押し倒したように、布団の上になだれ込んだ。
(やばい)
離れた距離などなかった。少しでも動けば触れてしまう、そんな距離だった。
だが総司の様子は変わらず、伊庭を見つめた。
据え膳。
「沖田さん…いいんですか?」
「んー」
その言葉の意味を分かっているのか、そうでないのか、総司は曖昧にうなずいた。そして自ら伊庭に抱きつき口づけを求めた。
伊庭はかろうじて残っていた自制心で、それをかわした。
「…だめですよ。あなたは酔っているんです、わかっていますか」
「わかってるー」
にへっと子供のように笑うが総司は舌も回らない様子だ。
完全に酔っているに違いない。
今これは絶好の機会か。
「一応尋ねますけど、俺がこの先何をするだろうか、わかりますか?」
「わかってるー」
「歳さんのときのように二の舞をするかもしれないんですよ?」
「わかってるー」
「……」
「わかってるー」
同じ返事には少しも緊張感などなくて、伊庭が決心を鈍らせていると、ふいに総司が唇を重ねた。
小さく触れあって、離れると総司が満足そうに微笑む。
「…ああ!もう!!」
これで食わねば武士じゃない。
伊庭は一寸も離れていないその唇に貪るように覆い被さった。
「んぅっ!」
総司は驚いた風にしたが、それでも簡単に受け入れた。舌を窄めてかき回す伊庭に己も答えた。
息苦しそうにしているが、いやだとかは何も言わない。
気持ちよさそうにとろけていく瞳が、ただただ伊庭を見つめていた。


「……総司………」
初めて呼んだその名前をつぶやいて、伊庭ははっきりと自覚した。
もう、戻れないかもしれない。
















怖かった。
きっと嫌われたから。


リビドー 5



「歳さんッ!!」
息を切らした伊庭が試衛館に走り込んだのは、まだ朝の鐘も鳴らない早朝の頃である。
朝から湿気を感じるどんよりとした空気で、土方は体を起こすのがだるいかったが
今は試衛館に誰もいないので、仕方ない。客人を迎えなくてはならない。
試衛館は相変わらず閑散としていた。
ふでは周斎と喧嘩をして実家に引きこもり、周斎は許しを請うている。
勇は永倉、原田とともに出稽古に出かけ、山南、藤堂は同門の友人と日光の方に出かけている。
そのように静かだったわりには、ここのところ寝付きの悪かった土方は、隈をいっそう深くして伊庭を出迎えたが
むしろ伊庭の形相の方が怖かった。
玄関に駆けつけた伊庭の朝の冷たい空気に冷やされた荒く、熱い息が、一気に白い粉へと変化している。
「なんだよ、お前。吉原の美男子が何してんだよ。……大丈夫か?」
「そんなことはどーでもいいんですよッ!俺は歳さんと違って顔だけで……ってそうじゃない、
 そう…沖田さん来てませんか?!」
掴みかかるように土方に尋ねるが、彼は訝しげに首を傾げた。
「総司なら家出中だろ。まだ帰ってきてねぇし……大体、『来てませんか』ってどういう意味だ」
伊庭は一瞬肩をすくめたが、意を決したように息を吐いた。
「沖田さんは…昨日までうちにいたんですよ」
「何?!」
「隠していたことは謝りますけど、沖田さんが望んでいたことなんです」
ようやく息を整えた伊庭は神妙な面持ちになった。
土方もそれに合わせて冷静になる。
「日野にも帰れないし、歳さんにも合わす顔がないからってうちに逃げてきたんです」
「……チッ。あいつ……」
舌打ちしたわりには、土方は安心したような顔になった。
「それで…なんでまた逃げたんだ。お前のところ以外に行く場所なんてなかったから行ったんだろうに…」
「それは……」
伊庭は口ごもった。
伊庭には総司が逃げ出した理由が分かっていた。
二の舞を踏んでしまった、と後悔したに違いない。
「とにかく探すぞ。今度こそ日野のあたりかもしれねぇ」
「……そうですね」
伊庭は事実を告げる勇気とタイミングを失って、促されるままに再び試衛館の門をあとにした。
昨夜の記憶が、一瞬、頭によぎったのに気づかない振りをした。





朝の白い霧が晴れると、そこは名も知らない華が広がる野原だった。
黄色の小さな花弁が鏤められ絨毯のようなそこは、幻のような夢のような。
少し小高い場所であるそこは、涼しさというよりも寒気を帯びていて高原のようだった。
総司は疲れ切った体をそこに横たえた。
ずいぶん走り続けた。ここがどこだか、わからなかった。
目が覚めたとき隣にいた伊庭に抱きしめられ、己が何も繕わぬ姿だったとき全身に震えが起こった。
後悔と、嫌悪と。
そして何より伊庭に抱かれた、という事実を土方に知られてしまうのが怖かった。
土方に軽いやつだと思われたくなかった。

土方と寝た朝はこうではなかった。
己がどのような嬌態を晒したのか、恥ずかしさとどうしようもない羞恥で溜たまらなくて。
でも、心は満たされていた。
自分の意志ではなかったかもしれなくても、その暖かさを覚えていたのに。

伊庭のときは違った。
己への後悔ばかりが胸を閉め、優しげな伊庭の寝顔で息が詰まりそうになった。
この人までも、傷つけてしまったのか。

「……どうしようもない…」
もう土方は探しに来てくれないのだろう。
こんな中途半端な、自分を。


「……あ」
総司は自分の頬に水が流れるのに気が付いた。
涙ではなく、ポツ、ポツと落ちてくる。
「雨…」
容赦なく急に降り出した雨が、罰なのかな、と思った。
「こんな罰なら甘んじて受けるのに」
そしてそんな甘い考えを、嘲笑した。





頬に水が降ってきたのを感じた。
「雨、降ってきましたよ」
「ああ」
小走りに日野へと向かっていた土方と伊庭は雲行きが怪しくなっても、その歩みをゆるめようとは思わなかった。
「総司は傘なんてもってねぇだろ」
「…なにも持たず、飛び出したようでしたから」
「…なぁ」
少しだけ息を荒げ、後ろから付いてくる伊庭に土方は独り言のようにつぶやいた。
「あいつ、なんでお前のとこから逃げ出したんだ」
「……」
「おかしいだろ、」
「……歳さんが悪いんですよ」
伊庭の低い声に、土方が自然と足を止めた。
「何が」
「あなたは沖田さんの気持ちなんて分かってないんですよ」
雨がいっそう強くなった。ザーッという音だけが響き、二人の沈黙を埋めていた。
「沖田さんがどうしてあなたの元を逃げ出したか、分かっていますか?」
「…俺のことを嫌ったからだろ」
「逆です」
雨が伊庭の髪を滴り、一瞬妖艶に見せた。
「あなたのことが好きだからですよ」
ゴクッと、土方は伊庭の恐ろしいとも思えるような妖しさに息を飲んだ。
「あなたが沖田さんが逃げ出したあの朝に「好きだ」って言えば、良かったんです。
 そうしたなら、俺がこんなに惨めな思いをしなくて済んだのに」
「惨め…?」
伊庭はククッと自らを嘲笑うかのように言った。
「どんなに聞こえない振りをしていても、聞こえるんですよ。睦言って言うのはね。
 あの人は俺に抱かれながらあなたの名前を呼んだ。本当に、残酷ですよ」

ザーッと機械的に流れる雨の音。
突然現れる水たまり。
見えなくなる視界。


「…お前ッ」
「二の舞っていうのは、こういうことを言うんですね」
本当にいやになりますよ、と付け加えて、それでもはっきり伊庭は土方の目を見据えていた。
土方が振りかざした腕を、しっかり捕まえて。胸ぐらを捕まれても狼狽えもせず。
「あなたに俺を殴る権利なんてありませんよ。あの人はまだあなたのものでもないし、俺のものでもないんです。
 沖田さんはあなたに「好きだ」なんて言われてませんから。確かに分は歳さんにありますけど」
「……ッ!」
弱みを付かれたのか、土方は決まり悪そうに伊庭から手を離した。
拳は疼くが、殴りたいのは伊庭ではない。
「…俺かよ」

「…ここで歳さんともめても仕方ないですよ。決めるのは沖田さんですからね。とにかく探しましょう」
土方よりも先にかけだした伊庭が、ひどく強敵に見えた。




降り出した雨はやみそうもなく、ただただ雨にうたれるわけにもいかず
総司は近くの洞窟と言うには小さな穴で膝を抱えていた。
雨を遮るだけの役目しか果たさない洞窟は、意識すれば意識してしまうほど寒さを感じ
はぁーと吐き出す息の白さにまた寒さを痛感する。
このまま凍え死んでしまうかもしれないと思った。
「どうしよう…」
そんな寒さでもおそってくる眠気には勝てず、うとうとと目を閉じていた。
寝てはいけない、と頭ではわかっているのに瞼の重さには耐え切れそうない。
そしてその瞼に映し出されるのは、数年前の残像だった。
まだ下働きとして試衛館で働いていたころの自分と、奉公人でたまにしか試衛館に遊びに来てくれず
総司をがっかりさせていた土方。
二人で時々遊んだかくれんぼ。
いつも見つけることができないのに、土方に見つけられて、拗ねたものだった。
今考えれば総司も随分安易なところに隠れていたのだから、当然かもしれないのだが。

(ああそうか……)

だから、いつか土方が迎えに来てくれると。
そんな妙な確信が自分の中にあるのか。
幼いあのときから……。




「総司、おい、総司!!」

信じていた。








小降りになった雨の中、総司を担いだ土方と伊庭が玄関にたどり着いたころ。
「……ぅん…?」
背中に負われた暖かさに瞳をうっとりさせた総司が、ゆっくりを目を覚ました。
この大きな背中に、覚えがあった。



リビドー 6



「馬鹿野郎!!」
総司が目を覚ますなり、大声で怒鳴ったのは久々に会う土方だった。
閑散としている試衛館では声がよく響き、近所の犬が吠え始める。
お互いずぶ濡れになっていて情けない格好なのだが、土方は全く気にしない。
「お前ッ!俺たちが見つけられなかったらどうするつもりだったんだ!!」
「…ごめんなさい」
「そんな凍えた身体でいたら風邪を引くどころの話じゃねぇんだ!ガキじゃねぇんならわかるだろ!?」
「……ごめんなさい」
土方の言葉は反論することもできないくらい正論で、総司はうなずくしかなかった。
申し訳ない気持ちと、こんなに心配してくれている、といううれしさがこみ上げた。
それに、土方がこんなに声を荒げたのは初めて聴いた気がした。
「まぁとにかく。着替えましょうよ」
伊庭は苦笑して濡れた着物を指さした。


今日も誰もいない試衛館は人間の不在によって気温が低く、暖かくなる季節なのに火をおこした。
試衛館はこんなに広かっただろうか。ふとそんなことを思った。
違和感を感じるのは、誰もいないからだ。
しかし、冷えた身体を暖めながらそれでも今、自分がとても安心しきっていることを知った。
「……土方さん」
後ろからふわりと抱きついたのは、先ほどまで怒鳴り声をあげていた土方。
着替えた土方はどこかやせていて体温も随分低く、随分心配させてしまったのだな、と感じた。
「ばか」
「ごめんなさい」
「だが…お前だけが悪いんじゃねぇよな…」
先ほどまでの強気な土方がどこに行ってしまったのだろうか。その声色は少し優しい。
背後から包み込まれる暖かさに、総司は目を閉じた。
「あの夜は…悪かった。抱くつもりなんてなかったんだ」
「……謝らないでください」
包まれたその大きく、たくましい腕を握った。
少ししか離れてなかったはずなのに。もうずいぶんと一緒にいなかった気がする。
懐かしい。
「土方さんに嫌われたんだと思ってたんです」
「なんで」
「だって……あんなに変な声、あげたから」
「……馬鹿だな」
しみじみと言われると、総司は顔を赤らめた。
「第一、嫌われるなら俺の方だろ」
「…?」
「もう……いい」
吐かれた息が、総司の耳に降り掛かりドキッと心臓が高鳴った。
一瞬、止まるかと思った。
息が。
「……伊庭さんの家にいたとき……ちゃんと呼吸ができなくて、苦しかったんです」
「…あ?」
「土方さんがそばにいないと、息をするのも苦しい」
「……そうか」
素っ気ない返事なのに、どこか暖かく聞こえて。
総司がちらりと振り返ると土方の口元が少しほころんでいた。
包まれる腕に強さが増す。


「あーあ。焼けちゃうなぁー」
土方の腕の暖かさに酔っていた総司の耳に入ったのは、からかい混じりの伊庭の声だった。
伊庭は土方の着物を借りたのだが少しサイズが合わなかったらしく、ぶかぶかの状態だった。
「はい、お茶」
勝手知ったる伊庭は3人分のお茶を運んだ。
「…あ、あの……伊庭さん」
昨夜のことなど覚えていない、という風にいつもと変わりない伊庭の様子に、総司は少し困惑した。
笑顔で伊庭が差し出したお茶を受け取ると「ごめんなさい」と小さく謝る。
「ごめんなさいって言われると、少し惨めになるじゃないですか」
「あ、ごめ…」
「ほら、また」
伊庭はくすくす、と笑って茶を啜った。囲炉裏に手をかざすと「温かいなぁ」と呟く。
だが湯気に隠れた伊庭の表情は、つかめなかった。
謝りたいのに、謝れない。
このもどかしい感情を伝えられない。

お茶を飲み干した伊庭はさて、と呟きながら立ち上がった。
「じゃあ、俺は失礼しますよ。あ、服は洗濯して返しますから」
「おい、伊庭…」
「あ、そうだ、沖田さん」
「は、はい」
土方の言葉を無視して、伊庭は極上の笑みを浮かべた。
いたずらが成功したように。
「勘違いしてるみたいですけど。
 俺はあなたを抱いていませんし、この間の夜は何もなかったんですよ」
「……え?」
「酔ってる人を抱くなんて卑怯な真似したって嬉しくないですからね」
にやっと笑って、放心状態に陥った総司の鼻の頭をつついた。
酔っている人を抱いた卑怯な真似をした
「でも俺はあきらめたわけじゃないですからね。覚悟して置いてくださいね」
「……はぁ」
言い返す言葉もないまま、伊庭はひらひらと手を振って去っていった。


「……チッ、あいつ」
毒づいた土方だったがそれは、「やられた」という悔しそうな表情。
総司は思わずクスリと笑ってしまった。
「お前、二度とよそで酒なんか飲むんじゃねぇぞ」
「わかってます。土方さんとじゃないと、飲みません」
きっぱりといいきった総司に、今度は満足そうに笑った土方が今度は総司を正面から抱きしめた。
「さっきの続きだが……。呼吸も、息も、俺の傍以外でするな。お前……俺が、好きだろ?」
「よくいう…」
それでも総司は抱きしめてくれたその背中を、抱きしめ返した。
「…好きです」
「そうか……」
「ずるい」
「好きだ」
力強く響いたその声に、総司はギュッと目を瞑った。
もう、心臓が、壊れそうだ。



与えられたその感覚を身体は覚えていなかった。二度目だというのに初々しく駆け回る快楽に
酒よりも何よりも強くはげしく陶酔され、翻弄されて。
宙に浮いてしまったような身体を留めようと、無我夢中に土方の身体を抱きしめた。
爪と何度も立ててしまったのに、土方は優しげな微笑みだけを与えてくれた。
もう、何も要らない。

この場所だけで、生きていける。

息が、できるよ。






















■Postscript■
リビドー 2 [(ラテン) libido]
リビドー〔欲望の意〕フロイトの用語。性的衝動の基になるエネルギー。
また、ユングでは、あらゆる行動の根底にある心的エネルギーを広くいう語。






06'8'18〜10'20掲載 全6話


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