わらべうた






101

貴方のためなら、何を捧げても構わない。それが、僕の義だ。



文久三年九月二十日。局長芹沢鴨の葬儀が終わり、屯所内は落ち着きを取り戻し始めた。芹沢の死により「壬生浪士組」から「新撰組」と名前を与えられ隊士たちはやる気に満ちている。二十名ほどの隊士たちが屯所の隣の壬生寺にあつまり、稽古に励んでいた。
「なんでも、『新撰組』というのは会津藩にもともとあった精鋭部隊の名称らしい。それを我らに与えられたというのは光栄なことだよな」
上機嫌なのは副長助勤の永倉新八である。熱心に隊士たちに稽古をつけ、挑んでくる者をたたきのめしていた。隊の中でも随一の使い手で、隊士たちの面倒見がいい。
「そうですね。ああ、そういえば、近々朝廷から下賜金を拝領するそうですね」
そしてもうひとり、今日の稽古の番は斉藤一である。永倉とおなじく副長助勤の彼はやや無口で親しい人としか話をしない。だが剣の腕は永倉とならび、隊で一、二を争う腕前である。
「そうなのか?!じゃあまた、おまさちゃんに惚れなおされちゃうなぁ」
「お前はそればっかだなぁ」
永倉が呆れたように同じく助勤の原田左之助を見た。稽古には参加せずに野次馬を決めこんでいるようだ。
もともと槍遣いの原田は剣の稽古を嫌がる。最近は島田魁に槍を教えたり、松原忠司に柔術を教わったりするのが楽しいとはしゃいでいる。
「あ、みなさんお揃いですね!」
汗を流す稽古に加わってきたのは藤堂平助。見廻りの当番だった彼だが、疲れている様子もなく駆けよってきた。
「見廻りはどうだったんだ?」
「特になにも。それにしても永倉さん、斉藤さん、原田さん、みなさんが稽古つけてるなんて。なんだか試衛館を思い出しますね!」
やる気になってきた!と藤堂が竹刀を握った。隊士のなかでは小柄な藤堂だが、見廻りの際などは隊長でありながら一番にふみこんでいく性格で、「魁先生」と平隊士たちから渾名をつけられていたりする。
「ばーか。一番重要な『先生』がいねぇだろうよ!」
原田が大声で笑った。藤堂は一瞬ぽかんとした顔をしてあたりを見渡す。
「本当だ、沖田さんはどうしたんです??」


「まるたけえべすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう、せったちゃらちゃら魚の棚ろくじょうさんてつとおりすぎ、ひっちょうこえればはっくじょう、じゅうじょうとうじでとどめさす」
「何だい?その歌は」
総司が縁側に腰かけていると通りかかった山南敬介が声をかけた。優しい面持ちの山南は平隊士からも「仏の副長」と呼ばれ慕われている。普段は屯所にいることが多いが、いざ剣を持てば北辰一刀流の達人である。
「壬生の子供たちに教えてもらったわらべ歌なんです。京の都の道って複雑だから、物心ついたらまずこの歌を教わるそうですよ」
「へぇ、それは知らなかったなあ」
「山南さんにも知らないことがあるんですね」
総司が問うと「もちろんだよ」と山南は笑った。博識な彼は試衛館にいたときから国事を論じていて、よく近藤とともに議論をかわしていた。総司からすれば何の話をしているのかさっぱりわからなかったのだが。
「お仕事はもう終わりですか?壬生寺の方で皆が稽古してるみたいですよ。山南さんもたまには顔をだしてあげてください」
「そうだね、そうさせてもらおうかな。ところで沖田君はいかないのかい?」
山南は不思議そうに訊ねた。いつもは稽古といわれれば率先して出かける総司なので、こんな縁側で暇をつぶしているのは珍しい。総司は「いきたいのは山々なんですけどね」と苦笑した。
「土方さんが出かけるからついてこいっていうんです。夜の見回りがあるのに、それまでは暇だろうって。人遣いが荒いですよね」
「ああ、そうだったのか。今、土方君と話し合いが終わったからもうすぐ呼ばれるんじゃ…」
「総司!」
奥の部屋から総司の名が呼ばれる。不機嫌そうなのはいつものことだが、山南は「すまないね」と総司をみて苦笑した。どうやら山南との話し合いは上手く運ばなかったようだ、と総司も察した。
平隊士から仲が悪いと噂される二人だが、総司からすれば試衛館のときからずっと変わらない。「喧嘩するほど仲が良い」というのはこの二人を指すのではないのかと思う。
「では私は稽古にでもいこうかな」
山南が「じゃあ」と総司に別れを告げる。
総司はその姿を見送りながらすこしだけ胸を撫でおろしていた。あの日…芹沢を暗殺して以来、山南が塞ぎ込んでいたようだが少し元気になったようだ。

土方は不機嫌だった。
「失礼します」
部屋には土方しか居なかったが、茶が三人分用意されていた。土方の分、山南の分…
「山崎さんが来られてたんですか?」
総司が土方に問うと彼は頷いた。
山崎烝は島田や松原と一緒に入隊した隊士であるが、ほとんど屯所にはいない。監察方という見回りなどとは違う諜報の役割をつとめていて総司もあまり顔を合わせることはないのだ。
「何かあったんですか?」
「いや、その話はいい。出かけるぞ」
土方はあからさまに話を逸らしたが、総司も訊きかえすことはしない。必要であれば話してくれるし、詮索する必要はないのだとおもっている。
「出掛けるってどこに?祇園は嫌ですよ?」
「お前とそんなとこいったって楽しくないだろ。いいから」
土方は強引に総司の手を引いて部屋から出る。すると一人の隊士と出くわした。
「あ、土方副長、沖田先生。お出かけですか?」
楠小十郎。土方が小姓として傍に置いている若い隊士だ。物腰柔らかく、上品な彼はとても十七には見えない。まだ前髪が取れたばかりの美少年で、隊でも目立つ存在だ。
「ああ。片づけて置いてくれ」
「かしこまりました」
彼は軽く頭を下げて二人を見送った。その仕草さえも流れるように美しく、総司は少し目が離せなかった。

「土方さん、楠君のこと気に入ってるんですね」
「あ?」
土方の隣を歩きながら総司が問うと、意外にも不機嫌そうに土方の返事が返ってきた。
「だって土方さんは自分の世話は自分でするっていう性格なのに、お小姓さんだなんて」
「そういうわけじゃねぇよ。あいつがどうしてもっていうから仕方なく、だ」
「ふうん…」
二人は町の酒屋へ向かっていた。以前原田が美味いと言っていた酒を買いに行くのだ。総司はもちろん、土方も特に好んで酒を飲むわけではないので不思議に思った総司だが理由を聞くと「墓参りだ」と土方が素っ気なく答えた。それは、芹沢の墓参りなのだ。
芹沢の葬儀が終わって以来、そのことに触れることはなかったのだが、土方なりのけじめをつけにいくのだろうか。総司はそう思っていた。
「なんだか上品で、綺麗な子ですよね。私なんかより、落ち着いてるし…十七にはとても見えないです」
「何だ、妬いてるのか」
土方はやや楽しそうに総司の顔を見た。いつもはからかわれているだけの台詞だったが、最近その言わんとしている意味が昔と比べて少しだけ変わった。
「妬いてません!」
総司はやや顔を赤らめながらも、口をとがらせた。土方は「そうかそうか」と尚も楽しそうな様子だった。



隣の壬生寺では相変わらず稽古の声が響いている。しかし、楠はそれに加わることなく土方の部屋を片していた。
数ヶ月前にこの壬生浪士組――今は新撰組――に入隊した。まさか自分が合格を貰えるとも思えず、酷く感激したことを昨日の事のように覚えている。それはやっと役に立てる、自分が必要とされると実感した瞬間だった。
昔から顔が女っぽいこともありよく虐められていた。稽古でも「女みたいな形だ!」と罵倒されることはしょっちゅうだった。そんな自分がここでは必要とされている。それがどんなに嬉しいことだっただろうか。
「楠、何をしているんだ」
そんな過去の喜びを噛みしめていると声をかけられた。振り向くと自分とはまったく正反対の姿…背丈が高く、色黒の男、松永主計がいた。
「あ…お疲れ、さま」
松永は稽古をしてきたのだろうか、額にじんわり汗をかいていた。
「稽古ですか?今日は確か永倉先生と斉藤先生の稽古でしたよね」
「ああ。お前も稽古に出れば良かったのに。お二人ともなかなかお目にかかれない剣豪だぞ」
男らしい…というよりも厳つい容貌の松永だが、笑うと白い歯が目立つ。
松永は楠と一緒に入隊した、云わば同期の隊士だ。東国出身だという彼は最初はその容姿で周りから浮いていた存在だったが、人懐っこい性格が功を奏してすぐに周りに溶け込んだ。だが、その反対に周囲に溶け込めなかったのは楠のほうだった。容姿は女のように優れていたものの人見知りがわざわいしてうまく言葉を交わすことができなかった。
そんな自分を歯がゆく思っていたところで、救ってくれたのは松永だった。
ある日の稽古で、松永と打ち合うことになった。剣の腕には多少自信があったものの、松永の迫力に押されされるがままになっていた。このままでは、と焦る楠は松永の胴の隙を狙って打つ。それと同時に松永は楠の面を狙っていた。タイミング的には松永のほうが少し速かったため、てっきり面を取られると楠は思った。しかし松永は面を狙うスピードを緩め、避けられるはずの胴をあえてそれを受け止めるような形で一本を取らせてくれた。
もちろん師範の先生方…稽古を見ていた隊士も含めそれに気がついた。その日の稽古の当番だった、永倉が
『松永君!なぜ打たなかった!』
と咎めた。すると松永は、その白い歯をむき出しにして、
『すいません。楠が母ちゃんに似てたんでつい』
と笑ったのだ。すると隣にいた原田が
『ばーか!楠みたいな別嬪からお前みたいな熊が生まれてくるわけねぇだろ!』
そういって茶化してしまった。すると険悪だった場は一気に笑いに包まれたのだ。
その日以来、周囲の隊士からも話しかけられることが多くなり、打ち溶けることができた。もちろん、松永はそういう風に仕向けてくれたのだろう。後に礼を言うと、
『な、何のことだ?』
とあからさまにうろたえて笑っていた。
そういう出来事があってから、松永とは親しくしていた。周りからも仲が良い二人だと言われた。楠も少し年上の松永に親友のような気持ちで接していた。
あの日までは。
「すまねぇが、後で例の茶屋に来てくれないか?話したいことがあるんだ」
「…わかった」
あの日。
この男と寝るまでは。





102


「俺の念友になってくれないか」
あれは、そう、後に八月十八日の政変と呼ばれる戦の、少し前だった。
突然茶屋に呼び出されると、やや緊張した面持ちの松永がそこにいて、そう告白してきたのだ。
もちろん楠はうろたえた。男にそうやって言われるのは昔からだったし、浪士組に入隊してからは数人声をかけられたことがある。しかし、まさか親友だと思っている男からそんなことを言われるとは予想もしていなかった。
しかし、楠はそれに応じた。
親友をなくす恐怖からではなく、楠にも少なからずそう言った気持ちがあったのだ。昔から女ことを好きになれない自覚はあったし、松永の告白は嬉しい気持ちもあったからだ。
念友になることを承知すると、松永とすぐに寝た。親友だと思っていた男とつながることによってより強固な絆を得られたような気がしたのだ。それは松永も同じだったようだ。体をつなげた朝、真剣な面持ちで告げられたのだ。
「俺、間者として浪士組にいるんだ」
と。
「え…」
「すまない。協力、してくれないか」
断ることなどできなかった。それだけ、松永のことを想ってしまった。
そして、強引に土方に頼み込み小姓と言う役を与えてもらった。それもこれも、松永のためだった。土方に近づき、情報を得ること。それが松永への愛情表現へと変わっていた。


松永の言うままに例の茶屋――初めて肌を合わせた場所だ――にやってきた。土方が総司とともに外出している隙に抜け出したのだ。すると松永がすでにそこで待っていた。一番奥の座敷で、楠の姿を見つけると手招いた。
「こっちだ」
「はい」
招かれるままに座敷に入り、松永の前に座る。やや緊張した面持ちに見えるのは、楠の気のせいではないはずだ。
「楠、すまない」
「何がです」
「いや…本当は、こんなことをいうべきじゃないと…わかっているんだ」
松永は言い淀んだ。いつもはこんなに前置きが長く無いので、楠も不思議に思う。
「なんです?」
「…土方副長と、寝てくれないか」
ガンッと頭を殴られたような衝撃だった。茶屋に呼ばれたときに抱いた淡い期待がどこかにいってしまった。怒りのあまり、頭が真っ白になった楠を見ても、松永は尚も続ける。
「すまない。一度だけで構わないんだ。少しでも有益な情報を得るために…」
「な…っ何を…僕は、貴方とだから、こういうことを…!」
「わかっている。だから申し訳ないんだ。けれど、こうでもしないと…」
楠ははっとなった。松永の表情は切羽詰まった顔をしていた。もちろん彼とてこんなことを言いたくはないのだろう。松永は教えてくれないが、彼が情報を伝える相手…おそらく長州の人間だろうが、そういうのがいて、それが指示を出しているのだろう。
もしくは楠に間者であるということを漏らしたことによって、彼の立場も危うくなっているのかもしれない。
「…でも、土方先生が男色を好まれるかどうかは…」
「それは大丈夫だ。沖田先生との噂は知っているか?」
「ええ…」
最近、土方と総司の関係が親密になったという噂が平隊士のなかに流れていた。もともと同じ道場の出身であるから仲が良いのは楠も知っていたし、鬼と恐れられる副長のもとに気軽に遊びに来るのも総司だけだった。
「悪い…芹沢局長が亡くなって、俺たちも動揺してるんだ。次に粛清されるのは俺たちじゃないのかって…」
「それは…」
松永は急に楠の肩を抱いた。大きな体に包まれると楠はひどく安心する。
「本当はお前を連れて、逃げたい」
その告白に、胸が高鳴った。彼の自分に対する感情は一途なものであると、感じることができたからだ。
「楠。お前は嫌か?俺と一緒に、ここから逃げるのは」
新撰組を抜けること…それはつまり法度に背くということだ。逃げ切れれば良いが、もし捕まるようなことになれば、罰として切腹を申し付けられる。皆が一番恐れていることだ。もちろん楠も例外ではない。
「それは…そんなことは…」
「…上手くいけば俺たちを逃がす手筈も整えてくれると、言っていた。俺はもう間者だ、そしてお前を巻き込んでしまった。だから、俺がお前を守るから、だから一緒に…」
松永の真摯な気持ちが伝わってくる。心なしか声が震えている。そんな松永を見るのは初めてで、楠も揺らいだ。
松永の言う通り、すでに楠は隊を裏切っている。松永のことを間者として近藤や土方に伝える義務があるのに。もし露見すれば自分も切腹を免れることができないだろう。だったら、彼とともに逃げたほうが良いのだろうか。それともすべてを打ち明けて新撰組に残るべきなのだろうか。しかし、そうすれば松永を失うことになるだろう。
それだけは嫌だった。そのくらい、もうの男に心を預けてしまっている。
「わかりました」
楠は松永の背中に手をまわした。そして強く抱きしめた。
「僕ができることなら…。貴方の為に僕ができることなら、そうします。でも、一つだけお願いがあります」
「なんだ?」
「…他の男に抱かれた身体でも…貴方は愛してくれますか?娼婦のような真似をしても…貴方だけは、僕を…」
「何を言っているんだ!」
松永は楠が驚くほど大きな声で怒鳴った。
「当り前だろう!…本当はこんなことをお前に頼みたくはない…!お前は、俺だけの…!」
くっと、松永は涙を滲ませた。悲しいのだろう、つらいのだろう、悔しいのだろう…しかし、楠はそれが嬉しかった。自分のことを愛してくれていると実感できるから。一番だと言ってくれるから。
だったら、それに答えよう。そうすることで、愛してくれるというのなら。


新撰組屯所では相変わらず稽古が続いている。今日の番は斉藤と総司だった。総司の荒稽古は試衛館でも恐れられていたが、それは隊内でも変わらない。斉藤が苦笑するほどだ。
「あんたは自分の実力を知ったほうがいい」
稽古が終わると、斉藤が総司に声をかけた。稽古の後でも涼しい顔をしている総司に対して、平隊士たちはみな息を荒げ、立ちあがれず蹲るものや倒れている者がいる。巨漢の島田でさえも青ざめているようだ。
「その台詞は良く土方さんに言われます。けど、私にはよくわからないんです。私なら自分より強い者がいるなら倒したいと思いますし、その為の努力は惜しみません。それが稽古っていうものなんじゃないですか?」
と、悪びれもなく言う総司に対し、斉藤はやれやれ、と苦笑した。
「一朝一夕で成長するものでもないだろう。こんな稽古が毎日あって、見廻りで神経を尖らせて、また稽古…となれば、当然嫌になるものもいるだろう。それで稽古を抜け出されたりすれば何の意味もない」
「でもそうなれば局中法度に背いて切腹、でしょ。士道に背く間敷事って」
「…酷い男だな。誰に似たんだ」
「えー?!斉藤さんも同じだと思ってたのにー!」
今の台詞を聞けば平隊士は縮みあがってしまうだろうな、と斉藤は思いながらもう何も言うまいと手を振って去る。
どうやら鬼稽古はしばらく続くようだ。

八木邸に戻った斉藤は井戸で水を汲み、汗を流していた。九月になり、多少気温は下がったものの、京の風はまだまだ暑い。しかし、静かにはなったと思う。
もちろん、それは芹沢一派が排除されたためだ。
まず、新見が法度により切腹。そして局長だった芹沢が殺され、平山も巻き込まれた。平間はどうやら脱走を図り行方は知れないが、どうやら追うつもりはないらしい。残ったのは総司と仲の良い野口だが、彼も気を落としているようで最近無口になってしまった。
これを、近藤は盗賊もしくは倒幕派による者としたがそれを信じている者はいないだろう。おそらく土方らによって手が下されたのだと思っている者は多い。
斉藤は稽古の汗を手拭いで拭う。そしてふと、空を見上げた。雲ひとつない秋晴れの空は嫌みな程青く澄んでいた。
「斉藤」
斉藤は名を呼ばれ振り向いた。声の主の気配は感じていた。
「土方副長」
「少し話がある、部屋に来てくれ」
それだけ言うと、土方は部屋に戻っていく。返事をする間も与えないとは強引な人だな、と思いつつも斉藤は土方のことが決して嫌いではない。むしろ頭の良い上司で助かるとさえ思っている。
「承知しました」
きっと聞こえていないだろうが、斉藤は返事をした。

鬼の住処だと噂される副長の部屋は意外にも奇麗に片付いている。これも小姓を付けているおかげなのだろうか、と斉藤は何となくそんなことを考えていると
「話と言うのは永倉のことだ」
と、土方が突然切り出した。
「…永倉さんですか」
永倉、というともちろん永倉新八のことだろう。てっきりもっと違う名前が出ると思っていた斉藤は少し拍子抜けした。それが表情に出たのだろうか、土方が「別に永倉に問題があるわけじゃねぇよ」と付け足した。
「ただ、少し注意して見ていてほしい。永倉のことだから心配はしていないが万が一のこともある」
土方の言い方からして、何か命を狙われるようなことを示唆しているようだ。斉藤は頷いた。しかし腑に落ちないこともあった。
「なぜ、私なのでしょうか。私は確かに試衛館にお世話になりましたが、他の食客のかたほど信頼を置いてもらえるとは思っていません」
率直な感想だった。平隊士に比べたら新撰組の幹部と呼ばれる連中とは付き合いがあるが、それはほんの半年だけだ。しかも途中で自分は姿を晦ましている。剣の腕が立つだけなら、新撰組のほかに総司もいる。一番信頼が置けるとすれば彼に任せるのが一番だと思った。
しかし土方はにやりと笑う。
「俺は自分は人を見る目だけはあると思っている。お前は信頼が置ける。それだけだ」
「…」
斉藤は土方の涼やかな目元に目を奪われた。その目はまっすぐ自分を見つめている。
彼が自分に寄せる「信頼」はただの勘だというのだ。
面白い。
「わかりました」
彼が自分を信頼するというのなら、自分も彼を信頼してみよう。お互い勘だけでお互いを認める。それは駆け引きのようだが、掛けるものが大きければ大きいほどその駆け引きは面白くなるだろう。
そして例えこの勘が外れたとしても、おそらく後悔はしない。なぜだか、この上司にはそんな力を感じた。
「あともう一つ頼みがある」
「何でしょうか」





103


総司は夜に土方の部屋に呼び出されていた。
とても重要な話がある、と真剣な面持ちで言われたので、何かあるのかと思いきや部屋に入った途端口づけをされそうになった。そして寸で飛び避けたのだ。
「総司、こっちにこい」
「嫌です。ここからこっちに近づかないでください」
総司は畳縁を指差して土方を牽制した。二畳分ほど二人は離れている。
「何だよ、可愛くねぇな。俺は疲れてるんだから大きな声で話すのは面倒なんだよ。いいからこいって」
土方は自分のの膝を指差す。
「だから嫌です。たかだか話をするだけなのになんで土方さんの膝の上に乗らなきゃいけないんですか。私は御稚児さんじゃないんですよ。話ならここで結構です」
「重要な話って言ってるだろう。他に聞かれたら困るんだよ」
「…」
総司は渋々畳一畳分、距離を詰めた。
「…まだ遠い」
土方が文句を言う。総司は口をとがらせつつ、もう半畳分だけ近づいた。しかし土方はまだ満足しないらしい。
「もう!子供みたいなこと言わないで下さいよ!」
総司は拗ねつつも、近づいた。もうお互いの膝が触れるほどの距離だった。
「これで満足ですよね?!じゃあお話を聞かせてください」
「全く、色気がねぇなぁ。里の女だったら喜んで膝の上に乗って来るのに」
「私は妓ではないですからね。そういうことがしてほしいのなら島原にでも行ってきたらどうですか、膝に乗ってくれる妓なんていっぱいいるんじゃないですか」
連れない奴だな、と土方がぼやく。
「まあ、いいか。一つ胸にとどめて置いて欲しいことがある」
急に仕事モードに切り替わった土方に合わせて総司も真剣になる。しかし土方の言葉は予想に反していた。
「俺はお前が抱きたいと思っている」
「……は?」
「だから部屋に呼び出されてほいほい付いてくるようなら遠慮はしない」
「………あの、重要な話っていうのはもしかして…」
「ああ、当然このことだ」
土方は仕事モードを崩さない。まるで事務連絡をするのとに変わらないのに、言っていることはまるでらしくない。
総司は頭を抱えた。
「あの…土方さん、どうにかしちゃったんですか?体調が悪いとか、悪いものを食べたとか…ああ、実は酔ってるとか!」
「馬鹿言うな。真剣な話だって言っただろう。俺はそう思っているから、お前以外の男に興味はないし、女にもさほど興味はない」
「はぁ…」
「だから」
土方は総司の手を取った。すっかり油断していた総司は簡単に土方の思うままに押し倒される。
「お前は俺を信じてろ」
「…歳三、さん?」
耳元で囁かれた台詞は今までの会話よりもずっと深刻なものだった。触れてしまうほど近くにいるのに、土方が何を伝えようとしているのか、わからない。
「としぞ…んぅ」
知りたくて、言葉を紡ごうとしたのに、それは土方によってふさがれた。もどかしくて仕方ないのに、顔が火照り、熱を帯びる。
土方の唇が離れる。息苦しかったはずなのに、離れると寂しく感じるのはどうしてなのだろうか。
すると土方は総司の手をひいて、あっさり総司の体勢を戻した。
「それだけだ。もう話はない」
「……わかりました」
本当は何も分かっていない。どうして冗談を言っていたような口ぶりだったのに、急に「信じろ」という言葉だけがあれだけ深刻だったのか。けれど、もうそれ以上聞くな、と土方に言われた気がした。だったら聞かない。信じろというのなら、言われるままに信じるのみなのだから。


楠は茶を持っていくところで総司とすれ違った。先ほど土方の部屋に入って行ったのに、話はもう終わったようだ。
「お疲れさまです。もうお話は…」
「え?あ、ああ、楠くん。うん、もう終わりました」
楠の存在に気が付いていなかったのか、総司が動揺して答える。何か考え事をしていたようだ。
総司の髪が少し乱れている。何かあったのかな、と楠が思ったところで松永の言葉を思い出した。
『沖田先生と土方副長は男色の仲だ』
張本人たちが怒らせると怖い二人なので誰も聞けずにいる。そのため平隊士のなかで実しやかに流れている噂だ。しかし、土方の部屋からこんな風に総司が髪を乱して出てくると誰でも疑ってしまいそうだ、と楠は思った。
もし、その噂が本当なら総司とは恋敵ということになってしまう。
「じゃあ」
足早に去っていく総司の後ろ姿を楠は見えなくなるまで、見送った。

「失礼いたします」
楠は襖を開けた。すると土方がすでに床に入る準備を始めていた。
「ああ、お前か」
「すみません。もうお休みでしたか」
いつもよりも早い時間だったため楠は驚いた。てっきり仕事中かと思って茶を持ってきたのだが、不要だったようだ。下がろうとした楠だったが
「いや、待て」
と土方に止められた。
「こっちに来てくれ」
「はい…?」
特に断る理由もなかったため楠はそのまま部屋に入り、襖を閉める。茶を部屋の片隅に置いて土方の前に座った。
小姓として土方の世話を願い出たものの、普段は人を近付けない副長は楠の世話など不要だった。だからこうして時間を見計らって土方の部屋に茶を持ってくるくらいしか仕事はない。だから、こうして土方と向き合うのは珍しかった。
「あの、なにかご用でしょうか」
「お前は総司に似てるな」
「…そう、ですか?」
土方の手が楠の頬に触れる。その手は意外に冷たく感じられたが、いとおしむ様な触れかたはまるで松永のそれに似ていた。
『土方副長と寝てくれないか』
脳裏に響く松永の声。あの時の彼は酷く疲れた顔をしていた。
松永がどこの誰の間者なのかは聞いていない。彼がなぜそうならなければならなかったのか、なぜ新撰組に入ったのかそれさえも知らない。
「お前はなぜ俺の小姓に願い出たんだ」
「え…」
まるで思考を読まれたかのような土方の問いに言葉が詰まる。
松永に頼まれるまで、楠は稽古に励んでいたし見廻りにも積極的に参加していた。しかし小姓になってからはその機会も少なくなっていた。土方が不審に思うのも無理ないだろう。
「それは…僕の義の為です」
「義…だと?」
土方には意外な答えだったのか、触れていた手を止めた。
「僕は…新撰組に来るまで、何のために生き、何のために剣を持つのかわかりませんでした。けれど…僕は、かけがえのない人に出会いました。僕のすべてを捧げても構わないとさえ思える人に出会えた。だから、僕は…」
彼が頼むのなら、彼が望むのなら、彼が願うのなら、彼の為になるなら。
「貴方の為に、すべてを捧げたいと思ったんです」
僕は嘘をつく。
僕が裏切りだと罵られようとも、嘘つきだと蔑まれようとも。貴方が僕だけの味方になってくれるというのなら。
ああ…本当はこの言葉を貴方に捧げたかったのに。貴方がここにいないなんて。
「土方副長…僕に、情けをかけてくれませんか…」
声が掠れていないだろうか、手が震えていないだろうか。僕はちゃんと嘘が付けているだろうか…。
楠は土方の手に自分の手を重ねた。するとそれまで黙っていた土方が口を開いた。楠に緊張が走った。
「俺は、お前を通して別の誰かを見る。それでもいいのか?」
土方の優しい声色が耳に響く。鬼といわれる土方のそんな声を聞くのは初めてで、少し動揺してしまう。土方が自分を通して見るのは、きっと総司のことなのだろう。
それで構わない。楠も同じことをする。土方を通して、別の誰かを夢見るのだ。
「構いません…別の誰かの名前を呼ばれても…僕は、それでも…」
言葉の途中で、土方の体重が楠にのしかかる。楠を押し倒した土方の手が、頬に触れ、首筋に触れ、胸板に触れる。いとおしむ様に、慈しむように。
だが、その何もかもが、いとしい男とは違う。
その事実に悲しさと虚しさとで、涙が滲んだ。
「楠…」
「小十郎と、呼んでくださいませんか…」
彼もそう呼ぶから、どうかそれだけは許してほしい。楠は目を閉じて、耳を澄ます。そうすれば彼がいるような気がして。
雲をつかむ様に、手を伸ばして、夜に落ちた。


104


「俺は生まれて初めて耳を疑うような…いや、これがまだ真実かどうかわからないんだが、いや、でもしかしものすごく真実味のある話を聞いてしまってどうしようもなく誰かに話したくなって今ここにいるんだが、へーすけ、聞いてくれないか」
藤堂の目の前に、眉間にしわを寄せ、かつてない深刻な様子で正座する原田がいた。唇を噛みしめ、小刻みに震えている様子をみるとどうやらいつもの能天気な艶話ではないようだ。思わず、藤堂は居住まいを正した。
「…まさか…なにか法度違反を犯してしまったとか…?」
何かの間違いで法度を犯せば切腹だ。藤堂の脳裏に過ったのはそれだったのだが、原田は頭を振った。
「いや、そういうんじゃない。ただ…俺の常識では考えられないというか、今まで信じてきたものがこうもあっさり打ち砕かれた落胆というか…言葉にするのが難しいくらいな衝撃を俺は受けてだな…」
「勿体ぶらず教えてくださいよ!」
藤堂は思わず叫んでいた。前置きが長すぎる。
「…いいか、驚かないで聞けよ」
「なんですか。くだらない話だったら怒りますよ」
「くだらなくなんてねぇよ。…あのな、土方さんがお小姓に手を出したんだよ…!」
鬼気迫る表情で原田が言ったのは、結局は色恋話だったのだが、確かにそれは衝撃的な話だった。
「…お小姓って…楠くん、でしたっけ。声が女のようで、すごく綺麗な子でしたよね…」
「俺の組の奴がな、見たんだって。土方さんが楠を寝所に連れ込むのをさ…!俺はてっきり、総司の奴と念友の仲だって思ってたからよ。女に手は出しても男には手をださねぇって勝手に思ってたんだけどよ、楠くらい美形だと思わず手が出ちまったのかな!」
「その噂、もう広まっちゃってるんですか?」
「当り前だろ。なんせ、俺の部下から聞いたんだぜ」
上司が噂好きなら部下もそうだ!と言わんばかりの原田の真顔だった。
なぜそこは自信をもって答えるのだろう。藤堂は少し頭を抱えつつ、年上の同僚の話を聞いてやることにした。


人の噂が広まるのは本当に早いな、と楠は内心ため息をついていた。
朝、土方の寝所から出るときに隊士に見られたようだが、それが噂になり尾ひれをつけて、一気に広まってしまったようだ。前々から土方とそういう関係にあるとか、総司と恋敵の三角関係にあるとか、さらに別の男と関係にあるとか…根拠のない噂のそのどれもが楠を揶揄するものだった。
そして案の定、稽古に顔を出すと隊士たちはあからさまな表情を作り、楠を遠ざけた。一瞬、心配そうにこちらを見ていた松永と目があったが気が付いていないふりをしてやり過ごした。しかし息巻いた別の隊士は「昨夜はどうだったんだ?」とからかいながら訊ねてくる。それを聞き流し、無視することには慣れていたが、一番苦しかったのはこの日の稽古の番が総司だったことだ。きっと噂は耳に入っているだろう。何か嫌がらせを受けても仕方ない、と楠はあきらめていた。
しかし、総司は変わらなかった。
「楠くん、胴や小手よりも面を狙うように。君は特に骨に肉が付いていないし、腕力もないから素振りを欠かさないようにしないと駄目ですよ」
「は…はい」
「はい、じゃあ素振り三百回追加」
いつものようににっこりと笑って楠を指導し、また別の隊士の元へ行く。他の隊士への接し方と全く変わらず、もしや噂は耳に入っていないのでは、と疑ってしまうほどだ。
楠はどうしようもない罪悪感を感じつつ、言われたとおりに稽古に励むことにした。


松永が楠を呼び出したのは、その日の昼のことだ。呼び出されたいつもの茶屋に行くと、顔色の悪い松永がすでに待っていた。楠の顔を見ると少し安堵したように手招いてきた。
誰にも見られないように襖を閉め、楠が座ろうとしたところで、松永に強引に手をひかれた。体勢を崩し、松永の胸に抱きかかえられるようになる。
「松永…さん…」
よく見ると松永の両手が震えていた。抱きしめる手がいつもより強いのも気のせいではないはずだ。
「…ごめん、つらいのは俺のほうじゃないんだよな…」
原田に熊の様だ、とからかわれる松永だが、こうして一緒にいるときは酷く優しくなる。間者という役目が全く似合わないほど、感情がすぐ表に出るし涙もろい。今も少し涙を滲ませている。
愛しい人を役目とはいえ別の男に抱かせる、というのは彼にとってどれほど屈辱的なことなのだろうか。そして今、土方と念友の中だと隊内で噂になることがさらに彼を苦しめる。
でも楠には、こんな風に苦しんでくれる松永を見ることが一番の至福だった。
自分のことを思って泣いてくれている、自分のことを独占したいという気持ちを持ってくれている。…それだけで、十分だと思ってしまうほど。
「すみません…昨夜は、特に何か得たということはありませんでした。お役に立てずに…」
「いいんだ!一朝一夕に成果が出るなんて誰も思っちゃいない。謝らないでくれ」
松永はさらに強く楠を抱きしめた。痛いほどに気持ちが伝わってきて、それだけで乾いた心が満たされていくようだ。
「松永、さん…一つだけ、教えてくれませんか」
「何をだ?」
「貴方は…誰を主君としているのですか」
松永の顔が強張ったのを、楠は見逃さなかった。しかし、あえて言葉を紡いだ。
「僕は…貴方を信じています。絶対に裏切ったりしません。だから、教えてくれませんか。貴方の主君は誰で、何のために間者としてここにいるのか…」
「…すまない、楠。それだけは勘弁してくれないか」
「……」
お前は信じられない。
そう言われたような気がした。もちろん、松永がそんな意図を持っていないのはわかっているし、信じている。だからこそ、楠は唇を噛みしめて「つまらないことを聞いてごめん」というしかなかった。
「それより…いいか。今から。身体はつらくないか」
「ええ…大丈夫、です」
松永の大きな掌が肌に触れる。土方のそれとは違う感触に、酔いしれる。
でも、どれだけ身体をつなげても、どれだけぬくもりを共有しても、どれだけ指を絡ませても。この男は何も教えてくれない。我儘に自分だけを信じてくれと強制する。
本当は逃げることだってできる。松永のことを土方に伝えることもできる。
そうすれば死と隣り合わせの自分を救うことだってできるのに……好きになってしまった、惚れてしまった。それだけで命をかけてしまえるほどに。
もうこんな恋なんて二度とできないと思えるほどに。


「あれ、お出かけですか?」
八木邸の井戸で汗を流していた総司が声をかけたのは永倉だった。永倉は組下の御倉と荒木田を連れてどこかに出かけようとしていたようだ。
「ああ、こいつらがどうしても俺と飲みに行きたいっていうからな。原田と違って俺は大した話はできないっていうのに…」
「何を言っているんですか。俺達、永倉先生を心酔しているんですよ!」
「そうそう。同じ流派の先輩なんすから!」
御倉・荒木田がそう言うと、永倉は少し照れくさそうに「そうか」と笑った。御倉と荒木田は共に入隊した若い隊士だ。北辰一刀流の出だということで入隊当時から永倉と意気投合し、永倉も気に入っている。やはり同門だというだけで話が弾むようだ。
「祇園で評判の花屋にいってくるんだ。総司も来るか?」
「いえ、遠慮しておきます。楽しんできてください。あ、でも巡察までには帰ってきてくださいね」
「わかってるよ」
永倉が手をひらひら振りながら去っていく。組下の二人も嬉しそうにそれに続いた。
鬼稽古で恐れられる総司と違って、永倉は愛嬌があり分け隔てなく接することができる。見習わなくてはと思いながらその背中を見送っていると。
「俺もいってくる」
とそれに続く男がいた。
「え?斉藤さん?」
「すまないが、夜の見廻りは変わってもらえないか」
「それは構いませんが…何故」
「花屋には良い女がいるんだ。頼んだ」
斉藤は早口で告げると、そのまま永倉の背中を追いかける。小走りに駆けよると、永倉に声をかけ、三人にそのまま混じって出かけて行ってしまった。
「ふうん…斉藤さんって嘘が下手だなぁ」
総司は小さくつぶやくとくすくす笑って、また汗を流すべく水を汲もうと桶に手を伸ばす。しかし、桶はそこにはなかった。
「…土方さん」
桶を取り挙げていたのは土方だ。仏頂面で機嫌が悪そうなのは相変わらずだった。
「もう、意地悪しないでください」
と、桶に手を伸ばすが土方は渡してくれない。総司は軽く土方を睨んだ。
「…何か、言いたいとがあるなら言ってください。無ければ失礼します」
「噂ってのは…なんでこうも広がるんだろうな。うんざりする」
舌打ち混じりに土方が吐き捨てる。総司は肩をすくめた。
「何を言っているのか私にはわかりませんよ、土方副長」
「…怒ってるのか」
「怒ってませんよ。だいたい、何に怒るんですか?何か私に悪いことしたんですか?」
総司は手を差し出した。すると土方が桶を総司に手渡す。
「…信じろって、言ったのは土方さんですよ」
総司は小さく、つぶやいた。



105


土方と楠が念友の関係になってから三日が経った。毎晩寝所を訪れることを約束していたため、楠は毎晩彼の隣で寝ることになった。
そして最初は平隊士のなかだけだった噂も徐々に広まり、今や皆がその噂を知ることとなってしまった。しかし土方は噂などどこ吹く風、態度は全く変わらない。動じることもなければかみつくこともなくただ聞き流している。それは総司も同じだった。
以前と変わらず稽古を付けてくれるし、的確な助言を楠にもしてくれる。壬生の子供たちと遊ぶ様子も変わらなければ、隊士のなかに紛れ込んで雑談する様子も変わらない。ただ、変わったのは、総司が土方の部屋を訪れることが無くなった。それだけだった。

楠は目を覚ました。そしてまた寝てしまったのだな、と理解した。行為に耽っているうちに気を失ってしまうように寝てしまうことが多く、気がつけば朝が来ていたことなどしょっちゅうだ。そして目が覚めると隣にいる男が、自分の一番愛しい男でないことに気がついてしまう。そしてそのたびに心が揺れてしまうのだ。
これでいいのか、と。
自分は間違っていないのか…と。
だが、今日はその土方でさえ隣にいなかった。まだ部屋は暗いままだったため朝は来ていないのだろうとわかるが、辺りが静まっているので深夜であることしかわからない。楠が着物を整え床を出ようとすると、隣の部屋から声が聞こえた。
楠は息をのんだ。そして物音を立てないように襖に耳を寄せその声の主を確かめる。
「…ふぅん。つまり、俺の読みが外れているということか」
「今のところは、なんとも申し上げられません。ですがこのまま永倉さんには付いていようと思います」
声の主は二人。一人は土方に間違いない。そしてもう一人の声の主が分からず、楠はそっと隙間から覗いた。そこにいたのは斉藤だった。
(斉藤先生が…こんな夜更けに…)
普段、土方と斉藤が二人きりで話をすることは少ない。斉藤は楠から見ても無口なタイプで、あまり群れようとしないようにみえた。唯一、総司とだけは敬語を使わない仲の様だが、それ以外は騒いでいるところを見たことがない。噂では昔試衛館という場所にいた時期もあったようだが、その後一度袂を分かったようだ。
「そうだな。しばらくは頼む。御倉と荒木田は特に気をつけておけ」
御倉と荒木田…楠はその名前を思い返す。御倉左馬之助と御倉伊勢武はともに永倉新八の配下の平隊士だ。何度か稽古を共にしたことがあるが、あまり楠の記憶には残っていない。
しかし、土方が気をつけろ、ということは何か疑いがかかっているのだろうか。
「承知しました。…あと、もう一つの件のことですが。」
斉藤が切り出すと、途端に土方が苦い顔をした。
「総司、か…」
楠は一瞬ドキっとした。
「副長が心配しているようなことはありません。見廻りも稽古も普段通りです。ただ…貴方と口を利かなくなったというくらいでしょうか」
斉藤がちらりとこちらを見た気がした。楠は思わず後ずさり、息を飲んだ。だが、斉藤はすぐに土方のほうへ向きなおった。
「…お前はよく見ているな、感心するぜ」
土方が苦笑して、斉藤は「そうでもありません」と小さく頭を下げる。
「ではこれで失礼します。夜更けに申し訳ありませんでした」
「ああ」
斉藤が去ると、楠も床に戻る。
布団の中で寝息を立てるふりをしながら、先ほどの斉藤と土方のやり取りを思い返していた。
御倉と荒木田のことは松永に報告すべきだろう…そして気のせいかもしれないが、斉藤がこちらに気が付いている気がした。楠が聞き耳を立てていたことなのだろうか、それとも土方の念友として間者を勤めていることだろうか…。
そんなことを考えていると心臓が波打ってしまう。どうしようもない不安が襲ってくる。
松永に触れたい。
自分のことを一番だといってくれる男に、大丈夫だと言い聞かせてほしい。
そんなことを考えていると土方が床に戻ってきた。
「起きているのか…?」
土方が声をかけるが、楠はそれにこたえるわけにはいかない。必死に寝息を立てる芝居をしながら、心臓が落ち着くのを願った。
気付かれないように。覚られないように。
するとその願いがかなったのか、土方は床に入った。そして一言つぶやいた。
「馬鹿だな…」
と。


翌日、九月二十五日。
山南と土方は近藤の部屋にいた。芹沢がいなくなって数日経ち、やはり人数の少なさは否めないため新たに隊士を募集しようという話になったのだ。未だ京の民からは評判の悪い新撰組だが、先日市中見廻りの働きを評価され、朝廷から各隊士に一両ずつ下賜されるということがあった。このことが広まり、浪人たちの入隊希望者が集まりつつあったのだ。
隊士募集に関してはあっさりまとまり、山南が準備の為に席をたつ。それに続こうとした土方だが、近藤に止められた。
「歳。ちょっと話があるんだ」
「なんだよ、改まって」
近藤はなにやら真剣な面持ちだ。芹沢が亡くなってから、何とはなしに表情が硬くなっているような気はしていたが。
「いや…その、これは左之助から聞いた話なんだが…。隊内でも噂になっているし、こういうことは全部歳に任せているから俺は何にも文句はないんだが…本当のところはどうなのかと思ってだな…」
「何だよ気持ち悪ぃな。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
幼馴染の煮え切らない態度に土方は思わず先を促す。しかし近藤は尚も「はっきりと言われても」と口ごもる。
大体察しの付いていた土方は深くため息をついた。
「俺が楠とデキてるっていう噂のことか」
「あ、ああ…。それどころか総司にも手を出して三人で宜しくやっているというのは本当なのか…!」
「はぁ?」
何の冗談かと思いきや、近藤は至って真剣なようだ。
「なんだよ…尾ひれが付きすぎだろ…」
「確かに楠くんは女と間違うような美童だし、お前が手を出してしまう気持ちもまあわからなくはないといえばわからなくはない…でも俺はちょっとわからないんだが、でも彼はまだ子供だ!総司だって女のことを知らないようなやつだし、それをどちらにも手を出すというのは些か強引と言うか剛腕というか…」
「…かっちゃん」
土方は近藤の両肩を抑え、暴走気味の幼馴染を諌めた。かつての名前を呼ぶことで、彼は少し落ち着いた。
「とりあえず、三人で宜しくやってるっていうのは偽りだ。俺は良くても総司がそんなことできるわけねぇだろ」
「それはそうなんだが…じゃあ楠くんのことは」
「事実だ」
土方があっさり認めると、近藤は眉間にしわを寄せた。
「…歳。お前は総司に惚れてると思ってたんだが…そうじゃあないのか?」
「……」
幼馴染の問いに土方は黙り込んだ。原田や藤堂などが噂して、土方が総司に惚れているというのは広まってしまっているようだが、近藤の様に真剣に聞かれたのは初めてだった。
「歳。俺とお前の間に隠し事はなしのはずだ。そうじゃ、なかったのか」
悲しげに土方を見つめる近藤。…土方はため息をついた。
近藤勇…島崎勝太という男は昔からそうだ。この男の前では嘘も付けないし、ついても信じてはもらえない。だからこそ、近藤自身も決して嘘をつくことはない。愚直だと蔑む輩もいるが、その愚直さに惹かれてしまう者も少なからずいる。それが自分だ、と土方は思っている。
もしかしたら、自分は総司より惚れているのだろう。近藤勇という男に。それこそ、命をかけれるくらいに。
そしてそれは総司も同じはずだ。たとえ惚れた相手がいようとも、この近藤勇には勝つことはできないのだ。
「ああ、そうだ。俺はあいつに惚れてるよ。…ったく、恥ずかしいことを言わせるな」
「そうか…そうだよな。だったら安心だ」
近藤はうって変わって満面の笑みを見せた。
「おいおい、安心ってなんだよ。愛弟子が男色に走ったら困るんじゃないのか?」
「俺は歳を信じてるからな。総司のことを任せても大丈夫だと思っているよ。楠くんとのことも何か事情があるんだろう?」
「…」
信じている。
その言葉をあっさり口にして、笑う近藤。
「…近藤さんはそれでいい。それに、このことはもうすぐカタがつくから、待っててくれ」
「わかった」
何の迷いもなく頷く近藤。彼から感じる全幅の信頼をひしひし感じながら、土方は部屋を出た。


楠と松永は屯所ではあまり話をしない。それは土方との関係が念友になったことでそういう風になったのだ。
傍から見れば、楠に恋慕していた松永が、土方に楠を取られてしまったため距離ができてしまった…という風に見れるのかもしれない。その為、二人が茶屋で出会っているというのは誰にも気づかれてはならないことだ。
稽古が終わり、楠は松永とすれ違い様に紙切れを忍ばせた。そこには昨夜盗み聞きした御倉と荒木田のことが書いてある。松永がその二人と親しいということはないのかもしれないが、一応知らせておいたほうが良いと思ったのだ。
松永は忍ばせた紙に気が付き、物陰に隠れてそっとそれをみた。楠はそれをまた遠くから見守る。
楠は胸騒ぎがしていた。土方が御倉と荒木田を疑っている。そしてさらに隊内随一の剣豪である斉藤を見張りにつけているとなると相当疑わしいのではないか、と。
そしてその予想は当たることになる。
松永があからさまに動揺し、青ざめたのだ。



106


僕は何を間違ってしまったのだろうか。
それを貴方に訊ねることができたなら、きっと貴方はこう答えるに決まっている。
一度失敗してしまったこと。それ自体が間違いである、と。


九月二十六日。
夜も更け、辺りが静まった頃。楠はいつもと同じようにひっそり土方の寝所を抜け出した。土方は疲れているのか、目を閉じたまま楠には気がつかなかった。
重い腰を擦りながら楠は厠へと向かった。手を洗い、喉を潤す。土方と過ごすときはいつもそうしている。
特に意味はない。けれど、意味を求めるとすれば何かを洗い落としているのかもしれない。別の男に抱かれたぬくもり。嘘をつき続ける口唇。裏切りを纏い続ける身体。そのどれもが汚く感じてしまっているのだろう。
(本当の僕はどこへ行ってしまったんだろう…)
楠は庭先から、月を見上げた。
太陽が隠れ、皆が目を閉じて眠っている。しかし月だけは明るくこちらを照らし続ける。まるで罪人を明らかにするように。
(入隊したころは…この月を、誇らしく見上げていたはずなのに)
新撰組は昼間だけでなく夜も隈なく見廻りをする。当番制なので毎日ということはないが、夜勤のときは毎回この月を見上げていた。月だけが自分たちのしていることを見守ってくれている気がしていた。
「…眠れないのか」
「!」
楠は背後から声をかけられ、一瞬身体を震わせた。全く気配を感じなかった。
「土方…副長」
そこにいたのは寝所にいたはずの土方だった。少し気だるそうにしている。
「いえ…厠に行っていただけです。起こしてしまいましたか」
「そういうわけではないが」
そう言うと土方は縁側に腰かけた。どうやら厠にいくというわけではないようだ。そして何故か楠に隣に座るように促される。楠は言われるままに隣に侍った。
「一度聞いてみたかったんだ」
「なんでしょう」
「お前は何故、新撰組に入ったんだ」
唐突な問いだった。土方との会話はいつもこういう唐突な内容が多い気がした。
楠は暫し躊躇い、答えた。
「僕の剣が、お役に立てる場所を探して…」
「そんな建前の答えはいらねぇ」
土方は言葉を遮った。確かに土方にすれば模範回答だったのかもしれない。楠は本音を言え、と諭されたように感じた。少し間を置き、再び答えた。
「……僕が生まれた意味を探しにここに来ました。僕は何のためにこの時、この場所に生を受けたのかと。幼いころは女のようだと良く虐められました。そんな形(なり)では何も出来るはず無い、できっこないと…。だから…本当は、倒幕だろうと幕府だろうとどちらでもよかったのかもしれません。ただ、僕にできる何かを探したかった。それだけなのかもしれません」
剣を役に立てたいなんて、思っていない。自分一人の剣の腕程度で世の中が変わるだなんて思ったこともない。だったら何のためにここに在らんとするのか。それがただ知りたかった。
「…初めて聞いたな。そんな素直なことは」
「す、すみません!失礼なことを申上げて…」
楠はあわてて謝った。
志あって新撰組に携わっている人からすれば、自分の入隊理由など同志として頼りないものだろう。
しかし、土方は少し微笑んでいた。
「そんな奴ばっかりだ。新撰組は」
「…は…い」
土方の言い草は、まるでここにいることを許してもらえたようなもので。そしてそれは松永に抱いた感情に少し似ていて。楠は安堵するとともに酷く胸が痛んだ。
(この人を…裏切ってしまっている…)
そのどうしようもない事実を突き付けられているような気持ちだった。
二の句が継げないでいる楠の横で、先に口を開いたのは土方だった。
「楠」
「は、はい」
「…俺に、何か言いたいことがあるんじゃないのか」
その一言は。
全く予想していないもので。
「……な、んの……」
そして明らかに何かを知っている物言いで。
楠は一瞬にして悟ってしまう。
(この人は…気が付いている…!)

「土方副長」
楠は驚きのあまり肩を揺らした。緊迫感漂うこの場に、もう一人現れたからだ。月明かりしかない夜では誰が現れたのか分からない。
「斉藤か」
「お取り込み中失礼いたします」
現れた人影は斉藤のものだったらしい。ちらりと楠のほうを見たが、すぐに土方へと目線を移した。
「御倉、荒木田が動きました。やはり永倉さんを襲おうとしました」
「!」
驚いたのは楠のほうだったのかもしれない。
御倉と荒木田。それは松永に伝えた二人の名前だった。
(もしや…あの二人は松永さんの仲間だったのでは…!)
「襲おうと…ということは、永倉は無事か」
土方は特に取り乱す様子もなかった。
「はい。隙を見せることはありませんでした。御倉、荒木田も永倉さんが気がついていないと思っているようで、屯所に帰ってきております」
「呑気な奴らだ」
緊迫した斉藤とは正反対に、土方は小さく笑った。
『鬼の副長』
皆が陰でそう呼ぶ土方は、きっとこういうときの土方なのだろう。
月明かりで照らされた彼の表情は何か面白いことがあったかのように笑っていて、より一層その妖しさ引き立たせる。
楠は思わず息をのんだ。
「楠、お前は下がれ」
「は…」
土方の命令に十分な返事ができないほど、身体が恐怖を感じていた。足が竦んで上手く歩けない。しかしそんな姿で悟られるのが怖くて、必死に、這うように、部屋に戻った。


皆が寝静まった屯所で、近藤の部屋に呼ばれたのは斉藤と藤堂、そして林信太郎だった。林は御倉・荒木田を張っていた監察方の隊士である。同席しているのは土方と山南だ。
「永倉先生を狙っていたのは間違いないと思われます。永倉先生を強引に酒に誘い、寝込みかけた所で鯉口を切ったものの、斉藤先生が厠から戻ってこられたため機会を逃したようです。もちろん永倉先生はそのことに気がついていましたが知らぬふりをされ、二人はそのことに気が付いておりません」
林が簡潔に状況を説明した。彼の装いが町人風なのはその場に潜入していた為だ。
「何故、永倉君を狙ったんだ…」
山南が青ざめた様子で林を見る。林は「おそらく…」と前置きして答えた。
「永倉先生の組下であり、同門であったため外出に誘いやすかったのだと思われます。もしくは…上の指示だったのかもしれません。二人は長州の間者であると思われます。長州藩邸に出入りしている小者とやり取りしているのを見ました」
「長州か…」
倒幕の先鋒である長州とつながりがあると分かれば、間者だと断定しても仕方ない。山南は「そうか…」とその顔色は冴えないまま、返事をした。そして顔色が冴えないのは近藤も同じである。
「永倉くんは、今はどうしている」
「平静を保ってもらっています。処断が決まるまではそのままにしてもらうように伝えております」
近藤の問いかけに答えたのは斉藤だった。二人を油断させるためにも良い判断だった。彼の的確な判断は監察方にも向いているようだ。
土方はショックを隠しきれない二人を余所に平然と言い放った。
「二人を斬る。それしかない」
天敵である長州の間者が二人も紛れ込んでいる…となるとその判断は当然だった。同志であったものを斬る。気分は決して良くないが、反論する者はだれもいなかった。
「…そうですよね。仕方ないことです。そのために俺たちが呼ばれたんですか」
神妙な面持ちで訊ねた藤堂に、土方は頷いた。
「御倉、荒木田は確定だが、他にも潜んでいる可能性はある。混乱に乗じて逃げ出す奴らもいるかもしれない。だから助勤には意を含めておく。だが、あの二人を仕留めるのは斉藤、藤堂、林。お前らに託す」
「承知しました」
「三人共、頼んだ」
近藤の重々しい一言に、三人は深く頭を下げた。その隣で山南が複雑そうな表情のまま小さくため息をついた。


楠は寝付くことができず、屯所の隣の壬生寺に来ていた。境内で膝を抱えて呼び出した相手を待つ。身体がどうしようもなく震えていた。それは間違いなく恐怖から来る震えで、止めるすべなど楠にはわからない。
何に恐れているのか。それさえも上手く言葉にはできない。
土方は気が付いている。自分が彼を騙していること、裏切っていること。
『俺に、何か言いたいことがあるんじゃないのか』
土方のあの問いは明らかに自分の行為の暴露を促されている言葉だった。何もかもを見透かした土方の瞳が自白を強要していた。だが、それにこたえることができなかった。平然とシラを切ることも、反省して詫びることも。何もできなかった。それくらい、恐怖に怯えた。
そして、恥ずかしげもなく逃げなければ、と感じた。
「楠…!」
小声で、しかし緊迫した様子で駆け寄ってきたのは松永だった。提灯もなく急に姿が現れる。
「松永…さん…!」
まるで何年も会ってないかのような懐かしさを感じ、恋い焦がれていた気持ちが急に緩んだ。自然にほろり、と涙がこぼれた。
「どうした…。何故、泣くんだ。なにかあったのか…?まさか、副長に酷い仕打ちを…?」
「いえ…そうでは、なく…」
「わかった。もういいんだ…!つらいなら、もうこの役目はやめてもらうように、俺から言ってみる…!」
そうではない。
言葉で伝えられないもどかしさをぶつけたくて、楠は松永に強く抱きついた。抱きしめられることはあっても、楠からそのようなことはしたこともなかった。そのため松永も少し慌てた風だったが、すぐに抱き返してきた。
「どうした…小十郎」
いつもはなかなか口にしない名を呼ばれ、楠は強く決心した。
「松永さん…一緒に、ここを…出ましょう」
「出る…とは」
「おそらく、土方副長は…勘づいていらっしゃいます。御倉さん、荒木田さんも明日…処断されるかと思います」
「何…?!」
松永は酷く驚いた顔をした。楠はやはり、と思った。
楠が盗み聞いた土方と斉藤の会話から御倉、荒木田が目をつけられているという事実は、松永から本人たちに伝わったのだろう。慌てた二人は永倉を暗殺すべく時を急ぎ、結果としてそれは失敗した。先ほど斉藤が報告していたことを考えると近日中に処断されるのは間違いないだろう。
「そして僕のことも…おそらく、察しているかと…」
「…そうか。そうだったのか…」
松永は放心したように楠の顔を見た。
「知っているかもしれないが…。俺は…長州の間者だ。荒木田さんとは同門の出で…同じ塾で学んだ仲なんだ。だから…見捨てるわけにはいかない」
「松永さん…」
「楠、少しだけ時間をくれないか。少なくとも明日には、ここを出よう」
裏切りを知られてしまった以上、明日をも知れぬ身である。切腹ならまだいいほうで、惨殺されることも覚悟しなければならない。躊躇っている暇はないのだ。
「松永さん、それじゃ、遅いかもしれない…!」
「すまない。最後の願いだ。俺はあいつらを見捨てることはできないんだ…!」
「……」
松永の大きな体躯に包まれる。懇願するかのように強く握りしめた彼の手は、楠と同じように震えていた。
「明日、ここを出て…一緒に逃げよう。俺なんかで良ければ一生…一緒いてもいいか…」
「…ずっと…?」
「ああ、ずっとだ…!」
松永の力強い言葉。
抱きしめられた腕の中のぬくもり。
楠の震えはいつの間にか小さくなり、なくなっていた。
「わかりました…」
彼の言葉に頷いて、顔を埋めた。



107


文久三年九月二十六日、朝。
毎朝通ってきている床屋が来ていた。月代のない者には別段興味のない風景だが、身だしなみを気にする隊士や出かける隊士は髪結いに列を為すこともある。それはある意味、朝の慣習のようなもので別段珍しい風景ではない。
そしてそこに御倉・荒木田がいることに、特に違和感を覚える者もいなかっただろう。
斉藤と林信太郎は二人の背後にまわった。普段から列を為すことが多い髪結いなので二人も特に警戒する様子はない。
「斉藤先生、林さん。おはようございます」
「はよーございまーす」
と呑気に挨拶をしてくる。
そんな二人に斉藤はただ一言だけ告げた。
「滑稽だな」
と。
きっと二人はその言葉を理解することはできなかっただろう。次の瞬間には斉藤、林によって背中を一刺しにされていたのだから。

騒ぎに気がついた総司はすぐに刀を抜いた。それは一緒にいた藤堂も同じだった。斉藤と林が動き出したというのは床屋の悲鳴ですぐに察することができた。
そしてそれと同時に屯所内に激しい物音が響いた。
「松井と越後が逃げ出しました!」
隊士の一人が叫んだ。どうやら他にも潜んでいるという土方の読みは当たっていたようだ。仲間が襲われたと知り、窓を突き破り松井龍次郎、越後三郎が逃げ出したようだ。
すばやく駆けだしたのは藤堂だ。魁先生とあだ名されるだけあってその勢いは総司よりも勝る。
総司は藤堂の後を追い、庭に駆けだした。すると二人の隊士が塀を超えているところだった。
「くそ…!待って!」
藤堂が刀を振りかざすが、二人は既に塀の外。取り逃がしてしまったようだ。
「藤堂くん!無理です!」
塀を超えて尚も追おうとする藤堂を総司は止めた。塀を超えてしまった以上、二人が追い付くのは無理なことだと判断したからだ。そして、それよりも他に潜んでいる者をあぶり出す必要がある。
「同志の中に彼らと同意の者ありッ!!」
総司は大声で叫んでいた。


総司の声に導かれるように「畜生!」と声を荒げたのは松永だった。楠はただただ身が竦んでいた。騒ぎに気が付き、ついに時が来たのだ、と自覚したときには手足の震えが止まらなかった。
「楠、…行こう!」
松永の力強い手に引かれた。かつてないほど強く握りしめられ、楠の怯んだ身体を引っ張り挙げる。
「絶対に手を離さない」
松永の言葉に楠は頷いた。身体の震えが止まった。そして駆けだした。

騒がしくなって屯所の中を一気に駆け抜けた。逃げ出す松永と楠の姿をみて二人も間者であると理解した隊士たちは、斬りかかってきたり追ってきたりと様々だが、幸運にも屯所の門前まで走って逃げてくることができた。
「もう少しだ…!」
松永がそう言った瞬間だった。
門前には二人の人影があった。刀を抜いて待ち構える姿に、最初は門番かと思ったが、そうではない。
「…土方、副長…!」
そしてもう一人は原田だった。
「観念しろ。逃げられると思ったのか!」
怒号を挙げたのは原田だった。稽古では松永と親しくしていただけに、きっとこみ上げてくる怒りも大きいのだろう。顔を真っ赤に染めていた。
しかし、それとは正反対に土方の顔は無表情だ。何の悲しみも怒りも無い。それが逆に恐ろしく思えるほど。
「畜生…!畜生、畜生!」
松永は楠の手を離し、己の刀を抜いた。この二人を殺さなければここから逃げ出すことはできない。
「俺は、ここで死ぬわけにはいかない…!死ぬわけにはいかないんだ…!」
切羽詰まった松永の言葉。それはまるで自分に言い聞かせるような、まるで言い訳をするような物言いで。楠も刀を抜いた。松永が二人を斬るとなれば、楠もそうするのが正しいと思ったからだ。
しかし、その思惑は外れた。
「…え…っ?」
不意にドンッと背中を押された。一瞬誰かに後ろから刺されたのかと思ったがそうではない。強い力で楠が前のめりになるほどの力で押されたのだ。そして土方と原田二人の前に躍り出るようになる。
まるで囮の様に。
楠はそれが理解できなかった。これは…一体どういう…。
「松永ぁ!!」
原田の荒げた声でハッと我にかえる。ふと見れば、隣にいたはずの松永が逃げ出していた。
松永は原田から背中に一太刀浴びたようだが、幸運にもそれ以上の難を逃れた。原田の隙をつき、もうその姿は背中しか見えない。数名の隊士が松永を追うべくその後ろを駆けていったが、逃げるのは容易そうだ。
彼は自分を囮にした。そして一人で逃げた。
「…ぁ…ああ…」
彼は裏切ったのだ。そう気がつくまでに時間はかからなかった。
声が、身体が、刀を持つ手が震える。死ぬことへの恐怖ではない。裏切られたことへの悲しみに。
『俺が守る』
『俺を信じろ』
『絶対に手を離さない』
そのどれもが嘘だったのだと、一瞬にして気付かされてしまう。
何故、裏切られたのか。何故、置いて行かれたのか。いつから、裏切られたいたのだろうか…もしかして、最初からそのつもりだったのだろうか。
様々な疑問が交錯する。しかしそのどれもに絶望的な結末が答えていた。
間違えたのだ。
自分は間違えてしまったのだ。
「楠」
混乱する楠に土方が声をかける。
「……副…長…」
「お前には詮議を受けてもらう。洗いざらいすべて吐け。処断はそれからだ」
処断など決まっている。自分はどの道死ぬ運命なのだ。
そして土方は、やはり唐突に楠に訊ねた。
「お前の義は…どこにあったんだ」
と。僕の義は。
僕の義はどこにある。
「僕は…」
楠は抜刀していた刀を強く握りしめた。そしてその切っ先を土方に向けた。
「おい…楠!」
制すように名を呼び、表情を歪めたのは原田だった。土方は相変わらずの無表情でその切っ先を、そして楠を見つめ続ける。
「僕は間違えてなどいない」
その声は存外大きく響いた。
「僕は、間違えてなどいません。僕の義は…あの人を信じることです。信じ抜いた自分の義を恥じてなどいません」
間違えてなどいない。間違えるわけがない。それは土方への返答というよりも自分へ言い聞かせる言葉だった。例え裏切られたのだとしても、例え捨てられたのだとしても、例え愛されていなかったのだとしても。それを間違いだとは思わない。
涙をこらえ、唇を噛みしめた。そうしなければ、泣き崩れてしまいそうだった。何もかもが崩壊して惨めな姿になり果ててしまいそうだった。
そして、それまで黙っていた土方が、口を開いた。
「…では、行け」
「え…?」
土方が、刀を下した。
「おい、土方さん!」
「黙ってろ、原田。…お前は、何も情報など持っていない。ただ、松永に利用された。あいつに強要されて俺の小姓となり、間者のような真似をした。そうだろう」
「土方…副長」
それはまるですべてを許すという言葉と同じだった。松永に利用された。松永に騙された。お前は被害者だ。お前が悪いんじゃない。
その言い訳を敢えて促すような、贖罪する機会を与えるような。
「お前は間違えていない…そうだろう?」
「僕は…」
僕は間違えていない。失敗などしていない。僕にとっては、そうだ。
楠は刀をまたさらに握りしめた。しかし次は土方のほうではなく、自分の腹に向けて。
「僕は、間違っていません。…けれど、逃げ出すこともできません。それは僕の意地の為に…。土方副長、ご厚情、感謝いたします…!」
「おい、楠…!」
止めようとする原田を無視し、楠は息を止め、その刀を己に突き刺した。
身体が裂け、血が吹き出る感覚。意識が朦朧とするほどの痛み。けれども、手を止めることなく命を断つ。
「原田…介錯をしてやれ」
「ああ…」
土方の言葉。
ありがとうございます。
楠は声を振り絞り、土方に告げる。
それが聞こえていたのかどうかはわからない。次の瞬間には世界が真っ暗になった。



108


文久三年九月の暮れ。新撰組では荒木田・御倉を始めとする長州間者の粛清が行われた。局長・芹沢鴨の暗殺から間を開けず行われたこの粛清によって新撰組のムードはより緊張感を増した。
そしてのちに「美男五人衆」と綽名される寵愛していた小姓・楠小十郎を惨殺したことで、土方の「鬼副長」というあだ名は名実ともに認められることとなる。


秋風がそろそろ頬を撫でる季節。副長助勤である原田はぼんやり縁側にたたずんでいた。
新撰組の屯所は相変わらず前川邸と八木邸であるが、主に平隊士たちは前川邸の大広間に雑魚寝していて、助勤たちの部屋は八木邸にある。上司がいないので騒ぎ放題…というわけではなく、前川邸の離れには近藤・土方・山南らのいわゆる「幹部部屋」があって、平隊士たちが容易に羽目を外すことはできない…そんな環境である。
さらに長州藩士の粛清が行われ、ここ数日は特に屯所の物々しい雰囲気が続いていた。
「なぁんだか、息苦しい感じだな、おい」
縁側で横になる原田が、同じく隣で茶を飲む藤堂に話しかけた。
「仕方ないですよ。目の前であんな堂々と粛清が行われたんじゃ…」
「逃がした奴らもまだ捕まってないんだろう?胸糞の悪ぃ事件だったよな」
ふん、と原田が不機嫌そうに悪態をついた。藤堂は「ああ、松永さんのことですか」と原田に訊ねた。
「松永の野郎…剣の腕も悪くねぇし、いい奴だと思ってたのにな。まさか楠を囮に逃げ出すとは思わなかったぜ。背中に一太刀負わせてやったが、あの感触だと浅手だっただろうな。畜生」
「あいつらは長州藩士だという話ですが…楠君はどうだったんでしょう。彼の物腰や言葉の訛りからは西国のそれっぽいものは感じなかったのにな」
「土方さんの話だと、松永に唆されて間者になった……とか言ってたな。松永に脅迫でもされたんじゃねぇのか」
「と、なると。土方さんの小姓になった、というのは間者として、ということですか」
藤堂が合点がいったように手を叩くと、原田が「あ?」と理解が及ばない様子で藤堂を見た。
「だから。つまり土方さんは楠君が間者であるということを知っていて小姓にした、ということになりますよね。つまりすべてわかっていて小姓に据えたうえで粛清をした。敵を泳がせておいて油断をさせた」
「おいおい。じゃあ俺たちはまんまと土方さんに騙されたってことか?」
「それだったら理解できます。なぜ小姓なんてものを傍に置いたのか。沖田さんがあれだけ落ち着いていたのか…全部、計画されたことだったんですよ!」
謎解きを終えた探偵のように藤堂は合点した。しかし、隣にいる原田は「うーん」と浮かない顔だ。
「だとしてら…俺はなんだか恐ろしくなっちまった。あんだけ可愛がってた小姓と計画的に契りを結び、あっさり切り捨てることができる。そんな、土方さんの底知れずなところを、さ」
「俺はそれよりも松永が楠君を囮にして逃げた、ということに恐怖を感じます。死ぬと分かった人間に誇りや武士道なんてものはない。そんな風に見せつけられたような気がして」
「ああ。だからより一層印象的だったんだよな。楠の最後がな…」
僕は間違っていない。間違ってなどいない。
断固として否定し続けた楠が腹を切ったあの時。何の恨み節もなく、何も語らず。そんな彼の首を切った原田にはその姿が鮮明に焼き付いていた。
「結局、あいつは…松永と逃げたこと、土方さんの小姓になったこと。…何を間違っていなかったんだろうなぁ…」
原田は空を見上げた。秋晴れの空は胸に残るわだかまりとは正反対に清々しい。その青々とした姿はどこか楠に重なるようで、自然とため息が出た。
「…あ。そういやぁ、新ぱっつぁんは?」
もう一人の相方の姿が見えないことに原田はやっと気が付いたようだ。壬生寺からも稽古の声は聞こえない。
「そういえば、さっき甘いものが食べたくなった、とか何とかいって出ていきましたよ。案外おまささんのところじゃ…」
「なんだって?!へーすけ、それを早く言えよ!」
原田は俊敏に立ち上がると、一目散に八木邸を出ていく。
藤堂は口元を綻ばせながら「俺も連れて行ってくださいよー」と原田の背中を追いかけた。


一方。総司は土方を追いかけていた。
前川邸を出た土方をこっそりつけていた総司だが、だんだんと土方の歩幅が早くなるにつれ隠れて追うのが困難になってきた。
そもそも隠れずとも声をかければ良いのだが、土方になんと声をかけたらいいのか、総司には戸惑いがあった。楠ら長州間者が粛清されてから土方は誰も人を寄せ付けなくなったように感じたからだ。近藤も「しばらく放ってやろう」と見守るようにしたようだが、総司はそわそわしてなんだか落ち着かなかった。
そして珍しく外出する土方を尾行するに至ったわけだが、土方が角を曲がった。それにならい同じく角を曲がろうとすると人にぶつかった。
「わっ…す、すみま…」
「何してんだよ」
お決まりな展開であるが、憮然とそこにいたのは土方だった。どうやら尾行はすっかりばれていたらしい。
「あ…あはは。奇遇ですね、土方さんどちらにお出かけですか」
「そっくりそのままお前に返してやる。お前はどこにお出かけなんだ?」
不機嫌そうに鸚鵡返しにされ総司は口ごもる。眉間にしわを寄せている姿は、異様なほどのオーラを放っていてまるで一触即発の雰囲気だ。町人たちもそれを察しているのか誰もそばを通りかからない。
「…私は、土方さんの行くところに行くだけです」
そう、素直に答えるしかなかった。
「わかった。じゃあ、ついてくるな」
「嫌です。今日は非番だし、何をしようと自由なんです。何にも言いませんし、迷惑かけませんからついていってもいいですか?」
「女のところならどうするんだよ」
「その時はお邪魔にならないように引き返します」
食い下がる総司に、土方は小さくため息をついた。
「…ったく、仕方ねぇなぁ」
土方のその言葉は案外楽しそうで。
総司は少し安堵した。

四条通りをぬけ橋を渡り、もうすぐ祇園、というところで土方の足が止まった。橋から川を眺めるようにして立ち尽くす。
「土方さん…?」
秋風が土方の髪を靡かせる。不意に目を奪われた土方の目がどこか寂しそうに川を見つめていた。総司は隣に並び、一緒に川を見つめる。今日は風があるものの、穏やかな天気で川の流れもいつもと変わりなく穏やかだ。耳を澄ませば喧騒のなかでさらさらと水音が聞こえてくるようだ。
隣にいた土方が懐に手を伸ばした。そして忍ばせていた懐紙を取り出した。
「…楠、くんのですか」
懐紙から取り出したのは一房ほどの髪の毛だった。総司はすぐに楠の遺髪であると察することができた。
「あいつも…きっと、ついていきたかったはずなんだ」
土方は「誰に」とは言わずそうつぶやくと、遺髪を手に取り川へと投げた。
ついていきたかった。それは念友であった松永へか、命を賭すと決めた新撰組へか…。裏切られても、見捨てられても自分を間違っていないと貫いた彼はいったい誰についていきたかったのだろう。
遺髪は涼やかな風に乗ってそれが川へと落ち、水の流れの一部として吸い込まれていく。そして下流へと流れて行った。その姿をいつまでも、いつまでも、土方は眺めていた。きっと見えないだろうに、その姿を探すように。
誰かを、追うように。
楠の遺体はもちろん間者として処分された。切腹という形での死だったが、間者として葬られるのは当然のことだった。きっと土方はこっそりこの遺髪を持ち出したのだろう。
「土方さん。松永さんは殺されると分かったとき、楠くんを囮に逃げたと聞きました。本当ですか?」
「…ああ。だから、なんだ」
総司は川から土方へと視線を移した。土方はまだこちらを見ようともはしないが、構わなかった。
「楠君を…囮にしたのは、貴方のほうなんじゃないですか」
「……」
土方は何も答えない。答えないからこそ、それが肯定であると総司はわかっていた。
しかし総司はあえて続けた。
「楠君が松永さんと念友の関係であるということに気が付いていた貴方は、楠君が小姓に願い出たときにあっさりそれを受け入れた。同志である以上に念友という関係を持った松永さんのことを、楠君が『どこまで裏切らないのか』。それを確認したかったんじゃないですか。
 私がそれを確信したのは松永さんが逃げ出した時です。貴方は楠君を助けようとしたそうですね。無理やり間者になるように唆されたんじゃないか、と言って救おうとした。…でも、土方さんらしくないです。いや、『鬼の副長』らしくないです。…だとすれば、その逆です。そういう風に助け舟を出すことで楠君がどこまで松永さんを信じ貫くことができるか。それを確かめたかったんじゃないですか。…私の代わりに」
私の代わりに。
人というものがどこまで相手を信じ切れるのか。同志以上の念友の間柄の松永と楠…この二人がどこまで相手を信頼することができるのか。それを確かめた。
そしてそれを自分たちに当てはめるのだ。
「…心外です。私は貴方を信じているのに。土方さん、貴方は私のことを信じていないんですね」
責めるような口調の総司に、土方は相変わらず無表情で川を見つめ続けている。総司は苛立ったが、答えを聞くまで去る気分には為れず、その隣でずっとその横顔を見続けた。
やがて土方がため息交じりに、川から総司へと視線を移した。
「お前の言う通りだとしたら、俺はよほど器用な男だな。お前がいるのに、別の男を抱くなんて」
「…そんなの、知りません。土方さんはつまみ食いがお得意ですからね」
「おいおい。酷い物言いだな」
土方が苦笑した。茶化されたように感じた総司は思わず「もう!」と土方の袖をつかむ。
「私は怒ってるんですよ!」
「怒ってるのか?」
「当たり前じゃないですか!私は近藤先生のため、土方さんを信じてここまでついてきたんですよ!なのに、信じろって言った土方さんが私を信じていないなんて、酷いです」
「わかった、わかった」
土方はますます掴み掛る総司を諌めて、その手を取った。
「お前の言うとおりだ。お前と楠のことを重ねてみていたのはそうだ。だけどな、一つ間違いがある」
「え?」
「最期の時。松永の野郎が楠を見捨てて逃げたとき。俺は楠のことを助けてやりたかった、それは本当だ。あの二人に俺とお前を重ねていたのも否定しない。だからこそ、松永の姿は俺だった。松永の逃げる姿を自分を重ねて見たときに、俺自身が逃げ出したような気分になった。だから楠に助け舟を出した。滑稽なことだが松永の代わりに俺が救ってやろうとしたんだろう。あの時の俺は『鬼の副長』なんてものじゃねぇ、ただの土方歳三だったのさ」
「……」
『鬼の副長』
土方のことをそう揶揄するひとは多いけれど、それを一番自覚しているのは紛れもなく土方なのだろう。そうなるべきである、そうあるべきである。いつの間にか自分に課したその責任を土方は全うしようとしているのだ。
そしてそのことに気が付いていなかったのは、一番近くにいるはずの総司だったのだろう。土方自身の姿を見失うほどに。
総司は掴み掛った手をゆっくりとほどいた。
「すみません。…少し、言い過ぎました」
「いいさ。お前のように皆を誤解させるために振る舞ったんだ。『鬼の副長』を取り戻したくて。…俺が酷い男だと騙されてくれていても良かったんだ」
「そんなの、嫌です。私は土方さんを信じているんですから。信じる人が酷い人だなんて、思いたくありません」
総司が笑ってみせると「そうだな」と土方も少し笑った。
川へと投げた楠の遺髪はもうどこにも見えない。鮮やかに散った彼の姿は鮮烈に総司の記憶に焼き付いていた。
間違っていない。
そう叫んだ楠は誰よりも相手を慮り、信じ、愛することができたのだろう。それは紛れもない強さだ。それは誇れるほどの、憧れるほどの、強い信念だ。
土方は松永を自分に重ねたという。
では楠は自分に重ねることができるだろうか。
「…まだ、負けるかな」
総司は小さくつぶやいて、空を見上げた。



109


文久三年十月。秋風が舞う季節になった。

「沖田さん」
総司のことを沖田さん、と呼ぶ人は実は数少ない。試衛館の兄弟子たちは年下の総司を下の名前で呼んだり「沖田君」と呼んだりする。江戸の心形刀流の伊庭八郎は「沖田さん」と呼ぶが、彼はいない。新撰組に入ってからは年が上の者でも「沖田先生」と呼ばれることがほとんどなので、むしろ彼しかいないのかもしれない。
「藤堂くん」
稽古から帰ってきたところなのか、額に汗をかきこちらに向かってくる。魁先生の異名を持つ彼だが、意外と背丈は低く小柄だ。
「稽古はもう終わったんですか?」
「ええ。ここ最近みんな身が入らないみたいだったんですけど。ビシビシしごいてやりました」
胸を張って笑う藤堂に総司もつられて笑った。
隊士たちが身が入らない訳…それはもちろん長州藩士粛清の事件があったためだ。三人が惨殺される現場を見れば皆が引き締まる気持ちになるのだろう。新撰組は身分に関わらず剣の腕に自信があれば入隊することができる。その分様々な身分の者がやってきていて、金目当ての者もいるのが現実だ。武士である者でさえも狼狽えてしまうようなあの事件を目の当たりにして、皆が恐れを抱いてしまったのは仕方ないのかもしれない。
「それに今日は二倍働いてきたんで、疲れましたよ」
「二倍?稽古の当番は…」
「山南さん…おっと、山南副長です。でもここ最近体調がお悪いみたいで塞ぎ込んでるんですよ」
藤堂がため息交じりに肩を落とした。
山南は土方と同じ副長の座に就いているが、土方のように『鬼の副長』として孤高に振る舞うのと正反対で、隊士たちの悩みを聞いたり話を聞いたり…『仏の副長』として皆の心の拠り所となっている。温厚な人柄や決して絶やさない笑みはそのあだ名に相応しいものだった。
だが、その分土方と対立することも多い。二人が怒鳴りあう声を聞いた者もあり、二人は犬猿の仲であると認識されているところがある。
「この間の…事件から、なんか口数も減ってしまったみたいで…」
「…」
『君のやり方は横暴すぎる』
総司も、山南が土方を非難しているのを目の当たりにしたことがある。その険悪な雰囲気は障子を挟んで廊下からでも伝わってきて、総司は思わず踵を返し、その場から引き返したのだ。
「俺はなんだか心配です。山南副長は昔から穏やかで怒鳴ったりしないような人だったのに…京へ来てからはそんなことも増えてきてるし」
藤堂は山南と同じ道場で北辰一刀流を学んだいわゆる先輩後輩の仲である。試衛館で再会したのは偶然だったようだが、今でも兄弟子として慕っているところがある。
「大丈夫だと思いますよ」
総司は手にしていた麩菓子を藤堂に一つ手渡した。
「だって、土方さんは山南さんのことが大好きですからね」
その答えに、藤堂は首を傾げていた。


山南は近藤の部屋にやってきていた。そこには土方もいて「丁度良い」と言って軽く頭を下げた。
「突然で申し訳ありません。私を副長から降ろしてはもらえませんか」
山南の申し出に一番驚いたのは意外なことに土方だった。
「な、何を言っているんだ」
詰め寄るように土方は山南の肩を取る。
「あんたは副長にいてもらわねぇと困る!」
「待て、歳。山南さんの話も聞こう」
怒鳴る土方を近藤が引きとめた。土方は軽く舌打ちしながらも近藤に従い居住まいを正した。山南もほっとした様子で口を開く。
「芹沢先生が…お亡くなりになってから、どうも気分が沈んでしまいがちで…先日の事件で胃をやられてしまったようです。今日の稽古も藤堂君に任せてしまい、私は期待されるほどの働きができていないのではないかと思いました」
「しかし…貴方は隊士から大層慕われている。胃をやられているということでしたら医者を探しますし、稽古も考慮できる。私としては皆の心の拠り所としても頑張っていただきたいのだが」
近藤が柔らかな声で山南に申し出る。しかし、山南は首を横に振った。
「有難いお言葉です。もちろんおっしゃる通り今までの仕事は続けていきたいと思います。新撰組を支えていきたいという気持ちは変わりません。しかし、それは副長でないとできないというものではないはずです。今の立場にいることが私には勿体ないと思ったまでのこと」
「…しかし…」
山南の柔らかだが強情な意思に近藤は口ごもった。するとそれまで黙っていた土方が何も言わず立ち上がる。
「歳…?」
「要するに俺との喧嘩に疲れたってことだろ。土俵から降りたいということか」
強く山南を睨み付ける土方だったが、睨み付けられている本人は特に動じる様子もなく微笑みかける。
「そういうことではありません。ただ私には土方君ほどの働きができないということです」
「俺ほどの働き?俺は何にもやっちゃいねぇ」
「謙遜されなくても。隊がここまで大きくなったのは近藤先生と貴方の功績です。私は何もできなかった」
「山南さんそれは違う!」
近藤があわてて山南の手を引いた。
「私なんかは本当は皆の支えがあってこそ局長の座についていられる。しかし、皆がいなかったら局長どころか多摩の農家の跡取りとして一生を終えただろう。山南さん、貴方は我々にとって必要な人だ!」
「勿体ないお言葉です。もちろん私はこれからも近藤先生を支えていく意思はあるのです。しかし…」
「わかった」
立ち上がったままだった土方が山南から目をそらした。
「考えておく」
土方はそのまま部屋を出ると、大きな足音を立てて去って行った。
山南はため息をついた。そして苦笑した。
「私はまた土方君を怒らせてしまったようです。どうも彼と話をすると喧嘩になってしまって…隊士たちを委縮されてしまっている気がします。近藤先生にも心配をおかけしてしまって申し訳ない限りです」
「そんなことは良いのです。…歳はああ見えて貴方を頼りにしている」
「頼りに?」
山南は首を傾げ腕を組みなおした。近藤は少し遠い目をして、微笑んだ。
「喧嘩するほど仲がいいという言葉ほど、歳の性格に当てはまる言葉はないくらいだ。私なんかも昔は歳と取っ組み合いの喧嘩をしたものですよ」
幼馴染は在りし日の自分たちを思い浮かべて、豪快に笑った。


総司はため息をついた。喧嘩をするのは勝手だが、それで不機嫌になって、そして自分に「機嫌をとれ!」と迫るその性格は何とかしてほしいものだとしみじみ思う。『鬼の副長』なんて恐れられている土方だが、総司からすれば傍若無人の性格が前面に出ただけなんじゃないかと思ってしまう。
「…土方さん。そろそろ膝が痺れてきたんで、どけてもらえませんか」
「まだだ」
部屋に突然土方がやってきたと思ったら、「斉藤は見回りだったよな」と同室の彼の所在を確認し、そのまま膝枕を強要された。もちろん丁寧に断りをした総司だが聞いてもらえるはずもなく、仕方なく膝を差し出すことになった。
膝が枕になって半刻ほど経ち、
「厠に行きたいんですけど」
と申し出るものの
「我慢しろ」
の一点張りで、その場から動こうとはしない。
枕に差し出しているのに、土方は寝息を立てることなくずっと無言で横になっている。総司は仕方なく傍にあった読み物に手を伸ばしてその痺れと頭の重さに耐えながらも、土方が膝枕に飽きてくれるのを待つが、どうやらその様子はない。
(…きっと喧嘩に負けてきたんだろうなぁ)
総司はそんなことを考える。
傍から見れば不機嫌になって怒っているのだろうと思われるだろうが、こういうときの土方はどちらかといえば拗ねているというほうが近い。試衛館にいたころ、たまに近藤と喧嘩して道場にやってきたかと思えば、総司を相手に延々と打ち込みを始めたことがあった。憂さ晴らしに付き合っているのは昔からなのだ。
「土方さん、もうすぐ斉藤さんが帰ってきますよ」
「…だからなんだ」
「斉藤さんに誤解されますよ」
「誤解ってなんだよ」
「……とにかく、もうすぐ夕餉の時間だし、どけてくさいよ」
痺れた膝を動かそうとする。しかし土方が強情にそこから離れようとしない。
「落ち込むのは勝手ですけどね。私に甘えてもらっても何にもできませんよ」
落ち込んでねぇよ。誰がお前に甘えるか。
照れ屋の土方からそういった答えが返ってくるのを期待した総司だが、土方は何も言わなかった。押し黙ったまま何の反応もない。
「土方さん…?」
総司は土方の顔をうかがった。眉間にしわを寄せ、不機嫌そうな顔は変わらない。
「甘えたっていいだろ、たまには」
「…それは私にじゃなくて、山南さんに、ということですか?」
総司は訊ねたが、土方から答えはない。無言の肯定だった。
「そうやって素直じゃないから、山南さんに伝わらないんですよ。試衛館で一緒だった藤堂くんでさえ、山南さんと土方さんが対立してるんじゃないかって心配してました。本当は大好きなのに」
「大好きなんかじゃねぇよ」
「嘘をついたってわかるんですからね」
土方はふん、と鼻を鳴らし、しかし言い返すことはなかった。そしてまた寝返りを打った。どうやら膝枕は当分続くようだ。




110


山南が読み物に耽っていると
「山南さん。良かったら遊んでくれませんか?」
と総司が訪ねてきた。十月のある日のことである。

山南は総司を迎え入れ、読んでいた本を仕舞った。
「どうしたんだい。遊んでください、なんてまるで試衛館のころみたいなことを言うんだね」
微笑みかける山南は傍にあった砂糖菓子を総司に差し出した。山南は時間があれば町へ出かけていき、こういうちょっとしたお菓子を買ってきて、八木邸の子弟たちに渡しているらしい。なので山南の部屋にはいつもお菓子のにおいがするのだ。総司は「いただきます」とそのお菓子を受け取りながら微笑んだ。
「そんなことをいいながら、私を一番子ども扱いしてくれるのは山南さんですよね」
「そうかな。そんなつもりはないんだが」
頭を軽くかきながら山南も微笑んだ。
「それより、今日は見回りじゃなかったかい」
「いえ、見回りはもう終わったんです。稽古も今日は当番じゃありませんしね。それよりも山南さん、近藤先生から具合が悪いって聞きましたけど、横になっていなくて大丈夫ですか?」
もらった菓子を口に運びながら総司が訊ねた。山南は「ああ…」と歯切れ悪そうに相槌を打つ。
「近藤先生には心配をかけているようだが…そんなに身体が悪いわけじゃあないんだ。こうして本を読むこともできるし、書き物もできる。みんなが言うほど悪くはないんだよ」
「そう…ですか。土方さんも、心配してました」
心配、というのとはまた違うかも。
総司は心では思ったものの、口にはしなかった。山南も苦々しく笑っていたためだ。
「土方君は…きっと、怒っているんじゃないかな。こんな程度のことで脱落したいと申し出た私のことを…見損なったと思われたのかもしれない。私は私でいることをきっと彼は望んでいるだろうけれど…私は私でいるために『副長』であることを辞めなければいけないと思ったんだよ」
山南が副長の座を降りたいと言い出した、というのは近藤から聞いていた。結局土方は強引な慰めを要求するだけで総司には何も話してくれなかったのだ。…もっとも、話してもらえるとは思っていなかったので、総司としては予想通りなのだが。
「山南さん…もしかして、土方さんが山南さんことが嫌いだと思ってますか?」
突然の総司の質問に山南は少し呆けた顔をした。
「…まあ、好かれてはいない…とは思っているよ」
「山南さん。それは大間違いですよ」
総司はもう一つ砂糖菓子に手を伸ばした。京の菓子は美しい形状で上品な甘さが何個食べても飽きない。近藤は甘いものも江戸に限ると言って好まないようだが、総司はこの繊細な甘さも割と好きだった。
「土方さんは山南さんのことが大好きなんです。いや、大好きというと語弊があるかもしれないですけど、山南さんのことを尊敬していて一目置いているのは間違いないです。それもきっと江戸のころから変わっていないはずです」
「いや、しかし私は土方君の意見には反目してばかりで…」
「反目してくれる相手なんて山南さんしかいませんしね」
「…それは、そうかもしれないが…」
いまだ納得できない様子の山南は首を傾げたままだ。総司は「じゃあ」と山南の手を取った。
「今から確かめに行きましょう」
にっこりとほほ笑んだ総司に、山南は引きずられるように部屋を出た。


「土方さん、今日は近藤先生と一緒に黒谷へ行かれているんです。きっと夕餉くらいにならないと帰ってきませんから…」
総司がそう言って、山南とともにやってきたのは土方の部屋だ。豪胆な性格に比例せず、割と小奇麗に片付いた部屋に侵入した。
山南はあわてた様子で
「こんなことが土方君にバレたら叱られるんじゃないかな」
と総司に訊ねるが、総司は
「叱られるかもしれませんけど、その時は一緒に叱られましょう」
と赤い舌をぺろりと出した。山南はもう何も言えなくなってしまう。
「じゃあ山南さんはそこで見張りをしててください。土方さんの部屋に侵入した、だなんて原田さんとかから告げ口されたら困りますから」
そう言って山南を部屋の外に出す。そして四半刻ほどガサガサと部屋を荒らし始めた。何か探し物を始めたようだが、山南は誰かに見られないかと、心身ともに緊張し何を探しているのか訊ねることもできなかった。
そうしていると総司が出てきて、
「山南さん、こっちに来てください」
と部屋の中へ招き入れる。山南はあたりを見渡し誰も見ていないのを確認しながらゆっくりと障子を閉めた。まるで泥棒のようだと思いつつも入った部屋は、それこそまるで泥棒に荒らされてしまったかのように汚れてしまっていた。
「…沖田君。これは土方君に叱られてしまうと思うんだが」
「大丈夫ですよ。あとできっちり謝っておきますから。それよりこれを見てください」
総司は一冊の本を差し出した。
山南は言われるがままにその本を手に取る。その本には見覚えがあった。
「…頼山陽の『日本外史』だね」
「ええ。山南さんが土方さんに渡した本です。あれは…いつだったか、私がまだ宗次郎と呼ばれていた頃だったと思いますけど。…それ、開いてみてください」
山南はパラパラと頁をめくる。すると山南には見覚えのない書き込みがたくさんしてあった。
「まさか、土方君が…?」
「ええ。あの人手習いが嫌いなのに、この本だけは読んだみたいです。書き込みまでして…。照れくさくて近藤先生や山南さんに教えを乞うことはできなかったみたいだから独学だと思いますけど。…あと、これを」
「…?」
山南が受け取ったもう一冊の本…『日本外史』よりは随分薄い冊子。タイトルには『豊玉発句集』とある。
「豊玉…私は存じないが、これは…誰か有名な人の発句なのかい?」
ぱらぱらと中身を捲ると、そこには繊細な文字で句が並んでいる。どれも耳にしたこともないものだが、内容は率直で、素直な句が並んでいる…。
「へへ。それは土方さんの発句集です」
「…ええぇ!」
総司の楽しげな物言いとは正反対に山南は持っていた本を落としそうになった。
「ひ、土方君は…発句をするのかい」
「はい。たぶん私と…近藤先生しか知らないのかもしれないですけど」
「いやいやいや、だったらこれは土方君が隠していたものなのだろう?!私が見てしまったと知れば…」
「きっと恥ずかしくって発狂して、さらに怒り狂って私を蔵に閉じ込めることは間違いないでしょうねぇ」
「……」
山南は呆然としたが、総司は何事もなかったかのように笑っている。
「土方さんにこんな趣味があることそれだけでも面白いんですけど、句も面白いんですよ。『梅の花 一輪咲いても うめはうめ』とか土方さんらしいと思いませんか?それに、土方さん、『春の月』が好きなんです。『山門を 見こして見ゆる 春の月』『あはら屋に 寝ていてさむし 春の月』…」
「お、沖田君。人の発句をそんな面白いだなんて…」
「『水の北 山の南や 春の月』」
山南はぴたりと思考が止まった。
「私が一番好きな句です」
総司がにっこりと笑って差し出してきたそのページに書かれたその句は。
明らかに自分の名前と関わりがあるようで。
山南はまるで呼吸や瞬きをしていることを忘れてしまうほど、その句に釘付けになった。
「沖田君…これはただの偶然では…」
「わからないです。怒られるから土方さんに訊ねたことはないし…。でも、私はそうだといいなと思います。だから、土方さんは山南さんのことを嫌いなわけないというのも、私の願いが含まれているんですけどね」
総司は苦笑した。
『あんたには副長でいてもわらねぇと困る!』
そう山南に詰め寄った時の土方の表情は、そういえばらしくなく焦っていて動揺していた。そして『考えておく』と言って去ったとき、彼の表情は確かに寂しげで…まるで捨てられた子犬のようだった。
「…そうか。そうだね。君の言うとおりだと思っていてもいいのかもしれない」
山南は発句集を総司に手渡した。その表情は満ち足りたものとなっていて、総司を安堵させる。総司は頷いて「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。
「どうして君から感謝されるのかな」
「だって、山南さん。まだ土方さんとの喧嘩に付き合ってくれるっていうことですよね」
「そうか…喧嘩、か」
喧嘩するほど仲がいい。土方の性格をそう評した近藤の言葉が脳裏をよぎった。
喧嘩の相手になれるのなら。
もう少しだけ、彼との喧嘩に付き合ってみても良いのかもしれない。


夕刻になって近藤と土方が黒谷から帰ってくると、山南は正式に「副長」からの降格の申し出を撤回した。その申し出に近藤は大層喜んだが
「わかった」
と一言だけいうと土方はさっさと部屋を出て行ってしまった。
近藤は「申し訳ない」と謝ったが、それが彼一流の照れ隠しだということを、山南は総司から教えられていた。

山南にようやく新しい季節が訪れようとしていた。




解説

107 楠を始め、長州藩の間者暗殺事件には諸説あります。
元々怪しいと思われていた者たちが、永倉が暗殺されかけたことをきっかけに粛清されます。
結果として御倉伊勢武、荒木田左馬之助は惨殺、越後三郎、松井龍次郎、松永主計が逃亡、楠小十郎は連行途中に抵抗し聞かないので苛立った原田によって首を刎ねられたと言われています。しかし、楠の惨殺については屯所の外の水菜畑まで逃げて行って、そこで惨殺されたという説も有ります。(これは八木邸の子息による目撃証言によるものです)
楠の出自については京都浪人となってますが、桂小五郎に見込まれた長州藩士であるという説が多いみたいです。なので、今回のお話だと楠は松永に唆されて間者となっているという筋立てになっていますが、もともと間者として潜入した可能性がとても高いです。
芹沢暗殺からわずか8日後の内部粛清。今後の新撰組の行く末を暗示しているような感じですね。

108 新撰組の美男五人衆として名前が挙がっているのは楠小十郎、佐々木愛次郎、馬越三郎、馬詰柳太郎、山野八十八の五人です。
子母澤寛氏『新選組物語』によると八木翁が語ったことになっているようですが、真偽は不明です。
ただいづれも入隊時期が早い人たちばかりなので新撰組初期の「美男たち」ということになるのかもしれません。

110 『豊玉発句集』については以前13話にて取り上げたお話です。
そして『水の北 山の南や 春の月』の句についてはさまざまな書籍で「山南さんを歌ったもの」という解釈がありますが、これについて正式な説はありません。また、山南さんを偲んで読まれたものというお話もあるそうですが、これについては『豊玉発句集』が江戸にいたころの作品であるということですのでありえないようです。むしろこの句は『もうすぐ春が訪れるな~』という素朴な句であるという印象のほうが強いように思われます。なので、作中では「山南さんを歌ったもの」としてのニュアンスで描かれていますが、完全なる想像ですので、ご了承ください。でもだったら素敵だなーと思ってしまうエピソードです。
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