わらべうた





111


夏の陽が陰りようやく秋が訪れようとしていた。

総司と永倉が巡察から戻ってくると、ちょうど八木邸の正門から出てくる原田と出くわした。軽装の着流しというラフなスタイルからして、きっとおまさのところへ向かうに違いない。
「お、総司。どうした血まみれじゃねぇか」
原田は少し目を見張って、総司に訊ねた。
「ええ。ちょっとあやしい方々に出くわしました。一人逃がしましたが、二人捕縛してます」
総司が組下の者を指さすと、そこには血まみれで縄を掛けられた男が二人いる。傷だらけで散々痛めつけられたらしい男たちはもう口もきけないのではないかと思うほど弱っていた。そしてその姿を見て原田は軽く笑った。
「はは。よりによってお前ら二人の番のときに捕まっちまうなんて、運が悪かったな」
「そうですね、原田さんだったら逃がしてたかもしれませんからねぇ」
総司の軽口に永倉も「そうだな」と同意する。
神道無念流の達人である永倉は、隊では天然理心流の総司、そして無外流の斉藤に並ぶ剣客だ。江戸の三大道場で学んだ彼はいわば剣術のエリート中のエリートで、総司と本気で立ち会えば互いに勝つことはできないだろうと専らの噂だ。その二人が一緒に巡察ともなれば、逃げられる不逞浪士は数えるほどしかいないはずだ。
そんな二人のコメントに原田はわざとらしくため息をついて
「はぁ…ったく、人を小馬鹿にしやがってよ。いーよ、そのかわりおまさちゃんの心はがっちり捕まえてくるからよ」
と口を尖らせながら手を振って、その場から去って行った。


その後、総司と永倉が報告のため土方のもとへ向かった。
「一人斬って、二人捕縛…な」
巡察の報告を行うと土方が苦い顔をした。だが総司はあえて見ないふりをした。
京都へやってきてもう半年近くなるが、今まで何人も殺めてきた。詰め腹を斬らせる場にも立ち会ったし、暗殺にも加わった。それでもなお、総司が人を斬ったと報告すると土方は苦い顔をしてあまり視線を合わせてくれようとはしない。まるで自分が斬られたかのような顔をする。
ほかの隊士が斬ったと報告すれば「そうか」と涼しい顔をしているので、人を斬ることへの抵抗ではない。総司が手を下すことへの抵抗だ。
「先日の長州藩士の粛清から、大分動きやすくなったな。以前は不逞浪士を匿っているという監察の情報が漏れていたのだと思う」
「そうですよね。前までは踏み込んでも空振りばかりだったんですが、最近は情報通りに確実に仕留められる。これからは一人でも逃がさないように見回りの人数を増やしたいですね」
永倉に同意すると案の定、土方は苦い顔をした。そして 「そうか。ご苦労だった」
労をねぎらう言葉で、土方はわざとらしく締めくくった。

永倉は稽古のために部屋を出て行った。総司もいつもであればそれに続くが、今日はその場に居残った。
「どうした」
土方に訊ねられたが、総司は無言で土方を見つめ続ける。
「話さないとわからないだろう。何か文句があるなら話せよ」
苛立った土方が尚も訊ねてくる。
「過保護に扱うのはやめてください」
総司が重々しく告げると土方は小さくため息をついた。
「…いつ、お前を過保護に扱ったんだ」
「なら可哀そうに、憐みの目で私を見るのはやめてください。人を斬ってきたと話すたびにそれじゃ、やりずらいです」
「そんなつもりはねぇよ」
「……」
尚も否定する土方はやはりため息交じりに視線を外した。
芹沢暗殺に手を下した時。そして梅を殺したあの時に、もう決めていた。もう迷わないと。それがたとえどんな過酷な試練であったとしても近藤と、そして土方のためならそれを乗り越えていくと。
だからこそ芹沢ではなく土方を迷いなく選んだ。誰よりも何よりも自分よりも大切なものを見つけたから。
けれど土方はまだ迷っているように見える。これでいいのかと…。
「土方さん」
「ん?」
「血を浴びた私のことが…嫌いですか?」
総司が訊ねると土方は急に鋭い剣幕になった。
「そんなわけねぇだろ」
「じゃあ私が人を斬っても、どんなことをしても、そんな顔をしないでください。ほかの隊士と同じように「よくやった」と褒めてください。私は武士です。忠誠を誓った人のために己が犠牲になることに何のためらいもない。それが必要であれば悲しみも痛みもなく人を殺します。殺せます」
そうしないと、迷ってしまう。
土方が人を斬った自分を認めてくれないと、自分は自分を認めることができなくなってしまう。そして人を斬れなくなってしまう。立ち止まって引き返してしまう。
けれどもう引き返せないところまで来てしまっている。だったら、そんな修羅の道を歩むことを認めてほしい。
しかし、土方は頷いてはくれなかった。
「……そんなこと…できるわけ、ねぇだろ…」
より苦痛の表情を浮かべ、その表情を隠すためか、手で顔を覆った。その姿は苦悩しているように見える。
「俺は…そうやって人を斬ってきたお前見るたびに…失敗したって思うんだよ…」
「しっ…ぱい…?」
それは、
何よりも
聞きたくなかった言葉で。
「…っ!」
総司は震える拳を強く握りしめた。そして視線を伏せたままの土方に向けて拳を振り上げる。
不意を突かれた土方はその一発をまともに食らって、体勢を崩した。総司はその土方の胸ぐらを掴み、一気に突き倒す。
「…総司…!」
上に乗りかかった総司への土方の訴えも無視し、思いっきり頬を張った。何度も何度も土方へ掴み掛り、自分の手が痛くなることにも気が付かず、打ち付け続けた。もちろんそれ以上に痛いはずの土方だが反撃は一切なく、いつもなら取っ組み合いの喧嘩になるところを黙って打たれ続けた。
まるでそうされるのが当然のように。
まるで報いを受けているかのように。
「おい、何をしているんだ!」
「沖田君!」
止めに入ったのは近藤と山南だった。丁度傍を通りかかったらしく、手にしていた書物を投げ捨てて駆け寄ってきた。そして二人がかりで総司の手を掴むと土方と引き離すように総司を強く引っ張った。解放された土方は咳き込んでいる。
「総司、落ち着け!」
尚も土方へ掴み掛ろうとする総司だったが、近藤に一喝されその手を止めた。
「…うう、ううう…ッ」
そして自分が泣いているということにようやく気が付いた。
「総司…どうしたんだ。何かあったのか?」
いつもの喧嘩ではない、と察したらしい近藤は優しく総司に語りかける。
どうして喧嘩をしているのか。どうして泣いているのか。……そんなことは総司にだってわからなかった。
ただ、どうしようもなく自分という存在を認めてくれない土方に苛立ち、怒り、悲しんだ。それだけなのだから。
「近藤先生。私は…江戸に帰ります」
「総司?!」
目を見張ったのはその場にいた全員だ。土方も顔色を変えた。江戸に帰る。それはつまり脱走と同じだ。
「…総司。歳と喧嘩をしたのは何か理由があったんだろう?そんなことを言わずに話してみなさい」
優しく諭すように近藤は総司へ語りかけるが、総司は首を横に振った。
「話せません。たとえ近藤先生であっても。…ごめんなさい」
「総司!」
総司は握られていた近藤の手を振り払うと、部屋から駆け出して出て行った。近藤は追うことができずにその場に留まり、山南はその姿を見送ることしかできなかった。そしてその後は自然と土方へと視線が注がれた。
「…歳。総司は本気だったぞ。お前何をしたんだ…」
「……」
土方は答えることなく視線を逸らした。そして小さく舌打ちをした。
「あいつ…くそ…っ」
苛立ったように拳を握りしめ、畳を叩いた。
すると近藤はため息交じりに「とにかく」と山南を見た。
「歳の傷の手当を。山南さんお願いできますか」
「はい。とりあえず隊士たちには聞こえていなかったようですから、脱走…沖田君が出て行ったことは伏せておきましょう」
「そうだな…。俺は総司を追ってくる。歳も手当が終わったら探しに行くんだ」
「……ああ」
土方が頷くと安堵したように近藤も頷いて、さっそく部屋を出て行った。山南も薬箱を探しに連れ立って部屋を出ていく。
たった一人残された部屋で、土方は小さくため息をついた。
「…馬鹿…」
何度も何度も総司に殴られ叩かれた傷が不思議と痛むことはなかった。
ただ、殴り続ける総司の表情は不思議と泣きわめいているように見えた。

112


あの花は いま どこで 咲き誇るのでしょう
夏は青々と空へ その葉を伸ばし
冬はただ静かに 春を待つ

私の足が 前へ進めば
追いかけることができた
私の手が 長ければ
手をつないで いられたのに

私は あの 花になりたい
貴方を 見つめ続ける あの 花になりたい



総司は脇目も振らず走り続け、三条、四条を過ぎ高瀬川にたどり着いたころにようやく息が切れ始めた。立ち止まるとそこはあの日土方が楠の遺髪を投げたあの川。後ろを振り向いても誰も追ってこないあたり、どうやら脱走者として捕まるつもりはなさそうだ。
「…もっとも、土方さんにはそんなことできないんだろうな…」
つぶやいて苦笑して、しかし顔の力が緩んで、やっぱり泣きそうになった。
「失敗した…かぁ…。きついなぁ…」
土方が後悔した顔で、失敗したと告げられた時。どうしようもない怒りと、悲しみと、悔しさと、苦しさが込み上げて、苛立って、もどかしくて土方を何度も叩いた。そして彼はわかっているかのように抵抗することなくその痛みを受け入れた。
それはどうしようもなく肯定しているのと同じだった。今の自分を見て「失敗した」と言ったのは失言ではなく、ただの本音だったのだと。
土方にとって失敗だということならば、いまここに必要な理想の自分ではない。
「もう…いらないのかな」
総司は橋の上から川を覗き込む。さらさらと流れ続ける川は、穏やかでいつもと変わらないのに。総司は少し体を乗り出してその風を浴びる。
「ここから落ちたら…」
どうなるだろう、と言いかけたその視線に、それ以上の光景が飛び込んできた。
「あ…!」
高瀬川の土手から、どんどん川へと歩いていく人影があった。遠目ではっきりとは見えないが、どうやら女が川の流れも厭わずすすんでいくようだ。
総司は思わず駆け出していた。川べりの流れは浅瀬で穏やかだが、進めば深くなりそのまま流されてしまう。女の意図は何にせよ命を絶とうとしているのは間違いなかった。瞬時に止めなければと思い、人波を分け、橋を戻り、土手を滑り落ちるように駆け下り、濡れるのも構わず川へ飛び込んだ。
だが女はその歩みを止めることなく川へと進んでいく。すでに肩のあたりまで浸かり流される寸前だ。
総司は懸命に手を伸ばして
「ま…っ、待ってください!」
と叫んだ。だが聞こえているのか聞こえていないのか、女はまだ歩みを止めない。
「くっ…」
総司は女を掴もうと川の流れに抵抗して前へ前へと進む。走る以上に体力を使いうまく足が動かず、自分も流されてしまう危険がある。しかし目の前の命を見捨てるわけにもいかず必死に伸ばした手は、ようやく女の左腕を掴んだ。
「…っ?」
女はどうやら気が付いていなかったらしい。振り向いて総司を見た顔はひどく驚いていた。
「こっちに…!」
抵抗されるかと思いきや、女はあっさり頷くと総司に従った。途中総司に体を預けながら、何とか川辺へとたどり着いたころには総司さえも息が上がってしまうほどだった。そしていつのまにか集まっていたやじ馬は女が助かったとわかると散り散りに帰っていった。
総司がびしょ濡れになった身体を土手に投げ出し、息を整えていると、女が隣に座った。彼女のほうが長く川にいたはずだが、不思議と息が上がっている様子はなかった。川の中ではよく見ることはできなかったが、年のころは同じくらい、黒髪と黒い大きな瞳が印象的な美人だった。
そして彼女はふふっと笑った。
「なんや、死ねんかったわ」
「…怒らないんですか…?」
てっきり自害を邪魔されたのだと怒るかと思いきや、彼女は何がおかしいのか総司の顔を見ながら笑っていた。
「怒らへんよ。命助けてもろうといてそんなことせえへん」
女は濡れた髪を書き上げて、軽く結んだ。総司には湯上りの姉を思い出すような姿だった。
「生きる苦しみと、死ぬ苦しみ。どっちがええかなぁって思うて」
「それで川へ…?」
「賭けやったんかなあ…」
まるで他人事のようにいう彼女は、あどけない子供のように総司に微笑みかける。
「おおきに。うちは君菊いいます」
「君菊…さん。私は新撰組の沖田総司といいます」
「なんや、新撰組の方やったん」
いまだ「みぶろ」と恐れられている新撰組であるので、てっきり嫌な顔をされるのかと思いきや、君菊は尚も表情を変えない。それがあまりにも意外で
「怖くないんですか」
と総司は思わず訊ねてしまった。
「そやかて、花街ではたくさん遊んでくれはるし。お金いっぱい落としてくれはる」
「花街…?貴方はもしかして遊里のかたですか?」
「へえ、北野天神東門外上七軒町の芸妓、君鶴いいます」
急にしとやかな撓りを作って見せた君菊がにっこりと笑って見せた姿は、先ほど笑っていた姿とは全く違っていて、艶やかな微笑みだった。
「芸子さんがどうしてこんなことを…」
息がようやく整い、投げだした身体を起こした総司は訊ねておきながら「あっ」とすぐに後悔した。死のうとした理由など訊ねてはいけない気がした。あわてる総司に君菊はふふっとまた笑った。
「そんなん、足抜けしたに決まってる」
「…足抜け?」
首を傾げると君菊は「んー?逃げたって、ゆうたらいいんかなあ」と楽観的に答えた。「逃げた」という言葉はあまりに今の総司にも当てはまっていて少し驚いた。
「懇意にしてた旦那さんが逃げようゆうてくれて…うちも窮屈やったしそれもええかなあって思うたんやけど…置いていかれてしもうた」
「置いて行かれて…?」
「足抜けゆうたら、知れたら処刑されてまうから…あの人、急に怖わなったんかなあ。足の遅いうちをおいてどこかへいってしもうた。うちかて、もう帰る場所もあらへんし…せやったらもう死んでもええかなあって」
話す内容は深刻なものなのに、君菊はやはり他人事のように語る。
置いて行かれたという事実は何よりも悲しいはずなのに、表情は笑ったままで少女のようだ。
「……」
総司は何も言えず黙り込んだ。
そもそも花街のことなどまったく詳しくない。男が何故君菊を連れ出して逃げようとして、そして置いていってしまったのか。その気持ちなんてわかるはずもなく。また朗らかに笑い続ける彼女は憐みの言葉など欲していないように見えて、余計何を言っていいのかわからなかった。こんな時遊里に通いなれた土方なら、気の利いた言葉でもかけてやれるのかと思った。
君菊は察したのか、困り果てている様子の総司の手にそっと触れた。
何も言わなくていいという言葉の代わりに、君菊は空を見上げて、歌い始めた。


あの花は いま どこで 咲き誇るのでしょう
夏は青々と空へ その葉を伸ばし
冬はただ静かに 春を待つ

私の足が 前へ進めば
追いかけることができた
私の手が 長ければ
手をつないで いられたのに

私は あの 花になりたい
貴方を 見つめ続ける あの 花になりたい


「…う…っ」
美しい歌声で囀っていた言葉が急に切れた。総司が君菊を見るとその大きな瞳に涙をいっぱいにためていた。
「君菊…さん?」
「うち、置いて行かれてしもうたんやね…」
触れていた君菊の手のひらに重なった総司のそれに伝わってくる震え。きっと今まで堪えていたに違いない彼女の悲しみ。
彼女はまるで他人事のように語っていた。けれどそうしなければその痛みに耐えられるわけなかったのだろう。彼女の強がりが一気に解けた途端、心の中に振り続けた雨が、どっと流れてきたのだ。
総司は君菊の肩を寄せ、力いっぱいに抱きしめた。
「うう…ううえええん…っ!」
途端、急に子供のように泣きじゃくり始めた君菊は、総司の腕のなかでその堪えていた悲しみを爆発させた。
その姿はどこか自分に重なるようで。
きっと大切な人に捨てられた君菊の悲しみに比べたら、きっと自分の悩みなどちっぽけなものに違いないのに。その泣き声が、慟哭がまるで自分のそれと同じように感じてしまう。
『失敗した』
そう告げられた時の自分の悲しみに。
逃げ出さなければよかった。腕の中で泣きじゃくる君菊のように土方に素直に言えばよかった。
『失敗なんてしていない』
と。そのセリフを言うこともできず、こんな風に逃げ出した自分こそが誰よりも弱いのだ。

君菊が思いっきり泣いて、早く泣き止んでほしいと思った。
まるで自分が泣いているように見えてしまうから。



113


泣き腫らした顔を照れくさそうに隠しながら、君菊は「もうええよ」と総司の腕から離れた。
「着物汚してしもうた」
ふふっと笑った君菊はもう泣き叫んでいた彼女ではなく、どうやらその悲しみは少しは癒えたようだ。そして立ち上がって「うーん」と背を伸ばして深く深呼吸する。
「あの、さっきの歌…」
「え?」
総司は訊ねた。
「さっき、歌っていた…あれはどこの歌です?」
「ああ…あれはうちの歌。うちが勝手に作った歌」
君菊は照れくさそうに顔をそらしながらそう答えた。
「素敵な…歌でした。また聞かせてほしいです」
総司は素直な感想を述べると、君菊は「まあ」と袖を口元で隠しながら笑った。
「もしかして口説いてはる?」
「そ、そんなつもりはないんですけど」
「ふふっうちのお座敷に来てくれたら、また歌って差し上げます」
君菊は「ほな」と総司に別れを告げて川べりを去って行く。その後ろ姿はもう迷いのない、強い女性のそれに違いなかった。総司はぼんやりとその姿を見送りながら、そこに佇み続ける。
彼女とはまた出会うことができるだろう。
そういった確信じみたことを感じながら。


「総司!」
陽が西に沈み、川面が夕日に染まりかけた頃。その水面をただ見つめ続ける総司を呼ぶ声がした。声の主はもちろんわかっていて、総司は驚くことなく振り向いた。
「土方さん」
もう秋だというのに汗だく、息も切れ切れに現れた土方は土手を駆け下り、総司のもとへ駆け寄ってきた。怒られるのかと思い、身を縮めた総司だったが、意外にも土方はほっとした表情を浮かべ総司を抱きしめた。
「…土方さん。怒ってないんですか…?」
「怒ってなんかねぇよ」
素っ気なく答えた土方だったが、抱きしめる腕の強さは土方の安堵を示していて。なぜか総司自身もその腕のぬくもりに安堵感を覚えた。
土方のもとから逃げたのに、やっぱり見つけてほしかったのだ。追いかけてきてくれるとどうしようもなく嬉しかった。
それが素直な気持ちだった。
そして彼女もきっと、こうしてほしかったのだろう。そんなことを思った。
土方の手が総司の髪に触れた。
「お前、何で全身濡れてるんだ?」
「え?ああ…これでも大分乾いたんですけど。ちょっと色々あって川に入ったんです」
土方は少し眉間にしわを寄せた。
「…まさか川に飛び込んだ、とかじゃねぇよな?」
「私をいくつだと思ってるんです?」
きっと土方は、総司がまるで君菊のように川に入って自害…ということを思い浮かべたのだろうか。総司が安心させようと笑って見せると「そうか」と土方も少し笑った。
「とにかく、濡れた服を乾かさないとな…行くぞ」
「え?もうだいぶ乾いてますし、大丈夫ですよ」
「いいから」
土方は強引に総司の手を引いた。

土方と総司は祇園近くの茶屋を訪れた。借りた着物に着替え、濡れたものを女中に任せ、二階の一室に入る。そうこうしていると夜になり、
「屯所に帰らなくていいんですか?」
と総司が訊ねると
「いい。俺が許可する」
と土方は職権乱用ともいえる横暴振りを発揮した。実際、総司は明日非番なので構わないのだが、皆が心配しているなかでこうしてのんびり土方と茶屋で過ごすのは、なんだが居心地が悪いような申し訳ないような気がしてならない。しかし土方に逆らうことはできなさそうだし、濡れた着物が乾くまでは仕方ないか、と己を無理やり納得させた。
そして二人で夕餉を平らげたところで、土方が
「悪かった」
と唐突に総司に謝った。
しかし総司は首を横に振った。
「…土方さんは悪くないです。いっぱい殴っちゃったのは、私のほうなので…」
よくよく見ると土方の頬はところどころ赤く染まっており、明日になれば青あざになってしまうだろう。これを平隊士たちが見たらまたよからぬ噂が立ってしまいそうだ。
「いや…お前にあんなことを言うべきじゃなかった。お前が殴るのは当然だ」
「……」
後悔をにじませる土方の表情は、いつもの強気な感情は一切ない。
「俺は、人を斬って平気な顔をしているお前を見るたびに思う。お前をただ人を斬るための道具にしたくて、京へ連れてきたわけじゃなかったのに…ってな」
「土方さん…」
「お前は…芹沢を斬ると決めたとき俺を選ぶと言ってくれた。お前はあの時苦しかったはずだ。芹沢を殺したくなくて、誰も傷つけなくなくて、助けられるものなら助けたいと思った。だから…芹沢と寝たんだろう?俺はその時のお前を認めてやらなかった。それを、失敗したと思ったこともある」
「…でもそれは私の弱さで…」
「お前はそれでいいんだ」
土方は総司の手を握った。射抜くその瞳で総司を見つめた。
「総司。そういう感情を無くすな。弱さだと言って我慢するな。これから裏切った仲間を斬ることもあるかもしれない。その時には迷え。そしてお前が俺のことを間違っていると思ったら、素直にそういってくれ。今日みたいに喧嘩をしたっていい。それでもいい。だから、俺に従うことに盲目的になるな。お前はお前という感情を無くすな」
これまでに見つめられたことのないような真摯な土方の眼差し。
そして、饒舌に語られたその言葉の節々に感じる、土方の総司へと思い。
「…無茶、言いますね」
総司はどこかくすぐったい気持ちを隠すように、微笑んだ。
「心を凍りつけてしまえば…楽になれるのに。何も感じないようにすれば、苦しくなんかないのに。土方副長は、それを許してはくれないんですね」
「ああ…悪いが、許せない」
我儘な人だ。
そんなのずっと苦しめと言っているようなものじゃないか。
無茶なことを言う。
「…そんなことを言ったら、毎日愚痴、言いますよ」
「言えよ。聞いてやるから」
仕事が終わるたびに土方の部屋に行き、ぶつぶつと文句言う総司。
そんな光景を思い浮かべてふふっと総司は堪えきれず笑った。
「やっぱり遠慮しておきます。土方さんがいつか耐えられなくなって堪忍袋の緒が切れそうです」
「…それもそうだな」
くっと土方も笑った。
総司は一呼吸おいて、握られた土方の手を、強く握り返した。
「でも…わかりました。さっきの言葉は胸に留めておきます。でも皆の前で苦しい顔をしたり、悲しい顔をしたりするのは嫌です。そんな組長じゃあ組を束ねることはできませんから…。だから、苦しいときはちゃんと言います。土方さんの前で我慢したりはしません。…それで、いいですか?」
総司の言葉に土方は頷いた。
後悔なんてさせない。一緒に京へやってきたことを一度でも間違っていたと思わせたくない。
土方を信じるということにもう迷いはない。
けれど、人を殺めるということに戸惑いや迷いを感じる自分を無くさないように。
それはとても難しいことで、もしかしたらもっと苦しいのかもしれないけれど。

土方は総司の言葉に安堵すると、すぐにその体を抱きしめた。
「ちょ…土方さん?」
「総司…」
耳元で名前を囁かれ、土方の熱い吐息が鼓膜に届くようで。それはとても甘美な誘惑のように聞こえた。総司は自分の体温が上昇するのを感じた。
背中に回された土方の腕は、まるで総司の感触を確かめるかのように強く抱きしめている。総司は土方の胸板を押したがまるで効果はなく、そうこうしている隙に、土方が総司の耳たぶを甘噛みする。
「わっ!」
驚いた拍子に総司はバランスを崩し、そのまま土方に押し倒される格好になる。総司を抱きしめたままの土方はそんなことにまるで気が付いていないかのように、行為を続けた。
耳たぶを弄び、そしてその吐息を吹きかける。
「うひゃ…っ」
思わず声を上げた総司をみて、土方は小さく笑った。
「お前…もうちょっと色気のある声を出せよ」
「そ、そんなこと言われても…んっ」
土方は総司の口をふさぐ。熱い体温がそのまま伝わる口腔は忽ち土方の意のままに酔わされる。卑猥な音を立てるそれが総司の耳に伝わって、恥ずかしさが込み上げる。
もう何度目かわからなくなってしまった土方との口づけなのに。

回数を重ねるごとにその誘惑が強くなっていく。
回数を重ねるごとに心臓がどくんどくんと跳ねる。
回数を重ねるごとにもう抵抗なんてできなくて。
そして、回数を重ねるごとに…彼の気持ちが強くなって、そしてその分強くなって、伝わってくる。

「総司…好きだ」
そんなこと、言われなくても、もうわかっている。でも、それを受け入れていいのかまだわからなくて。
その言葉を、聞こえないふりをして。
目を閉じる。
きっとまだ受け入れることはできない。中途半端な気持ちでこの人を受け入れてしまったら、結局中途半端にしか気持ちを返すことができないだろうから。
君菊と一緒に逃げようとした男のようなことはできない。
だから、総司は言葉を飲み込んだ。

「…止めるか」
土方はやはり優しく囁いて、総司の体に絡ませていた腕をほどき、総司の隣に横になった。
「寝るか…?」
「…はい」
総司は頷いて、土方が部屋の明かりを消すのを待った。



114


新撰組副長助勤、斉藤一。試衛館からの古株として扱われている彼だが、実際に試衛館に滞在していたのは半年に過ぎず、本人も口数が少なく己に事について口にすることはないため、いまだその存在は謎に包まれている。
ただ知られているのは、かつて芹沢らと行動を共にしていたこと。刀についてはマニアックなほどの知識を有していることということ。そして、剣は隊内で一・二を争う腕前であるということ。
それくらいのものだ。
それ故に、近寄りがたい存在として、隊士の中では恐れられているとともに浮いた存在であるのだが、どういうわけか、この同室の彼だけは違うらしい。


「斉藤さん、私に隠し事をしているでしょう?」
まるで妻が夫を追い詰めるような物言い(本人は全く自覚はないようだが)で何気なく声をかけてきた総司は、寝転がって本を読みながら斉藤に訊ねた。相も変わらず刀の手入れに勤しんでいた斉藤は、その手を止める。
「…隠し事とは?」
「んー、それが何かはわからないですけど。些細なことかもしれないし、重要なことかもしれないし」
何を根拠に、と問い詰めようとした斉藤だが、そんな必要などないか、と黙り込む。どうせ総司は読書をしながら適当に聞いているだけなのだから真剣に聞き直す必要などない。
斉藤は構わず、刀の手入れを再開した。
「でも隠し事は身体に良くないですよ?一人で抱え込むよりは誰かと共有したほうが楽になれるってものじゃないですか?」
「たとえ何か隠し事があったとしても、あんたに話すようなことはない」
「えー。酷いなあ。これでも口は堅い方なんですよー?」
総司は口を窄めて斉藤を見る。斉藤は一切無視をして手を休めることはなかった。
「それよりも、この間土方副長と外泊していただろう。いったいどんな『任務』があったんだ?」
「そ…っ、それは、なんにもないというか、なんというか…」
あからさまに総司はあわてて、読みかけの本で顔を隠す。その様子から何か察するのは素人でも簡単なことだろう。
「ううう…意地悪…」
『年上の弟』にこうやって意地悪をするのが、斉藤のちょっとしたストレス解消になっている…というのは総司はきっと気が付いていない『隠し事』だったりもする。


斉藤は屯所を出た。今日は非番なので誰にも咎められることはなく一日を過ごすことができる。前に一度非番の日に部屋にいると、一日総司に付き合う羽目になってしまった。それ以来二度と休みを部屋で過ごすものかと心に誓ったのだ。
それに一人のほうが気が楽だ。気を使うこともないし、使われる必要もない。最近「新撰組」の名は広まり、単独行動は危険だとお触れが出ているものの、斉藤が一人で出歩く分には誰にも文句は言われない。それも有難いことだ。
さて、今日も今日とて酒を飲みに出かけるか…と歩き始めた。

しばらく歩くと行きつけの酒屋がある。街中にありながら客足の遠のくその店は、特に酒はまずいというわけではなく、ただただ店の主人が無愛想だ。同じ種類の人間としては有難い店で、斉藤のほかに訪れる客も同じような無口なタイプが多い。斉藤はその店を見つけてからはそこにしか通わなくなった。
斉藤が店を訪れると、主人は視線だけこちらに向けて、「ああお前か」という顔をした。そして何も言わず酒を準備し斉藤の席に置くとさっさと去っていく。店の主人は顔に皺が寄った年寄りだが、その性格が滲み出ているような、頑固で無骨な顔立ちだ。斉藤も何も言わず酒に手を伸ばす。一気に煽ると体の隅から隅まで沁みわたっていく。蟒蛇・斉藤の飲みっぷりは総司に言わせれば「まるで水を飲むよう」とまで言わせるほど。それでいて酔っていることが顔に出ることはない、組のなかでも指折りの酒豪だ。
しかし、自分にとって酒という存在はそれほど大きな比重を占めているわけではない。原田などと違って無ければ無いで構わないし、酒を飲んで気分が高揚するということもないので自分にとっては娯楽でもないのだ。
きっと、無関心なのだ。
何に対しても一生懸命になれない。気を許すこともできない。それは物に対しても、人に対しても同じこと。
それを「可哀そうだ」と言うかもしれないがそれは非常に便利なことだ。
どんなに非情なことをしても、どれだけ過酷な運命にあっても、悲しいことも、憤ることもない。無関心というのはそういうことだ。
(もともとこういう性格ではなかったはずだ…)
斉藤は酒を注ぎながら思う。
そう、きっかけは。
きっかけは、あの芹沢という男に出会ったからだ。
「…酒を、一つ、頼む」
斉藤が二杯目を煽っていると、誰か別の客が来たようだ。斉藤は出入り口に背中を向けているのでその顔を見ることはできない。
しかし、何か直感があった。
すると客は覚束ない足取りで、空いていた斉藤の向かいの席へと腰を下ろした。斉藤以外に客はいないというのに、だ。
客は薄汚れた身形で顔色も悪く、まるで物乞いのような雰囲気だった。しかし、斉藤にはそれが誰なのか、すぐに分かった。むしろこの店に入ってきたときから、気が付いていたと言ってもいいかもしれない。
「…あんたは、今ここで俺に殺されたとしても文句は言えない身だ」
斉藤は忠告してやった。しかし、男は「くくっ」笑って返してきた。
「そんな親切いらねぇよ。俺は、お前に殺されても文句を言うことはない」
男は挑発するかのように斉藤を見た。
斉藤は黙って酒を手にする。そうしていると、店の主人が酒を持って席へやってきた。険悪な雰囲気の二人を前に、主人は物怖じせずに酒を置くと、またすぐに帰っていく。
やってきた酒を銚子へ注ぎ、男も一気に煽った。
「…でも、な。言われたぜ、俺は殺す価値さえない人間だと。俺の血で刀が穢れるのは御免だと。…俺もまっぴら御免だ、あんなことで死ぬのはな…。死ななかった俺は幸運だ」
斉藤は聞き流しながら、そんなことを言うのはきっとあの『温厚な方の』副長に違いないと思った。
「それで、何の用だ。平間」
男…平間はにやりと斉藤を見て笑った。
平間重助。かつて芹沢一派として横暴な振る舞いをし、あの暗殺の日に唯一逃げ延びた男だ。てっきり着の身着のままで逃げ出したのかと思いきや、まだ京に留まっていたらしい。
本来ならば出会い頭に斬り殺しても良いような男だ。しかし平間はそれを承知でこうして斉藤の前に現れたのだから、何か用があるらしい。
斉藤もかつてはこの平間と同じように芹沢に組していた。若い時分に芹沢と知り合い、その派手な行動に魅力を感じ行動を共にした。しかしある日、芹沢から命令を受け人を斬った。それが正義か、間違いだともわからずに。それ以来、芹沢と距離を置き、そして京で再会することになったのだ。
「俺が逃げる手助けをしてほしい」
平間は恥ずかしげもなくそういった。
「…逃げれば良い。俺たちは別にあんたを探しているわけじゃない」
「それはそうだ。俺は逃がされて、生かされたのだから。…お前らに関わるのは御免だと思い、江戸に帰ろうとしたがだが路銀がない」
「……」
どうやらこの男は金を要求するらしい。敵で、いつ斬ってくるかわからないような相手に金をせびるとは斉藤も予想が付かなかった。
「生憎だが持ち合わせがない。あんたに金を渡す意味もない」
「それはどうかな」
平間は手を差し出した。
「お前は誰にも言えない秘密を抱えている。バレれば組に居られなくなるほどの秘密を。…俺は、それを知っている」
「……」
脅しか、と斉藤は言葉にはしなかった。言葉にするのさえ億劫だった。
「…二十両でいい。明日までに準備してまたここで会おう…ここなら人もこねぇだろう。それが終われば俺はもうここからさよならだ。お前に関わることは二度としない、秘密も決して他言しないと約束しよう」
平間はまるで、勝ち誇ったような顔をして斉藤を見た。しかし、表情を変えない斉藤を見てイラついたのか、軽く舌打ちする。
「勘定」
平間は酒を飲み干すと、主人に声をかけ席を立つ。そして斉藤とすれ違いざまにポンッと肩をたたいてきた。
「頼んだぜ」
そして店を出ようとした――。

『お前、人を斬る快感に興奮するだろう』
初めて人を斬ったとき、芹沢に言われたセリフが斉藤の脳裏によぎった。芹沢は血まみれになった斉藤を見て、褒めるでもなく称えるでもなく、ただただ笑っていた。
そして案外その言葉が的を得ていて。
そして若かった自分にはそれが怖くて。
そして逃げ出した。

「ぐあぁぁッ!」
次の瞬間には平間は絶叫していた。
おそらく用が済んだ途端に気が抜けていたのだろう。斉藤の気配に気が付くこともなく、背中から一刀両断にされたのだ。血飛沫が舞い、斉藤の顔にも飛び散った。
平間は振り返り、
「斉藤…ぉ!」
と恨むように名を呼んだ。自分を殺した男を蔑むように叫んでいる。
斬られても文句は言えない、と己が言っていたにも関わらず、平間という男は倒れこみ、そして死んでいく。どこまでも哀れな男だ。斉藤はそんなことを思いながら、懐から懐紙を取り出して刀の血をぬぐう。『温厚な方の』副長が言うとおり、この男の血で刀を汚されるのはまっぴら御免だった。
「く…っ、貴様…こそ…死ぬべきだ…!犬の…分際で…っ」
平間は擦れた声で叫ぶ。そして急に力を失い、そのまま絶命した。

目の前の惨劇にも、店の主人は何も言わなかった。
「主人。すまなかった」
もしかしたら酒の注文以外は初めてかもしれない。
斉藤は店の主人に自ら声をかけた。このまま無言で過ぎ去るにはあまりにも店を汚してしまったのだ。すると主人は「町方に知らせてくる」と一言言うとそのまま店を出て行った。
(それにしても、面倒なことになってしまった)
斉藤は小さくため息をついた。
「…また新しい、店を探さなくては」
もうここには来れない。それは酷く億劫なことであった。


斉藤は屯所へ帰るとすぐに副長、土方の部屋に訪れた。
「あ、斉藤さんだー」
すると厄介なことにそこにはひらひらと手を振る総司がいた。手には和菓子がある。どうやらそれが目当てのようだ。
斉藤は気づかれないように小さくため息をつきながら、平間を殺したことを土方に告げた。最初こそ二人は驚いた顔をしたようなものの、特に深く聞き返すようなことはせず「そうか」と返すのみだった。
「では、失礼します」
斉藤は足早に部屋を去って行った。
「…斉藤さん、やっぱりなんか隠してるんですよねー」
去っていく斉藤の背中を見ながら、総司は首を傾げながら和菓子を頬張る。
「俺は知ってるけどな」
「え?なんで土方さんが知ってるんですか?!」
「別に大した秘密じゃねえよ」
土方は小さく笑って、総司の追及にこたえることはなかった。


115


うちは仏光寺通りの茶屋のお手伝い、おまさ。
本当は呉服屋の末娘なんやけど、茶屋の叔母さんが腰を悪くしてお店を手伝いにきてる。
そこで出会ったお侍さん方は面白い人ばかり。剣術もできて真摯で無口な素敵な人もおれば、口ばっかりうるさくって何かあれば切腹傷を自慢げに話す破廉恥もおる。うちはもちろん前者のお侍さんに夢中なんやけど、最近は後者のお侍さんが少し元気がなくて。


うちが破廉恥なお侍さん…原田はんに注文のお抹茶を持っていっていっても、気が付いていない。いつもなら
「おまさちゃん、今日も可愛いねえ、俺が一生守ってやるから、嫁に来ない?」
の定番台詞も、よおしゃべる口からは出て来ない。
「なんか元気おへんなぁ」
いつもなら「静かでええわ」というところやけど今日は思わず声をかけてしもうた。だって、ここ三日くらい注文して、席に座って、ぼんやりしながら食べて、勘定を置いて帰るだけなんやもん。
調子狂うわ。
すると原田はんはぼんやりした目でうちを見て
「ああ、おまさちゃん。今日も可愛いねえ」
と気のなさそうな言葉をかけてくる。心ここに在らずって感じや。
「そんな風に言われたかて、嬉しゅうないし」
うちがそっぽを向いても「そうだよねえ」と苦笑するだけで、もう何も言わない。
原田はんは何やら考え事をしているみたい。みぶろ…最近は、新撰組ってゆわはるんやったっけ。そこで何か問題でも起こしたんやろか。ここによう来はる藤堂はんから聞いたところによると、原田はんは一応、お偉いひとみたいやし、仕事が上手くいってないのかも。
そういえば一緒に来る永倉はんもお偉い人やったっけ。
「今日は、永倉せんせは?」
「ん……新ぱっつぁんならそのうち来るんじゃねぇかな。この店気に入ってるみたいだし」
いつもなら「俺より新ぱっつぁんのほうがいいのかよ!」とふてるくせに今日は違うみたい。まるでうちの言葉なんて耳に入ってないって感じ。それはそれで何だか、面白くないなあ。
京の人は皆、新撰組のことを人斬りやって怖がる。怖がるだけじゃなくて忌み嫌う人もたくさんいる。うちかて、実家の父母にはできるだけ関わらないように忠告されてるし、店の叔母さんも心配してる。でも、うちにとってはお客さんやし、永倉はんかて、藤堂はんかて、……原田はんかて大切なお客さん。怖くなんてない。だから、心配だってする。
「なあ、原田せんせ。良かったらお団子も食べへん?秋の季節もんを作っとるんよ」
少しでも元気になってほしい。うちのちょっとした(いつもなら絶対しない)心遣いやったんやけど。
「あー…すまん。今日はいい。お勘定」
「え?あ、ちょっ…」
原田はんはうちの気持ちなんか無視して、お代金を机に置く。出したお抹茶も全然口につけてへん。そしてそのまま手をひらひら振ると、店を出て行く。その後ろ姿は、いつもと変わらないはずなのに、何だか悲しげにみえて。
うちは何だか落ち着かない気持ちで、代金を受け取った。

「ああ、原田が来てましたか」
原田はんが去ると、入れ替わるように永倉はんがやってきた。原田はんとは違うて爽やかな笑みで親しげに声をかけてくれる。
「へえ…、永倉せんせ、あの…」
「ん?」
席に着いた永倉はんにうちは原田はんのことを話した。
いつもと様子が違うこと。食いしん坊のはずなのにお団子をいらないといったこと。…そんなことを話すと、永倉はんの表情も少し曇ってしまった。
「あの…永倉せんせ。うちに言えんことやったらええんやけど…。何か、あったんやろか?お仕事のこととか?」
「いや。隊のほうは何もないよ。ただ、最近あいつ屯所でもあんな感じで…。考え込んでるような、思いに耽っているような」
「なんや、そっちでも」
うちはちょっと安心した。
もしかしたらうちが原田はんに素っ気ない態度を取ってたから、拗ねて怒ってはるんかと思ってたら、どうやら違うみたい。でも、永倉はんは気になることを言った。
「俺はあんまりそういうことに敏感じゃないんだが…もしかしたら気になる女でもいるのかな」
「…おなご、はん…?」
うちは自分の心の臓がどくんと跳ねたのがわかった。
原田はんに好いたおなごができたかて、うちには関係ない。関係ないのに…?
「ああ、でも、原田はあなたに一途ですよ。それは俺が保証します!」
永倉はんは慌てたようにそう言い繕ったけれど、うちの耳にはあんまり入ってこなかった。
何だか、悲しいような、寂しいような…そんな気持ちがいっぱいになってしまって。うちはあの人のことなんか好きじゃないのに、なんでそんな気持ちになるのかなんてわからなくて。
……はやく心の臓が収まってくれないかな。上手く笑えへん。


何だか胸の塊がつっかえたまま、数日が過ぎて。急にぱったりと来なくなった原田はんのことばかり考えてる。いつか、まるで何もなかったかのように顔を出すに違いないと思うのに、早く来てほしくて。そんな気持ちになったことは今までなくて。
「うちらしく、ないなあ…」
ため息ばかりついている。
今日はお天気も雨が降っていて。毎日、冬に近づくにつれ肌寒くなっている。
そろそろ綿入れを出さなきゃ…そんなことを考えていたら。
「おまささん!」
とうちを呼ぶ声が店中に聞こえた。そんな大声で叫ばなくてもうちは入口の近くにいるのに、お客さんはそんなことにも気が付いていないくらいあわてていて。
「って…あれ、永倉せんせ?」
声の主は意外にも永倉はんやった。雨を降る中を傘も差さずにきたみたいで、びしょびしょに濡れてはる。
「どないした…」
「一緒に来てくれませんか!?」
「えっ?どこへ…」
「屯所です!原田が、身体を壊して…貴方の名前ばかり呼んでいるんです!」
「うちの?」
原田はんがうちの名前を呼んではる。
病やのに、そんなことを考えてる暇もないのに。うちは何だかそのことがうれしくて、ぎゅうって胸が締め付けられて。
「叔母はん!ちょっと行ってくる!」
呆気にとられる叔母はんに了解の返事ももらわず、うちは永倉はんに手を引かれるまま雨のなかを掛けて行った。

永倉はんにつれられるままやってきたのは、壬生の屯所。場所は聞いていたけれど来たことはもちろんなくて。立派な門構えをしたお屋敷に驚きながらも足を踏み入れた。
永倉はんに聞いた話によると、原田はんは高熱を出して魘されていてずっとうちの名前を呼んでいたみたい。いつもは元気すぎるほどだから熱に侵されている原田はんなんて、うちにはまるで信じられへん、夢のような話…やったんやけど。部屋に入るといつもと原田はんとは違っていた。
部屋はまるで夏のように熱く、原田はんの息は「はあはあ」と荒く苦しそう。心配そうに何人かのお侍はんが床を囲んではったけれども、うちはそれを気にする余裕もなく原田はんの手を握った。まるで湯のように熱かった。
「原田せんせ、うち、まさ…」
うちは原田はんがこのまま死んでしまうんやないか…そんな予感がして、途切れ途切れの言葉しか出て来なかった。
けれど、原田はんはうちの言葉に気が付いてくれて、苦しそうに目を開けた。
「…お、まさ…ちゃん?」
「…うちよ…」
ぎゅっと手を握って、これは夢やないって教えてあげる。すると原田はんは安心したのか穏やかに笑った。
「夢…みたいだなあ…おまさちゃんに看病して、もらえる…なんて。まさか、夢じゃねえよなあ」
「夢やないよ…うち、ずっとここにおる。おるから…元気に、なって」
元気になって、またいつもみたいに笑ってほしい。そうしてくれないと、こっちまで調子がくるってしまう。毎日、原田せんせのことを考えてしまうなんて、おかしいやろ。
うちが笑うと、原田はんは安心したように目を閉じた。そしてそのまま呼吸は穏やかになり、眠りについた。でも、手はぎゅっと握られたまま。
「ふふっ…原田さん、まるで子供みたいですね」
傍にいた沖田はんが茶化す。すると深刻そうに床に集まっていたお仲間さんたちも緊張の糸が切れたように、笑い始めた。
「本当だ。左之助にはどんな薬よりもおまささんのほうが聞くようだ」
その中でも一番大きな口を開けて笑っていたお侍さんが、うちに近寄ってきた。
「すまなかった。貴方が来てくれて、助かりました。私は新撰組局長の近藤勇です」
…近藤勇。その名前はうちかて知っていた。新撰組で一番偉い人。原田はんの上司にあたる…。
「あ、あの…まさと申します。ご、ご無礼をお許し…」
ください、と頭を下げようとした。
しかし原田はんに掴まれた手は強く握られたままで、ぎこちない体勢になってしまう。
すると近藤せんせは「はははっ」とまた大きく笑って「挨拶はいらないよ」と言うた。うちは何だか恥ずかしくて顔を真っ赤に染めた。
「すまないついでに、できれば左之助が良くなるまで傍にいてやってもらえないだろうか。男所帯に招くのは何だか引けるのだが…」
「へ、へえ。そのつもりです。うちにできることやったら…」
「そうか、有難い。さすが左之助が見込んだ女性だな」
近藤せんせはそういうと嬉しそうに部屋を出て行った。そのあとに続いて皆が部屋を去っていき、結局うちと原田はんだけが残された。
うちは手を掴まれたまま離すことができない。静まり帰った部屋で、うちは原田はんの寝顔を眺める。
「…なんや、身体の具合が悪かったんや…」
店に来て元気がないのは、仕事で悩んでるのでもなく、好いた女性のことで悩んでいるのではなく、そんな単純なことで。逆に原田はんらしいといえばらしい感じで、うちは安堵した。そして熱に魘されたときでさえ、うちの名前を呼んでくれたのは素直にうれしかった。けど。
「うち…別に、あんさんのことなんて好きやないんやから…」
それが恋かどうかなんてわからない。だってこの気持ちに名前をつけたくったって、うちは恋なんかしたことないんやから。
でも、原田はんのことを考え続けて悩んだこの数日間は決して無駄だったとは思わへん。それだけは確かな気がするよ。


オチというか後日談。
「おまさちゃーん!急病で倒れた俺の元へ必死に駆けつけて、俺を手取り足取り看病してくれて、挙句は近藤先生に夫婦になる挨拶までしてくれたっていうのは本当かよ!」
数日後、すっかり元気になった原田はんはうちの店に来るなり、そう叫んだ。もちろん店には原田はん以外のお客はんもいたわけで。
「もう…っ!でたらめいわんといて!どんだけ、尾ひれがついとんの!!」
「ついでに初夜をむか…」
「アホ!」
…うちは拳を思いっきり、病み上がりの人にぶつけた。けれど、原田はんはそれでも幸せそうに笑っていたので、こんな日常が戻ってくるのは素直にうれしいと思ってしまった。


116


十月も半ばになり、すっかり季節が様変わりした頃。

「今日もお仕事ですか?」
総司は夕暮れ、出かける支度を始めた近藤に出会った。準備は土方が手伝っているようだ。
「ああ、総司か。丁度良かった」
愛刀・虎徹を腰に帯び羽織をまとった近藤の姿は、まるで大名のように凛々しく映った。今や『新撰組』の局長として名が知れ渡りつつある近藤は、会津藩や諸藩との会合のため外出することが多くなっていた。
「丁度良かった、とは?」
「お前も一緒に来ないか。もちろん歳も一緒に」
「え?」
総司は土方を目を合わせる。土方も寝耳に水だったようだ。そんな呆けた様子の二人を見て近藤は笑った。
「何、会合に出席しろって言ってるわけじゃないんだ。祇園までは俺の警護のために同伴して、俺が仕事をしている間は旨い飯でも食っていればいい。たまには息抜きをしたらどうだということだ」
「なーんだそういうことですか。てっきりたまには国論を交わせって言われるのかと思いました」
「馬鹿、今までお前にそんなことを期待したことなんてねえだろ」
土方が軽く総司の頭を叩いた。


祇園の料亭『一力』へ近藤を送り届け食事を終えると、総司と土方は祇園界隈を歩いた。
「でも、良いんですか?本当は近藤先生の傍に控えているべきなのでは…」
「俺たちなんかいらねえよ。お偉いさん方のお連れさんが沢山いるんだ。邪魔なだけさ」
本来であれば近藤の傍で侍っているべきなのだろうが、土方が言い切るものだから総司は己を納得させた。
太陽は沈み辺りは灯りがなければ歩けないほど暗くなっているが、祇園はまるで昼間のように賑わいを見せていた。どこの座敷からか三味線と歌が聞こえてくる。男たちは女を求めて彷徨い、上品な化粧を施した芸妓たちは芸を売る。
「…江戸の吉原とは少し趣が違いますね」
「江戸の女は口説くのに苦労しねえが、京の女はそうはいかねえ。表では愛想を振りまいて喜ばせるが、本心では何を考えてるのかわからねえところがある」
「ふうん、もう口説いたんですか」
「そうかもな」
小さく笑って見せた土方の表情はどこか余裕がある。その自信たっぷりな表情からはきっと既に何人かを口説いて見せたに違いない。
「もっとも、俺には好いた男のために歯を食いしばって生きる江戸の女のほうがよっぽど可愛らしく見えるな」
「はいはい、土方さんは江戸でとっかえひっかえしてたんでしょうから、何人もの女の人を泣かせて来たんでしょうねえ。京の女の人は既に何人泣かせたんでしょうね。本当に可哀そうです。そしてそんな土方さんの自慢話は聞き飽きました」
右から左へ聞き流す総司に、土方は肩を引き寄せて、急に唇を寄せた。
「だが、一番惚れてる奴はいつまで経っても口説けないあたり、俺もまだまだだろう?」
そういって囁いた。総司は思わず土方から飛び退いた。
「やめてください、公衆の面前で!」
「相変わらず、可愛くないな」
「可愛くなくて結構です!」
総司はぷいっと顔を背け、歩き出す。その後ろを笑いをこらえながらついてくる土方には気づかないふりをした。
「それより、近藤先生はどんなお仕事をされているんですか?ここ数日諸藩の偉い方々とお食事が続いてますけど…」
「…ま、形だけの会合だろ。国論を交わすなんて大層なことを言っているが実際はただの宴会だ」
あからさまに不機嫌になった土方は吐き捨てるように言った。
「しかし、近藤さんに取ったら絶好の機会だからな…まだ大した働きをしていない俺たちの存在を知らしめることができる」
「でも…近藤先生、お身体が優れないようでしたけど」
土方が一瞬言葉に詰まった。
「……お前、気が付いていたのか?」
驚くような声を上げた土方に、総司は「心外ですね」と振り返った。
「あたりまえじゃないですか。近藤先生がどんなお仕事をされているかはわからないですけど、お加減が優れないことくらいはわかります」
「そうか…まあ、そうだよな。近藤さんは必死に隠してるみてえだが…」
「一番弟子の私が気が付かないとでも思ったんですか?…あ、そうだ!」
総司は嬉しそうな表情で両手を合わせた。
「藤堂君に聞いたんですけど、この辺りの店に美味しい饅頭を売っているらしいんです。近藤先生も甘いものがお好きだし、ちょっと探してきます」
「おい、総司…」
「土方さんは甘いものが嫌いですよね。すぐに戻りますから、ちょっと待っててください!」
近藤局長の一番弟子は、師匠のために一目散に駆けて行った。

置いて行かれた土方は総司の後姿を見送りながら小さくため息をついた。近藤のことを大切に思う愛弟子の一途さは尊敬に値するが、周りが見えてなさすぎる。
「大体、この時間はもう店も閉まってるだろ…」
そんなことにも気が付かないで駆けていくとは…思わず近藤に嫉妬してしまいそうだ。だが、もし総司が土方への思いを持ったとしても、きっと近藤に及ばないということは土方にはわかっている。土方はそうであるように。
「…待つか」
待っててくださいと言われたからには、ここに留まっておくべきなのだろう。土方は行き交う人々の波から逃れ、物陰に凭れた。
祇園という場所はまるで夢のようだと平隊士が言っていた。もちろん田舎から出てきたものからすれば、美しい女に囲まれ酒を飲みまるで自分が天下を取ったかのように振る舞うことができるこの場所は、夢のような場所なのだろう。
しかし、土方からすればそれはただの夢で、幻で、幻想でしかないように思う。女はその形の良い唇から嘘をつき、偽りの夢を与え、己の本心を隠す。その嘘を暴くのも若かりし頃は楽しかったが、今はそんな遊びに興じたいとは思えない。ただ一人の女と懇意になってもきっと重荷としか思えないだろう。
それよりもやるべきことがある。女との一時の夢に堕ちるよりも、武士になるという壮大な夢をかなえたい。いま、その夢を掴みかけて目前にしているのに、女の尻など追い回している場合ではないのだ。
土方は行き交う人々を眺めながら、総司を待つ。すぐに戻るといった割にはその姿はどこにもない。
と。
「姐さん!」
小さな子供の声が聞こえた。こんな時間に花街で子供が遊んでいるわけはないので、瞬時にそれが禿の声であろうということは理解できた。土方が声が上がったほうを見ると、芸妓が座り込んでいた。その芸妓を心配するように二人の禿が取り囲んでいる。
「いややわ、大きな声上げんといて。ちょっと挫いただけなんやから…」
芸妓はそういうが、その表情は少し青ざめている。挫いただけではなく、痛めてしまったようだ。
土方は野次馬が集まりつつあるなか、その芸妓に歩み寄った。
「大丈夫か」
そういって手を差し出した。座り込んだ芸妓が驚いたようにして土方を見る。大きな黒い瞳が印象的で、品のある美人だった。
芸妓は少し躊躇ったが、土方の手を取る。そして立ち上がろうとしたが「あっ」と声を上げてまた座り込んでしまった。
「やはり痛めているのか」
土方も座り込む。芸妓は頷いた。
「実は…左の足を痛めて…歩くのも、しんどいんどす」
「転んで痛めたわけじゃないんだな」
「へえ…」
そうであるなら、擦り傷切り傷の類ではないだろう。土方は丁度懐に、石田散薬を控えていることを思い出した。万病に効くという触れ込みで売りさばいていた薬だが…気休め程度にはなるだろう。病は気からだ。
「立てるか」
「ん…」
芸妓は首を横に振った。その甘えるような仕草は子供っぽく感じた。
「こんな往来で座り込んでいるのも邪魔になるだろう。抱えてやるから、首に手を回せ」
「え…?せやけど…」
「早くしろ。人が集まる」
芸妓は目を丸くしつつも、土方の言葉に従った。禿も唖然と見守る中、土方は芸妓の背中と膝元へ手を回し抱え上げた。着物の重みを覚悟していたのだが、拍子抜けするほどに軽く難なく持ち上げることができた。そしてそのまま人の波を逃れ、近くの店に入った。
店の女将は、驚いた様子で出迎えたが、
「新撰組の土方だ。すまないが、暫時座敷を借りる」
「へ、へえ…!」
新撰組の名を出すとあっさり座敷へ案内してくれた。もちろん親切からではなく、明らかな恐怖からなのはわかっていたが。当然、聞こえていただろう抱えている芸妓も怖がるかと思いきや、そんな様子は見せずに土方に抱き着いたままだ。
そして空いている座敷にたどり着くと、ゆっくりと芸妓を下ろした。そして二人の禿も戸惑いながら追ってきた。
「悪いが水をもらってきてくれ」
二人の禿に告げると頷き、また二人で駆けて行った。
「おおきに…なんや、大事になってしもうて」
芸妓は何がおかしいのか口元を隠しながら笑っていた。それが余りにも子供っぽく、思わず
「俺が怖くないのか」
と聞いてしまった。『新撰組』といえば良い噂は聞かないはずだ。しかし、芸妓はニコリと笑ったままだ。
「怖くなんて、ありまへん。それに新撰組のお方に助けてもろうたのは二度目やし」
「二度目?」
「へえ」
誰かの馴染みなのだろうか…と思いつつ懐から薬を取り出した。
「それは?」
「これは…我が家家伝の散薬だ。風邪、痛み、熱…なんにでも効く。酒と一緒に飲めば良いがあんたはこれから仕事だろうから、水でもいいだろ」
「ふふっ、それは薬のお蔭やのうて、お酒の効果やないの?酒は万病に効くゆうし」
「それはよく言われる」
芸妓は「やっぱり」と、また笑った。新撰組の土方と聞いても構えず、遠慮なく自然に笑う彼女はどこか子供っぽく、土方が倦厭する京の気取った女とも違うようだ。
そうこうしていると禿が湯呑を持って戻ってきた。芸妓に薬を渡すと、躊躇いもなく飲み水で流した。
「…おおきに、なんや、痛みが和らいだ気がします」
「そうか。ならしばらく休んでいけばいい」
土方は刀を腰に帯、立ち上がった。大分時間が経ってしまったので、総司はきっと戻っているはずだ。もしかしたら探しているのかもしれない。
「土方せんせ」
芸妓は土方を呼び止めた。そして足を崩しつつも、美しい仕草で頭を下げた。
「おおきに、助かりました」
どこか子供っぽい芸妓だが、やはりその気品溢れる振る舞いは優美な美しさを放ち、魅了する。
「そういえば、名前を聞いていなかったな。どこかの太夫か?」
「うちは天神、君菊いいます。またお座敷に呼んでいただければ参ります」
ニコリと笑って見せたその顔は、どこか総司に似ているな、と土方はぼんやり思った。


「あー!土方さん!どこに行ってたんですか!」
最初に分かれた場所に戻ると、案の定総司が待っていた。拗ねた様子で口を尖らせていた。
「ちょっと野暮用だ。それより、饅頭は買えたのか」
「ほら!」
自慢げに見せびらかす総司の表情は嬉しそうだ。
「店は閉まっていたんですけど、何とか頼み込んで買えました」
「そうか」
「じゃあ近藤先生の所に戻りましょう。もうお仕事も終わるんじゃないですか?」
「そうだな」
張り切った様子で歩き出した総司の後ろを土方は歩いた。


117


「随分素敵な歌だね」
総司が八木邸の縁側で口ずさんでいると、山南が声をかけてきた。稽古の帰りなのか首に手拭いを巻き、さっぱりとした様子だ。
「やっぱり山南さんもそう思います?」
「沖田君の作詞作曲というわけではないよね」
「まさか!豊玉先生じゃあるまいし」
総司が笑うと、山南も吹き出した。土方が居たら怒り狂いそうなものだが、今日は黒谷へ出掛けているので安心だ。
山南は総司の隣へ腰かけた。八木邸の庭の装いも夏から秋へとすっかり様変わりし、縁側に腰掛けて眺望すると勿体ないくらい美しい庭となっている。紅葉は赤く色づき、途絶えることなく聞こえる水の音が何とも言えない風情を感じる。
そんな景色を無言で眺めていると、山南がふと口を開いた。
「さっきの歌だけど…。素敵な歌だとは思うが、随分悲しい歌でもあるね。失恋の歌だ」
「…ええ、そう思います。だから、あの人が幸せになってくれていれば良いなって思って」
「あの人?」
「もう会えるかどうかわからない人なんですけど…もしもう一度逢えたら、その時は笑っていてくれればいいなって、思ってるんです」
穏やかに語る総司を見て、山南は「おやおや」と目を丸くした。
「もしかして、良い人でもできたのかい?」
「え?!」
総司が一瞬頬を染めたその時。
「良いこと聞いちゃったなー!」
と、口角が緩みきった原田が顔をのぞかせた。その隣には永倉、藤堂といつものメンバーが並んでいる。
「何だよ、それ、どこの女なんだよ~!白状しろよ~!」
「茶化すなよ原田。総司にとっては真剣な恋なのかもしれないんだからな!」
「でもでも、気になります!あの沖田さんがいったいどんな女性に心惹かれたのか!」
あっという間に総司の周りを取り囲んだ三人は、まるで噂好きの生娘のようにあれやこれやと巻くしてたる。慌てる総司が山南に助けを求めるが、「すまん」と両手を合わせた彼はもう収拾がつかないことを悟ったのだろう。
「別に、惚れてなんかいませんよ!」
「またまたー。お前が女の話をするなんて滅多にないんだ、自覚はないかもしれねぇが惚れてるに決まってるって!」
原田が詰め寄ると永倉が制する。が。
「おい、いい加減にしろよ。秘めた恋だってあるんだからな!」
と、すっかり誤解されてしまっている。
「とにかく、どこの人なんです?お名前は??」
「な、名前は…」
確か、君菊と言っていた。もしかしたら花街では知られた名前なのかもしれないので、この三人が知っている可能性もある。しかし、あらぬ誤解が彼女にまで迷惑をかけてしまっては申し訳ないと思い
「わ、わかりません」
と思わず答えてしまった。藤堂は残念そうな顔をした。
「なんだ、もしかして一目ぼれってやつなのか?」
「そんなのじゃないですって。たまたま少しだけお話して…別に、それだけです」
まさか自害のために川に入ろうとしていた彼女を止めた…と話すわけにもいかず、総司は口ごもった。しかし原田は追及を止めてはくれない。
「どんな女なんだ?美人か?」
「う…そうですね…黒目が、大きくて美人だったとは思いますけど…子供っぽくて、朗らかな人でした」
見かけは美人だが、話をするとまるで子供のように天真爛漫。そのギャップがきっと人を魅了してやまないのだろうと総司は思った。
「でも、土方さんのことはどうするんです?」
と、藤堂がまるで当然のことのように訊ねた。総司は「え?」と思わず首を傾げてしまう。
「土方さん…?」
「ばっか!へーすけ。衆道と女は別だろ??いくらお互い惚れあってても、子を為すのは女なんだよ。女に情を感じない男はいねぇって」
「まあ、それは一理あるな」
永倉までもが納得して頷いていた。
衆道と女は別。
総司には原田のその言葉が引っかかっていた。
土方から気持ちを告げられて以来、彼が自分のことを想ってくれていることが当たり前みたいになっていて、すっかり忘れていたのかもしれない。
土方だっていつかは誰かを娶り、子を為すのだ。
いつまでも彼の優先順位に自分という存在があるとは限らない。自分の子を可愛いと思わない親はいないはずなのだから。
いつまでも彼の気持ちを独占できるわけでは、ないのだから――…
「――っ!」
ガタン!と急に立ち上がった総司に、周りを取り囲んでいた四人は驚く。
「沖田君…?」
心配そうに名を呼ぶ山南だが、その声さえも届かない。
「ちょっと厠へ行ってきます!」
総司はそう宣言すると、逃げるように走って行った。その方向は明らかに厠の方向とは真反対で、
「悪いことをしたなあ…」
と山南が後悔する程、動揺しているのは明らかであった。


会津藩から呼び出しを受けていた近藤と土方は連れ立って屯所へと帰路についた。近藤は相変わらず苦い顔をしている。
「身体は大丈夫か」
土方の問いに以前は「もちろんだ」と気丈に振る舞っていた近藤だが、今は軽くうなずくに留まっている。
「なあ、歳…。諸藩の方々はいま国が危機に瀕しているということを理解されておられるのだろうか…」
「…俺には何ともいえねぇな」
「俺だって尊王攘夷の志は長州の浪人たちと一緒だ。だが、徳川幕府を蔑にし、革命を企む輩を野放しにしておくことはできない。しかし、だからといって国内の戦は避けるべきだ。その混乱に乗じて異国に乗っ取られるとも限らんのだから。そんな焦りを…酒に変えて宴を催すという行為に変えていては、ただの逃げと同じではないか…」
くっと唇をかみしめる近藤は、きっと焦っているのだろう。新撰組の局長としてではなく、一人の国民としてこの国の行く末を案じている。
「近藤さん。焦っちゃいけねえ。いや、焦るのは構わないが、それを面に出してはいけねえよ」
「歳…」
「徳川幕府は三百年、この国を守ってきた。その末端としての働きにすぎなくても、俺たちは堂々としているべきだ」
何の不安もない、自信たっぷりな土方の言葉に、近藤はふっと小さく微笑んだ。
「そうだな…そう在るようにすべきだな」
まるで自分に言い聞かすように、近藤は繰り返した。

すっかり日が暮れるのが早くなり、辺りは思っていたよりも早く暗くなった。夜の店が開店準備を始め、客がちらほらと集まり賑わいはじめる。そんな祇園を通り過ぎようとすると、「あ!」と声が上がった。
土方がそちらへ目線をやると、見たことのある子供が二人こちらへ駆け寄ってきた。
「やあ、可愛い禿さんだな」
厳つい面構えに反して、子供好きな近藤がその大きな口で笑いかける。しかし禿二人は土方へと駆け寄ってきた。
「歳、知り合いか?」
「あ、あー…?」
「もう、お忘れどすか?」
禿二人の後ろから、ゆっくりとした歩調で女が近づいてきた。最初は暗く顔はわからなかったが、すぐにあの時の女だと土方は気が付いた。
「君菊どす」
少し首を横に傾げながらの挨拶はやはりどこか子供っぽい。
「貴方は歳…いや、土方君のお知り合いですか」
近藤はなぜか嬉しそうに君菊に話しかける。君菊は「ええ」と頷いて土方へ向き、「あの時はおおきに」と付け足した。
「なんだ、歳!いい人を見つけてたんじゃないか!俺のことはいいから、このまま遊んで来たらどうだ」
「いや、近藤さん…」
「いいから、いいから!ここ最近屯所に籠りっきりだっただろう、内緒にしておいてやるから。君菊さん、土方のことをお願いします」
近藤は土方の言葉を遮って、力いっぱいに土方の背中を押すと「じゃあな」と去って行く。満足げに去っていくその姿に、土方も二の句が継げず、その背中を見送るしかなかった。土方は小さくため息をついた。
「…足の具合はもういいのか」
「へえ、なんやあの薬が効いたのか、ええ塩梅どす。いきましょか」
君菊は土方の腕を引いた。禿二人が先行して歩き、祇園へと向かっていく。
「…いいのか、あんたも仕事があるんじゃないのか」
土方が君菊に問うと
「土方せんせと一緒にいたい」
とその大きな黒めで告げてきた。土方は思わず「は?」と聞き返してしまう。
「せやから、一緒に」
「…天神ともあろう芸妓が簡単にそういうことを言うなよ」
「うちは天神・君菊の前に一人のおなごやから」
君菊は土方の手を取った。
「惚れてしもうたものは、仕方ないやろ?」
と、天神らしい可憐な笑顔で言ってみせたのだった。


118


文久三年の十月が終わりに差し掛かろうとしていた頃。

「あれっ、沖田先生、今日は当番でしたっけ?」
総司が壬生寺を訪れると、その大きな体躯で駆け寄ってきたのは島田魁だった。総司よりも頭三つほど違うのではないかというくらい背の高い彼へは、少し見上げて言葉を交わさなくてはならない。
「あ…いや、その。今日は何となく稽古をしたいかなって」
「そうでしたか!どうぞどうぞ」
何となく言葉を濁した総司だが、島田は全くそれには気づかず歓迎ムードで出迎えた。今日は巡察以外の者は休暇を与えられている。なので、稽古をしている者は自主的に行っているもので集まっているのは平隊士ばかりだった。皆、木刀を素振りしていたり、打ち合っていたりと自由に稽古を行っていた。
「島田さん、良かったら相手してもらえませんか」
「え?!お、俺で宜しいのですか?」
島田は「俺なんかでよければ」と二つ返事で了承した。総司は早速持ってきた木刀を島田に渡した。木刀は試衛館で使っていたものと同じ、素人なら両手で抱えるのがやっとの大きさ、太さの天然理心流独自のものだ。巨漢の島田でさえも
「お、おも…」
と思わず呟いてしまうほどの代物だった。
しかし、総司はそれを軽々と持ち、構えてみせる。そしてすうっと息を吸って、無心になる。
「やぁ!」
と、上げた声はきっと壬生寺に響き渡ったのだろう。稽古をしていた隊士たち全員が、総司と島田の打ち合いに手を止めた。
「ぐっ」
さすがに島田も木刀の重さと総司の力に押され、防御の姿勢を取るのが精いっぱいになる。
総司はそんな島田に一寸の隙も与えずに、打ち込み続けた。
無心になりたくて、ただ、何も考えたくないと思ったら、剣を取ることしか考えられなくなった。こうしている間は無駄なことを考えずに済むから。自分の気持ちに向き合わなくて済むから。
きっと逃げていると、言われてしまうだろうけれど。
「く…っ」
なかなか無心になれないことに苛立ちを感じ、力を強める。すると島田は左の袈裟に来た剣を防御するためにバランスを崩し、木刀を落とし、そのまま尻餅をついた。島田は
「…っ、す、すいません!」
とすぐさま謝り、木刀へ手を伸ばした。
「い、いえ…。こちらこそ、すみません。…もう、止めておきましょう」
「しかし」
「ありがとうございました。続きはまたの機会にしましょう」
島田の言葉を遮ると、総司はそのまま踵を返した。唖然と見送る島田やほかの隊士が見つめていることは背中に感じつつ、壬生寺を後にした。

総司が肩を落としながら部屋に戻ろうと歩いていると
「まるで人を殺すみたいな剣だったな」
と、ぶっきらぼうに斉藤が声をかけてきた。どうやら見学していたらしい。
「…そうですか?そんなつもりは、なかったんですけど」
「島田はうまく避けたが…ほかの隊士なら当たり所が悪かったら死んでいただろう」
「……」
無意識に急所を狙っていたということ。なお性質が悪いなと総司は苦笑した。
「…憂さ晴らしがしたかっただけなのに。これからは気を付けないといけないですね」
「また副長のことか」
斉藤の言葉に、心臓がどくんと跳ねた。
「そ…そんなこと、言ってないじゃないですか」
「稽古で憂さ晴らしも結構だが、そういう時は俺を呼んでほしいものだな。憂さ晴らしの度に隊士が一人死ぬんじゃ、割に合わないだろ」
「…あれ?誘ってくれてる?」
「俺だって憂さ晴らししたいときはある。そのときの相手はあんたじゃないと、誰かが死にかねんからな」
総司は刹那きょとん、として、しかし笑った。
「似た者同士ですね」
「じゃあ似た者同士、もう一つの憂さ晴らしに付き合ってくれないか」
「え?」
斉藤は何も言わず、歩き始めた。


斉藤の背中を追っていると、いつの間にかその足は祇園方面へと向かっていた。
「どこへ向かってるんです?まさか遊里とか…?」
だったらご遠慮願おうと思ったのだが、斉藤は祇園手前でその足を止めた。そしてすぐ先の長屋風の小料理屋を指さした。
「そこの店。つい最近見つけた居酒屋なんだが、料理も旨いんだ」
「へえ」
丁度、夕暮れ時になり腹も空いていた。酒は嗜まない総司だが、今日は少し酔いたい気分だった…もっとも、斉藤もそのことに気が付いていたのかもしれないが。
斉藤は早速居酒屋へと向かい、総司もそれに続こうとしたのだが。
「総司さん?」
と、声を掛けられその足が止まった。
総司のことをそんな風に呼ぶ人はいないはずだ。しかし優しくゆったりしたその声色には聞き覚えがあった。
「…あ、君菊、さん…?」
「やっぱりそうやった。また新撰組の方に出逢えるなんて、ご縁があるんやなあ」
初めて会った時の素顔のラフな姿ではなく、芸妓らしく上品な着物に身を包み化粧を施された顔はまるで別人のようではあったが、その独特の雰囲気からすぐにあの時の君菊であると総司はわかった。
総司は不思議そうに見ている斉藤に「先に入っててください」と促した。
「なんや、お邪魔してしもうた?」
「いえ、そんなことはないです。それよりも本当に芸子さんだったんですね」
「ふふっ綺麗すぎて別人かと思うた?」
冗談めかして答えた君菊に「少し歩きましょうか」と総司は声をかけた。君菊は「…そうやね」と少し躊躇って答えたが、その理由はすぐに分かった。
「…どうかされたんですか、左足」
「え?」
「痛めていらっしゃるでしょう?」
試衛館の塾頭として稽古をつけていた総司には、その変化は機敏に察知することができた。君菊はぎこちなく笑った。
「ん…そうや、ね。総司さんにはお話しても良いかもしれへんね」
「どういうことです?」
「あの後…総司さんと別れてから、仕置きを受けて…もう、左足は治らへんの」
「…え?」
君菊は、やはり最初に逢った時のように他人事のように笑っていたが、語る言葉は総司にとっては衝撃の事実だった。
「でも、大丈夫やから。時々痛むことはあっても、歩けへんことはないし。形は不恰好かもしれへんけど、命があるだけマシやしね」
平然と語る君菊の表情は、本当に何の痛みも感じていないように笑っていて。
きっと誰もが彼女が何の悲しみも抱えていないようにうつるだろう。けれど、総司にはあの時のように泣いているようにしか見えなかった。
「むしろ、これくらいで済んで良かったって思うくらいやから」
「どうして…そんな風に笑っていられるんですか」
総司は自分の唇が震えていることに気が付いた。悲しみと、怒りで、感情が追い付いていなかった。
君菊はそれに気が付いたのか、そっと総司の頬に手を添えた。その手の温もりは暖かく穏やかなもので、高まった感情が沈められていく。
「おおきに、怒ってくれたんは総司さんだけよ」
「……」
その美麗な微笑みは母に似ている、と総司は思った。
母は総司が生まれて間もなく亡くなり、その記憶は全くない。姉のミツを母だと勘違いしていたほどに、母という存在は稀有なものだった。
しかし、触れられた手のひらの温もりは、記憶のない母のそれに等しいような気がして。
自然と気持ちが穏やかになった気がした。
「うちは…仕置きゆうて痛みつけられている間も、まるで自分のことのように感じられへんかった。痛みはあったけど、心の痛みはなんもなくて…だから、総司さんが怒ってくれるんは不思議。やけど、うれしい」
「君菊さん…」
「ふふっ、なんや弟みたいやなあ。総司さんが可愛く見えるわ」
君菊の手のひらは総司の頬から頭へと移動し、くしゃくしゃと撫でた。
「や、やめてください」
「うちは…生まれた時から、ここにおって親の顔もしらん。せやから、生まれついたこの場所の掟を守らんとあかんのは当然のことやと思ってた。…仕置きを受けたのやって、当たり前のことやと思うんよ」
「でも…逃げたのはあなただけのせいじゃないでしょう」
君菊は総司の髪から手を離した。
「そうやとしても、掟を破ったら罰を受ける。それは貴方も同じでしょう?」
「え?」
「武士ゆう方は…いや、男はんは、ということかもしれへんけど。皆、戦が起きれば命を懸けて戦う。生まれた時からそういう風に決まってること。その為に剣を磨き、稽古をする。そしてそれから逃れられることはできへん。だったらうちも一緒。うちはここで生きていく道を与えられた以上は、掟には従わんとあかん。舞や三味線の稽古を一生懸命する。それは武士と一緒や」
「…一緒」
彼女の大きな黒い瞳は、まるで射抜くかのように強い。その目に見つめられると、もう離せないと思えるほど囚われる。
それはどこかで見たことのある瞳だ。
「…貴方に似た人を知っています」
「うちに?どんなひとやろ」
「とても…意志の強い人です。きっとどんな困難があってもその人と一緒なら大丈夫だって思わせてくれるような…そんな人です」
君菊は「ふうん」と総司の顔を覗き込んだ。
「その人のこと、好いてはんのやね?」
「ちっ、違いますよ!」
「顔に書いてはる」
その言葉に思わず、総司は両手で顔を隠した。書いてあるはずないのは、わかっていたけれど。
君菊はやっぱり楽しそうに笑っていた。
「ふふっ…うちも、良い人見つけたから。うちのことはもう心配せんでええよ」
「そうですか。それは…良かった」
「この左足が出会わせてくれたんやから、人生ってどう転ぶかわからへんね」
そういって微笑む彼女は今までで一番幸せそうな顔をしていて、総司はもう大丈夫だと信じることができた。
「…あんまりお連れさんお待たせするわけにはいかんから、そろそろお暇します」
「そうですね。また…お会いしましょう」
「へえ。またお会いできると信じてます」
小さく頭を下げて去っていく彼女の後姿を眺めながら、総司は安堵した。
もうあの悲しい歌を彼女が歌うことはないのだろう。
そう信じさせてくれる微笑みだったから。

119


文久三年十一月。

新撰組局長・近藤勇の表情は久々に晴れやかなものになっていた。その変化には土方も驚いたほどだ。
「…かっちゃん、どうしたんだ。何かいいことでもあったのか?」
昨日までは諸藩との会合に胃を痛めて顔色を悪くしていたのに、朝こうして呼び出されて見てみるとまるで快癒したかのように溌剌としていた。それは何より有難いことだが。
「歳、皆を集めてくれないか。巡察に行っているもの以外でいい」
「そりゃ構わないが…何か良い知らせか?」
「そうだな。良い知らせだ!」
自信満々に答えて見せた近藤を不審に思いながら、土方は島田に言いつけ皆を前川邸に集めた。
そこで近藤が皆に伝えたのは、会津藩から毎月給付が受けられるという当時では珍しい月給制の知らせだった。


「今まで会津藩お預かりの身分として働いてきたが、どーも実感がわかねえっつーか、ただのお荷物扱いだったような気がしていたんだが、毎月の給料が出るっていうことは俺たちも会津藩の一員として認められたっつーことなんだよな??」
原田が嬉々として山南に訊ねた。山南も笑顔でうなずいた。
「そうだね。公に認められたという風に解釈してもいいのだろうね」
「じゃあ近藤先生が毎夜お出かけになっていた成果が出たっていうことですよね」
藤堂の問いにも山南は頷いた。
「それにしても毎月三両とは…まるで高給取りにでもなった気分だな」
「よっしゃ!さっそく新ぱっつあん、飲みに行こうぜ!前祝だ!」
「はっ原田先生、今晩は巡察です~!」
原田と永倉は足取り軽く出かけようとしたが、平隊士があわてて原田を追いかけて行った。

と、皆一様に喜び勇んだのだが。
こちら局長室では、副長・土方が不機嫌そうに近藤の話に耳を傾けていた。その様子を総司は隣でハラハラ見守っていた。
「…というわけで、歳。幕府からの召し抱えのお話はお断りしてきたよ」
晴れやかな笑顔で述べる近藤に、土方は不機嫌丸出しで
「馬鹿か!」
と叫んだ。
「ちょ、土方さん…!声が大きいですって」
「会津からではなく、幕府からの召し抱えになれば毎月三両の給付どころか、俺たちが幕臣として取り立てられる可能性があるだろう!それを自ら放棄しちまったのか!」
近藤曰く、毎月三両の給付とともに『新撰組』を会津藩ではなく幕府召し抱えとして取り扱うという話が出たらしい。土方からすれば喉から手が出るほどの申し出だが、それを近藤はあっさりと断ってきたらしい。土方が激怒しているのはそのことだ。
しかし、近藤は全く取り合おうとしなかった。
「だがな、歳。俺たちは幕臣に取り立てていただけるような働きをしてきたか?!」
その言葉に土方は言葉を詰まらせた。
「…それは…」
「俺は毎晩、諸藩との会合に参加しながら痛感した、幕府はこのままではだめだということを!だからこそ、今この機会に幕府召し抱えになればその幕府の脆弱さに付け込んだようにならないだろうかと考えた!俺たちがなりたかった武士は、こんなに簡単に手に入っていい身分だっただろうかと!」
「近藤先生…」
近藤が身体を壊してまで葛藤していたのはこのことだったのだろう。
手に入れたかった武士になるという夢。
けれども、夢はこんなに簡単に落ちているものではないと自分に言い聞かせて、近藤は断ったというのだ。
「それに、俺たちは『新撰組』だ。会津様から頂いたこの伝統ある勇敢な名に恥じない働きをまだできていないではないか。その名を捨ててまで、俺は幕臣になりたいとは思わないよ」
近藤はゆったりとほほ笑むと、土方の肩に手を置いた。
「とはいえ…歳の苦労を考えると話を受けるべきか迷った。俺の我儘なんじゃないかと。…しかし、歳ならわかってくれると思ったんだ。堪えてくれないか」
「…そんな風に言われると、俺は何にもいえねぇだろ」
小さくため息をつきながら答えた土方の表情はもう怒ってはいない。総司はほっと胸をなでおろした。
「わかったよ、十分わかった。でっかい手柄を上げたらその時に、堂々と召し抱えられるようにしよう」
「ああ…ありがとう」
近藤は安心したように微笑むと、「よし」と立ち上がり、
「久々に憂さ晴らしがしたい。俺も稽古に加わってみよう」
と、部屋を出て行った。
「かっこいいなあ、近藤先生」
稽古へ出掛けていく近藤の背中を見送りながら、総司はつぶやいていた。
「…意地っ張りなだけだろ」
と、毒づく土方も表情は緩みきっている。
農民の生れである近藤や土方にとって、幕府召し抱え…ゆくゆくは幕臣として取り立てられるなど、夢のまた夢でしかない。そんな現の夢を手にすることができる奇跡に立ち会いながらも、近藤は己の信念に従いその夢に目を瞑った。
「私は良い師匠に恵まれました」
「…ああ、そうだな」
不意に土方と目があった。何やら急に恥ずかしくなって総司が目をそらした時。
「失礼いたします」
と、平隊士がやってきた。
「どうした。局長は稽古にでかけたぞ」
「いえ、土方副長へお手紙です」
「手紙…?」
土方が訝しげに手紙を受け取ると、平隊士は「では」と去って行った。
「どなたからです?」
総司は何気なく聞いたのだが、ふと、目に飛び込んできたのは
「端紅…?」
手紙の端にそっと塗られた紅色。それは遊里に滅多に足を運ばない総司でさえも知っている印で、遊女が客への手紙にはそうして出すものだ。歌舞伎などでもそんな場面がある。女性から送られた手紙を見て、役者は涙をこぼすのだ。
「…あ、じゃあ、私も稽古に行って来ようかな…」
頭の中で女からの手紙だと理解できた瞬間、総司は席を立とうとした。
心ではまだ理解できていなかったけれど、きっと、それは土方に馴染みの女性がいるということで…その女性からの手紙だということで…
「待て」
土方の強い言葉とともに、総司の右手が捉えられた。
「は、離してください」
心で理解する前に、この部屋を離れたい。手紙を読みながら、その女性を想う土方なんて見たくない――
「待てっていってるだろ」
「わぁっ!」
さらに強く腕を引かれ、総司はそのままバランスを崩した。土方に抱えられるようにして尻餅をつく。
「な、何するんですか、離してください」
総司は逃れようとしたが、土方の両腕に抱えられその体温から逃れることができなかった。それどころかいま最も見たくない土方の顔が触れそうなほど近くにある。それだけで頬が熱く赤く染まってしまう。
「なあ、前から一つ聞きたいことがあったんだが」
「な、なんですか。手短にお願いしますっ!」
「お前、俺のこと好きだよな?」
「……はっ?」
総司はあいた口が塞がらなかった。それどころか、空耳かと思ってしまった。
「も、…もう一度、お願いします」
「だから、お前は俺のことが好きだよなって言ったんだよ」
好きなのか?
ではなく
好きだよな?
ということは、土方の中で何かが確定しているわけで。
「そん…そんなことないです!何言ってるんですか、頭がおかしくなっちゃったんじゃないですか」
総司はまず掴まれた右手を振り払った。しかし、代わりに左手を掴まれてしまう。
「逃げるな」
「…っ」
その強い瞳は、君菊のそれと同じだ。射抜かれて、魅了されて、虜にされて、離れられなくなって。
「お前、妬いてるんだろ?」
その言葉でさえ、焼きつくように感じて。まるでそれが本心を見抜かれたように…。
「そんなわけないじゃないですか…っ!」
「だったら逃げなくていいだろ」
「別に逃げてるわけじゃありません!私も稽古に…!」
総司は逃れようと手を伸ばす。すると、そこに先ほど届いた手紙が視界に入った。
端紅。
会いに来てくれない思い人に、自分の存在に気が付いてほしくて、自分の存在を欲してほしくて、その紅をしたためる。
『女に情を感じない男はいないって』
不意に原田の言葉が脳裏をよぎった。
土方は自分のことが好きだという。けれど、それは一番ではないのかもしれない。いつか嫁を娶り子を為してかけがえのない存在を手に入れて。いつか、忘れていく。
こんな熱量のある想いでさえ、永久ではないのだから。
「離してくださいっ!」
「いで…っ」
総司は思いっきり手を振りほどき、足で蹴った。すると当たり所が悪かったのか、土方が苦痛に顔を歪めていた。
しかし、総司は脇目も振らず部屋を出た。
振り払った土方の体温が、早く消えてくれないかと願いながら。


120


斉藤はもう何度目かわからないため息をついた。
「……」
「……」
今日の夕餉は焼き魚・味噌汁・香の物・白米…といういたってシンプルなものだが、そのどれもがまだ彼の胃に収まっていない。しかも茶碗片手に手が止まって、もう四半刻になろうか。そこまで来ると、一つの物事をそんなに長く考えあぐねることができるというのは特技と見なしても良いのかもしれない。味噌汁はすっかり冷め、湯気がなくなってしまった。
斉藤は自分の空になった膳を持ち、部屋を出た。やはり彼はそのことにも気が付いていない様子だ。
「…こういう時は、大抵副長がらみ…」
小さくため息をついて、またくだらないことを察してしまったことに気が付いた。


一方、前川邸にはいつもの幹部メンバーが集まっていた。しかし三人の中で苦い顔をしているのは山南だけだった。
「…新撰組の名を騙って、金を無心するような輩が出てきましたか…」
山崎からの報告を受けて集まったのだが
「なに、名を騙られるほど有名になったというのは何だか嬉しいような気もするな」
「近藤局長」
上機嫌で冗談を言う局長を山南が制した。近藤は「すまん」と頭をかく。
「山崎」
土方が短く名前を呼ぶと、「はっ」と山崎は部屋に入ってきた。
監察方として昼夜働く彼はこうして幹部クラスに呼ばれなければ滅多に屯所に顔を出すことはない。平隊士はおそらく顔も知らないだろう。
大坂の生まれだという彼は土地に明るく身の熟しも軽い。おまけに剣術よりも棒術のほうが得意だというのだから、監察方としては適性があった。
「無心したものの素性はわかっているのか」
「はい。堀田摂津守の家来かと思われます。『壬生浪士岩崎三郎』と騙っていたようです」
的確な報告に土方は頷いた。
「浪人共と違って屯所にひっ捕らえるわけにはいかねぇな…」
「そうですね。奉行所に引き渡すのが良いでしょう」
山南の同意を得て、近藤も頷いた。
「では、私は組長にこのことを伝えておきます。間違って殺してしまっては大変なことになる」
山南は部屋を後にして、足早に八木邸へ向かっていった。
そして山崎も「私はこれで」と引き下がろうとしたが
「待て」
と土方が止めた。そして土方は懐から石田散薬を取り出した。
「上七軒に君菊という芸妓がいる。悪いがこれを届けてくれ」
「承知しました」
山崎は何も理由は聞かずに石田散薬を受け取った。そしてそそくさと部屋を出ると足音もなく去って行った。おそらく彼は君菊のことも知っているはずだ。土方が見こんだ優秀な監察なのだから。
「君菊…というと、あの時の女か?」
近藤は嬉々として問うた。
「ああ」
「やはり良い関係になっていたんだな。総司には黙っておいてやるから、詳しく聞かせてくれ」
「残念ながら、総司に黙っておくほどの関係じゃねぇよ」
土方の反応に「なんだ」と近藤は残念そうな顔をした。
「…かっちゃん。前に総司のことを頼むって俺に言ったよな?俺に任せておけば大丈夫だと。それでいながら、女のことを応援するのか」
「女と衆道は別だろう」
近藤はあっさりそう言った。
「俺は男を好きになったことがないからわからんが……俺はお前がいつか所帯を持ったら良いと思っているし、それは総司にも思っている。総司は…まあ、色々思うところがあるかもしれないが、俺が世話してやらなければならんとも思っているよ」
「……そうか…」
「己の子を抱いてみたいとは思わなくはないだろう?」
「……」
近藤の問いに土方は答えられなかった。
今は近藤が言うような気持ちにはなっていない。近藤が結婚し子が生まれたときは確かに幸せそうだと思ったが、それに焦がれる思いはない。
しかし、総司はどうだろうか。
子供好きの総司はそういう家庭に憧れるだろうか。小さいときに両親を亡くしている彼はそういうものへの憧れはあるのではないだろうか…。
「まあ、もっと将来の話だ。俺たちが食うに困っていけないようにならないと、所帯なんて持てないよな」
近藤はそういって話を打ち切った。
「それはそうと、明後日宴会を開こうと思うんだ」
「宴会?」
「この間の給付金の祝いだ。思えば芹沢局長が亡くなってからそういった宴はずっとやっていなかったと思ってな。左之助に愚痴られたよ」
「ふうん、わかった」
土方は頷いたが、何かが喉元に突っかかったまま、うまく飲み込むことができないような気持ちだった。


そうして宴会の日は訪れた。
留守役に数人の隊士のみを残して、ほとんどの隊士が参加することになった催しは大宴会となっていた。会津藩士も数人招かれたため近藤の計らいで芸妓は多く呼ばれ、歌や踊り、豪華な食事が振る舞われ、久々のお祭り騒ぎとなった。
「今日は無礼講!そして金もある!酒もある!女もいる!素晴らしすぎる宴会だよなっ!」
特に息巻いていたのは原田だったが、それ以外の面々も上機嫌に酒を嗜む。
永倉は女から酌をされ、デレデレになっていたし。
藤堂も芸妓とともに踊っていたし。
原田は言わずもがな。
山南でさえも顔を真っ赤にして酔っていた。
平隊士もはしゃいでいたし、一番上座にいる近藤も評判の太夫から酌を受けうれしそうに酒を飲んでいた。土方にも別の太夫が寄り添うようにして酌をしている。
「近藤先生、楽しそう」
「あんたは楽しくないみたいだな」
そんなお祭り騒ぎの中で総司と斉藤だけが静かだったかもしれない。
「そんなことないですよ。こういう場がちょっと苦手なだけです」
「それが本当だとしたら、俺もそうだ」
「…斉藤さん、なんか最近妙に遠回しに嫌味をいってません?」
総司が問うと「まさか」と斉藤は茶化した。斉藤は酒がすすんでいるようだが表情には全く出ていない。
「よーぉ総司、斉藤。飲んでるかぁ?」
足取りがすでにフラフラになっている原田が酒を注ぎにやってくる。さっきまで切腹傷を自慢しながら腹踊りをしていたままの恰好だ。
原田からの酌に斉藤が答え、一気に飲み干すとその飲みっぷりに「ひゅーっ」と原田が口笛を吹いた。
「総司も飲めよぉ」
「私は遠慮しますよ。美味しく飲めない人が飲んでも勿体ないでしょう」
「それはそうだがなぁ。そういや、今日はこのまま泊まって帰ってもいいらしいぜ。いい女が居たらモノにしておけよー」
原田のアドバイスに総司は苦笑で答えた。そして原田は言いたいことだけ言うと、またふらふらと別の隊士の元へと去って行った。
「…だ、そうだ」
「私じゃなくて、きっと斉藤さんに言ったんですよ。斉藤さんは馴染みの方とかはいらっしゃらないんですか?」
「それは秘密」
平然と酒を飲んでいる様子からすると、斉藤にまた茶化されたようだ。総司は小さくため息をつきながら箸を取った。
宴会が嫌いなわけではない。皆が上機嫌に酒を飲んで女性と戯れてわいわいと盛り上がっているのを見るのはむしろ好きだ。まるで試衛館の頃を思い出すようで楽しい気持ちになる。
けれど、どうしても考えてしまう。
土方に届いた端紅の手紙、そして彼の気持ち。
芹沢を暗殺する数日前に土方の気持ちを初めて聞いた。その時はわからないと答えた。そしてそれからは見ないふりをし、忘れたふりをして、土方もきっとそれでいいと思ってくれていたはずだ。けれど端紅の手紙が届いたということは、土方には馴染みの女性がいるということだ。散々「遊んでいるんでしょう」と土方を茶化していたけれど、実際にその光景を目の当たりにすると彼の気持ちを疑ってしまった。
原田の言うように女と衆道は別なのか。それとも答えを出さない自分を見限ったのだろうか。もうその気持ちは無くなってしまったんじゃないか。
そんなことばかりを考えている。
「…そんな資格もないのになあ…」
悪いのは土方の気持ちに胡坐をかいて答えを出そうとしなかった自分なのだろう。
答えを出すことで、何かが変わってしまうことが怖かった。今のままで十分だと思っていたから、それ以上を望むと罰が当たるような気がして。
総司は上座に座る土方を見た。
好きかどうかなんてわからない。ただ、傍にいてほしいだけなのに。
総司は土方から視線を膳へと移した。手に持ったままだった箸を香の物へ持って行ったその時。
「ああ、君菊さん!」
と近藤の声がした。
総司は思わず箸を止め、ふたたび上座へと目を向けた。
君菊。もちろん脳裏に過ったのはあの時の君菊だ。もちろん彼女も芸妓である以上、この場に呼ばれてもおかしくない存在ではあるが、その名前を近藤が呼んだことに驚いた。
(もしかして、近藤先生のお知り合い?)
そんなことを考えていると、総司が思い浮かんだ通り君菊がやってきた。
赤を基調とした上品な着物に身を包んだ彼女は、初めて会った時のような孤独を感じさせない晴れやかな笑顔だった。赤く引いた紅が上品さを醸し出し、まさしく天神の格に相応しい華麗な美しさを帯びた登場だった。彼女の美貌に平隊士皆が釘付けになり、どこかから「ひゅーっ」という口笛が聞こえた。
「あの人は…」
斉藤ももちろん覚えているはずだ。彼も酒を飲む手を止めた。
「君菊どす」
美しい姿勢で頭を下げた挨拶に、近藤は「堅苦しいのはやめましょう」と声をかける。すると彼女は顔を上げて、今度は土方に目を向けた。
「土方せんせ、今日は呼んでいただいておおきに」
彼女は親しげに声をかけ、そして土方も
「ああ」
頷いて返事をした。
「…え?」
と驚いた総司の様子はきっと二人には気が付いていないだろう。
「ひょー!土方さんの懇意の妓かよ!」
原田が騒ぎ立てると、平隊士たちもわいわいと二人を担ぎ始め、騒ぎ出す。土方は迷惑そうな顔をしていたが決して否定をする様子はない。それは君菊も同じだった。そして近藤もその様子をにこにこと見守っていて、それは近藤も二人が馴染みであるということを知っていたということだ。
「…沖田さん?」
そうならば、あの端紅は。
もしかしたら、君菊からの手紙だったのだろうか――。
「すみません。ちょっと、出てきます」
「ああ…」
斉藤に声をかけて、総司は席を外す。もちろん大騒ぎの宴会でそんなことを気にする隊士は一人もいない。部屋を出て、障子を閉めればまるで違う世界に来たかのように夜の町は静かに過ぎていて。総司は一歩、二歩と歩きその宴から離れた。
頭が冷静になっていく。そして指先が少し震えた。
どうして、こんなことを考えているのだろう。どうして、平静に受け止められないのだろう。どうして、こんなに心が揺れてしまうのだろう。
「この左足が出会わせてくれたんやから、人生ってどう転ぶかわからへんね」
嬉しそうに微笑んでいた君菊の言葉だけが、なぜか響いていた。







解説
114 平間が斉藤に殺されたのはフィクションです。
115 おまささんの京言葉はやや活字向けになってますので、正確ではありません(汗)間違いはきっとたくさんありますのでスルーしてやってください;;
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