わらべうた





121


夜通し続く宴会の席で、そのことに気が付いたのは藤堂だった。
「あれ?沖田さんは?」
皆、すでに酔いが回り何人かは女と部屋を取ったり酔って寝てしまったりしてしまった。隊士の半分くらいはそんな状態で、まともな口を利けるのは藤堂くらいしかいない。その藤堂が問いを投げかけたのは同じく素面と変わらない斉藤だった。相当飲んでいるはずだが、特に顔色が変わる様子はない。
「…酔いを醒ましに、出て行った」
斉藤は答える。しかし藤堂は首を傾げた。
「そうなんですか?あんまり飲んでなかったみたいなのに…」
人間観察が趣味と公言するだけあって、藤堂の指摘は的を射ていた。総司の膳は真っ新で近く酒も全く飲んでいない。しかし斉藤は何も言わずまた酒を口に運んだ。


遠くで宴の騒ぎが聞こえた。部屋を出た時よりは大分おさまっているようなのでそろそろお開きとなるのだろう。そうなると顔を出して帰ることを告げなければならないと思うのに、どうしても腰が重かった。部屋から離れた場所に居座って半刻ほどになる。何人かの隊士が厠へ行ったり女と部屋を取ったり…とすれ違ったりするが、ずっと一人で縁側に佇んでいた。
もう季節は冬が近づき、夜になると指先が冷たくなるほど気温が寒くなってきた。しかし、店の小さな箱庭を眺めつつも視線を上にあげると寒さで空気が澄んでいる分、星がいつもより輝いて見える。
北を見ると北極星がある。ひと際輝く星はそれ自身が中心となって廻っているという話を聞いた。
だったらきそっとそれは近藤だ。一番輝いて照らし続ける近藤の星のその横で、その光を助けたいと言ったのは土方だった。だったら自分はさらにその隣で二人の星がもっと大きく輝くように小さくてもいいから、輝いてできるだけ近く、傍に居続けたい。そう思っていた。そしてそれは永遠にそうなのだと思っていたのに。
『お前を愛しているからだ』
だから、あの一言がすべてを変えてしまった。あの瞬間に彼は喧嘩相手でも、意地悪な兄弟子でもなくなってしまったのだ。
「…歳三さんの馬鹿…」
総司は空から視線を落とし、膝を抱えた。目を閉じれば、暗闇になり、星なんて見えない。しばらくはこうしていたい。何も見ない、何も気にしない、土方が誰と親しくしようと関係ない、土方が誰を愛そうと知らない、そして自分の気持ちからも目を逸らし続ける……。そうすればまたいつものように笑っていられるはずだ。
「やっぱり、具合悪かったんやね」
そんな総司に声をかけてきたのは女の声だった。総司はゆっくり目を開ける。強く目を瞑っていたせいか最初は誰だか分らなかったが、やがて視界がはっきりした。
「…君菊、さん…」
「ご挨拶ができなくて、気になってたんどす。お外でて行かれるから、なんや具合でも悪くなったんかとおもうて」
君菊は優しげにそういうと、総司の肩に羽織を着せた。羽織にしたためてあったお香の匂いと暖かさが身体をふわりと覆った。
「すみません…ご心配をおかけして。宴会のほうが良いんですか…?」
総司は目を逸らしつつ問うた。今だけは君菊の顔を見ていられなかった。しかし彼女は気にした様子もなく
「お手水ゆうて離れてきた。もう皆酔いつぶれてしもうてるし」
と軽やかに答えた。
その明るさが、今は無性に総司を苛立たせた。
「…土方さんが、待ってるんじゃないですか?」
だから、そんな心にもないことを言ってしまった。その答えを聞きたくないのは誰よりも自分だというのに。
けれど君菊は
「今は総司さんのほうが心配」
とあっさり言った。彼女らしいと言えば彼女らしい優しさ。思ったことを相手を気にせず、はっきりとそしてまっすぐに述べる。そしてその黒い瞳が揺らぐことはない。それがきっと彼女の魅力であり、そして土方と似ているところなのだ。決して憎むことはできない。
「…土方さんとはお知り合いだったんですか?」
だから、そんな二人が似合いだということを自分に認めさせたくて
「知り合いゆうか…助けてもろうたんどす」
そんなことを聞いて
「そうだったんですか…」
自分を虐めて
「へえ、左足が外れてしもうたときに、土方せんせにお薬を頂いてそれ以来頼りにさせてもろうてます」
彼女の笑顔を見て、これでよかったんだと言い聞かせて
「貴方が言っていた…良い方というのは、土方さんのことだったんですね」
そして
「ふふ…っ、なんか照れくさいどすなあ。うちが惚れてしもうたんよ」
彼女のほうが相応しいと、信じるんだ。

「…土方さんは、貴方にとって良い人だと思います。自分勝手で、自分に厳しくて、でも時々優しいところがあって…きっと貴方を裏切ったりはしないだろうから。土方さんのことをよろしくお願いします」
「…総司さん?」
「やっぱり体調が悪いみたいですから、私はこのまま屯所に帰ります。申し訳ないんですけど、土方さんにそういう風に伝えておいてもらえませんか?」
「え?でも…」
「じゃあ、よろしくお願いします」
総司は君菊の言葉を遮って、立ち上がった。そして彼女に羽織を返す。困惑しながら受け取る彼女に、精いっぱい微笑みかけた。
「私は、貴方に幸せになってほしいって、初めて会った時に思ったんです。だから、それが土方さんなら…良いと、思うんです。お二人はお似合いだと思います」
それが紛れもなく本当のことだ。嘘なんてついていない。川辺で人目も憚らず大泣きする彼女を見たときに、自分と重ね合わせると同時にこの人には幸せになってほしいと思った。その気持ちだけはこんな時でも変わらないのだ。
あんな悲しい歌を歌わなくて良いように。
あんなに大粒の涙を流さなくて良いように。
だから振り返らずにそのまま去った。君菊がどんな顔で羽織を受け取ったのかはわからない。自分の涙で視界が滲んでいたから、それを堪えるので、精一杯だったから。


冬の寒さで澄みきっていた夜空は急に曇り、冷たい雨を降らせ始めた。それは総司が祇園を出たのと同じくらいで、このまま帰れば屯所までの道のりでびしょ濡れになってしまうのは明らかだったが、総司はあえてその雨に打たれた。
冷たい雨粒が今は心地よく火照った身体を冷やす。
「私の足が 前へ進めば……追いかけることができた……私の手が 長ければ…手をつないで いられたのに」
いつの間にか口遊んでいたその歌は、あの日君菊が泣きながら歌っていた歌。
それは自分を置いて行った恋人を憎むことなく、ただ自分がもう少し前へ進み、手を伸ばしていれば良かったのにと後悔する悲しい歌。
そして同時に優しい歌だ。どんなにひどい仕打ちをされても、恋人を思い続ける彼女の優しさが溢れている言葉が並んでいるのだ。
「総司!」
周りの音を掻き消すように振り続ける雨の中で、総司を呼ぶ声が聞こえた。総司は進む足を止め振り返る。
「…土方、さん…」
傘を差し駆け寄ってきたのはまるで幻のような土方だった。おそらく君菊に話を聞いて追いかけたのだろう、息を切らした様子でこちらへ向かってくる。
「馬鹿!具合が悪いんだろ、風邪でも引いたらどうするんだ!」
「……っ」
土方は差してきた傘に総司を入れた。体中に降り注いでいた雨が遮られる。
「…どうした」
「何が…ですか」
土方の問いに総司は平然を装う。しかし、その疑いの眼差しは総司に向けられたままで
「何かあったのか」
と尚も土方は訊ねた。その見透かした瞳が、まるで何もかもを知っているかのように総司を見ている。総司はあからさまに視線を逸らした。
「…何も、ありません。ただ酒を飲みすぎて具合が悪くなっただけです。はやく…君菊さんの所に帰ったらいいじゃないですか」
「お前、君菊のことを知っているのか?」
どうやら君菊と総司が旧知であることは土方は知らないらしい。驚いたような顔をした。
「君菊さんは…土方さんのこと、好きみたいです。あの人は天真爛漫で明るくて…でも、そう見えてとても繊細な人だから、優しくしてあげてください」
そんな思ってもいないような言葉が勝手に溢れてくる。
土方も怪訝な顔をした。
「…なんでお前が、そんなことを言うんだよ」
「別に…思ったことを言っただけです」
「お前、俺の気持ちを無視するのか?」
土方の気持ち。自分のことを特別だと言った、その気持ち。でもそれはいつか移ろうかもしれない熱量。いつかは子を為す女に向けられるまやかし。
『うちが惚れてしもうたんよ』
不意に彼女の言葉が脳裏をよぎった。幸せそうに語る彼女の気持ちがいたいほどわかってしまう。
「…無視します。私は本当に君菊さんとお似合いだと思ってるんです」
それが本心じゃないことを彼に悟られないように、総司はぶっきらぼうに答えた。
すると急に雨が再び身体へと打ち付け始めた。土方が傘を手放し総司の頬を両手で包んだからだ。
「総司、こっちを向け」
「…嫌です。濡れますよ」
「いいから、向け」
力づくで土方は逸らした総司の視線を自分へと運ぼうとする。しかし総司は抗った。
「止めてくださいって!」
土方が掴んでいた両手を思いっきり振り払う。すると土方は総司がそんなことをすると思っていなかったのだろう、目を見開いで驚いた。
「…総司…?」
動揺したままの土方の声が聞こえた。しかし総司はそれを聞こえないふりをして、そして叫んだ。
「どうして追いかけてくるんですか!君菊さんのとこに居たらいいじゃないですか!」
貴方が追いかけてきたら、望んでしまうじゃないか。
「どうして愛してるなんて言うんですか!」
貴方がそう告げてしまったから、壊れてしまったじゃないか。ずっとあの頃のままで居られればそれでいいと思っていた、そんな些細な日常が。それだけで幸せだったのに。こんな気持ちに気が付かなくて済んだのに。
「私は…土方さんのことなんて、何とも思っていません…っ!」
彼が傷つく言葉だと分かっていたのに、いや、わかっていたからこそだったのかもしれない。
「土方さんなんて嫌いです…っ!」
そういうことで自分の気持ちと決別したかったのに。その言葉を選んだ途端に、気が付いた。自覚した。
ああ、嘘だ。
いま、紛れもなく嘘をついた。
いま、どうしようもないくらい気持ちの輪郭がはっきりした。
いや本当はもう随分前からわかっていた気がする。
命を捧げるなら、試衛館の大将に。そして、恋をするならこの意地悪な兄弟子に――とそう、思っていたことを。


雨音だけが時間が流れていくのを刻んでくれた。どきどきと鳴り止まない心臓の音が、彼に伝わるんじゃないかと怖くて、そして彼の表情をうかがうこともできなくて、総司はただただ俯いたまま彼の言葉を待った。
やがて土方はゆっくりとした動作で傘を拾った。そして何も言わず一歩、また一歩と総司へと近づく。総司は土方の言葉が怖くてぎゅっと目を閉じた。
「総司」
「……はい」
「持って行け」
土方は冷え切った総司の手に傘を握らせた。一本しかない傘は総司に渡してしまえば土方のものはない。総司はそれに気が付いて、思わず土方を見る。
「…っ、土方さん…」
目の前の土方は今まで見たこともないような優しい顔をしていた。笑っているわけではない。穏やかに総司を見つめていた。
「じゃあな」
そして踵を返して、祇園へと戻っていく。総司は追いかけることもできず、その背中を見つめ続けた。
『貴方を見つめ続ける花になりたい』
君菊はそう歌っていたけれど
彼の瞳を見つめ続けるほどの勇気は、自分は持てそうにない。好きだという気持ちに気が付いても、土方が与えてくれる想いの熱量と自分が彼へ抱く熱量が同じかどうかはわからなかったから。そしてその二つの重さがもし違ったなら、それは何よりも怖いことで、そして己だけでなく土方を傷つけてしまうと思ったから。
臆病に目を逸らす自分。
だから、やはり見続けたいと願う強さを持つ彼女こそが、土方の隣に相応しいのだと。
土方の背中を見送りながら、そんなことを思った。






122


跳ね上がる鼓動が伝わらないように。


文久三年十一月。色づいた葉が冬の風に吹かれ一枚、また一枚とふわりと散っていく。
「歳、どうしたんだ?」
土方が縁側に腰掛け、落ちていく葉を一枚、二枚と数えていると、不思議そうに近藤が声をかけた。
「どうしたって、何にもしてねえよ」
「庭を眺めながらため息をつくなんてらしくないじゃないか」
ため息をついているつもりはなかったのだが、近藤にはそう見えたようだ。厚手の羽織を着こんだ近藤は「寒いだろう」といってその羽織を土方にかける。
「俺はいいよ。近藤さんが掛けてろよ、風邪ひいたら大変だ」
「なに。俺が寝込んでも歳がいるから、新撰組は大丈夫だ」
近藤は呑気なことを言う。しかし人の体温が残る羽織はすぐに土方の体を温めた。土方はそこで初めて自分がどうやら長くここにいたらしいと気が付く。
「何かあったのか?」
隣に腰掛けた近藤が土方に何気なく聞いた。
この近藤勇という男は呑気なことを言っていたのに、時々鋭いことを聞いてくる。仕事のことは鈍感だが、自分の仲間については機敏に察することができるのだ。土方はこんな時に「なんでもない」と答えてもこの男は納得してはくれないことを知っていた。
「総司が…」
「総司?」
「…いや、俺の気の回しすぎなのかもしれねぇが。あの君菊のことを好いていたような気がする」
近藤は「は?」と呆然とした様子で反応した。
「この間の宴会のとき、あいつ拗ねて帰りやがった。俺と君菊のことをお似合いだとか何とか言ってたから、あいつ俺に嫉妬してたんだろうな」
「総司は君菊さんと顔見知りだったのか?」
「君菊は何にもいわねえが…そうなんだろう」
君菊が総司が帰る旨を土方に伝えたとき「総司さん」と言っていた。「沖田先生」と呼ぶ芸妓が多い中で、違和感を感じるその言葉は二人が親しい仲だという証なのだろう。それに総司も総司で君菊のことを良く知っているようだった。
近藤は少し間をおいて
「何だか信じられんな。総司が…あの時以来、女のことには本気になれないのだと思っていた」
近藤の言わんとしていることを察した土方は「それとこれとは別だ」と答えた。
「かっちゃんが言ってた通り、あいつだっていつかは女に惚れる。家族を持ちたいって思うことだってあるだろ、いい大人なんだから」
「…ふむ、じゃあ歳はそれで落ち込んでいたのか?」
少し笑った風に近藤は言った。
「別に、落ち込んでねえよ」
からかわれた土方は顔を逸らす。しかし幼馴染の察しの良さは嫌になるほどで、
「京に来てからそんな風に考え込んでる歳は初めてだ。仕事のことは悩んでいる風はないのだから、きっと総司のことなんだろう?」
「やめてくれ。別にそんなんじゃねえよ」
土方がどれだけ否定しても、近藤は納得してくれない。それが嘘だと知っているからなのだろう。


斉藤は困惑していた。
もちろん表情にそれを出すような愚かなことはしない。そんなことをすれば試衛館食客たちを始め隊士たちにからかわれるに決まっているのだから。いつもと同じ無表情を装いつつ、心の中では「いったいどういうことなんだ」という疑問を持たずにはいられなかった。
それはもちろん、同室の沖田総司のことだ。
先日宴会で体調が悪いといって先に帰ってしまった時以来、彼の様子がおかしいのだ。斉藤の予想からすれば、あの君菊という芸妓に纏わることなのだろうと思っているのだが、それにしても彼の様子はおかしかった。
「斉藤さん、巡察の時間ですよ!一緒に行きましょう!」
斉藤の予想を反して、彼はいつも通りだった。
宴会の前までは(おそらく副長のことで)悩んでいる風だったのに、宴会を過ぎたころから、彼はいつもと同じ明るさを失わない天真爛漫な青年に戻っていたのだ。それはもちろん悪いことではなく良いことなのだろうが、この急激な変化に斉藤は戸惑っていた。そして、それと反比例するかのように副長は悩んでいるようだ。二人の間で何かがあったのは間違いないだろうが、斉藤はその原因が見当もつかず、自身には全く関係ないことなのに悩んでしまっていた。
「何してるんですか。行きますよ」
「あ、ああ…」
総司に強引に腕を引っ張られ、斉藤は立ち上がる。確かに巡察の時間ではあるのだが、彼がそんなに張り切って仕事に行くことは今までなかったはずだ。
やっぱりおかしい…斉藤は眉間のしわを一つまた増やした。

いまだ先日から知らせが出ていた、壬生浪士の名を騙る「岩崎三郎」を捕えることができていなかった。その男は堀田摂津守の家来であるということで、見つけ次第捕縛し奉行所に引き渡すことになっている。
であるので、今日もまた巡察の目的は「岩崎三郎」を見つけることだった。総司の隊と斉藤の隊が都のど真ん中を歩く。人数が多いため列をなす姿は威圧感を与えて、遠巻きに町人たちがそれを見守っている。しかし、その隊長は何にも気にしていないようだった。
「まだ『壬生浪士』の名を騙ってるってことは、『新撰組』の名前はまだまだ広まってないんですね」
斉藤の隣を歩く総司は何が面白いのか、笑っていた。
「山南副長から知らせがあったが、間違って斬るなよ。大問題になる」
「やだなあ、私だってそれくらい覚えてますよ。大丈夫です、斬ったりしませんから」
斉藤は忠告しておいたのだが、総司はあっけらかんと聞き流した。それが何だか不自然に思えて、斉藤は一言付け足す。
「…そうだな、殺してしまったら土方副長に怒られるだろうしな」
「ああ…そうですね」
少しだけ総司の表情が曇った。斉藤としては引っ掛けの言葉だったのだが、総司には名前を出すだけでダメージを与えてしまったようだ。
(やはり、土方副長のことか…)
察しのいい自分を呪いつつ、斉藤は総司に気が付かれないようにため息をついた。
「沖田先生!斉藤先生!」
そんな会話をしていると、二人を声の低い男が呼んだ。総司の隊の松原だった。
「どうしました」
「今通り過ぎた米問屋なのですが…微かに、壬生浪士という言葉が聞こえました」
「どこです」
松原は「あそこです」と少し後方を指さした。斉藤が「本当か」と確認すると松原は頷いた。
「俺、昔から耳だけは良いんです。間違いないと思います」
愛嬌のある坊主頭が特徴の松原が先陣を切ってその店に向かっていく。総司と斉藤は顔を見合わせ頷き松原を信じることにした。斉藤は島田を始め数名の隊士を指名し、それ以外の隊士は店を囲ませた。斬ることはできないが、逃げられてしまっては絶好の機会を逃すことになる。
店の前にたどり着き、総司らは耳を澄ました。
「拙者は壬生浪士岩崎三郎であると言っているだろう!」
「斬られたいのか!」
松原の言い分は正しかったようで、店の中からは恐喝するような脅し文句が聞こえた。そして何か物を壊すような激しい音や店子の悲鳴も聞こえる。雰囲気から察するにどうやら敵は一人ではないらしい。
「踏み込む。松原、先頭を行け」
斉藤が指示を出すと、総司が「待った」とストップをかけた。
「敵は一人ではありません。私たちはこの隊服を着ているのですぐに斬りかかってくる可能性があります。松原さんの得意は柔術でしたよね」
「は、はい!」
「だったら先頭を切るのは危ない」
総司が一歩前に踏み出し、その刀身を抜いた。斉藤はもちろん、控えていた平隊士らが驚く。
巡察で組長自ら先陣を切る、ということはあまりない。剣の立つ大物の浪人ならまだしも今回の目的は捕縛であり、斬りあいになるのはできるだけ避けたい。
「待て、あんたは俺の話を聞いていなかったのか。斬るとマズいことになる」
「わかってますよ、斉藤さんは心配性だなあ。相手は興奮していて、おそらく斬りかかってくるでしょう。だったら先に峰打ちで仕留めて置いたほうが良いでしょ。斬るなとは言われてますけど、怪我をさせるなとは言われてません」
総司の言い分は確かにもっともで、だったら柔術が得意な松原が踏み込むよりも、また峰打ちができない平隊士よりも、手練れの剣客が踏み込んだほうが良いのはその通りなのだ。
けれど、斉藤は躊躇う。
いま目の前にいる総司が、まるで人を斬らんとするくらいに殺気を帯びていたからだ。
「じゃあ、行きますよ」
斉藤は判断が付かないまま、総司の後を追った。

米問屋に踏み込むと、まず目についたのは荒らされた店内、恐れるように逃げ惑う店主、痛めつけられたであろう店子が倒れ、そして二人の浪士がいた。
「なんだ…!」
貴様ら、と続けたかったのだろうが、総司が予想した通り浅黄色の隊服を見て二人は驚いたふうにして目を丸くした。自分たちが騙っていたまさにその壬生浪士が目の前に現れたのだから驚くに違いない。そしてせっかく奪い取った金を投げ捨て、腰に帯びていた刀を抜く。
「今度からは壬生浪士じゃなくて、新撰組を騙ってもらいたいですね」
総司はそんな呑気なことをいいつつ、二人に斬りかかった。その速さは目にも留まらず、二人の男はきっとその姿をとらえることはできなかったであろう。
「ぐあぁぁ!」
男のうち一人が、刀を落とし倒れこんだ。脇腹辺りを峰打ちで一閃されたようだ。
斉藤も続こうとしたが、如何せん店の中は狭く、もし斉藤が刀を振り回せば誰かに刃先が当たってしまうような場所だった。
もう一人の男は斉藤が斬りかかってこない、と察したようで刀の構えを解き、店の奥へと逃げていく。
「逃げたぞ!」
後方に控えていた島田が大声で叫び、持っていた笛を吹く。そうすれば店の外に控えている隊士たちにも伝わるからだ。緊迫した空気で騒然となる店内で、総司がぽつりと
「あっちが本命かな?」
といった。そして逃げて行った男を追う。
斉藤はその言葉がまるで子供のように無邪気に聞こえて、「まずい」と思わず呟いていた。
「待てっ!」
斉藤は叫んだ。それは逃げる男へではない。
「落ち着け…っ!」
殺気を孕んだ総司に向かって斉藤は大声を上げた。しかし総司はその足を止めることなく男を追いかける。男は悲鳴を上げながら逃げ惑い店の家具などを壊しながら総司の進路を妨害する。しかし尚も追ってくる総司の殺気に気が付いているのだろう、男はすでにパニック状態だった。
斉藤は焦った。このままでは男に追い付けば、総司は殺しかねない。先ほどの言葉はまるで獲物を見つけたかのようなものだった。
「待て…っ!総司!」
斉藤は思わず大声を挙げて総司の名を呼んでいた。すると彼はぴたりとその動きを止め
「…斉藤、さん」
と驚いたような顔をした。その表情にもう殺気はなく、むしろ先ほどの様子が夢だったかのように穏やかな表情になっていた。
その間に男は裏口を目指し逃げて行ったが、そこには平隊士たちが何人も待ち構えている。彼らにはくれぐれも殺すなと伝えてあるので大丈夫のはずだ。
「本当に…あんたは人の話を聞いていない、加えて自分のことがわかっていない」
斉藤が語気を強めると、総司は視線を下げ
「ごめんなさい…」
と謝った。斉藤は「勘弁してくれ」とため息をついた。

男は無事に捕縛されすぐに奉行所へと連行された。手柄を立てた松原を褒める総司の表情はすでにあの時の殺気が消えていて満面の笑顔だった。
そして斉藤はそれを「やはりおかしい」と気にならずにはいられなかった。




123


冬の訪れを告げるような風が吹き始めた頃。

いつまでも壬生寺の境内での稽古では格好がつかないだろう、と近藤が言い出してついに前川邸内に新撰組の道場が作られた。試衛館ほどの大きさの道場で、助勤が稽古の師範代となり隊士たちがローテーションで稽古を受ける。稽古は基本的には師範代に一任されるものの、試衛館の木刀が使われその精神が手本とされた。そうであるので道場の様はまるで試衛館そのものだ、と近藤が嬉しそうに感想を述べた。
しかし今日はそこがまるで戦場のように殺伐とした空間となった。
土方は前川邸の自室から出てすぐにその様子に気が付いた。いつもは騒々しいほどの気合が道場からあふれ出て聞こえるものの、今日はそれがない。稽古が行われていないというわけではなく、人は集まっているがまるで野次馬のように遠巻きに何かを眺めている。野次馬達の表情は真剣そのもの、むしろ戦々恐々といった厳しい表情の隊士もいる。土方は模擬試合でもやっているのか、と足を延ばした。
「…誰がやってるんだ」
丁度背の高い島田が野次馬の一番後ろに居たので話しかける。すると島田は「副長!」と大げさに反応したものだから、野次馬達がさっと身を引いた。…まあおかげで道場の中の様子はすぐにわかった。
「あれは…斉藤と…」
「は、はい。その…沖田先生が…」
島田に言われるまでもなく、誰が剣を取っているのか土方はすぐに分かった。見慣れた型と気合が耳に入ったからだ。
二人の試合は誰が見ても壮絶な打ち合いだった。
斉藤は自身では語ることは少ないが、無外流を修めている。どこの道場で誰を師としているのかは土方にはわからないが、その腕はおそらく流派のなかでもトップクラスに違いない。現に新撰組でも一、二を争う使い手である。試衛館のやってきたときも総司と互角に遣り合ったが、しかし斉藤の場合稽古よりも実戦のほうが遥かに強いと土方は思っている。実際にもし総司と斉藤が真剣でやりあったら斉藤に軍配が上がるのかもしれない。そう思ってしまうほどだ。
そして総司は天然理心流の免許皆伝を若くして修め塾頭を務めてきた。一見優男で腕も細いからわからないが、免許皆伝になってから総司と向かい合って勝ったものを土方は知らない。土方は総司に対しては剣の腕だけは悔しいことに負けを認めざるを得ないのだ。
その二人は普段その実力を発揮する機会はない。それは今まで二人が本気で向かい合ったことがないからだ。
しかしまさに今、その本気の打ち合いが目の前で行われていた。
激しくぶつかる竹刀の折れんばかりの音。
一打ごとに撓るほどに反る竹刀。
その激しさとは正反対に計算しつくされた二人の軽快な足運び。
まるで相手でどこに打ってくるのかわかっているかのように、二人は互角に遣り合っていた。
「歳、来たか」
土方が野次馬を通り抜けると、道場の上座に近藤と山南がいた。
「近藤先生。これはいつからやってるんだ」
「俺たちもさっき来たんだ。激しく遣り合う音が聞こえたから誰が試合をしているのかと思えば…この様だ」
近藤は苦笑した。道場は平隊士で埋め尽くされ野次馬は後を絶たない。道場の中には試衛館の食客連中はもちろん、そこそこ腕の立つ隊士たちが真剣な面持ちで試合を見つめていた。ここにいないのはむしろ巡察に出ている隊士だけでそれ以外は集まっている…そんな感じだった。そしてそれだけ集まっていながら、実際に試合をしている二人はそれに全く気が付いていないだろう。眼中になく打ち合っている。
そんな近藤の隣で、山南はハラハラした様子で見守っていた。
「怪我をしなければ良いが…」
「怪我で済めばまだ良いほうかもな」
土方の言葉に山南はさらに不安な顔をした。
もうすぐ冬だというのに道場の熱気は汗をかくほどで、きっとかなりの時間打ち合いが行われていたのだろう、と土方は思った。そしてきっとこの試合はどちらかが降参するか怪我をするか…それまではきっと終わらない。
「……」
道場内に響く音。息もできないほどの緊迫感。
土方は冷静に二人を観察する。斉藤は総司の太刀筋を見極め打ち返しているようだが、総司は違った。いつものやり方…師匠に似て力で押し型に正しい剣筋ではない。ただただ本能で打ち込んでいる。さながら、本当の斬りあいのようだ。
(あの眼は…むしろ、殺気か)
総司がそんな風に本気を出すことは稽古ではありえない。江戸にいた頃から荒稽古で煙たがられた総司だが、その時でもあんな眼はしていなかったはずだ。確かに相手が斉藤だからこそ、それほど真剣に打ち込まなければ負けるのだろうが…。
土方がそんな風に見ていると、二人が距離を取り同時のタイミングで打ち込んだ。一番大きな音を立ててぶつかった竹刀は同時に二人の手を離れ、勢いよく壁に飛んでいく。
皆が息をのんだ。
「ひ…引き分け!」
審判役を務めていたらしい隊士が声を裏返しながら高らかに宣言した。二人の手から同時に竹刀が離れてしまっては、どちらにも勝敗がつけられないだろう。
そしてその宣言でそれまで観客として息をひそめて見守っていた隊士たちが一気に盛り上がった。
「二人とも、素晴らしい剣技だった!」
近藤がお互いの健闘をたたえる。当の本人たちは本当に周りの盛り上がりには気が付いていなかったようで、驚いたように近藤に向き礼をした。
盛り上がり駆け寄ってくる隊士たちに、斉藤はいつもの無表情だったが、総司が軽く唇を噛んでいた。そのことに土方は気が付いていた。


「総司」
土方が総司を呼び止めると、びくっと驚いたように肩を上下に揺らせた。
派手な打ち合いが終わり、その盛り上がりがようやく収まり場にいた者が解散を始めた。称賛の声を浴びつつけられた総司と斉藤も解放されたようだ。
「な…なんですか」
手拭いで汗をぬぐいながら総司は返答する。しかしその目を合わせようとはしない。
「ちょっと話がある」
土方は苛立ちながら、総司の手を引いた。向かった先は前川邸の離れだ。総司は汗を流したいと訴えたが、
「後にしろ」
と、却下した。

「どういうつもりなんだ」
部屋に入った途端、土方は総司を問いただしたものの、総司は相変わらず目を合わせようともせず上気した頬を赤く染めているだけだ。
「どういうって…何のことです。斉藤さんと試合をしたことがそんなに不思議ですか?以前本気で手合せしたのは試衛館にいた頃だったから、ちょっとお互いの腕を確かめてみたいということになっただけですよ」
「だからってあそこまで本気でやらなくてもいいだろ」
「本気を出さないと、斉藤さんにやられてしまいます。土方さんだって知っているでしょう、斉藤さんは私よりも腕は上なんですよ。もし打ち込まれたりなんかしたら大けがになりかねない、きっと斉藤さんもそう思っていたはずです」
そうやって巻くしてたる様に話す総司は、いつもよりも饒舌だ。そして少しも目を合わせようとはしない。
何か後ろ暗いことか、隠していることがあるのだろうか。土方はさらに問い詰めた。
「お前、君菊とのことを怒っているのか?」
「君菊…さん、ですか…」
総司の顔色が変わった。
「君菊さんのことをどうして私が怒るんですか。君菊さんは…良い人だし性格もきっと土方さんに合うと思うのに」
「俺のことはいいんだよ。お前のことを言ってるんだ」
「え?」
「君菊に惚れてたんだろう?」
総司は呆気にとられた顔をした。今まで視線を全く合わせなかったくせに、土方の目をまっすぐに見つめた。
「えっ…と、その…」
「そのことで苛ついてたんだろう。言っておくが、君菊と俺は何の関係もないからな、ただ…」
「私には、関係ありません」
土方の言葉を遮って、総司は答えた。次に呆気にとられたのは土方のほうだった。
「私は別に君菊さんに惚れてるとかじゃないです。ただ以前に知り合いだったというだけで…だから土方さんと君菊さんが良い関係だろうがそうじゃなかろうが私には関係ないです」
「……じゃあ、お前、なんで俺の目を見ないんだよ」
土方は強引に総司の手を掴んだ。さっきまで見つめていたくせに、もう俯いていた総司を引き寄せ抱きしめる。汗の匂いがしたが、それは同時に懐かしい匂いでもあった。
「土方さん、…やめてください」
「やめてほしいなら自分で逃げろよ」
「……」
特に強く抱きしめているというわけではない、逃げようと思えば逃げれるはずだ。しかし総司はそうせず、腕の中に納まった。
「もう…いっぱいいっぱいなんです」
「…ん?」
抱きしめた腕の中から聞こえたのは、弱弱しい声だった。それが総司のものとは思えないほどか細い。
しかしすぐにその弱さがまるで嘘のように総司は土方の胸を強く押し、逃れた。
「汗を、流してきます」
そういうと土方の横をすり抜けて出て行ってしまった。逃げるように駆け出して行った総司の背中を見送りながら、土方は深くため息をついた。
「…どうしろっていうんだよ…」
汗だと言っていた総司の目には、涙が浮かんでいるように見えてしまったから。





124


吐き出す息が白くなり、凍える指先を刹那温める、そんな季節が訪れていた。


朝一番の洗顔さえもその水の冷たさに倦厭を感じる。江戸からここ、京都にやってきて初めての冬は思って以上に寒かった。江戸にいた頃はこんな風に指先を刺すような冷たさを感じなかった気がするのに。
「…って言ってても、仕方ないか」
総司は意を決してその指先を水へ埋めた。微かに残っていた眠気は一瞬で無くなり、視界がよりはっきりと明瞭になった気がした。
一度その冷たさに慣れてしまえばあとはさっぱりとした心地のいい習慣だ。寝覚めが悪い人でもきっと清々しい気持ちになれるはずだ。
「……」
総司はそんなことを思っていて、自分で墓穴を掘ってしまったような気がした。いつも思い出さないようにしているのに、ただそれだけで思い出してしまう。
寝覚めの悪い彼のこととか。
気づかずに居たかった気持ちとか。
「……」
総司は目の前の桶を両手でつかんだ。まだたっぷりと水の入ったそれを頭からかぶる。ばさっと水が地面を叩きつけるような音がして、冷たいというよりも痛みを感じるその刺激で一気に頭が真っ白になる。クリアになって、また何も考えなくする。鈍感になって、視界を悪くして、何も見えなくする。
滴る冷水が身体の体温を奪っていく。指先は震え始め温もりを求める。
すると、急に背中に温かみを感じた。まったく人の気配を感じなかった総司は驚いて振り向いた。
「…先生」
総司が「先生」と呼ぶのはここには一人しかいない。
「風邪をひくぞ」
近藤は穏やかな表情で総司の肩を叩いた。きっと総司の行動を見ていただろうが、そのことをおくびにも出さない。
「ありがとう…ございます」
そんな近藤の言葉が嬉しいような申し訳ないような気持ちで、総司は羽織を握りしめた。すると近藤は
「道場にいくぞ」
と声をかけた。


こんな風に近藤と稽古をするのは試衛館以来だった。
早朝の道場には誰もおらず、斉藤と打ち合った時のような野次馬も全くいない。天然理心流独特の太い木刀を手に打ち合う二人だけがそこにいた。竹刀とは違い派手さはないが、木刀同士がぶつかる重厚な音だけが響く。
「やぁっ!」
「むっ!」
総司は打ち込み続けた。かつて剣を覚えたてだった少年の頃のように、近藤に相手をしてもらった。むしろ近藤のほうがそう申し出てくれた。
『思いっきりぶつかってみろ』
その言葉通り近藤は受け止め続けている。
剣の腕では近藤を勝るとも言われる総司だが、実際に近藤を負かしたことはない。真剣勝負であればあるほど、近藤には勝てないのだと思い知らされる。稽古は稽古であって実戦ではない。稽古でいくら強くても、土壇場で発揮される力こそ実力なのだ。だから、総司は自分が近藤よりも勝ると思ったことはない。
「…はぁっ、はぁ…!」
その証拠に本気で打ち込んでも、近藤は一切隙を見せない。ただ総司の剣を流し続けている。
(まるで…しなやかな大木だ)
そこに朴訥と生えているだけなのに、時に重厚に聳え立ち、時に柔らかに風を流す。
「…休憩にするか」
近藤はそう言って笑った。そう言った瞬間、総司は道場の真ん中で倒れこんだ。打ち込みを続けた身体は完全に疲労しきっていた。
「はぁ…はぁ……は…」
息を整えながら見上げた近藤は、平気そうにやはり笑っていた。
「気持ちいいな!」
「…そう…ですね…」
確かに近藤に打ち込み続けていた時間は何も考えないで済んだ。近藤の隙をずっと探して、でも見つけることができなくて、それが悔しくて、それが在りし日の自分と重なって。
「…近藤先生…」
「ん?」
近藤は総司の隣で腰掛けた。
「やっぱり…私は、剣術バカなのかもしれないです。こうしてるのが…一番、楽しいです」
「そりゃあ、剣術バカの俺の弟子だからな!」
そういって近藤は豪快に笑って、その言い草に総司も少し微笑んだ。
「だから…きっと、遠回りばっかりしてるんです」
「…遠回りか」
「遠回りして、迷子になって、…彷徨ってたんです」
総司は倒れこんでいた上半身を起こした。その仕草がそれだけで怠く心地の良い疲労感が身体に残っていた。
だからかもしれない。
「総司…歳のことが、好きか?」
その言葉にうなずいてしまったのだ。
もしくはため込んでいた気持ちが溢れ出てしまったのは、近藤の前だったからかもしれない。嘘をつけない彼の問いだったからなのかもしれない。
しかし総司は首を横に振った。
「…でも、それはもういいんです」
「いいとは?」
「無かったことにしたいということじゃありません。その気持ちはきっとずっとここに在り続けるけど…でも、それを伝えたって誰かを不幸にしてしまうなら、ずっとこの気持ちを持っていたほうが幸せだと思うんです」
君菊の顔が総司の脳裏をよぎった。
幸せそうに微笑んでいた彼女を、まるであの日のように曇らせてしまうなら思い続けるだけで幸せだと自分に言い聞かせてしまえばいいのだから。
総司の言葉に、近藤はため息をついた。
「…お前が苦しいばっかりでいいということか?」
「……」
「それじゃ、いつまでたっても迷子だぞ」
近藤はそう言うと、木刀を杖に立ち上がった。そろそろ隊士たちが稽古にやってきそうな時間だった。
「総司、武士が怯懦ではだめだ。遠回りしても構わない、迷子になっても構わないさ。けれども、決して逃げるな、向き合うんだ」
「…近藤先生…」

『しかし、宗次郎。人というのはどうしても泣きたい時がある。そんなときは逃げたりしてはいけない。泣くよりも恥ずべきことは、逃げることだ。いいか、宗次郎。武士が泣くのは公方様の為だけだ。お前の姉さんが言っているのは、そういうことなんだ。いいな?』

姉と喧嘩をして家を飛び出し、土方に拾われ試衛館に足を踏み入れた時。初めて出会った近藤は鬼のように怖い顔をしていたが、笑うとまるでその面構えが嘘のように快活だった。そんな近藤が逃げ出した総司に向かっていったのがそれだった。
「…そろそろ朝餉の時間だな。部屋に戻らないと」
近藤は木刀を片付けると「先に行ってるぞ」と総司に声をかけ去って行った。
「…逃げる、か…」
道場にぽつんと一人残った総司は、再び上半身の力を抜いて倒れこんだ。
そのまま天井を見つめる。新築の道場は試衛館のような古びた天井ではないが、良く似た造りだ。その天井に向かって総司は手を伸ばした。
逃げているわけじゃない。
それが最善の選択だと思ったから。こんな気持ちをずっと持ち続けることなんてできない。いつか忘れていく。いつか子を産み育てる女に情が移るように、この思いはいつか消えていくのだろう。それはもしかしたら別の人を好きになることで消えていくのかもしれない。
「…別の人…」
自分でそう思いながら、総司はすぐに首を横に振った。
それはない。きっと、ない。
胸を焦がすような熱量を与えてくれるのは、彼しかいない。きっとこの気持ちの火種は昔からここにあったのだろうから。
「近藤先生の言うとおりだ…」
逃げているのだ。
好きになった自分の気持ちから。
傷つけるかもしれない恐怖から。
そして消えてしまうかもしれない不確かなものから。
「沖田先生」
急に想像もしていないタイミングで声を掛けられ、総司は跳ね起きた。道場の入り口から顔をのぞかせていたのは平隊士の島田だった。
「すみません、驚かせてしまって。稽古をされていたんですか」
「い、いえ…」
「これ、沖田先生宛てにお手紙です」
総司は島田の大きな手から、小さく折りたたまれた紙を受け取った。
「ではそろそろ朝餉の時間ですから!」
朝から無駄に元気な島田は、用が済むと駆け足で出て行った。
一方、総司は受け取った手紙に思い当たる節名が無くて首を傾げた。
「…誰だろう」
しかし目に入った端紅の印が、その宛名を語っていた。







125


端紅の手紙を握りしめ、総司は京の町を走っていた。朝餉もそこそこに屯所を出てきたので息は切れているが、急がずにはいられなかった。ごった返す人々の合間を走り抜けて四条を過ぎ、至った場所は大橋の上。そこは見覚えのある場所だった。
総司は欄干から橋の下を覗き込んだ。かつてそうしたようにすると、手紙に合った通りそこには彼女がいた。それを確認すると再び橋を通り抜け川辺へと走る。強い既視感を持ったのはあの人全く同じことをしているからなのだろう。川面へ駆け下りるとそこには彼女が待ち構えていた。
「君菊さん!」
花街にいる時とは違う質素な着物に身を包み頭巾で顔を隠していたが、それがすぐに君菊だと総司にはわかった。ちらりと顔をのぞかせるようにして総司を見た君菊は安堵したように微笑んだ。
「良かった。来てくれはって」
「そりゃ来ますよ!こんなこと書いていたら!」
総司が握りしめた手紙を突き出す。
島田によって届けられた手紙には、あの時と同じ場所で話がしたいと書いていて、来なければいつまでも待つとあった。
「そやかて、総司さん花街には滅多に足を踏み入れんって聞いたし。手紙でも出さなければうちの顔なんて見たくもないかなあって」
あっけらかんと笑って見せた君菊は「ここ、目立つし」と言って少し先にある橋のたもとを指さした。

「それで、一体何の話があるんです」
総司が問うと、君菊は「そやなあ」と少しはぐらかすように言った。
「うちやのうて、総司さんのほうがうちに話があるんやないかなあって思うて」
「話なんて…何も、ないです」
「ほんまかなあ」
君菊がじいっと総司を見つめるので、思わず目を逸らした。邪なことなんてないはずなのに、何故か問い詰められているように感じてしまうからだ。
「…ほな、うちの話聞いてくれる?」
いつまでも目を合わさない総司を見かねてか、君菊のほうから口を開いた。
「うちと一緒に逃げようゆうてくれた旦那さんな、土方せんせにそっくりなんよ」
「え?」
「もう少し年はいってたけど…若かった時はこんなかなあって、そう思うほど、そっくり」
「へえ…」
「でも姿かたちは似てても…中身は全く、違う」
君菊は遠くを見つめた。何かを思い出すように。
「…旦那さんは絵を書くのが趣味で、うちんとこにも筆やら紙やら持ち込んでずっと絵を書いてた。踊りや酒なんて滅多に望まず、花街の景色や空の色…時にはうちのことも書いてくれて…旦那さん、何しに花街に来てるのか最初はよおわからんかったけど、うちにとってはそれはとても…楽しい時間やった。それにうちには指一本触れることなく、一緒の布団で寝たこともない。そんな客はん」
「……」
「うちにとっては有難いお客はんやったけど…毎晩うちのこと指名して、毎晩そんな風にして…何のためにそうしてるんか、ある日聞いてみた。そしたら、死に別れた妹に似てるからそうしてるんやって。…今から思うと、うちのことを絵にしてくれはったけど、それはどこかうちよりも若い女の子みたいな絵で……結局、うちを通して死んだ妹はんを見てたんやなあって今なら思う」
君菊が一瞬切なそうな顔をしたのは、見間違いではないはずだ。きっとその客は君菊のことを妹の代わりとして見て、君菊は彼を一人の男として見ていたのだろう。
「うちはこのままでええかって思ってた。旦那さんがこうして毎日通ってくれるなら、そんな日々が続くのも悪くはない。そうおもって…でもある日、旦那さんが急に逃げようって言い出した。後から聞いた話やとうちのとこに来るためにお金を使い切ったみたいで…もしかしたら心中するつもりやったんかもしれへん。でもうちも旦那さんのおらん、この場所なんてなんの価値もないってそう思うたから、一緒に逃げて………置いて行かれて、しもうたね」
最後言葉に詰まった君菊だったが、気丈にも微笑みで誤魔化した。そして一呼吸おいた。
「でも、今は…これで良かったって思うてる。うちは結局妹はんじゃあらへん。花街で、一夜の夢を売る芸妓。そうである以上、花街から出ていけばただの女。旦那さんももしかしたらそのことに気が付いて置いて行ったんかもしれへんね」
明るくまるで悟ったように語る彼女は、悲しかったしつらかっただろうにそのことを億尾にも出すことをしない。総司は思わず呟いていた。
「…貴方は、強いですね」
「強いんやのうて、嘘つきなの」
君菊はきっぱり言った。
「嘘つきやから、自分の気持ちにも嘘ついて笑うことができるから、強く見えるのかもしれへんね。でもそうやって誤魔化して生きていくなんて、悲しいね」
「……」
彼女が何を言わんとしているのか、総司にはわかった。いや、端紅の手紙を貰った時から気が付いていた。
「ねえ…総司さん。うちは土方せんせのことが好きや。話をして、目を見て、助けてもろうて、また出逢えて…会えば会うほど、この人のことを大切にしたいって思う。でも、それは貴方も同じでしょう?」
まっすぐに見つめ、射抜く、眩しすぎる瞳。釘付けとはまさにこのことなのだろう、君菊の瞳から目を離すことができなかった。
「…私は…そんなんじゃ…」
「嘘つき」
君菊は総司のおでこを軽くつついた。その仕草はまるで幼子を叱るかのようだ。
「あの宴会の時、総司さん泣きそうやった。うちと土方せんせがお似合いやっていいながら、震えてた。その理由がその時はよくわからなかったけれど…土方せんせのことを見てたらわかった。せんせ、急いで追いかけていってしもうたもの。うちのことなんて放って」
「それは…ただ、土方さんが…」
「言い訳は結構。総司さんの気持ちだけ聞かせて」
君菊はさらに総司に詰め寄った。もう少しで触れてしまいそうなほどに顔が近い。
「…ねえ、もしかしてうちに遠慮してるとかやないよね。うちが旦那さんに捨てられて可哀そうやから、土方せんせのこと諦めようとしてるとか、そんなんやないよね」
「……」
まさに彼女の言うとおりだった総司は黙るしかない。彼女の幸せを願う故の行為でも、彼女にとってはそう見えるのだろうから。
すると君菊はむっと顔を強張らせた。おそらく、気が付いたのだろう。
「同情なんてしないで」
君菊は両手で総司の頬を引っ張った。「ひぅ?!」と総司は驚く。
「うちは確かに総司さんから見れば可哀そうで、どうしようもなくて、同情してしまうような女かもしれへんけど。土方せんせのことは別やろ?」
引っ張られた頬にどんどんと力が入っていく。
「はい、どうぞ、なんて差し出されてうちが素直に嬉しいと感謝するなんて思う?いい?色恋なんて男さんの勝負事と一緒。敵に引導を渡すなんて絶対駄目!」
「いたたたたたたっ!」
君菊が熱弁する毎に強く引っ張られる頬が限界に達し、総司は思わず君菊の手を叩いた。すると彼女も「あら」とようやく頬から手を放してくれた。
「すんまへん。なんや、総司さん弟みたいで遠慮せずつい本気になってしもうて…」
下を出して微笑む君菊は、謝りながらも楽しそうだ。総司は頬をさすりつつそんな彼女を見ながら笑った。
「もう…売れっ子の天神だなんて、嘘みたいです」
「あれは演じてるだけ。うちは本当はこんな性格なの」
君菊は胸を張った。
確かに総司が弟なら、君菊は姉のようだった。恋敵のはずなのに、いつの間にか彼女に励まされているような気がして。
「…で、土方せんせのこと、どう思うてるの?」
だから、素直に答えてしまうのだろう。まるで近藤に聞かれたときと同じように。
「好きですよ。たぶん…あなたがあの人を思うよりも、ずっと好きです」
その気持ちを、誰かに言って言葉にするのは初めてで。総司は言いながら顔を赤らめた。そしてよりはっきりと自覚する。自分が彼のことを想い、誰にも――君菊さえも――渡したくないと欲を持っていたことを。
そして、言葉にすれば、一気に迷いが消えた。迷子になったままだった気持ちが、まるでゴールにたどり着いたかのようにすとんと心に落ちた。
君菊も安堵したように微笑んだ。
「それが聞けて良かった」
君菊は立ち上がると「うーん」と背伸びした。そして深く息を吐くと総司を見た。
「じゃあ、これからは勝負やね。うちは総司さんのことも好きやけど、恋敵やから。絶対負けへんわ」
「…私もです」
高らかに宣言する君菊はまっすぐに総司を見ていた。逃げることもない、強さを持っていた。
「素直に教えてくれたから、ご褒美をあげる」
君菊は人差し指を総司の唇に当てた。やっぱり子供にするような仕草だった。
「うち、土方せんせとは同じ部屋を取ったこともあるけど…せんせも旦那さんと同じで、うちに指一本触れへんかったんよ。なんでかなあって聞いたら好きな奴がいるからって」


昼間の時間はいつの間にか短くなり、あっという間に夜になった。総司は忍び足で前川邸の離れを訪れた。すると目的の部屋はまだ灯りが付いていたので安堵し、ゆっくりのその障子に手をかけた。
「…土方さん、」
声をかけて障子をあけると予想通り土方はまだ仕事をしていた。総司の訪問にその筆を止めた。
「ああ、どうした」
「どうしたって…いうわけじゃないですけど、まだお休みにならないですか?」
「まだ仕事があるからな」
土方が指さす方向にはいくつもの書物が並んでいた。総司は部屋に入り障子を閉めた。土方は構わず筆を走らせ始めたので、総司はその横顔を眺めた。昔から見ていたはずなのにどこか見慣れないように感じてしまうのは、きっと総司が変わったからなのだろう。
土方は性格に似あわず繊細な文字をかき並べていたが、何も話さない総司を見かねて、その筆を完全に止めた。
「何か用があったんじゃないのか?」
「用っていうか…お話があったんですけど、土方さんがお仕事が終わるまで待ちます」
「いいから、先に話せ。落ち着かないから」
土方に促され、総司は口ごもりながらも
「ごめんなさい」
と謝った。
「ごめんなさいって…何がだ。何かやらかしたのか?」
「…えっと…」
何の心当たりもないという風な土方に、しばし逡巡して、口にした。
「この間…土方さんのこと、嫌いって言ったから…」
宴の帰り、どうしても土方と一緒にいたくなくて、言い放った言葉をずっと後悔していた。土方は平気な顔をしていたけれど、傷つけてしまったに違いないのだ。
しかし、土方は苦笑した。
「そんなの、嘘だってすぐに分かったけどな」
「え?」
驚いたのは総司のほうだった。
「あの時お前、土方さんって言ったからな。ああいう感情的になってるお前はいつも歳三さんっていうくせに、あの時だけは土方さんだった。嘘ついてるの、バレバレなんだよ」
「な…っ」
完全に無意識だった。確かに怒ったり泣いたりするときは大体「歳三さん」という昔の呼び方に戻ってしまう癖があって…けれど、あの時は「土方さん」だった。つまり土方はそれに気が付いていて、わかっていたということで。
「じゃあ謝り損じゃないですかっ!」
散々悩んだのはなんだったんだ、と思わず叫びだしそうになったが、深夜なので謹んでおく。
しかし土方はにやにやとその口元を綻ばせていた。
「でもお前が直々にあれが嘘だったと謝りにきたということは、その反対の意味だってことで理解してもいいんだよな?」
「そっ、そんなわけないじゃないですか。自惚れるのもいい加減にしてください、歳三さんのことは嫌いじゃないけど、別に好きっていうわけじゃないんですからねっ」
「はいはい、そういうことにしておいてやる」
土方は総司を宥めるように聞き流す。総司はふくれっ面を作りながらも、反抗することはできなかった。
(だって…その通りだし)
でも今はまだ、このままでいい。自分のことをすべてわかってくれている彼が傍にいるだけで、いい。
「あと、君菊さんのことも別に女性として見てるわけじゃないですからね」
「わかってるって。いまお前が謝りに来た時点で俺のことが好きだってことだからな。それにしても、お前と君菊が知り合いだなんてな。どこで会ったんだ」
「……内緒です。土方さんだって、少しは悩んだらいいんじゃないですか」
ちょっとだけ、そんな意地悪をしてみたりする。その距離が今は愛おしいと思えるから。




126


抜け殻のような私が、ここにいる価値も意味も目的も何もないのだ。空っぽという言葉が私に一番ふさわしい。


文久三年師走。凍えるような寒さの中、屯所の隣の壬生寺では新入隊士の試験が行われていた。武家風の者から傾奇者のような者まで入隊を希望する者が列を為す。それはまるで縁日のような騒ぎだった。
入隊希望者が増えたのにはもちろん理由がある。新撰組の隊士には毎月三両の手当が出るらしいという噂が既に京中に広まっていたのだ。三両と言えば半年は暮して行けるだろう大金である。加えて腕に覚えがあるものなら身分を問わず入隊することができるとあって希望者が相次いだのだ。
もちろん一人ひとり腕を確かめていては埒が明かない。入隊試験として平隊士のなかで腕が立つものと手合せをし、勝てたもの、筋の良いものから選抜することになった。
結果として壬生寺では総当たりの乱取のような騒ぎとなってしまった。近所の子供たちが巻きに(恐れたように)それを眺めていた。
そしてさらにそれを高みの見物、とばかりに見ているのは総司と斉藤だった。今回の入隊試験を任されていた。
「…数うちゃ当たるって土方さんは言ってましたけど、あまりにも有象無象すぎますね」
総司は境内から数十名の入隊希望者を見下ろした。島田や松原といった腕の立つ者たちが積極的に新入隊士の相手をする。しかし、ほとんどが歯が立たない者ばかりで、なかには剣を握ったようなこともない者もいるようだ。そんな光景ばかりが目に入り、総司はため息をついた。
「これだと十人もいかないような感じですね」
「同感だ」
短く答えた斉藤も同じ感想だったようだ。
希望者のうち既に半分近くは易々と打ち込まれ、門前払い。もう半分は平隊士と互角に渡り合うのが精いっぱいのようでとても有力な候補は見当たらない。
「あーあ…全員不合格とかにしたらまた土方さんに怒られるだろうし、かといって使えない人をいれても無駄だろうし、結局お金で集まる人材なんていないっていうことかな…」
「剣術に対しては、あんたは毒舌だよな」
「そんなことないと思いますけど…」
昔から稽古が厳しすぎると指摘されたことを思い出した総司が拗ねる。しかし斉藤は無視してまた周囲を観察し始めた。
「多くて五人くらいか…」
斉藤の呟きに総司は「えー?」っと不満げに声を上げる。
「そんなに多くないですよ。私が見たところ二人ですね」
「どれだけ厳しい目で見てるんだ」
「ちゃんと原田さん辺りを基準にしてますよ。それでもこれですからね、まるで稽古の真似事みたいなんだもの」
その言い草に「やっぱり毒舌だ」という言葉を飲み込んだ斉藤は、不意にある方向を指さした。
「あそこ」
「え?」
斉藤が指さした方向。境内から右手に見える場所で、一人の隊士と入隊希望の青年が打ち合っていた。それだけでは周囲と大差ない光景だが、斉藤の目に付いたのは、平隊士のほうが打ち負かされていたからだろう。
しかし、それは青年が強いからではない。
「…あれでは、隊士のほうが不合格だな。そこそこの使い手だったという話だが、今や昔ということか」
「……」
斉藤の辛辣な言葉に、今度は総司のほうが黙ってしまった。もちろんそれは斉藤の言う通りで何の否定もできない意見だったのだが。
「野口さん…」
それが、あの日からすっかり別人のように変わってしまった野口健司だったからなのだろう。


やがて昼が過ぎ、その日の入隊試験は終わった。
「たった三人だぁ?」
総司と斉藤が揃ってその結果を土方へ報告へ行くと、予想通り苦い顔をした。入隊希望の者は百名を超えていたので、これまで通りなら半分くらいは採用してもおかしくないはずの母数だ。土方もそれを期待していたのだろう。
「でも仕方ないじゃないですか。集まったのは剣も握ったようなこともないひとで、お金目当ての人ばかりです。使えない雑魚が入ったって土方さんは喜ばないでしょう?」
「お前は本当に辛辣だな」
土方は呆れたような顔をしたが
「俺も沖田さんに同意見です」
と斉藤が言ったので渋々土方は納得したようだった。
「ま、金だけもらて脱走されても迷惑だ。…で、新しく入ったのはどんな奴だ」
「松本喜次郎、和泉国の出で剣はそこそこですが若い青年です、それから新田革左衛門。こちらは正反対に年はいってますが様々な流派を修めていて名の知れた使い手のようです。そして安藤早太郎。彼は剣はいまいちなのですが話を聞いたところ、弓を良く使うそうです。もともとは藩士だったそうで、藩内でも随一の使い手だったそうです」
「ふうん、脱藩でもしたのか」
「そのようです」
斉藤の簡潔な説明に土方は頷く。
「では松本は斉藤に任せる。それから新田だが、使い手ということなら永倉がいいだろう。永倉の配下にいれる。安藤は…総司、お前が面倒を見ろ」
「ええ?なんで私が」
総司が思いっきり顔を顰めると土方が嗜めるように「露骨な顔をするな」と言って睨んだ。
「弓の腕は一品のようだが、弓なんか普段は役に立たねえ。お前が一からしごいてやれ」
「…私が稽古をすると嫌がって脱走しちゃうかもしれませんよ」
「そんなことになれば切腹だ。わかってるだろ」
そりゃそうですけどね、と総司は嘆息した。


安藤は三河の国挙母藩の出身であり弓矢を良く使った。藩内では「射術の名手」として謳われたがそれに慢心し、蟄居を命じられついには脱藩を為す。しばらくは虚無僧として転々としていたがある日を境に再び刀を握った。そして新撰組を目指したのだ。
すごすごと去っていく入隊希望者たちを尻目に、入隊試験合格の知らせを受けた安藤は、嬉しさのあまり飛び跳ねそうになってしまった。さっそく隊服が与えられ隊規を教えられた。正直、隊規に関しては想像以上に厳しいものであったが、普通に仕事をこなしていれば関係ないはずだ、とすぐに割り切ることができた。そして紹介された上司にあたる組長は、自分よりも若くまるで女人のような端正顔だちをしていたが、それでいて隊内随一の使い手だということだったので驚かされた。
「安藤さんは弓の使い手だということですが、残念ながら新撰組の稽古はほとんどが刀です。副長からあなたを一から鍛えるように言われていますのでそのつもりでお願いします」
「はい!」
安藤が勢いよく返事をしたものだから、その組長のほうが驚いたようだった。
安藤自身得意の弓矢が新撰組で生かすことができるとは思っていなかった。弓はもはや芸能という認識が広まり催し物や祭りなどでは喜ばれるものの、実戦では役には立たないだろう、ということは安藤自身が一番知っていたからだ。
「じゃあまず屯所を案内しますね…えーっとこっちが…」
「あの!それよりも聞きたいことがあるんですが」
安藤は逸る気持ちが抑えきれず、組長の話を遮った。驚いたような顔をしたが、気にする余裕はない。
「俺、ある人に憧れて新撰組に来たんです!でも全然顔を見かけないから、どこにいるのかと思って…」
「そうなんですか?まだそんなに名が知れ渡っているわけじゃないと思っていたんですが…どなたです?」
「芹沢鴨先生です!」
と、安藤は即答した。
芹沢鴨。その名前は新撰組の局長として京中に広まっていた。
「一匁ほどの鉄線で易々と仰ぎ、先日の七卿落ちの時も藩士を一喝した豪傑っぷりを聞いて是非お会いしたいと思っているんです!大和屋をとっちめたときの武勇伝も聞かせてほしいし、できればお手合わせも願えればなあなんて……俺はとにかく芹沢さんに憧れて入隊したんです!」
矢継ぎ早に憧れの気持ちを述べた安藤だったがしかし、その名を言葉にした途端目の前にいる組長の顔色が驚きから、苦いものへと変わっていた。
何かまずいことをいってしまったのだろうか。あわてた安藤が「あの…」と声をかける。すると組長は言いづらそうに口を開いた。
「…芹沢先生は亡くなりました」
「え?」
それは安藤にとっては寝耳に水で。その言葉を一瞬理解できなかった。
「え…っと、亡くなったというのは…」
「九月のことです。残念ながら」
そう言った彼は全く悲しみの表情は見せずに淡々と語る。それが安藤には冷たく映ってしまうほどに。
「申し訳ないんですが、芹沢先生のお話は終わりです。屯所を案内するのでついてきてください」
「あ…はい」
それは拍子抜けするほどの事実で。
安藤は戸惑いながら組長の背中を追った。そして案の定、屯所について聞かされた説明は全く頭に入ってこなかった。



127


今を生きる私は
ここにいる私は
きっと偽物でしかない。本物はどこへいったのか。それは誰にも、私にさえわからないのだ。
文久三年師走。
ここまで生き延びてしまった私に、何の意味があるのだろう。


ちらほらと雪が降り始める。その青年が目の前に現れたのは、そんなある日だった。
「野口さんですよね!」
きらきらと目を輝かせて問うてきた青年は、少し興奮気味に野口に訊ねた。その勢いに思わず野口も頷いてしまった。
屯所から少し離れた名前も知らない神社。僧も参拝客もいないその神社はもはや廃れ皆に忘れられてしまったような場所だった。野口自身ここで時間をつぶし始めて三か月ほど経つがこの神社の名前はいまいちわからない。神社覆う鬱蒼とした木々が日光を遮断し、水はけの悪そうな地面は泥濘、鳥居はただそこにあるだけの廃材…そんな場所に人など寄ってくることもなく、ここだけがまるで時間が止まってしまったかのような場所だった。
しかし、野口はこの場所が気に入っていた。巡察の合間や休日はここでぼんやり過ごす。世界に置いて行かれてしまったようなこの場所が心を癒してくれていた。
「君は…隊士ですか」
「はい!先日入隊した安藤早太郎といいます!」
安藤は元気よく名乗り笑顔を見せた。その姿があまりにこの場所に似合わなくて違和感を感じてしまう。
「ああ…君が安藤くんですか。入隊試験合格おめでとう」
三人しか合格者は出なかったと話には聞いていたのだが、野口は全く顔を覚えていなかった。入隊試験の相手を務めたその日のこともまるで遠い昔のことのように思えてしまう。そんなぼんやりとした記憶しか残っていなかった。
「はい!それで、俺、野口さんに話を聞きたくて!」
「え?」
安藤は「隣良いですか?」と聞くと野口の隣に腰掛けた。
年はあまり変わらないはずだが、溌剌とした性格らしい安藤のほうがよっぽど若く感じた。
「ここにいつも一人なんですか?」
「ああ…気味悪がって誰も近づいてこないから、一人になれます。…そういえば安藤さんはなぜここに」
「俺は、野口さんを探してたら組長の藤堂先生がここじゃないかって教えてくれて、ここに。そういえば沖田先生も藤堂先生も俺とあんまり年は変わらないのに、剣も強いし組長も務めててすごいっすよね」
「……」
野口はどうしてだかそれに賛同することができなかった。
同志として暮らしている二人の顔が、なぜかぼんやりとしか浮かんでこない。やはりまるで遠い昔のことのように感じてしまう。ともに上洛したことも、巡察したことも、台所に立ったことも。
それはきっと彼らが遠くに行ってしまったのではなくて、自分が彼らを避け遠くに行ってしまったのだろう。そのことはわかっているのだが。
「…そういえば俺に何か話があるんですか」
快活な安藤の話し相手をするのが何となく億劫になった野口は、話を促す。すると彼は意外なことを言った。
「俺、芹沢先生の話を、野口さんにききたくて」
「は…?」
その名前を聞いたことさえ、久々だった。
そしてなぜか、今共に暮らす隊士の顔はぼんやりとしているのに、かつて先生と慕った男の顔だけはくっきりと思い出すことができる。その強烈な存在感を今でも覚えている。
「亡くなられたことは沖田先生から聞きました。あと、それ以上の詮索は無用だと言われてしまって。他の先輩たちに訊ねても顔を顰められるばっかりで、そんなに話が聞きたいなら野口さんに聞いたらいいって言われっちまって」
「……なぜ、芹沢先生のことを」
「俺が新撰組に入ったのは芹沢先生がきっかけだったからです。……っても、会ったこともないんすけど」
安藤は照れくさげに頭を掻いた。その仕草に、彼には何の悪意もないのだと野口は思った。
「俺、かつていた藩でちょっとした騒ぎを起こしちまって、腐れて脱藩して…しばらくは僧になってたんです。二度と武士には戻るもんかって思ってました。けれど、新撰組の芹沢先生の話を聞きました。七卿落ちで藩士を一喝したり、大和屋を取っちめたり…もちろん悪い噂も聞いたんですが、カッコいいって素直に思ったんです。憧れました。だから是非会ってみたくなって、また剣を取りました」
「……」
八月十八日の政変はともかく、大和屋に関しては焼き討ちをした芹沢のほうを責める声が多かったが、安藤のように全く別の視線で芹沢を見ると、その姿がカッコ良く映るらしい。
「亡くなられたなんて知らなかったんです。俺にとってなにか人生を変えてくれそうなお方のように思ったのに…だからせめて何か芹沢先生のお話を聞きたいって、そう思って…」
野口は安藤に強い既視感を持った。そうだ、かつての自分のようだ、と。
芹沢鴨という男に出会い、それまでただ鬱々と悶々としていた日々が色づいていくようなそんな感覚を味わった。それが決していつも正義ではなかったかもしれないが、その大きな背中に憧れを感じた。そしてともに上洛したのだ。
しかし芹沢鴨という男は、新撰組によって葬り去られた悪である。いまさら新入隊士にその名を騙る必要はない。
「沖田さんに詮索無用だといわれたのなら、そうしたほうが良いのではないでしょうか」
今更波風を立てる必要などない。しかし安藤は納得せず
「どうしてですか!」
と野口を問い詰めた。
「野口さんはかつて芹沢先生らと行動を共にして、上洛する前から一緒だったと聞きました!芹沢先生たちが賊に襲われた時は幸運にもその場にいなかったのだと…」
そう、今では芹沢の死はそういう風に語られている。しかしそれが真実ではないと知っているからこそ、野口は芹沢のことを語ることができないのだ。
「……」
「少しだけでもいいんです!お話を聞かせてください、じゃないと俺、ここにいる意味が無いんです!」
本当はどんなに頼み込まれても答えるつもりはなかった。やっと心の整理がついたというのに、芹沢鴨について語るのはまるで瘡蓋をはがすようなものだ。しかし熱心な安藤の最後の言葉に野口は引っかかった。
ここにいる意味がない。
それは至極もっとも自分にぴったりの言葉だと自嘲した。
「…本当に少しだけでも構いませんか」
「はい!」
安藤は「よっしゃ!」と嬉しそうに拳を握る。その様子を見ながら、野口は空を仰いだ。天は語り部としての役割を為せ、とでもいうのだろうか。そうだとしたら皮肉な役目だ。
そんなことを想いながら。


夜。総司は両手に綿入れを持って土方の部屋を訪れた。
「お邪魔しますよ」
勝手知ったり、遠慮することなく部屋に入ると土方は既に寝る準備をしていた。
「あれ?早いですね。もうお休みですか」
いつもならまだ仕事をしている時間だ。土方は「ああ」と答える。
「早く片付いたからな」
「そうですか。じゃあこれ、綿入れ。もう寒くなってきましたからちゃんと暖かくしてくださいね」
師走も半ばになり気温は日に日に寒くなっていた。京は夏は暑く、冬は寒いと良く聞いたものだがその通りだ。季節が目まぐるしく変わる。
しかし、土方は少し嫌そうに綿入れを受け取った。
「気が向いたらな。かさ張るから好きじゃねえんだよ」
「そういう子供っぽい言い訳はやめてください。鬼副長が風邪なんか引いたらみんな困りますよ。鬼の霍乱って」
嫌がる土方に無理やり綿入れを着せる。土方は渋々袖を通した。
「いざっていうとき動きにくいだろ」
「いざっていうときがあるんですか」
「たとえばこういうときだ」
土方は急に総司の手首を掴んだ。そして力づくでその手を引き身体を引き寄せる。そしてバランスを崩した総司を見事に抱きかかえて見せた。
「……私を実験台にしたんですね。急に吃驚するじゃないですか」
「お前の反応はいつも色気がない。もっと喜んだりしないのかよ」
「もう、いい加減にしてください。真剣な話があるのに」
総司は土方の胸板を押して距離を取る。
「真剣な話?」
「野口さんのことです」
総司は声を潜めた。噂話は趣味ではないが、どうしても土方に相談したいことがあったのだ。
「野口…芹沢の下にいた、あの野口のことか?」
「はい。今は藤堂くんの隊にいます。彼を除隊させることはできませんか」
予想していなかっただろう、総司の申し出に土方は苦い顔をした。
「脱走で切腹した隊士もいるなかで、野口だけを特別扱いはできねえだろ。法度は一度でも曲げてしまえばもう元には戻らない。除隊させるのは病気のときと正面から受けた傷が治らないときだけだ」
「…わかってます。土方さんならそういうと思いました。…でも、ちょっと見ていられなくて」
「何がだ」
少し間をおいて答えた。
「最近…どうも、身が入っていないというか。芹沢先生が亡くなられてからもぬけの殻というか。先日の入隊試験の時も入隊希望者に打ち込まれてしまうようなこともあって…野口さんは永倉さんと同じ神道無念流で道場も一時同じだったと聞きました。剣の腕もありますし、そんなことはありえないはずなんです」
「上の空か…」
野口がそんな風に無気力になってしまったのは、芹沢が亡くなってからだ。
芹沢や平山、平間が女を連れ八木邸に戻った時、野口は近藤が引き留めた。それはもちろん巻き添えにならないように手を回したためで、結局野口は殺戮から免れることができた。しかし本人も自分が助けられたのだと気が付いたのだろう、それ以来試衛館の食客らとはか関わらなくなってしまい、口数も減ってしまった。
「もし、それが続くようなら『士道不覚悟』で切腹になるな」
「…やっぱり、土方さんはそういうと思いました」
「情けがないっていうんだろう」
総司は首を横に振った。
「仕方ないことです」
彼が武士であることを辞めてしまうというのなら、それもやむなしなのだろう。
総司はかつてともに台所に立ったあの日々を思い出した。お金がなく、食べ物に困っていたけれど…それでも楽しかったあの日々を。そしてそれを野口が忘れていないといい。そんなことを考えた。




128


圧倒的なその存在感に畏怖し怖気づいたこともたくさんある。
「お前は阿呆だな」
そういって貶されたこともあった。
けれど、言葉にすれば先生への敬意しか語ることができない。きっとどんなに横暴な振る舞いを目の前にしても、憧れだけは捨てることができなかったのだろう。


安藤は憤慨していた。
入隊して一週間。屯所にも慣れ、先輩とのコミュニケーションもとれ、食事は毎日出るし、何不自由ない生活ができている。稽古は厳しいが剣の修行も楽しくやっている。普通に考えれば順調極まりない隊士生活だが、安藤は怒りを感じずにはいられなかった。
「沖田先生!」
安藤は組長に詰め寄った。弓矢専門だった安藤の専属として巡察後に何時も練習に付き合ってくれている。剣のことについて手取り足取り…それはもう厳しく教えられている先生だが、臆することなく言葉にした。
「俺は納得いかないです!」
「…えーっと、稽古の仕方がまずかったとかですか?」
組長は驚いた様子で呆けたことをいったが、安藤が言いたいのはそのことではない。
「今日の巡察のことです!」
今日、朝一番の当番だった安藤は、初めて巡察に加わった。初めての仕事に興奮し、沖田組として列をなし町のど真ん中を颯爽と歩いた。その威風堂々とした仕事に(これがやりたかったんだ!)と強く感じ、感動した。やっぱり武士であることが自分の使命なのだと。
町の人々は恐れをなしたように平伏し、不逞な浪人たちが逃げていく。その圧倒的な存在感のなかにいる自分が誇らしくて、胸を張って歩いた。
しかしそれは長くは続かなかった。
「俺たちが改めた宿屋の主人はどう見ても怪しかったじゃないですか。なのに、何故問い詰めなかったんですか!」
巡察の途中、定期的に訪問する宿屋があった。先輩の島田曰く
「宿帳に不審な点はないんだが、監察方からここの宿に出入りしている土佐弁の男がいるという情報があった。見習い、ついてこい」
と言われたので、安藤は喜んで組長と、島田の後を追った。他の隊士はがっちりと宿を囲っていた。
ついに大捕り物が始まる!と胸躍らせた。のだが。
「ご主人、宿帳を拝見しても良いですか?」
と、組長は笑顔で宿屋の主人に話しかける。主人はあからさまに動揺しつつも「へえ、ここに」と宿帳を差し出した。しかし組長は穏やかな表情を崩す来なく「ありがとう」というとパラパラと宿帳を見て
「特に怪しい人はいなさそうですね。何かあったらまた教えてください」
といってあっさり宿帳を返してしまった。主人は安堵した風に受け取ると
「へえ、お勤めご苦労様です」
店の女将も愛想よく見送った。安藤が困惑していると島田が「行くぞ」と言ったので、あわてて宿を出る。周囲を固めていた隊士たちも戻ってきて、その宿の改めは終わり、となった。
「問い詰めれば不逞浪士の素性が知れたかもしれないのに!俺たちの仕事はそういうことじゃないんですか?!」
「まあ、そういうときもありますよ。でも毎日そんな風にしていたら、疲れちゃいますよ」
呑気なことを言う組長に、安藤は益々苛立った。
「組長は甘すぎます!京都の人間は何かと長州贔屓なんです、無理やりにでも聞き出さないと本音で語ったりはしない人間ばっかりなんですよ!」
新人のくせに生意気な口をきいている、と思われようが構わなかった。かつて芹沢鴨も己の主張を曲げなかったと野口に聞いたのだから。
しかし目の前の組長は気分を害した様子もなく
「そうですよねえ。本音と建て前の使い分けが上手くて、最初は戸惑いましたよ。『茶漬け食べてお帰りやす』をまるっきり親切に受け取ったらいけないなんて、江戸の人間は思わないですよねえ」
「そういうことじゃなくて!」
地団太を踏むような気分だった。言葉が伝わらないのは、この組長が天然なのかそれとも敢えて受け取らないのか…。
「とにかく俺は納得いきません!会津藩お預かりの身分であるならもっと堂々と強引にやっても構わないはずだっ!」
「何を大声出してる!」
安藤が叫ぶと、別の方向から檄が飛んできた。不機嫌な顔を丸出しの土方副長だった。
隊内では近藤局長がトップであるが、取り仕切っているのはこの土方らしい。整った顔立ちをしているが鬼の副長と呼ばれ、慈悲もなく処断するのでヘマをしないように、と先輩隊士に忠告されていた。安藤は、口を閉ざす。
「…失礼します!」
苛立つ気持ちが解消されないまま、安藤は組長の前から走り去った。

「ったく、あいつはなんだったんだ」
土方は去っていく安藤の背中を見ながら、忌々しく吐き捨てた。その様子だと会話をすべて聞いていたようだ。
「新人さんだから仕方ないです。大目に見てあげてくださいよ」
総司はそういって嗜めたが、土方は納得いかないようだった。
「お前、若いからって嘗められてるんだろ。新人のくせに大口叩きやがって、働きを見せてからにしろっつうんだ」
「まあまあ。心に思っていても口に出さない人よりはよっぽどわかりやすくていいです」
「ふん」
やはり土方は納得してくれないようだった。
「それよりも土方さん、何か用事があったんですか?」
「ああ、野口のことだ」
急に周囲を確認した土方は声を潜めた。
「この間の話だが、監察方に確認させた。さっきの安藤とつるんでるようだ」
「野口さんと安藤さんが?」
屯所ではそんな様子もなかったため、総司は驚いた。野口は藤堂の隊に属しているのでかかわりはあまりないはずだ。
「仲良しになるのは別に構わないんじゃないですか?最近は野口さんがあまり人と話しているのを見ていなかったので、良い兆候なんじゃないですか?」
「…さっきの安藤じゃねえが、お前は本当に呑気だなあ」
土方は少し拍子抜けの顔をした。総司は首を傾げる。
「どうしてですか。別に誰と交友関係を結ぼうが構わないでしょう」
「そうじゃねえよ。野口ともなれば話は別だ。もともとあいつは芹沢派の人間だ。俺たちを恨んでいるかもしれない反乱分子の可能性もあるだろう」
「野口さんはそんな人じゃないです」
ムキになって否定する総司に、土方は「わかってるって」と制した。
「ただ、そういう目で見る人間もいるってことだ。話に聞くと安藤は芹沢を心酔しているらしいし、気を付けておけ」
「……わかりました」
総司はややためらいながらも、頷いた。


「俺は納得いかないです!きっと芹沢先生が生きていらっしゃったら、そんな腑抜けた真似はしなかったはずです!」
屯所からは遠く離れた場所だから気にする必要はないが、安藤は大きな声で文句を垂れ流していた。
安藤は組長の元から逃げるように去った後、まっすぐにこの神社を訪れていた。鬱蒼とした雰囲気の神社は相変わらず人の気配はなく、まるで景色と化したように野口だけがそこにいる。特に待ち合わせているわけではない二人だが、ここで出会えば様々な話をした。意気投合というには野口はあまり乗り気ではなかったが、親密な仲になっていた。
「野口さんもそう思いませんか!」
「そうですね…。芹沢先生なら、おそらく有無を言わさず踏み込んでいたでしょう」
芹沢ならこうする、ああするという話を聞かせてやると安藤はいつも納得する。そして安藤は自分は間違っていないと再確認するように自信を持っていくのだ。
(……実際、こんなところを土方副長にでも見つかれば切腹でもおかしくないな…)
そんなことを薄々思いながらも、野口はそれでも芹沢の話を辞めようとはしない。それは安藤に請われるからではなく、芹沢の話をすると自分が落ち着くからだ。かつての日々は楽しいことばかりではなかったけれど、決して今のようなモノクロな時間ではなかったからだ。
「野口さんは俺の話を聞いてくれるけど、沖田先生はのらりくらりとしてばっかりで…俺は、なんかついていけません!」
「沖田さんか…」
野口はかつての友人を非難されるような気持になった。
「しかし、沖田さんは芹沢先生に気に入られていたこともあったんですよ」
「沖田先生が?!」
安藤は酷く驚いていた。
「むしろ一番気に入っていたのは沖田さんでしょうね」
そう、同世代の野口よりも芹沢が気に入っていたのは彼のことだった。彼にとっては芹沢という人間がどう映っていたのかはわからないが、芹沢が彼をとても大切にしているということは野口でさえもわかった。かつて芹沢派と呼ばれた者たちが集まったとき
「芹沢先生は沖田に惚れてるんだ」
といって笑いあったが、それもあながちウソではないようだ、と野口は思っている。
「そんな…芹沢さんの志とか、そんなの欠片もないのに…」
安藤は酷くショックを受けているようだった。
そんな彼に、芹沢が賊に襲われたのではなく彼らに暗殺されたのだと教えたら、どうなるだろう。安藤の性格から考えれば大事になるのは間違いなさそうだ。
(そうすれば…そのことを話した俺も切腹か…)
それもいいかもしれない。
こんな風に生きて、恥を晒すくらいなら。






129


「芹沢先生が…亡くなった…?!」
その知らせは野口にとって寝耳の水で、驚き以外の感情が消えてしまったかのように受け取った。しかも、芹沢だけではなく平山も一緒に惨殺され、梅も首を刎ねられたという。平間はどうやら逃走したようで、もう屯所には姿は見えない。
「賊に襲われたようです」
淡々と説明してくれた山南の顔色が悪い。最初は彼も動揺しているのだろうと思っていたが、のちに気が付いた。山南は動揺していたのではなく、仮面をかぶる苦痛を味わっていたのだと。
野口は芹沢らが殺されたということについて誰にも問うことはしなかった。賊に襲われたのだという言葉を鵜呑みにした。それは自己防衛のためだ。新見が切腹になり、芹沢が暗殺され、平間は逃げた。残っている芹沢派と呼ばれる人種は自分しかいない。その自分がいつ次の標的になるのか…最初はそれが怖かった。
その日以来、試衛館の仲間と口を利くこともなくなり、距離を置いた。かといって他の平隊士に心を開くことはできなくて、野口は次第に一人になった。巡察や稽古は決まりに従って参加しているものの、それが以外は一人でいたいと思った。
それは、誰かに狙われているんじゃないかという恐怖、猜疑心、畏怖。
そして、やがて孤独へと変わっていった。
しかし時がたてば悲しみや恐怖も癒えてくるもので、今や野口には何もない。殺されることを恐れたり、孤独を悲しんだりはしない。
今はただ、毎日どんなふうに死ぬのか。あるいは殺されるのか。そんなことを図りながら生きているのだ。


「聞いたぞ、安藤のこと」
部屋で寛ぐ総司に、声をかけてきたのは原田だった。茶化すような口調だった。
「何のことですか?」
「結構やんちゃらしいな、お前の所の新人は」
「やんちゃ…」
確かに『やんちゃ』という言葉が似合うかもしれないな、と総司は苦笑した。
「仕事熱心なんですよ。私なんかよりも」
「熱心ねぇ。巡察途中に怪しい店に一人で突っ込んでいったって聞いたぞ。結局一人捕えることができたから良いようなものの、単独行動は禁止だろ」
「あはは…」
総司は笑って誤魔化すしかない。
安藤が入隊して一週間。彼は己の信念を貫き、怪しい人には怪しいと述べやや強引な方法で数人を捕縛した。それ自体は評価されるものだが、隊内では
「あいつがいると落ち着かない」
と専らの評判だ。総司が指導してもあまり言うことを聞かないので、世話係として島田に任せている。しかしその島田でさえも辟易していて、子供のお守りよりも大変だと嘆いていた。列をなして一緒に歩いているのかと思いきや、単独で店に入って行って取り調べをしたり、怪しい町人に声を掛けたり。本人も悪びれることなく
「仕事をしているだけです」
と頑なに述べるので、なかなか彼を説得するのは難しい。
「ま、先頭切って突っ込むのは悪いことじゃねえけどな。度胸がある」
「そんなに褒めるなら安藤さんを異動させましょうか。原田さんとなら気が合うんじゃないですか」
「勘弁しろよ」
原田は苦笑して拒んだ。
「まあ、今のところはいいだろうけどよ。土方さん辺りが目をつけたら安藤もただじゃすまないだろ。あの人は規律を乱す人間が嫌いだろうからな」
「…もうすでに目をつけられていたりして」
総司の呟きに「おいおいまじかよ」と原田は慌てた。
安藤のそういった単独行動を近藤は「若いな」と笑っていたが、副長の土方は不機嫌そうにその報告を受け取った。山南も「やりすぎないように」と忠告していたが安藤の耳には入らないようだ。しかし、本人も成果を上げているのだから咎めようがない。だから結局しわ寄せは総司にやってきて「お前がちゃんと躾けないからだ」と土方には八つ当たりされてしまったのだ。もっとも組長の任務に隊士の教育も含まれるのだから仕方ないといえば仕方ないのだが。
「何のお話です?」
そんな二人の会話に交じってきたのは、藤堂だった。ちょうど巡察から帰ってきたところのようで、指先を温めながら寒そうに息を吐いていた。この季節になると巡察で外に出るのも億劫に思えるほどに途端に寒さが増していた。
「総司の隊の厄介な新人くんの話だよ」
「ああ、安藤さんですか」
それだけで伝わったようで、藤堂は苦笑した。どうやら隊内でも評判になっているようだ。
「魁先生の異名を持つへーすけとしては、好敵手出現って所か?」
原田がからかったが、藤堂は首を横に振った。
「俺の魁っぷりと、闇雲に突っ込むのとを同じにしてほしくはないですね。…でも、彼のお蔭で良くなったこともありますよ」
「ん?」
「野口さんのことですよ。最近滅多に口を利かなくなっていたんですが、安藤さんが彼に絡むので少しだけ明るくなったような気がするんです」
土方が言っていた『安藤が野口とつるんでいる』というのは本当らしい。土方はあの時、そのことを不安材料としか見ていなかったようだが、野口と仲が良かった面子からすればそれは喜ばしい兆候だった。
野口は芹沢派として名を連ね上洛したものの、試衛館の食客たちにも穏やかな物腰で二つの派閥の中立にいるような人間だった。それが彼を苦しめることもあったが、食客たちからすれば唯一話の通じる相手でもあったのだ。しかし、あの日以来その関係は壊れてしまった。修復するための一歩を誰も踏み出そうとはせずに、ただただ距離が開いて行ったのだ。
その距離を埋めるきっかけが安藤であるならば
「…もう少し、大目に見てあげようかな」
総司はそんな風に思った。


野口は安藤に強引に誘われ、居酒屋へ繰り出していた。酒を普段は全く口にしない野口だが、今日ばかりは安藤の押しに負けた。
「あーっくそ!」
客の多い大衆居酒屋で酒を煽る安藤はどうやら嫌なことがあったらしい。野口は付き合い程度に酒を口に含みながら、彼の話を聞いていた。
「やっぱり、俺は納得いかないっす!俺たちがどれだけ親切にしたって相手は受け取りゃしないんだから、強引に口を開けたほうが手っ取り早いんだ!」
少し酔ったらしい安藤は顔を赤く染めながら、饒舌に語る。
今日も今日とて仕事の愚痴だった。監察方の情報で浪人たちが屯っているらしい、と踏み込んだ米問屋はもぬけの殻。店の主人もこちらの追及をのらりくらりと交わすばかりで有力な情報は得られない。苛立った安藤がやや強い口調で責めると、組長がそれを止めた。
「お騒がせしてすみませんでした」
穏やかな表情で謝った組長は「帰りましょう」と皆に告げ店を後にした。そのことが安藤には納得がいかなかったらしい。
「沖田先生は甘すぎるって何度申告しても取り合ってもらえないし、何だか俺ばっかり我儘言ってるみたいになって島田さんに怒られるし!でも俺は俺が正しいと思っていることをやってるまでなのに…野口さんならわかってくれますよね!」
「ええ…そうですね」
野口は曖昧に頷いた。
どちらが正しいとは野口には明確にはわからない。安藤のように強引な方法を取れば確かに成果は上がるだろう。しかし事を荒立てることによって京の人々及び浪人たちの警戒は増し、やりづらくなる面もあるのだろう。
「畜生…芹沢先生が居たら、俺の味方になってくれるのに…」
「……」
安藤が時々口にする「芹沢」という名に、野口はどうしても反応してしまっていた。
『お前は平凡で、普通で、変化の乏しい人間だな』
その名を思い出すたびに、彼の声が聞こえてくるような気がする。
あれはそう、浪士組に参加するか迷っていた頃。新見や平山、平間はいち早く芹沢とともに参加の意思を示したが野口だけは返事を戸惑っていた。もともと彼らとともに行動をしていたものの、そこに明確な意思はなかった。ただいつの間にか芹沢の手下のような扱いをされて、否応なく…いや、特に深く考えるわけでもなくその場所にいた。芹沢の言うことさえ聞いていればいい。それが何も考えず生きていく最良の手段で、簡単な答えだと思っていた。
けれど浪士組への参加だけはすぐに答えが出なかった。
京都へ行って何ができる?何をする?何のために戦う?何のために生きる?
今まで考えることから逃避してきた疑問を突然投げかけられたような気持になって、正直焦っていた。
このままでいいのか。
こんな俺でいいのか。
そんな野口に芹沢は一言だけ言った。
『野口、お前も来い。お前の人生、一花でいい、咲かせて見せろ。俺の傍にいるなら、お前の人生にちょっとは色を付けてやるぞ』
お気に入りの鉄扇で軽々と自身を仰ぎながら、自信満々に告げた彼の姿に、野口は目を奪われた。
ああ、この人について行こう。
そう素直に思って、頷いたのだ。
「あー…ちくしょー…酔いが回ってきやがった…」
と、野口が思いを馳せている間に、安藤はどうやら酔いすぎたようだ。野口は店主にお勘定を告げた。

「大丈夫っすよー…歩けまするってー」
安藤に肩を貸しながら野口は帰路についた。自分では大丈夫だという安藤だが、足元が覚束かずろれつも怪しい。野口に体重を預けてようやく歩けるくらいだ。
「安藤さん、ちょっと聞いてもいいですか」
月夜の明かりで、野口は少しずつ前に進みながら安藤に声をかけた。
「うぃーす」
「…安藤さんは、芹沢先生のようになりたいんですか」
「へへっ、野口しゃんには恐れ多いって言われるかもしれねぇすけど…カッコいいし憧れるっす。なれるもんなら、なってみたいっすねー」
安藤は嬉しそうな満面の笑みだった。
「野口しゃんだって…芹沢先生を今でも、慕ってるっすよね」
その言葉に頷くことを、あの日からいつも躊躇っていた。怖がっていた、恐れていた。
(…そうか)
安藤は野口が、なりたかった姿なのだ。
どんな目で周りから見られようとも、謗られようとも、蔑まれようとも、
「芹沢に憧れている」
本当は、そういう風に言い切れる自分で居たかった。そうできなかったのは自分の弱さ故。周りから芹沢派であると疎んじられることへの恐怖が勝り、まるで身を隠すように日々を過ごしていた。
だから、安藤をいま、野口は「羨ましい」と思うのだ。そして安藤のようになりたいと思うのだ――。
「新撰組だな!」
背後から急に声が聞こえた。最初はその言葉の意味も分からず、ただその大音声に野口はその歩みを止めた。
しかしそれは決定的なミスだった。
「天誅っ!」
大声を上げたらしい男はその勢いで野口と安藤に斬りかかってきた。駆け寄ってくるその足の速さに野口は「間に合わない」とすぐに悟った。男の切っ先が迫った瞬間、野口は安藤を突き飛ばし、その一太刀を背中に浴びた。
「ぐ…っ!」
まるで皮膚が焦げるような痛みが襲ったが、構っている暇はない。野口は痛みを堪え刀を抜くと男の右肩を突いた。
「ぐぁぁっ!」
男は悲鳴を上げると、二、三歩後ずさり「畜生!」と声を上げてそのまま踵を返した。
「野口さん!」
ようやく酔いから覚めたらしい安藤が野口に駆け寄った。しかし、野口の傷を確認すると顔が真っ青になった。
野口が受けた傷は、後ろ傷だった。





130


入隊が決まった安藤は興奮し、話半分でその言葉を耳にしていた。
「後ろ傷を受けた場合は敵前逃亡とみなし、切腹である」
その鉄の掟にもっと耳を傾けるべきだったのに。


屯所に戻ると、夜勤の隊士たちが安藤と野口を迎えた。野口の傷を見た途端、隊士の誰もが声を失った。
幸いにも野口の傷は浅く、手当をすればすぐにその血は止まった。刀を使うのにも支障がない程度の傷なのだそうで、安藤は少しだけ安心したがもちろんその不安はぬぐえなかった。
後ろ傷。
酔っていた安藤を介抱していたばっかりに、野口は傷を負った。悪いのは自分であり、野口は何も悪くない。むしろ彼は命を助けてくれた恩人だ。しかし、恩を仇で返すというのはまさにこのことなのだろう。どんな理由があったとしても後ろ傷は士道不覚悟、切腹である。
「安藤さん」
野口を殺してしまうその恐怖に小刻みに震えていた安藤に、野口が優しく声をかけた。死ぬかもしれない、というのに野口は変わらず穏やかで安藤を一言も責めない。その優しさが安藤にとっては唯一の救いだった。
「野口、安藤、…土方副長がお呼びだ」
試衛館食客の一人である井上源三郎が二人を呼びにやってきた。普段から温厚で柔和なまなざしをしている井上でさえ、やや緊張した面持ちであった。
「わかりました」
野口は躊躇うことなく立ち上がる。安藤はそれに続こうとしたが、野口の袖を急に掴んだ。
「野口さん!俺のせいです、俺が…悪いんだって土方副長に進言します!」
「……」
彼は何も答えなかった。


土方の部屋には、近藤、山南、そして安藤の隊の組長である総司、そして藤堂がいた。皆が神妙な面持ちをしている。
野口と安藤は並んで腰を落とした。
「…傷は浅いそうですね」
気遣った言葉を投げかけたのは山南だった。仏の副長と揶揄されるだけあって、その声色は穏やかだ。野口のことを助けたいと意図しているのは明らかだった。
しかし、野口は山南に顔を向けると
「はい。切腹の作法に差しさわりはありません」
と答え、山南を驚かせる。連座していた幹部、そして安藤も驚きを隠せなかった。
「野口さん!」
慌てたのは安藤だった。名を呼んでも無反応の野口は、まるですべてを受け入れているかのようにそこに在る。野口は何を言っても安藤のことを庇い続けるだろう。そう思った安藤は、近藤、土方のほうへと向き直った。
「近藤局長!土方局長!悪いのは全部俺なんです!俺が…酔いつぶれて、野口さんが介抱してくれていたから…!」
「いいえ。安藤さん、違いますよ」
隣にいる野口は安藤の腕をそっと握った。
「私は私の意思で、後ろ傷を浴びたのです。とっさに剣を抜けなかった私は、とっくの昔に士道不覚悟だった…それだけのことです」
「野口さんっ!そんな嘘を…!」
「嘘ではありませんよ。たとえあなたを介抱していたとしても…昔に私なら、こんな傷を負わなかったはずです」
「だからそれは…!」
「うるせぇ、だまれ、安藤」
必死に食い下がろうとする安藤を制したのは土方だった。聞いたこともないくらいの低い声で、一瞬にして部屋の空気が重くなった。
しかし、安藤がそんなことに構っていられるわけはない。食い下がらなければ、野口は切腹となるのだ。それは自分の命に代えても避けなければならない。
「副長!切腹なら俺が切腹します…っ!俺が…!」
「黙りなさい。安藤さん」
「組長こそ黙っててください…っ!野口さんは何も悪くねえんだ!」
「黙れっていってんのがわからねぇのか!」
組長である総司の静止を振り切って叫ぶ安藤に、土方はしびれを切らせたのか、頬を思いっきり殴った。その勢いに身体ごと吹っ飛ばされ、安藤は痛みに身を抱え、拳を握りしめた。
法度に縛られて命が失われようとしている。しかも、それは自分を認めてくれている先輩の命であり、命を助けてくれた大恩人の命である。そんなことを許してはいけないと思うのにいまどうしていいのか、安藤にはわからなかった。悔しさと苛立ちと憤りと…そしてなによりも自分への後悔が込み上げていた。
「…どんな理由であれ、後ろ傷に違いねぇ。法度に則って切腹だ。藤堂、異論はあるか」
隊の組長である藤堂に土方は話を振った。藤堂は渋い顔をしていたが、少しため息をついて首を横に振った。
「総司、お前はどうだ」
同意を求める土方に総司も「ありません」と答える。そして最後に土方は近藤を見た。
「…野口君」
近藤は眉間にしわを寄せていた。込み上げてくる感情を抑えるかのように、その名前を呼んだ。野口はゆっくりと近藤を見る。
「君は…ここでは、生きられなかったのだろうか…」
安藤にはその言葉の意味は分からなかった。わからなかったけれど、感じた。近藤は野口を殺したいわけじゃないのだということを。
(皆殺したくねえのに…!何で、死ななきゃなんねえんだよ…っ!)
憤る安藤の隣で、終始野口は穏やかだった。
「そうではありません。…切腹という形で、己の人生の幕引きができることが、今は幸せに思っています」
彼は本当に幸せそうに、そう語ったのだ。


夕刻の切腹を告げられた野口は、前川邸の奥部屋に監禁された。見張りが交代で付き厳戒態勢となっていた。野口の切腹という顛末は一気に屯所中に広まった。皆が野口に憐みの目を向け、切腹のきっかけとなった安藤を咎めた。しかし実際に、憔悴する安藤に声を掛けられる者はおらず、屯所は妙な緊張感が漂った。
そんななか、野口は見張り役に頼み、総司を呼んだ。
「お手数をおかけして、すみませんでした」
総司が部屋に入ってくるなり、野口は頭を下げる。総司は何も言えなかった。
「切腹になる人間が残す言葉など、お聞きになりたくないと思いつつも…どうしても、沖田さんにお話ししたいことがありまして、お呼び立てしてしまいました」
「…安藤さんのことですか?」
野口は頷いた。
「彼には…悪いことをしました。私が巻き込んでしまっただけだというのに…咎を負わせてしまいました」
「…後ろ傷を受けたのが、わざとだというのですか?」
総司の問いかけに、野口はやや躊躇いつつも「そうでしょうね」と返した。
「私は…ずっと前から、死にたかった。どうやって死ぬか、どうやって殺されるか…そんなことを考え続けた日々でした」
「……」
「わかっています。貴方たちがしたことを恨んでいるわけではないのです、あの時はそうするのが正しいかった…と、そう思っています」
野口はそこで言葉を止めて「いや…」と首を横に振った。
「違う…本当は憎んでいたのかもしれません。どうして、私も一緒に殺してくれなかったのか、と…そんな風に思っています」
と、自分の言葉を否定した。
総司は野口の目の前に座った。板張りの床はその冷たさがひしひしと体に伝わってくる。野口はずっとそこに佇んでいた。
「私は今まで芹沢先生とともに歩んできました。貴方にとって、近藤先生や土方先生と同じように…私にとって芹沢先生とは師匠であり、先輩であり、兄弟子であり、そして何よりも敬愛する一人の男でした。あの人とともにいれば、私の人生に少しは色が付くのではないかと、思っていました。そして、彼が居なくなった途端、私の人生に景色が失われた」
野口は穏やかな表情で、総司を見た。
「沖田さん。私は生き続けることが、何よりも罪深いような気がしていたのです」
「罪…ですか」
「生き残った私は…毎日、毎日、後ろ指を指されているような気持なのです。どうしてお前が生き残ったのだと、どうして何者にもなれないお前が生き残って、自分たちが死んだのだと。そういう風に…責められているよな心地でした」
総司にはわかる気がした。たとえば自分だけが生き残って、近藤や土方が死んだとしたら…どうして自分が生き残ったのだと、自分を責めずにはいられないだろう。野口は命を永らえ続けたものの、自らを責め続け、まるで拷問を受けるかのように毎日を過ごしていたのだろう。逃げることも、死ぬことも許されず、檻の中に囚われて。そうであったとしたら、彼は生きながらにして死んでいたのだ。
野口がいま穏やかな表情をしているのは、その罪から解放されたからなのだろうか。
「そんなどうしようもない日々を…切腹という名誉ある死で閉じることができるのなら、私にとっては有難いことなのです。…安藤さんにはきっとお話しても仕方ないことですし、わからないことでしょう」
「それを…私から、伝えてほしい、ということでしょうか」
野口は「いいえ」とほほ笑んだ。
「彼に私がなぜ切腹したいのか、ということを話しても彼は救われないでしょう。自分をずっと責め続け、許せずに苦しむ…まるで、私のように。だから、沖田さんには彼を導いてほしいのです」
「導く…」
「安藤さんは…芹沢先生に心酔しています。けれど、それはとても危険なことです」
きっぱりと野口は言い切った。
「芹沢先生のことを良くご存じの貴方だからこそ…安藤さんのことを任せられると、思っています。芹沢派はもう終わりました、私の死を持って終わります。だから、安藤さんには…そのように、導いてやってほしいのです。…もちろん死にゆく者の戯言だと思ってください。聞き入れてもらわなくても構いません」
「…いいえ、野口さん。承ります」
総司が頷くと、野口は安堵の表情となった。安藤のことを本当に案じていたのだ、ということが総司に手に取るようにわかった。
「…野口さん。最後に私からも、いいですか?」
「はい…」
彼を失いたくない、という気持ちは総司にももちろんある。しかし、彼が喜んでその死を受け入れて、果てることに何の後悔もないというのなら総司もその気持ちを押さえつけるしかない。
「私は…あなたがただ一人生き残ったことに罪悪感を持ちました。どう接していいのか、わからなかった。けれど、同時に…ただ単純に嬉しかった気持ちもありました。かつて一緒に台所に立ったあの日を、また迎えられるんじゃないかって…願っていました」
「……」
野口の顔が一瞬歪んだ。しかし、その感情を飲み込むようにして、野口はまた微笑んだ。
「私も、あの時が一番楽しかったですよ、沖田さん」


「安藤、お前が介錯しろ」
土方の言葉に驚いたのは安藤だけではない。周りにいた隊士たちも土方のその冷徹な命令に背筋が凍るような気持になった。
「あの…安藤にはちょっと、荷が重いのでは…」
勇気を出して平隊士の一人が土方に進言したものの、土方は一瞥もくれず去っていった。同情の眼差しが安藤に向けられた。
そして夕刻。野口の切腹の時間が訪れた。
安藤が切腹の時間であることを告げに、野口の元を訪れると、白装束に身を包んだ野口が瞑想していた。しかし安藤の気配に気が付いたのか、その目をゆっくりと開き見つめた。
「…野口さん」
「すみません。介錯人に安藤さんをお願いしたのは、私なのです」
「え?」
恨まれても仕方ないと思っていた相手のまさかの言葉だった。介錯人と言えば名誉ある役目であり、最後の瞬間を託す信頼のおける人間ということになる。
「野口さん…なんで、そんなに…俺に良くしてくれるんですか…」
安藤は言葉を詰まらせた。本当は泣き叫んで謝って悔やんで殴ってほしい。そうすれば少しは慰めることができるのではないか…と思うのに、どうして目の前の野口は穏やかに笑っているのだろう。その優しさが逆に安藤には悲しかった。
「貴方は、…私のなりたかった、私ですから」
「なりたかった…?」
「…いいえ。何でもありません」
野口はゆっくりとした動作で立ち上がる。
「安藤さん。…芹沢先生は、確かに勇敢で才気があり、人を引き付けてしまう魅力を持った…そんな人でした」
彼に語ってやれる
もしくは、芹沢派の生き残りとして、語り部として残せる最後の言葉。
「けれど、彼は間違いも犯します。正義と横暴を履き違えては、己を滅ぼす…それだけは覚えていてください」

私が死ねば、芹沢派は誰もいない。
けれど、芹沢先生の志を誰かが引き継いでくれるというのなら。
それはきっと先生も喜ばれることだろう。

「野口健司、隊規違反の咎により、切腹申し付ける」
「有難き、幸せ…!」

先生。
私の人生は、少し色づいたような気がするのです。
最後の最後に武士として死ねる、その瞬間に。




解説
122壬生浪士岩崎三郎を名乗って捕縛されたのは堀田摂津守家来の西条幸次郎という男だそうです。

123わらべうたの斉藤さんは特に左利きといった設定はありません。彼が左利きであるという資料も特に見たことが ないので、おそらく創作かと思われます。左利きだったとしても、右利きに矯正されているだろうという某先生の 見解を支持します。

126安藤早太郎についてですが、今回は八木邸の『壬生ばなし』の『京都の地理に詳しい気軽な愛嬌ものだった』というお話を参考にキャラを作っております。しかし、もう一つ四十代前後の高齢の隊士だったという説もあります。どちらが正しいのかわかりませんがわらべうたでは若い方を参考にさせていただいております。ご了承ください。

130安藤早太郎についてですが、入隊時期は作中の時期ではなくもう少し前の八月十八日の政変の前後のようです。なので芹沢先生とも面識があるということなので 今回のお話は創作となっておりますが、野口の介錯を安藤が務めたというのは史実を参考にしております。
また野口健司についてですが、そもそも芹沢暗殺に加担したとの説もあるほど、近藤派に偏っていた彼なのですが、切腹になっています。 その理由については詳細はわかりませんが「些細なことで切腹させられた」との話が残っているようです。
目次へ 次へ