わらべうた





131


文久三年十二月。芹沢派の最後の生き残りとされた野口が切腹した。安藤をかばった後ろ傷がその理由であるが、「切腹させられた」「粛清された」というのが専らの噂である。仲間を庇っての負傷であるので情状酌量の余地があるのではないかと反論を持つ者もいたようだが、土方は
「言いたい奴には言わせておけ」
の一言だった。
そしてやがて年の瀬が迫ると、誰もがそちらに気を取られて忘れていった。まさに、土方が思った通りだったのだろう。
けれども、確実に、どこかに痛みを残したままの文久三年の年越しとなったのだった。


「……信じられない」
平隊士から伝言で「大事な用がある」と土方に言われてやってきた総司は、その部屋に訪れるなり絶句した。
文久三年の大晦日。皆が新しい年を迎えるための準備に奔走する中、前川邸の奥にある鬼の副長室ではまさに地獄絵図だった。
「やっと来たのか。遅ぇよ」
「遅いって言われても、今日が仕事納めだったんですから。それよりどうしてこんなことになってるんです…」
「良いから座れ。そして筆を取れ」
総司は無理やり土方の向かいに座らされ、準備してあった筆を持たされた。明日はもう新年だというのに、土方は年賀状書きに勤しんでいたのだ。土方の「大事な用」とは年賀状を書くことだったらしい。
「なんでまだ書いてるんですか。近藤先生と一緒に前々から書いていたじゃないですか」
「そりゃお偉いさんにな。今書いてんのは、日野へだ。これまでの俺たちの武勇伝を書き連ねってたら長くなるんだよ」
「じゃあ書かなきゃいいじゃないですか」
「そうはいくか」
呆れ顔で総司は土方を見たがまるっきり無視だった。総司は仕方なく年賀状に手を付けた。
試衛館の門下生、出稽古先、親戚…あて先は山ほどある。総司はこのまま年越しを迎えるのではないかと危惧してしまった。すると土方が今思いついたかのように
「お前、日野のおミツさんには書いたんだろうな」
と総司に問うた。おミツは総司の一番上の姉だ。
「いえ、別に書いてないですね」
総司があっさり答えると土方は怪訝な顔をした。
「お前は普段から手紙書かねぇよな…。一応、跡取りなんだから、元気だの一言でも送っておけ。姉さんも心配してるだろ」
「頼りがないのは元気な証拠って思ってますよ。試衛館にいた頃だって滅多に連絡取らなかったですもん」
「それにしても、半年くらいの滞在がもう一年になるんだ。年賀状だけでも書いとけ」
「書くことなんてないですよ。近藤先生の奥様は時々お手紙を送ってきますけど、姉は送ってこないし」
「お前が送ってくるのを待ってるんだろ」
面倒に思いながらも、土方が食い下がるので総司は渋々了承した。
確かに将軍警護に伴う上洛は半年ほどの予定で、まさかそのまま京都に居座り見回り隊を作って働いたり、政変に関わったり…そんなことをするなんてきっと誰も考えていなかった。それは確かに総司の人生の中でも激動の日々で、確かに日野の人は驚くかもしれない。いや、むしろそんな働きをしているなんて信じてくれるかわからないような気もする。
一年を振り返ってみても途方もなくたくさんの出来事があったような気がして…総司は筆を置いた。
「…土方さんは、何を書いているんですか?」
意外とまめな性格の土方の文章を参考にしようかと思ったが。
「自慢話」
「は?」
と、いってすらすらと書いたのが、『報国のこころ忘るる婦人かな』という短い歌。そしてそれを小さく折りたたむと、束になった十数枚の手紙の一番上へ括り付けた。あて先は日野のようだ。
「年の瀬に部屋を片してたら女からの手紙が出てきたんでな。故郷に送り付けてやる」
「……土方さん、最低ですね」
総司が白い目で見るが土方は「妬くなよ」と小さく笑った。
「妬いたりしません。むしろ土方さんの株が若干下がりましたよ」
「年の瀬にこうやってまとめて処分して、お前にいらぬ焼き餅を焼かせないようにしてるんだよ」
「それはそれはお気遣いありがとうございます」
そんな暇があるのなら年賀状を書けばいいのに。
そんなことを心底思った総司だった。

「終わったーーっ!」
総司が万歳して喜んだ頃には、すでに夜になっていた。意外に身体を使う作業に、二人は終わった途端畳に倒れこんでしまった。
結局姉への年賀状を後回しにして土方に頼まれた分を書いているうちに、姉への年賀状を書くのも疲れてきて今年はやめてしまった。また来年になって気が向いたら書こう、と来年の抱負にしておくことで土方を納得させた。
新撰組の屯所は数人を残してほとんどの人間が出払っていた。総司の隊の見回りで新撰組自体も仕事納めとなり、くじ運の悪かった平隊士たちが屯所固めの警備に残り他は思い思いの所へ出掛けている。なので、屯所は静まり返っていた。
「皆、年越しの宴会に出掛けたみたいですね。まったく土方さんのせいで連れて行ってもらえなかったじゃないですか」
総司が口を尖らせると
「別に俺と二人きりでもいいだろ」
と土方は構うことなくいった。「別に悪くはないですけどね」と総司は小さく返す。
「…そういえば、安藤の奴も原田に誘われて宴会に行ったようだな」
「ああ…私が頼んだんです。安藤さんは私にはちょっと思うところがあるみたいですし、原田さんのほうが適役かなあって思って」
「だろうな」
安藤はあの日以来塞ぎ込んでいたが、ようやく回復の兆しを見せていた。隊の巡察は以前の歯向かうような仕草も見せなくなったものの、黙々とその役目を熟している。芹沢を失った野口のような抜け殻になるのではなく、彼は彼なりの道を模索しているのだろう。そんな彼の姿に誰も文句は言わなかった。
「さて…年越しまで何をしますか?除夜の鐘を聞きながら初詣に出けるのも趣がありますよね。あ、年越しそばを八木邸の人に頼んできましょうか。山南さんに聞いたんですけど、会津の人は年越しそばは年越しじゃなくて元旦に食べるそうですよ」
総司は身体を起こし、筆箱を片付けながら土方に問う。土方は依然身体を横たえたままだ。
「そばは食いてえが…こっちの味は薄くて食った気にならねぇ」
「こっちはこっちで美味しいと思いますけど。そういえば八木さんは餅つきとかやるのかなあ。為三郎に聞いてこようかな」
為三郎は八木邸の子で、総司の遊び仲間でもある。人見知りを多少する子だが総司には懐いていた。
「…つきたての餅は良いな…」
「じゃあちょっと行って聞いて…」
「でも行くな」
部屋を出て行こうとする総司の足を、土方が突然掴んだ。総司は一瞬バランスを崩しかけるが、寸でのところでとどまった。
「土方さんっ!」
「別に聞いてこなくていいから、どこへも行くな」
「どこへもって…このまま年越しですか?」
「それも悪くないだろう」
まるで子供の我儘のような土方の言い草に、総司は仕方なく障子を閉めた。土方が足首を離してくれそうな気配がなかったからだ。
「年越しそば…食べたかったのに」
総司は土方の傍に腰を下ろす。すると土方は「会津式で、明日でいいだろ」と言いながら、さも当然のこととのように総司の膝に自身の頭を置いた。その仕草は少し子供っぽく甘えるかのようだ。なので総司は少しため息をついたものの、それを拒むことはしなかった。
「…一日の計は元旦にあり。明日からはまたいつもの『土方副長』に戻ってくださいよ」
『鬼の』という枕詞は伏せて小言をいう。すると土方は「はいはい」と適当に聞き流して目を閉じた。
彼がこうして甘えるような一面を見せるのはきっと自分だけなのだろう。総司にとって幼いころからこの兄弟子は、傍若無人で、年も離れているし、手の届かない場所にいる大人だと思っていた。そして今は誰もが恐れる『鬼の副長』である。彼は己の甘さを隠すことで、恐れられ悪となることで、隊の規律を守っている。そんな、誰にも甘えることができなくなった彼の拠り所が自分なのだとしたら。
(…それは、素直に嬉しいかな…)
そんな彼を独占できることが、今は嬉しいと思える。いつの間にか縮まったこの距離は、いつかもっと近くになるのだろうか。燃え上がるほどの熱量が宿ることがあるのだろうか。
(まだ…わからない)
それでも、彼が許してくれるのなら。
この距離でいたい。お互いがお互いのことを一番に大切にできる場所に。
総司の膝に頭を預けた土方は、やがて寝息を立て始めた。大晦日まで仕事を持ち越して疲れ果ててしまったのだろう。このまま年を越してしまいそうだ。そして総司も目を閉じた。彼の寝息を聞きながら、穏やかな夢を見れる気がした。
「…初夢は、歳三さんの夢を見そうな気がする…」
そしてそのまま夢へと落ちて行った。


遠くで除夜の鐘が聞こえた。それは夢の中だったのか、現実だったのかはわからなかった。
けれども目を開けると文久三年の年は過ぎ、新しい年がやってきていた。元旦を二人は肩を並べて、迎えたのだった。


132


文久四年。
新しい年はあわただしい幕開けとなった。将軍家茂が再び上洛することになり、新撰組も警護のため下坂することになったのだ。少数精鋭の隊士たちを壬生に残し、新撰組は天保山沖へ向かっていた。
やや緊張した表情で先頭を歩く近藤、そしてその後ろで硬い表情の土方――そんな二人とは正反対に。
「将軍様は昨年、上洛され御上に攘夷の決行をお約束されました。異国がお嫌いの天子様は攘夷の意思が強い方です。その際我らも上洛し、将軍様が帰東されたのちも、壬生浪士組として京の町に残り市中警護を務めることになったということです」
「じゃあなんでまた将軍様が上洛されることになったんです?」
近藤、土方のやや後方を歩く総司は山南先生の解説に耳を傾けていた。近藤や土方から下坂についての目的は聞かされていたものの、こうして山南に教えてもらうほうがわかりやすい。
「今回は攘夷決行に向けて、将軍様に官位が与えられるという噂です。いよいよ攘夷に踏み切るのかもしれませんね。ただ、幕府のなかでは、天子様が将軍様に何度も上洛を求めることに関して否定的な意見もあるようです。将軍の立場が軽んじられていると」
「ふうん」
「自分も質問してもいいですか!」
総司の後ろを歩いていた島田が身を乗り出す。立派な体躯は列をなす隊士のなかでもひときわ目立つ。
「どうぞ」
「恐縮です。将軍家茂候は何で上洛に乗り気なんですか?これでもう二度目ですよね。幕府のお偉いさん方が憤慨するのも分かる気がするんです」
「そうだよなあ。確かに、天子様はその上に誰もない王ではあるけど、俺たちの主君と言えば将軍様だしな!」
さらに話に加わってきたのは原田だった。さらに他の平隊士もざわざわとざわめきだす。「天皇」と「将軍」については人それぞれの考え方がある。どちらを軽んじるわけではないが、どちらかに偏った考えになるのが「佐幕」派「尊王」派の基幹だ。新撰組は「佐幕」の立場ではあるが、日本を侵略せんと企む異国へ「攘夷」を決行することに異論はないというのが近藤の考え方だ。しかし入隊時にそういった思想を問うこともしないので、様々な考え方の人間がいるのだ。
山南はしばし逡巡して答えた。
「少なくとも、家茂候は自らが王だと言った振る舞いはないそうです。まだ若干二十歳にも満たない御年で重責を担われている方です。和宮様とのご関係も良好で、互いに贈り物をされるほど良い夫婦だそうです」
「へぇ。じゃあ上洛についても気がすすまれてのことなんですね」
「おそらくそうでしょうね。あ、そういえば家茂候は甘いものがお好きだそうですよ」
「それは気が合いそうだなあ!」
山南の言葉に総司が笑い、周囲がわっと沸いたところで。
「うるせぇっ!てめぇら神妙に歩け!」
と鬼副長から檄が飛んできたのは、まあ当然の、お約束の流れではあった。

天保山沖で将軍を迎え終わると(と、言っても遠くからその様子を見守っただけで特に重責を果たしたわけではないのだが)、大坂城へはいられる一行を天満橋まで警護し、新撰組は伏見へ向かうことになった。警護の先陣としての役目を与えられたのだ。
皆意気揚揚に伏見へと向かうのだが、その先陣を切る近藤の顔だけが優れなかった。
「総司」
土方に呼ばれ、手招きされるままに駆け寄った。土方の表情もあまり優れない。
「何です?」
「お前、近藤先生の傍にいろ」
指さしで近藤を指す。その背中は少し疲れているようにも見えた。
「…承知」
土方はあくまで事務的に総司に告げたが、それは彼の気遣いなのはすぐに分かった。総司はその足で近藤の傍に駆け寄った。
「近藤先生」
「ん…総司か」
無理矢理微笑もうとした近藤だったが、それはやはりどこかぎこちない。京を出て一週間ほどになる。疲れがたまっているのは皆同じなのだが、愛弟子からすると、近藤の場合それは精神的なもののように見えた。
「伏見まではあと少しですね」
気づかないふりをして他愛のない話をする。
「ああ…そうだな、あと少しだ」
するとやはり覇気のない返事が返ってきた。
「…何だか、信じられないですね。去年の今頃は、試衛館でお正月の酒盛りをしていた時期ですよ。こんな風に将軍様のために働いてるなんて、なんだかおかしいです」
総司が笑って見せる。すると近藤は少し穏やかな表情になった。
「ああ…いつまでも正月気分が抜けないものだから、お義母さんに怒られていた頃だな…」
昔に思いを馳せるように笑う近藤。しかし、その表情は途端に曇った。
「…一年、経ったんだな…」
それは早かったという意味か、長かったという意味か。総司にはわからなかった。
「一年経っても……変わらないな」
「変わらない…ですか?」
総司には何もかも変わったように思えた。
試衛館でのあの能天気な日々から一転、毎日命を張る仕事に精を出している。貧乏道場だと蔑まれていた場所に、やがて集った隊士たち。そして生まれた陰と陽…。総司にとってそれらはすべて夢のような出来事で、それはきっと近藤も同じだと思っていたので「変わらない」というのは意外だった。
「変わらないさ。一年前の上洛のときも家茂候の傍に侍ることもできず、遠くからまるで野次馬のように見守るだけ。そして今回も同じ…『新撰組』という新しい名前を頂いても、まだまだ十分な働きができていないということだ。もし、将軍様の身に何かあったとき…そんないざというときに、こんな遠い場所からでしかお守りできないのが悔しくてな…。きっと…大将が未熟だからだろう。そう思うと、何だか情けなくてな」
「近藤先生…」
「わかってる。俺たちは与えられた仕事をしっかりと熟すこと。それが将軍様の役に立つんだっていうことはな」
自らを奮い立たせるように、近藤は深く息を吐いた。そして総司の肩に手を乗せる。
「俺は大丈夫だ。そう、歳に言っておいてくれ」
「……はい」
近藤の空元気がひしひしと伝わっていた。けれど総司は何も言えず、頷くしかなかった。


伏見に付いた頃には夜も暮れていて、隊士たちは早めに休むことになった。長旅で疲れたのだろう、誰もが寝息を立てる中で総司は土方の元を訪れた。
「夜這いか?」
「……予想通りの台詞を言わないでください」
総司の訪問を茶化す土方だが、彼も少し疲れているように見えた。床を既に延べていた土方だが隣の部屋は近藤の床があったので、二人は連れ立って宿を出た。
「近藤先生、大分落ち込まれてました」
「そうだろうな…ったく、また下らねえこと考えてるんだろう。役目がどうとか…考えても、仕方ねえことを」
「やっぱり、以心伝心、ですね」
総司が揶揄すると、土方が「うるせえ」と少し照れたように顔を背けた。
「焦っても仕方ねえんだよ。俺たちが手柄を立ててないのは事実なんだ。機会を待つしかない」
土方の言うことは正しい。落ち込んでも仕方ないのは総司にも理解できる。しかし、近藤の焦燥感も総司にはわかった。そして内心鬼の副長も近藤のような焦燥感を持っているはずだ。しかしそれを表に出さないのは、彼の強がり故なのだろう。
「いつか、仏様が機会をくださいますよ。なんせ近藤先生は誰よりも将軍様のことを、この国のことを思っていらっしゃるんですから」
そしてそんな近藤を一番理解し、支えている土方へも、幸運が訪れるはずだ。
「坊さんみたいなことを言うよな」
「へへへ。拝んでくださいます?」
「やなこった」
土方が笑った。何の愁いもない笑顔は今年初めて見た気がした。
そんなやり取りをしていると、ちらほらと雪が降り始めた。それに気が付いた途端吐く息が酷く白いことに気が付き、寒さを自覚した。
「土方さん、風邪ひいちゃいますからなかに入りましょう」
指先がすっかり冷たくなっていた。土方を急かす総司だが、彼は一向に帰ろうとしない。
「土方さん、はやく…」
「こうしたら寒くないだろう」
土方はそういって、総司の手を引いた。そして後ろから抱きしめて着ている羽織で覆うように総司を包む。背丈は土方のほうが高いのですっぽりその中に納まるような格好になった。温もりもそうだが、土方の鼓動までもが総司の背中に伝わってくる。同じように鼓動が土方に伝わっているのなら、とても恥ずかしい。
「…誰か来たら、帰りますからね」
雪が降る伏見に、人影はなく。
誰も来る気配はなかった。









133


文久四年一月中旬。新撰組は伏見より家茂を護衛し入京。無事壬生へ帰還した。警戒されていた討幕派の抵抗もなく、新撰組としてはあっけない巻き引きとなった。

京都へ帰ってくると、まるで北国へ戻ってきたかのように気温が低く感じられた。夏は江戸よりも熱く、冬は痛むほどに寒い。一年間ここで暮らしてもその気温の変化にはなかなか慣れそうもない。
総司は綿入れを着込んで八木邸縁側へ出た。八木邸の主人が毎朝手入れを欠かさない庭はうっすらと雪が積もり、まるで絹を羽織ったように雅やかな景色となっている。豊玉宗匠ならここで一句、という感じの趣だが、残念ながら彼はいない。伏見から帰って三日。誇らしい仕事を為して帰還したはずなのに、何故か隊の空気は重かった。
「…はぁー…っ」
冷えた両手を温めるために吐き出した吐息は白く染まっていた。手には刹那の温もりが宿るもののすぐに冷たくなってしまう。
「寒い」
まさに総司と同じ感想を呟いたのは同室の斉藤だった。障子をあけっぱなしで外に出た総司を非難めいた目で見ている。
「冬だから寒いのは当たり前じゃないですか」
「寒いからこそ温もりたいという気持ちも当たり前だろう」
斉藤は片時も火鉢の前から離れようとしない。火鉢の隣で刀の手入れをしたり、書物を読んだり、転寝をしたり…とにかく、寒がりのようだ。
「空気が澄んでて気持ちいいのになあ…」
総司は仕方なく、部屋に戻って障子を閉めた。
「それにしても…この寒さ以上に、寒くなっている前川邸で過ごす隊士は大変だなあ…」
「まったくだ」
二人は苦笑した。
いま前川邸の空気はピリピリしている。それもこれも珍しく局長と副長が喧嘩をしているからだ。
「土方さんはともかく、近藤先生があんなに怒るのは珍しいっていうか、初めてのような気がします」
「原因は何なんだ?」
「さあ?」
斉藤の問いに総司は首を傾げた。
伏見から帰った日。前川邸で騒ぎがあったのは八木邸にも聞こえていた。てっきり平隊士同士でもめているのか、はたまたいつものように土方と山南が言い争っているのかと思っていたのだが、それが局長と副長の喧嘩だ、と聞いたときには総司も目を丸くした。
「確かに近藤先生は伏見のときから気分が落ち込まれていましたけど……きっと土方さんが何か余計なことを言ったんでしょうね。二人とも頑固だから、きっと長引きますよ」
「…まあ、局長が気落ちするのはわからないでもない」
家茂上洛に合わせた警護に斉藤は参加せず、屯所に残っていた。意気揚々と屯所を出て行った近藤が、落ち込んだ表情で帰営したのだからその変化に気が付くのは当然のことだろう。
「沖田君、斉藤君。お邪魔してもいいかな」
二人がそんな風に話をしていると、障子の外に人影があった。その柔和な声でそれが誰かはすぐに分かった。
「山南さん、どうぞ」
障子をあけて部屋に入ってきたのは山南だった。「ここは暖かいね」と嬉しそうに火鉢の前に座る。
「みかんもありますよ」
斉藤が差し出したみかんを山南は受け取った。
「ははは。男三人で火鉢を囲み、みかんを食べるなんて冬の風物詩そのものだね。それに八木さんの庭も見事だ」
「そうですよね。もう少し雪が積もったら雪合戦をしたいです」
「それは楽しそうだ」
山南が嬉しそうに笑った。
「いやいや、前川邸はいまは笑うのさえ緊張するような雰囲気でね。こっちに来ると気持ちが穏やかになるよ」
「やっぱりまだ喧嘩してます?」
総司がきくと、山南は苦笑しながら「そうだねえ」と言う。
「私と土方君が言い合うのはいつものことだけど、今回は違うからね。あまりに空気が悪いものだから、平隊士の中にはこのまま局長と副長が仲違をしてしまうんじゃないかって危惧している者もいるようだよ」
「はははっ、それは万に一つもないですよ」
「私もそう思うよ」
みかんの皮をむきながら山南は頷いた。試衛館での日々を思えば、こんな些細なことであの二人の友情が無くなるなんて考えられない。
「喧嘩の原因は何なんです?」
意外にも斉藤はみかんのスジを懸命に取っていた。全く気にしない総司からすれば「細かいなあ」と笑ってしまう。
「うん…そうだねえ。近藤局長の焦りを土方君が諌めたら、そのまま言い争いになってしまった、ということかな」
やっぱり、と総司は思った。伏見でも近藤は遠くからでしか将軍を警護できないことを嘆いていて、それを土方は「仕方ない」とバッサリ切り捨てていた。近藤の落ち込みようがいつもよりも激しかったから、導火線に火をつけてしまえばすぐに爆発してしまいそうではあった。
「私も仲裁をしようと思ったんだけどねえ…あの勢いに飲まれてしまったよ」
「こっちまで聞こえてきましたからね。まさかあの二人が喧嘩をしてるなんて思いもよらなかったですよ」
「私も何事かと思ったね」
笑う山南だか「しかし」と続けた。
「近藤局長の焦りもわかる気はするよ。会津様の元で懸命に働いてきても、一年前家茂候が上洛されたときと何ら変わりない役目しか与えられなかった。何人もの隊士を抱えているのに、まだこんなところに居るのか、と。その悔しさというか無念な気持ちは察することができる…」
「……」
一個目のみかんを平らげて、総司は火鉢に手を翳した。
「土方君は強いね。私も近藤局長と同じ立場なら落ち込んでいるよ」
みかんの皮をむき終えた山南が、丁寧にスジを取り始めた。斉藤がスジを取っていると似合わないなあ、と思うのに山南が同じことをすると似合うなあと思ってしまう。
「土方さんも大分落ち込んでますよ。でも格好つけて顔に出さないだけなんです、負けず嫌いだから」
「…ふふっ さもありなん、だね」
やっと一つ目のみかんを完成させて、山南は口に放り込む。「甘いね」と感想を漏らし、二個目に取り掛かった。


温厚な山南でさえ辟易としているのだから、平隊士への負担はさらに大きいようだ。
「勘弁してくださいよー!」
嘆きながら八木邸にやってきたのは巨漢の島田、坊主頭の松原、そして山野八十八だ。山野八十八は年末の隊士応募で入隊した若い青年だ。小柄で端正な顔立ちだが、顔に似合わず勇猛果敢な性格で初めての稽古の時に永倉に食って掛かったという話だ。そんな彼らが泣きついてきたのだから、前川邸はよっぽどの緊張感に包まれているようだ。
「もうなんていうか、血走ってるんですよ!副長が!」
「そうですよ、普段はそんな副長を慰めている局長でさえも近づくなっていう雰囲気を出していて、もう一触即発な感じでして!」
「平隊士なんて誰も口をきけないような状態ですよ。下手したら切腹とかになりそうで」
総司はそんなまさか、とは思うものの唾を飛ばして訴える様はそれはもう必死で、あながち誇張でもないのだろう。
「それでも!沖田先生だったら副長も言うことを聞いてくれるんじゃないですかっ」
そして、島田の発言であらぬ飛び火となってしまった。
「な、なんで私が…」
「そりゃだって沖田先生は土方先生に一番思われているじゃないですか!」
島田が恥ずかしげもなく大声で叫ぶものだから、総司は慌てた。古参の山南、斉藤、松原だけでなく入隊した山野の前だというのに。
「そ、そうなんですか?沖田先生…」
山野がちらりと総司を見た。愛くるしいその目は驚きを隠せていない。
「いや、いやいやいやいや!土方さんは昔から私をいじめて鬱憤を晴らしてるようなものなんですよっ!」
必死に山野に訴えるが
「沖田先生じゃないと解消できない鬱憤があるからな」
と斉藤が妙なことを言うせいで、山野が全く総司の言葉を聞きいれない。
「っ!斉藤さん!!」
「沖田先生、俺は別に気にしないですよ」
「気にしてくださいっ!」
年下の山野にまで誤解されてしまう……もっとも、実際に誤解と言っていいのかなんて言えばいいのか総司にはよくわからないのだが。
「とにかく、私を人身御供になってやめてくださいよ。私だって近藤先生と土方さんが喧嘩なんて見たこともないのに…」
「そうなんですか?」
江戸からの仲間である総司の言葉に、島田が驚いた。それは確かに当然の反応だ。十数年一緒にいるのにそんな場面が一度もなかっただなんて。
「あの二人は…なんていうか、阿吽の呼吸みたいなのがあって。近藤先生が怒れば土方さんが慰めるし、土方さんが怒れば近藤先生が諌めるような関係で…」
「それはわかる気がするね。だからこそあの二人が喧嘩をするなんて滅多になかったよ」
山南の介添えがあって、三人はようやく納得してくれたようだ。しかし問題が解決したわけではない。
「ってえことは…時が解決してくれるのを待つしかないってことなんすね…」
がっくりと肩を落とす島田は、いつもよりも小さく見える。どうやら三人で解決を模索した結果が総司だったらしい。
「夜もおちおち寝れないですよ」
「ずっと背筋を伸ばしているような気分ですね」
愛嬌のある松原も眉間にしわを寄せているし、新入隊士の山野でさえも不安げな顔をしている。彼がそんな顔をするということはよっぽどな雰囲気なのだろう。
「…よし」
山南が息を吐いた。
「皆、日々苦労して仕事に励んでくれているし、ここ数日は息をも詰まる気持ちだというのはよーくわかった!」
「や、山南さん…?」
意を決したように山南が言ったのは
「島原に行こう」
というもっとも彼らしくない宣言だった。





134


土方は木刀を置いた。誰もいない道場でむしゃくしゃした気分を吹き飛ばしたかったのに、どうも調子が出なかった。前川邸に昨年作った道場は試衛館のそれに良く似ている。よく試衛館では上座に近藤が座り、総司が稽古をつけていた。門下生たちは懸命に木刀を振り回し、近藤が檄を飛ばしながら稽古を見守っていたものだ。
だが今この道場にその活気はない。もちろん稽古は連日行われているものの、隊士たちもあまり身の入らない稽古を続けている。土方にはその原因はよくわかっていた。
「…くそ」
幼馴染と喧嘩をしたのは何年振りだろう。少なくとも鮮明に覚えてはいない。おそらく本当に子供の頃に一度あったか無かったかくらいのはずだ。
それが余計な言葉だったのは土方もわかっていた。しかし近藤が功を焦り、自らを責めているのを傍で見ているのは我慢がならなかったのだ。
「焦っても仕方ないだろう」
その一言に近藤は烈火のごとく怒った。
「焦らなければ、何も変わらないではないかっ!」
近藤がそんな風に返すとは思わなくて、土方は一瞬驚いた。まるで何かが爆発してしまったかのように彼は怒ったのだ。しかし、言葉を撤回するつもりは毛頭なく、土方も応戦する形で言い争いちょっとした騒動になってしまった。それ以来前川邸では平隊士がびくびくと気を遣い、静まり返ってしまっている。
近藤が焦るのはわかる。それはきっとあの時のことを恐れているのだ。数年前、試衛館の道場主だった近藤が講武所の師範に推挙されたあの時と、同じ二の舞を踏むことを。土壇場ですべての希望を失ってしまう、あの悔しさを味わうことを。
「……だからって、どうしようもないだろ…」
焦って、もし何か失態を犯せばそれはそれですべてが終わる。だから毎日規律をただし、いつ何があってもいいように備えておく。そして機会に恵まれたその時に己の全力を発揮できるようにしておく。そしてもし夢が叶い武士になる機会がやってきたときに、あの時のように農民の出だからと蔑まれることなく、盤石な姿でそれを迎える。今の新撰組が、そして土方ができるのはそれだけだ。

土方は道場を出て、向かいの八木邸へ向かった。前川邸に比べると八木邸の緊張感はどことなく薄い。しかし見張りの隊士が土方を見て「ご苦労様ですっ!」と普段よりも声を張り上げる。
「総司はいるか?」
八木邸を見ると何の気配もなかった。見張りの隊士は「お、沖田先生は…」と緊張気味に答えた。
「沖田先生は、山南副長らとお出かけです」
「山南さんと?」
「は、はい。他にも斉藤先生、島田、松原、山野らも一緒でした」
山南に総司、斉藤、そして平隊士…それは珍しい組み合わせだった。
「どこへ行った」
「は…おそらく、島原かと」
「ふうん…」
土方はさらに眉間にしわを寄せた。


「まあ、久しぶりやなあ。誰かと思うた」
彼女の言い草は本当に懐かしむように、というわけではなく、久々に会いに来た総司を非難するような言い方だった。
一行が揃ってやってきたのは島原にある角屋。山南の奢りだということで島田らは先ほどまでの悲嘆に暮れていたときから一転、すっかり上機嫌になっていた。よほど抑圧された生活を送っていたようだ、松原が女と踊りはしゃいでいる姿を総司は初めて見た。そして、酒や食事が運ばれて来た後に満を持してやってきたのが君菊だったのだ。
「うちのことなんて忘れたんやと思うとった」
「そ、そんなわけないじゃないですか。お正月の挨拶に行かなきゃとは思っていたんです」
彼女のそれは、もちろん嫌味ではなく冗談であることはわかってはいるのだが、拗ねた風に口を窄めるさまは年上なのに総司には愛らしく映る。
君菊と会うのは二か月ぶりくらいだ。川辺に呼び出された季節はまだ秋だったから随分昔のことのように思われる。
「ふふふ、総司さん、やっぱり初な反応やなあ、おもしろいわあ」
君菊はお酌をしながらくすくす笑う。そしてこっそりと耳元でささやいた。
「あれから、どうなっとるん?」
「へ?」
「土方せんせのこと。今日は一緒やないんやなあ」
少しからかうように、冷やかすように問われ総司は顔を赤らめた。彼女には自分が土方のことを思っていることを教えている。そう思うとなにやら恥ずかしくなってしまったのだ。
「その反応。どうにかなったんやね?」
口角を上げながら問う君菊は明らかに何かを含んだ言い方をしていて
「どうにもなってないですよっ」
と、総司は慌てて否定した。すると君菊は怪訝な顔をした。
「…信じられへん。うちがあんなにおせな押して差し上げたのに、なんもなってないって。そんなお気楽なら、うちが取ってしまおうかしら」
「そ、それは…」
「ふふふ、あかんのやろー?」
総司をからかう君菊は生き生きとしていた。彼女は総司の前では取り繕うことはしない、等身大の姿を晒す。初めて出会った時と比べても彼女は明るくなったと総司は内心安堵した。
「なにやら、楽しそうだね」
そんな二人の様子を見て声をかけてきたのは山南だった。少し顔を赤らめているのは酒を飲んでいるからなのだろう。
「あなたは土方君の馴染みの方でしたね」
「へえ、君菊いいます」
「私は土方君と同じ副長の山南といいます」
「…同じ副長はんでも、眉間にしわ寄せた副長さんと、こないな仏のような副長さんがいらはるんやなあ」
素直な感想であるとともに、的確な君菊の言葉に、山南は「ぷっ」と吹き出した。
「ははっ 土方君が君を気に入るのがよくわかるなあ。沖田君と良く似ている」
「え?」
驚いたのは総司のほうだった。思わず君菊の顔を見てしまう。
「似てますか?」
「ああ。雰囲気というか、物怖じせずに素直なところとかかな。それでいて強情そうなところも」
「まあ、山南せんせ、うちのことようわかるんやなあ。さすが副長はんやわあ」
山南は照れくさそうに「何となくだよ」と頭を掻いた。総司はいまだに首を傾げたままだ。(強情なつもりはないんだけどなあ)と思わず考えこんでしまう。すると君菊が急に両手を合わせた。
「そうや、山南せんせ。地唄は好きやろか?」
「唄は好きだよ。聞くのも、踊るのを見るのも好きだなあ」
「せやったらお唄しまひょ。ええ踊り子を紹介します」
そういうと君菊は立ち上がり、部屋をいったん出て行った。彼女がいなくなると部屋が急に寂しく感じるのは、彼女が放つ華やかさのせいなのだろう。
「…三人で宜しくやっているということなのか?」
実は総司の隣で黙々と飲み続けていた斉藤がそう言った。総司は最初何の意味やらわからなかったが、気が付いた途端「斉藤さんっ!」と思わず大声を上げてしまっていた。君菊や近藤のように直接土方のことを告げたわけではないが、同室の彼にはすべてお見通しのようだ。
「冗談だ」
「冗談が過ぎますよ…酔ってるんですか?」
「まさか」
女を寄せ付けない雰囲気のある斉藤はいつもこうして部屋の隅っこで酒を飲み続けている。総司からすれば相当飲んでいるはずだが、彼は顔色一つ変えず酔っている雰囲気はない。記憶を失ったり上機嫌になったり寝てしまったりしたのを総司は見たことがなかった。
食事に手を付けつつ、総司は「あれ?」と首を傾げた。
「そういえば島田さんと山野君は?」
部屋では坊主頭の松原が楽しそうに女とはしゃいでいるだけで、他の二人の姿がない。二人とも厠に行ってしまったのか、それとも気に入った女と部屋を取ってしまったのか。
「…さあ?」
斉藤は何か言葉に含みがある物言いをした。それを、総司は問い詰めようとしたのだが。
「お待たせいたしました」
君菊の声が部屋に響いて、障子がすっと開いた。優雅な仕草で頭を下げた君菊の後ろにはもう一人女が控えていた。君菊の赤い華やかな着物とは違って、落ち着いた雰囲気の紫の着物を羽織った彼女が顔を上げる。
「天神、明里といいます」
君菊の端正な顔立ちとはまた違う、上品で物静かそうな優しい面立ちをした彼女は笑うとどこか儚げだった。君菊の美しさが人を引き付ける魅力だとすれば、明里の美しさは人を包み込むような、まるで母性の塊のような美しさだった。しかし、その瞳はここにないどこかを見ているかのように、遠くを見つめていた。
そして君菊が明里の手を取って部屋に入った。君菊はまるで誘導するように、明里の手を引く。
「君はもしや…」
その不思議な行動について一番最初に察したのは山南だった。そしてそれに答えたのは君菊だった。
「へえ…この子は、めくら※どす」
と。




135


君菊はその煌びやかな容姿はもちろん、踊りや歌にも秀で、芸達者な天神としてその名を馳せていた。彼女が踊れば皆が手を止めてそれを見たし、彼女が歌えばおしゃべりをやめて皆が耳を澄ました。しかし足を悪くしてからは舞うことができなくなってしまい、それを惜しむ客も多かった。
そんな君菊の代わりを務めたのが明里だった。目が見えないというハンデを背負いながらもそれを感じさせない雅な踊り。それは君菊の美声と相俟って、忽ち評判を呼んだ。

黒髪の 結ぼれたる 思いには 
解けて寝た夜の 枕とて 独り寝る夜の仇枕 
袖は片敷く妻じゃと云うて愚痴な女子の心も知らず 
しんと更けたる鐘の声昨夜の夢の今朝覚めて 
床し懐かしやるせなや積もると知らで 積もる白雪――…

君菊の澄んだ歌声。ぽろん、ぽろん、と合間を埋める心地よい三味線。恋人に捨てられた女のさみしさを鮮やかに描き出す明里の舞。
見ている者全てが、彼女が目が見えないことを忘れてしまうほどの舞だった。人を惹きつけて離さない、力強ささえ感じる彼女はしかし幻想的で天女のようだった。「おおきに」と彼女が踊り終え、優雅に頭を下げる。すると部屋中が喝采に包まれた。
「綺麗でしたね!」
やや興奮気味に総司は山南に声をかける。しかし、山南はどこか放心状態で、手を鳴らすことなく明里を見つめていた。
「…山南さん?」
「……」
山南の目は明里に釘付けになっていた。明里が舞う間、ずっと彼女から目が離せなかった。彼女の一挙一動を一生忘れないように目に焼き付けていたかった。
「沖田君……彼女は、本当に…何も見えていないのだろうか…?」
「え?えっと、君菊さんはそう言ってましたけど…」
「…いや…ああ、そうだな…」
総司が顔を覗き込むと、山南は慌てて酒を飲み干した。総司にはまるで何かを誤魔化すように見えた。
やがて君菊が明里の手を取って、総司と山南の前にやってきた。近くでみる明里は舞っている時のような神秘的な、どこかこの世のものではないような雰囲気はなく、穏やかで暖かな印象だった。
「明里といいます」
やはり少し焦点はあっていないものの、明里は二人に頭を下げた。
「前にお話しした総司さんと、その上役の山南せんせ。新撰組の方やけど、取って食うような狼やないよ」
君菊の冗談めいた紹介に、
「へえ、とてもお優しい方やと思います。」
と明里は躊躇いもなく述べた。新撰組の噂は決して良いものではないはずだ。総司が疑問に思って「何故?」と訊ねると
「とても優しい声がします」
と、答えた。その瞳が、山南のそれとぶつかった。山南は何やら急に鼓動が早くなった気がして、思わず目を逸らす。明里には見えていないはずなのに、それでもその瞳に見つめられると顔が赤くなってしまった。
「とても綺麗な舞でした。私はあまり舞はわからないけど、でもとても楽しかったです。ね、山南さん」
「あ、ああ…」
総司の言葉に上手く同意ができない。いつもなら「とても美しい舞だった」と総司のように素直に言えるはずなのに、口がもごもごと間誤付いて上手く言葉が出て来ない。
(これでは、まるで…)
己のそんな変化に戸惑い、山南は動揺した。
(まるで…一目ぼれじゃないか…)
「さ、総司さん。うちらはこっちで飲みまひょ」
「え?なんで…」
「なんでやあらへん。なんでもや」
良く意味が分かっていない総司が首を傾げていたが、君菊は強引にその腕を引いた。そして彼女は山南のほうをちらりと見てにっこりほほ笑んだ。
(…沖田君と似ていないところは、察しが良いところかな…)
強引に松原らの踊りに交じっていく二人を見て、山南はそんなことを思った。

「堪忍どす。こないな女、傍におったかて、上手にお酌もできまへんのに…」
明里は控えめにそういうと、山南の隣に侍った。そして手さぐりに銚子を探すのを見て、山南は止めた。
「いえ…その、酒はあまり嗜まないので」
言っておきながら、山南は少し後悔した。いつもよりも飲みすぎているせいで酒の匂いは明里にもわかっているはずだ。視力を失ったものは、代わりに聴覚や嗅覚が優れるらしいと聞いたことがあった。明里もそうだとしたらこんな些細な嘘にはすぐに気は付くはずだ。
「あ、…いや、その…今日はもう、飲みすぎたというか…」
慌てて誤魔化したが、明里は穏やかに笑った。
「山南せんせは優しおすなあ…」
その微笑みが、山南にはまるで天女のように見えた。一目で心を奪われてしまったせいか、彼女の頭の先から足の先そのすべてが少しでも動くたびに、山南の目を奪う。こんな風に人に対して強く惹かれるのは随分久々のことのように思えた。だからだろう、彼女の前ではどうしても挙動不審になってしまう。
(初恋でもあるまいし…)
しかし、胸の高鳴りは昔、若いころに感じたそれと似ていた。
「君は…いや、その、明里さんは…目が見えないのは、生まれついての…?」
上手い話題が思う付かず、口をついて出ていたのはそんなことで。口走ってしまった瞬間に「まずい」と思った。会って間もない人にそんなことを聞かれるのは不快かもしれないと思ったからだ。
「いいえ。数年前どす」
しかし、明里は特に気にする風もなく答えた。おそらく何人もの客が同じように聞いているのだろう。
「そ、そうですか…」
「原因はわからへんのです。病で…お医者様には異国の病やないかと。せやけど、どうしようもあらへんて」
数年前に視力を無くしたということなら、生まれついての病ではなくコロリのような伝染病なのかもしれない。しかし、彼女にとってそれは途轍もない絶望だろう。良家の子女ならまだしも身一つで生きていかなければならない彼女たちのような境遇では決して生きていくのは簡単ではない。
山南は何も言わなかったが、明里が語り始めた。
「見えているものが、だんだん見えなくなって、…贔屓にしてくれてはったお客はんもどんどん離れて…寂しゅうて…」
彼女の焦点の合わない瞳に少しだけ陰りが見えた。見えていた世界が見えなくなる。そして明日には見えなくなってしまうかもしれない。それは山南には想像もできない恐怖だった。
「でも舞だけは。舞だけはどないしても、やめとうなくて。見えなくなる前に、ってゆうて、稽古しました」
陰りが見えていた彼女の瞳に一気に光がさす。そして少し色素の薄い瞳が山南の目とばっちりあった。それはきっと彼女にはわからないし、何も見えてはいない。けれども、山南には恥ずかしくて。
「今でも舞っている時だけは、目が見える気するんどす」
「み、見える…?」
山南は気が付いた。
「へえ。うちが舞って、お客はんが喜んでくれはる顔が。まるで満開の桜や、色づいた紅葉のように…きらきらと、輝いて見える」
彼女を見て、淡い初恋のような気持を抱いてしまうのは、きっと、
「せやから、その時だけ…舞うてるときだけ、うちは生きていられるような、そんな気持ちに…なるんどす」
舞について語る彼女の顔が、まるで少女のようにあどけないからなのだろう。
「…本当に、美しかったです。まるで…天女のようでした」
ああ、そうだ。自分は一目惚れをしてしまう性格だったのだ。
山南はそんなことを思い出した。


夜も更ける頃。
「じゃあ、よろしくお願いします」
総司と斉藤は連れ立って廓を後にすることにした。もともと外泊の報告をしていなかった、というのもあるが特に女遊びに興味のない二人としてはそうするのが自然な流れだった。よろしく、というのは置いていく者たちのことだ。山南は大丈夫だろうが、寝こけてしまった三人の朝までの世話を頼むことにした。
「へえ、また近いうちに来てくれはりませんと、今度こそ忘れてしまうかもしれへんなあ」
君菊はそう言って茶化しながら見送った。
「…山南副長はどうやらあの明里という女に大分入れ込んでいるようだな」
島原からの帰り道、提灯の明かりを頼りに並んで歩きながら、斉藤がつぶやいた。
「そうみたいですね。優しそうな人だから、山南さんが気に入るはずだって君菊さんは言ってましたけど」
「ふうん…」
話を振っておきながら斉藤は特に興味はなさそうだ。
「それにしても、酔いつぶれた松原さんはとにかく島田さんと山野くんはどうしたんでしょうね。良い人でも見つけたのかな」
松原は泥酔したが、島田と山野は明里が来る前から姿を消し、結局それっきりだ。あの二人のことだから(特に島田のことだから)隊規を犯すようなことはしないはずだが、女と部屋を取るというのも総司としては何だか「らしくない」気がしてしまう。
「さあ。そうかもしれない」
「…斉藤さん。さっきも何か含みのある言い方をしてましたよね」
「察しろ」
斉藤はただ一言言っただけで、それ以上は何も教えてくれなかった。





136


一月が終わるころになっても、二人の空気は以前冷たいまま、沈黙していた。前川邸の平隊士たちはその空気に耐えられない…というのを通り越して、もうそれが常態化しつつあったりもする。それはあきらめにも似た気持ちなのだろう。
しかし、それでは士気にも関わる、ということで、向かいの八木邸では緊急の会議が開かれていた。参加者は山南、原田、藤堂、永倉、斉藤。主に試衛館のメンバーである。
「そう。こう…まるで、父と母が喧嘩して険悪になって、子供はどうしようもなくって何もできないっていう感じ…かな」
総司が近藤と土方のことをそんな風にたとえて話すと、原田がうんうん、と頷いた。
「下手に手を出したらこっちまで噛みつかれそうだよな。おっかなくて仕方ねぇよ」
「それにしても、喧嘩が長すぎますよ」
藤堂が困ったように首を垂れる。確かに最初はすぐに仲直りするだろう、と古参の総司も思っていたのだ。だからまさかこんな風に一か月もの間冷戦が続くだなんて思ってもいなかった。
「意外にも近藤局長のほうが意固地になっているというか…。土方君は多少こんな状態にもう頭を悩ませているようだが」
前川邸で部屋も近い山南が分析していた。
実際、その通りなのだろう、と総司は思う。近藤はあまり怒ったりすることはないものの、箍が外れるといつまでもその感情を引き摺るタイプだ。一方、普段から怒ってばかりの土方は感情の切り替えしが早い。謝る気はさらさらないだろうが、この不穏な空気がもたらす不利益を勘定し始めている。
「つまり、きっかけがあれば仲直りするんじゃないのか?」
永倉が手を挙げつつ意見を述べる。お互い謝るつもりはなくても、そこは長年の親友、空気を察してお互いを許すことはできるはずだ。
「でも、近藤局長と土方副長、目も合わせないし話もろくにしてないって聞きましたけど」
藤堂が心配そうに述べると原田が「うげえ、そんなにか」とため息を漏らした。
「せめてどちらかが折れてくれればことが運びやすいんだが…、やっぱり立場上、土方副長に折れてもらうっていうのは?」
「いやあ…それは、難しいと思いますよ。だって、あの土方さんですよ?」
永倉に提案に今度は総司が眉間にしわを寄せた。あの傲慢な性格の土方が、親友で相棒で局長とはいえ近藤のために機嫌を取るような真似をするとは思えない。むしろそんな姿がまったく想像できない。
「じゃあ、誰かが犠牲になるしかないのでは?」
それまで黙っていた斉藤がポツリと漏らす。そして試衛館食客はお互いの顔を見合わせた。
「いやいや、私なんかがそんな真似をしても土方君に睨まれるだけだよ」
「俺も無理無理。むしろ悪化させることにしかならないっつーか」
「俺がしゃしゃり出ても説得力ないですよ。食客の中では一番新参者だし」
「俺はどっちかに加勢しかできねえから駄目だな」
「…性格的に無理」
それぞれがそれぞれの意見を出したうえで出た結論。そして視線が集まった先は。
「……って、え?」
それはまるであらかじめ決まっていたかのような結末だった。総司は呆然として何も答えることができなかった。


もともと斉藤に仕組まれていた気がする。
最近斉藤がものすごく意地悪だ。君菊と会ったときだって「三人でよろしくやっているのか?」とからかってきたし、島田と山野のことは何か含みのある物言いをしていたし。そして今回だって「誰かが犠牲に」と言い出したのも斉藤だった。思えば犠牲になるのは近藤の愛弟子であって、土方と最も長い時間を過ごしてきた自分にそのお役が回ってくるのは当たり前といえば当たり前のことだったのだ。
「…はめられた」
前川邸の冷たい空気に触れつつ(物理的にも精神的にも)やってきた総司は、恨めしげにつぶやいた。結局そのあと満場一致で二人の仲を取り持つという使命を背負ってしまった。そしてそれは平隊士たちにも触れ込まれたらしく、前川邸で総司を見た隊士たちが拝むようにして両手を合わせている。平隊士たちが懸命に働いているというのにその上司があの調子じゃあ確かにやる気は出ないだろう。身内であるからこそ総司がその重大な役目を負うのは当たり前だ。…と、とりあえず自分を納得させて、まずは近藤の元へ向かった。
「近藤先生、沖田です」
障子の前で身を屈めて声をかける。すると「ああ、入れ」と意外にも明るい声が聞こえた。言葉通りに部屋に入ると近藤は何やら本を読んでいたようだ。
「総司か。何やら久しぶりだな」
近藤が苦笑して総司を迎えた。確かにこうやって面と向かって話をするのは久々のような気はする。決して距離を置いていたというわけではないのだが。
「それで、何か用か?」
その言い方はやっぱりどこかぎこちない。近藤もこの現状をわかっていて、でも今更怒りを解くこともできないもどかしい気持ちなのだろう。そんな近藤に総司は皆で思いついた作戦を実行することにした。
「あ、あの…近藤先生。良かったらおいしい甘味屋があるんです。一緒に行きませんか?」
「甘味屋?おまささんのところではないのか?」
「違うんです。葛きりが美味しいところなんですけど、今は特別に大福を出している店があるんです。昔周助先生が良くお土産で買って帰ってくれた大福に似ていて…是非近藤先生と一緒に食べたいなあって、思って」
総司の誘いに近藤は「ふうん」と興味を持ったように相槌を打った。
もちろん、甘味屋は本当に実在しているし、総司自身が八木の主人に教えてもらった場所だ。大福も江戸のそれに似ていて懐かしい味がする。ただ、作戦としては近藤と、土方をバラバラにその店に呼び出して、偶然のようにばったり鉢合わせさせること。まさか往来で喧嘩はしないだろうから、そこで何とかなれば…という少し博打に似た作戦なのだ。
「誰かに買ってきてもらうことはできないのか?」
近藤の質問に総司はぎくっと冷や汗をかく。
「えっと…で、できたてが美味しいんです。だから、この寒い時期ですから持ち帰ると固くなるんじゃないかなって…」
少し苦しい言い訳かもしれない、と総司は内心ドキドキしていたのだが
「そうか、じゃあその通りにしよう」
と近藤が快諾してくれて、胸をなでおろした。そして今から一刻の後に、という約束をして総司は部屋を出た。
近藤はきっとこの作戦に気が付いても怒ったりはしないはずだ。けれども、もう一人の鬼の副長はどういう風に誤魔化して連れ出したら良いだろうか。行く前から憂鬱な気分になった総司は小さくため息をついて、けれども意を決して土方の元へ向かった。


土方の部屋について同じように声をかけて、部屋に入った。案外暖かく迎えてくれた近藤とは違って、こちらは酷く不機嫌な様子だった。もちろんその原因は近藤との言い争いにあるのだろうが。
「あの、土方さん」
「…ん?」
少し間をおいて答えた彼はやっぱり眉間に皺を寄せている。普段ならすごすごと退散しているところだが、今日はそういうわけにもいかない。
「えっと、出かけませんか?」
思えば、土方から強引に外出に誘われることはあるが、こうして誘うのは久々な気がする。普段顔を合わせているので気にしたこともなかったが。
そんな珍しい総司を見て、土方は怪訝な顔をした。
「…どこに?」
「ええと、甘味屋に。美味しいところを見つけたんです」
「で、そこでかっちゃんが待ってるって?」
総司は言葉を失った。
「え……え、と?」
「お前の考えてることなんてお見通しなんだよ。かっちゃんと鉢合わせを狙って、そこで甘いものでも食べて仲直りしろってとこだろう」
違うか?と土方に念押しされて、何も反論することはできない。それは土方の言っていることに何の間違いもなくて、その通りなのだから。
「土方さん…って、本当に、可愛くない…」
総司が項垂れつつせめてもの反撃で土方を非難がましく睨んだが、通じる彼ではない。
「俺に可愛げを求めるな。お前の企てなんて全部お見通しなんだよ。監察には向かねぇな。よくそんなのでかっちゃんを説得できたもんだ」
「そんなことはどうでもいいんですよっ そんなことより早く近藤先生と仲直りしてくださいよ!」
バレたのなら仕方ない。目的をストレートに告げてみた。
「土方さんだって気が付いてるでしょ、隊内の空気がここ最近冷え切ってるの。喧嘩をするのは勝手ですけど隊士が皆怯んじゃって可哀そうじゃないですか!だから土方さんから折れてくださいよ」
「折れる?なんで俺が?」
願い下げだ、といわんばかりに両手を広げて見せる土方。その仕草が総司にはカチンッときて
「四の五の言わずに仲直りしてくださいっ!」
と思わず大声で叫んでしまっていた。声は意外にも部屋中に響きわたって、総司自身の鼓膜がはち切れそうなほどに揺れた。
総司がそんな風に怒鳴ったため部屋はいきなり緊迫した雰囲気になったものの、怒鳴られた土方のほうが
「…お前がそんなに言うのは久々だな」
と小さく笑ったので、緊張感がほぐれた。
「わかったよ。俺だってこんなに長引かせるつもりはなかったんだしな」
「……最初から、そうしてくれればいいのに」
「仕返しだ」
「仕返し?何の仕返しなんです?」
総司の問いに土方は「なんでもねぇよ」とちょっと拗ねた風な顔をした。総司の知らないところで、何か気に食わないことをしてしまったようだ。しかしそれもまたいつものことなので特に問い詰めることはしなかった。
「じゃあ、一刻したら甘味屋に出掛けてくださいね。場所は…」
「ご褒美は?」
「は?」
「ご褒美。俺が、お前のいうことを何の文句もなくただ聞いてやるんだから、ご褒美くらいくれないとやってられねえだろ」
総司は首を傾げた。そもそも喧嘩の仲裁の手助けをしてあげているのに…とそんなことを口にしてまた土方のへそが曲がっても困る。総司は仕方なく問う。
「ご褒美って何がいいんです?」
すると土方は口元を綻ばせて
「口。吸わせろ」
と、短く告げた。その言葉を頭で理解する前に、土方が強引にご褒美を奪ってしまった。






137


そもそもご褒美と言うものは、目標を成し遂げたときに与えられるものであって、ご褒美の前払いとかは言葉として正しくないはず。ましてやご褒美は与える人が決めるものであってこんな風に強引に奪われるものではないはずだ。
…と、頭の中ではそんなことを考えていたけれどそれを口に出すことはできなかった。
「う…っ、んぅ…」
それは物理的に塞がれていたというのもあるし、そんな風な気持ちになれなったというのもある。
(…そうか)
そうだった。この気持ちを、彼への気持ちを自覚してからは初めての感触なのだ。それが良いとか悪いとかじゃなくて、それを拒む理由が見当たらないから。だからいつもみたいに逃げ出すことができないのだ。
くちゅくちゅと卑猥な音を立てて絡まる彼の舌が総司のそれを翻弄する。絡まれば絡まるほど全身の力が抜けていくようで、総司はされるがままに土方に任せた。
「…ぁ…」
一番近くで土方と目が合う。いつもは険しい瞳がこういうときだけ蕩けるように甘く、穏やかに映るのは気のせいじゃないはずだ。
土方は何も言わず総司の首元へ顔をうずめた。くすぐったく疼く感触に総司は身を捩るが、そこを甘噛みされると痛い様な痺れるような刺激が身体中に伝染していく。
「ひじか…さ…」
早く。
早く、離れないと。
彼のことが好きだけれど、離れる何の理由もないけれど、でもこのまま流されてしまったらいけない。
だってまだ、足りない。
気持ちの熱量が、この人に、足りない。
「…もう…」
もう、だめだといって。いつものように逃げてしまえばいいのに。彼の背中に回した自分の腕が、彼から離れたくないと言っている。彼の吐息を感じる首筋がもっとと欲しがる。彼の体温を知ってしまったすべてのものがまだ足りないと欲張っている。
「総司…」
ああ、やっぱり。
この人のことが好きだ。
「…とし…ぞ、さん…」
口付けをされながら、自然な動作で総司は畳を背にした。見上げるとそこにはもちろん土方が居て、また口付けが降ってきた。拒まなければと思うのに欲張りな唇が彼のそれを求めてしまう。
「ん…んぅ…」
そんな風に翻弄されていると、衣擦れの音がした。気が付けば彼の右手が総司の袴を解きかけている。
「歳三…さん…っ…?」
「いいから、お前はこっちに集中してろ」
今度は塞ぐために口付けをされる。さっきよりも強く重なる彼の口腔が熱くて、こちらまで熱くなってしまう。そんな風に翻弄されているうちに、するりと伸びた彼の手が一番敏感なところに触れた。
「あ…っ、」
その違和感とともに、ぞわぞわっと全身に電流が走った。
「や、…やだ…」
嘘をついた。
「嫌じゃないだろう」
すぐに気づかれてしまったけれど、それを認めるわけにはいかなくて総司は必死に首を横に振った。
「歳三…さん、もう…」
身体中が熱くて。沸騰するように恥ずかしくて。いつの間にか体温が上がって目の前が滲む。そしてかすむ視界の中で土方と目があった。
「総司」
こんな時に。
そんな風にやさしく名前を呼ばないでほしい。
「と…し…」
身体だけじゃなくて、感情が高揚してしまう。恥ずかしさも背徳もすべてかなぐり捨てて、身を任せたくなる。まだ、駄目だって、何度も心が叫んでいるのに、身体が耳を傾けてくれない。それが苦しい。苦しくて、もどかしい。
そんな鬩ぎ合う心の葛藤も知らないで、彼は耳元でささやく。
「好きだ」
と。
知ってる。わかってる。もう、伝わってる―――。

荒い息を整えつつ、横たえた身体はいまだに火照り続けている。身体の火照りも感情の高揚も全く収まる気配を見せず、滾り続けている。けれども土方は「風邪をひく」と言って己の腕の中に総司を抱え込んだ。身体の内側から込み上げる熱さとは違う、土方の温かさを感じながら総司はつぶやくように
「ごめんなさい」
と謝った。
「何が」
「だ…って、よ、汚しちゃったし…」
言っておきながら恥ずかしくなって総司は顔をうずめた。顔は見えなかったけれど、土方笑ったような気がした。
「俺のご褒美だったのに、お前が気持ちよくなったって?」
「ちょ…っ!」
冗談にしては赤裸々な言葉に総司は思わず土方を睨み付けた。けれども彼の顔は嬉しそうに見えたので、怒るに怒れない。
「…っ、だって、歳三さんが、こんなことするなんて…思わなかった…し…」
「前にも言っただろう。俺の前で油断するなって」
「それは…」
総司は拗ねつつも、「そうですけど」と認めるしかない。もっとも油断したのではなくて、もっと違う気がするけれど。
「…歳三さん」
「ん?」
「あの…その、…もうちょっと…待ってください」
また身体が熱くなる。今度は恥ずかしいからだ。
「歳三さんのことは…他の人とは違う…好きだっていうのは、わかってます。けど…だけど、歳三さんがくれる気持ちほど、まだ、強くは…なくて」
一緒にいられればそれでいい。
隣を歩けたら幸せ。
傍にいれば心地いい。
それは他の人では感じられない満腹感ではあるけれど。まだ、こんな風に身体同士で触れ合うのにはその気持ちは及ばなくて。
まだ芽生え始めたばかりで。
「だから、もうちょっとだけ……だけど…こんな、中途半端でも…いいですか…?」
顔を見ることなんてできなかった。
恥ずかしくて、照れくさくて、こんな言葉口にしたこともなくて、こんな気持ちを言葉にしたこともなくて。彼の胸元に顔をうずめながら声にするのが精いっぱいだった。
彼は返事をしなかった。
そのかわり強く、強く抱きしめられて。それが答えなのだと分かった。


「よっ」
土方が甘味屋へ向かうとそこには近藤が待っていた。意外にも明るく声を掛けられて一瞬戸惑ったが、きっともう良い、ということなのだろう。土方も気負うことなく彼の目の前の席に腰掛けた。既に注文したらしい薄茶や大福が並べられていた。
「総司に言った通り、ここの大福はうまいぞ」
「俺は甘いものは好きじゃないんだ」
「知ってるさ」
その上で食べろと言ってくるのだから、よっぽどおいしいのだろう。土方は大福を一つ受け取って口に含んだ。柔らかい感触で甘い。だが、思っていたよりも甘さは抑えられていて土方には食べやすい味だった。
「悪かった!」
唐突に近藤に告げられ、頭を下げられた。
「いや…」
「まったく。総司にこんな下手な嘘をつかせるほど心配させたみたいで、隊の皆にも悪かったよ」
近藤は苦笑しながらまた大福を頬張った。
可愛い愛弟子の嘘に気が付かない近藤ではない。それも土方はわかっていて、彼がわざと騙されてやったのだろうとは思っていた。もっとも、その愛弟子はそんなことにも気が付かないだろうが。
近藤はその大きな口で大福を食べ、しばらく沈黙し、そして真摯な目で土方を見た。
「歳」
「…ん?」
「全部、お前に任せるよ」
近藤は穏やかに告げた。
「俺は焦ると周りが見えなくなるようだ。それでみんなに迷惑をかけてしまうだろう。そんな大将じゃあいかんと思ったよ」
「…俺でいいのか?」
頭のいい人間はいくらでもいる。うまく立ち回る人間だって他にもいる。例えば山南などがそうだ。頭もいいし人当たりも良い。会津藩との関係もうまくやって行っている。
しかし、近藤は小さく笑った。
「お前以外に誰がいるんだ?」
さも当然のことのようにいう彼が、土方にはいつも大きく見える。全幅の信頼、固い友情…彼との絆にはいつもそれを感じるのだ。
「歳。俺は道化で構わない。誰に笑われても、誰に嫉まれても、誰に嫌悪されても…俺は、俺たちの目的をかなえる為なら、滑稽な道化でいいんだ。だから、歳にはその道筋を俺に教えてくれ」
武士になりたい。
誰にも後ろ指を指されない、正真正銘の武士になりたい。
二人で誓い合ったあの夢は、いつも遠くにあって、手が届かなくて、霞んでいた。そして一度挫折した。…けれど今は違う。一歩ずつ、進んでいる。その歩みは鈍くとも前へと進んでいる。
「…俺だって、そんなもん、わからねえよ」
土方が笑うと近藤も「そりゃそうか」と笑った。
「だが…努力はする。だからさ、かっちゃん」
「ん?」
「もう俺に謝らなくていい。一軍の大将が俺なんかに頭を下げるな。かっちゃんは堂々と俺の前を歩いていてくれ。そうしたら俺はその背中を押すから」
(全く、我儘な大将だ…)
一農民が武士になる。そんな夢物語が簡単に叶うわけないのに、この幼馴染はお前に任せるという。そんな丸投げを請け負うなんて、
(俺も俺で、まったくの馬鹿野郎だよな…)
「わかったよ、土方副長」
きっと、満足げに笑うこの男に、惚れた弱みなのだろう。この男と出逢った時からきっとこの役回りが自分の所にあったのだ。
「ところで、歳。喧嘩はまだ続けるか?」
「勘弁しろよ」
土方はため息をついて、しかし笑った。






138


局長と副長が和解したらしい。
その知らせは一日で屯所の皆に知れ渡り、ここ数日続いていた険悪なムードは解消されることとなった。近藤局長は穏やかに笑うし、土方副長はいつものように険しい顔をしている。その「いつも」の光景に胸を撫でおろした隊士も少なくない。新撰組の面々は晴れやかな気持ちで、文久四年の二月を迎えることとなった。
が。それもつかの間。
彼らには新たな問題が起ころうとしていた。

「…解散?」
それは現状にあまりにも不似合いな言葉で、総司は何のことか全く見当がつかなかった。それを口にした斉藤も特に表情を変えることがないので、何かの聞き間違いではないかと思ってしまうくらいだ。
「……解散?」
念のため一度問うとやはり斉藤は頷く。相変わらず火鉢の傍から離れようとしない彼は、真剣にみかんのスジを取り続けている。
「解散って、つまり新撰組が無くなるってことですか?」
「少なくとも、近藤局長はそれも辞さないという姿勢みたいだな」
誰よりも新撰組を愛す近藤の言葉とは思えず
「斉藤さん、悪い冗談みたいですね」
と笑ったが、斉藤は否定しない。どうやら本気の本気のようだ。
「えーっと…ちょっと。話が見えないんですけど。もしかしてまた前川邸が険悪な雰囲気になっているのはそのせいだったりするんですか?」
「おそらく」
先日近藤は黒谷から呼び出しを受け、戻ってきたときに険しい顔をしていた。話しかけれる雰囲気でもなかったので総司は挨拶だけして見送ったが、そのあとすぐに土方と山南が呼び出されていた。
「もともと浪士組は攘夷実行の魁として入洛した。しかしいつまでたっても市中警護ばかりで本懐を果たせない。それまでも会津と交渉を続けていたが幕府の重い腰を上げる一端になれば、と局長が提案し新撰組を解散すると……まあ、条件を出したというか、脅したということだな」
「それって、土方さんも同意しているんですか?」
「むしろ土方副長の考えだと俺は思う」
確かに新撰組を解散する、だなんて考えは近藤のものではないだろう。そう言った大胆なアイデアは大体土方が口にするのだ。たとえそのつもりがなくても近藤はそんなことを口にしたくはないだろう。
「ふうん…でも、そうなれば、『ああ、じゃあどうぞ解散してください』という話にはならないんですか?」
「わからない。一か八か、という賭けなのだろう」
壬生浪士組としてやってきて一年。列挙するほどの成果は上がっていないが、以前に比べて治安は安定している。幕府に反抗する者たちも動きを沈め『天誅』と称される事件も減った。もっとも、京の人から見れば乱暴狼藉を働く浪人と、悪名高い壬生狼の区別なんてついていないだろうけれども。
「…それにしても、斉藤さんはなんでそんなことを知っているんです?まだ幹部会だって開かれていないのに」
「とある筋から」
あからさまにオブラートに包んだ斉藤に、総司は
「とある筋って?」
と詰め寄った。斉藤はしばらく口をつぐんで、みかんのスジを取り続けていたが
「とある筋はとある筋だ。とある筋のものから、あんたと土方副長がついに契りを結んだらしいという話も聞いた」
「…はっ…?!」
火鉢が急に熱を上げたんじゃないか。体温の上昇をそんな風に錯覚した総司だったが、そうではなくそれは紛れもなく自分の体内から発する熱で。
「な、なんで知ってるんですか…っ!」
と思わず叫んでしまっていた。
「それは、とある筋から」
「だからとある筋って何なんですかっ って、そうじゃない。そうじゃなくて、べ、別に土方さんと、そ、そんな関係になったわけじゃ…」
確かに土方の口付けを受け入れて、されるがままに身体を任せてしまったけれど…と、思い出すとやはり如実に顔に現れてしまう。いま、自分は途轍もなく赤い顔をしているはずだ。それは火を見るよりも明らかな事実で。
「…斉藤さんは、変な目で見たりしないんですか?」
総司は火鉢に手を翳した。動揺しすぎたせいか暖かさは良くわからない。
「別に。最近流行らなくなっているけど、お触れが出ているわけでもないし」
「まあ…そう、なんですけど」
僧侶や公家で営まれ、戦国時代には武将が男色を好んでいたという話はいくつかあるが、泰平の世の中になりだんだんとその慣習は薄れて行った。幕末の今では衰退している。だが、決してなくなったわけではなく江戸の芳町しかり京都の宮川町しかり残ってはいる。
「今まで…身近にいて、家族のような友達のようなそんな人が、急にその…そういう、関係になるっていうのは…なんだか不思議で、どうしていいかわからなくて」
「男女の間だって一緒だろう」
斉藤のあっさりとした答えに総司は「それはそうなんですけど」と口ごもる。
まだ、何も変わらない気がしてしまう。今までも特別だった人が、もっと特別になって、自分のなかの最愛になる。どこまでたどり着けば彼と同じ「想い」を手に入れられるのだろう。どこまで彼のことを想えば、認められるのだろう。この気持ちを、心から。
「斉藤さんは、誰かを好きになったことがありますか?」
唐突な問いに、斉藤は少し顔を顰めた。
「……ある…」
「そうなんですかっ?」
その答えに総司は思わず驚いてしまった。すると斉藤が怪訝な顔をした。
「あんた、人をなんだと思って…」
「いや、だって、斉藤さんって…その、いい意味で孤高っていうか誰も寄せ付けないっていうか…島原とかいってもそんなに楽しくなさそうだし、女の人と話をしているのなんて、そういえば見たこともないなあって」
総司はそこで「ん?」と思い当たった。
「…もしかして、斉藤さんって、女の人が嫌いなんですか?」
「……」
斉藤は黙っている。無表情にみかんのスジを取り続ける。
「もしかして、男の人のほうがいい……とか?」
総司がさらに追い打ちをかけると斉藤の手が止まった。そしてゆっくりとした仕草で総司の目を見る。その目は総司には少し険しく映った。
「…えーっと…?」
何か下手なことを言ってしまったらしい、と総司は後悔しつつも斉藤の発言を待つ。
「たとえば」
「はい?」
「たとえば、あんたが好きだっていったら、どうする」
それはあまりにも彼らしくない言葉で、
「冗談…ですよね?」
と思わず問う。しかし斉藤は何も答えず、ただ総司の目を見ていた。その射抜くように強い目線は
(…時々、土方さんに似てる…)
なんて思ってしまったばっかりに
「まあ…その、割と、悪くない、かも?」
と言ってしまった。もっとも斉藤は試衛館時代から知っている仲間であるし、同室であるし、年が近くもある。一緒にいても息苦しくないし、気を遣わないでいい心地よさがある。曖昧な答えになってしまったのは、断る理由もないからだ。斉藤は「ふうん」といい、
「じゃあ、俺があんたを土方さんと取り合って、裸にひん剥いて抱いても文句はない、と」
「はっ?!」
「そういう意味で聞いている」
総司の動揺とは裏腹に斉藤はとても真摯なまなざしだ。冗談だとは思えないほどに。
「それはちょっと…違うような」
「だったら、簡単に受け入れるな」
思った以上に冷たく斉藤に言い放たれた言葉は、少し怒っているようにも聞こえた。普段から感情を表に出さない斉藤にしては珍しいことで
(…なんか、変だなあ)
と思いつつ、総司は黙って火鉢に手を翳した。部屋が急に寒くなったような気がしたからだ。


一方。
雪解けを迎えた前川邸では。
「有馬?有馬って、温泉のか?」
会津から呼び出しを受け、帰ってきた近藤は「有馬へ行く」と土方へ告げた。
「松平様から休養してはどうだ、という話を頂いたんだ。最近疲れが溜まっているのを心配してくださったそうだ」
「そりゃ光栄なことだが…」
「なに、七日ほどで帰ってくる。それまでは留守を頼む」
近藤は適当に荷物を見つくろうと行李に仕舞い込んだ。
「総司を連れていくか」
腕が立つと言っても一人きりでの旅は危険だ。土方は当然のように総司を連れて行かせようとしたが
「いや、筆頭の使い手を連れて行くほど危険な旅でもないさ。会津様の御家臣も一緒だからな。そうだな…浅野君と谷君辺りをつれていこうかな」
「谷?兄の方か?」
「いや。末っ子の方だ」
谷は昨年暮れに入隊した三兄弟だ。もともとは武家の家系だったようだが事情があって没落し、兄弟そろって入隊を希望した。長兄・三十郎は剣も良く使い軍法にも長けた人間でもともと原田とも顔見知りだったため、総司たちと同じ副長助勤として迎えている。真ん中の万太郎は槍を良く使い、大坂の地理に詳しいので監察として大坂へ遣っている。そして末っ子の昌武。こちらは兄二人に比べたら特筆とした才能のない若者なのだが。
「…護衛にはならねえ気がするが」
「護衛としてじゃないさ、彼は礼儀正しい良い青年だよ。備中松山藩周防守様のご落胤らしいという噂もあながちウソでもないかもしれないなあ」
確かに昌武は兄二人の朴訥とした雰囲気とは違って、上品で整った顔立ちをしている。剣術にたけてはいないが、近藤の言うように公の場でも特に問題はなさそうなのだが。
「…まあ、近藤局長がそういうのなら特に構わねえけど」
「ああ、よろしく頼むよ」
入隊したばかりの若者を贔屓して旅に同行させる…。これが谷三兄弟末っ子にとってプラスになるのかマイナスになるのかは計り知れないものの、土方には特に反対する理由はない。
(理由はねえ…がな…)
何か嫌な予感がする。土方は内心ため息をつかざるを得なかった。







139


文久四年二月。新撰組局長近藤勇は会津松平容保より温泉療養を勧められ有馬へ向かった。局長不在の屯所だが、鬼の副長がいるので大差ない。刺すような冷たい寒さの中、隊士たちは日々隊務に励んでいた。

相変わらず部屋には火鉢の前に居座る斉藤がいた。よほどの寒がりなのか一歩もそこから動こうとしない。厚手の綿入れを着込んで相変わらずみかんを手にしている。
「…なんか、その光景ももう見慣れてきましたね…」
「早く冬が終わればいいんだ」
斉藤は少し不機嫌そうに言った。どうやらまだ温もりが足りないようだ。顔を赤く染めて、総司からすれば十分温かそうだ。
「巡察変わってくれとか言わないでくださいよ?」
「そんなことをすれば切腹だろう」
「そりゃそっか」
と、そんなくだらないこと言い交していると
「沖田先生、斉藤先生」
と声がかかった。それは島田の声だった。総司が返事をするとやはり彼がいた。
「土方副長がお呼びです」
島田の伝言に斉藤は嫌そうな顔をした。暖かい火鉢の前を離れる理由ができてしまったからだ。


総司たちは八木邸を出て足早に前川邸へ向かった。家の中だとまだ良いが、冬の風に当たるとまるで冷たい氷水に身体を投げ入れたように寒いのだ。前川邸に足を踏み入れると平隊士が控えている場所であるので人が多く何となく暖かい。しかし、その部屋を通り過ぎて土方の元へ向かった。
「土方さん、入りますよ」
いつもそうしているように特に返答を求めず総司は部屋に入った。部屋には土方のみがいた。
「あれ?山南さんは?」
斉藤とともに呼び出されたのでてっきり仕事の話だと思い、同じ副長である山南もいるのかと思いきや。
「山南さんは寝込んでる」
と土方はあっさり言った。総司は顔を顰めた。山南が寝込むことはそう珍しくはないけれど、この季節風邪をこじらせて大病を患った隊士も少なくない。
「寝込んでるって…どこか体の具合でも…」
「本人は風邪だと言っている。医者にも行ったそうだから大事ないだろう」
土方の言葉に総司はほっと安堵して座った。隣に斉藤も座る。
「それで、用というのは…?」
総司が促すと、土方は急に険しい顔になった。
「ああ…お前たちに仕事を頼みたい。絶対に失敗は許されない仕事だ」
重々しい物言いに、総司は少し驚いた。
「失敗は許されない…?」
「会津様からのお達しだ。確実に捕まえる必要がある」
「……捕まえる?」
隊内で一二を争う二人が呼ばれたわけだからてっきり『捕まえる』ではなく『仕留める』、だと総司は思ったのだが。
「傷一つなく捕まえる」
「…逃げて抵抗する相手を傷一つなく『捕まえる』というのはちょっと難しいんじゃないですか?」
「だからお前たちに頼んでいるんだろう」
土方は真剣な表情を崩すことはしない。隣にいた斉藤が重々しく
「もしや、高貴な方…とかですか」
と問うた。確かに会津絡みの仕事となればその可能性が高い。御曹司が親に反抗し家出でもしたのだろうか…総司はそんな安易な想像しかできなかったが。
土方は少し悩んだ後に「高貴…というわけではない」と答えた。
「ただ事を急がなければ逃げられてしまう。今すぐにでも探し出せということだ」
「だったら隊士総出で探しに出たほうが良いんじゃないですか?」
「馬鹿。内密での話だ。平隊士に漏らすわけにいかねぇから、お前たちに託すってことだ。原田は口が軽いし、永倉は稽古の番だ。藤堂は夜勤。信頼のおける暇な奴がお前らしかいなかったんだから仕方ないだろう」
褒められたような、貶されたような…総司は複雑な気持ちになった。しかしこんなに土方が仰々しく頼むのだからよっぽど重要な仕事なのだということはよくわかった。
「わかりましたよ。っていうか、最初から拒否することなんてできないんじゃないですか。仕方ないから引き受けてあげます、ね、斉藤さん」
隣にいた斉藤も異論なくうなずいた。
「ったく、恩着せがましいな」
土方は文句を言いつつも「まあいいか」と言った。
「それでその、捕まえる相手だが…」
「はい」
「首に辺りに鈴が付いているそうだ。縄は紅白の色らしい」
「………は?」
土方がさも当然のように言った、その情報は総司には理解できない特徴だった。
鈴?
縄?
脳内に出てくるのは、試衛館にいた頃、土方が見ていた春画本の一頁。そういう遊びで情事を楽しむ男女の図だったりして…。
「まだ子供だそうで、足は速いが体力はないだろうということだ」
子供?
「それから…」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
総司は慌てて土方の言葉を止めた。そして斉藤の方を向くと、彼も少し険しい顔をしていた。意味がいまいちわかっていないのは斉藤も同じのようだ。
「土方さん、話が見えないんですけど…」
「そりゃそうだろうな。俺も最初は意味がわからなかったんだからな」
だったらわかりやすく説明してくれればいいのに…と総司は内心ぼやきつつも、
「あの、つまり捕まえる相手っていうのは…」
「犬だ」
と。
土方があっさり答える。総司はしばらく空いた口がふさがらなかった。
「……犬?」
「ああ。松平様の姫…だったか、なんだったか忘れたが、大層可愛がられていた子犬だそうだ。先日から屋敷で姿が見えず、姫が三日三晩泣くものだから俺たちに探すように頼まれた」
「引き受けちゃったんですか?!」
逃げた相手が犬ということなら捕まえるのは難しい。人間は人相から当てがつけられるかもしれないが、犬はそうもいかないのだ。それに逃げて数日たつということなら、この都にいる可能性も低くなってくる。それを引き受けてしまったというのは。計算高い土方にしては珍しく感じられた。
「小さなことでも成果を上げておくのが大切だからな」
もっともらしいことをいう土方だが、総司は脱力したまま力が入らない。
「それこそ…隊士総出で探したほうがいいじゃないですか…」
「こんなことで俺たちを出動させてみろ。会津藩はいい笑いものだろう。だから、内々に、内密にと言っただろう」
会津のために、と言われれば総司もぐうの音が出ない。渋々「わかりましたよ」というしかなかった。
「ものすごく貧乏くじを引かされたというのはわかりました…」
「まあそういうな。返礼は期待しておけ」
土方は苦笑しつつ、懐から一枚の紙を取り出した。そこには犬の絵が描かれていた。
「姫が描いたものらしい。毛並みは薄い茶、腹の部分は白だそうだ」
「…あの、土方さんも手伝ってくれるんですよね」
「俺は忙しい」
総司の頼みは一刀両断にされてしまった。
「自分が犬が嫌いだからって…」
総司はブツブツと文句を言いつつも絵を懐にしまった。
「じゃあさっそく出掛けろ。何度も言うが傷はつけず、保護するんだ」
「はいはい」
重々しい命令なのに、その目的が犬の捕獲だなんて。総司はため息をつきつつも、部屋を出ようとした。斉藤もそれに続く。
「斉藤」
しかし土方の声がかかり、斉藤が立ち上がるのをやめた。
「お前は少し残れ。話がある」
あからさまな物言いに総司は少し拗ねた。何だか仲間外れにされたような気分だ。「私がいちゃできない話なんですか?」という言葉が喉まで出かかったが、どうせ「焼き餅を焼いてるのか?」とからかわれるに決まっている。なので
「じゃあ先にいってます」
と告げて部屋を出たのだった。

「なんでしょうか」
部屋に残った斉藤が先を促した。土方は少し笑って
「会津からはお前を指名されたぞ」
といった。意地が悪い人だ、と斉藤は思った。しかしそれを口にはしない。
「そうですか」
斉藤は感情を出すことなく答えた。
特に動揺する必要はない。なぜなら、この人にはすべて知られている…そんな気がするからだ。
「総司にはああ言ったが、犬は見つからなくても構わないそうだ。姫が我儘を言って周囲を困らせている…そういうこと、なんだろうな」
土方が同意を求めるように斉藤に話を振る。しかし斉藤は「さあ」ととぼけた。
しかし土方は
「それよりも野に放った別の犬が気がかりだそうだ。喜んで庭を駆けまわることをしない寒さに弱い犬は、なかなか顔を見せてはくれない…とさ」
と尚も意地悪に斉藤に行った。
「…それは、会津様のお言葉ですか」
斉藤が問うと
「さあな」
ととぼける。
お互いがお互いの腹の探り合いをしているような感じだ。斉藤は「お話がそれだけなら」といって立ち上がった。土方も特に止めたりはしなかったものの
「頼んだ」
とだけ言った。
それは犬を探すことを頼んだ、ということなのか、隊の幹部として頼んだ、ということなのか、それともはたまた総司の子守を頼んだ、ということなのか…。
斉藤は特に返事をすることなく部屋を後にした。





140


「うーん…やっぱり安請け合いしすぎたかなあ」
総司が嘆き始めたのは、例の迷子犬さがしをはじめて三日ほど経った頃だった。
会津から頼まれた仕事だとは言っても、通常の巡察を怠ることはできない。暇を見つけては斉藤とともに京を歩き回り、それらしい犬を探している。ここの所(寒さ故)籠りっきりだった斉藤と総司が二人きりで出かけるのはもちろん他の隊士にとっては珍しい光景で
「どうかされたんですか?」
と出掛けるたびに門番の隊士が聞いてくるほどだ。もちろん内密の仕事を漏らすわけにはいかないので
「野暮用で」
と誤魔化すのだ。
ところで、三日間の成果といえばこの都には犬が少ない、ということのみだったりする。かろうじて成犬は見かけるが、子犬となれば全くいない。
「もう遠くに逃げちゃったんじゃないですか?それか、子犬だから誰かに貰われていったとか…」
「それを承知で会津は探して来いと言ったんだろう」
無謀な命令に拗ねる総司とは反対に、斉藤はいつまで経っても冷静だ。
歩き回るのも疲れるので、今日は総司行きつけの甘味屋の軒先を借りて張り込むことにした。そして頼んだ団子で腹が膨れるほど時間が経った。当てもなく歩くにはこの都は広すぎる。しかし、同じ場所で待機し続けるのも総司には性に合わないようだ。しかも目の前を通り過ぎるのは馬や猫そして人間ばかり。
「…土方さんに内緒で、隊士全員に箝口令を敷いて犬さがしに動員させたら駄目なのかな。せめてうちの隊だけでも」
「切腹だろ」
総司のアイデアは斉藤にあっさり切り捨てられた。総司はまた口を尖らせた。
「あーあ…近藤先生がいたらこんなことにはならなかったのに…」
近藤は有馬へ出掛けている。もう少ししたら帰ってくる予定だが、近藤が居ればこんな無謀で、遊びみたいな仕事を引き受けないで済んだかもしれないのに…
「…遊び…?」
総司はその言葉が少し引っかかった。
「斉藤さん、もしかして遊ばれてるとかじゃないですよね」
「……」
斉藤の、茶に伸ばしかけていた手が止まった。
「……斉藤さん?」
まるで時間が止まってしまったかのように、彼は無表情になった。…いや、もともと無表情なのだが、彼の放つ雰囲気というか、そういうものが一瞬で凍ったのだ。それはきっと誰も気が付かない変化で、この三日ぴったり一緒にいる総司だからこそ分かったことなのだろうけれど。
そして彼はゆっくりと口を開いた。
「誰に」
「え?」
「誰に、遊ばれてると思う?」
総司の言葉を一蹴する物言いではなく、彼は真剣だった。
「え…っと、土方さん?」
「……」
斉藤はしばらく沈黙したのちに、ため息をついた。
「…だったら、良いんだ」
小さくつぶやいた言葉は総司には全く意味の分からない羅列で。総司が首を傾げていると、視界に予期せぬものがうつった。
「あっ」
その子犬は子供に抱きかかえられていた。女の子は愛しそうにその子犬を見つけて顔を綻ばせている。
それが探している犬かどうかはわからないが、総司は反射的に身を乗り出してそのまま女の子へ駆けていた。総司が慌てて「君っ!」と声をかけると女の子は振り向いた。
「その犬、君の…っ?」
必死な総司の様子に、女の子は少し怯んだ。声を出さず、ただ頷いた。
「あの…最近、拾ったとか、飼い始めたとか…そういうのじゃないよね…」
半ばそうであればいいのに、と思いつつ問う。すると女の子は戸惑ったように首を傾げたが、頷いた。
「うちの…」
小さな声でそういうと、ぎゅっと子犬を抱きしめる。取り上げられてしまうと思ったのかもしれない。普段から子供に接しているので、女の子が総司を警戒しているのは良くわかる。
「えっと…なら、いいんだ。ごめんね」
女の子が自分の犬だと言い張るのなら、食い下がるわけにもいかない。確かに首に紅白の縄は嵌められていないし、毛並みも少し黒っぽい。
総司は子犬へ手を伸ばした。頭を撫でてやれば、女の子の警戒も少し解けるのかもしれない、とそんなことを思ったのだが。
「いたっ!」
子犬の方も少女と同じく総司を警戒していたようで、指を伸ばしたところで思いっきり牙を向けられた。予期せぬ攻撃にさすがの総司も避けることはできない。
そして女の子はさらに顔を強張らせて、踵を返して逃げて行った。総司は痛みで追いかけることはできなかった。
「いててて…」
子犬とはいえども、敵意むき出しで噛まれた傷口は既に血が滲んでいた。
「無事か」
そこでようやく斉藤がやってきた。それまでの総司とのやり取りは眺めていたようだ。
「はは…噛まれちゃいました」
総司が傷口を見せると、斉藤はその手を取った。
「え?」
「じっとしてろ」
何を言うのかと思えば、彼は何の躊躇いもなく総司の傷口を口に含んだ。そしてその血を吸うようにして、その唾液を路面へ吐きだした。
「…病気を持っていないとも限らない。こうすれば毒も回らないですむ」
「あ…ども…」
突然のことに総司はあいた口がふさがらない。
そういえば、彼がこんな風に敬語を使わないようになったのはいつからだっただろう。昔は年下なのを気にして敬語を使っていて、それを総司の方から「やめてほしい」と言っていたような気がするのに…いつの間にか「年下の兄」という呼称がすっかり相応しくなっていた。
(やっぱり…変な感じ)
土方に似てるなんて。
そんなことを思うなんて。


一方。
子犬探しに苦難する二人をよそに、土方は久々に花街へ足を延ばしていた。連れはなく誰にも知らせていない。目的はストレス発散の女遊び…でもない。
「まあ、ご無沙汰どす」
いつものように歯に衣着せぬ物言いで顔を出した彼女はしかし嬉しそうに微笑んでいた。
「君菊」
「うちのことなんか、お忘れになったのやと毎晩泣いておりましたのえ?」
冗談めかしてこんな風に挨拶をするのは君菊くらいしかいない。新撰組の土方といえば鬼の副長である、というのは隊内だけのうわさではないのだ。それゆえ二人の関係は周囲に親密にうつり、次第に「馴染みである」と肯定されてしまった。土方にとっては特に困ったことでもないので否定はせず、君菊も何も言わない。
「悪いが人払いをしてくれ」
君菊の後ろには二人の禿が控えていたが、君菊は「余所で遊んでき」と言うと頭を下げて去って行った。良くあることなのだろう、特に疑うこともなく従ったようだ。
君菊は優雅な仕草で部屋に入ると、彼女はゆっくりと障子を閉めて、土方の前に座った。
「…まずはこれだ」
土方は懐から石田散薬を差し出した。普段は隊士に届けさせている薬だが、ちょうど切れる頃だろうと思い持ってきたのだ。出逢ってから数か月、彼女の足は治ることはないようだが、この薬で痛みが和らぐそうだ。君菊は嬉しそうに受け取った。
「おおきに。これ、ほんまにお酒と一緒に飲むとよお効きます」
「そんな言葉を聞いたのは初めてだ」
「お酒の力やもしれへんけど」
くすくす笑いながら君菊は石田散薬を懐に忍ばせた。
「それで、今日は…?」
挨拶もそこそこに人払い、ということで君菊もただ土方が遊びに来たのではないと悟ったのだろう。
(相変わらず察しのいい女だ)
と思いながら土方は頷いた。
「…一つ、聞きたいことがある」
「へえ」
「お前は、俺の為にどのくらい命を張れる?」
余りも唐突な質問だと、口にした土方でさえ思っていた。そもそも彼女との関係は隊士らとは違って縛られたものではない。主従関係でもない。ましてや恋人関係でもない。そんな相手のために命を張るなんて馬鹿げている。
しかし彼女は特に表情を変えることはなかった。
「ぜんぶ」
それどころか微笑んでいた。
「ぜんぶあげますえ」
「……」
分かってはいた。彼女との関係は周囲が思うようなものではないけれど、君菊自身の気持ちは自分へ向いているのだと。二度目に出会った「惚れた」という言葉は冗談でもなく嘘でもなく紛れもなく本心なのだろうと。
しかし土方でさえ、そんな彼女がこんな風にきっぱりと断言するのはあまりにも意外なことだった。
「俺は何も返してやれないぞ」
だからこんな風に意地悪な返答をしてしまったのだろう。しかし彼女はそれでも
「知ってます」
と言い切った。
「土方せんせはわかったいたはずどす」
その、余りに適切な指摘に土方はそれ以上何も言えない。むしろ、その言葉以上に求めるものはなかった。
「お前のその気持ちに付け込んでもいいんだな」
「へえ」
もしかしたら彼女は次の言葉でさえわかっているのかもしれない。
「お前を利用したい」
「……」
「…俺はどんな手を使ってでも、叶えたい願いがある。それは俺一人だけの願いではない。だからこそ…俺は何でも使えるものは使う。お前でさえ使う」
新撰組にも監察はいる。しかし彼らは町人に成りすましたり、物乞いのふりをすることはできるが、男である以上、この情報が行き交う花街ではその役目を果たすことは難しい。だから、君菊を間諜として雇う。それが土方の考えだった。
近藤にも、もちろん総司にも話していない残酷な考えだ。自分への恋心を利用して、付け込んで、彼女の命を危険に晒そうとしているのだから、総司などが聞いたら怒りそうなことだ。
(…それでもいい)
願いをかなえるのに手段は択ばない。選んでいられない。
「…土方せんせ」
君菊は何の感情も見せず、穏やかに呼んだ。
「条件が一つ、あります」
「何だ」
叶えられるものなら、叶えるつもりだ。それだけのことを、それだけの仕打ちなのだろうから。
「役目が…終わった暁には、うちのことを請け出してくれますか…?」
「…」
察しが良く、頭も切れて、冗談も言う。歌声が綺麗で、端正な顔立ちで、数々の男を魅了し、輝きを放ち続ける。彼女はこの花街で生きるために生まれてきたのだ、と男たちは思うだろう。しかし、その心は誰よりも女であり、好いた男とともにありたいと願う弱きおなごに違いない。
「わかった」
これ以上、彼女の気持ちを踏みにじることはできない。
そんな風に思ってしまった自分は、まだまだ鬼に足りないのだと土方は少し思った。








解説
134※「めくら」とは視覚障がい者のことを指します。現代では差別的表現に当たりますが、時代背景上使わせていただきました。ご了承ください。
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