わらべうた





141


文久四年二月。迷子犬さがしを始めて五日経過していた。いつもと変わらない仕事に加え、迷子犬さがしという密命に総司の疲労は限界に達しようとしていた。しかし。
「まだかよ」
総司の苦労も知らず傍若無人な副長土方は不服そうに文句を言った。いつもなら拗ねるくらいで済ます総司も
「じゃあ代わってくださいよっ!」
と思わず叫んでしまった。
「土方さんは簡単に『探せ』っていいますけどね、たったふたりでこの広い街に、いるかいないかわからない子犬を探すなんてどれだけ大変なことか!犬なんて飼い犬くらいしか見かけないし、子犬なんて一匹もいやしない。手がかりは何にもないじゃないですか!土方さん、一度くらい味わってみたらわかりますよ、っていうか、一日だけでもやってみたらいいんですよっどれだけ大変かっ! というか、これなら普通に仕事を二倍しているほうがマシですっ!」
「わかったわかった、落ち着けよ」
五日間溜りたまったストレスは溢れ出る文句となっていた。土方がまるで暴れ馬を落ち着かせるように「どうどう」と言う。
「俺は近藤先生が帰ってくる前にカタをつけてぇんだよ。山崎の報告によるともうこっちに向かってるらしいし」
「そうなんですかっ?」
先ほどまでの苛立ちがどこかへ行ってしまったかのように、総司の表情が明るくなった。
「犬が見つかったとなりゃ、近藤さんも会津へいい報告ができるだろう。だからもうちょっと頑張れよ」
「……そりゃ、近藤先生のためなら…頑張りますけど…」
尊敬する師匠のためだ、と言われれば総司も文句は言ってられない。土方の手のひらで転がされている気はしないでもないが、総司は仕方なく飲み込むことにした。
「でも正直な話、見つかる気はしないですよ。会津様はどれくらい本気で命令を出されてるんです?」
「ま、見つかれば儲けもん…くらいだろうな」
やっぱり、と総司はため息をつく。
「斉藤さんと話をしてたんですよ。まるで遊ばれてるみたいだって。これが土方さんの冗談だったらどうしようかと思いましたよ」
「遊び?」
「ええ、だから土方さんが冗談でこんな仕事をさせてるんじゃないかって話を……土方さん?」
話の途中だというのに、土方が顎に手を当てて何かを考え始めた。そういえば同じような話をして斉藤も同じように何かを考えていた。
『誰に、遊ばれていると思う?』
そういえば斉藤はあの時そう聞いてきた。総司は特に他意はなかったので『土方さん』と答えたが、彼はまだ深く考え込んでしまっただけで何の答えも聞くことはできなかった。
彼は誰に遊ばれていると思ったのだろう。
「やっぱり、斉藤さんと土方さん、似てますね」
「あ?」
「斉藤さんも何だか最近お兄ちゃんみたいなんですよね」
まあ、実際本物の兄なんていたことがないのでわからないけれど。それは総司的には何の意味もない話題だったのだが、しかし土方は顔を顰めた。
「どこか似てるんだよ」
「え?えーっと…割と傍若無人なところとか一緒だし、私のことを頼りない弟扱いするし。その割には世話焼きなところとか…まあひねくれっぷりは土方さんほどじゃないですけど」
土方が何故か負のオーラを醸し出していたので、冗談めかして答えたのだが、その表情はいまだに険しい。何か不味いことを言ってしまったのか…と総司は内心首を傾げたが、不意に左手を取られた。
「これ、なんだ」
「え?」
土方が視線を落としていたのは、左手に付いた傷。それは二日前にあの子犬に出会った時の噛み痕だった。
「ああ、これは子犬に噛まれたんです。不意に手を伸ばしたら警戒されちゃいました。傷は大げさですけど、全然痛くはなくて」
「毒はもってなかったのか」
「ああ、それも斉藤さんが…」
「斉藤?」
またも口をついて出た斉藤の名に、土方はさらに怪訝な顔をした。総司も口にした途端「拙い」とは思ったのだけれども。
「えー…っと、斉藤さんが、教えてくれて、吸い出してくれた…ような」
やや目を逸らしつつ、暈して答えた。特にやましいことはないはずなのに、土方に詰め寄られているような気がする。そして取られた左手を強く握られた気がした。
(斉藤さんのことは土方さん、信頼してるし…)
だからまさか斉藤に八つ当たりなんてしないはず…と思いつつ、ちらりと土方の方に目をやる。すると明らかに不機嫌な感情が丸出しになっていて、
「あ、あの…怒ってます?」
と総司は思わず聞いてしまった。
「別に」
短く答えた言葉は明らかに怒っている。
「えっと…別に斉藤さんは何か他意があったわけじゃ…」
「他意なんてあってたまるか」
「はあ…」
「いいから、さっさと迷子犬探しにでも行けよ。斉藤と一緒にな」
ぷい、と顔を逸らして仕事に戻る土方は総司に背を向けて筆を取った。どうやら本当に機嫌を損ねてしまったようだが。
(何が何やら…)
と当の本人は首を傾げたままだった。


「まあ、沖田せんせ!」
総司と斉藤を、邪気のない天真爛漫な笑顔で迎えてくれたのはおまさだった。原田の想い人である彼女は相変わらず伯母の店であるこの甘味屋で働いているようだ。もともとは大きな商家の娘らしいのだが、深窓の令嬢という性格ではなくどんな人間にも分け隔てない笑顔を振りまく商い気質のようだ。
店に入るなり総司は店内を見渡した。どうやら原田や永倉の姿はないようだ。
「お久しぶりどすなあ。あんみつで宜しいかしら」
おまさは総司たちを席へ促すと、いつものように訊ねてきた。
「もちろんそれもお願いしたいんですけど…おまささんに聞きたいことがあって」
「うちに?」
「ただ、原田さんたちには内緒にしていてほしいんです」
今日この店にやってきたのはもちろん子犬捜しの為だ。仏光寺通りは人通りも多いし、さらに客商売をしていて顔の広いおまさなら何か小耳にはさんだ噂でも知っているかもしれない。ただ原田たちにバレてしまう可能性はあったので、最後の手段だったのだがもう時間がないので一縷の望みをかけてやってきたのだ。
するとおまさは「特命やねっ」と何故か目をキラキラ輝かせていた。
「子犬を探してて…これが絵なんですけど、この辺りで子犬を飼い始めたっていう人、知りませんか?」
「うちのこと?」
おまさは首を傾げた。
総司と斉藤も、首を傾げた。
「…へ?」
「せやから、うちのこと?」
彼女のその大きな目がきょとんとした顔で総司を見ていた。さらに追い打ちをかけるように「うち?」と指をさす。総司は思わず斉藤を見た。斉藤も珍しく瞳孔を広げて驚いていた。
総司が余りに事に声も出せないでいると
「おまさちゃーーんっ!この犬、俺のこと噛みやがった!」
と、大声を上げて店に入ってきたのは原田だった。袴も着けておらず相変わらず町人体のラフな格好だったが、その腕には子犬が抱かれていた。薄茶色の毛並み。しかし紅白の縄はしていない。
おまさは原田に駆け寄ると
「うちのことは噛まへんよ、ねえ、太郎」
「だってよー、ほら、見てくれよーっ」
「舐めとけば治るわ」
「ひでーっ」
…傍から聞いているとまるで夫婦漫才のよう…なのだが、呆然と聞いているわけにもいかない。総司は慌てて二人の元へ駆け寄った。
「おまささんっ この子犬って…いつから?」
「へえ?えーっと…そやなあ、十日ほど前かしら。餌やったら味占めて通うようになって」
「紅白の縄!つけてませんでしたか??」
「そうそう!今は外れてしもうたけど、なんや上等な飾りやったなあ……って、なんでしってはるん?」
「ってかお前ら何してんだ?」
夫婦のように息もぴったりな二人が顔を見合わせて総司を見る。総司は「えっと…」と口ごもった。
「その…知り合いの、犬を…探してて。ちょうどぴったりかなあ…って?」
「お前、挙動不審じゃね?」
こういう時に察しのいい原田が疑いの眼差しを向ける。
「ね、ねぇ!斉藤さん!」
総司は慌てて斉藤に話を振った。相変わらずの無表情だったが、しかし斉藤がまるで何も聞こえていないかのように一歩前に出た。そしてゆっくりとした動作で腰を下ろし、犬に手を差し出した。
「おい、斉藤。この犬、噛むぜ?」
「知らない人は怖いみたいで…」
原田とおまさが忠告するものの、斉藤は手を引こうとはしない。
「…斉藤さん?」
すると子犬は、最初はくんくんと斉藤の手のひらの匂いを嗅いだ。警戒しているのだろうか、腰が引けている。しかし次第に斉藤との距離を縮めた。そしてついには牙を向けるのではなく、舌で手のひらを舐めた。
「まあ!斉藤せんせには噛まへんのやなあ!」
「なんだよそれー!」
すっかり懐いたようで、斉藤の足の周りを嬉しそうに駆け回る。それはまるで昔から知っているかのような、そんな反応だった。
しかし斉藤は顔を顰めたまま喜ぶことはなかった。


残念がるおまさをどうにか宥め、そして怪しむ原田をどうにか誤魔化して、総司と斉藤は子犬を連れて屯所へ向かって歩き始めた。最初は総司が抱きかかえようとしたものの、やはり噛みついて警戒した。しかし斉藤が同じようにするとすっかり身を任せて今では腕の中でうとうととしてリラックスしていた。
「…斉藤さん」
「……」
斉藤は口を開こうとはしない。しかし総司は構わず言葉にした。
「子犬のこと、知ってたんじゃ…」
「それ以上は聞くな」
斉藤は総司の言葉を打ち切った。今まで聞いたことのない様な拒絶の言葉に、総司は言葉を飲み込む。しかしその拒絶はつまり肯定しているのと一緒だった。
(土方さんは…知ってるだろうなあ…)
きっとたまたま総司と斉藤に犬さがしを頼んだのではない。『斉藤だから』、探し出せると踏んでいたのだろう。
(意地悪だなあ…)
「悪かった」
「え?」
突然の謝罪に総司は驚く。まるで心の中が読まれたかのようなタイミングだった。
「…あんたを巻き込んだのは確かだからな」
「それは……」
確かにそうなのだけれど。
すると斉藤はぽつり、とつぶやいた。
「…犬は、犬さがしがお似合い…ということだ」
「斉藤さん…?」
「あんたの勘はあながち間違ってはいないということだ」
それだけ言うと、斉藤はまた黙り込んでしまった。断片的にしかわからない言葉は、総司の中でも答えが出ない。
瞼に焼きついたのは、腕の中で穏やかに眠る子犬と斉藤という不思議な光景だった。





142


文久四年、二月中旬。
「ただ今戻った!」
有馬にて英気を養ってきた近藤らが無事に帰還した。門番の知らせで隊士総出で出迎えた。
「おかえりなさい!近藤先生!」
誰よりも近藤の帰りを待ち望んでいた総司はすぐに前川邸の局長室へ駆けこんだ。近藤は穏やかに「長い間留守にしたな」と総司に肩に手を置いた。まるで一年くらい離れていたように感じてしまう。しかし、一緒に出迎えた土方は
「長くなんてなかったぜ。もっとゆっくりしてきても良かったんだ」
本当は嬉しいくせにその気持ちをひた隠しにして言う。もちろん幼馴染の照れ隠しに気が付かない近藤ではない。
「いや、歳が寂しがると思ってな」
と、からかった。
「それで、俺のいない間に変わったことはあったか?」
旅装を解きながら近藤が、土方そして総司の顔を見た。
「何も」
「えーっ!いろいろ大変だったじゃないですかっ」
まるで平穏に過ごした…という風に答える土方に総司が噛みついた。あの途轍もなく苦労した子犬捜索談をなかったことにしてもらっては困る。すると近藤が笑いながら
「歳、そういじめるな。…そうだ、土産があるんだ」
と、行李のなかから酒を取り出した。
「向こうで飲んだんだが、なかなか旨いんだ。飲みながら話を聞こう」
酒はあまり得意ではない総司だが、久々に帰ってきた近藤に話したいことはたくさんある。喜んで頷くと「じゃあ、何か肴になりそうなものを持ってきますね」と足取り軽く部屋を出た。
「歳も付き合えよ」
「ああ…その前に、近藤先生」
総司が去って行ったのを確認しつつ部屋の障子を閉め、土方は声を落とした。
「報告したいことがある」
「それは総司が居ては拙い話か?」
「ああ」
近藤は顔を顰めた。「もしや…」と心当たりがあったのだろう。土方もそうだ、と言わんばかりに頷いた。
「無理強いしたんじゃないだろうな」
「無理強いする暇もなかった。二つ返事で了承した。…たいした女だ」
「……」
さらに表情を暗くした近藤をみて、土方は
「近藤先生が落ち込むことじゃないだろう」
と小さく笑った。
「すべては俺の裁量で行ったことだ。山南さんも総司も知らない。知っているのは一部の監察と俺だけ。近藤先生も忘れてくれたらいい。…何が起こっても、もし失敗したとしても俺だけのせいだ」
いつもなら。
いや、昔の近藤ならここで歯向かっていただろう。もしくは「お前だけに背負わせるつもりはない」と庇っていただろう。しかし、近藤はしばらく無言になって
「そうか」
と答えただけだった。そしてその答えに、土方は安堵し頷いた。
(そうだ…それでいい)
大将はそうあるべきだ。


近藤の土産である日本酒と、総司が賄いからもらってきた肴で三人だけの宴会を開いた。
「そういや、三人だけで飲むなんて初めてじゃないか?」
「そうか?」
「そうですよ。京都に来てから、こんな風に三人だけっていうのも初めてかもしれませんよ」
酒が入ったのか総司は少しだけはしゃいでいた。
いつも顔を合わす三人だけれど、こんな風に仕事のことなしに部屋を共有するのは試衛館の時以来だ。もっとも試衛館の時も食客がたくさんいたので三人だけという時間は滅多になかった。普段から気負っているわけではないけれど、何も遠慮しなくていいこの時間は総司にとって何よりも幸せに感じる。
近藤が居なかった約10日間。子犬探しに奮闘したことや、原田とおまさが親密になったいたこと…他愛のない話をしているとあっという間に時間が過ぎ、夜も更けた。
「近藤先生、飲んでくださいよー」
「お?そおか?」
すでに顔を真っ赤に染めてぐいぐい酒を飲む近藤は呂律が回らなくなっている。土方は「それくらいにしとけよ」と忠告するが
「今日くらい歳も羽目を外したらいい」
と聞く耳を持たない。土方はちびちびと酒を飲むだけで特に酔っている様子はない。
「そうですよ、土方さん。ここは屯所なんだから、危険じゃないしー」
「そういう話じゃなくてだな…総司、お前も飲みすぎだぞ」
「いいからー」
総司は無理やり土方に酒を注いだ。
「いやぁ、有馬はな、良かったぞ。風呂に特にこだわりはなかったが、露天風呂っていうのはああも気持ちのいいものだとは知らなかった!」
「いいなー、羨ましいです。こんど三人で行きたいですねぇ」
「そうだなあ。今度は総司を同道させよう」
「やったあ、絶対ですよ!」
楽しげに盛り上がる二人を見ながら、土方は仕方なく酒を口に運んだ。
(よっぽど心配してたんだな…)
いつになくはしゃいでいる総司を見ながら土方はそんなことを思った。いくら会津の家臣が一緒だといえども、名が売れ始めた新撰組の局長ともなれば敵も少なくはない。腕の利く浅野と谷を同行させたけれど、総司は心配だったのだろう。口にしなかったのは、総司が成長したということなのか、親離れをし始めたということなのか…。
「あれぇ」
舌足らずな総司が声を上げた。土方が目を向けると、どうやら近藤が寝入ってしまったようだ。
「近藤せんせーい、近藤せんせーい」
ゆらゆらと総司が身体を揺らすが、起きる様子はない。すっかり夢の中だ。
「寝かしておいてやれ。疲れてるんだろう」
「そうですかぁ…」
酒のせいかぼんやりとした総司も眠たそうだ。土方は仕方なく押し入れから布団を取り出し、床を延べる。そして重たい近藤の身体をどうにか転がして布団をかけてやった。
「お前も部屋に戻るか」
「んー…」
とろんとした目の焦点が合っていない。頬も赤く染まっていて、酒が回ってしまったようだ。
「総司、起きろ」
「う―…」
土方が頬を軽くたたいてやるが反応はいまいちない。総司の部屋は前川邸ではなく八木邸なので道を一本はさむ。抱きかかえるのは容易いが、他の隊士に見られたら面倒だ。
「横になるか?」
辛うじて意識があるようで、頷いた。枕は近藤が使っている。膝を貸してやっても良いが、土方自身も酒が入っているのでいつまでもそうしているのは厳しい。なので、仕方なく総司の隣に自分も横になることにした。腕を枕に貸してやると総司は案外素直にそこに頭を置いた。
「…歳三さん…」
「ん?」
「……呼んだ、だけ…」
土方の方へ顔を向けて、目を閉じている総司。土方はじぃっと総司を見た。
「お前…本当に酔ってんだろうな」
土方が問うと、総司があわてて目を開いた。
「よ、酔ってます…よ」
しかし焦点は土方にあっていない。酒で染まっていたはずの頬が、さらに赤く染まったような気がした。
「ふーん…」
嘘が下手な奴だ、と土方は内心思った。もう随分前から知っていたことではあるけれど。
「じゃあ…俺も酔ってるってことにしておく」
「え…?」
土方はもう片方の腕を総司の背なかに回した。これで総司は離れられなくなる。しかしこれは誰かに見られれば完全に誤解されるようになってしまう。
「ちょ…っ、近藤先生が、いるのに…!」
「お前、酔ってる割には頭はしっかりしてるんだな」
「べ、別に…頭まで、酔ってるわけじゃ…ないです」
その下手な言い訳に土方は苦笑した。ますます顔が真っ赤になっている。
「ちょっとだけだ」
「…ちょっとだけですよ」
念を押す総司に「わかったわかった」と頭を撫でてやる。いつもなら「子ども扱いだ」と怒りそうなものだが、今日はそんなことはない。
(…ヤバいな…)
いつごろからか、総司がこちらを向き始めた。もともと近かった距離を、さらに詰める努力をしてくれているように見えるのは土方の気のせいではないはずだ。
いつも、「お前は俺のことが好きなんだろう?」と茶化しているけれど、本当はそんな自信なんてない。大切にしているつもりでも、自分のやり方が不器用で伝わりづらいのは自覚しているから。
だからこんな風にして確かめてしまうのだろう。嫌がらない総司を見て、安心しているのだろう。
(俺も案外…臆病な)
女に対してこんな風にしたことはない。そもそもこんなに割れ物を扱うように大切に大切にしたことなんてないのだ。
それはきっと替えがきくから。女の代わりは誰でもいると思えるからだろう。
けれど目の前の総司は、ただ一人しかいない。もう替りなんてどこにもいないのだ。
「総司…」
土方は抱き寄せた総司の顎を手に取った。総司が閉じていた目を開き、驚いて、拒む前に、その形の良い唇を奪う。
「んぅ…」
熱い唇が重なって、体温が同じになって、まるですべてが一緒になったかのように共有される。啄むようにそれを重ねる。
昔は反射的に総司が嫌がって、「冗談はやめてください」と怒ったものだが、最近はそれはない。少し恥ずかしそうにしながら「もう」と嘆息するだけだ。
「…っ、んぅ…」
そのうち総司が土方の胸板をどんどん、と叩いた。きっとここが近藤の部屋で、傍に近藤が寝ていることを思い出してしまったのだろう。熱に魘されたままなら良かったのにと土方は思いつつ、口付けをやめてやった。
「歳三さん…っ!」
総司は少し睨みつつ、小さく声を上げた。しかし土方はそのまま総司の頭を後ろから抱きしめて胸元に引き寄せた。
そしてそのままぽん、ぽん、とリズムよく頭を軽くたたいてやる。それはまるで赤子にするように。
「…もう…」
土方からは表情は見えない。しかし、総司が優しいため息をついたのがわかった。






143


君菊は冷たい廊下をゆっくりと歩いていた。
ここに暮らして何年になるのか、彼女自身も良くわからない。幼いころから親の顔は覚えていないし、ここの女将を実の母親だと信じて疑わなかった。やがて親のことを、そしてこの生まれ育った場所のことを知ったとき何かが吹っ切れた気がした。
生まれた場所が、生きる場所なのだと。自分は地獄で生きるのだと。
日々に鬱々としていた時、男に出会った。地獄で生きる自分のことを大切だと、一番だと、請け出したいと願ってくれる男に。彼が妹の代わりを求めていることは知っていた。けれどもそれ以上に彼がここから自分を連れ出して、天国のような楽園に連れて行ってくれるのだと少しだけ信じてしまった。
だから彼に逃げられ、置いて行かれたときにまた自分は奈落へ落とされたのだと思った。そして地獄で生きる者は、地獄でしか生きられない者であると悟った。
しかし、そんな自分のことを、また必要だという男が現れた。彼はきっと最初の男のように自分を大切にはしてくれないと分かっていたけれど、彼をまた信じてみようと思ってしまった。
「きっと…恋に落ちやすいのやわ…」
己の覚悟の甘さに辟易としながら君菊はため息をついた。
「君菊姐さん?何かいわはりました?」
明里が君菊に問うた。目が見えない分、耳が良いのだろう。君菊は「なんでもあらへん」と誤魔化した。そして前を歩いてた禿が腰を下ろし、障子を開いた。
障子を開ければ、そこは華やかな世界だ。煌びやかな色が飛び交い、目に映るものがすべて輝いて見える浮世の席。男はここで夢を見て、騙される。そして女は嘘を付く。
「やあやあ、やっときたな!天神!」
「待ちわびていたぞ!」
男たちが拍手で出迎える。
彼らは何を思ってここにやってくるのだろう。夢を買いに、嘘を嘘だと知っているのだろうか。
じゃあその世界で生きる女は、在らざるべき者なのだろうか。
「おおきに、桝屋はん」
君菊は微笑んだ。どこからが本当で嘘なのか、その境界線が曖昧だと知りながら。



二月末。文久四年から元治元年へと改元された。
「十両っ?」
巡察から戻った総司は、いつものように報告の為土方の元を訪れた。特に問題なく終わったためすぐに引き上げようとしたが、引き留められ手渡されたのが十両の大金だった。
「何なんですか、このお金…お手当は頂いてますよ」
「斉藤にも同じことを言われた」
「斉藤さん?」
こんな大金を手渡された日には、原田辺りが大騒ぎしそうなものだが、今のところそんなことはないのでどうやらこのお金は総司と斉藤にのみ手渡されているようだ。
「あ、もしかしてこの間の会津の…?」
「ああ。他の奴には内緒だぞ」
斉藤とともに報奨金がもらえるような働きをした…といえば、先日の会津の密命しかない。もっとも密命というのが仰々しくて、その内容は単なる迷子犬の捜索だったのだが。
「そんな十両も頂く理由がありませんよ。全部斉藤さんのお蔭だし…」
「それはそうだが」
「…全肯定されるとなんだかなって感じですけど」
総司の小さな嫌味も「本当の事だろ」と土方は平然と言い放った。犬の捜索は結局斉藤のお手柄で決着したけれど、そこにたどり着くまでの五日間張り続けたのは自分も同じなのに…。総司はため息をつきつつも話を続けた。
「十両なんてお金使い道がありませんし、部屋に置いておくのも気が引けます。土方さんが預かっててください」
「お前らは揃いも揃って同じことを言うんだな」
土方は苦笑した。どうやら同室の斉藤もこのお金の受け取りを拒否したようだ。…もっとも、彼は『受け取るべきではない』と判断したのかもしれないが。
「じゃあいっそ隊費にしちゃったらいいじゃないですか」
「そりゃ、お前がいいならいいが…」
「私は構いませんよ。なんだったら土方さんのへそくりに加えてもいいですよ」
総司がそういうと、土方は急に顔を顰めた。
「……お前、何か知ってるのか?」
「知りませんよ。ただ、刀が最近刃こぼれしてきてるから、そろそろ別の刀にした方がいいんじゃないかなって土方さんも思ってるんじゃないかなー。だったら土方さんのことだからこっそりへそくりでもしてるんじゃないかなーって」
総司が笑顔で述べると、土方は軽く舌打ちした。図星だったようで総司の仕返しは大成功だ。すると土方は観念したように傍に置いてあった刀を抜いた。
堀川国広、土方が姉の嫁ぎ先であり育った家でもある佐藤家から強引に持ってきた刀だ。土方は普段から「刀は飾りじゃねえ」というのが口癖で、良い刀ほど使うべきだと宣言している。この堀川国広は確かに良く斬れた。しかし、年代物故の刃こぼれも目立ってきていた。総司は土方がこの刀の手入れをしているのを見えるたびに「買い換えたほうがいい」と忠告していたのだ。
「咄嗟の時に斬れない刀を持っていてもそれは飾りと同じですよ。お金のことなら隊費にして良い刀を買った方がいいです」
新撰組の副長ともなる男が安価な刀で納まるようでは立つ瀬がないだろう。近藤は虎徹を持っているし、それに見合う刀を持つべきだと総司は主張した。しかし土方は首を縦には振らず
「私費で隊費を使うのは気が引ける」
と断固として拒否した。もっとも隊のお金を使うともなれば管理している山南へ頭を下げなければならない。土方はそれが嫌なのだろうと総司も分かってはいたのだが。
「それに金はある。姉さんのところから送ってもらったしな」
土方の姉のぶの嫁ぎ先である佐藤家は裕福な家柄だ。農民とはいえ天領の民だという誇りを持ち、家に道場まで立ててしまった。昔から土方が小遣いをせびっても叱られることはなかったらしい。
「ふうん…じゃあ、早く変えたほうがいいですよ」
「そりゃ分かってはいるが…長さが足りねえんだよな」
「長さ?」
土方が持つ堀川国広は一尺八寸。確かに長刀が流行っている時代に置いては短い方だ。総司の刀が二尺四寸あるので比べてみると歴然の差がある。
「土方さん、どれくらいの長さが欲しいんですか?」
「最低でもお前と同じ二尺四寸だな。だがなかなか良いのがないから困る」
悩んだように考え込む土方を見つつ、総司は内心(刀の長さくらいで何か変わるのかなあ)とそんなことを思った。もっとも口に出したら叱られそうなので黙ってはいるのだが。
「まあとにかく。このお金は土方さんにあげますよ。副長が良い刀を持って戦って貰わないと私も困りますからね」
「…預かっておく」
素直じゃないなあ、と総司は思いつつ部屋を後にした。


「二尺四寸?」
部屋に戻り、土方との会話を掻い摘んで斉藤に伝えた。
斉藤は隊内でも指折りの刀の専門家だ。総司は刀は使えれば何でもいいし手になじむものが良いので長く使いたいと思う派だが、斉藤に言わせれば
「遣い手の腕が良ければどんな刀だろうと名刀になる。だから良い刀にこだわるのは良い遣い手だけだ」
ということらしいので総司もまだまだのようだ。
「斉藤さんの刀は…えーっと、なんでしたっけ」
「池田鬼神丸国重。だがこれも二尺三寸だから、副長の希望の長さにはまだ足りないな」
「へえ」
何だか強そうな銘だな、と思いつつ総司は斉藤の刀を眺めた。普段から手入れをされているそれは光り輝く新刀のようだ。
「じゃあなかなか二尺四寸は難しいのかなあ…斉藤さん、知りません?」
「さあ…これからは気を付けて見ておく」
斉藤は総司から刀を受け取ると腰に帯びた。そして厚手の羽織を着る。これから巡察らしく斉藤の組下の者が準備に追われていた。
「いってらっしゃい」
「…ああ」
斉藤は特に表情もなく部屋を去っていく。
彼はあの澄ました表情のまま、もし敵に遭えば臆することなく考える暇もなく斬り捨てる。その澄んだ刀を血で汚すことを厭わない。
(…不思議な人だなあ…)
どうしてだろう。鬼の刀を持つのに、鬼には見えない。





144


山南は小さくため息をついた。それは無意識で誰にも気づかれない程度のため息だったのだが、彼女には丸ぎ声だったようだ。
「お疲れどすか?」
甘えるようにふんわりとした明里の声は、山南にはいつも耳を撫でられたようにくすぐったく聞こえる。視界を失った彼女の耳は他の人間よりも研ぎ澄まされているそうだ。
「いや、すまない。君に会いに来ているのに」
思い人を目の前にしてため息をつくなど、情けない。山南は咄嗟に頭を掻いたがそれも彼女には見えていないのかと思うと茶番のようだった。
しかし彼女は首を横に振って「構いまへんえ」と笑った。目の焦点は相変わらず合ってはいないがその笑みは山南に向けられたものだ。
「その…あまり深く考えないで聞いてほしいんだが」
「へえ」
「…一匹の犬が、餌を我慢している。もちろんその餌を食べても構わないのだが、もっと旨い餌が欲しい。だから目の前の餌を我慢し、もっと良い餌をねだる。もっとも、主人は良い餌をくれるとは限らないのだし、もしかしたら欲深い犬は餌を与えてもらえなくなるかもしれない。…それが不安でね」
曖昧な山南の説明に明里は首を傾げた。無理もない。犬に例えたものの、今の新撰組の状況はあまり言葉にはならなかった。
会津藩お抱えになってから1年近くになるが、市中警護を繰り返すのみで新撰組の本願である「攘夷の魁」には程遠い。先日将軍上洛の警護を務めたものの役目もままならず、虚無感を味わったのは近藤や山南だけではない。すると副長である土方が
「だったら一度解散すると言えばいい」
とあっさり言い切った。最初はその言葉に近藤も山南も反発した。
「おい、歳!いい加減なことを言うんじゃない」
「そうだよ、土方君。我々がここまで来るのにどれだけの苦労と犠牲を…」
しかし土方の狙いは本当に解散することではなかった。
現状、今の京は新撰組によって治安が守られていると言ってもいい。街を闊歩することによって以前のように倒幕を企む輩が動きづらくなったのは間違いないだろう。その新撰組が「解散する」と言い出せば、そうそう会津も簡単には頷けないはずだ、と土方は踏んだのだ。
もしうまくいけば今後の新撰組としての立場も変わるだろう。先日の将軍上洛警護のように遠くから見守るだけの存在からは昇格できるかもしれない。しかしそれは同時に危険な賭けでもある。もし会津が新撰組を放免でもすればそれで終わってしまうのだから。
「…説明が下手だな」
山南は苦笑した。しかし明里は
「なんや、恋みたい」
と楽しそうに答えた。
「恋…?」
「最初は手をつなぐだけでうれしい。せやけど、いつの間にか欲が深くなって、相手に求めて、相手のことが知りとうて…駆け引きみたいに」
「…なるほど」
もし明里の言う通りなら、それは土方が得意とすることなのかもしれない。
(昔から彼は女との駆け引きが上手かったからな…)
それに比べて自分は昔からそういう駆け引きが苦手だった。相手の気持ちが良くわからなくて触れたら壊れてしまいそうで。だから、結局は今度のことは土方の裁量に任せるのが良いのだろう。彼ならうまくやるということなのだろう。……明里の言うとおりに考えると、少しだけ滅入っていた気持ちが和らいだ。
「ありがとう。気持ちが軽くなったよ」
「…いいえ」
きっと何のことかは彼女はわからないだろう。しかし、何も聞き返さず山南を受け入れて、そして傍にいてくれるのが心地よかった。
明里の肩が山南に寄り添った。少しだけかかる体重が彼女が自分に寄せてくれる信頼だと思うと山南はそれを素直に嬉しいと思ってしまう。
「山南せんせ…」
「…なんだい」
目を伏せて、明里が声を潜めた。
「…うちも、ちょっとだけ、お話しても?」
「あ、ああ…構わないよ」
耳元で聞こえる甘い囁き。何だか密会をしているようだ、と少しでも思ってしまって山南は顔を赤くした。もっとも彼女には見えていないのだろうが。
「…天神のこと」
「え?」
…照れてしまった自分がなお恥ずかしくなった。思わぬ話の切り出しに山南は焦った。
「え、えっと…もしかして君菊さんかな?」
山南が訊ねると明里は頷いた。
「その…最近様子が、変やから…」
「変?」
「うちは…目が見えへんから確かなことはわからしまへん。せやけど…なんだか、様子が…」
「……」
目が見えないからこそ、感じ取るものがあるのかもしれない。逆に見えているからこそ君菊の変化に誰も気が付かなったということもあるだろう。
「山南せんせ。天神は新撰組の方と懇意やと聞きました。もしかしたらなんや関係があるかもしれへんて…だから、天神のこと、少しだけ気にしてもらえへんやろか…?」
君菊と懇意だと噂されているのは副長の土方の方だが、どうやら総司とも関係があるらしいという話は近藤から聞いていた。二人と近い場所にいる山南なら何か気が付けることがあるかもしれない。…もっとも自分がそういうことに疎いことは百も承知なのだが、想う相手に懇願されては無下に断ることもできない。
「…わかった。そうしてみよう」
と引き受けたのだった。


一方。
「…島田さん、きょろきょろしなーい」
「は…っ!す、すみません」
体格はしっかりしているものの、近頃挙動不審な島田の背中をたたき気合を入れなおす。それは最近の総司の習慣でもあった。
「しっかりしてくださいよ。ただでさえ今は成果を挙げなきゃいけない時期なんですからね。島田さんは古参だし年長者でもあるんですから皆の見本になっていただかないと。ほら、山野君の方が凛々しいですよ」
「はっ!あ…ああ、そうですよね。すみません…」
変に動揺する島田に総司は首を傾げつつも、巡察の足は止めなかった。
二月の寒空のもと、巡察は今日も相変わらずだ。壬生浪士組からスタートした新撰組の名も少しずつだが京に浸透してきた。相変わらずの「壬生狼」のあだ名は残っているもののそれが抑止力になっているのか、最近は不逞浪士などの捕縛者も少ない。
(…もっとも、土方さんには最近それがご不満みたいだけど)
先日近藤が会津藩に「解散の申し入れ」をしたらしい。総司にはよくわからないが、つまり会津藩に「解散」という揺さ振りをかけることによって新撰組の立場を向上させようという土方の「悪知恵」らしい。
(まあ、土方さんらしい考えではあるけど…)
だからこそ、今は少しでも良い成果を上げて新撰組が今日の治安を守るのにどれだけ必要な存在か主張することが重要なのだという。
「だからといって、昨日今日ですぐにそんなに成果があがるわけじゃ…」
ないのになあ、と独り言を述べていると、後方から大きな笛の音が鳴った。それはもちろん聞き覚えのある音で、総司はすぐに踵を返した。
その笛の音は平隊士が持つ緊急事態を知らせる音だ。何か不審な人物を見かけた場合、前を歩く組長を呼びに行っては間に合わない場合がある。また二人一組での行動が基本だが、敵にやられた場合の助太刀を要請する音でもある。
総司ら前方を歩いていた者が笛のなる方へ駆けつけた。するとある茶屋の前で人だかりができていた。
「沖田先生!」
笛を吹いていたらしい平隊士が声を上げる。
「どうしました」
「それが、その…どうやら茶屋で一悶着あったようなのですが…もう解決したようで」
そこには野次馬が群がるように茶屋の入り口を固めていた。押せ押せと野次馬は興奮しているので、何が起こったのかは総司には確認できなかった。
「島田さん行きますよ」
「はっ」
身体の大きな島田とともに、総司は人を押しのけつつ前へ進む。食い逃げか痴話喧嘩か…どっちにしてももう解決するような程度の騒ぎなら不逞浪士が絡んでいるわけでもなさそうだ。安堵したような残念なような…複雑な気持ちで総司が前へ躍り出る。するとそこには意外な光景が広がっていた。
「あれ…?」
野次馬に取り囲まれて一人の男が気を失って倒れていた。手には刀を持っていたので理由はわからないもののどうやら店内で暴れたらしいとわかる。それは想像できうる姿ではあったが、意外な光景はその奥にあった。
店の主らしい年老いた夫婦が一人の青年に丁寧に頭を下げていたのだ。その相手こそが意外な人物だったのだ。
「い…伊庭君っ!」
「あ、沖田さん」
総司の声に振り向いて、ひらひらと彼が手を振った。相変わらず人を惹きつける魅力を持った彼がそうすると野次馬に紛れていた女性たちが歓喜の声を上げた。
「久しぶりですね」
軽い足取りで駆け寄った彼は、伊庭道場の御曹司、伊庭八郎に間違いなかった。







145


「ったく、相変わらず嫌味な奴だな」
久々の再会を副長は皮肉っぽく苦笑した。江戸にいた頃から何かと良い場面を掻っ攫うことが多かった彼だが、今回も彼らしい登場となった。
「わざとじゃないんですよ。たまたま京で評判の蕎麦を食いに来てたら、素性怪しい輩と一緒になって案の定食い逃げなんてしやがるから、黙って見過ごすわけにもいかなくって…そうしたらたまたま沖田さんが駆けつけたってだけですからね」
結局、伊庭が捕えた輩は奉行所に連行し、事は落着。そのまま総司とともに屯所に戻ってきたのだった。試衛館メンバーはもちろん、伊庭の名前を知る平隊士らが驚きをもって迎えたのは言うまでもない。そのまま客人として局長の部屋に招き入れ、知己が集合することとなった。
「そういえば上様と一緒に上洛されたのでしたね」
山南がふと思い出したように訊ねる。伊庭は頷いた。
「おい。ってことは、お前一か月くらい前から京に居たってことなのかよ」
土方が問い詰めると「バレたか」と言わんばかりに伊庭が少し舌を出した。
「いやあ、ご挨拶にいかなきゃなぁとは思っていたんですけど、どうも暇がなくって…まあ、長く滞在するんだし機会はあるかなって」
「お前なあ…」
土方が呆れ気味にため息をついた。
「でも、皆さんのご活躍は江戸にも届いてますよ。近藤先生も名を挙げられて、今や江戸では噂の的です」
「そ、そうか。何だか恥ずかしいな」
近藤が照れくさげに頭を掻いた。すると傍にいた原田が突然挙手し、
「なぁなぁ、土方さん。伊庭がせっかく来たってことなら今日は宴会だよな!」
と声を上げた。
「そうだな、せっかく京に来たんだし、旨いものでも馳走しないと」
「そうですよ、こんな機会滅多にありませんし」
続いて永倉、藤堂が賛成する。部屋のなかはまるで試衛館の雰囲気になり、近藤も土方を見て頷いたのだが、
「あ、すみません。有難いんですけど、それはできないんですよ」
と伊庭が軽く手を振った。
「講武所の人間は一応、親衛隊扱いなんで…毎晩お城に詰めてなくちゃいけなくて。またの機会に是非」
「…そうか、それは残念だなあ」
それでは仕方ない、と原田、永倉、藤堂も落胆した。すっかり宴会気分だったようだ。
すると隣で黙っていた総司が今度は挙手した。
「あ、あの!だったら…えっと、」
「なんだよ」
言い淀んだ総司を土方が促す。
「試合、しませんか?」
「試合?」
「伊庭君と試合したいです。久々に」
総司の申し出に伊庭が驚いていると、上座の近藤が「ははははっ!」と大声で笑った。
「なんだ、総司。さっきから大人しいと思っていたら、試合がしたくてうずうずしてたのか!」
「…まったく、ガキか、お前は」
土方も少し呆れた風に笑った。近藤に指摘されたとおりだったので総司も「えへへ」と誤魔化すしかない。すると伊庭も笑って
「いいですね。最近城に詰めてばっかりで腕がなまっていたところだったんです」
と了承したのだった。


前川邸に新しく作った道場では毎日の稽古が今日も行われていたのだが、突然総司と伊庭がやってきて試合をすると言い出したのでちょっとした騒ぎになった。おまけに局長と副長ら幹部までも観覧するということで屯所にいるほとんどの隊士が野次馬となって見守ることとなった。
「あの人が『伊庭の子天狗』と名高い心形刀流の伊庭八郎か」
「局長たちと面識があるなんて思いもよらなかった」
「実際どっちが強いんだろうな!」
皆が口々に騒ぎ立てる中、総司と伊庭が向かい合った。
「そう言えば、江戸にいた頃、沖田さんとまともに試合をしたことがありませんでしたね」
「あれ?そうでしたっけ」
「お手柔らかにお願いしますよ」
伊庭がそういって微笑む。言葉の割には余裕のある微笑みだった。総司も「こちらこそ」と返した。
「はじめ!」
審判役を務める永倉の鋭い声によって場は一気に緊張感に包まれた。
二人は間合いを取り、剣先を合わせることはあってもお互い切り込むことはしない。様子をうかがうのみだ。
「…あいつ、生き生きしてやがる」
上座で控える土方がポツリと呟いた。息をのむほどの緊張感だが、戦っている二人自身の目は場違いなほど輝いて見える。すると隣にいた近藤も大きくうなずいた。
「総司の相手になれるのは永倉君か斉藤君くらいだからなあ。ここの所隊士に稽古をつけるばっかりだし、持て余していたんだろう」
「総司もだが、伊庭もだ」
土方の言葉に「ん?」と近藤がちらりと土方の方を見た。
「あいつはいつも飄々としてて、それでも天才なんて言われてるが…実際、試合なんてはじめてみる気がする」
長い付き合いのはずなのに、初めて見るなんて何だかおかしい気もする。土方がそんなことを考えていると、突然大きな竹刀の音が道場に響いた。まるで図ったかのように二人が同時に打ち込んだのだ。そしてその勢いのままお互いが弾かれまた間合いを取る。その互角の争いに誰もが息をのんだ。
「すげぇ」
「竹刀を合わせていないのに…」
原田、藤堂もその一瞬の駆け引きに嘆息する。試衛館メンバーでさえその様子なので野次馬達も手に汗握って誰も何も口にできないでいる。そんなことも知らないで二人は駆け引きを続けていた。試合は初めてだが、下手に打ち込むと負ける。それは明白なことだった。それ故、一瞬の隙も許すことはできずそれだけで集中力を消耗した。
(…何でだろう)
そんな緊迫した駆け引きのなか、総司がふっと思った。
(伊庭君…ちょっと変わった気がする)
剣を合わせるのは初めてのはずなのに、これまでの彼とは違う気がする。それはただそれまで気負っているように見えた重荷が少しだけ減っていて。だがそれは彼が脆弱になったというわけではなく、ただ雰囲気が少しだけ柔らかくなった、というそんな曖昧なものなのだが。
「やっ!」
すると突然、伊庭が打ち込んできた。総司がそれを「突然」と感じたのは、伊庭が隙を的確に狙ってきたからだ。きっと総司が余所事を考えていたのがわかったのだろう。しかし総司も簡単に取られるわけにはいかない。瞬発的に彼の剣を避け、その小手を狙った。そしてギリギリのところで剣先が彼の小手に触れたのだった。
「一本ッ!」
永倉の大音声で勝負の決着がついた。そしてそれまで緊張感に包まれた道場がわっと沸いたのだった。


野次馬達の喝采を受けつつ試合は終わりとなり、総司と伊庭は道場を後にした。激しく打ち合ったわけではないものの、体力は消耗し真冬なのにお互い汗をかいていた。火照った身体を覚まそうと汗を流しに井戸へ向かった。
伊庭に手拭いを渡しつつ、総司は
「わざと隙を作りましたね」
と指摘した。すると伊庭も「バレてるとは思いました」とほほ笑んだ。
あの場面で集中力を欠いていたのは総司の方だった。無心に総司の隙を狙っていた伊庭が、隙を見せるはずはない。
「正直、負けるつもりはなかったんですけどね。試衛館のみなさんたちの前だけならまだしも、隊士があんなに集まる前で沖田先生に醜態をさらさせるわけにはいかないかなって」
「別にそんなことは良かったのに…」
「良くないですよ。もうあなたは試衛館の食客じゃないんですからね」
伊庭の物言いに、総司もはっとした。これまではどっちが負けてもお互いの責任になるが、今は違う。総司は新撰組一番の遣い手であるという事実とともに、その評判も守るべき大切な誇りなのだ。もし、伊庭に負けるようなことを知られては、総司だけが困るわけではないのだ。
「またの機会にお願いすることにします。今度は負けませんからね」
「…はい」
無邪気に笑う彼はやはり飄々としている。全く、どっちが年下だかわからないな、と総司は内心苦笑した。
まだまだ寒い二月に手拭いで汗を拭い、ようやく一息ついたとき唐突に
「ところで、土方さんとはもう寝ちゃいました?」
とまるで世間話をするような軽い物言いで、伊庭が口にした。
「はぁっ?…っ、げほっ」
そのあからさまな言い方で彼が何を問うたのかはすぐに分かったものの、総司は咳き込むやら腰を抜かすやらでかなり動揺した。
「い、い、い、伊庭君っ?!な、なにを…」
「いや、だって久々に会ったら何だか土方さんの角は取れてるし、沖田さんも土方さんを見る目が何だか違う気がするからこれはきっとできちゃったかなーとか思って。試合の時も気になって気になって仕方なかったんですよね」
土方の角が取れているかどうかはともかく、自分が土方を見る目が変わったと指摘されると、何だか全てがバレバレのような気がして、総司は思わず顔を赤らめた。
「その…っ、そういうわけじゃないんですけど…」
「ここだけの話にしておきますから、ね?」
「えぇっと…その…」
「そこまでにしておけよ」
総司がしどろもどろになっていると、不意に背後から声がかかった。振り向くと声の主が不機嫌そうに腕を組んでいた。
「意地悪ですねえ、土方さん。長年の付き合いなんだから教えてくれたっていいでしょうに」
「お前の物言いは恥じらいがなさすぎるんだよ馬鹿」
助け舟を出してくれたのは土方だったようだ。
「幕臣を捕まえて馬鹿っていうのもあなたくらいだと思いますけどね。…ま、いいや。この話はまた今度にしましょう」
「は、はあ…」
「そろそろ日が暮れてきましたから、戻らないと。…あ、そうだ土方さん」
伊庭が土方の名を呼ぶ。
すると彼の纏う空気が急に変わった。
「今日捕縛した輩ですけどね」
「…なんだ」
伊庭の声が急に低くなり、土方の空気も変わる。それはまるで先ほどの試合のように研ぎ澄まされたものだ。
「よく調べたほうが良いと思います。長州の人間だと思いますから」
「長州だと?」
土方の眉間に一気に皺が寄った。討幕を企む輩の多くは長州藩出身の者が多いというのは総司さえも知っていることだ。
「何故わかった」
「蕎麦を食っていたと言ったでしょう。味が薄かったんでしょうね、彼ら醤油を足して食べていたんですが、醤油が途中で無くなったみたいで。その時に一人が言ったんですよ『醤油がみてた』って」
「…醤油が、みてた?」
総司は首を傾げつつ、土方を見た。土方も怪訝な顔をしていた。
「長州のお国ことばです。醤油がみてたっていうのは醤油がなくなった、という意味だとどこかで耳にしました。珍しい物言いなので間違いないと思います」
伊庭の確信を持った言葉に、土方は少しだけ逡巡した後、
「伊庭、恩に着るぜ。…気を付けて帰れよ」
にやりと笑って、そのまま踵を返した。向かった先は前川邸の奥の幹部部屋なので今から思案を巡らせるのだろう。
「…まったく、客人を見送りもしないなんて相変わらずだなあ」
「す、すみません」
先ほどから一変、穏やかな空気に戻った伊庭が苦笑した。
「いえ、いいんですよ。でも、土方さん、とてもいい男になりましたね」
「え?」
「江戸にいた頃はただ尖がってるだけでしたが…今は違う。確固たる目標に向けて挑み続ける目をしていますね」
「そ…そうですか?」
普段から一緒にいる総司にはわからないが、一年ぶりに会う伊庭だからこそわかることなのだろう。
「つまり、沖田さんが惚れるのも仕方ないってことですよ」
伊庭がぽんっと総司の肩を叩いて笑った。そして「また来ます」と言って屯所を去っていくのを総司は呆然と見送ったのだった。





146


「作助。これを、いつもの小者に」
君菊は折りたたんだ手紙を丁寧に結び、店の小者作助に手渡した。作助はこの辺りの店のおなごの手紙を集めては届けるのを生業にしている。今日も「へぇい」となれたように受け取った。
「天神、意外に豆やなあ」
毎日のように手紙を言付かる作助が驚いたように言った。
「上七軒の君菊はどんなにええ男が、いくら想うても金を積んでも袖にされる、潔癖な天神やって噂なのになあ」
「ふふふ。一途ゆうてほしいな」
「天神に想われる男は羨ましいなあ」
作助は「ほな」と手を振って次の店に駆けて行った。君菊はそれを見送りながらため息をついた。想う想いは募れども、届いていないのは嫌になるほどわかっているのに。
「阿呆やなあ…」



元治元年三月。
昼の巡察から戻ってきた原田は酷く不機嫌だった。
「畜生…」
唇を噛んで悔しがる様子は、いつもの能天気な原田では想像できない。
「一体どうしたんです?」
ちょうど非番だった総司が訊ねると、眉間にしわを寄せつつ
「取り逃がした」
と、舌打ち混じりに答えた。いらいらした様子の原田にそれ以上追及できないでいると、一緒に巡察に出ていた永倉が戻ってきた。そして取り乱した原田を見て「仕方ないだろう」と慰める。
「相手は大物だ。そんなひょいひょい捕まるものか」
「大物?」
「吉田栄太郎。いや、昨年改名して今は吉田稔麿か」
永倉が口にした名前に特に覚えが無く、首を傾げていると「監察から聞いただろう」とあとからやってきた斉藤が答えた。総司と同じく非番である。
「安政の大獄で処罰された吉田松陰の弟子の一人だ。長州の久坂玄瑞、高杉晋作とともに三秀と呼ばれる過激な活動家だ」
「長州…」
それはちょうど伊庭が捕まえた輩と同じ藩だ。八月十八日の政変以来京を追放されているはずの藩士たちがこの都に集まりつつある、という事実が齎す不穏な空気。それは総司でさえも感じ取ることができた。
するとそれまで不機嫌だった原田が、大きく深呼吸した。
「あーあ。手柄を挙げておまさちゃんに褒めてもらおうとおもったのにな」
背伸びをしならが口にした言葉は案外呑気なもので。永倉は脱力し総司も苦笑したものの、彼らしいと思わざるをえなかった。

「さっきの話だが」
土方の元へ報告へ出掛けた原田、永倉を見送ると、斉藤が話を切り出した。
「長州の桂小五郎は知っているか?」
彼が突然あげた名前は総司にとって酷く懐かしいものだった。
「…ああ、練兵館の?」
「練兵館?」
斉藤は知らなくて当然だ。桂小五郎。彼が試衛館と関わったことを知っているのは近藤と土方くらいのもので山南が食客としてやってくる前の話だ。間接的には講武所への推挙の際にも妨害したのではないか、と言って土方が目の敵にしていたが…どっちにしても総司にとっては遠い思い出である。
「知り合いといえば知り合いですね。まあ…土方さんの前でその名前を出すのはおすすめしませんけど」
「…わかった」
斉藤は何かを察したらしい。それ以上は追及しなかった。
「とにかく。その桂がこの都に来ているらしい。先ほど名前が挙がった吉田とも関わっていると噂されている」
「へぇ。あのひと、そんなに大物だったんだ」
「大物中の大物だ。優男で女にもてるらしく桂を匿う女も少なくないと聞いた。おまけに逃げ足も早いから逃げの小五郎なんて呼ばれているようだ」
「何だか不名誉なあだ名ですね」
昔は不遜な態度で試衛館にやってきたものだが…今は逃げ回っているなどと想像できない。総司はくすくす笑いながら、部屋に戻った。同室の斉藤も続く。三月に入り少し寒さは和らいだものの、まだ足先の冷たさはぬぐえない。火鉢がまだまだ手放せなかった。
「桂小五郎は保守的な人間だが…その正反対が吉田だ。残酷なほどに己の信念が強く…同志からも恐れられるほど苛烈らしい」
斉藤の声が少し小さく、低くなった。彼の言葉に信憑性が増す。
「昨年の冬、ある浪人の死体が見つかった。四肢バラバラで見つかった遺体は、どこにも致命傷が無い」
「致命傷が無い…?」
総司は顔を顰めた。それでは自分が死ぬのをまざまざと見せつけられるということだ。斉藤も暗い顔でうなずいた。
「おそらく生きたまま四肢を千切られたのだろうと検分されたが…ある町人が目撃していた。『冥土の土産に俺の名を刻んでおけ。吉田稔麿という名前を』と。笑いながら叫んでいたらしい」
それはまるで怪談のように総司には聞こえた。
切腹の作法に顕著に表れているように、死人への苦しみはできるだけ少ない方が尊いとされる。死ぬ行くものにそれ以上辱める必要はない。だからこそ介錯人という立場が名誉となるのだ。
「それはよっぽど恨みのある間柄だったということですか…?」
怨恨なら納得できる理由はある。しかし、残念ながら斉藤は気怠そうに首を横に振った。
「かつての同志だ」
「…」
結果だけ見ると新撰組も同じかもしれない。規則に反すれば罰せられる。切腹という死を選ばせる。しかしそれ以上の罰は与えない、死した者の冥福を祈る。…しかしこの吉田という男は違う。死んでいくものを嘲笑で見送ることができる、それはある意味で狂気だ。
「吉田がここにいる…そして長州人が集まりつつある。…何かあると思っておいた方がいい」
彼の忠告は数か月後現実となるのだが。
総司にはそんなことがわかるはずもなく、ただ吉田という男に嫌悪感を覚えるだけだった。


一方。前川邸に、滅多なことでは屯所に訪れない男がやってきていた。周囲に誰もいないことを確認し裏口からこっそり侵入した男は、気配も無くまっすぐ副長の部屋に向かった。身形は町人のそれに違いなく、誰かに姿を見られれば間違いなく盗人だと勘違いされるだろう。
部屋の中に土方が居るのを確認すると、男は爪を立てて床を「とん、とん、とん」と三度叩いた。いつもの合図は耳を澄ませなければ気が付かないが、妙に勘のいい副長はいつも逃すことなくこの音を聞き洩らさない。障子が開いて中に招かれた。
「毎度毎度、ご苦労だな」
土方は苦笑気味にその男を労った。男は頭を覆った手拭いを取りつつ
「もう慣れましたわ」
と快活に笑って見せる。監察、山崎烝。縁の下の力持ちといっても過言ではない彼だが、いつも偉ぶることなく役目を熟していた。もともと大坂出身の彼は都に馴染むのも早く地理も明るい。その土壌を生かして監察に任命したがばっちりの配役だったようだ。
「副長、いつもの」
山崎は懐から小さく折りたたまれた手紙を差し出した。土方は誰からとも聞かず受け取る。細かな字で書かれた手紙は残念ながら愛の言葉が連ねられた端紅ではない。
「…桝屋…か」
それは彼女の手紙に毎度登場する男だった。土方と知り合う前からの常連だそうで、事あるごとに君菊が入れ込んでいる男は誰なのか、と問うてくるらしい。花街ではそれなりに噂になっているらしい土方と君菊の間柄だが君菊はそれを肯定も否定もしない。だから彼女はいつも「野暮なこと聞かんといて」とさらりとかわすのだそうだが、この桝屋の執着だけは異常らしい。必要以上に土方のことを知りたがるようだ。
「薪炭商を営んでいる男やと聞いてます。金回りが良いようで、天神にも相当入れ込んでる。だから、まあ、副長のことを敵視しているだけやとも思うんですが…」
「いい。一応張り込ませろ」
土方の指示に「はい」と山崎は頷いた。そして「それから、」と続けた。
「これは別の者に聞いた話なんですが…」
山崎はそう前置きした。情報の主を明かさないのはそれなりの筋だからなのだろう。情報を得てくるように山崎らに指示は出すもののその情報先は土方は把握していない。その情報が確かならどこでも構わないのだ。
「例の…吉田が、やはりこの辺りに潜伏しているようやと」
「吉田か…」
土方はもちろんその名前を既に記憶していた。頭の良い男だと聞いているが、ふと箍が外れると人が変わったかのように別人になると噂されている。
「先日、火事があったでしょう。怪我人もなくボヤやったということですが…数人の浪人が逃げていったという話も聞きました。その中に吉田らしき男もいたと」
「ボヤさえもそいつらが起こした事だと?」
「そこまではいいまへん」
山崎は明言を避ける。確実なことしか口にしない。全くを持って監察に相応しい男だった。
「ただ…なんや怪しい雲行きやと、おもいまして」
彼がそういうのだから間違いないのだろう。その暗澹たる雲の先に、何が待っているのだろうか。土方は少しだけため息をついて、しかしその雲の先に光を見つけるしかないのだと思った。



147


春はすぐそこにある。そんな季節になった。
「いやあ、沖田さんが非番で良かったです。でも土方さんには睨まれちゃいましたけど。あ、土方さんなんて軽々しく呼んじゃ駄目なんですかね、新撰組の副長様ですからねえ」
快活に笑う彼は言葉とは裏腹にからかうように言うだけで、さらさら土方のことを敬う気持ちなんてない。だがそんな風に笑う伊庭が江戸にいたときの彼と変わっていなくて、隣を歩く総司は何だか懐かしい気持ちになった。
伊庭が屯所にやってきたのは、再会してから十日ほど経った頃だった。丁度総司が非番で、京見物のお供を探している伊庭に付き合うことになったのだ。
「土方さんも一緒に来られれば良かったんですけどね」
「別にいいですよ、沖田さんと一緒で満足です。そもそも京見物なんて、副長さんは付き合ってくれそうにないですからね」
伊庭の指摘に確かに、と総司も笑った。
今日の行先は旅人が多く訪れる音羽山・清水寺だ。上洛してから一年近く経つ総司でもろくに行ったことのない場所だったので、付添というよりも一緒に観光することになりそうだ。
「それよりも、名前で呼ぶのはやめたんですか?」
「え?」
「土方さんって言ってるじゃないですか。前は歳三さんだったのに」
伊庭の指摘に総司は「ああ、」とやっぱり懐かしさを覚えた。昔は下の名前を呼んでいたが、それを「公方様の前で呼ばれるとカッコ悪いから」なんていう自分勝手な言い草で直したのはもう一年前になる。
「一応、上司と部下ですからね。でも咄嗟のときは『歳三さん』って言ってしまうんですけど」
「咄嗟のときって?」
「それは…」
伊庭がにやりと笑って訊ね、総司は口ごもった。うっかり『歳三さん』と呼んでしまうのは、我を失った時だ。そして突然土方に口付けをされたとき…。何も知らないはずなのに、何だか見透かされたようだったので総司は無理やり話を変えた。
「そ、それより。伊庭君も何だか雰囲気が変わりました」
「え?俺ですか?」
「この間立ち会った時に思ったんです。前より…柔らかくなったような」
決して彼が頑なだったわけでも、頑固だったわけでもない。ただ、以前の飄々とした雰囲気よりももう少し穏やかになったような。言葉では言い表せない変化だ。きっと伊庭は笑い飛ばし「気のせいですよ」と言うのかと思いきや、少し考え込んで
「そうかもしれませんね」
と認めた。その表情はやはり以前には見せなかった温厚さがある。
「伊庭君…?」
「以前の俺は人に弱いところを見せたくないっていう気持ちがあって、強がっていたような気がします。けど…今は、弱い部分を晒してもいいかなって思える。成長したのか、退化したのかわかりませんけど、そんなのも悪くないかなって思えるんですよね」
彼の言い方は抽象的で、総司はぴんと来なかったもののその意味は彼の表情を見れば明らかだ。
「もしかして、良い人でもできたんですか?」
「まあ、そんなところですね」
伊庭は曖昧に笑った。昔からモテていた伊庭のことだから、きっと良い人に巡り合ったに違いない。しかし
「だから沖田さんも素直になったほうが自分の為ってことですよ」
急に矛先が総司へと向いた。的確に指摘してくるのは相変わらずの彼らしい。
「私は…まだいいんです」
否定してもすでに気が付いている彼には何の意味もないだろう。それに隠すほどでもない。総司は素直に答えた。
「まだ土方さんが想ってくれるほど、確かじゃない気がして」
「確かじゃない?」
隣を歩く伊庭が首を傾げた。
「なんて言ったらいいかわからないですけど…もしかしたら自信がないのかもしれないです。想われる自信も、想う自信も」
今は一番だと言ってくれていても、彼の気持ちは変わってしまうかもしれない。そして自分も、変わっていくかもしれない。幸せなのに、嬉しいのに、怖い。変わっていくことが怖いと思ってしまう。だから、そんな風に自信がない自分が愛される資格があるのかわからない。
しかし伊庭は
「そんなの不確かでもいいんですよ」
と意外なことを言った。
「不確かな気持ちでも、相手に想ってもらえると思えば隙間が埋まっていって、それが確かな気持ちになる。そういうものですよ」
「…そういう、ものですか?」
「俺は一年かけてそれを理解しました」
一瞬、微笑した彼が酷く美しく見えた。それは今までになかったことで、やっぱり彼は変わったのだと総司は再度わかったのだった。



ある浪人を張っていた隊士からの情報で、潜伏先とみられる宿に藤堂と斉藤が乗り込んだのは、丁度総司たちが清水寺の舞台から京を眺めている頃だった。
「御用改めである!」
顔は幼いのに大音声を上げると原田よりも上を行く藤堂の声で、数名の隊士が乗り込んだ。宿の女将や女中の叫び声を皮切りに、他の客まで宿から逃げるように駆け出していき辺りは騒然となった。捕縛対象の浪人も刀を抜いて応戦したものの、隊士の数が勝りあっさり捕縛となった。
「二人捕縛なら、土方副長も満足してくれますよね」
藤堂が胸を張って腰に手を当てる。最近の新撰組は不逞浪士の捕縛に力を入れている。桂小五郎を始めとする大物長州藩士が潜伏しているらしいというのは平隊士まで伝わり、皆が大物を捕まえようと躍起になっているのだ。
「いや…そうでもないようです」
誇らしげにしている藤堂の喜びに水を注すのは申し訳ないと思いつつも、斉藤は指摘した。
「ここをみてください」
「え?」
藤堂が覗き込んだのは宿帳だ。もちろん書かれているのは偽名なのだが、そこには三人分の偽名が書いてあった。
「つまり…一人逃げられたってこと?」
「その可能性は高いです。もしくは既に逃げていたのかもしれません」
宿の周りは新撰組の隊士で固めていた。その合間を縫って逃げ出したのはリアリティがない。だったら既に宿を後にしていたと考えるのが妥当だろう。次第に藤堂も理解したらしく「はぁぁぁ」と深くため息をついた。せっかく手柄を立てたと思ったら、思わぬミスを犯していたようだ。
「残念だなあ。でも、そういうことならよほど勘のいい浪士なんでしょうね」
藤堂がぽつりと漏らした感想に斉藤は頷けなかった。勘が良い。それだけで片付けてしまっていいのだろうか。
(むしろ…見越していた?)
「まあ、でも、あの二人を尋問すればわかることですよね」
藤堂が英気を取り戻し捕縛した浪士の元へ向かう。斉藤もそれに続いたものの、そううまくことは進むまい、と苦々しい予感がしていた。


斉藤の勘を知ってか知らずか。新撰組が宿へ乗り込む様子を高みの見物で見守っていた男がいた。
「…ざまあみろ」
汚い言葉で罵りつつ、男は酒を煽った。二階建ての別の宿からは新撰組の隊士が良く見える。
「君は本当に残酷なことをする」
同じ部屋にいた桂小五郎が眉間にしわを寄せていた。昔は練兵館で腕を振るい敵なしの彼だったが、藩の重役に就き、役人に追われ都を逃げ回るようになってからは角が取れてしまったかのように凶暴さが薄れて行った。男はそれを面白くないと思っていた。
「残酷?」
桂の批判の矛先がわからず、男は鸚鵡返しに訊ねた。今この場で残酷だと罵られるべきはあの有象無象の守護職の手先のはずだ。少なくとも男にはそれしかなかった。
男が己の言葉を理解していないことに気が付いた桂は、大きく大げさにため息をついた。
「…あの2人を見放さなくても良かったじゃないか」
そもそもあの宿に新撰組が押し入るかもしれないという情報は昨日既に男に齎されていた。しかし男は敢えてそれを黙殺し、宿に同志二人を置き去りにしてきた。
「役に立たないから、新撰組が引き取ってくれるならそれでもいいと思った」
男が素直にそういうと、桂はまた頭を抱えた。
「確かに彼らは目立つ行動ばかりする困った連中だったが…同郷の人間じゃないか」
「だが良いことも分かった」
泥臭い説教は御免だ、と思った男は桂の言葉を遮った。
「新撰組なぞ…大したこともない。なんの、障害にもならない」
男はまた酒を口にした。
桂は何度目かわからないため息をついた。
(…迷いがないから、この男は人を惹きつけるのか)
彼の物言いは遠慮が無く、残酷なことを平気で口にできる横柄な性格だ。そして同志という存在を同志と扱わない。
『仲間はいない、自分に恭順する者のみが同志である』
そういうことを公言している男だ。
「それより、桂さん。最近、俺たちの潜伏先があいつらに露見してるほうが、問題じゃねえか。間諜でもいるんじゃねぇのかよ」
「……それはいま調べさせている」
男の口角が上がった。
「見つけたら丁寧に殺してやらねえとな」
男は、吉田稔麿は舌を出して酒を舐めた。






148


「…っ、ぁ」
「声は出すなよ、腐れ野郎」
一回りほど体躯の小さい男を縛り上げ、助けを呼ぼうと無駄な抵抗をしようとする口をふさぎ、吉田は完全に蹂躙したことに己の欲求が満たされるのを感じた。残虐だと人は言う。お前の意図はわかるが、やり方が悪いのだと桂には何度もたしなめられてきた。けれども直そうとしなかったのは、残酷なやり方以外に方法を知らないからだ。
『お前は頭がいいのに』
同じ塾で学んだ男はそういって吉田を憐れんだ。そのあとに続く言葉は、『勿体ない』だろうか。
その見下したような、嘆息するような男の声を思い出して、吉田はまた胸糞が悪くなった。さっさと忘却してしまえばいい記憶なのに、いつまでも反復するのは、彼の言葉が、声が胸の奥に刻み込まれすぎているせいだ。苛立ちから、うめき声をあげる目の前の男をさらに強く締め上げた。
「もう…許し…」
切れ切れの声で懇願されるものの、吉田はあっさり却下した。
「…お前が悪いんだろ。その上逃げようとする」
同じ志を持つ、同じ目標を持つ、連判状に名前を連ねる。それだけの理由で吉田は同志とは認めない。仲良しごっこなど無意味で仕様もないことはしない。主従関係でなければ同志だとは認めない。そしてそんなものよりもよっぽど、利害関係がある人間の方が信用できる。
そう、たとえば目の前のこの男のような。
「…ぼ…くは…逃げて……ない…」
男というにはまだ若い青年。色白の肌は残念ながら吉田に殴られたことによってうっ血した跡がたくさん残っている。傷だらけの身体だが、しかし生来の整った顔立ちはそのなかにあっても美貌を保っている。その辺りが男をそそるのだと、本人も知っている。
青年は陰間茶屋から逃げ出したと言った。そして誰かを探しているらしい。その人間を何故探し出したいのかは吉田は知らないし、興味がない。だが、彼が仇討ちを果たすのに一番良い近道が吉田の傍にいることなのだと青年は言った。青年は吉田を利用し、そして吉田も青年を利用する。欲望のはけ口としては良い取引だと思っている。なにより同志などというお飾りめいたことを言わないのがいい。
「ふぅん…」
今日、彼に使いを頼んだ。しかし決まった時間に戻ってこなかった。半刻ほど遅れて戻った彼を連れ出し、人気のない場所で尋問した。それが今の状況だ。
しかし逃げていない、と睨み付けるように吉田を見た彼の瞳は、相変わらず曇りがない。何もかもが正反対なこの青年は何度酷い目にあっても吉田の傍から離れようとはしない。
「仇討ちしたい人間に恨みがあるからと言って、俺に嬲られるのと何が違うんだ」
「…あなたは…僕を、嬲ったり…しない」
口が切れて血を流しながら、青年はきっぱりと告げる。
「僕は、何があっても、離れません」
殴られたせいで顔が歪み、縛り付ける縄が食い込み、苦しそうに息を吐き出すのに。この青年はどんな酷い仕打ちを受けてもその主張をやめない。
「…うっとおしい」
その清らかなほどの純情が、吉田にはうっとおしい。うるさい、煩わしい。理解ができない。汚してしまいたい。
「ん…っ」
口元の傷口を舐めまわすように吉田は彼に口付けた。傷口から痛みを感じたのか、彼の顔が歪んだ。月代のない髪が解け、まるで女のように色めかしい。陰間茶屋ではさぞ人気者だっただろう、と以前からかうと憮然として特に反応はなかった。
吉田は舌を絡め、そしてきつく吸う。息もできない青年は微かに苦しそうにしたが、そんなことに構う吉田ではない。
「…足、開け」
既に体力が尽きようとしている彼に、吉田は命令した。すると彼は少しだけ驚いたような顔をして、けれども抗うことなく従った。
彼との間にあるのは身体のつながりと、そして主従関係と、利害関係。吉田が理想とする『同志』だ。ただ彼が何を考えているのかはわからない。興味がない。中身がない『同志』なのだ。


元治元年の長かった冬が終わろうとしている。京も梅の花が蕾をつけ始めて、やがてやってくる春を迎えるための準備をしている。あれだけ火鉢の前から離れなかった斉藤が縁側に腰掛けて刀の手入れをしているのが顕著な例であろう。
「毎度、おおきに!」
呉服屋の店主が大げさともいえるほど頭を下げて、総司と土方を見送った。今日は二人で土方が新調した黒羽織を取りにやってきたのだ。
朝一番急に土方がやってきたかと思うと「付き合え」といつものように乱暴に総司を連れ出した。最近は新撰組を狙った襲撃も多いので総司も文句はなかったものの、せめて朝餉くらいはゆっくり食べさせてほしいな、とこっそり思ったりしたのだが。
「土方さん、もう他に用事はないんですか?」
風呂敷で丁寧に包まれた羽織を片手に店を出た。
「…いや、まだある」
「どこへ?」
「いいから」
総司の質問には答えず、土方は歩き出した。彼が強引なのはいつものことなので総司は特に文句も言わず後を追った。
「そういえば、聞きたいことがあったんですけど」
「なんだ」
「新撰組を解散するっていうお話があったじゃないですか。あれ、どうなってるんですか?」
近藤と土方が仲直りをしてすぐくらいに、新撰組を解散するという話があった。もっとも解散するが目的ではなく、言わば「このままの扱いなら解散も辞さない」という賭けにも似たような交渉だったのだがその結果を総司は聞いていなかった。すると土方が「ああ、あれか」と軽く答えた。
「従来通り『会津藩お預かり』であるという答えを貰った。将軍様が江戸に戻られても継続で役目を果たすようにとのことだ。ったく、今更会津藩お預かりから越前福井藩お預かりにならなきゃなんねぇんだ」
「え?そういうお話だったんですか?」
事情を知らない総司は唖然とした。
新撰組が仕える会津藩松平容保はその才を認められ若くして京都守護職に任命された。京の治安は沈静化し、昨年の八月十八日の政変では大きな役目を果たした。そして、その功を認めた幕府は松平容保を京都守護職から解任し、新たに幕府軍事総取締に任命したのだ。もちろん会津藩のお預かりの新撰組としては幕府軍事総取締役の下に付く組織になり、江戸へ帰還するというのが本来の姿ではあるが、その曖昧な立場とこれまで培った地盤が揺れることが危惧され、近藤ら幹部は承服しかねていた。しかし、その一か月後には越前福井藩藩主松平春嶽が京都守護職から解かれ、元通り松平容保がその座に就くこととなったのだ。
このドタバタ劇に振り回される新撰組ではあったが、結果的にはこれまでと同じように職務を果たすことができる。
「じゃあ、今まで通りってことですね」
解散しろ、と言われるかと思っていた総司としては胸をなでおろしたい結果だったが、土方の表情は良くはない。
「今まで通りっていうのが、良いのか悪いのかわかんねぇけどな」
「…」
変わらない、という言葉を土方は嫌う。いつでも飛躍を求め、夢を追い求める彼にとってそれは単なる停滞でしかないのだろう。だが、総司は変わらないという言葉に安堵を覚える。このままで良いのだと太鼓判を押されたような気がしてしまうのだ。
「…総司?」
土方が総司の顔を覗き込んだ。急に黙り込んだので驚いたのだろう。
「あ…いえ。その…土方さんは、強いですね」
「強い?」
予想外の答えだったのか、土方が怪訝そうな顔をした。
「私は…このままでいいって思ってしまいます。試衛館の時に比べて今は何不自由ない暮らしができているし、毎日刺激があって楽しいし…変わらなくてもいいって。でもそれは弱虫だからかもしれないです。一歩踏み出す勇気が無くて…このままでいい、じゃなくて、このままがいい、になっちゃってるのかもしれないですね」
それは土方に対する気持ちも同じだ。中途半端のままの関係をいつまでも続けていいわけじゃないと分かっている。彼が答えを待っているのも知っている。けれど、こうして二人で出かけたり一緒にいられるだけで満たされてしまうから。この穏やかな時間が無くなってしまうかもしれないのなら、このままでいい。そんな風に思ってしまう。
総司はそんな自分に苦笑した。こんなことで不安になってしまう自分こそが、本当に弱虫なのだと思った。
しかし、隣を歩く土方は
「別にそれでいいだろ」
とあっさり肯定してしまった。総司は驚いて土方を見た。
「このままでいい、このままがいいってお前が思うなら、その場所は良い場所なんだろ。お前がそう言う風に思える場所を作れてるなら、俺はそれでいい」
「……土方さん」
その言葉はとても曖昧で抽象的だけれど、土方が総司に寄せる信頼をひしひしと感じられる言葉だった。
(ああ…やっぱり…)
変わりたいと思う。この人のことを早く、もっと、彼が寄せてくれる気持ちくらい好きになりたい。
「…へへ」
「なんだよ」
「なんでもないです」
この人がくれる言葉が、宝物になる。そんな風に思っていることを、彼は知っているのだろうか。


「じゃあな」
吉田は冷たく青年に言葉を投げかけた。青年はぴくりとも動かず死んでいるように見えるが、息はある。
縛り付けていた手足は行為が始まるとすぐに解放してやった。そうしなければ自由に動くこともままならず、吉田のほうから仕掛けなくてはならない。男色の行為に特に不快感はない吉田だが、自分から求めるように身体を繋げるのは嫌った。それは女でも同じことだ。
それは、まるで自分から相手を欲しているように見えるからだ。
いかなる時でも、吉田は誰かに何かを期待したりはしない。期待するほどの信頼を誰にも置かない。
(どうせ、思い通りにはならない)
そう言う風に達観しているのは昔からだ。だったら相手が求めることに答えてやる方が楽だとさえ思う。
『君は虚勢を張っていて、その実、怖がりだよね』
脳裏に響いたのはやはりあの男の声だった。何もかもを知っているかのような顔をしている男は、いつも吉田に語りかけてくる。
「…うるせぇな」
全然違う。全然わかっていない。俺は何も恐れちゃいない。痛むことも、殺すことも、後悔することもない。
『あなたは、僕を、嬲ったりしない』
吉田は横たわったままの彼に振り返った。気を失ったまま倒れた青年の顔は、やはり吉田に対する恐怖も嫌悪もない。ただただ、清らかなままだ。
「やっぱり、お前、うっとおしい」
聞こえていないのはわかっていたが、吉田は苦い気持ちで言い放った。
(俺を否定するのは、あの男とこいつくらいだ…)
吉田は誰もいない寂れた境内をあとにした。





149


青年が目を覚ましたのは、吉田が去ってからすぐだった。もともとこういった痛みには慣れている身体だ、痛いとも苦しいともつらいとも悲しいとも思わない。
「…いかないと」
ただ、追い付かなければというその気持ちだけが湧き上がってくる。去っていった吉田はもう自分のことを必要としないかもしれないけれど、置いて行かれるのは嫌だった。彼に嫌われようとも罵られようとも、彼の傍にいる。彼の傍で生きる。いまはそれだけが生きている青年の望みだったのだ。
青年はどうにか身体を起こし、立ち上がった。殴られた右目が視界を遮ったもののこのくらいの怪我で済むのなら、大したことはない。吉田が本気で怒っていたらきっとこんなものでは済まないのだから。
そして覚束ない足取りで歩き出した。吉田に強引に連れ来られたここは、どうやら廃寺のようだ。雑草が多い茂り、境内が既に腐り始め、鳥居も色を無くし虫に食われている。人気が無くまさに人目を憚るのなら、打ってつけの場所だ。
「うっとおしい」
吉田は青年に何度もそう言った。それはもう口癖のようなもので、もはや青年を指す代名詞のようなものになりつつある。
青年は吉田の凶暴さは理解している。人間の言葉が通じない動物のように、獰猛で狂気を孕むその瞳は周囲の者を威圧する。誰もが吉田のことを「恐ろしい」と怖がった。彼を諌めるのは桂という博識そうな男だけで、あとの者は吉田に平伏すだけだった。
しかし青年は吉田が怖くはなかった。その凶暴な目つきで睨まれようともビクともしなかった。それが吉田には「おもしろかった」のだという。
「怖くなんてない…」
強がりでもなく、悲嘆するでもなく、諦めているのでもなく。本当に怖くなんてない。
ただ己は彼の傍にいなければならない。それだけを誓っていた。
青年はどうにか立ち上がった。すると遠くから人の声が聞こえた。


「何の用なんです?こんな人気のないところに…」
総司は困惑気味に土方に訊ねた。呉服屋から羽織を受け取りその足でやってきたのは人気のない境内だった。周囲を木々に囲まれたそこはすでに信仰する者を失い、ひっそりと佇んでいた。
「別にここに用事があるわけじゃねえよ。ただ、人気が無い場所がいいんだ」
「…?」
背中を向けたままの土方は、そのまま古びた境内に羽織を置いた。建具がボロボロで忘れ去られた場所のようなそこは、幽霊が出るのではないかと思うほど不気味な場所だった。まだ太陽があるので明るいものの、日が落ちれば怪しさはさらに増すだろう。
総司が落ち着かず、きょろきょろと見渡していると、土方が急に刀を抜いた。
「…土方さん?」
もし総司の立場が他の隊士で、鬼の副長に人気のない場所に連れられ、刀を抜かれたとしたら粛清されるのではないかと怯えてしまうだろう。しかし、総司には当然土方に殺意がないことが分かっていた。
「お前に立ち会ってほしい。真剣でな」
「それは構いませんけど…」
「屯所で真剣で立ち会ったら、周りが誤解するだろうからな。だからここまで来たんだ」
土方は愛刀・堀川国広を総司に向けた。京に来てから一年。その刀は土方とともに歩み、土方を守り、そして芹沢の暗殺を行った。土方の欠かせない相棒だ。
そして総司も刀を抜いた。こちらは近藤と交換した加賀清光。高尚な刀ではないが、長めの刀身と切れ味の良さは隊内でも随一だろう。
「怪我、しないようにしてくださいよ」
「怪我なんかするかよ」
「どうでしょうね。最近、土方さん稽古に来ないからなあ」
総司が笑うと、土方の表情が変わった。昔から剣のことになると挑発に弱いのは相変わらずのようだ。
「いくぞ」
「はい」
二人の視線が重なって、ほぼ同じタイミングで踏み込んだ。刀は火花が散るほどに激しくぶつかり、無人の静寂のなかで響き渡った。
土方の癖は知り尽くしている。天然理心流の門下生ではあるけれど、入門する前に武者修行を積んだ彼は天然理心流の型というよりも土方流の遣い方をする。朴訥に律儀な剣ではなく、臨機応変に形を変えるので、本当の斬りあいで強さを発揮する土壇場の剣だ。一方で総司は天然理心流しか知らない、と言っても過言ではないほど流派に忠実だ。一から十まで知り尽くした剣技の数々をどんな体勢からも繰り出すことができる。天才と呼ばれることが多いが、それはあくまで流派に忠実でありそこからは決して外れていない。だが、その技を繰り出すスピード・判断力・技巧全てが優れているからこそ「強い」と評されるのだ。
そんな対照的と言われる遣い方をする二人だが、息は合う。相手がどこに繰り出してくるのか、相手がどこを狙っているのか、総司は土方の癖を知っていたし、土方は総司の考えることを知っていた。
「く…っ」
総司は小さく声を上げた。久々に土方と立ち会うが、いつも、誰とも違う感じがするのだ。
近藤と立ち会うと、まるで打ち込んでも打ち込んでも果てが無いように感じる。大きな大木でありながら、しなやかに総司を躱すのだ。しかし斉藤と立ち会うと、激しいぶつかり合いがまるで鏡のように感じる。そして自分と戦っているような気持になる。しかし土方は違う。自分のことを一番理解し、知っているからこそやりづらいのだ。すべてが読まれているような気がして、息が合うものの、合いすぎて勝負がつかない。
キィィンっと刀のぶつかる独特の音が鼓膜を揺らす。ぶつかり合う音が手首にまで伝わってくる。
ぶつかっては離れ、離れてはぶつかりに行く。それが何度も続いた後、総司が一瞬体勢を崩した。それを目敏い土方が気が付き、右斜め上から刀を振りかざす。それを低い体勢の総司が押し上げるようにして弾いた。
その瞬間だった。
「あ…っ」
刀がぶつかった瞬間、いつもと違う感触なのが分かった。ギィンっと鋭い音がしたかとおもうと、土方の刀が弾かれて飛んでいく。そしてそのまま刀は境内の壁に突き刺さった。
しかし良く見ると刀の柄は土方の手にある。
「…お、折れた…?」
総司は唖然として呟くと、
「やっと折れたか」
と何故か土方は満足そうに笑っていた。もちろんそこで勝負はお開きとなった。
「土方さん…?」
息を整えつつ、総司は刀を鞘にしまった。加賀清光は特に刃こぼれもしていない。
「…ふん、女々しいだろ」
呆然見ていた総司に、土方が苦笑気味に言った。堀川国広が折れたことにショックを受けている様子はない。むしろわかっていたことのように受け止めていた。
(土方さん、最初からそのつもりだった…?)
「前に話しただろ。そろそろ堀川国広を買い替えるべきだって」
「そりゃ、そういう話はしましたけど…だからって折らなくても…」
「折れなきゃ、一生買い換えられない気がしたんだ」
土方がゆっくりと境内へ歩いていく。そして壁に突き刺さった刀身を抜き、少し安堵したような顔になった。
「この刀は…ずっと俺と一緒にいた。正しい遣い方も、手入れもしたことねぇし、誇らしい仕事をさせたわけでもねえ。けど…ここまで来たのは、こいつのおかげだろ」
その土方の表情が、酷く優しく見えた。それはこれまでともに歩んできた相棒への労いの言葉だった。
「もうお役御免だ、ご老体に無理させることはねぇってずっと思ってたが……それでも、踏ん切りがつかなかった」
「…踏ん切り、ついたんですか?」
総司が訊ねると「ああ」と土方が頷いた。
「だって仕方ねえだろ。お前に、折られちまったんだからな」
その言い訳のような勝手な物言いは、不器用な彼らしい。本当は愛着があるものが捨てられなくて、困っていたくせに。
「人のせいにしないでくださいよ」
総司は拗ねながらも、笑ってしまっていた。

その時。
ガササっ
と、風でもなく不自然に草が揺れる音がした。とっさに身構えた二人はその音が聞こえる方を探した。総司はもう一度刀を抜き土方を庇うようにした。
「……え?」
刹那の緊張感ののち、草の茂みが揺れる音が聞こえる方向から人が歩いてきていた。髪が乱れ表情が見えず、身体を重そうに引きずりながら歩く様はこの廃寺には不気味に映り、総司は一瞬
(幽霊…?)
と妙な寒気を覚えたが、それは杞憂だった。こちらに歩いてくるのは足の生えている人間であり、そして怪我をしているのがわかった。
総司と土方は刀を修め駆け寄った。するとその幽霊ではない者は、バランスを崩し倒れこんでしまった。
「おい、無事か?」
「しっかりしてください」
体を起こしながら声をかける。女のように幼い顔立ちをしているが、男のようだ。右目が腫れ、いたるところに痣が見え隠れする身体は、散々痛めつけられているのがすぐに分かった。意識があるのかないのかわからないが虚ろな目が空を見上げていた。
「…いか……と…」
「え?」
切れ切れの声は総司の耳には何を発しているのかわからない。ただ、総司と土方の手を振りほどくと、彼はよろよろと立ち上がった。そしてゆっくりと歩き始め、まるで何もなかったかのように総司と土方を無視して去っていく。
「…なんだ、あれは…」
彼の態度は人を怒らせる以前に、奇妙なものだった。痛々しい傷を背負いながら助けを求めることもなく、ただ「何かを探していた」。
「大丈夫かな…」
追いかけるわけにもいかず、捕まえるわけにもいかず、総司と土方は彼の背中が見えなくなるまで見守った。
そしてそうしていると日が暮れて、辺りは不気味な暗闇に包まれようとしていた。






150


彼は毎日その姿を変える。
一昨日は快活な薬屋。昨日は魚売り。明日は物乞いの予定だ。そして今日は身形のいい坊ちゃん。
久々に綺麗な衣服に身を包んだ彼は、揚々と島原へやってきた。いつもは不精している髭や月代もすっきりとして、金回りのいいどこぞの商家の次男坊に見える工夫を凝らす。その完璧な武装は誰にも気づかれることはない。天神を指名するにふさわしい形だろう。
店の者にも疑われることなく部屋へ通された。身形の良さに目がくらんだのか、通された部屋は少し広く調度が豪華な立派な部屋だった。指名した天神はまだ別の客の相手をしているという。線香が消えるのを待つしかない。
そうしていると質素な服装に身を包んだ女中たちが料理を運んできた。待ち時間に別の女をはべらせようか、と聞いてきたが女遊びが目的でもないので丁重に断った。そして再び一人きりになる。
「…なんや落ち着かんなあ」
新撰組監察・山崎烝。今日は良家の次男坊・鏑矢次郎という偽名だが、明日にはまた違う名を名乗ることになる。
山崎自身はもともとは大坂の針医者の倅として生まれたが針医者という仕事が性分に合わず、若い勢いそのままに新撰組に入隊した。京都・大坂の地理に詳しいことを買われ監察方に任命されて以来、屯所には滅多に顔を出さない。
監察と言う仕事は人を選ぶ。まず武士の出だとその誇りや矜持が邪魔をしてしまう。監察の主な仕事は人とのつながり・ネットワークを持つことであるので、常に下手に出る必要がある。信頼関係を得るための方便を上手く思いつくか、それも才能の一つだということだ。その点山崎は昔から父の患者の相手をしていたせいか、言葉は考えるまでもなく出てくるし、嘘を付くのも苦労はしない。人に頭を下げることも嫌だとは思わないので、監察向きだったのだろう。
(それを見抜いたんか、偶然なのやろか…)
この仕事に任命した副長の真意は山崎でさえわからない。ただ、監察の才能があると見込まれたのと同じで、副長も副長しての才能がある。そういうことなのだろう。
そんなことに思案を巡らせていると、部屋の外に人の気配がした。天神のお出ましだ。
「…鏑矢はん、おひさしゅう」
「やあ、天神。今日も綺麗やなあ」
凛とした美しさで顔を出した君菊に、山崎は軽い口調で返す。これも『鏑矢次郎』の特徴だ。すると君菊は傍にいた禿たちを帰して部屋に入った。
もちろん君菊は山崎の正体を知っている。鏑矢次郎として会うのは二度目だが、何度か小者のふりをして手紙を渡したこともある。別のなりをしているときでも君菊はその表情を崩さず、その時に相応しい名前で山崎を呼ぶのだ。
(嘘を付くのが得意…というよりも、信念が強いちゅうか…)
島原の芸妓を間者に仕立てて諜報活動を行うのは良くあることだ。しかし彼女らはあくまで本業のついでに、気が付いたことを教えてくれる程度で熱心な行動は起こさない。加えて二重間諜の場合があり、どちらに肩入れしているのかわからないことさえある。しかし、この君菊は違う。それは土方副長が保証している。
『あの芸妓は絶対に裏切らない。』
土方が君菊のことを山崎に伝えたときに言った言葉だ。あの副長が『絶対』という言葉を使うからにはよほどの自信があるに違いない。
(…天神も大層な男に入れ込んだもんや…)
「…で、今日呼び立てたんは…?」
山崎は少し声を落として君菊に問うた。今日、わざわざ正面から君菊を訪ねたのは、別の小者を介して手紙が来て、珍しく彼女から呼び出されたせいだ。
「へぇ…実は、いまから桝屋はんがいらっしゃいます」
「なんやて…?」
桝屋はいま新撰組の監察が目をつけている商人の一人だ。先代が隠居し養子の今の代になってから、随分金回りが良いらしい。大きな屋敷を構え、人の出入りも激しいという話だ。主人は君菊のことを大層気に入っているようで、良く通っては指名しているようだ。
君菊は不意に無言になって周囲の音に耳を澄ませた。そして誰もいないのを確認して、山崎に耳打ちする。
「今日は宴会の席にお呼ばれしてます。つい先日も同じように宴会を開かれはって…その時のお客はんが、あまり柄の良い雰囲気やあらへんかったので…。今日ももし同じお客はんがいらっしゃるんやとすれば、鏑矢はんに顔を見ていただいた方がよろしいかと思いまして」
「…なるほど」
桝屋の連れが怪しい浪士たちだったとしても、名乗るほど馬鹿ではない。何人か怪しい浪士の顔をインプットしている山崎が確認するのが一番早い。
「ええネタ教えてもろうたわ」
山崎はにやりと笑って、頭の中を巡らせる。うろちょろしている浪士たちのしっぽをつかむことができるかもしれない。
拳に力が入った。


山南は格闘していた。
「ううむ…」
臍のあたりをさすりながら、眉間にしわを寄せた。このところの胃の痛みが尋常ではなく、床に伏せっていることが多くなった。キリキリと刺すような痛みは、医者に言わせると精神的なもののようだ。薬は貰ったものの、痛みは考え込むと容赦なく襲ってくる。
「あ、また痛むんですか?横になっててくださいよ」
見舞いにやってきた総司は心配そうに声をかけてくる。総司に促されるままに山南は「悪いね」と身体を倒した。もっとも胃痛の原因は目の前の総司にもあるのだが。
『山南せんせ。天神は新撰組の方と懇意やと聞きました。もしかしたらなんや関係があるかもしれへんて…だから、天神のこと、少しだけ気にしてもらえへんやろか…?』
明里の甘えるような懇願するような声が脳裏によみがえる。あれ以来明里とはあっていない。仕事が立て込んだというのもあるし、何となく明里の心配ごとに答えてあげられることができなければ、行ってはならないような気がしたのだ。こういうときに生真面目な性格が仇になるな、と山南は思ってしまう。しかし、山崎のような間者の真似事が山南にできるわけもなく、直接「君菊さんについて何か知っていることはないか?」と聞くこともできず、ここ数日悶々としていた。
遠慮がちになってしまうのは、土方と総司の関係にひびが入るのではと危惧してしまうせいもある。余計な気を回しているだけかもしれないが、君菊という女性の存在が土方にとってどういうものであっても、総司が気にしてしまうのではないかと思うのだ。
(最近は沖田君の様子も変わってきたし…)
鈍感だと揶揄される山南でさえも、総司の土方への態度が少し変わったことには気が付いていた。試衛館の頃は仲のいい兄弟というイメージだったが、今では土方が近藤という盟友以外で最も信頼を置く存在となり、総司もそのことを受け入れているように見える。
(…芹沢先生を殺してからかな…)
「う…っ」
「大丈夫ですか?医者を呼びましょうか」
「い、いや、大丈夫だよ」
山南は心配させまい、と無理やり微笑んだ。実際、芹沢の暗殺のことを思い出すとこうやって胃が痛むのは随分昔からだからだ。
(後悔は、していない…)
だが、棘として疼きつづけているのは間違いない。そう言ったところだ。
「山南さんは早く元気になってもらわないと困りますよ。最近は土方さんも悶々としてるみたいだし。喧嘩相手が居なくてつまらないのかなあ」
総司がぼやくように言った。
「喧嘩相手なら君がなってあげればいいじゃないか」
「私の喧嘩と山南さんの喧嘩は違うんですよ。私はただの憂さ晴らしで、山南さんとは議論なんだもの。…いつか爆発して近藤先生と土方さんの喧嘩なんてなったら御免ですよ」
総司が苦笑気味に揶揄するのは、先日の近藤と土方の喧嘩だ。今では笑い話になっているが、当時はいつ仲直りしてくれるのかと苦心したものだ。
「この間の京都守護職交代の騒動の時は力添えができなくて申し訳なかったよ」
「ああ、何だか複雑な話になっていたみたいですね。私は半分も理解できなかったんですけどねえ」
新撰組存亡にかかわる話だったはずだが、総司自身はあっけらかんと笑っている。その自然体な様子が、今の山南は羨ましい限りだ。
「とにかく。早く良くなって明里さんの所に顔見せないと、怒られちゃいますよ」
「……君も、君菊さんの所に行かなくていいのか?」
話の流れなら今だ、と思い意を決して口にした山南の言葉で、総司はぽかんとした顔をした。
「…え?私ですか??」
「い、いやその。先日島原に一緒に繰り出した時に君菊さんと親しげにしていたじゃないか。てっきり良い仲なのだと思ってね…」
早口で巻くしてたる様な言い方で、言い訳っぽく聞こえてしまったかもしれない。しかし総司は頭を傾げつつ
「でも君菊さんは土方さんの馴染みってことになってるし…私が行っても仕方ないじゃないですかね。むしろ土方さんの方が全然顔を出してないらしいですから、土方さんが行ってあげたほうがいいんじゃないですかね」
とあっさり口にした。今度ぽかんとした顔をしたのは山南の方だ。
「え…っと、その、それは君にとって良くないことなんじゃ…?」
「え?」
「い、いや…何でもない」
何やら言葉の通じない壁があるような気がして、山南は口を閉ざした。もし今の発言が土方の耳に入っていたら、ショックのあまり硬直しそうだ。
(土方君も苦労するな…)
今まで感じたこともない同情じみたものを噛みしめる山南だった。







解説
142解説 有馬への療養について、わらべうたでは浅野薫と谷末弟が同道したようになっていますが、こちらは創作です。解説が遅くなってゴメンナサイ><
143幕末に流行っていた刀としては・身幅が狭く切先は長め、反りがある刀が流行っていたそうです。幕末の動乱期に武士らしくあろうと思う人間ほど古風な刀のつくりにこだわったとかいう話もどこかで聞きました(違ったらすみません…) 土方が持っている刀が堀川国広一尺八寸の設定ですが、これは新撰組メンバーの中でも短い方です。斉藤や永倉の刀も二尺は超えていますし、一番長いものだと芹沢の二尺八寸です。
146吉田稔麿については今回はオリジナルキャラクターくらいのつもりで創作させていただいています。長州ファンの皆さんごめんなさい(平服)詳しくは後に解説させていただこうと思います。
147長州藩は創作はいってます(断言;)
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