わらべうた





151


元治元年四月。不穏な空気が流れ始めていた。
夜の見回り番が屯所を出ていき、それ以外の者が寝付き始めた頃。
とん、とん、とん。
と微かな音がした。機敏に気が付いた土方が部屋を開けると、やはりそこには山崎がいた。
「…今日は、身形が良いな」
特に挨拶もなくそういうと、山崎は「今晩は鏑矢でして」と答えた。彼がいくつかの名を使い分けていることは知っていたので、土方は「そうか」と小さく答えた。それにしても夜半とはいえこんなに簡単に忍び込まれるとは。屯所の警備が手薄なのか、山崎が気配を消すのが上手いのか…前者なら問題だ。ともかく人目に付く前に山崎を部屋にいれる。そこでようやく山崎は張りつめていた緊張感を消した。
「お休み前にすんまへんでした」
「いや。お前たちは時を選ばなくてもいい」
昼夜構わず仕事に明け暮れる彼らが、気を遣う必要はない。それに、この時間に訊ねてくるということは、早くに伝えるべき情報があるということだ。それは土方にとって悪いことではない。
「それで?今日は酒臭いな」
目敏く指摘した土方に、山崎は「さすがですなあ」と頭を掻いた。最も土方自身があまり酒を飲まないので、すぐにわかったのだが。
「今日は天神に呼ばれまして」
「…君菊に?」
山崎は頷いて、経緯を話した。桝屋が相変わらず君菊の元へ通っているということ。最近はさらに何人かを連れて店にやってくること。そしてその中に怪しい人物がいるということ。
「何人かの顔を確認しました。以前取り逃がした浪士に似ている者が居ました。あと…」
「なんだ」
言葉を濁した山崎だが、急に顔を顰めて続けた。
「…どうやら、桝屋は松山を殺した奴らと親交があるようで…」
「なんだと?」
潜めていた声を土方は思わず大きくしてしまった。
彼が口にした松山幾之助は山崎と同じ監察だった。京を離れ岡山藩の情勢を探るため潜伏していたが、何者かによって惨殺。先日、無残にも首を晒されたらしいという知らせが入った。同僚だった山崎とは親交が深かったらしく、彼の表情があからさまに暗くなった。
「手水のふりして部屋の前を過ぎたときやった…あいつら、新撰組の隊士を殺して晒してやった、と自慢げに語ってましたよ。腸が煮えくり返るかと思いましたわ」
「…そうか」
一瞬、感情を高ぶらせた山崎だがすぐに抑えた。
「しばらく桝屋の近辺を探ります。下手に桝屋を刺激してはあかんので…松山の敵を取るためにも」
冷静沈着なようで、山崎は情に厚い。しかしその情に流されて無茶な行動に出ることもない。しかし土方は念を押すように
「慎重にやれよ。桝屋はしばらく泳がせておきたい。今のところ雑魚ばっかりが群がっているようだが、いづれ大物がつれるかもしれねえ」
と諭した。もっとも、山崎はこれくらいのことは心得ているはずだ。しかし、彼の表情はいまいち冴えなかった。
「ええ…ただ、天神のことが気がかりで」
「…」
土方は黙り込んだ。
それは土方がいつか山崎から聞くだろう、と思っていた指摘だった。
「天神は副長の馴染みだという噂はすっかり広まってます。もし新撰組に情報が漏れているとしれれば疑われるのは天神やと思います。…何度か忠告はしたんですが、天神は聞く耳も持たず『心配しなくていい』ばかりで…」
それはあらかじめわかっていたことだ。君菊と土方が馴染みであるという噂がある以上、彼女に間諜としての仕事を任せるということはそれだけのリスクがあるということ。それでも彼女に任せたのは、彼女が信頼のおける存在だったからだ。
『ぜんぶ、あげますえ』
間者の話を持ちかけたとき、君菊はあっさりそう言った。何も返せない、と言い募ってもそれでいいと答えた。そんな芸妓は彼女以外にいないだろう、そしてそんな彼女が山崎の忠告に耳を貸すわけはない。
「…うまくやるさ」
不穏な先行きを払拭したくて、土方は自分にそう言い聞かせた。


数日後。
「確実に仕留めろ、なんて簡単に言いますけど、結構難しいんですけどねえ。そう思いませんか?」
土方の注文に茶茶をつけたのはもちろん総司だった。今日は斉藤の隊とともに巡察に出た。もっとも今日は見回りではなく、さる宿に潜入しているらしい浪士が目当てだ。
「それもそのはずだ。同志をやられてるんだから逃すわけにはいかない」
斉藤は言葉とは裏腹に淡々と述べた。
監察から寄せられたという情報によると、浪士は先日岡山で松山を殺した下手人らしい。松山の首が晒されたという知らせに一番過敏に反応していたのは監察方だ。どうやら血眼になって犯人を探り当てたようだ。
「でもあくまで見回りの途中に、偶然を装って浪士を斬れ…だなんて、土方さんらしくない命令ですよね」
「浪士は斬りたいが、その宿に何故潜伏していることがわかったのか、ということは知られたくないということだろう」
総司は「なるほど」と頷いた。監察方がどこから情報を得ているのかは幹部であっても知らされていない。おそらく土方くらいしか把握していないのだろう。
(最近、険しい顔をしていることが増えたしなあ…)
言動に現れていないものの、土方が眉をひそめていることが増えた。イライラしているというよりもいつも緊張しているように張りつめている。何か思い悩むことがあるのかとも思うが、彼が「話しかけるな」と言わんばかりの雰囲気を醸し出しているので総司でさえ迂闊に声を掛けられない。
「…ま、とにかくその浪士たちを確実に斬ればいいってことですね」
「そういうことだ」
斉藤の返事に総司もまた頷いた。



夜。懇意にしている飲み屋の二階を借りて、吉田は桝屋とともに杯を交わしていた。もちろん傍には青年が控えていた。
「岡元が狼に殺されたそうだな」
吉田が酒を飲みながらそう訊ねると、桝屋は苦笑して「そうですねえ」と答えた。
「…まあ、頭が緩い連中ですよ。狼のネズミを斬るまではまだしも、首を晒さなくても良かった。いつかこういう目に合うのはわかっていたことなのに、まったく警戒していなかった。その証拠に、口が軽い」
桝屋喜右衛門。一見すると人柄のよい商人じみた顔をしているが、その腹は意外に黒い。彼の笑顔の裏には何か思惑があるが、しかし物腰柔らかな態度に皆が騙されてしまうのだ。吉田は割とこの男を気に入っていた。
「居なくなって丁度良かったのかもしれません。狼のネズミを駆除した程度で自慢げに口を滑らせるようでは、我々の計画を漏らしかねない」
「…そっちの準備は進んでいるのか」
「ええ。滞りなく」
桝屋は自信ありげに頷いた。吉田はふん、と鼻で笑う。
「お前が言うなら、順調なんだろう。それはいい。……ところで、連中のことはどこから漏れたんだ」
吉田が話を戻した。すると桝屋は声を低くした。
「…おそらく、島原かと」
彼らを島原に誘い、酒を飲ませてボロを出させたのは桝屋だった。彼はあそこに新撰組のネズミが潜んでいるなら遅かれ早かれ連中を探り当て、殺しにやってくるだろうと踏んでいたのだ。
(全く、俺を楽しませる術を知っている)
「ふぅん…島原と言えば、お前が懇意にしている女がいるそうじゃないか」
「ああ…君菊といいます。いいですよ、都の女らしからず、強情で媚びない」
この男は尊王攘夷の志熱く、そのためには何を犠牲にしても構わないというスタンスだが、その桝屋が唯一執着を見せるのが君菊という女らしい。
「…そしてなにより、壬生狼の手つきの女というのがいい」
「お前は全く趣味が悪い」
吉田が指摘すると、桝屋は「吉田先生に言われたくはありませんなあ」と笑った。
「手つきの女というと、誰の手つきだ」
「新撰組の土方ですよ。もっとも、君菊自身は認めはしませんが、島原では専らの噂です」
「ふうん…それは、そそるな。今度抱かせろよ」
桝屋は「横恋慕ですか」と快活に笑った。
吉田はちらりと青年を見た。吉田が思っていた通り、彼は少しだけ眉をひそめてこちらを見ていた。まるでその顔が傷ついているように見える。
(…知ったことじゃねえけどな)
心の中で毒づいた言葉は聞こえていないはずだが、彼はやはり泣きそうな顔でこちらを見ていた。



152


四月に入るとそれまでの刺すような寒さは消え始め、昼ごろになるとぽかぽかと暖かい陽気になる。梅の花が咲き始め、間もなくやってくる春が待ち遠しい。そんな頃。
「え?島田さんを異動?」
急に土方に呼び出されたと思えば、それは予想だにしていない知らせだった。あまりのことに総司は呆然としてしまった。
「ああ。いつかはお前の組下に返すつもりだが、しばらくは監察に回す」
「監察って…また似合わないところに…」
島田は新撰組のなかでも古参隊士で、一番最初の隊士募集で入隊した。大柄で面倒見も良く、誰からも好かれる実直さと真面目さが取り柄だ。だからこそ、人をだましたり隠れたり嘘を付いたりする監察にはもっとも似合わないと思うのだが。
「よっぽど人が足りないんですか?」
島田までも異動させるくらいだから監察は余程手いっぱいなのだろう。最近は長州の浪人たちが屯するようになり、捕縛する人数も増えてきてはいる。その情報源は確かに監察方によるものが多く、彼らはいつでもせわしなく動き回っている。長州の大物も潜んでいるという噂もあるので、監察を強化するのだろうか、と思いきやしかし土方は「それもあるが」と苦い顔をした。
「島田が異動を願い出てきた」
「島田さんが?」
「ああ。しばらくはお前の隊を離れたいとな」
「……もしかして、私の世話役は嫌になったってことですか?」
恐る恐る訊ねてみると、ふん、と土方が笑った。
「ちったあ自覚はあるんだな。世話かけてるって」
「そりゃ、世話っていうか頼みにはしているところはありますけど…。だって島田さんは真面目に私の話を聞いてくれるし」
あっちに美味しいお菓子屋がある、あっちに評判の甘味屋があるという他愛ない会話を取り合ってくれるのは島田くらいだ。きっと土方が一緒なら「うるせえ」と一喝されてしまうだろう。ついに子供っぽい組長の下で働くのは嫌だと言い始めたのか…と総司がショックを受けていると
「そうじゃねえよ。別に理由だ」
と、土方が言ったので安堵した。
「それならいいですけど…別の理由って…?」
「それは機密事項」
「えー?私は島田さんの上司なんですよ?教えてくれたっていいじゃないですか」
すると土方が今度はため息をついた。
「教えろって言ったって、お前が気づいてないだけだろうが。ちょっとは考えてみろ」
意地が悪い土方は口を割ってくれそうもない。総司は仕方なく腕組みをして考え込んでみる。
…確かに最近は巡察に身が入っていないこともあったし、落ち着かない様子だった。総司の話も上の空で聞いていて、内容を全く覚えていないということもあった。気も漫ろというか、何か別のことが気になるようで…。
「…巡察途中で気になる人をみつけたのかな?」
考え込んで出てきた結論に、土方は
「馬鹿」
と一言だけ返してきた。どうやら不正解のようだ。
しかし考えても分からないし、いずれ戻ってくると土方が言うのだから深く追求する必要はないだろう。
「…まあ、いいや。島田さんが異動願いを私じゃなくて土方さんに出したってことは、私には言いたくないっていうことでしょうからね」
「ああ、落ち着くまでは頼む」
土方の用件はそれだけだったようで、そういうと黙り込んだ。そしてまた机へ向かう。
(…用は済んだから帰れってことかな)
いつもなら「邪魔だから帰れ」とか「仕事だから黙ってろ」とか乱暴だが土方らしい言葉で締めくくるものの、今日はそれがなく何だか歯切れが悪い。
先月辺りから浪士たちの動きが活発になり、監察方はもちろん巡察も忙しくなっていた。捕縛する人数も増え、また斬りあいになることも多々あるので隊士のなかにも緊張感がある。先日も松山幾之助を惨殺した浪人たちと激しい斬りあいとなり数名怪我をした。春の穏やかさと正反対に新撰組の屯所は張りつめた空気となっていた。
そしてそれは目の前の土方も同じだ。監察方は新撰組の部署の一つ、という扱いだが、実質は土方がその統括をしている。総司らには必要な情報しか降りてこないのだが、土方はありとあらゆる情報をその頭に入れている。
(というか…一人で抱え込んでる感じ…)
総司には想像もできないが、彼はいろいろな思案を巡らせているのだと思う。近藤も
「歳は俺には何も教えてくれない」
と最近嘆いていた。体調の良くない山南にはもちろん何も相談していないだろう。
「…」
無理に聞き出したとしても、土方は何も教えてくれないだろう。試衛館の頃は一人で悩むなんて無縁の人だと思っていたのに、都へやってきてからは影が増えた。それは副長という役目が彼をそうさせているのだと思う。しかし、それを彼は望んでいる。自分以外の誰かが同じ役目を背負わなくていいように…と。けれどそれは総司に取って酷く寂しいことだった。
「…土方さん、帰りますね」
総司はそういうと腰を浮かせた。彼の背中を見続けるのは何だか息苦しい気がして。けれど、土方はその言葉でこちらを見た。
「いい。帰るな」
「…え?」
土方が引き留めるとは思わず、総司は驚いた。そして促されるままにまた座る。
「いいからそこにいろ。もう巡察は終わったんだろう」
「それはそうですけど…ここにいても仕方ないじゃないですか」
「仕方なくはない。良いから、ここにいろ」
理不尽な物言いで引き留めたかと思うと、土方はまた考え事をするために机に向き直り、黙り込む。何の用件も仕事もなく、総司は土方の姿を見ることしかできない。
「…寂しいなら寂しいっていえばいいのに」
「寂しくなんかねえよ」
土方は少しむっとしたように返事をした。総司としては独り言のつもりだったので、土方に聞こえていたことに驚いた。しかし総司も撤回するつもりもなかったので
「じゃあ帰ってもいいですか」
と問い詰める。すると
「……」
土方は押し黙ってしまった。都合が悪くなると黙り込むのは昔からだ。
総司はため息交じりに笑って
「…私がここにいたいので、ここにいさせてください」
と土方に頼む。すると土方は「じゃあそうしろ」と苛立ったように答えた。本当に素直じゃない人だ、と総司は内心思いつつ気づかれないように笑うのだった。



「お前も一緒にこい」
吉田が乱暴な言い方で青年に言い放つと、青年は少し躊躇いながらも頷いた。
桝屋が潜伏先として吉田に貸している離れは一人で潜むには少し広すぎる。なので、青年が隅で膝を抱えていようとも、特に吉田の邪魔になるわけではなかった。
吉田の言葉には絶対服従。
そんな青年は吉田にとってむしろ一緒にいて一番楽な人間でもある。下手に媚を売ってこないのもいい。
(だが一番わからない人間でもある…か)
わからない、というのは悪いことではない。むしろ人間同士わからないことの方が多いのだから、それは不安の種にはならない。青年にどんな思惑があってここにいるのか、わからなくても特に問題はない。
吉田は色の暗い羽織を身に纏い部屋を出る。その後ろを青年が付いてくる。整った顔立ちに月代のない頭。まるで稚児を連れて歩くように見えるだろう。
「…あながち、間違いではないか…」
吉田はそうつぶやいて、苦笑した。
離れを出ると、外は既に日が暮れていて、辺りに灯がともり始めていた。吉田のような顔を知られた者が出歩くには良い時間だろう。
「先生、どちらへ」
しかし引き留めるように、声をかけてきたのは桝屋だった。丁度店じまいの準備をしていたようで、吉田の顔を見ると驚いて駆け寄ってきた。そして声を潜めつつ
「まだ奴らはここを通っていません。もう少し待たれた方が…」
と忠告する。新撰組の巡察が通るルートを桝屋は熟知していた。夜が近くなると店の前を通っていき、時には改めを行うのだ。新撰組の連中も吉田の容姿などの情報を得ている可能性もあり、もし鉢合わせしてしまえば厄介だ。
しかし吉田は
「構うな」
と一言で制した。強い瞳で射抜かれるように睨まれれば、桝屋も黙り込むしかない。
「…狼に出会ったら、斬ってやるよ。ずっと燻ってんだ」
「……」
獲物を狙う動物の瞳のようなそれは、酷く野性的に映る。桝屋はもちろんそんな吉田を止める術を知らないし、上役である桂でも彼を止めることはできないだろう。早々に諦めるしかない。
「わかりました。お気をつけていってらっしゃいませ。…しかし、どちらへ…?」
「島原だ」
吉田はそう答えると、桝屋の横を通り過ぎる。そしてその二、三歩あとを青年が追っていった。





153


日が沈み、辺りが薄暗くなってきた頃、山崎は島原へ向かっていた。今日は『鏑矢次郎』ではなく、小者の『佐吉』だ。島原に出入りする小間使いで君菊の手紙を仲介する作助の仲間でもある。『鏑矢次郎』とは違って、身形が汚く解れた着物を身に纏う。もともと家柄が良いわけではないのでこういった格好も苦痛にはならない。むしろ『鏑矢次郎』の上品で小金持ちの気取った服装の方が落ち着かなくて困る。
しかし今日はどの役を演じていたにせよ、監察見習いを連れているせいで落ち着かない。
「…見れば見るほど似合わへんなあ…」
どんなに汚いものを着ていようとも、目立つ体格と背丈は隠すことができず目立って仕方ない男。今日から監察に異動となった島田だ。本人も戸惑った様子で苦笑する。
「や、やっぱりですか…」
入隊時期は同じものの、監察では先輩の山崎に島田は頭を掻きつつ肩を落とした。
「自分としてはまさか監察に回されるとは思いもよらず…」
「今回ばっかりは副長が見誤ったんかなあ」
人選においてはキレがある副長がそんな失敗をするわけない、と頭では理解できるものの、山崎にはいまいち理由がわからない。大柄で無骨で嘘がつけないこの男が監察に回されたわけが。
(…おかげで歩いているだけで目立つ…)
新撰組の隊士だと思われる可能性はないが、大柄な男だというだけで人の目は引くだろう。山崎は「仕方ない」と己を納得させて、ひとまず足を早めた。今日は遊郭に出入りする作助にこの島田…もとい、『小六』を紹介するために島原へ向かっていた。ついでに島原の様子を探って今日の仕事は終わりだ。
「それにしても、沖田せんせの組下なら花形部署ともいえる地位やないか。いずれ戻してもらえるんかもしれへんが、もったいないことするわ」
山崎が同情した風に島田に問いかける。山崎からすれば島田が自ら異動を願い出たというほうが信じられなかった。彼は剣術に秀でているし、こそこそ敵を嗅ぎまわるよりも日のあたりもとで堂々と出歩く方がよっぽど似合っている。しかし島田はかぶりを振った。
「自分には勿体ないことです。それに…今は、そこにいる資格もないと、…思ったので」
島田は歯切れ悪く顔を顰める。山崎はわざとらしくため息をついた。
「男色やて、別に気にせんでもええのに」
「えっ?」
山崎の言葉に島田が焦ったように声を上げた。
(全くを持って、この男は監察に向かへん…)
嘘がつけない、それが一番の仇になる。山崎は心の中で嘆息する。
「あのな、俺らは監察やで。敵の周り嗅ぎまわるのだけが仕事やあらへん。隊士の身辺調査もしてるに決まってるやろ」
「えっ、あ…の、その…!」
あからさまに動揺する島田は、顔が真っ青になっている。
「ひ…っ、土方先生も、ご存じで…?!」
「俺らは局中法度に背くような行いがあれば報告するんやけど、男色はその限りやないからな。もっとも、副長は感づいてはるかもしれへんけど」
島田は何やら動転していたが言葉にならず、肩を落とす。大柄な男が落ち込む様子を見ると、なんだか哀れになってくる。
「ま、なんでもええわ。とりあえず今日からは気を入れて監察に励んでや」
「…はいっ!不束者ですが一生懸命頑張りますのでどうぞよろしく…」
「そういうのはええねん」
山崎は気の利かない新人の後頭部を弾き飛ばした。


座敷へ向かう途中、
「天神」
と、独特の言葉遣いで呼び止められ、君菊は振り向いた。そこには格上であり、店で評判の太夫が居た。切れ長で一重の瞳が特徴的な太夫は、座敷でも人気が高くなかなかお目にかかれないと評判だった。しかししばらくは本当にお目にかかれなくなるだろう。
太夫は右目のあたりを赤く腫らせていた。余程強く殴られたのか右目が充血している。客に殴られたせいだと君菊は聞いていた。
「…嫌なお客はんがきてはるん…?」
君菊が問うと、太夫は顔を背けた。
「こんなの…別に大したことないんや」
誇り高い太夫は弱みを人には見せようとしない。殴られた右頬のあたりを摩りながら「次はあんたの番になるえ」と忠告する。
「あのお武家はん…ただ者やあらへん。おなごを殴ること、なんともおもうてへん」
「……」
「お武家はんゆうてた。君菊ゆう芸妓を探してる、お前じゃないって…」
君菊のことを名指しで指名する客は多いが、しかし人気の太夫を振り切ってまで求める客はいない。
「…太夫、うちのせいで殴られてしもうたんやね…堪忍」
「別に…そういうわけやない」
誇り高き太夫が強がって目を逸らす。君菊は微笑みかけて「うちは大丈夫」と答える。すると太夫は歪んだままの顔で君菊を見送った。

「やっときたか」
君菊がいつものように頭を下げてから部屋に入る。上座に座る男は肘掛けに体重を預けて、不遜な態度で君菊を出迎えた。くっきりとした目鼻立ちで整った顔立ちの男だが、その雰囲気はヤクザのそれに似ていて、太夫が殴られたというのも何となく理解できた。触れれば刺さる棘のような、人を寄せ付けない雰囲気がある。
そして次に傍に控えていた青年に目が行った。こちらは男とは正反対で、男か女かもわからない中性的で神秘的な雰囲気がある。色白で痩せた体躯はますます男らしさは全くない。袴を履いているので男だとわかるが、女だと言われた方が納得してしまうかもしれない。
「へぇ…君菊どす」
君菊を呼んだという男は、しかし君菊にとって見覚えのない男だった。しかし男は君菊をじっくりとまるで舐めるように見つめた。
「お前が君菊。ふぅん…」
男は気怠そうに立ち上がると、そのまま君菊のもとへ歩いた。そして目の前で立ち止まり、腰を屈めて君菊の細い顎を強引に掴み、上を向かせる。至近距離でみるとますます男の凶暴さがうかがえた。その瞳には、獲物しか写っていないのだろう。
「…うちのこと、ご存じで…?」
君菊が問うと、男はにやりと笑った。
「知っている。新撰組の土方の馴染みだそうだな」
「…噂は噂どす」
その噂について君菊は肯定したことはなかった。肯定するのは嘘になるし、否定するのは隠し事をしているように思われる。
「ふうん…お前は、嘘を付けばつくほど、目を見る人間か」
男は何がおかしいのか笑っていた。
「俺は嘘を付くのが下手だ。だから、嘘はつかないことにしている。だから正直に話してやる」
君菊の顎をとらえていた男の指先が、さらにその傾きを増す。唇が触れ合うほどの近さで男は囁いた。
「俺は長州藩の藩士、吉田稔麿だ。今日は狼の女っていうのが、どういう女なのか、見に来たのさ」
「……吉田せんせ。勘違いしてはるようどすが、うちは狼なんて相手にしたことおへんえ」
君菊の返答を聞き、吉田は顎を掴んでいた手を離した。そして君菊を見て、「はははっ」と笑った。その声は決して快活なものではなく、陰気で怪しい笑い声だ。
「お前、面白い女だな。今まで出会った女のなかで一番肝が据わっている。長州の吉田と聞けば同志と名乗る連中であっても恐れ戦くというのに」
「うちにとってはどの方も大切なお客はんどす。それがどんなに凶暴なお方やろうても、うちには関係ないこと」
「お前は清々しいほどの嘘をつく」
言葉とは裏腹に吉田の表情は怪しくそして嬉しそうだ。君菊の返答に満足したのかもしれない。
「さっきの太夫は顔立ちは悪くなかったが、嘘を付くのが下手だった」
「…それが、太夫を殴らはった理由どすか…?」
君菊が問いかけると、
「ああ。そうだ」
と吉田は悪びれもなく答えた。君菊の脳裏に傷ついた太夫の顔が浮かび上がり、自然と唇を噛んでいた。
「お前たちは嘘を付くのが仕事だ。金を持って店にやってくる客に夢を売って騙す。この夜だけは貴方のことが一番だと言って、次の夜には別の男に同じ言葉を吐く。お前たちは夢を見せ続けること必要がある、義務がある。…しかしあの太夫はそれが下手だ。飾り立てた言葉に意味なんかあるものか」
吐き捨てる吉田は、きっと遊郭で生きる女のことを嫌っているのだろう、と君菊は思った。吉田には嫌悪感が溢れていた。しかし、君菊は怯むことはしなかった。
「お言葉どすが…うちは、嘘を付くのがうちらの仕事とは思うてまへん」
「…ん?」
「うちはこの仕事に誇りもってやらせてもろうてます。座敷に上がれば、そこにいるお客はんのことだけを考える。それは嘘やない」
語調が強くなったのは、何よりも君菊がこの仕事に誇りを持っているからだ。逃げ出したくなったことはある。嫌になったことはある。何故ここに生まれたのかと憎んだこともある。…けれど、恥ずかしいと思ったことはない。嘘を付いているつもりもない。
「…殴るんなら、殴らはったらええ。ただ、吉田せんせが遠回しなお言葉がお嫌いなようやから、うちもはっきりと申し上げただけどす」
殴られても構わない。こんな男に、何も傷つけられたりしない。
君菊はそっと目を閉じて痛みを待った。しかし、いつまで待っても痛みはやってこない。しかしその代わりに
「…気に入った」
という低い男の声が聞こえた。そして強引に君菊の腕を引く。
「床の相手をしろ」
「…っ、」
君菊が必死に吉田の手から逃れようとするものの、強い力とそして以前痛めた足のせいでうまく抵抗できない。
吉田が君菊を連れて、部屋の隅に控えていた青年を横切った。ちらりと見えた青年は無感情にまるで何も見えていなかったかのように微動だにしない。吉田はそんな彼に全く構うことなく次の間へ向かう。そこには床が延べてあった。
「…ここは、江戸の吉原やない。一見さんに身体を売るような真似はしませんえ」
君菊は穏やかに制したが、
「生憎俺は吉原へは行ったことがない」
と、吉田は相手にしない。そしてバランスを崩した君菊を組み敷いた。そして君菊の耳元で囁く。
「お前が新撰組に情報を渡してるってことは、わかってんだよ」
心臓がぞくっとした。しかし君菊は敢えて冷静を装う。
「…何かの、勘違いや」
しかし吉田は口角をあげて微笑んだ。それはまるで
「小者が死ぬ間際に吐いたぞ。…手紙を、新撰組の小者に渡してるってな」
鬼が笑ってるようだった。





154


山崎と島田…こと、『佐吉』と『小六』は小者の作助が待つ橋の袂へ到着した。約束の時間は既に過ぎ、灯りが無ければ歩けないほど暗くなっていた。
「…おらへん、な」
周囲を捜索した二人だが、辺りに人の気配はない。遠くで島原の賑やかな声が聞こえ、川のさらさらとした水の音だけが周囲に響く。
「やま…佐吉さん、場所はここで間違いないんですか」
大柄の『小六』が不安そうに尋ねる。『佐吉』が迷うことなく頷いた。
「あいつと落ち合うのはいつもここや。間違えるはずがない…」
作助はもともと島原に出入りする小者で君菊とつながりがあった。連絡役として相応しいので、金を積んで買収したのだ。『佐吉』の正体も知っているが口外するとどういう目に合うのかわかっているし、小者の割に頭が良いので重宝していた。
「すっぽかされたんですかねぇ…」
『小六』は安易な感想を述べたが、どうにも『佐吉』にはそうは思えなかった。何か胸騒ぎがして、嫌な予感があった。
「小六、もうちょい探し」
「はい」
『小六』はその大きな図体を屈めて歩き回る。辺りは暗いが、目立つので灯りを持って動き回るわけにもいかない。『佐吉』は目を細め、周囲の微かな灯りと、月の明るさを頼りに見渡した。
「ん?」
月の光を反射した川面が、何かを照らしていた。『佐吉』はゆっくりとそれに近づく。真っ黒な物体は川から上がった泥かと思ったのだが。
「……あかんわ」
「どうしました」
それは『佐吉』の嫌な予感を的中させるものだった。『佐吉』が呆然と呟くと、それを耳にした『小六』が駆け寄ってきた。
「…ひっ」
それを目にした『小六』は小さく悲鳴を上げた。腰を抜かさなかっただけまだマシだろう。
「酷いもんや…」
そこには死体があった。無残にも四肢がバラバラとなり目が開いた状態のそれは、『致命傷のない』死体だった。そしてその身体の持ち主こそ、作助に間違いない。いつも飄々とした表情しか見たことがない男だったのに、その最後の顔は苦痛にゆがんだままだ。
「ど、どうしてこんなことに…!」
「……」
『佐吉』はゆっくりとその死体に近づき、開いたままの瞳孔を閉じる。そして手を合わせた。
「…もしかしたら、バレたんかもしれへんな…」
「バレた…とは」
勘が鈍い『小六』は青ざめたままだ。ろくに思考が定まっていないに違いない。
「作助は狼の手先やゆうことが…バレたっちゅうことやろ。それ以外、こんな惨たらしい殺され方される理由はあらへん…」
「…山崎さん…じゃあ、これは…」
口が開いたままの島田は、ますます顔を青ざめた。それはあたりの明かりが無くても分かりやすすぎるほど。
そして山崎もまた、動揺を隠せなかった。
「――島田。副長のとこへ、報告や」
「は、はい!」
島田は竦んだ足をどうにか動かし、一目散に駆けだした。
残った山崎は唇を噛んだ。冷静になれと言い聞かせるが、言い聞かせるほどに頭が沸騰していくようだった。作助の死はそれほどに強烈な意味を発していた。
「狼の手先、致命傷のない…死体」
山崎は呟いた。
町人だろうが、女だろうが、同志だろうが、厭わず無残に殺すことができる人間。そしてじわじわといたぶる様に、死を見せつけるように致命傷のない遺体。
「まさか…そんなはず…」
そういうことができる人間を知っている。実物は目にしたことがないものの、その噂だけなら十分すぎるほどに。
「吉田…」
無意識に呟いた言葉には、憎悪が込められていた。
そして山崎は駆け出した。作助は雇われただけの小者だ。死の間際何を吐いたのかわかったものではない。
(間者やと認めたとしたら…!)
彼女が危ない。



島田はボロボロの衣服のまま屯所に駆けこんだ。島田が監察に異動したとは知らない門番の隊士たちが、驚いたように迎え出たがその勢いに誰も口出しはできなかった。
島田は奥の幹部部屋に駆けこんだ。いつもなら緊張して足が竦むような場所だが、今日はそういうわけにもいかない。夜も更けて寝ている頃ではあるが、幸いにも副長の部屋だけはまだ明るかった。
「失礼しますっ!」
息を荒げつつ短く挨拶をする。すると中で人が動く気配がして、障子が開けられる。
「…なんだ」
副長はやや機嫌が悪そうだった。こんな時間なら当然か、と思いつつ島田はおずおずと「あの…ここでは」と告げた。すると副長は「中に入れ」と言って部屋に招き入れる。島田はその言葉に従った。
「…やっぱり、お前は監察には向かないようだな」
「え?」
「山崎なら誰にも気づかれず上手く侵入するだろう」
「は、はあ…」
土方が苦笑気味に指摘した。確かに着の身着のままで屯所に駆けこむというのは、不味かったかもしれない…。と島田は邂逅したものの、今は反省をしている場合では無い。居住まいを正す。
「ご報告いたします!先ほど、惨殺された小者の遺体を見つけました」
「…なんだと?」
土方の顔色が急に変わる。島田は何だか自分が怒られたような気持になってますます頭を下げた。
「小者とは…どれだ」
顔色を悪くした土方が訊ねる。どれだ、ということは何人も雇っている間者がいるのだろう。
「作助という小者です。島原に出入りしている…」
「…っち…」
作助、という名前で土方の表情はさらに一変し、舌打ちをした。眉間に深い皺が寄り、纏う雰囲気が昏くなる。
「…下手人の目星はついているのか」
急に低くなった土方の声に、ますます島田は緊張する。
「い、いえ…。山崎さんには報告をするように、とだけ。死体は四肢をバラバラにされたもので…残虐なものでした」
死体を思い出すだけで、ぞっとする。自分の手足が生きたまま切り取られるなど御免蒙る。島田は身を震わせつつ言葉にしたが
「馬鹿野郎!何故それを先に言わねぇんだ!」
と、急に怒鳴られた。その声はきっと前川邸中に響いただろう。島田は咄嗟にに「すみません!」と頭を下げたものの、何が土方の導火線に火をつけてしまったのか、いまいちわからない。ただ土方はイライラとした様子で「クソ…」と唇を噛みしめ、そして頭を抱えた。
それはいつも冷静で、いつも毅然としている副長にあるまじき動揺だった。
「あ、あの…」
呆然としている島田に、土方は面倒そうに答える。
「…四肢をバラバラにされたっていうことはな、致命傷がねぇってことなんだよ…」
「あ…!」
土方の言葉で、ようやく島田も思いつくことがあった。
以前見つかった浪士の死体。武士の身分だっただろうに、四肢をバラバラにされ致命傷が無いという誇りを傷つける殺され方をしていた。そしてそれは同志による行いだという話は聞かされていた。
「吉田…稔麿…!」
長州藩の大物だ。島田はその名前を口にした途端、血の気が引くような気がした。そしてきっと山崎は一瞬で気が付いたに違いない、あの顔はそういう顔だった。
しかし作助を殺したのが吉田だとすれば、作助が新撰組に雇われた間者である、と気が付いたということだ。小者である作助が四肢をバラバラにされる痛みを味わいながら、口を割らなかったとは思えない。むしろ命乞いのために知っていることは何でも話しただろう。
だとすれば…?
「…島田」
「は、はい」
副長はまるですべてを憎むような、嫌悪するような顔だった。しかしそれでいて、痛みをこらえるような顔をしていた。
「山崎に伝えろ。…今は、静観するように」
「え…」
それは島田にとって意外な答えだった。てっきり隊士を踏み込ませて吉田確保へ動くかと思ったのだが、副長の答えはそのままにしておけということだ。しかしそれでは…
「しかし…天神は…」
作助と繋がっていた君菊のことを、吉田が知ってしまった可能性は高い。女子供容赦なく切り捨てるような吉田だ、遊里のなかとはいえ何を仕出かすかわかったものではない。新撰組の間者だと知れれば、尚のことだ。
そして島田でも考えつく様なことを、土方が気づかないわけがない。
「うるせえ」
「……っ」
土方の低く、重く、暗い言葉に、島田は黙り込むしかない。
副長のことを妄信的に信じているわけではないが、彼が最良の道を指示するのだということを、島田は良く知っていた。
「……わかり、ました」
島田は頷いて、項垂れて、部屋を後にした。
月明かりが神々しいほどに明るく、そしてそれはいまの島田には明るすぎるものだった。



155


島田は絶望したように青ざめて部屋を出て行った。正面切って去っていく辺り、まだ監察としての自覚が足りない、と土方はどうでもいいことを思った。それは何も考えたくないとどこかで思ってしまっているのだろう。現実逃避か、と土方は大きくため息をついた。
「…くそ…」
土方は拳を握りしめた。
自分でも何に苛ついているのかわからない。
小者をいたぶる様に殺し、嘲笑う吉田のことか。
間者として身を捧げる彼女に、何もしてやれないことか。
それとも、策略を破られた自分への怒りか。
「…っ、くそ……!」
悔しさが込み上げて、土方は文机を叩いた。
静観しろ、と命令を下した。山崎はそれを忠実に守るだろう。吉田がもし君菊にたどり着いたとすれば、容赦はしないはずだ。だが、たとえ君菊が殴られても、惨い目にあっても、凌辱されても、殺されても――山崎は何もしないだろう。見捨てろ、手出しをするな…そういう風に命令したのは自分だ。それを後悔はしない。
「恨むなら…恨めよ」
…ただ、心のどこかで君菊が自分を許してくれるのを期待している。
『ぜんぶあげますえ』
そういって笑った彼女は、この事態を想定していただろう。頭がいい女なのだから、いつか情報元が自分であると矛先を向けられることをわかっていたはずだ。しかしそれでも間者となることを了承した。その理由はすべて土方にある。土方のためだ。
愚かだ。
愚かすぎる。
彼女も、そして自分自身も。
しかしこんな風に後悔する自分と違って、彼女は何の後悔もしないのだろう。きっとどんな目に遭ったとしても、あの美しい笑みを浮かべて笑うのだろう。
握りしめた拳に、自然と力が入っていく。食い込む爪が皮膚を抉るように。
その献身的な彼女の想いを、答えてはやれないのに。その無垢な思いを利用しただけだというのに。そして、それは最初からわかっていたことなのに。
どうしてこんなに後悔する。
「鬼になりきれよ…っ」
近藤を、総司を、そして仲間を守るために、鬼になると決めた。自分にも他人にも妥協を許さず、信念を曲げず、非道だと罵られようとも突き進むと決めた。だから彼女のことも切り捨てようと決めたのに。
…誰よりも静観できていないのは自分の方だ。彼女のことを思うと、胸がキリキリと痛む。それは今まで女に抱く感情とは違う。どちらかと言えば家族を傷つけられるような…そんな痛みだ。
(だから、尚のこと…性質が悪い)
「土方さん?」
土方ははっと顔を上げた。総司が部屋にやってきていた。いつもならすぐに分かるのに、巡らせていた思考のせいで、気配に気が付かなかった。
「どうしたんです?冷や汗かいて…」
総司は土方の様子を機敏に察知してくる。いつもなら軽くを叩けるものの、今は土方にそんな余裕はない。
「…何で来た。寝ている時間だろう」
「島田さんですよ。何だか騒がしいなあって思ったら土方さんの所に来てたんですね」
ますます監察に向かないなあと笑う総司に、土方は
「何か言ってたか?」
と、焦ったように、思わず問うていた。総司は少し驚いた顔をしていたものの、「いえ」と首を横に振る。
「いくら組下だったと言え、今は監察ですからね。何も言わず去っていきましたよ。ただ、何だか落ち込んだ様子だったけど…」
「そうか…」
総司の言葉に土方は安堵した。総司と君菊は旧知の仲だ。どう知り合ったのかは知らないが、お互いが姉弟のように思いあっているのは良く知っている。だからこそ、土方が君菊にした『仕打ち』を知られるのは、嫌だった。
(どうかしてる…)
誰に恨まれるよりも、総司に罵られるのが一番怖い。決して裏切らない、傍にいると誓ってくれた彼が自分を見放すのを恐れている。
鬼らしからぬ
鬼に非ざる
弱い自分
「…土方さん?」
総司が心配そうに土方の顔を覗き込んだ。部屋に灯されたのは一本の蝋だけだが、今夜は月明かりがあるので顔が良く見える。
見られたくない顔が、見えるはずだ。
「どうかしたんですか…?顔色、悪いですよ」
優しくいたわる声。耳を撫でるこの声に、何よりも癒されている。
「総司…」
土方は総司の頬に手を伸ばした。
君菊のことを美しいとは思う。他の女に比べても色香が漂い、人を惹きつける力がある芸妓だと思う。だからこそ、男の欲を掻きたてられたことも否定しない。けれど、彼女と床を共にしなかったのは、目の前のこの男に心が囚われてしまっているからだ。身体はたとえ女を求めたとしても、心を占めるこの男のことを忘れられなかったからだ。
他の女ならそのまま抱いていただろう。むしろ、総司の代わりに、総司を想像して罪悪感もなく肌を求めただろう。しかしそれを君菊にはできなかった。その明確な理由はわからない。
しかし朧げにわかるのは、もし総司と出会ってなかったら君菊に思いを寄せていただろうということ。それくらい彼女は理想の女ではあった。
(だから、失うのが…怖いのか)
だとしたら、お笑い草だ。
「歳三さん…?」
大切なものはひとつでいい。
お前だけでいい。
「総司、頼みがある」
「あ…はい」
いつになく真摯なまなざしで見つめられ、総司は動揺した。月の光のせいか、彼の表情がいつもと違って見える。険しい顔が半分だけ、照らされて。
それはまるで、鬼のように。
「抱かせろ」

強いまなざしで、告げられた言葉は、総司が理解する前にかき消された。
「と…っ!」
「騒ぐな。隣はかっちゃんがいる」
強引に押し倒され、声を挙げようとしたところで土方の唇が重なった。
「…ん…っぅ」
口腔で共有される舌。いつもなら体温が共有される暖かな感触なのに、今は口内を舐めまわし貪り尽くす野性的な動きだった。
(歳三さん…?)
それはいつもとは違う。溢れ出す思いが止められなくて、求める土方ではない。
「とし…ん、」
声も上げることもできないほどの口付けは、息もできず苦しい。総司は何度も彼の肩をたたいたが、まるで気が付いていないようにやめようとはしない。溢れ出る唾液を無視して土方は貪り続ける。
総司はいつもは閉じている目を開いた。するとそこには総司よりも苦しそうに顔を歪める土方が居た。
(なんで…)
どうして、そんな顔をしているのだろう。どうして、そんなに悲しい顔をしているのだろう。これじゃあわからない。何も伝わってこない。何が彼を追い詰めているのか…わからない。
彼が思うようにさせてあげればいいのだろうか。彼が望むようにすれば何かがわかるというのだろうか。
「ん…ぁ、」
土方の手が下肢に伸びた。以前触れ合った時と同じように。
彼が思うように。
「…っ!」
「いたっ!」
総司は隙をついて、口腔を貪る土方の舌を噛んだ。すると土方が顔を顰めて口付けをやめる。
「いてぇ…」
「…当然です。噛んだんですから」
総司は身体を起こした。土方は痛みに狼狽えたままで特に止めはしなかった。そして着崩れを正して土方へ向き直った。
「歳三さん。訳を聞かせてください」
「……」
正面から見つめる総司の目を、土方は見ようとしない。舌の痛みのせいにして、顔を背け続けている。さっきまで息もできないほどに見つめあったあの口付けとはまるで正反対だ。
「歳三さん」
「……」
総司は答えを促すものの、土方は頑なに口を閉ざしたままだ。
「…言いたくないなら、いいです。でも…」
「酷いって、言え」
ようやく口にした言葉は、総司が思ったような言葉ではなかった。低く、重く、暗い彼の声だった。
「…歳三さん…?」
空耳ならどれだけいいだろう。けれど目の前の土方は酷く脆く見えた。
「酷いって言えよ、嫌だって言えよ。そう言われる方が…どれだけ、マシか」
「……」
理由は聞かせてくれない。しかし、彼が自分で自分を傷つけようとしているのがわかった。そう言う風に罵倒されたくて強引な真似をしたのだと。
総司は穏やかに、息を吐いた。
「いいませんよ、そんなこと」
「言えって…!」
「たとえ歳三さんにここで無理矢理抱かれたとしても、言いません」
きっぱりと断言する総司に、土方は黙り込んだ。梃子でも動かないのはお互い様だ。すると土方はくしゃくしゃっと頭を掻いた。
「…いずれ、お前はそう言う」
「歳三さん…」
土方はそれっきり黙り込んだ。そして総司も何も問わなかった。やがて月明かりが朝日にかわる。そうなるまで、総司は土方の傍にいた。


朝日が差し込む頃、君菊はゆっくりと目を覚ました。何か悪い夢を見たような気がして、目を開けるのが億劫だった。そして体を起こそうとしてすぐに痛みに気が付いた。
「…」
胸板にやけどの跡。背中にひっかき傷。きっと顔は腫れあがって、客の前には出られないようになっているだろう。
隣には既に男はいなかった。獣のように貪りつくした後、彼は満足そうに去って行ったのだ。ぼんやりとした意識の中に、彼の薄気味悪い微笑みが残っていた。
君菊は傍に会った長襦袢を羽織り、床を出る。悪夢の残骸が残るそこから早く離れたかったので、力の入らない身体をどうにか引き摺った。
すると隣の部屋には青年が残っていた。昨夜から一歩も動いていないのだろうか、同じ場所にいた。
「……」
青年は君菊を見た。その目は何も映していない。虚ろでそれでいて無垢な瞳だ。
「…おはようさん」
話すこともないので、君菊はそう言ってみる。すると青年は小さくうなずいただけだった。
「なんで…ここに?」
「……先生に、言われたので」
先生、というのは昨日の吉田という男のことだ。きっと朝起きてくる君菊の反応を見ておけとでも言われたのだろう。
(ほんと…悪趣味や…)
心の中でうんざりしつつ、しかしこの青年には何の罪もないこともわかっていた。
君菊は青年の前に座った。色めかしい恰好だが、青年は特に動揺することもなく君菊の瞳をまっすぐ見つめていた。
「…お人形さんみたいやね、あなた」
「……」
「用意された言葉やないと、話せない?」
君菊がわざとそう言って皮肉る。何らかの反応があるかと思ったのに、しかし青年には何の反応もない。何だか馬鹿らしくなって、君菊は思わず笑ってしまった。
「ふふ…ま、ええかな。はよ、せんせの元へお戻り」
「……あなたは」
青年が言葉を発した。それは用意された言葉ではない。
「あなたは、変だ」
「変…?変、かしら?」
青年は頷き、君菊は首を傾げた。変だ、というのはここから微動だにせず座り続ける青年にこそ、ふさわしい形容だと思うのだが。君菊はその理由を促した。
「どこが変やろか?」
「あなたは、凌辱されても笑う」
その青年の言い草は、いっそ清々しい。気負うことも臆することもない。無理矢理犯された女を慰めるわけでも、蔑むわけでもない。本当にわからないことを訪ねるような、無垢な子供の質問と同じだった。
君菊は微笑んだ。
「…笑わな、仕方おへんやろ」
誰も慰めてなんてくれない。
誰も優しくしてくれない。
この世界は、そんなものだ。そう言って割り切ってしまえば、楽になれるのだから。
「ただ一人に、必要とされれば…うちは、それでええから」
青年は見つめていた。
君菊の目じりに浮かんだ涙を、見ていた。



156


「…ふう」
無意識につくため息はこれで何度目になるだろう。長い冬を乗り越えてようやく迎えた春には相応しくないものだった。
「疲れてますねえ、山南さん」
そんな相槌を打ったのは藤堂だった。今日は非番だと言うので書類整理を手伝ってもらっているのだ。
同門の彼とは試衛館食客のなかでも親しい間柄だ。昔ともに北辰一刀流を学んでいた頃はまるで兄弟のように慕ってくれていたし、彼が試衛館に足を踏み入れたのも山南の存在が大きい。そんな彼が機敏に察知するのは当然と言えば当然のことだった。
「いや、疲れてはいないよ。土方君は体調を気遣って仕事を減らしてくれているしね」
「けど仕事が減った分、土方さんに負担が掛かってしまうことが逆に山南さんの負担になってるんですよね」
「鋭いなあ」
山南が褒めると、藤堂は嬉しそうに笑顔を見せた。食客のなかでも年下の彼は、時折子供っぽく見える。それは幼いという意味ではなくあどけないという感じだ。
山南がため息をつく原因の一つは、もちろん言われたとおりのことだった。仕事を休むことで身体は休まるものの、その分土方が忙しくなってしまうと考えると、気が急いてしまい何だか前よりも疲れてしまっているのだ。もちろん副長という重責を担うプレッシャーが心の奥底にはあるのだろう。
ただ、まだ原因はある。
「…藤堂君は花街には良くいくのかい?」
「え?ああ、まあ原田さんの付き添いで時折。いつもは永倉さんが一緒なんですけど、どうしても遊里だけは永倉さん行きたがらなくて」
「そうか…」
もともとご落胤の噂のある藤堂だ、そういった遊びは嗜まないのかもしれない。そう言えば彼から浮ついた話は聞いたことがない。
(君菊さんに関して何か知っているわけはないか…)
結局、あれから大分時間が経ってしまったが、君菊のことは何もわからなかった。やはりもっとも近しい間柄である、土方へ聞いてみるべきなのかとは思っているのだが数日前から随分不機嫌だ。土方の部屋は山南の部屋とすぐそこなのだが、ピリピリとした雰囲気が戸外からも感じられ、あの総司でさえも近寄らないのだ。ましてや自分が口を出しては、怒鳴られそうだ。
「あ、でも、土方さんの芸妓の噂は聞きましたよ」
「えっ?!」
思いあぐねていた名前が出てきて、山南ははっと顔を上げた。
「な、なんて…?」
「え?えーっと…上七軒の君菊とかいう芸妓と懇意だそうですね。でも最近、その君菊が酷い目に遭って寝込んでいるとか何とか…」
「なにっ?!」
山南は咄嗟に藤堂に詰め寄っていた。藤堂も目を見開いて驚く。
「それはどういうことなんだ?!」
「えっと、俺はそんなに詳しいことはわからないんですけど…」
藤堂はこれ以上何も知らない、と言う風にかぶりを振った。君菊はもちろん、明里からの連絡は特にはない。…と、いうよりもむしろ彼女は手習いができないはずだ、伝えようがない。もし自分が探り損ねているうちに君菊に何かがあったのだとしたら、それは自分の失態だ。
山南は立ち上がり傍にあった羽織を身に着けた。
「藤堂君、すまないが少し出てくる」
「え?あ、はあ…」
山南は藤堂の返事も待たずに颯爽と部屋を出て行った。主を失った部屋に、藤堂がぽつんと残る。
「…ま、元気ならいいんですけどね」
藤堂は苦笑した。


平隊士たちが群がって、一人の浪士を捕縛した。無銭飲食を働いたところを偶然居合わせたのでとらえたのだが、西国の訛りがあり取り調べることになったのだ。
今日の巡察は斉藤の組と一緒だ。最近不逞浪士の目撃情報が増え、一つの組では対処できないことが増えていた。平隊士たちも不逞浪士への執念を見せ、いつも臨戦態勢で巡察に望んでいるのだが、総司はというとどこか気が滅入ったまま仕事に向かっていた。
「…あんたも随分上の空のようだな」
斉藤の鋭い指摘で、総司ははっと己が別のことを考えていたことに気が付いた。
「あ、ああ…すみません、なんだか暖かくなって、ぼーっとしちゃって」
総司は苦笑しつつ頭を掻いた。
(こんな風じゃ…駄目なのに)
わかっていても、脳裏をよぎってしまうのは土方のことだった。あの夜から数日経つものの、いまだに土方は何も言ってくれない。不機嫌そうに部屋に引きこもったままで、近藤も弱り切っていた。
様子がおかしくなったのはあの日、島田が屯所にやってきてからというわけではない。その少し前から何かを抱え込んでいるような、頭を悩ませているような…そんな素振りはあった。けれど何も聞くなと言わんばかりに口を閉ざしたままなのだ。
(仕事が立て込んでいて、疲れている…なら、まだ良いのだけれど)
丁度平隊士たちが捕縛した浪士を連れて歩き出した。屯所へ向かうのだ。
「斉藤さん、最近不逞浪士が増えてませんか?」
総司の質問に、斉藤は曖昧に頷いた。
「…増えているのかもしれないし、ただ得られる情報が増えたのかもしれない」
「監察の人たちのご活躍のお蔭…っていうことですか?」
確かに島田が監察に異動したのも、人手が足りないためだと土方は言っていた。実際、新撰組の監察がどれくらいの人数がいるのか、むしろ誰が監察として働いているのか…総司は知らない。そのあたりは土方へ一任されているので近藤も知らないはずだ。
「…もしかしたら副長はわざと泳がせているのかもしれない」
「わざと?」
斉藤の言葉に総司は頭を傾げた。
「不逞浪士はただ闇雲に都へ上っているわけではないはずだ。誰かの指示…もしくは命令で動いている。副長はある程度誰がその台風の目になっているのか目星をつけていて、その末端を俺たちに狩らせている」
「でもその台風の目を摘んでしまったほうが話は早くないですか?」
「台風の目を摘むのはすぐにできるが、さらに上の…獲物を狩りたいんだろう。そいつらが尻尾を出すのを待っているんだ」
総司は「ふうん」と理解できたようなそうでもないような…曖昧な返事をした。それよりもまるで土方の思考をすべて読み取ったかのような答えに、総司は心の中でため息をつく。年下だが、そういう鋭さは総司には持ち合わせていない感覚だ。
もし自分が斉藤のように鋭い感覚を持っていたら、土方と同じ悩みを共有できたのだろうか。土方は悩みを明かしてくれて、そして解決策を一緒に考えることができたのだろうか。
「…斉藤さんなら、土方さんの支えになるんでしょうね」
総司が呟いてしまったのは、己の無力さにほとほと呆れてしまったためだ。土方が何も明かしてくれないのは自分が頼りないからに違いないのだから。
「それは…間違いだな」
しかし斉藤は否定した。
「俺なんかが土方副長の傍にいたら共倒れもいいところだ」
「どうしてです?だって、斉藤さんは頭も切れるし、勘も働くし土方さんだって気に入ってるじゃないですか」
総司は何だかムキになって食い下がる。しかし斉藤は折れてくれなかった。
「土方副長に意見を言えるとすれば三人しかいない。まず近藤局長は土方副長に全幅の信頼を置いている。意見が衝突することは稀にしかないだろう。そして山南副長は意見が衝突するとすれば折衷案を模索するだろう。別の案を探すことに長けている人だから。だが…俺はたとえ自分の意見があったとしても、副長に従う。だから俺が支えになるようなことはない」
「……あと一人は?」
斉藤は少し間を置いた。ちらりと総司を見て、そしてため息をつく。
「あんたに決まっている」
「…そんなことないですよ。私はきっと土方さんが何を決断したとしても何も言わないと思います」
今までの土方の決断に逆らったことはない。殿内を暗殺した時も、芹沢に手を下した時も…歯向かうことなくその手足となった。一番土方のことを盲目的に信じ、自らの意思を介さず従うのは総司だけのはずだ。それにある種の自信さえ持っているのだ。
しかし斉藤は苦笑交じりに「どうかな」と返した。
「それは今まで土方副長が『間違わなかった』からだ。しかし今後はわからない…本当に駄目だと思ったら…あんたはその命を賭して土方副長を止めることができる、最後の砦だ」
そんなことない、と言いかけた言葉を総司は飲み込んだ。
だって今だって、何もできていない。砦になるどころか何を考えているのかさえわからないのだから。
うららかな春の陽気とは正反対に、心には靄がかかるばかりだった。





157


目の前が真っ暗になったとき、この先の人生もすべて真っ暗になるのだと思った。たとえどこを探しても光はなく、何もこの目に映らない。目に映るのは今まで生きてきた人生の景色だけ。移ろうこともない、閉じられた世界。
春に咲く桜も、夏の新緑も、秋の紅葉も、冬の一面の白雪も、この目に映ることはない。そして大切な人の顔も、わからない。
『うち…生きてても、しょうもない』
閉じた世界で呟いた言葉は、口にしてはいけないとわかっていたのに。悲しくて、つらくて、弱くて…零れ出た言葉だった。
耐えられない。生きられない。歩けない。何もできない。
明里は嗚咽を堪えきれず泣いた。そんな明里を彼女に抱きしめられた。
『明里のなかに生きてるうちは、若くて綺麗なままのうちなんやね』
彼女は泣いている明里に、軽やかにそういった。傍から見ればなんて気軽で冗談めかしていて、不謹慎だと言われるのかもしれない。けれど彼女の言葉はどこかでも穏やかだった。
『ええことばかり考えよ。そやないと、今まで見たすべてを忘れてしまうよ』
『ええこと…?』
彼女が頷いて、そして語る。
『…春は桜の花びらがはらはら散って綺麗やったね。夏は蝉の声と新緑が日差しに照らされて眩しかった。秋は日に日に色づく紅葉が風情があって、冬は一面真っ白できらきら光ってた』
それはまるで母親が泣いている赤子をあやすように、優しい声だった。目が見えなくなって余計にそれが際立って聞こえた。
『ねえ…うちには明里がどれだけ苦しいか、悔しいかわからへん。せやからこそ、いままで見えていた世界を忘れてほしうない』
彼女はぽんぽん、と明里の背中を軽くたたく。
『この世界は…残酷で悲しいこともあるけれど…ほんに、美しい。せやから、怖くない、怖くないよ』
そうだ。
悲しくもあり、つらくもあり…怖かったのだ。真っ暗闇の世界を一人ぼっちで歩くのが怖かった。誰がが一緒にいてほしかった。
『うちが一緒にいてあげる。明里のたった一人に出会えるまで…』
彼女の、君菊の声がいまでも脳裏を離れない。それは真っ暗闇の世界を歩く、ただ一つの灯りなのだ。


山南は開店前の店を訪れた。馴染みの女将にどうにか頼み込んで明里を呼んでもらう。まだ支度が整っていないのだ、と女将は顔を渋らせたがどうしても急用があるのだというと了承してくれた。
まだ陽は明るい。いつもならこの時間にこんなところに居ることはないので何だか違和感がある。そわそわと落ち着かず、辺りを見渡していると一人の禿がやってきた。まだ化粧をしていないのであどけない子供のそれだった。その禿に手を引かれ、明里がやってきた。
「山南せんせ…?」
支度前というのはその通りだったようで明里も化粧をしていない。しかし躊躇うことなく禿の手を離し、山南の名を呼び、探る様に手を伸ばす。
「ああ、急に済まない」
山南は明里の手を取った。すると彼女は安心したような顔をした。そして「もうええよ」と禿を帰す。
「うちもせんせにお話があったとこやって…でもせんせ一つも顔だしてくれはらんし、悩んでましたんえ」
「あ、ああ…その、君の願いを叶えるまでは行ってはならないような気がして…」
だが結局着てしまったのだが、と山南は頭を掻いた。明里は少し笑って、しかしすぐに寂しげな顔になった。
「君菊姐さんのこと…山南せんせのとこまで、お噂が?」
「…酷い怪我を負ったということしか。君は何か知っているのか?」
明里は首を横に振った。
「うちは…なにも。君菊姐さんもなんにも…」
「…そうか」
一番親しいはずの明里にも何も知らされていないのでは、事情を知っている者はいないだろう。明里は山南の手をぎゅっと握りしめた。
「山南せんせのこと…悪くいうわけやおへんけど……君菊姐さんは新撰組のお偉いさんと懇意やっていう噂が流れてる。新撰組のことを…悪くいうお客はんもおおくて…でも君菊姐さんは土方せんせとは…」
「ああ…わかってる」
だからそれ以上言わなくていい、と山南は明里の手を握り返した。
君菊が怪我を負ったと聞いたとき一番に浮かんだのが、彼女が危惧することだった。新撰組の幹部と懇意である君菊が目をつけられ、目の敵にされたのではないかと。君菊は決してそんなことを認めないだろうが、そういう風な意図で噂も広まっているのだろう。
「明里…君菊さんと話ができないだろうか」
「へえ…」
明里は戸惑い気味に顔を俯かせた。
「障子越しでも構わないんだ。少しだけでいい」
山南の懇願に明里は少し間をおいて頷いた。

できるだけの人払いをしてもらって、山南は障子越しに君菊と向かい合った。明里もいない。
「…山南せんせ」
君菊の声が障子越しに聞こえる。思っていたよりも明るかった。
「君菊さん。お加減は…どうですか」
「へえ。皆さん大げさにいわはりますけど、大したことおへんえ。ただ、お客はんに晒すような顔やないというだけ」
彼女の気丈に振る舞う声が、山南には痛々しく聞こえた。そしてその怪我が自分たちのせいだと思うと余計に胸が痛んだ。
「…君菊さん、こんなことを聞いてはいけないのかもしれないが…あなたに怪我をさせたの輩は、私たち新撰組を目の敵にしている連中なのではないですか…?」
「……」
君菊の返答はない。
「だとしたら…申し訳なくて仕方ない。できるだけの謝罪をさせてほしい、あなたが望む形で…」
「山南せんせ」
凛とした君菊の声が聞こえ、山南は言葉を飲んだ。まるで制するように聞こえたからだ。
「うちは、何にも言うてませんえ」
「…しかし」
「山南せんせが謝るにも値せえへんのです」
それは予想だにしない言葉だった。
「どういう…」
しかし、山南には君菊の表情は見えないのに、君菊が笑っているような気がした。穏やかないつもの微笑みを浮かべているような。
「うちは…土方せんせの馴染みやって…そういう噂が広まってるって、それを知って…浅ましくも嬉しいって…思うてしもうたんです」
「……」
違う。彼女は笑ってなどいない。
「土方せんせには…別に、思う方がいてはる。うちのことなんて全然…見てへんって、わかってるのに」
笑わなければならないほど、泣いているのだ。
「それでも…うちと土方せんせが良い仲やないかって、言われるのは心のどこかで嬉しくて…」
「君菊さん…あなたは…」
「せやから、罰があたった」
君菊は山南の言葉を遮った。それ以上は言わないでほしい、と言われたような気がした。
「…それだけのお話やから。山南せんせも、そして土方せんせも…謝る必要なんてないんどす」
彼女は強すぎる。その一途な思いが彼女自身を苦しめているというのに、それを断ち切ることをしない。しようともしない。
まるで意地を張るかのようだ。
「…しかしそれでは、あなたはまた傷つく」
山南は食い下がった。明里の思いを考えれば、納得するわけにはいかなかった。
新撰組と関わりがあるというだけで彼女が傷つく理由はない。君菊の身の安全を確保しなければならない。金は掛かるかもしれないが、今すぐ彼女を請け出してどこかに匿うことだってできるはずだ。それか彼女の護衛に誰かを差し向けても構わない。
「傷ついても…土方せんせの為なら…」
ぽつりと呟いた君菊の言葉。もしかしたらそれは聞こえてはならない言葉だったのかもしれない。
山南ははっとなった。
そういえば、君菊が怪我をしたという話は藤堂から聞いた。あちこちで広まっているそうで、もちろん監察の耳に入らない訳はない。その情報は土方へも伝えられたはずだ。たとえ噂とはいえ総司とも親しい間柄である君菊なのに、隊内で乱暴を働いた者を捕えさせるという動きはない。
しかし例えば、土方がすべてを知っているのだとすれば。むしろ意図しているのだとすれば。敢えてそうしているのだとすれば?
悍ましい想像に山南は一瞬身震いがした。それを信じるのは難しいが、しかし彼女の呟かれた言葉の真意はそこにあるような気がした。
「君菊さん…乱暴した、男の名前は…」
少し声が震えていた。この想像は良くない。何か根幹を揺るがす気がする。
「……山南せんせ」
身震いが止まらない山南の耳に、君菊の穏やかな声が撫でた。絹のように優しいぬくもりがある。
「何も…言わないで、このままおかえりやす」
しかしその声とは裏腹に彼女は答えを拒絶した。
そしてそのものが答えだと、山南は思った。






158


これ以上気がついてはいけない。山南は己に言い聞かせるが、悪い想像は拭えなかった。
いくら鬼だと罵られようとも、まさか彼が彼女を利用しているだなんて、そんなことはあるはずはない。総司とも懇意であり、事実はどうあれ馴染みと噂される関係の彼女を、まさか命の危険に晒すようなことをするはずない。
「…今日はもう帰るよ」
君菊の部屋から離れ、しばらくは明里とともにいたものの、山南は居たたまれなくなって重い腰を上げた。いくら想像しても仕方ない、直接彼に確かめればいいのだ。同じ副長であるのだから、彼を問い詰めることは難なくできるはずだ。
(…私は、その役目を与えられているのだから)
芹沢を殺したあの夜。妾の梅までも追い詰めたあの雨の日。
殺しても良かったのかと己を問い詰めて答えが出なかった。悪い方へ悪い方へと考えてしまう自分を諌めてくれたのは同じ罪を背負った原田だった。彼はいつもの楽観的な笑顔とは想像もつかない顔で言ったのだ。『甘い』と。それは何よりも山南の心に突き刺さり、己の脆弱さを知らされる言葉であった。だが同時に誓った。『後悔するくらいなら正しくあるべきだ』と。
「山南せんせ…?」
黙り込んだ山南の肩に、そっと明里の指が触れた。目が見えないはずなのに彼女は的確に触れてくる細い指。
「明里。安心してほしい、私が…何とかする」
『正しい』の基準はきっと皆違うだろう。そして何よりも同じ副長同士が一番その価値観が異なるに違いない。きっと彼は隊の為ならどんな手段も使う。たとえ己の気持ちを寄せている女だとしても、その想いを利用してしまうだろう。そこが彼の強さであり、同時に恐ろしさでもある。
(私に彼を止められるかはわからないが…)
己の正しさを貫く。それはきっと自分に課している役目なのだ。


少し時間は戻る。
斉藤とともに巡察を終えた総司は捕縛者を任せて屯所を出た。どうにも尋問…というよりも拷問に近いのだが、それを見ているのは気持ちの良いものではない。同じ立場になったなら早く殺してほしい、と思ってしまうだろう。
「…ふう」
総司は前川邸を出てぶらぶらと歩き始めた。空を見上げると、先日までのどんよりとした雲は消えいつの間にか晴天の空模様となっていた。刺すような冷たさも無くなり、梅がちらほら咲いているのがわかる。
総司は壬生寺へ足を向けた。最近仕事が立て込み、ろくに近所の子供と遊んでいない。英気を養うためにも元気を分けてもらおうと思ったが、子供たちの声は全く聞こえない。タイミング悪く皆別の場所で遊んでいるのだろう。境内までやってきても子供の気配はしなかった。
しかしその代わりに、そこには思いもかけない人がいた。
「…あれ?」
「あ、沖田さん」
ひらひらと手を振ってこっちにやってきたのは伊庭だった。前に一緒に出掛けたっきり姿を見ていなかったので約一か月ぶりだ。
「偶然ですねえ。もう仕事は終わったんですか?」
「伊庭君こそ。忙しくて一緒に飲めないってみんな嘆いてましたよ」
「忙しいのはそっちじゃないですか」
伊庭が苦笑する。確かにここ最近は過激な尊王攘夷派の動きが多く、出動や捕縛が多かった。隊士たちも飲み歩いたり花街へ足を運ぶ機会が減っているらしい。
「それにしても、なんでこんなところに?屯所は目と鼻の先なんですから顔を出してもらっても構わなかったのに」
伊庭の様子から察するにしばらく壬生寺にいたようだ。境内に座っていたのか、袴に折目が付いている。
「そうしようと思ったんですけどね」
しかし彼は肩を竦めて答えた。
「久々に時間ができたから来たものの、ちょうど沖田さんたちの隊が帰ってきたところだったんですよ。そうしたら拷問が始まっちまって…ああいうの、やるのはもちろんですけど見るのも苦手なんですよねえ」
うんざりした様子の伊庭に、総司は「同じです」と苦笑してしまった。
「私もああいうのは苦手で…こっそり抜け出してきちゃいました」
「土方さんはああいうのは好きそうですよね、笑いながらいたぶりそう」
からかうように揶揄した彼の言葉に、いつもだったら「違いないですね」と一緒に笑い飛ばしているだろう。しかし、今日はそんな風に答えることもできず、「どうですかね…」と曖昧に答えた。
もちろん機敏な伊庭は何かを察したようだ。
「元気ないですね」
と指摘した。しかしその言葉に相応しいのは別にいる。
「…いえ、元気がないのは私じゃないんですけど」
「じゃあ、土方さんですか」
総司は素直に頷いた。
「何か…こう、抱え込んでるのは前々からなんですけど、今回は…ちょっと違うような、感じで」
「ふうん、あのひと、抱え込むような性格だったんですね」
伊庭が驚いたような言い方をして、逆に総司の方が驚いた。そういえば江戸にいた頃は隠し事なんてしない性格で大雑把で傍若無人で…抱え込んだり悩んだり思いつめたりするような人ではなかったはずだ。伊庭が持っている印象はまだそちらの方なのだろう。
「…昔の方が、まだわかってあげられたな…」
兄弟みたいに一緒に暮らしたあの頃なら、悩みを打ち明けてくれたかもしれない。けれど、今は踏み込んだら逃げられるような…これほど距離を感じたことなんてない。
「そうしなければ、ならなかったんでしょうねえ」
ぼやく総司の隣で、伊庭は少し同情するように呟いた。
そして伊庭はその言葉の続きを止めて、空を見上げた。総司もつられて視線を上にあげる。広く澄んだ空は江戸のそれと同じはずなのに、酷く狭く感じた。手を伸ばせは届くようなほど、狭く、苦しく。いつからだろう、いつからこんなに狭い場所で閉じ込められているのだろう。
「…今は、とても微妙な時代で、今まで築いていた幕府の根幹を揺るがすような…そんな機運が、ここに在る気がします」
伊庭は呟きながら、手を伸ばす。届くわけはないのに、いつか届いてしまうような狭い空へ。
「吊り橋と一緒で、踏み外せば命を落としかねない。…きっと、土方さんが戦っているのはその恐怖と孤独なんでしょうね」
「孤独…」
こんなに一緒にいるのに。ずっと傍にいるのに。彼は孤独を感じている。だとしたら、それは悲しい。何にも役に立てない自分が、悔しい、もどかしい。総司は無意識に掌を握った。
斉藤は意見を言えるのは三人しかいない、そしてそのうちの一人は総司だといった。しかしそれは買いかぶりすぎだ。だって、自分はその言葉をもっていないのだから。伝えるべき言葉も、慰めるべき言葉も、意見する言葉も持っていないのだ。
「沖田さん、いいものをあげますよ」
空へ伸ばした手をおろし、伊庭はにっこりとほほ笑んだ。そして懐から袱紗を取り出し、大事そうに包まれたそれを開けた。
「…下げ緒?」
赤く染められた下げ緒は、総司でさえその拵えからすぐに高価なものだと察することができた。伊庭はそれを総司の手に持たせる。
「これは先日、お城で上覧試合をした時に下賜されたものです」
「えっ?!」
その拵えが高価なのは当然だ、将軍から頂いたものだというのなら、家宝にすべき名誉な品だ。
「こ、こんなもの、いただけません!」
総司は慌てて伊庭に付き返すが、伊庭は受け取らない。何だか粗暴に扱うのも恐れ多くて、総司は困惑した。
「いいんですよ、他にも扇やら小菊紙を拝領してますから…これは、差し上げます」
「でも」
「何だったら土方さんにあげてください。いくら鬼と恐れられる土方さんも、一応人間ですからね。守りの下げ緒です」
それでも受けとるわけにはいかない、と食い下がろうとしたものの、伊庭が梃子でも譲らないのは総司にもわかった。
「…じゃあ、有難くいただきます。土方さんにも大切にするように伝えておきます」
「ええ、そうしてください。あ、でも土方さんには内緒ですよ、将軍様から下賜されたものだなんて」
と、伊庭が笑うので、総司も笑った。きっといつか手荒に扱う土方に、種明かしをするという悪巧みなのだろう。それを想像すると、何だか楽しい気持ちになれたのだ。



屯所に戻った山南は、すぐに土方の部屋へ向かった。時間は夕刻を過ぎ、既に薄暗い。
「土方君。…ちょっといいかい」
発した声は己が思った以上に低い声だった。土方もそれに気が付いたのだろう、少し間をおいて「ああ」と答えた。
山南は臆することなく部屋に入った。蝋燭が一本灯っただけの薄暗い部屋で、土方は相変わらず書き物をしていた。最近は隊士も増え、そして仕事も増えていたのでその配置を決めていたのだろう。
「忙しいところをすまない。話があるんだ」
山南の申し出に、土方は「そうか」と短く答えた。動揺する様子はない。それはまるで予期していたことのような、反応だった。



159


山南はしばらく間をおいて
「…私が言いたいことなんて、君にはもうわかっているんだろう?」
そう前置いた。薄暗い灯りのもとで見える土方の横顔は否定も肯定もしない。それは予想できていた反応なので山南はそのまま言葉をつづけた。
「私たちが取締る輩は尊王攘夷の高い志という看板の元で仰々しく振る舞うだけで、乱暴狼藉を働く浮浪人と変わらない。京の人々を危険に晒すとんでもない連中だ。昨年の政変でそれは決定的になり、私たちは会津の兵としてその不逞の輩を取り締まる義務がある」
「…」
今更な前置きだと分かってはいた。いつもは口を挟んで激論となる土方だが、今は黙って聞いていた。
「彼らを捕縛することが、ひいては将軍様のためになる。京の治安の安定は今や日本国の安定に等しい。私だってその誇らしい仕事を為しているという自負はある。そしてその使命を全うするためには手段を選ばない…選んではいられないのはわかっているつもりだ。…しかし」
山南は思わず前のめりになった。
「その手段として女を…ましてや、島原の芸妓を使うのはいただけない」
遊里の太夫・天神は市井の崇高な憧れの的として名を馳せている。その彼女がもし間者であることが露見すれば、名が知られている分命まで取られないにせよ、危険に晒されるだろう。そしてそんなことはもちろん目の前の土方だってわかっているはずだ。
だからこそ、山南は許せないのだ。
「…君は、目的のために彼女の気持ちまで利用するのか」
山南の言葉に、土方は少し間をおいてため息交じりに答えた。
「相変わらず綺麗事だな」
「…っ」
返ってきた答えは、山南の想いを、明里の想いを、そして君菊の想いを拒絶するものだった。山南は自分の頭に血が上るのがわかった。
「君は…!彼女の想いを知っていてなお、そんな言葉を吐くというのか!」
掴み掛るのを堪えるのが必死だった。ここで土方を殴れば『私闘争を許さず』。法度に触れることとなる。
しかし興奮する山南とは正反対に土方の顔色は相変わらずだ。冷たく、色のない能面のような。そしてその強い目がぎょろりと山南を睨んだ。
「…使えるものは何でも使う、俺はいままでそうしてきた。山南さん、あんたも同じだろう」
「何が…!」
「芹沢を殺ると決めたとき、あんたは何もいわなかった」
土方の冷たい言葉に山南はぐっと言葉を飲み込んだ。確かに、新見を切腹させ芹沢を殺すと決めたとき山南は何の反論もしなかった。仕方ないことだ、とすぐに納得した。
「それとこれとは…関係がないだろう!」
「ある。俺たちは誰かの犠牲によってここまで来た。…何人殺し、殺させたか。あんたは覚えているか」
山南の激昂とは裏腹に土方は冷静だ。彼は声を荒げることなく、射抜くような瞳だけに熱を宿している。
「芹沢を殺すことと、君菊を生贄にすることと何が違うんだ」
「君は…本気で言っているのか?」
激昂を通り越して、山南は言葉を失った。彼が本気で言っているのだとすれば、彼とはもうすでにかけ離れた場所にいる気がした。
「俺はこの新撰組と、仲間たちを守る。今よりもっと成長させて大きくさせて…その大将に近藤さんを据える。そのためなら、誰を殺しても、どんな恨みを向けられたとしても耐えられる。…あんたは違うのか」
「それは…」
今度は言葉に詰まった。
その志がないわけではない。近藤のことを尊敬し、従っていたいという気持ちは彼と変わらないはずだ。だが、その方法が彼とは異なる。
…この感覚はあの時に似ていた。あの雨の夜、原田に指摘された『甘い』という言葉を投げかけられたときと…。
「君菊は俺の力になることを快諾した。危険な役目だということは誰よりもわかっているはずだ」
「だったら…!」
「だから利用する。…それだけだ」
もう話は終わりだ、と言わんばかりに土方が打ち切った。
わなわなと唇が震えていた。それはあの時と同じ無力感に襲われたから。そして絶望しているからだ。
『罰が当たっただけやから』
脳裏に君菊の言葉がよみがえった。
彼女は誰を恨むことなくただ、自分への罰なのだと言っていた。
これから先も彼女はどんな危険なことになったとしても、同じように笑うだろう。ただ、思う人の力になれることが嬉しいのだと、一途な想いを持ち続けていくのだろう。しかし思う相手は同じように彼女のことを想ったりはしない。ただ利用できるものを利用するだけ。そこに在るから使うだけなのだという。
「…私は、君が許せない」
ぽつりとつぶやいた言葉。
それは無意識の呟きだった。
今までどれだけ口喧嘩や口論になっても、それは相手を否定する内容ではなかった。それこそ隊のことを思うあまりの衝突だった。
しかし今の言葉は違う。山南は山南個人として土方のことが許せなかったのだ。
「…君が局中法度を定めたとき、私は無茶な案だと思うと同時に…この崇高な法度に感動もした」
法度に背くなら切腹。それは単純で簡素化された武士道の形だった。幕府に飼いならされた武士の身分を持つものでさえ、物怖じしてしまいそうなほどの法度だった。山南もこの法度を見たときに身震いがした。しかし同時に感動したのだ。
「君が目指す道が、こんなにも険しく難しく修羅で…そして美しい武士の形だと知ったとき嬉しかったんだ」
そしてその道を歩けるなら、素晴らしく誇り高い武士になれるだろうと思った。だからこそ反目しても彼への尊敬は持ち続けていた。
なのに。
「しかし今は…君のことを許せそうにない」
山南の拒絶の言葉。個人的な感情を挟んだ非難。
しかし土方はふっと息を吐いた。そして
「……それでいい」
と小さく笑ったのだ。
それはどこか嬉しそうに…否定されるのを待っていたかのように、満足げだった。
「土方君…」
「結局、山南さん。あんたが言いたいことは何なんだ。君菊に間者をやめさせろって言いたいのか」
土方が無理やり話を逸らす。先ほどの言葉はどうやら聞かせるつもりはなかったようだ。その有無を言わせない物言いに、山南も従わざるを得ない。
「…確かに、君菊さんはすすんで協力を申し出てくれている。しかし相手は過激な浪人だ、彼女の身が危ないことはわかるだろう」
「だから山崎を張り込ませている。いざとなれば助太刀できるだろう」
「……」
彼が言う「いざとなれば」とは命の危険が迫ったときなのだろう。たとえ乱暴され、身体を強要されたとしても…山崎は助けはしない。
「一応言っておく。新撰組の仏の副長があの店へ通い詰めていることは周知の事実だ。余計な手出しをされては困る」
まるで見透かしたようなことを言われ、山南はぐうの音も出ない。いざとなれば君菊の用心棒を務めるつもりでいたが、確かに既に山南の顔は知られすぎているだろう。
「…じゃあせめて、彼女に危険が及びそうなときは教えてほしい」
その申し出に土方は答えなかった。
これ以上の議論は不要だ。山南は疲れ切った身体を持ち上げて、背中を向けた。
「…だから、あんたには無理なんだ」
ふっと、土方が呟いた気がした。しかし山南は振り向くことなく部屋を出た。


部屋を出ると、月明かりがいつもよりも眩しかった。それは土方の部屋よりも明るいほどだ。
「…私が、間違っているのだろうか…」
月を見上げながら、問いかける。
いつもなら口論になって大音声で喧嘩をしていただろう。納得できるまで、どちらかが折れるまで、折衷案が出てくるまで。しかし土方はいつにもまして感情がないまま、山南の言葉を聞いていた。そして無感情に答えた言葉はどれも、いつもよりも酷い物言いだった。
(まるで…嫌われたいがために、用意された台詞のようだ…)
彼は今までどんなことがあっても、芹沢の暗殺について持ち出すようなことをしなかったはずだ。あれは墓まで持っていく秘密であり、誰にも口外できない罪なのだから。なのに、まるで挑発するようにあの時のことを口にした。
「結局…私はまだ、甘いのか…」
仏の副長、鬼の副長。
そう言う風に揶揄されているのは知っている。だが結局それは、嫌な役目をすべて鬼の副長に任せて己の心を守っているだけで、その表れなのだ。
(私に…土方君を責める資格があるのだろうか…)
その問いに、月は答えてくれない。誰も、答えを知らない。



160


元治元年四月末。
「もう桜も終わりですねえ…」
と縁側に腰掛け、総司は物思いにふけっていた。話しかけた相手は同室の斉藤だ。彼は相変わらず刀の手入れに余念がない。しかしちらりと総司を見て
「暇そうだな」
斉藤は冷たく指摘する。総司は返答に困った。
「別に暇っていうわけじゃないんですけど…」
「非番でやることがないなら、局長たちについていけば良かっただろう」
近藤と土方、そして山南は会津に呼び出され、会津藩本陣を構える黒谷へ向かっていた。その時に宴会を催すので一緒にどうだ、と近藤に声を掛けられたのだ。斉藤はもちろん断り、総司も「今日は用事がある」と断りを入れた。当然そんな予定はない。
「…今は、あんまり土方さんと一緒にいるべきじゃないかなって…思うんです」
土方は相変わらず口数が少ない。平隊士からすると不機嫌そのままで遠巻きに怖がられそうだが、総司からすればあれはただの不機嫌ではない。
(…一人になりたがってる…)
江戸にいた頃は人を惹きつける何かを持っているような人だったのに、今はそれがない。むしろ誰も近づくなという雰囲気を醸し出していて、親友の近藤でさえ声を掛けられない状態なのだという。
総司は懐から袱紗を取り出した。これは先日伊庭から貰った「下げ緒」だ。将軍から下賜された品だそうなので、ぞんざいに扱えずしかし行李にしまっておくわけにもいかず、土方に手渡す機会もなく今は懐に入れ、ずっと持ち歩いている。赤く染められた下げ緒は土方にぴったりだと思う。昔から赤が好きで、武具にも赤い紐を使っているくらいなのだから。
(これが…土方さんを守ってくれればいいのに)
伊庭は孤独と恐怖と戦っているのだろうと言った。恥ずかしがり屋で素直じゃないから分かりにくいけれど、土方は誰よりも新撰組のことを想っている。自分にとってかけがえのない場所なのだと決めている。黒船の来航以来浮ついたままの時代を新撰組が生き抜くために、あらゆる手段とあらゆる手を尽くしているのだろう。
たとえ、罵られ蔑まれようとも。
「土方さんも、今は一人になりたいみたいだし…」
総司の答えに、斉藤はしばし沈黙した後
「…なんだただの倦怠期か」
とからかった。人が深刻に悩んでいるのに、と総司が拗ねていると。
「あ、いたいた」
と駆け足気味に永倉が顔を出した。
「局長から呼び出しだ」


黒谷から帰営した三人の表情は皆バラバラで、正直総司は困惑した。集まった他の幹部たちも戸惑いを隠せないでいる。
近藤は満面の笑みだった。何か満たされたような顔をしていて、宴会の帰りだということで頬も少し赤い。しかしその正反対に副長土方の顔は眉間に皺を寄せて引き攣っている。明らかな強面だ。そしてもう一人の副長山南は疲れたような顔をしていた。相反する二人の板挟みとなり、気疲れしてしまったのかもしれない。
「ぜ…全員集まったぜ」
恐る恐る挙手して原田が報告をする。すると近藤が頷いた。
「今日は皆に話がある」
そう切り出すと、幹部皆が居住まいを正した。
「会津藩より知らせを受けた。幕府はこの程、京都見廻組という新しい警邏部隊を新設した」
「京都…見廻組…?」
総司はその名前を呟く。その部隊名は明らかに新撰組と同じ役目を意味していた。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ俺たちはお役御免てことか…?」
素早く理解したらしい永倉が反論する。すると山南が補足した。
「いえ、そうではありません。京都見廻組は御所や二条城周辺を中心に警護を行うので、私たちとは管轄が異なります」
「管轄が違うっつったって、同業であることに変わりはねえだろ」
「会津は我々では力不足だと言いたいのか?」
「こっちは歓楽街、見廻組は重要拠点の警護なんて納得いきません」
幹部からは反発の声が挙がるなか、総司はちらりと土方の顔を見た。腕を組んで目を閉じていて、眉間には深く皺が刻まれている。どうやら土方もこの「京都見廻組」が気に食わなかったようだ。
「まあまあ、皆落ち着いてくれ」
騒然となるなかで、穏やかな近藤の声が響いた。
「いま、魑魅魍魎が跋扈するこの都を守るために会津と我々だけでは手が回らないのは確かなことだ。京都見廻組はどうやら旗本や御家人が集まった二百人ほどの部隊となるようだし、それで治安が保たれるというのなら幕府にとってこれほど良いことはない。そうだろう」
「そりゃ…そうだけどよ」
原田は納得しかねるように顔をゆがませる。他の幹部も同じだ。
京にやってきて約一年。治安を守ってきたのは自分たちだという自負がある。だからこそ、その手柄を横取りするような京都見廻組の創設に納得いかないのは当たり前のことだった。しかも構成するのが旗本や御家人というのは、まるで農民上がりの寄せ集めである新撰組を馬鹿にするような編成だ。
しかし近藤は穏やかに続けた。
「…それに、私は昨日今日で組織された部隊に、新撰組が負けるはずはないと思っている」
その言葉に、幹部たちは顔を上げた。
京都見廻組の創設に近藤も戸惑わなかったわけではないのだろう。最初は土方のように納得いかない、と歯向かったかもしれない。葛藤があったのかもしれない。しかし近藤が満面の笑みで帰営したのはその自信があったからだろう。
負けるはずがない。その言葉が部屋にいたすべての者の心に沁みた。
(近藤先生らしい…)
総司は自然と口元がほころんでいた。
戦術に長けた土方ではなく、近藤がトップに立つ所以はそこにあるのだ。根拠もないと言えば言いすぎだが、その溢れ出る自信と惹きつける力に誰もが感服する。
「…はは、面白い」
最初に反発した永倉も同じく笑った。そしてそれが連鎖していく。
「確かに、ぬくぬくと生きてきた旗本連中らに俺たちが負けるわけねえよな」
原田が藤堂の肩を強くたたく。「いたたた」と藤堂は顔を歪めつつ、しかし頷いた。そして雰囲気は一変し、皆が活力を取り戻した。
「…皆、より一層隊務に励んでほしい。会津松平様からも激励の言葉をいただいている」
「はっ!」
まるで魔法にかかってしまったかのようだ。総司はそう思った。

京都見廻組の件は各々組下に伝えるということになりお開きとなった。
「総司」
解散する幹部たちのなかで、総司が声を掛けられた。それは久々に聞く土方の声だった。
「あ…はい」
「来い。話がある」
相変わらずの強引な言い方で、すぐに背中を向け歩き始めた。総司は追いかける。近藤の演説で誰もが活力を取り戻りた中で、土方だけはまだ不機嫌なままだった。
しばらく歩き、前川邸の奥にやってきた。裏口に近い場所で、人気はあまりない。
「何です?」
「お前、しばらく君菊の所へ顔を出すな」
「え…?」
土方が口にしたのは意外なことだった。
「それは…君菊さんのもとへは元々足しげく通っているわけじゃないですから…構いませんけど、どうして」
「…お前は新撰組随一の遣い手として顔が知られつつあることを自覚しろ」
曖昧な答えに総司は首を傾げた。
新撰組として一年、巡回に出ていて確かに総司の顔は知られつつある。屯する浪人たちに目の敵にされることは構わないが、確かにそのせいで君菊らに迷惑をかけるのは本意ではない。確かにそうなのだが。
(今更なことを…何で、)
土方の真意ではない気がした。
「話はそれだけだ」
しかし土方が強引に話を終わらせる。
それは本当なのだろうか。話は、言いたいことは、伝えたいことはもうないということなのだろうか。
「土方さん!」
総司は去って行こうとする土方の袖を掴んだ。
「…なんだ」
振り返った土方は、困った顔をしていた。引き留められたくはなかったのだろうか。総司は少し怯んだ。
「あ、あの…」
…そして、引き留めたものの、総司は何を伝えればいいのかわからなかった。何を伝えても、言葉にしても伝わらない気がした。彼に相応しい言葉を、持っていない気がした。
彼と話をするのに、こんなに困惑したことはない。まるで知らない人に話しかけるみたいだ。
「あの…渡したいものが、あって…」
苦し紛れに総司は懐から取り出す。袱紗に丁寧に包まれたそれを、総司は押し付けるように土方に手渡した。
「なんだ…?」
「これは…その、伊庭君からもらった下げ緒です」
将軍から下賜された、というのは伏せておく。土方は戸惑いつつも受け取った。
「…高価なものだろ。なんであいつが…」
「それは…わかりません、けど、土方さんに渡してほしいって…託されたので」
土方は少し間をおいて「そうか」と答えた。どうやら受け取ってくれるようで総司は安堵する。しかし
「もういいか」
という土方の拒絶の言葉に冷水を掛けられたような気持になった。彼は袖を掴んだ手を離せという。
「…良く、ありません」
総司はそう答えるのが精いっぱいだった。
今は一緒にいるべきじゃない。斉藤に先ほどそういったばかりなのに、彼の声を聞けばもっと話して欲しいと思ってしまう。
…頼りにしてほしい。もっと支えになりたい。役不足かもしれないけれど、話を聞くだけならできるのに…彼はそれさえもいらないというのだろう。
「…土方さん、ちゃんと話してください」
「何をだ」
尚も拒絶しようとする土方に総司は懇願した。
「どうして…抱かせろなんて言ったんですか。なのにどうして…今は、拒むんです」
あの時の言葉は「抱かせろ」じゃなくて「助けてほしい」だったんじゃないか。
ふいに総司はそう思った。あの強引な言葉が、実は彼の弱音だったのだとすれば…それに気が付くことができなかった自分が愚かだったのだ。
総司は一層強く彼の袖を握った。
「…ちゃんと話してください」
(察しのいい歳三さんとは…違うのだから…)
しかし総司の願いに、彼は耳を閉ざす。顔を背けたまま
「いつか話せたとしたら…その時、お前は俺のことを嫌いになる」
と一言答えた。
総司は身体の力が抜けた。そして土方が去っていくのをただ呆然と見送るしかできなかった。






解説
151松山幾之助は岡山藩の文書に「間者として潜入、のちに殺され首をさらされる」との記述があるものの、新選組の資料にはその名前がありません。当時の新撰組に西国へ間者を送るほどの余力があったかといえば「?」なところが多いようです。
152島田の異動については番外編にて補完予定です。
153太夫は会話文では「こったい」という読み方でお願いします…。
158冒頭の山南の回想は、番外編99.5話です。伊庭の下げ緒は征西日記より参照
160文中にもありますが、見廻組は御所や二条城周辺の官庁街を管轄とし、新選組は祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄としていたため共同戦線をとることはあまり無かったようです。身分の違いにより反目することもあったということなので、また今後登場させるかも…しれません。
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