わらべうた





161


元治元年五月。
春はとうに過ぎ、季節は速度を上げて過ぎて行った。うららかな陽気は雨ばかり降る梅雨へと変わり、今日もまた雨が降っていた。しかしこんな日は山崎にとっては好都合だった。視界は遮られ、足音は雨の音でかき消される。頼りない身形では雨粒は凌げないものの、みすぼらしいこの様ならまさか新撰組の一員だと誰も思うまい。
「…交替や」
囁くように指示をだし、見張りを続けていた島田の肩を叩いた。
「はい」
「何か変わったことは」
ありません、と島田は首を横に振った。監察へ異動となって一か月。彼もようやく慣れてきたようで、小者の形もしっくり目に馴染むようになってきた。
「…しかし、現れるのでしょうか」
島田は顔を顰めつつ山崎に問うた。二人が見張りを続けているのは薪炭商・桝屋。その裏口から少し離れたところで、物乞いのふりをしつつ様子をうかがっている。
「怪しい者が出入りしているのは何度も確認済みや。いつか顔を出す」
半分山崎の勘でもあった。
小者で協力者だった作助が殺されたあの夜、山崎は島原へと向かった。作助の主な仕事は君菊の手紙を山崎へ手渡すこと。それを死に際に吐いたとすればその下手人は君菊の元へ現れると踏んだからだ。そして下手人が吉田稔麿だとすればなおのことだった。
山崎が島原へたどり着き、伝手を使って店に忍び込み屋根裏から聞き耳を立てた。すると予想通り、君菊を凌辱する吉田が居た。
しかし土方の命令は「静観しろ」だった。店へ忍び込むギリギリのタイミングで島田と鉢合わせその指示を受けたとき、「やはり」と思うと同時に己の失策を恥じた。小者の作助が殺されたのは偶然ではない。吉田はどこからかその情報を得て動いたのだろうから。
屋根裏で為すすべもなく、歯ぎしりするような思いでいた山崎は、ふとその傍にいた青年に気が付いた。吉田のお供の人間だろうか…どれだけ時が過ぎても微動だにせず、そこに侍っている青年は、酷く整った顔立ちをしていた。目の前で起こる痛々しい出来事も顔色一つ変えず見つめ続けている。山崎からすれば、まるで死んでいるように見えた。
やがて君菊が気を失うと、吉田は口元に満足げな怪しい笑みを浮かべた。そして着物を身に纏い部屋を出た。
『ふん…この程度か』
吉田は吐き捨てるように言った。それはもちろん君菊に対する蔑みだろう。山崎はかっと頭に血が上ったが、しかしふっと吉田が天井を見上げ、こちらを見たような気がしてすぐに息をひそめた。
(…まさか、気づいているんやないか…)
しかしその答えは山崎にはわからなかった。吉田は何事もなかったかのように視線を逸らし、青年に 『帰る。お前は残れ』
と短い指示を言い放つと部屋を出ていったのだ。
山崎は吉田を追わなかった。丸腰の自分一人では吉田を捕まえることはできないし、それは自分の仕事ではない。ただ吉田の顔は嫌なほど脳裏に焼き付けて、その夜は帰還したのだった。
「…桝屋は天神の馴染みや。吉田の行動と無関係とは思えへん…」
「確かに…そうですが…」
島田が口ごもった。彼が言いたいことはわかっていた。他にも旅籠に浪士が潜んでいるやら、桂小五郎の居場所に関する情報が寄せられていた。根拠のない勘よりもそちらを調べるのが先ではないかということだ。しかし、山崎にはそれができなかった。
(自分の尻拭いは…自分でやらな、あかん)
「ええから、休んでき」
山崎は島田に命令した。島田は頷いて、持ち場を離れて行った。


雨がふる季節になり、八木邸の紫陽花が水滴を滴らせながら視界を彩った。冬が終わり梅が赤く色付き、桜が盛大に咲き散るともの寂しい気分にはなるけれど、次にはまた別の花が咲く。そんな当たり前のことに思いを馳せながら、総司がぼんやりその姿を眺めているとちょうど客人が訪れた。
「こんにちは」
傘をさしていたので最初はわからなかったが、その声の主は伊庭だった。ちょうど皆は出払っていたので出迎えたのは総司だけだ。
「どうしたんです、今日は」
悟られないように微笑みながら応ずると
「今日は別れのあいさつに来ました」
と伊庭は答えた。総司は驚きつつ、客間に通した。
「将軍家茂公が江戸へ戻られることになりましたので。明日、京を発って大坂へ下ります」
「大坂へ?」
「ええ、家茂公は天保山沖から海路で戻られますが俺たちは陸路で江戸に戻ります」
昨年、将軍家茂は徳川家光以来の上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に謁見、攘夷決行を誓った。二度目の上洛となる今回も庶政委任を受け帰還することとなったのだ。
そもそも将軍が江戸に戻るということさえ知らなかった総司は「そうですか…」と曖昧に答えた。目敏く察したらしい伊庭が
「土方さんから聞いていませんか?」
と問うて来たので、それもどう反応していいのやらわからない。土方とはあれ以来仕事以外の話はしていないのだ。困っている総司をみて、伊庭は「やっぱりか」と言って続けた。
「先ほど土方さんにも挨拶をしてきたんですけどね、どうにも沖田さんの名前を出すと苦い顔をするので何かあったのかと。喧嘩中ですか?」
「喧嘩…」
その言葉は相応しくないだろう。喧嘩ならまだ良いとさえ思える。
「まあ…そんなところです」
ただ、今から江戸に帰るという友に心配を掛ける必要はないだろう。総司は無理やり笑顔を作った。もちろん伊庭を誤魔化せるとは思っていなかったが、彼も彼で
「そうですか」
と言って納得したふりをしてくれた。目敏いうえに賢い伊庭らしい行動だ。
「あーあ、またしばらくの別れになりますね。江戸に帰ると遊び相手がいなくて寂しいですよ」
「たまには試衛館にも顔を出してあげてください。周斎先生も喜ばれると思います」
かつて伊庭は土方とともに近藤の義父である周斎に小遣いをもらっては夜街に繰り出していた。周斎も愛想よく話に付き合ってくれる伊庭のことを気に入っていたようだ。近藤から教えてもらったツネさんからの手紙によると、最近は足腰を弱めてすっかり気弱になっているらしい。伊庭が顔を出せば喜ぶはずだ。
「ええ、そうします」
すると伊庭は「じゃあそろそろ」と腰を上げた。
「もうですか?」
客間に通してまだお茶も出していない。総司は少し引き留めたものの
「まだ挨拶をするところがあるんです」
と言われては強くは引き留められない。
「試衛館の食客の皆さんによろしくお伝えください。近藤先生と土方さんにはお会いできたんですが…皆さん出払ってるみたいですね」
しんとした八木邸にはいつもの活気はない。
「最近は不逞浪士の情報が多くて…皆駆り出されてるんです」
「じゃあ今日沖田さんにお会いできたのは幸運でしたね」
伊庭は安堵の笑みを浮かべつつ、腰に刀を差す。そして不意に縁側から雨の降る庭を見た。
「……伊庭君?」
そしてしばらく黙り込んだ伊庭は、少し物憂げな顔をした。ふとした静寂に聞こえてくるのは雨の音だけ。ぽたぽたと屋根を滴って落ちる雨粒の大きな音。
「局中法度…というのがあるそうですね」
「え?…あ、はい」
まさかそんな話をするとも思わず、総司は少し首を傾げた。
「武士道に背く間敷事。違反したら切腹ですか…とても残酷な法度ですね、人は過ちを犯さないでいられないのに、たった一度の過ちさえ許さない」
「……」
それは伊庭にしては意外にも批判めいた物言いで、総司は肯定も否定もできなかった。
法度が定まったとき、総司は土方に反発した。芹沢の所業をすべて否定する法度であり、また芹沢を葬るための詭弁のような気がしたのだ。そしてこの法度による何人もの人間が命を落とした。そして人を追い詰めた。
法度が必要じゃないとは思わない。身分を問わない人間が集まれば必ず揉め事は起こり規律は乱れる。それを正すための法度はいまの新撰組を支えていると言っても過言ではないのだから。しかし伊庭が言うように、たった一度の過ちさえ見逃さず命を問うというのは残酷なのかもしれない、と思う気持ちも総司にはあるのだ。
「土方さんが作ったのだと聞きました。あの人らしい…自分自身に対する戒めです」
「戒め?」
「土方さんはきっと、自分が法度に背けば自害するでしょうね」
総司はきりっと胸が痛んだのを感じた。それは当たり前のことで、わかっていたことのはずなのに…。
「でも土方さんも人間ですから、間違いを犯すでしょう」
「……それは」
「ちゃんと守ってくださいね」
雨の音が酷く煩い。総司の鼓膜にぶつかる。
「…守れません」
自分でも、どうしてそんな言葉を出したのかわからない。どうしてそんなに低い声が出たのかもわからない。
急き立てるように鳴る雨の音がただただ煩くて
「できませんっ!」
跳ね除けるように出した自分の声の大きさに驚いた。
しかし伊庭は驚かなかった。こんなに大声を出したのも、彼の見透かした言葉を否定したのも、初めてなのに。
「できるわけが…ない…っ」
胸の動悸が止まらなくて、息を吐いた。どうして沸騰したかのように興奮したのかもわからない。だけどどうしようもなく苦しかった。
いつも守ってもらってばかりで、傷つかないように優しい言葉をくれるなのに、彼は肝心なことは何も話してくれない。助けを求めてくれない。「俺の役目だから」と言って自分のせいにして悪者になって、それでいいと笑う。局中法度はその典型だ。皆は土方が権力を持ち統治するためのものだと言って恐れるが、あのルールは誰よりも自分に課した罰なのだ。がんじがらめになって、自分を逃げ出さないように縛り付けている。
それでも構わない。それが副長の役目だというのなら仕方ない。けれど、だったらせめて、自分が好きだと思う相手には甘えてほしい。じゃないと、意味がない――。
「…やっぱり、沖田さん変わりましたね」
視線を逸らしていた総司は、その言葉で伊庭の顔を見た。彼は穏やかに笑っていた。
「変わった…?」
「変わったっていうより…あなたは、ちゃんと土方さんの隣で生きたいって思ってるんですね」
伊庭の手のひらが甘やかすように総司の頭を撫でた。彼の方が年下なのに、そうされるのは嫌ではなかった。
「昔…浪士組の募集の時に、俺があなたを道場に誘ったのを覚えていますか?」
一年前、伊庭は総司を引き留めた。浪士組に参加せずに、道場の師範代として残らないかと誘ったのだ。
「あの寒かった冬に…何でかは知らないですけど裸足でうちまで来ましたよね」
「あ、あれは…」
伊庭にそう言われてその時のことを鮮明に思い出し、総司は赤面した。その誘いに思いつめて悩んで、でも決心してその勢いのまま伊庭の家へ走ったのだ。あとであかぎれになったのも覚えていた。
「目の前に何本も道があったとしても…土方さんと生きることが一番後悔しない道だと、あなたは言ったんですよ」
「…伊庭君…」
「でも今は違うでしょう。あなたが生きたいと思う道は、土方さんとともに生きる道以外はありえない」
曖昧な未来を夢見て、漠然と土方とともに行くと決心したあの時と、今、彼とともに居たいという気持ちは、同じようで違う。
彼と一緒じゃない道には行けない。
この一年で、そんな頑なな決心へと変わっていた。
「だったら、ちゃんと守ってあげてください。俺にはできなくて、あなたにはできることなんだから」
ぽんぽん、と頭を軽くたたいて、彼の手は離れた。総司はようやく、彼に焚き付けられたのだと理解した。彼は何かを察していて、わざと追い詰めるようなことをいって燻っていた総司の感情を引き出した。
(年下なのに…嫌になっちゃうなあ…)
総司は、せめてそれには気が付かないふりをするしかない。
「わかりました。そうします」
「お願いしますよ」
彼はにっこり笑って、満足げに頷いた。
そして玄関へと向かう。そして振り返らずに言った。
「俺はこう見えて…皆さんには死んでほしくないと思ってるんですからね」
「…はい」
彼の願いに頷いて、総司はその背中を見送った。
しばしの別れとなるかと思いきや、この一か月後に再会することとなるのだが、それはまた後の話である。




162


話は少し遡る。
文久二年に入ると、長州藩の攘夷活動が激化した。それまで長州藩は外様大名であるとして政治の世界から遠ざけられてきたが、それを逆手に取り我々は天皇の臣下であるとし攘夷は天皇の為に、国のために行うのだと位置づけた。さらに親長州である公家の三条実美は将軍徳川家茂へ上洛を働きかけた。攘夷に意欲的な孝明天皇に攘夷の決行を約束させるためである。そうして文久二年、徳川家光以来の将軍の上洛が叶った。その月のうちに山城の国上・下賀茂神社・石清水八幡宮へ攘夷祈願を行い、ついに五月十日をもって攘夷決行を約束させられたのである。
しかし、それまで攘夷に対して及び腰であった幕府がその約束を果たすわけはない。だが長州藩久坂玄瑞らグループは約束の五月十日下関を通過するアメリカ商船へ砲撃。これをきっかけに攘夷派の暴走が始まった。
六月、攘夷派は「攘夷親征(大和行幸の詔)」へ動き出す。いつまで経っても攘夷へ動かない将軍を排除し、天皇の名によって攘夷を行うと決したのである。確かに孝明天皇は攘夷に賛同する考えを持っていたがしかしこの長州の過激なやり方に不快感を覚えた。加えて中川宮(安政の大獄にて一橋慶喜を支持したため隠居永蟄居を命じられるものの、赦免。公武合体をすすめていた)を「西国鎮撫使」に任命し、長州へ下らせ、攘夷の矢面に立たせようとした。朝廷はあくまで攘夷そのものは幕府が行うべきという考えを持っていたため当然反発する。さらにこの「攘夷親征(大和行幸)」は、長州藩が徳川幕府打倒の挙兵を行うものであるという噂が流れた。
そこで手を差し伸べたのが薩摩藩である。京都守護職松平容保の協力と孝明天皇の後ろ盾を得て八月十八日の政変を断行。過激な長州藩の禁門警護を罷免し、三条実美らの参朝を禁じた。長州藩は妙法院に立て籠もったものの一戦も交わることなく三条実美ら七卿とともに西に下った。(七卿落ち)これにより在京の長州藩士は一掃され、最低限の藩士のみが残ることとなった。

しかし攘夷の熱に酔う攘夷派の入京を完全に断ち切ることはできない。さらに呼応するようにこの程起こった水戸天狗党の挙兵も影響していた。水戸天狗党の挙兵は攘夷の決行と薩摩・会津の排除を求めてのことである。さらに参預諸侯が京を去ったことも、攘夷派にとっては好都合の状況となっていた。
「…というわけで、いまは京都警備が手薄になっている。攘夷派が何らかの行動を起こすと考えて良いでしょう」
山南の解説に総司は思わず拍手した。
「何だか、何の役にも立っていないようで一応政治の表舞台に、新撰組が関わってたんだなあってことがいまやっとわかりました」
「ははは…まあ、確かにその一端を担っているのは間違いないよ。京の治安を守ることは世情へ直接反映しているからね」
山南が苦笑して答えた。
総司の組は夜からの巡察に備えて今日の稽古は休みだ。時間までは自由行動なので、総司は山南の部屋を訪れていた。最近身体を壊しがちの山南は床に伏せっていることが多いため、その見舞いだ。しかし総司が「最近どうして攘夷の浪士が多いのか」と訊ねたため話が盛り上がってしまった。山南の講義は相変わらずわかりやすい。
「本当は八月十八日の政変以降も動きはあったんだが…新撰組が関わったという点ではいま話したことくらいだろうか」
「山南さん、例えばの話なんですけど」
「ん?」
いつもなら難しい話題から逃げてばかりの総司だが今日は違った。食いつく様にして
「例えば、山南さんが攘夷派の人間だとして、いま何か行動を起こすとすれば何をしますか?」
と問うた。それはまるで謎々をする子供のような言い方だが、内容は難しい。山南は「うーん」と腕を組み思案した。
「…私なら、やはり帝に長州へお越し願う…かな」
「長州へ?」
山南は頷く。
「私は攘夷にこだわるわけではないが…幕府は攘夷を起こす気はさらさらないだろう。長州も攘夷こそが本懐だと考えている。だとしたらやはり帝を先鋒に攘夷の魁の長州へお越しいただくというのが世論を動かすのも容易い。今の時代は幕府よりも朝廷・帝が政治の中心にあるのだから、それを掌握したほうが勝ちだ」
「帝を長州へうつす…ですか」
総司には想像もできない話だ。そんなことになれば徳川幕府よりも長州が力を持つようになる。近藤の考えとしては将軍に使えることがひいては帝の日本国のためになるというものだから、それが根底から覆るようになる。
しかし、山南は笑った。
「ははは…私としたことが、夢物語のようなことを語ってしまった。忘れてくれ」
といってひらひらと手を振る。確かに今の話が近藤や土方に伝わったとすれば良い顔はしないだろう。総司も苦笑いで頷いた。
「まあでも、先ほどのようなお話は行きすぎかもしれませんが、彼らが何かを企んでいるというのは間違いない気がします」
総司がそんな確信めいたことを言うのは珍しい。山南は「どうしてだい」と問うた。
「山南さんみたいな根拠はないですけど、肌で感じるというか…そんな、曖昧な感覚です」
冬が過ぎ、春が来て雨が降る季節になった。しとしとと降り続ける雨が土をはじく音が今日も聞こえた。毎日どこかで斬りあいが起き、捕縛者が屯所に連れられてくる。去年は暇を持て余していた季節なのに、今年は騒がしい。
ただそれだけなのに、心が落ち着かない。何かが起こる。それが良いことなのか、悪いことなのか、何の前兆で、何の予感なのかはわからないけれど。
「…今日は、どうしたんだい?」
ずっと胸に秘めていた疑問だったのだろう。山南が意を決して口にしたように、総司には聞こえた。
「何のことです?」
総司がとぼけてみせると、山南は困った顔をした。
「いや…君らしくないね。いつもこういう話は苦手にしていたじゃないか。聞いていても話半分というか…」
それは試衛館の時からだ。近藤と山南の国事討論が始まればこっそり部屋を出た。難しい単語を聞くと頭がボーっとして眠くなってしまうから。土方も同じだったとあの頃は思っていたけれど、今は新撰組の副長としてそういう議論に積極的に参加している。他の試衛館食客たちも興味を持って話を聞いているようで、まるで総司だけがあのときのまま取り残されているようだった。
それでいいと思っていた。何を聞いても何を知っても、結局近藤の為、土方の為にこの剣を使い人を斬ることに変わりはないのだから、と。
「ちょっとくらい…役に立てるかなって、思ったんです」
「ん?」
「武器は多い方がいいってことです」
笑みを浮かべた総司に、山南は穏やかに笑った。
「…君は前向きでいい」
「前向きじゃなくて、今できることをやろうって思っただけで、まあ当然と言えば当然なんですけどね」
明るい総司の謙遜に山南は首を横に振る。
「私も同じように思うが…どうも、身体は嫌だと拒否する。情けないものだよ」
「…山南さん」
この一か月ほどで山南は酷く痩せた。一回りほど年を取ったような様子は周りにも明らかなほどで、近藤は何度も養生を勧めたが本人は頑なに拒み続けている。外出もせず、今も床についているが枕元には書状が重ねられていた。
「明里さんのところへは…?」
山南が一番明るい顔をしていたのは明里の元へ行った時だ。総司はつい聞いてしまったのだが、山南はその名前に表情を少し変えた。
「…しばらくは会わないほうがいいと思ってるんだ」
寂しげに呟くように答えた。
「何故…」
「明里にとってはそうではなくても……見たくもない顔かもしれないからね」
曖昧な答えと、微笑み切れていない山南の表情。総司は何かつっかえを感じつつも「そうですか」と答えるしかなかった。

「失礼します、山南副長宜しいでしょうか」
何ともいえない重い空気のなか、凛とした声が響いた。山南が「どうぞ」と答えると総司の組下である山野が顔を出した。
「沖田組長、ここにいらっしゃいましたか」
どうやら彼の目的は山南ではなく総司だったようだ。
「どうしたんです。まだ巡察の刻限には早いでしょう」
「はい。ただ、捕縛者の一人がさる宿に浪士が屯っているという情報を吐きました。斉藤先生の組とともに出るようにと」
「わかりました。君は先に行って支度を整えるように伝えてください」
総司の指示に、山野は「はい」と答えて素早く去って行った。するとやり取りを見ていた山南が「ふふ」と笑った。
「山南さん?」
「いや、何だか君を子ども扱いしているのはどうやら私だけらしい。君は組長で、組下の部下がいて、それは当然のことなのにまだ目に馴染まない」
総司も苦笑して答えた。
「それは私もですよ。そんな柄じゃないのに、いつの間にか人より上に立っていたみたいで…それに気が付いてなかったんですよね」
そういうと総司は立ち上がり、山南の部屋から去って行った。





163


青年はずっと同じところを見つめていた。どこを見ているのかわからない虚ろな瞳は、面白がられたり怪しまれたり怖がられたりそして気味悪がられたりするが、青年からすればたった一つの場所しかみていない。だからどうしてどんなに驚かれるかと思うのだ。
視界にはいつも吉田が居る。彼ばかりを見つめている。
付き従い下僕となる者のみが同志であると公言する彼は、嫌われ恐れられ常に一人で立ち回る。そんな彼にとって自分は金魚の糞以下なのだろうが、それでも構わないと青年は思う。
彼の傍にいること。これが自分の使命だから。そういう確信じみたものさえ感じているのだから。

「…まったく、君は変わっているよ」
それは半分驚くような、もう半分呆れるような言い方だった。桂はため息交じりにそう告げたが、しかし当の本人に動じる様子はないのだからこれは独り言に近い。
今日は長州藩贔屓の宿『みのや』で待ち合わせをしている。部屋には桂と吉田、そしていつもの青年。桂は青年の名前も出自も知らないが、吉田が傍に置いている唯一の人間だ。疑う必要はないのだろうと判断している。しかし青年の容姿は目立ちすぎるような気がする。小奇麗にしているわけでもないのに人を惹きつける顔立ちだ。
「命を狙われる身だというのに、素性も知れない青年を連れるだけで洛中をうろつきまわっているそうじゃないか。我々は追放された身なのだが自覚はないのか」
目の前の男は何の反応もなく酒を飲む。嫌味っぽく忠告しても彼には無駄なようだ。桂も仕方なく酒を煽った。
「…そんなことより」
残念ながらまるで何も聞こえていなかったようで、吉田は話を切り出した。
「そろそろ古高が目をつけられるんじゃないのか」
「……」
横暴で自分勝手なくせに、鋭い観察力と分析力は他の追随を許さない。吉田松陰の弟子「三秀」と呼ばれた彼はいまだに健在だ。
(ただ性格に難あり…だが)
「それはわかっている。もし古高が抑えられることがあれば……君たちの計画は失敗するだろう」
「桂さんはそのほうが良いのだろう」
桂は「む…」と言葉に詰まった。まさに彼が言うとおりだ。吉田らが起こそうとしている暴動は桂の意に反する。
「…確かに、今、京は手薄だし絶好の機会だが、君たちの考えは乱暴すぎる。今は良くても後々非難されるだろう」
「出る杭は打たれる。それが去年の八月だった」
吉田は手酌で酒を注ぐ。去年の八月、攘夷を推し進める長州藩への弾圧はまさに出る杭が打たれるが如くだった。
「だったら打たれる前にえぐってやる。どんなに残虐な手をつかい、罵られようとも…それが俺たちの攘夷だ」
「……」
語気を荒めた吉田は、その無機質な表情とは裏腹に、瞳だけは獰猛な野性を隠しきれていない。攘夷の熱に侵された浪士たちはこの瞳に魅了され、従属するのだろう。
そう例えばこの青年のように。
(厄介な男に惚れこんだものだ…)
と、桂がちらりと青年をみたところで、もう一人の客人がやってきた。宿の女中に案内されて部屋に入ってきた男は、前に出会った時よりも精悍な顔立ちになっていた。
「宮部さん」
「よぉ」
片手をあげて挨拶をした男。宮部鼎蔵だった。


「斉藤さん、お待たせしました」
山南の部屋を後にした総司はまっすぐ集合場所へ向かった。そこにはすでに斉藤の組下と、山野をはじめとする総司の組下が揃っていて総司を待っていた。
「遅い」
斉藤が不機嫌そうに指摘した。
「すみません。それでどこの宿へ…」
「『みのや』という宿で、少し前から長州の奴らを匿っているのではないかと挙がってきていた場所です」
総司の質問に山野が答えた。島田が監察へ異動になって以来、総司の右腕となって働いてくれている。入隊して日は浅いが、気が利き必要なサポートをしてくれる。その鋭い観察力はベテラン隊士と並ぶほどだ。
「宮部鼎蔵の従者が宿へ入っていくのを見たというはなしだ」
「宮部鼎蔵…」
斉藤の補足に総司は顔を顰めた。
その名前は前々から知らされていた肥後出身の大物だ。もともとは安政の大獄で処刑された吉田松陰の友人で、長州藩の強引な攘夷活動に参画した。しかし昨年の八月十八日の政変で京を追放になり、今は西へ下っているはずだが。
「何故か舞い戻って潜伏しているというわけですか…」
「ああ。…話は向かいながらでもいいか」
総司は山野から手渡された浅黄色の隊服に袖を通しつつ、屯所を出た。

宿『みのや』は高瀬川沿いにあり、桝屋もすぐ近所にある。夕闇で人通りは少なくなっているものの、浅黄色の隊服は良く目立った。十数名の隊士が闊歩すればなおのことで、相変わらず『壬生狼』と蔑む京の町人たちは遠巻きにその姿を見ていた。
「おそらく副長は待っているのだろう」
『みのや』へ向かう道すがら、一通り情報を共有した後、斉藤がそんなことを言った。
「待っている?」
総司が鸚鵡返しに訊ねると頷いた。
「一人、また一人と浪人たちが集まってくるのを。奴らが何を計画しどういう行動を起こすのか…そして踏み込むとしたらいつが絶好の機会なのか。それはただ捕縛し殺し、計画を阻むというだけの簡単な話じゃない」
「と、いうと?」
「それがどんな結果に繋がるのかということが一番重要だ。新撰組として、近藤局長をのし上らせる駒として」
「……」
そして宿『みのや』へ到着した。


三人での歓談が終わり、さてそろそろ本題かという頃。
「桂さん、宮部さん。そろそろ逃げたほうが良い」
と吉田が言い出したので、二人は目を丸くした。出窓を机に景色を眺めながら酒を飲んでいた吉田は、言葉の深刻さとは裏腹に口元を綻ばせたままだ。
「何を言うんだ」
「音が聞こえるんだよ。……狼の足音が」
吉田の言葉に二人は目つきを変える。彼のそういった勘が良く当たるのを知っているからだ。その時丁度、宮部を案内してきた女中が顔をだし「新撰組が」と一言告げた。
宮部は刀を腰に帯び、「では」と短く別れの挨拶をした。豪胆な性格の彼だが、慎重さも併せ持ちまさか新撰組と一太刀交わそうなどという馬鹿げた妄想はしない。最終目標が果たされるまで死ぬという思考がない彼は、二人に構わず部屋を去って行った。従者がそれに続く。
そして『逃げの小五郎』などという不名誉なあだ名で呼ばれる桂も同じく腰に刀を帯びた。しかし彼は友人への気遣いを忘れない。
「…君はどうするんだ」
窓辺に腰掛けたまま逃げようともしない吉田に桂が問いかける。吉田は微笑んだ。
「…狼の面を拝んでからいくさ」
彼の微笑みは、いつも何かを思いついたときの笑みだ。何か面白い遊びを。
「くれぐれも、慎重に頼む」
そういった時の彼に何を言っても無駄だということを桂は良く知っていた。持ってきていた羽織を、みすぼらしいものに変えて桂は部屋を出ていく。逃げる時でさえ慎重な彼らしい行動だった。そうして部屋には二人だけ残った。吉田と青年のみだ。


宿『みのや』に到着し、斉藤が先頭で踏み込んだ。
「御用改めだ」
その言葉で「はいはい」と出てきた宿の女将は愛想よく新撰組を迎え出た。それが演技なのか真実なのかは総司にはわからない。
「店の者を集めろ」
「へえ」
女将は素直に従うと、店の者に声をかけ玄関に集合させた。店の主である白髪頭の男が前へ出て、その後ろに店子や女中らが並ぶ。皆小さく頭を下げて恭順し、反抗する様子はない。
「店に長州の者がいるという情報を得た。検分させていただく」
「かましまへん。好きなだけ見て行っておくれやす」
店主は抗うこともなく了承した。その余裕の態度に
(もしかして外れた…)
と、総司は思ったのだが、一人の女中へ目が行った。少しだけ動揺した表情を見せちらりと店の奥へ目をやったのだ。
「失礼」
総司は構いことなく土足で宿へ踏み込んだ。女中らは「きゃっ」と悲鳴を上げるが構うことはしない。
「沖田組長!」
山野があわてて総司の後に続く。普段組長が先陣を切って突入することはないのだ。しかしそんなことは総司の頭になかった。
「店は私と山野君だけで構いません。斉藤さん、店の周りを固めてください」
「ああ」
総司の意図を理解したらしい斉藤は外へ出てそして隊士たちが一斉に動き始める。総司は山野を連れて女中が目をやった場所…おそらく奥の台所だろうか、という場所に踏み込んだ。
まだ調理の途中だったのか、火が消えていない鍋がいくつかある。野菜を切っていたまな板や包丁もそのままで人の気配はない。
しかし何かがおかしいと気が付いた。
「……沖田組長?」
「風か…」
「え?」
山野の疑問に答えることなく総司はその感覚のままに動いた。料理場の奥、おそらく野菜などが貯蔵されているだろう奥の蔵だ。
するとそこには床下へつながる扉が開いたままであった。そこから風が流れ、光が差し込んでいた。水の音も聞こえる。
「…逃げ道か」
そこは高瀬川へつながる地下通路だった。





164


「斉藤さん、一歩遅かったみたいですね」
総司が『みのや』へ踏み込んだことをきっかけに宿のなかを改めた。総司の組下が宿のなかを、斉藤の組下が宿の周辺を、と手分けして探ったもののそこに不逞の輩は一人もいない。どうやら総司の予想通り先に台所の奥の通路より逃げたようだ。
「とにかく主人に話を聞きましょう」
山野が張り切って提案したものの総司は「いえ」と否定した。
「主人よりも、あの女中に話を聞いた方がよさそうです」
「女中…ですか?」
誰のことを指しているのかわからなかったのであろう。山野は首を傾げたが、斉藤は理解していたようだ。
「あの女中だ」
斉藤が指示をだし、山野は納得しないような顔で女中の方へ向かっていった。もちろんその女中とは平然を装う店の者のなかで、一人だけ動揺した顔を見せていた彼女だ。おそらく彼女は何も知らないだろうが、逃げたものの顔くらいは覚えているはずだ。そして強面の隊士が行くよりも山野のような年齢の近い青年が行く方が口も割りやすいだろう。
山野が女中を慰めて話を聞いているのを見ながら、
「ところで斉藤さん、冴えない顔をしていますね」
と総司が問うた。いつも無表情でわかりずらいが、今はあからさまに不機嫌そうな顔をしている。腕を組み慌ただしく動き回る隊士を見守る様子はやはり少し土方に似ている。
「…気持ち悪いな」
ぽつりとつぶやいた言葉は、斉藤にしては感情がこもっていた。
「珍しいですね。どうしたんです」
「……」
斉藤は黙る、というよりも言葉を選んでいるようだ。そして少し間をおいて答えた。
「…以前にも同じ感覚を味わった」
「え?」
「藤堂さんと出た時だ。あの時も…逃がすはずはないと思っていたのに、取り逃がした」
斉藤がいつのことを指しているのか、総司にはわからない。しかしその感覚は少しだけわかるような気がした。
「敵の勘が良い…の一言では済ませられないですね」
総司の感想に斉藤は頷いた。
「もっと的確な意思がある気がする。全てを見越すような…まるで掌で転がされているような」
「…」
「沖田組長!斉藤組長!」
二人が思考を巡らせているところに、総司の組下がやってきた。慌てて走ってきて告げたのは「二階に何者かが食事をしたあとがある」ということだ。本来であれば総司が検分に向かうところだが
「斉藤さん、任せてもいいですか」
「…?ああ」
そして総司は目立つ浅黄色の羽織を脱いだ。そして報告にやってきた組下に手渡して「ちょっと離れます」と告げた。
「おい」
と斉藤は引き留めたものの
「すぐ戻りますから」
と総司はひらひらと手を振って、『みのや』を出た。

何の騒ぎか、と既に『みのや』の周辺には野次馬ができていた。
「なんやまた新撰組か!」
「誰ぞ斬られたんやろか」
と不逞の浪士ではなくどうやら新撰組にヤジが飛んでいて、総司も少し苦笑した。もっとも京の人々の長州びいきは昔からだ、と山南から聞いているので慣れてしまっているのだが。そんな野次馬達を切り抜けて、総司は宿から離れる。羽織を脱いでいれば新撰組だとはわからないはずだ。
総司は周囲を見渡した。宿が集まる場所なので人通りも多く、この中から見つけ出すのは困難だが、何か予感がしていた。
斉藤に言われたからではないが、誰かに見られているような、そんな感覚は総司にもあった。それは野次馬のような興味津々の好奇の目ではなく、嘲笑を含んだ皮肉るような罵倒の目…それはまさに斉藤が言った『気持ち悪い』という感覚を味わうような視線だ。
だが、この大通りに出ればその視線は消える。総司はやや上を見上げ宿の二階へ目を向けるものの、それらしい人物は見当たらない。
しかし別の視線と交わった。
(…あれは…)
物陰に姿を潜ませつつ、野次馬の向こう…宿の先を見る人の影があった。普段なら気弱な観衆がそっと成り行きを見守っているのかと思うが、総司はその人物に心当たりがあった。
(どこかで…)
いつの日かの記憶にその人影があった。しかし思い出せないでいるうちに、その人影はさっとその奥へ消えた。もしかしたら総司に気が付いたのかもしれない。
総司は自然とそのあとを追った。それこそ『ただの勘』だったのだが、それはただならぬ予感がしていた。
(…そうだ、あの時の…)
姿を隠した物陰へ総司も入り込んだところでようやく思い出した。
以前、土方とともに出掛けた。新調した羽織を取りに行った帰りに人気のない神社へ連れ出させた。何をするかと思えば、真剣で打ち合いをしてほしいということで、結局土方の刀が折れてそれは終わりになった。そして、そのあとだ。
(あの…青年だ)
廃れた神社の物陰から、ふらふらと出てきた青年だ。怪我をして朦朧としていながらも、総司と土方に助けを求めようともせず去って行った。幼い顔立ちだが男だと分かる凛々しさもあって独特の雰囲気を持つ美麗な青年だったと記憶している。
そんな彼がどうしてここにいるのだろう。…いや、ここにいたからと言って青年を追いかけるほどではない。たまたま通りかかっただけかもしれないし、もしかしたらこの辺りに住んでいるのかもしれないのだから。
だが何故か総司の足は彼を探すことをやめない。
(関係ないなら関係ないでいい…)
総司は小走りに路地を駆ける。そうしていると一人同じ路地を歩く者がいた。
「…っ、あの…!」
総司は呼び止める。すると相手は足を止め、そしてゆっくりと顔を向けた。
(…やっぱり…!)
振り向いた彼の顔を見て総司は確信する。あの時であった青年に違いない。顔の腫れは引き、小奇麗な服装に身を包んでいるので別人かとも思えるが、しかしその整った顔立ちはあの時の彼と見紛うことない。
「……」
青年は総司のことをじっと見つめた。物怖じしないまっすぐの視線に、逆に総司の方が目を逸らしたくなる。それほど強い力があるが、しかしその中身は空っぽだ。感情も意思も何の光も映さない漆黒の瞳は、あどけないようにみえて物寂しそうでもある。
青年は何も話さない。突然呼び止めた総司のことを不審がる様子もない。
「…あ、その…」
呼び止めたものの、何を話すか決めていたわけでもない総司は口ごもる。あの時の怪我は大丈夫なのか、と問おうにも、よくよく考えれば青年が自分のことを覚えているわけでもなさそうだ。
そうこうしていると青年の後ろから、もう一つ人影が近づいてくる。総司ははっとして何故だか自然に刀に手をかけていた。
「何をしている」
低く、重い声で言ったその言葉はどうやら総司ではなく青年に向けられたものらしい。青年はそちらへ向き直ると駆け足気味に近づいていく。
総司は刀に手をかけたまま、その声の主を見た。総司よりも背丈が高く一回り以上体躯は違うだろう。しかし島田のように逞しい、というよりも細身。しかしその迫力は近藤に匹敵するものがあった。
(いや…近藤先生の雰囲気とは違う…)
人を惹きつけて魅了し、まるで太陽のように輝きつづける近藤とは違って、男が放つのは陰気で切り裂くような攻撃性だ。だからこそ、総司は刀から手を離せない。しかし刀を抜くことはしなかった。
(…誰だ…)
「ふん」
男は鼻で笑った。それはまざまざと憎悪し憎悪するのを見せつけるかのような嘲笑だった。いくら新撰組が嫌われているからと言っても、ここまでの敵意を向けられたことはない。
「…行くぞ」
男は総司に背を向けた。青年はまるで同じ道を一歩も違わず歩くように、その後ろに従った。
総司はその二つの背中を見送った。二つの背中が、一つに見えるまで見送ったころにようやく、刀に掛けていた手を離した。


総司が『みのや』に戻ると、撤収作業が始まっていた。
「遅い」
顔を見るや否や斉藤が不機嫌そうに告げたので、総司は「すみません」とすぐに謝った。
どうやら『みのや』の主人のみ取り調べを行うために屯所に連れて行くようだ。主人は「わしは関係ない!」と叫んでいたものの、それはいつもの光景なのでさほど気になるものではない。そして女中に話を聞いていた山野が、総司の姿を見つけると駆け寄ってきた。
「どこに行ってたんですか!」
斉藤と同じ指摘には苦笑するしかない。
「すみません、ちょっと野暮用で。…何か話は聞けましたか?」
駆け寄ってきた山野は拗ねたように口を窄めていたが、総司の質問には曖昧な表情を見せた。
「ええ…まあ、なんていうか」
口ごもった山野を促すと
「その、二人の男が蔵から出ていくのを見たと…ひとりは怖かったので顔も見ていないが、もうひとりは見惚れるほどに綺麗な男だったとかで」
「で?」
「あの…その…少し、僕に似ていると…」
自分で自分を褒めるかのようなコメントが言いづらかったようだ。山野は顔を少し赤らめていた。いつもならここでからかってしまう総司だが、しかし今はその余裕はなかった。
「山野君に…似ていた?」
先ほど会った青年は、山野と同じくらいの年齢だ。背格好も似ているし、あどけない顔の中にある気品や凛々しさも似ている。ただ山野のほうが愛嬌があるが、しかし顔立ちが整った年齢が同じくらいの青年となると先ほどの彼がどうしても思い浮かぶ。
「…まさか」
そしてもう一人いた男。何かに近づいた気がした。






165


その瞳に映る姿が私じゃないとしても、あなたの心にいつまでも生き続けていられるならそのほうが良い。あたしは愛されないよりも、必要とされない方が悲しい。俺という人間が存在してもいいのかわからないから。誰にも求められないくらいなら死んだほうが良い。
そしてこの気持ちを最期の時までこの手の中にもち続けることができたなら、なんて幸せだろう。あなたを想って生きていけるなら私はそれだけでいい。それだけで満たされる。
僕は、そう思う。


「姐さん、いつものお客はん」
禿の幼い声に呼ばれて、君菊ははっと我に返った。物思いに耽り始めたのはまだ日が暮れだした頃だったのに、今はその日は沈み辺りは暗くなっていた。もちろん火を灯すこともしていなかったので部屋は薄暗い。禿は不審な顔で君菊を見ていた。
「すぐいくし、先いっとき」
君菊がそう言うと禿は何か言いたげにしたけれど「へえ」と言って去って行った。
化粧の途中だった。あとは紅を差したら終わりだが、筆に手を伸ばしてしかし止めた。
あの日から半月ほどになる。あれ以来あの男はここにやってこないが、自分が新撰組の間者であるという噂が広まることもなかった。身元の怪しい西国訛りの浪人たちも訝しむことなく店にやってくるし、桝屋も自分を疑うような様子はない。どうやら吉田と名乗ったあの男は何の思惑か自分が間者であるということを漏らしていないようだ。
それはもちろん君菊を気に入ったからでも、親切心でもない。
(…きっと何か思うて…)
あの日、吉田が言っていた通り手紙を届けさせていた小者の佐助が殺されたと風の噂で聞いた。その日の朝までは言葉を交わしていた人間が殺され、さらに四肢を斬られる無残な死に方だったと聞いた。その時に感じたのは作助への申し訳なさと、そして吉田への憎悪。不思議と恐怖はなかった。
「天神」
小さな、か細い声が君菊を呼んだ。気配だけを頼りに壁に手を当てて歩いてきたのは明里だ。
「堪忍、すぐ…」
「行ったらあかん」
いつもは穏やかで囀るような声を出す彼女が、はっきりとした意図で君菊に言葉を投げかける。君菊は紅を差す手を止め、明里をみた。
「…何、泣きそうな顔して…」
制するような物言いをしたのに、その表情はいまにも崩れそうだった。泣くことを耐えるように。だから君菊はできるだけ柔らかく明里に問うた。しかし彼女は首を横に振って、想いを言葉にしようとはしない。
君菊は手早く口元に紅を塗った。そうすれば鏡に映るのは『上七軒の君菊』だ。そして立ち上がり、明里の元へ歩いた。そしてそっとその肩を抱き
「おおきに。大丈夫やから」
と告げた。すると明里の何も見えていない瞳が大きく揺れた。
「大丈夫」
君菊はもう一度繰り返すと明里から離れた。そしてゆっくりと座敷へ向かった。


夕暮れ時、総司は屯所を出た。いつもは夜は屯所から出ることが少なく、花街に繰り出すことをしないので、門番の隊士が「いづこへ」と問うてきた。総司が少し迷って「極秘任務で」と答えると平隊士が「申し訳ありません!」と慌てて頭を下げたので、それはそれで申し訳ない気持ちになってしまった。
もちろん「極秘任務」ではないし特に隠すようなことでもないのだが、誰かに話せば面倒なことになる気がしたのだ。それにこれは個人的な考えなのだから、誰かに話しても仕方ないだろう。
総司はある人を探していた。
屯所から四条通へ出て東へ歩き始めた。手には提灯があり足元を照らすが、日が沈み辺りが暗くなったこの時間は何となく別世界に来てしまったかのように心細い。
「…心細い…」
そう呟いて、総司は苦笑してしまった。
江戸から京へやってきて充実した時間を過ごしてきた。色々なことがあったけれど寂しいと思うことはなかった。いつも誰かが居て、いつも忙しくて、いつも何も考えられないほど満たされた時間を何の気なしに、それが当然のことのように過ごしていた。
この道を歩いていけば、ずっと傍にいられると思った。
「それじゃ…駄目だって」
けれど、そうしてはいられない。土方はお前が「このままでいい」と言える場所を作っているのなら、それでいいといったけれど、それを甘受すればそれはただ守られているだけだ。甘えているだけだ。それはきっと彼の隣を歩いているはずの、自分の姿ではない。
守られるだけじゃなくて、守れるほどの強さを持ちたい。それは剣術だけじゃなくて…例えばこんな時に彼の支えになれるような強さが欲しい。彼が何を言っても、何を抱えているのかを知っても、受け止められるだけの強さを。そしてその重さを託してほしいから。
「でも…怒られちゃうかな」
勝手な行動をしたと叱られてしまうかもしれない。
(けど…そのほうが良い)
総司は足を速めた。

雨で濡れた地面を歩き、壊れかけた橋の袂で寒さをしのぐように丸くなっている男を見つけた。姿を隠そうとしているのかもしれないが、大きな体で身を丸めていては嫌でも気が付いてしまう。総司はぽん、と肩を叩くと寝ていたらしい男が顔を上げ総司を見るや、目を見張った。
「あ!沖田せ……んせ」
彼は語頭は大きな声を上げたものの、語尾に従うが連れに小さくぱくぱくと声にならない声で総司の名前を呼んだ。総司は苦笑しつつ、周囲を見渡しつつ彼の傍に近づいた。雨に濡れた川べりで姿を隠す物乞いのような様相だが、それが誰かはすぐに分かっていた。
「久しぶりですね」
周囲に誰もいないのを確認して、総司は挨拶する。島田は戸惑ったようにしつつ「は、はい」と頷いた。
「山崎さんは?」
「今は…その、見張りに。俺は休憩で」
島田はこそこそと耳打ちした。大きな図体で子供のような振る舞いをするのが内心面白い、と思いつつも総司は表情には出さなかった。
総司が探していたのは山崎だった。大坂出身の彼は京都の地理に長け、監察として重宝されている。内部の身辺調査も行うため、土方の次に新撰組のことを知っていると言っても過言ではないだろう。しかしその存在は平隊士のなかでも知っている者は少ない。縁の下の力持ちと言ったところだ。
「…そうですか。あまり長居するのは良くないですよね」
島田が戸惑うのは総司がいきなり現れたのと、周囲の目が気になるからだろう。山崎を待っても構わないが、物乞いの薄汚れた形の島田に、顔の知られた「新撰組の沖田総司」が傍にいては誰かに見られたら最後、監察だと露見してしまうだろう。そのリスクは避けなければならない。
「山崎さんに伝えていただけますか」
島田に言伝を頼むのが得策だ。島田も「はい」と総司の目を見据えた。
「私の組下の山野君…って、山崎さんはわかりますよね」
「はっ!?…あ、あぁ、は、はい。たぶん…」
島田は総司の予想以上のリアクションを見せた。逆に総司が驚いてしまうほどだ。
「彼に似た…線の細い、綺麗な青年について探ってほしいんです。名前も、生国もわかりませんが」
曖昧な情報に、島田は首を傾げた。
「あの…それが?」
「先日肩透かしを食らった宿の近くで見かけて、気になったので」
「は、はあ…」
「たぶん背の高い男も一緒のはずです」
それがなんの役に立つのか、ということは島田にはもちろん総司にもわからない。
ただあの時、あの青年を追っていったとき。あの男は総司の殺気に気が付きながらも鼻で笑ってその場を立ち去った。委縮するわけでもなく、威嚇するわけでもなく、攻撃的になるわけでもなく、消極的になるわけでもない男の態度に気にかかるものがあった。そしてそれは口では説明できない曖昧な感覚で…つまり、勘なのだが。
だが、この勘は山崎ならわかってくれるはずだ、という確信と信頼があった。
「…わかりました」
島田は強く頷いた。総司も頷いて立ち上がったとき
「あの」
と島田は引き留めた。
「その…皆は、元気ですか」
頭を掻きつつ照れた風に問う。そういえば島田が組下を去ってから一か月以上経つ。島田は入隊以来総司の組下だったから、こんなに離れているのは初めてだ。寂しいのだろうと総司は笑った。
「ええ。島田さんが居なくなってから山野君がしっかり者になって支えてくれていますよ」
「そう、ですか…」
島田は少しだけ驚きつつも、穏やかに嬉しそうに微笑んだ。
そして総司は島田の元を立ち去った。
雨が降ってきそうなほど、空気に湿気を感じた。





166


その突然の訪問に君菊は正直驚いた。
「…なんやの」
呆気にとられたままその瞳に問いかけるが相変わらず何も映っていない。
今日は馴染みの客の座敷に呼ばれた。商売を引退し今は穏やかに隠居生活を送る老齢の男で、娯楽として君菊の唄を聞きにやってくる上客だ。付き合いも長い。その座敷の合間に、君菊を訪ねてきた別の客が居た。それが彼だ。
「今日は一緒やないんやね」
一向に口を開こうとしない青年に問いかけるが、彼の表情は変わらない。
(ほんまに人形のよう…)
整った、いや、整いすぎる顔立ちに、何の穢れも知らない白い肌。彼が男である、ということの前に人間であるというのを疑いたくなる。君菊がまじまじと見つめていると、ようやく青年は手紙を差し出してきた。
「うちに…?」
相変わらず答えはない。君菊は仕方なくその小さく包まれた手紙を受け取った。細やかに書き込まれた手紙は乱雑ではあるが端正な文字が並んでいた。一目で学がある人間が書いたと分かる。文末に目を向けるものの、特に差出人の名前はない。だが、この手紙を青年が持ってきたということだけでその主はわかってはいた。
君菊は素早く目を通した。その様子を青年は目を離すことなく、瞬きもせず見ていた。


雨が降っているらしい。部屋に引きこもっている間に季節はすっかり変わってしまったようだ。土方は重い身体を引き摺ってようやく障子を開けた。わかってはいたが、前川邸の庭先では雨が地面を打ち付けていて酷く煩い。じめじめとした湿気が肌に馴染まず不快だ。
「……」
雨が降ると思い出す。あの男を殺した時も、雨が降っていて肌が濡れていて、憎悪する相手との今生の別れを告げたのに気持ちは全然晴れなかった。
「歳、やっと起きたか」
口元を綻ばせて声をかけてきたのは近藤だ。もっとも土方は眠っていたわけではないのだが、特に言い訳はしなかった。
「ああ…。かっちゃんは、稽古か」
外の景色に似合わず、近藤は汗をかいて肌を上気させていた。雨が降って気温が下がっているので余計に目立つ。近藤は大きくうなずいた。
「朝から雨で鬱陶しくてな。総司に相手して貰ったらすっきりしたぞ」
「…そりゃなによりだな」
近藤に返答しながら、総司か…と土方は思考を巡らせた。
結局あの夜、朝まで一緒に過ごして以来その距離は離れたままだ。総司は「ちゃんと話してくください」と訴えたが、しかし土方にその気はなかった。誰にも話す必要はないと思っていたし、そして同時に話すことで総司にどう思われるのか…恐れていたのだ。そして伊庭から託されたという下げ緒は所在なくずっと文机に置かれたまま。
何も進んでいなかった。
「歳、俺のことを馬鹿だと思っているだろう?」
近藤に突然そう聞かれ、土方は驚いた。
「何言ってんだよ」
「いやきっと歳は、隣の部屋で寝ている俺が何も気が付いていないと思っているんだろうな、と思ってな」
ははは、と笑いながら近藤は述べた。近藤の明るさとは反対に口ごもったのは土方だった。
「…何か知っているのか?」
近藤は土方に仕事を一任してくれている。だから普段から土方のやり方に口をはさむような真似はしない。だが、ここのところの監察の報告を耳にしていれば、異論を挟んでも文句は言えないだろう。
まさか自分に想いを寄せている女を利用して、情報を得て。
さらにそれをしくじったともなれば、情に厚いこの幼馴染は自分のことを軽蔑してもおかしくはない。
しかし近藤は頭を掻いて「いや」と首を横に振った。
「大仰なことを言ったが、実際は断片的なことしか聞こえてこないから、やっぱり俺にはわからない。歳が何をしようとしているのか、何を考えているのか、何を…落ち込んでいるのか、なんてな」
煩いほどに降り注いでいた雨が、少し止んだ。
彼の言葉を否定しても効き目はないだろう。土方はふっと小さく息を吐いた。
「…かっちゃんは、馬鹿じゃねえよ」
もしかしたら誰よりも鋭いのかもしれない。機微に他の人間の心情を察して、相応しい行動ができる人間を馬鹿だとは呼ばない。しかし近藤は否定した。
「いや歳、俺は自分が馬鹿だという自信だけはある」
「大将が何を言うんだよ」
誰かに聞こえたら情けねえじゃねえか、と土方は顔を顰めた。だが、近藤はその大きな口で微笑んだ。
「大将は大きく構えていなきゃだめだ、少しでも動揺した真似を見せれば下も動揺する。……歳、お前が言ったんだぞ」
「……」
彼の婉曲な言い回しは、土方は嫌いではなかった。
この幼馴染は馬鹿だ。剣術馬鹿で、愚直すぎるほど素直だ。一度決めたことは揺るがない、愚かなほどの猪突猛進。しかし、彼がまっすぐであればまっすぐであるほど、人の心を動かす。何故だか知らないが、万人が持ちえないその力を彼は持っている。
その力に、土方は安心する。彼に信頼されているなら、大丈夫だと自分に言い聞かせることができるからだ。
「…もうすぐ尻尾が掴める」
土方はポツリと述べた。
「だがその尻尾は…まだ蜥蜴の尻尾だ。切っても切ってもきりがない。だからもう少し…追い詰める」
尻尾を見失わないうちに。
どんな手を使ってでも、追い詰めて捕まえてやる。
「そうか」
主語もない、曖昧で抽象的な土方の表現に聞きたいことは山ほどあっただろう。何にも解決はしていないだろう。しかし近藤は何も聞かず何も問わず頷いた。
「任せた」
そして近藤はそれだけ言うと土方に背を向けた。土方も何も言わずその姿を見送った。
すると雨がまた強く降り始めた。まるで誰かの叫びのように、強く、激しく、深く。


「また降ってきましたね…」
ウンザリした表情で島田は天を見上げた。屋根のない生活には慣れてきたものの、雨風だけはいつまで経っても憎らしい。気温は低くないのに、水にぬれる体ではどうしても体温が下がってしまうのだ。それは山崎も同じようで、終始イライラとしている。
今日も相変わらず桝屋を張っている。雨で視界があまり良くはないが、桝屋という店はどうやら人の出入りが多いようだ。裏口からも小間使いが忙しそうに働いている。そんな様子を見て
「儲かってるんですかね…」
島田は呑気な感想を述べるが、隣で目を冴えらせる山崎は別の感想を抱いたようだ。
「荷物が…多すぎるんやないか」
「え?」
島田が問い返すと山崎は何も言わずに指さした。その方向へ目をやると、何人かの男たちが運ばれてきた荷物を店の中に入れていた。
「商売道具じゃ…」
「桝屋は確かに人の出入りは多いようやが、客はそれほどでもない」
山崎の鋭い指摘に島田は「なるほど」と感服する。やはり彼が監察を取り仕切るほどの人材なのはこういう鋭さなのだろう。島田は別のことにもいつも感服するのだ。
「…正解やったか」
桝屋を見張れば何かある。思えば、そう言いだしたのは土方だった。最初は君菊の馴染みということで注意を払っていた程度だったが、その推理は確信へと変わりつつある。
「ええ加減に、正体見せんかい…」
イライラと呟くと同時に、隣にいた島田が「あっ!」と声を張り上げた。
山崎は咄嗟に頭を殴った。
「阿保」
痛みに蹲る島田に山崎は冷たく吐き捨てた。どうもこの島田という男は仕事に忠実で言われたことは確実にこなす優等生ではあるが、咄嗟の時に臨機応変な対応ができない鈍いところがある。忍耐強さは監察に向いているが、やはり咄嗟のリアクションを考慮すれば余り向いていないようにも思う。
しかしいつもなら「すみません!」とまた仰々しく謝る彼だが、痛みに悶絶しながらも訴えた。
「あれ…っ、山野に、似てませんか…」
弱弱しく指を差した方向に山崎は目を向けた。
足早に歩く青年。姿は隠しているものの、その端正な容貌が悪目立ちしている。青年は用心深く辺りを見渡しつつ、桝屋の裏口から家へ入って行った。ここに張り込んでから数日。初めて見る顔だった。
「沖田先生が言ってた…のって、あれじゃ…」
島田が殴られた頭を押さえつつ述べるが、もちろんそんなことは山崎の脳内にも刻まれていた。
「……お手柄や」
山崎はにやりと口元を綻ばせた。あの日、あの夜から、こんなに興奮したのは初めてだ。
「あとは長身の男や、気ぃ引締め」
「は、はい!」
その浮浪人らしからぬ返事にやれやれ、山崎はやはり内心ため息をついた。しかしその手柄に免じて手を出すのはやめてやった。





167


雨が降る中、青年は潜んでいる桝屋の離れへ戻った。辺りを見渡すと物乞いらしき者が屯っていたが敵の姿はない。できるだけ物音を立てないように戸を開け素早く身を隠した。離れにはまるで家の主のように寛ぐ吉田の姿があった。離れはいつも何人かの男が集まり、様々な言葉の訛りが行き交う密会の場になっているが今日はその予定はないようだ。
彼らがいったい誰なのか、彼らが何をしようとしているのか、青年には興味はない。それが開国でも攘夷でも、殺人でも誘拐でも犯罪でも娯楽でも、まったく興味はない。興味があるのは彼のことだけだ。このどんな場所でもどんな場面でも尊大な態度を隠さない、彼のことだけ。
「戻ったか」
彼は労うことはしない。青年を待っていたわけでもない。雨に濡れて震えることに気が付くわけもない。それは素っ気なく、ただその場所にあることを認識するだけの言葉。極端な話、もし青年がどこかで殺されて戻ってこなかったとしても、彼は気にも留めないだろう。
青年はただ頷いて、懐から小さくたたんだ手紙を手渡した。君菊にしたように。
「…ふうん…」
吉田はそれだけで察したようだ。受け取った手紙をそのままくちゃくちゃに丸め、屑籠へ捨てた。
なかを開けなくてもわかる。それは吉田が書いた手紙だからだ。
「ますます面白い女だ」
吉田が本当に嬉しそうに口元を和らげたが、その瞳は相変わらず鋭い。その瞳は、見慣れたはずなのに青年を射抜くのだ。

君菊は青年が渡した手紙を読み終えると、すぐに
「阿保らし」
と切って捨てた。青年は手紙の内容を詳しくは知らないが、どうやら新撰組と吉田、二重で間者を引き受けるようにと脅迫した内容だったようだ。もし引き受けなければ君菊の命さえ危ぶまれる…吉田のことだからそんなことも書いてあったはずだ。しかし彼女は表情一つ変えず拒絶した。
「お返ししますえ」
君菊はそういって青年に手紙を押し付けた。
「うちは…最初から、命を懸けて役目を果たしてる。せやから、脅されたかて屈したりせえへん」
「……」
降れた指先は、細くて白くて折れそうなのに
「せんせに伝えて。もしせんせのことが敵方に漏れるようなことがあれば、それは…うちからの宣戦布告やから。遠慮なく、殺しに来てかましまへん。これが…うちの、覚悟やから」
宣言して、踵を返して背を向けた彼女の後ろ姿は誰よりもきれいだった。白い肌、垣間見えるうなじ、凛とした横顔……彼女のしなやかで強い意志を物語っていた。そしてそれは青年にとって、いっそ羨ましいほどの清々しさだった。
(あんな風なら…)
彼に欲してもらえるのだろうか。


雨と雨の合間。久々に陽の光が差し、水溜りに光が反射した。露を帯びた紫陽花の葉がキラキラと輝きつかの間の陽気となった。
「大坂…ですか?」
原田・永倉とともに呼び出された総司は近藤と土方から大坂行きの命を受けた。いつもならこの場にいるはずの山南だが、体調が芳しくなく床を離れられないという。
「ああ、数名の隊士を連れて大坂へ向かってくれ。将軍様の警護を仰せつかった」
いつもならこういう仕事は喜んで引き受ける近藤だが、今日は歯切れが悪い。
将軍家茂公の二度目となった今回の上洛は、攘夷へ向けての公武合体が期待されたものの成らず、江戸へ引き上げることとなった。攘夷への動きは停滞したままでの引き上げに、近藤は建白書を上申して抗議したものの、受け入れられる様子はなく意気消沈しているようだ。
「っても、もう将軍様は大坂へ下ったんだろ?」
「攘夷派の連中が大坂で治安を乱している。今回は助っ人だ」
土方の言葉に永倉が「なるほど」と頷いた。
総司はちらりと土方を見た。あの日以来、あまり顔を合わせなかったせいか妙に懐かしい。しかし仕事をこなすさまは以前と変わりないし、相変わらずの『鬼の副長』だ。表情の物言いもいつもと変わらない。
しかし今日に限って勘のいい男が居た。
「でもよ、こういう時に総司が大坂行だなんて珍しいよな」
笑みを浮かべた原田が「なあ」と隣にいた永倉に話を振った。生真面目な永倉は少し考え込んで「確かに」と頷く。
「いつも沖田君は局長や副長のお膝元というか…一番の親衛隊でしょうに。屯所から一人だけ離すなんて珍しいですね」
永倉の指摘に、少しだけ土方の表情が変わった。きっとそれは総司にしかわからない変化だ。
「…相当治安が悪くなったという話だ。うちの一・二を争う遣い手を派遣して幕府の役人に恩を売っておくだけだ、しっかり働いてこい」
それはいつもの土方らしい言葉だったけれど、動揺はあった。原田や永倉はそれで納得したようだが、総司は釈然としなかった。それはまるで
(まるで…遠ざけたいみたいだ)
その真意を知ってしまったような気がした。総司はゆっくり息を吐いて、自分の動揺を止めるしかなかった。

その後用意でき次第大坂へ下ることとなり、三々五々解散になった。土方は総司が引き留める前に部屋から姿を消し、屯所から出て行ってしまった。総司はその後ろ姿を見送っただけで追いかけることはできなかった。追いかけたところで、問い詰めたところで、きっと土方から答えは返ってこない。そんなあきらめに似た気持ちが芽生えていた。
(…伊庭君と約束したのにな…)
その距離は離れていくばかりだ。大坂へ行ってしまったら、もっと彼のことを見失ってしまいそうだ。
「総司」
落胆する総司の肩に近藤の手が触れた。
「近藤先生…」
総司は不意に泣きたくなった。目の前の近藤が、あの試衛館の道場主のそれと変わらない穏やかで優しい笑みを持っていたから。
「どうした。眉間に皺が寄ってるぞ、お前らしくない」
「皺…ですか」
総司は眉間に指先を当てた。確かにそこにはいつもはない皮膚の重なりがあった。
「あはは…本当だ。考え事なんてしたことないから、眉間のしわなんて初めてかもしれません」
眉間を摩って、笑って誤魔化す。しかし師匠はそんなことで誤魔化されてはくれない。
「総司。歳を信じてやれ」
と、近藤は優しく言った。
「近藤先生…」
「俺にだってわからない。あいつは、心配させてくれない」
全く相変わらずだ、と近藤は苦笑する。
「自分が追い詰められれば追い詰められるだけ、一人になろうとする。前の…時もそうだ、結局はあいつ一人で悪者になってしまった」
前の時。それはきっと芹沢を追い詰めた時だ。あの時でさえ、土方は誰にも頼ろうとしなかった。局中法度を作り周りを縛り、自分をも縛り付けた。そう言えばあの頃からだ。土方が『鬼の副長』と呼ばれ始めたのは…。
土方はそれでいいと言った。それが良いと言った。
「けれど、それでもあいつがそうしていられるのは…俺たちが信じているとわかっているからだ。きっとそれだけが頼りのはずだ。だから、俺は信じる。…総司、お前もそうだろう?」
近藤の目に迷いはない。少しの曇りもない。
「……はい」
力強い彼の言葉に、総司は自然に頷くことができた。すると近藤は満足したようにもう一度肩を叩いた。


土方は屯所を出ると足早に待ち合わせの茶屋へ向かった。大通りから少し入った路地に店を構えるその茶屋の主人は、もともとは江戸の生まれだという新撰組の協力者だ。土方の姿を見るや「旦那、いい女が待ってまっせ」とからかうように声をかけてくる。もちろん芝居なのだが、自然な声掛けに、この主人は新撰組の監察方よりも間者としての素質があるのではないかと思ってしまうほどだ。
「ああ。邪魔する」
土方はあくまで自然な足取りで店に入ると、その奥へを歩みを向かわせた。店は客一人いない。しかし、その奥に待ち合わせの男がいる。
「…待たせた」
障子をあけ土方は素早く部屋に入る。そこには本物の監察・山崎が待っていた。今日は物乞いのような貧相な格好ではなく、素足を晒した大工姿だ。毎度のことながらその装いによって姿を変えるのが上手い男だ、と土方は感心する。
「いえ。こちらこそ、急にすんません」
山崎は丁寧に頭を下げた。
いつもは夜の暗がりに隠れて土方の元へ訪ねてくる山崎だが、今回は急ぎの用ということで逆に土方が山崎の元へ出向くこととなったのだ。
「ああ。それで?」
無駄は挨拶は要らない、とばかりに土方が促す。すると山崎がその必要もないのに声を潜めた。
「…沖田先生から何かお話は?」
その慎重な物言いとは裏腹に内容は土方にとっては想定外だった。
「総司?……別に、これと言ってないが」
「やっぱり」
通常、総司が監察に関わることはない。最近は島田が異動になったため関わりが無いわけではないが、直接山崎とやり取りすることはないはずだ。
「俺も直接お話しをうかがったわけやないんですが…ある男を探してほしいと沖田先生から頼まれたようで」
「……知らないな」
土方はため息をつきながら、腕を組んだ。監察のようなデリケートな存在に総司のような顔の知られた者が接触するのは危険だ。しかしその反面、こういう先走った行動するような性格ではないので珍しいな、と少し思う。
「それがどうした」
「ええ…まだ未確認ですが、どうやら大当たりのようで」
「なに?」
山崎は意を決して口にした。
「どうやら吉田稔麿にかかわりのある人物のようです」







168


「吉田稔麿だと…」
山崎の重い言葉に土方も敏感に反応した。監察の長として山崎は確定事項以外は口にしない、それ故にその情報は重かった。
「島原に出入りしている小者に確認させたところ…吉田の周囲の世話をしているなんや付き人のような存在だそうで…。見目も麗しく人目を引く形をした青年です」
「付き人…」
山崎が言葉を濁す。単に攘夷の熱に魘され、吉田に媚び諂う野次馬とは違うようだ。
しかし土方にとってその青年が何者であるかは重要ではない。
「…確か、お前はいま桝屋を張っているんだろう」
山崎は頷いた。
「まだ吉田の姿を確認してはおりまへんが…その青年が桝屋に出入りしているのはこの目ぇで何度も。おそらく桝屋に吉田が潜んでいるのは間違いないかと」
まっすぐ土方の目を見て間違いない、と彼が言うのならその通りなのだろう。
(やっと…尻尾以外を、捕まえた)
土方は腕を組みなおした。
「ただの薪炭商が…何故吉田を匿う。長州に肩入れする商人は多いが、大物を匿うほどの関係を築いているのか」
「もしくはただの薪炭商やないということやと思います。近所の住人によれば桝屋は数年前に養子に入ったいう話やと、他の監察のもんがゆうてましたわ」
「詳しく調べさせろ」
いま桝屋に襲撃をかけるのは得策ではない。吉田の捕縛に失敗すれば、彼らはより警戒心を強めるだろう。だとすれば、慎重に周りを固めていけばいい。
山崎も同じことを思っていたようで反論もなくうなずいた。
「ところで何故総司が?」
「島田が聞いたところには、先日の折『みのや』を襲撃した際に、偶然姿を見かけたのやと…。詳しいことは何も」
「そうか…」
おそらく勘に近いのだろう。詳しいことを話さなかったのは、島田への接触の時間をできるだけ短縮させるためだろうか。だとすれば、土方の知らないところで総司も用意周到に立ち回っているのだろう。
「あと、副長…」
ふと考え込んでいた土方に、山崎が声をかけた。
「君菊のことですが」
「……ああ。お前の言いたいことはわかっている」
土方が制すると、山崎はそれ以上は口にしなかった。
そろそろ潮時だということだろう。むしろこれまで君菊が間諜であるということを吉田が広めなかったたのが不思議なくらいだ。仲間である浪士たちの情報を漏らしていた君菊を疎ましく思わないわけがない。仲間さえ殺す残虐な男だ、当初は君菊の命さえ危ぶんだが吉田は君菊という存在を放置した。
(…あれは、殺すのが惜しいと…そう思わせる女だ…)
君菊は意思が固い。吉田と接触後、山崎伝手に何度もこの役目から降りても構わない、むしろ降りるように伝えた。しかし君菊は頑なに譲らずこのまま役目を果たさせてほしいと願い出ていた。
『男はんに意地がある様に、女にも意地があります』
京の花魁はしなやかに躱すばかりだと思っていたのに、君菊はむしろ江戸にいる勝気な女のようだ。何度手折られても、また立ち上がる花のような。
だが、花は、その茎を手折られてしまえば二度と咲かない。
失ってからでは遅い。
「…君菊を身請けする」
「……」
それは君菊に間諜の役目と引き換えに出された条件だった。役目が終われば彼女の身を引き取る。そこに彼女の淡い恋心が介在していることに、もちろん土方は気が付いている。だがその気持ちには答えない、そして答えないことを君菊も知っている。
誇り高い彼女がそれでもいいから傍にいたいと願い出た。命を懸けても果たしたい願いがそれなのだと言ったのだ。だったらそれを叶えてやる。それがせめてもの救いになるならばそうしてやる。
それだけの働きを彼女はしたのだ。
しかし土方の宣言に、山崎は良い顔をしなかった。土方の意見に逆らうことが全くなかった彼にしては意外な反応だ。
「なんだ、似合わない顔をする」
土方は苦笑気味に訊ねた。しかし尚も山崎の顔は曇ったままだ。
「……何や複雑ですわ」
「お前は君菊のことを不幸だと思うか?」
意地の悪い質問だと思いつつ、土方は投げかける。しかしこれは自分にずっと問いかけてきた疑問でもあった。
土方は自分の叶えたい願いのために彼女を使った。土方にすべてを捧げることができる、と笑った彼女は喜んで間者という危険な仕事を引き受けた。そしてその見返りとして身請けを提示した。生まれてその遊郭から出たことがないという女たちにとって身請けとは、自分を大切にしてくれる者の傍へ行ける。…まるで地獄のような場所から天国へ…それこそ叶えたい願いなのだ。
しかしその一方で、土方の想いと君菊の想いが重なることはない。彼女が望むような関係を築くことはできない。
大切なものは一つでいい。それは土方の決意だ。そしてその大切なものは、君菊ではない。
「…不幸とは違う気ぃがします。君菊はただそれだけで幸せやと言うでしょう、ただ…」
山崎が少しため息をついた。それまで解かなかった緊張を少しだけ解く。
「欲がないなぁと、思いますわ」
「…はっ」
久々に土方は笑った。
全く
全くその通りだ、と。



雨がまた降り始めた。屯する男たちは天気の変化に敏感で、雨が降れば不機嫌そうに空を見上げるが、青年は天気の代わりやすい気候には慣れている。生まれてこの方この地に生まれ、この地から出たことがない。
自分の周りだけが、世界だと思っていた。この世界はとても狭く薄汚いがしかし特に不満を感じるわけでもなく生きていた。だがそこに踏み込んできたこの吉田という男に、ずっと心を囚われている。囚われ続けている。
「雨が上がれば…動く!」
そう強く宣言した男…確か、宮部という…彼が立ち上がると傍に控えていた数人の男たちも「おおー!」という雄たけびをあげて立ち上がった。皆顔が引き締まり強く握った刀をカタカタと震わせている。あれは武者震いと言うものなのだろうか。
青年は部屋の隅に控えていた。特に彼らに賛同するわけでもないし、何より吉田も酒を飲んでいるだけで彼らに共鳴する様子はない。彼はいつも話の中心に居ながらしかしいつも客観的に物事を眺めている。それが彼のカリスマ性といえばそれで御仕舞だが、本当は誰よりも興味がないのだと青年は思う。
ただおもしろそうだと思うこと。
自分の中にある誰かを屈服させたいという欲求が彼を動かすのだろう。
そうでなければ、同志である者をあんな惨い方法で殺したりしないはずだ。四肢を千切られ泣き叫ぶ同志に更なる追い打ちをかけるような真似が並の人間にできるはずはない。
そうだ、あの時。
あの時から、この瞳は彼を見続けている。
「…お前は、何を見ているんだ」
騒ぎ立てる同志たちを尻目に、吉田は酒をちびちびと飲みながら青年に聞いた。
青年へ疑問を投げかけるという明確な意図を持って話しかけられるのは久々だ。だが青年は即答した。
「あなたを見ています」
その答えに吉田は不満そうだ。
「…いつもその答えだ。何か気の利いた答えはないのか」
「……」
青年は言葉を探した。だが、その答え以外ないのだから黙り込むしかない。そうしていると吉田の方が口を開いた。
「俺の言葉を否定するのは…桂と……あの男くらいだ」
「……」
彼が時折昔を懐かしむように誰かを『あの男』と呼ぶ。それが誰かは知らない。吉田以外誰にも興味がない青年だが、『あの男』のことだけはいつも心に引っかかっていた。それはきっと吉田が『あの男』のことを蔑みながらも、嫌いながらも…しかしどこかで情を持っているのだと気が付いてしまったからだ。彼が持つ価値観や思考・思想のなかでその『男』の存在がどこかで影響しているのだろう。
(僕は…嫉妬している)
その感情に気が付くのは早かった。
(きっと出会ったら…殺したいと思うほどに)
「ああ…あの女もか」
くっと喉を鳴らし吉田がつぶやいた。あの女…おそらく君菊のことだ。
(……そこに、僕はいない)
当然の結果だ。青年は吉田のことを何一つ否定したことはない。行動も罵倒もすべて肯定してきた。彼を拒絶し、反発するという選択肢が青年のなかになかった。そしてそんな青年を吉田は「同志」だと言った。何一つ逆らわず従順な青年を唯一の同志だと嘲笑した。
(だから…僕はここにいる)
ここにいるしかない。




169


元治元年五月。雨の中大坂へ到着した総司らには、早速厄介な仕事が待っていた。
「…内山彦次郎?」
下坂して間もなく、大坂町奉行所の役人たちが総司らを迎えにきた。もともと治安悪化に伴い共同戦線を張るということだったのでその用件かと思いきや、役人たちは皆一様に新撰組の面々を強面で警戒していた。とても共同で仕事を行えるような雰囲気ではない。一体どうしたのかと困惑する中で、役人たちはその名前を告げた。
心当たりのない総司と原田は顔を見合わせたが、もう一人の永倉が「ああ」と思い出すように手を叩いた。
「もしや大坂西町奉行所の?」
永倉の問いかけに役人は重々しく頷いた。
大坂西町奉行所と新撰組は昨年、小野川部屋力士との乱闘騒ぎで関わりがあった。存命だった芹沢はある力士を無礼打ちにした。同じ部屋の力士たちは恨みを晴らすべく、角棒を持って新撰組の面々に襲いかかり乱闘騒ぎになったのだ。そしてその件で間に立ったのが、大坂西町奉行所の与力・内山彦次郎である。結局は力士らとは和解となり、のちに相撲興業を行うなどして親密なかかわりを持つこととなったが、その一方で乱闘騒ぎの裏に内山が関わっているという噂もあった。
「…先日、天満橋にて斬奸状とともに首を晒された。貴公らの仕業ではないのかと噂になっている」
「なんだって!」
心外だ、と言わんばかりに原田が叫んだ。
内山には確かに怨恨があった。乱闘騒ぎの際、角棒を与え力士を焚き付けたのは内山だという報告もあった。これ以上大事にするわけにもいかない、と近藤はそのことを訴えはしなかったものの、内山はまだ壬生浪士組と名乗っていた新撰組に対して高圧的な態度で接し、近藤や土方が気分を害したらしいと総司は山南から聞いていた。
「俺たちがんなことするわけねぇだろ!」
「原田さん!」
激昂し、今にも飛び掛かろうとする原田を総司が抑えた。元々大坂で借金を重ねている新撰組の評判は悪い。これ以上、悪化させるようなことがあれば死活問題だ。
「…新撰組が手を下したという証拠でもあるのですか」
あくまで冷静に永倉が問いただす。すると役人たちは「む…」と言葉を詰まらせた。
おそらく確固たる証拠はない。京もだが、今大坂では奉行人や殺されたり、天誅と称して倒幕派の輩に襲われる事件が相次いでいる。内山が殺された事件もその一つであると考えるのは自然だ。しかしそれを新撰組の行いへ責任転嫁してしまえば話は簡単になる。
「…まあいいでしょう。我々の行いが大坂の町人に良く思われていないのは間違いではないのですから。ただし、今回の件について我々は関与はしておりません。これ以上の詮索は無用です」
永倉がきっぱり否定すると、それ以上役人たちは追及してこない。彼らは顔を見合わせて、口ごもってしまった。永倉は「いこう」と原田と総司に声をかけた。原田はまだ怒りを収めていないようだったが、渋々永倉と総司に連れられて背中を向けた。

「こなくそ!」
奉行所を出た途端に原田が吐き捨てた。その声はおそらく奉行所の門番には聞こえていただろうが、構う原田ではない。
「んだよ!証拠もねぇくせに偉そうに!」
「まあまあ、原田さん、落ち着いてくださいよ」
総司が宥め、永倉が制した。
「新撰組が邪魔なんだ。手当たり次第理由をつけて遠ざけたいのは当然だろう」
終始冷静だった永倉は腕を組み「それより」と話を変えた。
「町奉行の与力が殺されるほど…大坂の治安が悪いのか」
「そうですね。昨年下坂したときよりも警戒が厳しいです」
おそらく将軍家茂が在府しているのもあるだろうが、街の空気は重い。雨が降っているせいか人通りも少なく活気はない。
「しかしあんな風に町奉行に嫌われてしまっては、俺たちの仕事はなさそうだなあ」
「ったく、もう帰ろうぜ!大坂の町人は皆俺たちのことを疑ってるんだぜ、与力を殺した犯人だってな。胸糞わりぃ!」
原田は宿へ向けて歩き出す。気持ちいいほどに吐き捨てる原田の台詞に総司と永倉はもう何も文句は言えない。二人で顔を見合わせて、苦笑しつつそのあとを追った。


久々に身形を整えて、山崎は良家の次男坊『鏑矢次郎』となった。桝屋の見張りは新米の島田に任せ今日は島原へやってきた。
雨の中でも相変わらずの活気にあふれるこの場所だけは、いつも世界から隔離された場所のようだ。美しく着飾った女たちが客の目を彩り、煌びやかな世界を作り上げる。この場所に足を踏み入れると、どんな時でも心が浮つく。
「鏑矢はん、ひさしぶりやなあ」
「うちんとこの店、寄ってっておくれやすぅ」
客引きの女たちが山崎に声をかけた。手を振って応じつつ、心のなかでは苦笑する。
この場所では女が嘘を付く。そして自分も『鏑矢次郎』という人間という嘘を付く。その嘘だけで繋かった曖昧な関係が、この世界では許されるのだ。
夢のような場所とは違う気がする。夢を夢だと知りながら眠るのと同じだ。
そんな鏑矢次郎の行き先はいつもきまっている。彼は君菊という芸妓に夢中になっている…そういう設定なのだ。

「まあ鏑矢はん」
部屋にやってきた君菊はいつもと同じ美しさだった。足を悪くしているという話だがそれを感じさせないしなやかな仕草は、相変わらず洗練されている。
「天神、今日も綺麗やなあ」
いつもと同じ褒め言葉。聞き飽きているだろうに、君菊は満足そうに微笑んで連れの禿に人払いを指示した。
二人きりになったところで、君菊は酒を注いだ。
「そろそろ…おいやすころやと思うてましたえ」
穏やかにほほ笑みながら君菊が告げる。全く頭のいい女だと山崎は内心嘆息した。
(頭がええからこそ、厄介いうたら厄介や…)
山崎は懐から袱紗を取り出した。土方から預かったものだ。
「まず…これはいつもの」
「おおきに」
山崎が手渡したのは石田散薬。土方家伝の薬で屯所にも常備されている。酒と一緒に飲む薬で土方曰く効果があるのかわからないらしいが、君菊にとっては良薬のようだ。時折痛む足に効くらしい。
君菊はその薬を嬉しそうに受け取る。山崎が彼女の恋心を感じるはそんな時だ。
土方の馴染みだと噂される君菊だが、実際にはもう数か月も顔を合わせていないだろう。手紙のやり取りも山崎を通して行っているだけで、二人だけの時間はない。けれども彼女は文句ひとつ言わず、この薬を受け取ることだけを楽しみにしている。
(…欲がない女や…)
土方に漏らした感想を彼女自身に告げることはしない。きっと帰ってくる答えは「そうやろか?」という無邪気な微笑みだ。それを見るのは何だか心が痛む。
「それから?」
君菊がこれだけではないだろう、と話を促した。
山崎は土方から託されていた言葉を伝えた。
「天神、もう潮時や」
「……それは、土方せんせのお考え?」
山崎は頷いた。君菊は冷静に「そう…」と受け取った。その横顔がどこか寂しげだ。土方に必要とされないということが彼女にとっては苦痛なのだ。山崎はすかさず言葉を足した。
「副長は身請けすると」
「え…?」
君菊の驚いたような呆けたような顔が、山崎にとっては意外だった。元々間者を引き受ける条件として彼女が提示したものだ。当然の報酬なのだ。なのに、彼女はまるで夢を見るような顔をしている。
「小者に空き家を探させてるところや。副長は本気で天神を身請けする気や」
「…ほんまに…?」
口元に手を当てて驚きを隠さない彼女に、山崎は尚も頷いた。
すると突然、彼女の瞳に涙が湧き上がった。ほろり、ほろりと流れては消えていく。
「…て、天神…?」
どんな状況にも臨機応変に対応できる自信がある山崎だが、君菊のこの反応は想定外だった。おろおろと慌てる山崎はその大粒の涙を止める術を知らない。すると君菊がぽつりとつぶやくように語った。
「なんや…嬉しいのか、悲しいのか…わからへん」
「天神…」
「これからずぅと…土方せんせの傍におられるのは…嬉しい、けど…うちは、ずっと一番にはなれへんの…」
山崎にはわからなかった。彼女が喜んでいるのか、悲しんでいるのか…。でもきっとそれは彼女にもわからないのだ。
身請けして華々しくこの花街を去るその時が、彼女の幸せの絶頂なのだ。そして土方の傍にいると、やがて自分が一番ではないということを思い知らされる。彼が大切なものはもう決まっている。彼女は偽りの、飾りの、約束を果たしただけの存在でしかなくなる。
「うちは間者の真似事して、せんせに心配されるほうが…せんせの心の中に住めるのなら…うちは、そっちのほうがええのに」
呟くように、囁くように吐かれる言葉たちがきっと彼女の本音。いままで笑顔の裏に隠してきた偽らざる気持ち。恋心を抑えきれない感情の吐露。
「……」
本当は反発するつもりだった。
土方が君菊を身請けすることで彼女への贖罪をするつもりなのだとすれば、それは間違っていると。土方への一途すぎる気持ちを持つ君菊にとって、結局は花街で生きるのと、土方の傍で生きるのは変わらない。だったら、彼女との距離を置く方がまだ良いのではないかと。しかし山崎がそう言及しなかったのは、口を出す資格はないと思ったからだ。当人たちがそれでいいというものをどうこうはできない。ただ、何故そこまで自分が君菊に感情移入するのかと言えば、それはきっと自分と似ているからなのだと思う。間者という役目を果たす過酷さに同情したから、という勝手な感傷だ。
君菊はやっと自分の涙をぬぐった。流れる涙はまだ止まりそうもないけれど、彼女は少し落ち着いたようだ。
「堪忍…。我儘な女の戯言やおもうて…忘れておくれやす」
そうして強気で誇り高い君菊に戻る。しかし山崎は首を横に振った。
「いや…俺は忘れへん。天神、あんたは少し強情すぎる」
君菊は少し驚いて、そして穏やかにほほ笑んで、「おおきに」と頷いた。
「せやけど…身請けのお話、もう少し、待っておくれやす」
「何故だ」
「…けじめを、つかなあかん」
涙にぬれた強いまなざし。そのまなざしがどこへ向いているのか、山崎にはおぼろげながらわかる気がした。





170


元治元年五月中旬。将軍家茂は無事江戸へと帰東した。伊庭らは陸路で江戸へ向かうこととなるのだがこれはまた別の話である。
これに伴い会津・新撰組も帰京することとなる。もともと護衛の為派遣していた新撰組の隊士とともに総司らは京への帰路を急いでいた。
「先生、顔色が悪いですね」
総司が大坂へ下る際、供として選んだのは山野だった。山野は総司の組下のなかでも有能で剣も立つ。見目こそ女のように優しげだが勇猛果敢なところもある逞しい青年だ。彼を京へ残して組下を任せるということも考えたが、彼の今後の活躍の為、経験の一つとして同行させたのだ。
「え?そんなことないですよ」
山野の心配そうな声に総司は首を傾げた。
確かに大坂へ下ってから数日にしかたっておらず感覚としてはとんぼ返りだ。大坂へついてそうそう一悶着あり気も休めておらず、疲れてはいるが総司が感じるほどの異変はない。
しかし山野は食い下がった。
「いえ、お顔の色が宜しくないです。ちゃんと水分は取っていらっしゃいますか?まだ都は遠いんですから、体力は温存して…」
「やだなあ、姉さんみたいだ」
小言の多い姉を思い出し、総司は苦笑した。年下の彼にまで小言を頂戴するようでは頼りないと思われても仕方ない。
「沖田先生!僕は心配で…」
「心配は無用ですよ。季節の変わり目だからそうかもしれませんが、時期に慣れますって」
山野の忠告に総司は手を振って答えた。すると山野が拗ねたように口を窄めた。
じめじめと降り続けた雨はここ最近になって急にその姿を隠した。その代わりに太陽がその姿を主張し始め、気温はこの数日でみるみる上昇した。この急激な変化で身体を壊してしまった者も多く、山野が危惧するのは理解できるが、総司には自覚はなかった。
「それよりも山野君に聞きたいことがあるんですけど」
「なんですか?」
隣を歩く山野が総司の顔を覗き込んだ。
「兄弟とか従妹とかでそっくりな人、いません?」
「は…?僕には兄が一人いますが…歳も離れているし、僕は母に似ていますが、兄は父に似ていて、兄弟が似ていると言われたことはありませんね…あと、親戚とは縁があまりなくて、お恥ずかしい話、会ったことがありません」
「…そうですよねえ」
山野の答えに総司は少しだけ落胆する。一方、一体何のことだ?と山野は首を傾げたが、総司は答えなかった。
島田に託したあの青年のことがずっと気になっている。年恰好も山野に良く似ていたので、もしや親族かもと淡い期待を持っていたが、当然のことながら違うようだ。青年のこと…いやむしろその青年とともにいたあの長身の男のことが脳裏を離れない。
あの男は総司に対して、そのあからさまな殺気を隠そうとはしなかった。思わず総司は刀に手をかけたがそれを見ても、男は鼻で笑っただけで特に抜こうとはしない。総司にとっては、出逢ったあの時からすでに優位に立たれているような…思わず屈服しかねない迫力を感じ、少しだけ圧倒されてしまった。
だからこそ、あの男が直感で並みの人物ではない、とはっきり感じ取ることができた。
(…なんにせよ、戻ればわかる…)
島田から山崎へ話が通じているはずだ。あの青年のように見目の麗しい顔立ちなら京にそうたくさんいるわけでもないので、見つけるのはたやすい。
妙な期待と、不安を入り混じらせながら総司は足早に歩いた。


「鏑矢次郎」こと、山崎はその身形を闇に紛れさせ屯所を訪れた。派遣された大坂組がまだ帰っていないため、屯所は人数が少ないが、警備は物々しい。倒幕派の志士を捕縛する機会が多かったため、報復される可能性もあるからだ。
その厳しい警備をどうにか潜り抜けて、副長の部屋へやってくる。いつもの合図で土方が障子を開けてくれたが、そこにはもう一人いた。
「…ご一緒でしたか」
部屋にいたのは近藤だ。山崎は機会を改めようと思ったが、近藤が「構わないよ」と手招きするので、遠慮なく部屋に入る。
「久しぶりだな。土方君に扱き使われているんだろう」
近藤が労を労ってくれる。山崎は「いいえ」とほほ笑んだ。
実際任されている仕事は多いものの、そのどれもが必要な任務だ。無駄な命令もなく、山崎としては上司として有能で助かるくらいなのだ。
「それで、大坂の方はどうだ」
土方が腕を組み、話を促す。
「はい。一足先に戻った者によりますと、明日には屯所に到着するかと。あと、大坂での内山彦次郎殺害事件についても調べさせましたが、やはり新撰組の仕業やないかというのは根拠のない噂話。大坂奉行所もある程度犯人の目星はつけているようやと」
「…とんだとばっちりだな」
土方が厳しい顔で吐き捨てた。内山彦次郎の殺害の容疑については、近藤・土方に元へも会津藩より知らせが来ていた。そもそも内山ともめたのは一年前の話であり、今更逆恨みする筋合いはないと土方は言い張っていた。
「奉行所の与力が殺害されるとは…よほど大坂は荒れているのだろうな」
近藤が同情を禁じ得ない様子でため息をついた。良くも悪くも人情派の近藤と、現実主義でストイックな土方。噛みあわないようでしかしその二人が唯一無二の親友だということは、いつも山崎には少し不思議な気がするのだ。
「それから…奉行所が目星をつけている犯人のことですが」
「ああ」
「どうやら、宮部鼎蔵の僕やないかという話でした」
「何だと」
土方はもちろん近藤も顔色を変えた。
宮部鼎蔵は尊王攘夷の先方として活動する肥後浪人だ。かつては吉田松陰に同行するなど学に長け、崇拝する者も多い。しかし昨年の八月十八日の政変により長州へ下ったはずだ。
「密かに舞い戻ってなんや企んでいるというのは以前からある話ですが…先日『みのや』に踏み込んで逃がして以来、話を聞きまへん。警戒されておるのやとおもいます」
「…いや、内山を殺したのが宮部の関係者であるということなら、その理由で引っ張れる。そこから宮部の居場所を問い詰めればいい。ところで…桝屋の方はどうだ」
山崎は首を横に振った。
「まだ何も。店の者によると桝屋喜右衛門はどうやら病で寝込んでいるということで…」
雇った女に客のふりをして訊ねさせたところ、主人は長く病気で寝込んでいるという返答があったらしい。しかし土方はその報告に山崎とは全く違う感想を抱いたようだ。にやりと不敵にほほ笑んで
「動き始めようとしているのかもしれねえな」
と言ったのだ。確かにいま病気のために姿を眩ますというのはタイミングが良すぎる。だとしたら土方の考えが正しいのかもしれない。山崎が思案を巡らせていると
「歳…土方君は楽しそうだな」
と土方の隣にいた近藤が嬉しそうに笑った。すると土方が少し怒った風に「うるさい」と言い返す。
(いや…照れてはる、か)
「とにかく。山崎、桝屋の素性を探ってくれ。吉田が桝屋に出入りしているのだとすれば、ただの商人ではないはずだ」
照れ隠しなのか、土方が重く改まった口調で告げる。山崎は顔が緩むのを堪えつつ「はい」と頭を下げた。近藤と土方が唯一無二の親友。その理由が少しだけわかったような気もした。

山崎が去った後、土方は近藤に向き直った。山崎の訪問で中断していた話を再開するためだ。山崎の話だと明日には大坂組…総司が戻ってくる。それまでに近藤へ話しておかなくてはならないことだった。
「君菊のことだ」
「…彼女は無事なのか」
近藤は眉間に皺を寄せた。新撰組に寄せられる情報のうち君菊からのものも多い。そのことを知っている近藤は彼女の安否を危惧したが、土方は頷いて答えた。
「だが…もう潮時だ。俺が身請けする」
「身請け?」
近藤からしてもその答えは意外だったようで、その大きな口がぽかんと開いた。
「もともと約束をしていたことだ。役目が終えれば、俺が身請けする。君菊の身を守るためにも最善だと思う」
「…そうか…」
大きなため息をつきながら近藤が腕を組みなおした。近藤の表情は冴えず、しばらく無言になったところで「なあ」と切り出した。
「俺は、家族を作るために嫁を貰うことと、恋は別だと前に話しただろう」
「ああ…」
土方と君菊が良い関係だと誤解した近藤は、笑いながらその持論を述べていた。総司との関係と君菊との関係。その二つを共有しても構わないのではないかと言っていたのだ。身請けをするということは傍から見れば君菊を妾にするということ。まだ土方は武士の身分ではないため君菊を妻にするのも道理に反しているわけではない。
「だが、実際そうなると複雑だな。君菊は良い女だとは思うが…やはり、俺は総司が可愛い」
苦笑しながら頭を掻く。小さな頃からその成長を見守ってきた総司のことを考えると、やはり君菊という存在は近藤にとって複雑なのだろう。もちろん土方も近藤がそう言う風に思うことがわかっていた。
「かっちゃん」
土方がかつての名前で近藤を呼んだ。
「俺は…かっちゃんほど、度量が大きくねえから、二人も大切にはできねえよ」
「じゃあ歳…」
困惑する近藤に、土方はまっすぐ告げる。
「君菊には悪いが…身請けするのは形だけだ。落ち着いたら良い嫁ぎ先でも探してやってもいいと思っている」
「……そうか」
近藤は何とも言えない表情になった。土方の言葉には安堵する気持ちもあるだろうが、君菊のことを考えると不憫だと思わざるを得ないのだろう。
「わかった。…わかったよ、歳」
二回大きくうなずいて近藤は納得してくれた。
言葉が少なくても彼は理解をしてくれる。やはりその度量は遠く及ばないのだと、土方は痛感した。








解説
161伊庭の話に出てきた、浪士組に参加するときのお話は35話です。
163『みのや』は存在しない架空の宿です。
164総司の回想は149話です。
169内山彦次郎暗殺に関して、新撰組では永倉・沖田・原田・井上の4人が手を下したものという説があるようですが、今回は当時暗殺が横行していたため、討幕派志士たちによるその一つの事件として解釈しています。
170内山彦次郎殺害=犯人は宮部鼎蔵の忠僕というのは、フィクションです。

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