わらべうた





171


大坂から京都へ戻ると少しだけ日差しが強く感じられた。
「ただ今戻りました」
永倉・原田とともに揃って総司は近藤の元へ訪れた。生憎土方は留守だったようで出迎えたのは近藤のみ。
「ご苦労だったな!」
近藤は満面の笑みで無事の帰還を喜んだ。
「あれ、めっずらしいな。土方さんは?」
きょろきょろと辺りを見渡しながら原田が近藤に問うた。すると近藤が「ああ…」と少し口ごもる。頭を掻きながら「野暮用だよ」と答えたが、その近藤の挙動不審さに総司は思わず首を傾げてしまった。
「それより奉行所の件は大変だったな」
近藤の労いに「そうなんだよ!」と原田が食いついた。どうやらいまだに根に持っていたらしい原田が、事の顛末を(やや大げさに)語り始める。永倉と総司は顔を見合わせてやれやれと言わんばかりに苦笑したが、その話に再度付き合うことにしたのだった。

原田の長い愚痴を聞き終え、総司はようやく解放された。出張していた代わりに今日と明日は休暇を貰うこととなっていた。近藤はのんびり羽を休めたらしい、と言ってくれたが総司は早速屯所を出た。
「沖田先生、どちらへ」
門番があわてて総司に声をかけた。最近尊攘派の捕縛者が相次ぎ報復を避けるため、できるだけ一人で出かけないようにと達しが出ている。以前のように「極秘任務で」と言えばそれ以上の追及はないだろうが、何度もその口実を使えば不審がられるだろう。
「野暮用ですよ」
「あ…!」
近藤と同じ言い訳を使って、それ以上追及される前に駆けだした。だったら護衛を付けるとも言いたげだったが、そんなのは逆に足で纏いになる。仏光寺通りへ出て、目的の場所に歩き始めた。
(野暮用…か)
近藤がそう言った時明らかに目が泳いでいた。その嘘がつけないのは近藤らしいと微笑ましくも思うものの、何か隠しているのかと思うと総司には複雑だった。何か目的があって土方は屯所を留守にしているのだろう。最近全く屯所を出ずに引き籠って、考え事ばかりをしていたのでそれは良い兆候なのかもしれないが、何故かそう思えない。
「せっかく…帰ってきたのにな」
てっきり土方も出迎えてくれるのだと思っていた。なのに当てが外れて…期待が外れて残念に思う。でもこんなこと今まで思ったこともないのに。
総司は空を見上げた。梅雨の鬱々とした厚い雲が通り過ぎ、覗いた空は眩しいほどに青い。
「厄介な気持ちだな…」
苦笑して、己の感情を見つめた。


一方。野暮用だと告げて土方がやってきたのは島原だ。まだ陽が昇っている時間で、店はどこも開いていない。夜は目が眩むほどに煌びやかな世界なのに、昼間に訪れると閑散として、まるでここが遊郭などということが幻のようだ。土方は山崎こと『鏑矢』に準備をさせた店に足を踏み入れた。本来ならば営業時間ではないが、店の主人が部屋を貸してくれている。ちなみに店の主人は『鏑矢太郎』といい、代々続く小料理屋を営んでいる。山崎はそこへ現れた『養子』としてその偽名を使っているのだ。
その主人に刀を預け、打ち合わせ通りに奥の座敷へ向かう。細い廊下を進み、障子を開けた。
「…遅くなった」
そこには山崎と君菊が居た。君菊はいつもの華やかな衣装ではなく、落ち着いた淡い色遣いの装いだったため、幾分か落ち着いて見える。しかし土方を見て、丁寧に頭を下げる仕草はやはり洗練されていて美しい。
「おひさしゅうございます」
「ああ」
君菊と会うのはもう数か月ぶりだ。新撰組の間者という役目を頼んでからは一度も顔を合わせていない。山崎や他の小者を通じてやり取りはしていたものの、随分懐かしい気持ちになった。それは君菊も同じだったようで土方を見て穏やかにほほ笑んでいた。しかし、和やかに逢瀬を楽しんでいる暇はない。
「それで、何の用件だ」
今日土方がここにやってきたのは、君菊の方から呼び出されたからだ。本来であれば君菊と直接会うことは危険と隣り合わせであり、土方としては避けたいことだったのだが君菊がどうしてもと言うのでやってきた。それはそれなりの理由があるからなのだろう。
すると君菊は
「お願いが、あります」
と切り出した。
「身請けのことなら伝えただろう」
「へえ…ほんにありがたいお話やとおもうてます。けど、今日のお話はそやのうて…土方せんせに、賭けに乗ってもらいたいんどす」
「賭け?」
君菊は身を屈めながらも、土方をまっすぐ見据えた。
「自分の始末をつけてから…土方せんせの元へ参りたいと、おもうてます」
土方への頼みごとと言いながら、彼女の決心は固いようだ。そういった強情さは京女らしからぬところで、土方としても話しやすい。
「…賭けとは?」
「いま、新撰組は宮部というお人のお仲間を探してはるとお聞きしました」
宮部鼎蔵については山崎を通して君菊に伝えていた。肥後出身なので言葉に訛りがある。それらしき人物を見かけたら知らせるようにと頼んでいたのだ。加えてその下僕には大坂奉行所内山彦次郎殺害の容疑もかかっている。いま新撰組が一番力を入れて探している人物だ。
「そのお仲間を…あえて、見逃してほしいんどす」
「なに?」
君菊の意図が見えず、土方は問い返す。君菊は続けた。
「これは山崎はんにもまだお話してへんことどしたが…この間、吉田せんせから手紙が来ました」
「なんやて?」
山崎は目を見張って驚いた。
「その内容は?!」
「…うちに、二重で間者になる様に、と。もちろんお断りしました」
君菊があっさり「断った」と言い、山崎は「なんや…」と身体の力が抜けたように手をついた。しかし君菊の話は終わっていない。
「土方せんせもご存じやとは思いますが…吉田せんせは、うちが間者やということを知ってます。最初にうちのとこへ来た時には既にすべて知ってはった。せやけど、それを口外せえへん。それはきっと…うちがどう動くか、待ってるからやとおもいます。ご自分は蚊帳の外で、高みの見物をしてはる…そういう方どす。せやから、二重で間者になる様に脅してきたのも、うちがきっと断るとわかっていたことやとおもいます」
実際に吉田に会ったことがない土方としては判断が付かない内容だが、君菊が迷いもなく言い切るのだから間違いないだろう。何も言わず先を促した。
「うちの勝手な推測やけど…おそらく、吉田せんせはうちの正体を、桝屋はんにもゆうてへんと思います」
「桝屋はお前の馴染みだったな」
土方が問うと「へえ」と君菊は頷いた。土方と出会う前からの馴染みだという報告を、山崎から受けていた。
「うちは、桝屋はんに長州の間者になることを申し出ようとおもいます」
「天神、それは無茶や!」
山崎が慌てて君菊を止めた。
まだ桝屋と吉田の関係が証明されていないものの、その関わりは九割以上の確率で存在する。さらに、吉田は最初に君菊の元へやってきたとき、店の者に「桝屋の紹介だ」と名乗ったそうだ。…もし桝屋が君菊を間者として遣うことを吉田に報告したとすれば、一発で露見するだろう。山崎には余りにも危ない橋を渡るようにしか見えなかった。
しかし君菊は笑った。
「せやから、賭けやといいました」
彼女が微笑んだ様は、まるで悪戯が成功した子供のようだ。
(こういうところが…総司に似ている)
だから、割り切れないのだろうか。土方はそんなことを思ったが、君菊の話は続く。
「桝屋はんには絶対に誰にも漏らさないように、念を押します。新撰組の情報をお渡しするといえば、おそらくは乗ってきはると思いますえ」
「だから宮部の下僕の情報をわざとお前に私、奴らに流せ、と」
「へえ。そうすれば桝屋はんはうちのことを信じてくれはると思います」
柔らかな口調なのに、その計画は勝気だ。女にしておくには惜しいと思うほど、勇敢で物怖じしない。
しかし、そうであったとしても、彼女は女だ。
「…君菊」
土方は重々しく名を呼んだ。すると君菊が姿勢を改めて、土方に向き直る。
「生意気ゆうてるのは、わかってます。せやけど…」
「そうじゃない」
土方が制すると、君菊は言葉を止めた。
「…お前は、もう役目を果たしたんだ」
君菊の言い出したことは面白い賭けだとも思う。危ない綱渡りになるが、動きがない攘夷派に近づけるなら願ったり叶ったりの案だ。
しかし、理由がないのだ。
彼女がそこまでする理由が、もう、ない。
「もう…お前を身請けする話は進めている。近藤局長からも許しを貰っている。だからお前はもう何もしなくていい。これ以上命を掛けなくとも、俺はお前を身請けすることを決めている」
「……」
だから焦ることはない。何も心配することはない。
しかし君菊は視線を落としたまま、土方を見ようとはしない。先ほどまで刺さるほど強く見据えていたのに。
すると隣にいた山崎が「席外しましょか」と申し出た。相変わらず空気が読める男だ、と思いつつ土方は頷いた。「では」と山崎が部屋を出て、その音が聞こえなくなった。
「…約束だったはずだ」
何も話そうとしない君菊に土方は語りかけた。
「お前が間者として命を賭して役目を果たした暁に、俺はお前を身請けする。お前はもう十分役目を果たしただろう」
「…いいえ」
君菊は首を縦には振らなかった。
「うちは…まだ、役目を果たしてないんどす」
「俺が十分だと言っている」
「土方せんせにとって十分でも、うちにとっては十分やおへん」
きっぱりと君菊が土方の言葉を止めた。有無を言わせない、強い口調だ。しかし、何故か彼女はまるで泣きそうな声を出す。
「君菊…」
「うちは、とても卑怯やと…ずうと、おもうてました」
そしてその声が震えていた。
「間者として役目を終えたら、身請けしてもらうなんて…なんて、卑しいお願いとしてしもうんやと…己を恥じて…ずっと、後悔して…」
ぎゅっと掌を握った君菊はやっと土方を見た。そしてその頬に涙をつたわせていた。
泣かない女だと思っていた。泣き顔なんて、似合わない女だと。今まで出会ったどんな女よりも芯の強い女だと勝手に思っていた。
「うちは…土方せんせの気持ちも、総司さんの気持ちも…踏みにじってしまうって…わかってるのに…」
「……」
(ああ…やっぱり違う)
土方は思った。
ずっと総司と似ていると思っていた。彼女がまっすぐに自分を信じてくれることが、天真爛漫な振る舞いをするところが、無邪気にほほ笑むところが。
けれど違う。
「せやのに…断れへんかった。身請けしてもらえたら…って、想像するだけで…嬉しくて」
彼女は紛れもなく女だった。決して強くない。守られるべき、女だったのだ。
「せやから…せめて、この命を賭して、最後のお役目を果たさせてください。そうやないときっと、うちは後悔する…そう、思うんどす」
涙を流して懇願する君菊の手を、土方は取った。震える指先は細く総司のものとは違う。
「土方せんせ…?」
「…お前は何も悪くない」
罪深い自分を呪う必要はない。
「俺が、すべて悪い。お前に間者を頼んだことも、身請けの条件を飲んだことも…お前を、一番に想ってやれないのも」
(ただ、お前は一途すぎただけだ…)
君菊の手を引いて、土方はその腕の中に包み込んだ。
細く、脆く、か弱い彼女は次第に身を任せて力を抜いた。






172


総司はいつか土方と一緒にやってきた廃れた神社へやってきた。境内の周囲が木々で囲まれ、人気が無いのは相変わらずだ。土方と真剣で向かい合い、その刀を折ったのは随分昔のことのように思えるが、この場所はあの時と全く変わらない。
あの日、あの青年とここで出会った。怪我をしていたのか、足取りも重い様子だったが総司たちの助けも借りずにそのまま去って行った。また同じ場所に行けば出会えるなどということを妄信してやってきたわけではないが、あの人何一つ変わらないこの場所に来てしまうと期待せずにはいられない。
「……」
総司は周囲を見渡した。
大坂から帰ってすぐにここにやってきたため、山崎たち監察の報告はまだ聞いていない。彼らに任せていればいいと、思っているのにこんな風に気が急いてしまうのは、心に住み着いた予感…勘のせいだ。あの青年がここにいたのも何か理由があったのではないか、大坂にいるときにそんな想像をしていた。
「あつ…」
京の日差しは急に夏らしさを帯び、総司を照りつける。そのせいか知らないが、身体の体温が熱くなり怠くなってしまう。
総司は少し眩暈を覚えたので、境内に向かって覚束ない足取りで歩き出す。古びて朽ちかけた境内だが、横になるには十分だ。ボロボロの屋根が一応日差しを防いでくれる。
「…怒られちゃうなあ…」
長旅の疲れが出たのだろうか。しかし、こんな姿を見られては道中あれだけ心配してくれた山野に怒られてしまう。そんなことを考えつつ、総司は目を閉じる。
目を閉じると初夏の風がさらさらと通り抜けていくのを感じた。少し肌寒いくらいのその風が妙に心地よくて、このまま寝てしまいそうだ。こんな場所で昼寝なんかしたらそれこそ山野に怒鳴られてしまうだろう。普段は温厚で整った顔立ちの彼が、怒る姿なんて良そうもできないけれど。
総司がそんな山野を想像して苦笑していると、するとガサガサ…っと草が擦れあう音がした。それは風で草が靡く音とは全く違う。そして猫やタヌキとは違う質量を感じた。
(誰かいる…!)
総司は閉じていた目を開き、上体を起こした。しかし眩暈が収まっていない身体では儘ならず、思っているよりも体の動きは鈍かった。そして視界はぼやけている。どうにか目を擦り倒れそうになる身体のバランスを取っていると
「そこで何をしている」
と、その『誰か』が声を上げた。その声は知っている。どこかで、聞いた重く低く冷たく、記憶に焼きついた声。
歪んだ視界にようやく男の姿が映し出される。憮然とたたずむ姿はそこにいるだけで威圧感を与える独特の迫力があり、圧倒させる。
「答えろ」
尚も男が問いかける。苛立ったように声を荒げて睨み付ける姿は、常人ならここで平伏すほどの強さがある。
そこでようやく総司の眩暈が落ち着いた。目の焦点が合うと、その男の後ろに例の美しい青年が控えていることに気が付いた。
「…ここに、いてはいけない理由でも?」
見つけた、と興奮する気持ちを悟られないように抑え、総司が問い返す。男は「はっ」と吐き出すようにして嘲笑した。
「何故ここにいるのかを聞いている」
口応えは許さない。聞かれたことだけに答えればいい。
男はそう言いたいのだろう。総司は境内から降り、男と向き合った。
「特に理由はありません」
総司はきっぱり言い切った。人気のない忘れ去られたような場所なので、総司がいること自体不自然なのかもしれないが、まさか彼らを探していたともいえない。
すると男がこの場に不似合いなほど、高笑いをした。
「はは……っ苦しい言い訳だ」
「何を…」
「俺がきいているのは、新撰組の沖田が、なぜここにいるのか、ということだ」
その言葉が発せられた瞬間、総司は刀を抜いた。それは今までになく俊敏な動きだったが、それはおそらく男にもわかっていたのだろう、彼は微笑みを絶やさず総司を見ていた。
「さすがに、新撰組随一の遣い手だという話だけはある」
そのお褒めの言葉も、今の総司には不要だった。
「…何者だ」
切っ先を男へ向けたまま総司が威嚇する。しかしこの男は動じることなく「さあ」ととぼけた。
「何者であっても、何者でなくても…お前は俺を斬るんだろう。だったら、答える必要はない」
「……」
その態度には、あからさまなほど余裕があった。死んでもいいと言う怠慢か、それとも死ぬわけないと言う自信か。しかしどちらにしても新撰組の沖田だとしてそんな態度に出られる人間は少ないはずだ。そして男は刀を抜く素振りすら見せない。
「…ここに、何の用だ」
男が問うてきた質問を、そのまま返す。すると男は特に躊躇う様子もなく
「ここはこの男を抱く最適の場所だからな」
と答えた。しかしその内容には、思わず総司が「は?」と問い返してしまうほど、意外なことであった。男がこの男、と指すのは後ろに控える青年のことだ。男同士の関係にはすでに慣れてしまったが、こんな人気のない場所で関係を持つというのは、総司には理解しがたいことだった。…そういえば、ここで初めて青年に会った時、彼は怪我をしていた。この場所にやってくる目的が男の言うとおりだとすれば、彼はここで無体な行為を強いられたのちに、そのまま放置されたということだ。
しかし総司が非難する前に、男が答えた。
「勘違いするな。これも、それを望んでいる」
青年のことを「これ」と呼ぶ。その扱いが総司には不快だったが、しかし青年は何も言わず何も反応せず、何も表情を変えない。
「斬る気が無いのならこの場を去れ。こんな場所で昼寝をされては、迷惑だ」
吐き捨てるような物言いに、総司は刀を強く握った。
「指図しないでほしいですね。先客は私ですよ」
そしてまっすぐに刀を男に向けむき出しの殺気を込めた。男が何者なのかはわからない。ただ、今まで総司を突き動かしている「勘」がこの男に敏感に反応する。
すると何が面白いのか、男の口元がにやりと歪んだ。そしてその胡乱な瞳が総司へ固定される。
「じゃあ、殺してやる」
刀を抜き、総司へ向ける。総司を新撰組随一の遣い手だと知ったうえで、男は向かい合っている。だとすれば腕にも相当の自信があるのだろう。
総司は得意の突きの構えをした。足元が雑草に覆われたここでは、打ち合いになれば命取りになる。それに、先ほどの眩暈も無理矢理押し込めたものの、まだ燻り続けている。万全の体調とは言えない。
「久しぶりだ」
男は舌で唇を舐めつつ、呟いた。
「誰かを殺したくなったのは…久々だ」
「……」
何者かは知らない。だが、この男が何人も殺してきたことだけはわかる。男は殺気に慣れている。
総司はじりじりと近づいた。得意の突きは近づけば近づくほど正確になる。そして絶好のタイミングで踏み込む。そうすれば、男の喉元を狙える…
その、一瞬前だった。
総司の目の前に、青年が立ちはだかった。
「な…っ」
さっきまで男の後方に控えていたのに、いつの間にかその気配を消し目の前に現れた。殺気を漲ら冴える二人の前に立てば、己の命だって無事には済まないのに、青年はそれを何の感情もない顔でやってのけている。
「邪魔だ」
男が不機嫌そうに青年に言う。しかし、青年はそこを動こうともせず、そして男の言葉に動じることもなくまっすぐに総司を見ていた。
虚ろな瞳は、空虚な水晶のように総司の姿を映す。そこに確かに生きているのに、彼には息をする気配がない。ぬくもりを感じるような血の巡りが見えない。
(人形のような…)
もちろん、それが馬鹿げた妄想で、青年が人間だということはわかっている。それでいてもなお、彼の存在は神秘的で非現実的で、何のメッセージ性もない。その『無』に、思わず総司は刀を下ろしていた。
「……興ざめだ」
ため息交じりに男はつぶやき、刀を仕舞う。そしてそのまま踵を返した。
「まっ…」
総司が追いかけようとすると、尚も青年が阻んだ。両手を広げて、男を守る様にして立ちはだかる。もちろん総司もそれを力づくで押し抜けていけない訳ではない。しかし、そんな気持ちにはなれず、男の背中をその場で見送ることしかできない。
すると、人形の口がゆっくりと動いた。
「…あなたには、殺させない」
「え?」
青年は広げていた両手を降ろし、男と同じように総司に背を向けた。そしてそのまま男を追いかけて走り去っていった。




173


「もうっ!どこへ行っていたんですか!」
夕暮れから夜に変わる頃。屯所へ戻ると、仁王像のように腕を組み口をすぼませて待ち構える山野が居た。門番よりも顔を顰め厳つい表情をしているものの、彼の愛嬌のある顔立ちでは迫力はない。
「本当に姉さんみたいだ」
「何か言いました?」
「いいえ」
総司は苦笑した。そう言えば昔も、こんな風に帰りが遅くなって姉に怒られた。むやみに探し回らずに、帰ってくるはずだ、と信じてくれる姉は怒っていながらも、両手を広げて待っていてくれたのだ。
「今日は非番だから別に急いで帰ってこなくったっていいじゃないですか」
八木邸の玄関に向かいつつ、山野に訊ねる。しかし彼は
「沖田先生へ用事があるのと…身体の様子が優れないのに、ふらふらと出掛けたって聞いて心配だったんです!」
と主張した。なるほど彼にも言い分があるようだ。
確かに山野の言うとおり、身体の調子が悪いようだ。廃れた境内で眩暈に襲われたのも、身体が気怠くて動きが鈍くなっているのも、身体が異常を訴えているからだ。しかし頭は冴えているので、病人扱いをされ床に縛られるのは嫌だった。季節の変わり目だから身体がついていっていないだけなのだから。
「何ともないって言ってるじゃないですか。…それで、用事というのは?」
総司が誤魔化すと山野は納得しない表情をしたが、強引に話を変えたのに抵抗しようとまではしなかった。
「土方副長が戻ったら部屋に来るようにと」
「…土方さんが?」
「はい。何でも聞きたいことがある…とか、なんとか」
土方の用件には何となく身に覚えがあった。話が長くなりそうなので、夕餉が始まる前に顔を出したほうがよさそうだ。
そこで総司は手元にあった荷物を山野に手渡す。
「何ですか?」
「あげます。原田さんに評判のかりんとうのお店を聞いたんですよ」
山野は総司に手渡された紙の包みを開く。砂糖のたっぷりの甘いかりんとうに少し彼の顔がほころんだ。総司は安堵して背中を向けつつ
「だから、内緒にしておいてくださいよ」
とこっそり告げた。すると山野は
「あ…っ! 僕はこんなのじゃ、誤魔化されませんからね!」
と顔を真っ赤にして怒ったが、総司は振り向かずに向かいの前川邸へ向かった。


土方の部屋に入ると開口一番に
「どこほっつき歩いてんだ、馬鹿」
と嗜まれた。
土方に呼ばれ、部屋に入るのはあの夜以来のことで、こんな風に二人きりになるのは久々だった。てっきりあの夜のような気まずい空気が流れるのかと思いきや、土方はいつもの土方と変わらない。しかしその上から目線のお叱りに、総司は何故かほっと安堵してしまう。
「それはこちらの台詞です。大坂から帰ってきたのに、出迎えもなしなんてひどいですよ」
なので敢えて総司もいつもの調子で返答した。
「いいから障子を閉めろ。お前にはいくつか聞きたいことがあるんだからな」
「はいはい。私も土方さんに報告しなきゃいけないことがあるんです」
総司は障子を丁寧に閉め、土方の前に正座した。彼は文机に半分身体を預けつつ、「聞きたいことはわかってるんだろう」と問うた。
「大坂のことですか?私にはよくわからないので、永倉さんに聞いた方がいいんじゃないですかね」
「それはもう永倉に聞いてる」
惚けたことを言うな、と言わんばかりに土方が総司を睨んだ。総司も敢えてぼけたのだが、やはり彼がききたいことはあの件だったようだ。
「…山崎さんに勝手に頼みごとをしたことですか?」
山崎は土方の腹心の一人だ。島田に頼みごとをした件が土方に伝わってしまうのは、時間の問題だとわかっていたことだ。土方は不機嫌そうにうなずいた。
「監察には極力近づかないように言ってるだろう。お前は顔が知れてるんだから、慎重に行動しろよ」
「土方さんほどじゃないと思いますけどね」
「茶化すんじゃねえ」
敢えて話を逸らそうとしたものの、山野のようにうまくはいかない。兄弟子はお見通しのようだ。総司はため息をつきながら、「以後気を付けます」と答えた。
「それで、お前の報告したいことっていうのは何だ」
「山崎さんから話を聞いてるんですよね」
総司が確認すると「大体はな」と土方が答えた。だったら話は早い。
「私が探してほしいと頼んでいた青年に、先ほど会いました」
「何だと!」
土方が身を乗り出して驚いた。その反応に逆に総司の方も驚く。
「え?あの…でも会っただけで、名前も何もわからないんですが」
「…その青年と一緒に男が居なかったか?」
山野に似た青年とともに、背の高い男も探してほしい、と島田には頼んでいた。その事情を知っているという土方はどちらかといえばその男の方へ興味があるようだ。
「お前、もしかして山崎からの報告は…」
「まだ聞いていませんよ。土方さんは聞いているんですか?」
総司が訊ねると「ああ…なるほど」と土方は脱力したようにまた文机に身体を預けた。その反応はどちらかと言えば安堵しているように見えた。
「土方さん?」
「山崎から報告があった。お前が探していた若い男の方の名前は全くわからない。だが…一緒にいる男は、おそらく吉田稔麿だ」
重々しく土方が挙げた名前は、もちろん総司には聞き覚えがある名前だった。かつて斉藤が言っていた、同郷であろうとも同志であろうとも躊躇なく殺し、その殺し方も残虐で非道な男。尊攘派のなかでも過激な行動を続ける一人。
そんな大物と先ほどまで向き合っていた総司だが、その驚きよりも、やっと理解ができた気がした。
存在しているだけで他を圧倒する迫力。総司の殺気を目の前にしても余裕のある態度。そして物怖じしない大胆さ――総司が最初から肌で感じていた勘。あの男がただの浪士だということよりも、吉田稔麿だったという事の方がリアリティがあった。
「なるほど…だったら、あの時に仕留めるべきでしたね」
総司はポツリとつぶやいた。正体がわかっていたらあそこで躊躇ったりはしなかったはずだ。あの青年を斬ってでも吉田を追いかけ、勝負に持ち込んだほうが有益だった。それに気が付くことができないのは迂闊だった。
「お前、斬りあったのか?」
土方は総司の呟きが聞こえていたようだ。目を丸くして訊ねた。
「ええ…まあ、邪魔が入ったので実際に刀を合わせたわけじゃありませんが」
「……」
「私が迂闊でした。先に山崎さんからの報告を聞いていれば良かったです」
総司が改まって土方に頭を下げる。しかし土方は眉間に皺を寄せて「よせ」と止めた。
「吉田のことは俺と山崎しか知らない。お前にも報告しないように山崎に口止めをしていた。お前が吉田を逃がしたことが問題になるとすれば、俺にも罪があるということだ」
土方は「くそ」と小さく舌打ちした。その苛立ちは総司に向けられたものではなく、自分に向けられているのだろう。
(…やっぱり、話してくれる気はないのか…)
隠し事ばかりをする土方を責めることはできない。総司への口止めも何か考えがあってのことだろう。しかし、まるで仲間外れにされたような…苦々しい気持ちになった。
総司は表情には出さないように努めたものの、落胆した。
「…とにかく、お前はもう手出ししなくていい。監察に調べさせる」
「わかり…ました」
何もわからない。けれど、そう答えるしか、土方は許してくれない。総司のなかに込み上げてくる感情は、歯ぎしりしたくなるほどの悔しさだ。
吉田を仕留めていれば、何か変わっただろうか。青年を押しのけていれば…しかし、総司にはそれができなかった。
『あなたには殺させない』
そう言った青年はその瞳に初めて生を宿らせていた。今まで何も映していなかったのに、その瞬間だけ、色濃く鮮明に何かをうつしていたから。
(…でもこれは言い訳だな…)
「話はそれだけですか」
元々気怠かった身体が、さらに重みを増していた。土方の部屋に入ってきたときのあの飄々さが嘘のようだ。離れてしまった距離は、縮んだわけではなかった。できることならこのまま退散して床に入って寝てしまいたい。
だが、土方は
「まだある」
と総司を引き留めた。
「何ですか。もう夕餉の時間だから早めに切り上げてくださいよ」
「…」
総司が話を促すのに、土方は少し間を置いた。深刻な顔で…しかし少しだけ緊張しているように総司には映った。そして
「いや…またでいい」
と答えた。総司は首を傾げつつも、疑問よりも気怠さの方が勝って「そうですか」と聞き流した。
そして重い身体を引き摺って部屋を出て、八木邸に戻ると夕餉も食べずに床についた。山野が心配そうに声をかけてきたがどうにかあしらって眠りに落ちた。






174


疑ひの雲なき空や如月の 
その夕影にをりつる袖も 
紅ひ匂ふ梅の花笠 
在りとやここに鶯の 
鳴く音をり知る羽風に
はらりほろりと降るは 
涙か花か 
花を散らすは嵐の咎よ 
いや あだしのの鐘の声


ぱん、ぱん、と称賛する拍手が聞こえた。君菊は丁寧に頭を下げてそれにこたえる。
「ああ、素晴らしい」
感嘆のため息を漏らし、桝屋は上機嫌に拍手を繰り返してた。いつもより顔が緩み、酒がすすむのはおそらく久々に君菊を独占できた優越感なのだろう。君菊は穏やかにほほ笑むと銚子を持って桝屋の横に座る。
「桝屋はんがご病気やと聞いて、心配してましたえ」
既に空になっていた酒を注ぎ、君菊は桝屋の顔をうかがった。病気で伏せっているという話とは裏腹に、色つやのいい桝屋は少し目を逸らしつつ「大事ない」と答えた。
「天神の唄を聞いたら頗る調子がいい。こんなことならもっと通うべきだったなあ」
「桝屋はん、最近うちのとこ来てくれへんから、飽きられてしもうたんやないかて、思うてましたんえ」
甘えるように首を少し傾げる。桝屋は満足したように「そうかそうか」と君菊の肩を抱いた。
「そう言えば、相談というのは?」
久々の逢瀬は君菊が桝屋へ手紙を寄越したことに始まる。どうしてもお会いしてご相談したきことがある。そういう風に言付けると、桝屋は飛んで君菊の元へ来た。
「…桝屋はん、誰にも内緒で来てくれましたん?」
「もちろんだ。天神の手紙の通り足を運んだ」
誰にも、誰にも内緒で店へ来てほしい。美味しい御酒を用意してお待ちしております―――。
その甘い囁きは、君菊の思った通り桝屋の心に刺さったようだ。一安心して、用意された言葉を紡いだ。
「新撰組の土方せんせ…ご存じやろか?」
桝屋の顔が一瞬鋭くなった。それは町人が新撰組へ恐れを抱く感情とは違い、明らかな敵意だった。
「……天神の良い客だということは聞いているが…」
「いややわ。桝屋はんまでそん噂真に受けてはるん?」
「違うのか」
桝屋の問いかけに、君菊はため息をつき悲しげに答えた。
「新撰組ゆうたら、廓でようけお金落としてくれはるし、うちも逆らえんのどす。仕方なくお相手したことはあるんどすが…まさか、それがこないな噂になってしまうんやと思わず」
「そうか…そうだったのか…それは、気の毒な」
君菊の一言だけで桝屋はあっさりと誤解を正し、君菊の肩をさらに強く抱いた。
そんな桝屋を愚かしいとは思わない。しかしその素直さは君菊を少しだけ傷つける。
「へえ…そやのに、あちらさんは誤解されはって、うちを身請けするゆうて…」
目尻に涙を浮かばせ、君菊は桝屋に詰め寄った。桝屋も『身請け』という言葉に「なんだと!」と憤った。
「何という奴らだ!力添えになることがあれば何でも言ってくれ!」
「桝屋はん、無茶なことをしたらあかんえ。相手は新撰組や、殺されてしまう…!」
「元より相手は敵だ。返り討ちにして見せる!」
感情的になった桝屋がぽろり、と口を滑らせた。桝屋も「あっ」という顔をして、君菊から顔を逸らした。今彼は自分がただの商人ではないことを自ら露見したのだ。
普通の芸妓ならここであっさりと聞き流しただろう。しかし君菊は問い詰めた。
「……桝屋はん、やはり…尊攘派の…?」
「…聞かなかったことにしてくれ」
顔を背け続ける桝屋。迂闊なことをしてしまった自分を呪っているのだろう。しかし君菊は耳元で囁いた。
「いいえ、せやったらうちにも力になれますえ…」
「え?」
目尻の涙をぬぐい、驚いた顔をする桝屋に君菊は微笑んだ。そして甘く囁く。
「うち…土方せんせからいろんなこと、お聞きします。それを桝屋はんにお伝えしたら、桝屋はんの御報国のお力添えになれるんやないかしら…」
「しかしそれでは新撰組に目をつけられるぞ」
「新撰組の狼に身請けされるくらいやったら、死んだ方がましや」
きっぱりと言い切った君菊に、桝屋はごくん、と喉を鳴らせた。
「天神…本気か?」
「うち、嘘なんてついたことあらへん」
いつの間にか、こんなに嘘が上手くなった。いや…ここで生きていくことがそれ自体が嘘なのだから、罪悪感はない。
しかしそれももう終わり。
(うちは…もう、嘘を付きとうはない)
この世界から、解放されよう。


山崎が急に、桝屋を張ることを終える、と島田に告げた。島田としてはまだ桝屋から出てくる吉田の姿を確認できておらず、納得のいかない指示だった。
「山崎さん!あと少しで証拠が掴めるんですよ、今日は久々に桝屋が出かけて行ったし…あと少し!」
「副長の指示や」
「何とかならないんですか!」
食い下がる島田に、山崎はため息をついた。
「副長の指示やゆうてるやろ」
「でも!」
諦めの悪い部下に、山崎は仕方なく「信頼できる筋の者がおる」と告げた。
「せやから桝屋はもうええ。いまは宮部の足取りを掴むのが先決や」
「…っ」
悔しそうに顔を顰める島田に、山崎は用意していた衣類を渡した。
「物乞いのふりは終わりや。どこぞで死んだことにする。―――次は『鏑矢次郎』の忠僕や。いまよりましな形になるやろ」
「……」
島田は押し付けられた衣類を受け取る。ボロボロの今の着物とは違い、商人の小間使いというポジションは少しは清潔な着物に身を包むことができる。しかしそんな喜びは島田にはなかった。
「…山崎さん、信頼できる筋の者というのは…」
自分は嘘がつけない。気になることを、気にならないようにはできない。解決できない限り梃子でも動かない。そんな不器用な性格を知っているからこそ、島田は訊ねた。そしてそのことを監察の山崎が知らない訳がない。
「…ええ加減、気づいてるやろ」
苦々しく吐き捨てるように答えた山崎が、今までで一番鋭い顔になった。島田が怖気づくほどには、感情が込められていた。そして島田の思っている答えで、間違いないのだと確信した。
山崎の怒気を孕んだその感情の矛先は、きっと己なのだろう。
「山崎さんは…副長に似てますね」
「…どこがや」
山崎は不機嫌そうに返答した。
「俺には全く理解できないことを、きっと理解している。副長の指示の意図をいつも理解している。…愚鈍な俺には真似できない」
島田にとってそれは素直な称賛だった。嘲るわけでもなく、素直に己の愚かさと鈍さを恥じていた。
しかし山崎は、そこでようやく張りつめていた空気を和らげて、小さく笑った。
「理解なんかしてへんし、副長の真似事はできへん」
「でも」
「あないな真似…普通の人間なら、狂って死んでもおかしゅうない」
そう言うと山崎は背を向けた。既に『鏑矢次郎』として身を包んだ彼は、これからまた別人として振る舞うのだ。それこそ、真似できない芸当である。
(やはり…俺には無理だ)
島田は青く澄んだ空を見上げた。乞食は終わり、今からは商人の小間使い。そんな風に生きられるほど、器用な性格ではない。
「皆…どうしてるんだ…」
とんでもない場所に来てしまった。島田は今更そんなことを思った。


「愚かなことをしたようだ」
吉田は酒を煽りながら、宮部からの話を聞いた。彼の下僕である忠蔵が大坂で人を殺めたというのだ。忠蔵はいま贔屓の宿に隠しているらしい。
「大坂奉行所与力…か。なかなか度胸のある」
吉田はそう評したが「そんな悠長な!」と宮部が激怒した。その声は案外大きく響いた。
「ただの役人ならまだ良いものを…内山という男は新撰組に嫌われた人物だったらという話だ。巷では新撰組が内山を殺めたという話でもちきりだ!」
「宮部先生、お声が」
桝屋が周囲を警戒して制すると、宮部は「ぐっ」と言葉を飲み込み、「すまん」と謝った。
「新撰組が逆上して、血眼で忠蔵を探しているらしい…このままでは…」
動揺する宮部がぐっと拳を握りしめた。しかし吉田は構わず酒を注ぎつつ、あっさりと
「生贄に差し出せばいい」
と言った。その提案に宮部は言葉を詰まらせる。
「それは…」
注がれた酒を飲みつつ、宮部は黙り込んでしまった。しばし沈黙した後、吉田は冷たく言う。
「その男の為に新撰組が騒ぎ出すのは面倒だ。計画に邪魔になるような人間はいらない。そういう話だったはずだが」
「それはそうだが…彼は」
「『同志だ』…か」
吉田が先回りして指摘する。宮部は目を逸らした。
『同志』
その言葉を何よりも嫌う吉田に、「そのとおりだ」とは言えなかったのだろう。
また部屋には沈黙が訪れた。するとそれまで黙っていた桝屋が
「宮部先生。私がお力添えしましょう」
と提案した。
「力添え…とは」
「良い考えがあります」
蝋燭ひとつ照らされた部屋で、桝屋が微笑んだ。その様子を吉田が横目で見た。






175


元治元年五月下旬。
「また外れたっ!」
屯所に戻るや否や、原田が喚きながら戻ってきた。一緒に巡察へ向かった永倉が宥めていたものの、彼の感情は収まらないようだ。
「どうしたんです?」
稽古終わりの総司と斉藤が彼らを出迎えた。初夏の日差しの元での稽古は思ったよりも体力を消耗させたので、稽古は早めに終わることになった。しかしそれ以上に疲労して戻ってきたのは彼らの方だった。
「今日も外れだぜ?!監察からのタレこみ通り踏み込んだのに空振り!監察の情報が間違ってんじゃねぇのか?」
どすっと縁側に腰を掛け原田が文句を言う。年下であるはずの永倉は苦笑した。
「そう言うな、昨日だって藤堂が情報通りに踏み込んで外れだったんだ。相手の方が一枚上手ということなんだろう」
特に怒る様子もない永倉は、庭の井戸から水をくみ上げる。そして桶ごと被る様に水を飲んだ。
ここの所、新撰組が重点的に捜索しているのは、宮部鼎三の下僕・忠蔵である。大坂奉行所与力・内山彦次郎殺害の容疑と長州へ下ったはずの宮部鼎三の行方を知る手がかりとして血眼になって居場所を探している。監察方によってリークされる情報をもとに探し出しているものの、しかしその姿は全く捕えられていない。既に京にはいないのではないかという話さえある。
先日大坂へ下った一件で、相当根に持っているらしい原田は憮然として言い放った。
「それにしてもここまで当てが外れると、俺たちが阿保みてぇじゃねえかよ」
「まあでも、別に賢いわけじゃないですけどね」
「総司、俺はそういうことをいいたいんじゃねえんだよ!」
熱くなる原田を宥めようと、話を逸らそうとしたものの、失敗したようだ。
「しかしそうだとすれば、奇妙なのは副長だよなあ」
永倉が手拭いでその広い背中を拭きながら呟いた。
「妙って?」
「こういう失敗ばかり続いて、黙っている副長でもないだろうに。さっきも報告に行ってきたけど涼しい顔で『そうか』の一言だけ。何か企んでいるのか…」
変だよなあと永倉は首を傾げる。原田は「腹でも壊してんじゃねえの?」と呑気なことを言って意にも解さないようだった。

「考えすぎるなよ」
夕暮れになって、今度は総司と斉藤が巡察の当番となった。部屋を出ようとしたところで斉藤に引き留められ、その一言を告げられた。
「…はは。斉藤さんって、占い師か何かなんですか?」
総司は誤魔化そうとしたものの、斉藤は厳しい目で総司を見ていた。
永倉が言っていた通り、土方には何か考えがあるのだろう。監察の情報を操作できる立場なのだから、それを駆使して何か企んでいてもおかしくはない。けれど、そうすればそうするほど土方が遠くに行ってしまうようで。
追いかけていきたいのに、立ち止まっているように命令されて、動けなくて…もどかしい。
「…最近、自分の気持ちがよくわからないんですよね」
ぽつりと漏らしたのは、本音だった。
「当たり前に信じていると思っている人なのに…今は、信じよう、信じようって言い聞かせるばっかりで…足元が、ぐらついて」
「…」
「言葉を交わしても…まるで言葉が通じないみたいです」
微笑んで見せたものの、きっと斉藤にはそれが微笑んでは見えないだろう。
斉藤は「ふう」と息を吐くと、浅黄色の羽織に腕を通した。無骨で無表情な彼にはその鮮やかな色は似合わないと思っていたが、一年もすればもう慣れた。
「それでも、言葉を吐かなければ何も通じない」
短く強く伝えられたメッセージ。
くどくどと無駄なおしゃべりをしない彼が話す言葉は、いつも的確で飾りが無い。そしてそれでいて、胸を突き刺す。
「そう…ですね」
怖がらなくていい。怯えなくていい。伝えたい相手は、新撰組の鬼副長ではない。今までずっと一緒にいた兄弟子なのだから。
「そうします」
総司の返答に斉藤は何も答えなかった。背中を向けて足早に八木邸から出ていき隊士と合流する。
初夏の日差しが隠れ、夜は涼しい風が吹いている。



山南が久々に訪れた島原の町は、相変わらずの活気にあふれていた。橙色の明かりがあちこちで灯され、どこからともなく三味線の音と男たちの喝采が聞こえてくる。
しかしこの場にいる山南はと言えば、とてもそんな気分になれず眩い光から目を逸らして歩いていた。
重い足を引き摺って島原へやってきたのは、また明里から手紙が届いたからだ。体調を崩しているということをどこからともなく聞きつけたらしく、それを心配する内容だった。しかし山南自身に病はない。体の不調もない。あるのは精神的な憂鬱さだけだ。だが、いつまでも心配を掛けるわけにはいかない、と山南は己を奮い立たせてやってきた。
(土方くんには余計な手出しをするなと言われたが…)
また胃がきりっと痛んだ。
君菊が間者として情報源になっていると知ったものの、それを止めることができなかった。彼女が了承したというのならなおのことだ。そこに様々な思いが介在しているとしりながら、下足で踏み込むような真似はできないと思っていた。しかしそれは明里への不義理だ。彼女の純粋な君菊への信愛を任されたというのに、何もできないというのは後ろめたく、心苦しくて足が遠ざかっていた。
「山南せんせ!」
急に視界の端に、禿の姿が飛び込んできて「わ!」と山南は驚いた。可憐な着物に身を包み、少しだけ背伸びしたような化粧を施す少女は、明里の禿に違いない。
「お久しぶりどす。明里姐さん、ずっと待ってましたんえ!」
「あ、ああ…すまない。忙しくて」
「こっちこっち!」
禿は山南の言い訳を聞く様子はない。振りほどけない力ではなかったが、少女に手を引かれるままに店に向かった。

「山南せんせ!」
明里は大喜びで山南を出迎えた。それがまた山南には心苦しい。
「ずっと、お待ち申し上げておりましたんえ。何度もお手紙差し上げて…はしたないとは思うたのやけど…」
山南を探す彼女の手を取った。すると彼女は安堵したように微笑んだが、すぐに眉間に皺を寄せた。
「せやけど…まだ体調が優れまへんか…?」
「…わかるのかい?」
「へえ、何となく」
人より機敏な彼女に嘘はつけない。
「すまない。君に頼まれていた君菊さんのことだが…」
何もできなかった。何も出来そうもない。無力な自分を許してほしい…山南はそう言いかけたのだが
「おおきに、山南せんせ」
と明里は山南に寄り添った。
「何が…」
「まだ内緒のお話なんやけど…君菊姐さん、土方せんせに身請けしてもらうって」
「え?」
山南が驚くと、「まだ内緒やったかしら」と明里が戸惑った。
「君菊さんを身請けって…土方君が、そんなことを…?」
「へえ。店の女将さんがゆうてはりました」
明里は嬉しそうに笑った。君菊とは最も親しい間柄の彼女からすればおめでたい話なのだろう。
しかし山南は素直に喜ぶことができなかった。
(…もしや、土方君は間者として役目を果たす代償として…?だが、彼は沖田君のことを…)
まとまらない思考に頭がぐらぐらする。胃はキリキリ痛み、身体のなかが暴走する。
「山南せんせのお蔭どす。どんな魔法を使わらはったん?」
「あ、ああ…いや、私はなにも…していないよ」
山南は必死にほほ笑んだ。声まで明るく装って、彼女に心配を掛けないように、悟られてしまわないように。
(…これが、土方君が彼女にできる…最高の贖罪なのだろうか)
「…山南せんせ?」
寄り添っていた明里が心配そうに顔を覗き込んできた。彼女は何も見えていない。しかしその視点は偶然にも山南に合った。
何も映していないはずの目に、問い詰められるかのようだ。
「う…っ」
「せんせ?」
「す、すまない…少し横になってもいいかい」
「へえ…お医者呼んで…」
「いや、いいんだ」
慌てる明里の手を取った。
「…君が、傍にいてくれ」
「山南せんせ…」
傍にあった座布団を折り枕代わりとし、山南は横になる。明里は山南の手を離さずに傍らにいた。
「せんせ」
「……なんだい」
明里は微笑んだ。
「うちは…蚊帳の外やから、何にもわからしまへん。ただ誰かが嬉しそうとか悲しそうとか…それだけしか、わからしまへん」
彼女は穏やかに卑下することなく語りかける。
「せやからわかる…山南せんせ、悩んではる。悲しんではる。…うちのために、君菊姐さんの為に…おおきに、堪忍…」
謝ることなど何もない。何もないのに。
もっと強くならなければならない。身体が痛むのは弱いからだ。怖いからだ、怖がっているからだ。
「すまない…」
山南が謝る先は、明里か君菊か…それとも土方か。山南自身にも、わからなかった。





176


夏の日差しは夜になればその姿を潜めるものの、その余韻はべたべたと張り付いて離れない。もう夏が近いのか、と当たり前のことを思いながら、吉田は酒で喉を潤した。桝屋に潜んで長くなるが、そろそろ飽きてきたところだ。いや、痺れを切らしてきた頃…というのが正しいのかもしれない。
「もう少しです…あと少し」
励ますように言う桝屋が、上機嫌に酒を飲み続けていた。店の者には病気だと伝えているらしいが、本人は至って元気だ。それもそのはず、彼は病気などではない。吉田はこの男にこの『計画』の最終準備を進めさせている。
「武器・弾薬…人手。十分に揃っています。ただ、尊王攘夷の大きな花火を上げるために…あと少しだけ、足りない」
『計画』の実現に向けて日に日に興奮する桝屋は、かなり浮足立っている。普段は遠慮がちに飲む酒も今日は止まらない様子だ。
(いや…それが、『普通』か)
吉田は傍に侍る青年に酒を注がせた。
尊王攘夷と周りの者が口々に言い始めたのは一体いつからだっただろうか。まるで呪文のように広まっていったその言葉は、やがて革命を起こすための道しるべとなった。そしてまた、言葉は力ない者たちの鬱憤を晴らすための言い訳ともなったように、吉田は思う。脱藩するための理由、世間から反目するための理由、誰かを殺すための理由。
やがて尊王攘夷という言葉は飾りでしかなくなった。少なくとも吉田にとってはそうだ。
『君のやり方は少々頭が悪い』
不意にあの男の言葉がよみがえり、「ちっ」と吉田は舌打ちをした。
この『計画』を知った時、あの男は笑った。派手好きの男だ、てっきり乗ってくるのかと思いきや、彼は『頭が悪いやり方だ』と一刀両断した。そんなことをしたって何も変わらない。そんなことをしたってどうにもならない。お前はただ頭に据えられて殺されるだけだ。無駄な命の使い方だ―――と。
あの男の言葉、声、嘲笑…すべてを覚えている。そしてその瞬間、この『頭の悪いやり方』に命を賭けてやる、と決めた。
たとえ担がれた神輿であったとしても、この命を捨てることになったとしても…お前が笑い飛ばす『愚かな』計画に乗ってやる。お前は笑っていればいい、馬鹿にしていればいい。だが、一生抜けない棘のように、記憶に刻みつけてやる。死ぬまで、棲みついてやる…。
『君は虚勢を張っていて、その実、怖がりだよね』
その言葉を否定する。その為にここまできた。『計画』が成功するか、失敗するか…そんなことはどうでもいい。
(ただ…俺は、見たい)
あの男が、余裕ぶって、遥か高みから見下ろしているような男が、一瞬でも、驚く様をこの目で見たい。
「…ガキくせぇ…」
くくっと吉田は笑った。聞こえていなかったらしい桝屋は「何か?」と怪訝な顔をしたが、吉田はもちろん答えなかった。
「宮部先生!もっと飲んでくださいよ」
吉田を気にする様子もなく、桝屋はもう一人の客人である宮部に酒を注いだ。宮部は遠慮がちに受け取りつつも
「いやあ、もう結構。…桝屋さんには忠蔵のことでは迷惑をおかけしてます」
とやや恐縮したように桝屋に頭を下げた。
宮部の下僕である忠蔵は宿を点々としつつ、新撰組から逃れているらしい。その情報は桝屋から得ているらしく、宮部も頭が上がらないようだ。
「そんないいネタ…どこから仕入れてるんだ」
酒を煽りつつ吉田が訊ねると、「いやあそれはちょっと」と桝屋は言葉を濁した。桝屋には桝屋のパイプがある。桝屋の養子に入ってから築いてきたそれを頼りに、ここまで計画は進んできた。だから吉田も無理に問い詰めるようなことはしない。
(…だが、少し妙だ)
新撰組を始め、都では京都見廻組も設置され、その監視の目は日に日に厳しくなっている。そんな中で逐一新撰組の情報を得るのは至難の業であり、えようと思えば新撰組に間者を潜入させるくらいしかできないが、昨年大きな粛清がありそれも厳しくなったと話には聞いている。
(まあ…いい)
吉田は思考をやめ、青年の目の前に猪口を出した。すると何も言わずとも青年は酒を注ぐ。
「…もうすぐ祇園祭りか」
満杯に注がれた酒を口元へ運ぶ。もう味はわからない。酔うこともない。ただ、水のように潤すだけの役目になった。


総司は土方へ巡察の報告にやってきたのだが、ちょうど席を外していたようでその姿はない。ならばと隣の部屋を訪ねると、思っていた通り近藤が居た。
「近藤先生」
「ああ、総司」
近藤は丁度愛刀の手入れをしていたようだ。総司の姿を見るや、「こっちにおいで」と言わんばかりに近藤は手招きする。その姿は血は繋がっていないはずなのに近藤の義父の周斎に似ていて、総司は遠慮なく部屋に入った。
「歳の所か?」
「はい。今日も今日とて敵にうまく巻かれて、捕り損なったっていう報告です。でもいなくて」
「前までは部屋に引き籠っていたくせに、最近は時々出掛けているようだな」
近藤も土方の行動は把握していないようだ。総司はしばらく土方を待たせてもらうことにした。
「一人で出歩くなって隊士にはお触れを出しているくせに、自分は悠々とお出かけなんですね。新撰組で一番恨みを買っているのは土方さんに違いないのに」
総司が拗ねると、近藤は「はははっ」とその大きな口で笑った。
「まあ気分転換だろう。許してやれ」
師匠にそう言われては、総司はもう何も言えなかった。
「きっと俺たちが思う以上に、歳はいろんなことを考えているんだろう」
近藤は同情を込めて穏やかにそう言いつつ、愛刀『虎徹』を磨いていた。総司との『刀の盟約』の証は、いまだその姿を変えず近藤を守り続けてくれている。
「…土方さんは、何を守ってるんでしょうね」
その『虎徹』を眺めながら、総司はぽつりとつぶやいた。
「ん?」
「土方さんにとって新撰組は…まるで夢の結晶だけれども、同時に土方さんを苦しめているような気がします」
近藤の部屋から青空が見える。突き抜けるように青い空は、こんな時だけはより遠くにあるように見える。手を伸ばしても届くわけがないと知りながら、それでも手が届きそうだと思っていたのに。
そんな風に空を仰ぐ総司に、近藤は尚も穏やかに「ははは」と笑った。
「総司らしくないな」
「らしくない?」
総司は空から近藤へ視線を戻す。
「考えすぎだ。歳はもっと単純だよ」
「単純…?」
「そうだな…順番で言うと、一番は総司、二番は新撰組、三番は自分というところか」
鈍感だな、と近藤が笑う。その言葉を理解した途端、総司は何やら顔が熱くなるのを感じた。
「こ、近藤先生…」
「その順番に従って歳は物事を熟してる。だから安心したらいい」
ふわふわと浮足立つ気持ちが、師匠のその言葉で地に足が着く。近藤の言葉にはいつもそんな魔力がある。
「…近藤先生はやっぱりすごいです」
「すごい?そうか?」
近藤は頭を掻いた。しかし総司は首を横に振った。
「でも一つ違うと思います」
「ん?」
「一番大切なのは…たぶん近藤先生です。もし近藤先生が居なくなってしまったら、土方さんは生き続けることをしないと思います」
唯一無二の親友と、恋は、きっと並び立たない。どちらが大切で、どちらがそうではないかという単純な話ではない。総司がそうであるように、土方にとっても守るべき、使えるべき主君が居なければ生きる意味なんてない。
「それは…困るな」
しかし近藤は顔を顰めた。
「そう思っているのなら、俺は歳を叱る。総司、お前も同じなら一緒に叱ってやる」
「でも…」
「もし俺が死んだら、新撰組はどうするんだ」
「それは…その…」
近藤が問い詰め、総司は口ごもった。新撰組は近藤にとって生きてきた証。勝ち取ってきた恩賞。そして大切な場所。それをわかっていて新撰組を放棄することは、結果として近藤への不義理になるのだということを近藤が言いたいのだろう。
言葉を紡げない総司を見計らって、近藤がふっと緊張を解いた。
「もうやめておこう。こんな話は何の意味もないな」
「…そうですね」
総司も微笑んだ。
誰かが居なくなる、死んでしまう――そんな不毛な話をするような性格でもない。近藤が最初に言った『らしくない』という言葉が蘇り、全くその通りな自分に苦笑した。やはりどこかで心が弱くなっているのだろう。そんなことにも気づくことができた。
「……おや」
近藤が『虎徹』を磨く手を止めた。
不意に部屋が静寂に包まれると、遠くから音が聞こえた。子供たちがはしゃぐ声、そして笛の音、太鼓の音、リズムの良い金属が重なる音――。
「祇園祭の練習ですかね」
「ああ…もうそんな時期だな」
江戸から上洛して一年半ほど。まだまだ京の暮らしでは新参者だが、この音を聞くと心が躍るという京人の気持ちは少しだけわかる気がする。
「落ち着いたら三人で見物に行こう」
そう言って近藤が微笑んだ。三人。きっと近藤と、総司と、土方だ。試衛館の懐かしい日々が脳裏をよぎった。
「…はい」
早くその日が来ればいい。
総司はそう願いながら、耳を澄ませて心地の良い音色を探した。




177


ここの所、機嫌の良い桝屋は、立て続けに廓へ足を運んでいた。
「天神のおかげだ」
顔が緩みきった桝屋は、君菊の手に自分のそれを重ねた。君菊ももう片方の手を添える。
「うちは何にも。桝屋はんの御報国の役に立てるなら、うちは何でもしますえ」
彼の耳元に唇を添わせ、甘く囁く。彼が段々自分の虜になるのがわかる。それは君菊の驕りではなく、誰から見ても明らかだろう。
実際、君菊が齎す情報で、宮部の下僕・忠蔵はうまく逃げ回っているらしい。もちろん新撰組の監察からの情報なので間違いはない。宮部からも感謝されるようで桝屋は終始上機嫌だ。しかしこれでは君菊が桝屋に取り入る意味がない。
「…ねえ、桝屋はん。桝屋はんは大店の御主人やゆうお話やったけど…」
「尽忠報国の志に武士も商人もないんだよ!」
胸を張る桝屋は猪口を君菊に差し出した。
「へえ…せやけど、宮部はんゆうたら有名なお方やろう?うちでも知ってる。それで桝屋はんとはどういう…?」
「知りたいか?」
君菊は桝屋が差し出した猪口に、酒を注ぐ手を止めた。そしてゆっくりと彼の手を取り
「うちは手の内ぜぇんぶ晒しましたえ。今度は桝屋はんの番」
茶化して微笑み、その距離を縮める。その触れ合う感触に、悪い気がする男はいないはずだ。案の定、桝屋はその頬を一層赤らめその口角を上げた。
「誰にも内緒だ…」
そう言うと、もつれ込むように桝屋が君菊を押し倒した。酒が零れ、猪口がひっくり返るが、桝屋は構いもしない。
上から見下ろすように君菊を見た。
「俺の本当の名前は…」
桝屋は何の疑いもなく、口にした。


山崎にしては珍しく息を切らして土方の部屋にやってきた。そうはいっても厳戒態勢を敷いているはずの屯所に忍び込むのだから、彼はまさに監察向きと言えるだろう。
「どうした」
いつもの合図で山崎を部屋に招き入れる。もう床についていた土方だが、部屋の蝋燭に火を灯し彼を出迎えた。
「桝屋が吐きました」
山崎が端的に述べたその事実で、土方は自分の中にめぐる血が一気に沸騰する気がした。
「何を吐いた」
「はい。桝屋喜右衛門は桝屋に養子に入ったための俗称であり、実名は古高俊太郎であると」
「古高俊太郎…?」
特に聞き覚えのある名前ではない。しかし山崎の表情は切迫していた。
「急ぎ監察全員に調べさせたところ…もともとは山科毘沙門堂家来を名乗り、有栖川宮とも親交があったようです」
「貴族とつながりがあるというのか!」
思わぬ情報に土方は声を上げた。俄かに信じられる話ではないが、山崎が深くうなずくのだから調べ上げた結果なのだろう。
「おそらくは、長州と朝廷を繋ぐ役目も果たしていたんやないかと思います。それに桝屋は筑前黒田家の御用達やから、大名家とも連携が取れます」
「…はっ。ただの連絡役と思っていたが、むしろ奴らの根城だったというわけか…!」
土方は吐き捨てた。桝屋…こと古高は、これまで物語の端役に過ぎなかった。だからこそ土方にとって吉田稔麿を匿う攘夷活動の信奉者としての認識しかなかったものの、その彼こそが鍵だった。それに気が付けば、これまで見過ごしてきた事の方が悔やまれるが、後悔しても仕方ない。
「その根城である桝屋には近頃ようけ荷物が届いてます。表向きは商売道具やとゆうているようですが…幕府に反旗を翻すための計画を練っているのかもしれません」
「どちらにしても古高を叩けば何か吐くだろう」
土方は自分の表情が強張るのを感じた。手に力が入り、動悸が激しくなる。そして自分が興奮しているのだと分かる。
「山崎、宮部の下僕は用済みだ、明日にでも捕縛させる旨を監察に伝えておけ。古高の捕縛はそのあとだ」
「はい」
「良くやった」
土方がこんな言葉を投げかけるのは初めてかもしれない。誰かを褒めたり、喜ばせたりするのが苦手であるという自覚はあったし、それは局長である近藤の役目だと思っていた。しかし彼らの地道な諜報活動と入念な下調べに何度も助けられてきて、今この情報が得られている。山崎を労うのは土方の自然な感情だった。
しかし、山崎は少し驚いた顔をしつつも、首を横に振った。
「俺なんかはなにも。皆さんが街へ繰り出して斬りあいをすることと、俺たちの活動はなんや変わらしまへん」
「謙遜するな。素直に受け取っておけ」
「全部、天神のおかげやと思います」
良くやった、と。確かにこの言葉は、まさに命を懸けた彼女に捧ぐべき言葉なのかもしれない。
「君菊のことも頼む」
ここまでの情報を得ることができたら、君菊は十分に役目を果たしたと言える。宮部の下僕が捕縛されれば、古高は君菊を疑うだろう。報復の矛先が彼女に向かう前に、先に手を打つ必要がある。すると山崎も同じことを考えていたようだ。
「何らかの言い訳をつけて、知り合いの信用できる人間に預けます。金を積めばしばらくは姿を眩ませることも可能やないかと」
いずれは身請けする、その前金を払えば店の者は満足するだろう。土方もそれでいい、と頷いた。
「しばらくは信用できる者のみにこの情報を流す。お前も臨機応変に動いてくれ」
「はい」
臨機応変、という曖昧な指示に、山崎は戸惑うことなく頷いた。やはり信用できる男だ、と土方は再確認したのだった。


冷め止まぬ興奮を抑えつつどうにか朝を迎えた。土方の眼は重かったが、しかしその頭は冴えきっていた。
「何だか楽しそうだなあ」
朝陽を浴びながら縁側に腰掛けつつ思案を巡らしていると、今起きてきたらしい近藤が挨拶を差し置いて笑っていた。確かにいつもよりも清々しい朝を迎えた自覚はあったので、いつもなら「そんなことない」と誤魔化すものの、今日の土方は否定しなかった。
「昨日は山崎君が来ていたようだな」
夜遅くの来訪だったが、近藤はちゃんと気が付いていたようだ。土方は頷いて「後で詳しく話す」と答えた。その返答に近藤は安堵した風に頷き返した。
「話してくれるなら、良い話なんだろうな」
近藤が「よっと」と言いながら土方の隣に腰掛けた。
これまで近藤には概要を伝えるだけで、事細かに説明することはなかった。そうしたところで近藤に余計な負担を負わせるだけだとわかっていたし、その必要はないと思っていたからだ。近藤も物わかり良く「わかった」と言ってくれていたものの、本心では話してほしいと思っていたのだろう。その顔は満面の笑みだった。
「良い…か。どうだろうな。ただ、久々に滾るような話だ」
「滾るか!」
何が面白いのか、さらに近藤が大声で笑った。らしくない言葉を使ってしまった、と土方は気づき「うるせえ」と目を逸らした。この照れ隠しは近藤へは通じないことはわかっていたけれど。
「ははは…何だか懐かしいなあ」
「懐かしい?」
「昔から悪巧みをするのは得意だっただろう」
「ガキの頃の話かよ」
土方が呆れて近藤を見るものの、近藤は構うことはしない。ツボにはまってしまったのか、しばらく笑い続けた。そしてようやく落ち着いたのか「ふう」と息を吐き、
「歳。総司にもちゃんと話してやれよ」
「……」
と諭すように近藤が言う。しかし土方は口を噤んだ。
君菊のことを話すには土方には躊躇いがあった。そして総司には嘘を付きたくないという気持ちも強かった。だからこそ、嘘を付くくらいなら何も話さない方がマシだと思い一切何も話さず、大坂へやったり突き放すような真似もした。総司は懸命に「話してほしい」と言ったのに、それを無視してここまでやってきたのは、総司に罵られるのが怖かったからだ。君菊の気持ちを総司は知っている。そしてその彼女を間者として遣ったと言えば、総司がなんというか。それを考えることさえ、土方には恐ろしかった。
(…情けねえ)
そしてその気持ちはいまだに土方の中にある。
「歳。お前も考えすぎだ」
「…かっちゃん」
近藤は微笑んでいた。
「総司と何年一緒にいるんだ。お前が総司のことを何でも知っているように…総司だって、お前のことをちゃんとわかってるよ」
馬鹿だなあと、近藤が呑気に笑う。
「君菊さんのことにしたって最初は戸惑うかもしれないが…大丈夫だと、俺は思う」
「…根拠は?」
土方の意地悪な返答に、近藤は
「ない」
と即答する。土方は思わず吹き出していた。





178


息を切らして男が走る。それを数名の隊士で追いかけ続ける。まるで地鳴りのように響く足音。永遠に続くかのような鬼ごっこに、男は絶望するがその足を止めれば闇に葬られることはもちろんわかっていた。だから逃げ続けるしかない。
「はぁ…っ、はぁ…!はあ!」
今日は別の場所に移るように指示を受けた。闇夜に紛れてこっそりと忍び足で向かったのに、目的の場所には新撰組が待ち構えていた。
「くそぉぉぉ!」
男は叫ぶ。しかし次第に限界はやってきて、切らした息はその速度を速め、反比例して足は棒のようになり動かなくなってしまう。最初は離れていた距離もだんだんと近くなり、追手の息遣いも聞こえてくるほど追いつめられた。その足音が近くなればなるほど、男の冷や汗は増していった。
「待ちやがれ!」
追手の声が明瞭に聞こえる。このままでは追い付かれてしまう、と思い男は方向を変え、小道に入った。道順は把握している。巻くことができれば逃げ切れる。
しかしそれが男にとっての運の尽きだった。
「あっ!」
男はその足を止めるしかなくなる。先回りしていたらしい隊士が男を待ち構えていたのだ。後ろには追いかけてきていた隊士たち。挟み撃ちとなる。
「観念しろっ!」
一番威勢のいい隊士が刀を振り上げた。もう終わりだ、ここまで逃げ続けたのに、あと少しで果たされるはずなのに。
「宮部先生ぇぇっ!」
先生に見限られたということなのだろうか。
それが男の最後の言葉となった。

永倉が苦い顔をしていた。腕を組み憮然と佇む。
「捕縛しろという話だっただろう」
「いやぁ、つい?」
頭を掻きつつ原田が懐紙で刀を拭った。夜・巡察に出る前に宮部の下僕・忠蔵の目撃情報が入った。今度こそは、と息巻いて永倉・原田の組下が向かうとようやくその姿を見つけることはできた。そのまま大捕り物となったわけだが、これまで逃がし続けたことがよっぽど原田に鬱憤を溜まらせていたらしい。捕縛命令を無視し、忠蔵を斬ってしまった。しかし反省する様子のない原田の邪気な笑顔に、永倉はため息をついた。
「…まあいいか。ここ数日外れくじばかりだったし、土方さんも許してくれるだろう」
「じゃあそういうことで」
原田は軽い口調で言うと、永倉の肩を叩く。飄々としたその姿にやはり確信犯だったようだ、と永倉は思ったものの指摘はしなかった。煮え汁を飲まされてきたのは永倉も同じだからだ。
ここ数日、監察から寄せられた情報でどれも肩透かしを食らい、隊士たちの士気を削いでいた。実態の知れない監察への批判も出てきた頃合いに無事に斬ることができ、永倉はどちらかと言えば安堵する気持ちがある。
「おい。その死体どうするつもりだ」
「どうって、こうするんだよ」
原田はその刀を一閃させた。永倉はやれやれ、と原田を止めることなくもう一度ため息をついた。
逃げられ続けていた宮部鼎蔵の下僕・忠蔵は南禅寺塔頭天授庵の肥後宿舎に入るところで新撰組に捕縛。その首を晒すこととなったのだ。元治元年六月一日のことである。


八木邸に珍しい客人が訪れた。
「総司、いるか」
ずかずかと遠慮もなくやってきたのは土方だった。いつも部屋に来い、と呼び出しを受けることあるものの、土方がわざわざやってくるのは珍しいことだったので、総司とそして同室の斉藤は驚いた。最も斉藤は表情には出ないのだが、その手を止めていた。
「ど、どうしたんです?」
「話がある。来い」
部屋にやってきて、土方はそれだけ言うと踵を返した。どうやらついてこいということらしい。
「もう、自分勝手だなあ」
総司は腰を上げ、刀を帯びた。今日の昼は稽古の番だが副長命令なら仕方ない。
「斉藤さん、お願いします」
斉藤にはそれだけで通じたようで、無表情で頷いた。
部屋を出て総司は土方の背中を追いかける。ちっとも待ってくれる様子もない土方は、腕を組み大きな足音を立てて歩いていく。総司は小走りをして、ようやく八木邸の玄関で追いついた。
「どこへ行くんです?」
「遠くにはいかねえ。ただ人気のない場所が良い」
どうやら内密の話があるようだ。不穏な空気を感じつつも総司は「わかりました」と返答した。
「だったらすぐ近くの壬生寺で良いですよ。この時間なら子供たちもまだ集まっていないでしょうから」
まだ子供たちは手習いの時間のはずだ。そして昼餉を食べてから近所の子供たちは壬生寺に集まり、総司に遊んでくれとせがむのだ。
そして、総司と土方は壬生寺に向かった。案の定人影はなく、参拝客もいない。最近は新撰組を疎ましく思い訪ねてくる者が減ったらしい。お蔭で稽古の場所として使えるので、新撰組としては助かっているのだが、寺からすれば良い迷惑だろう。
「そういえば、昨夜は原田さんたちがお手柄だったようですね」
壬生寺に到着しても何も話そうとしない土方に、総司が話を振った。
「…お手柄はお手柄だがやりすぎだ。無駄に尊攘派を挑発しちまったじゃねえか」
「仕方ないですよ。原田さんここの所、不運続きでしたからね」
土方はため息をつき、総司は苦笑した。その報告を聞いたとき、総司は不謹慎ながらあまりの原田らしさに笑ってしまったのだ。
「それで、土方さんの話っていうのは、それに関係することなんですか?」
総司の投げかけで、土方はようやく足を止めた。夏の日差しが照りつける中、木陰になる少し涼しい場所だ。周囲からも死角になるのでちょうどいい。
「…お前だって、少しくらい気が付いてるだろ」
「いえ…まあ、これまで宮部の下僕を取り逃がし続けたのは、土方さんらしくないなあって思いますけど」
総司の返答に土方はふっと笑った。「だったら上出来だ」と彼が珍しく称賛する。
「お前の思っている通りだ。ここ数日はわざと宮部の下僕を見逃し続ける情報を流していた」
「何の為です?」
「餌だ」
日差しを避ける大木に、土方が背中を置いた。腕を組み、体重を預ける形になる。
「おかげでわかったことがある。ここ数か月追い続けていた桝屋喜右衛門…本名は古高俊太郎。奴がすべてを繋いでいた」
「…繋ぐ?」
「元々桝屋は諸藩の御用達。古高はその人脈で朝廷や長州との間を取り持っているらしい。尊攘派の大物を屋敷に匿っているのも確認が取れている」
土方が語った情報は総司が初めて耳にするものばかりだった。おそらく一部の監察くらいしか知らない情報なのだろう。それを話してくれるということは、昨日の宮部の下僕の一件で何らかの区切りがついたということだ。
「近々、桝屋を捕縛する。そうすればもっとわかるはずだ」
「……」
そこで土方の話は終わったようだ。土方は黙り込む。
端的な物言いだったが、その情報を得るためにこれまで水面下で動いてきたのだろう。短い言葉に詰め込まれた情報は濃いものだった。
(…だけど)
まだ話は終わっていない。土方の表情が冴えない。
「…土方さん。いま、教えてくれた話は…私だけに伝える内容じゃないですよね」
「…」
土方は眉間に皺を寄せたが、総司は言葉を紡いだ。
「いずれ皆に話す内容でしょう。だったら、ここにわざわざ呼び出す意味がないですよね」
斉藤の言葉が脳裏をよぎった。
『それでも、言葉を吐かなければ何も通じない』
目の前にいるのは新撰組の鬼副長だ。しかし、試衛館でずっと一緒に暮らしてきた兄弟子でもある。そして、誰よりも理解したいと願う相手だ。怖がることはない。言葉を紡げばいい。通じるはずなのだから。
「教えてください」
総司は強いまなざしで土方を見た。土方は目を逸らしたけれど、総司は逸らさなかった。
さらさらと風が靡く。
その静寂は酷く長く感じた。
しかし総司は土方を待った。話してくれるまでこの目を逸らしたりはしない。
その総司の決意はどうやら土方に伝わったらしい。重い口を開いた。
「…古高を叩けば埃が出る。尊攘派にとって古高を捕縛されることが一番の憂慮事項のはずだ。だから古高は桝屋としてその名前をひた隠しにしてきた」
土方が総司と視線を合わせた。
その瞳に迷いはない。話してくれるのだ、と総司は直感した。
「だが、俺たちはその情報を得ることができた。何故だと思う」
「……」
「俺はある女を間者に仕立てて、桝屋及び尊攘派の動向を探るように命じた」
「ある、女…?」
答えを聞く前に、彼女の顔が浮かんだ。まさかと思った丁度その時に
「君菊だ」
と、その名前を告げられた。




179


流れる風が、ついこの間までは冷たいと思っていたのに、もう包み込むように暖かかくなっていた。風が身体をすり抜けて流れていく。
「そう…でしたか」
しばらくの沈黙の後に、総司はそう答えた。
「…怒らないのか」
そのあまりにも冷静な様子に思わず土方の方が問い返してしまう。もっと取り乱して、怒って、責められるものとばかり思っていた。しかし当の総司は首を傾げつつ「何でですか?」と逆に問うてきた。
「なんでって…お前…」
今度言葉に詰まったのは土方の方だった。
君菊を間者にしてから、色々な言い訳を考えていた。副長として新撰組の為にできる最善の案だと言い張り、総司にとって非道な悪者になっても仕方ないと思っていた。そして嫌われたとしても、疎まれたとしても…文句は言えない、そこまで追い詰めていた。
「だって、きっと君菊さんは喜んで引き受けたでしょう。だったらとやかく言うことは私にはできないですよ」
しかしあっさりと総司はその事実を受け入れた。土方としては安堵したような拍子抜けしたような…そんな気分になる。さらに総司は微笑んだ。
「それにしてもかっこいいなあ…」
「かっこいい?」
「だって、君菊さん、おなごなのに、命を張ってまで土方さんに尽くしてるんですよね。たった一人で…それにこんなに大手柄を挙げて…本当、羨ましいなあ」
総司は無理する様子もなく自然に称賛していた。土方が想像していたのとは違う総司の反応に、土方の方が戸惑う。その戸惑いに気が付いたのか、今度は総司が言葉をつづけた。
「そう言えば、土方さんには君菊さんと出逢った時の話をしてなかったですよね」
「あ、ああ…」
「最初は君菊さん、川に入って自害しようとしていて…それを止めたのが知り合ったきっかけです」
総司は言い淀むことなく告げたが、思いもよらない君菊の行動に土方は顔を顰めた。そして、そう言えば喧嘩して逃げ出した総司が、水濡れで川に佇んでいたことを思い出した。おそらくその時の話なのだろう。
「身請けを約束した旦那さんに逃げられて、置いて行かれたって言ってました。命を懸けてまで愛した人に、逃げられて…あの人の足が悪くなったのはそのせいです」
「…そうか…」
駆け落ちをして、失敗し捕まったときには、男は打ち首になり、女は酷い仕置きを受ける。良く歌舞伎の題材に使われてきた習わしで、それをよく知っている土方は思わず喉を鳴らした。
しかし語る総司は軽やかに笑った。
「でも、あの人それを仕方ないっていったんですよ。男が武士の道に外れたときに切腹をするように、島原で生きる女には掟がある。その掟を破って罰を受けるのは当然だって」
「…」
それは共に過ごした時間が少ない土方でもわかる、とても君菊らしい言葉だった。
「それから…土方さんに出会って、恋をして…もう二度と置いて行かれないように、裏切られないように…土方さんに為になら命を賭けてまで尽くしたいって…そう、思ったんだと思います。だから間者を引き受けてくれたんでしょうね」
「…だが、俺は…」
「だから、私も君菊さんには幸せになってほしいって、思っているんです」
総司が土方の言葉を遮った。その強さに、土方は言葉を飲み込んだ。
そして総司はまるで逃げるように、土方に背中を向けた。
「…今まで隠していたのに間者だって教えてくれるっていうことは、もう君菊さんは間者じゃなくなったってことですよね」
「ああ…」
背中を向けた総司の表情は見えない。いつもは鈍感だが何かを察しているような気がした。しかし土方はもう隠したり、嘘を付くつもりはなかった。
「君菊を身請けする。俺はそれだけのことを、してもらったと思っている」
「……」
総司の表情は見えない。何の反応も見せない。しかし君菊が間者であると告げたときよりも、何故かその背中が動揺しているように見えた。
「……そうですか」
か細く発した言葉は、余裕が無く聞こえた。少し震えているように見えた。
しかし振り返った総司は微笑んでいた。
「だったら、私の負けです!」
ぎこちない微笑み。総司が言う「負け」の意味は分からなかった。だが、彼がいま何かをあきらめたことはすぐに気が付いた。
土方は総司の手首を捕まえた。逃れようとする総司を引き寄せる。その頬に手を添わせ視線を重ねる。
「ひじ…」
「いま、お前が思っていることを当ててやる」
総司は首を横に振り、嫌だと拒んだ。しかし土方はやめなかった。
「君菊に幸せになってほしい、だったら自分は身を引く…だろう」
「ちが…う」
弱弱しい否定の言葉。しかしそれが嘘だということは、何よりも土方には良くわかっていた。
「離し…」
尚も逃れようとする総司の手を引き、木陰をつくる木の幹に背中を押しつけた。そうして逃げられないように腕を掴み、土方は強引にその唇を重ねた。
「ん…っ!」
息もできないほどに深く、強く重ねる。最初は拒んでいたその唇を開かせて、熱を確かめて、共有して、溶け合っていく。
総司の顔が赤く色づき、苦しそうな息が漏れた。
「っ…歳ぞ……」
かつての呼び方で総司が息を漏らす。彼が余裕がなくなっているのがわかって、抵抗をやめて身を委ねてくる。そこでようやく、土方は唇を離す。
「俺は、お前が好きなんだって何度も言ってる」
総司は息を弾ませつつ、目を逸らした。何度も聞いているはずなのに、総司はその言葉を受け取ろうとはしない。
「…じゃあ…土方さんは、君菊さんを裏切るんですか?」
「裏切る…?」
「私を好きだって言って、でも君菊さんを身請けするんですよね。それは君菊さんを置いて行った、前の旦那さんと一緒じゃないですか!」
総司が土方の胸ぐらを掴んだ。
「そんなの、君菊さんが望むわけが…!」
「望んだんだよ!」
土方が制すると叫びかけた総司の声が、ぴたりと止まった。
「……望んだ?」
「君菊は自分から、身請けしてほしいって言った。それを条件に間者を引き受けたんだ」
総司は俄かには信じられない様子で「そんな…」と絶句した。
「…お前が言うように、君菊は一途で、強情だ。そんな女が…俺の気持ちを知っていて、それでも身請けしてくれって言ったんだ」
「君菊さんが…」
呆然となった総司の頬に、土方は手を滑らせる。
「誇り高いあの天神の覚悟に、俺はせめて答えたい。身請けした後に期待させるようなことをしたくない。だから……曖昧にするのはやめないか」
うやむやで、曖昧で、つかず離れずで、お互いがお互いの気持ちを探りあってきた。まるで気まぐれのように唇を重ねて、求め合ってきた。しかし、それでは彼女の覚悟に答えられない。だから、それももう終わりだ。
「…総司。俺は、お前のことが好きだ。他のことがどうでもよくなるくらい…お前のことを考えてる」
「……」
「お前はどうだ…?」
風が通り過ぎる。
その音と遠くで聞こえる祇園祭の拍子。
そして彼の声が、木魂した。こびりついて、離れないほどに、反響した。



宮部鼎蔵の僕・忠蔵が南禅寺山門にて首を晒されて見つかった、という知らせはすぐに吉田の元に届いた。周囲の者は動揺した様子だったが、吉田には何の感情もわかなかった。どちらかと言えば「やはり」と思うだけだ。
「…古高」
集まった『同志』のなかで桝屋…こと、古高俊太郎を呼ぶ。顔は青ざめて、呆然としていた彼は、「は、はい…」と吉田の前に座った。
「…お前、今までどうやって新撰組の情報を得ていた」
「そ、それは…」
古高が言い淀む。
しかし、吉田が鋭く強く睨み付けると、唇を震わせながらも開いた。
「島原の…女から、情報を得ていました」
「上七軒の君菊か」
思い当たる名を当ててやる。すると古高は「なぜそれを!」と驚いた。しかしその疑問には答えてやらない。
吉田は自然と口角が緩むのを感じた。
「…宣戦布告ということか…」
あの夜。いくら問い詰めても君菊という女は自分を間者だとは認めなかった。まっすぐ目を見て「違う」と言い張ったその瞳は、まったく揺らがなかった。
吉田は傍に置いていた刀を取った。そしていつもと同じように傍に控えていた青年に「いくぞ」と指示する。
古高は慌てて
「どちらへ!」
と叫んだが、吉田は背中を向けてその声を無視した。



180


元治元年六月。
「天神、こっちや」
山崎はその姿を『鏑矢次郎』に変えて、提灯ひとつで君菊とともに夜道を歩いていた。山崎は急かすものの、君菊は足を痛めているためなかなか先には進まない。
店の者に金子を渡し、君菊を借り受けることを了承させた。最初は看板芸妓が店を空けることに難色を示していたが、君菊の命が狙われていること、新撰組が関わっていることを知るとその態度を変えた。
「病気やとゆうことにする。しばらくは知り合いの家で身ぃを隠しておいてもらう」
君菊はそれに了承し、質素な着物に身を包み、頭巾をかぶった。町人風の髪型に変え、山崎とともに店を出た。
島原の賑やかさから離れ、人気のない夜の静けさを歩く。足音さえも響くような閑静な空間に山崎は息をのんだ。姿を潜めて歩くには少々静かすぎた。しかし後ろを歩く君菊は「ふふ」と嬉しそうに笑っていた。
「…余裕やな」
それは嫌味ではなく、山崎の素直な驚きだった。島原から逃げ出し、明日の我が身も知れないというのに、彼女は何やら楽しそうに笑うのだから。
「こんな風に、誰かに追いかけられることなく外へ出たのは久し振りどす」
頭巾でその顔を隠しつつも周囲を見渡しながら、君菊は目を輝かせていた。全ての光景が彼女にとって新鮮なのだろう。そしてその視線を上にあげた。
「お月さんやお星さんは…こないに、綺麗やったかしら。まるで…別の世界に来たみたいや」
君菊につられて、山崎も夜空を見上げた。雲一つない夜空は月の光でうっすらと明るい。星がその姿を主張し、彩っている。
「…今度からは、いつでも見れる」
まるで子供のように顔をほころばせる君菊に、山崎は語りかけた。無事に身請けされれば、もうあの場所に帰る必要はない。誰に監視されることもなく囚われることもなく自由に空を見上げることができるのだから。
「へえ…おおきに」
君菊は穏やかに微笑んでまた歩き出した。
その時だった。
「待て」
山崎と君菊の前に、一人の男が立ちはだかった。山崎は咄嗟に君菊の前に立ち、その姿を隠すように位置取った。
「…お武家はんがこんな夜更けに、何の用やろか」
声色を変え、山崎は『鏑矢次郎』の仮面をかぶる。その一方で眼光鋭く男を見た。
(誰や…)
見覚えのない顔。山崎は一瞬京都見廻組の連中か、と思った。しかし、その男の後ろにもう一人いることで、気が付いた。
(この青年は…!)
間違いない。
桝屋に出入りしている、山野に良く似た青年だ。だとすれば、この威圧感のある男の正体は考えるまでもない。
(吉田稔麿…!)
「お前に用はない」
吉田は冷たく言い放ち、その視線を山崎の後ろに向けた。
「へ…へえ。せやったら、先を急ぎますさかいに」
山崎は一礼する。君菊は質素な着物に着替えその化粧も落としている。別人に見える、ということはないだろうがそれでも目立たないはずだ。頭巾も被り、顔も見えないのだから。
「…臭ぇんだよ」
しかし吉田は冷笑し、君菊を見据えた。その視界のなかにもう山崎は入っていない。
「君菊」
吉田はその名を吐き捨てる。そして腰に帯びた刀を抜いた。
その途端、山崎は懐に隠していた小刀を抜いた。もう吉田の前で『鏑矢次郎』でいる必要はない。君菊を庇うようにして小刀を構え、吉田を相対する。しかし山崎の豹変に吉田は驚くことはなかった。
「ふん…新撰組か」
「あんたは、吉田稔麿やろ」
少しは動揺するかと思いきや、吉田は「ああそうだ」とあっさり認めた。
「お前はこの女の元に出入りしている商人だったか。すっかり騙されていたようだな」
「…っ」
吉田はそういったが、彼とは顔を合わせるのは初めてのはずだ。だが、吉田は山崎のことを『鏑矢次郎』のことを知っていた。それは逆に山崎が驚くべき事実だったが、それを表情に出すようなことはしなかった。それに、何よりも吉田がすでに山崎から視線を外していた。
「だが、お前には用はない。…君菊」
「…へえ」
君菊はその頭巾を取った。
「天神、あかん!」
前へ出ようとする君菊を山崎は制する。しかし吉田を威嚇しながら君菊の行動を止めることはできない。
「大丈夫やから」
こんな場面になっても君菊からは緊張や恐怖を感じられない。拍子抜けするほどに軽やかだ。
「…吉田せんせには、お伝えしておいたはずどす。もしそちらに不利な情報が流れるとしたら…うちの、宣戦布告や、と」
吉田はその切っ先を君菊へ向けた。
「ここで吉田せんせに斬られたかて、うちは仕方ないおもうてます」
「…俺は、お前を斬りに来たわけじゃない。俺はお前に聞きたいことがある」
その切っ先が君菊の首に触れる。その言葉とは裏腹に、少しでも動けば斬れるほど近くだ。
「お前は、何故そこまでする」
「うちにとって、できることをしただけどす」
吉田の問いに、君菊は即答した。まるで準備していたかのようだ。
「吉田せんせは…お仲間を簡単に殺すようなお方やと聞きましたえ」
「天神!」
吉田を挑発するような物言いに、山崎は慌てて君菊を止める。しかし吉田は特に興奮する様子はない。それどころか
「お前は口を挟むな」
と、山崎をけん制した。
「だったら、なんだ」
「それはとても悲しいことやなあと、おもいますえ」
「死んでいった奴らが、か」
「いいえ、吉田せんせが」
全く怯む様子もなく君菊は吉田の目を見据えていた。
「自分を信じてくれてはるお仲間を大切にできへん人は、誰も信じることができん…小心者や」
吉田が構えた刀が、より一層君菊の近くへと寄せられた。吉田の表情は変わらないものの、その行動は彼の動揺を表すのだろう。
「たった一人で生きる世界に、意味なんかあらへん」
その強い物言いに、傍にいた山崎の方が喉を鳴らした。しかし彼女を止めることはできない。
「うちには大切なお方がおる。嘘ばっかりの世界で唯一手を差し伸べてくれはる人がいて、その人の為なら…何でもする」
「夢物語だ」
「へえ。そうかもしれへん。…うちは、たぶんお侍はんの真似事をしてるだけや。仕える主君の為に命を張る真似事を」
君菊は穏やかに笑った。
吉田はしばらくそんな君菊を無言で眺めていた。
「…ふん」
吐き捨てるように息を吐くと、吉田はその刀を降ろした。
「お前を、ここで殺したとしても…お前は喜んで殺されるだろうな」
「…せやろうね」
「だったら、つまらない、くだらない」
吉田はその刀を収める。山崎もその殺気が消えたことを感じ、小刀を懐に収めた。
「…次会ったら…殺す、覚悟しておけ」
そう言うと吉田は踵を返し背中を向けた。青年そのあとを追って去っていく。
君菊はその二人の影を追いながらゆっくりと頭を下げた。美麗なその姿に吉田への敬意を感じ、山崎はしばらく呆然として何も言うことができなかった。


無事君菊を匿うことができた、と山崎から報告を受け、土方は安堵した。彼女の命を保証できなければ下手な動きはできないと思っていたが、これで自由に動くことができる。
しかし隣にいた近藤の顔は険しい。
「歳…本当に大丈夫なのか」
「何がだ」
古高を捕縛するそのことへの不安かと思いきや、
「もしもの時出動できる隊士が少ない」
近藤の心配は別の所にあったようだ。
初夏の暑さにやられて、隊士数名が寝込んでいる。入隊したばかりのものはまだ剣術に甘く、返り討ちにされるのではないかというほどに貧弱な腕の者もいる。さらに幹部である山南も体調を崩していて、実働人数は少ない。
「機会を逃すわけにはいかない」
近藤の不安を断ち切るため、土方はそう言い切った。弱さを見せればそれは脆さに変わる。
「古高を叩けば何かが出てくる。もしかしたら尊攘派連中の尻に火をつけるきっかけになるかもしれねえが…その時はその時だ」
「…それはそうだが、なんだか総司も顔色を悪くしていたからなあ…」
「……」
それには別の理由がある…のだが、土方は口にはしなかった。
あの問いにまだ答えはない。
総司は顔を背けたまま黙り込んで、ただただ時間だけが過ぎて行った。そのうち壬生寺に子供たちが集まり始め、結局はそのまま離れてしまった。
(だが…あれでいい)
迷いや後悔はなかった。曖昧な関係はお互いを甘やかすだけだ。
「歳。任せるよ」
まるで合言葉になってしまったかのようだ。その言葉に強く励まされる。
「ああ…」
深く強くうなずいて、土方は前を見据えた。
明日からは戦になる。ここ一番の、勝負所なのだ。






解説
なし
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