わらべうた





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僕が池田屋の二階から一階へ降りると、まるでさっきまでの修羅場が嘘だったかのように落ち着いていた。しかし数名の浪士たちが捕縛され、もう息をしていない浪士たちの遺体が転がり、あちこちに血が散乱しているのを見ると、やはりここが戦場だったのだと思い知る景色ではあった。
土方さんに(僕は嫌だと言ったのに)抱きかかえられるようにして降りてきた僕を見て、数名の隊士が驚いて駆け寄ってきた。その中で一目散に駆けてきたのは山野君だ。
「先生!」
山野君は目に涙を滲ませて僕の手を取った。そして慌てて僕の身体に目を配る。
「先生、お怪我は!」
「大丈夫だ」
僕の代わりに何故か土方さんが答えた。さっき土方さんが取り乱したのが嘘みたいに冷静に戻っているので、僕は何やら可笑しいやら照れくさいやらで「もうおろしてください」と土方さんにお願いした。多少身体は重いけれど、倒れた時のような眩暈は大分おさまった。しかし土方さんは眉間に皺を寄せつつ
「島田!」
と、遠くに居た島田さんを呼んだ。監察として仕事を熟していた彼だが、どうやら隊に加わったようだ。
「何でしょうか!」
浅黄色の隊服の中で、島田さんの町人体の服装は良く目立った。
「こいつを抱えて祇園町会所へ戻れ。山野、お前も一緒に行け」
「え…でも」
山野君は困惑していた。それはそうだろう、池田屋の始末もまだだし、残党狩りに出かけた隊士も多い。まだ人手は足りていないのだから
「山野君は残してあげてくださいよ」
僕は土方さんに進言する。しかし土方さんは「山野を連れていけ」と繰り返した。土方さんがそんな風に頑なだということは何か意図があるのだろう。言い返すはずもない二人は黙り込んだ。
そして僕は土方さんの腕から、島田さんの背中へと移った。広くて大きな背中は体重を預けるのに格好の大きさだったが、何故だか土方さんのほうが安心できた。
「島田、お前はいまから総司の組下に戻す」
「え?」
突然の宣告に僕は驚いた。島田さんも驚いているかと思い来やそれほどでもなく、むしろ山野君の方は「え?」と目を見張っていた。
「いいだろう」
事後報告ではあるけれど、僕に異存はないので「はい」と頷いた。そもそもこんな大きな体躯さらに目立つ町人姿で、池田屋まで出張ってきた島田さんだからすでに監察ではやりにくいだろう。
しかし土方さんには別の理由があったようで
「もういいだろう。離れたって、どうしようもねえんだよ」
と島田さんに問いかけていた。島田さんは逡巡したものの
「はい」
と頷いた。何のことだかさっぱりわからない僕は首を傾げる。しかしまあ、島田さんが組下に戻ってくれることはとても頼もしいので、深く考える必要はないのだろうけれど。
すると次はお前だ、と言わんばかりに土方さんは僕を見た。
「いいか、回復したからって油断するなよ。町会所へ戻ったら山崎に従って無茶はせずゆっくり休んでおけ。まだ仕事は残っているんだからな」
「仕事…?」
土方さんの言葉に、僕はぼんやりとこの先を考える。仕事という仕事はもう休むことしかないような気がしていた。しかし答えを導き出す前に
「近藤さんを先頭に、屯所へ帰るんだ」
と宣言された。その土方さんの表情は、とても満ち溢れていて…そしてその光景を想像するだけで僕も嬉しくなった。
そうだ。
僕たちは、浪士たちに勝った。彼らの無謀な計画を阻止して、京を火の海にすることなく、平穏な明日を手に入れた。僕たちは胸を張って屯所に戻ることができる。
「わかりました」
僕は朝を迎えることができる。近藤先生の輝かしい勇姿を、一番近くで感じることができる。僕は素直に頷いて、島田さんに身体を預けて池田屋を出た。


僕は祇園町会所へ向かう途中、事の顛末を島田さんと山野君から聞いた。
二手に分かれた後、敵は池田屋だという情報を聞いた土方さんは足早に池田屋へ向かった。そして突入した時点ですでに藤堂君は額を、永倉さんは右手をやられていて無事だったのは近藤先生だけだったらしい。しかしそこから形勢は逆転し一気に敵を追い詰めた。
そして、裏口を守っていた安藤君と新田さんも瀕死状態であると知った。
「…凄まじい光景でした。何人もの死体が折り重なるように…。激戦だったのでしょう、二人とも刀が折れて傷も多かったようで…おそらくは、助からないかと」
島田さんが項垂れて、山野君は表情を暗くした。僕も唇を噛む。
裏口をたった二人で任せてしまった。二階で戦い、一階に何人もの浪士を逃がしてしまった。もっと早く始末できれば、一人でも多く殺せていれば、もっと早く一階に降りれば…湧き出てくる後悔は止めどない。しかしそれは考えても仕方ないことで、口に出したところで誰もが落胆するしかない感傷だ。
「でも、致命傷は向かい傷でした」
沈黙を破ったのは山野君だった。
「向かい傷?」
「はい。新田さんも安藤さんも…最後の最後は、後ろ傷ではなく向かい傷で昏倒していました。その姿は、僕の目に焼き付いています」
そう言った山野君は、もう下を向いてはいない。
こうやって志という目に見えない不確かなものは、引き継がれていくのだろう。安藤君が芹沢先生に憧れて、野口さんの志を継いだように。安藤君の勇猛果敢な姿は、山野君や他の隊士に刻み込まれる。僕たちはそうやって生きていくのだ。
「ところで」
僕が島田さんの背中で思いを馳せていると、前を歩いていた山野君が振り返った。
「沖田先生。僕は何度も、何度も、何度も、忠告しましたよね!」
まるで子供のように口を尖らせて、山野君は僕を睨む。彼が怒る原因に心当たりがある僕としては、目を逸らすしかない。
「お身体の具合が悪いんじゃないかって、何度も聞きましたよね!」
そう。山野君は十日ほど前から僕の体調を気遣ってくれていた。僕はその度に「そんなことはない」と跳ね除けて平気なふりをしていた。斉藤さんは僕のことを「暑気あたり」じゃないかといっていたが、その通りだと思う。初夏の暑さでぼんやりしていたし、身体は確かに重かった。
それを山野君は見こしていたのだ。…まるで姉さんに咎められるような気持だ。
「おいおい、山野。沖田先生はまだ本調子じゃないだから」
島田さんはそう言ってとりなしてくれたものの
「島田先輩は黙っててください!」
と山野君は突っぱねる。すると島田さんは何も言い返せず苦い顔をした。そういえばもともとは僕の組下の二人だけれど、こんなに親しい感じだったっけ?
「沖田先生が倒れられたと聞いて僕がどれだけ心配したか!」
「そ、そうですよね。もっと早く養生していれば良かったんですけど」
「何度も忠告したのに無茶ばっかりして…」
「あー、はいはいはい、ごめんなさい!以後気を付けますから!」
これ以上の小言は勘弁だ、と僕は両手を合わせて平謝りする。小柄で整った顔立ちをしているのに、怒るとまるで般若のように怖い。そしてその様子は姉にそっくりなのだから。
しかし、予想外に彼はもう怒らず、代わりにその目尻にいっぱいの涙を浮かべた。
「や、山野くん?」
「以後気を付けるじゃ困ります!」
「山野?」
僕だけじゃなく島田さんも驚いていた。彼は怒りながらも泣いていた。
「もう同じことは嫌ですから…!」
そしてそんな顔を隠すようにして袖で涙を拭うと、彼はまた前を向いて歩き始めた。僕と島田さんは呆然とその背中を見る。
「…山野は、本当に沖田先生のことを尊敬しているんですよ」
僕を背負う島田さんがその表情を和らげた。その視線の先には山野君の背中がある。
ああ、そうか。僕は何となく、何となくわかった。
僕が誰かを大切に思うように、きっと僕は誰かに大切に思われている。死んでほしくない、生きていてほしいと願われている。僕はその幸福に今まで気が付いていなかった。だから、もし近藤先生の為に死ねるなら、本望だとさえ思っていた。
けれど、それは一番じゃない。
僕は生きていたい。大切な人たちと、そして近藤先生、土方さんと一緒に…いつまでも生きていたい。それが僕の一番だ。
だから僕は心から思う。
生きていてよかったと。
「…島田さん、山野君を追いかけてください」
僕は島田さんの背中に捕まる。
「山野君にちゃんと謝りますから」
僕がそう言うと、島田さんは少し驚いた顔をして、しかしやっぱり嬉しそうに笑った。
島田さんがその大きな体で走る。
コンチキチン
コンチキチン
コンチキチン
遠くで祭囃子の音が聞こえた。
池田屋に向かうまでは忙しなく聞こえていたその音が、今は僕を癒す心地よい音色となっていた。



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島田に担がれた総司を見送って俺は一息ついた。思えば池田屋に駆けこんで、総司の無事を確認していままでずっと身体が強張ったままだった。深く息を吸い込み、長めに吐くとどっと疲れが出てきた。しかし血の気が沸き立つような興奮はいまだに奥底で燻っている。
池田屋は既に噂を聞いてやってきたらしい野次馬で沸き立っていた。男女、老若男女入り乱れる。その中には俺たちを称賛する声もあるが、大半は不安そうに怪訝な目でこちらを見ている。古高が吐いた計画が本当だとすれば、今頃京は戦乱の中心だったのかもしれないのだから、感謝されてもおかしくないのだが、如何せん普段の『凶暴な壬生狼』の異名を持つ俺たちの功績を、諸手で歓迎する人間は少ないだろう。
そんな視線を浴びながら、俺の組下に付いていた隊士たちが忙しなく動き回っている。かっちゃんたちが仕留めた人数はまだわからないが、今のところ四人を捕縛しているところだ。
「歳、いまいいか」
そこへかっちゃんがやってきた。最初に斬りこんだ連中が怪我や病で祇園町会所に戻ったのに、かっちゃんはいまだに残って後始末に動いている。俺がやるから、と言ったものの
「俺たちの晴れ舞台だぞ」
と嬉しそうに言われては俺はもう何も言えなかった。
そんなかっちゃん誘導されるように裏口やってくると、そこにはすでに息をしていない人間たちが折り重なるように倒れている。つい少し前まではここに新田と安藤の姿があった。二人ともまだ息は合ったものの、生き長らえることは難しいだろうという状態だったが、今は屯所へ運ばせている。
「宮部だ」
その中でかっちゃんが指さした、壮絶な死に顔の男。
「宮部鼎蔵か…」
俺たちが散々探していた男だ。しかしやっと捕えられたという感慨は特にはなかった。
「それから先ほど長州藩邸付近で、遺体が二つみつかったそうだ。一人は望月亀弥太だと店の者が証言した。安藤君や新田君を振り切って、一太刀浴びながらも逃走して力尽きたようだと」
望月亀弥太は土佐脱藩、過激な尊攘思想を持ち長州藩士らと近い存在だという情報は得ていたが、まさか池田屋にいたというのは予想もできないことだったので、幸運な釣果と言えるだろう。
「もう一人は?」
「いま確認させている。切腹だそうだ」
「切腹か…」
きっと池田屋から何か理由があって逃れ、生き延びたとしても…その先には何もなかったのだ。掴まれば屈辱的な扱いを受け、死を待つのみだ。それくらいなら自分で幕を引きたいという気持ちはよくわかる。俺たちだって、いつ立場が逆転してもおかしくないのだから。
その差はきっと紙一重だ。
ずっと綱渡りをしている。
一瞬先は奈落の奥底へと消えてしまう、細く蜘蛛の糸のように頼りない道を。
「近藤局長、土方副長。宜しいでしょうか」
背後から声が聞こえた。建物内部からやってきて臆することなく俺たちを呼んだのは斉藤だった。そして相変わらずの無表情で
「会津藩が来ました」
と淡々と告げたのだった。

俺とかっちゃんそして呼びにやってきた斉藤が、会津藩を出迎えるべく玄関へ向かう。するとそこで、何故か会津藩士数名と新撰組(とくに原田を先頭として)が睨みあい、一触即発という状況になっていた。
「左之、何やってるんだ!」
慌てて間に入ったかっちゃんは、原田を叱る。どんな文句があったとしても相手は雇い主だ。むやみやたらに突っかかっていい相手ではない。しかし、俺はかっちゃんのように原田を叱るつもりはなかった。
古高から情報を聞き出し、会津藩に伝達したのはもう随分昔の話のような気がする。約束の刻限はとっくにすぎ、俺は予想通りでありながら、やはり見捨てられたのだと理解していた。それは他の隊士も同じで、だからそんな彼らがまるで手柄を掻っ攫うかのように後出しでやってきたのだから、原田のような態度になるのは仕方ない。彼らを歓迎せよというのが無理な話だ。
「わざわざ大人数で…何の用でしょうか」
俺は冷たい声で、彼らを責めた。かっちゃんは「歳!」と隣で焦っているが関係ない。すると藩士は苦い顔をした。
「…戦の準備に手間取り、約束の刻限に間に合わなかった」
言葉に詰まりつつ、先頭に立った会津藩士は答えた。後に続く藩士の数はとっくに俺たちの人数を超えている。彼らがもし約束の刻限に間に合い合流していたら、死人は出なかったはずだ。そう思うと悔しさが湧き上がる。
既に俺たちの浅黄色の隊服は血でくすみ、その匂いがべったりと張り付いている。だが、目の前の彼らが準備してきたその「武装」は綺麗なままだ。その血に汚れた場所に相応しくない清々しさは俺を逆撫でした。
「…そりゃあ、大層ご立派な準備をしてるんだな」
これくらいの嫌味を言わないとやってられない。俺たちは確かに彼らの部下であり、雇われている浪人の身分に過ぎない。けれど、物言わぬ狗ではない。
俺の言葉に彼らは顔を強張らせた。俺の皮肉が伝わったのか、鬼副長の言葉として伝染したのか、憤慨しているのか…そのどれかが当てはまるだろう。
すると、隣に居たかっちゃんが「そうだ」と何故かこの場に似合わない顔で笑った。
「歳。まだ敵はこの辺りに潜んでいるだろう。これだけの大軍を率いてやってきてくださったんだ。力強いじゃないか!」
かっちゃんは血だらけのその姿で喜ぶ。その邪気のない姿に、俺と、そして会津藩士たちは呆気にとられていた。
俺は息をついた。これじゃあまるで、俺が馬鹿みたいじゃないか。
近藤勇という男は、どれだけ大きいのだろう。かっちゃんだって、彼らに見捨てられた、裏切られたという絶望や悔しさを感じていないわけがない。しかしその感情を一旦抑えて、次に進むために前向きにとらえなおすことができる。
これは生まれ持った才能だろう。そして俺はその才能に魅了されすぎている。だから俺も、とりあえずはこの感情を押し込めることにした。
「…とにかく池田屋の内部は我々が取り仕切りますので、会津藩の方にはぜひ残党狩りを。あと、何人か祇園町会所や屯所に派遣していただけると有難い。夜のうちに報復を仕掛けてくるかもしれませんが、祇園町会所には精鋭たちが負傷しておりますし、屯所には病で伏せっている者が多いですから」
「…相わかった」
会津藩士は重々しく頷いて俺たちに背を向けた。そして池田屋の外で待つ部下に指令を伝えに行った。その背中を見送っていると
「歳、悪いな」
「何がだよ」
と、かっちゃんが俺に誤った。何故かっちゃんが謝るんだ。俺が聞き返すと
「いや、俺の立場がもうちょっと良ければ、お前が一喝するくらいはできたかもしれないのにな」
かっちゃんが頭を掻きながら苦笑する。いまだ新撰組は守護職御預かりと言っても下っ端の下っ端だ。浪人の身分が変わったわけでもない。だからこそ、今回のように会津藩を動かすほどの力は持ちえなかった。…しかし、それは最初からわかっていたことだ。かっちゃんが謝ることでもない。そしてそんな何だか論点のずれたかっちゃんらしい理由に、俺も表情を和らげるしかない。
「わからねえだろ。この夜が明けて、朝になったらかっちゃんは武士として抱えられるかもしれねえだろ」
「そんなまさか」
「まさかじゃねえよ」
かっちゃんの謙遜に、俺は食い下がった。
入り口から見える野次馬の向こう、夜空は既に霞み微かに光が差し込みつつある。黒と白と蒼が混じる、それはいつもと変わらない風景でもある。
しかし俺の目には全く変わって見える。この先の明日が、とても、とても輝かしいものに見えて仕方ない。
「俺たちは京を救ったんだ。京を焼き払って帝を奪うなんていう話を誰も信じないかもしれないし、誰もが阿保らしいというかもしれない。けれど、かっちゃんは胸を張って「守った」と言い切ったらいい」
「…歳」
「言霊っていうだろう」
言葉にすればいつかは叶う。
江戸に居た頃。かっちゃんは近藤家の養子に、俺はしがない薬売りに成り下がっていた頃に武士になりたい、将軍を守りたい、と言い続けたかっちゃんの夢が少しずつその姿を現している。ここまでたどり着いた道のりは語ればたくさんあるのだが、結局はこの男に「運」があったということだ。
だが、「運」も実力のうち、なんていうのは昔からある言葉じゃないか。だったら何度も願った「武士になる」なんて夢は、すぐに叶うはずだ。
「そうだな…それにしても歳は全く…」
かっちゃんが微笑んだ。
「『お上手』だ」
「褒め言葉として受け取っておく」
俺が頷くとかっちゃんも「そうしてくれ」と頷いた。
全くいい組み合わせだ。







193


池田屋から撤収し、祇園町会所に帰還した新撰組はそのまま朝を待つことになった。新田、安藤そして一人で正面を守っていた奥沢が瀕死の重傷となり屯所に運ばれた以外は、どうにか怪我も浅手で済み、数十人の敵を相手にした結果としては十分と言えた。しかし精鋭を欠く新撰組が夜のうちに屯所に戻るのは難しいと判断したためだ。
そんななか、山崎は一人町会所を抜け出した。医学の心得があった為治療に奔走していたが、本職の医者がやってきたので取りあえず山崎の手から離れた。そしてこっそりと監察へと姿を変えて夜街を走った。
祇園祭の祭囃子もいつの間にか聞こえなくなり、ようやく町は一時の静寂を取り戻していた。遠くに見える朝日が光を差し、また新しい一日を始めようとしている。その光にまぶしさを感じつつも、たどり着いたのは『鏑矢次郎』の家である。
慣れた足取りで裏口から家に入り込む。家の主人は新撰組の協力者で今回は君菊を匿ってもらっている。まだ家の者は起きていないようで気配を潜め足音もなく歩くと、奥の部屋に小さく明りが灯っていた。山崎は腰を低く屈め
「天神」
と声をかける。すると部屋の中で動く音がして、障子が開いた。
「…どうぞ」
君菊は待ちわびていたように山崎を出迎えた。もう朝も明けようかという時間なのだが、床を延べている様子はない。どうやら寝ていないようだ。
「鏑矢はんの小者が…新撰組が、池田屋へ討ち入ったというお話を教えてくださいました」
「ああ、間違いあらへん」
山崎の肯定に君菊は眉間に皺を寄せた。
「それで…?」
「無事や。近藤局長も、土方副長も…沖田先生も」
山崎がそう答えると、君菊はふっと力を抜いたように表情を和らげた。そして噛みしめるように
「良かった…」
と呟く。今回の騒動に一躍買った君菊としては責任を感じていたらしい。
「お怪我は?」
「土方副長は何も。ただ…」
「総司さんが?」
安堵した表情を再び強張らせて君菊が食いついた。山崎は相変わらず察しのいい、と感心しつつ「心配あらへん」と彼女を制する。
「戦闘中に倒れられたんやが、無事やった。暑さにやられたようで、暑気あたりのようやと」
「そう…」
口元に手を当てて、君菊が唖然とした。確かに戦闘中に倒れたと聞けば絶望的な結末しか予想できないだろう。しかし今回は幸運なことに生き長らえることができたのだ。
「せやけど、敵は二十人超えてはったのに、たった七人で斬りこんで、九人討ち取り四人捕縛。大手柄や」
山崎が励ますように続ける。しかし君菊は
「お身体が無事やったら…うちは、それでええんどす」
と、謙虚に受け取った。これだけの成果を上げる一端を担ったのだからもっと誇ってもいい彼女だが、相変わらず欲が無い。まさか自分のお蔭だなんて全く考えていないのだろう。そしてそんな彼女だからこそ、土方が身請けするのだろう。
「しばらくはここに身を潜めるように土方副長から言付かってきた。しばらくの辛抱や」
山崎が町会所を抜け出してやってきたのはそれを伝える為だった。いまだ会津藩の残党狩りが続くなか、逃げ出した浪士たちが逆上すれば君菊の身が危ぶまれる。
「それは構いまへん。鏑矢はんにはよくしていただいて…うちには、勿体ないくらいどす」
特に渋ることもなく君菊は頷いた。しかし「せやけど」と続けた。
「少し落ち着いたら…屯所にお見舞いに行ってもええやろか?」
手を合わせて首を傾げつつ、君菊は山崎に懇願する。
(全く、己の身ぃかてまだ怪しいのに…)
内心苦笑しながら、彼女の献身には感心するしかない。山崎は
「副長に伝えておく」
と、彼女の申し出に答えることにした。


六月五日の長い夜を終えて、朝がやってきた。それは昨日となんら変わらない朝なのに、新撰組の隊士としては最も記憶に刻まれる朝となる。
隊士たちが浅黄色の羽織に身を包み刀を腰に帯び、額に鉢金という勇猛な姿で
「総司、戸板じゃなくていいのかよ」
原田はそう言って総司をからかった。額を斬られた藤堂は大事を取って戸板で屯所に向かう。しかし病で倒れた総司はそれを拒否して自分の足で歩くことを懇願したのだ。
「もう!からかわないでくださいよ。もう熱だって引いたし、ただの暑気あたりなんですから!」
総司が口を尖らせつつ反論するが
「ただの暑気あたり、と舐めてかかった反省は?」
と小声で斉藤に指摘されてしまえば「斉藤さんの意地悪…」と肩を落とすしかない。
島田に担がれて祇園会所に戻り、山崎の世話を受けていると医者がやってきた。やはり見立て通り暑気あたりらしいということで大人しく横になっていると随分楽になった。多少の立ちくらみはあるものの、池田屋のときのような、視界がぐるぐるとまわったり錯覚を起こすようなこともないので良くはなったようだ。
「総司」
そうこうしていると土方がやってきた。
「お前は俺の隣で歩け」
「え?」
「いいから」
と、土方は強引に総司の手を引いた。土方の隣ということは近藤の後ろでもある。
「ちょ…土方さん、それは…」
怪我をしたのならまだしも、病で倒れて戦線離脱した総司としてはそんな光栄な場所を歩くのは気が引けた。
「永倉さんの方が相応しいですよ。近藤先生を最後まで守ってくれたのは永倉さんなんですから…」
総司はそう言いながら、どこかで自分の心が痛んだのを感じた。
近藤を守ると言いながら、守りきれなかった。二階を一人で制圧したと皆は称賛してくれるが、そのあとに戦線離脱し最後の最後は、近藤と負傷した永倉だけというところまで追いつめてしまった。総司としては胸を張って近藤の後ろを歩く資格はないと思っていた。だが
「いいから。近藤局長がそう言ってるんだよ」
「近藤先生が…」
「ほら」
尚も土方が強引の腕を引いた。そうして近藤の元へやってくる。
「総司、身体の加減はどうだ?」
近藤は穏やかに総司に問うた。総司が途中で倒れたことを気に病むことは、近藤が一番わかっている。
「はい、もう……でも、その、近藤先生…」
総司が言いかけて、しかし近藤がその肩に手を置いた。
「大丈夫だ」
「近藤先生…」
その目が優しく総司を見ていた。
「お前も無事で、俺も無事だ。そして俺たちはこうして屯所に戻る。今はそれを喜ぶんだ」
経過はどうあれ、願った通りの朝を迎えることができた。近藤と土方が笑っている。そしてその傍に、自分が居ることができる…。
「…はい」
後悔はいつでもできる。そしてこの反省を胸に刻めばいい。そして邂逅するのはいまじゃなくてもいい。
総司が頷くと、近藤も納得したように頷いた。そうして隊士に
「出発!」
と大音声の号令をかけて、隊列は歩き出す。

いつもは静寂な朝を迎える祇園が、にわかに活気にあふれる。
朝陽を浴びた浅黄色が闊歩する。長く長く続く行列を一目見ようと道には人々が溢れ出た。
野次馬達は声を潜めて噂話を口にする。
「池田屋で勤皇の志士を血祭りに上げたらしい」
「好き勝手やり放題だ」
「血だらけやないか…」
良い噂はない。しかし今日は全くその侮蔑の声が気にならない。
今は恐れられてもいい。だが、胸に刻んだ「京を守った」という誇りを今は高らかに宣言しよう。
何も恐れることはない。
何も恥じることはない。
血に汚れた浅黄色が、今は勲章になって輝いている。
そしてその先頭を歩く近藤が、何よりも、誰よりも眩しい。その背中がどうしようもなく大きい。
「…かっこええ…」
野次馬の隙間。足元から見上げるようにして男の子が小さくつぶやいた。
それは野次馬達の噂話にかき消されるほどの小さな声だったけれど、
総司には確かに聞こえていた。
(…そうだね)
かっこいい。
この人は、出会った時から自分にとっての英雄だった。泣き虫で弱虫で、すぐに逃げ出すような甘えた人間だった自分を、ここまで導いてくれたのはこの大きな背中なのだ。
けれど、そんな英雄は、いつも苦しめられてきた。農民だから、貧乏道場だから…と疎まれてきた。それが悔しくて悲しくて…けれどいつかこんな日を迎えるのだと信じていた。自分だけの英雄ではなく、周囲も認める英雄になるのだと、願っていた。
隣を歩く、彼と一緒に。
そしてきっと今日という日は
その始まりなのだ。


「…あ」
「どうした」
隣を歩く総司の声に、土方が反応した。総司は少し困ったような表情をして、しかし視線で訴えた。
「…君菊…」
物陰から見守るように、君菊が頭巾で顔を隠しこちらを見ていた。隣には山崎が控えている。
彼女は笑っていた。
嘘ばかりの世界で生きているのだと、自虐的に語っていた彼女が、笑っていた。それは今までない、溢れんばかりの嬉しさを隠そうとしない、まるで少女のようなあどけなさで。
きっと彼女も戦っていた。命を賭けて、女の身でありながら、勇敢に。
「…ありがとう」
小さな、小さな声で土方がそういったのを、総司は聞き洩らさなかった。









194


翌日。長い夜が過ぎ、ひと段落つくかと思いきや屯所は物々しい警備体制となった。昨日の池田屋の事件により反幕府派を刺激したため、逆上して襲撃される恐れがあるためだ。とはいっても池田屋で怪我をした者やいまだに熱中症で寝込んでいる者も多いため、屯所の警備は会津藩士が務めてくれている。主従関係が逆転してしまったような、今まででは考えられない状態だ。
「どうやら立場が逆になってしまったようだ」
山南はそういって笑った。それは新撰組と会津藩が、ということではない。
「山南さんにお説教されても反論できませんね」
床に横になる総司に見舞いにやってきたのは山南だった。山南は身体の具合が悪く、池田屋の時は屯所の警備のため残留したのだ。
「どうかな、具合は…」
「もう平気なんです。けど、土方さんが今日一日は大人しくしてろって煩いから仕方なく…」
総司は「はあ」とため息をついた。「平気だ」と何度言っても土方はもちろん、近藤さえも信じてはくれず、さらに山野まで見張りに付けると言い出されては大人しくしているしかなかった。
諦め悪く嘆息する総司を、山南は笑った。
「いや、君には大人しくしてもらわないと、私の立つ瀬がないよ。私はこの一大事に屯所で祈っていることしかできなかったんだからね。情けないことこの上ない」
「そんなことないですよ。屯所固めだって立派な仕事なんですよ」
「皆そう言ってはくれるけれどね」
苦笑いで山南が頭を掻いた。確かに逆の立場だったら、総司も悔しい想いをしているに違いない。
「ああ、そう言えば土方君に聞いたんだが、長州藩邸で切腹した男の身元が分かったそうだ」
「え?そうなんですか」
土方から長州藩邸前で切腹した死体が見つかったという話は聞いていた。池田屋の関係者かどうかはわからず、長州藩も「知らない」の一点張りだったという。
「池田屋の主人が証言したそうだが…吉田稔麿らしい」
「え?」
意外な人物の名前に総司の方が驚いた。二度出会い、一度は刀を向けあった男だ。池田屋に踏み込んだ時に居なかったのを覚えていたのでてっきり運よく襲撃を逃れたのだと思っていた。
「…そうですか…」
殺したいほど憎んだわけではない。けれど、あの堂々とした存在感と万人を平伏させるカリスマ性はひしひしと感じていた。だからこそ、その男が死んだということは総司にとって実感が沸かないことだった。
「邪魔するぜー」
そうしていると、部屋の障子が開いた。
「元気そうだな」
顔を出したのは原田と永倉だった。二人とも晴れ晴れとした表情だ。
「永倉さん、怪我は大丈夫なんですか?」
「ああ、利き手をやられたが神経までは切れていなかった。出血が多かったから大げさに見えただけだ」
永倉はどうだ、と言わんばかりに利き手を振って見せる。何重にも巻かれた包帯のせいで大けがに見えるものの、確かに動きに鈍さはない。利き手の負傷だと聞いたときは肝が冷えたものだが、永倉の様子を見る限りは剣にも支障はないだろう。
「へーすけもしばらくは安静にしてねえといけねえけど、元気だ。もう床に飽き飽きしてたぜ」
藤堂は額からの出血で倒れ、今も安静第一の身だ。床の上で身体を自由に動かすこともままならないらしく、原田が「俺だったら耐えられねえな」と大声で笑う。そういう原田も、池田屋に到着してすぐに残党狩りに向かったと聞いていたが疲労している様子もなく元気そうだ。
「今は斉藤が数人連れて市中警護に行ってる。こんな時にでも土方さん扱き使うんだ」
永倉が苦笑しつつ総司に教えてくれた。土方らしい行動に総司も笑うしかない。
「それにしてもお前も運が良かったよな。二階を一人で守ってた時に、意識を失ったんだろ?それで良く無事だったぜ」
「日ごろの行いが良かったんでしょうねえ」
「馬鹿いえ」
総司の冗談に、原田がからかって、永倉が笑って、山南が穏やかに見守る。当たり前の光景が、当たり前じゃないと、総司は今回のことで思い知った。
(良かった…)
この喜びをかみしめる。そして刻み付けて、忘れないように。
「先生、失礼します」
そんな風に盛り上がっていると、またもや部屋の外から声がかかった。「どうぞ」というと障子をあけて山野が顔を出す。
「あ、先生方お揃いでしたか」
いま、山野は総司の世話役をしている。本人としては総司の体調の不安を事前に知っていたにも関わらず、事前に阻止できなかったことを悔いているらしく、願い出てその役を引き受けたらしい。生真面目な彼らしい行動だ。
「どうしました?体調は大分いいんですよ」
「はい、知っています。でもそうじゃなくて、原田先生をお探ししていたんです」
「俺?」
山野の意外な答えに、原田は思わず自分を指さして確認する。山野は間違いなく「ええ」と頷いた。
「門番の会津の方が丁度通りかかった僕に伝えてくれて…原田先生にお客様だそうです」
「きゃくう?」
思い当たる節のない原田が首を傾げる。
「はい。おまささんという方です」

「おまさちゃーんっ!」
部屋まで通されたおまさは原田の顔を見て、ほっと一息ついた顔をした。しかし
「なんや、ぴんぴんしてはるやないの」
と言葉とは裏腹に急にそっぽを向いて拗ねた顔をした。若い女性が新撰組の屯所に出入りすることすら躊躇われるというのに、おまさは構うことなくやってきた。よっぽど原田のことが心配だったのだろう、と総司は思ったのだが。
「何だよ、俺のことが心配で来てくれたんじゃねえのかよ」
「へえ、原田せんせがなんや池田屋で殺されはったっていうお噂を聞いてやってきたんどすけど、噂は噂やったみたい」
「なんで残念そうなんだよ!」
大げさに嘆く原田を無視して、おまさは総司の方を向いた。
「沖田せんせ、身体は大事おへんの?」
相変わらずの無邪気さでおまさは訊ねてくる。総司が「心配をおかけしました」というと、安堵の表情を見せた。
「これ。せんせ、あまいもんお好きやと思うて」
おまさは風呂敷に包んでいたお重を開けた。すると所狭しとおはぎが詰め込まれていた。いつもおまさの店で注文するものだ。思わずよだれが出る。しかし
「でもお体に障るやろか。池田屋で、血を吐いて倒れたって聞いてびっくりしたんどすえ」
とおまさが思いがけないことを言ったので、その場に居た人間が「え?」と総司の顔を見た。一番思い当たる節のない総司は唖然とする。
「え?血を?」
「あら?これもお噂やったのかしら?」
おまさは子供っぽく笑う。どうやら巷では様々な噂や憶測が飛び交っているようだ。
「なんだか、大げさなことになっているようだねえ」
と、傍に居た山南が苦笑していた。おまさは首を傾げつつも
「池田屋に残りこんだのは4人で、そのうち沖田せんせは血ぃ吐いて倒れ張って、藤堂せんせは頭を斬られて亡くなって…永倉せんせも手首を落とされはったって…」
おまさが述べる「巷の噂」に何一つ真実が無く、総司らは笑うしかない。
「あはは、藤堂くんは生きてるんだけどなあ」
「手首か!俺の手首は健在だよ」
「何だか怪談みたいになってるんですねえ」
おまさだけが置いてけぼりで盛り上がる。しかし笑い話にできるのも、あの死線を潜り抜けたからなのだろうと思うと、総司はこの幸福に感謝するしかない。
火のないところに煙は立たない。おそらく池田屋のあの惨状を見た町人たちが、曖昧な事実を聞きかじり様々な噂を立てたのだろう。それほどまでの惨状であり、そして一大事だったのだ。
だが、総司たちにはまだ実感の湧かないことだった。

「もうここまででええよ」
屯所を出たおまさは、見送ると言い張る原田とともに歩いていた。若い女と新撰組の隊士が歩くなど、目立って仕方ないのでおまさは嫌がったのだが、どうしてもと言って原田は聞かなかった。大通りに出たところで「ほんまにここでええよ」と再度口にすると
「おまさちゃん」
「な、なに?」
と、いつに無く真剣な声色で原田が話しかけてきた。
「見舞いに来てくれてありがたいけど…しばらくは屯所に来ちゃいけねえ」
「え?」
おまさは驚いた。おまさの来訪を一番喜んでいた原田だっただけに、その言葉は意外だったのだ。もしかして表面上は喜んだふりをしていて、本当は迷惑だったのだろうか…おまさがそんな風に勘ぐっていると
「いや、おまさちゃんが来てくれたのはすっげー嬉しかったんだけどさ」
と原田は頭を掻く。そして戸惑いつつも「なんて言ったらいいのか」と言いつつ、そのあとに言葉を選ぶように話し始めた。
「その…やっぱり、俺たち嫌われるからさ。おまさちゃんが屯所に出入りすることで妙な…誤解っつーか、そういうのを受ける人間もたぶんいる。特に今は池田屋のことがあったから、何が起きてもおかしくはないんだ」
「原田せんせ…」
「俺、ちゃんとおまさちゃんのことを守れるようになるからさ」
原田がおまさを見つめた。眩しいほどの笑顔に、おまさは目を奪われた。
「だからおまさちゃんは待っててよ。来てくれなくてもいい、俺が会いに行くし」
「……」
いつもの自信満々の彼ではない。いつもの飄々としたお気楽な彼でもない。ここにいる原田という人間は、ただただ真摯におまさのことを見ているただの男だ。
「…うん」
おかしい。
いつの間にこんな感情が芽生えたのだろう。会いに来てほしいなんて、思ったこともなかったのに。これじゃあまるで恋人同士みたいじゃない。
「あ」
と、おまさが目を奪われていると、原田がそれまでの真摯な顔を崩した。そして彼の目線がおまさを通り抜けた先を見ていた。
「え?」
おまさが振り返る。するとこちらにやってくる、深く頭巾をかぶった女がいた。
(綺麗なお人…)
それは同じ女であるおまさであっても嘆息し目を奪われるほどだった。だが原田はその女が通り過ぎるまで、その顔に見とれていた。おまさが呆れるほどに。
「……原田せんせ」
おまさは冷たい声で指摘する。
「あ」
原田がやばい、という顔をした。おまさは口を尖らせて、
「もうええし!」
と怒鳴り、原田に背を向けた。「おまさちゃーん!」と言い縋る原田を無視してすたすたと帰路を急いだのだった。



195


原田がおまさを送っていき、何となく場が解散になった。皆怪我はしているけれど健康体なので仕事に精を出しているが、今日は安静にしろと近藤や土方に言いつけられた総司は大人しく部屋にいるしかない。山南も同じ病人なので無理を言って引き留めることもできず一人きりになったとき。
「沖田先生」
と障子の向こうで山野の声がした。返事をするとそこには意外な人物もいた。
「君菊さん」
頭巾で顔を隠しているが、口元や眼もとですぐに客人が誰なのかは分かった。「どうぞ」と部屋へ促すと、山野は「お茶でもお持ちします」と気を利かせて出て行った。
「お元気そうで、なによりどす」
穏やかな声色で君菊は総司をいたわる。
君菊と会うのは久々だった。いまなら土方の意図がわかるが、池田屋の前まではできるだけ会わないように言われていたのだ。
「少しやせましたね」
元々ほっそりとしている君菊が以前に比べて一回り細く見える。君菊は「そうやろか」ととぼけたが、鈍感な総司がみてそう思うのだから間違いないはずだ。
すると君菊が居住まいを正した。
「このたびのご活躍、おめでとうございます」
君菊は美しい所作で頭を下げた。彼女の心からの賛辞が身に沁みる。
「…ありがとうございます」
「でも肝冷えました。総司さんが倒れられたて聞いて…暑気あたりやって聞きましたえ」
「ご存じなんですね」
君菊は頷きつつ、「山崎はんから」と付け足した。隊士でさえ山崎のことはあまり知られていない。屯所に出入りする下男だと思っている者も多いなかで、君菊からその名前が出たということは彼女の橋渡しをしていたのだろう。
「…今回のことは、君菊さんの力添えがあったと聞いています」
どうしても触れない訳にはいかず、総司は君菊に訊ねる。すると君菊は少し躊躇しながらも頷いた。
「こんな大事にやるやなんて思わず…今は、山崎はんの計らいで身を隠させてもろうてます」
「それは当然です。今日だって本当はこんなところ来ちゃいけないんですから」
いつどこに不逞浪士が逆恨みして命を狙っているかわからない。出歩くのは危険だ。
そして今度は総司が居住まいを正す番だった。
「本当に…無茶をさせて、ごめんなさい。土方さんから話を聞いたときは、驚きました。でも…あなたの力添えが無かったら、今回の手柄は上げられなかったと思います。皆、感謝しています」
総司は深々と頭を下げた。
池田屋から帰還したあの時。この人生で一番の幸福を得た。大きな大きな近藤の背中と誇らしげな姿を見て本当に嬉しかった。自分がその役に立てたかは後悔が残るけれど…その晴れ舞台に自分も居れたことは、何ものにも代えがたい出来事だった。だからそれを支えてくれた彼女には、こちらから出向いて御礼をしたかったくらいなのだ。
しかし彼女は慌てて
「頭を上げておくれやす!」
と総司に懇願した。
「うちは…ずっと、総司さんに謝らなあかんって思うてました。だから、今日危険を承知でお邪魔したんどす」
「謝る?」
総司は驚いて顔を上げる。すると君菊が先ほどとは違う複雑な、顰めるような顔をしていた。
「土方せんせにお話を聞かはれはったということは…うちの身請けの話、もうお聞きに?」
「ええ…まあ」
君菊の身請けのことは土方から聞いていたが、報告を受けただけで特にそれ以来話題にはなっていない。土方も話しにくいことだろうし、総司も触れづらい話題ではあった。
「卑しい女どす」
「君菊さん…」
君菊はなぜか、痛みを堪えるように唇を噛んだ。
「本当に…土方せんせのことが心から好きやったら…そんな対価を要求せえへん。命を賭けて、お役目を全うすればええ。せやけど、うちは身請けっていう条件を出してズルをした…少しでも、土方せんせの傍に居たくて」
いつもと同じ。彼女はまっすぐに総司を見ていた。その瞳は少し潤んでいて、彼女が脆いただのおなごであるということがひしひしと伝わってくる。
「…そんなの、ズルじゃないです」
好きだから、大切にしたいから…だから、傍に居たい。身請けしてほしい。彼女がそう思うのは当然なのだ。彼女がそう願って、土方に懇願したのはズルではない。愛されたいと願うおなごの、当然の気持ちなのだから。
(それが…いまは、わかる)
それが彼女がいう卑しさだとかズルだとかは…全く思わなかった。
「君菊さん、あなたに初めて会った時から思ってたんです」
「初めて…?」
「ほら、あの川で…」
総司が言いかけたところで君菊が顔を赤めて、「いややわ、覚えてはったん」と苦笑した。
「あなたは…死のうとしていたのに、あっけらかんと「死ねなかった」って笑って、でもそのあと子供みたいに大泣きした。そのあと『天神・君菊』としてあなたと再会したけれど、でもやっぱり最初に会ったあなたが一番あなたらしい姿だった」
「総司さん…」
それは土方も知らない。誰も知らない、君菊の素顔だ。嘘を付かなくていい、もう笑わなくていい、感情をむき出した赤子のような姿だ。
「あの時からずっと、私は貴方に幸せになってほしいって…思っています」
総司は君菊の手を取った。細く白く白魚のような指先は、おなごのそれに違いない。弱くて守られるべき存在。でもいつも、背伸びして肩ひじ張って生きている。そうしなければ、あの嘘だらけの世界では生きていけないから。
いつも、そんな彼女が、美しくて、でも可哀そうだった。
「だから、土方さんに身請けしてもらえるなら…少し複雑だけれど、私は嬉しいんです。土方さんのことは…全部、あげられないけれど、でも一緒に支えていってほしいって思っています」
あの人は一人で抱え込むから。
二人で支えるくらいがちょうどいいはずだから。
「…おおきに」
君菊が総司の手を握り返した。そして重なった肌に、彼女の涙が落ちる。
「うちの…居場所、作ってくれた…」
はらはらと流れていく涙は止めどなく。
総司は止めなかった。
彼女が流しきるまで、泣けばいい。悲しいのか、嬉しいのか、喜んでいるのか…そのどれでもないのかもしれない。
けれど、ずっと泣きたかったはずだから。
その涙は、とても美しいはずだから。



「君菊」
君菊が屯所を出ようとすると引き留められた。
「土方せんせ」
深く被った頭巾から引き留めた土方を見る。忙しくしていると総司には聞いていたが、思った以上に疲れている様子だった。
「来ていたのか」
「へえ…いまから、帰るところどす」
泣き腫らした顔をあまり見られたくなくて、君菊は目を逸らしつつ返答した。すると土方が「送る」と言い出したので少し先まで一緒にいくことにした。
「総司に会ってきたのか」
土方の顔を見ずに去るということから見当をつけていたのだろう。君菊は頷いて答える。
「…総司さんは、ええ子やね」
許してもらえるなんて思っていなかった。土方のことについては、以前自分から『真剣勝負だ』と告げたのに、どうしても土方の傍に居たくて、あの嘘の世界から逃げ出したくて卑怯な真似をしてしまった。総司に非難されることは覚悟の上だったのに。
「総司は、なんて言ってた」
土方が問うてくる。けれど、何だか教えたくなくて、君菊は「内緒」と微笑んで首を横に振った。
「…まあいい。それより、小者に探させていたが、良い家が見つかった。もう少し落ち着いたら、店の方にも顔を出す」
「おおきに。…土方せんせ」
「何だ」
隣を歩く土方に、君菊は微笑んだ。
「総司さんとは上手く行きはったんやね」
「……」
それまで開いていた土方の口が、急に閉じ強く引き結んだ。土方もその問いに答えることができなかったし、君菊も答えが欲しいとは思っていなかった。むしろ、その答えはもう知っていたから。
「うちは、それでええと思いますえ」
「…何故だ」
それでいいだと?そんなわけあるか、と言わんばかりに土方が睨み付けてくる。しかし君菊は構うことなく言葉をつづけた。
「人一人が大切にできる人なんて…たった一人しかおらへん。それがうちやないということは…随分前から、わかっていたような、気がします」
総司は二人で土方を支えたいと言ったけれど、きっと土方はそれを求めたりはしないだろうと君菊は思った。土方が選ぶ人間は結局たった一人で、それは自分ではない。
しかし不思議と、その事実がわかっても悲しくはなかった。悔しくはなかった。
「恋は今は あらじと我は 思へるを いづくの恋ぞ つかみかかれる」
「…なんだ?」
「万葉集どすえ」
君菊は空を見上げる。夕暮れ時の頼りない明るさに、夜の暗闇が迫る。赤と、黄色と、黒。そして灰色の雲が混ざり合い、溶け合う。いつも見ている空なのに、まるで初めて見るように感じる。きっとそれは土方の傍にいるから。愛しい人の傍にいることで、こんなにも澄みきった気持ちになれるのだと知ったから。
それが、今は幸せだから。
「もう二度と…恋なんてしないと、思うてました。せやけど、先生に出会えて、こんな気持ちで、こんな晴れやかな気持ちでいられる。…うちは、それだけで十分どす」
「…君菊」
空から視線を移し、土方を見る。君菊は笑った。
「おおきに。ここまででええから」
見送ってくれるのも
そして、傍にいてくれるのも、ここまででいい。
「…何度も思うんだが」
「へえ?」
夕闇に彼の表情が照らされる。困ったように、けれども穏やかに君菊を見ているその瞳は、今までで一番やさしく見えた。
「お前は、本当に欲が無い」
「…おおきに」
君菊は土方に背を向けた。
そして、歩き出した。

嘘の世界しか知らない。そして一度信じた人に裏切られた。
こんな世界で生きていたって仕方ない。
けれど助けられた。もう一度立ち上がる勇気をくれた。
そうしてまた、恋をした。
今度こそ自分だけのものにしたくて、命を賭けて、尽くした。
けれどもその人は別の人を見ていて…知っていて、でもそれでもあきらめられなくて。
自分の我儘で、傍に居ようとした。
(せやけど…あかん)
土方が彼とそして自分を求めるように、自分もあの二人のことが好きだから。幸せになってほしいと思うから。
そして何よりも
「嘘を付くのは…もう、止めようって」
そう決めたから。

だから

赤が、黒に溶けていく。その空は遠く果てなく。どこまでも続いていて


「あはははははははは、あははははははははははははははははははははははは!」

幻聴かと思うような奇妙な笑い声が聞こえた。そしてそれと同時に目の前が真っ暗に閉じる。
「君菊ッ!」
微かに聞こえたのは、彼の焦った声。
どうしたのだろう。何故そんなに焦っているの。
私はここに…いるのに?
「……あ…」
重い瞼を開く。すると膝が力を失い、そして身体中がまるで壊されてしまったかのように崩れ落ちた。
「貴様っ!」
ぼやけた視界。彼の匂い。混乱する頭。まるで自分のものじゃない身体。
そうしてようやく気が付いた。
熱い。体中が熱くて…痛い。
「あははははは!」
誰が、笑っている。
この声を知っている。でもこんな声は知らない。誰?誰が…
「…あ……」
霞む視界に浮かび上がる人影。
歓喜の声を上げる男。しかしその表情は悲しみに嘆く。ちぐはぐな顔。
あなたは…そうだ、私が、殺してしまったあの人の…
「君菊……!」
低く重いあなたの声。憎しみと怒りがこもったその声。愛しい、あなたが…
「待って…」
私は手を伸ばした。どこに手を伸ばせばいいのかわからなかったけれど、闇雲に掴んだ。
身体が痛い。裂けるように、刻まれるように…ああ、そうか、斬られたのか。
やっと理解する。でも理解しない。
「君菊、離せ…お前の仇を…!」
「い…や……」
要らない。仇なんていらない。
だって、私は
「…仕方…ない…」
殺されても、仕方ない。だって、彼が愛する男を、私は殺してしまったのだから。彼が恨むのは当然なんだから。
「ははははははははははは、あ、ああはははは」
美しい彼が、そんな風に、壊れたおもちゃみたいになってしまったのだとしたら。もう殺す必要なんてない。彼はもう死んでいるのと同じなのだから。
「君菊、離せ!」
嫌だ。離さない。もういらない。何もいらない。
がむしゃらに、力を振り絞って掴んだ。そうしていると、バタバタと激しい足音が聞こえて…遠ざかって…
「クソ…っ!」
彼が悔しそうに吐き捨てて、あの美しい彼が逃げたのだと知る。私は何故かほっとして…けれども彼はすぐに私を抱えた。そしてその感情をできるだけ堪えて
「すぐ…医者を呼んでくるから…!」
と私から離れようとする。
「…いらない…」
けれど私は必死に彼の手を掴んだ。生暖かい血が、身体のどこからかで溢れ出ている。致命傷なのかどうかはわからない。
けれど、もう助からない。きっと助からない。
そして彼が身体の力を抜いた。私が諦めたように、彼も諦めてくれた。最後まで私の傍にいる選択をしてくれた。
「うちは……」
「…なんだ?」
身体の力が抜けていく。けれどもどうにか言葉を紡いで、伝えたいことがある。
「幸せ……やなあ…」
彼の手と自分の手を重ねる。しかし少しだけ彼の手が震えていた。
「何が…幸せなんだよ…っ!」
ああ、そうか。ここで死んでしまったら、きっと彼はその悔しさで己を責めるのだろう。
いやや。
そんなのは…
「…好きな人の、腕の中で…逝ける……なんて、」
叶わないことだと、思っていたのにね。
ここはとても暖かい。死ぬことが怖くないと言ったら嘘になる。けれど、いまはとてもぬくもりの溢れる彼の腕にいる。
それが幸せだって。
あなたはわかってくれるよね。
「お前は…本当に……」
彼が私を抱きしめる。本当は痛いのに、でも嬉しい。泣きたいくらいに、狂おしいくらいに
「欲が…無い」
あなたを好きになって良かった。
この最期を、迎えられて良かった。
それだけで
幸せだったと言えるくらいに。





196


君菊が去り、山野が部屋の障子を閉めてようやく一人きりになった。そして山野の言いつけどおり床に横になる。先ほどまで池田屋の興奮のせいか目が覚めて眠気なんて全くなかったが、一人きりになるとどっと疲れが押し寄せて、目を閉じただけで案外早くに眠ることができた。
しかしそれは安眠とは言い難い眠りだった。
寝て早々、自分が魘されているのだと気が付くことができたくらいだ。嫌な汗が流れていて、どうやら暑気あたりがまだ残っているようだもと思った。
ずっと断片的な浅い夢が続いた。池田屋で死んでいった敵の横顔、かと思えば江戸で見た縁日の光景が垣間見えて、しかしまたあの真っ暗で血生臭い場所へ戻る。そうして目の前がぐるぐると畝って、一瞬で暗闇に落とされるような感覚。そして遠くで聞こえる騒がしい声――。
「……ん」
総司は重い身体を起こした。目を擦り外を見ればまだ陽は沈んでいない。明るさから考えれば眠ってから時間が経っていないようだ。
「邯鄲の夢か…」
少しだけの睡眠の間に通り過ぎて行った断片的な映像を繋げると、まるで一生分を終えたかのような重さがある。内容は覚えていないのにまるで長い夢を見たようだ。
深いため息をつきながらその夢へ思いを馳せていると、遠くで声が聞こえた。どうやら夢の末端部分は現の出来事だったらしい。
「騒がしい…」
総司は咄嗟に羽織って部屋を出る。絶対安静だと山野には叱られているが、屯所が敵に襲われているようなら見逃してくれるはずだ。
八木邸を出て辺りを見渡す。屯所には誰もいないものの、通りの向こうに人だかりができていた。後ろ姿を見る限りは新撰組の隊士のようだ。
「何だろう…」
胸騒ぎがする。
総司は一歩、また一歩とそれに近づく。そしてそれはやがて駆け足となった。
「お、沖田先生!」
野次馬の一人となっている隊士が叫ぶ。すると皆が総司を振り返って道を開けてくれた。なかには青ざめた表情の者もいて、総司は「誰かが殺された」と察した。
結果的に池田屋は新撰組の勝利となったものの、残党はまだ散り散りになったままだ。少ない隊士の代わりに会津藩が屯所の警護についてくれていたものの、誰かが油断したのだろうか。そう思いつつ、野次馬の中心へ歩みを進めると血の匂いがきつくなった。そして、そこには思いもよらない後ろ姿があった。
「…土方さん…?」
後ろ姿だが、すぐに土方だと分かった。そして彼の身の回りが鮮やかすぎるほどの赤に染まっていた。
「土方さん!?」
総司は咄嗟に、土方が怪我をしたのだと思った。だが、だとしたらこんなところで座り込んでいる理由はない。そしてその答えを想像する前に、総司は目の前にある光景に絶句した。
「……え?」
まず、真っ赤な水溜りのなかで彼女の白すぎる腕が視界に入った。土方の腕の中で抱かれたその身体には、既に何もないのだと思い知る。そして真っ赤な彼女の唇がいつもよりも鮮明に輝いていた。
「き…みぎ……」
恐る恐る目を走らせる。脇腹の辺りがより一層真っ赤に染まっている。
彼女は死んでいた、殺されていた。
急に足の力が抜けて、総司も土方の隣で座り込んだ。
続く言葉が出て来ない。
何故。
何故。
これは夢なのか
現なのか
良くわからない。
「…誰が…」
混乱する頭の中で、総司は無意識に呟いていた。
「誰が、殺したんですか」
その声は思った以上に冷たく凍りついた響きを持っていた。
ああ、そうか。鬼と呼ばれるのは、こういう時なのか。
そう思えるほどに。
しかし、死んでしまった君菊を抱きしめたままの土方は、ピクリとも動かない。まるで一緒に死んでしまったかのようだ。
「…土方さん」
総司が呼ぶ。目を閉じてまるで何かを堪えるように、土方は俯いていた。
「土方さん…っ!」
そんな土方の両肩を、総司は思いっきり揺さ振った。
「教えてくださいっ 誰が、誰が殺したんですかっ!」
こんなところで座り込んで、悼んで、痛んで、傷んでいる暇なんてない。
殺されたのだとすれば仇を討つ。泣いている暇なんてない。そんなことは当たり前じゃないか。そんなことを、土方は思いつかないというのだろうか。鬼の副長ができないというのだろうか。
「総司」
そこでようやく、土方が言葉を吐き出す。そしてゆっくりとした仕草で総司の方を向いた。涙でぬれているかと思っていた彼の瞳は、その反対に乾ききったものだった。
「俺だ」
「…土方さん?」
「君菊を殺したのは、俺だ」
そこで総司は気が付いた。彼の目は、こちらを見ているようで見ていない。まるで遠くの空を見ているかのように虚ろだった。幼い頃から考えても、こんな土方は見たことが無い。
いつも輝きを漲らせていた彼しかしらない。こんなにも空っぽな彼を知らない。
こんなにも、空っぽな彼を、知りたくなんてなかった。
そう思った瞬間、総司は手を振り上げていた。
「…ッ」
土方の頬に命中した手のひらは、パチンと音を立てた。野次馬のように集まっていた平隊士からもどよめきが起こるが、総司は気にしない。
「しっかりしてください」
その行為とは裏腹に、総司は冷静に土方を諭した。
「…そんなことは、わかっているんです。あなたが、君菊さんを殺したことくらい、知っています」
その言葉は、きっと土方に突き刺さる。一生、痛いほどに、疼きを残すだろう。
しかしそれでも総司は告げた。
まるで、そう言ってほしいように聞こえたからだ。
「あなたが、君菊さんを殺したんです」
総司はまっすぐ彼の目を見て告げた。そうすると虚空を見続けていた彼の目に、ようやく別の色が差した。しかしその色は暗く、淀んだ闇の色だ。
「土方副長!医者が来ましたっ!」
そうしていると平隊士の誰かがそう叫んで飛び込んできた。土方はそれを聞くと、君菊を両手に抱いて立ち上がる。
「…どこだ」
「前川邸の方に通しております!!」
そうして平隊士が案内するのに従って行く。総司は追いかけることなく土方の背中を見送った。
きっと助からない。もう息もしていなかった。
それはこの場に居る誰もがわかっていることだ。
残された真っ赤な血。土方が歩いて行った道標の様に滴った真っ赤な滴。
そういえば、赤い着物が良く似合っていた。
太陽のように笑うその顔を、すぐに思い出すことができるのに。
もうこの世界にはいない。
土方の後姿が見えなくなって、総司はようやく実感する。君菊が死んだ。死ぬはずのない、死んではいけない命が、一つ消えた。
自分たちが手に入れたのは、彼女の命を引き替えにした栄誉だった。誇りだった、希望だった。ずっとずっと欲しかったそれは、本当に彼女よりも大切なものだったのだろうか。

「沖田先生」
野次馬の中から一人が前に躍り出る。山野だ。
「…また叱られちゃいますね」
勝手に寝床を飛び出して、薄着のまま道に座り込んでいた。世話係の山野から大目玉をくらうだろう、と苦笑いを浮かべつつ彼の顔を見ると、本当に泣きそうな顔で
「そうですよ…」
と、泣きながら笑った。そうして手を差し出した。
総司は山野の手に自分の手を重ねて立ち上がる。君菊の血で着物が汚れていたが、まったく気にならなかった。
「…皆、持ち場に戻ってください」
総司は集まっていた野次馬に指示を出す。隊士たちは戸惑った表情のままだったが、「はっ!」と返事をして去っていった。
君菊がなぜ殺されたのか。
土方の妾になる女だと聞きつけたので、池田屋の報復に遭った。
そんな噂が流れるだろうか。
(でも…真実は、僕でさえもわからない)
土方は結局、誰が君菊を殺したのか教えてくれなかった。
「沖田先生も、戻りましょう」
黙り込んだ総司の手を、山野が引く。
力が入らない足を、どうにか引き摺るようにして、総司は歩いた。
そして空を見上げた。
その空に浮かんだ彼女の微笑む顔が、何故だか最後の顔と重なった。
「まったく都合がいい…」
「え?」
山野が聞き返したが、総司は首を横に振って何も答えなかった。
まったく都合がいい。
彼女が、喜んで笑って死んでいったなんて考えるほうが、烏滸がましいというのに。
何故だろう。
そんな希望を持ってしまう。








197


その夜、彼が訪れたのはいつもとは違う部屋だった。
「…夜分にすんまへん」
「いえ、いらっしゃる頃だと思っていました」
総司は穏やかな微笑みで答えた。すると訪問者は少しほっとした表情になった。新撰組監察、山崎烝。その姿を見るのは、池田屋以来だが、おそらくこの数日も残党狩りに奔走しているのだろう。珍しく疲労の色が見えた。
山崎の顔を知らない他の隊士に見られては面倒なので、総司は部屋に招き入れる。幸運なことに、斉藤は夜の巡察へ出掛けていた。
「…会津の方もですけど、隊士も何人か警備をしているはずなのに、山崎さんは易々と潜り抜けちゃうんだからなあ。困ったものですよね」
彼がこうやって忍び込むのはいつも夜のことだ。味方ではあるが簡単に侵入を許している辺りは、改善する必要がありそうだ。
総司は軽い挨拶のつもりで冗談を言ったものの、山崎の表情はいまだ硬い。全く反応はなかった。
そこで本題に入ることにした。
「…土方さんには、お会いできましたか?」
山崎は唇を噛みしめて、しかし首を横に振った。総司は「やっぱり」とため息をついた。
君菊の件があって二、三日経った。あの血まみれの君菊を抱きしめた彼の後姿を見て以来、総司はその姿を見ていなかった。それは他の隊士も同じようで、部屋にこもりきりのようだ。まるで雲隠れ状態で、そこにいることはわかっていても誰も声を掛けられないでいるのだ。近藤でさえも躊躇われるようで、しばらくはそっとしていよう、という隊内の暗黙の了解となった。
「俺の…失態ですわ」
あの時、土方が痛ましい表情をしていた以上に、この山崎も悲痛に歪みやつれた表情をしていた。
「君菊姐さんには、鏑矢の家に身を潜めるようにと……もっと強うゆうておくべきやったのに…何なら、何人か警護に付かせていれば…」
「……」
それを今述べても仕方ないことだ。後悔しても、時間は戻らないし、考えるだけ自分を傷つける。
しかし、監察という使命を背負った彼には吐露する場所もない。土方以上に直接君菊に関わったという責任を感じている彼の弱音を、そう言って一蹴してしまうのはあまりにも酷なことだった。
「油断していたのは、きっと私も同じです」
彼に罪が無いのだとは言えない。だったらせめて自分も共犯者なのだと。その罪の重さを少しでも背負いたいのだと、そう言うしかない。そして君菊に償うとすれば
「…山崎さん、君菊さんを殺したのは、誰なんです」
せめて仇を討つしかない。そんな愚直な方法でしか、もう誰も救われない。それで憎しみの連鎖が続いたとしても、その方法しか知らないのだ。
しかし山崎は望む答えを持っていなかった。
「…君菊姉さんが殺されたときに傍に居たのは、どうやら副長だけのようやと耳にしました。屯所まで来た姐さんを送る途中やったところを…せやから、副長はおそらく斬った相手を知っているんやと思います」
「土方さんだけ…」
「先ほど、副長の部屋に寄ってみたんですが…入れてもらえまへんでしたわ」
山崎は嘆息する。誰もが敵を討ちたいと願うのに、土方がそれを固辞している。頑なに、自分が悪いのだと、自分が殺したのだと繰り返すだけだ。
「…でも、私は敵を討ちたい」
「沖田先生…」
「私は…ずっと蚊帳の外で、何も知らない。何らかの事情があって君菊さんが池田屋の件に関わっていることしか…知らないんです」
何も知らないで、何もわからないでいることが一番幸せだと思っていた。だから、知らないということがこれほどまでに無力なことだと、総司は知らなかった。
だから知りたい。
「山崎さん、教えてください。今まで、何があったのか。どうして君菊さんが殺されてしまったのか…」
「……沖田先生」
少し躊躇いつつも山崎は総司の目を見据えた。
「それはおそらく…沖田先生も嫌やと思う話ばかりやと思います。もしかしたら、副長のことを軽蔑してしまうほどの…」
「…はは」
真剣な顔で問いかけてくる山崎に、総司は苦笑してしまった。目の前の山崎は驚いた顔をする。
「山崎さん、大丈夫ですよ」
「…」
「私が、土方さんのことを軽蔑するわけないじゃないですか」
何があっても、どんな話を聞かされても、彼が隠したいと思っていたことを暴いてしまったとしても。
軽蔑なんてするわけない。嫌いになるわけない。
だって、もう決めたから。
「……わかりました」
少しの沈黙の後、山崎は頷いた。そして長い話が始まった。


「…すんまへん、山南せんせ。今日の所はお引き取りくださいまし」
山南は祇園の町へ出掛けていた。厳戒態勢の警備が敷かれる中で、不謹慎かとは思ったのだが居てもたってもいられず、近藤の許可を得て出てきたのだ。しかし条件として原田を伴うことを約束した。
二人で連れ立ってやってきたのは君菊と明里の女郎置屋だ。どうにか明里に会わせてほしい、と山南は女主人に懇願したが、良い返事はもらえなかった。
すでに君菊が殺されたことは、置屋にも伝わっている。話によると明里も部屋に籠って何日もろくに食事をとっていないらしい。責任を感じた山南はどうにか謝りたくて少しだけでも面会を許してほしいと頼んだのだが
「…誰にも会いたくないと、申しておりやす」
と女主人は頑なに拒否した。それは明里の意思でもあるだろうが、女主人が新撰組を恨んでいるという感情がひしひしと伝わる答えだった。幼い頃から育ててきた君菊をこんな形で失えば、当然と言えば当然の感情だ。これ以上頼んでも暖簾に腕押し、無駄なことだと山南は重々わかっていた。しかしそれでも諦めるわけにはいかない。
「では…明日も来ます。また、その次も来ます。…明里に、そう伝えてください」
女主人は迷惑そうに顔を顰めたものの頷いた。山南はどうにか自分を納得させて踵を返した。そして少し離れた場所で見守っていた原田の元へと向かった。
「どうだった?」
答えはわかっているだろうに、原田は直球で訊ねてくる。山南は首を横に振った。
「誰にも…会いたくないそうだ」
「…山南さん、諦めるしかねえよ。いまは何をしても無駄だ」
わかっている。
いまは、彼女も理解できないはずだ。何が起こって、どうしてこんなことになってしまったのか。新撰組を恨んで、憎んでも当然なのだ。
だからこの先、一生彼女に会うことができなくても、諦めなくてはならない。そんなことはわかっている。
「私は…明里の光を奪ってしまったんだ」
「光?」
屯所へ向かう道すがら、山南は口を開いた。
「盲目になってから…明里にとって、君菊さんは光だった。道を照らす経った一筋の光で…希望だったはずなんだ。それを私は奪ってしまった」
「山南さんのせいじゃねえだろう」
「だからと言って土方君のせいではないはずだ」
誰かのせいにするとすれば、きっと新撰組のせいだ。守れる力を持っていたのに、誰もそうすることができなかった。
「…原田君、前に私のことを『甘い』といったのを覚えているかい?」
「ん?そうだったっけ?」
原田は首を傾げた。とぼけているのか、本当に覚えていないのか…山南にはわからなかった。
あの雨の日。芹沢を殺した夜。原田が告げた『あんたは甘い』というあの言葉が、一番的を射ていた。
「…一年前から、私は本当に成長が無い。自分を甘やかしてばかりで、池田屋の一件にさえ携わることができなかった。これで新撰組の副長だというのだから笑いものだよ」
「それは…仕方ねえことだろう」
「仕方ない、で許してもらえるだろうか。私だけがぬくぬくと屯所で待っていたかと思うと…自分を殺したくなるよ」
池田屋のあの夜。祇園町会所へ出て行った仲間を見送って、屯所の警備の指示をだし、山南はひたすら待ち続けた。そうしていると数人の遺体と怪我人が続々と戻ってきた。あの時の仲間を見殺しにしてしまった無力感と悔しさは言いようがないものだった。
原田は珍しくそこで言葉に詰まった。ポジティブな彼はいつも励ます言葉を見つけようとするのに、それさえもできなかったようだ。山南は彼を困らせるつもりはなかった。
「…だから、私は自分ができることはすべてやりたいんだ。それがどんなに無駄なことだとしても…」
嫌われたっていい。憎むことで生きていくことを選んでくれるなら、まだそのほうがマシだ。
君菊を失った今は、自分が光にならなくてはならない。鈍く光ることしかできなくても、それでもできることをやるしかない。
山南は足を速めた。
今できることは、何か。それを考えるために。








198


前川邸の敷地内に建てられた道場。どことなく試衛館の面影が感じられるこの場所は、総司に取っても懐かしさが込み上げて、一番心が穏やかになる場所でもあった。
医師から「もう大丈夫や」とお墨付きをもらったものの、世話係の山野は頑なに「用心の為」と総司を外に出そうとはしなかった。彼を怒らせるのは本意ではなかったし以前、彼から怒られた反省から、しばらくは言うことを聞くことにしておいた。
しかし、身体を動かしたい、剣術が訛る、稽古がしたい…とぼやく言葉は我慢できなかった。すると見かねた山野は、
「仕方ないですね」
と苦笑して、ようやく床の上から出してくれた。そして久々に袴の紐をきつく締めて向かったのは、道場だった。
その道場の真ん中で総司は目を閉じた。
稽古の時間が終わり、夕餉の支度をする音が遠くで聞こえる。池田屋から数日、ようやく新撰組はいつもの安寧を取り戻しつつあった。
だが、その平穏な音を無視して総司は己の心に耳を傾ける。
山崎から聞いた話は、確かに思った以上の衝撃があった。
土方が最初から君菊の気持ちを利用することを考えていたということ、そしてそんな君菊が吉田稔麿による無体な振る舞いの被害を受けていたこと、しかしそれでも君菊はその間者としての役目を全うしたこと。それも命賭けだ。
女にはとても為しえないことだと思いつつも、しかし君菊ならやってのけそうなことだ、と総司は思った。最初であった時から、彼女は愛らしく、悲しく、そして誰よりも頑固で一筋の信念を持っていた。決して折れないが、竹のようにしなやかだった。
そんな彼女は、きっと土方にとって大きな力になっただろう。儚いまでの献身が、この池田屋の勝利を得た。監察の山崎も、そう語っていた。
「何をしている」
静まり返った道場に、凛とした声が聞こえた。総司はゆっくりと目を開けて、そちらを見る。
「…空耳かと思った」
その姿を確認して苦笑した。道場の入り口に上半身を預けるようにして、土方が立っていた。どうやら少し前からそこに居たようだ。
「身体はもういいのか」
「はい。あ、ちゃんと山野君のお許しも出てるんですからね」
総司は明るく返したものの、土方は「そうか」と一言つぶやくとまた黙り込んだ。
2、3本の灯りのなかでは土方の表情は良く見えない。だが凭れかかったように立つ姿は少し力なく見えた。誰が見ても疲労しているというのがわかり、それは今までの土方副長にはあり得なかったことだ。
総司は立ち上がった。そして土方の元へ近づくと、その手を取った。
「土方さん、稽古をしましょう」
「…あ?」
気怠そうな返事も構わず、総司は土方の腕を引く。そして道場の真ん中に立たせると、木刀を渡した。
「土方さんのことだから、きっと稽古をしに来たんでしょう」
「総司、俺は…」
「いいから、早く構えてください」
土方の言葉を遮って、総司は木刀を構える。どんなに土方が拒否したとしても、自分は譲らない。その信念を込めて土方を睨むと、彼は渋々ながらも構えを取った。
そして合図もなく稽古が始まる。
池田屋から数日、床に寝続ける生活は思った以上に総司の腕を訛らせていた。何よりも通常よりも重たい試衛館の木刀が少しだけ重く感じられるのがその証拠だ。そのせいでいつもよりもキレが悪いのは自覚できた。
しかし土方の方も調子がいいとは言えなかった。普段から副長として振る舞う土方はあまり稽古の場に顔を出さない。自ら指導することも試衛館の頃から比べたら減ってしまっただろう。それに加えていつに比べても集中力が無い。気にかかることがあるからだろう。
激しくぶつかる木刀。その衝撃で、バランスを崩しつつも間合いを取る。
「…山崎さんから全部聞きました」
「……」
総司が話を切り出すと、土方が苦い顔をした。
「そうか…」
そして彼は木刀を降ろした。
「土方さんが私には何も話してくれなくて…どうしてだろうっていつも思っていました。でも…納得しました」
「…納得?」
「あんなこと…頼りない私には、話せないですよね」
はは、と総司は自虐的に笑った。
山崎に聞いたことをあの時知っていたとしても、総司には何もできなかった。君菊を危険に晒すことを土方に怒りはしたかもしれないが、それが新撰組の為ならば仕方ない、と納得してしまっただろう。だから、結末は変わらなかった。
その傷みを、重さを背負わないでこの場所に居られる。それは結局は、土方が守ってくれたのだ。だとすれば、弱い自分が情けない。
しかし、
「違う」
と土方は強い口調で否定した。
「俺は…お前に嫌われたくなかっただけだ。君菊のことを知ればお前は…俺を蔑むだろう。それが、怖かっただけだ」
蔑む。
そんな感情を、土方にもつなんていう選択肢が総司にはない。だからこそ、土方の台詞には驚いた。
「情けないのは俺だ。鬼の副長なんていう言葉を褒め言葉だなんて思っていたくせに…土壇場になればこうだ」
「……」
「嫌いになったか?」
その一瞬、風が吹いた。道場を流れる風が、仄かに照らしていた灯りを揺らす。その赤い光が少しだけ土方の表情を照らした。
彼はとても優しい穏やかな顔で、でもとても泣きそうな顔をしていた。
そんな頼りない姿を見るのは初めてで、総司は思わず持っていた木刀を落とした。ガタンっという木刀の音が、道場に響く。
そして土方に近づいて、襟を両手でつかんだ。
「…土方さんは、やっぱり…馬鹿です」
「馬鹿…」
「ええ、とても…馬鹿です」
いつもなら一発殴られそうなものだが、土方は否定することなくその言葉を甘受する。しかし総司の意図とは違っている。
「私がそんなことで…歳三さんのことを嫌いになると思ったんですか?」
襟を握る指に力が入る。
「私は一時の感情で…歳三さんのことを好きだと言ったんじゃありません。歳三さんの優しいところも、怒るところも、拗ねるところも…非道なところも、全部知ってるに決まっている。それをわかっていて、そう言ったんです」
「総司…」
近距離で良く見える土方の顔は、少し唖然としている。しかし構うことなく総司は土方の目を見つめた。
「私は…君菊さんが亡くなって、悲しいよりも…羨ましいと思った。役目を全うして死んでいった彼女は、きっと誰よりも誇り高く死んでいったのだろうから。あの人は、そういうひとだから…だから私は、悲しいよりも先に羨ましいと思ったんです」
池田屋の時、自分は成し遂げることができなかった。終りまで近藤を守り続けるという約束を、誓いを、守ることができなかった。その後悔と無念は心の隅に在って、消化不良のままに終わった。そしてそれとは反対に、命を賭けて使命を全うした君菊。正直羨ましかった。
「歳三さんは、そんな私のことを嫌いになりますか?」
総司の問いかけに土方は即答した。
「そんなわけないだろう」
「じゃあ、それと同じです」
総司は強く握りしめていた襟を離した。そして土方の胸に顔を埋めるようにして身体を預けた。
「どんなに罪深いことでも…少しでも背負わせてください。同じ道を歩いていくと決めたのだから。だから……もっと、私を信じてください」
信じてほしい。頼ってほしい。人は強くない。あなただって人だから、弱いに決まっているのだから。
弱いところを見せたくないというのなら、そうでもいい。
けれど覚えていてほしい。そんな風に思っている人がいるということを。
「…総司」
優しく名前を囁いて、土方が手にしていた木刀を落とした。そして激しい落下音と同時に、総司の背中に彼の手が回された。痛いほど強く抱きしめる彼が、少しだけ泣いているように思った。
ずっと一緒に居られるなんてない。未来なんてわからない。永遠なんて軽々しく言えない。
だったら、いま、ここに在るものだけを信じよう。
今ここに在る気持ちを、あなたにあげよう。
『不確かな気持ちでも、いつの間にか確かになっていく』
土方への気持ちを自覚することに躊躇いを覚えていた頃、伊庭がそう言っていた。
全くその通りだと思う。
芽生え始めた気持ちはあっという間に成長して、いつの間にかその輪郭を確かなものへと変えて行った。この気持ちが一生変わることなんてないと思えるほどに。
彼が背中に回した腕が少し解かれて、その大きな手のひらが後ろ頭に触れた。そしてそのまま包み込むように寄せられて、その唇が重なった。
乾いた彼の唇。
彼の中にどんな感情があったのか、総司にはわからない。けれど、今までで一番孤独と戦ったのだということはわかった。
そして唇が離れて、一番近い距離で土方と目が合う。
「…総司、一つ頼みがある」
土方は真摯なまなざしを総司に向けた。
「何ですか…?」
「君菊の仇を討つことは…許さない」
「……」
駄目だ、ではなく、許さない。
その言葉の選択には、何よりも土方の頼みの強さを感じられた。しかし
「…どうして、ですか」
仇を討つことでしか彼女を弔うことができない、と思っていた総司は納得ができない。彼女が死ぬ現場に居合わせなかった分、仇を取るという選択は自然なものだった。しかし土方は首を横に振った。
「それが、君菊の願いだからだ」
「…願い?」
「俺は…あの時、本当なら仇を討つことができた。追いかけて斬り伏せてやるつもりだった。だが…君菊が止めたんだ」
「止めた?」
土方が唇を噛む。その時の情景が脳裏に過ったのだろう。
「仕方ない、と言った。自分が恨みを買って殺されることを…受け入れたんだ」
「……」
ああ。そうだ。
総司の中で何かがすとん、と落ちた。
そうだ、君菊という女は、人間は、そう言う人だ――。
「…本当に、君菊さんは土方さんのことが好きだったんですね…」
総司はまた、彼の胸に顔を埋めた。
いつもの匂い。いつもの温もり。いつもの鼓動が聞こえる。
「……少しだけ、いいですか」
きっと自分が悲しんだら、土方はもっと傷つく。だから押さえつけていたのに、けれどどうしても溢れ出てくる。
いつもあの温かさに救われていた。朗らかで優しい笑顔に姉を思い浮かべて、けれどすこし子供っぽくて頑固なところは素直に可愛い人だと思えた。
ああ。彼女が居なくなってしまった。
かけがえのない人が、いなくなってしまった。
「…っ、うぅ…」
溢れ出てくる涙が、抑えきれなかった。彼女を思う涙はいつまでも止まりそうもない。
震えながら泣く総司を、土方が抱きしめた。彼が泣いているのかは、わからなかった。




199


日を追うごとに、池田屋での出来事は京中に広まった。
元々長州贔屓であった都の人々は、ただの荒くれ者の集まりという新撰組の認識を改めることとなった。ある者はより一層新撰組おそれ、ある者はその実力に嘆息した。しかしみな一様に新撰組おそれ、彼らに一目置くこととなる重大な事件であった。
特に昨年の八月十八日の政変で京都を追われた尊攘派が、その巻き返しをはかり『京の焼き討ちをはかり、帝の誘拐を企んだ』という話は瞬く間に伝わった。帝への信仰のあつい人々からすれば、それまで弱者の象徴であった長州の浪人に些か腐りきった幕府の再生を期待していたものの、一瞬でその期待は裏切られ一気に流れは幕府へと傾いた。
そして幕府側からすれば、幕府に西国の思惑が絡む政局を幕府主導に引き戻すことができ、以降の蛤御門の変(禁門の変)、長州征討へ繋がっていくこととなる予兆となった。
逆に長州藩はそれまで頭角を現していた政局での出鼻を挫かれ、吉田稔麿・宮部鼎蔵ら有能な人材を失うこととなった。この池田屋での騒動…『池田屋事件』は優秀な人材を失ったために明治維新を一年遅らせた、逆に西国諸藩を刺激し一年早めたとも呼ばれることとなるのだった。

しかし、そんなことを露とも知らぬ新撰組では、厳戒態勢が続いていた。が。
「つってもよ、諸手を上げて喜べないとはいえ俺たちの活躍は夜に広まったよな!」
腕を組み喜びをかみしめる原田はうんうん、と頷きながら語る。しかし
「もう、原田さんその話何度目ですか…」
と藤堂は苦笑して指摘した。
お見舞いだと部屋を訪れては、そんな風に感慨深く原田は語る。額を斬り戦線離脱した藤堂への労いなのかもしれないが、何度も聞かされると「またこの話か」とうんざりしてしまうのは仕方ないことだろう。ただでさえ、病人でもないのに横になっていなければならない生活は苦痛だと言うのに。
「平助が困っているだろう。いい加減にしろよ」
原田の付き添いでやってきていた永倉が注意する。永倉も利き手を負傷している怪我人だが、今動ける人数が少ないなかで、永倉まで離脱してしまうのは心もとない、と早めに復帰していた。
「余韻に浸ってんだよ。いいじゃねえか、取りあえず会津さんが警備してくれてんだから屯所で力ぬいたって」
「そりゃかまわないが、平助に迷惑だろうが。いつもいつも同じ話を…」
「同じじゃねえよ。今日はいい報告があるんだ」
「いい報告?」
藤堂と永倉がユニゾンして原田に問う。すると原田はふふん、と腰に手を当てた。
「おまさちゃんがついに俺に惚れたんだよ!」
自慢げに語った原田に、思わず藤堂は
「そんな馬鹿な」
と答えていた。
おまさはここいらでは有名な商人の娘で、今は甘味屋を営む親せきを手伝っているという。京女らしくないさっぱりとした性格で、愛想のいい小柄な女性だ。原田は出会った時からおまさに夢中になるものの、そのしつこさ故かなかなかおまさに好かれず、むしろ永倉にもって行かれてしまうという残念な状況だった。
人間観察が趣味の藤堂からしても、おまさが原田に惚れるという確率はないと踏んでいたので、原田の言葉に関しては「勘違い」としかいいようが無い。
しかし、原田は自信満々に
「嘘じゃねえって。この間だって、屯所に来てくれたのも総司やお前らを心配したからだって照れ隠ししてただけで俺のことを心配してたんだって」
「でもお前死んだと思われてただろうに」
「しんぱっつぁんは黙っててくれ」
…不都合な横槍は原田の耳には入らないようだ。藤堂と永倉は目を見合わせてため息をついた。だが、原田の話は続く。
「その帰り送っていっただろう?その時に俺は危ないからしばらくは会えないって言ったんだ。おまさちゃんの心配をすれば当然だろう!?するとおまさちゃんが何とも寂しげに俺を見てたんだぜ?」
「はあ」
「つまり俺に会えないのは寂しい…つまり、俺に惚れてるってことだろう!」
大声で叫ばれると、すでに痛みが引いたはずの額が疼く。藤堂は眉間に皺をよせつつしかし最良の判断をした。
「ああ…そうかもしれないですね…」
「だろ?!」
下手に否定しても話が長くなるばかりだ。ここはあっさり肯定してやる方がお互いの為だろう。しかし良い気持ちで話を切り上げよう、という藤堂の判断は甘かった。
「だから、おまさちゃんもやっと俺たちのことを「カッコいい」って思ってくれたってことだよ。俺たちの池田屋での活躍が京に広まって、まるで英雄の様に!あの朝、屯所に列を為して歩くのは気持ちよかったよな!つまり俺たちの活躍はだな…」
どうやら…話が振り出しに戻ったようだ。
長い話になりそうだ、と永倉は頭を抱え、藤堂は布団を頭からかぶったのだった。


「無理しやがって」
一方、総司の部屋を訪れた土方は早々にため息をついた。そこには再び床に横になる総司と、少しだけ口をすぼませて拗ねたようにしている山野の姿があった。
「少し気分が悪くなっただけです」
「先生が大丈夫だと言うから僕は稽古に行ってもいいと言ったんです」
「だから…あの時は大丈夫だと思ったんですって」
山野が冷たく総司の言葉を否定して、総司は年下の彼に言い訳をしている。その構図は土方にとって見慣れない新鮮なものだった。
道場で土方と軽く稽古をした総司は、そのあとすぐに顔色を悪くした。「眩暈がする」と言い出したため、土方は慌てて山野に医者を呼びに行かせた。すると駆けつけた医者は
「わしはもう大丈夫だと言っただけで稽古をしていいとまでは言っとらん」
とやや呆れ気味に診察して去って行った。どうやら暑気あたりではないものの、熱をぶり返したらしい。
そのあと山野から大目玉を食らい、あと三日は床を動かない、十日は稽古をしないと約束をさせられたようだ。
「すぐに粥をお持ちします」
礼儀正しい彼にしては珍しく不機嫌丸出しの表情で、部屋を出て行った。それだけ総司の看病に熱心に取り組んでいたのだろうということがうかがえた。
「お前もたじたじだな」
「…どうしていいか、良くわからないんですよね。謝っても許してくれないし」
床に横になる総司は、少しため息をついた。
いつも年上ばかりを相手にしてきた末っ子には、年下の山野の扱いが難しいようだ。
「それで、土方さんは何の用なんですか?」
「何の用って…決まっているだろう」
それが仮にも恋人に対する言葉か?と土方は疑問に思いつつも、枕元に腰を下ろした。手に筆やら墨やらを抱え、それはいわゆる「お仕事セット」だ。
「これ以上、駄々こねて逃げ出さないようにしばらくは俺が監視してやる」
「え?」
にやり、と土方が笑って見せる。すると総司が感づいたらしく「山野くん…」と悔しそうにつぶやいた。その様子だと、どうやらまた逃げ出す算段を考えていたようだ。しかし残念ながら山野が一枚上手だったようだが。
「さ、斉藤さんも同じ部屋なんですよ」
「知っている。斉藤には俺の部屋を貸しておいた」
用意周到な土方に、総司は少し拗ねた。まるで先ほどの山野のようだ。
そんな総司には構うことなく、土方は持ってきた書物に目を通し始める。池田屋事件から数日、会津からの報奨金の話や近藤の処遇の話や…そして根本的に新撰組の組織を見直す話が浮上していた。
池田屋事件という騒動を介して、隊士不足という根本的な問題が発生した。この先入隊志願者も増えていくはずだろうから、今の局長、副長、副長助勤という制度も変更し、いつでも戦争に行けるような精鋭部隊を作り上げなければならない。そうすればこの屯所も手狭になるかもしれない…
そんな様々なことに気を巡らせていると、袖を引かれた。
「…なんだ」
名前を呼べばいいのに、まるで子供のような仕草だ。
「近藤先生は…お忙しいのですか?」
少し躊躇いつつも、総司は土方に訊ねる。
「ああ…まあ、会津にはたびたび呼ばれてる。お偉いさんと会う機会も多いだろうし、忙しいな」
「…そうですか」
寂しげに総司は俯いて、土方の袖を離した。そして大人しく横になる。
「何だよ」
「いえ…その、最近、お会いしていないので」
近藤は屯所と黒谷本陣を行き来する日々を送っている。山南もまだ体調が優れず、土方自身も屯所を離れるわけにはいかないため、現状忙しいのは近藤の方だ。その姿を見ていない隊士も多いことだろう。
しかし、総司がそんなことを気にするのは珍しい。まだ何か言いたげにしているのを見かねて
「言いたいことがあるなら言え」
と促した。だが
「……別に、何でもないです」
土方の意に反して総司は頑なに口にしようとしなかった。そして「頭が痛い」とこれもまたあからさまな嘘を付いて頭から布団をかぶってしまう。
(何なんだ…)
土方は疑問に思いつつも、強引に聞き出すことはしなかった。




200


総司の具合がようやく良くなり、山野と約束した床を離れない期間が終わったころ。
「いくぞ」
とやや乱暴に土方が総司を連れ出した。それまで監視役として総司の傍を離れなかった土方だったので、久々の外出となる。
「行くって…どこへ」
身支度を整えて、屯所を出たところで総司は訊ねる。しかし土方は何も言わずにすたすたと歩き出した。病人に気遣いのない早足だ。
夏の風がようやく涼しくなった。池田屋の時のあの沸騰する様な暑さがまるで幻のようだ。
(まだ…信じられない)
自分たちが為したこと。その意味は、今の自分たちにはよくわからないけれど、最悪の事態だけは免れることができた。
だが、それを知っている者は少ない。
京の人々はいまだに自分たちのことを恐々と遠巻きに見ている。その様子は池田屋の前後で変わったわけではない。だから実感がわかないのだ。あの時はただ夢中で、必死で、剣を振るっていただけなのだ。それしか記憶がない。
自分たちが勝ち取ったもの、失ったもの。
そのどちらも実感がない。
(それは…最後まで、戦うことができなかったからなのかな…)
総司の中で燻りつづける後悔の感情が、まだ消えなかった。
そうしていると、いつの間にか大通りに出て東へ向かっていた。特に気負うことなく歩いているが、周囲の目が少しだけこちらに集まっていた。そう言えばこの道はあの朝、胸を張って歩いた道なのだ。新撰組の一員として総司と土方の顔が十分に知られたのだろう。
好奇な目線も、不審を込めた目線も全てひしひしと身体に感じる。そしてまるで避けるように距離を取って、通り過ぎていく人々。
自分たちが変わっていないと思っていても、確実に周囲の人間が目を変えていた。
総司は少し先を歩く土方に駆けよった。
「…土方さん」
「ん?」
足並みをそろえつつ、総司は隣を歩く。
「えっと…その」
しかし名前を呼んだだけで、何かが言いたかったわけではない。そして何故名前が呼びたかったのかも、確固たる理由はない。
けれど、たぶん土方が寂しそうな顔をしていたからなのだと思う。
君菊を亡くして、道場でぶつかり合って泣いたあの日から、土方はいつもの彼に戻った。まるであの日ですべて忘れてしまったかのように、いつもの傍若無人な鬼副長に。
その様子に近藤は安堵し、食客たちも胸をなでおろし、隊士たちもようやく緊張の糸が解けた。そして総司もまるで雪が解けたかのように感情が昇華されていった。
しかし、こうして二人きりになると土方はやはり陰りを持つ。まだ彼の中に様々な感情が渦巻いているのだと思い知る。
そうした弱い面を見せてくれるのは、少し嬉しいけれど、やはり傷ましい。どういう言葉を届けていいのかが、わからなくなる。
(…いや、でも)
そうじゃない彼も、支えていきたい。
そう思っているのだから。
「何だよ」
何も言おうとしない総司に、土方が苦笑気味に話を促した。
「え…と、前に、土方さんに渡した下げ緒なんですけど」
「これか?」
土方が刀に手をかける。そこには真っ赤に刀を彩る下げ緒があった。
「伊庭に貰ったんだろう?これ、高ぇもんだろ」
「あ、はい…その」
思わずその話題を振ってしまったものの、そう言えば伊庭に口止めをされていたのだったとようやく思い出す。しかし今更引っ込みもつかず
「将軍様から…下賜された、ものだそうで」
「はぁ?!」
正直に述べると、土方が目を見開いた。そうか、伊庭がみたかったのはこんな風に驚いた顔だったのだと、総司は理解した。そして同時に、その表情がとても自然で、彼らしいものだったことに、安堵したのだった。


「ここ…は」
土方に連れ出されてやってきた場所は、君菊とであった思い出深い場所だった。風の温度は少し変わったけれど、その光景は全く同じだ。
もう半年以上前のことなのに、まるで昨日のことのように覚えている。
彼女は一心不乱に川を歩いていた。川の流れに流されない強さを秘めながらも、しかし死にたいと願っていた。あの時、つなぎとめた命は、少しだけ生き長らえて、しかしまた失ってしまうこととなったのだ。
ここは総司にとって、まるで自分を傷つけるような場所だ。
「土方さん…?」
川辺に立ち尽くす土方の表情は、冴えない。しかし今、彼が君菊のことを想っているのだということは何も言わずとも伝わってきた。
「…これで、最後だ」
「え?」
「悼むのは、最後にしよう」
さらさらと流れる川の音に、その言葉は凛と響いた。
そうして、土方は懐から懐紙を取り出した。そこに包まれていたものを手に取って、そのまま川へ投げる。
「…それは?」
川面にきらきらと光る砂。太陽の光に一粒一粒が照らされて、水面に反射して、輝く。それを風が運んでいく。高く、高く、上へと。
「証だ」
「証…?」
「あいつが、俺にくれた想いの証だ」
土方がいつまでもその光を見送る。まるで光が降ってくるかのように、乱反射するそれは空に昇って行く。
「もう二度と、言わないから聞いてくれ」
「え?」
土方は総司に背中を向けたまま、告げた。まるで空耳かと思うほど弱弱しい台詞だった。
「俺は、後悔している」
「……」
「他にも方法があったはずなのにな。あの時は彼女の気持ちを逆手に取るということが、何よりも最良の手段だと思った。どうしても失敗できなかった」
今までに一度もない、「後悔している」という彼の吐露に総司は驚いた。背中を向けたままの土方がどんな表情をしているのかはわからない。けれどきっと彼の中で渦巻く感情に顔が歪んでいるはずだ。
「それを君菊はわかっていたはずだ。対等な取引でありながらちっとも対等ではない。俺が身請けしたところで何にも報われない。そんなことを…あの察しのいい君菊がわからなかったはずはない」
「でも、それは…」
「そうだ。君菊が望んだことだ。俺は……そう、言い訳をしていたんだ」
土方は総司に口を挟ませようとはしない。けれど、これではまるで総司に許しを乞うているようだ。
「結果がこのザマだ。俺は君菊に何の礼もできなかった。何にも…与えてやらなかった」
自分を卑下する言いざまは、聞いているだけで総司の胸を締め付けた。いまだかつて、プライドの高い土方がこんな風に失敗を晒し、懺悔し、許しを請い、弱いところを見せ付けたことなんて一度もないのだ。
こんな土方は知らない。
「歳三さん、もう…」
「だが、君菊は最後までそんな俺を救ってくれた」
さらさらと流れる川の音が、鼓膜を揺らす。優しく、流れていく。
「…あいつは、最後に俺に言った。『幸せだ』と。俺の腕の中で死ぬことが…それだけで、幸せだと言ったんだ」
『うちの居場所、作ってくれた』
総司にとて、君菊の最後の言葉はそれだった。
きっと彼女は、ずっと居場所を探していた。生まれてきたときから居場所を知らなかった彼女は、ずっと彷徨い続けていた。そして一度は信じた人に裏切られ、居場所を無くした、絶望した。もうこの世界に居場所なんてないのだ、と悟った彼女はその命を絶つ決断をした。
そうしてもう一度見つけようとした。自分だけの居場所。自分が自分だけの場所で、生きて、死ねる場所。けれどそこは自分だけの居場所ではなかった。
けれど、彼女は死ぬことができた。自分だけの居場所で、自分の望む居場所で。
「ああ…」
最期の言葉が、そんな言葉だなんて。
ああ、もう。
「俺たちよりも…よっぽど、武士らしいだろう」
全く、あの人は。とことん、カッコいいんだから。最期のその言葉で、救われる。土方だけではない、きっと彼女に関わった人間すべてが、少しだけでも救われるだろう。
(もう…勝てない…それでいい…)
そう思いつつ、心が穏やかになった。
彼女は嘘を付かない。だから、それは真実だったのだろうから。
ようやく土方が総司の方へ振り向く。その表情は総司が思っていたよりも、穏やかで、憑き物が落ちたかのように澄んでいた。
「総司」
凛とした声に、失っていた強さが戻っている。
「俺は、もっと鬼になる」
「……」
「君菊を亡くしたのは、俺が曖昧なままだったからだ。鬼を被っているようで、鬼を演じているようで……だが、足りなかった」
鬼になる、というのに。
彼の表情は他の誰よりも精悍で、整っていて
「いま、この瞬間から…俺は、何を無くしても後悔はしない。俺は俺のやりたいように、生きたいように、生きてみせる。格好悪くても、足掻いて掴み取って見せる」
誰よりも輝いている。
そんな彼は総司に手を差し伸べる。
「だから…お前も、一緒に来てくれ。今度は失ったりしない。亡くしたりしない…大切なものは、誰にも奪わせない」
いつか。
この先、誰かに罵られるかもしれない。何かを犠牲にして得たこの栄光が、偽りなのだと非難するかもしれない。
けれど、そんなのは、知らない。
今、この差しのべられた手を、取ること以外に何も選ぶことはできない。選ぶ必要もない。
「すごい、殺し文句ですね」
「…うるせえ」
総司がそんな風に茶化してしまったのは、悔しかったからだ。
この人は、一緒に来てほしいと言いながら、それ以外の道を許してはくれないはずだ。そして何よりも、一緒に来るに決まっていると、思っているのだろうから。
「わかりました」
きっと、こうして、手を取ってしまうことを知っているのだろうから。
「ついていきます」
どこまでも、どこへいっても、どこに行こうとも。
結局あなたとともに歩く道にしか、光がないのだ。


水の音が鼓膜を揺らした。透明で、涼やかで、凛としたその音は、どこか彼女の唄声に似ていた。








第二部完





解説
なし
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