わらべうた





201


僕たちの足元を照らしていただけだった仄かな光が、いつの間にか、手に届く範囲を超えて乱反射している。


元治元年六月上旬。前川邸の道場では活気ある声が響いていた。
「熱が入っていますね」
連日の盛り上がりを、残念なことに沖田総司は観衆の一人として見守っていた。医者からは多少の稽古は構わない、と言われたものの「お前の稽古は多少じゃすまない」と皆に止められてしまった。それは試衛館時代から、稽古に夢中になってしまう性分を試衛館食客が良く知っていたし、京にやって来てからも「見た目に反した荒稽古」は平隊士に浸透していた。もうしばらくは病人扱いのままだそうだ。
「よお、総司!」
そんな総司とは真逆に、剣の稽古を苦手とする原田左之助が片手を上げて呼ぶ。総司は野次馬をかき分けつつ前に進み、原田の隣に腰を下ろした。
「もう身体はいいのか?」
挨拶代わりに訊ねてきた原田に「もちろんです」と総司は返した。
「だったらいいけどよ。大人しく養生する平助と違って、お前は駄々こねて何かと理由をつけて床を抜け出すらしいからな」
「…それ、誰に聞いたんですか」
「土方さんに決まってるだろ」
当然だろう、と言わんばかりに原田が答えたので、総司はため息をついた。食客のなかでも一番過保護な兄弟子はそんな風に触れ回っているようだ。
同じく池田屋で額を斬られて昏倒した藤堂平助は、いまだに医者から安静を告げられている。あと少し斬られた部分が違ったら命にかかわることだったようなので、それを避けることができた藤堂は幸運だったともいえる。傷は深く残るようだが、向かい傷だから後々誇りになることだろう。
池田屋から数日。そのあと様々なことがあったので、あの事件が嘘のようだが、この道場の活気を見るとやはり現実だったのだと、総司は思う。
京都守護職より残党狩りを命じられた新撰組は、会津藩の助けを借りつつ奔走していた。池田屋で手柄を上げられなかった土方の組下や、屯所残留組が精力的に探索に向かっているようだ。新撰組の屯所自体も、いつ報復にあうかわからない、という危機感から探索から戻った隊士たちもこうして稽古に臨んでいるというわけだ。
そして今、道場では、二人の稽古を皆が見学している。
「永倉さんと…相手は、誰ですか?」
途中から見学し始めた総司は、面に隠れて永倉新八に相対する者がわからない。少し手数が多く落ち着かない剣捌きではあるが、隊内でも三本の指に入る永倉と良い勝負を繰り広げている。見たところ、総司の記憶している隊士にはいないようだが。
「ああ、会津のだよ。なかなかやるだろう」
「会津?」
池田屋で負傷した隊士の代わりに、会津藩から十数名派遣されている。彼らは屯所の守備に付いたり、一緒に探索に出かけたりしているが、稽古まで参加しているとは総司は知らなかった。
「他の会津藩士はお高く留まっているのも多いんだが、あいつは俺たちと意気投合してさ。好意的に接してくれるんだぜ」
「へえ…名前は?」
「柴だよ」
人情派の原田は、分け隔てなく人と接することができる一方で、権威や権力を振りかざす相手には歯向かう性分がある。その彼が気に入っているというのだから、総司に取ってはそれだけで信用に値した。
「そこまで!」
丁度審判を務めていた隊士が声を上げる。もちろん結果は永倉の勝利だが、柴の太刀筋も悪くなかった。
柴が面を取る。汗を掻き少し息を荒げているものの、
「ありがとうございましたっ!」
と爽やかに礼を告げる様子は確かに好感が持てた。もともとお雇いである新撰組に敬意を払う必要もないのに、彼はそう言うことには頓着しないようだ。
「こちらこそ、ありがとうございました。お若いのになかなかの豪胆な剣でした」
褒める永倉に、柴は「いえ」と首を横に振った。
「俺なんかまだまだで…。これからも良かったら稽古をつけてください」
「ぜひ」
二人は向き合って頭を下げる。総司はその様子を見ながら、早くそこに加わりたい、と切に思った。


八木邸に比べて前川邸は敷地面積が大きく、道場だけではなく台所や小荷方、平隊士用の大部屋と幹部たちの一人部屋がある。
「ああ、ちょうどよかった」
道場を引き上げようとするところで、総司は兄弟子である土方歳三と出会った。
「何ですか?あ、稽古はしてないですからね」
「んなの、当然だろう。いいから、ちょっと話がある」
手招きするのに従って、総司はため息をつきつつ、土方の後を追った。やや強引なのはいつものことだ。そして向かった先は局長である近藤勇の部屋だった。
「ああ、総司か」
総司の姿を見るや、近藤も「ここに座れ」という風に総司を呼んだ。試衛館の道場主だった時からいままで、総司に対してはいつもこんな風に子ども扱いだ。しかし土方がする「子ども扱い」と違って近藤のそれは心地良く、くすぐったいのは何故なのだろうか。
そして部屋には土方と同じく副長である山南敬助も揃っていて、どうやら幹部で会議をしていたようだと察することができた。
「山南さん、身体は大丈夫なんですか?」
夏場にしては厚手の羽織をした山南は、池田屋の前に体調を崩し当日は屯所固めを務めていた。いまだに不調を引きづっているようで、顔色はまだ冴えない。しかし
「その言葉をそっくりそのまま沖田君に返すよ」
と笑われてしまっては何も言えない。「意地悪だなあ」と総司は苦笑した。
「それで、私に何か?」
「ああ。そのうちみんなに発表しようと思うことなんだが、総司には先に確認してほしくてな」
近藤が懐から一枚の紙を取り出した。それを広げて総司の方に向ける。
「これは…?」
「新しい隊の編成だ」
総司の疑問に土方が答えた。よくよく見えるとそれは土方の筆跡だったので、新しい編成なるものは土方が考えたのだろう。
「池田屋の一件以来、幕府と長州の過激派の緊張が高まっています。仲間を殺された恨みで軍を上げて上洛しようという動きもあるらしい」
「戦になるということですか?」
総司は驚いて山南に訊ねた。新撰組が起こした事件が、そこまでの大事になっているなんて総司には想像もできないことだった。
「あくまでその可能性もあるということだ。探索に出ている奴らが捕縛した人数もまえよりも増えている。何らかの意図をもって上洛している奴らが多いということだ」
土方が書面を指さす。
「そこで、いままで漠然とそれぞれの副長助勤の組下に配属すると言う形でやってきたが、それじゃあ内輪でしか通じねえ。俺たちも『軍』と呼べる組織を作ることにした」
「はあ…」
「まずは近藤先生が局長、俺は副長…それは変わらずだ。そして山南さんには総長という新しい立場になってもらう」
「総長?」
土方が指さす図面には、局長の下に副長、そしてその間に加わる形で総長のポジションが書かれている。どうやら総長というのは副長よりも上のポストだということはわかるが、その役割は曖昧だ。
総司が何となく不安になっていると、
「ろくに仕事ができない私に、土方君が設けてくれた役割なんだ」
と山南が説明した。その言葉に特に棘はなく、土方に感謝しているような口ぶりだった。近藤も
「これからは主に屯所内に目を配ってもらう。隊士も増やしていくつもりだから総長のような立場があると俺も安心だ」
と言ったので、まさにその通りなのだろうと思う。
「続けるぞ。…今後は助勤の組下に数名の隊士を配属させる。ただし、一番隊、二番隊という名称に変えてそれぞれに役目を与える」
「一番隊…」
数字に置き換えると何だか仰々しく聞こえる。しかしその慣れない響きよりも総司を驚かせたのは
「私が一番隊を率いるんですか?」
土方が指さした『一番隊』の文字には、『沖田総司』の名がしっかり描かれていたということだ。そして『伍長』という次なるポジションに島田の名前、そして数名の知った名前が組下になるようだ。さらに続く二番隊には永倉、三番隊には斉藤…という風に続いていき、最後の十番隊には原田の名前があった。
それはあくまで実力順ではないだろうが、それにしても一番隊、というのは最も名誉と実力を兼ね備えた隊だということがすぐにわかった。組下の隊士がみな精鋭だったからだ。
「一番隊は隊の顔であり、局長の新鋭部隊でもある。何かあれば率先して戦場に出ることになるだろう」
「どうだろうか。土方君と相談してやはり沖田君が適任だということになったんだ」
この部屋に連れて来られたのは、その了承を得る為だったのだろう、と総司は気が付く。近藤の一番弟子であり、実力をも持つ総司が一番隊に就くというのは当然と言えば当然なのだ。だが
「……少し、考えさせてください」
逡巡して総司がそう答えると、三人は驚いた顔をした。光栄な話を二つ返事で受けると思っていたからなのだろう。
「総司。深く考える必要はないんだ。今まで通り仕事をするだけでいいんだぞ?」
駄々っ子をあやす様に、近藤が説く。そして山南もその隣で頷いた。
しかし
「土方さん、答えは急ぎますか?」
と、総司は土方に訊ねる。土方は眉間に皺を寄せつつ「明日までだ」と重く答えた。
「わかりました」
総司は頷いて、腰を上げる。
「すみません。明日にはちゃんと決めます」
そう言って呆然とする二人と、不機嫌そうに顔を顰める土方に背を向けて、総司は部屋を出たのだった。




202


翌日は、夏の日々には珍しい雨となった。猛暑が続いていた毎日に潤いを与えたが、その一方で身体に纏わりつくような湿気が鬱陶しい。そんな少しだけ憂鬱な日だった。
「おい」
縁側に腰掛けつつ、雨の様子を窺っていると思っていたよりも早く、土方がやってきた。
「…おはようございます」
土方は朝に弱いので、こんなに早く八木邸へやってくるのは初めてだ。せいぜい朝餉をとった後ではないと出歩くことはしない。何か緊急の用事がない限り。
「明日まで待ってくださいって言いましたけど、今日の夜までは勘弁してくださいよ」
「…」
茶化してみたものの、土方の表情は相変わらず不機嫌そうだ。
『一番隊』という重責ある立場を、総司なら引き受けると彼は思っていたのだろう。局長の親兵であればなおさらだ。しかし、総司の色よい返事がなかった。
雨が地面を打ち付ける音がどこか土方との距離を感じた。縁側に腰掛けた総司を、土方が黙って見下ろしている。彼は答えを待っているのだと、総司はわかっていた。
「…お前、断るつもりじゃねえよな」
「……」
土方の問いかけに、総司は無言で返す。
「俺の命令じゃねえ。近藤先生が、お前が一番が良いと言ったんだぞ」
「…やりたくないとか、できないとか…そういうことじゃありません」
「じゃあなんだよ」
答えを促されても、総司は何も返さない。
すると見かねたらしい土方が、ようやく総司の隣に腰掛けた。そしてまじまじと総司の顔を見ながら
「お前、まさか池田屋のこと、気にしてるんじゃねえよな…?」
と訊ねた。
「…」
変わらず、総司は何も言葉を発しなかったが、表情の機敏な変化が土方には伝わっただろう。皆には隠し通せることが、いつでも土方にはお見通しなのだ。
すると土方が少しため息をついて、困ったように頭を掻いた。「やっぱりか」とつぶやく。
「確かに体調の管理ができていなかったお前が悪いが…あの時は仕方なかっただろう。人手もいなかったし、体調が悪かったとしてもお前は無理にでも出動したはずだ。だったら結果は変わらないし、無事だったことに違いないんだ」
「…そんなに、簡単に割り切れません」
池田屋で近藤が無事で、皆が無事で、『勝った』と宣言できたのはあくまで幸運だったからだ。自分は何もできなかったし、二階を守ることさえもやり遂げることができなかった。
自分を責めても仕方ないことはわかっている。後悔しても、何も戻ってこないし、死んでいった仲間も報われない。
でも、だからと言って自分が『一番隊』であることを、許してもいいのだろうか。
「もしかしたら…私のことを相応しいと思わない隊士が居るかもしれないじゃないですか」
「んなの、居るわけねえだろ。お前が一番の遣い手だってことは皆わかっている」
遣い手なら他にもいる。永倉は怪我を負いつつも最後まで戦いきったし、土方の隊に所属していた斉藤が池田屋にいれば、もっと活躍できたかもしれない。だから、それは理由にはならない。
「私じゃなくても…いいじゃないですか」
誰かが許さないかもしれない。そして何よりも、自分が許せない。
色んな言い訳を考える。けれど結局は、自分にその勇気がないだけなのだ。一番隊になったらこれまで以上の活躍を求められるだろう。そして自分はその期待に応えることができるのだろうか。また、戦場で離脱する様な恥を晒すことはないだろうか。
そんな不安を、払拭したいのに。払拭できる根拠がいま、見つけられないのだ。
雨の音が頭の中を掻き乱す。煩くて、仕方ない。
「……面倒くせえ…」
しかし、隣に座る土方は、呟くようにそう言った。総司がみると、ため息をつきながら不機嫌そうに顔を歪めていた。
「…土方さんには、わかりませんよ」
「あ?」
身体中に火が付いたかのように、感情が込み上げてくる。そうだこれは、怒りだ。そう気が付いたときには
「ばーーーーーかっ!」
と、土方に向かって啖呵を切って立ち上がり、その場を離れたのだった。


総司が前川邸の道場で、221回目の素振りをし始めた頃には、既にその怒りは引いていた。汗を流せば冷静になるのは相変わらず自分が剣術馬鹿だからなのだろう。
「…幼稚すぎたかな…」
『面倒くさい』という土方の感想に、心の中で込み上げてきた苛立ちや怒りはもっと複雑なものだったはずなのに、土方に浴びせた暴言は子供の頃と変わらない幼稚なものだった。土方のぽかん、と驚いた顔が目に焼きついてしまう。
土方が悪いんじゃないし、誰かが悪いんじゃない。そして結局は自分が一番隊を率いることになるのだろうということは頭では理解している。
けれど、心が追い付かない。心の整理が終わらない。
「…でも面倒くさいっていうのは、あんまりだ」
人が真剣に悩んでいるというのに、相変わらず土方が総司のことをわかっているのか、わかっていないのかよくわからない。
「あの、沖田さん…ですよね」
朝早くに、道場は誰もいない。総司が声の主を探し振り向くと、入り口付近でこちらを窺っている青年が居た。顔に見覚えはあったが、隊士ではない。
青年は総司と目が合うや、その場に座り整った仕草で頭を下げた。
「私は会津藩士の柴司です。お邪魔しても宜しいでしょうか」
柴司、という名前を聞いて総司はようやく思い当たる。昨日、永倉と試合をしていた若い会津藩士だ。
「え、あ…どうぞ」
「ありがとうございます!」
柴は顔を上げると本当に嬉しそうにこちらにやってきた。本来であれば柴が総司に頭を下げる必要はないのだが、礼儀正しい青年だ。原田が気に入るわけが良くわかった。
「あの、お身体の方は?」
「いえ、おかげさまで大丈夫です」
「だったら、良かったです。あ、僕の方が年下なんですから、敬語を使わないでください」
そう言われつつも総司は少し戸惑った。敬語を使うのは癖になっているのだ。
それにしても新撰組を見下したり蔑んだりする会津藩士も居る中で、好感のもてる青年だ。凛々しい目元に、すっとした輪郭。どこかの若君のように品がある顔立ちだった。
「一度だけでも稽古をつけていただきたいと思っていたんです。天然理心流の塾頭をされていたと」
「ご存じなんですか?」
「はい。江戸藩邸に少し居たことがあって…この道場の木刀も天然理心流に倣ったものなんですよね」
「ええ、通常よりも太くて重いはずです」
丁度素振りをしていた総司は、手にしていた木刀を柴に渡した。柴は嬉しそうに受け取ったものの、それを手にした途端顔を顰めた。彼が思っていた以上に重かったようだ。
「すごいです…!やっぱりみなさん、厳しい稽古をされているんですね。僕は何度も新撰組の皆さんに元へ剣術を習いに行きたいと進言したんです。剣は強い方に教えてもらうのが一番だと。けれどお許しがもらえなくって…」
「あはは、それはそうでしょうね」
お雇いである新撰組は、会津の下部の組織だ。柴のようなれっきとした会津藩士が稽古を請うようでは示しがつかない。
「本当は学問を学んだ方が良いというのはわかっているんです。兄にも何度も叱られました。けれど、僕はいざというときに上様を守れる力が欲しいんです」
「……」
昨日の永倉との試合を見る限り、彼は会津のなかでも有望な遣い手だろう。彼の兄という人が、次は学問をしろ、と言うのも当然のことかもしれない。
(でも…わかる)
剣術の稽古ばかりして、と姉は呆れていた。けれど、総司自身がそうであるように、いつまで経っても「これでいい」と思えないのだ。いくら周囲に「天才だ」「強い」と称えられても、自分が納得できたことは一度もない。もしかしたらこの先も、そう思えることはないのかもしれない。
だから続けていく。更なる高みを目指すために。
「…稽古、しましょうか」
「はい!」
柴の瞳が、きらきらと輝いていた。それはまるで試衛館にいた自分を見ているようで、眩しかった。

「柴!」
稽古を始めて小一時間。ようやく柴が木刀に慣れてきて、息を切らして素振りを始めた頃だった。道場にやってきたのは、また総司に取っても面識のない顔だった。柴のことを呼び捨てにする当たり、会津藩の先輩藩士というところだろう。
総司に構うことなく、彼は
「出動だ、集合しろ!」
短く命令するとすぐに出て行った。あの様子だと何か緊急のことがあったのかもしれない。柴もそれを感じ取ったらしく、顔を少し強張らせつつも
「沖田さん、申し訳ありません…」
と謝った。
「いえ、構いません。また戻ってきたら稽古をしましょう」
本来であれば新撰組がやるべき仕事を彼らがやってくれているのだ。稽古が途中になったとしても総司に異存はない。
柴は深々と頭を下げて礼をして、道場を駆け去って行った。
その後ろ姿を見送っていると、そう言えばいつの間にかムシャクシャした気持ちが薄れていることに気が付いたのだった。





203


柴が青白い顔をして戻ってきたのは、その日の夕方頃のことだった。
バタバタと騒がしい足音が聞こえて、総司は刀を帯びて勢いよく八木邸を出た。敵の襲撃を予感した他の隊士も居合わせたが、そこには敵の姿はない。ただ青白い顔をして、副長助勤の武田ら十名ほどが飛び込むように屯所に戻ってきたのだ。
「…なんだろう」
彼らは何も言わず前川邸の方へ向かっていく。固く口を噤んだ彼らの表情から、何かが起こったのだと察することは簡単にできた。
「総司」
後ろ姿を見送っていると、永倉が声をかけてきた。永倉は怪我の為前線には出ないという条件で、武田に同行していた。
「何があったんです?」
「ああ…まずいことになったかもしれない」
武田に比べればまだ冷静な表情を保っている永倉だが、しかしその後ろに控えていた青年の唇は、この暑さだというのに真っ青になっていた。
「柴…くん?」
「あ…」
名前を呼ばれて初めて気が付いたように、柴は総司を見た。しかしすぐに目を逸らしてしまう。屯所を出て行ったときの、あの躍動する輝きは消え失せてしまったように見えた。
何かに怯えるように身体を震わせて眼は泳いでいる。その尋常ではない姿に総司は永倉に目くばせするものの、永倉は首を横に振った。そうしていると
「柴!」
と、聞き慣れない声がした。駆けつけてきたのは名前も知らない会津藩士だ。
「黒谷へ帰還する」
男が命令したその少ない言葉には緊張と焦りが感じられた。柴は顔を強張らせながらも「わかりました」と答えて、永倉と総司に一礼するとその藩士の後ろをついていってしまった。
「何事だ」
連れて行かれる柴を見送っていると、八木邸から斉藤がやってきた。夜番だったため先ほどまで眠っていたのだが、この騒ぎで起きてしまったようだ。
「それが私にも…永倉さん、何か…?」
「ああ…実は」
永倉が重い口調で語りだした。
「監察から東山の明保野亭という料亭に、不逞浪士の輩が居るらしいという情報を得たんだ」
「明保野亭?」
「料亭と旅籠を兼ねているから、討幕派の連中が秘密裏に集っているという噂が前々からある」
斉藤の補足に、総司は「へえ」と頷いた。永倉は「ああ」と同意して、続ける。
「長州の浪人が潜伏しているというから、武田が率いる形で、隊士数名と会津藩士の柴たちが踏み込んだんだ。だが相手は咄嗟に逃げ出した。柴は武田の命令で二階から飛び降りた男を追い、腰の辺りへ背後から突いたらしい」
「お手柄じゃないですか」
「いや、そうでもないんだ」
永倉はため息をつきながら答える。
「…相手が悪かった。逃げ出した男は、土佐藩士の麻田という男だった」
「土佐…」
総司は首を傾げたものの、斉藤の顔色は一変する。
「…名乗らなかったのか」
「ああ。背後から突かれたところでようやく、自分は土佐藩士だからこれ以上は斬りかかるなと声を張り上げた。それで、そのまま土佐藩邸に帰って行ったんだ」
永倉は眉間に皺を寄せて、斉藤は苦い顔をした。二人が醸し出す重い空気のなか、
「えっと…?」
と、いまいち事の重大性がわかっていない総司が説明を求めた。すると斉藤が少し呆れたようにして答える。
「…土佐藩と会津藩はいまは公武合体を進める友好的な関係を保っている。だが、土佐藩では倒幕を企む一派も孕む危うい状態だ。…先日の池田屋でも土佐藩士が混じっていただろう」
「そういえば…」
「そこにこの事件だ。水を注す事態に陥りかねない」
しかも、新撰組隊士ではなく会津藩士自らが土佐藩士に怪我を負わせてしまったという事実が、二藩の関係に罅を入れかねない。総司はようやく理解する。柴がまるで怯えるように青白く身体を震わせていた理由を。
「だが、もとはと言えば、逃げるような真似をした挙句名乗らなかった土佐藩士に非があるのでは?」
斉藤が訊ねると、永倉は躊躇いつつも頷いた。
「…俺もそう思う。柴は職務を全うしただけで、何の悪意もなかった。しかし…そう簡単にはいかないだろう」
「何故です?」
「何らかの刺激を…与えることになってしまったことに違いはない」
柴を庇う永倉の表情は冴えない。昨日見かけた柴と永倉の打ち合いは、息のあったものだった。おそらく二人は総司が知る前から仲良く接していたのだろう。いつも年下なのに冷静沈着で穏やかな彼が深刻に考え込む姿は見たことが無かった。
そうしていうと前川邸の方から騒がしい足音が聞こえてきた。焦った顔で出てきたのは局長である近藤と山南だった。その後ろを武田が従う。
総司は思わず駆け寄った。
「山南さん、お身体は?」
池田屋以前から寝込みがちの山南が、外出するのは珍しい。体調を押してのことかと思いきや、「大丈夫だよ」と穏やかに微笑んだ。
「土方君のご指名だからね。…永倉君も一緒に来てくれ」
「…わかりました」
重たい身体を引きずるように、永倉は総司たちの傍を離れて行った。


夕闇が溶けて黒に染まるころ。
「…どうなるんでしょうね」
近藤たちが黒谷会津本陣へ向かったことで、一時的に屯所に落ち着きが戻った。野次馬の様に集まった隊士がそれぞれの職務へ戻り、総司と斉藤も部屋に戻った。
夕餉が終わったものの、何となく何も手に付かず、結局はどうにもならないというのに、柴の話になってしまう。
「麻田という男が、疾しいことがないのなら逃げる必要はないはずだ。それを背中を向けて逃げてしまったことが事の発端だ」
「じゃあ柴くんは無罪放免と?」
「…そうなれば幸運、というところか…」
斉藤の曖昧な答えは、総司にとっては理解しがたいものだった。それは、そもそも『誤認による殺傷』はこの時代では特に問題視されない出来事だったからだ。身分や素性がはっきりと提示されているわけではない世界で、敵・味方を分けるのは実は非常に難しい。そのため、不審な行動をとればそれを『敵』だとみなすのは当然と言えば当然なのだ。
だからこそ、柴が責められる理由はない。
「すべては土佐藩がどう出るかということにかかっている。おそらくその麻田が斬られたこと…それを口実にして、会津を恨み新撰組を敵とみなす土佐の倒幕の輩が出てくる。それを土佐が諌めることができるかどうか」
「…沙汰を待つしかないということですね」
「ああ」
斉藤は頷く。そしてずっと続けていた足のつめきりの作業に戻った。
考え込んでも仕方ない。良い知恵は山南が出すだろうし、近藤が上手く決断するだろう。それを信じるしかない。
「…それにしても、土方さんが行かないで山南さんが行くなんて、珍しいですね」
「副長が行けば土佐と喧嘩になるだろう」
「そりゃそうですけど」
斉藤のあっさりとした言い草に、総司は苦笑した。確かにあの気の短い土方は「土佐が悪いんだから、こっちが頭下げる必要はない」と会津に対して断言してしまいそうだ。
(そういえば…)
そう言えば、もう夜になってしまった。
一番隊のことに対しての返答の期限だけれども、土方が催促してくる様子はない。おそらく柴のことで慌ただしくなり、忘れているわけではないだろうが疎かになっているのだろう。しかしそれは不謹慎ではあるが都合のいいことだった。まだ確固たる答えが出ているわけではない。
ようやく足のつめきりを終えたらしい斉藤が、小刀を仕舞う。
「まあ、真面目に返答するならば、総長への布石というところか…」
「……あれ?斉藤さん、総長のこと、知っているんですか?」
総司は驚いた。
総長という名称は、土方が考えた案に新しく盛り込まれたものだ。あの編成を見ていない者は知らないはずだ。
「ああ。三番隊のご指名を貰った」
「…もう引き受けたんですか?」
「ああ」
躊躇う様子もなく、斉藤はあっさりと答えた。斉藤がそれをプレッシャーに感じている様子はない。
(嫌になるなあ…)
ちっぽけで、小心者で、怖がっている。そんな風に自分へ劣等感を持ってしまう。羨ましいとさえ思う。
斉藤がちらりと総司を見た。そして何もかもを射抜いたような物言いで
「…何を考えている」
と訊ねてきた。もしかしたら、総司が一番隊を引き受けることをに対して、渋っていると近藤辺りから聞いたのかもしれない。
「……何も」
本当は、不安で、自信が無くて、頼りなくて、弱くて、押しつぶされそうで、怖くて。
聞いてほしい。
『面倒くせえ』
そんな風に言わないで、聞いてほしい。
(…恋人だと、いうのなら…)



204


夜、上手く眠れないほどに考え込んだものの、朝になるとあっさりとその不安は解消されることとなった。
土方の呼び出しによって幹部…と呼ばれる副長助勤の面々が集まる。皆、一様に昨日の出来事に動揺していて、特に隊を率いた武田は眠れなかったのか青ざめた顔をしていた。もともと知識が豊富で、普段から学者風を吹かせるようなところがあり、余裕綽々の態度が気に障る…と反感を覚える隊士が居るほどに、嫌われてはいる。しかしそんな彼だが、同情したくなるほどにげっそりとしていた。
だが、正反対に近藤は笑みを浮かべていた。
「昨日のことだが、会津からお話をいただいた。今朝方、土佐藩へ医者をやったところどうやら受け入れてくれたらしい」
「と、いうことは?」
「…ま、落着というところか」
土方が答えると、永倉や原田たちが歓喜の声を上げた。武田もあからさまに気が抜けたような顔をしていて、総司もほっと胸をなでおろす。
公武合体という同じ目的を持つ会津と土佐。二つの藩が今回の事件によって亀裂を生じてしまう事態に陥ってしまえば、新撰組としても立場をなくしていた。切腹では済まされなかっただろう。
「会津藩士の柴くんもまた明日より新撰組の巡察に加わることになりました。永倉くん、まだ彼には動揺が残っているようだから、助力を頼むよ」
「わかりました」
山南の申し出に、永倉は快くうなずいた。
「よし、じゃあ話は終わりだ。皆、仕事に戻ってくれ」
近藤の意気揚々とした掛け声で、場の空気は和み、解散となる。しかし、そのなかでその場に座り込んだまま、物思いに耽る人物が二人いた。
「…斉藤さん?」
まず、総司の隣に座っていた斉藤。柴の件が解決したというのに、その表情は晴れたように見えない。そして
(土方さんも…)
近藤の隣に座っていた土方も、その眉間に寄る皺を深くしたままだ。
「…」
一度安堵したはずの心が、そんな二人を見ていると騒ぎ始めた。

招集した助勤たちが、離散するとその場に残ったのは土方と近藤だけになった。
「何か心配事か?」
「…いや、何でもない」
柴の一件が、土方のなかではまだ解決になっていなかった。医者を遣って会津は誠意を見せたということで土佐は納得するだろうか?その程度のことで、倒幕を企む内部者を抑え込むことができるだろうか。…その疑問を、土方も、そして斉藤も持っていたように見えた。
しかしこのことを言っても、近藤の不安をあおるだけだろう。土方は「なんでもない」と繰り返した。
「また喧嘩か?」
すると、近藤が少し呆れたように土方に声をかけた。
「『また』…って、総司のことかよ」
「総司以外に喧嘩なんてしないだろう」
「そんなことねえよ」
「どうかな」
いつもは疎いくせに、こういう時だけ察しのいい幼馴染が苦笑していた。
「ああ、そういえば一番隊の件はどうなったんだ。結局、説得はお前に任せたが…総司はなんて言っていた?」
「……」
「もしかしてそれで喧嘩したのか?」
幼馴染の無言の返答は、肯定として受け取られる。土方は隠すのは無理だとあきらめて「そうだよ」とぶっきらぼうに返答した。
土方からすれば、総司の悩みはとてもちっぽけでくよくよしていて…苛立つものだった。池田屋で活躍できなかった、途中で離脱してしまった…と後悔しているようだが、だったらその場に居合わせなかった土方らの組下はどうしたらいいというのだ。
それに、一番隊以外のポジションは既に助勤たちに伝えて了承を得た。誰一人として、総司が一番隊を務めることに異議を唱えるものなどいなかった。
「近藤さんから総司に言ってやった方が良いみたいだぜ」
近藤が懇願すれば、総司は頷かざるを得ないだろう。結局は喧嘩になってしまう自分が説得するよりは、そのほうが近道だ。
しかし近藤は首を横に振った。
「そんなことない。…お前、ちゃんと総司に言ったんだろうな?」
「あ?」
「お前が、総司に任せたいって言い出したんだろう」
土方は近藤の命令だ、と総司に告げたがそれは表向きの理由だった。近藤自身は「まだ若い」という理由で総司を外そうとしたのだが、その時に「総司が良い」と推したのは誰よりも土方だったのだ。
「…んなの、言えるかよ」
「何故?」
「……」
近藤の追及に土方は口を閉じる。
何故総司を一番隊に置きたいのか。今後、一番隊はおそらく精鋭部隊で前線に出る危険の多いポジションになるだろう。そんな場所に総司を置けば、池田屋のときのように命の危険に晒されるかもしれない。けれど、その場所に、総司以外を考えられなかったのだ。
口を閉じたままの土方を見かねたのか、近藤はふっと息を吐いて苦笑した。
「とにかく総司のことは歳に任せるよ。時間がかかっても構わないからちゃんと説得してくれ」
「なんでだよ」
「そうしないと仲直りできないだろう?」
「…仲直り、ねえ…」
喧嘩をしては仲直り。仲直りをしては喧嘩。出逢ってからずっとそれを繰り返しているような気がする。
(成長がねえってことか…)
まあそれも悪くはないだろう。友達で、先輩後輩で、兄弟で、そして恋人のような関係。それが変わらずに続いていく。
土方はどこかため息をつきつつも、仲直りの算段を立てることにしたのだった。


夏の匂いが少し薄れた。湿気の多い暑さは相変わらずだが、それでも時々心地のいい風が吹く。縁側に佇みながらそんなことを感じていると、ひたひたと足音が聞こえてきた。
「お身体の具合はどうですか?」
いつもの台詞を口にするのは山野だ。巡察の仕事の傍ら、総司の世話を欠かさない。
「大丈夫ですよ。いつも言ってるじゃないですか」
「僕は先生の身体のことの言い分は、半分しか信じないことにしているんです」
「酷いなあ」
総司は微笑んだ。池田屋で倒れて以来、山野はすっかり口うるさくなってしまった。しかしそれが迷惑なのではなく、年下の彼が張り切って世話をしてくれているのは有難く、可愛らしい光景でもあったのだ。
「はい、お薬です」
山野が差し出したのは湯呑と薬。そして口直しのお菓子だ。これがないと総司が「苦い苦い」と文句を言うものだから、いつも添えてくれている。まったく気の利くことだ。
「今日は夜から巡察でしたっけ?」
「はい。池田屋以来、皆やる気になって…捕縛者も増えています」
「なるほど」
池田屋で土方組に属した隊士たちは、手柄を上げようと躍起になっている。どうやら池田屋の一件で会津から報奨金が下されるという話もあり、皆眼の色を変え仕事に取り組んでいるようだ。
「島田さんに任せて申し訳ないなあ」
「し…島田先輩は、監察から戻ってきて張り切っているみたいですよ」
山野がやや目を逸らしつつ答えたことに、総司は「ん?」と首を傾げる。いつもはハキハキと言葉を発するのに、淀んだのも珍しい。
「…そう言えば気になっていたんですけど。山野君と島田さんって仲良かったでしたっけ?」
「えっ?!」
「いえ、池田屋のときも土方さん変なことを言っていたし。島田さんが監察に異動になる前はそんなに親しい感じじゃなかったですよね?」
覚えているのは山南に誘われて遊里に出かけたときに、一緒になったくらいだ。総司からすれば、いつの間にそんなに仲良くなったのか、少し疑問だった。
山野は「えっ…と、その」と言い淀み、もごもごと口を動かす。
「…まあ、島田さん悪い人じゃないし、可愛がってもらっているなら、私は安心なんですけど」
「え?」
「あ、虐められているなら言ってくださいね」
ぽかんと口を開けた山野を尻目に、総司は渡された薬を一気に飲みほした。その苦味を感じてしまう前に、菓子を口に入れるとほんのり甘い。
「美味しい」
菓子を味わいつつ、独り言をつぶやくと、それまで呆気にとられていた山野が「ぷっ」と吹き出した。
「山野君?」
「あ、いえ、すみません。…ぷぷぷ…っ」
最初は笑うのを堪えていた山野だが、次第に腰を折ってまで笑い始める。「すみません」と何度も謝る割にはその笑いは止まりそうもない。一方で、何か面白い冗談を言ったつもりもない総司は首を傾げた。
「や、山野君…?大丈夫?」
「ふふ…すみません、でも、先生、鈍感すぎです」
「え?」
鈍感?
その感想は、今まで出会ってきた人すべてに言われてきたことでもあるが…山野は一体何を指しているのだろう。全く思い当たらない総司は、腕を組んで考え込む。しかしわからない。
「土方副長も苦労なさいますね」
「土方さん?」
「…なんでもないです」
ここで土方の名前が出てくる理由もわからない総司はますます呆気にとられる。だが目の前の山野は益々笑いを大きくして「お腹痛い」とまで言い出した。
挙句に
「なんでもないです。先生、ゆっくり休んでください」
と言い残して、去って行ってしまったのだった。



205


翌日の六月十一日。険しい顔を浮かべていた土方と斉藤の予感は、どうやら的を射ることとなってしまった。
「麻田が切腹?!」
極秘に会津の動きを探らせていた山崎からの報告に、近藤が声を張り上げ、山南が動揺し、土方が眉間の皺を深くした。目を疑うような報告だが、山崎が伝えてくるのだから間違いはないだろう。
「…昨日、医者を受け入れたという話だったが」
土方が冷静に問うと、山崎は首を振った。
「それが今日は医者を受け入れず、一切の治療と見舞いを断り…切腹して果てたとのことです」
昨日とは全く違う展開に、近藤と山南は言葉を失っていた。
山崎の話によると土佐藩内部では予想通り、会津や新撰組に対して決起する動きがあったようだ。特に土佐勤皇党らは池田屋で同胞が殺されている恨みもあり、新撰組へ襲撃を行うと予告した張り紙も公表する騒ぎとなっている。一方、土佐藩士麻田時太郎は、このように土佐藩と会津藩に亀裂が生じてしまったことを悔い「面目が立たない」と己を恥じた。そして「手負いの時覚悟を決めるべし」という土佐の国風に倣い、切腹して果てたという。
「柴くんは…」
「しばらく謹慎となっておりましたが、会津藩邸に呼ばれたようです。その後は…」
声を震わせつつ問いかけた近藤に、山崎は言葉を濁した。
「…引き続き、探ってくれ」
「はい」
土方の命令に山崎は頷くと、足早に部屋を去っていく。残された部屋で近藤が絶句し、山南が頭を抱えていた。土方は
「こちらも…相当の責任を負うべきだな…」
とつぶやく。
麻田が切腹したとなれば、会津藩にも相当の処断が求められる。柴は優秀な人材で、若く将来性もある。会津としても失いたくない…となれば、その際隊を率いた新撰組に責任を求めてくる可能性もある。近藤や山南にもその予感を拭いきれないのだろう。
(武田が切腹したくらいじゃあ…収まらねえか…)
武田が副長助勤だと言っても、会津にとっては一介の平隊士だ。新撰組として、上に立つ者たち…つまり誰かの命を差し出さなければ、土佐は納得しないだろう。
(そうなれば…)
その時に選ぶとしたら、自分だ。
土方はあっさりとそれを受け入れた。覚悟はいつでもできている。
「…とにかく、このことはまだ内密だ。誰にも漏らさないように。会津から正式に話があったら動くまでだ」
土方が指示すると、近藤が重くうなずいて山南は「そうですね」と動揺を隠しきれない様子で同意したのだった。


土方はその足で、八木邸にやってきた。今日の巡察は斉藤の番だから、部屋には総司が一人でいるだろうということはわかっていた。
「入るぞ」
同意を待たず、土方は障子を開けた。するとやはり総司が一人でいて、どうやら何か読み物をしていたようだった。
「土方さん、どうしたんですか」
「別にいいだろう」
障子を閉めて、土方は腰を下ろした。そして総司の手物を見ながら「何をしているんだ」と問うた。
「山南さんにお借りした本です。稽古もあまりできないし、仕事もまだ禁じられているから暇で暇で…」
「究極に暇になると、お前でも本を読むんだな」
幼い頃から総司は剣術ばかりしていて、本を読む姿など見たことがない。土方からすれば単純な驚きでもあったのだが、その皮肉に総司はむっと唇を尖らせた。
「…また喧嘩しにきたんですか?」
ぷいっと顔を背けて読み物を閉じる。どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。この間の喧嘩もまだ解消できていないのだから、当然なのだが。
「そうじゃねえよ。…仲直り、だ」
「仲直り?」
総司が目を丸くして土方を見た。子供っぽい台詞が、似合わなく感じたのだろう。
「悪かった」
「……」
そしてなお、謝罪する土方を総司は驚いてみた。そういえばこんな風に素直に謝ったことなんてなかったな、と土方は思う。いつも総司が折れるか、時間が経つかで解決していたので、自分から折れるなんて初めてのはずだ。
物珍しいものを見るような目で、総司はまじまじと土方を見た。そして急に顔を歪めて
「何かあったんですか?」
と問う。
「何かなくても、俺だって自分が悪いと思ったら謝ることだってある」
「……」
土方は茶化して答えたが、総司が納得する様子はない。
柴のことで、もしかしたら責任をとることになるかもしれない。その責を負うのは自分にしたいと思っている。だから、まだ時間に余裕がある今のうちに「仲直り」をしておきたい。そんなことを総司に言ったところで、困らせるだけだ。
しかし総司は尚も食い下がった。
「ちゃんと話してください。土方さんが謝るわけないじゃないですか」
「お前、俺をなんだと思っているんだ」
「今まで一度も喧嘩をして謝ったことなんてないのに、そんな殊勝な態度を取られたって信じられるわけないじゃないですか」
「いいから信じろよ」
「嫌です」
強情を張るのはお互い様だ。しかし土方は喧嘩に喧嘩を重ねるつもりは毛頭なかった。
「いいから、恋人の言うことは信じておけよ」
ムキになって歯向かってくる総司の頭に触れる。そして細い髪に指先を滑らせた。すると総司が顔を赤らめつつ「誤魔化された」と目を逸らした。
「誤魔化されておけばいいだろう」
「…やっぱり傍若無人です。自分勝手すぎます」
「ああ、そうだな」
髪に伸ばした指先を、総司の頬に伝わせる。逸らした彼の目線を自分に戻すと、その瞳は少し揺れていた。
「ん…」
そっと触れるように口づけると、緊張のせいか震えた唇が重なった。何度か離れてはまた求めるように重なる。土方が少し目を開けると、総司はぎゅっと目を閉じてされるがままに任せていた。慣れない行為への反応は、まるで子供のようだ。しかし笑ってしまえばまた総司が拗ねてしまうだろうから、心の中にとどめておく。
「…そういえば、言って無かったけどな」
「え?」
一番近い距離で総司と目が合う。土方の脳裏に、あの幼馴染の説教が木霊した。いつだって言葉が足りないのは自分の方だということはわかっている。けれど一から十まですべて言葉で伝えるのは、何だからしくなくて、くすぐったいのだ。
「お前を…一番隊にっていう話を切り出したのは、俺だ」
「土方さんが?」
「ああ。お前なら大丈夫だと、思ったからな」
「…っ」
口付けをしたときよりも、総司は顔を真っ赤に染めた。そしてそれを隠そうとしたのか、土方の鎖骨辺りに顔を埋めてしまう。
「今日は…らしくない土方さんばっかりです」
「たまにはいいだろう」
「…悪くないですけど、変な感じです」
土方は総司の背中に腕を回した。一番隊という重責を担うには細くて華奢な身体だが、そのうちに秘めている「力」を土方は知っている。だからこそ、総司を選んだ。いつかその選択を後悔する日がやってくるかもしれないが、それでも彼にはその道を歩んでほしかった。
だから、『大丈夫』だと思ったのだ。
「土方さん。一番隊のお話は承ります」
「…そうか」
「近藤先生には私からお返事しますから、土方さんは何も言わないでくださいね」
意地を張る総司に、土方は「わかった」と苦笑を堪えつつも返答した。そうしてもう一度頬に指を伝わせる。しかし今度は首筋に触れて、襟に手をかけた。そして白く細い首筋に舌を這わせる。だが
「ちょ…っ、歳三さん」
総司が慌てて土方の肩を押して、身体を離した。
「何だよ。斉藤はまだ帰ってこないだろう」
「そ、そういうことじゃありません!」
「じゃあなんだよ」
「それは…その」
総司が口ごもり、目を泳がせる。そして挙句
「こういうのは…嫌です」
と、土方に告げた。まるで生娘のような言い分に、土方は「はあ?」と答えた。
「まだ、く、口付けだけでいいじゃないですかっ 歳三さんは手慣れてるかもしれないですけど、こういうのはもっと段階を踏んで…」
「お前は箱入り娘かっ!」
「は、箱入り娘って…!」
その言い草はないだろう、と総司もムキになって土方を睨む。鼻先が触れ合うほどの距離でしばらくはそのまま睨みあっていたが、
「…ぷっ」
と、総司の方が負けてしまった。
「これじゃあまた喧嘩になっちゃいます。やめましょう」
「…そうだな」
急ぐことはない、焦ることはない。この腕の中に、総司が居てずっとそれは続いていく。
(柴の件が、どうなるかはわからないが…)
先ほどまではあっさりと、責任をとるのは自分だと思っていた。しかし、総司を目の前にしてこんな風にぬくもりを重ね合えれば、自分の命と時間が惜しくなってしまう。
(情けねえなあ…)
と思うものの、そんな自分が嫌いというわけではない。
「上手くやるさ…」
「え?」
「何でもねえよ」
土方はもう一度総司の背なかに腕を回した。総司が「痛い」と訴えるほど強く抱きしめて、その形を確かめたのだった。




206


真っ暗闇に閉ざされた部屋の中で一本の蝋燭が光を放っていた。月さえも雲に隠れ、夜の闇に包まれたなかでその光が頼りなく揺れている。吹けば消えてしまうほど、儚く小さな灯り。しかしそれさえも目を逸らし、柴は目を閉じてただ己を暗闇の中に置いた。
研ぎ澄まされた聴覚のなかで、足音が聞こえた。その音が段々とこちらに近づき、それが兄のものだとすぐに分かった。
「司」
兄の幾馬は幼い頃から弟に対して厳しく接していた。同じく厳格な父とともに、立派な会津藩士になるのだと軟弱な柴を鍛え上げてくれた。だからその兄が、こんな弱弱しい声を出すことを、柴は今まで知らなかった。
こんな騒ぎを起こしてしまったことを柴は申し訳なく思っている。京都在勤の先輩や同僚らにはこちらに非がないのだと慰められたが、しかし柴自身はその事件を起こしてしまった張本人であることに違いなく、またそれを否定する必要もないと思っていた。不運な出来事ではあるが、その不運を兼ね備えていた自分が悪かったのだ。
「兄上、殿は何と…?」
柴の問いに、兄は首を横に振った。まだ処断の知らせが無いようだ、と柴は悟る。
会津藩が土佐藩へ医者を遣ったことで、大半の藩士がこれで話が仕舞いになると思っていた。喧嘩両成敗、ではないが、お互いに過失がありそれを認めたのだから、これ以上の騒ぎは必要ない。そう言う風に収束するのだと、誰もが思っていた。
しかしそれは、土佐藩士麻田の切腹によって覆るものとなる。彼が切腹という形で潔く散った以上、会津藩が穏便に済ませるわけにはいかなくなってしまった。
(僕は…おそらく、死ぬだろう)
周囲の動揺とは裏腹に、柴は穏やかだった。むしろ、土佐藩士を斬りつけてしまった時点でその予感はあったのだ。しかし、生に縋る自分も同じくそこに居た。それが情けなくて仕方なかった。
だが、こうして謹慎という身でこの暗闇に身を置くと、何故か生に縋る気持ちは薄れてきた。死んでしまうのではなく、死んでお役にたてるならそれでいいと思えるようになってきた。だからこうして生き続ける時間が長ければ長いほど、兄を…周囲を期待させてしまうだろう。だったら、早く終わらせた方が良い。けれど、勝手にはできない。
(殿は…お優しい…)
たった一人の命で、会津と土佐の関係が改善されるなら、それで良いはずなのに。それを躊躇ておいでなのは、おそらくは松平容保という将の慈悲深さ故なのだろう。
(僕は…それだけで、死ねる)
嬉しくて、仕方なくて、死ねる。
「代役を立てる」
「…兄上?」
「殿は…お前の命を惜しんでおられる」
惜しんでいただけるなら、それで十分だ。代役などいらない。
「兄上」
厳格な父とよく似た兄。飄々とした性格の弟ではあったが、親子兄弟であるゆえに、一つだけ良く似た部分があった。
「僕は切腹します」
自分の決めたことは決して曲げないこと。頑固で、融通がきかない。そんな風に揶揄されたこともある。しかし、
(僕の死に方は…僕が決める)
揺るぎようもない思いを、柴は言葉にはせず、その射抜く視線だけで兄に訴えた。
そして弟が誰よりも頑固であることは、兄が一番良く知っている。幾馬はその瞳を揺らした。動揺と落胆、悲嘆と怒り、そして哀愁。厳しかった兄が、その場に崩れこむようにして平伏した。
「兄上…」
「口惜しい…!くそぉぉぉぉっ!」
兄は慟哭し、固く握りしめた拳を畳に打ち付ける。何度も、何度も打ち付ける。涙は見せなかった。けれど、泣いているのは、弟だから良くわかった。
「兄上…!申し訳ございません…!」
泣くまいと思っていたのに、兄の乱れた姿を見ると目頭が熱くなった。
お国の為に尽くすと誓った命を、殿の為にと磨いたはずの腕を、こんな形で亡くしてしまう。それだけが心残りだった。柴は頭を抱えて泣き崩れた兄に向けて膝を折る。そして頭の先から指先までぴんっとはった形で、深く、深く頭を下げた。
「介錯は…兄上に、お願いいたしとうございます…」
どうしようもない弟だけれども、せめて最後は兄の手で逝きたいと、柴は懇願したのだった。


夜が更け、総司の浅い眠りが深い眠りに代わる頃。
「起きろ」
と無遠慮に頬を叩く者が居た。おそらくは同室の斉藤だろうと思いつつ、総司はぼんやりとした視界のなかで「何ですか…」と問いかけた。確か斉藤は夜番だったはずだ。巡察から戻ってきたのだろうか。
「内密に頼みがある」
「頼み…?」
斉藤が傍にあった蝋燭に光を灯す。月明かりのない夜では、それしか光はない。しかしその頼りない灯りに照らされた斉藤の表情は、深刻そのものだった。総司の眠気は一気に吹き飛んだ。
「どうしたんです」
「…いまから、道場へ向かってくれ」
「道場?」
理由に思い当たることがない総司は、首を傾げた。しかし「訳は聞かないでくれ」と斉藤に遮られてしまった。
総司は手早く着替えて道場へ向かう。斉藤が内密に、という物言いをしていたので音を立てないようにして部屋を出て、忍び足で八木邸を出た。すると前川邸の門前には土方が居た。
「土方さん、これは…?」
「何も聞くな。いろいろと…問題になる」
「え?」
どういうことだ、と問いただそうとしたが、土方は固く口を結び、そして斉藤も何も答えようとはしない。総司は仕方なく、言葉に従って道場の中に入った。
道場には二、三本の蝋燭が灯されていた。しかし道場内を照らすには足りず、視界は闇に遮られたままだ。しかし誰かがそこに居るのはわかった。
「…沖田さん」
「……」
その声の主。
「柴…くん」
柴司に違いなかった。総司は驚いて駆け寄る。
「あなたは黒谷にいるんじゃ…」
「組頭に我儘を聞いてもらいました。沖田さんに…稽古をつけてほしくて」
「稽古?」
こんな夜更けに、内密に?
総司は怪訝な顔をしたが、当の柴は「はい」と嬉しそうに笑っている。
「約束しましたよね。今度戻ってきたら…稽古をつけてくれると」
「それは…そうですけど」
「お願いします」
あの時の青ざめた様子の柴が嘘のようだ。出会った時の様に爽やかに物怖じせず、若者らしい溌剌さが戻っていた。
事情を察することができない総司には、この機会を設置したのが土方と斉藤であるということ、そして会津の組頭にあたる人物も同意しているらしいということしかわからない。けれど、何か理由があるのだろう。
「わかりました」
と応じることにした。

重量感のある木刀を手にして、柴は何度も何度も体当たりを繰り返した。持って振り回すのさえ難しいため、平隊士の誰もが最初は腕を痛めて音を上げるが、柴はむしろ嬉しそうにその木刀を手にしている。逆に久々の荒稽古である総司の方が息を切らしてしまうほどだ。
「少し休憩をしましょう」
総司の提案に、柴は少し残念そうな顔をしつつ「はい」と頷いた。
夜の蒸し暑さは汗となって流れ出る。総司は手拭いを手に取り拭うが、柴は何故か何もせず正座のまま総司を見つめていた。
「どうか…?」
「あの…少しお話をしても良いですか」
柴が躊躇いがちに訊ねてくる。断る理由もない総司は「どうぞ」と促した。
「前にお話ししたと思いますが…僕は剣の腕しか、取り柄が無くて。もちろん、剣の腕もまだまだ修行中…だったんです」
学問を勉強するよりも剣の腕を磨きたい。そう話していたのは、最初に稽古をしたあの時だ。
「僭越ですが…同じような、共鳴するようなところを、沖田さんに感じていました」
「私に?」
「いえ…沖田さんに、というよりも、新撰組の皆さんに…というか…」
上手く言えないんですが、と柴は口ごもる。
「新撰組が身分を問わず、剣に自信がある者が入ることができるのだと、聞いたとき、僕はとても羨ましかった。そこに行けばきっと僕よりも強い人と出会えて、そして命がけで誰かを守ることができる…憧れでした」
闇のなかでもわかる。彼の表情は生き生きと輝いていた。
「そして局中法度。とても厳しくて崇高なこの法度は…どこか、会津の法度に似ていました。だから共感できたのだと思います」
新撰組のことを厄介に思う会津藩士が多いなかで、柴は隔たり無く隊士と接していた。それには彼の思い入れがあったからなのだと総司は知る。
「僕は…きっと会津藩士ではなかったら、新撰組に加わっていると思います」
「柴くん…」
「それだけが、伝えたかったんです」
まるで憑き物が落ちたかのような柴の表情。総司はこの時ようやく違和感を持った。
(何故…すべて、過去形で話をする…?)
そしてその違和感を持つのが、遅すぎたのだと、総司はすぐに悟る。
「柴くん、君は…!」
「沖田さん、もう時間のようです」
総司ははっと振り返る。道場の前には土方と斉藤…そして柴に良く似た顔の男が待ち構えていた。
「ありがとうございました。もう…思い残すことはありません」
「柴くん…!」
柴は立ち上がると、深々と頭を下げた。そして再び顔を上げたときは満面の笑顔を浮かべていた。そしてそのまま道場の出口へ向かっていく。遠い場所へ行くために、たった一人で、旅立つために。
その背中を、総司は咄嗟に追いかけた。道場を出て、彼の背中に手を伸ばしたところで
「総司…!」
「土方さん!」
しかし総司は土方に引き留められる。追いかけてはならないのだと、その腕の強さが物語っていた。
「柴くん…!」
名前を呼んでも、柴は振り返らない。男…おそらく兄だろう彼とともに迷いなく前川邸を後にしていく。その後ろ姿に向かって、総司は叫んだ。
「きっと、新撰組はあなたが望んだ姿になります…!」
あなたが居たかった場所。あなたが憧れた場所。
作って見せる。
紛れもない決意を、柴に伝えた。
その背中は振り返らなかった。だが、何故か、喜んでいるように見えた。


元治元年六月十二日、柴司は切腹。兄・幾馬の手によって介錯され見事な最期だったという。





207


元治元年六月十三日。晴れ渡る空に一つも雲はなく、澄みきった空は突き抜けるほどに青い。こんなに晴れているなら彼の霊もまっすぐに浄土へ向かえることだろう。
「おかえりなさい」
柴の葬儀から戻ってきた土方を、総司は前川邸の土方の部屋で出迎えた。頼まれていたわけではないが、総司はここで待っていたかった。
土方は少し疲れた表情で「ああ」と返答すると上着を預けてきた。
「他の奴らはどうした」
「…悔しがっていますよ。一度は助かると思った命でしたから、余計落胆が多いようです」
「そうか」
土方は目を伏せた。
彼の死を聞いて皆驚き、悲しんだが動揺が一番大きかったのは、柴と一番親しくしていた永倉だった。いつも冷静沈着で大人びた彼だが、柴の死を聞くと珍しく顔を歪めた。そして何かを振り切るようにして、柴が使っていた鎖帷子と槍を遺族の元へ届けるのだと言って出て行った。もともとは永倉のものを柴に貸していたそうだが、彼の遺族へ遺品として贈るのだという。
「お前は?」
お前はどうなんだ、と土方が少し心配そうな顔をした。一番最後に彼の感情をぶつけられたのは、総司だ。
後になってわかったのは、あれはきっと遺言だったのだということ。総司はしばらく唇を噛み、この感情を言うべきは言わざるべきか悩んだ。
「…自分の鈍感さを呪いましたよ」
しかし、土方に隠し事はしない。そう決意した心が揺らぐことはなかった。
「彼があんな遅くに稽古を願い出た時点で、もうこの先稽古ができないのだと彼が覚悟していることに気が付くべきでした。気が付くことができたら、もっとわかったかもしれない。柴くんにはもっと言いたいことがあったかもしれない……ちゃんと、彼が思うように、受け止めれたのかわかりません」
考えても考えても、何度彼の言葉を反復しても、まだ足りないと思う。彼が伝えたかったこと、言いたかったこと、残したかったこと。そのすべてをちゃんと引き受けることができたのかと不安になる。
「だから…ちょっとだけ、柴くんを恨みます。なんで私なんかに最期を託したのか…と」
「……」
土方は無言のまま喪服を脱いだ。真っ黒に染まっていた姿がいつもの着物に変わったのに、それでも纏わりついた黒はまだ残像として残っている。
「俺は、稽古をしている姿しか見てねえが…柴が昔のお前に似ていると思った」
「私に?」
「ああ。剣ばっかりに夢中で、他のことには目もくれない…それが自分の道なのだととっくに決めているような、お前に似ていた」
柴自身が語っていた。自分は総司に、新撰組に共鳴しているのだと。それは客観的な視点を持つ、土方でもそう見えたのなら、間違いないのだろう。
「…土方さんが、そう言うなら柴くんも喜ぶと思います」
若い命を散らしていった彼は、最後の最後まで笑顔のまま去って行った。本来ならば死ぬ必要はなかったはずだ。けれど、天の悪戯か間違いか、彼は命を捧げることになってしまった。しかし、それを彼は心から受け入れていた。おそらく何の恨みも憎しみもなく腹を切ったはずだ。
(…誇り高い青年だった…)
「…私にできるのは、彼に恥じないような生き方をすることです。だから…悲しむのは今日でおしまいです」
いつまでもくよくよと閉じこもれば、彼は悲しむだろう。まだ長州との戦況は落ち着かず、明日にでも戦争が起きようかという緊張状態だ。悲しみに暮れ、立ち止まっている暇はない。
総司は土方の目を見た。その瞳に、もう曇りはない。
「土方さん、お願いがあります」
その目を見て、土方は少し微笑んだ。安堵したのだろう、穏やかな表情で「わかってる」と即答した。
「復帰したいんだろう?」
「…はい。もう身体も良くなりましたし、万一具合が悪かったらちゃんと土方さんに言います。だから、今日から働かせてください」
畳に両手を付き、総司は頭を下げた。大事な場面で戦線離脱をした自分が、自ら復帰したいだなんて烏滸がましい願いかもしれない。けれど、去って行った柴の為に、そして新撰組の為に何よりも早く復帰したいという気持ちは抑えきれなかった。
土方は少し黙った後に
「…仕方ねえな」
と答えた。
「ただし、万一また倒れるようなことがあったら、今度こそ見張りをつけて病人扱いするからな」
「はい、ありがとうございます!」
総司は顔を上げた。仕事に復帰できる、というそれだけで顔は自然に綻んでいた。

総司の組下たちが巡察に出掛けるのは夕方からだった。組頭不在のなか島田が伍長として取り仕切ってくれていた。その集合場所に、早速総司も向かった。
「沖田先生?!」
頭一つ分皆よりも背の高い島田が、総司を見つけると驚きの声を上げた。するとそれ以外の組下も口々に
「先生!」
「お身体は?!」
と声を掛けながら総司の周りに集まってきた。たった数日しか離れていないのに、数年離れていた人に出会うように懐かしい。
「ご心配をおかけしました。復帰しても良いってお許しが出たので、今日から加わらせてもらいます」
「本当に大丈夫なんですか??」
念を押すように総司に訊ねてきたのは、もちろん山野だった。
「大丈夫です。なんなら土方さんの所へ確認しに行ってもいいんですからね」
土方の名前を出すと山野は「じゃあ信じますけど」と渋々頷いた。
「でもしばらくは僕が隣ですからね。いいですよね」
「はいはい。すっかり口うるさい姉さんみたいになっちゃいましたね」
「もうっ!僕は本気で心配しているんですからね?!」
総司と山野のやり取りに、周りがどっと笑う。その様子に総司も安堵した。そして気合を込めて「じゃあ行きますよ」と皆に号令をかけたのだった。


柴の死から数日が経ち、ようやく皆が立ち直り始めた頃。
「長州挙兵の噂があるようです」
と山南が切り出したのは、いつもの近藤・土方との会議でのことだった。
体調を崩しがちだった山南だが、ここ最近は精力的に会津との連携に一役買っていた。まだ内密だが、総長という立場は主に新撰組の運営に重きを置き、会津諸藩との外交に力を入れる役職であるから、知識も深く穏やかな山南には最適であると言えた。
「戦争か…」
近藤は苦い顔をした。池田屋で負った傷はまだ癒えていない。総司は復帰したものの、藤堂や永倉は本調子ではない。また昼夜問わずの巡察に隊士たちも疲労している者が多い。そんな中戦争が起こるのは都合が悪い事態であった。
「長州でも意見が二分しているようです。過激派の家老たちが藩主の汚名を晴らそうと決起する動きがあり、桂小五郎などの保守派が必死に抵抗しているそうです。しかし下関の戦を先導した久坂玄瑞などが挙兵の準備を進めているとか…」
「久坂…」
それは土方も知っている、長州の大物の名前だった。
「他にも来島又兵衛や真木和泉らが軍を率いて東上しているという話も聞きました。近々到着し、さらに緊張状態が高まると思われます」
「…確実に、戦になる」
土方の意見に、山南も同意した。今まで実感がなかったが具体的な名前が挙がってくると、迎え撃つ自分たちの興奮も高まる。
(契機は俺たちだった…)
池田屋事件が彼らを刺激したのは間違いない。だとすれば、あの日の戦はまだ終わっていない。
「これは好機だ」
「歳…」
にやりと口元を綻ばせた土方を見て、近藤は少し驚いた顔をしたが、すぐに「まったくお前らしい」と苦笑した。
「お前は昔から、戦のことになると気が早い」
「あ?」
「覚えていないのか?昔、近所のガキ大将だった奴に喧嘩を売ったことがあっただろう。翌日の決闘を約束したくせに、お前は前の晩から落とし穴を掘っていた。敵はまんまとお前の作った落とし穴に落ちて『頼むから助けてくれ』と泣いていたじゃないか」
近藤の指摘でうっすらと記憶を思い出す。そういえばたった一人で数人の子供集団に喧嘩を売った。一人では勝てないだろう、と助力を申し出る近藤…島崎勝太に見栄を張って「助太刀はいらねえ」と啖呵を切り、夜通し落とし穴を掘った記憶が確かにある。
すると聞いていた山南が「ぷ…」と吹き出した。土方は
「近藤さん!」
とそのおしゃべりな口を叱ったが
「あはは、悪い悪い」
幼馴染は全く悪気はなかったのだと、その大きな口で笑っていた。




208


池田屋事件から数日が経った。柴の件があった為、酷く昔のことのように思えるが、いざ巡察に出てみると以前との違いは歴然だった。
「…何だか避けられていません?」
島田に訊ねると「ははは」と苦笑する。
「もう俺たちは慣れましたけど、やはりこの間の事件から我々は恐れられているようです」
以前まではすれ違いざまに「新撰組だ」「壬生狼や」と憎々しく毒づく町人が沢山いた。特にその声を気にしていたわけではないが、嫌われ者の自覚はあった。しかし今は通行人すべてが遠巻きにこちらを見ている。ひそひそと噂話を交わして直接こちらに仕掛けてくることもなく、また浅黄色を見かけただけで逃げていく子供もたくさんいる。
「怖がられているっていう感じですかね」
話には聞いていたが、こんなにも影響を与えているとは想像もできなかった。まるでこちらが大名行列のようだ。
すると隣に控えていた山野が話に加わった。
「沖田先生、池田屋のことが尾鰭がついて広がっているようですよ。何でも巷では、沖田先生は実は人間ではなくて、鬼の生まれ変わりだという話も聞きました」
「あはは、酷いなあ。角なんて生えていないのに」
総司が頭をかくと、大柄な島田が総司の頭を覗き込みながら
「どうでしょう。稽古の時は生えているような気がしますよ」
と言うと、組下が「確かに!」と笑いだす。総司よりも年上が多い組だが、皆一様に仲が良い。しかし人一倍、勇猛で腕の立つ隊士たちだ。
(戻ってきた…)
彼らに囲まれていると、何故か安堵する。その理由を、この数日で学んだ気がした。

京の蒸し暑さは相変わらずで、首筋を汗が伝う。咄嗟の時に視界が曇らないように、汗を手拭いでふき取るのが精いっぱいだ。
寝ている間に落ちてしまった体力を戻すためにも、総司は率先して家々の改めを行った。池田屋で顔が知れ渡ってしまったのか、店の主などは明らかに顔色を変えて応じてくれる。それがやりやすい場合もあれば、やりにくい場合もある。何か疾しいところがあれば、あからさまに店の者たちの動揺が伝わってくるので便利ではある。
小さな宿を改めて、店を出る。青い空に浮かぶ太陽の光が眩しく、総司は思わず手でその光を遮った。
「次に行きましょうか」
「はい。…先生、少し休憩されては?」
総司の様子を心配した山野がそう声をかける。総司は「大丈夫です」と答えようとしたものの、確かに少し気怠い自覚があった。組下の者たちも暑さにやられているようだし、
「そうしましょうか」
と同意した。
そんな時だった。
「きゃあああっ!」
遠くから女の叫び声が上がった。それは総司たちの背後からだった。
人の行き交いが激しいため、女の姿は見えない。しかし通行人たちの「スリや」「泥棒や」という声は続々と聞こえてきた。
「つかまえておくれやす!」
女の懇願に似た叫び声。総司たちは駆けつけようとしたが、幸運なことにその泥棒は人をかき分けて「どけや!」と叫びながら、こちらに向かって走ってきた。
「天下の往来で大胆だな…」
総司がそんな感想を漏らすと、島田が一歩前へ出て
「ここは自分が」
と総司の前に立った。島田は剣術だけではなく柔術も使う。組長の手を煩わせるまでもないと思ったのだろう。それに彼のような巨漢もなかなかいないので、相手も怯むはずだ。
しかし、残念ながらその必要は全くなかった。
「げぇっ!」
総司たちの元へ泥棒がたどり着く前に、勇敢な者が泥棒を捕えていた。見事な剣捌き…とはいっても峰打ちに違いないが、流れるような美しい仕草で泥棒の男の身動きを止め、そしてその刹那、泥棒が意識を失って倒れこんだ。
思わず拍手が鳴るほどの大捕り物に、周囲が沸く。新撰組としては悔しい場面ではあったが、総司は見事な腕前を披露した男が、誰だかすぐに気が付いていた。
彼は、泥棒が抱えていた巾着袋を、女…おそらく叫び声を上げたのだろう、若い女に手渡した。女は男をまじまじと見つつ頬を赤く染め、恥ずかしそうに巾着袋を受け取った。
その彼の背後に総司は歩み寄る。
「相変わらずですね、伊庭くん」
彼が振り向く。すると得意満面の笑顔で
「また土方さんに嫌味を言われてしまいます」
と伊庭八郎は答えたのだった。


「…相変わらず、嫌味な登場だな、お前は」
八木邸の客間に通した伊庭の顔を見るなり、うんざりした様子で土方は挨拶をした。この光景に既視感を持ったものの、一か月ぶりの再会は喜ばしいものだった。試衛館食客が揃い伊庭を出迎えた。
「江戸に戻られたのでは?」
山南が問うと伊庭は「残念ながら、大坂で引き返しました」と答えた。
「引き返しただと?お前、何か忘れ物でもしたのかよ」
毒づく土方に、伊庭が呆れたように口を開けた。
「何言っているんですか。あなたたちのせいで戻ってきたに決まってるでしょう」
「私たちの?」
総司と永倉、原田、そして額に包帯を巻いた藤堂が顔を見合わせる。何かやらかしただろうか、と思いつつ全く身に覚えのない話だったが
「池田屋ですよ」
と言われてようやく思い当たることになった。
「嫌になっちゃうなあ。夜通し歩いて戻ってきたのに、主役の皆さんがこれなんだから」
わざとらしくため息をつきつつも、伊庭は近藤の方を向いた。
「皆さんのご活躍は既に江戸まで伝わったと聞いています。江戸に居る周斎先生もさぞお喜びのことでしょう」
「…ありがとう」
「お前らしくねえ殊勝な態度じゃねえか」
丁寧に頭を下げた伊庭を、土方が茶化す。隣に居た総司は「土方さん」と軽く諌めたが
「そりゃそうですよ。ここは天下に名をとどろかせた新撰組様の屯所なんですからね。俺じゃなかったらビビッて誰も遊びになんてきませんよ」
とさらに茶化したので、場は大いに盛り上がることとなった。

久々の邂逅ではあったが、惜しくも日暮れが迫った為、伊庭は帰路につくこととなった。伊庭を見送るため、総司と土方が連れ立って屯所を出た。すると八木邸の門を出てすぐに
「…で、実際の所はどうなんだ?」
土方が突然切り出した。それは脈絡もないまったく唐突なもので、総司には全くその意味がわからなかった。しかし伊庭は少し悩んだ後に
「まあ、時期が早まったというだけで、結果は同じでしょうね」
と返す。二人の表情が、先ほどまでの飄々とした会話の様子とは全く違っていた。「幕臣」と「副長」の顔だった。
「正直、お前は今回のことをどう思っているんだよ。遠慮しないで言ってみろよ」
「契機になるでしょうねえ。長州は仲間を殺されたことを口実に京に上ってくるし、それを口実に幕府も鬱陶しかった長州を征討できる。長州一藩で幕府が倒せるとは思えませんが、それでも続く輩が出てくるかもしれない」
伊庭が真面目な顔で語り始めて、総司はようやく話の内容を知る。
大坂まで下っていた伊庭たちが大急ぎで帰ってきたのは、池田屋事件の余波を察知してのことだ。しばらく屯所に居た総司でさえも、今の京が政局的に不安定であることは感じることができる。この先何があってもおかしくないのだと理解していた。しかしおそらく二人は、総司の想像を超えた話をしている。
「長州の穏健派はどうにか今回のことを鎮静化させたいようですが、過激派を抑えることはできないでしょう。もうすぐそこにも長州が迫っているという話もあり、会津や桑名諸藩も準備を進めているところですよ」
「やはりそうか…」
土方は腕を組み、何かを考え込む。
「ですが、残念なことに、『京を焼き払い、帝を長州へ連れ去る』という話は、あまりに奇天烈すぎて幕臣のなかでも半信半疑です」
「え?」
総司は驚いて伊庭を見る。
古高が吐いたその話は、確かに途方もない話ではあったが、土方が聞き出した偽りない話だ。新撰組の隊士はそれをもちろん信じ、そんな事態を許せるわけがないと奮起して池田屋に臨んだ。それが幕府にとって信憑性のない話として却下されているのだとしたら、皆は悔しがるだろう。
しかし、土方は意外にも
「そうだろうな」
と肯定した。
「俺だって、古高に吐かせたときは半信半疑だった。いや、今でも…でまかせじゃねえのかと思うほど、突拍子もない話だと思っている」
「そんな、土方さん…」
副長である土方でさえ、そんなことを言うなんて。総司は絶句した。
だったら死んでいった仲間たちは一体、何のためにその命を落としたというのだろうか。そして殺された彼らも、無実の罪で死んでいったと…
すると伊庭が総司の肩を叩いた。
「相変わらず、土方さんは言葉が足りないですね。…沖田さん、そういうことじゃないんです。それが新撰組にとって真実なら、真実でも構わない。それを否定することは誰にもできない。けれど、それを表立って言うほどの根拠がないということです」
「根拠…?」
「古高の証言以外に根拠がないんです。それに今更、『はいその通りです』なんていう奴はいないですからね」
「それにそんなことはもう意味がねえ」
土方が総司と伊庭の会話に割って入り、断言した。
「もう俺たちは導火線に火をつけてしまったからな。明日にでも戦が起こるかもしれねえ。今はただ、その時の為に最善を尽くす努力をするだけだ」
土方の目線が上を向く。太陽が落ちる赤と、夜が招く闇の黒。その色が混じりあって、交錯していた。それはどこか闇に浮かぶ炎のようだった。







209


昨年の八月十八日の政変により、それまで朝廷と親しくしていた長州藩は、任を解かれて京都を追放された。さらに藩主の毛利敬親・定広は国許で謹慎となり、その政治的な力を失うことになった。しかしこのことを受け、一部の尊攘派は復権を目指して行動を続けていた。
だが、今年三月の天狗党の乱により水戸藩尊攘派が蜂起し再び尊攘派の行動が始まる。そんな中でも長州藩の政局復帰を望む声が高まっていった。また藩内においても京都に乗り込もうとする積極策が論じられ、来島又兵衛、真木保臣らが強く主張した。
慎重派の周布政之助や高杉晋作らは沈静化に努めるが、池田屋事件が勃発。過激派を刺激するという結果をもたらすこととなった。

…という政治的事柄からのど真ん中に居るようで、しかし実際の戦争ともなれば小回りの利く部隊の一つでしかない新撰組では、つかの間の休息、という具合に安寧の数日を過ごしていた。
柴が亡くなってすぐは、何となく気落ちしていた永倉や原田は既に気持ちを入れ替えて、稽古に励んでいる。悲しみを振り切らなければ前へ進めないことは良く知っているのだ。
「ああ、原田さんの気合が聞こえる」
早々に床から抜け出した総司と違って、藤堂はいまだに安静を強いられている。額の怪我は傷は閉じたものの、疼く痛みは続いているのだという。藤堂は羨ましそうにつぶやいた。
「お医者様は何と?」
総司が訊ねると、藤堂は微笑んだ。
「もう少しの辛抱です。あと五日もすれば床を出ても良いと言われています。けれど、次の戦には難しいかもしれませんね」
「そうですか…」
正面の傷とはいえ、勇猛果敢な魁先生は誰よりも悔しいだろう。しかし、それはおくびにも出さず
「山南さんと一緒にしっかり屯所を守りますよ」
と述べてくれたので、総司は安心する。いまだに中暑で具合を悪くしている者や、池田屋及び残党狩りで怪我をした者が多い。そんななかで魁先生の復帰は早ければ早い方が良いだろう。
藤堂は「ところで」と話を変えた。
「俺の趣味は人間観察なんですけど、どうも床の上に居続けると観察できる範囲が狭いんです。せいぜい、この部屋の前を通る人を観察するくらいで」
「? はい」
「だから、是非教えてほしいことがあるんですよね」
「まあ、私がわかることなら」
鈍感だとからかわれることが多い総司の、浅い情報で良ければ、と頷いたのだが
「いや、土方さんと沖田さんの関係についてですよ」
「えっ?」
と、総司はあからさまに動揺した。
「池田屋の時、祇園の町会所に集まったでしょう。あの時から、何かおかしいな~って思っていたんです。でもあんなときに訊ねるのは不謹慎だし…そうこうしている間にこんなことになってしまって、気になって仕方ないんです」
「そ、それは別に…なんていうか」
「永倉さんや原田さんには内緒にしておきますから。気になって夜も眠れないんですよ!」
拝むように懇願され、総司は困惑する。自分たちの関係をまだおおっぴらにしてはいない。周囲には気づかれていそうなものだが、藤堂の様にストレートに訊ねてくるような猛者はいなかったのだ。
否定する必要もないのだが、数年間一緒に暮らしてきた食客である藤堂に、「良い関係になりました」と報告するのは気恥ずかしい。それに
(全然…何も変わらないし…)
あの日を境に何かが変わったとは思えない。ただ土方の、そして自分の気持ちを素直に受け入れることができるようになったくらいだ。
「沖田先生!」
答えあぐねていると、駆けこむようにして庭先に島田が顔を出した。焦った様子に「何事ですか」と反射的に総司が訊ねる。
「土方先生がお呼びです。至急とのことで…」
島田がそう告げると、藤堂は「ちぇ」と小さくつぶやいた。どうやら折よく助け舟が来たようだ。


「死番?」
聞き慣れない言葉に総司は首を傾げた。島田を使ってまで呼び出したのだから、てっきり幹部が集まる会議かと思ったのだが、呼ばれたのは土方の部屋に総司だけで、そこに居たのも土方だけだった。
「もともとは桑名藩で行われている制度だ」
土方は筆をとり、その辺にある裏紙に円を四つ描いた。
「一日の巡察に、一人『死番』という当番を設ける。狭い京の道ではひとり分しか道幅がない場所が多いし、天井も低い家が多いから大人数で踏み込むのは難しい。その時に、真っ先に斬りこむのが『死番』の奴だ」
「つまり、最も死に近い役割ですか」
土方が「そうだ」と頷いた。
「その日が終われば、次の日は別の奴が務める…これを繰り返すことで、当番とする」
土方は筆で、一番上の丸に罰をつけ、そしてその下の丸に罰を付ける…そして四つの円に罰が付くと、また一番上の丸に戻る。
総司は少し考え込むようにして、言葉を咀嚼した。
「…そこに組長は入るんですか」
「入らない」
土方の即答に、総司は戸惑った。
四人の部下のローテーションに組長は入らない…ということは最も安全な場所に組長がいるということだ。しかし、それには納得できない平隊士から、異議を唱えられてもおかしくないだろう。局長・副長・副長助勤・平隊士、という序列があるものの、集まったのはあくまで「同志」だ。平等な視点で物事を考える必要がある。
しかし土方はその理由を既に準備していた。
「組長を失えば、陣頭指揮は執れない。これは組長を守るための制度ではなく、その次の策を講じるための手段だ」
新撰組に集っている平隊士は、基本的には剣の腕が立つ者ばかりだ。我こそはと名乗り出たうえで、総司らとの手合せの上入隊している。その彼らが死番を務めて、もしやられたとしたら、敵はさらに上の腕前を持っているということだ。その場合の次の手段を持ちえていなければならない。
「…そういうことなら、良いんじゃないでしょうか。今は手柄を上げたい数人が率先して斬りこんでいますが、不平等でしょうからね。不満が出てもおかしくない」
今日が、死番だ。明日が死番だと自覚すれば、また仕事への向き方も変わるだろう。そこで後ろ向きな考え方しかできないならば、隊に相応しくない人間だということだ。結局は、土方が見極めたいのだろう。明日死ぬかもしれないという恐怖や絶望に、そしてこの先の戦に耐えれる人材かどうか…。
「…お前が納得するなら、大丈夫だな」
土方はふっと息を吐いて、安堵したようだ。総司は
「そのために呼ばれたんですか?」
と訊ねる。こういう話を事前に相談されるのは今までになかったことだ。大体近藤と、山南の三人で決定したものを報告を受けるだけだったのだ。
「お前が言えって言ったんだろ」
「え?」
「ちゃんと話せってお前が言ったんだからな」
土方がばつが悪そうに顔を逸らした。総司はそこで思い出す。「ちゃんと話してほしい」と何度も懇願したことを。
「…ふふ」
「何だよ」
「いいえ。ちょっと嬉しかっただけです」
頼られる嬉しさを初めて味わった気がする。いつも頼ってばかりで、寄りかかってばかりで…でもたまにこんな風に頼られるのは、くすぐったくてしかし満たされる。
(藤堂君の言うとおりかも…)
変わったのだろう。それは他人から見れば些細でささやかなことかもしれない。けれど、今までとは違う何かが生まれている。
「…ったく、笑ってんじゃねえよ。それより、この死番は今夜にでも皆に伝える。不満な奴がいるようなら俺に教えろ」
「まさか切腹とか言いませんよね」
だとしたら気が引ける。しかし土方は「さあな」と肯定も否定もしなかった。
「まあ…間違いなく、誰かが不満を持つだろうな。卑怯だと言い出すだろう」
「…土方さんはそれでいいんですか?」
確かに死番のローテーションに組長を入れないという理由は理解した。しかし、また別の方法もあるのではないか、と模索することもできるはずだ。土方が卑怯者だと罵られる理由もない。
「俺は結局、武士道を歩んでいるわけじゃねえんだよ」
「…」
総司は気が付く。そこで少しだけ土方の目が翳ったことに。しかしその理由を、総司が知ることはできなかった。







210


新撰組にて死番制度が始まったころ。
昨年の八月十八日の政変後、長州藩へ火に油を注ぐことになってしまった池田屋事件を経て、幕府と長州藩の間での緊張感は増していた。長州藩士久坂玄瑞は、寛大な処置と復権を願う嘆願書を朝廷に奉じ、それに乗じて長州へ同情する藩士や公卿もいた。しかし、「長州を排斥するべし」と薩摩・土佐藩士らが朝廷へ建白したことによって、さらに強硬派と宥和派が対立することになる。

「黒谷へ行ってきたが、今にも戦争が始まりそうだということを肌で感じたよ。実際に伏見等では長州軍が戦の準備をしているんだから、先の話でもないだろうが」
会津本拠地・黒谷から帰ってきた近藤は重々しく、土方と山南にそう報告した。
「会津候の具合はいかがです?」
山南が問うと、近藤は「芳しくないようだ」と苦い顔をした。
幕府派の先鋒ともいえる京都守護職を務める会津藩であるが、藩主松平容保がここの所体調を崩しているらしいという話は新撰組にも伝わっていた。生来身体が丈夫ではないようだが、爆弾を抱える政局に悩まされ、輪をかけて具合を悪くしているらしい。
「そういえば、西本願寺はどうだった?」
「ガセ…でもないようだが、特に不審な浪士は見当たらなかったようだ。監察方も忙しくしている」
土方の報告に、近藤は「そうか」と頷いた。
西本願寺に浪士潜伏の噂があり、急遽駆けつけた新撰組だったが残念ながらたどり着いたときにはもぬけの殻、西本願寺の僧らも「そんな話は知らぬ」の一点張りだった。もともと長州贔屓であることは了知していた新撰組は、一晩見張りをつけて監視したが、結局は何の結果も得られなかった。
「…おそらく、そろそろ出陣の命が下ると思う。土方君は戦に向けて準備を、山南さんは屯所固めを頼む」
「わかりました」
いつになく深刻な表情をした近藤を見て、土方は内心(やはり)と思った。おそらくは戦争になる。それも、かなり近いうちにだ。

土方が近藤の部屋を出て、八木邸へ向かっていると、道すがらの道場ではいつにもまして気合の入った稽古が行われていた。今日の師範は永倉と斉藤だ。隊内でトップ3に入る実力を持つ二人に扱かれればそれなりに気合も入るだろうが、それとは別の理由がある。
(死番か…)
土方は道場の壁に背を置いて、その様子を見守った。
これまで局中法度の「武士道に背く間敷事」をという抽象的な意味合いは、もちろん芹沢粛清に向けた敢えての表現ではあったのだが、彼らをそこまで「死」を意識させるのには足りなかった。しかしこの「死番」という制度は、ある意味これまでで一番彼らの身に迫る危機感を齎した。
(今のところ、不平不満の声は出てねえ…が)
いつかは出てくるだろう、と土方は覚悟していた。そしてそこに組長を加えないことを非難されることも、予期している。
だが、これが一番手っ取り早かったのだ。
(これからの新撰組に必要な人物かどうか…見極めねえとな)
壬生浪士から新撰組へ。そして池田屋事件で名声を上げた。さらに、これからは幕府の戦争に加わり、侍の端くれとして新撰組は戦う。だからこそ、これまでのように乱暴者の集まりだと思われては困るのだ。
土方が熱心に稽古する隊士たちを見極めつつ、今後の隊編成について思案を巡らせていると
「土方さん」
と呼ばれた。柔和なその声は総司だった。
「起きたのか」
昨晩の西本願寺の張り込みを任せたのは、総司率いる一番隊だった。徹夜して朝に帰還した彼らは、今日一日は非番にしているのだ。池田屋で倒れてからどうなるものかと心配したが、すっかり体調は元に戻り仕事を熟しているようだ。
「はい。稽古の声が八木邸まで聞こえて、目が覚めちゃいました」
相変わらずの剣術馬鹿っぷりに土方は苦笑する。
「でも丁度良かったです。土方さんにお話があったので」
「話?」
総司が「ここではちょっと」と言葉を濁したので、土方は近い自分の部屋に戻ることにした。死番のこともあったので、てっきりどこからか不満でも出たのかと思いきや、部屋に入るなり、
「伊庭君に会ったんです。西本願寺からの帰り道に」
と切り出した。土方は少し力が抜ける。
「あいつ、神出鬼没だな」
ため息交じりに感想を述べると「そうですよね」と総司も同意した。しかし途端に声色を潜めた。
「そこで伺ったんですが。佐久間象山先生ってご存知ですか?」
「佐久間象山?朱子学者の…確か、一橋公に招かれて上洛しているっていう話だっただろう」
総司が「そうです」と同意した。
佐久間象山は有名な開国論者だ。門弟の吉田松陰が密偵を企てて失敗しその咎により蟄居処分を受けていた時期もあったが、一橋慶喜に重用され「公武合体論」「開国論」を論じている。しかし、総司が述べたのは重々しい事実だった。
「…殺されたそうです」
「なんだと?」
土方は驚いた。
過激な思想家である佐久間象山は、「西洋かぶれ」と揶揄されてたが、本人は尊大な性格を隠そうとはしなかったという。その言動故敵が多く、しかし本人は警護をつけての外出を嫌っているという噂は土方も聞いたことがあった。殺されてもおかしくはないと思っていたが、実際に殺されてしまうとは。
「殺したのは誰だ?」
「河上彦斎という尊王攘夷の志士だそうですが。生憎私は良く知らなくて…土方さんはご存知ですか?」
「…名前だけはな」
土方は躊躇いつつも、濁して答えた。
本当は名前だけではなく、熟知していた。河上彦斎は「人斬り彦斎」と呼ばれる過激な遣い手だ。昨年の八月十八日の政変の際、三条実美とともに長州に下ったが、盟友である宮部鼎蔵が池田屋で殺されたことに対する報復の為、上洛しているという噂だけは聞いていたのだ。
「伊庭君から土方さんに伝えてほしいって頼まれました。良くわからないのですけど、重要な話ですか?」
「ああ。おそらく佐久間が殺されたという話は、会津から伝わってくるだろうけれどな…」
そして噂通りの河上の上洛。それを一刻も早く知れたのは有益だった。相変わらず察しのいい友人だ。
しかし尚も総司はよくわからないようで、首を傾げつつも「まあ、ならいいです」と納得したようだった。
「あ。そうだ、伊庭君は江戸へ帰りましたよ」
「は?」
今度は驚く前に、唖然とする番だった。総司曰く、西本願寺の帰り道に出会った時は、ちょうど伊庭が出立するタイミングで、偶然出会えたらしい。
ついこの間、大坂へ下ったものの、池田屋事件勃発の為に引き返したのだと文句を言っていたのに、別れも言わず去るなんて。
「土方さんによろしくって笑っていましたけど」
総司の伝言に
(相変わらずと言えば相変わらずか…)
と、土方は「まったく」とお騒がせな友人にため息をついた。そして目の前に居る総司の肩に手を伸ばした。
こちらへ引き寄せるようにすると総司も特に嫌がらなかった。しかし肩のあたりに顔を寄せつつ、総司がポツリと漏らす。
「…そろそろ、戦が始まるようですね」
と。少しさみしげな物言いに聞こえたのは、鬼だと恐れられたとしても、総司自身が決して「殺したい」と本心から願ったことはないからなのだろう。
「ああ…」
土方は否定しなかった。おそらくは今日明日にも出陣の命が下るだろう。つかなくてもいい嘘はつかないことに決めたのだ。すると総司は「そうですか」と相槌を打って、それ以上は何も言わなかった。
その代わりに
「土方さん、もうちょっとこうしていてもいいですか?」
と問うてきた。断る理由などあるはずもない土方は「ああ」と答える。すると総司が体重を預けて、目を閉じた。そしてそのまま黙り込む。穏やかな寝息を立て始めた様子を見て、
「…眠いのか?」
昨夜は全く寝ていないのだろう、と土方は気遣った。しかしも答えない総司に
「眠いなら、床で寝ろ。疲れがとれねえだろう」
と促すと総司がようやく目を開けて、だが、少し拗ねたような顔をした。
「…土方さんは勝手です」
「は?」
脈絡のない話に問い返すと
「土方さんは…前に私の膝枕で夜通し寝てたくせに。私は駄目なんですか?」
口を窄ませて訴える総司は、いつもはそんなことをしないくせに、恨みがましく…そして甘えるようにそう言った。土方は内心(眠いのか)と苦笑したが、たまには甘えられるのも悪くない。
「わかったよ」
そう答えて、膝枕を差し出してやる。すると総司は満足そうに口角を上げて、「へへ」と喜ぶと、頭を預けてきた。そしてすぐに寝息をたてはじめたので、やはり眠かったようだと土方は理解した。
(もう少し…)
戦の喧騒が始まればこんな時間は無くなるだろう。嵐の前の静けさだとしても、こんな風に穏やかな時間が過ごせるのは悪くない。
「…さて」
徹夜した総司とは違って、土方の目はまだ冴えている。傍に会った本を手に取り目を通しつつ、総司が起きてくるのを待つことにした。





解説
201隊編成についてはもう少し先の時期だと思いますが、展開の都合上このタイミングになっています。ご了承ください。
203隊編成に関しては慶応元年頃のものをスライドさせています。西本願寺の頃です。この前後は様々な出来事で入れ替わっています。それはまたのちのお話で。
206明保野事件は武田観柳斎ら新撰組隊士と会津藩士が東山の料亭明保野亭に踏み込み、そこで応援に来ていた会津藩士柴司が土佐藩士麻田時太郎(時次郎)へ誤って怪我をさせてしまったことに発端します。永倉は「相手が悪いのだから柴は悪くない」と励ました…という話が残っているそうです。しかし公武合体を進めていた会津としては土佐と仲違するわけにもいかず、医者を派遣して事態の収束を図ります。この医者を、土佐藩として一日目は受け入れたものの、二日目は麻田の意思によって拒否され、土佐の国風に倣い、麻田は切腹して責任をとります。この行動に会津藩としても穏便に済ますことができず、しかし柴に切腹を命ずることもできず立ち往生。松平容保は「自分の口から死んでくれとは言えない」と嘆いたそうですが、結局は柴が自ら切腹することで責任をとり事件は終わります。若くして切腹に躊躇することなく臨んだ姿は、周囲の人を感嘆させたということです。お墓は金戒光明寺にあります。
207柴の葬儀に向かったのは土方歳三・井上源三郎・武田観柳斎・河合耆三郎・浅野藤太郎(薫)の五人で、柴の死体に縋って泣いたと言われています。それだけ柴と新撰組の繋がりは厚かったのでしょう。
209死番については、いつ頃制定されたのかは手元の資料では良くわかりませんでした。ご存じかとは思いますが、4~5人のローテーションで死番を回し、敵に対して攻撃を躊躇しないように意識づけるために行ったとされています。
210少し歴史上の出来事の順序を入れ替えています!ごめんなさい!正しくは伊庭の帰東→新撰組西本願寺へ探索→竹田街道へ出陣→佐久間象山殺害です。
また作中に登場した「河上彦斎<げんさい>」はるろ剣の主人公のモデルになったとも言われる人物です。(ですが、実際には沖田や斉藤と言った幕末の志士たちをモデルにして出来上がったキャラクターだそうです)
目次へ 次へ