わらべうた





211


元治元年七月中旬。池田屋事件に端を発した禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。
長州を擁護する公家らが長州藩の入京と松平容保の追放を訴えたが、孝明天皇は一貫して長州退去を命じ、実行されることとなる。長州藩士久坂はこの指示に止む無く従うことを決断するも、強硬派の真木和泉らが挙兵を押し進めた。新撰組が竹田街道に布陣するなか、19日早朝、蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、開戦となった。
新撰組は、鴨川付近勧進橋に勇んで出陣した。

「あー…苛々するぜ…」
新撰組は山南と怪我をしている藤堂らを始め数名を屯所に残し、揚々と出陣した。早朝に蛤御門付近で開戦の知らせを受けたとき、皆は歓喜の声を上げた。その中でも一際興奮を隠せない様子だった原田は、最初はうきうきと目を光らせていたものの、時間が経つにつれてその表情はイライラしたものに変わった。
それもその筈、遠くで激しい爆発音や声が聞こえてくるものの、新撰組が守る勧進橋辺りには何の喧騒も伝わない。まるで取り残されたかのように静かなのだ。
「まあまあ、原田さん。それだけ幕府軍の力が圧倒的だってことですよ」
良いじゃないですか、と総司は慰めるが、原田はもちろん納得しない。
「そう言えば、山南さんに聞いたんですけど、この勧進橋、地元の人は『銭取橋』って呼んでいるらしいですよ。何でも、ここから先の伏見稲荷に寄進するためのお金をここで集めていたとか」
「総司、俺はそういう小話を聞いている暇はねえんだよ!」
和ませようとした話も、原田には逆効果になってしまったようだ。それどころか、
「お前はいいよな!池田屋で手柄あげてんだからよ!」
と言い返されては、ぐうの音も出ない。人一倍明るく能天気なように見えて、原田は勝気で、向上心が強いのだ。そんな原田が戦を目の前にして、穏やかでいるなんてありえない。馬の鼻先に人参がぶら下がっているようなものだ。
そんな原田は、ついに我慢の限界がやってきたのか、立ち上がると
「そうだよ、こんなところで呑気に油売ってる場合じゃねえ…!ちょっと、俺、手柄をあげてくらあ!」
と、叫び、得意の槍を利き手にもち、原田は走り出そうとした。しかし
「原田先生!どうどう!」
一回り大柄の島田が取り押さえた。「離せ!」と原田は子供のようにバタバタと暴れたが、巨漢の島田はビクともしない。そんな様子を見ていた土方が「うるせえ!」と怒鳴ると、原田は仕方なく黙り込んだ。
しかしそういう土方こそ、誰よりも苛々しているようだ。眉間のしわがいつもの倍、深く刻まれている。平隊士から見れば、今にも点火する爆弾のような土方だが、総司から見れば(緊張しているなあ)と少し別の目線でうつる。
遠くで煙が上がっている。あの場所で誰かが勝ち、誰かが負ける。誰かが怪我をして、逃げて、死んでいる。そのリアリティは遠くに布陣している新撰組にはまだない。けれど、事の発端となった池田屋事件を引き起こしたのは自分たちだという真実は、もっとリアリティがなかった。少なくとも、総司にとっては。
つい数年前まで、江戸の道場で同じ時間を穏やかに過ごしていたのに。あの時は、この場所に居たいと願ったはずなのに。
(嫌なものだな…)
こんなことを口にすれば、近藤や土方らは苦い顔をして、さらに周囲から冷たい視線で見られることはわかっている。けれど、戦なんてなければ無い方がいい。無意味に生き死にを競う必要はない。
「…まあ信じてもらえないか…」
鬼だと恐れられる自分がそう言ったところで、信じるはずもない。
「先生?何かいいましたか?」
傍に控えていた山野が顔を覗き込む。総司はかぶりを振った。すると、静かな勧進橋に会津藩の一人が駆け込んできた。おそらくは伝令の類だろう。
近藤と土方が立ちあがって迎える。
「お伝えします!筑前藩の守る中立売門が突破され、長州の一部が御所に侵入しました!」
「何だと!」
悲鳴のように叫んだのは近藤で、傍に居た土方は一気に青ざめた。その動揺は控える平隊士たちにも伝わり、総司もつばを飲み込んだ。それまでの雰囲気は一変し、緊迫感が増す。
近藤はわなわなと震えた様子で拳を握りしめて
「出陣を…!」
と声を張り上げたが、伝令の会津藩士が「いえ!」と遮った。
「ここに待機せよと、殿からの伝令です!」
「何…?!」
御所が一部とはいえ、破られている、その状況でこの遠く離れた場所で待機せよなどと…そんな命令は、近藤・土方にとっては考えられないものだった。平隊士たちも悲嘆し、興奮している原田が「馬鹿野郎!」と叫んだ。
「御所がアブねえっていうのに、こんなところで暇つぶしかよ!」
「原田!」
どんなに理不尽な命令でも、会津候の指示だ。冷静な永倉が原田を制した。原田は地団太を踏んで暴れるが、皆気持ちは同じだった。これでは天守閣が責められているのに、城外にいるようなものだ。
しかし伝令は、「では!」と去っていく。彼を引き留めたところで、その命令が覆らないことを知っていた。
「俺たちには…任せられねえってことか…」
土方がポツリと漏らす。悔しくて仕方ない、という彼の感情が滲み出ていた。
いくら会津藩の御預かりだと言っても、結局は身元の知れぬ浪人の集まりだ。いくら「新撰組だ」と名乗ったところで、上からすればそこらに屯する浪人と変わらない。そんな自分たちが、御所に入って守ろうなどということが、そもそも烏滸がましいのか。総司も自分の体から力が抜けるのがわかった。
誰もが俯き、悔しさを堪えて拳を握りしめる。しかし、そんな状況の中でたった一人だけ、立ち上がるものが居た。
「行こう」
力強く宣言したのは、近藤だった。
平隊士が顔を上げて驚き、土方が唖然としたが、近藤の表情に迷いはない。
「何が正解なのかは、いまはわからん。だったら間違っているとしても、いま、正しいことをしよう」
近藤は馬に乗り、颯爽と走り出す。
その姿を見て、総司も立ち上がった。そして迷いもなく従う。
「おい、総司…」
土方が引き留めようとしたが、総司は逆に手を引いた。
「土方さん、行きましょう」
「ちょっと待て、もう少し手を考えてから…」
「何言っているんですか。局長が行くっていうんだから…近藤先生が行くっていうんだから、行かなきゃ、駄目じゃないですか!」
そう言って、馬で駆け出した近藤を追った。すると、平隊士たちも立ち上がり、後に続く。
「俺が一番乗りだぜ!」
「待て、原田。もう少し冷静にだな…」
「新ぱっつぁんは行かねえのかよ」
「…行くに決まっているだろう!」
やがて、皆が走り出して近藤に続いた。それまで鬱憤となっていたものを吐き出すように、皆の足取りは軽かった。

しかし、新撰組が御所へたどり着いた頃には、既に鎮圧されていた。
一時は筑前藩の守護を突破したが、乾門を守る薩摩藩が援護に駆けつけたことで形勢が逆転。新撰組は天龍寺へ廻戦する。そして19日中には、長州は敗戦した。加えて戦の先鋒であった久坂・来島らが自刃し、京での戦は一応の収束を迎えることとなった。

その翌日、新撰組は天王山へ逃げ延びたリーダー格である真木和泉を捕縛するため、伏見へ向かう。しかし、真木和泉ら一七名は天王山山頂にて自刃した。これで完結するかと思いきや、その二日後、伏見から戻る新撰組がみたのは、炎に包まれた京の姿だった。
総司は叫んだ。
「燃えている…!」
目の前の視界が、真っ赤に染まっていた。美しく並んだ家々が赤く燃えている。江戸では家事は珍しくはなかったが、ここまでの大火事になるのは初めてのことだった。
後に「どんどん焼け」と呼ばれるこの惨事は、長州藩士が、自らの藩邸に火を放って逃げたことに起因する。江戸と違い家と家との感覚が短い京では、鎮火させる暇もなく燃え広がったのだ。
「何人かは屯所へ、それ以外は全員、町の人の救助へ向かえ!」
近藤の指示で、皆が駆け出した。煙で充満した町は、視界も遮られて危険だ。あちらこちらで家が倒壊する音、女たちの悲鳴、子供の泣き声が聞こえる。逃げ延びる人々は、炎から逃れようと川へ飛び込む。
総司は駆けながら、唇を噛んだ。
(こんなことを…望んでいたわけじゃない…)
表面上だけでも、穏やかで雅で静かだった町が、たった数日で変わってしまう。そして変えてしまった原因は、あの池田屋事件なのだ。その現実は、あまりにも重かった。
「総司」
考え込んでいると、ぽんと肩を叩かれた。土方だ。
「土方さ…」
白い煙と、叫び声とが錯綜する中で、彼の唇が軽く触れた。
「…っ、もう、こんな往来で…!」
「そうやって怒ってろよ」
からかうように笑って、土方が先を走っていく。
そうだ、いまじゃない。今じゃなくてもいい。
総司は駆けだした。土方に追い付くために。



212


幕府は禁門の変により、目の上の瘤であった長州藩を一掃することに成功したものの、その傷跡はあまりにも酷く遺恨を残すこととなった。長州藩邸付近と堺町御門付近から出火した炎は、北東の風に乗り延焼。家々を焼き払い、死者・負傷者を大量に出す。「どんどん焼け」と言われるこの大火災により、市中は荒廃し、御苑の消失は免れたものの後に東京へ僥倖する一つの理由となった。
焼き出された市民の救済の為、新選組は火災を免れた屯所を避難所として提供したものの、日頃の悪評が祟って誰一人助けを求めてくる民はいなかった。

「ご苦労様」
山南は屯所に出入りする平隊士たちに、そう声をかけた。屯所固めを一任されている山南は外に出るわけにはいかず、ただ休息に戻ってくる隊士を迎えることしかできない。
「ここはがらんとしているな」
人一倍、救助に駆けまわる原田が、苦笑気味に山南に訊ねた。屯所を解放したはいいものの、これでは全く意味がなさそうだ。
「池田屋の記憶も新しいからね。遠巻きに眺める野次馬はいるが、本当に助けを求めてくるような人はいない」
山南はそこから遠くを見る。炎は消えたものの、そこらで煙が立ち上がりまだ薄暗い。あの煙の下で人々が逃げあぐねているのかと思うと、胸が痛む。
「それに良くない噂が流れているみたいだ」
原田とともに戻ってきた永倉が、用意していた握り飯を頬張った。彼らは食事を終えればすぐに救出に戻らなくてはならない。
「良くない噂?」
現在、情報が全く入ってこない山南は眉間に皺を寄せた。ただでさえ混乱したなかだ、憶測ばかりの噂は仕方ないと思っていたが、永倉の表情はさえない。
「長州の奴らが放火して逃げたっていうのに…どうやら俺たち、会津が長州藩士を炙り出すために放火したという話になっているらしい」
「何だって?!」
同じく握り飯を頬張っていた原田が、急に声を上げる。…そのせいで、飯を喉に詰まらせて悶えているが、永倉は続けた。
「なんせ、京の人々はもともと長州贔屓だ。今だって、連中を匿っている町人も多いと聞く。こっちが人助けにそこまで手が回らないのをいいことに、奴らを逃がそうとしているらしい」
「……日頃の行いだろうね」
山南はため息をついた。予想できないことではない。
江戸からやってきた新撰組だって、もともと歓迎されてはいない。好意的に接してくれる人など一握りで、ほとんどが悪い印象か恐ろしいという感想を抱いているだろう。
「っていっても、俺たちも完全に被害者じゃねえ。こんな火事の原因っていうか、張本人だ。そう思われるのは仕方ねえよな」
「そういえば、原田君。おまささんは無事なのかい?」
「ああ。家族と一緒だから、安心だぜ」
原田が頷くのを見て、山南も安堵した。すると、原田が鸚鵡返しに「そういう山南さんこそ、明里は大丈夫なのかよ」と訊ねてきた。
「…きっと、大丈夫だと信じているが…」
上七軒のほうにまで火が広がっていないという話は聞いているが、確証はない。そして自分はここから離れるわけにもいかず、ただ待っているしかないのだ。すると原田が眉間に皺を寄せた。
「ちょっと見てきたらいいんじゃねえの。屯所にはへーすけもいるし、誰も近寄ってこねえし…」
原田が気を遣って促してくれたが、山南は首を縦には振らなかった。
「そういうわけにはいかない。ただでさえ、池田屋の時には役立たずだったんだ。ここに居ることしかできないのだから、ここに居るべきだろう」
己の我が儘を優先すべきではない。それに、池田屋以来明里には会っていない。君菊が死んでからは一度も。
もうずっとこのまま会えないのかもしれない。彼女は自分を許してはくれないだろうし、その傷は膿みつづけて彼女をもう一度闇に落としてしまったのだろうから。のこのこ自分が顔を出すなんて、傷を思い起こさせるだけで、そんな行為は愚かでしかない。
(命だけは…助かっているといい…)
今はそう、願うしかない。
「…ま、暇があったら足を延ばしてみるよ」
原田はそれ以上は何も言わず、握り飯を口に放り込む。そして永倉とともにもう一度屯所を出て行った。
戦から休むことなく動きつづけるその身体には、きっと疲労も残っているだろう。しかしそんなことを感じさせない、背中だった。


三日後。
「どんどん焼け」「鉄砲焼け」とも呼ばれる、禁門の変による大火災はようやく沈静化した。
「六角獄舎のことは聞いたか?」
近藤が苦い顔をして、土方と山南を集めた。三日間走り回っていたせいか、近藤は目が据わり、少しやつれている。
「確か、古高ら倒幕の者が収監されているという話でしたが…」
「…まさか、かっちゃん」
話の内容を把握したらしい土方が、眉間に皺を寄せた。近藤も重々しくうなずいた。
「ああ。全員処刑したらしい」
「何ですって?!」
山南は動揺を隠せなかった。
火事の際、基本的は獄舎に収監されている罪人は一時的に放免される。六角獄舎は特に倒幕を目論む連中で溢れていた。
「彼らをあの町の中に放り出すわけには行かなかったということだ…」
「そんな惨い…」
「…会津の指示か?」
土方の質問に近藤は「いや」と首を横に振る。
「幕府役人の独断だそうだ。会津からも忠告があったそうだが…特に罰せられるわけではない。おそらく、誰でも同じ判断をしただろう…」
「しかし…」
食い下がろうとする山南を、土方が止めた。
「止めようぜ。終わったことをここで議論しても仕方ない。胸糞の悪いことだが…確かに古高たちを放免されては、池田屋のことを繰り返すだけだ」
土方のもっともな言い分に、山南は唇を噛みしめる。すると、土方は立ちあがった。
「もう話は終わりでいいだろう。…ちょっと外の空気を吸ってくる」
近藤の返事を待たずに、土方は部屋を去っていく。近藤は腕を組んだまま押し黙り、山南は強張った身体を動かすことはできなかった。

土方が隣の八木邸にやってくると、ちょうど山野と出会った。小奇麗な顔が、土まみれになっている。どうやら救出の為忙しなく動き回ったようだ。
「あ、土方副長、お疲れ様です!」
「ああ。総司は?」
挨拶もそこそこに総司の居場所を尋ねた。山野は別に総司の小姓でも何でもないのだが、総司の行動を一番把握している。
「え?あ、はい。実は僕も止めたんですが…」
「あ?」
「…あちらに」
山野がおずおずと指を指す。その先は、八木邸の屋根の上だった。

「何してんだ」
土方は屋根に上った。試衛館の頃はよくそうしていたものの、八木邸の屋根に上るのは初めてだ。江戸の屋根とは造りが違うが、足場は安定している。
山野に聞いたところ、総司はもう一刻以上前からこの屋根の上に居るらしい。「どんどん焼け」の救出作業から戻って、部下に休息の指示を与えた後、言葉少なくすぐにこの上に上がってしまったのだという。
「…土方さんこそ、どうしたんですか?」
「お前に会いに来たんだよ」
ストレートに用件を告げると、総司は曖昧に微笑んだ。土方は瓦の上を慎重に歩き、総司の隣に座る。
「…ここだと、町の風景が見えるんです」
「ああ…」
穏やかな夕日が町を照らしていた。しかし町は灰となり、瓦礫の山だ。その風景に京の優美な色が失われている。江戸からやってきたとき、京の独特の街並みに目が眩んだ。雑然とした江戸とは違う、色調高い都はまるでそこに居るだけで背筋を伸ばしてしまうような高貴な場所だった。
しかしそれはたった三日間で失われてしまった。この場所から眺めていると、そのことをまざまざと見せつけられているようだ。
「…私たちがしたことって、何だったんでしょうね…」
誰もが思っても口にしなかったことを、総司は呟いた。きっと総司自信もも吐露するつもりはなかっただろうが、それは相手が土方だから、口にしたのだろう。
「正義だと思う気持ちは変わらないですが…この結果は、あまりにも残酷です」
「…俺たちのせいじゃないと言って、片付けるのは難しいな」
総司は「そうですね」と同意した。火を放ち逃げ延びたのは敵に違いないが、そうさせたのは刀を手にした自分たちだ。完全なる被害者は、炎に逃げ惑い今も居場所を失った民たちだけだ。
「…ちゃんと夜になったら戻りますから。心配しないでください」
夕日を背中に、総司が微笑んだ。少し寂しげに、悲しげに。
元気を出せと言うのは簡単だ。だが、総司はそんな言葉を必要とはしていない。今はただ感傷に浸っているだけで、そんな時間を無駄だとは言わない。
「わかってる」
土方は総司の顎を手に取った。
総司と目があって、彼はすぐに目を閉じた。これからされることが理解できたのだろう。総司にとっては大きな進歩だ。
しかし土方はその唇を奪わずに、彼の額に口付けた。
「えっ?」
驚いて目を開けた総司は、顔を真っ赤に染めた。
「馬鹿」
そういってからかうと、総司は染めたまま口を窄めて拗ねた顔をした。
(…大丈夫か)
きっと総司の言うとおり、屋根を降りてくるころには元に戻っているのだろう。





213


禁門の変から数日。戦火から逃れた人々は徐々に家に戻り始め、早速京の再興が始まった。とんかんとんかんと、そこら中から大工の働く音が聞こえ、失われていた時間がようやく動き出した。そんな頃。
「…こんなにいただけません」
近藤の部屋に呼び出された総司は、その用件に顔を顰めた。目の前には見たこともない様な小判が並べられている。
「まあ、そう言うな」
聞き分けの悪い愛弟子を、近藤は宥めたが、土方は強引に「いいから受け取れ」と押し付けた。
過日の池田屋事件、続く禁門の変の働きを評価され、新撰組は会津藩から五百両、幕府から六百両の報奨金を賜った。その分配としては局長の近藤が三十両、副長の土方が二十三両、そして近藤隊として最初に斬りこんだ総司、永倉、藤堂らが二十両…と続いた。
「私は皆さんと違って飲みに出かけたり、遊里に足を運ぶこともないですから、こんな大金は困ります」
「お前だけ無しっていうわけにはいかねえだろうが」
元々金に興味のない総司には邪魔な産物でしかない。食い下がる総司に、しかしますます強引になる土方。近藤はそんな様子を見ながら苦笑した。
「だったら日野のお姉さんに送ってあげたらいいだろう。子供がいるのだから、入用だ」
「それは…そうですけど…」
あまり気がすすまないのか、近藤の勧めにも、総司は安易に頷くことはしない。強情な総司に土方がため息をついた。
「いいか、今回の報奨金は出来高だ。命を危険に晒した奴が多く貰う、それは今後も同じだ。お前が受け取らないとなると示しがつかない」
今後、ますます新撰組は大きくなるだろう。人も増え仕事も広がる。これからは自分の上げた手柄で金を受け取ることもある。そんななかで、私情を挟むなと土方は言いたいのだろう。
「……わかりました」
貰うことも仕事だと諭されれば、総司は拒否しようもない。仕方なく身の丈に合わない褒賞を受け取った。
「そうだ、日野と言えば…今度、隊士募集の為に誰かを江戸にやろうと思うんだ」
突然、近藤が話を切り出し、総司は首を傾げた。
「わざわざ江戸ですか?池田屋の一件で、相当入隊希望の隊士が集っているという話でしたけど…?」
「素性の知れない浪士ばかりだ。…兵は東国に限る。試衛館の方にも信頼できる筋から良い人材を集めるように文を出したんだ」
近藤が嬉しそうに笑い、総司は「それは良いですね」と同意した。
試衛館の見立てで隊士を募集してくれるなら信頼もできるし、手間も省け、即戦力も期待できるだろう。すると土方が口を挟んだ。
「近藤先生、その話だが…藤堂に行かせようと思う」
「藤堂君に?」
池田屋事件で負傷した藤堂は、しばらく床を動けなかったが、今ではすっかり回復し、禁門の変の時は山南とともに屯所固めを務めていた。額の傷は塞がり、日常生活に支障はないようだ。
「稽古くらいなら大丈夫なようだが、組長として巡察に行くのはまだ早いだろう。だったら、隊士募集の先鋒として江戸に下って貰うほうがいい」
「…確かに、仕事ができず歯がゆい思いをするくらいなら、この大役を任せる方が藤堂君も喜ぶだろうな」
近藤は「わかった」と同意し、どうやら本決まりになったようだ…が
「よし、じゃあ俺も江戸へ行こう」
「は?」
近藤が突然思いついたように口を滑らせた。土方と総司は驚いて顔を見合わせた。
「もちろん先鋒として藤堂君に数を集めてもらうが、最終的には俺が決めてくる。いいだろう?京にはお前がいるし、山南さんもいるから安心だ」
「構わねえけど…何だよ突然」
土方はあからさまに疑いの目で、近藤を見た。確かに彼らしくない提案だ。
すると生来素直な大将は、頭を掻きながら
「いやあ、不意に女房とたまに会いたくなったのさ」
と照れながら言うものだから、総司は思わず笑ってしまっていた。


そのあと、会津藩からの呼び出しを受け近藤が部屋を去った。自室に戻ろうとした総司だが、珍しく土方に散歩に誘われた。
池田屋事件から禁門の変にかけて、ずっと屯所では物々しい警備が敷かれていたが、このほどようやく通常の範囲に戻った。夏の暑さも峠を過ぎ隊士たちも体調を戻したため、会津藩からの支援は必要ない。当番の平隊士が門番に立ち、出ていく総司と土方を見送った。
「どこへ行くんです?」
土方の隣を歩きながら、総司が訊ねたが「いいからついてこい」と土方が答えを暈してしまう。気になるところではあったが、土方が答えてくれそうもないので、総司は黙ってついていくことにした。
秋の涼しい風が髪を靡かせた。ついこの間まで太陽の光に汗を流し、あついあついとぼやいていたが、すでに季節は変わっていた。
「あっという間ですねえ…」
総司は何気なく呟いた。
目まぐるしく変わる環境、出会う人、別れる人…思い出すとそれは遠い場景のようで、しかし近くにある景色でもある。何も変わったつもりはないのに、きっと驚くほど変わって見えるだろう。
(姉さんは…なんていうかな…)
普段は全く思い出さないのに、不意に姉の顔を思い出した。
甘ったれな末の弟に特に厳しくあたった姉は、いまから思えば父と母の代わりを一人でしていたのだろう。今なら幼い自分に別れを決断した姉の悲しさが理解できるが、その時の自分と言えば、剣術ができる試衛館に居られることが嬉しくて仕方なかった。
姉はいつだって寂しい思いをして心配しているというのに、それを感じつつも、思いやることはそういえばしていない気がする。
(…手紙を書こうかな)
池田屋のことは江戸にも伝わっていると聞いた。近藤などは英雄扱いになっているそうだが、姉はきっと弟のことを心配しているだろう。きっとあの姉のことだから、報奨金を送ってあげたところで送り返してくる。そういう勝気なところもある姉だが、池田屋で倒れたなんて耳に入れば、居てもたってもいられず京へ飛んでくるかもしれない。
「…ふふ」
その時は観光案内してあげればいいか、なんてことを空想して微笑んでいると
「何だよ」
と土方が聞き取っていたらしい。
「いえ、久々に姉のことを考えていました」
「姉って…おミツさんのことか」
「はい。もうしばらく会っていないので…そろそろ手紙でも出したほうが良いかなって思います」
総司の台詞に、土方は「当然だ」と頷いた。意外に筆まめな土方と違い、手紙を出すのを億劫に思い梨の礫状態の総司は事あるごとに土方から手紙を出すように促されていた。
「…何だったら、かっちゃんと一緒に江戸に行ってくるか?」
「え?」
土方の思いがけない提案に総司は驚いた。
「藤堂の様に長期で行かせるわけにはいかねえが…かっちゃんと一緒に隊士選別に行くなら、何とかなるだろう」
「…」
確かに姉や義理兄、成長した甥っ子姪っ子を見に行くのは吝かではない。それに明日死ぬかもしれない身だ、もしかしたらもう二度とない機会かもしれない。
だが
「…いえ、止めておきます」
と総司は断った。土方は「遠慮するな」とさらに薦めたが、総司は首を横に振った。
「そうなったら土方さんが一人になっちゃうじゃないですか。それは可哀そうだから、やめておいてあげます」
江戸に行け、という割には土方の声色は少し寂しそうだ。そのことを総司は機敏に察していた。
しかし土方は怪訝な顔で総司を見た。
「はぁ?何が可哀そうなんだよ」
「本当の一匹狼になっちゃうし」
「何だよそれは」
「ふふ」
笑って誤魔化す総司に、土方は文句を言っているもののそれ以上の追及はしない。そして江戸へ行けということもなかった。





214


土方が散歩だと言って出掛けた目的地は、総司の予想をはるかに超えた場所だった。
屯所の八木邸から南へ歩きつづけた先にある場所。先日のどんどん焼けか免れたらしく、曲線の柔らかな屋根が続く閑静な場所だ。土方は、その一角にある小ぶりな家に遠慮もなく入って行った。
「土方さん?」
扉を開け、さっさと中へ入っていく土方を追い、総司も中に入る。外観は使い古された古民家のようだったが、中に入ってみるとそこには全く人の気配も、生活感はない。襖も、障子も畳も真新しく揃えてあり、清々しい匂いがした。
土方は早速玄関で草履を脱ぐと「お前も入れ」と我が家の様に手招きした。総司は困惑しつつも、土方に従い中に入った。八木邸ほどの広さはないが、家族で住むくらいなら十分な広さだ。小ぶりな庭もあり、京の家らしく風通しもいい。
「ああ、大分綺麗になったな。庭も選定してある」
満足そうに辺りを見渡しながら、土方は頷いた。その口ぶりだと訪れたのは初めてではないようだ。
「あの…ここは?」
しかし何のことかさっぱりわからない総司は、居心地が悪く部屋に隅で正座するしかない。土方は苦笑しつつ
「足を崩せばいい」
と言った。そしてこの家のことを教えてくれた。
「ここは…君菊の為に用意していた家だ」
「……」
久々に土方の口からこぼれたその名前に、総司は呆然とした。
土方は池田屋事件が終わったあと、彼女を身請けするつもりだった。その命を掛けた奉公に報いるために、あの閉ざされた場所から彼女を出す約束をした。けれどそれはかなわず、君菊は命を落としてしまった。
「そうでしたか…」
総司はこうしてみて初めて、土方が本当に君菊を身請けするつもりだったのだと実感する。土方と君菊が二人でいるところを、総司は一度しか見たことがない。だから想像がつかなかったけれど、君菊が当たらえられた場所がここだったのだと教えられると、この家が愛しくも切なくなる。
「手放すつもりだったが…幹部以上には休息所を認めてやることにしたからな。そのまま別宅を持つことにした」
もう吹っ切れているのか、気丈に語る土方は少し嬉しそうだ。もしかしたらただ単に、子供の頃に秘密基地を持つような感覚なのかもしれない、と総司は思った。
池田屋事件の報奨金により、副長助勤以上の幹部には女を囲う休息所を持つことを認められた。もちろん緊急の際にはすぐに駆けつけることができる範囲にもつことが条件だが、この規則により平隊士たちの出世意欲が増し、仕事への意欲が高まっているらしい。
「そうですか。屯所ほど広くはないですけど、羽を伸ばすのには良いお宅だと思いますよ」
ただでさえ屯所では仕事を抱えて塞ぎ込んでいる土方だ。真新しい別宅でなら喧騒もなくゆっくりと身体を休めることができるだろう。総司はただ単純にそう思って賛同したが、土方は「ふう」と少し息を吐いた。
そしてそれまで庭を眺められるように開けていた、敷居際の障子を閉じた。
「…お前、本当に鈍感だな」
「え?」
土方は総司の背なかの障子も閉めてしまい、六畳ほどの部屋は密室となった。
すると非常に近い距離で、土方が総司の前に座る。そしてするりと総司の頬に手を滑らせた。
「…屯所じゃこんなことできねえだろう」
顔の輪郭に手を伸ばし、強引に近づけると唇と唇が重なった。いつもは触れるだけの優しい重なりなのに、今日はすぐに口腔を弄りあい、舌を吸われ、息もできないほどに熱い行為となった。
「…っ、ひ、じかた…さん」
「お前は屯所だと嫌がる。ここからどんなに声を上げてもいいし、誰にも見られやしない」
「そ、その為に?」
総司が問うと、土方は「当たり前だろう」と微笑んだ。
「俺がこんなところに一人でいたって仕方ねえ。来るのはお前と一緒に来る」
「…っ、ば、馬鹿じゃないですか…」
顔を背けて、土方の視線から逃れる。顔が赤くなってしまっているのを見られるのは、恥ずかしい。
すると土方は顔の輪郭に伸ばしていた指先を首筋へと這わせ、襟を持った。
「と、歳三さん…」
男同士だから平気だと思っていたのに、何故だか身体が強張る。一緒に着替えたり、風呂に入ったことは何度もあるのに、今更ながらこの人にすべてを晒すのは気恥ずかしく感じてしまう。
身動ぎして逃れようとする総司を、土方は逃がさなかった。壁際まで追い詰めて、逃げる場所を無くしてしまう。
「嫌なのか?」
耳元で、撫でるように囁かれ、ざわっと身体が震えた。そんな感覚を味わったのは初めてだ。
「…嫌、じゃないです…けど」
「けど?」
言葉の節々を聞き逃さない土方が問い詰める。身体的にも精神的にも逃げ場をなくしてしまう。総司は正直に答えた。
「よ…よく、わかりません」
「ん?」
「嫌じゃないし、こわくもないけれど…歳三さんは慣れているかも知れないけれど…」
江戸に居た頃から女に不自由はしないと豪語していた彼にとっては、平気なことなのかもしれない。けれど総司にとってはそうではない。
すると土方は総司の右手をとった。そしてその手を、そのまま自身の胸に押し付ける。
「あ…」
掌から伝わってくる彼の心の臓はドクドクと波打っていた。それは自分と同じ、いつもよりも早いリズムで、叩きつけるように強く。
「慣れてるわけねえだろう」
「歳三さん…」
「お前ほど、緊張する相手はいない」
いつもの様子で、いつもの得意満面な表情だったから気が付かなかった。もしかしたら土方は思った以上に覚悟を決めて、今に臨んでいるのかもしれない。
総司は彼も自分と同じだ、と教えられたような気がして、少しだけ身体の強張りが解けた。そうすると、土方は抱きしめるように身体を重ねて、首筋に舌を這わせた。撫でるような触れ方にくすぐったさも感じたが、今まで感じたことの無い様な刺激が身体を高ぶらせる。その一方で、土方の手はするりと総司の袴を解き、腰のあたりから指先を添わせて気持ちの良いところに触れた。
「や…っ、ぁ…」
嫌だ、と言おうとした口を彼のそれで塞がれてしまうと、今までの口付けとは全く違う感覚を覚えた。まるで快感が冗長されるかのようになって、身体の力が抜けてしまう。
緩急をつけての弱い部分への刺激に、忽ち息が上がり頬が赤く染め上げられていく。
「と、歳三…さん、駄目…って…もう…」
「いいから、お前は気持ち良いだけわかってろ…」
甘く囁かれ、反論もできないまま身を任せると、温かい感触を下肢に感じた。
「…っ、歳三さん…!」
総司は理解した瞬間、咄嗟に身を引いたが腰を両手で抱えられ上手く逃げることができなかった。そのうち身体の力が抜けていくほどに、そこを蹂躙され甘やかされ、あっという間に吐き出してしまった。
「は…っ、ぁ…」
初めてのことではないにせよ、終わった後の後悔や脱力感は慣れない。上手く力の入らない両足を投げ出し、しばらく息を整えていると、ひやりとしたものが肌に触れた。
「え…?歳三さん…?」
「ふのりだ。最初は冷たいかもしれないが、我慢しろ」
ふのり?なんでそんなものを?
総司は逡巡したものの、ふと、昔、原田から聞いた話を思い出した。男同士で交わる場合は、ふのりを使うのだと。そうすると楽になるのだと。その時は、自分には関係のない艶話だと聞き流していたけれど。
思い出した瞬間に、総司は渾身の力で上半身を起こした。
「ちょ…っ、歳三さん、待ってください…!」
身体を投げ出して身を任せていたから、油断していたのだろう、土方からは簡単に逃れることができて、総司は着崩れていた着物を直した。
「何だよ。やっぱり嫌なのか?」
少し寂しそうに問うてきた土方に、総司は慌てて首を横に振った。
「え…っと、そうじゃなくて、あの、そんなこと……したこと、ないし」
「は?」
土方の眉間に皺が、一つ増えた。
そして土方は少し黙り込んで、ひとまずふのりを置くと、今度はまっすぐに総司を見た。
「…今までは、もう聞くのはやめておこうと思っていたんだが…」
「何ですか?」
遠慮がちな前置きは珍しい。総司が促すと、土方は少し言いずらそうに続けた。
「……お前、芹沢とはどこまでやったんだ?」
「え?」
「寝ただろう」
その指摘には、総司は罪悪感を覚えてしまう。
まるで遠い記憶のようだが、確かに土方の言うとおり、総司は様々な事情があり芹沢に身を委ねたことがある。そのあとは土方だけではなく斉藤からも叱られてしまい、しかしそれ以降誰も何も聞こうとはしなかったのだが。
「あの…あの時から不思議だったんです。土方さんは…そのあのあと、尻の辺りを弄るし、斉藤さんに変なことを聞かれるし」
「斉藤に?」
また、眉間のしわが一つ増えた。総司は怯みつつももう今更隠すことはできない。
「ちゃんと、後始末はしたのか…って。でも芹沢先生とその…ふのりを使ったことはないです」
「…というと、お前はここを使っていないのか?」
「……はい」
恐る恐る総司が答える。するとしばらく沈黙して、眉間に皺を寄せていた土方が、次第に呆けた顔になってそして最後には
「…はは」
「え?」
「あははははは…!」
頭を抱えて笑い始めてしまった。今度は総司が呆然とする番だ。
そして背中に手を回されて、強く抱きしめられた。
「そうか…なら、いい」
「え?」
「いや、焦ることはないんだ」
正面から抱きしめられ土方の表情は窺えない。けれど、彼がとても嬉しそうにしているのは、良くわかった。







215


「いってきまーす!」
旅姿の藤堂が両手を振りながら屯所を後にした。池田屋事件で負った額の傷がすっかり癒えた彼は、新しい隊士を集うべく江戸へと下るのだ。
「道中、気を付けて!」
「皆によろしくな!」
試衛館食客たちの見送りに、明るい調子で藤堂は答えて旅立っていった。元治元年八月のことである。

池田屋事件、禁門の変を経て新撰組の名声は一気に高まった。会津藩からはもちろん、天皇からも恩賞金を賜ったという話が京中で広まり、一気にその名を広めたのだ。さらに新撰組は身分を問わず剣の才さえあれば入隊と認めるという、当時では画期的な採用を行っていたため、腕に自信ありという者が各地から集まった。入隊希望者は引っ切り無しに訪れ、試験の日には列を為すほどになった。
「ここに居る副長助勤…つまり、組長から一本でも取れれば即入隊を認めます。でも、もし一本も取れなくてもすぐに帰らず、あちらの山南総長の元でお待ちください。見込みがありそうな者はこちらから声を掛けます」
入隊試験に集まった若人たちに、総司が説明をする。入隊希望者たちは「一本くらいなら取れる」と鼻息荒く息巻くものの、そこに並ぶ副長助勤は永倉、斉藤という新撰組随一の遣い手だ。一本取れれば奇跡、というハードルの高い試験だった。
「では、一番から!本田くん!」
傍に居た島田が名前を読み上げる。そして始めは勢いよく勝負を挑んでいくものの、一人また一人と打ち負かされれば、この新撰組の入隊がどれだけ厳しいのかが身に沁みたようだ。意気揚々とやってきた入隊希望者の顔色が、だんだんと暗くなっていく。
総司は見極め役として、永倉、斉藤の試合を見ていた。一本をとれなくても、二人を動揺させるくらいの遣い手なら、新撰組でも役に立つだろう。しかしそれも、二十人に一人、いるかいないかくらいだが。
「総司」
試合を見守っていると土方がやってきた。入隊試験に関しては総司たち助勤に一任し、最終的に土方が承認する形で入隊を認めている。なので、道場に用事はないはずで、加えて今日は来客中のはずだ。
「まだ目ぼしい人はいませんけど…?」
総司が不思議がって訊ねると
「そうじゃない。少し話がある」
と、土方が答えた。総司は首を捻りつつ
「話は構いませんが、今じゃないとだめですか?あと半分くらい残っているんですよねえ…」
朝から初めてもう昼過ぎだというのにまだ半分。夕方に終わればマシなくらいだろう。大した話でなければ改めてもらおうと思ったのだが、
「いいから。急ぐ話だ」
ということなので、総司は渋々了承した。その場に居た島田に判断を任せ、土方とともに道場から出た。
「お客さんが来ているんですよね。もう帰られたんですか?」
「いや。お前に同席してもらう話がある」
客人の用件というのが総司にも関係することらしい。
「どなたがいらっしゃっているんです?」
「会津の山本覚馬様だ」
「あの砲術の…?」
総司が訊ねると土方は「そうだ」と頷いた。
しかし、総司自身名前を知っていても関わりがある人物ではない。禁門の変の際、会津藩を率いているのを見たくらいだ。
(…だとしたら、何故?)
総司の疑問は拭えなかったが、土方が足早に八木邸に向かうものだから訊ねる暇はなかった。

前川邸では入隊試験を行い、騒々しいということで、客人は八木邸の客間に通されたらしい。
「失礼いたします」
総司が挨拶をすると、部屋には土方の言うとおり近藤と会津藩士山本覚馬が居たが、予想外にもう二人客人が居た。
「忙しいところを、かたじけない」
会津の訛りをそのままに、山本は総司に挨拶した。総司は「いいえ」と答えつつ、山本の傍に控える二人の若者をちらりと見た。
ひとりは細身で色白の男だった。少し釣り目で強気そうな顔立ちは、どこか不遜に映る。口をへの字に結んでいる辺り、不機嫌なのかもしれないが、その感情を隠そうとはしない。整った顔立ちをして品があるものの、あまり良い印象を周りに与えないだろう。
そしてもう一人。こちらは正反対に体格も良く色も少し黒い、大柄の男だった。目元は柔和だが、融通の利かない頑固そうな面構えだ。
総司がそんなことを思っていると、土方が「こっちだ」と言って隣に座らせた。そして近藤が紹介を始めた。
「こちらが新撰組一番隊隊長、沖田総司です。私の一番弟子で、隊内では随一の遣い手です。三浦君の指導に最適でしょう」
それはくすぐったい様な紹介だったが、山本は「そうですか」とにこやかに受け取り、「どうぞ頼みます」と軽く頭を下げた。話の見えない総司もつられて頭を下げる。そして今度は山本が口を開いた。
「こちらに控えますのは、三浦啓之助くんと芦屋登くんです。私から近藤局長へお願いして、新撰組に入隊させてもらえることになりました。指導を頼みます」
三浦と呼ばれた方は、総司を品定めするようにじろじろと見ていたが、傍に居た芦屋は丁寧すぎるほど頭を下げた。二人を足して二で割ったらちょうどいいような組み合わせだ。
実力主義の新撰組において、このような縁故採用というのは初めてだった。近藤や土方の主義に反する様な気もするが、世話になっている会津藩の重役からの頼みということなら断れない、ということだろうか、と理解しようとしたものの、話はもっと大きかったようだ。
「いえ、勝先生からの頼みともなれば名誉なことです。沖田くん、しっかり鍛えて差し上げるように」
「はい」
そう答えつつも、近藤の言葉に、総司は大いに戸惑った。
(勝先生?鍛えて差し上げる?)
勝とは、幕臣の勝海舟のことだろう、と総司でさえも察しが付く。幕府の大物中の大物だ。会津藩重役の縁者どころかその縁故ということなら、三浦と芦屋が高貴な生まれということになるのだろう。
総司はちらりと土方を見る。しかし(今は聞くな)と言わんばかりに、目を伏せられた。
「今日はこれで失礼します。明日までには二人を入隊させますので、よろしく計らってやってください」
山本からはこれ以上の説明はなく、二人を引き連れて席を立った。屯所を出ていくまで見送って、姿が見えなくなったところで
「どういうことなんです?」
と総司は早速訊ねた。すると、先ほどまで柔和な面構えだったのに、いきなり不機嫌そうに土方が吐き捨てた。
「どうもこうも、面倒なことになった」
「そう言うなよ、歳」
近藤がそう取り成すものの、土方は変わらず眉間に皺を寄せている。そして元いた客間に戻りながら、近藤が土方に代わって事情を説明してくれた。
「佐久間象山先生が暗殺されたのは知っているだろう」
「ええ、伊庭君から聞きましたけれど」
「あの三浦くんというのは佐久間先生のご子息だ。佐久間先生が殺されてから、名字を変えている」
「へえ…」
佐久間象山の息子ならば、あのふてぶてしい態度も納得だ。土方は忌々しく「妾の子だがな」と補足する。
「佐久間先生の奥様は、勝先生の妹であるから、三浦君というのは勝先生の親戚でもある。その勝先生から直々に山本様の所へ三浦くんの世話を頼まれたそうだ」
「山本様は勝先生と縁が?」
「佐久間先生の門下生として共に学んだ仲のようだ」
三人は客間に戻り、腰を下ろした。
「でも、新撰組に入隊してどうするんです。佐久間先生のご子息ならば、別に住む家や食いに困りはしないでしょうに」
総司が訊ねると、近藤は少し苦い顔をした。
「それが…仇討ちをしたいということらしい」
「仇討ち?佐久間象山先生を殺した犯人を…ですか?」
その目的には総司も驚いた。三浦という青年からそんな雰囲気はまったく感じなかったからだ。
「まあ建て前や意地ということもあるかもしれないが…とにかく山本様から二人を頼まれた。三浦君からも新撰組の中で一番の遣い手に教わりたいとのことだから、お前に頼もうと思ってな」
「……そうですか」
近藤からの申し出とはいえ、総司は何だか気がすすまなかった。仇討ちがしたいという割には、その意欲は無さそうだし、どこか甘えの抜けない坊ちゃんのような風情があった。まだ隣に居た無表情の芦屋のほうが、指導ができそうだ。
「隣の芦屋くん…というのは?」
「あいつは三浦の子分みたいなものだ。昔から連れて歩いている供で、身の回りの世話はあいつが請け負っているらしい」
土方の返答に、ますます総司は力が抜けた。良い齢をして身の回りの世話を任せるような人間が入隊するとは。
「…気がすすまないかもしれないが、とにかく頼むよ」
近藤がそう言うので仕方なく総司は「はい」と答えて置く。しかしこの先の不穏な予感は、拭えなかった。




216


翌日はまるで心の靄を移したような雨だった。
ついこの間までは、雨のもたらす涼しさに少しは感謝していたものの、今日の雨は肌に触れれば冷たく感じ、不快でしかたなかった。
「……荷物は、これくらいですか」
芦屋が訊ねると、三浦は適当に手を振りながら「ああ」と返事した。屯所へ持っていく荷物をまとめる芦屋の隣で、彼は胡坐をかき肘をついて暇そうにしていた。
もう二刻ほどしたらこの家を出て、晴れて新撰組に入隊するというのに、三浦はいまだに寝間着のままで準備をする気もなく、己の身さえも整えるつもりはないようだ。あくせく動き回る芦屋を、見下したように見守っていた。
「面倒くせぇ…」
三浦は頭を掻きながら呟いた。
父である佐久間象山が殺されたと聞いたとき、特に感傷に浸るとか、悲嘆するとかそういうことはなかった。身の回りの工面はすべて父にしてもらってはいたが、己の中で「自分は妾の子だ」という意識が無くなることはなく、どこか卑屈に感じていた。父の施しさえも
「己の体裁を守るためだ」
と素直に受け取ることはなかった。しかし残念ながら性格だけは受け継いでしまったようで、父の死後も「どこか偉そうな」態度を変えることはできなかった。
父の死後頼った親戚筋の勝海舟は、会津藩の山本覚馬に半ば押し付けるようにして三浦の身を預けた。そして義理堅く律儀な山本は、三浦に会うや否や
「仇討ちをしてはどうか」
と持ちかけた。父は尊攘派の人間に殺されたらしいが、犯人はまだ捕まっていない。山本としても恩師の犯人を捕まえたかったのだろうが、それよりもその残された息子が父の敵を取りたいという、どこか芝居のような展開により箔を付けられれば良いと思ったのかもしれない。昔から学がある父と違い、息子は七光りそのもの。これくらいの名声を得れば、後々贔屓されることを期待したのだろう。
しかし三浦には剣の覚えは全くなく、仇討ちをするような力はない。すると山本は新撰組への入隊を持ちかけた。
「…だからって新撰組かよ…」
新撰組のことは、三浦も良く知っていた。父から話を聞いていたし、先日の池田屋の風聞は面白おかしく三浦の耳に入ってきていたからだ。
しかし山本から聞く話は、噂話とはかなり違う、厳しい組織の内容だった。特に局中法度…罰則が切腹とはあまりに厳しい。秩序が乱れかけてるこのご時世に、古風な内容だ。山本もそのあたり不安を感じ「大丈夫か」と訊ねてきたが、父に似た尊大な性格が否を許さず、「問題ない」と返答してしまったのが、今になってはそもそも間違いだった。
(ただの厄介払いか…)
卑屈な性格ではそんな風に受け止めることしかできなかった。
「坊ちゃん、そろそろ着替えてください」
「……坊ちゃんはやめろ」
三浦が制すると、芦屋は「申し訳ございません」と口にした。しかしその無表情は変わらない。
芦屋は父が連れてきた世話人だ。その名前以外に出自も背景も知らない、三浦にとってはただの便利な付き人。出会ったのは数年前のまだ「少年」と言える頃だったので、父は遊び相手のつもりだったのかもしれないが、芦屋は出会った時からこの無表情で面白みのない男だった。ただし、体つきだけは日に日に大きくなり、今では三浦の倍あるのではないかというほどにしっかりとした体躯となっていた。
三浦は新撰組に入隊する条件として、この芦屋も同行させることにした。話は単純だ、身の回りの世話ができる人間が芦屋しかいなかったから。
「…着替えさせろ」
三浦の命令に有無を言わず従うのが、芦屋しかいなかったから。
「わかりました」
芦屋は躊躇いつつ、三浦の襟に手をかけた。もともと乱れていた着物がさらりと肌から離れて、雨のせいで冷たくなった空気に触れた。芦屋は用意していた新しい衣服を取り出して、三浦の手を通そうとする。
「芦屋」
「…なんでしょうか」
芦屋は動きを止めた。次の命令を待つ、犬の様に。
「新撰組に入ればゆっくりとした時間も取れないだろう」
「はい」
三浦は袖を通しかけた着物を脱ぎ捨てて、半裸のままで芦屋の頬に触れた。芦屋は少し後ずさったが、構う三浦ではない。バランスを崩した芦屋を組み敷くようにして、乗りかかった。そして
「抱きたいなら、抱いておけ」
声を落として、耳元で囁くように誘いかける。
すると芦屋はいつも、その無表情を少し崩して、動揺して、そして躊躇いつつも、手を伸ばして
「わかりました」
と答える。そしてその太い指を少し震わせて、三浦の肌に恐る恐る触れる。
彼は三浦のことを、命令を、いつだって否定し、拒否したことなどないのだ。
(…犬)
従順で、忠実な犬。
お前は、どこまでついて来るんだ?


雨が降る中、昨日の入隊試験に合格した者たちに混じって、三浦と芦屋が入隊した。一番隊から十番隊までに入隊した隊士たちは振り分けられ、予定通り三浦と芦屋は総司の組下に配属された。
総司はひとまず事情を説明したうえで、三浦と芦屋のことを島田に任せた。佐久間象山の息子だと話せば他の隊士が委縮してしまうため、伏せておく。しかし近藤をはじめ事情を知っている者が、三浦に対しては敬語で接するので、いづればれることではあるだろうが。
だが、問題は早速起こった。
「沖田先生」
八木邸に顔を出したのは山野だった。組織編制されてからも以前と同じように総司の組下で働いている。細身で目のぱっちりとて目立つ青年だ。
「今、少し宜しいですか?」
「ええ、構いませんよ」
今日は夜番なのでそれまでは暇だ。斉藤は丁度巡察に出ているため、総司は部屋へ通した。すると早速山野は
「あの…今日、入隊した三浦さんのことですが」
と切り出した。総司は苦い顔をした。
「…何か早速やらかしました?」
「早速…というと、先生も気にかかってらっしゃるんですか?」
察しのいい山野の問いに、総司は「まあ…」と言葉を濁した。
三浦は見かけは育ちのいい青年で、品がある整った顔立ちをしているが、性格には問題がありそうだ。昨日出会ったときも、どこか不遜で周りの人間を見下す雰囲気があり、他の隊士たちとの衝突は免れないだろうと思っていた。それが初日というのは先が思いやられることではあるが。
しかし山野の報告は総司が思っていた内容ではなかった。
「一緒に入隊した芦屋さんですが…彼のことを、顎で使っているというか、そう言うところがありまして。二人が入隊前からの知り合いだとは島田先輩から伺ってはいますが、少し目に余ると言いますか…」
「芦屋くんですか」
「さっきも荷物を芦屋さんが三浦さんの分まで整理されていて…三浦さんは疲れたので寝ると言って、寝てしまいました」
入隊したばかりで疲れて、眠るというのは悪いことではない。しかし傍から見れば芦屋が扱き使われているように見えてしまい、対応に困っているのだという。目敏い山野はこれからの生活に不安を感じているようだ。
「…まあ、もう少し様子を見てください。島田さんに任せてますけれど、大変そうだったら山野くんが助けてあげてください」
「それはもちろんですが…」
山野は何か言いたげだ。きっと三浦が新撰組の隊士に必要なボーダーを越えていないのに、入隊したことが腑に落ちないようだ。しかし今はその疑問に答えるわけにはいかない。
「芦屋くんはどうです?」
総司は無理やりに話題を変えた。すると意外に山野は少し明るい顔になった。
「とても親切な方です!最初は大柄で無表情で何を考えているのかわからないことがあったのですが…隊士が増えてしまった分、部屋の片づけをしていた僕に『手伝えることはないか』と訊ねてくださって」
「そうですか」
三浦はともかく、芦屋の方は新入隊士としての感覚を備えているらしい。総司は安堵した。
「ひとまず、わかりました。島田さんにも、何か困ったことがあれば知らせるように言っておいてください」
「わかりました。僕の方こそ、余計なことをお伝えしました」
山野は「失礼しました」と頭を下げて、部屋を出て行った。
「ふう…」
総司はため息をついた。
山野にはそう言ったものの、困ったことがあっても、総司では判断ができないことがある。三浦に強く当たるのはできないことではないが、その裏には会津藩、そして勝海舟の影がある。下手に荒立てれば、総司だけの問題ではなく、新撰組の責任となるのだ。これではまるで得体の知れない獣を預かる気分だ。
「先が思いやられる…」
総司は頭を抱えた。雨の音が、少しだけ、煩く感じた。



217


降り続ける秋の雨は、冬の寒さの到来を予感させる冷たいものだった。雨が地面に打ち付けられ、弾けて、飛び散る音を聞きながら、総司は稽古の様子を眺めていた。
「そこまで!」
稽古を仕切る島田はだくだくに汗を掻いている。稽古に参加している他の隊士も一様に同じで、外の寒さとは裏腹に道場は茹立つように熱い。だが一番隊の隊士たちだけあって、剣の才覚に優れ、体力もある。まだまだ稽古は続きそうだ。
(…でも)
ひとりだけ、やはり腕が劣る。総司はその姿を見ながらため息をついた。
「もう百本!」
島田の素振りの号令に、皆はまるで怒号のように返答し息巻き、木刀を握りなおしたものの、ひとり…三浦だけはうんざりした表情をして面倒そうに木刀を持ち上げた。ひょろひょろとした腕では剣先が定まらず、素振りもただの上下運動にしかなっていない。
佐久間家…今は御取り潰しになったようだが、育ちが良く御曹司だけあって剣をとったことは一度としてないらしい。だからと言って父親のように弁が立つというわけでもないらしく、明らかに本人は名前負けをしている。しかし変にプライドだけ高いせいで、稽古には嫌々ながらも参加しているようだ。
(それもいつまで持つやら…)
彼の指導を任されている総司からすれば、彼は足枷で、荷物でしかない。彼に剣の才能が無いことは一目でわかったし、だからと言ってひた向きに努力するタイプでもないだろう。そのうち稽古も嫌になって逃げだすのが目に見えてわかる。
(逃げ出せば切腹…だけど)
会津藩直々の入隊になった彼に、誰が切腹を命令できるというのだろうか。近藤は会津藩の面目を考えてできないだろうし、土方でさえ新撰組の立場を考慮して、どうにか回避する結末になるだろう。
総司はもう一度深いため息をついた。あまり悪い方へと考えていても仕方ない、彼が改心するのを願うしかないのだから。
そこで、総司はちらりともう一人の新入りに目を向けた。三浦とともに入隊した芦屋は、三浦とは正反対に新撰組に見合う能力を持っていた。背格好は島田に似て大柄で、何を考えているかわからない無表情ではあるが、出来損ないの三浦を庇うような気遣いも見せて、一番隊の面々とも親しくなっているようだ。
それに総司の目からしても、彼が何かの流派を修めているのではないかと推察できるほどに、剣の腕があった。
「いて…っ!」
カラン、という重たい音がして、総司はそちらに目を向ける。どうやら三浦が木刀を落としたようだ。三浦は顔を歪めつつも、木刀を手に取った。手を痛めたのか、木刀を持つのも辛そうだ。
総司は素振りをする隊士たちの合間を縫って、三浦の傍に歩み寄った。
「手を痛めましたか?」
「…いえ」
三浦は憮然と答える。プライドが高いせいか、負けず嫌いが滲み出ている。仕方なく、総司は無理やりに三浦の手を取ると、掌に出来た豆がつぶれて流血していた。
「無理をしないことです。身体や肌が慣れるまでは、素振りをしたところでただの疲労になる。最初は回数を減らして、徐々に増やすように。そうすれば次第に筋肉が付く」
「……」
試衛館時代「鬼稽古」と呼ばれていた総司としては、珍しく彼を気遣って稽古を止めたつもりだったのだが、逆に三浦は不機嫌を丸出しにした。
「別に…平気です」
総司の方を全く見ようともせず視線を外したまま答えると、三浦は木刀を握りしめてまた素振りを始めた。
近くで見ると彼の二の腕は震えていて、これ以上は限界だろう、と総司は察した。そして無理矢理に木刀を取り上げた。
「…っ!何をするんですか!」
三浦は急に怒鳴りあげた。そのせいで素振りを続けていた他の隊士が手を止めた。周囲の視線が集まるが、三浦はまるで威嚇する動物の様に総司を睨み付けていた。
しかし総司は意に返さず、淡々と告げた。
「貴方の指導は私が任されています。ろくに剣をとったことの無いことを自覚しなさい」
「…っ!」
三浦は何か言いたげに口を開いたが、ぎゅっと唇を噛んだ。言い返さない自制心はあるようだ。
そうして何も言い返さずに、「ちっ」と総司にしか聞こえない程度の舌打ちをすると、ドンドンとわざとらしく足音を立てて道場を出て行ってしまった。
一番隊隊士たちは、唖然と道場を出て行く三浦の背中を見送ったが
「さあ、続けてください」
と総司が言ったので、また木刀を握りしめた。
しかし芦屋だけは呆然と、三浦が出て行った道場の外を不安そうに見つめていた。


「手を焼いているみたいだな」
総司が稽古を終えて部屋に戻ると、同室の斉藤に開口一番そう言われた。どうやら三浦の『ご乱心』は既に斉藤に伝わっているようだ。
「面倒なので、斉藤さん、お守りを代わってください」
「会津藩直々のご指名だから、無理だな」
あっさりと断られて、総司は肩を落とした。仕方なく行李の傍に腰を下ろす。
会津藩山本が何故総司を指名したのか、今更になってわかる。きっとプライドの高い三浦が「剣が一番の人間」に教わりたいとか何とか文句をつけたのだろう。全く損な役回りだ。
「仇討ちが目的だなんて、お笑い草もいいところですよ。あれじゃあまるで、子供が初めて木刀を握ったかのようです」
「そんなに酷いのか」
「まあ、私が十の頃のようです」
試衛館に来て、木刀を初めて握ったとき。試衛館の木刀は子供にはまだ重くて、無理をして素振りをして、手に豆ができては近藤に諭された。無理をしてもいいが、無茶をしてはならない。それは何の得もないのだと。
「…いや、素直に従う分、十の私のほうがよっぽどマシですね」
総司が十の頃は近藤の助言に素直に従い、最初は少ない回数で、徐々に素振りの回数を増やしていったものだが、三浦は素直に聞き入れようとしない。それは育ってきた環境により形成された誇りが、同年代の総司の助言を受け入れることを良しとしないのだろう。
先ほどの三浦の態度もそうだ。総司がもう「止めても良い」と言ったのにやめなかったのは周囲の目を気にしたのだろう。周りが平気で素振りを熟すのに、自分だけはもういいと取り上げられてしまい、癇癪を起こしたのだ。
それを聞いていた斉藤が苦笑した。
「…それで河上彦斎に仇討ちしようというのだから、高すぎる志だな」
三浦の父である佐久間象山を殺したのは、河上彦斎であるという噂は既に世間に広まっていた。熊本藩出身で攘夷を掲げる河上は、池田屋事件で殺された宮部鼎三と同格の幹部であり、殺された仲間の復讐を果たそうと上洛しているとの噂がある。だとしたら絶好の仇討ちの機会なのだが、如何せん、三浦の腕は全く及ばない。
「仇討ちなんて本当に考えているんですかねえ…」
前々から思っていた総司の疑問に、斉藤はあっさりと
「そんなのは体裁でしかないだろう」
と答えた。
「佐久間象山の威光のおかげで、随分と羽振りの良い暮らしをしていたようだ。女癖と酒癖が悪いことで評判だったらしい」
「…そんな、新撰組で悪癖を発揮したら切腹ですよ」
「むしろだからこそ、新撰組に放り込んだのだろう」
親戚筋の勝でさえ手に負えず会津藩に任せ、さらにその会津藩にとっても厄介な存在を、更生施設として最適だった新撰組に放り込んだ。その斉藤の見解は乱暴ではあったが、総司も納得してしまった。
「…そして私は人身御供ということですかね」
「そうだな」
やはりあっさりと肯定されて、総司はため息をついた。
斉藤に愚痴ったところで何も変わらない。総司はどうにか気を落ち着かせるべく、稽古着から着替えることにした。
「しかし芦屋は良く遣うそうだな」
「ええ、そうですね」
行李から洗い立ての着物を取り出して袖を通す。三浦から芦屋の話題に移ったせいか、少しだけ清々しい気分になった。
「どこかの流派を修めているんですかね。本人に聞いても謙遜して教えてくれなかったですけど」
むしろ謙遜というよりも、固く口を結んで話さなかったというほうが正しい。無理やりに聞き出すつもりはなかったが、あのような頑なな態度は逆に不審でもある。
「いや、あれは…」
斉藤は答えようとしたものの、そこで言葉を止めた。
「斉藤さん?」
総司は促したものの
「なんでもない」
と斉藤は答えて、それから口を閉じた。総司はそれ以上は訊ねなかった。それ以上訊ねることを、何故か躊躇った。






218


朝からの稽古、そして昼からの巡察。屯所に戻ってきたのは既に日が暮れてからで、一日中働き詰めた三浦は自分の部屋に戻るや布団に突っ伏した。他の一番隊士たちは食事に向かったようだが、三浦にはその体力は残っていない。
「坊ちゃん、お食事をお持ちしましょうか」
疲れ果てた三浦とは裏腹に芦屋は顔色一つ変えていない。三浦は憎々しく見上げると
「…坊ちゃんと呼ぶなと何度も言っているだろう」
と揚げ足を取った。芦屋は「すみません」と謝るものの、申し訳なさそうな顔はしていない。
隊のなかで一番の精鋭隊だというのはまさにその通りで、平隊士たちは俊敏に、真面目に隊務を熟していた。
新撰組はごろつき浪人の集まり。そこに高貴な自分が身を寄せるのはどうにも納得がいかず、どうせなら花形の部署に、と尊大な気持ちを持って一番隊に加わったが、その激務にはすでに参り、後悔し始めていた。
特に気に入らないのは、一番隊の組長だ。
「くそ…馬鹿にしやがって…」
新撰組で一、二を争う使い手だという沖田総司は、三浦の想像よりも線の細い、優男だった。それが一番隊組長だというのだから、油断したというのもある。
「芦屋ぁ」
「はい」
従順に返答した芦屋は、三浦の着替えを準備していた。幼い頃から付き添ってきたこの従僕は、三浦に反抗したことは一度もない。
「腰…揉め」
「はい」
嫌がる素振りを見せずに芦屋は頷くと、俯せになった三浦の腰辺りにその大きな手のひらを被せた。強弱をつけて、ピンポイントで押す動きは心地よい。
今日は運悪く、巡察の途中に長州の浪士に出くわした。一番隊の隊士たちは手慣れた風に、浪士を取り囲み追い詰めた。浪士は死を覚悟したのか、無茶苦茶に刀を振り回し、最悪なことに三浦の方へその切っ先を向けてきた。
表情には出さなかったものの、動転した三浦は刀を構えることもできなかった。浪人から逃げればいいのか、戦えばいいのか、殺せばいいのか…そのどれにも身体が動かなかったのだ。すると見かねたのか沖田組長が三浦を庇うように前に立ち、華麗な手さばきで刀を一閃させた。
死んだ、と思った。浪人は白目をむいて膝から倒れたから。しかし実際は峰打ちだったらしく、そのことにすぐには気が付かなかった。
そうして沖田は言った。
『ちゃんと選びなさい』
と。
それが三浦にはどういう意味なのか分からなかった。しかしわかっていないのだと悟られるのが嫌で、『はい』と答えてわかったふりをした。
(選ぶって…なんだよ)
選んだことなんて、一度もないのに。
生まれた両親を選ぶことだってできなかった。人生を選ぶことだってできなかった。今ここにいることを、選ぶことさえできていない。
(この男だって…選ぶことができなかった)
世話人として連れて来られた芦屋は、父親のせいで孤高になった自分にとって唯一の『友人』でもあった。自分のことを良く知っている『友人』…けれど、それさえも、選べていない。選ぶことさえもできない。
だって正解がどれなのか、わからないのだから。
「…もういい」
思考停止。それが一番だ。
三浦がそういうと芦屋は手を止めた。そうして次の命令を待つ。
(お前も…いつも同じだ)
己の意思を垣間見せることもなく、三浦の言葉を待つばかりだ。
三浦は重い身体を起こして、芦屋の方へ向いた。芦屋は正座をしてまっすぐと三浦の目を見ていた。一心に見つめる真っ黒な瞳は、いったい何を映しているのだろうか。いったい何を想っているのだろうか。
(…興味はない)
突然、三浦は彼の下半身に手を伸ばした。
「坊ちゃん…」
芦屋はやや驚いたようだが、それでも少し身動ぎしただけで逃げるようなことはしなかった。
「だから、坊ちゃんはやめろって言っているだろう」
「…勘弁してください」
嫌だという割には芦屋のそこは少しだけ力が入っていた。三浦は自分のなかのどこかが、満足するのを感じた。
「お前、俺の腰に触っただけでこうなるのか?」
からかうように訊ねると、芦屋は俯いて黙り込む。そしてしばらくすると「申し訳ありません」とやはり無表情で謝った。そんな風に「何でもありません」というような顔をするくせに、身体が正直に反応している…その事実が、どこか三浦の嗜虐心をそそった。
固く結んだ彼の唇に近づいて、触れるか触れないかくらいの距離を保つ。
「抱けよ」
三浦が囁くと、彼の瞳が少しだけ揺れた。まるで静寂な水面に滴が落ちた一瞬の様に。
「坊ちゃん…」
「いいから。何も考えたくないんだ」
揺れる水面に、波が起こる。こうして揺さ振ると、彼の感情が伝わってくるようで、三浦はどこか安堵してしまう。
(お前だけは…俺を、選べ)
お前の意思で。お前の深く、奥底にある感情で。俺を、選び続ければいい。


総司は夕餉を終えるとすぐに、前川邸に向かった。いつもなら食事を終えたら収まる感情も、今日だけは我慢ならなかった。
「おや?」
土方の部屋にたどり着く前に、山南に出会った。険しい顔をしていた総司を見て驚いたのか、思わず「待て待て」と引き留めた。
「どうしたんだい」
「どうしたもこうしたもありません。土方さんは部屋に居ますか?」
「残念ながら、近藤局長とお出かけだよ。もうすぐ帰ってくるとは思うが…」
いないと分かれば、少し身体の力が抜けた。今日こそは文句を言いつけようと思っていたのに。
そんな総司を見かねて山南は自分の部屋に招き入れた。敷いていた布団を畳み、戸棚の奥から干菓子を差し出す。
「…山南さん、やっぱり私のこと子ども扱いしていますね?」
「え?あ、ああ、ごめん。そんなつもりじゃあないんだが…!」
山南は慌てて差し出した菓子を仕舞おうとした。しかし、山南の思うとおり御菓子一つで懐柔されてしまうのはいつものことだ。総司は何だか気が抜けて「いえ、いただきます」と受け取った。
「病人の山南さんに八つ当たりなんて申し訳ないですもんね」
「やっぱり怒っていたんだね」
「そりゃあそうです」
干菓子を口にすると、上品な甘さが口の中に広がった。沸騰していた感情が宥和されていくようで、いつもよりも甘く感じた。
「大体、いつも土方さんは面倒なことを私に押し付けてくるんです。ただでさえ毎日が目まぐるしく忙しいっているのに…」
「す、すまない。私ももう少し身体が良くなれば…」
山南が頭を掻いて謝る。総司は慌てた。
「あ、い、いえ。そう言うことじゃないんです。そりゃ忙しいですけれど、忙しいのは嫌いじゃないし…でも…その…」
「もしかして三浦くんのことかい?」
その問いかけに総司は素直に頷いた。すると山南は苦笑交じりに「そうか」と頷く。どうやら山南にも三浦の話は伝わっているらしい。
「彼も彼で父親を殺されていなければ、名家のご子息だ。多少やんちゃをしても許される環境で人生を送れるはずだったのにねえ」
「それはそうかもしれませんが、同情ばかりはしていられません。たとえ体裁の上とはいえ、会津の方から仇討ちをさせるように頼まれているんですから」
きっぱり否定した総司に、山南は「まあまあ」と宥めた。しかし溜りたまった総司の感情は口にすればするほど溢れてきた。
「それなのに稽古では癇癪を起すし、仕事もろくにできない。彼みたいな駄々っ子を私に預けるなんてそもそも間違っているんですよ」
「土方くんにはそう言いに来たのかい?」
「そうです。子供のお守りは子供にはできないんです」
総司の言い分に山南は吹き出して笑った。
「はは…っ それはそうかもしれないね」
「ああいう人は井上のおじさんみたいに、温厚で年上の人に預けて鍛えてもらった方が本人の為になるんです。近藤先生だって土方さんだってわかっているのに、己の体裁ばかり気にする三浦君に強く言えないでいるんです。そうしてそのしわ寄せは私に来ちゃうんです」
「それはそうだが…それを沖田君の経験には変えられないものかな?」
総司は山南の提案に口を閉じる。すると仏の副長…改め総長は諭すように続けた。
「今は藤堂君が江戸に下っているし、今後も隊士はどんどん増える。仕事をこなすだけじゃなく、彼らを育成して使える人材に育てるのも組長の大きな役目だ。その練習としてといっては何だが、三浦君を立派に育てることは、沖田君の良い経験になると思うよ」
「……ずるいです」
総司は手にしていた干菓子を口に放り込んだ。
「山南さんはそうやって私を言いくるめちゃうんですから」
総司だってわかっている。三浦を預けたのは本人の希望だけではなく、いつまでも人の上に立とうとしない総司に一番隊の重みをわからせることなのだと。だからわかっていて、三浦を預けているのだ。
「…わかりました。もうちょっとだけ我慢します」
「うん、いい心がけだ」
山南に出会わず土方の元へ向かっていたなら、そのまま喧嘩になっていただろう。こんな風にやさしく諭すことなんて彼はしないだろうから。そう思うと、やはりこの人が局長の継ぐ総長の地位に居るのは相応しいのだと実感する。
「…でも、山南さん。少し具合が良くなったみたいですね」
「え?そうかな」
池田屋の辺りから寝込みがちだったが、総司がいま見る限りは血色も良く快活としている。総司が指摘すると山南は複雑そうに笑った。
「だとしたら…私に足りないのは勇気かな」
「…明里さんは無事ですか?」
遠慮して聞いていなかったことを口にした。池田屋を経てから山南が遊里に向かうことはない。自分を律しているかのように、一言もその名前を出そうとはしなかった。
すると山南は黙り込んで、頷いた。
「無事…だということは、風の噂に聞いている。池田屋のあとは何度か足を運んだが…禁門の変以来、少し遠ざかってしまったんだ」
「何故ですか?」
「自分のことさえ儘ならないのに…彼女に会う資格なんて無いんじゃないかと、ずっと考えている」
山南は自嘲気味に答えたものの、「いや」と首を横に振った。
「そう言いながらだんだん怖くなったのかもしれない。これ以上嫌われてしまうことが…彼女に会えないのだと、突きつけられてしまうことが。…すでに会いたくないと言われているのに、おかしな話だ」
「山南さん…」
「忘れてくれ」
もう聞くな、と山南が言うので、総司はそれ以上は訊ねなかった。それに、何を言っていいのか言葉が浮かんでこなかった。





219


今日は夜から勤務、昼間は非番だということで、一番隊の面々は自由に時間を過ごしていた。前川邸に来ていた総司がちらりと平隊士部屋を覗くと、組下が半分ほど出かけているようだ。もう半分は寝ていたり、読書をしていたり将棋をしていたり…と様々だが、一人部屋の隅に珍しい人物がいた。
「芦屋くん」
総司は部屋に入ってまっすぐに芦屋のもとへと近寄った。目を閉じて夢想したらしい芦屋は、目を開けて、しかし特に表情を変えることなく
「お疲れさまです」
と事務的に小さく呟き、頭を下げた。山野は芦屋の事を「良い人だ」と言っていたが、積極的に周囲と馴染むタイプではないようだ。一匹狼ではないが、何となく浮いている…そんな存在なのだろう。
しかし総司が「珍しい」と思ったのは別の理由だ。
「今日は三浦君は一緒じゃないんですねえ」
彼が世話を焼いている三浦が傍にいなかったからだ。気配も無いので、恐らく他の隊士と出かけたのだろう。
二人が常に一緒にいることを、三浦自身は歓迎しているわけではなさそうだが、芦屋はまるで命令されたかのように片時も傍を離れない。だからこうして別々に行動しているのは珍しい。
「…飲みに行きました」
「へえ。芦屋くんは一緒に行かなかったんですか」
「ついてくるなと言われましたので」
淡々と語ったが、芦屋は少し瞳に陰りを見せた。主従関係の従者である彼は三浦の命令には絶対服従だ。今日は主人の機嫌が悪かったのだろう。
総司は苦笑した。一緒に来るなと言われたから、こうしてじっと帰りを待っている。まるで主人に忠実な犬のようだ。
「暇ですか?」
「暇です」
「じゃあ、道場に来て、私の相手をしてみませんか?」
芦屋は少し驚いたのか、目を見開いた。
「気負うことはありませんよ。今日は非番なんですからね」
「…はい」
彼は総司の誘いに、やや躊躇いつつ頷いて、立ち上がった。


前々から芦屋の腕については懐疑的だった。
稽古の様子を見る限りは、どこかの流派を修めているのではないか、と推察できるほど手馴れていて鮮やかだ。一本筋が通った背筋は美しく、基本に忠実なのは永倉に似ている。
しかし、1対1の打ち合いとなれば話は別だ。初手の斬り込みは見事だが、その先が続かない。その落差から、初手さえ避けることができれば、芦屋を打ち負かすのは簡単だとも言える。それは本人の才覚の問題なのか、それとも「手を抜いている」のか…それは見ているだけでは判別がつかない。
だから試したかったのだ。
「試合と言うわけじゃありません。でも手加減はしませんから、芦屋くんも全力でぶつかって来てください」
「…はい」
道場につくと、都合の良い事に誰もいなかった。
木刀では怪我をするかもしれないので、竹刀を渡し向き合った。芦屋は無表情ながらも、やはり躊躇いつつ竹刀を構えた。本当は気が進まないのかもしれない。
しかし総司はあえて無視をした。部下の実力を知らなければ命取りになる…そういう理由もあったからだ。
そして合図もなく始まる。芦屋が仕掛ける前に、総司が仕掛けた。意地悪かもしれないが、初手から潰したのだ。
「やっ!」
短く声を上げると、芦屋は驚きつつもかわした。その素早い動きは稽古の時にはなかった。
総司はかわされた剣先を、そのまま横に薙ぎ払った。素質のない隊士ならここで脇腹をやられるが、芦屋は竹刀で受け止めた。それもやはり稽古中にはない動きだった。
(やはり…)
同じ疑問を斉藤も抱いていた。彼はおそらく新撰組の中でも一流の遣い手の分類に入る。初手の斬り込みだけが見事なのは、相手へのカモフラージュか、敬意か。
それからも竹刀での打ち合いが続いた。芦屋も本気を出すつもりはなかっただろうが、総司の誘い込みに乗り、徐々に目の色を変えていった。的確に急所を狙い、総司をギリギリまで追い詰める。その剣捌きは最初は流派に忠実だと思われたが、全く違う。獲物を仕留める矢のように躊躇いのない殺人剣。
無表情の裏にあった獰猛な目がギラギラと眩しい。三浦の腰巾着だと揶揄される彼の本質はこんなに凶暴なのか。それは普段の温厚な姿からは想像もできない姿だった。
激しい竹刀の音。総司でさえも気が抜けないぎりぎりの均衡が破れて、二人が距離を取る。総司はそこで、ふっと力を抜き
「このくらいにしましょうか」
と終わりを告げた。実際にこれ以上すると、彼も自分を止められないだろうし、総司も手を抜く自信がなかった。芦屋は特に異論はなく竹刀を下した。息が上がりつつも、芦屋は次第に苦虫をかみつぶしてしまったような顔をした。
「…あの」
滴る汗をぬぐいつつ、芦屋が声をかけてきた。
「今日のことは…皆には黙っていてもらえませんか」
「今日のこと?」
総司が問い返す。芦屋が何が言いたいのかわかっていたが、敢えて分かっていないふりをした。
すると芦屋は急にその場に膝をついた。
「どうか、剣術については…凡人のままでいさせてください」
お願いします、と芦屋が頭を下げた。やはり、彼は彼の腕を自覚していたようだ。
「隠しておきたいのは、三浦君の為ですか」
「……」
総司が明朗に問うと、芦屋は黙り込んだ。おそらく図星をつかれたのだろう。
三浦の剣の腕は隊内で劣る。一番隊に居るような才能は、残念ながら、ない。本来であれば花形部署である一番隊に任命されること自体が異例で、また非難も浴びやすいだろう。しかしそれが芦屋も同じような凡才であれば、三浦だけが矢面に立つことはない。凡才であることで、芦屋は三浦を守っているのだ。
だが、いつもの総司であれば、それを武士道に反すると糾弾する。自分の実力を発揮しないで隠し持ち、凡才であると謀る…それは余りにも周りを馬鹿にしている。命を張って仕事に向かう仲間を、裏切っている。だが、芦屋もそれが分かっているからこそ、周りと距離を置き、溶け込むことなく孤立し、こうして膝をついて懇願しているのだろう。
そんな彼を、追及することはできなかった。
「…しばらくは私の胸に留めておきます」
すぐにバレることだと思いつつも、総司は頷いてやった。すると芦屋は
「ありがとうございます…」
と、力なく礼を述べた。そしてまたいつもの温厚な表情をして、道場を出ていく。別人のような獰猛さを隠して。
総司はその後ろ姿を、黙って見送った。

そうして、彼が置いていった竹刀を取り、自分のものと合わせて片付けていると、人の気配がした。
「…盗み見ですか、趣味が悪いですね」
入口で気怠そうにこちらを見ていたのは、土方だった。
「お前こそ、部下をいじめて楽しんでるじゃねえかよ」
「いじめてなんかいませんよ」
土方が道場の中に足を踏み入れた。
「あいつもお前が相手とはいえ、本気を出さなければ良かったんだ。自分が凡才でありたいなら、それを貫くべきだ」
「…盗み聞きもしてたんですね」
総司はちくりと指摘したが、土方は特に気にする様子もない。しかし、土方のことだから変に漏らしたりはしないだろう。それどころか的確に判断して芦屋をうまく使うはずだ。そう言う信頼はしている。
「…罪悪感じゃないですかね。いつも自分の腕を隠して稽古に参加して、皆を欺いてたからこそ、私にはいつか言うつもりだったのかもしれません」
「まあ、だとしたらお前もそこそこ信頼されてるってことだな」
「そこそことは何ですか」
相変わらず一言多い土方に、総司はむっと拗ねるが、やはり気にする土方ではない。
「しかしあれだけの剣の腕があるなら、なぜ三浦の子守りなんかしてるんだ。剣で身を立てることもできるだろう」
「さあ…山本様はなにかおっしゃっていなかったんですか?」
今、二人の身元引受人は会津藩の山本だ。父である佐久間象山と親交があるのだから、その息子のことを知っていてもおかしくはない。しかし土方は首を横に振った。
「佐久間象山が死ぬまで、三浦のことは知らなかったのだと言っていた。元々妾の子だから、存在自体を公にしていなかったのだろう」
「ふうん…じゃあ、三浦君にとっては、芦屋君は世話人であり用心棒みたいな存在っていうことなんですかね」
あれだけの腕があるなら佐久間に気に入られただろう。妾子のとはいえ、大事な一人息子を心配したのか。父の意図はわからないし、もしかしたら三浦自身も知らないのかもしれない。
「馬鹿な御曹司に、才能を潰されているか…」
「まあ、間違った忠誠心、っていうものじゃないですかね」
それもきっと余計なお世話なのだろう。
芦屋はきっと、三浦の為にすべてを捧げて生きてきた。それはこれからも続く。彼にとって三浦はいったいどんな存在なのだろう。
「忠誠心ねえ…」
土方は腕を組んで考え込み、何か言いたげな顔をした。しかし曖昧に「忠誠心ならいいけどな」と話を締めくくったのだった。







220


起こるべきして起こった、と言えば、まるで悟っていたかのようなことだが、しかしそれほどではないにせよ、何らかの予感があったからこそ、それほど取り乱すことなく受け入れることができた。
そんな事件が起こった。

今日は朝から巡察ということで、一番隊の面々は早起きして朝餉をとっていた。一人、だるそうに眼を擦る三浦が居たが、それはいたっていつもの光景だ。やがて用意が整い、壬生寺前に集合し点呼をとっていたところで、隊の後ろの方からざわっとした声が上がった。
総司が何だだろう、と振り返った所、同じように準備を整えた土方が居た。
「土方さん?どうしたんです」
壬生浪士組の頃は何度か巡察に同行することがあったが、新撰組の副長になってからは全くない。その珍しい光景にざわざわと隊士が落ち着きを失う。総司はもちろん土方が同行したからといって何かが変わるわけではないのだが、組下にとってみれば突然の査定のようなものだ。緊張するに決まっている。
「いや、早く目が覚めたからな」
土方はそんなことを言いつつ総司の隣に並び、歩き始めた。組下たちが戦々恐々とその後ろに従う。もちろん、三浦や芦屋もいる。
「…わかりやすい嘘を付いて。何のつもりです」
総司はこっそりと訊ねた。組下たちは気づかないだろうが、土方は朝が苦手なのだ。その彼が目的もなく早起きして、さらに巡察に加わろうとするなんておかしいに決まっている。しかし土方はしらを切って、「何のつもりもねえよ」と答えた。
「おい島田、今日の死番は誰だ」
「はっ…今日は、浅野君、三浦君、あとは自分です」
すぐ後ろを歩く島田は、少しぎこちなく答えた。既に古参隊士のはずだが、今でも土方の前では緊張しているようだ。しかし土方は構うことなく「そうか」と答えつつ、ちらりと後ろを窺った。三浦とその隣を歩く芦屋を確認した。
「…もしかしてそれが目的ですか?」
「ん?」
総司は声を潜めた。
「今日は三浦君が初めての死番です。それを知っていたから?」
これまで剣の腕が心許ないという理由で、三浦は死番から外されていた。しかし、本人もその事実に甘えているようなところもあったし、周りの隊士からの不満が出ることは間違いなかったため、今日からローテーションで任命することに決めたのだ。
土方がその様子を窺いに来たのだというのなら、納得できる。しかし、土方は「それもある」と曖昧に濁して答えた。だが、それ以上は黙り込んでしまったので、総司も訊ねることをしなかった。
今日は島原近辺のルートを探索することになっている。目的地に着くと、隊を三つに分けて分散して探索させた。まだ朝早いので人通りは少ないが、だからこそ綿密に調べて置く必要がある。先ほど島田が報告していた、浅野、三浦、島田がそれぞれの組に入り、死番を担当する。
「私は三浦君の組に入ります。島田さん、浅野さん、四半刻後にここでまた落ち合いましょう」
「はい」
「わかりました」
彼らは快活な返事をして、他の隊士とともに分散していく。
「土方さんはどうするんですか?」
「お前についていく」
「はいはい」
そうして三浦が死番を務める組は歩き始めた。組長だけならまだしも副長までもが同行するということで、三浦はもちろん同じグループの芦屋の表情も固い。
総司はため息をついた。ただでさえ神経を使う三浦の見張り。実力も伴わないだけにフォローも必要な場面で、土方までいれば気を遣う。朝から大変な仕事だ。こんな日は平穏に終わってくれればいい…と思っていたのだが、残念ながらそうはならなかった。
人通りの少ない置屋の通りを歩く。朝の遅い人々にとって、新撰組のようなごろつきが徘徊するだけで迷惑そうな顔をするが、巡察場所としては外せない。禁門の変を経て、長州びいきが影を潜めたとはいえ、まだ裏では倒幕派を支援しているということだ。一見さん御断りの料亭が闊歩するこの近辺は、一番注意すべき場所だ。そんな場所を、男数人がこちらを向いて歩いていた。男たちは新撰組の姿を見るや、その針路を変えて角へ入り姿を隠した。
「三浦君、追ってください」
総司の指示に、三浦は「はい」と返事したものの、少し強張っているように見えた。しかし死番である彼が先頭を歩かなければならない。三浦は顔を歪めつつも、早足で男たちが曲がった角へと入って行った。
細い道幅は、人一人が入るのがギリギリだ。先を見るが、先ほど入って行ったはずの男たちの姿が無い。見失ったか、と思ったが何軒か分の壁が連なった、長い通路を駆けて行ったとしてもまだ遠くに入っていないはずだ。自然と隊士たちが刀を抜く。三浦もその様子につられた様に刀を抜き、構えたままその細い路地に入って行った。
「…おかしいな」
「何がです」
土方の呟きを、総司が拾う。土方は眉間に皺を寄せつつ
「走っていたような音も聞こえなかった。なのに姿が見えねえとなると…」
と、考えを述べ始めたが、しかしそれ以上は続かなかった。
細い通路の壁となっている町屋。その狭間から先ほどの男たちが抜刀した状態で襲いかかってきたのだ。
「しねぇ、みぶろぉぉぉぉっ!」
既に必死の形相をして彼らは襲いかかってきた。土方の言いたかったことを、総司は理解した。彼らはこの細い路地を逃げて行ったのではなく、待ち伏せしていたのだ。
敵の独特の訛りは、京の者ではない。西の方の言葉かと推測できるが、今は男たちの正体を突き止めている場合では無い。
「わ、あぁぁああ…!」
先頭を務めている三浦が、敵のあまりの迫力に怖気づいていたのだ。刀を持つ手が震え、すでに逃げ腰となっている。これでは死番どころか、隊士としての職務も果たせそうもない。同じ判断をしたのだろう、すぐ後ろに居た芦屋が咄嗟に三浦を庇い先頭の男の刀を受け止める。
総司は咄嗟に駆けだした。一人分しか通れない狭い道幅、隊士は三浦・芦屋以外にも二人いたが、傍に合った木箱を踏み台に二人分、飛び越えた。そして立ち竦む三浦を投げ飛ばして、芦屋が受け止めていた相手の脇腹を刺す。男はすぐに意識を失って倒れた。
しかし相手は後、三人いる。果敢にも襲い掛かってくる敵は、怯む様子はない。
「芦屋くん、先頭をやりなさい!私が…二人を相手にする!」
「…っ、はい!」
芦屋に一人を任せて、総司は次なる相手に向き合う。突きの形で斬りこんできた男は、総司めがけて真っ直ぐに猛進してきたが、総司の刀がうち落としその刃先の方向を変えると、そのままに町屋の壁に刃先をめり込ませてしまった。すぐには抜けず、総司は流れるような仕草で彼の右腕を斬りつけた。
「ああ、あああぁぁ!」
「くそぉぉ!!」
そして次。その後ろにいた男は、既に刀を振り上げて総司に向けて振り落そうとしていた。しかしそれは遅すぎた。総司は前の男を斬りつけた刀のままで、素早く男の喉を突き刺した。ただ、不快なことに男の返り血を余計に浴びてしまった。
しかし、暇はない。振り返り、芦屋が相手をする敵へと構える。だが、それは不要だった。
「…やりましたか」
「……はい」
芦屋も顔面に血を浴びていた。男を心の臓を一刺しして絶命させている。
どういう風に殺したのかはわからなかったが、芦屋に怪我はないようだ。この細い路地で二人と相対し、一人を殺すとは新入隊士にしては上出来だ。
だがその一方で、今日の死番であり、本来であれば芦屋のような働きをすべきであった三浦は、尻餅をつきかんと口を開けていた。そしてその後方で、腕を組んで苦い顔をしている土方の姿があった。

その後、島田たちが合流した。結果的には四人中二人を捕縛することとなり、朝から大騒動になってしまった。近所にすむ住人が遠巻きに見つめるなか、捕縛された二人が屯所へと連行される。
「土方さん、悪運が強いですね」
「うるせえな。ほら、拭けよ」
土方が巡察に寺からかう総司だが、土方は以前不機嫌そうだ。彼が差し出した手拭いを受け取って、総司は返り血をふき取った。そして事後処理に動き回る部下たちを見つめながら、土方はため息をついた。
「…あれは物にならねえな。逃げ出さなかっただけ、まだマシか」
「今更なことをいいますねえ」
土方の感想に、総司は苦笑した。
三浦は結局そのまま腰を抜かしてしまい、芦屋に背負われるようにして屯所に戻った。おそらく人が死ぬのを間近で見たのは初めてだったのだろう。今にも嘔吐しそうな青ざめた顔をしていた。死番はおろか、職務さえも真っ当に務めることができない…それは総司の予想の範囲ではあった。
「まあ…今回は大目に見てあげてもいいですが、そろそろ平隊士の方でも不満が出てくることでしょうね。死番の人間があれでは、我が身に何が起こるかわからない。しかし死番を彼にだけ回さないとなると、それはそれで贔屓になってしまう」
「本人から一番隊を辞退するような気があればいいが…」
「それはどうでしょうねえ」
剣ができない、学もない彼にとって、一番隊に居るということだけが、その誇りを守る方法なのだ。その彼が自分から「辞める」とは言いたくても言えないのではないか、と総司は思っていた。
だが、土方は「近藤さんと相談だな」とあっさりとその話題を終わらせた。結局、どう考えたところで、三浦の後ろには会津と勝海舟が居る。そう思うだけで考えるのが憂鬱になるのだろう。
「それよりも…考えることがある」
「え?」
「後で言う」
土方はそう言うと、総司に背中を向けた。もう巡察は終わり後始末をして帰るのみだった。





解説
212「どんどん焼け」の出火原因については、長州側の放火としましたが幕府軍の放火という説もあるようです。
213報奨金についてですが、会津藩からの五百両は池田屋事件の二日後、幕府からの六百両は8月の上旬のことです。分配は同じような割合で行われたようです。
214ふのりは現在で言う石鹸のようなもので、髪を洗うのに使っていたようです。
215三浦の入隊は禁門の変直前ですが、入れ替えております。また芦屋登(昇もあり)については、入隊が慶応元年の頃と言われていますので、今回は全く違うポジションでのキャラクターになります。ご了承ください。

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