わらべうた





221

目だけがぎらぎらとしていた。
「芦屋昇だ。しばらくはこの家に預ける」
父がそっけなく紹介した少年は、みすぼらしい衣服に身を包み、しばらくは湯船に入っていないだろう汚れた身体だった。精悍な顔つきだが、父が言うには息子と同じ年らしい。厄介者の姿を見て家人は少し嫌そうな顔をしたが、父である佐久間象山に刃向うようなことをするわけはなかった。
「かしこまりました」
父は満足そうにうなずくと、チラリと啓之介…当時は恪二郎と名乗っていたが、息子を見て、しかし目を背けた。まるで何も見ていないかのように。
「…」
父に会うのは久々だ。正妻の顔色を気にしてなかなか家に寄りつこうとしない父だが、恪二郎にとってもそれほど会いたい相手ではない。尊大で横暴で…いつも人を見下したようにする父のことを、嫌いではないが、怖くは思っていた。
けれど、居ないもののように扱われるのはそれはそれで胸を痛める事だった。しかし父は何の言葉も発せず、そのまま背を向けた。家人と母が頭を下げてその姿を見送った。
そして母は芦屋を見ると微笑んだ。
「よく来たわね」
花街から身請けされた母は、尊大な父とは正反対で優しく柔らかく微笑む人だった。勝海舟の妹である正妻から疎まれても、妾であることを卑下することなく凛としていた。
母は芦屋の視線に身を屈めて、手を取った。そして隣にいた恪二郎を引き寄せる。背丈は芦屋の方が大きい。
「息子の恪二郎よ。なかなか近所にお友達が居ないから、昇くんが来てくれて嬉しいわ」
母はそう言ったが、芦屋は口を堅く結び何も答えようとはしない。(無愛想な奴)と恪二郎は思ったが
「ほら」
と母に促されるままに手を取られた。そして芦屋の汚れた手と重なった。
その時初めて、芦屋は表情を変えた。瞳孔を開いて、驚いたように。
「お友達ね。異国ではこうして手と手を重ねて、ご挨拶をするのよ」
異国かぶれと揶揄される父の影響で、母も異国の文化には詳しかった。これもきっと父から聞いた知識なのだろう。
「よろしくね」
母はそう言った。すると、彼の見開いた瞳孔から、ぽろりと涙が溢れた。
恪二郎は驚いて、思わず重ねた手を離した。幼い恪二郎にはなぜこの少年が泣いているのかわからなくて、動揺したのだ。わからないものは何だって怖い。
しかし母は違った。
「いらっしゃい、よく来たわね」
何度も何度もそう繰り返して、芦屋を抱きしめた。息子の恪二郎にそうするように、暖かく包み込んだ。
家人が「奥様!」と着物が汚れるのを気遣ったが、母は気に留めることなく、芦屋の背中を何度も優しく叩いた。泣く赤ん坊を眠らせるように。そうすることで安堵感を与えるように。
それが、芦屋との出会いだった。


先日の事件により、三浦は謹慎となった。
本来であれば「士道に背く間敷事」…局中法度により切腹を申し付けられるべき出来事だが、やはり勝海舟・会津藩の威光を無視することはできなかった。
しかし事は思わぬ方向へと発展していった。普段から三浦の振る舞いについては隊内でも噂になっていた為、今回の話も瞬く間に広がり、その事について納得が出来ないと訴える者が居たのだ。
「近藤さん、それは話が違う」
しかもそれがあろうことか、幹部である永倉・原田たち副長助勤だった。生真面目な永倉は法度の崩壊を訴え、情に流されるタイプの原田は、ただただ納得がいかない、と頑なだった。
二人が押し掛けたのは、近藤と土方、山南が揃い、さらには総司が居合わせた時だった。原田が激昂するのはある意味いつものことではあるが、普段は温厚な永倉が鋭い剣幕だったので、その場には緊張感が漂った。
「新撰組に入隊するものは、皆、局中法度に従う。特例もなく情に訴えることもない。だからこそ、これまで何人も死んで来たはずだ。しかし三浦君だけを特別扱いしてしまえば、また同じことを繰り返し、誰かが真似をするかもしれない。周りの隊士にも悪影響だ」
「大体、あいつはやる気がねえんだよ!面倒なことは全部芦屋に丸投げして、自分だけ楽してやがるんだ。もともと切腹になるべきなんだよ!」
声を荒げて訴える原田を、山南が「まあまあ」と宥めた。近藤は眉間にしわを寄せて腕を組み、土方は不機嫌そうに眼を閉じていた。そして当事者である総司は内心ため息をついた。
(言わんこっちゃない…)
三浦が入隊すること…つまり実力と関係なく入隊できるという特例を作ったことで、悪い方向へと向かっている。その予感は随分前からあったし、土方だってわかっていたはずだ。
生真面目な永倉はさらに指摘する。
「出自のことを悪く言うつもりはないが、彼は身の回りの世話を全部、芦屋くんに任せている。これまでそうだったからといって、ここでもそれが良いということにはならない。この間は下駄を履かせているのを見たという隊士もいた。自分だけが特別扱いであるということをひけらかす様な態度も良くない」
永倉が語ったエピソードには総司の方がぎょっとした。主従関係は明らかな二人ではあるが、それでは芦屋が奴隷だ。傍目にも良くは見えないだろう。
流石にこれには近藤も「うーむ」と唸った。永倉は己の私情を挟むことなく、ただただ正論を述べている。間違っていないからこそ、それを指摘はできない。いつもは論を講じて相手を納得させる山南も、今回ばかりは口を挟めないでいた。
「だいたい、一番隊に入れるのが間違ってんだよ!なあ、総司!」
「え…っ」
原田の台詞によって、総司は突然話の矢面に立たされた。
「最初は仇討ちだ何だって言うから度胸のある坊ちゃんかと思ったのによ。稽古だって真面目に受けやしねえし、人の言うことも聞かねえ。仕舞には不貞腐れて、終わりだ。付き合ってらんねえよな!?」
全くの事実に促されるままに頷きたいのは山々だが、背中からひしひしと感じる土方のプレッシャーにはさすがに気が付いていた。
総司がここで「そうだ」と同意するのは簡単だが、そうなれば二人の怒りは益々助長される。幹部二人が離反ということになれば平隊士たちも動揺してしまうだろう。それはに二人の居ていることは正論ではあるが、理想すぎる。実際に勝海舟と会津藩の威光を無視することは、新撰組の誰にもできないのだから。
だったらここで、総司が折衷案を出すのが良いのだろう。珍しく頭がくるくると回ったのは、やはり土方の無言の圧力のせいだろうか。
「確かに三浦君は、武士として…情けない振る舞いをしたと思います。けれど、それも子供の仕業と思えば仕方ないとは思います」
「子供…?」
「私から見れば、彼はまだまだ子供です。剣の腕も…心の、強さも。そんな彼にとって、先日の事件は初めてのことだったのだと思います。目の前で人が死ぬのも、自分が襲われるのも…」
「だから許せと?」
永倉が訊ねると、総司は躊躇いつつ頷いた。
「誰にでも初めてはある。彼の不作法は、たぶん私の指導が足りなかったせいもあるのだと思います。だから今回は私に免じて、見逃していただけませんか?」
総司は居住まいを正して永倉と原田に頭を下げた。三浦を庇うつもりはない。ただ、自分の指導が足りないというのもある意味真実のような気がしたのだ。
永倉は押し黙り、原田は頭を掻いた。
「まあ…お前がそう言うなら、いいけどよ…」
感情的な原田は、感情に流される。怒りはすっかり解けて、「仕方ねえなあ」と言わんばかりに苦笑した。すると原田の雰囲気に流されて、永倉も大きくため息をついた。
「…わかった。どっちにしろ、俺の組下の話じゃないしな…」
「ありがとうございます」
「局長、お時間をとらせてすみません」
永倉はそう言って頭を下げると、さっさと部屋を出て行った。続いて原田が「待てよー」と追いすがって出て行って、部屋の緊張感はようやく解かれた。
「…悪かったなあ、総司」
安堵したようにそう言ったのは、近藤だった。先ほどの固く引き結んだ大きな口が、ほどかれていた。総司は「いいえ」と首を横に振った。結果的には総司が取り成したように見えるが、結局は部下の不始末なのだから仕方ない。
「しかし、原田君はともかく…永倉君があんな風に怒るのは珍しい…」
呆然としたように山南がつぶやくと、それまでずっと黙り込んでいた土方が「ふん」と苛立ったように息を吐く。
「解決できるもんなら、さっさと解決して追い出してるってんだよ。正義を振りかざしているだけで解決するならそうする」
「土方さん…」
「そういうな、歳。永倉君にも考えがあってここに来たんだ」
近藤が永倉を庇い、宥めるが、土方は不機嫌そうに立ち上がる。
「だったら解決してもらいたいもんだ」
そう言うとどんどんと足音を立てながら部屋を出て行ってしまった。





222


前川邸には蔵がある。かつて池田屋事件の際に捕えられた古高俊太郎が拷問をされた場所だ。既に黒くなった血の跡が残り、もともと光の差し込まない薄暗い場所には不気味な雰囲気が漂っていった。
言いつけられた謹慎は三日間。三浦は長い、と感じたが、周りの人間はどう思ったのだろう。「足りない」と感じたのではないだろうか。敵前逃亡までは行かないにせよ、局中法度ぎりぎりの行為だった自覚はあった。
「くそ…」
あの時、襲い掛かってきた浪士を見て、三浦は何もできなかった。恐怖のあまりに身が竦んだ。だから芦屋が庇ってくれた時は、心底安心し「生きていられた」という安堵感にただただ浸った。
しかし後になって後悔は襲ってくる。情けない姿を平隊士だけでなく、組長そして副長にまで見られてしまった。局中法度がどうこうではなく、ただその恥ずかしい姿を見られたということに、苛立ちを覚えた。沖田組長の困った表情に、その後ろで見ていた土方副長の呆れた顔が、焼きついている。
それを思い出すたびに、拳を握りしめた。
そうしていると、ガガガ、という軋む音を立てて、土蔵の扉が開いた。外の光が一気に差し込んで、三浦は思わず目を閉じた。
「…食事です」
膳を抱えてやってきたのは芦屋だった。眩い光のせいで芦屋の表情は見えないが、声はいつも通りの無愛想だ。
「いらない」
三浦は即答した。謹慎して二日目の今日まで、一口も食事をしていない。それはくだらない意地だった。そして三日三晩、食事をしなかったとなれば、少しくらいは名誉挽回できるだろうという下心もあった。
しかし芦屋は三浦の傍に寄り、腰を屈めた。そして膳を置く。
「どうか召し上がってください」
芦屋は懇願するように頭を下げた。光のせいで見えなかった彼の表情が、こうして近くによると良く見える。普段は無愛想で、顔のパーツ一つ一つを動かすことは少ないと言うのに、眉をひそめて唇を固く結んでいた。
「いらない」
「しかし…」
「お前が食えよ」
頑なに拒む三浦に、芦屋はそれ以上食い下がらない。肩を落として、その場に項垂れた。
「…お前は俺に付き合わなくていい」
「……」
三浦がそう言うと、芦屋はさらに表情を暗くした。芦屋が三浦に付き合って、食事を絶っているのだろうなんてことは容易に想像がついた。
「いえ…」
芦屋は首を横に振る。彼も彼で頑固なので、三浦の謹慎に自主的に付き合うつもりなのだろう。三浦は(まあいいか)とそれ以上促すのをやめた。
「なあ」
「…はい」
そしてこの土蔵に閉じ込められてから、ずっと気になっていたことを口にした。
「お前、剣ができるのか?」
同じ家で育ってきた芦屋が、剣の稽古をしている姿は見たことが無かった。下人のように良く働き、たまに三浦の遊び相手になり、忙しく世話をする…そんな姿しか見たことが無かったのだ。新撰組に入った後も、稽古はそれなりに熟していても、試合ではすぐに負けていた。だから一番隊に居ながら剣の腕は左程でもない…そういう風に思われるのは自分だけではないのだと安心できた。けれど、あの時、竦んだ三浦を庇って敵を斬り倒した時は心底驚いた。三浦の目から見ても、その堂さが余りにも手慣れていて、一緒に斬りあいになった沖田組長と遜色ない腕前に見えた。
そして長い謹慎の時間に考えた結論は、芦屋が実は剣の腕前があるということ。しかも凡人のそれではないということ。
「……」
「芦屋、どうなんだよ」
三浦が問い詰めるが、芦屋は何も答えようとはしない。みるみると顔色を悪くさせ、さらに項垂れた。
しかしその態度だからこそ三浦は理解した。何も言い訳をしないということは、まさにその通りということだ。芦屋は三浦に嘘がつけない。だから、何も言うことができなくて、その通りだと肯定しているのと同じだ。
「…お前も、俺を馬鹿にしていたんだな」
三浦は「そうだったのか」と納得してあげることはできなかった。一番隊のなかで自分だけが駄目なのだと、その事実を突きつけられたようで。そして、今までずっと傍にいたくせにそんなことを隠していたなんて。苛立ち、怒りが込み上げてくる。
「坊ちゃん!そんなことは…!」
芦屋が珍しく声を張り上げて否定する。しかし三浦の耳には入ってこなかった。
「五月蠅い!ずっと隠して、俺のことを見下していたんだろう!剣ができないことを、馬鹿にしていたんだろう!?」
「違います!ただ、俺は…!」
「出ていけっ!」
「坊ちゃん…!」
話を聞いてくれ、とせがむ芦屋の手を、三浦は振り落した。
「いいから出ていけ!」
悲鳴のように叫び、芦屋が持ってきた膳を蹴り上げた。なかに入っていた食事はもちろん、器が当たりに散らばって音を立てる。その激しい音が止むと、もう芦屋は何も言わなかった。
「……」
そして落胆したように肩を落として、三浦が蹴り飛ばした器を一つずつ拾う。腰を屈めて耐えるようにする姿は、痛々しくも映る。
(なんでお前が悲しむんだよ…!)
裏切られたのはこちらの方だ。幼い頃からずっと一緒に居たのに、ずっと隠していた。それどころか三浦に付き合って、剣の腕を隠した。そんなことを頼んだ覚えはない。
今までの思い出をすべて消し去るように、忌々しく三浦は芦屋を睨み付ける。すると芦屋はすべての膳を拾い上げると、土蔵の出口へと歩いて行った。そしてそっと、扉の傍に握り飯を置いた。
「…どうか、食べてください」
呟くように言い残して、芦屋は土蔵から出ていく。重たい扉が、大きな音を立てて閉じていき、光がまた失われた。


重い土蔵の扉を閉めて、芦屋はその扉に背中を預けた。全身の力が抜けて、その場に座り込みそうになるのをどうにか堪えた。
「…俺が悪い」
どんなに三浦に怒鳴られても、蔑まれてもそれは構わないことだった。三浦にとって、それが「怒り」になるようなことだとすれば、それはすべて自分のせいだ。だからどんな扱いを受けても平気だ。
けれど、今のは違う。
今のは、ただ悲しませただけだ。
「お坊ちゃんのお守りは大変だな」
頭を抱えていると、不意に声を掛けられた。周囲に気を配っていなかった為、芦屋は酷く驚いた。腕を組み、いつもの尊大な態度でこちらを見ていたのは土方だった。芦屋は慌ててその場を離れた。
「…いえ、失礼します」
土方の前を通り過ぎて、空になった膳を下げる。しかし「待て」と止められてしまった。
「お前、三浦がどんな立場になっているのか、理解しているか」
「……」
その問いに、芦屋は黙り込む。
理解をしているつもりではいた。三浦が死番を全うできずに、逃げ出してしまったという事実は瞬く間に隊内に広がり、さらなる反感を買ってしまった。切腹にすべしという意見も出る中で、謹慎で済んだのは勝海舟のお蔭か会津藩の威光か。しかし次はないだろう、という予感はあった。
「ままごとのつもりで新撰組に居るなら、出ていけ」
「……しかし、脱走は切腹です」
土方の挑発に芦屋は冷静に返した。自分たちに見合わない場所だということはよくわかっていたので、土方の台詞は今更だ。すると土方は「そうだな」と苦笑した。
「じゃあ本懐を遂げさせろ」
「本懐…?」
「仇討ちだろう」
忘れたのか、と言わんばかりに土方は笑う。その微笑みが、どこか思惑があるような笑みで…芦屋は思わずぞっと悪寒がした。しかしもともとここで芦屋を待ち構えていたということは目的があったということだ。そう思えば、土方の本題はこのことなのだろう。このことであり、最後通牒だ。
仇討ちは確かに新撰組入隊時に目的としてあげたものだ。三浦の父である佐久間象山の仇討ち。三浦がそれを達成すれば、新撰組に居る「理由」は無くなる。脱走以外にこの場所を去る方法はそれしかない。
「ここを出ていきたくば、そうしろと三浦に伝えろ。それができないなら、新撰組で生きていけ。…この間のようなことは、もう許さない」
「……はい」
「あと」
土方は芦屋の襟をとった。強く握り、引き寄せる。そして副長は声を潜めた。
「お前も、いい加減、正体をあらわせよ。俺や…総司が、何も気が付いていないと思ったら大間違いだ」
囁くように告げると、土方は「ふん」と鼻で笑った。そして襟を離してそのまま立ち去って行った。
芦屋はその背中をぼんやりと見た。しかし腹の奥底から、何かが溢れてくる。
「…は、はは…」
これは、面白い。
彼は何をわかっているというのだろう。何に気が付いているということなのだろう。
今まで誰も気が付かなかったことを、知っているというのだろうか。
「はははは…」
笑いが込み上げる。しかしそれは乾いた笑いだった。




223


青年になる頃には既に、父譲りの性格を発揮していた。思春期におぼえた女遊び、ほどなく酒が飲めるようになり、家に帰るのは決まって朝。家人は最初ははらはらとその様子を見守っていたが、次第に慣れたようで、我儘な子息を遠くから見ているだけになった。寂しそうに家にいる母は病気がちとなり、寝込むことが増えた。
傲慢で我儘で尊大…そう憎んでいたはずの父と、そういう風にしか人と接する事が出来ない自分。似ていることを自覚すればするほど、苛立ち、やりきれなさを紛らわせようと女と酒に溺れた。加えて助長するように、父から仕送りされる高額な金目当てに、恪二郎の周りには身元も知れない遊び仲間が集まっていた。
「もっと飲めよ!金ならいくらでもあるんだ!」
口癖になったそれを真に受けて、取り巻きと揶揄される仲間たちは自由に飲み女を選んだ。まだ成熟していない恪二郎には、彼らの媚と本音を区別できていなかったので、諂われて良い気になっていた。
しかし朝まで飲み明かしていると、いつも決まった時間に迎えがやって来る。
「坊ちゃん、お母上が心配していらっしゃいます」
いつも同じセリフを口にする芦屋は、このころには既に見上げるほどに背が伸びていた。家にやって来てから相変わらずの無口だが、家の仕事を率先して行い家人から信頼されている居候となった。同年の恪二郎と比べられることも多く、この頃は芦屋の顔を見るだけで恪二郎は不快になった。
「…帰れよ、お前の顔を見ると胸糞が悪くなる」
店先で恪二郎は芦屋を追い返す。しかし武骨で融通の利かない芦屋は、三浦が店の中に戻っていってしまっても、ずっと店先で待っていた。雪が積もり、外は凍えるように寒い。
「まるで犬みたいだなあ!」
仲間の誰かがそう言った。どんなに夜が明けても、雨が降っても、嵐になっても、芦屋は待っているのだ。
そんな芦屋を、恪二郎は憎々しく思っていた。
(どうせ…母さんの為だ)
芦屋は出会ったその日から母にだけは心を開いた。無愛想に引き結んだ唇が解かれて、優しく笑うのを見たことがある。
(母さんのことが…好きなのか?)
幼い頃の淡い気持ちならわかる。母は美しく可憐なひとだから。けれどその感情を青年になった今でも持ち続けているのだとしたら、それは恪二郎にとって「気持ち悪い」感情だった。
「…帰る」
「え?もう?」
しなだれた居酒屋の女が袖を引いて止めたが
「興醒めした」
と冷たく吐き捨てると、何のことかわからない女は諦めた。帰り際に仲間に金を渡すと、彼らは用済みとばかりに恪二郎を放って騒ぎ始めた。(こんなものだ)と内心吐き捨てて店を出た。店先には芦屋が待っている。
「帰る」
「…はい」
芦屋は短く答えて、恪二郎の後を歩き始めた。降り積もった雪道を二人で歩く。ギシ、ギシと雪を踏み音だけが響いた。無言に耐え切れず、恪二郎は口を開く。
「お前が来るといつも白ける。さっさと帰れよ」
「……お待ちします」
無口なくせに融通の利かない芦屋は、罵られてもこうして返す。
「母さんの命令だから?」
「……」
挑戦的な問いかけにも、芦屋は表情を変えなかった。別に答えが聞きたかったわけでもなく、恪二郎は「まあいいけど」とさっさと話を切り上げた。
「犬みたいだって」
「え?」
「犬みたいだって言ってたぜ、あいつら。その通りだよな」
無口で、表情一つ変えない芦屋。彼の驚いた顔や喜ぶ顔や怒った顔が見たくて、こんな挑発的なことを言ってしまうのかもしれない。しかし彼は恪二郎の思うようには決してしない。
「そうですね」
『犬』という蔑称をあっさりと受け入れてしまう。恪二郎は内心苛立ち、芦屋に気が付かれないように、舌打ちした。



三浦の謹慎三日目。今日の夜には通常業務に戻る予定だ。そんな日の昼、総司が前川邸の奥部屋へ行くと、目的の人物の姿はなかった。ならば、とその隣の部屋を覗くと、近藤と山南がいた。
「歳を探しているのか?」
総司の顔を見るや、近藤が尋ねてきた。
「はい。珍しく外出ですか?」
「今日は邪魔をするなと言って出て行ったよ」
幼馴染は苦笑した。大体屯所で働き詰めの土方がそんな風に前置きしておくのは珍しい。余程、自分の時間を邪魔して欲しくないのだろう。山南は「すれ違いが多いね」と笑った。確かに最近は、このパターンが多い。
総司は部屋の障子を閉めて、腰を下ろした。外はすっかり秋めいて来て、風も冷たくなってきている。
「どうだ、一番隊の様子は」
「様子ですか?」
「三浦君が謹慎になって、何か変化は?」
近藤の悩みの種であるところの三浦は、今の所おとなしく謹慎を続けている。見張りの隊士曰く、刃向うこともなく沈黙が続いているという。
「まあ…三浦君が居なくなったところで、特に戦力が変わるというわけではありませんけど」
「辛辣だね」
総司のコメントに山南が苦笑する。山南にしては珍しく同情を込めた言い方だった。総司は近藤の方を見た。
「近藤先生、どうにか三浦君を他の隊に移すようにできませんか?私みたいな年の近い人間よりも…井上のおじさんのように年が離れていて包容力のある人の方が、三浦君の指導には向いていると思います」
総司の親戚筋に当たる井上源三郎は、近藤よりも年が上で隊士にも慕われている。時には若い隊士の悩み相談などもしているそうで、副長助勤のなかでも評判のいい組長だ。近藤は「うーん」と唸りつつも
「お前ではどうにもならないか?」
と食い下がった。一番隊に入れるのは、三浦の希望であり、会津藩の命令だ。永倉の訴えを退けたのもその為で、近藤としても命令に逆らうのは、それだけの理由が居るのだろう。しかし総司はこれ以上は無理だと判断していた。
「それもありますが、三浦君の為です。一番隊に居るということだけで無駄に期待され、周りの反感を買うことになります。それはあまりに不憫なことです」
「…そうか。いや、そうだよな」
近藤は苦い顔で頷いた。総司が指摘するまでもなく、皆分かっていることなのだ。
「ひとまずは山本様に話をしてみよう。会津も勝先生の意向があって三浦君を預けているのだから」
「はい。宜しくお願いします」
三浦を追い出すようで気分は良くないが、仕方のない事だ。遅かれ早かれ同じ結論に達するのなら、永倉のように、反感持つような人間を増やすのは得策ではない。近藤や山南が異論をはさむことはなかったので、総司は安堵した。
そこで、総司は腰を上げた。
「ともかく、土方さんを会いに行ってきます」
出来れば三浦の謹慎が明ける前に話をしておきたい事だった。すると近藤が尋ねる。
「どこに行ったのかわからないが…」
「いえ、分かります」
しかし総司はそう答えて、部屋を出た。

前川邸を出て、総司は歩き始めた。土方が誰にも邪魔されたくない、と言ったのならばきっとあの別宅にいるのだろう。
(…何となく、行きづらいけど)
その別宅が自分との時間を過ごす場所だと言われてからは、何となく足が遠のいていた。好きに使っていいと言われても、そこに居ればその時のことを思い出すだろうし、それはそれで恥ずかしく、またそんなところに一人でいるのも帰って寂しい気がしたのだ。
「でもまあ…」
行くしかないか、と足を速めた。
土方に聞いておきたい話。それは先日一緒に巡察に出かけた時に言った、「後で言う」という一言のことだ。三浦の失態を見て、土方としても話があったのかもしれないが、それ以来土方が総司に何か言うこともなく時間が過ぎていた。しかし総司の中ではずっと引っかかっていた言葉だったので、出来れば三浦が解放される前に聞いておきたかったのだ。
(重要なことのような気がするし)
大したことのない話ならきっとここまで引っかかることはない。この感覚は勘に近い。
総司がつらつらとそんなことを考えていると、突然足が止まった。別宅に向かう道の中で、一番人通りのない場所だ。
「……!」
背後に気配を感じた。すると感覚よりも先に身体が動いていた。総司は一瞬にして刀を抜き、振り返る。
目が相手をとらえる前に刀同士がぶつかっていた。キィンという音を立てると同時に、身体中に強い衝撃が走った。二、三歩後ずさり体勢を立て直す。
そこでようやく切りかかってきた相手を捉えることができた。斬りかかってきた強い力の割には小柄な体、切れ長の鋭い目、顔を頭巾で覆った姿は、まるで尼のようだが袴をはいている。
「沖田総司だな」
見知らぬ顔は、そう訊ねてきた。





224


相手は小柄な姿の割には低い声を発した。それで男だとようやく確信する。
総司さえ直前まで感じる事の出来なかった気配、素早い剣捌きに力強い剣筋。物怖じしない態度に依然として総司を見据えたままの強い眼差し。その姿どれをとっても、相手が只者ではないのだと感じた。緊迫したなか総司は慎重に行動を選ぶ。
「そうですが、貴方も名乗るのが礼儀では?」
彼が総司の名前を呼んだ口調は、尋ねるというよりも確認するという方が近い。相手を分かった上で斬りかかってきたのなら、やはり相手もそれなりの実力があるはずだ。総司は気を抜くことなく構えたままで逆に訊ねたが
「すまぬが、自分からでは言えぬ身分だ」
とあっさりと断った。総司はさらに警戒し強く刀を握りしめたが、彼は驚くことに刀を下した。
「聞きたいことがある」
「……」
彼は立ち去ることもなく、なおも会話を続けようとする。刀を下したのは、いつでも斬ることができるという自信があるからなのかもしれない。総司はますます力を込めたが、しかし
「刀を下されよ」
と、彼は少し笑った。いつまでも警戒を緩めない総司を嘲るように。
総司は迷ったが、見下されるのは気分の良いものではないし、確かに彼から感じる殺気が少し緩んだので、鞘には戻さないものの、彼と同じように剣先を下した。それを彼は確認して話を切り出した。
「佐久間象山についてだ」
「佐久間…象山?」
知らない名前ではなかったが、彼からそのような名前が出てくることに内心驚いた。
「新撰組は血眼になって、佐久間象山を暗殺した者を探しているだろう」
「……」
当然のように彼は述べたが、もちろん初耳だった。しかし、総司は表情を変えないよう努めた。
佐久間象山に関しては総司はもちろん面識はなく、局長である近藤も名前を聞いたことがあるくらいらしい。異国に通じた開国論者で、過激な発言が多く幕府側も討幕側にも敵が多かったと言われている。新撰組として関係はあると言えば、その息子である三浦が仇討ちを目的に入隊しているというだけだ。
だから佐久間象山を殺した者を探せだとかそんな任務は聞いていない。だが、総司は思い当たる。
(…知らないだけか…)
土方ならそうしているだろうと察する。
表立った発言はないが、誰よりも三浦を厄介者扱いしているのは土方だ。あの性格だから、腫れ物に触るかのように取り繕わなければならない三浦を疎ましく思い、早く追い出したいと思っているに違いない。監察方に命令して、佐久間象山を暗殺した相手を探し出すなんてことは既にやっているだろう。
彼が言う血眼になっているのは、監察方だ。
「雑魚ばかりで相手にならないが…目障りなので、一言言っておく」
彼はその鋭い眼差しを益々尖らせた。
「私ではない」
「……!」
ただでさえ唐突な話の内容に困惑していた総司だが、彼の発言でその思考は止まった。
そして、理由とか事情とか…そんな道程を一気に飛び越えて、いわゆる勘と言うもので一つの答えにたどり着く。そして勘づくとすぐに、素早い仕草で下していた刀を再び構えた。
「…貴方は…!」
そう言った途端に、彼は降ろしていたはずの自分の刀を勢いよく振り上げて、総司の構えた刀を弾き飛ばした。上回る視覚に捉えられないほどの速さに対処しきれず、総司の刀は空を飛んでいく。手から刀を離されるなんて初めてのことだ。
総司の遥か後方で、刀が落ちる音がした。
「…詮索は無用だ」
「…っ」
総司は咄嗟に脇差を抜いた。
油断していた。この男は強いとか実力があるとか、そう言う次元を超えている。これまで生きてきた人生の中で、総司の刀を弾き飛ばして脇差を抜かせた人間などいない。つまりはそれほどの遣い手だということだ。
そしてその剣捌きゆえに益々、この男の正体を確信した。
(河上彦斎…!)
彼が、佐久間象山を殺したと言われる河上彦斎であることを。
そして脳裏に今まで聞かされていた様々な情報が思い出された。
何人も幕府の要人を殺してきた暗殺者だということ。その腕は敵う者がいないと言われているほどのものだということ。一見小柄で女のように細く白いが、残虐な性格の持ち主だということ…すべてが目の前の男に当てはまる。そして、監察方が探しているであろう、目的の人物―――。
「…ふ、脇差では私を斬ることはできまい」
嘲笑うように彼は言った。彼が本当に河上彦斎ならば、脇差では殺せない。勝負は既についているようなものだ。
同じことを思ったのか、彼は振り上げていた刀を下して、あろうことか鞘に納めてしまった。脇差を構えたままの総司がいるというのに警戒する必要はないと判断した。
(既に負けている…)
その事実を、嫌と言うほど見せつけられた。
そして河上は用事が済んだと言わんばかりに、あっさりと総司に背中を向けた。総司は追いかける気力は無く、刀を構えたまま、ただただ目に焼き付けるように彼の姿を見送ったのだった。


「どうした」
総司の思った通り、別宅には土方が居た。リラックスした着流しのスタイルだったが、玄関で総司を迎え入れるや否や、すぐにその表情を厳しくした。総司の表情が冴えなかったからだろう。
「…え?なにか?」
「眉間に皺寄せて。何か考え事か?」
「……私だって、たまには考え事位します」
総司は「お邪魔します」と履き物を脱いで家に上った。眉間に皺を寄せているつもりはなかったが、ひどく疲れていた。短い時間だったはずなのに、河上の邂逅が思った以上の気力を使ったからなのだろう。
そして居間に入って、総司はすぐに身を横たえた。新品の畳が良いにおいがしていた。
「おい、どうしたんだよ」
問い詰めるというよりは心配するように土方が訊ねてきた。病か何かだと思ったのだろう。隠すつもりはなかったのだが、来て早々話すことでもないかと思い、誤魔化した。
「…自分の家だと思って寛げって言ったのは、土方さんじゃないですか…」
「そうだが…」
察しの良い土方は騙されてくれない。首を傾げつつ、総司の前に座った。別宅には数冊の本を持ち込んでいるようで、読みかけのページが開いたままだ。
何も話そうとしない総司を見て、土方が先に口を開いた。
「茶でも入れるか?」
「…はい、お願いします」
起き上がる気力もなく頼む。普段は決してそんなことはないのだが、喉が渇いて仕方なかった。土方が台所へ向かう音を聞くと、ドクドクと跳ね上がっていた心臓が少しずつ落ち着いてきた。
(…久しぶりだ…)
誰かに殺される、と思ったのは。自分よりも勝るかもしれない相手に出会ったのは。もしかしたら初めてかもしれない。数回しか剣を合わせていないが、それだけで彼…河上彦斎がどれだけの才覚を持った暗殺者なのかということがよく分かった。
また、その細い女のような容姿がまるで鏡越しの自分のようにも見えた。似ているとさえ思った。
(だからこそ…わからなくなる)
『私ではない』
わざわざ顔を晒してまで彼はそれを伝えてきた。もちろん、監察から逃れるための方便ともとれるが、佐久間象山暗殺を自分ではないと言い切った彼が、嘘をついているようには見えなかったし、あれほどの力と迫力があれば、早々監察に捕えられることはなさそうだ。わざわざ総司の前に現れて弁解する必要はない。
だからこそ惑う。
(それが本当だとしたら…)
佐久間象山を殺したのは誰なのだろう。三浦が仇討ちすべき相手は、誰なのだろう。
「ほら、起きろ」
目を閉じて考え込んでいると、土方が湯呑を二つ盆に乗せて戻ってきた。重たい身体をどうにか起こして湯呑を受け取ろうと手を伸ばす。
「いた…っ」
右の手のひらで受け取ったはずの湯呑が酷く重たく感じられたその瞬間、手首に力が入らずに湯呑を落としてしまった。熱いお茶が零れ、畳がみるみる濡れていく。しかし土方は先に総司の手を取った。
「手を痛めたのか?」
「え…?」
「貸してみろ」
総司は「お茶が」と汚れた畳を気にしたが、土方は「いいから」といって強引に総司の右手を引き寄せた。引き寄せられる痛みがぴりりと神経に伝わっていく。顔を歪めた総司を見て、土方は「折れているのか?」と訊ねてきた。
「折れてはないともいますけど…どうしてだろう、全然気づかなかった…」
「…何かあったのか?」
土方の質問で、総司はようやく思い当たる。河上に刀を弾き飛ばされたあの時に痛めたのだろうということに。弾き飛ばされたショックに呆然としていて、気が付かなかった。
「えっと…その」
どう説明したらいいのだろう、と困惑していると、土方は少しため息をつきつつ
「長い話か?」
と訊ねてきた。
「…そうですね」
「わかった」
総司が頷くと「なら、まずは手当だ」とまた台所へ行く。手拭いを水で濡らし、総司の右手首に巻いた。試衛館に居た頃に良くしていた応急処置だ。
「おそらくは捻挫だろう。屯所に戻れば漢方薬があったはずだから、すぐに飲め」
「わかりました」
「じゃあ話だ」
先を促す土方に負けて、総司は少しだけ息を吐いた。そして思い出す。あの屈辱的なまでの圧倒的な存在感を。




225


総司の話を聞き終わった土方は、「そうか」とうなずくと、長く息を吐いた。総司にとっても話して尚、現実味のない話だったので、土方にとってはそれ以上だろう。黙り込んで考えて
「ひとまずは、その男が河上だっていうのは間違いないだろうな」
と断言した。
「河上は昨年の七卿落ちのときに三条実美に従って長州へ下っている。その後、池田屋で宮部が殺されたことを聞きつけて京に上ったから、新撰組を恨んでいるのは間違いないし、お前の顔を知っていてもおかしくはない」
「なるほど…」
「それに河上は抜刀術を得手としていると言う話も聞いた。お前を前にしても、刀を下して余裕があったというのは、お前が斬りかかったとしても低い姿勢から跳ね上げる逆袈裟懸けを狙っていたのかもしれねえ」
土方の話を聞いて総司も得心した。闇に紛れて人を斬る、典型的な暗殺者の剣術だ。刀を下した状態でもすぐに相手を殺せる自信があった。だとすればやはり、向き合った時点で負けていたのだろう。
続けて土方は
「河上が言った事を、必ずしも信用はできないが」
と前置きした。
「顔を見られる事を最も嫌うはずの河上が、わざわざお前の前に現れてそう言ったからには、信用すべきことなのかもしれない」
「でも何でわざわざ私だったんでしょうね。腕に自信があったのかもしれないですが…まあ、無傷で済むとまで舐められていたら悔しいですけど」
刀を手から離すところまで追いつめられ、手首を捻挫した。結果から言えば負けに等しいが、それでも新撰組の遣い手ともなれば河上も顔を晒すことを躊躇するはずだ。平隊士をつかまえて伝言させれば済むことでもある。
しかし土方は首を横に振った。
「いや、お前だから顔を晒したんだろう」
「どうしてですか?」
「宣戦布告…みたいなもんか。上手く言えねえが、何となく気持ちはわかる」
総司も土方の真似をして腕を組んだ。彼はこれからも総司に、そして新撰組関わってくるつもりがあるということだろうか。同じ剣を遣うものとしての挨拶だったのではないかと思えば、確かにわかるような気がした。
「ま、光栄だと思ってろよ。俺じゃなくて、近藤さんじゃなくて、お前だったんだからな」
「…まあ、前向きに捉えておきますけど」
久々に味わうこの複雑な感情は、きっと「悔しい」という気持ちなのだ。天才だと持て囃されて、心のどこかでは「誰にも負けない」という自負と慢心があった。河上の剣はそれを否定し、改めるきっかけになるだろう。
(修行が足りないなあ…)
内心苦笑して、総司は深く息を吐いて、気持ちを改めた。そして話を進めた。
「監察が河上の行方を追っているというのは間違いないんですか」
「ああ、間違いない。もちろん三浦のこともあったが、新撰組を目の敵にしていると聞いた以上、やられるのを待つわけにはいかねえからな。何度か姿を見かけた監察もいたが、いつも逃がしたという報告を聞いている」
土方は少し毒づくように言う。しかし、河上を目の前にすれば理解するだろう。彼は「逃げた」のではなく、こちらが「煙に巻かれた」のだということを。
「…あれほどの剣客を仇討ちさせようなんて。会津藩は無理なことを言いますね」
三浦の凡才を考えると、まず仇討は不可能だ。同情を禁じ得ない程の差が明らかだった。
しかし土方はなぜか笑った。
「お前、本気で言っているのか?」
「え?そりゃ仇討ちなんて荒唐無稽なこと、出来っこないなんてわかってますけど」
「河上がどんな剣客かなんて、会津だってわかっている。お前や隊士たちが言う、仇討ちなんてお題目だと言うのも当たってるだろう。しかし、俺はもっと深読みをするぜ」
「…深読み?」
意味深な物言いに総司は眉間に皺を寄せた。
「仇討ちという華々しい理由付けは、その内討幕派にも伝わるだろう。池田屋のこともあって何かと新撰組は噂になるからな。それをもし河上が聞いたらどうすると思う?」
「…どうするって…」
そんなの、答えは明らかだ。そして土方の「深読み」をようやく察することができた。
「…先に、殺すでしょうね」
「その通りだ」
「まさか、土方さんは…会津がそれを狙っていて、間接的に三浦君を処分しようとしているとでも?」
驚くべき発想だったが、あながち的外れとも言い切れない想像だった。三浦を厄介者扱いしているに違いない会津は、新撰組という場所がどれだけ危険かわかっているはずなのだから。
「まあ、会津の山本様がどういう考えがあるのかはわからない。単に師匠の子を世話してやっているのかもしれないが、そういう深読みも出来るってことだ」
「……」
「佐久間象山は討幕派にも、そして開国を躊躇う幕府側にも嫌われた人間だ。その息子である三浦が冷遇されたとしてもおかしくはない。それを本人が自覚しているとは思えないが…」
土方はそこで言葉を止めて、肘掛けに身体を預けた。顎に手を当てて少し考え込む。
「…芦屋はどうかな」
「え?」
感情を表に出す三浦と違って、芦屋は常に無表情だ。三浦は芦屋のことを愚鈍だと蔑んでいるらしいが、総司からすれば彼は聡い。その賢さが、時折現す「本気の」剣筋に見える。
総司はそこで、ようやく思い出した。この家に来た目的を。
「土方さん、この間のことですけど。『後で話す』って言いましたよね」
「……」
土方には特に反応はなかった。まるで分っていたかのように総司の疑問を受け止める。
「お前がここに来たのはその為か…」
「はい。後で話すって言ったって三浦君のことでしょう。謹慎が解ける前に教えて下さい」
「…その前に」
土方は膝を立てた。
「茶でも入れるか」



その夜、三浦の謹慎が解かれた。前川邸の蔵から出てきた三浦は少し顔色を悪くしていたものの、自力で立つことができたので体調はよさそうだ。
上司として謹慎の終わりを告げた総司は、
「では、早速ですが明日の朝から巡察です」
労うこともなく事務的な用件を伝えた。謹慎が解けたからには、もう罰は済んだということだ。
しかし、三浦は「待ってください」と線の細い声で総司を止めた。
「何です」
「…近藤局長にお話があります」
「近藤局長は今夜は会合に出ていて、戻りは遅くなりますよ」
「構いません」
総司はさりげなく退けようとしたのだが、三浦は頑固だった。堅く引き結んだ唇が紫に染まっている。
ふぅ、とため息をついて総司は三浦の方へに向き直る。
「わかりました。そのかわり組長の私も同席します。いいですね」
「……はい」
少し嫌そうにしたが、三浦は頷いた。何をするにも総司の命令には不服そうにしている。どうにも三浦は総司のことを好いていないようだ。
しかし、土方の意味深な話を聞いたせいか、少しだけ三浦が不憫に思える。彼は子供のまま、正しさも過ちも教えられないで、周囲の人間に踊らされるままにここまでやってきた。そして父に似た尊大な性格のせいで、すでに元の道に戻ることもできない。その態度や子供のような言動によって、雁字搦めになって身体の融通が利かなくなってしまっている。
それはきっと三浦が愚かなのではない。愚かであることを正す人がいなかったことが不幸なのだ。
三浦はあいさつ程度に総司に頭を下げて立ち去ろうとする。しかし、今度は総司が止めた。
「三浦君、待ちなさい」
「…なんですか」
あからさまに警戒した様子で振り返った彼は、総司が指さす方向に視線を遣った。
「芦屋くんがずっと待っていますよ」
「……」
芦屋は蔵の傍にある大木に隠れるようにして、こちらを見ていた。三浦は知らないだろうが、巡察以外の時間は常にそこにいた。蔵の傍で主人から離れないように。それを平隊士たちは純朴だ、と評価して、しかし従順すぎると不審がった。それは人間ではなく
(…犬のようだから)
しかしその飼い主である彼は、忌々しく待ち続けている芦屋を睨み付けていた。


組長が気を利かせるように去っていき、夜の薄暗い闇の中で三浦と芦屋が残された。芦屋はこちらを見ているばかりで、何も言おうとはしない。ただ眼だけは強く三浦を見つめ続けていて…しかしそれが三浦の神経を逆撫でる。
「なんだよ」
苛立って訊ねると、ますます芦屋は唇をきつく結んだ。目が俯いて、芦屋の表情が見えない。三浦はさっさと背中を向けた。
「…用が無いなら、行くから」
「坊ちゃん!」
引き留めた芦屋は、次の瞬間には既に地に平伏していた。
「申し訳ありません…!」
「……何が」
夜露に濡れた土の上に膝を折り、その大きな体を折り曲げて土下座をする。芦屋は慎重に言葉を選ぶように続けた。
「傍に…置いてください…!」
「……」
そんなことを頼む必要なんてない。
(お前は…そんなことを言わなくなって、ずっとそこにいるじゃないか…)
「…いらない」
「坊ちゃん…」
芦屋は下げたままだった顔を、上げた。
「お前なんて、いらない」
縋るように見つめる、その犬のような瞳を振り切って、三浦は背を向けた。
「…お前なんていらない、お前なんていらない、嘘を付いていたお前なんて、もういらない」
言い聞かせるように、何度も何度も繰り返した。





226


父に殴られたのは、後にも先にもその一度だけだった。
いつものように金に集る、友人ともいえない者たちと飲み遊んでいた。いつになく飲み過ぎた酒と口の達者な女のせいで気分が高まり、行きつけの居酒屋で隣になった客たちに絡んだ。「辛気臭い」「着物が古臭い」「なまくら刀を下げている」…そんな風に挑発し、客たちを怒らせて、外での大乱闘となった。
ちょうど迎えにやって来ていた芦屋が止めに入り、何とか騒ぎは収まったものの、与力も駆けつける大騒動となってしまい、ついには父の耳にも入ってしまった。
芦屋に支えられながら家に戻り、怪我の手当てをしているところに父はやって来た。それまで恪二郎のことを、まるでそこに居ないように扱っていたのに、その時ばかりはぎょろりとした瞳で恪二郎を睨みつけて、容赦なく振り上げた手のひらを頬へ叩きつけた。
「坊ちゃん!」
恪二郎は障子から襖まで飛び、大きな音を立てて転げた。痛みと熱さと…そして驚きがあった。誰に殴られたのかわからないほど、父が自分を相手にしているのが不思議だった。
「痴れ者が!」
父と言われる人が怒号のように叫び、場は凍りつく。騒ぎに気が付いた家人と母が駆け付けていた。しかし父は構うことなく罵った。
「目障りな…!私の血を引いていながら、なんだその失態は!下らん人間に成り下がりおって!」
低い声が恪二郎を責める。恪二郎は体を凍りつかせて、動くことができなかった。誰かに「怒られる」「怒鳴られる」こと自体が初めてのことだった。
そして父は、大きな足音を立てて恪二郎に近寄ると、腹のあたりを思いきり蹴り上げた。
「あなた…!」
胃を圧迫される痛み。くらくらと脳まで揺れ動かして、身体中が痺れて、視界がぼんやりとした。母の悲鳴が遠くで聞こえてくる。
「やめて、あなた、やめて…!」
細身の母が父の腰に縋った。しかし父は母が病がちなことを知っているのに、母を乱暴に払いのけて、恪二郎を蹴り上げつづけた。母はぐったりと体を横たえたまま動かない。
「…っ、く…!」
意識が飛ばされそうになるなか、痛みに耐えた。いっそ意識を飛ばしてしまった方が楽だったかもしれないが、自分が気を失うと、母まで乱暴されるのではないかと思うと、意識を手放すわけにはいかなかった。
すると遠巻きに見守る家人の中から、芦屋が飛び出してきた。
「おやめください…!」
いつも無表情な芦屋の顔が、崩れていた。
(…守って、くれるのか…?)
友人のように、兄弟のように、従者のように…常に傍にいたお前は、いつもいつもいつも待ってくれていた。だから今回も、守ってくれるのだと、思った。
「あ……」
しかし違った。
ぼんやりとした視界のなかで、芦屋が見えた。誰よりも先に母の肩を抱いた。守るように、その腕の中に。
(…やっぱり、お前は…!)
母が好きなんだ。
(俺よりも…!)
その光景に胸が焼けるように疼いた。父に蹴られる痛みよりも、じりじりと胸を焼いた。誰よりも最初に母を気遣った、芦屋のその行動が、何よりも、許せなかった。
そして芦屋は母を家人に預けて、ようやく恪二郎のもとへ駆け寄った。恪二郎を庇うようにして前に屈み、土下座をして恪二郎の代わりに許しを乞うた。父は何度か腹いせのように芦屋を蹴った。しかし芦屋は頑としてそこから離れようとしなかった。
そこで父はようやく、動きを止めた。吐き捨てるように「謹慎していろ!」と怒鳴りつけて、一瞥もくれずに部屋を去っていった。後で聞いた話だが、恪二郎が喧嘩した相手はさる御家人の息子だったようで、父の面目が丸つぶれとなってしまったらしい。尊大で横暴な父。その姿を間近で見たのは初めてだった。
そう。今まで居ないもののように扱っていたくせに。
突然、父親面して何のつもりだ。
痛みで蹲った恪二郎は絞り出すように呻いた。
「…死ねばいい…」
「坊ちゃん…」
きっとこの世界には、何があっても自分の味方でいてくれるような、そんな人間はいない。心のどこかで信頼していたはずの芦屋でさえも、そうではない。
「死ねばいいんだ…!」
そう叫んだ相手は父だったのか、芦屋だったのか、自分だったのか…それはよく分からなかった。



「いやはや、ほっとした…と言えば三浦君に悪いが、安堵したよ」
「そうですね」
夜、会合から戻ってきた近藤は、待ち構えていた三浦の話を聞くと胸をなでおろした。三浦は用件が終わるとさっさと部屋に戻っていったので、部屋に残ったのは総司と近藤だけだ。
「ちょうど会津の山本様とも話をしてきたところだったんだが、本人に決めさせてほしいの一点張りでな。帰り道にどうしようかと思案していたんだ。まさに渡りに船だ」
上機嫌に近藤は外出着を脱ぎ始めた。
三浦の話はすぐに終わった。自分を一番隊から別の隊に移してほしいとのこと。そして意外なことに、芦屋はそのまま一番隊に残してほしいという要望もあった。
「三浦君はどの隊へ異動ですか?」
「歳と相談してみないと何とも言えないが…お前の言うとおり源さんに頼むのがいいかなと思っているよ」
近藤が源さんと呼ぶのは、井上源三郎のことだ。年は近藤と一回り以上も上だが、近藤が入門する以前から天然理心流に入門している兄弟子だ。面倒見の良い近藤はよく頼りにしていた。
「それでいい」
そう話していると、土方が部屋に入ってきた。いつの間にか別宅から戻り、その様子だとちゃっかり話を聞いていたようだ。
「何があったのかは知らねえが、芦屋を一番隊に残すってのも丁度いい。たまには気が利くじゃねえか」
「本当、何があったんでしょうねえ…」
総司は近藤の脱いだ上着を受け取ったが、しかしすぐに土方に取られてしまった。そして衣桁にかける。
「お前は怪我人なんだから、じっとしてろ」
「あっ!」
「怪我?!」
近藤には黙っておくつもりだったのに、と総司は土方を睨んだが、「いつまでも隠せるものじゃねえだろう」とあっさりとバラされてしまった。案の定、昔から過保護な近藤は
「怪我って、なんだ?!誰かにやられたのか?」
と、総司を問い詰めた。総司としては怪我をしたことを黙っておくつもりはなかったが、河上彦斎に簡単に負かされてしまったというエピソードを話すことに躊躇いがあった。しかし、師匠に問い詰められては話さないわけにはいかない。
軽い捻挫であること、そして河上彦斎に出会ったことを簡単に話した。近藤は難しい顔をして聞いていた。
「…ひとまずは、お前の怪我がその程度で済んでよかった」
近藤はそういって総司を慰める。土方のことは好きだけれど、やはり師匠である近藤の慰めが一番身に染みた。
今になって、近藤の言うようにこの程度のけがで済んで良かったのだろうと思う。脇差だけで敵うような相手ではなかった。
「諸侯との会合でも、河上彦斎の名前は良く挙がっていた。佐久間象山先生の暗殺もそうだが、他藩の実力者たちの暗殺はほとんど河上か土佐の岡田以蔵の仕業だと言われていたよ。外見は女と見紛うほど細い形をしているが、侮ることはできないな」
「…それは、相対したらすぐにわかります」
凄み、迫力、剣筋…すべてが物語っていた。思い出すだけで息を飲むほどだ。
すると土方はあっさりと話題を変えた。
「それより。総司の怪我が治るまでは俺が一番隊に付き添うことにする」
「えぇ?!」
総司は思わず声を上げたが、土方の表情は思った以上に真剣だった。
「総司にも同行させて指揮を取らせるが、俺も補助する。かっちゃん、いいよな」
「そりゃ、俺は構わないが…。どうだ、総司?」
困惑する総司に、近藤が訊ねた。
もちろん、怪我をしてしまった身分で文句を言うわけにもいかず、土方の提案を飲むしかない。それに土方には何か考えがあるような気がした。
「じゃあそういうことだな」
「土方さん、巡察は朝からですよ。大丈夫なんですか」
近藤が会合から戻ってくるのが遅かった為、夜もだいぶ更けている。朝が苦手な土方だから、起きて来られないのではないかと心配したが
「人の心配してないで、自分の心配をしろよ」
土方はそういって、襟の中へ手を伸ばす。そして紙で畳んだ包みを総司に押し付けた。
「さっさと飲んで寝ろ。お前こそ、寝坊したら切腹だからな」
捨て台詞のように言うと、土方はさっさと部屋を出ていく。総司は押し付けられた包みを開いた。
「…もう、素直じゃあないんだから」
包みの中には石田散薬。土方家伝の飲み薬だ。打ち傷、切り傷、捻挫にも効くと言われている。
「なんだかんだ難しい話をしていたが、結局はこれをお前に渡したかっただけか」
それを見るや、近藤は深夜にも関わらず、大きな声で笑ったのだった。





227


死ねばいいのに、と思っていた父が本当に死んだと聞かされたとき、特にショックを受けるはずもないと思っていたのに、心にぽっかり穴が開いてしまった。
突然の死は暗殺によるものだと知らされた。性格上、敵を作ることに長けていた為、不思議な理由ではなかった。けれど、母はその知らせに大号泣し、しばらくは飲み食いを絶ってしまった。横暴で乱暴でも、母は父を愛し続けたということなのだろう。
恪二郎は葬儀が終わるまで喪に服し、家から一歩も出ないようにと命令が出た。父の正妻の兄である勝海舟からの命令には、さすがの恪二郎も従うしかなかった。
「坊ちゃん、お食事です」
「……」
退屈そうに部屋で横になる恪二郎の元へは、芦屋しかやってこなかった。放蕩息子に呆れ果てて、家人はその世話を芦屋に押し付けていた。
重い身体を起こして、恪二郎は食事を受け取った。
「…母さんは?」
「まだ寝込んでいらっしゃいます」
淡々と答えた芦屋に、恪二郎は「そうか」と返した。
父が死んだこと。それは心に合った重い錘が、いつの間にか溶けて消えてしまうようなものだった。父への反抗心や苛立ちが、今まで生きてきたなかで何かしらの理由と原因になっていた。
素行が悪いのも父のせい。
尊大な性格も父譲り。
そういう言い訳を、失ってしまったような気がした。
粥や吸い物といった消化の良い昼食。恪二郎はさっさと食べ終えると、後片付けを芦屋に押し付けて着替え始めた。
「…坊ちゃん、お出かけはなりません」
「五月蠅い。バレなきゃいいんだろう」
芦屋は「いけません」となおも止めた。
親戚筋の勝海舟は、恪二郎と母へ佐久間象山の葬儀に出ることさえ許さなかった。父は「天才である自分の子孫を残すのが世の中の為になる」と平気で公言しているような人だった。妾である母に子ができたのに、しかし正妻である妹・順には子ができなかった。そのため、せめてものプライドか何かか、母と恪二郎の存在を隠し続けたのだ。
止める芦屋を無視して、恪二郎は着替えを進める。
「…憂さ晴らしがしたいんだよ。女でも抱けば気が済む」
「いけません、こんな時に…」
「父親らしき人間が一人死んだだけだ」
恪二郎の言葉に、芦屋は黙り込んだ。
「だから、何だっていうんだよ。知らない奴が、一人死んだだけだ!俺が悲しむ必要も、悔やむ必要も…何もない!」
「坊ちゃん…」
(どうしてだ…)
どうして、目頭が熱くなる。父との記憶なんて何もないのに、哀しくなんかないのに、どうして嗚咽が込み上げてくる。
着替える手を止めて、立ち尽くす恪二郎に芦屋が近寄った。そして背後から抱きしめるように身体を重ねた。突然のことに驚くが、恪二郎は間をおいて訊ねた。
「…なんだよ」
「女ではなくても、良いのでしょうか」
芦屋の言葉を理解することはできなかった。理解する前に、芦屋は強引に首筋に唇を這わせていた。
「あし…や!」
「坊ちゃん…坊ちゃん…!」
今までに聞いたこともない声色。いつだって控えめで自分の意志の欠片も見せなかった芦屋。しかし後ろから抱きしめる芦屋は、今まで恪二郎が知っている姿ではない。
身体が固まって動けなかった。頭の理解が追い付かなくて、ただ、芦屋が触れる場所だけは熱く疼いた。元々肌蹴ていた着物が、さらに崩れていく。
「…何を、するんだ?」
そう訊ねることができたのは、すっかりその場で押し倒されて、芦屋が上に乗りかかっているときだった。晒した肌に、芦屋の大きな手のひらが重なっていた。
「……」
芦屋は恪二郎の質問に答えようとはしない。強く唇を引き結んで、眉間に皺を寄せている。
何も答えない芦屋の代わりに、恪二郎が続けた。
「俺を、抱くのか…?」
「……はい」
短く答えた芦屋は、するとすぐに行為に没頭した。もう何も聞かないでくれと拒否するかのように。
初めての体験だというのに、身体と心が切り離されたみたいに、恪二郎はぼんやりとしていた。口からは息切れのように声が漏れるけれど、頭のなかは全く別のことを考えていた。
(母さんの代わりか…?)
尊大な性格は父に似たが、顔立ちは母に似ていると言われてきた。女のようだと揶揄されているようで恪二郎は気に入っていなかったが、母のことを好いている芦屋からすれば、この顔立ちはいい身代わりみたいなものになるのだろうか。
そんな風に考えていると頭が真っ白になっていく。正直、女を抱くよりも気持ちよかった。望んだように、すべてから逃げていく。現実逃避していく。しかし、言葉もない心の通い合わないままのその行為は、ただただ虚しいばかりで。
「あ…しや…」
手を伸ばしても、芦屋はこちらを見ない。拒絶するように、奪い取るだけ奪い取っていく。
「あ…っ、く…ぅ…」
「坊ちゃん…」
痛みを堪えて、声を出さないようにと親指を噛んだ。すると芦屋がその親指を払いのけて、代わりにと言わんばかりに自らの唇を重ねた。
「ぅ…ん、んぅ…!」
上手くできない呼吸、身体の痛みに、目が潤む。揺れる視界に芦屋の影が見える。その一回り以上大きな体躯は、父のようだった。
(…そうか…)
父に認めてもらえなかった。ずっとその視界に入れてもらえなかった。息子だと、思って貰えなかった。死ねばいいと思っていたのに、その悔しさが胸に残っている。手を伸ばしても届かない父の存在に圧倒されて、でも、小さな頃からずっと、父に好かれたいと思っていた――。



三浦の謹慎が明けた、翌朝。
総司が三浦が隊を離れ、別の隊に移ることになったと伝えると、一番隊の面々はほっとした表情を浮かべた。平隊士の中も剣技に優れ、また人格にも問題のない精鋭部隊である一番隊は、これまで三浦のことを遠ざけたり、嫌がらせをしたりするようなことはなかったが、内心は毛嫌いとまではいかなくても傍にいれば気が抜けない存在の三浦に、はらはらさせられてきたのだろう。
「いやあ、楽になりました」
特に世話係に任命されていた島田は、しみじみと感想を述べた。
「どうにも自尊心が強くて、自分の言うことなんて耳にも貸さなくて。このままでは世話係である自分も一緒に処分されるのではないかと案じていました」
「まさか、そんなことはありえないですよ」
どうやら島田は知らぬ間に妙な心配をしていたらしい。総司が否定するともう一度息を抜いた。
そして総司はちらりと、少し離れた場所に居る芦屋の様子をうかがった。
三浦の言うとおり芦屋は一番隊に残した。三浦と寝食を共にしていた部屋も移り、大部屋の一角に彼の荷物を置いた。三浦と共にやって来た時は、裕福な家らしく大量の荷物でやってきたものだが、実際は彼自身の荷物はごくわずかだったようだ。
そうして三浦が去っていってから、芦屋の表情は冴えない。無表情なので、一見何も変化はないが、時折見せる悲しげな表情や三浦の姿を探すような視線が痛々しい。しかし命令に従いその場を離れない様子は捨て犬のようだ。
「沖田先生、そろそろ巡察のお時間では?」
隊の中でも最年少、最近では隊士の美男番付なるものにランキングするほどに可愛らしい容姿をしている山野が訊ねてきた。確かに隊士は皆揃い、準備は万端だ。
だが、総司は苦笑して「もうちょっと待ってください」と言った。
「あと一人、一緒に行かなきゃいけない人が居るので」
「あと一人…?」
山野は辺りを見渡す。すると前川邸から、やはり気怠そうにこちらにやってくる土方の姿があったのだった。

一体何の拷問だろう、誰か何かしたのか、もしかしてこの先も副長がついてくるのだろうか…。
鬼の副長が巡察に同行するということで、一番隊といえども動揺が広がった。前回は三浦というお荷物がいたのでそのせいだろう、と言わずもがな気が付いていた面々だったが、その厄介者が居なくなったのに、副長が同行するなんておかしいに決まっている。総司は「恥ずかしながら怪我をしたので、その補助に」と説明はしたものの、何故か疑心暗鬼になっている一番隊だった。
「騒がしいな」
「…土方さんがそれを言いますか?」
隊の先頭を伍長の島田に任せて、一番後ろを総司と土方が歩く。背後から監視されているような威圧感に一番隊の隊士たちは、明らかに緊張と動揺を隠しきれないでいた。総司からすれば土方はいつもの様子では変わらないのだが、鬼の副長がそこにいると言うだけでいつも以上に、皆は背筋を伸ばしてしまうのだろう。
しかし土方の視線の先は、一人にしか注がれていない。二つ前の、芦屋だ。
総司はこっそりと土方に忠告した。
「…あからさまですよ」
「あからさまにしてるんだ」
土方があっさり答えたので、総司はため息をついた。
(喧嘩を売る…みたいな目をしてるんだもんなあ…)
いつものように無表情で…しかし少し疲れたような顔をする芦屋が、気が付いているのかいないのかはわからなかった。





228


母からの手紙には、元気にやっているか、ちゃんと食事をとっているか、困っていることはないか…そんな母親らしい心配事が書き連なっていた。その手紙文を読んだときには荒んだ心が少し和らいだけれど、しかし一緒に送られてきた大金には有難迷惑しか感じられなかった。
「金持ちは良いな」
勘定方の隊士が嫌味を交えて母から届いた大金を三浦に渡した。ずしりと重たいので三十両はあるだろうか。廓で育ち、父に身請けされてからは金に困った事のない母なので、世間の感覚とはすこしずれているところがある。
「…飲みに行きますか?」
「え?」
三浦は何の気なしに勘定方の隊士へ訊ねた。これまで芦屋と行動を共にしていた三浦は、自分の周りには気を許すが、顔を合わさない相手に対しては決して社交的ではないので、こんな風に声をかけることは珍しい。そのため、隊士は大変驚いた顔をしていたが、
「おごりますよ」
の一言に、顔を緩ませた。「他の隊士も誘っていいか」との申し出に頷くと、一目散に駈け出して行く。
(…こんな風に、分かりやすい方がいい)
お金があるから利用する。目的があるから囃し立てる。不確かな義や情なんかじゃなくて、人と繋がっている方が楽だ。裏切られたとしても、「そんなものだ」と割り切ることができる。
だから、そのせいだ。芦屋との繋がりを持ち過ぎた。だからこんなにぽっかりと穴が開いてしまったような気持ちになるのだ。今まで感じたことのない寂しさを、いま、じわじわと思い知っている。


「刃こぼれしているな」
総司が刀の手入れをしていると、同室の斉藤が声をかけてきた。彼の言うとおり刀全体が刃こぼれしていた。先日河上と斬り合ったときにできたものだ。
斉藤は珍しそうに刀を覗きこんでいた。巡察において司令官である組長が刀を抜く機会はさほどない。ましてや刃こぼれをするくらいなので、互角に戦った相手だと、斉藤なら容易に想像できるだろう。しかし、あまりその話をするのに気が進まなかったので
「今から研ぎに出してもらおうと思っているんです」
と鞘にしまった。すると斉藤は「そうか」とそれ以上何も聞かないでくれたが、
「残念ながら、勘定方はいなかったぞ」
と付け足した。
「研ぎ師」と呼ばれるながれの商人は町を歩き回り、主に家庭の包丁などを研ぐ仕事を行うが、「刀研ぎ師」とは別物である。単に切れやすくするために刃物を研ぐという作業ではなく、身を清め数か月かけて刀を研ぐ。その分、料金もかかるので支払いは隊の勘定方となるのだ。
「え?そうなんですか?」
「何でも三浦の奢りで飲みに行ったらしい」
総司は「え?」と驚いた。
井上の組下に移った三浦は、これまでの騒がしさが嘘のように口数が少なくなったらしい。井上から聞いた話によると、どうやら周囲に心を開くこともなく、孤立していると聞いていた。なので、さらに関わりのないはずの勘定方と飲みに行くなんて考えられないことだった。
「聞いた話によると、母親から仕送りがあったそうだ」
「仕送り…」
「三十両も届いたという話でもちきりだった」
淡々と語る斉藤だが、仕送りで三十両という額は飛びぬけていた。身分を問わず入隊を認める新撰組の方針は、自然と身元も知れぬ家も出てきた者を集めた。その為仕送りを受ける隊士など殆どいない。
「ふうん…じゃあ、とにかく、勘定方にお金をお願いするのは無理ですが、後払いということでお願いしてきます」
出来れば前払いで信用してもらって刀を研いでもらいたかったのだが、仕方ない。総司は刃こぼれした刀を刀袋に入れて、立ち上がる。すると斉藤が「俺も行く」と言い出した。
「え?斉藤さんも刃こぼれでもしているんですか?」
「…いや」
「子供じゃあるまいし、一人で大丈夫ですよ」
心配性だなあ、と総司は苦笑したが、そうではなかったらしい。斉藤は珍しく食い下がり、「行く」と言って聞かない。
「…あ、もしかして捻挫のこと聞きました?」
「……」
出来るだけ秘密にしておいてほしいと土方と近藤には頼んだのだが、斉藤も知っていたようだ。おそらく土方あたりがわざと洩らしたのだろうと察する。
(心配性なのは土方さんか…)
総司は苦笑して、
「じゃあお願いします」
と連れだって屯所を出た。

秋晴れの日々が続いていたが、久しぶりに薄暗い雲に覆われていた。今にも雨が降りそうな空を見上げながら、二人で歩く。そうしていると珍しく斉藤の方から話しかけてきた。
「芦屋はどうしてる」
「…まあ、仕事はきちんとしていますよ。でも、心ここにあらずというか…」
「あれは相当できる遣い手だ」
斉藤がきっぱりと断言したことに総司の方が驚いた。以前も同じような評価を下していたが、今回の言葉には確信があるように聞こえる。
「…斉藤さんも、前に何か言いかけていましたよね」
あの時は言いかけて、「何でもない」と誤魔化したけれど。斉藤も何かに気が付いているような節があった。
「…土方副長から何か話があったのでは?」
「ありましたよ。斉藤さんと同じ考えだとは思いますけど」
斉藤は「そうか」と言って続けた。重々しく、事実を告げた。
「あれは暗殺者の剣だ」
「…ふふ、全く同じことを言うんですね」
一言一句違わない斉藤の台詞に、総司は笑った。

「あれは暗殺者の剣だ」
河上彦斎と邂逅したのち向かった別宅で、土方がそう言い切ったとき、総司は「まさか」と返答した。しかし土方が冗談を言っている様子はない。
土方は硬い表情で腕を組んでいた。
「剣術については平隊士のなかでも上位であるのはいう間でもなく、さらにあいつが立ち会う時は常に初手が長けているというのがその最も大きな特徴だ」
初手が鋭いということは、つまり初手しか必要がないということ。無防備な相手を暗殺するには初手さえ決まればあとは必要がない。
土方の言い分は理解できたが、総司は納得がいかなかった。
「…初手が長けているからと言って暗殺者とまで言いますか?」
「よく考えろ。あいつはそもそも剣術ができるということを隠しておきたかったはずだ。主人である三浦の為に、己が前に出ることを一番避けたかった。だったら初手から相手に斬り込む必要はない。初手から負けを認め、立ち合いすべてに手を抜けばいい。けれどあいつはそうしなかった」
結果的に負けてしまっているので目立たなかったが、芦屋の初手は平隊士が躱しきれるかわからない、鋭いものだ。
「どうして?」
「そうしかできなかったからとしか言いようがない」
土方の意図がわからず総司は眉間に皺を寄せる。
「できなかった…っていうのは、どういうことですか」
「そういう風に鍛え、育てられたから。あいつはそれ以外の剣術を知らない。初手に力を抜くということを知らない、できない、わからない。…つまりあいつは、ガキの頃から暗殺を目的として剣術を教え込まれてきたのだろう」
「……」
突拍子もない話に、総司は戸惑う。しかし考えれば考えるほど現実味のある話に聞こえてきた。彼の初手はいつも、絶命を狙う一手だった。
「…でも芦屋君は幼い頃に三浦君の家に預けられたと聞きました。佐久間象山先生が三浦君の為に、友人の代わりか、世話役か、用心棒のような存在だと…」
「二つ、仮説が立てられる。一つは言葉通り芦屋は三浦の用心棒だったということ。あれだけの腕があれば用心棒くらい勤まるだろうし、家人の一人だと言うことになればまさか用心棒だとは思われないだろう。息子を思う、父の優しさか気遣いか…そんなところだったのかもしれない」
土方の一つ目の仮説は、総司が思い描く佐久間象山像とはかけ離れていた。尊大で横暴で…口が悪く幕臣たちを困らせる思想家とは一致しない。
「二つ目は、佐久間象山の懐刀…と言えば聞こえがいいが、便利な駒の一つとして育てられたということ。佐久間象山にとって邪魔な人物を暗殺する…そういう役目を負わされていた」
「…土方さんは、後者だと思っているんですよね」
総司が訊ねると、躊躇う様子もなくうなずいた。
「お前と一緒に巡察に行ったとき…三浦が死番だった時だ。お前が二人斬っている後ろで芦屋が一人斬っただろう。あの時あいつは何の躊躇いもなく相手を絶命させた。基本的に捕縛するのが規則だが、三浦が襲われて気が動転したのだろうか、あいつは無心に相手を絶命する場所を狙っていた」
気が動転しているときこそ、本性が出る。土方はそう言いたいのだろう。土方の話を聞いていると嘘だと思った話が真実の様に聞こえてくる。
「…じゃあ芦屋君は佐久間先生の手駒の一つということですね。脱退でもさせるつもりですか?」
「新撰組は身分出自も過去の罪状も問わない。芦屋が佐久間象山の命令で暗殺を繰り返していたとしても、それは過去のことだ」
総司は表情には出さなかったものの、少し驚いた。邪魔なものは排除する、不審な者は取り合わない…そんな風に思っているのだと思っていた。
「…じゃあお咎めは無し、このまま放置すればいいということですか?」
「そうはいかない。重大な問題が一つ残っている」
総司が「何ですか?」と促した。すると土方が苦い顔をしつつ口篭もった――。


「…それ以上は言えないし、言うことは憚れる。いくらお前でもこれはただ俺の推察としか言えない。…そんな風に言われて話は終わりました」
総司が長い話を終えると、斉藤は気難しい顔をした。まるで土方と同じように。
「斉藤さんは何かわかりましたか?」
周囲の状況に詳しく、察しの良い斉藤なのだから、土方の言いたかったことがわかるのではないだろうかと思ったが、斉藤はやはり土方と同じだった。
「わかるが、言えない」
これ以上の答えを拒絶する言い方。やはりそれもそっくりで、総司は内心苦笑してしまった。二人に「似ている」なんてことを言えば、二人とも嫌がってしまうのはわかっていた。
「とにかく、私は芦屋くんをしばらくはよく監視しておくようにということでした。三浦くんと離されてしまったいま、彼が何をしでかすかわからないからとか何とか」
「…そうしておいたほうがいい」
斉藤はそういうと、何かを思案するかのように黙り込んでしまった。



229


酒は決して旨いものではなかった。久々の宴会だと言い、名も知らぬ勘定方の隊士たちがはしゃいでいた。人の金で飲む酒と言うのは本当に旨いらしく、湯水のように酒を煽る。そういえば以前も同じような人間が同じようなことを言っていたと、三浦は思った。
最初こそ、平隊士たちから主役の様に持ち上げられて始まった宴会だが、酔いが回ったいまでは三浦を残してそれぞれが騒ぎまわっていた。昼間から始まった宴会が夕方になる頃、三浦は金を預けてふらりと、居酒屋の外に出た。雨が降りそうな程、どんよりとした厚い雲は、三浦をさらに鬱々とさせた。
「…はあ」
知らず零れるため息。何をしても満たされない心。持て余す時間。
(無駄ばかりだ…)
ここにいる事さえも、すでに見失い始めている。
話したことはないが伯父である勝海舟に掛け合って、新撰組脱退させてもらおうか。逃げたという不名誉は残るが、そうすれば楽になれる気がする。
薄暗い空が、一段と黒く染まった。遠くから水音が聞こえて、それがだんだんと近づいてくる。雨が降るな、と思った時にはすでに肩に水滴が落ちてきた。ぽつりぽつりと降る雨は、髪を、着物を、身体を濡らしたが、雨から逃れるのも気怠く、三浦は立ち尽くしていた。
ざーっという煩い音。身体を湿らせる冷たい水。
「…坊ちゃん」
そのせいで気が付かなかった。傍に、芦屋が居たことを。
「……」
芦屋は傘を差し、そのなかに三浦を入れた。彼の体温のせいか少し暖かくなったように感じる。
「濡れます。どこか屋内に…」
「お前と一緒は嫌だ」
芦屋の申し出を、三浦はきっぱりと断った。俯いているせいで芦屋の表情は見えないが、彼が敏感にその攻撃を感じ取っているのは分かった。
「…わかりました、私は去りますから、どうか坊ちゃんは…」
「お前、ここで何してるんだよ」
突き放しておきながら、三浦は訊ねた。そこでようやく俯いていた顔を上げて、芦屋の目を見据えた。
寂しいなんて、そんなことを思っていたと思われたくない。あと少ししか残っていない自尊心が、悲鳴を上げている。
「なんでそんなところにいるんだ」
こんな風に飲み歩いている三浦を、芦屋は何度も迎えに来た。雨が降っても雪が積もっても…犬だと揶揄されるほど、純真に無垢な眼差しで、三浦の帰りを待っていた。
いらないと言ったのに、何でこんなところにいる。
「…お帰りを待っていました」
「……」
三浦はぎりっと唇を噛んだ。
重すぎるほどの彼の忠誠心に苛立ち、しかしその答えに安堵する自分を嫌悪した。
雨は激しさを増し、雨音だけが木霊した。
「帰りましょう」
彼の差し出す手のひらに、自分のそれを重ねてしまえばどれだけ楽になるのだろう。彼のことを否定したいのに、どうしても出来ない。
「あし…」
名を呼び掛けたその時だった。
芦屋の持っていた傘が、宙に浮いた。驚く間もなく、背後に人が居ることに気が付いた。咄嗟に逃げる暇もなく、三浦の喉に腕を回し、羽交い絞めのようになる。
芦屋かと思った。しかしすぐそばにいた芦屋は、唖然とした表情で「坊ちゃん!」と叫んでいた。
(誰だ…!)
「…っ、ぅ…!」
羽交い絞めになった状態では後ろを振り返ることはできない。自分と同じくらいの背丈だということくらいしか、わからない。しかし、それはさらにもう片方の手に小刀を持っていた。首に当て、少しでも動いたら切れるように固定した。
芦屋が刀を抜いた。誰とも聞かず剣先を三浦の背後に定める。
「動けば、殺す」
「…っ!」
芦屋はその台詞で静止した。いつもは無表情で何にも動じないのに、いまは顔を皺くちゃにして厳しい表情をこちらに向けていた。彼が睨むのは、三浦の背後。
(何なんだ…!)
三浦は状況が読めず、混乱する。
しかし芦屋は憎々しく、名を呼んだ。
「河上彦斎…!」
と。


総司と斉藤が刀研ぎ師のもとから帰ろうとしたところで、雨が降り出した。二人は傘を持っていなかったが、店の主人が厚意で二本貸してくれたので助かった。
「秋雨かな。久しぶりの雨ですね」
「ああ…」
短い会話を交わしつつ、雨音でかき消されつつある斉藤の声を探しながら、二人は屯所への帰路を歩んだ。
花街近く界隈を通りかかると、店の中から聞き覚えのある声がした。昼間から豪勢に酒を飲み騒ぐいくつかの声に覚えがあるのは、斉藤も同じだったようで
「勘定方だな」
と彼はあっさりと断定した。
「と、いうことは三浦君もなかにいるんですかね」
「さあ…」
斉藤は特に興味がないようで、素通りしていく。規則を破らず門限までに帰ってくるならば、昼間から騒ぐことは咎める事ではないだろう、と総司が斉藤へ視線を移す。
しかし、斉藤は突然、走り出した。
「斉藤さん?!」
斉藤は主人に借りた傘を投げ捨てて、駈け出して行き抜刀する。その様子に「何かが起きた」と咄嗟に察した総司は、同じようにして後を追った。
秋雨の中を走る。霧のせいで遠くが見渡せない。居酒屋から少し行った先で、その足が止まり、雨の向こうに人影が見えた。
見覚えのある人影。総司は思わず叫ぶ。
「河上…!」
そして河上が短刀を向ける先に、三浦の姿を見る。そして相対するように立つ、芦屋の姿。前後の状況はわからないが、三浦が河上の人質となって捕えられているようだ。
河上は視線だけをこちらに向けた。総司、そして斉藤を品定めするように見る。
「…また出会えたな」
白い頭巾に身を隠した河上の口元は見えない。女のように細い外見とは裏腹に、三浦を締め付ける力はそのまま絞め殺してしまうのではないかと思うほどに強い。
「三浦啓之介に間違いないな」
確信を秘めた問いに、総司は否定しなかった。
「…三浦君になにか」
「私を仇討ちしようとしているのは、この男だろう」
河上はさらに刃先を三浦に押し当てた。皮一枚ほど切れたのか、血が一筋ながれた。
「貴様…!」
冷静な河上に激高したのは芦屋だ。普段無表情な彼がそんな風に感情をあらわにするのは珍しい。剣先をさらに三浦の方へ近づけた。
捕えられた三浦は半分気を失っているようだ。目は開いているものの河上に喉を圧迫され、呼吸しづらくなっている。長くはもたないだろう、と総司は思うが、良い手が浮かばない。
そして土方の話が蘇ってくる。会津藩が三浦を新撰組へ預けた理由。仇討ちをさせることで三浦を処分しようとする思惑。その予想がどれもあっていて、身震いするほどだ。
そうしていると、河上の方から口を開いた。
「芦屋昇」
目の前で相対する芦屋の名前を呼ぶ。総司は二人が知り合いなのだろうかと思ったが、呼ばれた方の芦屋が
「何故…」
と唖然としていたので、河上が一方的に知っているだけのようだ。河上は嘲笑し
「何故…とは思わぬことを言う」
といいつつ、少しだけ三浦の喉元を圧迫していた力を抜いた。三浦が何度か咳き込む。
「…っ、沖田…先生…斉藤先生…?」
三浦が虚ろな目をこちらに向けた。その様子では今の状況を半分も理解出来ていないだろう。しかし変に暴れたり逃げ出したりしないのでその点は安心だ。
しかし、河上は彼の目の前でその事実を告げた。
「佐久間象山を殺し、私にその罪をなすりつけたのは貴様だろう」
そのセリフで三浦が覚醒し、目が見開いたのが見えた。そしてそう訊ねられた芦屋の方は何も答えなかった。
「芦…屋…?」
三浦が「本当か?」と訊ねる。芦屋はそれまで尖らせていた鋭意な目を伏せた。
雨音が一層激しくなるなか、芦屋は苦い顔で黙り込んだ。
「…やはりそうか」
「斉藤さん…」
それまで無言を貫いていた斉藤が、刃先を河上に合わせたままでぽつりと呟いた。
斉藤が察していたこと。
それはきっと土方と同じこと。
(芦屋くんが、佐久間象山を殺した…?)
彼は何も答えない。否定をしないということは認めているということだ。
「どうして」「何故」という疑問の前に、この事実が何を指すのかを理解した。
(三浦君が仇討ちすべき人間は…こんなに、近くにいた…)
子供の時からずっと傍にいて、彼の為に生きてきた人間。そんな彼が憎き仇討ちの相手だった。その事実はどれだけ三浦にとって残酷なものなのだろうか。
「三浦啓之介」
河上は容赦なく告げた。
「仇討ちすべきは、この男だ」
河上はそう言うと、あっさりと三浦の首に回していた腕を解いた。力なく座り込む三浦を見ると、背中を向けて逃げていく。
「待て…!」
咄嗟に総司は追おうとしたが、軒先が重なり合うほどの狭い路のなかに逃げ込まれ、その姿をすぐに見失ってしまった。さらに強く降ってくる雨が視界を悪くしていたし、手の捻挫のことを考えると追わないのが正解だろう。その証拠に斉藤は一歩も動いていない。斉藤はその代わりに二人の姿をじっと見つめていた。
項垂れて、雨に濡れた土の上に膝をつく三浦。そして立ち尽くす芦屋。
雨に隠れて二人の表情は良く見えなかった。






230


二人の間に振り続ける雨は、まるで現実という名の残酷な事実を打ち付ける雷のようだった。
芦屋は呆然と立ちつくし、三浦は地面をじぃとみていた。こうしていても何も解決しないというのに、けれど身体が痺れたように動けなくて、酷く怠い。
あの男…河上というらしいが、剣客に興味のない三浦からすれば誰だって構わない。
けれど、あの男は、
あの男はなんて言った?
目の前のこの男が、幼馴染のように、友人のように、家族のように、そして…恋人の真似事をするように接してきた彼が、何をしたって?
「…お…」
声を発するのも億劫なほどだったが、しかし確かめずにはいられない。何も聞かなかったことに出来るほど器用ではないし、聞き流せるほど簡単なことではない。
「……お、まえが…殺した…?」
あの男は確かに、父を殺したのは芦屋だと名指しした。息子の前で、はっきりと告げた。
そして芦屋は何も答えなかった。歯向かうことも、否定することもなく、まるで…まるで、受け入れるように聞いていた。
「あし…や…」
三浦は力のない身体を引き摺り、這いつくばるようにして芦屋の傍に寄った。水にぬれた泥が袴を汚すが、全く気にならなかった。そして芦屋の足を掴むようにして見上げた。
「お前が、殺したのか…?!」
「…っ」
芦屋は顔を歪めた。あの日、芦屋が家にやってきたあの時、母に縋り付いて泣く子供のようにして、顔を皺くちゃにして。
そして絞り出すようにして答えた。
「…は…い…」
心のどこかで「違います」と…「あんな奴が言うことは嘘です」とそう言ってくれるのではないかと期待したのに。こんな時まで従順に、答えなくてもいいのに。
「芦屋…っな、んでだ…何でだ…!」
全然、全然わからない。何故お前が父を殺したのか、全然わからない。
「答えろ、芦屋ぁ!」
「……」
雨の中に、三浦の悲痛な叫びは響いた。涙が雨に混ざって、溢れ出てくる。両手を拳に変えて、芦屋の足を、身体を打ち付ける。
「坊ちゃん…」
芦屋は膝を折って座った。そして腰から脇差を抜いて、三浦の右手に握らせた。
「…芦屋…」
「坊ちゃんの仇討ちの相手は私です。さあ…私を殺してください」
そういって、芦屋はその剣先を自分の首筋に当てた。殺してくれという言葉通りに、芦屋は己の首を差し出した。
少し力を込めれば、きっと芦屋は死ぬ。
その事実を目前にして、三浦の刀を持つ手が震えた。
「…ぁ……なん…で…」
「…坊ちゃん」
「なんで、お前を殺さなくちゃ…ならない…なんで…父を…殺したんだ…!教えろ…」
「それはできません…」
「教えろ!じゃないと…」
三浦は芦屋の首に押し当てていた剣先を、自分の首へと向けた。
今まで「死ぬ」ということに恐怖と恐れしかなかった。だから、自分が殺されるという場面に遭遇しただけで足が震えて、身体の自由が聞かなかった。けれど、今、こんな風に剣先を自分へと向けることに抵抗を感じない。むしろこのまま死んでしまってもいいと思えるほどだ。
脅すような三浦の行動に、さすがの芦屋も無言を貫くことはできなかった。
「坊ちゃんが…死ねばいいと」
「…え?」
「そうおっしゃったので」
芦屋は何の感情も込めていない。しかし短く答えたその言葉に、三浦は辛うじて残っていた身体中の体温が、さっと引いていくような感覚を味わった。握っていた刀を落として、からん、と音を立てた。
呆然とした。
父に殴られたあの時の、言葉。何気ない、その場の苛立ちを吐露しただけの言葉。しかし芦屋はたったそれだけの理由で、父を殺したのだとそう言った。
三浦はようやく理解した。彼は、友人でも家族でも何でもない。優しいのではない、心が広いのではない。
従順すぎて、白々しいほどの忠誠心を持った…犬だ。待てと言われれば、いつまでもいつまでも、夏が過ぎて冬が終わり、春が来て…そして死ぬまでそこに居続けるような犬だ。でもそれは人間としておかしい。人間として欠落している。欲が無い、我が無い、意思が無い、どこまでも従順で、どこまでも隷属する存在。
三浦は呆然として、愕然として…やがてわなわなと唇が震えた。それは父を殺された怒りではない、悲しみではない…恐れと、嫌悪感で。
「…お前…おかしい…」
心を経由しないで溢れた言葉は、彼への拒絶だった。
「おかしい…だろ、なんで…そんなことで、そんなことで…ころした…のか…」
「……」
父への愛情なんてない。父への親しみなんてない。けれどどこかで親子の縁を感じていた。生まれ持った性なのか、父のことを意識してしまう自分が居た。だから父が死んだと聞かされた時に、思わぬ苦しみを味わった。父を殺した人間を、憎んでいた。
会津に仇討ちをするように命令に近い形で押しつけられたけれど、でもそうできれば良いと思っていた。そうすれば少しでも父に近づけるのではないかと期待したのに。
「殺した…あとも、なんで…傍にいたんだ…俺を抱いて、何がしたいんだよ…!」
「……」
芦屋は答えなかった。三浦が問い詰めれば問い詰めるほど、何故か芦屋はその表情を無くした。父を殺したことが知れたときはあんなにも泣きそうな顔をしたのに、今はまた能面のような無表情に戻り、淡々と三浦の慟哭を聞いている。
まるで壁をつくるように、彼は距離をとっていく、知らない人みたいに、なっていく。言葉が通じない動物のように。
「三浦君」
会話が途切れたところで、総司が二人の間に歩み寄った。それまでのやり取りを聞いていたようだ。
膝を落とし、三浦が落とした脇差を握らせた。
「仇討ちをしたいなら、彼を殺しなさい」
「……っ」
新撰組の鬼と呼ばれる彼は、残酷なことをあっさりと告げた。躊躇していた背中を押すように、三浦の手に握らせた脇差を強く彼に押し付ける。
「貴方はそのために新撰組にいる。彼が仇討ちの相手だと思った以上、同じ屋根の下で暮らすことはできない。そうでしょう?」
総司は同意を求めるが、三浦は即答できるほど頭が回っていなかった。
彼を仇討ちの相手として殺すことも、そして今後同じ屋根の下で暮らすことも…どちらも想像できない。どちらも選べない。
「ちゃんと選びなさい」
雨が打ち付けるなかで、その声は凛と三浦の耳に飛び込んできた。同じ声でいつか聞いた言葉は、この時を予感していたものだったのだろうか。
(選ぶって…何だ…)
何をどう選べばいい。どちらが正しくて、どちらが間違っている?答えはどこに合って、どうすれば最善になるのだろう。
「坊ちゃん、殺してください」
迷う三浦に、芦屋は告げた。抵抗なんてしない…そういう風に、芦屋は腰に帯びている刀を鞘ごと抜いて、地べたに正座した。斬首を待つ罪人のようにその命を目の前に差し出した。
総司に握らされた脇差が、小刻みに揺れていた。
芦屋を殺せば解き放たれるのだろうか。父の仇討ちを果たして、称えられこの先を楽に生きていけるのだろうか。彼の居ないこの先を…生きていくのだろうか。
「…っ」
「三浦くん」
促す総司の言葉。
揺れる刃先。
降り続ける雨が、強く、強く身体を打ちつけて…とても、五月蠅い。


からん、と空っぽの音が雨の中に木魂した。地面に落ちた脇差が力なく左右に揺れている。
「…坊ちゃん…」
「死にたい奴を…殺して、何が仇討ちだ」
いま、選んだ。
答えを決めた。
「お前にとって……一番、苦しいことは何だ」
三浦の問いかけに、芦屋は即答した。
「貴方の傍に居られないことです」
「じゃあ傍に居るな」
三浦の命令に、芦屋は唇を噛む。
「今後、俺の傍に寄るな。近寄るな、一切俺の視界に入ってくるな。俺はお前をいないものとして扱う。お前は死んだ、お前はどこにもいない」
「…三浦くん、」
「沖田先生。それでいいですよね」
先ほどまでの打ち震えていた三浦はそこにはいなかった。三浦は感情を絶ち、冷静な判断で冷酷な選択を告げた。総司もその変わり様に驚いていたが、三浦は彼の言うとおりに「選んだ」のだ。その結果を覆すことはできない。
「これで、お前を殺した。お前は死んだ」
「……」
繰り返して述べる三浦は、もう芦屋の姿を見ていない。そうすることで芦屋を殺す。そういう選択をした。
唇を噛んだ芦屋は、次第に視線を通して、やがて項垂れた。彼にとってそれはきっと殺されるよりも酷なことなのだ。
存在しない。
その選択が、彼らをどう歪めていくのか…総司にはわからなかった。





解説
204河上彦斎についてですが、歴史上において佐久間象山を暗殺したのは河上で間違いないと言われています。久坂玄瑞が扇動したとも言われています。わらべうたについてはこの辺りを完全に変更していますので、ご了承ください。
227恪二郎の母はお菊と言い恪二郎を置いて、幕府御典医高木常庵の後妻として家を出ています。その後、勝海舟の妹・順が嫁ぎ、もう一人の妾であるお蝶と恪二郎三人で一年ほど暮らしたようです。(その後はまたの機会に)


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