わらべうた





231


世話になっている前川邸から一歩出ると、そこは季節が変わってしまったことを実感できるほど寒い場所となっていた。庭の木が枯れて、色鮮やかな花も散ってしまい景色は物悲しい。しかし、この先の道場から若い隊士たちの気合の入った声が聞こえて、何だか少し安心した。
「山南さん」
厚い羽織を身に纏いぼんやりしていると、総司が話しかけてきた。対称的に汗をかいて薄着でいる彼は、おそらくは稽古をしてきたのだろう。
「何してるんですか?」
「何もしていないよ。今日は稽古かい」
山南が訊ねると総司は頷いた。幼い頃から稽古を嫌がらず、むしろ楽しそうにする様は変わらない。彼は今や「新撰組の鬼」の一人だと数えられているが、山南からすればあどけない容貌が残る、一人の若い剣士だ。
「今日は松原さんの柔術をお披露目してもらいました。相手を怪我させずに倒して見せるというのは、すごいことですよね」
「柔術を始めるのかい?」
「いえ、私には向かないと言われてしまいました」
残念そうに肩を落とす総司に、山南は笑った。確かに線の細い彼には向かない気がした。
「沖田君の場合は、柔術と言うよりも合気道の方が良さそうだ」
「合気道?」
「柔術のようなものだが、相手の力を使って薙ぎ倒すことができる技だよ。相手を倒すというよりはかわす…という風なのが近いかもしれないが、腕力が無くても技術があれば女でも出来るという話を聞いたことがあるよ」
「へえー山南さんは何でも知っているんですね」
山南の与太話を聞き流す人間も多いが、総司は昔から興味津々という目をして話を聞く。土方は「剣術馬鹿」だと何度か言っていたが、彼は興味があることにまっすぐに興味を持ち、余計な邪念を持たないだけなのだろう、と山南は思っている。
昔ことを思い出して和んでいたが、ふっと山南は思い出した。
「…そういえば、芦屋くんのことは聞いたよ」
「ああ…」
声を潜めたが、総司は少し周囲を気にする風にして頷いた。
「幹部だけの秘密…っていうことになっているんですよね」
「そうらしいね。まあ、余計な混乱を招く必要はないし、彼は彼でとても出来る人間だ」
山南は先日の雨の日の出来事を土方から伝え聞いた。その土方さえも、総司からの又聞きということだったが、どうやら三浦の仇討ちの相手は、河上彦斎ではなく、芦屋だったという驚きの事実が明らかになった。
山南や近藤は素直に驚いたのだが、土方は至って冷静な表情を崩さなかった。もしかしたら彼は気づいていたのかもしれないし、知っていたのかもしれない。
ともかくその事実を知り、三浦は仇討ちを取り下げ、代わりに彼との関わりを一切絶つことを選んだ。総司曰く「それが芦屋にとって最も苦しいこと」なのだそうだ。命を絶つよりも、思い贖いになるそうだ。
だが、その事実が周囲に知れると話はややこしくなる。芦屋のことを恐れる者もいるかもしれないし、永倉の様に「脱退させるべきだ」と騒ぎ立てられるかもしれない。その為この事は本人たちと幹部の秘密となったのだ。
「監察に異動させたのは良い判断だね」
「…まあ、彼にも向いている場所だとは思うんですけどね」
土方はすぐに芦屋を監察へ異動させた。もともと暗殺者として佐久間象山のもとに居たというのだから、適任と言えば適任だし、三浦の視界に入らずに済む部署ではある。
(しかし、脱退をさせなかったというのは、土方君らしい…)
使えるものは使う。そういう土方「らしい」行動に、山南は少し疑問を覚えていた。それは総司も同じだったようで
「自分が犯人だと名乗った時点で、芦屋君はきっと暗殺者である自分を決別したつもりだったのに。土方さんはそれを利用して彼をまた闇の中に戻してしまった」
言葉にすることを躊躇っていたことを、総司はあっさりと口にした。山南が同じセリフを言えばそれは「土方批判」になるのだが、彼が言うと「兄弟子への愚痴」という和やかなものに聞こえるのだから不思議だ。
「……彼にも、彼の考えがあるのだろうね」
山南はそういって話をまとめた。土方と意見が対立する場合はいつもそういって自分を納得させてきた。今の所、土方が考え進んできた道は、成功し続けている。新撰組の舵取りを任せる上では、彼は適任なのだから、妄信的に彼を信じればいいのだと思う。
(任せている…だけでは、ダメだとは思うのだが)
「山南さん。いまもしかして、手すきですか?」
総司は山南の手を持つ。「暇は暇だが」と答えるとさらに強引に手を引いた。
「是非稽古をつけてやってください。私は天然理心流だけで、他の流派はからきしなんです」
「し、しかし…」
「いいから、山南さんもたまには身体を動かした方が絶対いいですって!」
(…見抜かれていたか)
総司の言い分に、山南は苦笑した。きっと彼は山南が何を考えているのかなんて知らない。けれど、「思い詰めている」ことは察することができたのだろう。
「わかった、わかった。行くから、そう強く手を引かないでくれ。千切れそうだ」
そういって久しぶりに笑った。


「藤堂くんから手紙が届いたよ」
近藤は土方に江戸で隊士募集を行っている藤堂からの手紙を手渡した。とある名家のご落胤だという話もある彼の字は、どこかの祐筆が書いたのではないか、と思うほど綺麗だ。
「…伊東大蔵?」
その手紙の中で目についた名前、いやに詳細な紹介がなされていた。
「藤堂くんの師匠にあたる人らしい。もともとは神道無念流を修めたのちに、北辰一刀流伊東道場に入門し、その腕を買われて婿養子になって道場を継いでいる」
近藤は興奮気味に話したが、土方には気に入らない履歴があった。
「…水戸学か…」
常陸水戸藩ではじまった「水戸学」は修史作業から始まった学問だが、次第に尊皇攘夷へと傾き、いまや政治外交に意見書を提出するなど過激な思想を持つ一派となっている。
「勤王思想は俺たちと違うものではない。伊東先生もそのあたりを重々理解した上で、入隊を希望されたんだ」
「……」
近藤は熱く語ったが、土方からすれば面倒な予感を感じる人物だ。経歴から察すれば剣術に長けた人物であるが、水戸学に関わりがあるならば、剣術よりも思想に重きを置いた人間ということになる。
近藤が言うように勤王思想は変わりない。幕府は天皇から統治を任されているにすぎず、大衆が敬うべき相手は将軍ではない。しかしその将軍が天皇に仕える者である以上、幕府に従うのは勤王思想と同義だ。
(…どうでもいいが、面倒くせえ…)
土方は近藤とは違い、新撰組に様々な思想を入れる必要はないと考えている。ただただ近藤と同じ幕府を敬う思想を持つ人間か、誠実かつ従順に従う人間のみで構成されるのが望ましいと思う。それが軍隊の形であるし、一人ひとりの思想を尊重するつもりなどはなはだない。
(なんていうと…かっちゃんや総司あたりに怒られそうだが)
「歳、心配することはない。伊東先生については山南さんからも話を聞いたんだ」
「山南さん?」
「伊東先生と山南さんは旧知の間柄で、北辰一刀流を修めたときの知り合いだそうだ。伊東先生は誠実で人当たりの良い、人間味にある方だと聞いた。山南さんが言うのだから間違いない」
「……」
近藤は基本的には誰をも信頼する。相手が嘘をついているとかそういう考えはない。加えて昔から学問を教授してもらっていた山南の意見は特に信頼している。
(だったら、もう決まりか…)
気分は重いが、伊東という男が剣術に長けていて、頭も悪くない人間だということはよく分かった。しかも藤堂の話によると、道場を挙げて参加するということだから、剣術の腕がある者の入隊も期待できる。
「…わかった。藤堂には是非入隊してもらうように返事を書く」
「いや、歳。その必要はないよ」
「は?」
土方が近藤を見ると、彼はその大きな口をまげて笑っていた。
「江戸に行こうと思う。山南さんや藤堂くんの意見はもちろん尊重するが、彼がどのような人物なのか、見極めてくる」
「……」
近藤の「見極める」という行為に計算はない。ただ、会って話をしてそれで感じ取る者を信じるということなのだ。
(そういう意味では適任か…)
土方では相手の裏をかいて、無駄な深読みをしてしまうだろう。そして何よりも、近藤のそういう「勘」を土方も信じている。
「わかった。何人か隊士を見繕って同行する者を決めてくれ」
「ああ」
近藤は満足そうに笑った。土方としては大将が不在なことは気にかかることではあったが、前に行っていた「娘に会いたい」と言っていたことも覚えている。
(結局、俺は身内に甘い…)
そんな反省をしつつ、土方は気づかれないようにため息をついた。




232


変わるものがあれば、変わらないものもある。
傷口が癒えるものがあれば、いまだに傷が膿み続けているものもいる。
「山南せんせ…すんまへんが…」
店の女将は山南が訊ねてくるたびに、毎回同じセリフを口にした。
あれから季節は変わり、明里はようやく店に出るようになったらしいと風の噂で聞いた。君菊が亡くなり塞ぎ込んでいたが、客の相手をして笑みを浮かべる時も増えてきたのだという。しかし、いまだ明里が山南を受け入れる様子はない。頑なに「会いたくない」と拒み続ける。
「そうですか…では…」
いつも持参する土産を女将に渡して、山南は踵を返す。
ここには毎日足を運んでいる。通い始めた頃は今日こそはあってくれるのではないか、という淡い期待を抱いていたが、最近ではおそらく会えまい、と思って足を運んでいる。君菊が亡くなったことによる心の穴は全く塞がっていない。
きっと明里は、自分を憎んでいるだろう。「君菊姐さんを助けてほしい」という彼女の願いを、聞き届けることはできなかった。結果、最悪の形で彼女は失われた。
(そろそろ潮時か…)
女将は最初、明里のことを思いやり、山南の訪問を拒んだ。君菊を失った悲しみが癒えるまでは、会わせることは出来ないと言った。しかし今は、やっと店に出られるようになった明里の邪魔をするなと言いたげの、迷惑顔だ。
自分が彼女にとっての障害になるのなら、その時は身を引く覚悟はしている。そうすることが彼女の幸せなのだとしたら、そうすることを笑顔で受け入れよう。
しかし、その前に一度だけ会いたい。
(そうすれば…忘れられる)
彼女にはっきりと拒絶されれば、胸に抱いたこの思いもきっと捨て切れるだろう。


秋晴れの空のもと、隣の壬生寺では周囲の人間が集まりちょっとした騒ぎになっていた。そしてその中心で、総司は格闘していた。
「わっ!あ、あ…!あぶな…!」
「沖田先生っ!」
心配そうに見守る山野や島田ら一番隊の前で、総司はバランスを崩さないように馬の上に乗り続けた。
「どうした、総司!剣の腕は随一でも、馬はダメか!」
からかう近藤だが、総司は落ちないようにするのが精いっぱいで返答をする事が出来ない。
近藤が先日、池田屋の功績により会津から賜ったという馬は、まだ子供だというが、背の高い暴れ馬だった。まだ乗りこなせる隊士がいないということで試しに乗ってみたのだが、最初はおとなしくしていたのに、だんだんと振り落すように暴れ始めた。
「わっ、あああ!」
「沖田先生!」
総司が大きくバランスを崩し落馬しそうになったので、島田が駆け寄ってきた。落馬の直後、丁度良いタイミングで支えられる格好になり、怪我をしないで済む。
馬は足音を立てて逃げていった。
「先生、お怪我は…!」
次に駆け寄ってきた山野に慌てて訊ねられたが、特に痛い場所もないので首を横に振った。暴れ馬は厩担当になった平隊士がどうにか捕まえていた。
「これで更に怪我をしたら怒られちゃいますよねえ」
のんきにそんなことを言う総司を、年下の山野が叱り飛ばす。
「そうです!まだ右手首の捻挫も治ってらっしゃらないのに!だから僕はお止めしたんです!」
池田屋以来、すっかり小姑の様になってしまった山野は、遠慮なく文句を言った。
馬に乗ると言い出した総司に、「手首のお怪我があるから駄目です!」と一番反対したのは山野だったのだ。それを振り切って乗馬に挑戦した。
また怒られるのは勘弁だと思い、総司は「大丈夫大丈夫」と山野を宥めて、島田の支えのもと立ち上がる。幸い怪我はどこにもない。すると近藤と、そして傍で見守っていた土方がこちらにやって来た。
「舐められたんだな」
土方が見下すように笑ったので、総司はむっとした。
「だったら、土方さん、乗ってみてくださいよ!」
総司は毒づくが、土方の返答はない。そしてわざとらしく目をそらす。すると近藤が
「歳はもう駄目だったんだよ」
と笑った。その隣で土方が「ふん」と鼻で笑ったので、その通りだったようだ。自分のことを棚に上げて総司をからかったらしい。
「やっぱり!人に好かれない人は、動物にも好かれないんですよ!」
「何だと!」
「おい、歳!総司!」
言い争いを始めようとする二人を近藤が止めた。三人しかいない場所だったらまだしも、近所の人々や平隊士がいる前だ。総司は「すみません」と言って手を引いて、土方は少し不機嫌そうに腕を組みなおした。
「全く。俺が江戸に行っている間に、喧嘩なんかしないでくれよ」
「え?近藤先生、江戸に行かれるんですか?」
驚いたのは総司だけではない、島田や山野も初耳のようで顔を見合わせていた。
「藤堂くんの応援だ。いまは一緒に江戸へ下る隊士を決めているところだ。島田君はどうかな?」
「え?じ、自分ですか?」
思わぬタイミングで近藤に声をかけられて、島田は背筋を伸ばした。
「君の様に、頼りになる隊士が来てくれれば安心だ」
言葉を交わせば島田の柔和な性格はよく分かるが、一見すると背が高く身体の大きな島田は近寄りがたい。そういう意味では、道中の用心棒にぴったりではある。
「い、いえ…その、自分は…」
光栄な申し出だったはずだが、島田は何か言いたげに口篭もる。総司は「いいですね」と同意したのだが、山野は少し複雑そうに顔をゆがめていた。そうしていると
「近藤先生。島田はダメだ」
意外なことに土方がきっぱり断ったので、近藤と総司は驚いた。
「ん?どうしてだ?」
「総司の子守りをしてもらう。山野もな」
「土方さん!」
確かに巡察の時の話し相手は島田だし、山野にはいつも体調を気にかけてもらっている。けれど、彼らに子守りしてもらうほど子供ではないはずだ。
だが、「いつまでも子ども扱いだ!」と憤慨しているのは総司だけで、島田はあからさまにほっとした表情を浮かべたし、山野も歪めていた顔を解いた。
(…まあいいか)
ここで喧嘩をしたところで、また近藤に止められるだけだ。そう思って、総司は心のうちに留めることにした。
そうしていると先ほどまで暴れていた馬がようやく落ち着いたようでこちらにやって来た。平隊士も手を焼いているようで、疲れ切った顔をしている。
「それにしても困ったな。誰かが乗れないと、会津様にお披露目するときに申し訳が立たない」
話を聞くと近藤が乗ってもダメだったようだ。もともと人を乗せるということ自体を、この馬は嫌うらしい。山野は小柄で力がないという理由でそもそも乗せられないし、力があるという島田でも暴れる馬を制御できなかったのだから、困ったものだ。
「自分は是非、乗りたかったのですが…沖田先生くらいです。あんなに長く乗っていられたのは」
島田が残念そう肩を落とした。すると土方が手を叩き
「じゃあ総司にさせる」
とあっさりと決めてしまった。
「一番隊組長が乗りこなしていれば様になるだろう。いいだろう、総司」
「…まあ、動物は嫌いじゃないですけど。また仕事が増えたような気がするんですが」
総司がぼやくと、土方は「気のせいだろう」とあっさりと流してしまった。一番隊の組長や剣術師範、そしてさらに馬術の訓練となれば非番の日でもゆっくりはしていられない。また、暴れ馬の調教ともなると長く躾が必要だろう。
「頼むよ」
しかし近藤から念を押されてしまってはもう断る術はない。総司は「わかりました」と返答した。
「そのかわり島田さんも稽古に付き合ってくださいね。落ちそうになったら宜しくお願いします」
「はいっ!」
島田は嬉しそうに返答したが、隣の山野が少し拗ねた風な顔をしていた。誰よりも積極的に仕事に取組む山野には島田のご指名が気に食わなかったのだろうか。
すると、土方が「山野」と声をかけた。
「お前は総司が怠けないように見張る仕事だ」
「は…はい!」
「ちょっと土方さん!山野君も!」
怠けることを前提にされるとは。酷い物言いに総司はまた食って掛かろうとしたが、山野は嬉しそうに喜んでいるし、島田もはりきっているようだ。余計な茶々を入れる必要はないだろうと納得させて飲み込んだ。

かくして、馬を乗りこなすという課題を与えられた総司だったが、まさか半年後、この馬と大津まで行くことになろうとは、思いもしないことでなのあった。



233


池田屋事件から数か月。
蛤御門の変を経て、世間に轟くこととなった新撰組の勇名はとどまることを知らず、日々入隊希望者が詰めかけることとなった。
「総司」
今日も二、三人入隊希望者がいるらしいと聞いて、総司は道場へ向かっていた。手首の捻挫もだいぶ良くなったが、試合の相手は永倉に任せ、総司は見聞する予定だ。
「近藤先生、お出かけですか?」
近藤が紋付き袴と言う礼装で、八木邸の門前で数名の隊士を引き連れていた。
「ああ、会津様の所だ。近頃、体調が芳しくないとお聞きしたから、そのお見舞いにな」
「そうですか」
総司はちらりと隊士の手元に目をやった。美しい花々に見舞いの卵、舶来品の菓子…など、効果で貴重な品々が準備されていた。関心のない総司でも、一目で高価なものだと分かった。
「喜ばれると良いですね」
「ああ、行ってくる」
近藤は満足そうにうなずいて、数名の隊士と共に出かけていく。総司がその背中を見送っていると、八木邸から永倉が顔を出した。
「近藤局長、出掛けたか?」
「ええ。会津様は最近具合が宜しくないそうですね」
「ふうん…」
永倉は少し不機嫌な様子で目をやった。すでに近藤らは遠くの角を曲がろうとしている。
すると永倉がため息交じりに続けた。
「まるで従者のようだ」
「え?」
最初は何を言っているのかわからずに問い返した。すると永倉が吐き捨てるように答えた。
「近藤局長の態度には疑問を感じる」
「え?そうですか…?」
思いも寄らぬ事に総司が戸惑うが、永倉は余程気に障ったのか彼にしては珍しく愚痴を言い始めた。
「会津様への供物だと言っても、あんなに金をかけて手土産を準備するのはどうかと思う。外向けの羽織や袴も新調したようだし、局長はただ見栄を張りたいのではないか」
総司からすれば「冗談かな」と思うほどに信じられない感想だったが、永倉の表情は本気だ。彼はこんな冗談を言わない。
「それに我々は同志のはず。隊の効率化を考えて局長、副長、総長、副長助勤のように区別をしているだけで、本来は平等に扱われるべきだ」
真面目の堅物と原田に揶揄される永倉らしい意見だった。
確かに、新撰組に明確な身分差はない。新入隊士は家来という認識ではなく、同じ志を持った同志として迎え入れることを謳っている。
「それなのに、あのように何人もの平隊士を家来の様に侍らして、会津様の所へ行くなんて…俺にはただ見栄を張っているようにしか見えない」
「……」
近藤がもし隊士のことを家来として認識し、横暴に振舞うようなら、永倉がいうことは正しい。だが
(…そんなことはないとは、思うけれど…)
総司からすれば近藤に変化はない。試衛館の道場主だったあの頃から、何も変わらないように見える。しかし、総司や近藤がそう思っていなくても、周りにそう見えているのだとしたら、それは問題になるだろう。せっかく人数もそろい、部隊として形を成してきた新撰組としては、内部の抗争や分裂は避けたいところだ。
「……時間だ」
永倉は言いたいことだけを言って、前川邸の道場へ向かっていく。もしかしたら答えは必要なかったのかもしれないし、総司を通じて近藤に進言して欲しいということだったのかもしれない。総司は少し立ちつくして、その後をついていった。


「…っていうことがあったんです」
「くだらん」
新入隊士試験の結果とともに総司が報告したことを、土方はたった一言で片づけた。
「くだらんって…下らなくないでしょう。平隊士ならともかく、永倉さんがそういうからにはちゃんと善後策を練らないと」
「もしかっちゃんが『見栄』だとか『体面』に拘っているとして、何の問題がある。同志は同志でも、かっちゃんは局長だ」
全く取り合わない、という様子で土方は片付けようとしたが、総司は食い下がった。
「同志だっていう前提があるからこそ、反感を持つ隊士も少なからずいるということですよ。私たちは身分を問わず、上下関係がない。だからこそ、入隊を希望する人が増えているんじゃないですか」
総司の言い分に、土方はわざとらしく大きくため息をついた。
「確かに、身分は問わないし出自も関係ない。三浦のことは抜きにして、いくら高い身分の者でも、入隊したら平隊士は平隊士として扱う。ただ、腕がよければ組長に抜擢して昇進をさせる。性分が合うと思えば監察に回すし、勘定が早いものは勘定方をさせる。それと同じだ。かっちゃんは局長に向いているから局長に居る。それの何が悪いっていうんだ」
「…それは、そうですけど」
「だったらもういいだろう」
その話は終わりだ、と土方は片付けてしまった。総司としても土方が言うように、近藤がその地位にいるのは当然のことだというのはわかっている。けれど、外様の平隊士ではなく、親藩であるはずの永倉が、わざわざ話が伝わりそうな総司に愚痴を言ったという事実自体が、重要な気がしたのだ。そしてそれは土方も理解しているはずのことだから、口には出さないが。
そうして少し黙り込んでいると
「…珍しく、考え込んでるな」
と土方が笑った。先ほどの不機嫌そうな雰囲気を一気に消し去る。基本的に不機嫌なオーラを漂わせる土方だが、それは鬼の副長故の演技…という部分もあり、彼は自分が相手からどう見えているか理解し、それをコントロールできる、器用さを持っている。
「そりゃ考え込みます。永倉さんの愚痴なんて聞いたこともないし、それをわざわざ私に言ってきたんだから、何か意味があるはずです」
「そういうことを考えるようになったんだな」
言葉だけ聞けば、馬鹿にされているような気がするが、そうではなく、土方は穏やかに総司を見ていた。時折見せる優しげな顔に、総司は少し頬を赤らめた。
「…一番隊の組長というのは、そういうことでしょう?」
「まあ、そうだけどな」
土方はそういって、総司の頭を撫でた。
「あまり心配するな。お前が考えるようなことは、俺だって考えてる」
「…それ、ちょっと馬鹿にしてません?」
「さあな」
そういって、土方は指先を髪に絡めて、そのまま輪郭を撫でた。彼が何を欲しているのか何となくわかって、総司はそれを許す。
(こういうのが…恥ずかしい)
今までは「嫌だ」とか「何をするんですか」とかそんな言葉で誤魔化してきた。けれど、今はそれを享受して彼の感情を自分の感情に溶かしていくような感覚を味わう。それが恥ずかしくて、照れ臭い。
「…土方さん、ここは屯所ですよ」
別宅でしかしないと言ったのに。
高ぶる感情を悟られたくなくて、総司が柔らかく制した。しかし、そんなこともきっと土方は分かっている。
「誰も鬼の住処には来ねえよ」
自虐的な言い分だが、全くその通りなので総司はぐうの音が出ない。そして彼が導くままに身を任せて、柔らかい唇が重なった。啄むように重なるそれは、数を重ねるごとに強く深くなっていく。
「…っ、土方さん、もう終わり…」
「なんで」
「なんでって…」
当然の不満の様に返されて、総司が戸惑う。二の句を継げないでいると、また唇が重なって、そして彼の冷たい手が首筋に触れた。
「つめた…」
ヒヤッとした感覚に声を上げたが、しかし呑み込ませるように土方は更に唇を重ねた。そうしているうちに身体のバランスが崩れて、畳に肘をつき土方に押し倒されるようになる。
「ひじ…か、たさん…」
「なんだ」
首筋に顔を埋めた彼は、貪るのに夢中になっている。首筋にかかる熱い息が、彼が興奮している証拠だとわかると、妙に生々しく、そしてこちらの息も上がる。
「ここは、だめだって…」
言ったのに。
駄々をこねる子供の様にいい縋ったが、こういう時の土方はいつにも増して話を聞いてくれない。手を伸ばしても、それを振り払って強引にされてしまう。そして心から「嫌だ」とおもっているわけではないから、総司も本気を出せない。
「お前、結構好きだろう?」
「な…なにが…」
「こうやって求められるのが」
ストレートな物言いに、総司は一気に顔を赤面させた。それまで触れ合うほどに近くにいた土方から、あからさまに目をそらす。
「そ、そういうことを言うのが嫌です」
「本当に?」
「ほ、ほんとうです。何でそんなこと恥じらいもなく言えるんですか。信じられない」
「ひどい物言いだな」
土方の返答が酷く寂しげに聞こえて、総司は咄嗟に「違う」と言って、逸らしていた眼を戻す。しかしそこには寂しげな土方などいない。だから、わざとそんな言い方をしたのだと分かる。
「意地悪ですね…」
「知らなかったのか?」
「……知ってます」
昔から知っている。出会った時から、この人は我儘で意地悪で、でも自分を一番大切にしてくれた人だった。
「もう少し、いいだろう」
まさかこんなことになるだなんて思わなかったけれど。
「…はい」
この人の一番近くに居たいと願ったのは、間違いなく自分自身で
(土方さんみたいに、はっきり口には出せないけれど…)
いつまでも隣で笑っていてほしい。そう願い続ける。
熱に魘されたままでいたい。
そんなことを思いつつ総司が目を閉じた、その時だった。
「歳、ちょっといいかー」
滑らかな音を立てて障子が開かれると、そこには総司ともう一人、この『鬼の住処』を恐れない人物がいた。
「……」
三人の視線が交わり、空気が一気に冷え込んで静止する。
その後のことは言うまでもない。




234


前川邸で稽古を済ませ、着替えに戻ろうとしていると屯所の前で、顔見知りの小者に出会った。小者は中の様子をうかがっていたが、総司の姿を見付けると駆け寄ってきた。
「これは、沖田せんせ。丁度良かった」
この小者は遊郭に出入りし、芸妓からの手紙を隊士に届ける役目を果たしている。未だに「壬生狼」と恐れる町人が多い中で、この小者は特に怖がる様子もなく飄々と屯所にやってくるのだ。
そして小者は懐から小さく折りたたまれた手紙を総司に預けた。
「どなたへです?」
「山南せんせへ。仏のようやとご評判の山南せんせにも、ええ女がおったんやなあと、わしは感服しておりやした」
「え?」
総司は咄嗟に渡された手紙を見る。届人の名前は書いていないが、山南に手紙を出す女は一人しかいない。
(明里さんだ…!)
君菊の紹介から出会い、自然とお近づきとなった山南と明里だが、池田屋の一件以来、疎遠になってしまった。山南は毎日のように明里のもとへ通ったがいつも門前払いだと言っていた。二人の関係は、切り裂かれたまま戻らないのかと、責任の一端を感じていた総司だが、手紙を送ってきたということは、良い知らせなのだろうと感じ取ることができる。
「ありがとう」
総司は小者に小銭を渡してやる。小者はえくぼを作って喜び、屯所を去っていった。


逸る心を抑えつつ、総司は足取り軽く山南の部屋へ向かった。着替えに戻るはずの八木邸から引き返すようになるが、構わなかった。
平隊士の集まる部屋を通り抜け、その奥の部屋を目指す。しかし、そこには先客がいた。
「山南さん、頼みます」
その声色に、総司は足を止めた。
「俺たち平隊士では会津様にお目通りができない。だが、総長である山南さんに先頭に立ってもらえれば、会津様に直訴ができる」
永倉の声だ。しかも話の内容は決して世間話ではない。
総司は後退し、部屋から死角となる場所に身を潜めた。盗み聞きの様になってしまうが、仕方ない。
(今更聞かぬふりはできない…)
二人の会話は続いている。
「…永倉くん。もう少し冷静になろう。近藤局長を糾弾したところで、どうなるというんだ。別の誰かが局長となって新撰組はどうなってしまう」
「それはその時に考えます。それに、近藤局長を追い込みたいわけではありません。ただ俺たちが理想とする方向は違うはずだと、諭したいのです」
言いよどむ山南に、鋭い声と言葉選びで詰め寄る永倉。総司は息を飲んだ。
土方が「下らない」と一喝したことが、大きくなっているのを感じたからだ。
「…それにしても、会津様に直訴と言うのは話が早すぎる。もう少し近藤局長にご相談してみるべきだ」
「わかっています。けれど、今では近藤局長は土方さんの傀儡となっている。俺が何を言ったところで、土方さんに阻まれて終わりだ」
「そんなことはないよ」
永倉は話すにつれて言葉がきつくなっていく。山南は宥めるが、永倉は反発する。
「芹沢先生を殺したことも、土方さんの判断だったはずだ」
「…!」
永倉のおもわぬ指摘に、山南も、そして聞き耳を立てているだけだったはずの総司さえも、緊張が走った。
芹沢暗殺について、真実を知っているのは近藤、土方、山南。そして実行部隊となった総司と原田だけだ。近藤は芹沢の死を「長州の報復」としたので、表向きはそういうことになっている。しかし、その裏の真実に気が付いている…もしくは疑っている者は少なくない。永倉がその一人だということだ。
だが、それはわかっていた。わかっていて、誰も口にはしなかったのだ。さらに永倉は続けた。
「温厚で誠実な近藤局長が、そんなことを考えるはずがない。暗殺だなんて卑劣なことを考えるのは、土方さんしかいない」
永倉のその台詞は至極最もで、それが事実であり真実である。
けれど、総司はカッと頭に血が上るのを感じた。このまま部屋に踏み込んで怒鳴りたいほど、強い怒りを感じた。
(土方さんがすべて悪いわけじゃない…!)
殺すしかなかった…とは言わない。死んだ方が良い人間なんていない。しかし、芹沢の暴走を止める手段は尽きていた。あの時の皆は、心のどこかで「芹沢さえいなくなれば」という気持ちがあったはずだ。それを土方一人のせいにしてしまうことは、暴論だ。
息巻いた総司が一歩目を踏み込もうとしたところで、山南の声が聞こえた。
「芹沢先生は、不運なことに長州の報復にあった。それだけだよ」
穏やかで優しい声。それでいて相手を制する。いつもの山南のそれに違いない。カッと血が上った頭が、急に冷やかに冴えていく。
ここで踏み込んで「そんなことはない」と弁明するのは簡単だ。しかし、それは「芹沢を暗殺した」ということを認めるに等しい。山南の様にさらりとかわすのが一番正しいのだ。その証拠に、永倉は言葉に詰まったようで、部屋からは音がしなくなる。
(…出直そうかな)
小者から受け取った手紙を早々に渡したいという気持ちはあったが、いま部屋を訪れることは火に油を注ぐことになりかねない。山南が沈静化させてくれることを願って、総司は部屋に背を向けた。すると、思わぬ人物が目の前にいた。
「ひ…」
「しっ」
土方さん、と言おうとした口を、無理矢理手のひらで塞がれた。そして去りかけた死角へ二人で隠れることとなる。
「ひじか…」
「いいから、ちょっと黙れ」
小声で命令されて、総司は仕方なく押し黙る。すると山南の部屋から会話の続きが聞こえてきた。
「この間の、池田屋の報奨金についても平隊士のなかから不平不満が出ています。貰えた隊士ともらえなかった隊士が居る。屯所に残った隊士が一銭ももらえないというのは、確かに納得がいかない話なのではないですか?」
「…はは、そうなのかな」
永倉が言う「屯所に残った隊士」の筆頭であった山南が笑った。呑気な笑い声に苛立ったのか、
「山南さん、笑ってる場合じゃないんだ」
と永倉が詰め寄る様子が分かった。しかし山南は穏やかな調子を変えようとはしない。
「いや…確かに池田屋の報奨金は全くもらえなかったが、それは当然のことだと思っていた。私は君のように命を張ったわけじゃない。のうのうと屯所で構えていただけなのだから貰えなくて当然だし、貰っていたらそれはそれで申し訳ない気分になったと思う」
「…屯所固めだって立派な仕事だ。山南さんだけではなく、他にも健康な身体でありながら残った者もいる。彼らが納得いかないというのは仕方ない」
永倉は頑として譲らない。あくまで平等な扱いを求める永倉の、生真面目さがうかがえた。永倉自身は池田屋で近藤の組下として斬りこみ、一番大きな手柄を上げている。報奨金も局長、副長に次ぐ額となり、不満はないはずだ。だから、永倉が訴えるのは、あくまで他の隊士のことを考えてのことだ。
「永倉君の…そういう、なんていうか、人情のような深い情は、きっとこの先隊士の心の拠り所になるだろうね」
「山南さん…」
「永倉君の言いたいことは良くわかった。…ひとまず、私の方からも近藤局長に進言してみるよ。いまは取りあえず、それを待ってもらってもいいかい?」
「…わかりました」
仏の副長…今は、仏の総長が正しいが、山南のその人柄は分け隔てない親しみやすさがある。話しているだけで相手を懐柔してしまうのは、きっと無意識なのだろうが、そう言う意味でも総長というポジションは至極正しいのだろう。
二人の会話を盗み聞きしていた総司は、ほっと胸をなでおろした。取りあえずは会津へ直訴するような大事にはならないようだ。
「行くぞ」
永倉が出てくるのを察したのか、土方が総司の腕を引いた。そしてそのまま前川邸の屯所を出て、壬生寺の方へ歩く。
「取りあえず、良かったですね」
壬生寺に誰もいないことを確認して、総司は口を開いた。
あの様子なら、永倉の怒りは今日明日に悪い方向へは向かないだろう。しかし、土方は「ふん」と腕を組んで鼻で笑った。
「会津様に直訴なんかしてみろ。下手したら首が飛ぶぞ」
「それを覚悟で永倉さんは言っているんですよ。永倉さんほど真面目なひとはいませんから」
土方は気に食わないのか、「どうだかな」と不機嫌そうにした。
「真面目だとか他人を思いやるとか…そういう上っ面の理由を真に受けてどうする。結局は、俺が裏で糸を引いて、近藤先生を引き立てているのが気に食わないって言いたいんだろう。池田屋だって、芹沢を殺したのだってそうだ」
「土方さん」
総司は土方の言葉を遮った。誰もいない部屋ならともかく、ここは壬生寺だ。誰が聞いているのかも分からない場所で、芹沢暗殺について公言すべき場所ではない。
「…というか、そのあたりから聞いていたんですね」
「俺の方が先客だったんだ。お前が気が付かなかっただけだ」
確かにあの時は手紙を届けることに夢中で周りの様子は見ていなかった。総司は「むう」と口を噤む。
すると土方は腕組みを解いて、やれやれと言わんばかりに腰に手を当てた。深いため息をついて、そして総司に背中を向けた。
「平等で、同等…よりも、楽じゃねえか」
「え?」
「誰か一人を悪者にしておくほうが」
初めてかもしれない。彼の背中が少し寂しげに見えたのは。
(…土方さん?)
「永倉が言うとおりに、例えば池田屋の報奨金を平等に分けたとしても、誰もが満足する結果にはならない。今度は斬りこんで怪我をした者が不満を漏らすだろう。結局は同じことだ」
「…それは…そうですが」
「だったら、俺が裏で画策して、報奨金を不平等に分けた…と思わせるほうが、いい。それでいいじゃねえかよ」
どこか投げやりな物言いに、総司は思わず、土方の腕を引いた。そしてこちらを向いた土方の顔を見て、言葉に詰まる。
(…どうしてだろう)
投げやりな言い方を、諦めたような言い方を、見捨てるような言い方をするのに…総司には土方がどこか悲しげに寂しげにうつった。
「土方さん、あの…」
彼は本当は孤高でありたいわけじゃない。鬼の副長だとかそんな綽名を、本心から受け入れたわけじゃない。
ただそう在るべきだと判断したからこそ、たった一人でその道を歩もうとしているのではないだろうか。彼は彼の心を封じ込めて、「憎まれ役」を引き受けている…。
(どうして今まで気が付かなかったのだろう…)
「総司」
言葉に言い淀んでいると、急に後頭部に手のひらを回されて、引き寄せられた。そして顎を捕まえられて、唇が重なる。
「ん…」
「何も言うな」
彼が、懇願するように聞こえた。




235


結局、山南に手紙を届けるのは夕方ごろになった。小者から直接渡した方が早かったかもしれないな、と後悔しつつ、総司は山南の部屋に向かう。
「山南さん、お邪魔してもいいですか」
障子の向こうの山南に問いかけると「大丈夫だよ」といつもの柔和な声が聞こえた。総司が安心して部屋の中に入ると、いつもより多くの書物に囲まれた山南が居た。
「どうしたんですか」
「…いや、ちょっと調べ物をね」
少し口篭もったのは、おそらく永倉に関することだからなのだろう。総長と言う立場で解決できることはないか、と書の中からヒントを得ようとしているのだ。
(山南さんらしい…)
土方のやり方とは相反するものだが、今や新撰組は二人で支えられているようなものだ。
「山南さんの親切心と、土方さんの鬼の仮面…か」
「ん?なんだい、それは」
聞こえないような独り言のつもりだったが、山南には聞こえてしまったようだ。総司は書を脇に寄せながら、相対して腰を下ろした。
「さっき、土方さんが言っていたんです。自分だけが悪者でいいって。そうすれば楽だし、うまく行けるって。でも、それが正しいのか間違っているのか…私には、何も言えませんでした」
言葉を封じるように、土方は口づけをするとさっさと去ってしまった。これ以上の詮索は無用だと、語っている姿を見送っているととてもさみしい気持ちになった。
「少し前にも言ってたんです。自分は武士道を歩んでいるのではないって…あれは、私たちとは違う道を歩んでいるのだと言うことなんでしょうか」
「……そうか」
山南は総司の質問に、総司以上に思いつめた顔をした。読みかけていた書物をそのまま文机において、頭を抱えるように俯いた。
「私も常々思っていた。私は楽な道ばかりを選んで…いや、選ばせてもらっているんじゃないかと。身体のこともあるが、私はいつも命の危険に晒されない場所にいる。しかしその分の辛さや悲しさを皆に、土方くんに押し付けているんじゃないかと」
「山南さん…」
戦の最前線に立つ仲間を、見送りばかりだった山南。一見穏やかだが、うちには秘めたる悔しさや悲しさがあることを、総司は初めて実感した。土方への批判や意見はただ単なる山南の意思ではなく、彼にとっての罪滅ぼしに近いのだろう。
山南は深くため息をついた。
「自分を責めているばかりではいけないのだが。どうにもいうことを聞かない身体が恨めしいな…」
「…山南さんはまず身体を治してから、ですよ」
総司の励ましに、山南は「そうだね」と頷いた。
(むしろ、一番傍にいるはずの自分が何もできないことの方が罪深い…)
内心、気持ちはもっと落胆したが、表情に出せば心配するので、総司は笑顔で取り繕った。
「そういえば、何か用事があったのでは?」
山南の質問で、ようやく「あっ」と総司は思い出した。
「そうそう。昼間に小者から山南さんへお手紙を預かったんです。色々あって渡すのが遅くなってしまって…」
「手紙?」
届人に心当たりがないのか、山南は怪訝な顔をした。総司は懐から小さく折りたたまれた手紙を手渡した。
「明里さんじゃないですか?」
「え?」
総司の言葉に、山南は少し呆然として、しかしすぐに手紙を開いた。慌てたようで手が縺れていたが、筆跡には心当たりがあったようで、その表情は一気に明るくなる。
山南は眼を上下させて手紙を読み進める。すると、最初は明るかった表情に段々と陰りが差し、ついには手紙をくしゃっと握りしめてしまった。
「山南さん…?どうしたんです」
「…少し、出てくる」
山南はそういうと、立ち上がり部屋を出ていく。いつもは整理整頓を欠かさない部屋も、雑然としたままだ。総司は慌てて後を追った。
「明里さんに何か?」
「…手紙は、店の女将からで…いつも、明里の代筆をしているんだが…」
逸る気持ちが抑えきれないのか、山南はどんどんとその足を速めた。前川邸を出て歩き出した方向は上七軒だ。
「…明里が病だそうだ」
「え?!」
「流行り病で、寝込んでいる。医者には今日明日には覚悟をしておくように…と言われたと、あった」
緊張で顔を引き攣らせつつ、山南は駈け出して行く。総司はその後を追った。
「沖田君、君はついて来なくてもいい」
「いえ、そうはいきません。もっと早くに手紙を渡していればよかった…」
手渡すのに手間取り、失ってしまった時間が恨めしい。もしこれで明里と会えないような事になれば、謝りきれないことだ。しかし、
「それは関係のないことだよ」
と、総司を慰める山南は少しだけ顔を綻ばせた。総司を安心させようと無理矢理微笑んでいるのはすぐにわかった。しかしまたすぐに表情を引き締めて走る。山南は今までで見たこともないような顔をしていた。

上七軒に到着する頃には動悸が激しくなり、荒い息で肩を上下させていたが、山南は構うことなくそのまま明里の置屋へと直行した。
「山南せんせ!」
女将が待ち侘びた、というように駆けつけてきた。
「すんません、明里に会うべきやないというたのはうちなんどす。それが、こないなことになってしもうて…」
涙を浮かべた女将は、今までずっと山南を拒否してきた女将だ。わが子同然の明里のことを思えば、新撰組に関わらせるべきではないと判断するのは親心に違いない。
「いえ、女将。それは仕方のないことです。それよりも…」
「へえ、こちらどす」
女将の案内で、山南と総司は二階へと上がった。
狭い階段を上がり、一番奥の部屋だという女将は、しかしここにきて立ち止まり苦い顔をした。
「…どういう病かわかりまへん。せやから、もし移ってしもうたら…」
「構いません」
女将の躊躇いを無視して、山南は即答した。そんなことは全く考慮すべきことではないと断言した。総司は山南の横顔を見た。どこか俯きがちで迷っていた視線が、いまはまっすぐに前を見据えている。
「明里に会わせてください。…沖田君、君はここで待っていなさい」
「山南さん」
「もし君に病が移るようなことがあれば…土方くんに申し訳ない」
そう笑った笑顔は、いつもの穏やかなそれに違いなかった。総司は頷き、山南の指示に従うことにした。


重い鉄の扉のような障子を開く。そこには四畳ほどの小さな部屋に布団が一枚のみ敷かれていた。
「…だれ?」
か細い声で尋ねる明里は、弱りきった姿だった。もともと線の細い彼女が、まるで折れてしまいそうなほどに儚くなっている。山南は彼女が病であるという事実をまじまじと見せつけられた気持ちになった。
「…明里…」
「せんせ…?」
目が見えない分、敏感な彼女の耳は山南の声をすぐに察知した。何も映していない瞳が、山南を探すように上下した。そして白く細い手を伸ばして、山南を探していた。
「…っ!」
山南はすぐにその手を取った。触れてみるとまるで砂糖菓子のように消えてしまいそうな彼女を、繋ぎとめるように手のひらを重ねた。冷たい指先に自分の温もりを重ねて、溶けないように溶けないようにと何度も絡ませた。
「うち…死んでしもうたん…?」
空っぽの瞳が、少しだけ黒く染まる。そして彼女の目尻から涙が溢れてた。
「なぜ…そんなことを…」
「うちは…山南せんせに、ひどいことを…」
「どうして君が謝るんだ」
掌を一層強く重ねて、そんなことはない、と彼女に伝える。
「君菊姐さんが…死んでしもうたのは、山南せんせのせいやないのに…ずぅと…毎日、来てくださるのを…ずっと、お断りして…」
「そんなのは…そんなのはいいんだ。私の方が、一生君には許してもらえないのだと…諦めかけていたんだ」
何度も諦めかけては、それでは贖罪にならないのだと通い続けた。
そうしていることで彼女に許されたいと思ったわけではなく、そうしていなければならない気がした。
すると明里がその細い指先を伸ばして、山南の輪郭に触れた。冷たかったはずの指先が、ほんのりと温かく感じられた。
「諦めないで…くれはったん…?」
「…ああ。どういうことか、君のことだけは諦められそうもない。君に嫌われたとしても、君に罵られたとしても、君に軽蔑されたとしても…きっと私は、毎日のようにここに通っていた。君に逢いたくないと言われても、死ぬまでここに通い続けていたと思う」
「阿保やなあ…」
明里が微笑む。池田屋の前、君菊が死ぬ前の彼女の笑顔と同じだ。その表情に安堵して、深く慈しみを感じ、そして山南の目頭が熱くなった。
まるで夢のようだ。
「明里。きっと君は、私にとっての灯りに違いない」
「灯り…」
「君が明るく照らしてくれるなら、私は…もう少し頑張れそうなんだ」
息苦しさを感じていた。それは新撰組として上洛してからずっと、空気が足りないと思っていた。いまでも、ここが本当に居場所なのかと疑問に思い、足掻いている。しかし、彼女が居てくれるならここが居場所なのだと思うことができる。そんな気がする。
すると、何も見えていないはずの、彼女の瞳が山南の視線と重なった。
「せやったら…山南せんせも、うちの灯りになって」
「私が…?」
「君菊姐さんが出会わせてくれたんやなあ。…真っ暗闇の中で光を灯してくれたのは姐さんやから。…いまは、山南せんせが、その灯りが消えないようにずっとうちのことを見てて…」
儚げで、折れてしまいそうなのに、彼女はいつもしなやかにそこに咲く野花のようだ。一見すると、すぐに散ってしまうように見えるけれど、しかし本当は蒲公英のように、踏まれても踏まれても生きる、強さを持っている。
その強さに、惹かれる、引かれる、光れる――。
「わかった…。明里、どうか、生きてくれ。ここで君を失えば、きっとまた私は路頭に迷う」
「…へえ、承知しました」
握りしめた手をそのままにして、山南は明里の枕元に居続けた。彼女が静かに寝入るまでそうしていた。



夜になり、永倉は再び山南の部屋を訪ねた。生真面目ゆえにそれから考え込み、昼間は言い過ぎたと反省し謝りにやってきたのだ。夜番の隊士たちが出ていき、前川邸の屯所は平隊士たちの鼾が響いている。その部屋の奥、総長の部屋はどうやら人の気配がない。
「山南さん…?」
巡察を外れている山南がその時間に部屋に居ないのはおかしい。そう思いつつ、永倉は部屋を覗いてみるがやはりいない。
「留守…か」
出直そうか、と思った時、月明かりに照らされて、開いたままの書物の文字が目に入った。
「…建白書…」





236


夜になって屯所に戻ると、ちょうど近藤の部屋に土方もいた。
「…というわけで、山南さんは今日は外泊です。良いですよね?」
上七軒から戻った総司は、すぐさま理由を説明した。
深刻だと言われていた明里の具合だが、総司がこっそり覗き見した限りでは、察するに良い方向へ向かうだろうと思う。彼女の表情はまるで病人のそれとは思えないほどに明るかったし、山南が付きっきりで看病することになったので尚更彼女の力になるだろう。
店の女将も喜んでいて、「もっと早くにお呼びすればよかった」と言っていたほどだ。
「もちろんだ。な、歳」
「…ああ」
笑顔で総司の報告を受け取った近藤とは違い、土方は不承不承という雰囲気だ。それは山南が気に入らないというわけではなく、ただ単に素直に喜べないだけだということを、総司は知っているが。
総司としては、君菊を失ったことで一番胸を痛め悲しんだはずの明里が、新撰組のことを許せなくても、山南のことだけでも受け入れてくれたということが嬉しかった。全然、足りていないけれど罪滅ぼしの一つになるような気がしたのだ。
(幸せになってほしい)
君菊の分まで。
「これで山南さんも心の靄が晴れただろう」
生来素直な近藤は感慨深げに頷いて、総司もそれに返答した。
「はい。私も安心しました」
「…ふん、これで仕事に励んでくれれば良いが」
ぶっきら棒だが、きっと土方も内心安堵しているはずだ。しかしこれ以上この話題を続けると、土方が不機嫌になりかねないので
「ところで、近藤先生、江戸への東帰の人選はもう決まったんですか?」
と話を変えて、総司は近藤に話しかけた。
「いや、まだだよ。武田君は是非にという申し出があったので連れて行こうと思うのだが」
「武田さんですか」
同じ副長助勤の武田観柳斎は軍術に長けた異才だが、どこか権威に媚びる所があり、平隊士からあまり人気が無い組長だ。土方も鬱陶しがられているが、近藤は「色々な意見がある方が良い」と重宝している。
「永倉君あたりを連れて行こうと思うんだが、歳に反対されてしまった」
「…二番隊組長だ。そんな簡単にいかせられるわけねえだろう」
土方に拒絶され、少し困ったように笑う近藤だが、総司は内心ドキッとした。ちらりと土方の様子を窺うと、土方も眉間に皺を寄せていた。おそらく土方はまだ永倉が山南に訴えていたことについて話していないのだろう。いや、むしろ土方は話す必要がないとさえ思っているのかもしれない。
(いずれ、山南さんから近藤先生へ話がいくかもしれないけれど…)
近藤の愚直さと永倉の真面目さは、時に衝突しかねない。方向性が同じなら強力な助っ人となるだろうが、方向性が真逆なら相反する二人なのだ。
しかし、土方が「まだいうな」という顔をしていたので、総司は「そうですか」とあっさりと話を受け流す。
「私も永倉さんが抜けられるとキツイかもしれません。それに原田さんが寂しがるんじゃないですか?」
「まあ、そうなんだがなあ」
総司の援護射撃に、土方とちらりと目線を合わせる。土方の眉間のしわが一つ減っていたので、これで正しいようだ。
「でも、周斎先生やおツネさんは喜んでいるのでしょう」
「ああ。たまが大きくなっているだろうから、俺も楽しみなんだ」
娘の話となると、近藤の顔は途端に緩む。浪士組に志願する前に生まれたたまとは、言葉が通じる前に別れてしまった。約二年ぶりに会う娘はおそらく見違えるほどに成長しているだろう。
そう思うと、子供好きの総司としても江戸に帰って一目会いたいという気持ちはないでもなかったのだが(まあ、土方さんの子守があるかな)ということで、総司の中でその楽しみは持ち越しとなった。
「出発は九月になってからだ。総司はおミツさんに手紙でも書いたらどうだ、届けてやるぞ」
「あはは…気が向いたら、そうします」
昔から、どうも手紙を書くということが苦手な総司だが、姉もそれをわかっていて梨の礫な弟を咎めることはない。手紙はたくさん送ってくるが返事を催促はしないのだ。総司もそれに甘えていて、一向に手紙を書けないでいる。
しかし、近藤に「そうしなさい」と念を押して言われてしまったので、「わかりました」と答えるしかなかった。


小者から手紙を受け取ってからの長い一日が終わり、総司は近藤の部屋を出ると自室のある八木邸に向かった。休日だったはずだが、何やら疲れ切ってしまったな、と背伸びをしていると、土方が後を追ってきた。
「何ですか?」
「…見送りだ」
「は?」
目の前の八木邸に戻るだけなのに見送りも何もない。しかし土方が「いいから」と言うので、草履を履きつつ前川邸を出る。
警備担当の隊士が「お疲れ様です」とやや緊張した挨拶をしたのを聞いて、少し歩いたところで、
「よく言わなかったな」
と土方が切り出した。
「え?」
「永倉のことだ」
土方が声を潜めて続けた。
「しばらくは俺に任せておけ」
「それは…そのつもりですけど。でもいつかは近藤先生のお耳に入るお話でしょう」
永倉の訴えを聞き届けると約束した山南は、二三日中にも近藤の元へ相談に行くだろう。まさかそれを強引に止めるつもりなのだろうか、と総司は思ったがそうではなく、
「せめて近藤先生が江戸から戻ってくるまでは耳に入れたくない」
「それは…」
(つまり、江戸行きを楽しみにしている近藤先生を煩わせたくないということ…?)
二年ぶりに会う娘に会うために、近藤はここ最近土産物を選んだりしているらしい。しかし永倉の反発を知れば、近藤は忽ち江戸行きを取りやめるかもしれない。そんな近藤への土方なりの気遣いらしい。
「…わかりました、わかりました。じゃあ努力します」
「何笑ってんだよ」
「笑うところでしょう」
照れくさそうに怒る土方だが、総司は笑うのを堪えることができない。土方が「ふん」と不機嫌そうに鼻を鳴らしつつ
「じゃあな」
と総司の肩を押して、踵を返した。総司に背を向けて少し足早に去っていく土方が、不器用に照れているのがわかる。
「おやすみなさい」
総司はその背中に挨拶をした。

八木邸に戻ったが、夜も遅いと言うのに、八木邸のいくつかの部屋には明かりが灯っていた。総司の部屋だけではなく、隣の永倉と原田の部屋も明るい。
(珍しいな…)
早寝早起きが習慣の永倉と、灯りが消えればすぐに寝入る原田の組み合わせで、二人はこんな夜半まで起きているということが少ない。前を通りかかると二人が話す声もして、少し不思議に思いながらも、訪ねていくことはせずに部屋に入る。
「帰りました」
「ああ」
短く返答した斉藤は布団を敷いているものの、瞑想でもしていたのか正座でそこに佇んでいた。それは大して珍しい光景ではない。
「お隣、まだ起きているみたいですね」
「…そうみたいだな」
特に関心が無いようで、斉藤は再び目を閉じた。
部屋に戻ると安堵感からなのか、急に瞼が重くなった。総司は自分の布団を敷き、着替えを始める。上七軒まで全力で走ったので汗を掻いているが、今から風呂に入るような気力はなかったので素直に寝ることにした。
「斉藤さん、まだ起きていますか」
「…ああ、もう少し」
「そうですか」
「灯りは消しても構わない」
斉藤の言葉に甘えて、総司は部屋に灯っていた蝋燭を消す。布団を被って頭まで突っ込めば、もう眠気がすぐそこにやってきた。
(話声が…する…)
言葉までは聞き取れないが、永倉と原田だろうか。原田のことだから、猥談にでも花を咲かせているのかもしれない。
そんなことを考えているといつの間にか眠りに落ちていた。




237


話し声が止んだのは、皆が寝静まった丑の刻くらいのことだった。出来るだけ気配を消して聞き耳を立てていたため、存外疲労していた。
(ふう…)
斉藤は内心ため息をつきながら、忍び足で部屋を出た。ぐっすり眠った同室の彼は、よっぽど疲れていたのか起きる様子がないので安心だ。
部屋の外に出て改めて隣室の様子を探る。聞こえてくるのは原田の豪快な鼾だけだ。それは星のない月夜の静けさによく響いていた。
(面倒なことになった…)
最初は興味本位で耳を欹てて聞いていた内容だが、あまりにも荒唐無稽かつ過激な行動の計画に少し驚いてしまった。猪突猛進な原田とは違い、冷静沈着なはずの彼をそこまで熱くさせるほどの「なにか」があるのだろうか。斉藤には理解ができなかったのだ。
腕を組んで、眠気の来ない瞼を恨めしく思っていると、不意に障子が開いた。気配がなかったので、斉藤といえども身構えてしまったが、
「…そんなに警戒するほどのことじゃあないだろう」
と、ゆったりとした笑みを浮かべて隣室の永倉が顔を出したので、構えを解いた。
しかし永倉の瞳は斉藤をまっすぐに見つめていた。おそらく彼のことだから、斉藤が聞き耳を立てていたという可能性にも気が付いているはずだ。すると
「ここじゃ何だな…」
永倉はそう言い、斉藤を誘って庭に連れ出した。斉藤は少し迷ったが、永倉についていくことにした。
口止めをされるのか、もしくは仲間として誘われるのか…斉藤はそんな予想をしたが、永倉は何も話そうとしない。結局八木邸の主人が一番の自慢にしている植木の前までやって来て、ようやく彼は口を開いた。
「聞いていたんだろう」
「……」
堂々たる風格があり、大人びている永倉だが、実際の年齢は斉藤や総司と変わりがない。年齢が近ければ自然と仲間意識が生まれるものなのかもしれないが、しかしこうして二人きりで話をするのは初めてかもしれない、と斉藤は思った。わざと距離をとっていたわけではなく、生来無口で人となれ合わない斉藤と、不器用で融通が利かない永倉ではあまり会話が弾まないだろう、とお互いに理解していたからだ。
「…聞きたくて聞いたわけじゃない。ああいう話は屯所の外でやるべきだ」
「確かに」
ははっと声を上げて笑う彼の声は乾いている。だから
(いや、むしろ聞かせたのだろうな)
斉藤はそう察した。
八木邸の中で隣接した部屋はよく声が通る。その内容は聞かれればその分大ごとになるものだが、彼にとっては大ごとにして欲しかったのかもしれない。
隣室で間借りする近藤の愛弟子である総司と、土方の腹心である斉藤。どちらかに聞かせる意図があったのか。
「土方さんに報告するか?」
永倉が挑発するように問いかける。斉藤は少し考えて、首を横に振った。そして逆に彼を見据えた。
「近藤局長を告発するようなことになれば、自分たちの身が危ないとは思わないのか」
「…なるほど、君はここで食い止めるつもりなのか」
「できるなら」
短く答えると、永倉は「ふむ」と腕を組んだ。
斉藤が聞き耳を立てていた内容――永倉と原田が話を進めていたのは、「近藤局長に関する建白書をつくり、会津へ訴える」というまさに思わぬ事態だった。ここ最近永倉が近藤への不満を蓄積していたことは知っていた。土方からもよくよく注意しておくようにと指令があったし、生真面目な分、彼は表情に出やすい。しかし、建白書まで話が飛躍するとは思わなかった。(誰かが助言したのか)と思うほどに、急に永倉の不満は具現化して、現実味が増していた。
この話に簡単に乗ったのは原田だった。おそらくは本筋を理解しているわけではないだろうが、永倉がそこまで言うのなら、と彼の厚い友情で付き合うことになったようだ。本人は軽い気持ちかもしれないが、話が大きくなるに違いない。
もちろん、斉藤がこのことを土方に報告するのは簡単だ。土方はすぐさま手を打つだろう。しかしそうなればあからさまに両者の溝は深くなるだけで、またその溝は一生埋まることが無いのかもしれない。そう思うと、ここで踏みとどまるように説得するのが良いと判断したのだ。
しかしそう簡単に考えを変えるほど、永倉と言う男は単純ではない。
「建白書の提出がかなったとしても、新撰組では局中法度違反で裁かれ、また会津からも先日の明保野事件のように、切腹を言い渡されるかもしれないな」
「…」
(そこまで分かっていて尚…)
齋藤は彼の決意の固さを思い知る。
永倉は一時の感情に流されるわけではなく、冷静な判断でその状況を見極めていた。だからこそ厄介だ。
「…それが分かっていて、何故近藤局長を告発することにこだわる?」
「自分自身のためだ」
永倉は言い切った。
「自分自身?」
「新撰組は池田屋事件以降、名を挙げた。それは喜ばしいことであり、会津藩に頼られるのも身に余る光栄だ。その期待に応えるべく、命を賭してでも市民を守りたいという気持ちがある。だからこそ…だからこそ、譲れない、許せないということを今のうちに正したい!」
永倉は語気を荒げて熱弁する。そして躊躇いつつも「芹沢先生のように」と彼は続けた。
「…芹沢先生のように『力』が一人にだけ集まれば、たった一人の判断に全てが委ねられる。俺たちの生き死にさえも。だからこそ、その『力』を持つ人間を正すべきだ」
理想だ。
土方ならそう言い切るだろうと思った。理想は理想であり、あくまで現実には不可能なことだと、土方なら割り切るだろう。理想は描くだけで十分だ。そしてその考え方は斉藤にも共通している。
だからこそ、永倉のようなやり方は利口ではないし、稚拙だと斉藤は思った。
「たとえ近藤局長の考え方が間違っていたとしても、土方副長や山南総長がいる。永倉さん、あんたが建白書を出すような必要はない」
「…君は分かっていて、分かっていないふりをしているのか?」
「何をだ?」
喧嘩腰に返すと、永倉は深くため息をついた。
「本当に糾弾されるべき人間が誰なのか」
「…近藤局長はあくまで槍玉に挙げられるにすぎないと?」
永倉は迷いなく「そうだ」と頷いた。
彼が本当に糾弾したい相手は、近藤局長の後ろで画策する土方副長のことなのだ。
恐らく永倉はこれまでのすべてが近藤局長の考えの結果としての指示・命令なのだとしたら、己の考えを曲げて適応する努力をしただろう。それくらいの信頼関係は試衛館時代に築いている。だがしかし、永倉はそれができない。それはその後ろに土方の意図が見え隠れすることへの嫌悪感故だろう。
「下手をすれば新撰組の存亡が危うい。そんなことは分かっている。しかしそれは今現在も変わらないじゃないか。土方さんが誤った選択をしたときに、誰が止められると言うんだ。肥大した新撰組に必要なのは厳しい法度ではない。風通しのいい調和だ」
「……」
斉藤は悟った。恐らくは、この永倉新八という男と己は一生理解し合える間ではないということを。
相手への嫌悪ではなく、これは決定的な考え方の違いだ。自分と言う存在を消し、あくまで任務の遂行に務める斉藤にとって、自らの考えを主張し相手を正したいと願う永倉の考えは到底理解できない。
理解出来ないどころか、それは暴論だとさえ思った。
土方がこれまで利己的な判断をしたことなどない。それは途中から入隊した斉藤でさえもわかることだ。むしろ己を悪役に陥れ、隊士たちの憎悪の矛先を自分に向けることによって新撰組を守って来たのは彼だ。
「…わかった」
…だがしかし、その事を熱弁したところで永倉は理解してもらえないだろう。彼がそんなことを望んではないのだから。
「黙っておいてもらえるのか?」
永倉は尋ねる。しかし斉藤は首を横に振ると、失望したようにため息をついた。
「…そうか、だったら仕方ない…」
「そうではない」
斉藤は永倉の言葉を遮った。
誰も土方に密告するなんてことを言ってはいない。
「俺も、その建白書に連名する」
「斉藤君…?」
斉藤の申し出に、永倉は驚いたように目を丸くした。しかしすぐにその剣幕を鋭くする。
「まさか仲間と見せかけて土方さんに協力するような真似を働くのではないだろうな。だとしたらお断りだ」
「それはしないと誓おう」
永倉の疑いの眼差しに、斉藤は断言することで答えた。その言葉に偽りはなかったのだ。
「ただ、見届けさせてほしい」
「見届ける…?」
「あんたの考え方は間違っていない。そして土方副長の考え方も、俺にとっては正しいと思う。だから、俺はこの結末を見届ける。新撰組は俺にとって唯一の居場所だ。その居場所が崩壊するのであれば、いつまでも部外者でいることはできない」
居場所。そんな風に新撰組のことを思っていたのだと、斉藤は自分で口にしながら初めて思った。
試衛館で出会い、縁あって京でまた彼らと暮らし始めた。時を経れば経るほど、彼らと離れがたいという気持ちは強くなっている。
「だから、俺はいざとなったらあんたを止めるための抑止力になる。新撰組を崩壊させるわけにはいかない。もしそんなことになれば…あんたを斬る。これが土方副長に黙っておくための条件だ」
隊内で一、二を争う永倉を斬ることは斉藤でさえも難しいだろう。しかし、そうしなければならない。
永倉は少し黙り込んで、しかし頷いた。
「俺も新撰組を崩壊させるのは本意ではない。君がいてくれるなら安心だ」
彼がいう安心…己が暴走し新撰組を崩壊させるに至った場合、斉藤に斬られることを受け入れたということなのだろう。斉藤は改めて永倉の覚悟の固さを思い知ったのだった。






238


眩しい朝日が差し込み、総司は重たい瞼を開いた。部屋の外からは人の気配がしたので、どうやら総司にしては遅く起きたのだと理解した。だが特に早く起きる理由はない。今日の当番は昼からのはずだ。
「…おはよう、ございます」
身体をゆっくりと挙げると、既に着替えを済ませた斉藤がいた。確か朝からの当番である斉藤は、今まさに出かけようとしたところだったらしく、腰に刀を帯びていた。
「ああ。良く寝ていたようだな」
「そうですね…斉藤さんは、少し寝不足みたいですね」
うっすらと見えるクマを指摘すると、斉藤は「まあな」とあっさりと流した。
「巡察ですか」
「そろそろ時間だ。あんたは稽古の当番だろう」
「そうでした」
巡察ほどではないが、朝の稽古の当番もそこそこに早い時間での準備が必要だ。総司は早速床から出て、布団を片した。
「沖田さん」
「はい?」
斉藤は部屋から出ていこうとした足を止めた。
「副長に伝言しておいてくれ」
「土方さんに?」
「ああ。飼い主の手を噛むつもりはないと」
「は?」
意味が分からず総司が唖然とする。冗談か何かのつもりかと思ったが、しかし斉藤の表情は固い。
「斉藤さん?」
「とにかく頼む。くれぐれも土方さんにだけ伝えてくれ」
「…」
総司が返事を躊躇っていると、斉藤はそのまま何も言わずに部屋を出ていく。総司は引き留めようとしたが、その意味を問いただしたところで斉藤がこれ以上何も言わないだろうと感じた。そういう背中だった。
「…変なの」
意味は分からないものの、斉藤が無意味な伝言を託すとも思えない。ひとまずは斉藤の言うとおりに預かっておこう、と決めて総司は着替え始めた。

部屋を出ると、ちょうど隣室から原田が顔を出した。
「よう、お前にしては寝坊だな」
「…おはようございます。原田さんだって今起きた所でしょう?」
「俺は今日は非番なんだよ」
何故か胸を張る原田に、「はいはい」と総司は笑う。そしてちらりと部屋の奥を見ると、どうやら永倉は既に部屋を出ていたようだ。
「昨夜は何だかお隣で盛り上がっていましたね。酒でも飲んでいたんですか?」
「ああ、まあな。お前も混ざればよかったのに」
「昨日は疲れていたんで、すぐに寝ちゃいました」
斉藤は起きていたようだけど、と内心思っていると
「斉藤は起きてたけどな」
と原田の方から言い出した。
「一緒に飲んだんですか?」
「ん、まあそんなところかな。永倉が連れてきたんだよ、俺を起こしてまた酒を飲ませて、んで、名前を書かせて…」
「名前?」
総司の相槌に、原田は「あっ!」と慌てたように両手で口をふさぐ。総司としては何となく指摘しただけだったのだが、こうもあからさまに動揺されては、鈍感だと揶揄される総司でも気づかざるを得ない。
すると原田が
「口止めされてたんだけどなあ、まあ、いっか」
と頭を掻きつつ、原田はあっさりと総司を部屋に招き入れた。総司たちの部屋と違い、雑然とした部屋はまだ布団が敷きっぱなしだ。何となく原田のせいだとわかる。
その雑多な部屋の中で、文机だけは綺麗に整頓されている。そしてその上に永倉の手と思われる書きかけの書物が置いてあった。総司の視界には永倉・原田・斉藤の署名も目に入ったが、何よりもある三文字が目を引いた。
「建白書…?!」
学問に疎い総司でもわかる。それは一隊士の部屋で書かれるには仰々しい単語。そしてその宛名に目をやると、会津候という宛名書きがあった。
「は、原田さん、これはいったい何なんですか?!」
「うるせえなあ。ちょっと声を落とせよ。俺がしんぱっつぁんに怒られるだろー」
騒ぐ総司を、やれやれと言わんばかりに原田が慰める。もともとは原田が洩らしてしまったというのに。
だが、それどころではない。
「永倉さんが先導してるんですか?」
「まあな。なんつーか、つまりは局長たちだけには任せておけねえっていうか、なんかそういう感じ?」
原田の曖昧な物言いでは正確なところはわからないが、永倉が建白書と言う手段を使って糾弾しようとしているということはすぐに予想がついた。
(山南さんに任せるって言っていたのに…!)
昨日盗み聞きしてしまった時には、永倉の不満を山南が請け負う形で片付いていた。その後は山南が明里のもとへ出かけてしまったので、話が進んでいるはずはないのだ。だから
(永倉さんの勇み足…)
としか総司は思えなかった。連名してあるのはまだ三人。永倉を筆頭に、原田、斉藤と続いている。
(斉藤さん…)
この三人のなかに斉藤が含まれているのはおかしいと思った。もちろん総司の知らないところで、彼なりに思うところがあるのかもしれないが、まさかこういう公となる場所で近藤局長への不満をぶつけるような真似をする性格ではない。
そしてようやく思い当った。
『飼い主の手を噛むつもりはない』
あの伝言の意味。
それが言葉通りだとしたら、斉藤は近藤…そして土方を裏切るつもりはないということだ。
(だったらどうして…)
署名をする必要があるのだろう。土方に密告して力づくで建白書なんてものを握りつぶす方が話は早いと言うのに。
総司が斉藤の真意を図りかねていると、
「なあなあ、総司」
と原田が声をかけてきた。深刻な事態だというのに、原田は特に焦る様子はない。
「土方さんには黙っておいてくれよ?」
「そ、そんなことできるわけがないじゃないですか」
「そこをこの通り!」
原田が両手を合わせて懇願する。
「しんぱっつあんには誰にも内緒だって言われてたんだよ~。特にお前に知られると、土方さんたちに話がいって、色々やりづらいだろうしさ。お前は知らなかったことにしておけよ」
頼むよ、と繰り返し原田は頭を下げたが、総司は「できません」と頑なに返答した。
「こんなの、会津へ提出されては困ります!それにまだ話し合いの余地はあるじゃないですか」
「話し合いって言ったってなあ…聞く耳持ってくれるかどうか」
「近藤先生はそんなに心の狭い人ではありません!」
総司が叫ぶと
「そうじゃないんだよ」
と、原田とは違う声が、総司を制した。部屋を空けていた永倉が戻ってきたのだ。
「…永倉さん」
「まあ、いずれ知れることとはいえ、左之助、口が軽すぎるぞ」
原田は「悪い」と軽い調子で謝った。永倉は総司に見つかったと知っても、焦る様子はない。ただ総司が手にしていた建白書を奪い、折りたたんで懐に仕舞った。
「見なかったことに…と言っても、総司は聞いてくれないよな」
「それはできない相談です」
総司は即答した。
(何だったら…)
何だったらここで、二人を斬ることだって辞さない。そういう覚悟をした。
しかし永倉は「それでいい」と頷いた。
「予定が狂うが、仕方ない。近藤局長にでも土方副長にでも、好きに報告してくれ」
「永倉さん、その考えを変えてくれるつもりはないんですか?」
「ない」
今度は永倉が即答した。固く結んだ唇と、鋭く見据えるその瞳がすべてを物語っていた。しかし総司は負けずに食い下がった。
「こんなものを提出すれば、局中法度に背くことになります。私は永倉さんを斬りたくはありません」
「でも斬れと言われれば斬るだろう」
そう、まさに先ほど覚悟したように。
永倉がそういっている気がした。だから、嘘偽りなく総司は頷いた。
「…斬ります」
その返答に、原田はしかめっ面をしたが、永倉は穏やかに受け取った。
「そう。きっとそれが正しい…いや、新撰組の中で『正しい』とされる姿なんだ。疑問を持つ、考えを持つ必要がなく、命令を遂行するのが一番『正しい』。俺も今まではそうしてきた。けれど…今の俺にはそれができない」
「命令を聞けないということですか…?」
「形だけならできる。しかし心の奥底ではどうして不信感がぬぐえない」
総司はその言葉でふっと、過去の記憶を思い出した。
永倉は芹沢暗殺に関わらなかった。それは彼が神道無念流を修め、同門である芹沢に対し少なからず親しみを持っていたからだ。しかしそれがかえって不信感を募らせるきっかけになったのかもしれない。大切な時ほど頼ってもらえなかった…これまですべてに関わってきた総司には分からない、永倉が少しずつ重ねてきた『本当の不満』。
「俺は命を賭してでも、近藤局長を糾弾する。新撰組をより良い方向へ導くために」
その宣言があまりにも強く、鮮明に耳に残る。総司は何も言い返すことができなかった。そして彼を止めるのは自分の役割ではないことを、痛感した。


山南は朝の稽古をしている屯所に戻った。総司から局長、副長に話を通してくれているので特に問題はないはずだが、女のことで朝帰りをするということ自体、真面目な山南にとっては特別なことで、何やら恥ずかしく感じた。
あれから明里は持ち直した。みるみる顔色が良くなり、食事もしっかりと摂った。朝、診察にやって来た医者も驚くほど元気になった明里に驚いていて、「もう大丈夫や」と太鼓判を押してくれた。
ひとまず滋養のあるものを食べさせるように、と山南は手持ちの金を全て女将に渡して屯所に戻った。池田屋から君菊を失ってからずっと胸に抱いていた鬱屈とした気持ちが、見事に晴れやかに無くなっていた。まさに「明り」を灯されたように。
「お帰りなさい」
門番の隊士に声をかけられる。「ああ」と短く返答してそそくさと前川邸に入った。まずは着替えて、近藤たちに帰営の挨拶と礼を述べなければならない、と思った。
そして部屋に戻り、荒れたままの惨状を見て「ああ」と声を漏らした。そういえば永倉に相談されていたことを解決しようと、手持ちの書籍を漁っていたのだということを思い出した。足の踏み場もないような部屋に広がる書物を一冊ずつ拾い上げていく。永倉から持ちかけられた相談はなかなかすぐには解決できないだろう。しかし明里から貰った力のおかげか、根拠はないものの、どうにかなるのではないかという明るい展望を感じていた。
そうしていると、足音が近付いてきた。耳慣れない足音だ。
「山南さん、帰っていたんですね」
「永倉くん…お、おはよう」
顔を出したのは永倉だった。珍客に驚いていると、彼は手にしていた一冊の本を山南に差し出した。
「すみません、昨夜、勝手にお借りしてしまいました」
「あ、ああ…そうなのか。それは構わないよ」
永倉が差し出した本。そうそれは確か部屋を出る間際に読んでいた…
山南は何だか嫌な予感がして、永倉の表情を伺った。彼の眼は、ここが屯所だというのに、何故かまるで戦場に旅立つような力強さを持っていた。
永倉は懐に手を入れて、そこから折りたたんだ紙を取り出した。
「…建白書です」
その一言で、山南は全てを悟った。






239


「――…先生、沖田先生!」
耳元で甲高い声がして、総司は「はっ」と我に返った。
目の前で困惑顔をした平隊士たちの視線が、総司に集まっていた。そういえば朝稽古の途中だったのだと気が付く。
「どうかされたんですか?まさか、また具合が悪いとか…!」
一番隊、山野の悲壮感漂う物言いに、稽古に来ている隊士たちがざわめき、動揺する。みな池田屋のことが思い当たったのだろう。
また病人扱いをされてはたまったものじゃない。総司は慌てて頭を振った。
「そんなわけないでしょう。ちょっと、ぼうっとしていただけですよ、さあ、素振りを…」
「素振りはもう終わりました」
「……じゃあ、試合形式で打ち合いを。島田さん、仕切りをお願いします」
不満そうに顔を顰める山野を無視し、総司は島田に指示を出す。島田は困ったように頷いて、隊士たちもそれぞれいつものように稽古を再開した。
山野はもう一度総司の顔を覗き込み、
「本当に大丈夫なんですね?」
と念を押した。総司が「もちろんです」と頷き返すと、不承不承という顔を隠しきれていなかったが、稽古に戻った。
総司は上座に座り、彼らの打ち合いを眺める。そもそも一番隊には優秀な剣士が揃っているので、島田の指示だけで十分事足りる。だから安心して、任せることができるのだ。
(…どうしたものだろう)
稽古が始まる前から考えていることに、まったく結論が出ない。
建白書を会津に提出するという永倉の本気さと梃子でも動かない頑固さは既に思い知った。だったら、もはや敵だと思って、近藤と土方、そして山南に相談すべきなのだということはわかっていたが、どうしても体が重い。
その先のことを考えると、良い予感は決してしないのだ。近藤は悲しむだろう、と思った。せっかく回復した山南も頭を悩ますだろう。そして土方は、
(土方さんはきっと、身内だからこそ厳しく諌めるだろう…)
局中法度に照らし合わせるなら、永倉の行動は隊への裏切りであり、「士道に背く間敷事」に当たる。
(でも永倉さんにとっての『士道』には背いていない…)
だからこそ、難しい。議論を戦わせてお互いの妥協点を見つけ合えるような方向へ向けば良いのだろうけど。
「…はあ」
総司は肩を落としつつも、膝を立てて立ち上がった。そして稽古の指揮を執る島田の元へ向かい、
「あとは任せます」
と一任した。島田は驚いた顔をしたが、何も問い返さず「わかりました」と答え、道場を出ていく総司を見送った。

総司はその足で、近藤の部屋を訪ねた。
「ん?稽古はどうしたんだ?」
部屋には近藤しかおらず、隣室にも土方の気配はない。総司は「稽古は島田さんに任せました」と言い、障子を閉めた。近藤は不思議そうに総司を見ていたが、総司は構わずに訊ねた。
「土方さんはどこかへお出かけですか?」
「ああ、何だかちょっと出てくるとか言っていたけれど。行き先は聞かなかったなあ」
穏やかに答える近藤の様子から見て、まだ永倉から話は伝わっていないようだ。総司は迷ったが、ひとまず部屋に上がった。
部屋は相変わらず書物に溢れているが、いつもと少し違い一角に荷物がまとめられている。
「もうだいぶご準備は済まれたんですね」
それは江戸へ東下するための準備だ。久々の家族との再会に、近藤はだいぶ前から土産を買い求めて出歩いていた。総司が訊ねると、近藤はその大きな口元を綻ばせた。
「ああ。だが、何を買ったら喜ぶのか、良くわからなくてな…。そう言えばツネに何か買ってやったことがなかったのだと気づいたよ。あれが何を好むのか良くわかなくて、あれやこれやと買ううちに荷物が大きくなりすぎてしまったから、もう少し減らさなければならないといけないな」
頭を掻きつつ笑う近藤に、総司は何だか気が抜けて…そして少し安堵した。
(近藤先生は変わっていない…)
池田屋で手柄を挙げた近藤が浮ついている…永倉は以前そんな風に言っていたけれど、総司からすれば近藤勇という大木は相変わらず目の前に根を張って、大きな背中を見せ続けてくれているように思う。
(やっぱり…言えないな)
本当はすべて暴露して、近藤にどうするべきか訊ねたかった。もちろん永倉が建白書を提出するのはいずれ近藤にも伝わる。しかし、家族との再会を控えて幸せそうに笑う姿を見れば、どうにか永倉を思いとどまらせたいという気持ちが膨らんでしまうのだ。
黙り込んだ総司に気づいているのかいないのか、近藤は「ああ、そうだ」と手を叩いた。
「総司、おミツさんの手紙はちゃんと書いたか?」
「あ…すっかり、忘れていました」
今度は総司は手を叩いた。そう言えば近藤から「書きなさい」と言われていたんだった、と思い出す。近藤は「やれやれ」と苦笑した。
「お前は試衛館のことは気に掛けるくせに、どうも沖田家に懐かない。まるでうちに養子に来たみたいだ」
「あはは、確かに姉はきっと元気だろうとは思いますから、どちらかと言えば周斎先生のお加減の方が心配です」
数日前に、近藤の養父で試衛館前道場主の周斎が身体を壊して寝込んでいるという手紙が送られてきた。近藤よりも一回り体格の小さな大先生だったが、とても身体を壊すような姿を見たことが無かっただけに、総司は酷く心配した。九歳で試衛館にやってきた総司にとって、周斎は父のような祖父のような…血縁よりも近い存在のように感じていた。
「お義父さんなら心配ないさ。少し足を痛めてから身体を動かすことが少なくなったから、身体の調子を崩しているだけだとツネの手紙に書いてあった。俺が江戸に下る頃には元気になっているだろう」
「それならいいんですけど」
「そうに違いないさ」
近藤が断言すれば、そうなのだろう、という気持ちになる。彼はそう言う力を持っている。
「…じゃあさっそく、部屋に戻ります。近藤先生、お邪魔しました」
「ん?もういいのか?」
「はい」
総司は立ち上がり、笑った。
「姉上への手紙は長くなりそうですから」
と。それを聞いて近藤は、満足げに頷いたのだった。



一方、土方は壬生寺を後にした。住職との話が終わった帰り道のことだ。
「土方君」
そこに居たのは意外な人物だった。
「山南さん…」
木陰に佇み、腕を組んで瞑想をしていたらしい山南がこちらにやってきた。どうやら土方を待っていたらしい、と彼の視線でわかった。
「…珍しいな。あんたが俺を待っているなんて」
「そうだね。しかし、屯所ではできない相談があるんだ」
山南は単刀直入に用件を述べた。いつもくどい言い回しをする彼にしてはやはり珍しい。余程、切羽詰まっている何かを抱えているのだろう、と土方は察することができた。
「誰にも聞かれたくない話か?」
「…ああ、そうだね。できれば近藤局長のお耳には入れたくない……無理な話かもしれないが」
近藤の名前が出た時点で、土方は「わかった」と応じた。
「この先に俺の休息所がある。そこは局長が訊ねてくることもないし、世話役の婆さんがいるから人払いもできる」
「…いいのかい?」
山南は不安そうに土方の様子を窺った。土方が言う「休息所」の意味を山南は知っている。土方も隠すようなことはしなかったし、その必要はないと思っていたからだ。
「ああ、総司の奴も来ねえよ」
土方がそう言うと、何故か山南が少し慌てたように「そうか」と頭を掻いた。
そうして二人は連れ立って歩き出した。
少し二人の距離の開いたぎこちない道のりは、土方にいつもよりも休息所を遠く感じさせた。息が詰まるような緊張感は、山南が酷く思い悩んでいる顔をしているせいだ。
(…確か明里とかいう女と、関係を修復した…と総司は言っていたが)
総司は嬉しそうに近藤と土方に報告したのは昨日のことだ。だから山南が帰営したのは今朝のことのはずで、だったらこんなに暗い表情になるわけはないのだが。
「…そう言えば、土方くんと二人で話をするのは随分久方ぶりのような気がするね」
歩調の合わない二人。ぽつりと呟いた声。土方は「ああ」と短く返答した。
「私はどうも…君には迷惑ばかりをかけているような気がするよ」
それは山南自身の体調のことを言っているのか、それとも池田屋のことを言っているのか、それは良くわからない。しかし土方はそれを「迷惑」だと感じたことは、一度もない。
「それはお互い様だろう」
だからそれは本音だった。迷惑をかけているといえば、いつも土方の意見に納得して合わせてくれているのは山南の方だ。彼はいつも最終的には言葉を飲み込んで受け入れる。
「お互い様…か」
少し寂しげに、しかし嬉しそうに笑う山南の姿に、土方は胸騒ぎを覚えた。
(何故だ…?)
ざわざわと胸が落ち着かない。その理由や原因がわからず、土方は戸惑いを覚える。
(こういうのを知っている…)
土方は歩調を速めた。
その悪い予感から、逃れるように。





240


土方が山南を休息所に招き入れると、ちょうど世話係の婆さんが掃除を終えた所だった。長年、大店で働いていた彼女は雰囲気を察し、そそくさと家を出ていく準備を進めつつ、
「うちの畑で取れましたから、どうぞ召し上がり下さい」
と秋野菜の漬物を切って土方と山南に渡した。そしてそのまま別れの挨拶をして、家を出ていく。年輪を感じさせる重厚な雰囲気と、しかし気遣いを忘れない姿勢に、山南が呆然としていると、土方は部屋にある楊枝を持って来て手渡した。
「いやあ…良い家だね」
楊枝を受け取りつつ、山南は感嘆する。
世話係の彼女の雰囲気もそうだが、丁寧に世話をされた庭や吹き込む風の涼しさが喧騒を忘れさせてくる。小さな間取りの家なのだが、どこか安堵感がある。
「総司もそう言ってたな。試衛館とは違うけれど、これはこれでいいとか。さっきの婆さんにもすっかり懐いて評判の菓子なんかを差し入れてもらっているらしい」
「ははは。沖田君がそこの縁側で横になっているのが目に浮かぶようだよ」
土方がさらりとだす「総司」と言う名前に、山南はいちいちどきりとさせられてしまう。しかし土方にとっては何のこともないのか特に変わった様子はない。(意識し過ぎだろうか)
そんなことを思いつつ、山南は手にした楊枝で、茄子の漬物を口に運んだ。茄子そのものとは違う、また控えめな塩加減は絶品だった。
「…それで、話と言うのは?」
舌鼓を打っていると、土方が突然切り出した。
山南としてはもう少し彼との雑談を続けていたかった気もしたが、のんびりしている時間はない。楊枝を盆の端に置いた。
「実は…永倉くんのことだ」
「永倉か…」
山南が切り出したにも関わらず、土方は「またか」と言うような表情をしていた。
「もしかして既に何か聞いているのかい?」
「いや、どうやら永倉が近藤さんや俺に不満があるだろうなというのは小耳にはさんでいる。あんたのところに陳情に行ったんじゃないのか」
「…そこまで分かっているか」
新撰組の監察は副長の直属の部下となっている。彼がその気になれば隊内の動きなど、すぐに分かってしまう。
「池田屋の後から…いや、報奨金の話が出てからかな。私は結果を見た上の配分で間違っていないと考えている。一番危険を冒した近藤局長、沖田君、永倉君、藤堂君…彼らが多く貰うというのは当然のことだ」
「永倉も自分が一番多く貰っているのだから、納得してくれればいいものを…」
土方は胡坐をかき、「ふう」と息を吐いた。とても気怠そうだ。しかし山南は食い下がった。
「永倉君は自分の為に憤慨しているのではないよ。報奨金は池田屋の件のみで上下の差があった。しかしその後の残党狩りや蛤御門の一件でもみんな、命を張った隊士はいくらでもいる。なのに優劣をつけて自分が多く報奨金を受け取ってしまったことを受け入れられないんだ」
「受け入れてもらわねえと困る」
山南の取り成しも、土方にかかれば一刀両断だった。
「総司にも同じことを言った。あいつは金に興味がないし、必要ないからいらないのだとぶつぶつ言っていたが、受け取るのもを仕事だと言ったら素直に受け取った。つまりはそういうことなんだよ」
「…実力主義かい?」
「ああ、新撰組は実力主義だ。平等に報奨金を分け与えて仲良しごっこをする場所じゃねえ。毎日、命を賭けて生き残った奴がちゃんとした評価をもらう。それが当然だ」
語気を荒くした土方の言葉を、山南は静かに受け取った。
「…そういうと、思っていた」
もちろん、山南が土方を説得しきれないことは分かっていた。だから土方の指摘は甘んじて受け取るつもりだったのだ。
「あんたは違うって言うのか?」
「正直、私は土方くんのいうことが正しいと思う。いや、正しいなんてものはわからない。…正しいと言うよりも現実的だと考えている」
過度な優劣や上下の差は良くないが、池田屋の事に限れば、斬り込んだ隊士と、屯所固めで残った隊士が平等に扱われないのは当然だ。
山南が同意したので、土方も少し肩の力を抜いたようだ。そして「ふん」と鼻で笑う。
「だったらこの会話も無意味だろうに…。あんたも律儀な性格だな」
「…総長という役目を果たそうと思ってね」
律儀でもなければ親切でもない。永倉の陳情をきちんと土方に伝える。これが隊内に重きを置いた総長の仕事だと、山南は思っている。
「しかし、土方君。池田屋の一件に限らず隊内に不満を持つ隊士がいることは確かだ」
「そんなのは今更なことだ」
「…いいや今更でも、それは大きなうねりになる」
曖昧な山南の物言いに、土方が眉間に皺を寄せた。こういう抽象的な物言いを土方が好いていないことは知っていたが、山南としても簡単に口に出せるようなことではないのだ。
山南は大きく息を吐いて、本題に入る。
「実は…永倉君たちが会津藩へ建白書の提出を目論んでいる」
「な…っ?」
これはさすがに土方の耳には入っていなかったようだ。目を見開き、彼にしては珍しく動揺を隠せない様子だった。
「建白書…だと。何でそんな大ごとになるんだ」
「すまない。それについては私の配慮不足だ」
山南は姿勢を改めて、その場で頭を下げた。
「永倉君からの訴えを聞いて、私なりに何かできないかと書物を漁っていた。すると建白書の事例があって…しかし私はそこで急用で外出したんだ。永倉君はその後私の部屋を訪ねて来て、おそらくその出しっぱなしだった書物に目を通したのだと思う」
「…」
「とはいえ、これはただの言い訳だ。私の浅知恵のせいで話が大きくなってしまった。申し訳ない」
山南はそれから詳細な事情を土方へ説明した。
永倉が山南の部屋を訪ねて来て、建白書を差し出したとき山南はもちろん全力で留めた。
『永倉君!君の考えはわかるが、会津まで巻き込むようなことはない。話が大きくなればなるほど犠牲も付き纏う。この間の柴くんのことを忘れてはいないだろう?!』
しかし永倉は首を横に振った。
『柴のようになることも覚悟の上です。それにもう原田と斉藤の署名もある。これから平隊士にも声をかけていくつもりです』
『永倉君…!』
山南の静止を振り切って去っていく永倉。山南にはどうにも止めることはできなかった。
話を聞き終わると、土方は不機嫌そうに顔をしかめたが
「頭をあげてくれ」
とため息交じりに山南へ告げた。
「あんたが謝るようなことじゃない。結果は同じだ」
「…そうかもしれないが…」
「だったらこれ以上は無用だ」
無駄を嫌う、土方らしいコメントだった。山南は言われるままに頭を上げる。
「話が進んでいるのだからあとは止めるだけだ。それにしても原田と、斉藤か…」
土方は肘をついて更に眉間に皺を寄せた。おそらく土方も同じ感想を抱いていた。
「原田君はおそらく永倉君との友誼を重んじての署名だろう。無茶なことだが、彼ならやりかねないことだ。しかし…斉藤君は私も予期していなかった」
山南のなかで、総司と同室である彼は、どちらかと言えば土方の方へ与するものだとばかり思っていた。むしろ真面目な永倉や、お調子者の原田とは相容れない性格なのだろうとばかり決めつけていた。だから山南にとってこの署名は予想外だったのだ。
しかし土方はそれ以上何も言わず
「山南さん、この件は俺に預けてくれ」
と言った。
「全て俺が対応する」
きっぱりと断言した土方は、有無を言わさない物言いだった。しかし「鬼の副長」と揶揄される彼の片鱗が見えた気がして、山南は素直に引き下がることができなかった。
「自分で話を大きくしておきながら、こんなことを言うのは何だが…君に任せるのに、二つ条件があるんだ」
「条件?」
土方はあからさまに嫌な顔をしたが、山南は続けた。
「まずは彼らの命だ。局中法度『士道に背く間敷事』に照らし合わせるなら、彼らは既に規則違反を犯していると取られても仕方ない。…土方君は、永倉君たちをどうするつもりなんだ?」
山南の中で疑念が払しょくできない。
芹沢を殺したときのように、新見を切腹させた時のように…あんな悲劇を繰り返すのかと。
(もし彼らを切腹させるようなことになるなら…)
三人分まで自分が責任をとるつもりだ。しかしそんな山南の考えも、決心も、土方にはお見通しだったのだろう。苦い顔をしつつも、
「…三人を切腹にはしない」
と答えた。
「そもそも助勤が三人も死ねば新撰組は立ち行かなくなる。永倉は融通が利かないが、斉藤や総司と剣では並ぶ。原田はあの通りのお調子者だが、あいつのおかげで助かっていることもあるんだ。三人も失って喜ぶのは反幕派の奴らだけだ」
「土方君…」
土方の言葉を聞いて、山南は安堵した。冷静な土方だからこそ、そのように返答してくれるのはわかっていたが、それでもその言葉を聞けば安心だ。
しかし土方は表情を崩さず「で?」ともう一つの条件を促した。山南は躊躇いつつ答えた。
「…永倉君は近藤局長を糾弾したいと言っていたが、それは建前だと私は思う。池田屋以降局長の立場はただ単なる一介の浪人とは別のものになった。外見の武士のように振る舞う姿が気に食わないと、そう言う風に思う者もいるだろうが、しかし頭のなかでは隊士たちはそれを理解してくれていると思う。局長の懐の深さは、誰よりも試衛館の食客たちが知っていることだ」
「回りくどいな。はっきり言ってくれ」
山南の遠回しな物言いを、土方は面倒そうに受け取った。
「…おそらく、永倉君は君のやり方が気に食わないのだと思う」
躊躇われることだが、山南は真っ直ぐに土方を見据えた。
「近藤局長を表に立たせ、君はその陰で働いてきた。それは私にはできないし、君にしかできないことだと、近くにいる私は思う。しかし傍目から見れば近藤局長を傀儡のように扱っているのではないかと…」
「馬鹿な」
土方は吐き捨てるように言った。心底心外そうにしている土方に、山南は首を横に振った。
「馬鹿げたことだが、そう言う風に思う人間もいるということだ。特に最近入隊した隊士のなかでは、そういう噂も立っている。そこに永倉君の『建白書』の話がいけばどうなることか。だから、私は永倉君を早めに納得させて、この騒動を鎮火させたいと思う」
「どうやって」
「…監察方を、君の手元から私の手元に移してくれないか?」
山南の申し出に、土方の動作が一瞬すべて止まった。
「…何を突然」
「先日の隊編成で、一番隊、二番隊…すべての部隊が君の手元に収まった。この上、監察方まで君の指示で動くのならば、実質的な指導者は土方くんということになる。そんなことは誰でもわかる明白なことだ。それが私にとって不満というわけではない。ただ、権力の集中は良くない」
山南の指摘に土方は沈黙した。
「君が総長という役目に、屯所に重きを置いた隊内の統率という意味を込めてくれるなら、監察方を私の手元に置いてくれ。そうすれば権力は二分化され、永倉君も納得してくれるはずだ」
これが第二の条件だった。一番隊から十番隊の指揮を分散化させてしまっては、隊としての機能が落ちてしまう。だったらせめて独立した監察方の指揮を山南に委ねてくれれば良い。土方に集まった権力を、山南が少しでも請け負うことを告げれば、永倉も納得して引き下がってくれるだろう。何だったらその条件を持って永倉を説得してみせる。山南にはそう言い切るだけの自信があった。
しかし土方は、沈黙したまま何も答えない。手元に遊ばせたままだった爪楊枝を、茄子の漬物に突き刺した。
「…土方君?」
「山南さん。それは無理な相談だ」
土方は茄子を口へ放り込む。まるで取りつく島もない様子だったが、山南は食い下がった。
「どうしてだ。監察方のもたらす情報については、君と連携を取ってその都度共有すればいい。君の負担だって軽く…」
「あんたには荷が重い」
「そんなことはない。もう体調だって大分良いし、君にばかり仕事や責任を押し付けるわけにはいかない」
山南の説得を右から左に聞き流す様に、彼は茄子の漬物を、飲み込んだ。
「あんたにも、近藤さんにも…無理だ。適材適所というのなら、この仕事は誰にも任せられない」
「…しかし、土方君。それでは君がいつまでも悪役になってしまう」
「それこそ、今更だろう」
山南の心からの気遣いも、土方の不敵な微笑みに打ち消される。それは山南を少しぞくりとさせた。
「俺は近藤先生や、山南さん、総司…皆が歩んでいる理想を…武士道を歩んでいるんじゃない。俺だけは別の道を歩むと決めている」
「別の…道…?」
それは一体どこへつながっている道なのかと。そう問いただしたところで、土方は答えてくれないだろう。
『自分は武士道を歩んでいるのではないって…あれは、私たちとは違う道を歩んでいるのだと言うことなんでしょうか』
山南の脳裏で不意に蘇ったのは、寂しそうにしていた総司の声色だった。




解説
なし
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