わらべうた






241


山南が土方の休息所を出たのは、その日の夕方のことだった。
あれから何度も「監察方の委譲」を望んだ山南だが、土方は頑として譲らなかった。確かに土方が言うとおり、山南には向かない仕事かもしれない。裏工作のような真似は苦手だし、隠し事をいくつも抱えられるほど、精神的にも強くはない。しかし、いざとなれば身体を壊してでもその役目を背負う覚悟はある。頼りないかもしれないが、それが総長の役目だと思っていた。だが、土方に言わせればそれも「無駄」だそうで
「他の何の仕事を任せたとしても、監察方だけは任せられない」
と固持されてしまった。
どちらにしても局長の許可が必要な話であるし、昨日今日でまとまる話ではない、と山南は取りあえず諦めてお暇することにした。
土方は丁重にも玄関まで見送ってくれたが、帰り際、山南へ告げた。
「くれぐれも余計なことはしてくれるな。永倉を焚き付けるような真似も、近藤さんを心配させるような真似も。これは内内に解決する」
山南は「どうやって」と訊ねた。しかし土方はそれには答えてくれず
「あんたが心配する様なことじゃない。いいから任せてくれ」
とぶっきらぼうに返してきて、話は終わった。
山南は腕を組んで、屯所へ歩き出す。
(余計なこと…か)
そもそもここまで話が大きくなってしまった責任の一端が自分にあるかと思うと、確かにこれ以上の手出しは逆に山南の立場を危うくする。保身に走るなら、無関係を装うのが良く、土方を邪魔しない態度としても正しいのだろう。
「…頼りがいが無いのか…」
苦笑しながら、ため息が出た。
あんたには任せられない。
それはまるで針のような、言葉だと思った。
「あっ、山南さん!」
考え事をしながら歩いていると、ふと声を掛けられた。
「沖田くん」
手を振りながら総司がこちらへ駆け寄ってきた。
「奇遇ですね、こんなところでお会いするなんて」
「あ、ああ…ちょっと、用事があってね」
土方の休息所に行っていた…と素直にそういうのは何だか躊躇われて、曖昧に誤魔化す。総司は「そうですか」とあっさり聞き流す。
「沖田くんはどこへ行くんだい。もう夜も更けるのだから屯所に帰ったほうがいいんじゃないか?」
「ふふ、山南さんはやっぱり私を子ども扱いするんですね」
「ああ、いやそういうつもりじゃあ…」
ないのだけれど、と山南は苦笑した。しかし彼に対してだけ、何故か子ども扱いをしてしまうのは試衛館の時からのくせのようなものだ。
「ちゃんと提灯も持っていますし、大丈夫です。山南さんこそ、顔色が悪いですよ。まだ体調が万全というわけではないのですから、養生して早く帰ってください」
「はは…そうだね、そうするよ」
抗わず頷くと、総司は山南に手にしていた提灯を手渡した。
「屯所に着くころには暗くなっていますから、これ使ってください」
「いや、でも沖田くんはどうするんだい?」
「きっと土方さんの家にもあると思いますから、それを使いますよ」
総司は淡々とそう告げると、「じゃあ」とあっさりと別れて歩いて行った。どうやら総司の目的地も同じらしい、と山南はようやく気が付く。
(彼を子ども扱いするのは私だけになってしまったみたいだ…)
駆けていくその背中を見送りつつ、山南は笑った。総司との会話で、身体の緊張が少しほぐれたのは、気のせいではないはずだ。



「さっき、山南さんに会いましたよ」
休息所に着くなり、総司は土方に報告した。土方は「そうか」と言うだけで特に感想はなかったようだ。
「あ、おいしそう」
総司は部屋に出ていた漬物を口へ放り込む。程よい塩加減は京風だったが、京都へ来てからはすっかり馴染みの味となっていた。
「で、何の用だよ」
いつもはどちらかと言えば歓迎してくれる土方だが、今日はどうやら不機嫌なようで眉間に皺を寄せていた。休息所だというのに、どうやら考え事があるらしい。ここで茶化すような真似をすればさらに機嫌を損ねることになりそうなので、総司は居住まいを正して単刀直入に話を切り出した。
「永倉さんの建白書の件ですけど」
「……」
流石の土方も驚いたようだ。
「…何で、お前が知っているんだ」
「偶然です。朝一番に、原田さんと話しているうちにそんな話になって…永倉さんからは、本気だから土方さんに告げ口をしても構わないと言われました。でも屯所にいないから、わざわざここに来たというわけです」
「……」
「土方さんも知っていたんですね」
監察は土方の手中なのだから、総司にとって土方が知っていても不思議はない。
しかし、土方は深い、深いため息をついて、肘掛けに身体を預けた。
「…時間に猶予が無いな。お前が知っているってことは、そこそこ隊士にも話が行っているってことか…」
「新入隊士なら、永倉さんに同調して血判をする者もいるのではないですかね。まさか会津へ建白書を出すのを、黙って見守るわけじゃないですよね」
「…」
土方は答えなかった。もし、そんなことになれば痛手を負うのは間違いない。総司は心配そうに土方の表情を窺ったが、その表情は読み取れない。問い詰めたところで土方は答えてくれないだろう。そこで、ここに来た一番の目的を果たすことにした。
「…斉藤さんから、伝言です」
「斉藤?」
「飼い主の手を噛むつもりはない、と」
土方は手のひらに顎を乗せ、しばし視線を外した。そして「それだけか?」と総司に訊ねた。
「それだけです。くれぐれも土方さんにだけ伝えてほしいと言われました」
「そうか…」
総司の目には、少しだけ土方の機嫌が和らいだように見えた。
「斉藤さんも建白書に血判をしているんですよね。それと何か関係が…」
「これ以上の詮索は無用だ」
土方はぴしゃりと総司の言い分を却下した。総司は唇を噛んだ。
斉藤の言わんとした意味を総司なりに解釈するなら、飼い主とは土方のことで、斉藤は土方の意に背くつもりが無いということ。斉藤は試衛館一派からは一歩離れたような独特の立場だが、土方は重用していた。今回、署名をしたのもつまりは永倉の様子を探るという意味があるということになる。
「土方さんはどうするつもりなんですか?近藤先生の江戸行きも近いし、建白書を会津に提出するということなら、近藤先生のお耳に入るのは時間の問題でしょう。だったら、土方さんの方から先手を打っておいた方が…」
「うるせえな、んなことはわかってんだよ」
土方は剣幕を鋭くしたが、総司は引き下がらなかった。
「私がうるさいとか、そういう問題じゃないでしょう。知ってしまった以上、私にだって看過できないし、関わりがあることです」
「お前は知らないふりをしていればいいだろう。いいから、お前もお前の仕事をしてろ!」
土方は面倒そうに舌打ちしつつ、怒鳴る。声色の大きさに、総司はびくと肩を揺らせたが、それでも食い下がった。
「もし、建白書が新撰組の為に、近藤先生の為にならないなら、私の『仕事』は永倉さんを斬ることです!」
「…っ?」
流石に土方にも動揺が走る。しかし冗談などではない、総司は本気だった。
「長年の同志だろうと、同じ釜の飯を食べた友人だろうと、永倉さんが新撰組を潰すつもりなら私は私の仕事をします。永倉さんを斬って、原田さんも斬ります。斉藤さんが裏切ったのなら、斉藤さんも斬ります」
「総司…」
「もちろん、無事では済まないだろうという覚悟もしています。でも私は…」
「もういい!」
それ以上は言うな、と土方が止めた。そして土方は頭を掻いて「くそっ」と毒づく。総司は少し間をおいて、続けた。
「永倉さんにも同じことを言いました。そうしたら、それが正しいと。永倉さんはそう言いました」
「……そうか」
その総司と永倉とのやり取りで、土方は思い知ったはずだ。永倉は本気だ。どれだけ真剣で、どれだけ命を賭けて、どれだけ思いつめているのか。
「取りあえず…考えさせてくれ。最良で、最善の手段を考える」
「…誰も死なない?」
「死なせない。お前が斬る必要もない」
その返答に、総司はようやく胸をなでおろすことができた。永倉や原田を斬る――それはできないことではないが、決して進んでやりたいことではない。むしろ口にしただけで、手が震えるほどの、恐怖を感じたからだ。
考えさせてくれ、と言ったからには、一人になりたいと解釈するべきだろう。総司は立ち上がり、刀を帯びた。
そして帰り際に訊ねた。
「…さっき、山南さん、ここに来たんじゃないですか?」
「……」
土方が急にその口を結び、総司から視線を外した。
「だったら…なんだ」
「だから、だったんですね。だから、あんな寂しそうな顔をしていたんだ…」
そうつぶやいて、総司は家を出た。






242


それから数日。総司は近藤から任されている馬術調練の為、世話係の島田と山野とともに壬生寺に足を延ばしていた。文字通りのじゃじゃ馬っぷりに二人は手を焼いているようだが、総司の方はだんだんと愛着が沸いてきたところだ。こうなったらなんとしても乗りこなしてやろう心に決めた。
一方で、永倉が先頭となって会津藩に提出する建白書の方は、表沙汰にはなっていないものの、隊内で話が広まり、署名の数は少ないものの、賛同する者が集まっているのだと山野からこっそり聞いた。
「僕には信じられません。近藤先生は局長で僕たちの主君も同じです。だからそんな局長を糾弾するなんて!」
憤る山野を、総司は「まあまあ」と慰める。気持ちは同じだが、誰もが近藤に心酔し部下であることに恭順しているわけではない。「同志」なのだから。
しかしそれでは山野の気が収まらないようで
「ちゃんと聞いてください!隊の存続がかかっているんですからね!」
と説教されてしまった。総司としては、土方に「任せろ」と言われてしまったので、身動きが取れないのだ。
総司は「はいはい」と山野の言葉を流し、島田の助けを借りつつ「よっ」と掛け声をかけながら馬に乗った。ようやく馬の方も総司を認めだしたようで、乗せるまでは乗せてくれるようになった。
しかしまだ、山野の愚痴は続いていた。
「僕が聞いた噂では、これは永倉先生の先導ではなく、実は裏で山南総長が暗躍しているんじゃないかなんて言われているんです。建白書なんて気の利いたことを永倉先生たちが思い浮かぶはずはないと。だから、それが本当だとしたらそれは土方副長への対抗心で…」
「山野君」
馬上から、総司は山野の言葉を止めた。
「隊内でもめ事が起きて、一番喜ぶのは誰だと思いますか?」
「…それは、討幕派の連中ですが…」
「わかっているなら、外でそういう話はおやめなさい。誰が聞いているとも知れないのだから」
珍しく厳しい物言いをした総司に、山野は少し驚いたようだ。しかし聡明な彼は「申し訳ございません」とすぐに頭を下げて己の軽率さを認めた。すると島田がやって来て、彼の肩を軽く叩く。
「こういうことは自然の流れに任せるしかないんだ。人の噂も七十五日というだろう」
「…はい」
「まあ、そういうことですよ」
総司は微笑んで山野に告げる。山野はなおも心配そうな顔をしていたが、「わかりました」ともう一度頷いた。
(七十五日か…)
島田の言葉を反芻し、総司は内心苦笑した。
(七十五日もかかると困るんだけどなあ…)
そうしていると、馬が突然声を上げて暴れ出した。総司が慌ててバランスを取り、島田が「どうどう!」と叫びながら馬を制す。山野がすかさず餌の残飯を差し出すと、馬はおとなしくなり、食べ始めた。
総司は馬から降り、むしゃくしゃと残飯を貪る姿に笑った。
「食いしん坊なんですね。原田さんみたいだ」
「ずいぶん体格が良くなりました。立派な足をもっているのでそこらの馬よりは早く走りそうですよ」
山野の感想に、総司も「確かに」と同意する。
「早く乗りこなせるようにしないと。大きくなってから踏んづけられるのは痛そうですからねえ」
「そういえば沖田先生、まだこいつの名前が決まっていないんですよ」
島田が縄を掛けながら、「決めてやってください」と言った。確かにいまは「この馬」や「こいつ」なんてそれぞれが呼んでいて、名前もなく不憫ではある。しかし今まで名付けの経験のない総司は「うーん」と唸った。
「えー…どうしようかな。何も思いつかないや。近藤先生に相談してみます」
「はい。きっとこいつも喜ぶと思います」
島田が嬉しそうに笑った。


総司たちが馬術訓練に取り組む頃、近藤は渋い顔で土方の話を聞いていた。旅支度を終え、後は出立を待つだけだった近藤だが、話を聞くや否や
「…少し出立は遅らせよう」
と決めた。土方は「それには及ばない」と出立を促したが、
「こういうことを疎かにはできない」
と局長が頑なに言うので、そうすることにした。
「今のところ、建白書に署名しているのは永倉、原田、斉藤、葛山だ。建白書の内容は近藤先生に改めてもらいたい五箇条だと聞いている」
「その五箇条というのは…?」
「…まあ、同志を同志として扱わず、大仰な振る舞いをしている…そんなところだ」
近藤の質問に対して、土方は曖昧に誤魔化した。永倉の建白書にはもっと強い口調の文言が書かれているのだが、それは近藤に充てたメッセージではないということは重々わかっていた。だから近藤をむやみに残念がらせる必要はない。
土方は深く息を吐いて
「…悪い、かっちゃん」
と謝った。近藤は目を丸くして驚いた。
「ん?なにがだ」
「…こんなことになったのは俺のせいだ。永倉は俺のやることが気に食わない。それをかっちゃんにぶつけているだけなんだ。かっちゃんは何も悪くない」
丸く収めるのも自分の仕事だと思っていたのに、力が及ばなかったのだ、と土方は肩を落とした。結局、尻拭いをさせるはめになる近藤には申し訳ない気持ちしかない。しかし、近藤は「なんだそんなことか」とあっけらかんと笑った。
「いつもお前を頼ってばかりだったんだから、たまには働かせてもらうよ。歳が何を間違ったとしても、それは全て俺の為してきたことだ。だからそれがうまくいかなかったときは、それこそ局長の出番だ」
「…かっちゃん」
「それに永倉君は長年の同志じゃないか。きっと話せばわかるよ」
近藤の言うことは楽観的だとも言える。しかしそれ以上にこの男の懐は大きい。土方はまざまざとそれを見せつけられた気がして、苦笑した。
(かっちゃんがこういう性格だということは…永倉も、わかっているんだろうがな…)
「…じゃあ、かっちゃんに力になってもらう。ひとまずは会津に話を通しておこうとおもう」
「隊内で片づけるんじゃないのか?」
わざわざ隊内の争いを外に持ち出す必要はない。無駄を嫌う土方ならそう言いそうなものだが、と近藤は思ったのだろう。しかし土方は違った。
「…隊内で片づける方が、あいつらを切腹にしてしまうだろう。俺の手で」
「歳…」
建白書を提出したその時点で、局中法度に違反する。「士道に背く間敷事」「私の闘争を許さず」…背けば切腹。土方はその法度を曲げることができないことを、誰よりも身に染みて理解していた。山南もそれを危惧していた。だからこそ、いっそ会津に任せる方がまだ良いと判断したのだ。
「それに火種は小さいうちに根こそぎ無くしておく方がいい。隊内で収めてしまえば燻り続けてしまう。だったらいっそ大火事にして水をかけた方が灰になって終わる」
「…何だか綱渡りの荒療治だなあ」
近藤は呑気な感想を呟く。土方は無視して続けた。
「まずは公用方の小林様に話をして、それから会津候にご相談させて頂く。俺が行ってはまた永倉たちの反感を買うだろうから、そこをかっちゃんが交渉をしてくれ」
「わかった」
「出来るだけ大ごとにならないように済ませたい。柴の件もあって、会津はこういう問題には敏感になっているはずだ」
池田屋のあとの痛ましい事件を思い出し、近藤は眉間に皺を寄せた。そしてしばらく沈黙して
「なあ、歳…」
と言い出した。
「何だよ」
穏やかに微笑みつつ、近藤は
「俺は、永倉君たちが望むなら、局長をやめてもいいと思っているんだが」
「な…っ」
何を言ってるんだと、土方はその言葉さえ継げなかった。冗談にしては過ぎるだろう、と思ったが、近藤の表情は真剣だ。
「俺は一介の平隊士になっても構わないんだ。新撰組にとってそのほうが良いなら…彼らが死なないで済むなら、そのほうが良い」
「かっちゃん」
「まあ…お前は許してくれないだろうがなあ」
剣幕を鋭くした土方に対して、近藤ははは、とその大きな口で笑った。
「だからそれは最終手段にとっておく。だがもし切腹なんて話になったら…俺は局長を降りる。それを了承しておいてくれ」
「本気か?」
「…ああ、本気だ」
こうと決めたら梃子でも動かない。その性格は総司も同じだ。むしろ総司が、近藤から譲り受けたのだろうが。
(だったら…仕方ねえ)
昔からよく知っているのだ。こうなったらこっちが折れてやるしかないことを。頑固な師弟コンビはいつもそうなのだ。
土方は頷いて返した。
「…わかった。じゃあその時は俺も副長をやめる。一蓮托生だ」
「よし、そうしよう」
軽い口調で返してきて、やはりこんな時でも、近藤は朗らかに笑った。つられて、土方も少し笑った。




243


前川邸屯所に雇われている小者と共に、島田は朝餉の支度をしていた。当初は隊士が入れ替わりで当番を勤めていたが、池田屋以来は小者に任せきりでもいいとのお達しがあった。しかし、元来早起きである島田は、朝からせわしなく働く小者たちを見ていると居てもたってもいられず、こうして時折手伝うことにしていた。
「先生、これを頼みます」
島田より一回り年の違う小者の男が、水ナスの漬けたものを島田に渡した。
「先生はやめてくれ」
水ナスを受け取りつつ、島田は苦笑した。「先生」なんて柄ではないことは自分が良く知っていたからだ。しかしいくら頼んでも小者たちは「先生」と呼ぶ。その方が当たり障りないからだろう。
島田は包丁を握り、水ナスをまな板に置いた。
(…実際、こんなことをしている場合ではないのだが)
一口大に切りつつ、島田はため息をついた。
永倉が先導する建白書の話は瞬く間に隊内に広まった。近藤局長の乱暴な振る舞いを正す趣旨のそれに、署名すべきかどうか…署名したいが報復を恐れるもの、そもそも永倉を批判する者、無関心でありたい隊士…様々な思惑が交錯して、落ち着かない日々が続いていた。
島田からすれば、近藤局長へ意見したいことなど思いつきもしないことで、署名に参加するなど以ての外だった。それにもし署名なんかすれば、別の問題が起こってしまう。
(山野に怒られるのだけは…困る)
近藤たちを心酔する山野は今回の騒動に怒り心頭だ。島田と総司がどうにか宥めているので、表立っては何も言わないが、二人きりになると良く愚痴をこぼしていた。
(俺にだけは心を許してるってことだよな…)
自然と、口元が緩んだ。その時
「いてっ」
水ナスの丸みで包丁が滑り、左手の親指に刃先が掠めた。痛みは一瞬のことだったが、じわじわと血が溢れてきて、どうやら深く切ったようだと理解した。
「こりゃいけねえ、先生」
「ああ、ちょっと頼む」
小者に水ナスを頼んで、島田は台所を離れた。これくらいの傷は大したことはないが、台所にはふさわしくないだろう。
小走りに大部屋へ向かおうとすると
「よっ 島田、おはようさん」
と、原田と出会った。
「原田先生、おはようございます!」
島田はいつもの習慣で丁寧に頭を下げて挨拶をした。原田は特に気にする様子もなく「ん?どうしたんだ」と言いつつ島田の左手を見た。
「不覚にも少し切ってしまって」
情けないことです、と島田が頭を掻くと、原田がにやりと笑った。
「そりゃいけねえ。こっちに来いよ」
「え?」
原田は島田の手を強引に引いた。
(あれ…そういえば、何で原田先生がこっちに?)
原田たち組長は八木邸で寝泊まりをしている。目と鼻の先の距離ではあるが、朝早くのこんな時間に原田がここにいるというのは、何だか違和感がある気がした。しかし上司の命令に逆らうことはできず、島田は腕を引かれるがままに、原田と共に壬生寺の方へやってきた。
「あ、あの先生…?」
てっきり手当でもしてもらえるのかと思いきや、たどり着いた壬生寺には永倉と数名の隊士が居た。
「連れてきたぜ」
「ああ」
原田が満足げにそう言いつつ、島田の左手を取った。そして永倉が差し出した一枚の紙に、怪我をした左手親指を押し付けさせた。
「え?え?えええ?」
状況を把握できないままで島田は困惑したが、よくよくみると永倉が持っていたのは建白書だ。そしてなぜかそこに島田の名前があり、その下に今の指の型がついてしまった。と、いうことは。
「お前も付き合えよな!」
…島田は唖然とした。どうやら無関係でいたいと思っていたはずのこの騒動に、自分がまきこまれてしまったと気が付いたからだ。


「ほんっと、馬鹿です!大馬鹿ですっ!」
いつも礼儀正しい山野にはしては珍しく、先輩隊士を罵倒する姿に、総司は苦笑した。
朝餉を食べ終わる頃、山野が血相を変えて「お話があります」と総司を連れ出した。深刻な表情なので一体、何が起こったのかと、総司も上司としてハラハラしたのだが、彼から聞かされたのは、島田が建白書に署名したということだった。
「建白書には既に名前が書いてあって、永倉先生か原田先生に騙されたのだと言っていました」
「でも手が違うでしょう」
「書いたのは葛山さんです」
山野は苛立って答えた。
葛山は平隊士だが剣よりも達筆で知られ、良く山南の代筆を勤めたりしていた。
「字が達筆だけじゃなく、まるでその人が書いたように真似て字を書くことも得意だそうです。本当に腹立たしいです!」
山野は吐き捨てるように声を上げたが、総司は「まあまあ」と宥めた。
「でも、島田さんの意思じゃないんでしょう。経緯を話せば、近藤先生や土方さんもわかってくれると思いますよ」
「それは、もちろん近藤先生や土方先生は懐の深い方々ですから僕もそう思います。でも僕が何より腹立たしいのは、そんな間抜けな罠にはまった島田先輩なんです!」
「ははは…」
山野は間抜けと言ったが、総司は彼の人の好さだろうと内心思った。そんな罠にはまらなくても、頼まれれば署名してしまいそうだ。
と、そんなことを言ったら山野の怒りに油を注ぐのと同じなので心にとどめておく。
「まあ、ひとまず私から土方さんに話しておきますから、山野君は安心しておいてください。それから、そんなに島田さんを叱らないであげてくださいよ」
「…沖田先生がそうおっしゃるなら、そうしますが…」
山野は不服そうに口を尖らせたが、総司は話を切り上げた。
「じゃあ、早速行ってきますから、山野君は馬術調練の準備を宜しくお願いします」
「わかりました」
総司の指示に、山野は素直に従って「ありがとうございます」と頭を下げた。
(何だかんだで、島田さんの事が心配なんだろうなあ…)
先輩を想う後輩の優しさを噛みしめつつ、総司は少し早足で前川邸へ向かったのだった。


前川邸へ向かうと、ちょうど部屋に土方が居た。忙しそうに着替える土方へ簡単に事情を説明すると「わかった」と彼にしてはあっさりと受け入れた。
「…何だかお忙しそうですね」
「当たり前だ。永倉たちが会津へ建白書を提出に行ったんだから」
「えっ?!もう??」
総司は驚いた。
「長引けば陰険な噂話にもなるだろうし、新撰組を二分する事になりかねないからな。それは本意ではないということだろう。…全くあいつららしい」
ふん、と鼻を鳴らして笑う土方の表情は、総司が思っていたものと違う。
「…何だか、余裕そうですね」
「そんなことはない。取り敢えず近藤先生と一緒に会津に行くことになるだろうから、お前は昼の巡察を取りやめて留守番をしていろ」
「わかりました」
総司は頷きつつ立ち上がり、紋付きの羽織を手に取って土方の着替えの手伝いを始めた。
「山野君が珍しく怒っていました。島田さんが間抜けだとか馬鹿だとか…普段なら絶対に言わないのに。余程、島田さんのことが心配なんでしょうね」
総司が土方の背中に回り、羽織の袖を通す。すると土方が
「お前、まだ気が付いてないのか」
と少し笑って問いかけてきた。総司は土方の正面に回り、襟を整えつつ「何がですか」と尋ねた。
「あいつらの上司として知っておくべきだろう」
「だから、何を?」
「あいつらは、俺たちと同じなんだよ」
「同じ…?」
同じ…思い当ることをぐるぐると考えてみて、総司は「はっ」とようやく気が付いた。同じ、男同士の衆道の関係だということを。
「えっ?え?そうなんですか?」
「お前、本気で気が付いていなかったのか」
「全く気が付いていなかったです。えー…いつからだろう」
これまでのことを思い返してみるが、心当たりがない。大きな出来事と言えば、池田屋と、その前の監察への異動だ。
(もしかして監察へ異動になったのもそのあたりの関係があるのかな…)
だとしたら、土方はずいぶん昔から二人のことを知っていたということだ。
「…もっと早く教えてくれてもいいのに」
自分だけが知らなかったみたいで、悔しい。総司がそう漏らすと、土方は笑った。
「んな、野暮なことするかよ。あんなにあからさまだったのに、気が付かないお前の方がよっぽど呑気なんだよ」
そういいつつ、土方は総司の顎を手に取って引き寄せた。軽く触れ合う程度の口づけを交わすと、さらに土方が総司を引き寄せる。
どくん、どくん、といつもより少し早い鼓動が聞こえた。それが自分のものなのか、土方のものなのかは分からない。
(…土方さんの、匂い)
昔から知っているその匂い。
総司はゆっくりと土方の背中に手を回した。
「…大丈夫、なんですよね」
「何が…?」
「また…皆で、新撰組を続けていけるんですよね…?」
どんなに強がっていても、胸の中の不安は認めざるを得ない。
脳裏を過るのは先日の柴の一件だ。喧嘩両成敗という形で切腹した彼のように…永倉たちも、そして近藤や土方もその命を賭けて責任を取るのではないか。そんなことになれば新撰組を率いる人は誰もいない。
すると土方が、総司の後ろ頭を撫でた。
「大丈夫だ」
穏やかに、優しい声で告げる彼は、きっと自分だけにしかその姿を見せない。
総司はしばらく土方の胸に顔を埋めた。そうしていると心が穏やかになる気がした。




244


揃いの羽織を身に纏った永倉らは、会津藩本陣・黒谷金戒光明寺に到着した。
建白書に署名したのは、永倉、原田、斉藤、葛山、尾関、そして島田の六名となった。
「…騙された…」
「もういい加減腹ぁくくれよな!」
巨体に似合わず落ち込む島田を、原田が笑い飛ばす。まるで他人事の風体だが、島田を巻き込んだ張本人だ。
「もとはと言えば原田先生が悪いのでは…」
「そんなこといいつつ、ここまで来ちまったんだからお前も同罪だ」
「そんなあ…」
さらに肩を落とす島田を、あとの四人が笑った。
実際、本当は彼らを振り切って逃げだしてしまうことだってできたし、そのチャンスは何度もあった。しかし、こうして黒谷まで来てしまったのは、彼らを強く拒否するということができなかったからだ。
「悪かったな、島田。でも一緒に来てくれて心強い」
「永倉先生…」
原田とは違い、永倉から真摯な眼差しで感謝されてしまう。新撰組加入当初から島田を重宝してくれた永倉がそう言うなら、島田も諦めるしかない。
「…わかりました。これも定めと思い、お供します」
「よっ!生真面目!」
原田が囃し立てたのを、永倉が「おい」と止める。「真面目」しか取り柄が無いと思う島田は、頭を掻いて苦笑した。
(しかし…山野には怒られてしまった…)
こんな付き合いで命を投げ出すなんて確かに馬鹿げている。けれど、ここにいる皆だって仲間だから。
(そんな理由じゃ…許してくれないだろうが…)
どちらにしてももう引き返すことはできない。建白書を携え、本陣へと向かって行った。

永倉たちが思っていた以上に早く、そしてあっさりと会津藩公用方の小林久太郎との面会が叶った。本陣の境内から中へ通され、離れの一室で小林と向かい合った。小林は渋い顔をしつつ建白書を読んでいる間は、ぴぃんと空気が張りつめていた。
読み終わると、
「…そちたちは、近藤が新撰組の隊長として相応しくないと思っているのか」
重々しい小林からの問いかけに、永倉は「はい」と即答した。
「近藤局長は新撰組を恣にし、同志を家来として扱っています。我らは同志であり、家来ではありません」
「ふぅむ…」
堂々とした永倉の物言いに、小林は眉間のしわをもう一つ増やしつつ、続けた。
「しかし、新撰組は尽忠報国の志がある者は誰でも入隊できる…言わば烏合の衆であろう。そのような者たちを統率するには、やはり局長のような立場がどうしても必要になる」
「もちろんです。ですが、今のままではただの主従関係に成り下がるでしょう。局中法度に背けば問答無用で即切腹…これでは、誰も近藤局長に意見ができなくなる。つまり、それは『同志』ではないと私は考えます」
「……」
「我々は、新撰組の為に身を粉にするつもりはありますが、近藤局長の為に働いているのではない。己の中にある『意思』に従っているのです。それが、新撰組です」
理路整然と言い放つ永倉は、臆することなくまっすぐと小林の顔を見つめていた。恥じることも、恐れることも知らない。それが勇気だ。
小林は「ふう」と少しため息をついて、建白書を折りたたんだ。
「…永倉。そちの望みは何だ?」
議論をするつもりはないのだろう。小林はその先を促した。すると永倉ははっきりと答えた。
「近藤局長と…そして、土方副長の解任を求めます」
「え…っ」
驚いた声が上がったのは、身内の側だった。島田はもちろん、尾関、葛山…そして原田もだ。近藤の局長としての行いを正す…それが建白書の内容だったはずだ。
しかし永倉は構わず続けた。
「それが叶わなければ…切腹して、合い果てます」
そしてその覚悟を思い知り、息をのんだ。
小林は少し沈黙して「わかった」と答えた。
「殿に話を通す。そちたちはここで待っているように」
「はっ」
永倉が頭を下げて、続けて他の者が頭を下げて、部屋を出ていく小林を見送る。
そしてその姿が見えなくなった一瞬の後に、バンッという激しい音と共に永倉の身体が倒れた。
「…どういうつもりだ」
永倉を組み敷いていたのは、斉藤だった。そしてその手には小刀が握られ、その刃先が永倉の喉を捕えていた。
「おい、斉藤!」
原田が慌てて止めようとするが、
「大丈夫だ」
と、永倉が止めた。押し倒されてもなお永倉の声には余裕がある。
「どういうつもりも何も…最初から、そのつもりだ。二人を解任し、代わりの頭を立てる。山南さん辺りにお願いしたいものだな」
「あんたは…大馬鹿だ」
斉藤ははっきりと、そして端的に糾弾した。
「それでうまく行くと、本当に思っているのか?」
「さあ。やってみないとわからないが…今よりは、よっぽどいいのではないかと思う」
せせら笑うように交わす永倉に、斉藤は苛立った。
「正義だと、綺麗事ばかりを並べる…それだけで新撰組が守られると、本当に思っているのか」
「思っていなければ、命を賭けたりしない。我々が同志である以上、目指すものは同じだ。だとしたら上手く行くはずだ」
斉藤は刃先をさらに永倉の喉に近づけた。
「…言ったはずだ。新撰組を崩壊させるのなら、俺はあんたを斬ると。そしてあんたも新撰組を崩壊させたくないと言っただろう」
「だから崩壊などしない」
「あんたはまだわからないのか!土方副長を解任などすれば、新撰組は忽ち崩壊する!」
普段から大声を上げることをしない斉藤だからこそ、永倉の表情が少し強張った。
「…光の道ばかり歩んできた者には、そこに影があることを知らない…」
「斉藤君…?」
張りつめた緊張感が漂う中、足音が近づいてきた。斉藤は小刀を懐へ仕舞い、永倉から離れる。そして何事もなかったかのように頭を下げて待ち構えた。永倉も同じようにして、他の四人は戸惑いつつも合わせた。
障子が整然と開き、ゆっくりとした足音が近づいてきた。衣擦れの音の中、
「表をあげよ」
と声がかかり、六人は恐る恐る顔を上げた。会津藩主松平容保は穏やかな表情で六人を見ていた。そしてその視線を一転に絞る。
「永倉か」
「は…はっ!」
永倉はさすがに緊張していた。会津藩御預かりの新撰組だが、こうして顔を合わせるのはもちろん初めてであり、一介の浪人が口を利けるような人物ではないことはよくわかっていたからだ。
「言い分は、小林から聞いた。その方の新撰組への熱い志はしかと受け取った」
「は…はい」
拍子抜けしてしまうほど藩主はあっさりと永倉の言い分を受け入れてくれた。しかし柔和な表情が、少し困ったように歪む。
「しかし、これは近藤らに直訴し、内内で解決すべき問題と思うが?」
「…恐れながら、新撰組には法度があります。近藤局長へ直談判すれば、隊への批判となりましょう」
「法度か。話には聞いている。厳しいそうだな」
永倉の固い表情とは裏腹に、松平容保は嬉しそうに微笑んだ。
「会津の掟によく似ている」
「会津の…」
「会津で受け継がれてきたものだ。何、特別な掟ではない。年長者の言うことを聞くこと、虚言を言わないこと、弱い者を虐めてはならないこと…子供でもわかる掟である。そして最後にはこうある…『ならぬことはならぬ』と」
『ならぬことはならぬ』…曖昧で理由もなくて…でもそれだけの言葉ですべてを伝える。単純なようで複雑で…そして崇高な掟。
「古くからあるこの掟を、子供から大人、老人まで誰もが疑わずに信じてきた。…永倉、近藤を信じてやることは、もうできないことか?」
「……」
「他の者はどうだ?近藤は局長の器ではないと…本当に、そう思うのか?」
容保が語りかけるが、永倉だけでなく、誰もがその返答に迷った。迷うということは、どこかでまだ近藤のことを信じたいという気持ちがあるということだ。
黙り込んだ六人を見て、容保はもう一度微笑んだ。
「新撰組の名は瞬く間に世間に広がってしまった。これを解散ともなれば予の不明に帰する。ここは予の為に、もう一度考え直してはくれまいか」
一、下部組織の一隊士たちの言い分に、容保は真剣に耳を傾け、そして穏やかに諭した。幕末の混乱の中、誰もが嫌がる京都守護職にすすんで就いた…そんな容保の人柄をうかがわせた。
「肥後守様…一つだけ、お聞かせください…!」
「何だ」
「近藤局長は…新撰組の局長に相応しいと、お考えですか…?」
「無論だ」
容保は即答した。迷いの欠片もない返答だ。
「近藤でなければここまで来られなかった…そうは思わないか?」
「…っ、はっ…!」
その通りです、と。永倉は畳に頭を押し付けんばかりに頭を下げた。
「…おっしゃる通りです…!我らが浅慮でした…!」
「しんぱっつぁん…!」
原田が嬉しそうに声を上げた。島田、尾関、葛山らも顔を見合わせて安堵した。そして同じように頭を下げた。誰もが断罪されることを望んだわけではないのだ。
その様子を見て、容保は頷く。
「せっかくの機会だ。近藤と思う存分語らってみたらよい」
「え…?」
永倉らが顔を上げると、容保の傍に控えていた小林がさっと隣の部屋の障子を開いた。
「近藤先生…!」
そこには整然と佇む近藤の姿があった。いつからそこにいたのかはわからなかったが、経緯はすべて耳に入っているはずだ。しかし近藤は嫌な顔一つせず…むしろその大きな口を緩ませて笑っていた。
「…肥後守様。このような席を設けていただき、誠にありがとうございました」
「うむ。酒でも準備させよう」
「お気遣い痛み入ります」
容保は頷いて、膝を立て立ち上がる。近藤や永倉らが平伏する中を、まるで何事もなかったかのように立ち去って行った。
その場に残った小林が「永倉。これで仕舞いで良いか?」と改めて訊ねる。永倉は
「勿論です。ご面倒をおかけいたしました」
ともう一度頭を下げた。小林も満足げに頷いて「酒を準備させる」と言い、部屋を出て行った。部屋には近藤と永倉らが残された。
一瞬の気まずい沈黙の後
「永倉君」
と、先に口を開いたのは近藤の方だった。
「近藤局長…」
「君を悩ませてしまって申し訳なかった。俺の振る舞いにも問題が無いわけではない。ただ…君たちに、話しておきたいことがある」
「話…?」
近藤は少し躊躇いつつも続けた。
「…池田屋の件だ。報奨金について平等ではないという噂話があるようだが…そもそも報奨金の話を取り付けたのは、歳なんだ」
「え?」
永倉らは驚いたが、近藤は頭を掻いて苦笑した。
「誰にも言うなと言われたので黙っていたんだ。歳は…そういう、奴だから」
永倉はようやく思い出す。試衛館にいた時から、近藤はいつも誰かを信じ、そしてその傍に居た土方はいつも近藤のことを支えていた。近藤のことを誰よりも輝かせたいと…それを誰よりも願っていたのは土方だったのだと。
近藤は「それはとにかく」と話を変えた。
「今後は君や他の隊士の意見を取り入れて、できるだけ皆が納得するように取り計らおう」
「いえ…そのような必要はありません」
永倉は首を横に振った。
「それでは局長の…そして新撰組の足枷となってしまう。誰もが納得する道を探す必要はありません。そんなものは、どこにもない」
「しかし…」
「だから…ただ、信じさせて欲しいのです。近藤局長についていくことが正しいのだと。ですから、俺は近藤局長を信じることができる限りは信じます」
「俺も!」
生真面目に語る永倉の横で、原田が手を挙げて同意した。
「お前たちもだろう?」
原田が他の者に問いかけると、尾関・葛山は頷いて返し、島田は「勿論です!」と声を上げた。その様子に安堵して近藤は穏やかに笑い、そして涙を浮かべた。
「…わかった。これから君たちに信じてもらえるように努力は欠かさない。…ありがとう」
礼を言いつつ近藤は「それから」と続けた。
「歳のことは…わかってやってくれ。君たちから見ると、酷いことばかりをしているように見えるかもしれない。しかしすべては俺の為なんだ。俺の夢をかなえる為に…あいつは身を粉にしている」
「知っていますよ」
永倉は頷いた。
「そんなことは…知っています。わかっているんです、本当は。だから…結局、俺は文句を言いたかっただけなんですよ。喧嘩がしたいだけだった」
これまでのことを振り返り、苦笑する永倉に原田は
「まっ、そういうことだよな。今度からはこんなややこしい真似はせずに真っ向から文句を言ってやるよ」
はははっと声を上げて笑う原田に、「場を弁えろ」と永倉が鋭い突っ込みを入れる。いつもの調子に戻った二人を見て、その場に居た全員が安堵した。

その後、酒が運ばれてきてちょっとした宴会になった。これまでの数日間のわだかまりを忘れて、酔い、語らい、笑いあう。こんな風に騒ぐのは久々で、近藤が「どうやら宴会の数が少なかったようだな」と笑うと、原田が「その通りだ!」と同調し、さらに盛り上がった。宴会に華々しい踊りや美しい女はいない。しかしそんなものは必要ないくらいに高揚した席となり、昼から始まった宴会は夜まで続いた。

「宜しいのですか?」
斉藤は宴会の部屋を離れて、別の部屋にやってきた。そこには土方が居た。
「…お前こそ、良いのかよ」
「一人くらい抜けても、気づかれません」
「そうか」
土方は部屋の灯りを手元の蝋に移し替え、「付き合え」と庭に誘った。金戒光明寺の広大な庭は散策して余りあるほどに広い。
「…『飼い主の手を噛むつもりはない』。総司から聞いた」
「それだけで十分、伝わることと思いまして」
「総司はお前の言葉のもう一つの意味を汲み取っていなかったようだがな」
くっと笑う土方に、斉藤は特に返答はしなかった。
『飼い主』…それを総司は土方のことと考えたようだが、斉藤にとってそれは土方でもあり、会津でもあった。土方からの指示を待たずに、斉藤は独断で会津に前もって話を通していたのだ。そうでなければ、このようにスムーズに松平容保の元へ話がいくことはない。
「光しか見えていない者は、何よりも光に弱い。肥後守様のおっしゃることなら、永倉さんは納得せざるを得ないでしょう」
「ああ…その通りだ。もくろみ通り、上手くまとまった。ただ一つ予想外だったのは、お前だけだ」
「俺ですか?」
土方の指摘に、斉藤は思い当たることがあった。苦い顔をしつつ斉藤は呟く。
「…聞かれていましたか」
永倉を組み伏せた一部始終だ。土方は頷いた。
「お前が俺のことをそんなに認めているとは思わなかった」
驚いた…というよりも茶化した物言いだった。
「…芝居です」
「そういうことにしておく」
土方は笑い、斉藤は視線を外した。そして土方は続けた。
「だが、まだ…終わりじゃねえ」
片付けなければならないことがある。






245


夕刻を過ぎる頃。雨降って地固まるとはまさにこのことで、会津藩から帰営した六人の表情は晴れやかなものだった。事の経緯を知っていた総司は待っている間は気が気ではなかったが、六人がほろ酔いで帰ってきたので何だか拍子抜けしてしまった。
近藤から「容保様の計らいですべてが解決した」と報告があり、平隊士からは安堵の声が漏れた。永倉に賛同する者、批判する者…どちらにしても隊が分裂するのではないかと危惧していた者が多かったので、和解と言う形は一番望ましいものでもあった。歓喜の声が上がるなか、山野は目尻にうっすらと涙を浮かべていた。誰よりも怒っていた彼だが、誰よりも心配していたのも彼だ。頭を掻いて申し訳なさそうにする島田には、まだ口を尖らせて素直にはならないようだがが、心の奥底では喜んでいることだろう。
まさに雪解けという空気の中、斉藤だけはいつもの無表情を崩していなかった。
「おかえりなさい」
同室として斉藤を出迎えたが、彼は素っ気なく「ああ」と答えるだけだった。それは確かに『日常』ではあるので不思議はないのだが。
まるで何事もなかったかの様に刀を置き、着替え始めた斉藤に、総司は訊ねる。
「土方さんは、一緒ではないのですか?」
「…副長なら一歩先に屯所に帰っているはずだ」
「え?」
姿が見えなかったので、まだ帰っていないのだと思っていた。帰っていたのならば、総司に一言あってもおかしくはないのに…さすがにその行動には違和感を持った。
「こっそり帰ってきたなんて、変ですよね…」
事情を知っていそうな斉藤に問うが、斉藤はきっぱりと言い切った。
「先に仕事があると言っていた。あまり関わるな」
「……」
(関わるな…?)
それは土方からも言われたセリフだ。
斉藤がいつもと変わらない…と、どうやらそう思ったのは、和解に浮かれていた総司の早とちりだったようだ。
(まだ…緊張したままだ)
彼の空気はいまだに、張りつめていたのだから。


一方で、山南は久々に心の奥底から喜びを感じていた。
「良かった…!本当に、良かったです…!」
近藤からの詳細な報告を受け、山南は飛び跳ねたい気持ちを抑えるのがやっとだった。会津に取り計らい、永倉も納得し、これまでと同じように新撰組を続けることができる…それは最善の解決だったからだ。
(土方君に任せて本当に良かった…)
会津に掛け合って仲裁を頼むなんて山南にはまねできない芸当だった。やはりそうした能力の面では土方には敵わないのだと落胆はするものの、それよりも喜びの方が大きい。
「一応、永倉君たちには謹慎を申し付けるが、それは本人たちも納得してくれました」
「そうですか。本当なら私も謹慎を命令されてもおかしくはないのですが」
建白書という手段を提示してしまったのは自分であることは間違いないのだ。しかし近藤は「気に病む必要はない」と首を横に振った。
「歳から聞きました。山南さんには気苦労をお掛けしたようで、何だか申し訳なかったです」
「いえ…これも総長の役目だと思っています」
「これからもよろしく頼みます」
近藤の信頼をひしひしと感じ、山南は姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「私は私のやり方で…新撰組を支えたいと思っています。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
もしかしたら、できることは土方の半分以下なのかもしれない。けれど、近藤が「必要だ」と言ってくれる限りは、尽くしたい。主従の関係でなくても、そう思える。
(近藤局長はやはり局長に相応しいのだろう…)
山南は今回の騒動で再確認した気がした。
近藤は「頼みます」とその大きな口で笑いつつ、「そう言えば」と話を変えた。
「酒の席での話だから本決まりではないのだが、今度の江戸行きには永倉君に同行してもらうことにしました」
「永倉君に?」
「彼は神道無念流で腕も立つし、人脈もある真面目な人間だ。もともと隊士募集に加わってほしいと考えていたし、今回の騒動で彼が新撰組に賭ける思いを確信しました」
池田屋以来、新撰組の名声は広まり、入隊希望の隊士も増えた。しかしその一方で腕も不確かな者が多く、脱走も相次いでいた。その為、世情が不安定な京よりも、幕府への忠義が厚い江戸での隊士募集を行っているのだ。
「…そうですね。彼なら、私情よりも隊のことを優先して物事を判断できるでしょう。土方君へは私からもお願いをしてみます」
「そうしてください」
山南は微笑んで、頷いた。
これから進む道が希望にあふれているようだと…そんな夢見がちなことさえ、思った。


その日の夜が更ける頃、雨が降り始めた。
もうすぐ冬が近いともあって夜になると一気に冷える。それに輪をかけるような冷たい雨が降ったので、気温がぐっと下がった。平隊士の大部屋から抜け出して、葛山は厠へ向かった。
黒谷から戻っても、葛山のなかにふわふわと高揚した気持ちは残っていた。建白書に加担する…それは半ば無理矢理ではあったが、永倉のまっすぐな正義にひかれて、いつの間にか本心から署名をしてしまっていた。だが、これは新撰組に対する背反であることは十分に分かっていたので、切腹を覚悟していたが、容保公の仲裁による和解をうけ、やはりまだ自分は死にたくなかったのだと内心、命が無事であることを喜んだのだ。
明日からは気持ちを入れ替えて頑張ろう…そんなことを考えつつ、厠へ向かうとそこには人影があった。
「あ…」
思わずたじろいでしまったのは、そこにいた人影が鬼の副長だったからだ。
「…よう。厠か」
「あ…はい…」
字が達筆であることを買われ、山南から文書の作成を依頼されることも多い葛山だが、土方と言葉を交わすのは初めてだった。土方はまるで葛山を待っていたかのようにこちらに近づいた。
「今日はご苦労だったな」
「は…はあ…」
言葉に言い表せない威圧感が葛山を襲う。土方の漂う雰囲気は決して葛山を慰労するものではなく、あからさまな棘があった。
(そうだ…和解したのは、近藤先生だ…)
土方から和解を得たわけではないのだと、葛山はようやく気が付き、一瞬にして怯えた。するとその様子を見て土方が「ふん」と怪しく微笑んだ。
「…別に、捕って食うわけじゃねえ」
「…っ」
(嘘だ…!)
葛山は叫びそうになった。足先から指先から…葛山の身体が震えた。全身が、この人から逃げたいのだと訴えるが、身体は上手く動かなかった。それに逃げ出したところで、逃げ切れるわけではない。
「ただ、な…。お前は、致命的な失敗をしている」
「し…失敗…?」
土方が一歩、葛山との距離を縮め、そして厠の扉に追い詰める。ガンッ扉を叩く音がして、葛山は「ひっ」と悲鳴を上げた。
そして土方は耳元で小さく囁いた。
「島田から話は聞いている。…お前、島田の名前を偽造したそうだな」
「そ…っそれは…!」
それは永倉や原田から言われたこと…
(いや、違う…!)
葛山は恐怖におびえ、混乱する頭をどうにか叩き起こす。そしてその時のことをはっきりと思い出した。
『もう一人くらい、仲間が欲しいよなあ。恰好がつかねえ』
建白書の署名を見つつ、原田がそう嘆いていた。永倉が『うーん』と腕を組んで考え込んでいると
『島田が良い』
と誰かが言い出した。奴は素直で、単純だ。そうだ、名前を偽造して書けばいい、お前がそういうのが得意だろう。そして機会を見計らって血判を押させるんだ…『彼』が珍しく良く喋っていた。そして永倉は良い顔をしなかったが、原田が『それいいな!』と面白がって島田の署名の偽造は実行された。結局、島田本人がその性格ゆえに『仕方ない』と納得していたので、それで話は終わってしまっていた。
そう、そうだ。言い出したのは…
(斉藤先生…!)
建白書に署名をした一人で、仲間で…そして、土方の腹心である、斉藤に違いない。
葛山は青ざめた。雨の音が段々と、大きく鼓膜を揺らし続ける。そして葛山の脳裏ですべてが合致した。
(仕組まれていた…!)
「…安心しろ、葛山。こちらとしても会津候との仲介を反古にするわけにはいかねえんだ」
「ふ…副長…!それでは…!」
葛山の絶望に一筋の光が差しこんだ。
(そうだ、俺は…俺は、会津候に命を救われている!安易に処分はできないはずだ…!)
会津藩との約束を反故にすることは、さすがに副長にもできないだろう。しかし、葛山のその光は一瞬にして消える。
「だが…このままでは済むと思うな」
重たい言葉で、葛山の足の力は一気に抜けた。腰が抜けてその場に座り込む葛山を、土方が見下ろす。その目は言葉と同様に鋭く葛山を射抜き、既に殺していた。
そして土方はそのまま何も言わずに立ち去った。まるで何事もなかったかのように。
葛山はその場で、カタカタと膝を抱えて震えるしかできなかった。







246


元治元年九月五日。
「だって、色々いろいろあって、ゴタゴタしててすっかり忘れていたんですもん」
総司は見送りの場で、近藤に言い訳をしていた。
近藤から姉であるみつへの手紙を書くように言われていたのに、すっかり忘れてしまっていたからだ。
「まったく、せっかくの機会だというのに。おみつさんになんて言えばいいんだ」
「元気でやっているとお伝えいただければ十分です」
姉からも季節の挨拶が来る程度で頻繁に連絡を取っているわけではない。決して疎遠というわけではないが、幼い頃から別で暮らしていたし、離れていても家族だということはお互いによく知っているからだ。
近藤はやれやれと苦笑して「仕方ないな」と納得してくれた。そして総司の隣にいた山南へ目を向ける。
「山南さん。しばらく頼みます」
「はい、お任せください。道中お気を付けて。…永倉君、頼みますよ」
「ええ」
山南の声掛けに永倉はすぐに頷いた。つい先日まで反目していたなんて思えない雰囲気に、山南を始め見送りの隊士らが安堵した。
そして最後に、近藤は土方の肩を叩いた。
「歳、あとはよろしくな」
幼馴染の間では、短い言葉で十分だった。土方も「ああ」と短く答えて終わる。
「出立!」
武田が声を張り上げて一歩を踏み出す。見送りの平隊士らが
「お気をつけて!」
と声をかけるなか、近藤、永倉、尾関、武田の四人が江戸へ向けて旅立ったのだった。

出立を見送ると、総司は早速馬術調練へ向かった。
「よっよっ…」
総司は声を漏らしつつ、馬を蹴った。リズムよく、総司が思うとおりに前に進む。まだスピードは出ないが、乗りこなせるようにはなってきたようだ。
「すっかり慣れましたね」
馬を引く島田が総司を見上げつつ苦笑した。暴れ馬は島田を困らせているようだが、何故だか総司にはよく懐いていた。
「機嫌が良いときと悪いときがありますけど、ようやく池月が認めてくれたってことかもしれないですね」
『池月(いけづき)』は近藤が付けた馬の名前だった。元々は平家物語に出てくる名馬の名前で、源頼朝に献上、その後佐々木高綱に与えられ、梶原景季の『磨墨(するすみ)』と先陣争い演じ栄誉を勝ち取った。近藤は願掛けのような意味も含めて名づけたが、伝説の『池月』は『生食』とも言い、生き物を手当たり次第に食べてしまうほど獰猛だったとも言われている。総司はどちらかと言えば後者の方がこの『池月』に近い様な気がしていた。
そんなことを思っていると、池月がふんふん、と鼻を鳴らした。どうやら彼の機嫌を損ねてしまったようなので、総司が降りることにした。
「でも私だけが乗れたところで仕方ないですよね。島田さんも練習してみたら良いんじゃないですか?」
池月の手綱を持つ島田が「いやいや」と首を横に振った。
「自分が乗ると、重たいせいか池月が殊の外嫌がるんですよ。どうやら自分は餌係のようで、自分の顔を見ると池月は涎を垂らします」
「それは厄介な役どころになりましたね」
総司が笑うと、島田が「ええ」と頷いた。しかしそう言いつつも、島田は池月の世話を焼きつづけている。そして山野もだ。
(そういえば…今日はいないな)
池月の世話を焼きたがる山野の姿はない。そこで総司は島田と山野は『衆道関係』らしいということを思いだした。
「島田さん、山野君は一緒じゃないんですか?」
「…怒らせてしまいました」
島田が頭を掻いた。どうやら建白書騒動はまだ尾を引いているようだ。
「この間のことを間抜けだとか馬鹿だとか…そう言ってくれればまだ謝りようがあるんですが、どうも口をきいてくれないので謝りようがありません」
「ふうん…」
(私の前では言っていたけれど)
内心思いつつ、山野のことを考え、口には出さなかった。恋人同士の会話に他人の介入は必要ないだろう。しかしいつまでも黙っておくのは何だか申し訳なくて
「土方さんに聞きましたよ」
と総司は伝えた。鈍い島田は「何をですか?」と全く心当たりがなかったようなので、「山野くんのことです」と付け足すと、島田は一気に表情を変えた。
「えぇぇっ?」
顔を真っ赤に染め、動揺した島田は思わず手綱を離す。島田が上げた声に驚いた池月が少し暴れかけたが、総司が手綱を握ったのですぐに落ち着いた。島田は「すみません」と動揺を残しつつ謝った。
「土方副長からお聞きになったということは、副長は既にご存じだということですね…」
「まあ、あの人は何でも知っていますからね。監察もいるでしょうし、何よりそういう話には敏感ですから。それに、そんなに隠したいことなんですか?」
土方は二人のことを「あからさまだ」と言っていた。だとしたら聡い隊士は気が付いているのかもしれない。
「隠したいというか…その…」
口ごもりつつ、島田は続けた。
「何だか…恥ずかしいので。そういう関係だということを恥じているわけではなく、山野にとって自分が相応しいのか…そういうことを、考えてしまいます」
「相応しい…?」
「…勿体ないというか。何故自分なんかが良いのか…それこそ、この間の建白書の件では自分がどれだけ間抜けか思い知りました。だから…何故山野が?と…まだ確信が持てないからかもしれません」
島田の戸惑いや躊躇いが総司には何となくわかる気がした。
これまでは土方の感情と同じところまで、自分の感情を持っていくだけで精いっぱいだった。そしてようやくおいついた今、土方にとってどんな自分が相応しいのだろうか、と考えることもある。
(…土方さんは、別の道を歩むのだと言っていた…)
それは決して、別の方向というわけではないのだろうけれど。
(胸騒ぎがする…)
建白書の騒動のあと、永倉が近藤とともに江戸へ行くことで、完全な雪解けだと皆は言っていた。隊士たちは安堵し、平穏な日常へと戻るのだと疑っていない。けれど
(土方さんの緊張だけはまだ解けていない…)
そのことに気が付いても、自分はどうしていいのかわからない。それを指摘したところで、「お前は気にするな」とか「お前には関係ない」とかそういうことを口にするだろうということがわかるから。
(土方さんは何を求めているのだろう…)
ときどき彼がわからなくなってしまうのは、どうしてなのだろう。
「…沖田先生?」
「え?…あ、いいえ、大丈夫です」
黙り込んだ総司を島田は心配そうな顔をしていた。しかし丁度池月が鼻息を荒くしたので、馬屋に戻ることにした。


その夜。
山南は書物に目を通していた。最近は落ち着いて読書をする時間が取れなかったが、ようやく体調も改善されたので眠る前に読み進めることにしていた。
(近藤局長が戻られるまでは…私も明里の所へ行くわけにはいかないな)
病から脱した明里は、また店で働いているのだという。目の見えないはずの彼女が舞う舞は、山南にはまるで天女のように美しく、まぶたに焼き付いて離れない。
「…山南総長」
瞼の奥の明里の姿を探していると、部屋の外から声がかかった。彼女のことを考えていたせいか、全く人の気配に気づかなかった。声のする方向に目を向けると、細い灯りで人影が一つ浮かんでいた。
「あ、ああ。どうぞ」
山南が促すと、人影は恐る恐る…できるだけ音を立てないように障子をあけた。
「葛山くん?」
葛山の姿が細い光に照らされていた。葛山は隊務の傍ら、山南の代筆を務めたりと重宝している隊士だった。そして先日の建白書騒動に加担した一人でもある。
山南は咄嗟に声を潜めた。
「どうしたんだ、君は謹慎中のはずでは…?」
「どうしても…どうしても、山南総長にご相談したいことがあるのです…!」
声を落としながらも、彼の必死さがひしひしと伝わった。まるで何かにおびえるような彼に、山南は「わかった」とすぐに了承した。
「ここでは目立つ。場所を変えよう」
「はい…」
力なく答えた葛山とともに山南は部屋を出た。庭を通って裏口から外に出る。幸いなことに、そこに人はいなかったので、新徳寺の方向へ歩くことにした。
冬が近いこともあり、夜は冷える。山南は羽織を持ってくるべきだったかと思っていたが、しかし葛山は汗をかいていた。
「それで、相談と言うのは…」
「…俺は、処分を受けるのでしょうか…?」
「処分?いったい、何のことだい?」
山南が問うと、葛山は俯いた。
永倉をはじめ、建白書に加担した隊士は謹慎処分を受けている。近藤に同行した永倉も京へ戻ってきたら謹慎をし、自分の意思ではなく加担してしまった島田は己の浅はかさをたっぷりと叱られつつ、謹慎は免除された。
近藤が旅立ち、すべては終息したのだと誰もが納得していたはずだ。
「葛山君、何か考えすぎているのではないか?君の処分は謹慎のみで、謹慎が明けたらまた隊の一員として頑張ってほしいと、近藤局長もおっしゃっていたじゃないか」
「でも土方副長が…っ!」
葛山はいったん声を上げたが、思いつめたようにまた俯いた。唇が紫色に変わり、指先がカタカタと震えていた。
「土方君が…?土方君が、なにか…?」
「このままで…済むと思うな、と…」
山南は「馬鹿な!」とつい吐き捨てた。
「君たちは会津候の仲介で和解が済んでいるだろう!これ以上何を…」
「俺は…島田さんの署名を偽造しました。その件で…」
「それは…!」
それはすでに総司からも報告を受けていた。島田自身が「仕方ない」と納得したものだから大ごとにはならなかったが、確かに彼の罪は見過ごされるべきではない。
(しかし、その物言いでは…)
彼が恐怖し、怯えるのは当たり前だ。
すると葛山はさらに信じられないことを告げた。
「それに、俺は斉藤先生の話に乗っただけなんです。島田さんの手は良く知っているだろう…と」
「斉藤君が…?」
明らかな違和感があった。そもそも今回の建白書に斉藤が加担していること自体、山南には理解しがたいことでもあったのだ。彼は何事にも無感情で無関心、隊の方向性や思想に深くかかわろうとしない態度を示していた。それなのに、今回の建白書の話に安易に乗るのは彼らしくないと思ったのだ。
(もしや、元々土方君の指示で建白書に加担するように言われていたとしたら…?)
山南は不穏な考えに行き当たり、一気に背筋が震えた。暴走する永倉たちの最後の砦として潜伏させたとも考えられるが、島田の署名をさせたのが斉藤だとしたら、すべての責任を葛山に取らせようとしたとも考えられる。
(見せしめか…)
怒りとも憤りとも…悲しみとも思える感情が山南の中に渦巻く。しかしこれも今の時点ではすべて杞憂に過ぎない。
山南は立ち止まり、葛山の肩を軽く叩いた。
「…葛山君、ひとまず私に任せてくれないかな」
「山南総長…」
「土方君にどうするつもりなのか尋ねてみよう。確かに君は罰を受けるべきなのかもしれないが…曖昧な状態では君も落ち着かないだろう」
不安げに顔を歪める葛山に、もう一度「任せてくれ」と山南は繰り返した。葛山は戸惑い、迷いつつも、頷いた。





247


不安げな葛山に「君は後から戻ってきなさい」と言いつけて、山南は屯所に戻った。二人一緒の所を見られても、話がややこしくなるだろうと思ったからだ。そしてそのまま足早に土方の部屋に向かったが、人の気配はない。どうやら出かけているようだ。
(休息所か…?)
しかし、突然訪ねていくのは気が引けて、山南は取りあえず自室に戻った。深く息を吐いて、気分を落ち着かせる。
「…なんということだ…」
自分の抱いた悪い想像は脳裏に残っている。あくまで想像でしかないのに、いやに現実味のある想像で気は休まりそうもない。動悸が増し、眩暈がした。山南は身体を横にして、天井を仰ぐ。
(大丈夫のはずだ…)
目を閉じて、もう一度息を吐く。冷静になるように自分を諭して、現状を見つめなおす。
例え山南の悪い予感が当たってしまったとしても、近藤局長が不在の今、彼を処分することなどできないはずだ。仲介をした会津のこともあり、簡単に彼を殺したりできない。
(だったら、土方君は一体、何を考えているんだ…?)
わざわざ本人に『ただで済まない』と宣言した。ただの嫌味なのかもしれないが、土方はそんな無駄なことをするような性格ではない。だったら何かしらの意図があったはずだ。
山南は両手で顔を覆った。
(何も思いつかない…!)
良い方向へ考えたいのに、自分を安心させたいのに…どうしてこんなにも仲間のことがわからないのだろうか。
「仲間…」
その言葉に、山南は初めて違和感を持った。
食客として試衛館に居座り始めてから、土方にはあまり好かれていないような気がしていた。しかし、同じ釜の飯を食うようになれば、それでも仲間意識は生まれ、壬生浪士組の頃は反目しながらもお互いを頼っているのだと思っていた。山南は土方の行動力を頼り、土方は山南の知識を頼る。つかず離れずの距離でずっとやってきたはずなのに。
(君のことがわからない…)
こんなにも、土方との距離を感じたのは、初めてだ。


「うわぁ、おはぎだ。おみねさんの手作りですか?」
「へえ。沖田せんせ、お好きやろうと思うて」
「大好きです!」
台所で子供のようにはしゃぐ総司と、まるで孫を相手にするかのように穏やかな婆さんの声が聞こえた。休息所の世話を務めるおみねとはすっかり打ち解けて、いつの間にか土方よりも親しくなっていた。
総司は嬉しそうにおはぎを持って、土方の元へやってきた。「食べます?」と聞いていたが、土方の返事は既に知っている。
「へへ。急に来てもおみねさんは私の食べたいものをいつでも準備してくれているんです。もうここに住んじゃいたいくらいですよ」
「住めばいいだろう。助勤以上には休息所を認めてやっているんだから」
「そういうわけにはいきませんよ。近藤先生が留守の間は、屯所を空けるわけにはいかないんですから」
と、総司はそう言いつつものんびりとおはぎを頬張っている。
「…で、何をしに来たんだ?」
総司は屯所に土方が居ないのを知ってこちらに来たようだ。屯所を空けるわけには行かないというからには、何か重要な用件があるのだろう。そう思って、土方は問うたのだが、総司は少し黙り込んで
「何を、っていうわけではないです」
「は?」
「何となくですよ」
総司は目を逸らして、再びおはぎを口にする。どうやら下手なりに誤魔化したつもりのようだが、騙される土方ではない。問い詰めようとしたところで
「ほな、失礼いたします」
と上品な挨拶が聞こえた。総司が「はーい」と答えると、おみねが帰っていく音がした。丁度、総司もおはぎを食べ終わたようで饒舌に語りだす。
「あー、おいしかった。おみねさんの作るものは何でもおいしいんですよねえ。今度、おはぎを屯所に差し入れてもらうようにお願いしたんですよ。山野君がおはぎが好きみたいだから、それで機嫌が直るといいんですけどねえ。山野君はきっと引っ込みがつかなくなっているだけだろうから、そのうち仲直りしてくれるとは思うんですけど…」
「総司」
土方は総司の右手を取った。
「何を誤魔化しているんだ」
率直に問うと、総司は少し困ったように顔を歪めた。
「…誤魔化してるって、いうわけじゃないんです。ただ、心配で…」
「心配?」
「土方さん、また何か隠しているみたいだから」
今度は土方の方がドキリとさせられた。何も気が付いていないように見える総司が、ときどきこうして土方の本心を貫く。
(何にもわかってねえようで…何かを、見ているんだろうな…)
土方は手にした総司の右手をそのまま自分の方へ引き寄せた。バランスを崩した総司の身体を抱きしめる。固くて柔らかく、しなやかな体躯を自分の腕の中に収めると、総司の匂いや吐息が自分にぴったり重なるようで、心が落ち着く。総司は屯所では嫌がるが、何も言わずに受け止めた。そして受け入れるように土方の背中に腕を回した。
「…土方さん、無理していませんか…?」
総司の問いかけに、土方はすぐに「していない」と即答した。すると「ふふっ」と胸に顔を埋めた総司が揶揄するように笑った。
「何でも話してくださいなんて、簡単には言いませんけど…吐き出したいなら、吐き出してくださいね」
「…昔は何でも話してくれって言ってたじゃねえかよ」
「昔はそう思っていましたけど」
総司は顔を上げて、土方と視線を交わした。
「いや…ここに来るまではいろいろ考えていたんです。土方さんの考えていることとか、思っていることが全部わかるようになればいいのに…全部話してくれればいいのにって。でも、そんなことはできないし、もしそんなことができたら、もしかしたら私の為に嘘を付かなきゃいけないことになるかもしれないでしょう?」
「嘘?」
「平気じゃないのに平気なふりをしたりとか…。そっちの方が嫌だなって思ったんです」
そういうと、総司はもう一度顔を埋めた。
「それに、何も話してくれないとしても…もう、私は土方さんについていくって決めたから。そのことを迷う必要なんてないし、意味もない。だからたまに、息抜きみたいに話をしてくれたらいいかなって、いまはそう思います。だから…今日ここに来たのはそれが必要かなって…思っただけです」
顔を埋めているので、総司の表情はわからない。しかし彼の耳たぶが真っ赤に染まっているのはよくわかった。
(…こういうところが、俺を慰める…)
頑なに閉じた心を、少しだけ開かせるように。岩場の隙間から、葉を伸ばし、花を咲かせるように。
土方は総司の後ろ頭に手を回した。そして上を向かせて、拒まれる前に唇を貪り、強引に口腔を犯した。かつてない激しいそれに総司は驚いたように瞳孔を開いたが、しかしすぐに身体の力が抜けて翻弄されていく。
お互いの息が荒くなるほどの口付けを終え、足の力が抜けた総司を少し抱えるようにして、押し倒す。
夕日はとうに落ち、部屋には火が数本灯っていた。
押し倒した総司の襟に手をかけると、少し不安そうな表情を浮かべた。
「…大丈夫だ。最後まではしない」
「最後…?」
言葉の意味は分かっていないようだが、土方はそれ以上の説明を省き、もう一度口付けをした。今度は啄むような軽いものを何度も繰り返し、首筋から鎖骨へと移す。総司は「くすぐったい」と少し笑っていたが、土方が手にかけた襟を崩し、肌を晒すと急に顔を逸らして恥ずかしげにした。
「と…歳三…さん…っ、なに…」
「気持ちいいことを、するだけだ」
戸惑う総司にできるだけ優しげに声をかけ、土方は胸の飾りを弄った。
(なに…これ…っ)
総司は今まで味わったことの無い感覚を覚えた。土方の触れるそこは、男には必要のない部分だと思っていたのに、土方に触れられるだけで切ないような甘い疼きが生まれる。
「…んっ…ふ……」
「気持ちいいか…?」
「そ、そういうこと…を、聞かないでください…!」
総司は手のひらで顔を覆った。しかし土方が総司の両手を掴み、頭上へと押さえつける。
「とし…ぞ、さん…っ」
「顔、見せろ。お前がどれだけ俺で良くなっているか…教えろ」
「…っ」
まるで視線だけで犯されているようだ。彼の目が、何を見ているのか…それを考えるだけで、恥ずかしさが込み上げて、だがそれと同時に身体の中でゾクゾクとした何かが湧き上がってくる。
こんな感覚を今まで知らない。
(…こんなの、おかしい…)
そしてその疼く場所が、身体中に広がっていって
「歳三…さん、…っ!」
「…なんだ…?」
「も、もう…だめ…」
「どうしてだ」
(どうしてって…)
それ以上、口にすることが恥ずかしすぎて、総司は唇を噛んだ。
その時だった。
「…失礼します」
障子の外から声がかかった。庭から聞こえる声の主は新撰組監察の山崎だとすぐにわかった。
「…なんだ」
「申し訳ありません。早急にお伝えしたきことがあります」
土方は突然現れた山崎に慌てる様子はないが、総司の方は咄嗟に飛び起きて乱れた衣服を整えた。さっきまでの火照った感情と身体を沈めるのが精いっぱいで、それに加えて山崎に先ほどのやりとりを聞かれてしまったのかと思うと、羞恥のあまりののた打ち回りそうになった。
しかし山崎の次の一言で、一気に身体の熱が消え失せて、現実に戻った。
「葛山が逃げました」
「え…」
声を漏らしてしまったのは総司だけだった。いつもなら自分の配下ではない平隊士のことはぴんとこないかもしれないが、建白書騒動の一人であった葛山のことはすぐに思い浮かんだ。
(彼が…逃げた?)
会津からの仲介があり、謹慎処分を受けているはずで、彼が逃げる理由はない。総司は土方の顔を見た。
「…つかまえて、屯所に連れ戻せ」
山崎に命令する土方の表情は、冷え切り、そして少し微笑んでいて…まるで先ほどまでとは別人のように見えた。
そうまさに
(鬼の副長…)
その姿に、一瞬で戻ってしまった。





248


突然、自室にやってきた土方から葛山が逃げたと聞いたのは、翌朝のことだった。
「どういうことだ…何故だ…っ!」
山南はそれを聞いた途端、悲鳴にも似た声を上げた。昨晩、相談を受けたときには彼に「任せてほしい」と告げたはずだ。彼もそれに同意して、頷いてくれた。土方の帰りが夜も更けた時間になってしまったため、相談はこの朝にしようと思っていた。その矢先のことだ。
山南が困惑し、動揺するなか、土方はいたって冷静に述べる。
「昨晩、謹慎中にも関わらず屯所を抜け出し、逃走した。葛山を張っていた監察がその行方を追い、捕縛した」
「張っていた…?」
「山南総長。葛山を連れ出したのはあんただろう」
冷酷かつ、無情な問いかけに、山南は一層身体の熱が引いた。土方の目が冷たく山南を見下しているように見えたからだ。しかし、ぐっと唇を噛んで「そうだよ」と認めた。嘘を付く必要はない。
「葛山君から相談を持ちかけられた。何せ、建白書騒動に関わる話だったため、人目に付かないよう外に連れ出した。謹慎中の彼を安易に連れ出したことは私に責任がある」
「…」
「しかし、彼の相談は君の発言によるものだ」
山南が強気で言い返すが、土方に反応はない。山南は苛立つ気持ちを抑えつつ、続けた。
「『ただで済むと思うな』…君が彼にそう言ったことは聞いている。君はどういうつもりでそんなことを言ったのか。建白書の件は会津の仲立ちで終わった話となったはずだ。何故、彼を追い詰める必要がある?」
山南の問いかけに土方は答えない。山南は思わず身を乗り出して、土方の襟を掴んだ。
「君がそう言えば彼がどんなに追い詰められるか…!君にはわかっていたはずじゃないかッ!」
しかし、揺さぶるように叫んでも、土方の表情は変わらない。抗うこともなく、その冷たい能面を外さない。そして淡々と返答した。
「俺がそんなことを言ったという証拠はあるのか?」
「…証拠、だと…?」
「葛山は建白書が却下となったことに不満があった。これ以上、隊にいるつもりはないと思い、脱走を企てた。その為に俺に脅されたと嘘をあんたについた。…そうも考えられるだろう」
つらつらと並べられる彼の言葉。その言葉を聞いて、山南はさらに激昂した。
「何を…何を言うのか…!」
昨晩、葛山が山南に必死に訴える姿は、誰が見ても嘘を付いている様子はなかった。本気で土方に怯え、慄いていた。
(白々しいことを…!)
しかし、一方で土方が彼を脅したという証拠はない。確かに葛山一人が訴えていただけであり、建白書に加担した彼の立場は弱い。土方の言うように言われてしまえば、何も言えなくなってしまうだろう。
山南は土方の襟を掴んでいた指先の力を抜いた。こんな風に掴み掛ってしまえば「私の闘争を許さず」にあたってしまうだろう。それにどれだけ山南が訴え、叫んだところで彼には届かないのだと理解した。
「…彼をどうするつもりだ」
力なく問うた山南に、それでも土方は相変わらずの冷たさではっきりと述べた。
「葛山が脱走したことに間違いはない。切腹だ」
「……」
どんなに言葉で言い繕っても、隊規がそうである以上、山南に何もできないということはわかっていた。
「…近藤局長の判断を仰がなくていいのか」
「俺は局長代理を任されている。建白書の件はこの際関係が無い。葛山が脱走した。それだけで十分な理由だ」
山南は俯いた。彼を止める術が、彼を留まらせる言葉が、何も見つからない。
「…昼までには終わらせる」
そういうと土方は立ち上がり、部屋を出ていく。そしてもう一言添えた。
「あんたが葛山を外に連れ出したという事実は、監察だけに留めて置く。今後は余計なことをしないようにしてくれ」
無感情に添えられたその一言が、山南の楔となる。
(私が…葛山君に脱走を促したと言いたいのか…)
監察から見ればそう見えたのかもしれない。
山南は思わずその場に突っ伏した。悔しさと憤りと悲しさと…すべての感情を拳に込めて、畳に殴りつけた。
「何故だ…!」
何故、こんなにも上手く行かないのだろうか。何故、葛山は脱走したのだ。何故、頼ってくれなかった。何故、もう少し待ってくれなかった。
(私のせいか…?)
彼が脱走という道を選ばざるを得なかったのは、山南に託しても仕方ないと絶望したのではないだろうか。誰も助けてくれないのだとすべてを諦めたのではないだろうか。
「私の…罪か…」
土方がどんなことをして、どんなことを言って、彼を追い詰めたのだとしても、最終的に彼が脱走という手段を選んだことに間違いはない。土方の判断は合理的で、当然で、…きっと間違っていないのだろう。
(それでも…)
それでもこんなやり方を認めるわけにはいかない。そう思うのに、
(何をしたらいい…?)
何も思いつかない。これまでにない無力感と空虚な感情が、山南の心にあった。まるで穴が開き、そこから何か大切なものが零れていく。そして哀しさが…心を占めた。


葛山の脱走による切腹が申し付けられたのは昼前のことだった。
隊士たちは動揺した。彼が一平隊士であったなら、隊規による切腹であると誰もがすぐに理解し、納得しただろうが、葛山は建白書に加担した一人である。
「葛山は建白書が取り下げられたことに不服だったのか?」
「いや、そもそも脱走は本当なのか」
「監察がすぐに捕えることができたというのも変な話ではないか」
隊士の中では様々な憶測が飛び交う。
そんななか、葛山切腹の介錯を命じられたのは、皮肉なことに斉藤だった。
「土方さんも人が悪いなあ…」
介錯の為に、刀を研ぐ斉藤に、同室の総司が言葉を投げかけた。
総司自身、状況はよくわかっていない。ただ、土方と斉藤がこれまでこの時を知っていたかのように緊張を崩していなかったということ、そして休息所に現れた山崎が余りにも用意周到だったということ…そして葛山の切腹が、「建白書」のような裏切りを許さないのだと、土方が宣言するに等しいということ。そして斉藤が介錯を務めるというこの事実。それだけを考えれば、おのずと答えは見えてきたような気がした。
「…あんたは、副長を責めないのか?」
斉藤の問いかけに総司は少し沈黙して、答えた。
「昔なら、責めていたと思います。何もそんなことをする必要はない、やり過ぎだと…」
必死に止めていたのかもしれない。それは葛山の為だけではなく、土方の為に。
「でも、これ以上の反発と造反を認めないという土方さんの意図を汲み取れば…この見せしめのような切腹も、仕方ないと思えます」
斉藤は刀を研ぐ手を止めた。そしてその視線を総司へと向ける。
「…あんたは少し変わったな」
その感想は自覚があった。
「そうかもしれません。自分でも…そう思います」
「元の自分に戻ったほうが良い」
斉藤はきっぱりと言い切った。
「元の自分…?」
「元の道…ともいえる」
『道』。
その言葉は、随分前から総司の中で小骨のように引っかかっていた。総司は食い下がって訊ねた。
「土方さんは…別の道を歩んでいて、その道は、私には歩めない道なんですか…?」
君菊が死んだとき、土方は総司についてきてほしいと言った。だから総司はついていくつもりだった。どこまでも、どんな地の果てでも、地獄のその先でも。それが業火に見舞われた道のりであろうと。
しかし土方は、ついてきてほしいと言ったのに、まるで総司をおいていくようにその道順を話してくれない。この道がどこへ続いているのか教えてくれず、それどころかどんどんその距離を開いて、追い付けないような速さで進んで行ってしまう。
まるで、はぐれて、総司を置いてけぼりにしてしまうかのように。
全て話してほしいなんて言わない。けれど、せめて同じ道を歩みたいと思うのに。このままでは一生会えない迷路に迷い込んでしまいそうで、怖い。
…きっと答えは土方しか知らない。けれど、斉藤に訊ねてしまったのは、彼が答えを知っているような気がしたから。彼が土方のすぐ後ろの同じ道を歩いているように見えたからだ。
すると斉藤は、総司から視線を逸らし研いだ刀身を鞘にしまった。そして立ち上がる。
「斉藤さん」
答えを求めて、総司も立ち上がり、斉藤の腕を引いた。すると斉藤が逆にその手を掴んだ。
「それは…あんたには歩めない道だ。そして歩んでほしいと…誰も、思っていない道だ」
「斉藤さん…じゃあ私は…」
どうすればいい?
すると斉藤は答えをくれた。
「あんたは違う道を歩むんだ。こちらじゃない道を。…ただし、副長のすぐ隣の道だ」
「隣…?」
「行きつく先は違うのかもしれない。けれどすぐ傍に居てほしい…副長はそういうことを言っているんじゃないのか」
すぐには理解できない抽象的な言葉に、総司は戸惑う。だが、まるで土方がそう言う風に言っているように聞こえた。
だから、油断した。
「え…?」
柔らかい感触が、唇から全身に伝わった。昨晩、土方にされたのと同じそれが、いまは別の人からもたらされている。
「さい…っ、ん…!」
右手を掴まれ、そして後ろ頭から引き寄せられる。強引な口付けにすぐに息が上がり、力が抜けそうになったが、総司は慌ててもう片方の手で斉藤の胸を押した。
「斉藤さん…っ!」
すぐに唇を拭い、その感覚を忘れようとする。
けれどすぐには消えない。その感覚は何故だか、土方とよく似ていたからだ。
(何で…っ)
困惑と混乱が言葉にできない。しかし斉藤はその表情を変えずに、少しため息をついて言った。
「あんたが悪い」
「な、何が…」
「少し考えればわかるだろう」
そう言うと、斉藤は部屋を出て行った。総司は立ち尽くすしかなかった。


正午に葛山の切腹が執り行われた。
真っ白な裃に身を包んだ葛山は、顔は青ざめ唇が紫に変色していた。全身が小刻みに震え、すでに歩くのもやっとという姿で正座した。
「…葛山武八郎。隊規違反により、切腹を申し付ける」
局長代理を務める土方が伝えると、葛山はぎこちない姿ながらその場に平伏した。
(何故…何故、こんなことに…)
葛山は視線を泳がせる。
山南の姿はない。脅しに負け、脱走してしまった自分を見放したのだろうか。何にせよ、もう助かるすべはないだろう。そんな諦めと共に葛山は、刀を清める斉藤へと視線を向けた。
斉藤は素知らぬ顔をして、この場に臨んでいる。まるで自分は何も関係ないのだと言うように…。
「…ふ…」
どうしてこんなことになってしまったのだろう。それを考えると後悔が込み上げて来ないでもないが、しかし何を言っても仕方ないだろう。ただし、黙って殺されるつもりもなかった。
「斉藤先生…お恨みします」
ぼそりと呟いた言葉は、斉藤にしか聞こえなかっただろう。しかしそれでも斉藤は表情を変えずその言葉を受け取った。そして刀を構えてその時を待つ。
(死んでも…許さない)
そんな固い決意とともに、葛山は目の前の小刀を手にした。そしてその瞬間に、斉藤の刀は振り落された。



249


足早に歩いていると、突然足元が狂い前へ転びそうになった。寸でのところでもう片方の足を前にだしたので、こんな往来で転げることはなかったが、草履の鼻緒の紐が切れてしまっていた。
道場を飛び出して旅を始めてからひと月になる。衣服は汚れ、路銀も尽きかけている。体力の限界も近く、気力だけで歩き続けてきた。しかしここで諦めるわけにはいかない。
(ようやく…ようやく、居所がわかったんだ…!)
彼はその場に膝をついて、切れた草履の鼻緒を結び直した。しかし何度もそうしてきたせいか、短くなってしまったそれは草臥れてしまい、上手く結べない。
そうしていると
「宜しければお使いください」
と目の前に手拭いを差し出された。彼は上を見上げる。
陽の光が強すぎたせいで、最初は眩しくて輪郭しかわからなかったが、目が慣れてようやくその姿を捉えることができた。
浅黄色の羽織を着た優しげな顔だった。男と女の間の、中性的な面影がある顔立ちは、酷く目に焼き付いて、しばらくは見惚れた。
そうしていると受け取らない彼を慮ってか、浅黄色の男は手拭いを噛んで、ビリビリと破いた。鼻緒に合うような長い紐になったそれを、再び「どうぞ」と手渡してきた。
親切を押し付ける人間はいくらでもいるが、この男は至って自然な仕草で人に優しくしている。きっと生来の性分なのだろう、と何となくそんなことを思った。
「…どうも」
躊躇いつつ男がそれを受け取ると、満足そうにうなずいて「行きましょう」と供のものに声をかけた。皆が揃いの、浅黄色でだんだらの羽織を着ていた。
(もしや…)
噂でしか聞いたことはない。しかし…
「沖田さん」
声が聞こえた。沖田、と名前を呼ばれた親切な男は声のする方へ目を向けた。
「何をしている」
「何でもないです。もうそちらは終わりですか?」
何故か親切だった声色が、声をかけてきた男に対しては少しだけ冷たいものになっていた。
だが彼は、それよりも声をかけてきた男に釘付けになった。
(あ…っ)
あまりの驚きに声が出ない。
…いや、本当は、言いたいことはたくさんあったけれど、何を言えばいいのか頭には全くなかったのだ。しかし、これを逃せば一生出会うことはないのかもしれない。
戸惑いや遠慮にもたつく心を抑え込み、彼は意を決して声を上げた。
「山口先生…ッ!」
親切者の男は、驚いた顔で振り向いた。その後ろに控えていた者たちも何のことか分からず呆けていた。
しかしただ一人、その男だけは真っ直ぐにこちらを見た。相変わらずの無表情に、少しだけ動揺が走ったように見えた。
「…弓削(ゆげ)…か」
「はい…!お久しぶりです…!」
弓削はその場に突っ伏した。


平隊士に任せて弓削を八木邸の客間に通し、斉藤は土方のいる前川邸へ向かった。
「お知り合いですか?」
巡察の報告も兼ねていたので、総司も一緒に向かう。
「…昔の、道場の門弟だ」
無愛想な返事に総司は「へえ」と相槌を打った。心なしか斉藤が弓削と言う青年に出会ってから、不機嫌になってしまった気がした。
「山口と名乗っていたんですか」
「…山口はもともとの名だ」
「そうですか…」
それきり斉藤は口を噤んだ。
斉藤のことは、本当の名前も、出自も、経歴もおそらく誰も知らない。ある日、襲名披露の場で出会い、試衛館に身を寄せ、そしてまた突然去っていった。もう縁がないのかと思っていたところで、壬生浪士組に入隊しこうして寝食を共にすることになった。新撰組が身分・素性を問わないとはいえ、試衛館食客の次に親しい間柄でありながら、彼のことをよく知らないのは今更ながら不自然な気がした。
(この間のことも…)
あの口づけについて、斉藤は何も言わなかった。まるで何もなかったかのように葛山の介錯にのぞみ、総司と同室で過ごした。ムキになって少し冷たく接しているのは総司の方で、彼は何ら変わりない。
『あんたが悪い』
斉藤はそういった。そして少し考えればわかるだろうとも。しかし総司が悩んだところで何も答えは見つからなかったし、疑問ばかりが生まれた。彼に対して何か悪いことをしてしまっただろうかと思い返しても思い当たることはない。深く考えるのは止そう…そう思っても、同室に彼が居る限りはそうもいかない。
困惑している間に、土方の部屋についた。

「客?」
「はい。私事でご迷惑をおかけして申し訳ありません」
仰々しく頭を下げる斉藤に、「別に構わねえが」と土方は答えた。
「身元は確かなのか?」
「…弓削凛太郎。聖徳太子流剣術 吉田道場の門弟です」
「お前は、太子流を修めているのか」
「師範代までは勤めました」
斉藤はいともあっさりと答え、土方と総司を驚かせた。
聖徳太子流は軍学と武術の流派である。古くは清和天皇の末裔・望月定朝が夢の中で聖徳太子から軍学を教わり流派を興したとされている。後の源義経や楠木正成にも伝わったとされるが、最終的には会津・保科正之に取り立てられ、会津で広く教えられていた。
しかしそれ以上を話すことを拒むように、斉藤はやはり口を噤んでしまった。
土方が仕方なく続きを促す。
「…それで、その弓削という者はお前に何の用だ」
「わかりません。これから訊ねようと思います。今日中には追い出しますので、暫時、客間をお借りします」
「そんな。お疲れのようでしたから、少し屯所で休まれたら良いのでは?」
弓削のことを冷たくあしらう斉藤に、総司の方が食い下がってしまった。まるで過去に触れたくないのだというように、斉藤が弓削を拒んでいるかのようだったから。
しかし斉藤は総司の言葉を無視して
「失礼します」
と軽く頭を下げて、土方の部屋を後にした。
いつもよりも少し足早な音が遠ざかっていくのを聞いてから
「斉藤さん、ちょっと変ですよね」
と総司は土方に訊ねた。しかし土方は意外なことに「そうか?」と特に気にする様子はなかった。手元にあった書物に目を通し始める。
「あいつが過去を明らかにしたくないのは、前からだろう。弓削っていうのがどんな奴かは知らねえが、今更過去を穿り返されたくないのは別に変ってほどじゃねえ」
「それは…まあ、そうですけど…」
土方の言うことはご尤もで、総司が気にすることではないのかもしれない。
「でも…最近、ちょっとおかしいし」
「何が?」
「何がって………何となく、です」
口に出しかけて、総司は内心慌てて噤んだ。土方が訝しげに総司を見たが、深く追求はせず「ふうん」と適当な相槌を打って、また書物に目を落とし、
「そう言えば、お前、『池月』は乗りこなせるようになっているんだろうな」
話を変えたので、総司は安堵した。
「ようやく慣れた頃合いですよ。と言っても、私以外は乗せてくれる様子はありませんけど」
「近藤先生が帰ってくるまでには乗りこなせておけよ」
「わかりました。近藤先生は今はどちらへ?」
「もう江戸に着いたという手紙が来た」
土方はそう言いつつ、文机から文を総司に手渡した。近藤の手だった。
手紙には無事に江戸に着いたこと、郷里や試衛館の者は元気そうであったこと、そして娘のたまが見違えるほど大きく成長していたことなど、微笑ましくも詳細に書かれていた。
「ご無事で何よりですね。あとは例の伊東大蔵先生が無事に加入してくれると良いんですが」
「…まあな」
土方は曖昧に答えた。あまり積極的に入隊してほしいと言う気持ちが無いようだということはありありと分かった。総司はため息をつきつつ続けた。
「かつて藤堂君の師匠だった方でしょうから、悪い人じゃありませんよ。山南さんも太鼓判を押していたし…」
山南、という名前を出したところで、土方の眉間のしわが一つ増えたことを、総司は目敏く察知した。
先日の葛山の切腹から、山南は再び塞ぎ込んだ。葛山の切腹には隊内でも様々な憶測が未だ止んでいないが、隊への批判や苦情を口にすれば、いずれ自分の元へ帰ってくる…そんな暗黙の了解のようなものが生まれていた。土方にとっては好都合だろうが、建白書のきっかけを作った山南には耐えきれない状況だろう。
(…困ったなあ…)
これが試衛館の頃の喧嘩なら、総司が仲裁することができただろう。しかし今は、新撰組という大きな組織の幹部二人だ。仲を取り持つなんて、それこそ近藤にしかできないだろう。
(近藤先生、早く帰って来ないかな…)
郷里での様子を詳細に綴った、ある意味気楽な手紙を読みながら、総司は何だか物寂しい気持ちになってしまったのだった。







250


弓削を初めて出会ったのは、十九の年のことだった。
ある理由から江戸から逃げてきた斉藤…当時、山口は、京都の聖徳太子流剣術吉田道場に身を寄せた。当主の吉田勝見は父の友人であったため、ほとぼりが冷めるまでは身を隠すことになったのだ。
古来から続く太子流吉田道場は多くの門弟を集めていた。特に尊王攘夷を謳う血気盛んな若者たちも集い、弓削もその一人だった。山口よりも年が下の、あどけない少年のような顔立ちが周囲からは浮いていて、何故か妙に山口の目に焼き付いていた。
しかし、山口はその若者たちと群れることはなかった。自分が身を隠すべき存在なのだという自戒もあったが、それよりも生来の性格から彼らが声高々に叫ぶ思想には全く興味が無かった。それどころか主義主張を声高に宣言するくらいなら、腕を磨く方が有意義とさえ思ったので、誘われてもきっぱりと「興味が無い」と断った。だが、同時、黒船来航に揺れた世情では、論を講じない者は異物扱いされ、山口は人の輪から外された。
(…別に良い)
しかし、山口は特にそれを気に病むことはなかった。そのほうが楽だと思っていたからだ。次第に一匹狼となった山口は、道場でも群れることはなかった。江戸から逃げてきた余所者…そんな目で周囲が見ていた。
そんな頃のことだ。
それまで群れの一人でしかなかった弓削凛太郎という青年が、山口の人生の中ではっきりとその姿を現したのだ。


八木邸の客間に通された弓削は、斉藤がやってくると目を爛々と輝かせた。
「山口先生…!」
数年ぶりの再会を、弓削は涙を流さんばかりに感動しているようだが、斉藤は全くそんな感情はなかった。
「…今は斉藤と名乗っている。その名で呼ぶのはやめてくれ」
「斉藤…先生、ですか」
斉藤は弓削の目の前に座った。居住まいを正した弓削は手を付き、礼儀正しく頭を下げた。
「お久しぶりです…お元気そうで、何よりです」
「お前は、まだ道場にいるのか」
「はい。ようやく山…斉藤先生と同じ、師範代に追い付きました」
弓削がその黒目を斉藤に向け、笑顔で報告する。斉藤が道場を出たとき彼はまだ目録程度だったので、時間の流れは実感したが、斉藤は真っ直ぐな視線を躱し、「そうか」とあっさりと答えた。
「それで何の用だ」
「…斉藤先生に、お願いがあってまいりました」
「何だ」
素っ気なく返す斉藤に弓削ははっきりと答えた。
「一度、道場の方に足をお運びいただけませんか」
「何故だ」
「…吉田先生の具合が宜しくないのです」
弓削は声を落とした。
斉藤はかつての師、吉田勝見は斉藤の父と同じ年であった事を思い出した。吉田は、同世代の若者たちと群れようとしない斉藤を心配し、いろいろ手を焼いてくれていた。また純粋に山口の腕を認めてくれ、最終的には師範代にまで押し上げてくれた。道場を出てからは一度も連絡を取っていないが、その恩は残っていた。
「わかった。近いうちに見舞おう」
「よろしくお願いします」
「用がそれだけなら、今すぐに帰れ」
斉藤がきっぱりと告げると、それまで笑顔だった弓削の表情が変わった。
「……そんな…」
「ここは新撰組の屯所だ。お前のような部外者が簡単に入るべき場所ではない」
斉藤はすべてを拒絶するように、容赦なく弓削を突き放した。
弓削もこれまでの斉藤の冷たさや素っ気ない仕草に気が付かなかったわけではないだろう。だが、ぐっと拳を握りしめて、もう一度斉藤を見据えた。
「斉藤先生にもう一つお願いがあります」
「…言ってみろ」
先ほどとは違う、並々ならぬ決意を秘めた態度に、斉藤は何となく彼が何を言おうとしているのか察しがついた。
「僕を…新撰組に入れてください」
「……」
「僕も幕府の為に働きたいのです」
弓削はお願いします、と畳に額が付かんばかりに頭を下げる。懇願と決意の堅さが滲み出る弓削だったが、しかし斉藤は微動だにしなかった。
「…かつて、お前は佐幕よりも尊王攘夷だという連中とつるんでいたはずだ」
斉藤は意地悪く訊ねた。吉田道場には過激な若者が多く、幕府を倒して新しい政権をつくるべきだというのがいつもの話題だった。今なら新撰組と敵対してもおかしくないほどだ。
しかし弓削は顔を上げて、「違います!」と叫んだ。
「僕はただ話を聞いていただけで…三百年続く幕府を倒そうなんて、本気でそのようなことを思っていたわけではありません!それに新撰組は身分や思想を問わないとお聞きしました!」
「…例えそうだとしても、間者を入隊させるわけにはいかない。お前が間者ではないという保証がどこにある」
「それは心外です!僕はもうあの方たちとは縁が切れています…!」
あの方、というのはかつてつるんでいた仲間のことだろう。本気で疑ったわけではないが、弓削は少し涙目になっていた。
「僕は…斉藤先生が江戸へ向かったという噂を聞き、江戸まで行きました…!でもようやく探し当てた試衛館という道場では、既に出て行ったと聞き…ようやく、ここまでたどり着いたのです!」
斉藤を探し、江戸まで往復したが、彼にとっては灯台下暗しという結果だったというわけだ。斉藤は苦笑した。
「それは手間をかけた」
しかし言葉とは裏腹に感情はない。労いも感謝も…謝ることも、なにもない。彼はそんなものが欲しかったわけではないだろう。だが、それ以上に斉藤が「無関心」であること…それに気が付いた弓削は顔を青ざめさせ、絶望して俯き、それでも言葉を紡いだ。
「…斉藤先生は……やはり、僕が…お嫌いなのでしょうか…?」
「…」
ぽたぽた、と畳には彼の涙の滴が落ちた。悲しみ、憤り、悔しさ…様々な感情が彼から漏れていた。
項垂れる弓削に、斉藤は「そうだ」「嫌いだ」とこれ以上ない言葉を浴びせることで、拒むこともできた。最後のトドメを刺し、一生自分と関わらないようにするように仕向けることも。だが、それはできなかった。
(何故だ…)
弓削がどうしてここまで追いかけてきたのか、弓削が何を自分に求めているのか、それがわからないわけではない。けれど、弓削が求めるものに答えてやれないことだけはわかっていた。
(だからこれ以上ない拒絶をして、道場を出たはずだ…)
俯いて涙を流し続ける弓削に、斉藤は懐から小判を数枚、彼に投げる。
「…路銀が無いと聞いた。これで足りるだろう」
「……」
「出ていけ。そして…もう二度と、ここには来るな」
視線を落としたままの弓削が小刻みに震えていた。ここまでコケにされて、さすがに彼も自分のことを見放すだろう。
斉藤は過去を思い出すのは嫌いだ。過去を変えられるわけではないし、思い出したところで感傷に浸る時間は無駄でしかない。弓削という存在は自分にとって過去を思い出す、一番厄介な存在だ。
すると弓削は斉藤が投げた数枚の小判を手にした。そしてそれを、そのまま斉藤へ投げつけた。
「僕は…諦めません…!」
「弓削…」
「絶対に…!」
弓削は叫び、そのまま立ち上がると、障子を乱暴に開いてバタバタと出て行った。
その音がどこまでも響くのを聞きながら、斉藤はため息をついた。そう言えば、彼は癇癪持ちで、怒ると手におえないところがあった。
「…逆効果だったか」
目算を誤ったな、とため息をついた。


「あれ、弓削さんだ」
弓削の顔が見たいというので、土方と二人、八木邸に向かっているところで、駆け足気味に屯所を出ていく弓削の姿を見た。
顔をくしゃくしゃに歪め、袖で目元を拭う様子に、どうやら斉藤が宣言通りに彼を拒絶したようだ、と鈍い総司でさえも気が付くことができた。
「酷いなあ、泣かせちゃって…ねえ、土方さん」
去っていく背中を見送りつつ、土方に訊ねると返答がない。
「土方さん?」
弓削の後姿から、土方へと視線を移すと、何やら土方が苦々しい顔をしていた。
「どうかしたんですか?」
「…お前、鏡見たことあるか?」
「はあ?…そりゃありますけど」
何の話だ、と呆ける総司に、土方は盛大なため息をついた。
「お前と、そっくりじゃねえか」
「え?何がです?」
「弓削だ」
総司はもう一度「え?」といいつつ、駆けていく弓削の背中を見た。
町で出会った時は細身の体躯や中性的な顔立ちで、まるで若い娘が男装しているのかと思ってしまうほどに整っていたけれど、それがまさか自分に似ているとは思わなかったのだ。
「…そういうことかよ」
少しウンザリしたように呟いた土方は、そのまま踵を返して前川邸に戻ってしまった。








解説
244永倉新八が先導したと言われる建白書騒動。「非行五箇条」なるものを提出したというエピソードもありますが、実際にそのような資料はありません。ただ、池田屋後の傲慢な近藤の態度に異を唱え、「なかにも近藤勇は蛮骨をもって鳴らしただけおうおうにしてわがままの挙動がある。かれは芹沢鴨の暗殺いらい専制をほしいままにし、壬生の屯所にあっても他の同士をみることあたかも家来などのようにとりあつかい、聞かずんば剣にうったえるという仕儀に同士はようやく体長近藤をあきたらず思うものがでてきた。脱走するか、反抗するか、隊員はいまや無事に倦んで不平に囚われ、感情を区々に弄してやがては壊裂をきたす前兆がみえる。」(新選組顛末記)とし、会津へ訴え出ました。結局は会津が仲に入り、和解となっています。念のため…ストーリー上、「わらべうた」では島田は嫌々賛同したようになっていますが、これらはもちろんすべて創作です。
248葛山武八郎について、実は会津藩出身でもともとは虚無僧。建白書に加担したのちその主張を曲げずに切腹した、もしくは反発への見せしめのために切腹させられたとも言われています。
249今回から登場した「弓削凛太郎」はわらべうたのオリジナルキャラクターです。
斉藤一の流派については、無外流、一刀流…と様々な説がありますがわかっていません。
250斉藤が江戸から京へ向かい、身を隠した先として父の友人・吉田勝見としましたが、下の名前は明らかになっていません(だいたい、吉田某と表記されています)。「勝見」はいくつかあるなかの一説です。

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