わらべうた






251


その頃、吉田道場にて尊王攘夷を豪語する若者たちは、日々鬱積していた。三百余年続いた幕府への不満、儘ならない異国への弱腰な態度、影で暗躍する過激派に傾倒する者も現れ、何となく不穏な雰囲気が漂っていた。門弟たちの心の中の憤懣はどこへ行っても満たされず、皆が思い思いに捌け口を探していた。それが女であったり、博打であったり…しかし、剣に向く者はあまりいなかった。
師範代になった山口は、稽古を終え、内心ため息をついた。門弟たちは一応、稽古に姿を見せるものの、心ここに在らずという様子がありありと見てわかり、身の入っていないようだ。人のことに関して無関心な山口でさえも、怠慢な姿を日々見せつけられると良い気持ちはしない。
汗を洗い流そうと、山口は井戸へ向かったが、ちょうど数名の門弟らが井戸端会議をしているところだったので、仕方なく裏口の井戸へと向かった。普段から人気のない井戸は、雑草が目立つ。
(そろそろ…良い時期だろうか)
桶で水を汲み上げつつ、山口はぼんやりと考えた。
ある事情…誤って人を斬って、江戸から逃れてから数年が経っていた。時折届く父からの手紙にも、状況は落ち着いたと報告があった。いつまでもこの道場に世話になるわけにもいかないだろうし、身を隠す必要が無いのなら腕を磨く門弟たちの為に稽古をする必要はないだろう。
(もっと強くなりたい)
その欲求は子供の頃からあった。いくら人から称賛され、町の道場主を負かし、認められてもこの心は満足しなかった。自分よりも強い者がきっとどこかにいるに違いない…それを探し続けていた。その欲求がこの道場では満たされない。
汲み上げた水で手拭いを濡らし、固く絞って首筋から汗を拭った。
そうしていると、微かに人の声が聞こえた。裏口の井戸とはいえ家の敷地の中だ。誰かの声が聞こえてもおかしくはないのだが。
「…」
耳を澄ますと、数人の声。どれも聞き覚えがある。
山口は気配を消しつつ、その声に近づいた。
「嫌…やめてください…!」
「静かにしろよ、ばれたら破門だぞ!」
「この手拭いでも咥えておけ!」
むぐっと息が詰まる声が聞こえた。何をしているのか大体想像がついたが、無関心でいたい山口の性格では彼らを止める気にはなれず、壁を背にして隠れ、声だけでその主たちを見た。
(佐伯…と、黒田、それから…弓削か)
佐伯と黒田は山口よりも体躯の大きな男だ。だとしたら、被害者は弓削だろう。
華奢で、まるで女のような顔立ちの弓削は道場でも目立っていた。稽古に対する姿勢は人一倍真面目だったが、このところは佐伯と黒田のような過激な若者たちに引き摺られて、覇気のない稽古ばかりをしていた。
(つまりはこういうことだったのかもしれないな)
鬱憤を解消したい門弟たちだが、毎日女を買うことができるような金銭はない。そこで弓削に目をつけて、こうして男色の相手をさせていたのだろう。
「ん…っい…やだ、さわ…ないで…!」
「うるせえんだよ!」
女に似た悲鳴を上げる弓削は、ますます男の嗜虐心をそそるのだろう。
(愚かな…)
ため息をついたが、しかし、山口は同情するわけではなかった。
たとえ弓削が門弟たちの慰み者になっているのだとしても、それは弓削の拒めない弱さにつけこまれているのだ。だとしたら、弱い弓削が悪い。そう割り切れる程度にしか、弓削には関心が無かった。
山口はその場を離れた。そしてもといた井戸に戻り、汗を拭き衣服を整える。
関わりあいになるだけ無駄だ。そもそも男ばかりの道場ではこういうことも珍しくない。
…いつもならそのまま去っていただろう。しかし、背後から聞こえる弓削の艶めかしい声と、盛る男たちの声が酷く不快だった。
ガシャンッ!
と、山口はわざと桶を倒して大きな音をあげた。すると三人の声がぴたりと止む。そしてこそこそと話す声と、逃げるように去っていく足音が聞こえた。山口は桶を戻し、彼らが居た場所を覗く。
すると、その場には弓削が残っていた。
「あ…」
タイミングの悪いことに、山口は弓削と目があってしまう。
着崩れた衣服から覗く、日焼けをしていない細くて白い肌。確かに女に似たそれにどきりとさせられない者はいないだろう。
しかし山口はすぐに目を逸らし、その場を去った。
いつも自由でいたい。いつも何にも縛られないでいたいと思う。
だからこそ、弓削を見ていると、何かに縛られそうな…そんな悪い予感がしたのだ。



朝。総司は八木邸の台所に立っていた。
「沖田先生、自分がやりますよ」
「大丈夫ですよ。台所が得意なのは良く知っているでしょう」
「知っていますけど…」
島田があたふたと落ち着かない様子で総司の周りをうろうろしているが、総司は素知らぬ顔で握り飯を二つ拵えた。
かつて壬生浪士組と言われていた頃は、男ばかりで台所に立ち食事の準備をしていたが、池田屋以来は忙しくてそんな時間も取れず小者を雇って支度をさせていた。しかし試衛館からの習慣はいまだ総司の中に残っていて、こうして握り飯を拵えるくらいは何の苦もなかった。
「島田さんこそ、手伝う必要はないんですよ」
「そんな!組長が食事を支度をされているというのに、のうのうと待っていられません!」
「真面目だなあ…」
総司は苦笑しつつ、拵えた握り飯を竹の皮で包んだ。
「お出かけですか?」
「いえ、そういうわけではないんですけどね。ちょっとそこまで」
曖昧に濁した総司は傍に合った漬物の切れ端を添えた。そして前掛けを外し、「はい」と島田に押し付けた。
「じゃあ、ご要望にお応えして台所はお任せします。私はちょっと用事があるので、朝餉は後でいただきますと山野君に伝えてください」
「は、はあ…わかりました」
島田は不思議そうにしていたが、総司は竹の皮でくるんだ握り飯を持って台所を出た。そしてそのまま八木邸の玄関を出て、警備の番の者に軽く挨拶をする。
「弓削さん」
そして昨晩からずっと、八木邸の門で座り込みを続けている弓削に声をかけた。
「あ…あなたは…」
「昨夜から何も食べていらっしゃらないでしょう。宜しければ召し上がってください。私が作ったんです」
総司が握り飯を差し出すと、弓削は少し表情を崩して「いただきます」と素直に受け取った。
昨日、斉藤との話し合いが決裂したのか、八木邸を飛び出していった弓削だったが、その晩には八木邸に舞い戻りこうして門前で座り込みを続けていた。隊士には「斉藤先生に入隊を認めてもらうまではここにいる」と頑なに宣言したらしく、土方も
「放っておけ」
の一言だった。
総司は隣に座り、握り飯を頬張る弓削をまじまじと見た。
(似てる…かなあ)
土方は弓削をちらりと見ただけで断言したが、総司は判断が付かなかった。高い鼻梁やほっそりとした輪郭は少し似ているかもしれないけれど、彼は総司よりも何歳か下で、随分若く見えたのだ。
そうしていると弓削があっという間に握り飯を二つ食べ終えて、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「あの…失礼ですが、あなたは…」
「ああ。そういえばまだ名乗っていなかったですね。私は沖田総司と言います」
名前を聞いた途端、弓削は「あっ」と声を上げた。
「お、お名前は存じております…!申し訳ありません、僕なんかの為に握り飯まで…!」
まるでその場に突っ伏して頭を下げんばかりの勢いだったが、総司は「いえいえ」と慌てて止めた。
「私のことはいいんですよ。それよりも斉藤さんから聞きました。太子流道場の師範代だそうですね」
「山…いえ、斉藤先生が僕のことを何か…?」
「いえ…」
必死に訊ねる弓削だったが、総司は首を横に振った。
「そうですか…」
残念そうに、弓削は肩を落とした。
弓削が出て行ってから、斉藤に訊ねても弓削の素性は教えてくれても、彼との間に何があったのかは話してくれなかった。土方の言うとおり、過去を話すことを毛嫌いしているので、それ以上は聞き出せそうもなく、弓削のことについても「放っておけばいい」と土方と同じことを言った。
(そのうち諦めるだろうなんて言っていたけれど…)
隣で膝を抱えて座り込む弓削は、ずっと何年もそうしているだろうと思えるほど、頑なな表情を崩していなかった。
(頑固だなあ…)
確かにこういうところは似ているかもしれない、と思いつつ総司は訊ねた。
「ずっと斉藤さんを探していたんでしょう」
「…はい。結局は同じ京にいらっしゃったという間抜けな結果でしたが…江戸まで行きました。試衛館にもお邪魔しました」
「試衛館に?」
確かに斉藤はかつて試衛館にいた時期もあるが、ほんのわずかな期間のことだ。だが、それさえも誰からか聞き出したのだとすれば、弓削はよっぽど必死に斉藤を探していたらしいと分かる。
「そちらで新撰組の話を聞き、山口一ではなく斉藤一という男なら、隊士の中にいると…僕はその話に賭けて、京に戻ってきたのです。そうしたら偶然にもお会いできて…」
息が詰まるほどに嬉しかったのだ、と語ると、弓削は急に寂しげな顔をした。
「…斉藤先生は、きっと僕のことがお嫌いなんでしょう。顔も見たくない…そう思っていらっしゃるはずです」
「どうしてですか」
「わかりません。だから僕は…ずっと知りたいと思っていました。その理由を…」
弓削の横顔を見ていると、総司は自分の胸が締め付けられるような気持になった。
自分の大切な人が、何も話してくれない。
その気持ちが、痛いほどわかる気がしたのだ。





252


「見習いだと?」
忙しそうにしていた土方は、総司の申し出にさらに眉間に皺を一つ刻んだ。並みの平隊士ならここで引き下がってしまうだろうが、総司にとってはいつものことだったので、怯むことはない。
「いつまでも門前に座り込んでいられるのは、外聞が悪いでしょう。かといって、斉藤さんが拒む手前、入隊させるわけにもいかないし。だったら、私付きの『見習い』ということにして、しばらく住まわせてやってください。丁度台所も人手が足りないみたいだから、手伝ってもらえばいいし」
弓削が斉藤の前に現れてから数日が経った。その間、雨の日も風の日もあったが、弓削は相変わらず八木邸の門前に座り込んでいた。当初は迷惑な客人として隊士たちも疎んでいたところがあったが、あまりにも頑なにその場を離れないことや健気な姿に、次第に隊士たちが同情しはじめ、食事を恵んだり雨風を凌ぐものをこっそり渡したりしている。
「んなの、放っておけばいいだろう。そのうち我慢ならなくなって諦めるだろう」
土方は忙しなく部屋の片づけに勤しんでいた。ぐじゃぐじゃになっている手紙を一つ一つ折りたたみ、文箱に入れていく。相当溜まっていたのか、中には束にして紐で括るものもあった。
「弓削さんは見た目以上の頑固者ですよ。いいじゃないですか、入隊させろっていうわけじゃないんです」
「何でそんなに肩入れするんだ。面倒なだけだろう」
「それは…」
土方に訊ねられて。総司は初めてその理由を探した。彼
が哀れだから?彼が一途だから?彼が自分に似ているから…?
いや、そのどれも当てはまらない。むしろその対象が全く違う。
「…好奇心、です」
「好奇心?」
その言葉に土方は片付けの手を止めた。振り返り、総司を見る。
「それは弓削に対する興味か?」
「いえ…それもないとはいいませんが…どちらかと言えば、斉藤さんに対する好奇心です」
誰も知らない斉藤の過去を、弓削は知っている。斉藤もそうであるように、弓削もなかなかそれを口にはしないが、二人の間に何かがあったのは間違いないのだ。
土方は総司の前に座った。その顔は、何故かさらに不機嫌になっていた。
「斉藤の何が知りたいんだ?」
「何が…って別に、何っていうわけでもないです。ただ一緒に暮らしてるのに、何も知らないことが急に不思議になっただけです」
「何も知らないことが不便っていうわけでもねえだろう。それに知られたくないことを暴くのは、良い趣味とは言えねえ」
土方からの鋭い指摘に総司は口を噤んだ。確かにその通りだ。誰にだって話したくない過去の一つや二つはあるだろう。自分の過去をべらべらと曝け出す方が信用できないかもしれない。
(けど…)
知りたい。あの口付けの意味を、そして彼が抱える感情を。そして時折見せる、彼のホンモノの心情を。
でもそれを言葉にするのは憚られた。すると土方の方が折れた。
「…弓削のこと、お前が責任を持って面倒を見るっていうなら好きにしろ」
「え?いいんですか?」
話の流れでは許可されるとは思わなかった。総司は驚いて土方を見るが、彼は一つため息をついた。
「弓削がそうであるように、お前だって頑固者だからな。好きにしろよ。…ただし、条件が一つある」
「条件?」
「隊士にはできない」
土方が断言した。出自・身分・経歴を問わない入隊を掲げている隊士募集から考えれば、思いつかない条件ではあった。それに彼は一応、太子流の師範代まで修めているのだから、そこらの隊士よりも腕があるだろう。
「それは彼がどんなに良い遣い手であっても、斉藤さんが許しても、ですか?」
「その通りだ」
「理由は…教えてもらえるんですか?」
弓削のことを拒む理由…しかし土方は、総司が思った通り、首を横に振った。理由を教えてくれない…もしくは理由がないのかもしれない。
総司は問い詰めなかった。総司が斉藤のことを知りたいと言った時に、土方はその理由を追及しなかった。だから、自分もそうしなければならない気がした。
「…わかりました」
総司は漠然とした不安を抱えつつ、弓削の身を預かることとなった。



弓削凛太郎という存在が、他の景色のような曖昧な存在から逸脱した頃、視線を感じ始めた。
それは稽古の時だけでなく、食事のときや歩いているときにまで。人の気配や視線に敏感な山口は、その視線の主にすぐに気が付いた。
弓削だ。山口と目が合うとすぐに顔を赤らめて逸らす、彼に違いない。
(やはり…余計なことをした)
あの時に、あの場面に遭遇し…そして、彼を助けてしまった。しかも助けたのが山口であることを弓削に知られてしまった。
弓削を助けたと言うだけで、彼のなかで山口という存在が一体どんなふうに美化されてしまったのだろうかと、それを考えるだけで鬱になった。あの時は気まぐれで助けただけで、同じ場面に遭遇したからと言って同じように助けるとは言い難い。その証拠に、男に襲われていた弓削に対しても「自業自得だ」という感情があったのだから。
だから彼が山口に感謝する意味は全くなかったのだ。
「…面倒な」
山口は弓削の視線をそう吐き捨てて、またいつもの生活に戻るように努めた。
弓削の視線を感じたとしても徹底的に無視する。そしていつか弓削が忘れるまで。たった一度、助けただけだ。そうしていれば彼の一時的に盛り上がった感情はいつか収まるだろう。
そう思っていたのだが。
「山口先生!」
「……」
多くの門弟が集まる稽古の最中、在ろうことか弓削の方から山口に近づいてきたのだ。表には出さなかったが山口は内心、大きなため息をついた。
「…なんだ」
「あの…稽古をつけてくださいませんか!」
弓削の言葉が無駄に響いて、道場が少しざわついた。
初めて近くでまじまじとみる弓削は長い黒髪を一つに束ね、まるで娘が男装をしたかのような華奢な身体をしていた。確かにこれでは女と間違われても仕方ないだろうし、男たちの慰み者の対象になりかねない顔立ちだ。
山口はちらりと周囲の様子を見渡した。先日の佐伯、黒田をはじめ数名の門弟たちが山口に厳しい視線を浴びせていた。普段一匹狼として人と群れない山口に弓削が声をかける…それだけで騒ぎ立つ。思っていた以上に、弓削は注目されていたらしい。
しかも弓削の頬は少し赤らんでいて、瞳は爛々と輝いていた。これではあまりにあからさまだ。
(どうする…)
拒むことは簡単だが、それはかえって周囲から浮くだろう。
「…わかった」
だったら弓削の感情に、そして周囲の思惑に鈍感なふりをして稽古をつけてやる方がよいだろう。いつもと違うことをする方が目立ってしまう。
「ありがとうございます!」
大げさに感謝する弓削を無視して、山口は面を被り、竹刀を構えた。弓削も同じように面を被ったが、その下で心底嬉しそうに顔をほころばせていた。まるで
(花の咲くような…)
そんな表情をしていた。彼が男であり、そして弓削凛太郎という名前であるということが、かえって嘘であるかのようだ。それは誰の目にも焼き付いてしまう魔性…それが弓削の中にあるのだろう。
山口はそんなことを思った。

選択した鈍感なふりをして稽古をつけてやる…その判断がどうやら間違っていたらしい、と気が付くのはすぐのことだった。
まずは稽古道具が隠されることから始まった。それからひそひそとした陰口、根も葉もない言いがかり、通りすがりに吐かれる暴言…もともと人と群れずにいたせいで、周囲に味方はおらず、誰もそれを止めることはせずに山口は孤立した。
だがそれは山口にとって特に構わないことだった。一人でいるのは楽だったし、人とかかわらないでいられるのも返って好都合だ。誰が何を言ってもそれを耳にしないようにと心掛ければ、それは単なる雑音でしかない。一人で剣に集中できる。
しかし、困ったことが一つだけあった。
「山口先生、稽古をお願いします!」
「……」
弓削だけがそんな風に相変わらず山口にかかわりを持とうとしていたのだ。
最初はわざとかと思っていたが、どうやら弓削は周囲の山口に対する嫌がらせに全く気が付いていないらしい。連中が弓削には気づかれないようにしていたというのもあるだろうが、もともと弓削はそう言うことに鈍感なようだ。
弓削がまっすぐで無垢な眼差しを山口に向ける。
連中も、おそらくこの眼差しの意味に気が付いたからこそ、山口への嫌がらせをやめられないのだろう。
(やっぱり…面倒だ)
だからこそ、今からでも遅くはない。拒絶をすればいい。
分かっているのに。
(どうして…できない?)





253


土方の許可を得て、『見習い』として屯所に住まうことになった弓削は、隊内ですぐに評判を呼んだ。整った愛らしい顔立ちや小柄で色白な姿をした彼が、炊事洗濯に身を窶している姿は、まるで若い女のようで、隊士たちにとっていわばアイドル的な存在として受け入れられたのだ。
だが、ひとつ予想外なことがあった。
弓削が台所を手伝う様子を見ながら、総司は
「…弓削さん、とんでもなく不器用だったんですねえ」
と、声を漏らした。
仕事に対しては率先して取り組むが、いかんせん手元が器用ではないらしく、台所を担当する小者から弓削は早速「戦力外」の通告を受けていた。
「木刀の腕はたいしたものやとは思うけど、包丁持たせたらあかんわ。まるで子供に包丁持たせるようで見とるこっちがハラハラするわ」
とのことだった。そこで早速配膳係へ仕事は移ったようだが、それでも両手で盆を運ぶ時の危うさといったら、総司が手を出したくなるほどのものだった。しかし彼が食事を持っていくと隊士たちが喜ぶので、しばらくは様子を見守ろうとは思っているのだが。
「すみません。こういう仕事はあまり慣れなくて、道場でもお前はやらなくていいと念を押されていたものですから」
弓削は恥ずかしそうに頭を掻く。
総司が『見習い』として八木邸に身を置くことを勧めると、弓削は二つ返事で受け入れた。道場で師範代を勤める弓削が、下男のような真似をすることを嫌がるかと思いきや、不器用ながら率先して仕事を手伝っている。朝早くからの仕事も辛いはずだが、「やめる」と口にすることはない。
「沖田先生に恩情をかけて頂けて本当に有難いです。ご迷惑を掛けないように、しっかり働きます」
弓削の前に向きな言葉に偽りはない。総司も
「いつも人手不足ですから、助かりますよ。本当は入隊試験を受けさせてあげれば良いんですけどね」
と、お世辞ではなく本心で思っていた。齋藤だけならまだしも、土方にまで止められてしまったので、さすがに総司でもそこまで力は及ばなかった。
しかし弓削は「とんでもない」と首を横に振った。
「やま…斉藤先生に入隊を拒まれてしまった以上、僕なんかが入隊できるとは思っていません。僕は斉藤先生のお傍に住まわせてもらうだけで十分です」
少し顔を赤らめて語る弓削の表情を見て、鈍感な総司でさえも彼が斉藤のことを一途に思っているのがわかる。
「でも道場へ戻らなくて良いんですか?師範代の仕事は…?」
「…それは」
弓削が俯きかけたが、「あっ」とすぐに視線を上げた。
「斉藤先生!おはようございます!」
総司の背後に視線を向けて、深々と頭を下げて弓削が挨拶した。総司が振り向くと不機嫌そうにこちらに向かう斉藤の姿があった。
「おはようございます、斉藤さん」
「ああ。…副長が呼んでいた」
挨拶もそこそこに言葉少なに答える斉藤だが、その視線は一切弓削に向くことはない。まるでその場にいないかのような態度に、弓削は顔を歪めた。さすがの総司でもそのあからさまな態度には「斉藤さん」と語気を強めた。しかし斉藤はあっさりと聞き流し
「それだけだ」
というとすぐに踵を返す。さっさと帰る背中は、頑なに弓削の存在を認めないのだという意思を感じた。
(どうしてそこまで…)
斉藤が何に対しても無関心なのはいつものことだが、意図をもって無視するという態度にはいつもの斉藤らしくない無関心さが窺えた。それはきっと二人の間に起こった過去に起因するのだろうが、斉藤は頑なに口を閉ざし、弓削も語ろうとはしない。総司にはどうすることもできず、二人の関係はまだ遠く離れたままだ。
「あ…じゃあ、僕、朝餉の準備に戻ります…」
傷ましく歪んだ顔を、必死に笑顔に戻して弓削は総司に背中を向けて、台所へ戻った。その目尻に浮かんだ涙を見て、総司は駆けだして、すぐに斉藤の後を追った。
「斉藤さん!」
呼び止めると、斉藤は立ち止まった。
「斉藤さん、あんまりですよ!」
「あんまりだというのはこちらの台詞だ。何かの嫌がらせのつもりか」
吐き捨てるように言い返す斉藤に、総司は「そんなことは今関係ありません」と聞き流した。
「で、何が?」
「弓削さんのことに決まっているでしょう!」
総司にまであくまで無関心を装う斉藤に、総司は突っかかった。
「過去にいろいろあったのかもしれませんけど、もう少し優しくしてあげてくださいよ!弓削さんがどんなに心を痛めているか、わからないんですか?!」
「優しくして、どうするんだ」
総司の熱弁を無視して、斉藤はやはりまるで興味が無いことのように斬り捨てた。
「優しくしてやれば何か解決するのか?一度優しくすれば、もっと優しくされたいと思うだけだ。捨て猫が一度気まぐれでやった餌を、また求めてやってくるように」
「だからって…」
「それ以上に何がある?」
問い返されて、総司は言葉に詰まった。
斉藤が一時だけ弓削に優しくしたとしても、弓削の思いは報われることはない。それを斉藤自身が一番よく知っているからこそ、拒絶し続けているのだというのなら、総司が介入できる問題ではない。
(…もしかして、彼をここに住まわせたのはあまり良いことではなかった…?)
弓削が近づけば近づくほど、斉藤は拒絶をする。だったら門前で座り込む彼を放っておくほうが良かったのか。屯所に招き入れたのは余計なお節介だったのだろうか…そんな今更なことを思っていると、斉藤は止めていた足を再び進めた。
「今日は出掛けると副長に伝えている。三番隊と一緒に巡察を頼む」
「あ…」
業務連絡だけを口にして、斉藤は去る。総司は引き留めようと伸ばした手を、躊躇いつつ引っ込めた。彼に問われたことの、答えが何もなかったからだ。


斉藤は屯所を出て、御所を通り過ぎ鴨川を渡った。夏は過ぎて、秋の涼しい風が頬を流れて行った。
屯所から離れるだけで、随分気が楽になった。弓削が同じ住まいにいる…そう考えるだけで、まるで責め続けられているようで、息苦しいと思った。あの真っ直ぐな目に見つめられるだけで、過去を暴かれ、そしてお前のせいだと蔑まれているようで。
そしてあまりに息苦しいあまり、この感情がいっそ彼を殺したくなるほどに、暗いものに変わってしまう。だから早く出て行ってほしいと思う。そう思うからこそ、彼には冷たく接するしかできないのだ。
斉藤は吉田山の麓にある、一軒の道場の前で足を止めた。古びた外観は出ていった数年前とあまり変わりはない。
ちょうど道場から出てきた若い門弟に、
「吉田先生に会わせてほしい」
と用件を告げた。門弟は訝しげにしたが、斉藤の名前を聞いて一度奥へ引っ込むと、すぐに戻ってきて「どうぞ」と斉藤を招いた。
道場から奥に通される間の景色も、斉藤が知っているそれに違いない。その匂いも、吹き込む風もまるであの頃を彷彿とさせる。しかしあの頃のような騒がしさは薄れていた。門弟の数も少なく、稽古の声も聞こえてこない。
若い門弟に一番奥の部屋へと通される。そこには布団に横になるかつての師・吉田勝見の姿があった。
「…お久しぶりです」
斉藤の挨拶に吉田は「ああ」と短く答えて手を挙げた。道場では金切声をあげて稽古をつけていたのに、すっかり痩せ細っていた。どうやら弓削が言っていた以上に、身体は衰えてしまったようだ。
「いまは……どういう名前を、名乗っているんや?」
「…斉藤一と」
「斉藤…」
斉藤一。その名前は京でもそこそこ知れ渡っているだろう。吉田がその名前を知っているとしたら、斉藤が今何をしているのかもおのずとわかるはずだ。しかし吉田は「そうか」と答えただけで何も追及はしなかった。道場には様々な思想を持つ若い衆が集まっていたが、吉田自身はそういうことには無関心で剣の道のみが自分の道だと信じるような堅物だったのだ。
「もう二度とここには来ないのやと思っていたが…さては弓削がお前を見つけたんやな」
「…おっしゃる通りです」
斉藤の答えに、吉田は目尻の皴を増やして笑った。
「執念…やな。師範代をほっぽりだして、お前を探しに行っただけはあったようや」
「甚だ迷惑ではありますが」
「そういうなや」
吉田は身体をゆっくりと起こした。斉藤が背中を支えようと手を伸ばすと「いらん」と拒絶した。昔から頑固な師だった。
「お前が出て行ってから、弓削は見違えるように稽古をしたんや。それまで屯してた者とは縁を切ってな…。ついに師範代になったとき、一年だけ暇が欲しいゆうてな。お前を探しに行った」
「…一年」
「あと五日でちょうど一年や。その日に帰ってくる約束や。…せやから、執念、ゆうたやろう」
ふん、と鼻を鳴らした師に、斉藤は「そうですね」と同意した。弓削が斉藤と再会したのは五日ほど前だ。だとしたら残り十日の所で斉藤を見つけ出すことができたということになる。
「御覧の通りのご老体や。弓削が帰って来なければ、道場はもう続けられんやろう」
「…そうですか…」
弓削は約束を違えるような性格ではない。ましてや吉田がこのような状態なら、道場の為に戻ってくるだろう。だとしたら弓削が傍に居るのもあと五日ということだ。
寂しくはない。安堵する気持ちもある。しかしその一方で、このままでいいのかと自問自答する気持ちもあった。
すると吉田が穏やかに続けた。
「お前たちの間に何があったのかはしらん。だが、弓削には今後、この道場を任せなければならん。あれは俺にとって孫のようなものだ…弓削の為にも…ひと肌ぬいでやってくれ。…頼む」
あれだけ頑固だった師が病床で頭を下げる。弓削の為に、弓削の本懐を遂げさせるために。
(それでも…)
深い溝が、彼との間には隔たっている。この溝を埋める方法を、斉藤は知らない。



254


あまり長く話し込んでは、見舞いにならないだろう、と思い斉藤はすぐに別れの挨拶をした。
「また参ります」
決して遠くはない距離だ。いつだって来られるだろうという気持ちに嘘はなかったが、吉田は苦笑して「無理に来んでもええ」と言った。
「お前は昔から早くここから出て行きたいという顔をしておった。近所に住んでいるのに今までここに寄りつかんかったのが、その証拠や」
斉藤の性格をよく知る吉田は、的確に斉藤の心情を読み取る。吉田はかつて友人の息子である…それだけの理由で斉藤を匿った。余計な詮索もしなければ、過去に干渉して来ず、来るもの拒まず去る者追わずのその性格は、これまで斉藤が出会った中で、自分に一番合うと思える人物だ。
「…では、また」
斉藤はもう一度挨拶をして、返事を待たずに部屋を出た。
庭は少し荒れていた。主人が寝込むようになったせいだろう。そのなかで足元の雑草に目もくれず、色付き始めた木々が、斉藤を過去の記憶へと誘った。


弓削に乞われて稽古に付き合うようになってから、彼への曖昧な感情が常に胸を占めるようになった。傍に居ると面倒だと思うのだが、遠くにその姿を見つけると視線を向けてしまい、彼のことが気になる。こんな感情を今まで人に向けたことはない。
(恋か…?)
その感情に名前を付けるなら、そういうことになるのだろうか、と考えるがそうではない気がした。彼に対して焦がれるような感傷を持ったことが無いし、何よりも傍に居て面倒だと思うのがその証拠だろう。
ただ今わかるのは、この「感情」が山口の中でとても鬱陶しいものであるということだ。霞みのように実体のないそれが心の中に沈殿しているのが、とても、とても鬱陶しい。
(叶うなら…消えてくれ)
この感情も、弓削も…目の前から消えてくれればいいのに。
そうすれば元の自分に戻れる。孤独な一匹狼の気楽さが、いまは欲しい。それなのに。
「山口先生、一本、よろしくお願いします」
稽古が終わり、門下生たちがぞろぞろと道場を去る中で、弓削が性懲りもなく声をかけてきた。純粋で無垢な瞳は、子犬のそれによく似ている。尻尾でも振っていそうなものだ。
こういった弓削の誘いは、三回に二回は適当な理由をつけて断るようにしていた。傍にいてほしくないという気持ちと、そして心を完全には許していないのだと弓削に分からせるためだ。しかし、それなのに飽きもせず稽古を願い出る辺り、彼は何も気が付いていないのかもしれないが。
「…一本だけだ」
前の二回は断っていた。だから仕様が無く引き受けた。
「はいっ!」
しかし、弓削はまるで飛び跳ねるように喜んだ。歳の差はあまりないはずだが、彼が子供っぽく見えるのは小柄な身体と顔立ちのせいだろうか。
弓削は早速、山口と距離を取って竹刀を構えた。丸く大きな瞳が少しだけ鋭くなる。
こうして竹刀を合わせるようになって一か月ほど。稽古終わりの少ない時間ではあったが、弓削は確実に上達していた。
まず、勢いに任せて飛び込んでこなくなった。若い門下生ほど、先手必勝とばかりに早く打ち込んでくるが、それは闇雲であることと左程違いはない。相手の姿勢や視線を見極める時間がその後の打ち合いを大きく左右する。そのことを弓削は早くに身に着けた。そしてその視線を決して相手から外さないようになった。山口のような格上が相手でも、ゆるぎなく視線を外さない。
(おそらくは…相当に上まで、上り詰めるだけの才覚はある)
これまで門下生たちに埋もれて周囲からも凡才だと思われていたかもしれないが、技術や体力は自分で補い一通りを身につければ、まだまだ伸び白があるだろう。また元来の真面目な性格が基礎を忠実に守るよう、無意識に働きかけているおかげで、美しい剣術を身に着けている。
鍛え上げればゆくゆくは師範代にもなる…そこまで考えが及んだところで、山口の中の暗い気持ちが湧き上がった。
(…だったら、何だというんだ…)
自分の愚かな考えに、苛立った。
一人前になるまで自分が稽古をつけてやる?そんなことをする必要なんてない。弓削の稽古に付きやってやるのは「仕方ない」からだ。自分がいまこの道場の師範代で、彼を教える立場にあるからだ。
「やぁっ!」
意識を離しているところを彼に気づかれたのだろうか、弓削が大きく前に踏み込んで面を狙ってきた。山口は一瞬の判断で剣先を薙ぎ払ったため、前につんのめった弓削は転びかけるが、どうにか足を踏ん張ってすぐに振り返って竹刀を構えなおした。
その大きな黒い瞳が好戦的な眼差しに変わる。淀みないその輝きは、見ているだけでこちらの目を潰さんばかりに眩しい。
だから、苛立つ。
(お前のそれは恋じゃない)
そのセリフを何度、口に出しかけたことだろう。
ただ偶然助けただけだ。あの時の気まぐれで、もしもう一度同じ立場になった時に助けてやるかなんかはわからない。それなのにお前はそれを「恋」だと断言できるのか。お前は俺の何を知っているんだ。知っていると断言するとしたら、それは一時の過ちだと…そう、彼を断罪したい。そうすればその整いすぎる顔立ちが一気に歪むのだろうか。花が萎れるように、山口に向けていた感情を一気に消し去るのだろうか。
だが、それができない。
彼を完全に拒絶するという選択肢が…今までで一番、山口を気怠い気持ちにする。
(面倒くさい…!)
あれこれ考えるのは面倒だ。剣のことだけに集中したいのに、どうして弓削の姿ばかりが思い浮かぶのか。
お前さえいなければ、こんなに面倒で、薄暗くて、霞んで、沈殿し、嫌悪で染められた真っ黒な気持ちを知らないで済んだかもしれないのに。
「やああぁぁ!」
甲高い声を上げて、弓削が打ち込む。まっすぐで迷いのない剣に、山口はかつてなく身体中が熱くなったのを感じた。
そして完全に、意識がある一点に集中した。
眼前まで打ち込まれた剣先。弓削の表情が一瞬変わった。かつて一度も取ったことが無い山口から一本を取ることができた…そんな確信と歓喜が滲み出ていた。
しかし、山口は一瞬のうちに身体を移動させて、上から下へと叩きつけるように弓削の竹刀を打ち落とした。弓削は手から竹刀を床に落とす。
いつもならこれで仕舞いだ。しかし山口はそのまま自身の剣先を横へと薙ぎ払った。弓削の胴に直撃し、弓削は二、三歩先まで吹っ飛ばされる。胴をつけていなければあばらの数本が折れていたことだろう。弓削はその衝撃に背中から道場の床に倒れる。だがそれでは終わらなかった。山口は弓削の元まで行くと、その竹刀の先を喉元目掛けて振り落したのだ。
弓削の表情が困惑と恐怖と…そして驚きへと変わった、その一瞬のことだった。
「止めッ!」
鋭く厳しい声が山口の耳に飛び込んできて、はっと我に返る。竹刀の先が弓削の喉仏に触れるか否かというところで止まっていた。
声の主は吉田だった。また道場の周りにも野次馬のように門下生たちがこちらを見ていたことに、山口は全く気が付いていなかった。
山口は弓削から離れた。弓削は緊張の糸が途切れたのか、ゲホゲホと息苦しそうな咳を繰り返していた。吉田が門下生たちに「見てやれ」と指示をして、弓削が肩を借りて道場から出て行く。
弓削を殺す。殺したい…そういう明確な意図があったわけではない。ただ、「いなくなればいい」という感情が確かにあり、無意識に命を落とす危険があるところまで弓削を追い込んだ。その事実は間違いないし、その場面を吉田や門下生たちも見ていたのだ。
(愚かな…)
山口は、弓削に苛立つ以上に、自分に苛立った。稽古中に我を忘れて人一人を殺しかけるとは。それでは郷土で人を斬ったのと何ら成長がないではないか。
(しかも、自分の感情に走った…)
何よりも自分の感情を優先させた行いをしてしまった。その事実に山口は絶望した。
すると吉田が山口の方へ歩いてきた。
「…大丈夫か」
言葉少ない師の気遣いに、山口は何も答えることができなかった。


その夜、山口は重い身体を引き摺って弓削の元へ向かった。弓削は近所に家がありそこから道場に通っているのだが、今日は怪我のせいで道場で休んでいくことになったのだ。
弓削が休む客間の前まで来て
「…失礼する」
と障子を開けた。仄かな灯りが部屋を照らし、弓削が横になっていた。
「山口先生!」
胴着の上からでもあばらが二本折れているということだったが、弓削は山口の訪問に笑顔を見せた。無理やりに身体を起こし迎え入れる。
「悪かったな」
山口は軽く頭を下げた。弓削には言葉ほど謝っているようには聞こえなかったはずだ。しかし弓削は「いいえ!」と首を横に振った。
「僕が未熟だっただけです。それに山口先生に本気で立ち会っていただけるなんて、光栄です!」
「…そうか」
山口はここまで弓削を叩きのめした件について、「思わずムキになってしまった」と周囲に説明をした。門弟たちはそれで納得して、吉田は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。だが、弓削はそれを前向きにとらえたようで
「これからもよろしくお願いします」
と丁寧に頭を下げてきた。
責めてくれる方がまだマシだったのに、と山口は思った。仄かな灯りの下でもわかる、曇りのない瞳は
(眩しすぎる…)
と、山口にさらに暗澹たる思いを齎した。そんなことを、彼は全く気が付いていないのだろうが。
「…じゃあ、それだけだ。ゆっくり休め」
これ以上彼と一緒にいると、また同じことを繰り返すかもしれない。山口はそう思い、すぐに腰を上げたが、弓削が
「あの…!」
と山口を引き留めた。
「何だ」
「あの…その、一つお願いがあるのですが」
怪我をさせた以上、無下にすることはできず、山口は「言ってみろ」と促した。すると弓削が少し顔を赤らめて続けた。
「…山口先生にお話があるのです。ここではお話するのが憚られますので…十五夜の夜に、どこか違う場所でお会いできませんか?」
山口はすぐに悟った。彼が何を話したいのか、何を言いたいのか。溢れそうになるのを堪えていた感情を、ぶつけられるのだろう、と。
「……わかった」
「宜しいんですか?」
願っておきながら、弓削が驚いた顔をした。山口は頷いて返す。
「吉田神社でいいだろう」
「は、はい…!ありがとうございます!」
弓削がまるで願いが成就したかのように喜んだ。山口は目を逸らし、「じゃあな」と短く言って弓削に背を向けた。
山口は部屋を出て夜空を見上げた。色付き始めた庭の木々の樹上で、月は満ちようとしていた。




255


夕刻。総司が巡察から戻ると、部屋に閉じこもりがちだった山南が八木邸の庭を散歩しているところに出くわした。
「…やあ、お疲れ様」
朗らかに声をかけてきた山南だが、その表情は未だ影が残り、先日の葛山の一件に心を痛め続けていた。
「山南さん、今日はお加減が宜しそうですね」
総司はわざとそんな風に言った。言霊というものがあるように、「顔色が悪い」と心配するよりも、励ましたほうが良いと思ったのだ。
すると山南は少し微笑んだ。
「そうだね。八木さんの庭を見ていると心が落ち着くよ」
山南はそう言いつつ、庭の木々を見上げた。ついこの間まで太陽の光に照らされて青々としていた葉が、いつの間にか茜色に染まりつつある。
「今年の夏は何だか長かったように思うよ。池田屋のあの日もとても暑かった」
「そうですね。何だか遠い昔のことのようですが」
「あれから三月しか経っていないなんて嘘のようだ」
ふふっと笑った山南だが、またすぐに寂しげな表情に戻った。
「昔を懐かしんでいる場合ではないとは思うのだが…どうしてかな、試衛館の頃のことばかり思い出してしまうよ」
「……」
池田屋のあの時のことが遠い昔のことであるように、試衛館での日々はまるで泡沫の夢のような時間だったと、今では思える。気の合う食客たちと何の困難も不安もなく過ごせた日々…平穏で代わり映えのない日々に土方は飽き飽きしていたけれど、総司はどうあれ満たされていた。そしてあの頃の山南は少なくともこんな表情はしていなかった。
「…大丈夫ですよ。みんな、同じことを思っています」
「そうかな…」
「そうですよ」
満面の笑顔を作って、総司は頷く。不安そうに顔を歪めていた山南が、しばらくして「そうだね」と頷いた。
「明里のところに行ってこようかな。土方君に伝えておいてもらえるかい?」
「はい。わかりました」
こんな時は、誰よりも山南の心を癒やす明里に任せるのが一番だ。総司は少しだけ足取りを軽くした山南が八木邸を出ていくのを見送った。
すると去っていく山南と正反対に、斉藤が屯所に帰ってきた。
「…おかえりなさい」
今日の別れ際のやり取りのせいで総司はぎくしゃくしてしまったが、斉藤は特に気にする様子はなく「ああ」と言った。
「どちらへ行かれていたんですか?巡察を放り出すなんてらしくないですね」
「…世話になった道場に。弓削はどこだ」
総司は驚いた。見習いになってから弓削の存在を無視し続けていた斉藤の口から弓削の名前を聞くなんて。
(もしかして回心してくれたのかな…?)
だったら柄でもないお節介も無駄ではなかったのだろうか。総司は自然を頬が緩んだ。
「弓削さんなら、夕餉の支度をしていると思いますよ」
「わかった」
しかし斉藤の方の表情は相変わらず硬く、総司の返答を聞くとすぐ足早に前川邸に向かった。
(なんだろう…)
総司はしばらく立ち尽くして、山南にそうしたように彼の背中を見送った。


十五夜は思っていたよりも早くやってきた。門弟たちは稽古が終わると夜の宴に向けて浮足立っていたが、その中で一人、弓削は少し顔を強張らせていた。山口に話があると告げてからは、それまで鬱陶しいほどにまとわりついていたくせに、ぱたりとそれを止めた。
山口はその表情や様子を見て、やはり彼の言いたいことは自分が思う通りなのだと確信した。そして稽古が終わった山口は、師の元を訪れた。
「何の用や」
師である吉田は刀の手入れをしつつ、そっけなく尋ねた。いつものことだ。
「…今夜、道場を出ようと思います」
重く告げた言葉に対して、師は驚かなかった。おそらく既に何かを見抜いていたのだろう。
「一応、理由を聞いておこうか」
「…同じ過ちを繰り返さない為です」
「弓削を殺しかけたことか」
吉田の鋭い返答に、山口は頷いた。
「先生に止められなければ確実に弓削を殺していました。それだけで出ていく理由になります」
「お前は弓削が憎いのか?」
憎い…それは少し外れている気がした。殺したいという衝動に駆られたのは、彼に消えてほしいと思ったからだ。自分の惑わし、騒がせ、心にまでまとわりつく弓削にどうしていいかわからず、苛立った。
「…憎くはありません」
「なら、恋か」
飾りない言葉で問いかける師に、山口は唇を噛んだ。自分で思うよりも、人から言われる言葉の方が敏感に自分の感情に引っかかった。しかし、山口は努めて無表情を装った。
「…ただ、離れたいのです。言葉にすれば、邪魔だということです」
「邪魔だと言うんやったら、弓削を破門にしてもいいんやが」
「それは必要ありません」
山口は咄嗟に庇った。弓削のことを邪魔だと思っているが、悲しむ顔は見たくない。彼は何も悪くないのだから、傷つける必要なんてない。
吉田は「ふうん」と含みのある返答をしながら、露わにしていた刀身を鞘に仕舞った。小気味の良い音が部屋に響く。
「…お前には言うてなかったけどなあ…父君には、お前に俺の跡を継がせたいと申し出ていたんや。無口やけど腕が立つ。正直、お前以外の門弟はどれも使い物にならん」
その言葉を山口はじっと聞いて、何の反応も見せなかった。己が思っていた以上に師は自分のことを認めていた。それを喜ばしく思う気持ちはあるが、答えられないことを知っていたからだ。すると吉田が「ふん」と鼻で笑った。
「せやけど、父君には無理やといわれた。お前は一つのところにとどまるような柄やないと。確かに、実際ここに飽き飽きしているようやしな。自分より強い者がおらんここは、とてもつまらないとずぅと思っておったやろ」
「…おっしゃる通りです」
「それに、いま、ようようわかった。お前は道場主にはむかん」
吉田は吐き捨てるようにいった。
「ただの寡黙やと思うておったけど、違ったようや。お前は実に冷たい」
「…冷たいことには自覚があります」
「何かが欠けとる」
曖昧で抽象的で、しかしかつてない厳しい指摘だったが、的を射ていたようにずっしりと心に突き刺さった。それは見て見ぬふりをしていたことだった。
吉田は続けた。
「他人にも自分にも優しくなれん。そういう奴は道場で門下生を相手にするよりも、文字通り、本物の一匹狼になった方がええ」
弓削にも…自分のこの生暖かい感情を抱くことさえ許せない。自分が剣以外のものに心を囚われることをいつも危惧していた。何にも囚われたくない自由を、ずっと求めていた。それが叶わないことを知らずに。
師はそれを欠落だという。だからずっと前からこんな風に山口が「出ていきたい」と言うと分かっていたのだろう。
「最後に…差し出がましいことを申し上げますが、もし跡継ぎをお考えでしたら、弓削が良いと思います」
「弓削か…」
「はい」
彼が持っているものは、おそらくは周りもそして本人さえも気が付いていないだろう。しかし確かな原石がそこにはあるのだと、山口はそれだけは彼の中から見出していた。
すると吉田は「わかった」と頷いた。山口は少しだけ肩の荷が下りたような気がした。そして居住まいを正して吉田に頭を下げた。
「お世話になりました」
江戸から流れてきた自分を、吉田は父親の代わりをするわけでも、慈しんでくれるわけでもなかった。しかしいつでも認めてくれていた。山口にはそれで十分だった。
別れの挨拶に、吉田は何も言わなかった。それも師らしい態度だった。

十五夜の宴に出かける門弟たちが気付かないように、山口はすぐに道場を出た。手荷物は少ない。路銀は大してないが、何とかなるだろう。行先も決まらぬ旅になるが、それまで山口を縛り付けていた道場と言う檻と弓削という存在から解き放たれるのなら、この先もどうにかなるだろう。
これからの展望を考える中でふと、弓削との約束が頭をかすめた。彼は十五夜のこの夜に待っていると言っていた。おそらくこの寒空の下で、吉田神社の境内で山口のことを今か今かと待ち続けているのだろう。
彼は何を言いたかったのだろうか。何を伝えたかったのだろうか。
だが、山口は弓削のところへ行くつもりはなかった。彼がどんなに待ち続けようと、二度と弓削には会うつもりはなかった。
(会えばまた…乱される)
彼と向かい合うのが怖い。彼の声を、彼の姿を、彼の匂いを感じるだけで、全てを鷲掴みにされてしまうような、この感覚が嫌だ。
(恋だったかもしれない)
吉田の言うとおりだ。それは認めよう。一目ぼれとかいう厄介でどうしようもなく根拠のない、大嫌いな感情だった。だからこうして逃げた。逃げるしかなかった。逃げなければ、その感情が追って来て、捕まってしまうから。


やがてすべてを忘れた。吉田道場で過ごした日々も、弓削に抱いた感情も…忘れることで、別離した。そうして、ただの山口一になったのだ。





256


まるで落ちてくるような満月を眺めながら、弓削は吉田神社の境内で今か今かと山口の姿を待ち続けた。場所の待ち合わせはしていたが、時間を決めてはいなかった。いつになったら山口が来るのかはわからない。しかし弓削はいつになっても待ち続ける覚悟をしていた。
手元の灯りしかないなかで、弓削は山口の姿を思い浮かべた。稽古の時の凛とした横顔が脳裏に焼き付いて離れず、思い出すたびに体温が上がった。山口のことについては、普段から無口で何を考えているかわからないと門弟たちに揶揄されていたが、弓削には彼が剣を持った時だけは能弁に語っているように思えた。剣にまっすぐに向かい、剣に正直に振るう。少しでも高みに近づくための努力を惜しまず、周囲の声に惑わされない姿は、弓削にとって憧れでもあり目標でもあった。そしていつしか山口のことばかり目で追うようになっていた。あんなふうになりたい、あんなふうに剣を振るいたい、あんなふうに見つめられたい…その感情は色めいたものに変わり、あの日助けられたことで、いつの間にか…いや、ずっと前から山口に惚れていたのだと確信した。
それからはもっと近づきたいという気持ちになった。少し嫌な顔をされるけれど、稽古をつけてもらうその一瞬一瞬が嬉しくて仕方なかった。彼に見つめられていることが、弓削には喜びでしかなかった。その時間が大切で、ずっとそうしていたいと願った。
だが、その一方で
(僕のこの気持ちは…きっと邪魔でしかない)
と、分かっていた。
だから口にするつもりはなかったけれど。その覚悟は簡単に崩れた。
山口は本気の眼差しを弓削に向けた。剣技を越えた本気の殺意を間近で感じ、弓削は正直、腰が引けた。殺されるのではないか…そう思ったと同時に、彼に殺されても構わないとさえ思った。そこまで自分の感情が膨らんでいたのだと自分自身で驚いたほどだ。
結果は吉田に止められて殺されることはなかったが、止められなければおそらくは死んでいた。山口はどうしてそんな感情を自分に向けたのかはわからなかったけれど、他の誰にも向けない剥き出しの感情を自分にだけは現してくれた…その事実で、心が揺らいだ。
(少しは僕のことを好意的に思ってくれているのかもしれない)
かすかな希望を頼りに、怪我をしたことに託けて山口をこの夜に呼び出した。自分が卑怯なことをしている自覚はある。殺されても構わないと願っていながら、山口が自分に向ける申し訳ない気持ちに付け込んでいるようで。でも、それでももっとそばにいたかった。その気持ちを止めることはできなかった。
(先生はなんていうかな…)
面倒そうな顔をするだろうか、それとも自分と同じ気持ちでいてくれるだろうか…不安と期待が交錯した。
だから何度も何度も彼に言うセリフを練習した。
ずっと好きだったこと、傍に置いてほしいということ、そしてもっとあなたのことを知りたいのだということ…。
繰り返し、繰り返し練習を重ねる。湧き上がる嫌な予感を払しょくするために。約束を破られているはずがない、と自分に言い聞かせる為に。時が過ぎて、満月が傾いて、そして朝日が昇るその時まで続けた。

「弓削はん、手ぇ止まってはる」
年老いた小者の声で、弓削ははっと我に返った。不器用な自分の、唯一得意な洗濯の途中だったのだ。
「す、すみません」
弓削は慌てて洗濯板を手にした。隊士たちの洗濯物はたくさんある。朝、洗濯をしていては間に合わないので、こうして夜のうちに済ませておくのだ。
結局、十五夜の夜に山口は弓削の元へ姿を現さなかった。それどころか、朝になってようやく諦めた弓削が、とぼとぼと道場に戻ると、山口が道場を去った後だった。弓削が吉田に詰め寄って尋ねると
『あれはずっと出てきたかったんや。放っておけ』
とあっさりと返答された。
弓削は絶望した。山口が何故道場を去ったのか…その真意は師も語ろうとはしなかったが、その理由におそらくは自分のことが含まれていると分かったからだ。
山口が自分のことを想ってくれているなんていう淡い期待は、弓削の身勝手な妄想にしかすぎず、山口は弓削のことが目障りで拒絶し、揚句、顔も見たくないと出て行った。その事実がまざまざと見せつけられたのだ。
弓削は跳ね返ってきた絶望と言う闇に、こっ酷く打ちのめされたが、しかしすべてを捨てるような真似はしなかった。このまま打ちのめされたままでは、得られるものも何も得られなくなる。山口の拒絶は、甘えてばかりの自分への教訓へと変わった。
それからは周りが「別人だ」というほどに剣に打ち込んだ。寝る間も惜しんで稽古に励み、山口に教えてもらったことを何度でも思いだし、実践した。そうすると引っ込み思案だった性格もいつの間にか変わり、道場でも上位を争う遣い手になった。ようやく自分自身で縛り付けていた山口からの呪縛から、逃れられると思った。
けれどそんな頃、師である吉田がこんなことを言った。
『まだまだ、あれには及ばんなあ…』
単なる呟き程度のもので、弓削に聞かせるつもりではなかったのかもしれない。けれど、吉田が言う『あれ』が山口のことだということはすぐに分かった。そしてまだ、自分のなかにはあの頃と同じ感情が眠っているのだと気が付いた。いつまでも追いかけていた。もういないのに、もうどこにもいないのに、それでも追い付きたくて…ずっとがむしゃらに。目が涙で滲み、そして吉田に請うた。自分に一年間だけ時間をくれと。その間にどうしても山口を探し出し、伝えたいことがあるのだと。
すると吉田は思っていた以上にあっさりと『好きにしろ』と言った。弓削はそれから一年間の旅に出たのだ。
(あと…五日)
時間がない、と弓削は思った。斉藤はまるであの日の続きのように自分のことを拒み、無視を続けていた。斉藤からすれば、あの日二度と会うことがないと決めたはずの相手が、周りをうろうろしているのだから当然の対応だろう。
(僕の名前を呼んでくれることも、もうない…)
あの日味わった絶望をもう一度体験するのか…弱気になる思考を、弓削は頭を左右に振って塞き止めた。何のために一年間、山口を…斉藤を探し続けたのか。
(僕はずっと聞きたかった…)
「弓削」
幻聴かと思い、弓削は一瞬止まって、もう一度洗濯板を握りしめた。しかし、もう一度「弓削」と呼ぶ声がした。恐る恐る振り向くと、声の主は幻聴でも幻覚でもなかった。
「…斉藤、先生…」
弓削は目を見張った。目の前にいる斉藤は相変わらず憮然としていたけれど、前までの刺々しい雰囲気は少し和らいでいた。
「話がある。ついてこい」
一方的に告げると、斉藤はすぐに踵を返してもと来た方向に戻っていく。これは夢か幻か…とぼんやりしていると、
「弓削はん!」
と年老いた小者が弓削の背中を押した。弓削は慌てて「これを頼みます」と洗濯物を彼に任せて、斉藤の背中を追った。

斉藤とともにやってきたのは壬生寺だった。薄暗い境内には灯りがともされていて、しかもそこには思いもよらぬ人物がいた。
「遅くに申し訳ありません、副長」
腕を組んで佇む男に、斉藤が頭を下げてようやく弓削は男の正体を知る。
「…副長…?土方、副長…」
弓削は門前で立ち止まってしまった。総司の『見習い』として屯所に住まわせてもらっているが、鬼の副長に会うのは初めてだった。足が竦みそうなほどの迫力を一瞬で目の当たりにした。しかしどうにか声を絞り出して頭を下げた。
「お初にお目見掛かります。弓削凛太郎と申します…沖田先生には、良くして頂いております」
「…ふん」
土方は弓削の挨拶に鼻を鳴らして聞き流した。そして不機嫌な態度を隠さずに、弓削のことをじろじろと見る。まるで気に食わないものを見るかのような嫌悪が滲む視線だった。
そうしていると、斉藤が弓削と向かい合い、突然、刀を抜いた。
「抜け」
「な…何を…」
戸惑う弓削に構うことなく、斉藤は切っ先を弓削へ向けた。
「抜かなければ死ぬぞ」
「…」
弓削は躊躇いつつも、腰に帯びた長刀を抜き、斉藤と距離を取った。未だに今の状態を理解できない弓削とは違い、斉藤は射抜かんばかりの視線を弓削に向けていた。
(あの時と同じだ…)
弓削はごくりと息を飲んだ。あの時、道場で向かい合い、本気で自分を殺そうとした山口と…姿が、重なった。
すると、腕を組んだままの土方が、
「私闘は禁じているはずだがな」
と、どこか他人事のように斉藤に言葉を投げかけた。茶化しているようにも見える。しかし斉藤は首を横に振った。
「こんなものはただの遊びです」
「遊び…な」
くっ、と土方は笑った。弓削は唇を噛んだ。
(これが…遊び…!)
下手をすれば互いに死ぬかもしれない。…いや、斉藤は死ぬなんて思っていないのかもしれない。
「斉藤先生は…僕のことが、お嫌いなんですね」
「……」
斉藤は何も答えない。弓削は覚悟を決め、刀を握り、構えた。
「副長…お願いします」
斉藤は弓削から視線を離さずに、呟いた。土方は頷くとすっと息を吸ってから
「始めっ!」
と声を上げた。
その一瞬に、弓削は踏み込んだ。かつて斉藤が道場にいた頃は相手の様子を見計らい、予測をしてから踏み込むことを教えられたが、今はそんな必要はない。
(山口先生の剣は…僕が一番良く知っている…!)
キィィンと真剣が激しく打ちつけられる音が響いた。弓削の一撃を斉藤は受け止めて、そして流した。
(あ…)
弓削は少し驚いた。かつて感じた、歯が立たない斉藤ではなかった。自分が成長したということか、斉藤が手加減をしているのか…それは分からない。けれど確かに手ごたえを感じたのだ。
「やぁぁっ!」
弓削は続けざまに左右に胴を払った。斉藤はどちらも打ち返し、距離を保ち続けた。そしてある一定の領域までは踏み込ませず、まるで捌くかのように弓削の一手一手を払い除けた。
激しい打ち合いが続く中、一定の距離を取った弓削は、大きく刀を振り落した。それまでで一番大きな音が響いて、互いにさらに距離を取った。
すると斉藤は突然、刀を下した。
「…上達したな」
「…っ」
道場にいた時から考えても、初めての褒め言葉だった。しかし弓削はその言葉を上手く受け入れることができなかった。その斉藤が、息一つ上がっていないからだ。
(やはり…僕では、敵わないのか…?)
追いついて、追い越したかった。師範代になった追い付けたと思っていた。それなのに現実は、こんなに圧倒的な差があるなんて。
斉藤はおろしていた刀を持ち、正眼に構えた。弓削も同じように構える。すると斉藤は目にもとまらぬ速さで、突きの構えを取り、大きく一歩踏み込んだ。
(早い…っ!)
弓削は一歩後ろに足を引き、どうにか持ちこたえた。打ち合ってきた中で初めての斉藤の攻撃だった。そして続けざまにさらに深く突きが繰り出される。弓削は身体を仰け反らせ、渾身の力でそれを受け止めるのが精いっぱいで、バランスを崩してその場に尻餅をついた。
(こんな…知らない…!)
道場にいた頃の山口なら、突きを繰り出すことは滅多になかったはずだ。しかもこんな速さで打ち込まれるなんて、弓削は全く知らなかった。
その場に座り込んだ弓削に、斉藤は剣先を向けた。
「斉藤」
それ以上はやめておけと抑え留める様に、土方が呼んだが、斉藤は無視した。あからさまな殺意を感じながら、弓削は身震いがした。
(やっぱり…あの時と同じだ)
既視感を覚えると同時に、弓削はどこか懐かしいような気持になった。刀を、殺意を、向けられているというのにその緊張感や恐怖はなく、ただその目に見つめられている幸福を噛みしめた。
「山口先生…僕を殺してください」
「…」
「僕は…ずっと、そう思っていました。あの日、あの時に僕を殺してくれたなら、こんな気持ちにならないで済んだのに…」
弓削は刀を離した。
(そう…僕はずっと、そう伝えたかったんだ)
僕の邪な思いが、あなたを傷つけたのなら。僕の期待が、あなたに重いと思ったのなら、僕の気持ちが…あなたにとって邪魔だと思ったのなら。この思いごと断ち切って欲しい。
「お願いします…」
弓削が懇願する。すると斉藤は少し沈黙して、刀を下した。
「山口先生…?」
斉藤の殺意が消え失せる。
「…俺も、お前に言わなければならないことがある」
そして刀を鞘に仕舞ったた。
「悪かった」
「え…?」
弓削は耳を疑った。斉藤の無感情な表情をまじまじ見ても、言葉とは一致しない。しかし確かに斉藤の口から謝罪が漏れたのだ。
「あの時、約束を果たしていれば、ここまでお前を追い詰めることにはならなかった。俺のせいでお前の人生を振り回したことに間違いない」
「そ…それは…!」
違う、と弓削が続ける前に斉藤が遮った。
「俺は、お前が怖かった」
「怖い…」
「曇りも淀みもない…真っ直ぐなお前が、俺に何を思っているのか、それを知りたくなかった。だから姿を消し、お前を忘れ、お前にも忘れられるのが良いと思った」
斉藤は表情を変えないが、弓削はぱっと頬を赤らめた。つまり斉藤は当時から自分の気持ちに気が付いていたということだからだ。
「あの時の俺は、何にも縛られたくなかった。道場という狭い世界に飽き飽きして、毎日が下らないと思っていた…だから、これ以上、余計な感情に振り回されるは真っ平だった」
「余計な感情…って…」
それはもしかして斉藤も自分のことを好いている…そういう感情なのだろうか。しかし斉藤はそれ以上は何も語らなかった。ただ
「ただ、俺はお前が思うような人間じゃない」
ときっぱりと告げた。
「お前を助けたのはただの気まぐれだ。同じことがもう一度会った時には、俺は見て見ぬふりをするかもしれない。俺は、そういう人間だ」
だから、お前が憧れるような、人生を棒に振るような…そんな人間ではない。
だから、こだわる必要はないんだと…斉藤がそういっているような気がした。
弓削は少し沈黙して「いいえ」と首を横に振った。
「…それでも、僕を助けてくれた、あの一度は紛れもない『本当』です」
「……」
あの一瞬は嘘ではなかったはずだ。弓削はどれだけ斉藤に勘違いだと言われても、それだけは譲れなかった。
すると、それまで傍観者に徹していた土方が「くっ」と笑った。
「頑固なところも、総司そっくりらしい」
「…」
土方のコメントに、斉藤は複雑そうに顔をしかめた。
すると土方が弓削へと目を向けた。
「…で、お前は斉藤に言いたいことがあるんだろう」
少しだけ土方の刺々しい目つきが和らいでいた。弓削は頷いて、今度は斉藤の目をしっかり見つめた。斉藤が怖いと言った淀みのない瞳を向けた。
「僕はずっと聞きたかった…僕のことが、嫌いだったのか。殺したいほど、憎かったのか…」
「そうではない」
弓削の問いを斉藤はすぐに否定した。そして少し黙って、
「お前には…感謝している」
「感謝?」
思わぬ言葉に弓削は目を見張った。斉藤は目を逸らしつつ、手元を口で隠す。
「あの頃はお前が目障りだった。いつも自分の中に面倒で鬱陶しい感情があって…それがお前のせいだと八つ当たりしていた。だが、今はその感情が一体何なのか、理解することができた。それはたぶん、お前のおかげだろう」
弓削は斉藤の表情から読み解く。眉間に皺を寄せて、少し目を泳がせて、言いづらそうで…。
(ああ、先生は恋をしていらっしゃるんだ…)
あの頃には正体が分からなかったそれが、今はわかる。だから弓削のことをこっ酷く無視して、追い返そうとしたのだ。
「…僕は、ようやく失恋ができました」
突然の幕切れから、忘れても引き摺りつづけてきた感情が、ようやく消化されるようだ。悲しいと思ったのに、全然悲しくはなかった。
弓削は話した刀を手に取り、腰を抜かしたままだった身体を起こした。立ち上がり、鞘に納める。
「最後に、もう一つ聞いても良いでしょうか」
「…なんだ」
ぱんぱん、と土埃を払って、弓削は訊ねた。
「先ほどの突きの技。道場にいらしたころには全く見たことがありませんでした。あれは道場を出た後に身につけられたものですか?」
「ああ…そうだな」
斉藤の答えに、弓削は微笑んだ。
斉藤は前へ進み続けている。自分が、そうしたように。
「…数日でしたが、お世話になりました。道場に戻ります」
同じ町に住むのだから、顔を合わせることもあるかもしれない。けれど、もう二度と会わないような気がしたし、出会ったとしてもお互いの人生が交わることはないだろうと弓削は思った。
月が満ちる、夜のことだった。






257


まるで、泥濘の上を歩いているようだ。

総司は頭巾をかぶり、片手には箒、もう片方の手にははたきをもって土方の部屋を訪れた。声をかけず、遠慮もなく部屋の障子を全開にして、
「おはようございます!起きてください!」
と目いっぱい叫んだ。部屋の主である土方は未だに掛布団を頭まで被り、聞こえないふりをしていた。総司は返事を待たずに土方の傍まで寄ってきて、容赦なく掛布団をはぎ取る。
「いい加減にしてくださいよ、土方副長!」
「…っ、てめ、寒いだろうが…っ」
「朝一番から掃除を始めるようにって、隊士全員に号令をかけたのはいったいどなたなんですか?!」
「……」
「寝たふりをしないでくださいっ」
目を閉じてなおも抗戦を続けようという土方に、総司は掛布団だけではなく、敷布団まで渾身の力ではぎ取る。朝が弱い土方は渋々諦めて身体を起こし、やれやれと頭を掻いた。
「朝っぱらから無駄に元気だな、お前は…」
「私は普通です。それよりもほら、早く着替えてください」
総司は部屋の窓という窓を全て開けきった。季節はあっという間に冬の兆しを見せ始め、ひやりとした風が頬を撫でる。寝起きの土方は嫌そうな顔をしたが、総司には身体が引き締る良い風のように感じた。
「近藤先生たちはあと三日後に帰京されるんでしょう。伊東大蔵先生たちも加入されることですから、綺麗にしてお出迎えしないと…って、そう言ったのは土方さんなんですからね」
「…はいはい」
口うるさいな、という文句を顔に出しつつも、土方が着替え始めたので、総司ははたきを手にした。
「お前は部屋の掃除は終わったのかよ」
「とっくに終わりました。それに、斉藤さんがもともと綺麗好きな方ですから、普段から綺麗なんですよ」
「ふうん…」
斉藤に比べて土方の部屋は、あちらこちらに書物や手紙が散乱していて、本人以外はその所在が分からないような悲惨な状態になっている。忙しさ故もあるだろうが、昔から外面はつくろうくせに、内面はずぼらなところがあるのだ。
総司は高い場所からはたきをかけて、埃を落とす。すると着替え終わった土方がまるで一仕事終えたかのように、その場に腰を下ろした。どうやら手伝うつもりはないらしい。
前川邸ではバタバタと走り回る平隊士たちの姿があった。土方の命令で、今朝早くから隊士たちは身の回りの清掃を開始していた。女っ気のない男ばかりの暮らしでは隅々まで行き届かず、こうして号令をかけて大掃除をしなければならない。しかも通常の巡察も行われるので、休む暇もないのだ。
「よいしょ…と」
埃を落とした後は、散乱している書物を一か所に集めた。書きかけの手紙や読みかけの本がたくさんある。総司は、そのなかの八木邸と前川邸の家屋を書き起こした図面に目を引いた。
「…伊東先生たちは八木邸にお住まいになるんですか?」
図面を手にして訊ねると、土方が頷いた。
「ああ。八木さんに離れを譲ってもらった」
離れの図面には『伊東』と既に記入されていたが、総司は別のことに驚いた。
「離れって…八木さんたちがお住まいにされている場所じゃないですか?」
郷士の家柄である八木家は、もともと江戸から上洛した浪士組へ一時的に住まいを貸したにすぎなかった。それが浪士組からの分派、残留により完全に屯所となり、八木家家人たちが離れに居を移し、現在に至っていた。
伊東らの入隊により、結果的に完全に新撰組に住居を乗っ取られる形になってしまっている。総司は胸を痛めた。しかしもちろん、土方も何も考えていないわけではないらしい。
「一時的に借り受けるだけだ。八木さんには親戚の家へ引っ越してもらうことで、合意を貰っている」
「でも一時的って言ったって…」
「だから、屯所を移すことを考えなきゃならねえ」
「屯所を?」
総司には素直な驚きと少しの寂しさが湧きあがった。入隊希望者が絶えずやってきて、徐々に隊士の数が膨れ上がってきた新撰組の現状を考えると、屯所の移動は当然ではある。しかし上洛した時から慣れ親しんできたこの場所を離れるのは寂しい。だが八木家のことを考えると少しでも早く居を移した方が良いに決まっている。
「まあ、まだ何にも決まっちゃいねえよ。近藤先生が帰って来てからの話だ」
「そうですか…」
総司は手にしていた図面を折りたたんで片付けて、文机の上に置いた。そして箒を手にして、落とした埃を掃く。
土方はなおも総司が掃く場所を避けて寛いでいる。
「土方さん、布団くらい干してください。今日は天気がいいから、夜は気持ちよく眠れますよ」
「お前…そういうこと言ってると、ほんと、嫁さんみたいだな」
「誰が嫁ですか!」
総司は顔を真っ赤にして、枕を土方に押し付けた。

同じ日。山南は通りすがりの行商人から花を買い付けて、八木家に借りた桶をもってすぐ隣の壬生寺に向かった。数人の子供たちが鬼ごっこを楽しむ様子を微笑ましく眺めつつ、目的の場所へと真っ直ぐに向かった。
「…立派な、墓だ」
山南は声を上げて感嘆した。そこにはつい先日完成したばかりの、墓石がある。それには芹沢だけでなく、一緒に亡くなった一派の者や、切腹して果てた新見、そして後に処罰された野口の名も刻まれていた。それらの名前を見ると、胸を締め付けるような痛みが走るとともに、少しの懐かしさが蘇った。
山南は墓石の前に座り込み、まず持ってきた花を供えた。そして桶に組んだ水をやり、落ち着いたところで手を合わせた。目を閉じると、あの頃の激情が蘇ってくるようだ。
芹沢という人間について、山南は一度として良い感情をもったことはなかった。思想は一緒でもやり方は常に反感を持ったし、人間としても信用できない部分はあった。共存はできても、承認はできない。最終的に暗殺という手段を簡単に選んだということも、おそらくはそのせいだろう。
しかし、今はそれを少しだけ悔いている。邪魔者は居なくなればいいと、そう考えるのは簡単なことだ。分かり合う努力を怠っていたのは自分の方ではないのか。簡単な方ばかりを選んでいるのは、自分のせいではないだろうか。
山南は閉じた目を開いた。そして苦笑した。
「何をしているだ…私は」
過去を振り返るばかりだからこそ、こうして前へと歩けないのだ。頭では理解しているのに、まるで自分で自分の足を引っ張るかのようだ。
空になった桶を手にして、戻ろうと立ち上がると、ちょうど背後に誰かが来たような気配がした。
「…おっ、山南さん」
「原田君」
軽く声をかけてきたのは原田だった。手には山南と同じように花束を持っていて、どうやら彼も墓参りに来たらしいとすぐに察した。
すると原田が「あちゃー」と笑った。
「山南さんが花持って来ているんだったら、俺は要らなかったな」
「そんなことはないよ。まだ挿すところがあるから」
「そう?」
原田はこちらにやって来て、余ったスペースに持ってきた菊を挿す。彩りが増して墓は賑わった。
そしてぱんっと手を合わせて目を閉じた。普段から総司とは違った意味で、大きな子供のような雰囲気がある原田が、こうして神妙な顔で手を合わせているのは何だか珍しい気がした。
山南がそんなことを考えていると、原田は目を開けて「よし」と墓に背を向けた。
「もう帰るのかい?」
「ああ。まあでも、早く帰っちまうと掃除を手伝わされるんだよなあ」
屯所は巡察に出た隊士以外は掃除に励んでいる。もともと家事全般を不得意とする原田は、抜け出してきたらしい。
時間を持て余す原田に、山南は
「…じゃあ、少し私の話し相手になってくれないか」
と誘った。すると原田が少し呆けた顔をして「俺でいいのか?」と聞いて来た。
「そんな難しい話じゃあない」
いつも気難しい話をしているイメージがあるのだろう。山南が笑うと、原田も安堵したようで誘いに応じた。そしてそのまま二人で壬生寺の境内に移動した。境内では、相変わらず鬼ごっこを楽しむ子供たちのはしゃぐ声が響いていた。
「原田君が墓参りに来るなんて、珍しいね」
「ま、けじめっていうか。江戸からお偉いさんが来たら、また新撰組も雰囲気変わるだろうからさ、あれこれ無駄な詮索をされないうちにな」
「…」
山南は素直に驚いた。原田は気楽に構えているようで、案外先を見据えていたのだ。
「もう一年も経つんだなあ」
穏やかに呟いた原田は、もう過去の思い出の一つのように整理してしまっているのだろう。何の惑いも混乱もなく澄み切った瞳をしていた。
その瞳を、山南は「羨ましい」と思った。
「…原田君は、新撰組のことをどう思う?」
「やっぱり難しい話じゃねえかよ」
勘弁してくれよと肩を竦めて苦笑する原田に、山南は首を横に振った。
「難しくないよ。君の感想を聞きたいだけだ」
「…ま、よくやってんじゃねえの?」
原田は足元に転がる小石を拾った。それを軽く投げる。
「江戸の田舎道場で屯していた俺たちが、都まで来て、新撰組だとか堂々と言ってるんだぜ?山南さんたちはまだしも、俺までも先生とか組長とか言われちまってさ。分不相応とは思わねえけど、たまに我に返って、おかしいなあって思うんだ」
ははっと笑い飛ばす原田は、遠くに目をやった。その先にははしゃぎまわる子供たちの姿がある。
「最初はままごとだなって思ってたのが、ここまで大きくなるなんてな。俺はまだ、地に足がついた気がしねえよ」
「…そうか…いや、それはわかるよ」
明日をも知れぬ浪人風情だった自分が、試衛館という居場所に出会い、ここまでやって来た。この道のりを振り返ると確かに、原田の言った通り「よくやってる」とも思える。
原田は視線を山南へと向けた。
「山南さんの、感想は?」
「私か…」
そう言われて、訊ねておきながら自分は何も答えをもっていなかったことに気が付いた。少し沈黙して、言葉を選ぶ。
「昔の自分の方が…単純に物事を見れていた気がするな。今は良いとか悪いとか…そんな風に物事を片付けることができない。複雑にばかり考えてしまっている」
「新撰組のことは、気に食わない?」
躊躇いも迷いもなく原田が直接言葉を投げかけてくる。飾らない問いには彼の実直な性格が現れている気がした。
山南は原田の問いを自分に問いかける。返ってきた答えは
「そんなことはないな」
嘘も偽りもない、本心だった。すると原田が満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、いい」
境内で遊ぶ子供たちの声が、いっそう大きく響いた。鬼が、全員を捕まえたようだ。





258


江戸の隊士募集からの帰京が予定では明日に迫っていた。先んじて戻ってきた隊士からも、「無事に明日には到着されるでしょう」との報告もあり、総司は安堵しつつ、久々に会う近藤と永倉、そして新しく迎える伊東らの対面を待ち遠しく思っていた。
「よっ…と」
パカパカっという小気味よい蹄の音が境内に響く。すっかり慣れた池月は総司を背に乗せて警戒に歩いていた。
「見違えるようですね!」
池月に乗る総司に同道し、山野が嬉しそうに声を上げた。暴れ馬に手を焼いていた最初に比べれば、池月はずいぶんおとなしくなった。総司を振り落すようなこともない。だが、相変わらず総司以外の者は背中に乗せてはもらえていないらしい。
「ひとまず、近藤先生や新しく来られる伊東先生の前で披露できる程度には、乗りこなせるようになったから、安心ですよ」
「そうですね。僕もどうなることかとハラハラしました」
総司は手にしていた綱を引いた。池月は従い、足を止めた。山野に支えられつつ馬を下りる。すると丁度、こちらに向かう人影があった。
「…斉藤さん」
「巡察の時間だ」
どうやら一番隊である総司と山野を呼びに来たらしく、うしろに平隊士を連れていた。山野と共に池月の世話をしている隊士だ。山野は彼に手綱を渡して池月を託した。
途端、池月は少し抵抗するように走り出そうとしたが、隊士が手綱を引いてどうにか留める。
「では、先生。先に行って準備をしてまいります」
山野が総司と、そして斉藤に軽く頭を下げて、屯所に戻っていく。その場に二人が残され、すぐに空気は重くなった。
「…まだ、怒っているのか」
「……別に、怒ってないです」
斉藤の問いかけに、総司は視線を逸らしつつ顔を強張らせた。
総司の見習いとして屯所に居候させていた弓削は、あの後すぐに屯所を出ることになった。もちろん、弓削は総司の元へ挨拶に来たのだが、事情を話すこともなくただただ「お世話になりました」と感謝を繰り返すだけだった。しかし、まるで憑き物が落ちたかのようなさわやかな表情をしていたので事情を深く尋ねることはせずに、穏やかに見送った。どうやら二人の間で何かが収まるところへ収まった…そういうことなのだろう、と理解した。
だが、総司としてはまだ収まっていないことが残っていた。
「口づけのことは忘れろ。意味はない」
「!」
突然、図星をつかれ総司は驚くと同時に頬を染めたが、斉藤はまるで何事もないかのように無表情だった。空耳だったかと思うほどに。
「わ、忘れろって…斉藤さんは誰でも適当にあ…ああいうことができるんですか?」
「その通りだ。そういう気分だった。それで終わりだ」
淡々と答える斉藤に、むっとした総司が噛みつく。
「意味はないって、あの時は私が悪いって言ったじゃないですか!」
「それはその通りだ」
「はあ?」
辻褄が合わない…と混乱する総司だが、やはり斉藤は無表情を崩さずに告げた。
「人を、副長に代わりにするからだ」
「…土方さんの?」
「以上、終わり」
斉藤はぐるりと踵を返して、総司に背を向けて歩いていく。総司はその場にとどまり
(土方さんの代わりに…?)
と、斉藤の残した言葉を反復した。確かにあの時は葛山の一件で、土方に対する迷いが生まれていた。だから、どこか雰囲気が似ている斉藤に答えを求めてしまったのもその通りではある。
(それが嫌だったってことかな?)
いまいち、合致しない答えではあったけれど、斉藤がそういうのだからその通りなのだろう。まるで呑み込めないものを無理矢理呑み込むようだったけれど、総司は己を納得させることにした。


斉藤が率いる三番隊と交代する形で、一番隊は巡察に出かけた。伊東ら新たに加盟する隊士たちの為に、朝早くから清掃や片付けに励む隊士たちは、出発する前から疲れた表情を見せていた。
「もう大分、片付いたのでしょう?」
町の様子に気を配りつつ、隊内でもしっかり者の山野に訊ねると「はい」と頷いたものの、
「でも、原田先生たちの十番隊の部屋がまだまだ片付いていないんです。既に片付いた者が片付けを手伝っているくらいで…」
と深くため息をついた。総司は苦笑した。
原田が指揮しているせいか、十番隊は比較的明るく活発な隊士が多い。そして隊長の性格に引きずられたのか、ずぼらな隊士も多いのだ。もともと男しかいない屯所では世話をするような下女も雇っていないので、屯所は荒んでいく一方だ。おそらくこうした機会が無ければ清掃をするという発想自体、浮かばないことだろう。
「はは、類は友を呼ぶのかなあ。永倉さんも嘆いていたし」
「でも宴会の準備だけは手早くて…今日も酒樽を調達に出かけていると思いますよ」
「それもらしいや」
山野はやはりため息をついたけれど、総司からすれば試衛館の食客部屋のようなものなのだろう。あの頃はふでやつねがいたので、荒むほどではなかったけれど、いつもどこか雑然としていて、綺麗なことはなかった気がする。
巡察の順序通りに一番隊は進む。いつも通りの変わらない日常の風景だ。
「それに僕は土方副長から八木邸の離れのお掃除を申し付けられました。巡察から戻ったら早速、取り掛からなければなりません」
「離れ?伊東先生がお住まいになるところですよね」
山野は「そうです」と頷いた。どうやら「なんで自分ばかり…」と文句を言いたげだが、彼が手先が器用で几帳面だからこそ、土方が命令したのだろう、と総司は納得した。
「伊東先生と言えば、加入された後は隊長のおひとりに加えられるのでしょうか?」
山野の後ろを歩いていた島田が、会話に入ってきた。総司は「うーん」と首を傾げた。
「…隊長ということは副長助勤ということですよね?それは無いんじゃないですか?」
藤堂の仲介を経て入隊する伊東は、自らの道場を畳み十名ほどの門下生と共に加入することになっている。八木邸の離れを準備するからには、それなりの待遇で迎え入れることになるのだろう。
山野が首を傾げる。
「となれば、以前のように副長二人の体制でしょうか」
「…まあ、同格かそれ以上でしょうねえ」
伊東という人物が加入するらしい…それ以外のことには何の興味もなかった総司は、島田や山野の問いには何の答えも持っていなかったので、曖昧に答えるしかない。むしろ彼らのように疑問を抱いてすらなかったのだ。
(駄目だなあ…)
もっと周りを見通せるようになりたいと思っているのに。見ているのは、目の前に出来事ばかりでどうしても遠くまで見通すことができない。
総司は内心、自分の不甲斐なさにため息をついた。しかしそんなことを知る由もない山野は、更に疑問をぶつけた。
「伊東大蔵先生は、元々、水戸学を学ばれた攘夷思想の持ち主と伺っています。攘夷は近藤局長と相反する思想ではありませんが、僕たちの主君である幕府は攘夷には弱気…僕は伊東先生が新撰組に加入されるには少し腑に落ちないところがあります」
「それは自分も気になっていました。水戸学はある意味では幕府を批判する学問でもあります。そんな方が喜び勇んで新撰組に入隊されるなど…」
島田の意見に、隣にいた尾関が加わる。
「俺もそれは不思議です」
「水戸学は亡くなった芹沢先生と同じ学問ということですよね」
「それは受け入れがたい」
そしてだんだんと隊士全員が口々に意見を発し始めた。伊東に懐疑的な者、不安を抱く者、そして期待を抱く者もいた。一番隊に所属し、精鋭と言われる彼らは日頃、自分の意見を出すようなことをしないが、本当は心の中で様々なことを考えていたようだ。
だが、総司はぱんぱん、と軽く二回手を叩いた。
「はいはい、そこまで。今は巡察の途中です。続きは屯所に戻ってからにしなさい」
軽く諌めると、彼らはすぐに理解してすぐに口を噤んだ。
(最も屯所ではそんなことは言えないだろうけど…)
総司のような身内ならともかく、彼らがそれを口にすればそれは新撰組に対する批判ともとられる可能性がある。総司は内心、身動きの取りづらい彼らに同情した。
「じゃあ、いつも通り分かれて見回りを。何かあれば笛を吹いて知らせるように。解散」
「はいっ!」
隊士たちの揃いの返事を合図に、彼らは分かれて見回りに向かっていく。死番の者を先頭に、一層の緊張感を纏って。
(いつも通り…か)
総司はぼんやりと彼らの背中を見ながら思った。
新撰組にとって日常とは何もないことだ。町が平穏で、誰も捕縛せず、誰も脱走することのない一日。生き死にを問う傍らにある、少しだけの清らかな日。
伊東の加入はそれすら揺るがすような出来事なのだろうか。目の前の景色を変えてしまうほど、何かの変化を齎すのだろうか。




259


元治元年十月末。東へ下っていた近藤・永倉・尾形・武田が江戸で募集した新入隊士と共に屯所に帰還した。かつてない同志の入隊となったが、なかでも飛びぬけて注目を集めることになったのは、門弟を引き連れて入隊した伊東甲子太郎である。
本名は鈴木大蔵。常陸の国に生まれ、神道無念流と水戸学を学び、江戸へ出て北辰一刀流の道場を開く伊東誠一郎に入門。師である伊東が病死した為、一人娘のうめの婿となり、道場の跡目を継いだ。
その後、同門の藤堂平助の仲介で新撰組の加入を了承し、実弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進や加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎や中西昇ら道場を挙げての参加。そして、今日がその第一日目である。

「伊東先生を知る隊士によると、容姿端麗・眉目秀麗で歩けば女が振り返るような美男子だそうですよ」
総司は土方の羽織の紐を結んだ。
近藤の帰還、そして伊東らの加入を迎え入れる為、紋付き袴に着替えた土方は、不機嫌そうに「ふん」と鼻を鳴らした。
「見た目はどうでもいいだろう。新撰組に必要なのは、剣の腕だけだ」
「その剣の腕も、北辰一刀流・神道無念流を修めているのだから、隙がないですよねえ」
総司が少しからかいを含めて笑うと、土方は「もういい」ときつく唇を結んだ。
「お前には緊張感がねえ。これから入隊するのは頭のいい有象無象なんだ。今迄みたいに簡単に言うことを聞く連中じゃねえ」
「まるで敵みたいに言うんですね」
やれやれとため息をつく総司に、土方は何も答えずに刀を腰に帯びる。あながち間違っていないからだろう。
「行くぞ」
「はい」
二人は連れ立って前川邸を出た。

揃いの浅黄色の羽織を身に纏った隊士たちが、八木邸の前に集まっていた。各組長が先頭に立ち、門から花道を作るように自然と並んでいた。
「遅くなりました」
一番隊の姿を見つけた総司が駆け寄る。山野や島田、尾関など馴染みの顔が揃っていた。山野が前に出て総司の隣に立つ。
「もうそろそろ近藤先生たちが到着されると、先に戻った隊士が行っていました」
「そうですか。でもこうしているとまるで芝居を見に来た観客のようですねえ」
紋付き袴姿の土方以外は、浅黄色一色に染まっていて、それが秋晴れの空と同化していて、清々しい光景となっていた。
総司は視線とちらりと土方とその隣に立つ山南の方へ向ける。総長として隣に立つ山南の顔色が、幾分か良い。総司がほっと安堵していると、
「戻られました!」
と隊士の一人が叫ぶ。わあっと歓声が上がる中、八木邸に最初に顔を出したのは近藤だった。
「近藤局長!」
「おかえりなさいませ!」
「ご無事で何よりです!」
次々に飛ぶ歓声が木霊する。近藤は少し肌が焼けていたが東下前と変わらない姿だった。飛び交う出迎えの声に、手を挙げて答える近藤のもとへ、土方・山南が歩み寄った。
「おかえり」
「おかえりなさい」
二人揃っての出迎えに、近藤は頷いた。
「任せきりにしてすまなかった。隊士たちの表情を見ると、特に問題はなかったようだな」
「…ああ、まあな」
土方の少し曖昧な答えに、近藤は「ん?」と首を傾げたが、遮って山南が続けた。
「ご報告したいことは山ほどありますが、新しい仲間の歓迎には無粋ですから、後にしましょう。伊東先生はどちらに?」
「ああ。そちらにいらっしゃる」
近藤は元来た道を振り返り、手を広げた。土方・山南をはじめその場にいた隊士たちの視線がその方向を見る。すると深めに傘を被った男がその紐を解き、傘を外した。
「あ…」
その姿に、隊士の全員が驚きの声を漏らし、感嘆のため息をついた。
「お初にお目にかかります。この度、入隊させて頂くことになりました伊東です」
滑舌の良い少し高めの声が響く。顔立ちそのままの上品な振る舞いと雰囲気に隊士たちがざわついた。
前評判通り、伊東はまるで歌舞伎の女型がそのまま現世に現したような風貌だった。切れ長の瞳と白い肌、形の良い唇…そのどれもが浮世離れしていて男ばかりが集まる新撰組には似つかわしくないほど華やかだった。
「あの人、本当に噂の伊東さんなんですか?」
あの天女のような姿で、北辰一刀流や神道無念流を修めているのだとすれば、本当に隙がない。総司がこっそりと隣にいた斉藤に訊ねるが、しかしそんな伊東の登場に対しても、斉藤は依然として無表情だ。
「近藤局長がそうおっしゃるのだから、違いないからそうだろう」
淡々とした答えは特に感慨はないらしい。総司は「はぁー」と息を吐いた。総司をはじめ、圧倒される隊士が多いなか、山南が一歩前に出る。
「お久しぶりです。伊東先生」
「ああ、山南さん。お久しぶりです、少し痩せられましたか?」
藤堂と同じく、伊東と面識がある山南が親しく会話を交わす。すると近藤が
「さあ、みなさんお疲れだ。ひとまず中に入りましょう」
と伊東ら上洛した隊士たちに声をかけた。
総司はちらりと土方の表情を伺う。思っていた通り、不機嫌そうに歪んでいた。


伊東ら以外の新入隊士たちが前川邸で荷を解く間、総司は早速八木邸の台所に向かった。客間にいる近藤・土方・山南として伊東ら人数分の茶を準備するためだ。すると少し遅れて到着した永倉が顔を出した。
「お帰りなさい。ご苦労様でした」
「ああ。悪いが、水を一杯くれないか」
「あ、はいはい」
総司は組み立ての井戸水を湯呑に入れて、永倉に手渡した。永倉はそれを一気に飲み干し、深く長い息を吐く。
「二番隊が世話になったらしいな」
「いえ、皆さんとても真面目ですから世話をする必要はなかったですよ」
永倉は「そうか」と穏やかに笑うと、湯呑を総司に渡した。
「久々の江戸はどうでしたか?」
「あちらは何も変わらないな。何だかもう何十年も京に住んでいるようだが、まだ二年ほどしか経っていないのだと改めて気づかされたよ」
永倉はリラックスした様子で腰を下ろした。
「試衛館の皆も元気そうだった。そういえば、たまはすっかり大きくなって、もう一人前に歩いていたよ」
「そうなんですか?それは想像できないなあ」
上洛の際、近藤の一人娘であるたまはまだまだ歯も生えない赤ん坊だった。総司には永倉が先ほど短かったと語った二年が急に長いものに思えた。
「周斎先生も息災だ。ただ足は悪くされていて身体は不自由なようだったが」
「そうですか…」
総司は永倉の隣に腰かけた。茶を入れる為に、湯を沸かしているところなのでまだ時間はある。
「それにしても、伊東先生には驚きました。噂には聞いていましたがあれほどの美男子…というか、まるで菩薩様みたいで」
「ああ。俺も初めて会った時は目が釘付けになった。あれで頭も良くて剣術もできるっていうんだから、天は二物も三物も与えるものだと感心した」
生真面目な永倉が率直な感想を述べる。するとそれが苦笑いに変わった。
「でも京までの道中は何だか落ち着かなくてな。俺はそこそこ学があるつもりだったが、近藤局長と伊東先生の会話には全くついていけなかった。あの伊東先生の見透かすような目に見つめられると、俺の額の底の浅さが暴露されているようで…」
「はは。だったら私はまともな会話ができそうにないです」
ただでさえ雰囲気で圧倒されてしまったのだから。すると永倉が「何だか疲れた」と笑いつつ、続けた。
「それにしても伊東先生は水戸学を修めているからまだしも、近藤先生は独学でずいぶん勉強されているんだと驚いた。近藤先生が新撰組について、それから尊王攘夷について熱く語られていた。その熱意のある姿に伊東先生は心を動かされたのだと思う」
「へえ…」
永倉のコメントには少しの安堵を感じた。伊東が少なくとも己の利を優先して加入したわけではない、ということ、そして建白書騒動を起こした永倉がすでに近藤と和解し、この旅を経てさらに絆を深めているということ。
(さすが近藤先生だ)
それはきっと狙い済ました行動ではない。近藤勇という人間だからこその自然な姿なのだ。そして永倉新八という人物もまたその姿を素直に受け入れることができる懐の深さを持っている。
そんな話をしていると、コトコトと火にかけたやかんの蓋が振動を始めていた。総司は人数分の湯呑に茶を準備した。そうしていると
「ぱっつぁぁーん!」
と原田が永倉に抱き着かんばかりに駆け寄ってきた。久々の再会に二人が喜ぶ中、総司は盆を抱えて客間に向かったのだった。




260


八木邸の客間にやってくると中からワイワイと声が聞こえていた。聞き慣れない声色が多いので、おそらくは伊東の門下生たちなのだろう。
「失礼します」
総司は機会をうかがいつつ、ゆっくりと障子を開く。するとなかでは近藤・土方・山南と伊東たちが向かい合うように座っていた。
そのすべての視線がやって来た総司に集まり、総司は少し緊張した。なかには伊東のほかに四人ほどの供が居たが、やはり伊東の外見だけが突出していた。
すると近藤が「紹介します」と助け舟を出した。
「こちらは一番隊組長・沖田総司。試衛館では塾頭を勤めていました」
「沖田です」
深く頭を下げて挨拶すると、「ああ君が!」と伊東が歓喜の声を上げた。
「君のことは道中、近藤局長より伺っていました。一番弟子で、局長を凌駕されるほどの腕前をお持ちだとか」
「い…いえ、そんな滅相もない」
伊東は座を離れてわざわざ総司の前にやってきた。距離が近くなると、その上品なかんばせが間近に迫り、総司は何だかドキドキしてしまった。
「新撰組の噂は江戸まで届いていて、もちろん沖田君のことも聞いていたが、しかし思っていた以上に可愛らしい…いや、失礼、整った顔立ちをしている。そんな君がどのように剣を振るのか…是非一度剣を交えてみたいな」
伊東の賞賛の言葉は、何だかくすぐったいような恥ずかしいストレートな物言いばかりだ。それにまじまじとその切れ長の瞳で観察されると居たたまれなくなる。
「…有難うございます。機会があればぜひ」
「ええ、楽しみにしています」
伊東は満足げに頷くと、すっと右手を差し出してきた。
「あの…?」
「握手だよ、沖田君。ほら右手を差し出して」
「え?」
促されるままに右手を差し出すと、伊東のそれと重なった。
「異人たちは初めて会う人に対する行為として『握手』を自然に求める。私は野蛮な異国人は嫌いだが、彼らの挨拶である『握手』は、確かに手のぬくもりから相手の人となりが分かるような気がして、好ましいものだと思っているんだ」
「はあ…」
雄弁に語る伊東の体温が伝わる。思っていた以上に、冷たい手だった。
総司がどうしていいかわからないまま作り笑いを浮かべていると、「ごほん!」という咳払いが聞こえた。それは総司が聞けばすぐにわかる土方のもので、どうやら土方からも助け舟を出してくれたようだ。
すると察したのか伊東は「宜しく頼みます」と微笑んで手を離した。
「それでは先程の話の続きですが」
土方はそう切り出したので、総司は持ってきた茶を配ることにした。
まずすぐ後ろに控えていたのは実弟の鈴木三樹三郎。顔立ちは少し似ているが兄ほどの優雅さはなく、どこか影を帯びていた。そしてその隣の伊東の盟友である篠原泰之進。大柄な体格は島田を彷彿とさせ、柔術を使うという彼は目が鋭く細かった。そしてもう一人の盟友である服部武雄。篠原と比べて体躯は細いが、剣術の腕前では伊東と並ぶほどらしい。そしてその隣には門弟の加納鷲雄。まだ若いが伊東の門弟のなかでも一番の弟子らしい。以上の五人が客間に揃っていた。
総司は茶を渡し終えると、一番後ろに座した。土方の話は続いている。
「以上のように、現在新撰組では局長・副長・総長が隊を治め、副長助勤である組長が一から十までの隊を仕切っています。また監察は副長助勤と同格とし、勘定方、小荷駄方も同じ。各組には伍長を置き、平隊士、仮同士と続く」
「…なるほど、よく分かりました。私が想像している以上に新撰組は組織だった体制でした。これは土方副長が決められたもので?」
「ええ…まあ」
「素晴らしい」
伊東の心からの賛辞に、土方が表情を変えなかった。しかしどことなく表情が硬いせいか、総司は
(やりずらそうだなあ…)
と、他人事のように思った。これまで出会わなかったタイプの人間だ。
すると土方が続けた。
「…伊東先生には、参謀としてお働き願いたい」
「参謀…」
伊東、そして背後に控える彼らが目を見合わせる。土方は目の前に広げた図面を指差した。
「局長の次…そして総長と同格の役職です。総長は隊内に重きを置いた仕事をしているが、参謀は戦術面や対外的なところを勤めて頂きたい」
「対外的なところ…といいますと、たとえば会津藩との折衝などでしょうか」
「それも含まれますが、これからは諸藩との連携もあり得ます。近藤局長を助けるためにも、見聞の広い伊東先生に是非、お願いしたい」
「…わかりました。期待にお答えできるよう努力しましょう」
「今のところは伊東参謀以外はまだ決めていませんが、組長や監察方に配置させていただくかと思う。その際はご協力を」
土方が後ろに座る四人に声をかけると、彼らは揃って頷いた。
「彼らもきっと新撰組の役に立つかと思います」
伊東が満面の笑みで了承すると、近藤も満足げに頷いた。山南も穏やかに微笑んでいたが、土方はさも「仕事が終わった」というように広げていた図面を折りたたみ、懐へと仕舞った。そして近藤に席を譲り、山南の隣に移動した。
すると山南が穏やかに語りかける。
「伊東先生、今日はまだ到着されたばかりで、お疲れでしょう。今晩、店を貸し切って歓迎の宴会を予定しておりますので、それまでは八木邸の離れでごゆるりとお休みください」
「お気遣い痛み入ります。早速そうさせて頂こうと思います」
近藤は大きくうなずいて、
「そうしてください。山南総長、伊東参謀たちをご案内差し上げるように」
「わかりました」
山南は膝を立てて障子をあけ、「こちらです」と先導する。すると伊東をはじめ後ろに控えていた者たちも後を続きぞろぞろと部屋を出ていく。
その時、ふっと総司が顔を上げると最後尾に行く鈴木三樹三郎と目があった。兄の絢爛な見た目とどこか似ている彼なのに、どうしてだか寂しげで尖った瞳をしていた。

彼らの足音が聞こえなくなると、上座にいた土方が
「はーっ」
とため息にも似た息を吐いた。総司は伊東らが飲み干した湯呑を片付けつつ、
「お疲れさまでした」
と苦笑しながら労をねぎらった。すると近藤はやれやれと苦笑いする。
「歳、これから長く仲間になっていく人なのだから、もう少し柔らかく接しろよ」
初対面の伊東らには、土方がぶっきら棒に写ったかもしれないが、敢えて土方が伊東に距離を置いて接しようとしていたことは、近藤や山南、総司にはよく分かっていた。
すると不機嫌そうに「うるせえな」ともう一度ため息をついた。
「これでも好意的に接した方だろう」
「わかってるさ。わかっているから言っているんだろう。心配しなくても、あの人は良い人だよ。藤堂君の仲介で伊東先生とお会いした時、あの人の知識や見聞もそうだが、見かけによらず尊皇攘夷の熱い志を持っていることに感動した」
「そこが問題だって言っているだろう」
土方が「はっ」と息を吐いて、忌々しそうに続けた。
「尊王攘夷とはいっても、伊東参謀は『討幕』による攘夷を説く水戸学の出身だ。かたや新撰組は今や池田屋の件から、幕府側の組織として周囲から認められている。そんな新撰組に加入するだなんて、どう考えても裏があるとしか思えない。それに…」
「歳。まだ初対面の間柄である伊東先生のことを第一印象や噂だけで決めつけるのは良くない」
近藤は声色を変えた。そしてきつく睨み付けるように土方を見据える。すると土方は「ちっ」と小さく舌打ちして、視線を逸らした。
「伊東先生は朝廷や幕府という既存の枠組みにとらわれることなく、この国を憂いているだけだ。何も新撰組の考えに必ず同調する者が同志だというわけではないだろう。現に、先日の永倉君の一件がある。俺に落ち度があることだってある。それを互いに正しながら進んでいけることが、俺は一番いいことだと思っている」
「…近藤先生」
堅固な意思と同居する柔軟な懐。だからこそ試衛館には様々な食客が集まったし、新撰組の長としてその地位にいる。総司は飾りのない近藤の言葉を噛みしめながら、近藤が帰営したことの安堵を覚えた。
すると土方が少し口を窄めつつ
「…わかっている。ただ、かっちゃんの言うことを鵜呑みにばかりしているわけにはいかないということだ。それは俺個人としてではなく、副長として…だ」
と言った。土方が慎重になるのも、もとはと言えば近藤の為、新撰組の為だ。そしてそれは近藤も知っている。
「それでもいい」
近藤は満足げに笑うと、茶を飲み干した。そして膝を崩して、くつろいだ様子で総司の方を見た。
「ところで、総司。俺がいない間、新撰組はどうだったんだ?」
「…話したいことは山ほどありますけど」
総司は近藤から湯のみを受け取った。
「お茶のおかわりをお持ちしてから、お話します」





解説
253吉田道場の場所は分かっていませんが、吉田山の麓にしました。
260伊東の配置について、入隊当初は二番隊組長を務めていたという資料もありますが、(謹慎していた永倉の代わり?)今回は話の都合上、慶応二年の配置を参考に伊東らの配置を決めています。
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