わらべうた





261


伊東らを歓迎する宴の席にて、挨拶代わりに伊東の参謀就任とその盟友や門下生たちといった今回の入隊隊士の配置が発表された。特に目立ったのは実弟である鈴木三樹三郎の九番隊組長と、篠原・服部の監察方への配置である。組長に実弟が、そして並ぶ同格である監察方にも伊東の側近たちがおかれたことで、伊東らの優遇とこれまでとは違う体制が敷かれることが露わとなった。
「今日からは新たな門出だと思ってほしい」
土方からの隊編成の関わる簡単な説明が終わると、近藤が酒を手にした。
「今晩は無礼講だ。大いに飲んでくれ!」
局長の乾杯の言葉と共に、隊士全員を集めた宴会は大きく盛り上がった。料亭を貸切り、次から次へと料理が運ばれ、酒が振舞われ、絢爛な衣服を身に纏った女たちが隊士の周りに侍り、歌や踊りが場を盛り立てた。
上座に座る近藤は既に顔を赤らめるほど出来上がり、山南はその傍で穏やかに微笑んでいた。主役である伊東はあちらこちらに足を運びあいさつ回りに忙しそうで、土方はその様子をいつもと変わらない…不機嫌さで眺めていた。
「顔、歪んでいますよ」
土方の元へ酌に来た総司がこっそりと言うと、土方は「ふん」といいつつ手元の酒を飲み干して、総司に差し出した。
「何となく、気に入らねえんだよ」
「根拠はないんですね」
「あの嘘くさい笑顔が、気に入らねえ」
「またそんなことを言って」
すると土方は総司が注いだ酒を一気に飲み干した。酒はあまり好きではないはずなので、余程気に入らないのだろう。総司は隣に座った。
伊東は穏やかな笑顔を絶やさずに、平隊士一人ひとりに声をかけていた。あの異国式の挨拶は欠かさずに行っていて、伊東の美貌に見つめられた平隊士たちは何となく落ち着かない様子で、しかし嬉しそうに握手を交わしていた。彼の周りは終始和やかな空気に包まれていて、隊士たちも伊東を歓迎していたので、総司から見ても土方がそこまで警戒するほどの人物には見えなかった。しかし
「お前も、気をつけろよ」
何かを察したのか、土方がそんなことを言う。総司はややため息をついて「はいはい」と適当な返事をしつつ、諌めた。
「でも近藤先生が『良い方』だというのですから、私はそれを信じますからね」
「……」
近藤の名前を出されると、土方は黙り込む。それを知っていて敢えて口にしたのだが、やはり土方の機嫌をさらに損ねてしまったようだ。
総司はさっさと土方の元を離れて、山南の元へ向かった。
「山南さん、飲まれていますか?」
「ああ、十分いただいているよ」
穏やかに返答した山南だが、そう言いつつも箸は進んでいないようだった。しかし構わず、総司は空になっていた器に酒を注ぐ。
「今日は賑やかだね」
「はい。隊士全員が揃う宴会なんて久々ですからね」
山南は「そうだったかな」といいつつ、酒を口に含んだ。常に穏やかで、平隊士の間では仏の総長なんて呼ばれている山南だが、時折寂しげな影がその表情を覆う。
(いつからだろう…)
たくさんの人に囲まれ、尊敬され、敬われていた山南がこんな風に寂しげな表情を見せ始めたのは。
山南は酒を手元に置いた。総司が注いだ酒は、減っていない。するとポツリと訊ねた。
「どうかな、伊東先生たちは」
「どう…?」
「沖田君の感想を聞きたいな」
山南の意図はよく分からなかったが、総司は少し考えて、素直に答えた。
「…土方さんは、何だか気に入らないみたいですけど、でも私は良い風になってくださるんじゃないかと思います」
「風、か…」
「嵐にならなきゃいいんですけどね」
ははっと笑うと、山南も少しつられて笑った。
「…そうだね、私もそう思う」
総司の答えは、山南の心を慰めたのだろうか。少し穏やかな顔をした山南は膝を立てた。
「少し酔ったようだ。…本物の風に当たってくるよ」
「はい」
山南は少しだけ茶化したようにそういうと、騒ぐ隊士たちをかき分けて部屋を出て行った。
総司はその姿をなんとなく見送った。
(山南さん…)
酒なんて飲んでいないはずだ。だから酔うはずもない。どうして彼はそんなにも下手な嘘をつくようになってしまったのだろう。
総司はその答えを、知っている気がした。


秋の風はいつの間にか冬のそれに変わり、少しまではさわやかに感じていた夜風が、ここのところは身体を一気に冷やしていた。しかし冷たい風に当たっていると、考え込んでしまう頭が少しだけすっきりしたように感じられた。
漠然とした不安が胸の中に在りつづけていた。真っ黒で靄がかかり、心の中に沈殿する。君菊が死んでから、葛山を殺してから、自分の無能さを見せつけられて…まるで何かを飲み込みたくても、喉の奥に閊えているような、そんな不自由さを感じていた。そして伊東の入隊は山南のなかを何かを掻きたてていた。
(私は…ここにいていいのだろうか)
伊東を歓迎する気持ちはある。彼ほど優秀な人物なら、新撰組の舵取りだって任せられるだろう。だから何かあった時の知恵袋としての自分の役割は、伊東にだって出来るだろう。昔から彼のことはできた人物だと噂されていたし、社交的で誰からも好かれる容姿と物腰だ。土方はどうにも伊東のことを好かないようだが、不安定で体調の面でも精神的な面でも頼りない自分よりもよっぽど『使える』人物だということは、その内土方も気が付くはずだ。
総司は風だと言った。それはもしかしたら総司の言うとおり、嵐になって、竜巻になって、何もかも全てを攫っていくのかもしれない。
すると冷たい風が頬を叩いた。その冷たさにはっとして、山南は自分の悪い想像を掻き消そうと、首を横に振った。
(誰かと比べても…仕方ない)
自分にしかできないことが、知りたい。それを知ることができれば少しは自信になるのかもしれない。
「山南総長」
気配と声に導かれて、山南はそちらを見る。
「やあ…君は、」
「鈴木三樹三郎です。今後、宜しくお願いします」
小さく頭を下げた彼は、端的に自己紹介をした。それ以上は言わなくてもわかるだろう、という表情をしていた。
鈴木三樹三郎。伊東の実弟で、彼もまた北辰一刀流の遣い手だ。
(似ているようで…あまり似ていないのだな)
煌びやかで優雅で、まるで大輪の花を咲かせるような兄の存在感に比べ、無口で寡黙で前へ出ようとしない陰のあるところは似ても似つかない。それでも血がつながっているだけあって、顔の形は良く似ている。この違和感は他人の空似だと言うほうがまだしっくりくるくらいだ。
「こちらこそよろしく頼みます。私は江戸にいた頃から伊東先生のことは良く存じ上げていました。伊東先生が新撰組に加わっていただき、とても頼もしく思っています。血の繋がっているあなたにも大いに期待しています」
「…そうですか」
山南の賛辞はあっさりと躱されてしまった。本人の淡々とした性格ゆえか、もしかしたら彼は兄と比べられることにコンプレックスを持っているのかもしれない。
すると鈴木は
「戻らないのですか」
と訊ねてきた。
「ええ…もう少し風にあたってから、戻ろうかと」
「そうですか。では一つ、伺って宜しいでしょうか」
抑揚のない鈴木の声には感情が無い。山南は少し戸惑いつつも「構いませんが」と了承すると、鈴木は続けた。
「新撰組で一番、強いのは誰ですか」
「強い…それは、剣の腕ということですか?」
鈴木は頷いて返答した。それは彼の疑問か純粋な興味か…しかし仲間となる彼に何も隠す理由などない。
「近藤局長…と、言いたいところですが、やはり沖田君か斉藤君か…この二人のどちらかかと、私は素直に思います」
「…一番隊組長の沖田先生と、三番隊組長の斉藤先生ですか」
「ええ。特に沖田君は近藤先生の一番弟子ですから」
山南は総司の天賦の才に気が付いたのは、彼と出会ったすぐのことだ。何事も型に嵌めてから物事を判断する山南とは違い、総司は自分のなかにある野生の勘に近いものが、人よりも優れていて、そして身体もそれに対応ができる柔軟さを持っている。それは彼が会得したものではなく、先天的に持っていたもので、師である近藤もそれを認めていた。
そう言う意味では、やはり総司が一番だと山南は彼に伝えた。
「わかりました」
やはり抑揚のない淡白な反応で、鈴木は山南に軽く頭を下げて、座敷の方へ去っていく。
「……」
彼は一番強いのは誰かと聞いてきたが、本当に訊ねたかったことは別のことだったのではないだろうか。
そんな些かの疑問を感じつつも、山南はその場にとどまった。
宴はまだ続いていた。


262


宴は途切れることなく賑やかだった。伊東が全隊士に挨拶を終える頃には、いつもよりも飲み過ぎた隊士が騒ぎ、踊り、はしゃぎ…いつもの屯所では考えられないほど宴は大盛況となった。踊りだす隊士たちの輪の真ん中には原田が居て、近藤や永倉は顔を真っ赤に染めて女に囲まれて上機嫌になっている。
「でも、斉藤さんはいつも通り、ですね」
総司は、部屋の片隅で周囲の様子など意に返すことなく酒を飲み続けていた斉藤のもとにやってきた。
「…少し飲んだのか?」
「はい、まあ…付き合いで…慣れないからか少しぼんやりします」
苦笑しつつ総司は斉藤の隣に座った。
伊東らとともに入隊した新入隊士たちに囲まれてしまい、注がれるがままに酒を飲んでしまった。久々に飲んだ酒はやはりあまりおいしくは感じなかったけれど、新入りたちが気遣ってくれているのに拒否するわけにもいかず、数杯で出来上がってしまった。
視界が眩み、頭がボーっとしていた。目敏く察した斉藤が
「部屋でもとって休んだらどうだ」
と言ったが、総司は首を横に振る。
「そんなことしたら、また山野君が騒ぎますから、嫌です」
池田屋以来、総司の身体を気遣うのが日課になってしまった彼に、これ以上心配を掛けたくはない。その山野は姿が見えなかったけれど。
総司は周囲を見渡した。
「あれ…土方さんと…山南さんがいませんね」
「帰ったんじゃないのか」
今夜は無礼講、屯所への帰営は朝までにとお達しが出ていた。すでに屯所に帰った者や、女と部屋を取った者もいる。体調の起伏がある山南はともかく、土方がさっさと屯所に帰るのはおかしい様な気がしたが、頭がぼんやりしてしまったので、総司はそれ以上の思考を止めた。
そうしていると斉藤が何も言わないままに湯呑を差し出してきた。総司は素直に受け取って、なかの白湯を飲み干す。
すると、目の前に隊士がやってきた。
「沖田先生、斉藤先生」
手に酒を持ち、顔を出したのは伊東の実弟である鈴木三樹三郎だった。
「ご挨拶が遅れて、大変申し訳ありません。鈴木三樹三郎です。どうぞよろしくお願いいたします」
丁重に頭を下げた鈴木だが、しかしその声は凹凸のない平坦なものだった。
(そう言えばさっきはいなかった…)
新入りの隊士に囲まれた中で、彼の姿はなかった。
「いえ…こちらこそ、ご挨拶が遅れて…」
「宜しければ一杯、いかがでしょうか」
鈴木は手にした徳利を総司に差し出す。あからさまに酔い潰れそうな総司に、気づいていないのかわざとなのか…だがここで拒むのも申し訳ない気がして、総司は猪口を差し出して受け取ろうとする。しかし横からそれが止められてしまった。
「…斉藤さん」
「悪いが、沖田先生は随分酔っておられる。酒なら、俺がもらう」
斉藤は総司の猪口を奪い、鈴木の前に差し出した。鈴木は少し動作を止めたが
「…気が付かず、申し訳ありません」
とやはり感情のない声で謝って、斉藤に酒を注いだ。総司は助け舟を出してくれた斉藤に感謝しつつ、鈴木の表情を窺った。
客間で視線がすれ違った時、彼は酷く寂しげで、それでいて棘のある瞳をしていると思った。柔和な表情を保ち続ける兄とは正反対の、どこか影のあある表情が印象に残っていた。目の前の彼も違いなく、声に起伏が無いのと同じで、とても平坦でまるで感情のない人形のようだった。
斉藤が注がれた酒を一気に飲み干す。蟒蛇の彼は少々の酒ではその表情を変えたりはしない。
「…沖田先生は新撰組一番の遣い手だと、伺いました」
会話の流れも何もなく、鈴木が切り出す。
「いえ、そんな…近藤先生や皆さんとそう大差ありませんよ」
「ですが、隊士の皆さんがそのように。近藤先生よりもお強いと」
自分の用件のみを伝える端的な物言いだ。無駄な装飾や誇張は要らない…そんな彼の意思が見え隠れする。
(やっぱりそんなところも似ていない…)
伊東が人以上の賛辞を口にするのに、弟はそれを全くしない。逆に清々しいほどだ。
「…剣の腕でしたら、そういうこともあるかもしれません。けれど、私は近藤先生に及ばないところが沢山ありますから、一番だとかそんな風に思ったことはありませんよ」
「……そうですか」
総司が謙遜ではない本音で返すと、鈴木は口を噤んだ。斉藤も話そうとはしないので、ぎくしゃくとした空気が流れる。総司はぼんやりしたままの頭をどうにか回転させて、話を切り出した。
「それより、あなたや伊東先生の話を聞かせてください。確か私塾を開かれていらっしゃったとか…」
近藤から小耳にはさんだ話だ。兄が江戸の道場に出て伊東姓を継いだ頃、弟の彼は父の私塾を継ぎ剣や勉学を教えていたとのことだ。諸藩を遊学した伊東と同じように彼もきっと頭が良いのだろう。
そう思い、気を利かせたつもりだったのだが。
ガンッと急に大きな音が響いた。総司は酔いがさめそうなほど驚き、斉藤も目を見開いた。宴の席に留まっていた隊士や女たちもすべての動作を止めてこちらを見る。それほど大きな音を、目の前の鈴木が立てたのだ。
「あ…あの…?」
何か不味いことを言ってしまったらしい。目の前の鈴木は手にしていた徳利を投げつけて、わなわなと身体を震わせていた。先ほどまでの無感情な彼からすれば考えられないほどの変わり身だ。
誰もが驚く中で、すっと一人が鈴木の傍に寄ってきた。実兄の伊東だ。こんな時でも微笑みを絶やしてはいない。
「沖田君、斉藤君、申し訳ない。弟はどうやら酔ってしまったようだね」
弟の肩を抱き、そんな風に謝られてしまっては総司は「はあ」と答えるしかない。伊東はスマートな仕草で周囲に目をやると
「皆、申し訳ない。宴を続けてくれ」
と声をかけた。すると周囲にいた隊士たちも「何だ、酔ったのか」「大丈夫かー?」などと気を緩めて野次を飛ばし、先ほどまでの騒がしい宴会を続けた。
伊東は鈴木の肩を抱いたまま、彼を立ち上がらせる。
「部屋を借りて休ませてきます。酔いがさめたらあとから謝らせるので、どうか勘弁してください」
「いえ、そんな。私が何か気に障ることを言ってしまったのかもしれません」
伊東は穏やかに首を横に振る。
「そんなことはないでしょう。不出来な弟で申し訳ない」
『不出来』…伊東のその言葉に、鈴木はピクッと身体を震わせた。それがまるで怯えるように見えて、総司は少し驚いた。
(何だろう…)
二人の間には、実の兄弟という雰囲気とは違う何かが流れている。
しかしそれ以上を拒絶するように、伊東は総司と斉藤の前から鈴木とともに去り、女の一人に声をかけて案内させて部屋を出て行ってしまった。
総司はそれを見送って、斉藤の方を見る。斉藤は黙々と酒を飲んでいた。


宴の大座敷から少し離れた場所に通されて、鈴木は伊東とともに部屋に入った。部屋に入った途端、伊東はそれまで支えていた鈴木の肩を放す。
すると鈴木はすぐにその場に膝をつき、頭を下げた。
「…申し訳、ありません…!」
「困るね、多聞」
昔の名前で呼ばれ、一層鈴木は頭を下げた。穏やかな声色は出しているが、兄が激怒していることはすぐに分かった。
「お前は昔から気が短い。そんなことで九番隊組長が務まるのかい」
「は…っ以後、気を付けます…!」
弟の謝罪にも、伊東は「はあ」とため息をついただけだった。
兄の雰囲気はこの部屋に入った途端に一変した。まるで花を纏うように饒舌に挨拶を交わしていた兄は、ここにはいない。
伊東は頭を下げた弟の目の前で、片膝をついた。そして「顔を挙げなさい」と命令し、鈴木が従う。伊東は鈴木の顎を手に取り、上に向かせる。
「…江戸に置いてくるつもりだったお前を、同行させてやったのは、僕に迷惑を掛けないとお前が誓ったからじゃないか。その約束をもう違えるつもりかい」
「いえ…そんな…」
「そうだね。私の弟はそんなに愚かではないだろう」
念を押す伊東の表情は壮絶するほどに美しい。鈴木は実の兄でありながら、昔から見慣れた顔でありながら、その顔にいつも見惚れてしまう。まるで同じ血が流れているなんて思えないほどだ。
「…ここで少しほとぼりを覚まして、屯所に戻りなさい。沖田君や斉藤君には私からもう一度謝っておく」
「重ね重ね…申し訳ありません…!」
「多聞、お前は忘れやすいようだからもう一度言っておく」
伊東は立ち上がり、平伏す弟を見下した。
「僕に迷惑をかけるな。昔のような愚かな振る舞いを、二度と繰り返すな」
強い口調で言いつけられ、鈴木はもう言葉を返すこともできなかった。伊東は返事も待たず部屋を出て行く。ぴしゃりと障子を閉めて、去っていく足音。誰も居なくなった部屋で、鈴木は動くこともできず、しばらくその場に平伏したままとなった。


263


鈴木が伊東に連れられて去った後も宴会は続いた。さすがに屯所に帰ったり、女と部屋を取ったりして人数は減っていたが、それでも日頃の鬱憤を晴らし足りない隊士たちが残って飲み続けていた。
総司はうとうととしながら寝たり醒めたりを繰り返していた。飲み過ぎたせいか身体が思うように動かず、自力で屯所に帰るのは無理だった。
「籠でも呼ぶか?」
特に話すわけでもないのだが、何故か付き合ってくれていた斉藤がそのように言ったけれど、籠に揺られると気分が悪くなるような気がして
「…もう少しじっとしていたら、良くなります」
と断った。そして
「斉藤さんは先に帰っても良いですよ…」
と申し出た。斉藤が黙々と飲み続ける姿はとても楽しそうには見えない。しかし斉藤は「いい」と拒んで、近くにいた女中に追加の酒を頼んだ。
「せっかくの無礼講だ。飲まなければ損だ」
「そういうものですかねえ…」
飲んでも決して良い気持ちにはなれない総司には、斉藤の言葉の意味はよくわからない。無理をして飲むことはないのではないか…そんなことを考えているとふっと眩暈がして、身体が斉藤の方へ傾いた。咄嗟に手を伸ばした斉藤に抱えられるようになり、ふわっとしたひと肌に包まれるような錯覚を覚える。
「大丈夫か?」
斉藤が訊ねてくる。
(…やっぱり…ちょっと似てる…)
どこが、というわけではなく。
(ちょっとした仕草とか、骨付きの感じだとか…そういうのが、似てる…)
口にしたら、斉藤はまた怒るだろうし、土方も不機嫌になるだろうけれど。二人はどこか似ていて、近くにいるととても安心する。でも
(でも違う…)
違うのは、自分の感じ方だろう。
「総司」
すると突然、強い力で襟を引っ張られて、総司は斉藤から引きはがされるようにのけ反った。バランスを崩しつつも見上げると、そこには土方が居た。
「あ…あれ、本物だ。土方さん…帰ったんじゃないんですか…?」
「本物?何のことだ。俺は野暮用で抜けていただけだ。お前、相当酔っているみたいだな。どれだけ飲んだんだ」
「どれだけ…かなあ」
土方は総司を叱りつけつつも、斉藤を見る。相変わらずの無表情を貫く斉藤を、土方は少し睨んだ。
「…子守をご苦労だったな、斉藤」
「いえ…」
(子守だなんて、酷いなあ)
と総司は思ったが、しかし二人の間に流れる空気はそんな呑気なものではない。感謝の言葉を述べつつも感情のこもっていない土方と、土方に睨まれつつも受け止めつつも無反応の斉藤。何となく緊迫した空気が流れる中、総司は土方に抱えられるようにして立ち上がった。
「部屋を取ってやるから、来い」
「部屋だなんて大げさですよ…少し休んでいれば、屯所に帰れます」
「呂律が回ってねえんだよ」
鋭く指摘され「う」と総司は言葉に詰まった。無理やりに手を引かれて宴の席を離れた。斉藤は相変わらず酒を飲んでいた。


土方は通りかかった女中に「部屋を取ってくれ」と言って、案内させた。今日は店を貸し切っての宴会なのでどの部屋も開いている。薄暗い部屋に通されると既に布団が敷かれていて、総司は促されるままにそこに横になった。すると思った以上に酔っていたようで、気分が随分楽になった。
「お前、どれだけ飲んでいるんだよ」
やや呆れたように訊ねる土方に、総司は口を窄ませた。
「そんなに飲んでいませんよ。それに歓迎の宴なんだから、飲まないと失礼でしょう…土方さんこそ、どこにいたんですか」
「…野暮用だって言っているだろう」
土方が何かを隠しているのは気が付いていたけれど、酔っている総司はそれ以上追及しようとは思えなかった。それに追及したところで、言えないことなのだろうから。
「近藤先生は…?」
「かっちゃんならお気に入りの女をお持ち帰りだ」
「ふうん…」
土方ほどではないが、近藤も女好きなところがあって、既に京にも何人か気に入った馴染みの女がいるらしい。最初は「ツネさんがいるのに」と総司は歯痒く思っていたが、土方に「それも仕事だ」と諭されて諦めるようになっていた。
「…土方さんも、戻っていいですよ。私は横になっていたら、良くなりますから…」
「伊東参謀も門下生たちと屯所に戻ったし、山南さんもお帰りだ。宴に残っているのは隊士ばかりで戻ったって雰囲気が悪くなるだけだろう」
「ふふ…それは確かに」
せっかく羽を伸ばしている彼らなのに、鬼の副長が戻ってしまっては酔いも醒めてしまうだろう。何だかその光景が想像できて、おかしくて、総司は笑う。
すると横になった総司に寄り添うように、土方も身体を横たえた。土方の顔がまじかに迫り、どきりとさせられる。しかし土方の方は特に動揺もなく
「酒くせえ」
と苦笑した。
「…くさいなら、近づかなきゃいいじゃないですか」
「何を野暮なことを言っているんだ」
呆れるように土方がそう言うと、「もうちょっと詰めろ」と彼も同じ敷布団の中に入ってきた。
ふわっと土方の纏う空気に包まれた気がして、やっぱり斉藤とは少し違うのだと総司は改めて思った。斉藤の傍に居ると安心するし無表情で特に会話が弾むわけではないけれど、楽しいと思える。しかし土方のそれとは違う。
(…ふわふわする)
上手く言葉にできないのは酔っているせいなのだろうか。くらくらと酔ったままのそんなことを考えてると、土方の手が、総司の髪を撫でた。
「あんまり、斉藤に頼るなよ」
「…え?斉藤さん、ですか。まあ、斉藤さんの方が年下ですもんねえ…」
見た目がそうではなくても、年上が年下に頼っていては副長助勤としても組下への印象も良くないだろう。特に伊東らが入隊した今、示しをつけなければならない…土方がそういうことを言ったのだと思って、総司は「以後気を付けます」と固い返事をしたが、土方はまた苦笑した。
「鈍いにもほどがある…」
「え?」
「もういい」
土方は話を止めると、髪を撫でていた指先をそのまま後頭部に移し、引き寄せ抱きしめた。息ができないほどに押さえつけられて、総司はぼんやりとしながらも、土方が何を求めているのか何となくわかった。
そしてその指先が、輪郭をなぞり、顎に触れることを拒まずに、唇と唇が重なった。
「んぅ…」
小さく息を漏らした総司に構わず、土方はその器用な舌先で総司の口内を掻き乱す。酒臭いと文句を言っていたのに、まるですべてを搾り取るような口付けだ。
ようやく唇が離れたところで、土方が笑った。
「口、熱いな。相当酔っているらしい」
「だから、酔っているって言ってるじゃないですか…」
「そうだな」
すると土方はもう一度その唇を重ねた。角度を変えてのそれの翻弄されていると、土方は総司の襟に手をかける。酒のせいで熱くなった総司の身体の火照りとは正反対に、土方の手のひらは冷たい。ひやっとした感覚に
「あ…」
と声を上げたが、しかしその冷たさはすぐに総司の熱に溶けて、同じになった。
襟が肘くらいまでに下がり、暗がりの中で上半身が露わになる。土方に押し倒されるような格好になっていたが、いまだにぼんやりしている総司を気にして
「いいのか?」
と土方が確認する。いつもなら「嫌だ」とか「恥ずかしい」とかそんなことを言って抵抗するばかりなのに今日はそれが無いので、不思議に思ったのだろう。しかし総司もそれは同じだった。
「…何だか、今日は良いです…」
抵抗する気に慣れなかったのは、酔っているせいかもしれない。けれど、一方で酔っているこんな時だからこそ、土方の思うようにしてほしいと思った。
総司の答えを受け取ると、土方はその口元を緩ませる。
「…たまには飲ませるのも良いらしいな」
土方は遠慮なく総司の上半身を晒すと、肩から指先までをゆっくりとなぞる様に触れて、そして総司の鎖骨に指先を添わせた。
「くすぐったい…です…」
「そうか」
身体を捻る総司は、くすぐったさに笑っていたが、しかしすぐに
「あ…っ」
と声を上げた。土方の指先が総司の胸の飾りを強く挟む。そしてそのまま土方の唇が、指の代わりにそこに触れた。
「それ…っ、やだ…!」
「何が嫌なんだ」
「そん…そんなの…恥ずかしい…!」
「今更、何を」
総司の訴えをせせら笑って、土方はやめようとしない。総司は身体をのけ反らせてその快感から逃げようとしたが、すぐに追いかけられて捕まってしまう。
(女じゃないのに…!)
そこばかりを責められるとおかしくなってしまいそうだ。
「ふ…っ、ぅ…」
せめて声を挙げないように、と必死に手の甲で自分の口を塞いだが、すぐに土方に気づかれて「塞ぐな」と言わんばかりに手を拘束されてしまう。
「あ…っ、ぁ、ぁ…」
声を出さないように…唇を噛み、そちらに意識を集中させていると、土方の片方の手が袴の紐を解いた。そして挿し込まれたその手によって、別の快感と刺激が総司を襲う。
「あ!あ…っ、あ…?!」
こうして触れられるのは初めてではない。しかし今夜はどこか感覚が違っていて、いつもよりも敏感に土方の指先が痛いほどの刺激を生む。
(酔ってるから…?)
頭はぼんやりとしたままなのに、身体はいつもよりも機敏にすべてを察してしまう。それが恥ずかしくて仕方なくて、総司は既に「今日はいいです」と彼を許してしまったことを後悔し始めていた。
しかし土方は容赦なくそこを責め、歪む総司の表情をまじまじと見ていた。
「あ…あんまり、見ないで…ください…っ」
「何故」
「何故って…そんなの」
言わなくてもわかるくせに。
そう言いたくても言えなかった。土方が続けざまに「舐めるぞ」と宣言し、そこに最も強い刺激を与え始めてしまったからだ。
「ふ…っ、あ、あ、あぁ…」
意識のすべてが下腹部に集中していく。徐々に高まる快感に耐えきれず、またそれをしているのが誰あろう土方だという事実に羞恥した。そしてすぐに力が抜けて、総司は土方にされるがままにすべてを吐き出した。
荒い息を繰り返し、胸を上下させる総司を見ながら、土方は口にしたものを嚥下してしまう。総司は慌てた。
「だ…駄目だって…そんな汚いの…って言っているのに…」
「俺は汚いなんて思っていない」
しかしすぐに却下されてしまう。総司は「もう」とため息をつきつつ、どうにか気怠い身体を起こした。
「? 何をしているんだ。寝ればいいだろう」
確かに身体は酒のせいもあっていつもよりも数倍気怠い。瞼が重くていつもは感じない疲労感がずっしりと身体に圧し掛かっている。しかし総司はそれを押し切ってでも、恐る恐る、指先を土方の袴の紐にかける。
「総司…?」
「たまには…私にも、させてください…」
顔を真っ赤にしつつ、遠慮がちに総司が申し出る。察した土方が「無理をするな」と言ったけれど、総司は頑なに首を横に振った。
「私も…したい、です」
上目遣いに土方を見る。すると土方が息を吐いて笑った。



隣の部屋が騒がしい。
そう気が付いたのは、伊東が出て行って半刻ほど経った頃だった。しばらく正座で反省し、兄たちの声も聞こえなくなったのでもう屯所に戻ろうか…そう思っていた時だ。
こっそりと聞き耳を立てると、どこかで聞いたことのある声が、しかし想像もできないほど艶っぽく響いていた。
(…沖田組長と…土方副長…)
鈴木はすぐに気が付き、そして察した。どうやら二人はそういう関係らしい。
「…ふうん…」
漏れた声は、自分でもとてもどす黒く聞こえた。



264


秋晴れの壬生寺には、ちょっとした人だかりが出来ていた。
「お見事!お見事!」
伊東の賞賛の拍手が響き、その隣で近藤が満足そうに腕を組んでいた。平隊士たちが歓声を上げて見守る先には、池月を乗りこなす総司の姿があった。
島田と山野が付き添うものの、池月は総司の言うことを素直に聞いていた。最初に出会ったころは人を嫌い、総司さえも寄せ付けない暴れ馬だったが、今では総司の思うままに池月は従った。そんな池月の成長を、江戸から戻った近藤と伊東に見てもらっていたのだ。
総司は池月を近藤と伊東の前まで誘導し、落ち着かせて降りた。
「いやあ、見違えるようだなあ!」
手に負えない暴れ馬だった池月を知っている近藤は、驚きを隠せないようだった。
「でも、私以外はやはりまだ乗せてくれません。この間も島田さんを蹴って近寄ろうともしなかったんです」
ねえ、と総司が島田に話を振ると、彼は頭を掻いて「面目ないです」と苦笑いした。すると伊東が微笑む。
「馬はもともと臆病な生き物だ。島田君のように体格の良い者には怖がっているんだよ。それにしても、沖田君が馬を乗りこなしていると、何やら絵巻物に出てくる若武者のようで、絵になるものだねえ」
島田へのさりげないフォローと、総司への賛美。ストレートな言葉ばかりを並べる伊東には、総司はまだ慣れない。すると伊東は「安富くん」と一人の隊士を呼んだ。
人だかりから一歩前に出て伊東の隣に出たのは、先日入隊したばかりの安富才助だ。
「近藤局長。彼は大坪流馬術を修めています。今後、馬も増えてくる中で、きっと彼が役立つと思われます」
「では安富君、山野君たちと協力して、よろしく頼む。できれば誰でも乗りこなせるように調教してやってくれ」
「はっ」
力強く返答した安富に、総司は池月の手綱を渡した。
伊東らの加入から数日。
新撰組の隊としての組織編成は明確なものへと変わった。
これまでの局長、副長、総長のポジション、そして副長助勤が十隊の長を勤めることに変わりはないが、幹部に参謀が加わり、またそれぞれの芸に秀でた師範頭が設けられることとなった。撃剣・柔術・槍術・砲術…各分野に三・四人が置かれ、総司は永倉や斉藤らと共に撃剣師範を勤める。そこでこれまで池月の世話と調教を託されていた総司も、今回の編成でそれを馬術頭となる安富に任せることになったのだ。
池月は安富に手綱が渡され、どこか不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、手慣れた安富が宥めると渋々ではあったがいうことを聞いていた。その様子をほっと安堵したような少し寂しいような気持で総司は見守った。
「沖田先生、そろそろ巡察のお時間です」
山野が近寄ってきて伝えた。確かに既に陽が傾き、昼の巡察の時間となっていた。
「わかりました。山野君、島田さん、先に行って準備をしていてください。すぐに行きます」
「はい」
今日から新しい隊士とともに巡察に向かう。一番隊はさすがに剣の遣える者が多く入ったので、特に心配はなさそうだが、手順ややり方など、教えることは山ほどある。
総司は近藤と伊東の元へ向かった。未だに二人は馬の様子を眺めていた。
「近藤先生、伊東参謀。私は九番隊とともに巡察の時間ですので、これで失礼します」
「ああ、頼む」
「おや、そうでしたか」
近藤はあっさりと頷いたが、伊東は何か物言いたげに残念がる。近藤が「どうか?」と先を促した。
「いえ、沖田君には是非、この後、私と打ち合ってほしかったのですよ。新撰組一番の遣い手の沖田君が、どのように剣を振るうのか…私はずっと興味がありまして」
要するに新撰組の一番の遣い手がどの程度のものか腕試しがしたい…ということなのだろうが、伊東がそれを口にしても嫌味にならないところが、彼の優れているところだろう。
(この人と話をしていると…何だか不思議な気分になる)
賞賛や賛辞…言葉の全てに纏わりつく靄のような霧のようなものが見え隠れしていて…本当に伊東という人間そのものと言葉を交わしているのかわからなくなってしまう。
しかしそれを全く感じ取っていないのか、わざとなのか、近藤はその大きな口で笑った。
「ははは。それはそうでしょうな!総司、またの機会にお相手して頂きなさい」
「はい」
(いや…近藤先生がそうおっしゃるなら、何も疑う必要はない)
総司は安堵して頭を下げ、その場を離れたのだった。


今日は、一番隊としても新たな編成を迎えた巡察であり、また同行する九番隊もまた新しい面子が揃っていた。
「…宜しくお願いします」
少し硬い挨拶で声をかけてきたのは、九番隊の頭を勤める鈴木だ。彼と言葉を交わすのはあの宴会以来のことで、総司としては苦手意識があったのだが、そうはいっても仲間・同志であることには違いないのだから、スタートから怖気づいては仕方ない。出来るだけの笑顔で接した。
「宜しくお願いします。まだ皆さん京に来て間もないでしょうから、今日は巡察の経路を中心に頭に叩き込んでもらえればと思います。こちらが伍長の島田です」
「島田です。何なりとお申し付けください」
伍長の島田が鈴木に挨拶すると、鈴木は頷いて返した。
「では、出発します」
総司が進むと、その隣を鈴木、そして島田、九番隊の伍長…と続き、屯所をぞろぞろと出ていく。緊張感はあったものの、新鮮な気持ちでの巡察となった。
いつものルート…今日は花街界隈を中心に進める。狭く入り込んだ道、華やかな芸妓、聞き慣れない言葉…そんな一つ一つの街の様子に、新入隊士たちの目が泳いでいたが、初日なので仕方ないだろう。そのために九番隊との合同の巡察になっているのだから、総司は目を瞑ってやることにした。
しかし、隣を歩く鈴木には何の反応もない。町の風景を珍しがる様子も、驚くこともない。
「…もしかして、都にいらっしゃったことが?」
「いえ、特に。何故でしょうか」
総司の何気ない質問に、鈴木は尖った言葉で返す。
「ああ…その、慣れたご様子だったので…」
「そんなことはありません」
淡々と述べる鈴木は、総司とそれ以上の会話を続けるつもりは無いようだ。まっすぐ進行方向のみに目をやった。
年は総司よりも五・六歳上だが、兄に似た面差しのせいかそう年を取っているようには見えない。しかし少し強張ったような表情を崩さないので、兄が大輪の花だとしたら、弟の彼は固く閉じた蕾のようだ。それは誰に対しても同じようだが、特に総司は自分に棘があるということを感じずにはいられない。
(どうやら嫌われているらしい…)
鈴木と話をしたのは宴会だけだったので、あの短い会話の中に、鈴木が癇に障ることが含まれていたのだろう。覚えがあるのは、彼と彼の兄である伊東の過去について尋ねた時だ。
(あまり…詮索をされたくないということかな)
斉藤がそうであるように、鈴木も何か思うところがあるのかもしれない。
総司は自分を納得させ、ひとまずは彼が話しかけてくる以外は、自分は口を閉ざしておこうと決めた。
花街を過ぎ、人通りの多い場所でそれぞれに分かれて御用改めを行う。今日の死番を確認し、号令と共に離散する。今日は新入隊士たちを伍長の島田に任せた。総司が付き添っても良かったのだが、初日から組長が一緒ではリラックスできないだろう、と敢えて一歩引くことにしたのだ。
総司と鈴木はその場に残った。周囲の騒がしさを無視して、鈴木は黙り込んだままだ。
(気まずい…)
総司は内心そんなことを思っていたのだが、話しかける話題も見つからずに、彼に併せて黙り込む。すると意外にも鈴木の方から口を開いた。
「土方副長と衆道の仲なのですね」
あまりにも起伏のないので、彼が一体何を言っているのか、最初は良くわからなかった。しかし噛み砕くように飲み込むと、彼が思ったよりも踏み込んだ質問をしてきたようだと気が付く。
「あ…ああ、ええ、まあ…そうですね」
少し迷いつつも、総司は認めた。既に隊内に知れ渡っていることだろうし、いずれ彼の耳にも入ることだ。必要のない嘘は信頼を揺るがすと思ったからだ。
しかし、総司が思っている以上に、鈴木は何故か苦い顔をした。
「……無理矢理、ですか」
「え?」
それは誰からも受けたことが無い質問だった。田舎の道場では、兄弟子が力任せに弟子を寝取ることが慣習であるような話も聞く。土方が総司の兄弟子であることは知っているだろうから、そこからの連想なのかもしれない。
総司は穏やかに笑って、否定した。
「それは違います。私も、望んだことです」
「……」
幼い頃から一緒に歩んできた長い長い、紆余曲折の道のりの中で、そうなっただけのこと。それについて彼に詳しくは語るつもりはなかったが、土方のことを誤解されるのは嫌だった。
しかし、鈴木の表情は歪んだまま…むしろ、その眉間のしわを深く刻み、まるで嫌悪するかのように総司を睨み付けた。その表情の意味は、鈍い総司でも読み取ることができた。
(どうやら益々嫌われたらしい)
いくら衆道に寛容な時代とはいえ、男同士の関係を嫌悪する人間もいる。そのことは理解していたが、しかし目の前にするとどう言い繕ったらよいのかよくわからない。
(言い繕う必要はないのだけれど…)
だから、ますます迷う。
すると鈴木は、唸る様に声を出した。
「…女の代わりにされているとは、思わないのですか」
「代わり…」
「子ができないから…面倒がないからと、都合の良いように扱われているとは思わないのですか」
淡々とした抑揚のない声だったはずなのに、鈴木の声には湧き上がるような怒りと踏みつけるような嫌悪があった。そして吐き捨てるように続けた。
「俺はそんな汚らわしい関係を認めない…」
「…鈴木さん」
「吐き気がする…!」
鈴木はそう言うと、総司に背中を向けて歩き出す。苛立ちを隠さず、そして言葉通り彼の顔色は一気に真っ青になっていたので、それは本音の叫びだったのだと総司は何となく理解した。
総司は鈴木を追うことなく立ち尽くした。
鈴木の言葉は確かに非難にも似た暴言だったが、何故か総司の心が痛むことはなかったのだ。どうやら怒らせて、ますます嫌われてしまったらしいとは思ったけれど、それは仕方ないだろうとすぐに諦めがついた。
それよりもむしろ、総司にぶつけた彼の感情の中に、「悲しみ」が混じっていたことが気になったのだった。


265


その夜のこと。
「…なんだ、変な顔をして」
部屋に入って報告を終え、開口一番に土方からはそんな感想が漏れた。
「…変な顔って、どんな顔してます?」
「渋柿を食ったような顔だ」
「ああ、そんな季節ですねえ。おみねさんの家には柿の木があるっていっていましたけど、もう熟した頃ですかねえ」
「話を逸らすな」
土方から強く制されて、総司は話を逸らすことを諦めた。もっとも、こんなことで土方が追及を止めるとは思っていなかったけれど。
「…何だか、嫌われちゃったみたいで」
「嫌われた?一番隊に入った奴か?どいつだ」
気に入らないなら外してやる、と言わんばかりに土方が矢継ぎ早に言ったので、総司は慌てて止めた。
「違いますよ、一番隊の皆さんは順応も早いし、特に手にかかることはありません」
「だったら誰に嫌われるって言うんだ」
「その…鈴木さんに」
まるで告げ口をするようで気が引けたが、鈴木のあからさまな態度を見れば、その内監察からも報告が上がるだろう。
「鈴木…伊東参謀の弟か」
「ええ。まあ…宴の時に拙いことを言ってしまったみたいで、それ以来嫌われてしまったというか…」
総司は鈴木の『男色嫌い』には触れなかった。別に土方との関係を恥じているわけではないが、そんな風に否定されるのも仕方のない事だと思っていたし、口に出さないだけで同じように思っている隊士もいるかもしれない。だったら、特別、鈴木のことを非難し土方に報告する必要はないだろう。
土方は腕を組み直した。
「ふうん…伊東参謀と違って、人のことには無関心に見えたがな」
「それはそうだと思います。まあ、余程嫌われてしまったのか、生理的に嫌いとか…そういうことじゃないですかね。そういう人もいるって思いますから、仕方ないですよ。だから、ひとまず、一番隊との巡察は避けた方が良さそうですよ」
「…わかった。何かあったら言えよ」
総司が特に気にする様子もなく明るく話をしたせいか、土方はひとまずは納得してくれたようだ。
総司は安堵して、話をつまらない雑談に変えたのだった。


同じ夜、山南は永倉に誘われ、飲みに出かけた。暗くなった町を二人で提灯を持ち、並んで歩く。
「…それにしても、永倉君から飲みに誘ってくれるだなんて珍しいね」
生真面目な彼は稽古に勤しんだり、屯所で部下たちと一緒に雑談に興じることが多く、原田に強引に誘われる以外は女遊びもしない。酒もたしなむ程度で、進んで飲むことは少ないように思っていた。
「いや…山南さんには世話になりましたから」
永倉は突然歩みを止め、山南の方を向いた。
「山南さん、あの時は…俺のせいで山南さんに迷惑をかけて本当にすみませんでした!」
永倉は叫ぶように謝って、丁寧に頭を下げた。
彼が言っているのは先日の建白書の件だ。彼は謹慎からすぐに江戸に旅立ってしまったので、今まで山南と二人きりで話す機会はなかったのだ。山南は慌てて「頭をあげてくれ」と頼んだ。
「何も謝ることなんてない。私は何もできなかったんだ。動向を見守ることしか出来なくて…丸く収まって安堵しただけで、全てを解決に導いてくれたのは、近藤局長だよ」
「しかし、関係のない山南さんを巻き込んでしまいました。俺は江戸に行っている間、どうしても謝りたくてしかたなかったんです。…それに葛山も死んだと土方さんから聞きました」
葛山。
永倉の口からその名前が出て。山南の心臓が跳ね上がる。
「土方君は、なんて…?」
「建白書の件で、脱走したと。和解という結果に納得できなかったのではないかと…俺にはそんな風には見えなかったけれど、脱走ならどうしようもないと思っています」
永倉は視線を落とした。どうしようもないのだと言いながら、本音を言えば自分のせいであることを責めているのだろう。
『葛山君は土方君に怯えて、脱走を図ったんだ』
『彼は責任を取らされ、そして見せしめになったんだ』
そういえば、永倉はまた怒るだろうか。今度こそ、新撰組に、そして土方に、全てに絶望してしまうだろうか。
(…だめだ)
山南は首を横に振る。自分はそんなことを望んでいるわけではない。
葛山の結末について、まだ自分のなかで整理ができていない。心は未だにズキズキと痛んだ。まるで瘡蓋になった傷から、もう一度血が溢れてくるようだ。
永倉はもう一度「すみませんでした」と頭を下げた。山南は彼の真摯さを受け止め、そして自分にある葛藤を飲み込んで、「わかった」と頷いた。
「じゃあ、私に申し訳なく思うのは、今ので終わりにしよう」
「…はい、じゃあ今日は俺がおごりますから、飲んでくださいよ」
永倉の表情が明るいものに変わり、山南も穏やかに微笑んだ。二人の足取りが少しだけ軽いものに変わった。
やがて二人がたどり着いたのは、島原の料亭だった。永倉が既に話をつけていたようで、すぐに二階の座敷に通される。十畳にも満たない部屋だったが、窓から涼しい風が吹き込んできて、秋の夜長を満喫できそうな良い部屋だった。
早速、店の女将が酒を運んできて、秋の突きを眺めながらの宴会が始まる。その内、料理も運ばれてきて、季節の栗ご飯などを味わっていると、
「失礼します」
というしなやかな声が部屋に響いた。すっと開いた障子の先には、二人の女がいて、一人は明里だったので、
「えっ?」
と山南は大層驚いて永倉を見た。どうやら永倉がこっそりと呼んでいたらしい。
明里はもう一人の女性…島原遊郭の亀屋の芸妓 小常に手を引かれるようにして、山南の隣に座った。小常は山南に挨拶をして、そのまま永倉の傍に座った。彼女は永倉の馴染みらしい。
「君に良い女性がいただなんて、知らなかったよ」
小常は小柄で色白、物腰の柔らかい京美人だ。永倉は少し頬を染めながら頭を掻き、
「山南さんに紹介したのが初めてですよ」
と言った。話を聞くと原田あたりが知れば騒ぎかねないと思い、誰にも言わなかったのだそうだ。すると小常が穏やかに微笑む。
「うちは、山南せんせのことは明里姐さんからよう話を伺っておりました。お会いできて光栄どす」
「私のことを?」
「明里姐さんはうちの舞の先生なんどす。せやからよう話をきいとりました。山南せんせ、最近はたまに顔を出されるだけで、なかなか会いに来てくれはらへん。来てくれはっても心ここに在らずやって、愚痴を聞いておりましたんえ?」
「小常ちゃん!」
明里が慌てて小常を止める。京美人らしい顔立ちの割には、物言いが軽くて歯切れが良い。素直な性格の持ち主らしい、と山南は好感を持った。
一方で、隠された心情を暴露された明里は少し頬を膨らませつつも、顔を染めていた。明里が自分のことを待っていてくれていた…それだけで、山南は自分の心が宥められていくのを感じた。
「悪かった。局長や永倉君が江戸に行っている間は私も控えているべきだと思って…余計な心配をかけてすまなかった」
「そんな…うちなんかに謝らんといてください。うちが勝手に心配してただけで…」
「いやしかし…」
「まあまあ、いいじゃないですか。こうしてゆっくり会う時間ができたんですから。今日は楽しみましょう」
永倉が間に割って入り、小常も「そうやそうや」と後押しした。明里も穏やかに微笑んで頷いたので、これまでのすれ違いは水に流すこととした。
それからは久々に穏やかな時間が流れていった。料亭自慢の季節の料理や、地酒に舌鼓を打ち、小常の歌に合わせた明里の舞や、小気味の良い三味線の音、お茶屋遊びに興じて、山南は久々に心から笑った。そして明里も控えめながら終始嬉しそうにしていて、その顔を見ているだけで山南も幸せな気持ちになった。おそらく彼女以外に山南をそんな気持ちにさせる女性はいない。
(いつか…彼女を請け出そう)
山南は初めてそんなことを思った。

夜が満ちる頃、名残惜しくも思いながらも「そろそろ」と山南が切り出した。伊東らが加入して間もないのだ、あまり屯所を空けるわけにはいかない。
永倉が「そうですね」と同意すると、小常が
「ええ?もう行ってしまうん?」
と声を上げた。明里が「小常ちゃん」と諌めるが、彼女自身も寂しげにしている。小常が永倉に次の約束をねだるなか、明里が山南の袖を引いた。
「うち、山南せんせにお願いがあって…」
「何だい、言ってみなさい」
いつもは何かを求めたりしない明里がそんなことを言うのは珍しい。彼女が望むなら何でもかなえよう、と促すと
「うちと…お西さんに行ってくれはらへんやろか」
「お西さん?」
「西本願寺どす」
明里に言われて、「ああ」と山南は思い当る。壬生からも近い、浄土真宗の総本山で、立派な阿弥陀堂が山南の記憶にあった。
「それは構わないが、そう簡単に外出ができるものなのか?」
「山南せんせ、知らへんの?」
話を聞いていたらしい小常が割ってくる。
「主人さえ了承すれば、外出はできる。江戸の吉原とは違うんや」
「そうなのか…」
まだ知らないことがあったものだ、と山南が唸ると、明里が「でも」と首を横に振る。
「お代金がかかることやし、無理には…」
「いや、大丈夫だ。任せておいてくれ」
山南は即答する。
すると明里は遠慮しながらも、「ほんまに?」と嬉しそうに笑った。その様子を永倉と小常が揶揄しながら見ていたが、構わなかった。



266


二日後、山南は朝餉を取り終わるとすぐに近藤の部屋へと向かった。なかからは声がしたが、ちょうどその声の主にも用件があったので、構わず、
「局長、山南です。失礼して宜しいでしょうか」
と伺って障子をあけた。色よい返事があったので中に入ると、副長の土方もそこにいた。
「近藤局長、こちら先日入隊した伊東参謀らを含めました隊編成の名簿です」
山南は近藤に全隊士名を記した名簿を渡す。昨日頼まれていた仕事だ。近藤は早速、中を開いて確認し満足そうにうなずいた。
「山南さんの字は相変わらず達筆で読みやすい。それに仕事が早い」
「ありがとうございます。本日はお暇をいただこうと思い、そのかわりと言ってはなんですが、仕事を先に片付けさせてもらいました」
「ああ、そうでしたね。ゆっくりして来てください。たまには仕事のことを忘れて…なあ、歳」
局長はコメントのない副長に話を振る。土方は頷いて「ああ」と言った。
「では失礼します」
「明里さんに宜しくお伝えください」
山南は近藤の言付けに頷いて、足早に部屋を出た。その足音が遠ざかるのを聞きながら、
「…久々に山南さんの晴れやかな顔を見た気がするなあ。明里さんのおかげか」
と近藤が笑った。土方は山南の書き記した名簿を事細かに確認していて、返事はない。近藤はそんな土方をじっと見つめながら、ぽつりとつぶやくように言った。
「なあ、葛山君のこと…俺なりに推測してみたんだが」
「…」
土方は近藤が不在の報告がてら、「葛山が脱走を図ったため、切腹した」と簡単に説明した。脱走と言う疑いの余地のない行為だったため、独断で切腹させた…近藤はその件について苦い顔をしたが、その時は「そうか」としか言わなかった。
「お前が、切腹させたのか?」
もちろん隊規に照らし合わせた結果であることは理解している。しかしその過程は、近藤には分からない。
「……そんなことを聞いて、どうするんだ」
土方のその返事は、つまり近藤が思っている通りだと肯定しているのに等しかった。
近藤は深くため息をつき、「そうか」と同じ返事をした。腕を組み、眉間に皺を寄せて苦い顔をした。
「褒められた行いではない。…しかし、永倉君達の行いは丸く収まったが、同じようなことをされては隊の統率に関わる。お前はそれを警戒しているんだろう」
「…山南さんには納得してもらえなかったけどな」
「それはそうだろうな」
土方と山南の間にある距離感に、近藤は気が付いていた。むしろだからこそ、葛山の一件は報告されたこと以上の何かがあったのだろうと推察できたのだ。
「俺は何もしない方がいいのだろうな」
「…ああ、かっちゃんは鈍いままでいい。大将ってのは、そう言うもんだろう」
「大将…なあ」
近藤はもう一度大きなため息をつく。
「甘い考えだとは思うが…俺は、皆が仲良く過ごしてくれるのが、一番良いと思っているよ」
「……」
土方はやはり何も答えなかった。


秋の風が少し冷たくなり、時折吹きつけるように身体を包んだ。ヒヤッとした感覚がやってくるたびに、
「大丈夫かい」
と隣にいる明里に訊ねる。彼女は穏やかに微笑んで
「せんせ、そればっかりや」
と笑った。
明里と約束をした西本願寺までは上七軒からは遠い。籠を呼ぼうとしたが、
「久々に外を歩きたい」
という明里の要望で西本願寺まで歩くことになった。しかし、すっかり彼女の目が見えないということを忘れていたため、その道中はずっと彼女の手をつないでいなければならない。思春期の恥ずかしさや周囲の視線が気になったが、彼女が自分だけを頼りに歩いているのだと思えば、そんな気持ちはすぐに消えた。
明里の細い白い指先が遠慮がちに、山南の手を掴んでいる。男ばかりに囲まれる生活を送っているせいか、女と言うものが、何やら触れれば壊れそうな気がして、山南はずっと緊張しっぱなしだった。
しかし、明里は山南の手に頼りつつも、嬉しそうに隣を歩いていた。
「…風の匂いが違う…」
「風?」
明里は頷いた。
「廓の風は…温かくて、いつもおんなじどす。せやけど、一歩外に出たら…こんなにさわやかな匂いがするんや…そんなことをすっかり忘れていました」
山南にはその「匂い」の違いがよく分からない。しかし明里が嬉しそうに、そして懐かしそうにその風を受け止めていることはよく分かった。彼女にもこの外の風を感じていた時があったのだと、山南は気が付く。
外に出ること…ただそれだけで彼女を慰めている。
彼女を外へ連れ出したい…廓に閉じ込められている彼女への溢れ出る気持ちがあったが、その一方で(まだ駄目だ)と自分に歯止めをかけた。彼女が寄りかかっていても支えられるのだと思えるほど、自分に自信がなかったのだ。
冷たい秋風でさえも愛おしそうにする明里に山南は訊ねた。
「明里は…どこの生まれだい?」
「大津どす。琵琶湖のほとりの…」
「琵琶湖か…」
明里は「良いところどす」と微笑む。
「行きたいな…君と一緒に」
京の喧騒を離れ、湖のほとりで、明里と二人でいられたらどんなに良いだろう。
山南は何の気なしにそういったのだが、明里は急に頬を赤く染めた。そして繋いだ手のひらを強く握りしめて
「…うちも、行きたい」
と恥ずかしげに目を逸らしつつ、答えた。

そのうち、西本願寺までたどり着いた。門の辺りまできて明里に「ついたよ」と知らせると、彼女は手を合わせて深々とお辞儀をした。それまでの穏やかな表情が、神妙なそれにかわる。西本願寺の参拝者は多く、明里もそういった客の一人として参拝したかったのだと山南は思っていたが、彼女の真剣な表情は周りとは違う。
「…西本願寺に何か所縁でもあるのかい?」
門をくぐり本殿へと向かうなか、山南が尋ねる。すると明里は少し言葉を選ぶようにして、答えた。
「店の親しいお客はんに頼んで…ここで、君菊姐さんの菩提を弔っていただいてるんどす」
「君菊さんの…?」
しかし彼女の墓は土方が別の場所に建てたはずだ。すると明里が「遺骨を分けて頂いて」と付け足した。
「まだ…この目が見える頃、君菊姐さんとようここに連れて来てもいました。とても立派なお寺で…ここに弔ってもらえたなら、きっと極楽浄土にいけるんやないんかって、笑いながら…話して…」
ぐっと、そこで明里の言葉が止まる。これまで押さえつけて、忘れかけていた気持ちが高ぶったのだろう。それまで穏やかだった彼女の瞳に、光るものが浮かぶ。
山南はそっと彼女の肩に手を置いた。明里は涙を拭いつつ続けた。
「四十九日には来られへんかったから…機会があるときに来ようって…」
「そうか…すまなかった」
池田屋のすぐに君菊は亡くなった。そのあたりから自分にもいろんなことがって明里に会えないまま、思えば四十九日はとっくに過ぎていた。明里がここに来られなかったのは自分に責任があるだろう。
しかし明里は首を横に振った。
「うちも最近、やっと心の整理がついたところどす。穏やかな気持ちになれた今のほうが、姐さんも喜んでくれはると思います」
「…そうだね」
彼女の気遣いを感じ、山南はそれ以上の謝罪を止めた。それに彼女の言うとおり、君菊は元気な顔を見せる方が悦ぶのではないかと思った。
そのかわり、ちょうど近くに通りかかった花売りから名も知らぬ花を買った。そしてそれを携えて寺の坊主に君菊の墓へと案内してもらう。君菊の墓は小さな墓だったが、見通しの良い場所で柔らかな風が通り過ぎていた。
「君菊姐さん…遅うなって、堪忍…」
その場に座り込み、明里は静かに手を合わせた。山南もその隣で、買った花を供えて手を合わせる。
明里が舞い、君菊が唄った「黒髪」が今でも鮮明に思い出された。しかしその一方で、それが遠い昔のことのように思えてならない。
(一人の人間を失った…)
そのことを忘れてはならない。
そしてそんな彼女や、これまで切腹になった隊士、闇に葬られた彼らのことを考えれば考えるほど、立ち止まるわけには行かない。
彼らが礎になったということを刻み付けなければならない。こうして彼女の墓前にやってきて、そんな当たり前のことを思いだすことができた。
「…明里」
うっすらと目を明けた彼女に、山南は話しかける。
「今日、ここに来られて良かったよ。何だか…前に進めそうな、いや、前に進まなければならないのだという気持ちが、湧いてくるようだ。君菊さんのお蔭かな…」
明里の視線は合わない。けれど、彼女は交わらない視線のまま頷いた。
「…ほんまや」
「え?」
「山南せんせの声、明るくなってはる」
明里が笑った。山南は「そうかな」と頭を掻いたが、人よりも耳の良い彼女がそう言うのだから、そうなのだろう。
「君菊姐さんは亡くならはっても、光なんやなあ」
そうつぶやいた彼女の声も、少しだけ明るくなったような気がした。


267


初冬の頃、道場は活気づいていた。
「どうしたんです?」
巡察帰りの総司が道場を覗く。いつもは余程のことが無い限り、稽古以外の者は道場にやってこないのだが、今日はあふれ出るほどの野次馬が詰めかけていた。
平隊士たちは総司がやってくると道を開けてくれた。彼らの好意に甘え前へと通してもらうと、道場では白熱した試合が行われていた。審判を永倉が務め、伊東やその配下、斉藤、原田らが揃っている。土方の姿はなかったが、それでも新撰組の実力者たちが揃い、いつもの稽古の雰囲気とは違っていた。そして試合には聞き覚えのある…しかし懐かしい声が良く響いていた。
「あれ…?山南さんですか」
総司は観客の間を潜り抜けて上座に座る近藤の傍へ向かう。近藤も総司に気が付いて「帰ったのか」と声をかけてきた。
「はい。万事つつがなく巡察は終わりました。それよりも、山南さんが試合されているなんて珍しいですね」
「最近は体調が頗る良いそうだ。これも明里さんのお蔭だろうなあ」
近藤は腕を組んで満足そうにうなずいた。
試合の相手は、伊東の門下生で三番隊伍長を務める加納鷲雄だ。山南と同じ北辰一刀流を修めている。しかし、総司が見る限り山南の動きのキレの方が勝り、加納は圧倒されているようだ。
「懐かしいなあ…」
総司が思わずそんな風に漏らしてしまったのは、山南が調子よく稽古に臨んでいるのを久々に見るからだ。幼い頃に総司を圧倒した理路整然な北辰一刀流。その姿を見るのはもしかしたら試衛館以来のことかもしれない。
パァンッという小気味よい音が道場中に響き渡り、審判を務めていた永倉が「そこまで!」と試合の終了を告げる。加納はすぐに面を取ると深々と頭を下げて
「ありがとうございましたっ!」
とお礼を述べた。山南はゆっくりと面を外す。
「こちらこそ、ありがとうございました。久々に北辰一刀流と打ち合わせてもらって、懐かしく思いました」
そう述べる山南の表情は生き生きとしていた。近藤の言うとおり、「体調が頗る良い」ようだ。
すると加納側に控えていた伊東が、パンパンと手を叩き「素晴らしい!」といつもの心からの賛辞を口にして、拍手をした。
「山南総長の剣は、やはり北辰一刀流らしい忠実な剣です。この伊東甲子太郎も見習わなければならない!」
「いえいえ、なにをおっしゃいますか、伊東参謀」
謙遜した山南が手を振って恥ずかしそうに頭を掻いた。
伊東大蔵は、先日、伊東甲子太郎への改名を発表した。何でも今年が甲子にあたるからだそうで、伊東とそして新撰組の前途を祝した改名だと本人が語っていた。土方はそれを聞いて「おめでたい奴だ」と毒を吐いていたけれど、伊東の存在はここ数日ですっかり新撰組に馴染んでいた。
するとその伊東が、「おや」と視線を総司に向ける。
「沖田君、帰っていたのか。どうかな、良い機会だから私と一試合」
「え?」
総司の困惑とは裏腹に、周囲はわっとどよめいた。神道無念流と北辰一刀流を修め道場主まで上り詰めた伊東の剣の腕は前々から評判であったし、その腕前が新撰組一番の遣い手と比べてどの程度のものか…伊東の申し出は皆の興味を引くことであっただろう。しかし、当の本人からすれば興味はあったとしても踏み切れないものでもあった。
(簡単に受けて良いのか…)
しかし周囲の盛り上がりを無視するわけにはいかない。総司がちらりと近藤を見ると、深く頷いて
「お相手をしてもらいなさい」
と上機嫌だ。もちろん総司の逡巡には気が付いていないのだろう。
(…仕方ない)
「わかりました。よろしくお願いいたします」
総司の返答に、さらにわっと盛りあがった。伊東も嬉しそうに微笑むともとの場所に戻る。総司は山南の方へ向かった。
「仕事のあとに、大変なことになってしまったね」
山南が苦笑しつつ、総司に声をかけた。総司も「困りました」と小声で感想を述べつつ、近くにいた隊士の防具を借りて身に着けた。そして山南から竹刀を手渡され受け取ると、道場の真ん中に向かった。
審判は変わらず永倉が務める。そして相手である伊東は防具に身を包み、面を被っても尚、その顔立ちの整った様子が引き立っていた。切れ長の瞳が総司をまっすぐに見つめて
「お願いします」
と一言丁寧に述べると、また真っ直ぐに竹刀の先を総司に向けた。
伊東は先ほど、山南の剣を「忠実な剣」と述べたが、それは伊東に対しても言える気がした。総司がこれまで見てきた北辰一刀流の使い手の中でも、これほどまでに迷いのない構えを見たことが無かった。周囲の期待や興味といった好奇的な視線を全く加味することなく、凛とした自分の世界を作り上げる。そこには言いようもない洗練された空気が流れていて、見る者がため息をついてしまうような…まさに彼らしい剣の姿だと総司は思った。
総司もいつもと同じように構えた。剣を構えてしまえば周囲の視線など関係ない。その点は伊東と同じだった。
「はじめっ!」
永倉の鋭い声が道場に響き渡る。
その音と同時に、伊東が一歩前に踏み込んだ。状況を見るかと思いきや、迷いのない剣を振る。どうやら最初から踏み込むことを決めていたようだ。
(涼しい顔をしていたのに…)
その行動を見て、総司は自分が感じていた伊東への「二面性」を思い知った。人を心から称賛し褒め称えることができる彼は、一方で自分のなかに確固たる芯がある。そしてそれを器用に使い分けて、人を引き寄せてしまう。土方はきっと伊東のそんなところを本能的に見抜いていて、それをいいようもない嫌悪として認識しているのだろう。
総司はその伊東の一本目を、後ろに二、三歩下がることで受け流した。すると伊東は流れるような仕草で次なる手を打ち込み、総司は胴ギリギリでそれを迎え、打ち払う。一歩前に踏み出して上に振るい上げた力で伊東は元の位置まで戻る。
「ふ…っ」
伊東から声が漏れた。瞳孔が開き、目の色が変わる。
今度は、総司の方から打ち込んだ。まっすぐに打ち込むと右にかわされる。伊東のその動きは思った以上に俊敏で、かわすというよりも撃ち落とすような剣だった。そして伊東は、続けざまに身体を傾けて薙ぎ払うようにして横に振るう。北辰一刀流のそれからは少し外れたような動きだが、別の流派を修めた伊東だからこその変化だろう。
総司はそれも交わした。おそらく他の隊士ならそのまま薙ぎ払われて道場の壁まで吹き飛ばされていただろう。その繊細な見た目からかけ離れた豪胆な剣だった。
そして総司は一歩後ろに足を置き、手のひらに力を込めた。そしてまっすぐに伊東の方へ向かう。これまでと格段に違うスピードを伴う。
「くっ!」
突き。一段目の突きを、伊東は交わした。そして二段目の突きはバランスを崩しつつも何とか耐えた。
しかし総司の突きはもう一度ある。
「やめっ!」
聡い永倉の静止で、総司の動きがぴたっと止まる。そして伊東が手にしていた竹刀がカラン、と床に落ちた。
三段目の突き。その剣先が伊東の喉元で止まっていた。
「…参ったな」
面の奥でその美貌が困ったように笑った。そして周囲の隊士たちも何が起こったのかわからない困惑とともに、その迫力に息を飲み、そして拍手が沸き起こる。
総司は竹刀を落とし、二歩ほど下がるとお辞儀をした。伊東も同じようにして二人は距離を取って、面を外した。
「素晴らしい勝負でした」
上座で見ていた近藤が手を叩きながら、二人の元へやってくる。伊東は「ええ」と迷いなくうなずき、総司の方を見た。
「流石、近藤局長の愛弟子、そして新撰組で一番の遣い手です。私のような道場剣法では、沖田君の実戦を勝ち抜いてきた剣には敵わない。これはまた私も自分を鍛えなおさなければなりません」
「いえ、こちらこそ…横に薙ぎ払われた伊東参謀の豪胆な剣には驚かされました」
総司の感想に、伊東は「ふふ」とほほ笑んだ。
「それでも君に躱されてしまった。私もまだまだということですね。現状に満足してはならない…また機会があればよろしくお願いしたい」
「もちろんです」
伊東はまたしても、握手を求めてやってきた。彼のくせのようなものかもしれないそれに付き合って、掌を重ねる。以前そうした時よりも熱くなっていたそれを感じて、伊東の先ほどの剣は「本気」だったのだとわかった。
試合が終わると伊東は門下生、そして隊士たちに囲まれた。愛想よく彼らに答える姿を見ながら、ふと、その傍から自分に対する視線を見つける。
鈴木だ。鈴木は、まるで憎悪するかのように総司を睨み付けていた。


「嫌われているのか?」
盛り上がる道場から抜け出し、井戸までやってきたところで、斉藤からそんな風に声を掛けられた。
「何のことですか?伊東先生には気に入るというか、まあ普通に気にかけていただいているようですけど…」
「そっちじゃない」
誤魔化すな、と言わんばかりに斉藤が指摘する。総司は井戸から桶を汲み上げて、手拭いを洗う。冬が近づいているせいか、井戸の水はもう氷のように冷たい。
「…どうやら、嫌われてしまったようですね」
誰にも言うつもりはなかったのだが、目敏い斉藤には気づかれてしまったようだ。道場であれだけあからさまに睨まれれば、気づかざるを得ないだろう。
「宴の席でも絡まれていたが」
「あれ、やっぱり絡まれていたんですかね?」
「さあ」
斉藤にも確信はないのだろう。曖昧に答えた。
「原因はあるのか」
「…どうでしょうね。でもどうにも理由はないけれど嫌いっていう人はいるんじゃないんですかね。鈴木さんもそういう類だと思いますけど」
総司は土方にしたのと同じように、彼の男色嫌いについては口にしなかった。しかし土方と違い、鈴木の悪意を目の当たりにした斉藤は、納得をしてくれなかった。
「たとえそうだとしても、この入隊したての時期に、新撰組の一番隊組長にあからさまな嫌悪と敵意を向けるようなことはしない」
「それは…確かに、そうですけど」
伊東が友好的に振る舞っているなかで、実弟である彼が総司のことを無下に扱う…それは確かに不自然だ。
斉藤が腕を組んだまま固い表情で総司を見る。隠し事をしていることは、バレバレなのだろう。総司はため息をついた。
「…男色がお嫌いだそうですよ」
「鈴木が、そう言ったのか?」
「ええ、この間の巡察の時にはっきりきっぱりと。まあ、そういう理由なら仕方ないですよね。しかもそんな私が伊東参謀を負かしてしまっては、実弟として怒り心頭…そういうことじゃないですかね」
桶の水を流して、総司はため息をつく。
「だから、彼がそう言う以上、仲良くはなれないんです。斉藤さんもあまり気にされないでください」
「……」
固い表情のまま、斉藤はわかったとは言わなかった。



268


元治元年もついに師走となった。師匠も走るその名の通り、新入隊士を迎えて皆が忙しくする中、総司が稽古を終え一服していると
「あれ、山南さん。どこへ行かれるんですか?」
と通りすがった山南に声をかけた。羽織を着こんだ山南は刀を帯びていて、どこかに出かけるようだ。
「ああ、今日は調子が良いから巡察に同行させてもらうんだ。近藤局長に許可をいただいてね」
「へえ」
そう答える山南の表情はここ数か月で見たこともないくらいに明るいものだった。
先日、総司が伊東と試合をする羽目になってしまった時も、山南は昔に戻ったかのように溌剌として剣を振るっていたし、それ以来、体調の良い日々が続いていた。
「お元気そうで何よりです。えーっと今日の巡察は…」
「鈴木君の組だよ」
「ああ…」
山南は明るく答えたが、総司はどうにか笑顔を取り繕った。鈴木に対する苦手意識はすっかり刷り込まれてしまった。
しかしそんなことを知る由のない山南は続けた。
「伊東先生からも宜しく頼まれているんだ。まだ京の土地には不慣れだろうから、微力ながら手助けできればと思うよ」
鈴木を気遣う台詞に、総司は曖昧に頷く。山南は「行ってくる」と総司に手を振って出掛けて行った。
鈴木のことはさておき、山南に笑顔が戻ったのは総司としても安心だった。
こんな日々が続けばいい、そう思っていた。


山南は鈴木が率いる九番隊に合流し、早速巡察に出かけた。入隊したばかりの鈴木の組の編成は、半分が従来の隊士で、もう半分が新入隊士だ。いずれも穏やかな隊士ばかりが揃っていて、無愛想な鈴木が組長でも特に問題は起きていないようだ。
山南は鈴木の隣を歩いた。
「もうすっかり仕事には慣れたかい?」
山南が声をかけると、鈴木は「はい」と頷いた。しかしもちろん彼はそれ以上を続けようとはしない。だが、山南は敢えて続けた。
「何か困っていることとかはないかな。伊東参謀は謙虚な方で、あまりご不満などをおっしゃらないから、気にかかっているんだ」
不慣れな土地で戸惑いや困惑がないわけではないだろう。総長としても実弟である鈴木の意見を聴きたいと思ったのだ。
すると鈴木は少し沈黙した後で
「…少し、手狭です」
と短く答えた。山南が「八木さんの離れかい?」と聞くと頷いた。山南は腕を組む。
「確かに先日、入隊してくれたのは良いが、壬生の屯所では手狭だね…住み慣れた土地ではあるが、早々に移転を考えなければならないな…」
恐らく目敏い土方辺りが話を進めているのだろう。山南はそう思って、戻ったら訊ねてみようと決めた。
するとふと目が留まった。
「…ああ、西本願寺だよ」
大宮通を南に下る道筋の左側手に西本願寺が見えてきた。山南が指差すと新入隊士が視線をそちらに向けた。
西本願寺を見ると、先日明里と共に出かけたことを思いだした。君菊の墓参りをしたことで、何やら憑き物が落ちたかのような気持ちになり、あれ以来身体の調子も良い。病は気からと言うのは本当にその通りのようだ。
あの後、明里と原田が懇意にしているまさの甘味屋に寄った。丁度原田も居合わせていて、明里のことを賑やかに歓迎してくれたので、彼女も嬉しそうにしていた。あっという間に時間が経ち、店に戻る時間になると、明里は少し寂しげな顔をしたが、
「また来るよ」
という山南の言葉に、嬉しそうに顔を綻ばせた。
(この笑顔を絶やさないように…)
その為になら何でもしよう。その決意は、山南を奮い立たせていた。

西本願寺を過ぎたあたりで、組を三、四組に分けて周囲の探索に向かうこととなった。
死番の者が先頭に立ち、三々五々に分かれていく。山南は鈴木の組に同行されてもらい、一番賑やかな商家の中を行く。
久々の巡察で、山南は周囲の人間が自分たちを見ている目が変わっていることに気が付いた。池田屋前までは乱暴者の集まりを蔑むような目をしていた町人たちが、今では畏怖を抱いた不安げな瞳でこちらを見ている。決してそれは本意ではなかったけれど、しかしそれで治安が守れるのならそれでよい…土方辺りはそんなことを思っているだろう。必要悪があることは山南も理解している。
確かに町人と慣れあうのは良くないだろう。もともと長州贔屓の気質がある都では、七卿落ちを経た後でも長州の浪人を匿う者もいるという。せめて新撰組が闊歩することが抑止力になっていると良いのだが。
そんなことを考えているところで、前方から激しく何かが割れるような音がした。
「何だ…?」
鈴木と目くばせして、駈け出す。同じ組の平隊士たちもそれに続いた。すると少し離れた商家から女性の叫び声と、物が薙ぎ倒されるような音が響いた。
何だなんだと野次馬が集まる中で、中年の男が
「誰か!誰か、助けてえな!」
と訴えた。鈴木と山南たちは一層早くに走り、野次馬たちをかき分けて、前に躍り出る。
すると商家の入り口から這うように中年の男が助けを求めていた。先ほど叫んでいた者だろう。怪我をしているようで、頭から血を流していた。
「どうした、何があった!」
山南が問うと、中年の男は浅黄色の羽織で新撰組だと気が付いたのだろう。「強請りや!」と店の中を指差して助けを求めた。
「鈴木君、行こう!」
「待ってください、今日の死番から行かせます」
山南は鈴木が指さした死番の平隊士を見る。残念ながら入隊したばかりの平隊士で、強請りが多勢ならば無駄死にを出すだけだろう。
「そんな暇はない!」
差し置いて刀を抜いて、山南は店の中に足を踏み入れた。狭い入口から中に入ると、店には既に抜刀した浪人風の男が三、四人屯していて、番頭らしい男を取り囲んでいた。番頭は酷く打ち据えられたようで、意識が朦朧としている様子だ。周囲には金が散乱し、どうやら彼らが無理強いをしているのだということは明らかだった。
「新撰組だ!」
山南が威勢よく声を荒げると、浪人たちは敵意を一気に山南の方へ向けた。
「新撰組だっ!やっちまえ!」
リーダー格らしい男が叫ぶと、呼応してその場に居た全員が襲い掛かってくる。
山南は最初に襲ってきた男を薙ぎ払い、そして二人目を相手にした。すると鈴木も応戦し、狭い店の中での斬り合いになる。番頭は女中たちと共に店の奥にと逃げたので、山南は遠慮なく店の中で立ち回った。男たちは若く血気盛んだ。新撰組への憎悪を丸出しにして討死覚悟で襲い掛かっていた。
山南は二人目の男を峰打ちで打ち据えた。意識を失った男が土間に倒れ、そして最初に薙ぎ払った男が「くそ!」と痛みを堪えつつもう一度、襲い掛かる。しかし北辰一刀流を修めた山南の敵にはならず、山南は男の右足を峰打ちする。おそらく骨は折れただろう、男は蹲って唸り声をあげて動かなくなった。
丁度、鈴木もその頃には他の二人を片付けていた。
「…一人、斬ったのかい?」
鈴木の刀には血があった。そして既に絶命しているであろう男の身体も倒れていた。
「はい。余裕がありませんでした」
淡々と答えた鈴木には特に反省している様子はない。確かに身を守るのが第一、捕縛は二の次だろう。しかし山南は浪人たちが大した遣い手ではないと思っていたので、伊東に似て相当の遣い手である彼が「余裕がない」というのは何だかおかしいような気がした。
しかし、既に終わったことだ。山南は自分の中にある違和感を押し込んだ。
「…役人を呼びに行かせよう」
野次馬も増えている。山南は店の外で待機をしていた隊士を呼んだ。
その時だった。はっと気がついた時には遅かった。
「…くっ!?」
「この狼が…!」
山南が峰打ちで打ち据えた男が、朦朧とした意識の中、手にしていた小刀で、山南の右腕を斬りつけたのだ。
(油断した…!)
そう認識した次の瞬間、山南を斬りつけた男はその場にばたりと崩れる。背中から血飛沫が舞い、鈴木がとどめを刺していた。
「…大丈夫ですか」
心配する台詞にも相変わらず起伏がない。
そんな現実から逃げるようなことを思いつつ、山南は力なくその場に膝をつく。駆けつけた平隊士が慌てて手にしていた手拭いで山南の腕をきつく巻いた。
「ぐ…っ」
傷口を押さえつけられ、山南は顔を顰める。右腕は溢れ出る血で真っ赤に染まっていた。平隊士が躊躇したため、傍らにいた鈴木が「代われ」といって、止血を続ける。
「すまない…」
無表情の彼は一心不乱に止血の為腕を押さえつける。
「…痛いですか」
鈴木は訊ねる。痛覚はあるのか…神経までやられていないのか。そういう確認だったのだろう。
「ああ……大丈夫だ」
山南はそう答えた。
しかし本当は鈴木の問いかけで頭が真っ白になっていた。ひりひりと焼けるような痛みはある。だがまるでその腕が自分の腕ではないような感覚もあった。
(まさか…)
わなわなと唇が震えた。腕が動かなくなるのではないか…そんな悪い想像が身体中を駆け巡っていた。
武士道に背き間敷事―――後ろ傷は、切腹だ。そしてこの腕が使えなくなったとしたら
(私は…一体…)
どうなってしまうのだろう。
傍にいた鈴木は山南の動揺や絶望…すべてに気が付いたのだろう。
「…お前は役人に知らせ、医者を屯所に呼べ。お前は隊士を招集し帰営することを知らせろ」
端的な命令をして平隊士たちを遠ざけた。すると鈴木がぽつりとつぶやいた。
「敵に囲まれた故の、浅手だと報告します」
「…!」
「誰にも言いません」
山南の頭が、完全の停止する。
それはまるで悪魔の囁きのようだった。



269


鈴木が八木邸の離れに戻ると、ちょうど兄である伊東が何かの書物を読んでいるところだった。兄は他の誰にも見せない、やや冷たい素振りで
「ご苦労」
と鈴木を労った。誰にでも愛想を振りまく兄の、こういう素の側面を自分だけが知っている…それは鈴木の中に優越感を与えた。しかしそれは鈴木しか知らず、周囲の人間は実弟だからこそ厳しく扱われている…と憐れな目で見ていることだろう。
「はい」
「…何やら騒がしかったようだけれど、何かあったのか?」
兄はちらりと鈴木を見る。どうやら鈴木がまた何かをしでかしたのではないか…そう疑っているのだろう。
鈴木は首を横に振った。
「…その件については、兄上にご報告したいことがあります」
「何だ」
「山南総長が巡察中に浅手を負われました」
「……」
伊東はそこでようやく、鈴木の衣服の袂が血で汚れていることに気が付いた。
鈴木は軽く状況を説明した。巡察に山南が同行したこと、そして偶然強盗の場面に居合わせたこと、山南と鈴木が店に入り二人を殺害、二人を捕縛し役人に引き渡したということ…伊東は特に表情を変えなかった。弟がどんな危険に遭おうとも特に構わない…そんな無関心さが窺えた。しかし、鈴木の次の報告には目を見開いた。
「山南総長は浅手ということで近藤局長並びに土方副長にご報告いたしましたが、あれはおそらく相当の深手と思われます」
「…どの程度だ」
「おそらく右腕の神経に何らかの損傷を負われたのではないかと」
血で右腕が染まっていたため、詳細は分からなかったけれど、山南の表情がすべてを物語っていた。
すると伊東は口角をあげた。
「山南総長が深手だと知っているのは、お前だけということか?」
「はい」
淀みなく返事をすると、伊東は手にしていた書物を畳み懐に入れた。
「…お前にしては、良くやった」
「はい」
一言だけ言うと、兄は立ち上がり離れを出ていく。鈴木は言いようもない高揚感を感じながら、兄の足音が遠ざかっていくのを聞いていた。


屯所に呼びよせた医師が去っていくと、それまで部屋に入ることを禁じられていたのが、解禁された。
総司は早速、山南のもとへ見舞いに訪れる。部屋には近藤と土方がいた。
「山南さん!」
山南は床に入り、白く青ざめた表情をしていたものの、総司の顔を見るや「やあ」と左手を挙げて答えた。
「すまない、心配をかけてしまって…」
「本当に心配しましたよ!お医者様は何ておっしゃっているんですか?」
部屋に居合わせていた近藤と土方に訊ねる。
「何、出血はひどかったが、大した怪我ではないそうだ。二、三日は安静にしておかなければならないが、直によくなるということだ」
近藤の穏やかな表情を見て、どうやらその通りらしいと総司は安堵した。
「良かった…」
緊張していた身体の力が抜けた。すると相変わらず不遜な態度で腕を組んでいる土方が総司に尋ねてきた。
「総司、身の回りの世話は山野にやらせようと思うが、構わないよな」
「もちろんです。山野君は気も聞くし、なんせ病人やけが人の見張りにはもってこいですから」
池田屋で倒れた総司を、きっちりと看病してくれたのは山野だ。一番隊から貴重な隊士が減るが、それが山南の為なら本人も喜ぶことだろう。
山野の献身ぶりを知っている山南も「有難いな」と微笑んだ。包帯をぐるぐる巻きにして、添え木をされた右腕は痛々しいが、腕以外は最近は調子が良いのだから、回復も早いだろう。
「それにしても、四人を相手に二人を斬ってもう二人を捕縛だなんて、大捕り物でしたな」
近藤が褒め称えるようにそう言ったが、山南はすぐに首を横に振った。
「ほとんどが鈴木君の手柄です。私は少し甘さが出てしまった為に、怪我を負ったのです」
「そんな謙遜されなくても…」
「今度は怪我を負う前に仕留めてほしいものだな」
「土方さん!」
怪我人に対しても厳しい土方は、どこか不機嫌そうに吐き捨てた。総司はむっとして土方を諌めたが、しかしそんな土方の台詞にも山南は不快に思うこともないようだ。
「いや、土方君の言う通りだ。あの場に居合わせたのが鈴木君だったから良いようなものの、他の平隊士なら、一緒にやられていてもおかしくはなかった。反省しなければならないよ」
穏やかな表情にちらりと見える影。怪我を負ってしまったことへの負い目だろうか。
すると近藤が「よし」と膝を立てる。
「あまり怪我人に無理をさせてはならないだろう。歳、総司、失礼しよう」
「はい。山南さん、ゆっくり休んでくださいね」
「有難うございます。ご心配をおかけしてすみません」
土方がまず部屋を出て、総司が「土方さん」と追って出ていく。近藤がもう一度念を押して「ゆっくり休むように」と言い残し、障子を閉めた。三人の足音が遠ざかっていく音を聞いて、山南は息を吐いた。
「…く…」
三人がいたからこそ気を張っていられたが、一人になった途端に腕の痛みと、そして頭の混乱が戻ってきた。
医師は浅手だと言った。しかしそれは山南が「今は痛みで動かないだけだ」と嘘をついたからだ。腕の中を開いて見るわけではない医者は、本人がそういうのなら神経はやられていないのだろう、と近藤に伝えたので、少しほっとした。
右腕にぐるぐると巻かせた包帯、そして添え木。皮膚が裂けるような熱い痛みはなくなったが、しかし指先を動かそうとしてもうまく動かない。
(もう…剣は持てないのか…?)
嫌なことばかりが脳裏を過り、しかしそのたびにどうにか掻き消した。
(まだなにもわからないのだから…)
近藤の言う通り安静にしていれば、次第に傷口が塞がり元通りに戻っていくのかもしれない。今までこのような怪我をしたことがないからわからないだけで、そう心配する必要もないのかもしれないじゃないか。
自分に何度も言い聞かせる。
しかしその一方で、まるで大波のように波打つ心臓が悪い予感のせいで収まってくれない。
「山南総長、宜しいでしょうか」
突然、部屋の外から声が聞こえ、山南は「は、はい」と驚いて返事をした。すっと開いた障子から姿を現したのは伊東参謀だった。
「お見舞いが遅くなり申し訳ございません。具合はいかがですか?」
「あ…いえ、大丈夫です。ご心配をおかけして忝い…」
伊東が微笑んだまま、山南の床の傍にやってくる。そして右腕を見て顔を顰めた。
「…愚弟と巡察に出かけられたとお聞きしました。このような大怪我を負わせ、弟の不始末をお詫び申し上げます」
「な、なにをおっしゃいますか。鈴木君は私以上に活躍をしてくれました」
山南は伊東から出た「弟」の存在に、顔とそして身体を強張らせた。
『誰にも言いません』
山南の深手に気が付いた鈴木は、そんな風に囁いた。けれど、彼は兄に心酔している。
(伊東参謀は…ご存じなのかもしれない…!)
そう思うと背筋が震える心地がした。しかし伊東は相変わらずに穏やかに微笑んだままだ。その真意は、計り知れない。
「何かお手伝いできるようなことがあれば、何でもおっしゃってください」
「手伝い…ですか…」
「ええ、お手伝いです」
伊東は表情を変えることなく念を押す。伊東が何を言いたいのか、何を意図しているのか…ただでさえ、怪我を負い混乱している山南には理解ができない。
けれど、伊東の表情は単に怪我を負った山南を心配しているものではないことはわかった。だったら答えも見えている。
「あ、…ありがとう、ございます…」
しかし山南はそう答えるのが精いっぱいだった。すると伊東は「あまり無理をさせてはいけませんね」と続けて、すぐに軽く頭を下げて
「失礼いたします」
とあっさり部屋を出ようとした。山南は少し躊躇ったものの
「…伊東参謀…」
と呼びとめた。伊東はゆっくりと振り向いて尋ねる。
「なんでしょうか」
「その…鈴木君に、宜しくお伝えください」
何を宜しくと言うのだろう。
自分でもよく分からなかった。黙っていてくれと念を押されたと、鈴木は感じるだろうか。
「…ええ、わかりました」
伊東は山南の言葉を受け取ると障子をゆっくり閉めて去っていく。
それまでばくばくと揺れ続けていた心臓が、さらに大きく波打ち始めた。


「土方さん、土方さんってば」
山南の見舞いを終えた土方はさっさと前川邸を出て、外出する。相変わらず眉間に皺を寄せて不機嫌そうに腕を組んでいる姿は周りに威圧感を与えている。
総司は土方を追いかけて屯所を出た。土方は迷惑そうに総司に言う。
「ついてくるな。仕事だ」
端的な説明だったが、引き下がる総司ではない。
「山南さんにあんな言い方をしなくてもいいじゃないですか。ただでさえ調子が良くなられていたところにこの怪我で、落ち込んでいらっしゃるんだから」
「…」
「土方さんっ」
総司は無理矢理に土方の腕を引いた。土方は仕方なく足を止めて「わかった」と投げやりに言う。
「俺はこの件に関しては山南さんを責めるつもりはない。向かい傷だというのだから、法度に背くわけでもないからな」
「そういうことじゃなくて」
総司はそう言いつつも、土方の答えを聞いて内心安堵した。大ごとにしようと思えば出来る、出来事ではあったからだ。
しかし土方の表情は冴えない。
「ただ…面倒なことになりそうだ」
「面倒?」
「…巻き込まれたくないならついてくるな」
そう言って土方は足早に立ち去っていく。総司はしばらくその場に立ち尽くして、その姿を見送った。



270


山南が負傷してから数日が経った。
「失礼いたします。伊東です…お呼びでしょうか、局長」
前川邸の局長の部屋を訪れた伊東はいつものことながら涼しい表情を見せた。部屋には近藤と土方が居て、近藤が「どうぞこちらに」と招き入れる。
伊東は近藤の部屋を訪れたのは初めてだったようで、重ねられた書物の数々に目をやった。
「流石、たくさんの本を読まれていらっしゃるんですね。私の知らない書物もたくさんあるようです」
人を褒めることを忘れない伊東は、早速近藤に微笑み「ぜひ、お貸しください」と懇願した。そう言われて悪い気がするわけのない近藤は、頭を掻きながら
「いつでも持って行ってください。私は今度は洋書の方を読んでいきたいと考えているところです」
「洋書ですか。近藤局長はエゲレス語がお読みになれるのですか?」
伊東の驚きに、近藤は「まさか」と上機嫌に首を横に振った。
「翻訳された物をお借りできる伝手を、江戸で得ましたから…まあ、そのお話は今度にしましょう」
近藤は手を叩き、「土方君」と言って土方に話を促した。
「…実は以前より、隊士の数が増え、この前川邸、向かいの八木邸では手狭になっておりました。また前川邸の主人より、邸宅を返してほしいと言う懇願が会津藩に寄せられたようで、会津からも新しい屯所を検討するようにとお達しがきています」
土方はあくまで事務的なトーンを崩さずに伊東に伝える。近藤が横目で何かを訴えていたが、土方はそれをあえて無視した。伊東との距離を詰める必要はないと考えていたからだ。
そんなあくまで一線を画そうとする土方に、伊東も気が付いているはずだ。しかし彼は彼でそのことを気にするそぶりは見せずに
「そうですか、では引っ越しということになるのですねえ」
と柔和な返答をした。
「伊東参謀も離れでは手狭でしょう。窮屈な思いをさせてしまい申し訳ない限りです」
近藤が気遣うと、伊東は「そんなことはありません」とほほ笑んだ。
「恥ずかしながら、京に来たのは初めてで、新しい土地では些細なことでも不安になることや寂しさを感じることがあります。そんな時に同門の者が傍で暮らしているというのは、何かと力強いことですから」
伊東は朗らかに語ったが、「しかし」と少しだけ顔を陰らせた。
「平隊士には大部屋で雑魚寝で窮屈な生活でしょう。一刻も早く引っ越し先を考えなければならないのは理解できます」
彼はそう言って土方を見た。
土方は伊東がまるで役者のようだと思った。その煌びやかな顔立ちもそうだが、それよりも顔の表情を作り上げることに長け、必要な時に陽を放ち、意味深に影も放つ。近藤のように人を疑うことなく、受け取る人間にはその伊東の使い分けが直接的に影響するだろうが、土方のような人間にはそれが嘘くさくて芝居がかっていて…正直、話すのも億劫にさせる。
「それで候補地があるのですか?」
そんな伊東を呼び出したのは、屯所の候補が上がっていたからだ。
「西本願寺を考えています」
土方はあっさりと告げたが、これには伊東が
「西本願寺ですか…!」
とさすがに声を上げた。これは芝居ではなく、本気で驚いたのだろう。西本願寺は浄土真宗の本山で、御影堂を始めとした豪華絢爛な建造物や広大な庭園を所有する京でも大きな寺院だ。
「西本願寺の場所も、我々が巡察を担当する区画に在り便利だ。もちろん寺院すべてを借り受けるわけではありません。東北角の北集会所と太鼓楼くらいで十分です」
「しかし…」
伊東は珍しく顔を歪めた。土方は端的に立地の利便性を語ったが、西本願寺は民衆の信仰も厚く、新撰組が屯所として遣うことになれば反発は免れない。伊東はそれを危惧しているのだ。
「伊東参謀はご存じないでしょうが、西本願寺は池田屋、そして蛤御門の戦から今日に至るまで、何人もの長州者を匿っている。そしてこの京での活動拠点ともなりつつあります。そこを新撰組の屯所にすれば、奴らを根絶やしにできる」
「……」
伊東は歪めた表情を戻し、少し思案するように目を伏せた。
西本願寺を信仰する民衆からの評判と、長州を始めとした不逞浪士の一掃。その二つを天秤にかけているのだろう。
すると伊東は「一つ質問があります」と切り出した。そして近藤ではなく、土方に目を向ける。
「何でしょうか」
「…この件は、山南総長も合意の上での話でしょうか」
その問いかけに、今度は近藤が顔を顰めた。
「山南総長は今、怪我の為伏せっておられる。こういった話は身体に障るのでまだお話はしていません」
「そうですか…」
近藤の言葉に嘘はない。山南を気遣っているのは本当だ。しかし伊東は近藤の言葉には耳を貸すだけで、じっと土方の顔を見ていた。
(…試しているのか?)
土方はそう感じ取った。いや、伊東からすれば試すと言うよりも、距離を測っているのかもしれない。局長と、総長と、副長の立ち位置を。
土方は腕を組みなおして、慎重に言葉を選んだ。
「…山南総長はおそらく、西本願寺の移転の話をすれば反発するに違いない」
「おい、と…土方君」
憶測でものを言うな、と言わんばかりに近藤が少し土方を睨んだ。しかし土方は口を閉ざさない。伊東がまだその先の言葉を待っていたからだ。
「山南総長が伏せっている間に、ことを進めたいというのも本音です。ですが、新撰組の屯所として、西本願寺以上に相応しい移転先はないかと思っている。そしてこの話は早急に進めなければならない…」
土方の目を見据えたままの伊東に、土方も視線を送る。
「ですから、伊東参謀のお力をお借りしたいのです」
「…私の、ですか」
伊東は少し目を見開いた。土方の台詞を予想していなかったのだろう。土方は続けた。
「私や近藤局長だけではなく、伊東参謀からも西本願寺の移転を賛同してもらえれば、さすがに山南総長でも合意せざるを得ないでしょう。その為に伊東参謀に先に話をさせていただいたのです」
「…なるほど、そうですか」
伊東が土方に向けていた視線が少し和らぐ。求めていた答えを得られたのだろう。そして伊東は近藤に視線を向けた。
「近藤局長、申し訳ないのですが、ここで即答は致しかねます。三日ほどお時間を頂ければ、西本願寺の件についても私なりに調べ、屯所として相応しいか決断できるかと思います」
「そうですか…では…」
「三日では長い」
頷きかけた近藤を、土方が止めた。
「三日では長い。せめて明後日にはご決断いただきたい」
「おい、歳…」
あからさまな敵意を向けすぎだろう、と近藤は土方を止めた。しかし伊東はそれにも穏やかに微笑んで
「…良いでしょう。では明後日の夜には必ず近藤局長並びに土方副長に私の考えを述べさせていただきます」
といって軽く頭を下げた。


「山南さん、お邪魔しますよ」
総司は明るい声をかけて、遠慮なく障子を開いた。床に伏せった山南は総司の姿を見ると、
「また来たのかい」
とほほ笑んだ。
「病気ではないのだから、心配してくれなくても大丈夫だよ」
「でも動けないのは暇でしょう。あ、迷惑だって言うんなら控えますけど」
「そんなことはないよ。元気な顔を見せてくれると、こちらも元気になる」
そう言いつつも、山南の表情はまだ暗い。腕の…なによりも利き腕の怪我ともなれば剣術にも悪影響が出るかもしれない。当事者でしかわからない不安や孤独感があるのかもしれない。
そう思いつつ、総司は山南の床の傍に座った。
「今日は、おみねさんに柿を貰ってきたんです」
「…おみねさん?」
「土方さんの家の管理をしてくれている方です。家に柿の木があってもう落ちてしまうくらい豊作みたいで。土方さんの家にも柿の木はあるんですけど、長らく放置されていたせいか今年は実を付けなかったんですよねえ。江戸の柿とは味も違っていて、こちらの方が甘い気がします」
「…そうか」
総司の長話に、山南は心ここに在らずの様子だ。少し前の、池田屋後の沈んだ様子よりもさらに表情に陰りがあり、余裕が無いように見えた。
総司は(仕方がないことだ)と思い、
「ほら、山南さん。柿です」
と皿に盛り、切り分けた柿の一つを黒文字(楊枝)に刺して渡した。すると山南は驚きつつも「ああ」とその怪我をした右手の方で受け取ろうとした。しかし
「あ…」
山南の指先からぽろりと柿が落ちた。
「ありゃりゃ、大きすぎましたかねえ」
総司はその柿を皿に戻し、「後で洗って食べます」と笑ったが、山南の表情は青ざめていた。
「山南さん…?」
「…あ…いや、何でもない。悪かったね、まだ…右腕に力が入らないみたいだ」
力なく微笑んでみせる山南だが、唇が震え声がが擦れている。総司はもう一度柿を山南の左手に渡す。山南はそれを口にすると「うまいうまい」と言ったが、まるでそれは何かを誤魔化すような様子に見えた。
(山南さん…まさか…)
総司はあることに思い至り、息を飲み込んだ。しかし
(そんなはずはない…)
と嫌な予感を払おうとした。




解説
264 安富才助は伊東らと同時期に入隊していますが、伊東一派とは別です。先の話になりますが、箱館にて土方の死を見届けた隊士と言われています。
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