わらべうた





271


久々の非番の日、総司はこっそりと屯所を抜け出した。そもそも非番の日なので、何をするにしてもこそこそとする必要はないのだが、それは気分の問題なのだろう。
門番にもいつも通りの挨拶をして壬生を離れる。そして祇園の方向を目指して歩き始めた。
冬の寒さが急に厳しくなり、空はどんよりと曇り、今にも雪が降りそうだ。江戸にいた頃は雪が降ればはしゃいで遊んだような気がしたが、都に来てからは刺すような冷たい雪に辟易として、出来れば雪は降らないでほしいとこっそり願っている。町の人々はやがてやってくる年越しと正月の準備に追われているようだった。そんな雰囲気にも押され、心はますますせわしなくなる。
総司は懐から折りたたんだ半紙を取り出した。そこにはメモをした目的地の住所が書かれている。祇園界隈にある町医者の住所だ。
(…気のせいなら、それでいい)
ここ数日考えて、出した結論。それは山南を看た医者の元を訪ねるということだった。
腕を斬られるという大怪我を負った山南は、怪我以上の動揺をしているように思った。そして何かを隠そうと…誤魔化そうとしている。総司はそう直感していた。
しかし、お節介な真似をして本人に訊ねたりして、山南を傷つけたら…そう思うとどうしていいのかわからずに足が止まり、悩んだが、ひとまずは怪我の状況を聞いてみようと思ったのだ。たいした怪我ではないのならそれで終いだ。
(もし腕が動かないような重症なら…)
山南が思い悩む前に、思いつめる前に力になりたい。それは同情ではなく、古くからの食客仲間としての思いだ。
河原町を過ぎ、祇園に近づく。緊張のせいで少し身体を強張らせながらも先に進んだ。そして南に下ろうとしたところで、
「お侍さん」
と急に声をかけられ、腕を引かれた。
「何か…?」
腕を引いたのは商人体の男だった。目元まで覆った頬被りのせいで顔は良く見えない。
すると男は
「うちはみたらし団子が評判の店でな」
と続ける。男が店を指差したので客引きかと思い
「結構です」
と総司は断った。しかし男は思った以上の強さで更に腕を引いた。
「どうぞ、こちらへ」
すこし声色を落とした男が、すっとその頬被りを持ち上げた。目元が露わになり、総司は内心(あっ)と気が付く。彼は監察方の山崎烝だ。
「…わかりました。少しだけですよ」
総司は咄嗟に、微笑んで応じた。そして山?に案内されるがままに店の一番奥に通される。すると山崎の正体を知っている女将らしい女が頷いて障子を閉めた。そこは町通りの音さえ遮られた窓のない一室だ。
山崎は頬被りを取り、姿勢を正して一礼した。
「強引な真似をして、申し訳ありまへん」
「いえ…少しお久しぶりですね」
「ええ」
山崎とこうして顔を合わせるのは池田屋のあと以来だ。短い挨拶をして、山崎は「早速ですが」と切り出した。
「沖田せんせは、どちらへ向かわれるところで?」
「……それは土方さんの指示ですか?」
総司が尋ね返すと、山崎は少し困ったような表情をした。
「俺たちは、基本的には副長の指示以外は聞きまへん」
「では私がここを通りかかったら引き留めるような指示があったんですね」
山崎とってはこれが仕事であるので、彼を責めるのはお門違いではあったのだが、引き留められたことに憤りを感じずにはいられなかった。
それは、土方が「知っている」ということだからだ。
山崎は一度息を吐いて、頷いた。
「…山南総長のことは、土方副長にお任せした方が宜しいかと思います」
「それはやはり山南さんの腕の状態が、良くないことだということですか?」
「困りますわ、沖田せんせ」
総司が問い詰めるので、山崎は苦笑した。総司も少し力を抜いて「すみません」と謝った。
「監察の皆さんにも口にできないことがありますよね…」
「…せやけど、土方副長もおそらくいつまでも隠しとおせることではない…いつか沖田せんせが気が付くのだとわかっているからこそ、せんせをここで引き留めるようにと言う指示を出されはったんやと思います」
「…」
これでは医者に行くまでもない。山南の腕は本人が語る以上に重傷なのだと肯定されてしまった。
(なんていうことだ…)
総司は唖然とした。
一線を離れているとはいえ、山南は新撰組の中でも指折りの遣い手であることは間違いない。先日、道場で加納とやり合った時の太刀筋も、以前と何ら変わりない鋭いものだった。それが失われてしまうだなんて、総司は未だに想像ができない。
そしてその山南の心中を思うと、胸が締め付けられるような心地がした。
「…土方さんはこれからどうするつもりなんでしょう」
「まだ様子見というところやと思いますが…伊東参謀らに気が付かれることが一番まずいという話を伺いました」
「伊東参謀ですか?」
意外な名前に総司は驚く。
「山南総長は伊東参謀とも旧知の間柄で、いわば近藤局長との橋渡しの役割を担っている。せやからこそ均衡が保たれ、今のところ余計な派閥を作らないで済んでいる…しかし山南総長が求心力を失うようなことになれば、隊は二分されるやろうと」
「…土方さんはそんなことまで考えているんですか」
ただ単純にえり好みをして伊東参謀が気に食わないのだとかそんなコメントをしているだけだと思っていたが、彼はもっと俯瞰的な視点から新撰組の状況を捉えていた。それを知り、総司はそんなことにも気が付かなかった自分を恥じた。
(まだまだ…わかっていないなあ…)
もし山崎に引き留められることもなく医者の元へ向かっていたら、お節介どころの話ではない。
「…わかりました。ひとまず私は何も知らないことにしておきます」
「そうして頂ければ、良いかと思われます」
総司が納得したからか、山崎は安堵の表情を浮かべた。
「あと、これはお会いしたついでにお伝えさせて頂こうと思いますが」
「何でしょうか」
「河上彦斎がまた京で…西本願寺近くで目撃されているという噂があります」
河上彦斎…その名前を聞いただけで、総司は久々に自分の中の何かが殺気立つ感覚を覚えた。
河上彦斎と邂逅したのはたった二回だ。最初に対峙したときにはあっさりと逃げられ、結果的に「負け」という事実を突き付けられた。そしてもう一度出会った時、彼はそれまで佐久間象山の暗殺者のレッテルを張られていたが、その真実を口にして去った。それ以来、姿は見ていない。
「やはり土方副長のお考え通り、西本願寺が浪士たちの巣窟になっているやと知らせが入りまして。屯所を西本願寺に移すというのは大胆やとは思いますが、なかなかの妙案やないかと…」
「屯所を移す?」
思わぬ話すに総司は驚いた。山崎は「あっ」と驚いた顔をして、気まずい表情をした。
「…すんまへん、まだそう言ったお話は…?」
「全く。屯所を移転するのはそうだろうとは思いますが、まさか西本願寺とは…」
「ああ…あかんわ」
山崎は自分を責めるように唇を噛んだので、総司は笑った。
「その内私にも伝わる話でしょうけど、山崎さんから聞いたということは黙っておきますよ」
「すんまへん…」
「河上彦斎のことを教えてもらいましたからね」
悪戯っぽく笑うと、山崎は「じゃあそうゆうことで」と表情を崩した。
山南の状況と河上彦斎と西本願寺の移転。そのどれもが総司にとっては青天の霹靂で、あまりにも各々が重大すぎて…正直、混乱はしていた。しかし、そんな時こそ平静を保つべきだろう。
「…ところで、山崎さん、さっきこのお店はみたらし団子がおいしいっていってましたよね?」
総司は山崎に訊ねる。すると彼は噴出して笑いつつ
「おごらせていただきますわ」
と、返答した。


昼間から空を跨ぎつづけている、どんよりとした雲がそのまま夜を連れてくる。
山南は肩から包帯を下げ、腕を吊った状態で部屋を出た。少しの振動でも傷口は痛んだが、思った以上の痛みはなく、しかしもっと痛んだ方が良かったと山南は心底思った。痛みを感じられるなら、その方が良いと。
(どうやら、本当に動かないらしい)
悲観的になるべきではない…怪我をして数日はそう言い聞かせていたが、目を逸らし続けるのも限界で、山南は現実に直面していた。誤魔化し続けられるのも半年が限度だろう。
(半年か…)
ただでさえ使い物にならない身体を自分を、何度も責めて、それでも求めてくれる人が、場所が、理由があるからと総長という役を全うして来られたというのに。
(少なくとも総長は降りなくてはならない)
そのことに関しては随分前から、怪我をする前から相応しくないのではないかと心の奥で考えていたことなので、しこりはない。一介の隊士に戻れることで肩の荷が下りることだろう。
しかし、問題はそれだけではない。
剣の腕一つで身を立てることができる、この新選組において、剣の腕の無くなった自分は一体何のために存在できるのだろうか。
「く…」
胃がキリキリと痛んだ。一人で抱え続けるのは無理だとわかっていた。しかし、わかっていてもそれを誰かに相談することはできなかった。そうすることで何かが崩れてしまいそうで…
「山南総長」
突然、声を掛けられて山南は背筋が震えるほどに驚いた。恐る恐る振り返り、そこにいた人物に息をのむ。
「…鈴木君」
「お加減はいかがですか」
相変わらず起伏のない鈴木の声。無感情で仮面のように強張ったその顔が、どうしてだろう、山南には恐ろしく見えた。
「あ…ああ、大事ないよ…」
「……」
それが嘘だということを、彼は知っている。分かっていても、強がってそう答えた山南に、鈴木は二、三歩近寄り、耳元で囁いた。
「…誰にも言っていません。近藤局長にも、土方副長にも」
「…!」
誰にも言っていない…それよりも、二人の名前を名指しされたことが何よりも山南を脅かしたが、しかし相変わらず鈴木は無表情だ。
何を考えているのか、まるでわからない。
すると鈴木は、さらに小声で山南に囁いた。
「山南総長、伊東参謀にご協力ください」
「…伊東参謀…?」
実の兄である伊東のことを、えらく他人行儀な言い方をする…それは気になったが、鈴木は続けた。
「何があろうと伊東参謀の意見にご賛同ください。そうしてくださる限りは、悪いようにはしません」
「……君は、私を脅しているのか?」
腕のことを条件に。
山南が眼を鋭くして訊ねると、鈴木は何も答えなかった。何も答えずに、そのまま立ち去った。まるで聞こえなかったかのように。




272


伊東は与えられている離れの縁側から、八木家の庭を眺めていた。草木は枯れ、すっかり冬景色になっている様相だが、それもそれで趣があると感じられるのは京だからこそか。
そう、ここは江戸ではない。腕を上げて、名声を得て、道場を繁栄させる…それだけを考えるだけで良かったあの頃とは違い、新撰組という場所は入ってみると思った以上に複雑な場所だった。それが入隊してから数十日で伊東が感じ取ったことだ。
(隊の中心を担っているのは、副長の土方君…)
それは誰かに説明を受けるまでもない。近藤局長は論を語る頭はあるが、新撰組という組織を動かしている人間ではない。病やけがで伏せることが多いらしい山南総長もその役は荷が重すぎるようなので、土方副長がすべてを取り仕切っているのだろう。
(そして彼は頭もいい…)
友好的に接する近藤や山南と違い、土方には伊東という一人の人間を的確に読み取ろうとし、必要あらば斬り捨てるという意思がある。しかし、利用できる部分は利用する…そういう合理的な側面もあり、なかなか面白いと伊東は思っている。
「できるものならしてみれば良い…」
伊東はふふっと笑い、呟いた。
正直、伊東の中に近藤のような幕府に対する忠義はない。黒船来航以降の幕府の対応には辟易していたし、どんな結果があるにせよ一度幕府を倒してみる方が心地が良い…そんな長州にも似た思想はひっそりと伊東の中に疼いている。そして同じものを、土方にも感じている。
(合理的である彼が、近藤のように幕府を心酔するばかりではない…)
しかし彼がそうしているのは、近藤に対する友誼故だろう。たったそれだけ、と伊東は思うが、土方にとってその近藤との友誼こそが何よりも尊重されるべきものであり、自分自身を動かしている原動力になっている。合理的な彼が、しかしその一方で友情というものに縛られている。
「面白い…」
美しいものは好きだ。見ているだけで、心が同じように美しくなっていく気がするからだ。
だからこそ、近藤と土方の友誼は美しい。それが時代という波に攫われるなかで、どう美しく咲きつづけ、どう汚れていくのか…それを傍で見ているのは、とても面白いのだ。
「大蔵先生」
かつての名前で呼ばれ、伊東は眉間に皺を寄せた。
「内海、その名前はもう私の名前ではないよ」
「そうでした。つい癖で…伊東参謀」
弟ほどではないが、この内海もあまり感情を表情に出さない。謝っていながらも、顔のパーツはそれほど謝っているようには動かされていない。
内海次郎はいわゆる「伊東派」の一人であるが、剣の腕だけではなく頭もよく無愛想だが気が利き、誰よりも伊東に近く、伊東にとっても良き相談役になっている。
「西本願寺への移転の件、本日が期限となっておりましたが、どのようにされるおつもりでしょう」
「…」
伊東は八木邸の庭から視線を逸らし、障子を閉めた。そうすれば内海と二人だけになる。
「特に反対する理由はない。西本願寺への信仰の厚い信徒はますます新撰組への嫌悪を深めるだろうが、どの道、好意的な目で見る者などいないのだから、そんなことを考慮に入れる必要はない」
「それではなぜ、返答にお時間をおかけになっているのですか」
「…それは面白い質問だね」
伊東はにやりと口角を上げる。すると内海は少しウンザリしたかのように、嘆息した。
「初っ端からそのように駆け引きをされると、この先が思いやられます」
「何を言っている。この先など、そんなに長いことではない」
「伊東参謀」
口が過ぎます、と内海は伊東を嗜める。伊東に対してこのように同等に話をするのは内海くらいだ。だからこそ気に入っている。
伊東は内海の顔に、自らを近づけた。動けば触れそうな距離で、彼を見つめる。
「お前にだけは言っておこう。その気になれば、新撰組を我が手中に収めることも容易い。…私は、この数十日でそう思っている」
「…」
「厄介なのは土方副長くらいだ。彼さえ味方に付ければ良い。この屯所移転の件について時間をかけた返答をするのも、彼への恩を着せるためだよ。即答を避け、熟考した上で賛同した…彼にそう思ってもらうためだ」
「そう上手くいくでしょうか」
「行かないだろうね」
伊東のあっさりとした返答に、内海は顔を顰めた。からかっているのか…そんな風に思っているのだろう。
「これは私にとっての立ち位置の確保だよ。彼らに媚を売って賛同するつもりはない…周囲にはそう思って貰う」
新撰組の名声に囚われて入隊したのではない。そしていわゆる近藤派に同調するために存在するのではない。これは己のスタンスとポリシーを示すための時間だ。
内海は理解したのか、顰めた表情をもとに戻す。そして伊東に冷たく告げた。
「…そうですか。でしたらまず、離れてください」
伊東の肩を押して、距離を取る。内海にされるがままに腰を下ろした伊東は、笑った。
「お前は本当に男色が嫌いのようだ」
「貴方のせいでしょう。年がら年中、そのように距離を縮められては困ります。おかげで女であってもウンザリするようになりました」
「そうか、それは重畳。お前に言い寄る女が減って、こちらは良い気分だ」
「ご冗談を」
内海が心底嫌そうな顔をしたので、伊東は満足した。
(お前はとても面白い)
内心、そんなことを思いながら。
「嫌悪するほどのものかな。相手が美しく可愛ければ、男であろうと女であろうとどちらでも良いではないか」
「そう思う人もいれば、そうではないという人もいる。私はそうではないということです。…ああ、それで思い出しました。一応、伊東参謀にご報告しようと思っていたことがあります」
「何だ」
「土方副長と、一番隊組長の沖田先生のことです」
土方…という名を聞いて、伊東は内海を見る。興味を引いたからだ。
「その話の流れで推察するに…二人は男色の関係だと、そういうことか?」
「その通りです」
内海はしかしそれ以上は説明をしなかった。男色を苦手とする彼らしいことだ。
「ふむ…」
伊東は思案した。これからの駆け引きの材料となるのか…そんなことを考えた。


総司は両手いっぱいの荷物を抱えて、八木邸の自室へ向かった。
「さ…斉藤さん、開けてください」
両手塞がりの状態ではとても開けられない。部屋に向けて声をかけると、中にいた斉藤が返答もなく障子をあける。総司は両手に抱えていた風呂敷を、「ふう」と息をつきながら降ろした。斉藤は例年通り火鉢で暖を取りながら、
「これは?」
と訊ねてきた。
「近所の子供の家から貰ったみかんです。冬には囲炉裏の傍でみかんが良いですよねえ」
総司が風呂敷を解くと、なかからゴロゴロとみかんが溢れ出た。大きなものもあれば、小さなものもある。火鉢にあたっていた斉藤に一つ渡すと、受け取った。総司も一つ手に取ると、斉藤と向い合せになる様に座り、火鉢にあたった。
「町の評判はともかく、ようやく壬生の子供たちとは仲良くなってきたんですけどねえ…」
間もなく西本願寺に移転となれば、そこまで遠く離れていないとはいえ寂しくなる。そんなことをしみじみと思っていると斉藤が
「移転か?」
と問う。あまりに目敏い問い返しに、総司は驚いた。
「そうらしいですけど…斉藤さん、勘が良すぎませんか?」
「会津から移転するようにお達しが出ているという噂は聞いていた」
「ふうん…」
総司は曖昧に返答する。
直接的に聞いたことはないけれど、やはり斉藤は会津藩と深いかかわりがあるようだ。総司でさえも少し前の犬探しの件や建白書の件から簡単に推察はできる。会津からの刺客か密偵か…しかしどちらにしても、試衛館の頃からの関わりがある以上、新撰組にいるという事実はそれ以外の理由もあるのだろう。
(…皆、秘密ばかり)
自分自身にそうたいした秘密も隠し事もないせいか、周囲のことをそんな風に思ってしまう。それぞれの事情があって、そういう状態なのだということは分かるけれど、何となく居心地が悪くて…そして自分に対する無力感を感じざるを得ない。
(何かできることは…ないのかな)
「沖田さん、もう二、三個、寄越してくれ」
「え?みかんですか?」
斉藤が手を差し出してくる。
「ああ、火鉢に入れて焼きみかんにする」
「それは妙案ですね」
総司は斉藤の言うとおり、小さめのみかんを火鉢にいれた。
そう言えば、季節はいつの間にか一周し、冬が来ていたのだ。枯れてしまった木々に囲まれているせいか、何となく虚しい気分になりながら、総司は火鉢に手を翳したのだった。



273


師走はあっという間に過ぎて行き、年の瀬が迫り、そしてついに大晦日になった。
大晦日までには大掃除や煤払いを済ませるように…という土方のお達しで平隊士たちはそれぞれ掃除に取り掛かったが、進捗は平隊士を取り仕切る組長の性格にもよるようで、永倉や斉藤の組がさっさと掃除を終えてそれぞれ宴に繰り出すのを尻目に、原田たちの組は夕方になってもまだドタバタと忙しそうに走り回っていた。後回しにしたツケが回ってきたのだろう。
「手伝えよ、総司ー!」
当然年越しの準備を終えた総司に、原田は泣きついてきたが
「勘弁してください。私はまだ用事があるんです」
と断った。
「用事ってなんだよ」
「屯所以外にも掃除をしなきゃいけないところがあるんですよ」
原田は総司の返答に「はぁ?」と首を傾げたが、総司は「ではよいお年を」といって、さっさと八木邸を出た。さすがに大晦日は仕事もなく、それぞれ自由に過ごすことになっている。
総司は八木邸を出た足で、すぐ正面の前川邸に向かう。平隊士たちが雑魚寝する大広間には、半分ほどの隊士が残っていた。もう半分は宴に繰り出しているのだろう。総司はその大広間に顔を出して、軽く年越しの挨拶をしつつ、そのまま奥の部屋に向かった。
「失礼します、…山南さん、宜しいですか」
「ああ、構わないよ」
なかから了承の声が聞こえて、総司は障子を開けた。すると山南は片腕を吊るした状態で、もう片方の腕にハタキを手にしていた。
「山南さん!お怪我をされているんだから、無理をされなくても…」
「いやあ、たまには身体を動かして…」
「そうなんです、沖田先生、どうか御止めください」
すぐ傍に居たのは、山野だ。一番隊と兼務で山南の手伝いに駆り出されているのだ。山野は山南が無理をするので困っているのだろう。その様子は、少し前の自分に似ていて、総司は笑ってしまった。
「山南さん、掃除は山野くんにお任せしたら良いですよ。それに今日は宴の御誘いに来たんです」
「ん?君も宴にいくのかい?」
「まあ、そんなところです。山野君、この部屋の掃除が終わったらもう好きにしていいですからね」
「わかりました」
山野が嬉しそうに頷いた。彼も本心では年越しを島田と過ごしたいに違いない。
総司は「行きましょう」と山南の持ったハタキを取り上げて手を引いた。山南は慌てる。
「ま、待ってくれ。行くとはどこへ…」
「もちろん、上七軒ですよ」

「まあ、山南せんせ、お怪我されはったん?!」
驚いたように出迎えたのは、懇意にしている上七軒の女将だ。総司に背中を押され無理矢理、店の中に足を踏み入れたが、思っていた通り女将の声を聞いて、山南を知る店の者たちが集まってしまう。こうなると思っていたので顔を出さなかったのだが。
「い、いや、大した怪我じゃないんだ。心配を掛けて申し訳ない」
「女将さん、明里さんは?」
「へえ、もうちょっとで前のお客はん、帰らはりますえ。少々、お待ちくださいな」
「わかりました。じゃあ山南さん、私はこれで失礼しますね」
店の中に通そうとする女将に、総司は手を振って拒んだ。山南は驚く。
「お、沖田君、君も一緒に飲むんじゃないのか?」
「まさか、そんなわけないじゃないですか。山南さんは明里さんと一緒に良い年をお過ごしください。私は行かなきゃいけないところがありますから」
あっさりと答えた総司に、山南は(あっ)と気が付く。彼がまさか宴に繰り出すわけはない。どうやら自分は相当野暮な考えだったらしい。
「…わかった。じゃあ、沖田君、良い年を。土方君にもよろしく伝えておいてくれ」
「わかりました。こちらこそ、明里さんによろしくお伝えください」
総司はひらひらと手を振って、店の者たちに軽く挨拶をしつつ出て行く。店の女将が名残惜しそうに
「あぁん、沖田せんせ、うちで遊んでいってくれはったら良いのに…」
と声を上げた。山南は女将に笑う。
「彼にはいい人がいるんだよ」
そういうと、女将は「それは残念どすなあ」とため息交じりに苦笑したのだった。


「そんなわけで、土方さんの言うとおり、山南さんを上七軒まで送り届けてきました」
総司は上七軒からそのまま真っ直ぐに、土方の持つ別宅へと向かった。
別宅の掃除が待っているかと思いきや、家の管理をするおみねが既に掃除を終えていたようで、新年を迎える準備はすっかり整っていた。別宅には忙しない年の瀬だというのに火鉢の前で寛ぐ土方がいるだけだ。
「ああ…ご苦労だったな」
総司の報告に、土方は興味なさげに返答した。
山南を明里の元へ送り届けるように…そう指示を出したのは土方だった。
『陰気な面で新年を迎えられては、悪運が屯所に招かれて困る』
という土方らしい言い方ではあったけれど、山南を気遣っていることが総司には嬉しくて、つい顔が緩んでしまう。
「何だよ」
微笑む総司をみて、土方は嫌そうな顔をしたが総司は「なんでもありません」と首を横に振った。
「それにしても、おみねさんがそこかしこ綺麗にしてくださっているんですね。まるで建てたての新築みたいだ。良い年が迎えられそうです」
総司は障子を開き、小さな庭のある縁側に出る。今年最後の夕日が沈みかけ、庭の木々は枯れていたが、枯葉一つなく小奇麗になっている。ついこの間まで季節の花が咲き誇っていたはずなのに、その姿はここにはない。
時の流れを感じながら、ぼんやり眺めていると背中に人の気配を感じた。ここにはもう一人しかいない。
「…寒いだろう」
肩から羽織を掛けた土方が後ろから抱きしめるようにして総司を包み込む。それまで火鉢にあたっていた土方の体温は高い。
「二人羽織みたいですね」
そんな風に総司が茶化すと、
「いいから、こっちに来い」
と土方はそのまま障子を閉めて、総司を火鉢の前まで連れてきた。自分の前に座らせて、もう一度後ろから抱きしめてくる。ますます二人羽織のようだ、と総司は内心笑った。
「…土方さん、覚えていますか?去年の年越しのこと」
火鉢の小さな炎が、赤く灯る。
「ああ…去年は、年賀状を書いていた」
「そうです。年の暮れまで仕事を持ち越して…今年はちゃんと書いたんですか?」
「お前には言われたくねえな」
豆に手紙を書く近藤や土方と違い、総司は滅多なことでは筆を手に取らない。姉も心配しているだろうし、伝えたいことが無いわけではないけれど、いざ言葉にしようと思うと上手く思いつかなくて、いつも筆を置いてしまうのだ。
そんな総司を知っているからこその土方の鋭い指摘には、総司も反論することはできなかった。そして続けた。
「…そのあと、土方さん、膝枕で寝ちゃったんです」
「ああ…そうだな」
背中から伝わる土方の熱が、徐々に総司にも伝わっていく。火鉢以上に土方の体温が暖かく感じた。
(つまり去年と一緒なんだな…)
あの時は土方の想いに答えることができなくて、彼とはぎこちない距離を取り続けていた。どうしていいかわからないけれど、しかし二人きりで過ごした時間は鮮明に覚えていた。そして彼も覚えている。
そして一年経った今日、また二人で新しい年を迎えようとしている。あの時とは少し違う距離で。あの時とは少し違う感情で。
背中から回された土方の手が、そのまま総司の頬に触れて、少し強引に総司の顔を横に向かせる。すると首を伸ばした土方の唇がそこにあって、自然と触れた。少し乾燥した感触だったが、お互いの唾液に濡れて潤う。
「…っ、…ぅ」
「嫌か?」
「い…嫌、だなんて言っていません…」
いつもは嫌がることをしてもそんなことを聞いてこないくせに、こんな時だけ意地悪に訊ねてくる。まるで総司が「嫌ではない」ということを確認したいが為に聞いてくるかのようだ。
(でも…そうなのかもしれない…)
顔には出さないけれど、土方は総司に何度だって訊ねたいのかもしれない。本当は心のどこかで不安があって、総司がどう思っているのか知りたいのかもしれない。
総司は唇が離れた隙に、それまで背中から抱きしめられる格好だった体勢を反転させ、自分が土方の方へ向いた。真正面に土方の顔がある。
「と…歳三さん、目を瞑ってください」
「ん?」
「いいから」
不審がる土方に強引に目を閉じさせる。総司は土方の胸辺りに手を添えて、ぎこちないながらも彼の唇に自分のそれを重ねた。少し震えた自分の唇が啄むように触れて、離れた。
「総司…」
すると土方の目がすっと開く。総司は顔を紅潮させた。
(恥ずかしい…!)
それは思った以上に恥ずかしくて、総司は土方の首元に顔を埋めて隠れた。
「め…っ、目を瞑ってくださいっていったじゃないですか…!」
「…わかったわかった」
土方は笑うのを堪えつつ、総司の頭を撫でる。
「わ、笑わないでください…!」
「笑ってねえだろう」
「笑ってます!」
総司が主張すると、土方はまた「わかったよ」と言いつつ総司の頭を撫でた。まるで子供のようだ、と思いながらも、彼が後頭部を優しく撫でるのはとても心地が良い。
(こうしていられたらいい…)
多くは望まない。来年も、再来年も、その次の年も…彼の傍で息をして、彼の傍でこうしてぬくもりを感じられたなら、どんな幸せだろう。
「…歳三さん」
「何だ」
「しばらく、こうしていてください」
総司がそう言うと、土方は優しいため息をつきながら「ああ」と答えたのだった。




除夜の鐘が響く。その音を窓越しに聞きながら、
「そろそろだね」
と山南は明里に告げた。明里は穏やかに微笑む。
「山南せんせとご一緒に過ごせるやなんて…何や、夢のようや」
「沖田君の計らいのお蔭だよ」
明里は「そうどすな」と頷いて、山南の傍に寄り添った。そして彼女の細い指先が、山南の怪我をしている右腕にそっと触れる。
目の見えない明里は、もちろん怪我のことに気が付くことはなかったが、女将やその周囲から教えられたようで、最初は酷く心配した様子だった。しかし山南は隊士たちにしたような同じ説明を明里にしていた。少し斬られただけだ。ただ思った以上に深く斬られていたから、長引いているだけだ…明里はそれを聞いて少しは安堵したような表情をしていた。
しかし、彼女は安堵をしても、納得はしていなかったようだ。
「…山南せんせ、うちに隠し事してはる…?」
「明里…」
除夜の鐘が響く中で、新年がもう少しでやってくる中で、彼女は山南を見る。目が見えていないはずなのに、何故かその時だけはまるで射抜かれるように視線が重なった。
怪我の説明の言葉には納得できても、その声色までは誤魔化すことはできなかったようだ。
(だから…会いたくなかったんだ…)
山南は左手で明里の手を取った。その左手はわなわなとふるえていた。
「…情けないな…」
「山南せんせ…泣いてはる…?」
明里はもう片方の手で山南の頬に触れた。目からあふれ出る涙が、彼女の手の甲を伝っていく。
「せんせ…教えて…」
(ああ。本当は、ずっと、本当はもう、泣きたくて仕方なかったんだ)
君に聞いてもらいたかった。君に受け止めてもらいたかった。君を苦しめると分かっていても…知っていてほしかった。
「右腕は…もう、動かないんだ」
除夜の鐘が鳴り響く。
新しい年が、やってくる。



274


元治二年正月。
新年の門出を祝う宴が行われ、正月気分に浮かれる新撰組隊士たちだったが、しかしそれは束の間のことで、その幕開けは怒濤の始まりでもあった。

「…西本願寺に、移転…?!」
近藤、土方、伊東が集まった席で、ようやく山南は屯所の移転先として西本願寺が上がっていることを、土方の口から知らされた。
「監察からの報告では、長州や討幕を企む浪人たちを匿っているという話だ。あそこには大広間もあるし、広い庭は軍事調練にも相応しい」
「あり得ない!」
あくまで事務的に淡々と告げる土方に、山南は感情の爆発を止めることはできなかった。西本願寺への移転など、山南の許容できる提案ではなかったからだ。しかしそれを諌めたのは近藤だった。
「まあまあ、山南総長。少し落ち着かれて…」
しかし山南は近藤を振り切って、土方に迫る。
「落ち着いてなどいられるものですか!」
近藤に対して山南がこのような反抗的な態度を取るのは初めてだった。近藤は驚いていたが、山南はそれくらい激高していた。
そして視線を土方に向けた。
「この移転を言い出したのは土方君だろう!」
「その通りだが」
何の悪気もなく土方が答える。それがさらに山南の怒りを加速させる。
「西本願寺はこの都の多くの人々の信仰の対象だ。その聖域を犯すということは、浪人たちだけではなく、町人までも敵に回すということだ!わかっているのか!」
山南の大音声は部屋中に響き渡る。その声はおそらく部屋の外までも響いていて、そして山南が首から下げた右腕にもその振動が痛みとして伝わっていた。
西本願寺は京の人々の心のよりどころであり…そして何よりも君菊が眠る場所でもある。明里が大切にしている場所でもある。その西本願寺を新撰組が汚すということになれば、皆が悲しむ結末にしかならない。
(そんなことは到底、許されない…!)
しかし、怒りに震える山南とは対照的に土方の表情は変わらない。まるで何も聞こえていなかったかのように澄ましきった顔をしていた。
「そんなことは分かっている。ただ町人を敵に回したとしても、西本願寺以上に相応しい移転先を見つけることはできなかった」
「そんなことはない。もっと熟考して…」
「だったら」
土方が山南を睨みつける。澄ました顔をしていても、その中に感情が無いわけではない。
「屯所の移転先として、心当たりがおありか?」
「…っ、それは…」
「屯所の移転は急務だ。これ以上伊東参謀らに窮屈な思いをさせるわけにはいかない」
土方が話を伊東に振る。伊東は苦笑した。
「…お気遣いは有難く思いますが、土方副長、まだ決定と言うわけではないのでしょう?」
凛と起伏のない声で伊東が土方に訊ねる。すると土方は静かに頷いた。そして伊東は次に山南に視線を向けた。
「山南総長。実は私は年を越す前から移転の事についてはご相談を受けていました」
「なに…」
総長である自分を差し置いて…と山南は土方に更なる怒りを募らせようとしたが、
「山南総長はお怪我で気を落としていらっしゃいました。土方副長のご配慮です」
ときっぱり諭されて、その怒りは静まった。そして伊東は続けた。
「浪人たちが増える一方のこの都で、隊士を増やすことは新撰組にとっては優先すべき課題です。この課題を克服するためには、まずは収容する広い屯所が必要。確かに私も西本願寺を屯所とすることには戸惑いがありました。しかし、その先にある大義を考えれば仕方のない事であると考えています」
「大義…とは」
「もちろん、幕府の手による安泰な治世ですよ」
伊東は微笑んだ。言葉に淀みはなかった。
「正直に申し上げれば、黒船の来航以来、幕府の力は弱まっていると言ってもいい。そしてその反対に長州やその他外様の軍力は脅威です。しかし彼らには幕府を倒すだけの理由と正義がない。だが朝廷が彼らに味方する…もしくは取り込まれるとしたら、どうでしょうか」
「…」
「新撰組はそれを阻止するための抑止力になるでしょう。多少強引なことをしたとしても、大義が果たされるのであれば…犠牲は厭わない。私はそう思い、今回の移転については納得をし、賛同をしました」
長々と語った伊東の視線が、山南の目と重なる。言葉の柔らかさとは裏腹に、まるで刺すような視線に山南はぞくりと背筋が震えた。
『伊東参謀にご協力ください』
脳裏によみがえったのは、彼の実弟の鈴木の声だった。もしかしたら彼はこのことを知っていたのかもしれない…
そう思った途端、全身の力が抜けた。
(この右腕のことがある限り…伊東参謀には意見することができないということか…!)
それではまるで自分が自分ではないということだ。それは絶望よりも深い。
打ちひしがれる山南の様子を、落ち着いたと判断した近藤が優しく声をかける。
「山南さん、まだ私たちも西本願寺の移転を本決まりにしたわけではない。まだ先方との話もついていないし、全てはこれからだ」
「近藤…局長…」
「それに、伊東参謀の意見に私も賛成だ。目的を達成するためには多少の犠牲は伴わなければならない…。それに我々を喜んで受け入れてくれるような場所はあまりないのだろうしなあ」
ははは、と呑気に笑う近藤、つられて「ご冗談を」と笑う伊東、そして無表情を保ち続ける土方。
(まるで…遠い、知らないところに来てしまったかのようだ)
今まで感じたことのない疎外感を…こんなにも考えが違うということをまざまざと見せつけられた山南は何も返すことは出来ない。
しかしもちろんそんな山南の心情を知ることもない近藤は続けた。
「だから、山南さんには西本願寺に移転する場合の欠点を教えて頂きたい。それが良い点よりも上回るようならば、それは最善ではないでしょう」
「…わかり、ました…」
山南は体の重心が定まらないまま、膝を立て立ち上がった。そして力なく「失礼します」と口にして、そのまま部屋を出た。
部屋の外には、心配そうにこちらを見る平隊士たちがいた。おそらくは山南が怒鳴る声が聞こえていたのだろう。
いつもなら「何でもないよ」と彼らを安心させてやることもできるのだが、どうしてもそんな気分にはならなかった。しかしぶつけようもない気持ちは部屋に戻っても悶々とするだけだろう。そのまま前川邸を出ることにした。
するとそんな山南を追いかけてくる足音が聞こえた。
「山南総長!」
その声は良く響く。しかし山南にとっては今一番会いたくない相手でもあった。
「…伊東参謀」
「ご一緒しても宜しいでしょうか」
邪気のない微笑み…しかしその柔和な瞳に、何が隠されているのか。底のない闇がそこにありそうで…しかし山南はそれ拒むことができなかった。

新年最初の巡察に出かけるべく、総司が八木邸を出て集合場所に向かうと、平隊士たちがそわそわと落ち着かない様子で集まっていた。
「お待たせしました」
総司が声をかけると、伍長である島田が駆け寄ってきた。
「隊士、全員揃っております」
いつもの報告だが、覇気がない。総司が「どうかしましたか?」と尋ねると、島田が少し言いづらそうにしながら声を潜めた。
「実は…山南総長が、お怒りのようで」
「山南さんが?」
「それはもう鬼のごとく」
土方ならともかく、いつもは穏やかな「仏」の山南が「鬼」とたとえられるなど、冗談みたいだ。しかし島田の表情は固い。
「そんなまさか…」
「いえ、その…西本願寺がどうとか、そんな話が局長の部屋から」
西本願寺、という言葉に、総司は少し理解した。まだ正式な発表ではないが、監察の山崎、そして斉藤から西本願寺への移転がほぼ決まりであるということは聞いていた。それに対して山南が反発したのだろう。
「でも、山南さんが土方さんと意見が食い違うのはいつものことでしょう」
総司が土方の元へ行った時も、二人はしょっちゅう喧嘩をしている。むしろ二人の意見が重なることは稀なので、気にする事ではないのだろうと思っていたのだが
「いえ、今回ばかりは…。山南総長があのように声を挙げられたのは、自分としても初めて拝見しました」
古参である彼だからこその重みのある話に、総司も声だけではなく肩を落とす島田は、心配そうな表情をしている。
「それに、その後、伊東参謀と共にお出かけになられて…隊士の中では、ついに決定的に仲たがいをされたのではないかと噂が持ちきりです」
「なるほど…」
それで平隊士たちが何やら落ち着かない様子だったというわけか。そう納得をした反面、総司にはまだ島田の言う通りには思えなかった。
(仲たがい…かあ)
それは信じられない結末だが、しかし総司は自分が何となく不安になっているのが分かった。
西本願寺への移転のこと。
山南の腕の状態のこと。
そして、伊東参謀のこと。
全てがぎくしゃくと最悪な形で重なった時、彼が言うような「仲たがい」が起きるのではないだろうか。
だが、総司は首を横に振った。そんな想像は一文の得にもならない。
「…ひとまず、我々は通常通りに巡察に行きましょう」
「わかりました」
これまで繰り返してきた「いつも通り」を遂行する。それだけが、この先の道を示しているのだろうから。




275


勢いで屯所から飛び出したものの、木枯らしが吹きすさぶ屋外は思った以上に寒く、沸騰した頭が冷える頃には一緒に身体も冷えてきた。怪我をした腕も寒さに晒されて痛み出す。
「どこか店に入りましょう」
追いかけてきた伊東に誘われるがままに、通りかかった店に入ることにした。暖簾をくぐると、看板娘が顔をだし、奥の部屋へと案内してくれた。
「温かい茶を二つ」
伊東が頼むと、娘は元気よく返事をして店の方に戻っていく。火鉢が炊かれた小部屋は程よく温かい。
「強引についてきてしまい、申し訳ないです」
伊東は丁寧に述べたが、山南は「いえ…」と小さく返す事しかできない。
そのうち娘が茶を二人分持ってきた。
「山南さん、せっかくですからぜんざいでもいただきましょうか」
「ええ…そうですね」
腹が空いている伊東の提案を拒む気力もなく、山南は頷いた。伊東が注文をすると、娘は愛想よくうなずいて部屋から下がる。
「…少しは落ち着かれましたか?」
伊東は穏やかに訊ねてきた。
「ええ…みっともないところをお見せして申し訳ない」
入隊して間もない伊東には、土方と山南のやり取りには驚いただろう。しかし伊東は苦笑するだけだ。
「江戸の頃から存じ上げていた山南さんが、あのような大声を上げられるのは初めて聞きました」
「ああ…そうですね。私も、都に来てからです…」
昔は後輩の指導にも、怒るよりも諭す方が先に来ていて、何かあっても感情的になることはなかった。
(私は…どうなってしまうのだろうか…)
不意に訪れた漠然とした不安。
しかし伊東はそれさえも機敏に察したかのように、
「命がけの任務ですから、感情を露わにして、必死になるのは当然です」
と肯定した。何故だかそれを聞いて、山南は安堵した。
(この人には…言霊が宿っているのか…?)
そう思わせるほどの、雰囲気が彼の周りにはある。彼を慕って多くの者が上洛し、新撰組への入隊を果たしたのもそのせいなのだろう。
しかしその一方で伊東にはもう一つの顔がある。それは言葉では言い表せられない、得体の知れない闇のように深い底で…。
「ところで、西本願寺への移転の件ですが」
山南の暗い思考を止めるかのように、伊東が切り出した。山南ははっと伊東を見る。
「確かに西本願寺は京の人々の信仰厚い場所です。移転すれば山南さんが懸念されるように、余計な反感を買うのは免れないかと思います」
「ですから、私は…」
「しかし、気のせいかもしれませんが、山南さん。あなたには西本願寺にそれ以上の思い入れがあるようにも思います」
図星を刺されるとはまさにこのことなのだろう。
伊東の言うとおり、民からの反感や信仰への冒涜…もちろん、そのことに対する危惧や懸念はあったものの、山南がこれほどまでに反対するのには別の理由がある。
山南は素直に白状した。
「おっしゃる通り私にはどうしても受け入れがたい理由がある。西本願寺は、新撰組にとって…忘れてはならない、大切な恩人が眠っている場所だからです」
「恩人…ですか」
「こうして新撰組が大きくなったのはその方の尽力あってこそ。私はもちろん…生前の友人はその方が静かに眠ってほしいと願っているのです」
山南は敢えて君菊の名前は出さなかった。彼女の名前を隊内で口にしないというのは暗黙の了解のようなものだ。彼女とかかわりそして彼女を死なせてしまったことを後悔している人間が、自分だけではなく沢山いる。忘れることでしか前に進めないと分かっていたからこそ、その後入隊した伊東に説明する必要はないと思っていたからだ。
すると伊東も「なるほど」とあっさりと納得した。だが、
「山南さんのお気持ちはよくわかりました。しかし、それは移転を中止する理由にはならないでしょう」
「何…!」
あまりにも取りつく島のない却下に、かっと血が上る。しかしそのタイミングで店の娘が注文していたぜんざいを持ってやってきた。娘はその場の空気に機敏に気が付いて少し顔の表情を落としたが、伊東が「美味しそうですね」と優しく声をかけてやると、戸惑いながらも照れくさそうに微笑み、「ごゆっくり」と声をかけて去っていった。
目の前に置かれたぜんざいだが、山南は口にする気にはなれない。
すると伊東が先ほどの話を続けた。
「山南さん、私はまだ新参の身です。参謀という地位は勿体ないとさえ思いますが…しかしそれでも客観的な視点から言わせていただければ、それはただの私情であると考えます」
「…」
「京の治安維持の一翼を担う新撰組が…いわば、その恩人ただ一人の為に、西本願寺への移転をためらうなど…会津やそして大樹公がお聞きになれば、一笑されることでしょう」
山南は伊東の意見に、ぐっと拳を握りしめた。
(そんなことはわかっている…!)
伊東に言われなくとも、誰に言われなくても、そんなことはわかっている。
だが、土方への恋情だけで間者となり、最後は命を落とした彼女の存在を私情で片づけることができるのだろうか。
(彼女は自分を殺した相手でさえ…許したというのに…!)
そんな彼女が眠る場所で、誰を殺せるというのか。
(私にはわからない…!)
「山南さん」
目をぎゅっと閉じて、俯いていた山南は伊東が呼ぶ声で顔を上げた。
目の前の彼は、その形相を別人のそれのように変えてしまった。
まるで、それまでかぶっていた仮面を、脱いだかのように。
「…こういっては何ですが、あなたにはもうどうすることもできないのですよ」
その声が、暗く変わり
その眼が、まるで野生の動物のように怪しく光り輝いたのが、わかった。
山南はぞくりと背筋が震えた。そして息をのみ、唾を飲み込んだ。
何故だろう。
目の前の彼が、『伊東甲子太郎』だと知っているはずなのに、まるで初めて会う者のように思えてしまう。
「…伊東参謀…」
「とても不運なことです。あなたがもし総長という地位を確立し、土方副長と並び立つだけの精神をお持ちだったとしたら、西本願寺への移転は遂行されなかったかもしれないというのに」
(何を…)
何を言いたいのだろう。仮面を脱いだ彼は、何を言っているのだろう。
すると伊東はその口元を緩ませて
「あなたは新撰組の総長というその場所がとても孤高で、とても…自分に相応しくないとご自分を責めてきた。そして、その腕が傷つけられたことで、あなたを支える術が無くなってしまった」
「!」
そう、淡々と述べた。
山南は一気に自分の血の気が引いて、頭のなかで何かがガラガラと崩壊し、そして身体の力が抜けてしまうのがわかった。真っ白になってしまった頭の中で、しかし一人の人物の顔が思い浮かんだ。
「…す…鈴木君が…」
話したのか。
やはり、そうだったのか。
だが、あまりにも唐突で残酷な言葉に、彼に向ける怒りなど湧いてこなかった。しかし伊東はまるで芝居がかったかのように説明した。
「不出来な弟で申し訳ない。あなたのことを隠しておけなかったのでしょう。…このことを知っているのは私だけです。弟には誰にも話さないように口止めをしています。弟は私を裏切ることができない。絶対に漏らすことはありません、安心してください」
「あなたは…」
「近藤局長…そして、土方副長に知られると、困るでしょう?」
まるで頭の先から足の先までのすべてが、彼の意のままに操られているかのようだ。その証拠に、身体がピクリとも動かない。唸るように擦れた声が出るだけだ。
「山南総長、あなたには何もできない。…しかし、私にはできるかもしれない」
「…な、に…」
いつも、まるで言葉に靄をかけて、飾り立てるような彼から発せられた台詞のようには聞こえなかった。
それはまるで、やはり、悪魔の囁きのように
「私に従ってください」
聞こえた。


「何だよ、人の顔をジロジロと」
巡察の報告がてら、総司が土方の部屋を訪れると、彼は不機嫌そうにそう言った。
「…別に、土方さんは新年早々、いつも通り不機嫌そうで何よりです」
「嫌味っぽいな。言いたいことがあるならはっきり言え」
書物をしたためていた手を止めて、土方が総司の方を向く。しかし総司はそっぽを向いて「知っているくせに」と口をすぼませた。
「西本願寺の件ですよ。山南さんともめたらしいって、隊士の間では噂でもちきりですよ」
「だろうな」
「だろうな、じゃありません。ついには山南さんと土方さんが決裂したんじゃないかって、皆、戦々恐々としているんですから」
「そんなのは放っておけ」
それはいつも通りの…総司でさえ予想ができる返答だった。総司はわざと大きなため息をついた。
「腕の怪我をされてただでさえ落ち込んでいらっしゃったのに、追い打ちをかけることはないんじゃないですか?」
「こっちは仕事だ。会津からも早く次の屯所を決めるようにとはっぱをかけられている。これ以上、移転を先延ばしにするわけには行かねえ」
「…それはそうかもしれませんが」
「それより、お前は西本願寺に移転するって、何で知っているんだよ」
土方の鋭い追及に、総司は「あ」と声を漏らす。そう言えばこのことは監察の山崎から聞いたことで、まだ内密の話でもあったのだ。山崎から聞いたと話せば、何故山崎と話をしたのかということになる。
(何か言い訳を…)
と、慌てて総司は考えこむのだが、残念ながら土方は騙されてはくれない。
「…そう言うことか」
総司が何も言っていないのに、勝手に納得されてしまった。目敏すぎる彼には何も隠し事はできないらしい。総司はより土方の傍に近づいた。
「山南さんの腕のこと…知っているんですよね」
周囲に絶対に漏れてはならない。小声で尋ねると、土方が「ああ」とあっさり頷いた。
「すぐに医者に確認した。あの場では山南さんの意思を尊重して何も言及はしなかったが、おそらくは…二度と剣を握れないのではないかということだった」
「やっぱり…」
分かっていたとはいえ、それが真実であると聞かされると、総司は他人事ながら大きな落胆を感じた。そしてその事実を誰よりも知っているであろう山南自身が、悲しみと葛藤しながらも、周囲に悟られまいとしているのかと思うと…胸が締め付けられるような思いがした。
「近藤先生には…?」
「まだだ。本人が話すまでは…俺が言うわけにはいかねえだろう」
「…良かった」
近藤には伝えていないという安堵と、そして土方の意図を感じ取り、総司は安心した。
(土方さんはまだ山南さんを総長に置くつもりだ…)
だからこそ、山南の怪我をむやみに誰にも伝えていないのだろう。腕が使えないからと言って、追い出すようなことはしないと思っていても、「鬼の副長」である土方がどんな判断をするのかは、総司にはわからなかった。しかしその不安の一端が拭えて少しは安心することができたのだった。




276


土方は苛立っていた。
屯所移転候補として西本願寺を上げていたものの、その交渉は当然のことながら上手くいっていなかった。
西本願寺の門主に話を持っていくと、もちろんあちらは驚いた顔をした。しかし取り乱すようなことはなく
「それはできまへん」
ときっぱりと断った。土方が食い下がると、京の歴史上どれだけ西本願寺が古く由緒正しいものかという話を延々と説かれ、そもそも候補地として上がること自体が仏を蔑ろにする、侮辱的な行為だと何度も念を押された。しかし土方は
「長州者を匿っているという噂がある以上、ここに屯所を持ってくるのが一番効率的だ」
「武器を持って占拠されるは困るだろう」
と何度も口にし、半ば脅すような物言いをしたが、相手は怯まず説法のような返答で返すため、お互いに引かない状況だ。
もちろん言葉通り武力を用いて制圧するのは簡単だろう。しかしそれはあまりにも町人の顰蹙を買うだろうし、会津だっていい顔をしない。
(何か切り札があればいいんだが…)
例えば長州者を匿っているという証拠を示すことができれば、都を排除された長州と繋がっている西本願寺は追放を指示した朝廷への背反行為として責められることとなるだろう。
「…西本願寺周辺の巡察を重点に行え。監察にも目を光らせるように伝えている」
各組長にはそのように伝えているが、そう簡単に尻尾を捕まえることは出来ないだろう。そうわかっているだけに、屯所移転を急ぐ土方としては苛立つ日々が続いていたのだが。
「何だか面白い顔をしていますね」
と呑気に総司が言ったので、土方は力が抜けてしまった。巡察の報告がてら部屋を訪れていた。
「…お前は相変わらずだな…」
「あ、そんなことないですよ。ちゃんと土方さんの指示通り、西本願寺周辺で重点的に見回りを行っていますから」
そう言いつつも綿入れを着込んで、みかんに皮を剥く様は全く緊張感があるようには見えない。最も「鬼」と噂される土方の傍でこうして気楽な様子でみかんを剥くなんて芸当は総司にしかできないのだろう。
「でも、西本願寺側から浪人へ話が伝わっているのか、不自然なくらい西本願寺周辺に怪しい人がいないんですよねえ。それが逆に西本願寺と長州者をつなぐ証拠と言えば証拠ですけど、土方さんが欲しいのは物証ですもんねえ」
「…なんだ、それくらいは考えているんだな」
「酷いなあ」
みかんの皮を剥き終わった総司が「はい」とそれを土方に手渡す。そして自分用にもう一つみかんを手に取った。
「…お前は西本願寺へ移転することをどう思っているんだ?」
土方はみかんを口に含みつつ、総司に訊ねた。
未だに山南からは西本願寺への移転は了承をもらってはいない。近藤は様子を見ようと言っていたけれど、隊士への混乱を与えないためにも、どうにか丸く収めて幹部は満場一致で移転を決めたいところなのだが、なかなか難しいだろう。
すると総司は「うーん」と唸りつつ
「私は信心深いわけではないですから、何とも言えないですけど…ただ」
「ただ?」
「ああいう、広い境内で稽古が出来れば楽しいですよねえ。隣の壬生寺の境内は、最初は広いと感じていましたけど、隊士が増えるうちに狭く感じるようになりましたから、西本願寺みたいな広い境内で隊士が一斉に素振りなんかしたら、きっと壮観でしょうねえ」
ふふっと笑いながらそんな感想を述べる総司に、土方は更に脱力する。これまでそんな呑気な展望を述べる者はだれ一人いなかったのだ。
しかしその一方で、自然と穏やかな笑みがこぼれた。
(どうやら相変わらずの剣術馬鹿らしい…)
総司の変わらない部分に触れ、不思議と懐かしさが込み上げる。すると総司が
「あ、笑ってる。何で笑うんですかー?」
と目敏く訊ねてきたので、土方は「何でもない」といって誤魔化したのだった。


寒さが厳しくなる都は身体にしみるような冷たい空気が身体を冷やし続けた。
山南は白い息を吐きながら、上七軒へと足を延ばしていた。怪我をしている身で仕事を投げ出して女に会いに行くなんて、以前の自分では考えられなかったが、どうしても彼女に会いたくて仕方なかった。
(弱くなってしまったものだ)
自嘲するものの、しかしその足を止めることはできない。
それくらい伊東とのやり取りで、心は乱されていた。
『私に従ってください』
その言葉にまるで打ちのめされるような感覚を味わった。新撰組の総長に対する、参謀の台詞とは思えなかったが、しかしそれでもこの腕のことを知られてしまった以上、抗うことはできなかった。そして同時に、伊東参謀がただただ近藤や土方に首を垂れる為に入隊したのではないと、直感した。
(この人は危険だ…)
江戸にいた時の穏やかな道場主とは思えない、伊東の心の奥底に眠るひそかな野望に触れた気がした。おそらくその手始めに、自分という存在を利用しようとしているのだろう。
自分がいなくなったらどうなる?
近藤は比較的伊東のことを買っていて、疑いもなくその志に共感をしている。近藤は人の意見に耳を傾けても、自分の心情を貫く性格だ。例え山南が伊東のことを打ち明けたところで簡単には信じないだろう。
だとしたら土方はどうだろう。彼はとても合理的な人間だ。いつも意見の食い違う山南と人脈豊かな伊東で天秤にかけることだろう。
(だとしたら見捨てられるのは自分かもしれないな)
山南は苦笑した。思った以上に、自分は悲観的に考えているらしい。
彼の合理的な判断だと、屯所移転にいつまでも反対の態度を示す山南を「面倒だ」と切り捨ててしまうだろう。そして賛同する伊東を上手く使い、手中に収めよう…そう考えるはずだ。
しかし、西本願寺への移転はどうしても自分だけは了承するわけにはいかないのだ。
(土方君に打ち明けるべきだろうか…)
あの場所に彼女が眠っているのだと。その場所を汚すことができるのかと。…君菊の名前を出せば、土方でさえ躊躇するかもしれない。
(私は明里の心の拠り所を守りたい)
彼女の光を奪ってしまった。これ以上、彼女の心を傷つけたくはない。たとえ、伊東の傀儡に成り果てたとしても…。
歩きつづけ北野天満宮を通り過ぎ、上七軒はすぐそこという場所に来ていた。
すると、ふっと山南の傍を通り過ぎる影があった。
「…ん?」
山南は二、三歩通り過ぎてからその違和感に気が付いて振り返る。しかし山南の傍を通り過ぎて行った人影は、人混みに紛れてどれかわからない。
「気のせいか…」
そう呟いて、山南は目的地に向かう。彼女の笑顔を思い浮かべて、少し足を速めた。

「ああ、山南せんせ、いつもおおきに。…少々お待ちいただけまへんか?」
店を訪れると、女将が早速、山南に声をかけてきた。そしてそのまま待合部屋に通される。
(客…か)
そう気が付いて山南の心はズキと痛む。もちろん彼女の仕事を理解していない訳ではない。自分だってもともとは客の一人で、彼女に出会ったのも店でのことだ。しかし彼女が別の客を取っているかと思うと、心が騒いだ。そしてそれは大きくなっている。
すると、明里の禿が菓子を持ってやってきた。
「山南せんせ、お待たせして堪忍どす」
まだ十くらいの禿は、幼声で丁寧に頭を下げた。邪気のない少女の笑みに、胸の痛みがすっと引く。
「やあ、ありがとう」
菓子を受け取って、小遣いを握らせる。禿は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「明里姐さん、今、お医者様がいらっしゃっているんどす」
気が緩んだのか禿がポロリと零した言葉に、山南は「え?」と驚く。
「や、病かなにかなのか…?」
それにしては少女は軽やかに笑ったままだ。すると思った通り、禿は首を横に振って「違う」と言った。
「目ぇを見ていただいているんやって」
「目?しかし…」
もう治りようがない目だと彼女は言っていた。医者に通っている風でもなかったのだ。
山南が疑問に思っていると禿が続けた。
「大店の旦那はんがなぁ…」
しかし、すぐに
「おリン!」
と部屋の障子が開いて、女将が顔を出した。険しい表情を浮かべていて、リンと呼ばれた禿も「ひっ」と身体を震わせた。そしてそのまま腕を引かれて、強引に部屋に外に出されてしまう。
「申し訳ございまへん」
女将は山南に向かって丁寧に頭を下げた。山南は何が何やらわからずに「いや」と答えるのが精いっぱいだ。しかし女将は顔を上げると、
「どうか、何も聞かなかったことにしてくれやす。明里にも…」
と山南に懇願した。むしろおリンの言葉というよりも、女将の態度の方が山南には引っかかり、
「あの、明里に何か…?大店の…」
「…どうか、何も…」
傷ましい表情をして何も聞かないでくれ、と繰り返す女将に山南はそれ以上何も言うことはできなかった。わかった、と物わかりのいい客のふりをして「一人にしてくれ」
と言って、女将を部屋から下がらせる。
(医者…に、大店の旦那か…)
おリンが口にして、女将が隠したかったこと…それを山南は何となく察してしまった。いつもは鈍いところがあることを自覚しているというのに、こういう時だけ鋭く察してしまう自分には、苦笑するしかない。
「そうか…」
そう呟いて、山南は膝をついて立ち上がる。そしてそのまま部屋を出て、店を後にした。




277


大晦日。その夜のことは克明に覚えている。

「右腕は…もう、動かないんだ」
山南が明里にそう打ち明けたとき、彼女は呆然とした顔をして「え?」と声を漏らした。除夜の鐘がゴーン、ゴーンと厳かな音を響かせるなか、
「…冗談、…や、ない?」
と明里は顔が引き攣った様子で山南に問いかける。その視線は相変わらず合ってはいない。目の見えない彼女にはもしかしたら何でも誤魔化せてしまうかもしれない。しかしだからこそ彼女の前に嘘を口にするわけはない。
山南は自らの右手を彼女の手に重ねた。
「御覧の通りだよ」
指先が上手く動かず、彼女の手のひらで不自然に曲がったままだ。明里も手さぐりをするように山南の指先に触れたが、ぴくぴくと動くだけで山南の指先に力が入っていないのを察して、顔を歪ませた。
「そんな…どうして…」
明里の零した言葉に、山南は簡単に答える。巡察での怪我だと、そしてこのことは自分ともう一人の隊士、そして医者しか知らないことだと。
「…っ、そんな…」
全てを聞き終わると彼女の頬に一筋の涙がこぼれる。彼女をそんな風に泣かせてしまうのだと、わかっていたとしてもそれでも打ち明けずにはいられなかった。そんな自分はきっと弱い。
(自分から漏らすということは、彼女にも背負わせてしまうということだ)
そうわかっていても口にせずにはいられなかった。嘘偽りの姿で、彼女とともに過ごすことなど考えられなかった。
明里はしばらくは俯いていたが、顔を上げて涙を拭った。
「お役目は…」
「…まだ悩んでいる。場合によっては平隊士に降格か…それとも除隊になるか…いずれにしても私の意思で決まることではない」
「そう…」
言葉少なく、明里の顔色は悪い。
ゴーン、ゴーンという除夜の鐘が、時間が流れているのを教えてくれていたが、まるで二人の時間は止まったかのように沈黙が続いていた。きっと彼女も何を言えばいいのか言葉を迷っているのだろう。
そんななか、山南はすっと息を吐く。
「明里」
泣いた目を腫らして俯く明里に、そっと名前を呼んだ。そしてその肩を抱いて引き寄せた。触れた場所が暖かくなる。
「せんせ…」
「…私は、君を身請けしたいと考えている」
明里の目が見開いた。突然のことに、山南の胸に預けていた顔を上げて驚いた表情を見せる。
「嘘…?」
「嘘じゃない」
喜びや嬉しさよりも、驚きの方が先に来ているようで明里は山南がそう言っても「嘘や」ともう一度繰り返して信じようとはしなかった。山南は苦笑した。
「こんな腕になってしまって、この先、私自身がどうなるのかわからない。出来れば新撰組の総長である内に華々しく君を身請けしたいと考えていたが、それもどうやら現実的ではないようだ」
「…っ、うちは…そんな、山南せんせの傍におったところで、何のお役にも…」
「そんなことはない」
目が見えない自分を責める明里に、山南はきっぱりと返答した。
「君は私の傍に居てくれるだけでいい。君は知らないかもしれないが…ただそれだけで私の心が癒されているんだ。君のお蔭でこれまでやって来られたと言っても過言ではない」
「せんせ…!」
明里は目尻に涙を浮かべ唇を噛みしめる。そして言葉の代わりに、ぎゅっとその手で山南の裾を掴んだ。
いつでも傍に居てくれた。君菊という光を奪った後でも、その変わらない笑顔で山南の傍に居てくれる。それだけでどれだけ勇気を得られるか
(君は、きっと知らないんだ…)
「…だから、君は私が守りたい」
君の大切な人をこれ以上奪わせないように。君の大切な場所をこれ以上汚さないように。たとえ新撰組の総長でなかったとしても、たとえ新撰組を離れても
(私にできるのは…それくらいだ)
「いつになるのかはわからない。いつまでも待たせてしまうかもしれない…それでも、君が許してくれるなら、待っていてほしい」
彼女はまた涙を流した。しかし、今度は悲しい涙ではない。
「うちのこと…ほんまに…?」
「ああ。ずっと前から…決めていたような気がする」
それこそ出会った時から。
山南の曖昧な言葉に、明里は「ふふ」と小さく笑う。そしてもう一度、ぎゅっと指先に力を込めて
「おおきに…」
と呟いた。
そうやって君が必要としてくれている。
(それがきっと、私にとっての存在理由だろう)
唯一無二の、理由だ。
そう気が付いたとき、山南の頬にも涙がこぼれた。



元治二年一月末。
土方は手元に届いた手紙を、ぎゅっと握りしめた。
「…くそ」
それは会津から届いた移転を急ぐようにという命令だった。隊士を増やし、いつ何時戦が怒ったとしても一部隊として対処できるように…その指令は新撰組としては名誉なものだったが、その一歩である屯所移転から行き詰ってしまっている。
西本願寺への交渉は難航したままだ。脅しには決して屈しない坊主たちは土方ら屈強な隊士たちを目の前にしても、顔色一つ変えない。それどころか逆に追い返されてしまう始末だ。
ならば、と話が通じる知識者を遣ろうかとも思うが。
(伊東には…頼りたくねえ…)
土方は頭を抱えた。
屯所移転に賛成する伊東なら喜んで西本願寺との折衝を行うだろう。しかし、もし仮に成功したとすれば、伊東のお蔭で屯所移転が叶ったということになる。それは入隊したばかりの参謀に仮を一つ作るということだ。
「ち…っ」
それは受け入れがたい。これからの新撰組の方向性としても、土方個人としても考えられない選択肢だった。
しかし、そうなればもう一人しかいない。
(山南さんか…)
知識もあり、穏やかな人柄である彼は、試衛館食客であり近藤の腹心という立場である。本来であれば彼が陣頭指揮を執って移転を先導していてもおかしくはない。だが、山南はまだ屯所移転を了承しない。いつもならもう根負けして土方に主張を認めているはずだが、今回はそうもいかず移転については反対の姿勢を崩さない。
「…何か理由があるのか…?」
生真面目な彼は、西本願寺への信仰心や民衆の為に移転を拒否し続けているのだと思っていた。しかし、どう足掻いたところで新撰組が京では悪者だ。その諦めがどこかであるからこそ、これまで無茶だと思われることも成し遂げてきた。だからこそ彼がここまでこだわることには違和感があった。
(監察に調べさせるか…?)
だが、それには躊躇いを感じた。
散々喧嘩をしてきた間柄ではあるが、その間に監察のような人間を挟む必要はないはずだ。自分たちはかつて同じ釜の飯を食べて生活していた、仲間に違いないのだ。
「山南先生、おかえりなさいませ」
「おかりなさい」
ふと部屋の外から平隊士たちの声が聞こえた。どうやらタイミングよく山南が戻ってきたようだ。
「…」
土方は重い腰を上げた。

「山南さん」
土方は部屋を出て、待ち構えるように山南を待った。外出先から戻ってきていた山南は、目が虚ろでいつも以上に疲れた表情をしていた。加えて土方が声をかけても、山南には反応が無い。しかもあろうことか土方の目の前を通り過ぎて自分の部屋に戻ろうとしていた。
(どういうことだ)
視界には入っているはずだ。山南の様子がおかしいとすぐに察知した土方は、その左腕を掴んで
「おい!山南さん!」
と名前を呼んだ。するとようやく山南の瞳が土方の方に向く。
「あ…ああ、土方君…」
「何してるんだ」
「なに…って…」
一体何のことか、身に覚えがないという雰囲気で、山南は呆然としていた。
「土方君こそ、どうしたんだ。こんなところで…」
「…」
あまりにも的外れな山南の返答に、土方は(何かあったな)と察する。
「話がある」
「…」
山南は目を逸らして、また俯いた。
「…申し訳ない、少し一人にしてほしい」
「仕事のことだ」
「勘弁してくれ」
頑なに拒む山南は、強引に土方の手を解いた。そしてそのまま背中を向けて去っていく。
「…」
土方はその背中を見つめた。今にも折れそうな後ろ姿だった。





278


冬の寒さはさらに極まった。
「…嫌だなあ」
そろそろ夜の巡察に出掛けなくては、という頃になると憂鬱になった。火鉢に手を伸ばしながら総司はため息をつく。
その傍らにはもちろん同室の斉藤がいた。
「そろそろ平隊士たちが待っているころじゃないのか」
「…わかってますよぉ」
昼間に巡察を済ませた斉藤に、総司は口をすぼませた。
日に日に寒くなる屋外は、痺れるような寒さだ。雪が降り積もるような日は少ないが、時折凍った地面に足を取られそうになる。それでも大量に着込めばその分動きも鈍くなってしまうため、結局は寒さに耐えるしかない。それを考えるを行く前から憂鬱になってしまうのだ。
その様子を見た斉藤が苦笑した。
「西本願寺への移転が本決まりになれば、ここよりは巡察が楽になる。それまでの辛抱だ」
「移転は早くて春頃だって言ってましたし、そんな少し場所が違う程度で変わらないですよ」
総司の返答に「それはそうだな」と斉藤はあっさりと頷いてしまった。
屯所の移転は正式に隊士たちに発表された。西本願寺への移転ということで信心深い者から多少の反発があるかと思いきや、在京の隊士が少ないせいか、今の雑魚寝の手狭な屯所よりはよっぽど良いと喜んでいた。それくらい前川邸の平隊士たちの部屋は窮屈だったのだろう。
隊士の説得という余計な仕事が増えないで済んだ、と土方は言っていたが、しかし移転はまだ本決まりではない。
「土方さんにしては手間取ってますよねえ」
「ああ。物証はないものの、西本願寺は長州からも圧力がかかっているんだろう」
「板挟みですか」
それは西本願寺に同情をせざるを得ない状況だな、と総司は思ったものの、もともとは蛤御門の一件から京を追放された長州を庇う西本願寺に非があるのだから仕方はない。
総司は重い腰をようやく持ち上げた。そして羽織に袖を通し、腰に刀を帯びる。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、気を付けて」
総司はいつもの挨拶をして部屋を出る。火鉢の前に腰をおろし、数枚の綿入れを着込んだ斉藤を恨めしく思いながら。


総司が門の前に行くと既に一番隊の隊士たちは集まっていたので、総司を加えてすぐに出発する。目的地は西本願寺周辺だ。
いつものように一番隊伍長の島田が総司の隣を歩いた。
「山野君がいなくてそろそろ寂しいですよね?」
総司がそんな風に問うと、島田はあからさまに顔を真っ赤に染めて
「勘弁してください…」
と頭を掻いた。山野は相変わらず山南付きで世話をしているため、一番隊から離れているのだ。総司としては口うるさい彼がいないのは静かであるが寂しいような心地だが、島田はそれ以上だろう。
「山南さんがお元気になれば、すぐにでも復帰させてあげられるんですけどねえ…」
総司がため息をつくと息は真っ白になった。
すると島田が「あの…」とおずおずと切り出した。
「山南総長のことですが」
「山南さんがどうか?」
「いえ…数日前から、様子がおかしいと山野から相談を受けまして」
気落ちしているのは一か月前からなので、山野が言いたいのはそれ以上、山南の様子がおかしい、ということなのだろう。しかし、数日前と言っても総司には心当たりがない。
「数日前…?」
「どうやら山南総長は気晴らしに上七軒へ行かれたそうなのですが…いつもより早くおかえりになられ、それ以来塞ぎこみがちだとか」
「上七軒…?」
上七軒で思い当たるのは明里のことだ。しかし彼女の元へ向かったというのなら山南の体調は少なくとも悪くはならないはずだ。だったら、彼女のことで何かあったのだろうか。
(今度…顔を出してみよう)
余計なお節介かとは思ったが、今の山南の状態や立場を考えれば放っておくわけにはいかない。幸いにも上七軒の女将とは顔見知りだ。事情を聞き出すことができるかもしれない。
「…わかりました。ひとまず山野君には何かあったらすぐに私か、土方さんに知らせるように伝えてください」
「はい」
島田は頷くと安堵の表情を見せた。
そうしていると、西本願寺にたどり着く。
総司は手早く支持を出し、三班に分けて周囲の巡察に向かわせた。最近、新撰組がこの辺りで頻繁に巡察を行っているせいか、町人たちは「またか」と冷たい目でこちらを見ている。行き交っていた人々も、そそくさと家に戻りだした。
(…いない…か)
重点的な巡察が続けば、あちらも警戒して西本願寺に接触はしずらいだろう。だが屯所移転が掛かった今、西本願寺への圧力は必要だ。
(必ずどこかに、いる…)
総司が目を見まわすと、ふっと総司の目に留まった女がいた。
振り袖姿の小柄な女に見えるが、総司の姿を見るとすぐに翻してきた道を戻った。それは別段、珍しいことではないのだが、その翻した仕草が余りにもすばやくて、とても振袖の似合うような女に相応しくないように見えたのだ。
「島田さん、離れます」
総司は短く告げる。島田は驚いて「え?」と言ったが、総司はすぐに駆けだしていた。
細い道を入り、駆けていく女。紫の振袖は夕闇に紛れていく。
「待ちなさい!」
総司は叫んだ。そうすれば大抵の者は足を止め、こわがりながらも振り向くからだ。
しかしその女はその声を無視して、そのまま走っていく。やはり、女とは思えない足の速さだ。総司は確信めいたものを感じながら、そのまま後を追った。すると、その道は丁度行き止まりとなる。女は周囲を見渡しつつ、長い袖を持ち上げて、家をよじ登ろうとした。
「待て!」
総司は刀を抜いて構えた。すると、女は巧妙に隠していたらしい脇差を手にして鞘を投げ捨て、総司に向けた。
女の眼光は鋭い。むしろそれは、女ではない。
「…何だ、お前か」
化けることを諦めた男が、その低い声を隠さずに総司に声をかけた。低いと言っても男にしては高いくらいで、総司には聞き覚えがあった。
「河上…彦斎…!」
久々の邂逅に、背筋が震えた。
彼は河上彦斎。討幕派のなかでも凶悪な人斬りとして名を馳せている。見た目はどこか線の細い男ではあるが、剣を合わせたことのある総司は、それに似つかわしくない彼の技量を知っている。かつては敗れたこともあったのだ。
河上はふっと息を吐いて笑う。
「最近この辺りを浅黄色がうろちょろしているものだから、いつかお前に会うこともあるかと思っていたが…」
「西本願寺に出入りしているのか」
「そうだ」
問いに、河上はあっさりと答えた。総司は驚いたが、河上は特に躊躇う様子もなく続けた。
「ここに新撰組の屯所が移転となれば、面倒なことになる。上からの意向もあり、たびたび圧力を掛けさせてもらったが…残念ながらそれも徒労になるようだな」
「何故?」
「お前にこうして見つかってしまった以上、西本願寺を隠れ蓑に遣うことはできまい」
それはまるで冗談のように聞こえた。総司に見つかったというそれだけで、西本願寺から手を引くという。
もちろん簡単に信じることはできずに
「謀るつもりか?」
と総司は問いかけた。この場しのぎの嘘…そう考えるのが普通だ。
しかし河上はにやりと微笑んで「いや」と首を横に振った。
「俺は嘘はつかない」
「…」
「嘘は嫌いだ」
彼が断言するその言葉には、何故だか納得させられるだけの力があった。それだけ自信を持って答えられるということは、本当にここから手を引くということなのだろう。それに彼と以前であった時も、自分にかけられた嫌疑を晴らすためにその姿を現したのだ。信憑性はある。
(信じていいのだろうか…)
総司はまず、土方のことを考えた。彼だったらなんというのだろう。何を選択するのだろう…。
「だから、見逃してくれ」
総司が迷っていると、河上は付け足した。総司は自分の背後に部下である島田や他の隊士たちがこちらに向かっていることに気が付いた。
「沖田先生!」
「この者は…?!」
「何者ですか!」
次々に刀を抜く隊士たち。その場の緊迫は高まり、河上も脇差を構えたまま、目をぎらつかせていた。しばらくの睨みあいの後、総司はふっと息を吸い込んだ。
「…刀を降ろしなさい」
総司が選択したのは、河上を信じることだった。
「沖田先生…?!」
島田が驚きの声を上げる。しかし総司が「降ろしなさい」ともう一度言ったので、戸惑いつつも従った。
すると目の前の河上はにやりと口角を上げた。
「貸しではないよな」
「取引です。もしあなたの言う通りではなかった時は…新撰組は全力であなたたちを追い詰めます」
「ああ。それで構わない」
河上は落とした鞘を拾い、脇差を戻した。そしてそのままゆっくりとした歩調で総司のそばを通り過ぎ、そして隊士たちを掻き分けて去っていく。
「…今のは?」
島田が問いかけると、総司は少し考えて、
「秘密です」
と答えた。




279


胸を刺すような絶望が、大きな穴をあけた。この穴を埋める希望がこの先にあるのかどうかは、わからなかった。
目を閉じると、明里の踊る「黒髪」が君菊の声とともに蘇る。盲目だということさえ忘れさせるような美麗な舞は、見る者を虜にしてしまう。山南の脳裏に焼き付いて離れない印象的な舞だった。

足音が聞こえた。すっ、すっという上品なその足音は試衛館の頃には聞かなかったものだ。
「山南総長」
足音に相応しい、品の良い声が響く。耳通りの良い音ではあるが、何故か山南にはそれが酷く冷たいものに聞こえた。
「入っても宜しいでしょうか?」
「…どうぞ」
山南の受け入れる返答に、声の主は躊躇いなく障子を開けた。そして山南の傍に腰を下ろして切り出した。
「西本願寺の件ですが」
訪問者である伊東の話に山南は力なく「ああ…」と答えた。
頭が上手く回らない。しかし伊東は気が付いているのか、いないのか遠慮なく話を続けた。
「これまで私も別の屯所を近藤局長、土方副長にご提案したり、昔の伝手を頼って西本願寺への移転を止める手立てを探りましたが…どうやら残念なことに、このままでは移転が決まりそうです」
「え…?」
寝耳に水だ。山南は顔を上げ、伊東を見る。酷く眉間に皺を寄せて残念がる顔をしていたが、しかし山南にはそれも芝居のように見えた。だが、そんな自分でさえあからさまに隈を作り顔色を悪くしているのだから同じように芝居がかっているだろう。
「これまで会津及び新撰組からの圧力と、討幕派からの圧力に板挟みになっていたようですが、何故かあちらが断念したようで。監察からの報告でも西本願寺が受け入れる方向で話を纏めているということでした」
「そんな…!伊東参謀、あなたはどうにかできるとおっしゃったではないですか…!」
山南は伊東へ、まるで縋る様に近寄った。身体に上手く力が入らなかった為、四つん這いになるような不恰好ではあったがそれでもそんなことに構っている暇はない。
「西本願寺は…どうしても…!」
たとえ明里が別の男に身請けされるとしても。
たとえ自分だけの存在ではなかったとしても。
彼女が生きているというその存在がある限り、傷つけるような真似はできない。
(たとえ無意味だとしても…)
その決意を変える気はない。
すると伊東は結論を急ぐ山南を、苦笑して「落ち着いて下さい」と宥めた。
「まだ手はあります。…西本願寺への移転を推しているのは土方副長です。近藤局長は賛同していらっしゃるに過ぎない。でしたら彼を説得できれば良い」
「そ…それは、そうですが」
それが叶わないからこそ、思案を巡らせてきたのだ。すると伊東は少し声を潜めて
「調べさせてもらいましたが、西本願寺の墓に眠るのは君菊という女ですね?」
と訊ねてきた。
伊東の口から彼女の名が出たときに、山南はどきりとした。それは前回の話の流れでは伏せていた名前だ。そして新撰組の中でも暗黙の了解で口に出されない名でもある。唖然とする山南に、伊東は首を横に振った。
「少し調べればわかることです。…残念ですよ、池田屋の功労者である彼女の存在が私たちには隠されていたなんて…」
「い…いえ、隠す…と、いうわけではないのですが…」
そうだ、彼に問い詰められれば平隊士なら簡単に口を割ってしまう。そんな簡単なことさえ気が付かなかったとは…山南は己を責めた。
伊東は続けた。
「何でも君菊という女は土方副長の懇意にしていた女だったとか。殺されたときには彼らしくないほど狼狽していたと聞きます。でしたら、それを利用しない手はない」
「利用…」
新撰組が利用した女を、死してなお、利用する。
(そんな冒涜を…)
許していいのか?許せるのか?…いや、そういう問題ではない。
(私は…一番、何を守りたいんだ…?)
「私の口から女の名前を出すことは気が引けます。…山南総長、お任せできますよね?」
明里か?君菊か?それとも…?
(私は、何を…)
山南は俯いたまま、左手を握りしめた。爪が皮膚を裂くほどに強く。


土方の眉間に皺はまた一つ増えていた。
「まだ怒っているんですか?」
総司は呆れ気味に肩を竦めたが、土方は背を向けたままで総司の方を向かない。
河上との邂逅については、一番隊の隊士達は詳細を伏せたが、その日のうちに土方へと報告した。土方は河上彦斎の名前を聞くととても驚いていたようだったが、その結末には異論があったようだ。
「何故、その場で斬らなかったんだ。女の恰好をしていたというのなら、少なくとも大刀を持っているわけではなかっただろうし、実際、袋小路まで追い詰めたんだろう?絶好の機会じゃねえかよ」
その時報告を聞いた土方は、何故斬り伏せてしまわなかったのかと総司を逆に問い詰めた。総司は少し迷いつつも答えた。
「私だって別に逃がすつもりはありませんでしたよ。でもあの時、彼はあっさりと自分が西本願寺に関わりがあると口にした。戦うつもりは毛頭なかったんですよ」
「だから、それが絶好の機会だって言ってるんだ」
「私にとっては確かに絶好の機会ですけど…なんていうか、彼とはお互いに万全の態勢で斬りあいに望みたいんです」
総司にとって河上は敵に違いないが、今までにない恰好の好敵手に出会えたという喜びも感じていた。だからこそ、彼が不利な状況で斬りあうということには些か気乗りがしなかったのだ。
「それに西本願寺への移転に向けて、良い材料が手に入ったんだから、今回はそれで許してくださいよ」
報告時のやり取りはそんな感じで、それ以来土方は不機嫌そうだ。
「西本願寺との交渉は上手くいっているんですか?」
「お前には関係ないだろう」
「もう、子供みたいなんだから…」
総司が呆れると、ようやく土方が手を止めて振り向いた。
「別にもう怒っちゃいねえよ。お前が剣術馬鹿だって言うのは昔からだからな。近藤さんへ話をしたら、そういう理由なら仕方ないって笑っていたくらいだ」
「さすが近藤先生ですね。…で、だったらどうして眉間に皺、また増やしているんですか?」
総司は「こんな風に」と土方の眉間を真似てみせる。さらに土方の機嫌を損ねてしまいかねなかったが、土方はため息をついて肩肘を文机に付ける。すると躊躇いながらも訊ねてきた。
「…お前、最近、山南さんとは話ができているか?」
「山南さんですか?」
自然に総司は横の部屋を見る。壁越しに山南の部屋があるはずだ。すると察した土方が「今はいねえよ」と言った。
「話っていう話は、年を越してからは特には無いですね。…そう言えば、山野君が数日前から山南さんの様子がおかしいと言っていたようです」
「数日前…か」
「心当たりでも?」
総司の問いかけに、土方は「まあな」と曖昧に答えた。
また喧嘩でもしたのだろう、といつものことだと総司は思う。しかしその一方で、喧嘩をしたとしても土方が山南のことを気に掛けるのは珍しい。
「山野君は、上七軒に出掛けた日から塞ぎ込みがちだと言っていました。上七軒だというなら、明里さんですよね。喧嘩でもしたのかな…」
「…そうか」
総司の話を聞いて、土方は何やら思案するように黙り込んだ。
どんな事情があったのかはわからないが、土方が山南を心配するという姿を見て総司は何やら安堵する。喧嘩ばかりで反目の多い二人を見ていると、ときどき本当に心が離れてしまったのではないかと、総司でさえもハラハラするのだ。
「…ねえ、土方さん。これは私の勝手な提案なんですけど」
「何だ?」
「山南さんに別宅を持つことを勧めてはいかがですか?屯所ばかりで塞ぎ込むよりも、気が晴れるでしょうし、それこそ明里さんを請け出して住まわせてあげれば良いでしょうし…」
何があったのかは知らないが、山南と明里の仲睦まじいことは総司だけではなく隊士の誰もが知っている。二人とも穏やかな物腰であるし、簡単にはいかないかもしれないが、それでも似合いの夫婦になれるのではないだろうか。
(独りよがりかもしれないけど…二人には幸せになってほしい)
そしてそれは、君菊の望みでもあるはずだ。
無茶な提案かと思ったが、土方は
「そうだな…近藤さんに相談してみる」
と、土方はあっさりと了承した。おそらくは近藤も賛成してくれるだろうから、山南さえ頷けば決まったようなものだ。
「よろしくお願いします」
総司は顔が綻んだ。そして土方の眉間のしわも一つ、消えていた。





280


山南の別宅と明里の身請けについて近藤に相談すると、二つ返事で了承をしてくれた。
「二人が仲睦まじいことはよく聞いている。山南さんのことだ、連日花街に通うのは気が引けるだろうから、いっそ身請けして囲うのは良い案だ」
伊東もこれに同意し、満場一致での身請けが決まった。
そこで早速、総司と土方は置屋と話をつけるべく、連れ立って上七軒に向かうこととなった。総司の足取りは久々に軽い。
「きっと驚きますよ!山南さん」
総司は満面の笑みで、土方に話しかける。今回の身請けは山南へのサプライズにして黙っていようと言いだしたのは総司だった。近藤や伊東もそれに乗り、このことは四人以外知らない。
すると土方はふん、と鼻で笑って
「驚きすぎて気絶でもするかもな」
といつも通りの憎まれ口をたたくが、いつもよりも表情が柔和なのでこの身請けには賛成らしい。そのことがより一層総司の顔を綻ばせた。
「そんなこと言って、早速手頃な家を探すように手配ているんでしょう?」
そう指摘すると、土方は視線を逸らして口を噤んでしまった。図星に違いないが、これ以上からかうと本当に機嫌を損ねてしまいそうだ。
山野曰く、未だに山南は部屋に塞ぎこんでいるらしい。その原因が怪我のことか、移転のことか、はたまた別のことかはわからないが
(彼女が特効薬になってくれれば良いな)
総司は単純にそう思う。山南の隣に寄り添う姿は、きっと君菊も喜ぶだろう。
すると土方が、まるで総司の考えを読んでいたかのように
「明里、と言うらしいな」
と彼女の名前を口にした。
「そうですよ。そうか、土方さんはお会いしたことがなかったんでしたっけ?」
「ああ」
土方はそっけなく返答した。
池田屋以降、土方が君菊の名前を口にすることはない。まるで頑なに避けるかのようだが、そうではなく、土方が彼女の名を口にすることで、周囲が気遣うからだ。彼女が殺されて、一番深い傷を負ったのは彼女を頼り、利用し、目の前で殺された土方に違いない。だからこそ彼女の名前を出さないのは暗黙の了解となっていた。
(…だったら、明里さんも土方さんには会ったことが無いのか…)
今更ながら、総司はそんなことに気が付く。山南のことが許せたとしても、君菊を殺した土方を、新撰組を、彼女がどう思っているのか…もし憎悪しているなら彼女にとって身請けは良い話ではないのかもしれない。
(大丈夫かな…)
総司は少し、不安になった。
しかし上七軒はもうすぐそこだ。引き返すよりも彼女に話を聞いた方がいいだろう。そう思いつつ歩みを進めると
「…ん?」
と、ある人物が目についた。ちょうどその視線がかち合う。見覚えのある顔だ、とまじまじと見たところで総司はその人物の名に思い至った。
「…鈴木…さん」
伊東の実弟だ。
屯所にいるときの装いと比べ、派手な衣服に身を包んでいたので確信まで時間がかかったが、彼に違いない。
鈴木はやや顔を顰めた。総司一人なら無視して通り過ぎただろうが、隣に土方がいたので渋々こちらに近寄ってきた。
「お疲れさまです」
相変わらず起伏のない声だ。総司は「どうも」と答えて土方に任せることにする。
「こんなところで何をしている」
「…今日は非番ですので、都の散策を」
「装いが随分違うようだが」
「趣味です」
平隊士なら尻尾を巻いて逃げだしそうな土方の威圧感だが、鈴木には特に怯えは無い。詰問に淡々と返答し、土方にあからさまな嫌悪を向けて隠そうとしない。
機敏な土方は鈴木の悪意を感じ取ったようだが、「そうか」とただ返答し、鈴木の傍を通り過ぎていく。
総司も少し遅れて後に続く。すれ違った際に、鈴木からは仄かにお香の匂いがした。
(…女、かな)
上七軒に来る理由が女だというのは特に不審な理由ではない。
だが、何故か胸騒ぎがした。

それからすぐに明里の置屋に到着した。顔見知りの総司はともかく、土方の姿を見るや店の者たちが忽ち慌てふためき、出迎えの準備を始めた。総司は(さすが鬼副長)とその様子に苦笑しつつも、通された一番豪華な造りの部屋に入った。
「早速だが、明里を身請けしたいと考えている」
土方のあっさりとした切り出しに、店主と女将は少し呆けていた。しかし土方は話を続ける。
「金は新撰組が払う。山南総長の体調が優れない為、華々しく請け出すわけにはいかないが、その後の生活は保障する」
有無を言わせない土方の物言いに、店主と女将は戸惑いの表情を見せた。あまりに言葉が足りないのだろう。そこで総司が割って入る。
「新撰組では幹部は皆、別宅を持てる制度があります。給金も出るし、盲目の明里さんの為に下女も一人雇う予定です。明里さんさえ宜しければ、是非受けて頂きたいのですが…」
何の心配もいらない、と総司は微笑んで見せたのだが、しかし店主はともかく女将が良い顔をしない。君菊のことがあったにせよ、山南のことは快く受け入れてくれただけに、総司は首を傾げた。
すると土方が
「何か問題があるのか?」
と女将に問う。相変わらず不遜な物言いだったが、女将は少し迷っておずおずと口にした。
「…大変ありがたいお話やと思います。せやけど、実は…明里を請け出したいというお話を既にいただいております」
「え?」
総司は声に出して驚いた。女将は恐縮しながらも続けた。
「大坂の方で米問屋を営んでいる大店の若旦那で…明里のことを気に入ってくれはったのはつい最近のどすけど、えらい気に入ってくれはって…すぐに大坂へ連れて帰りたいと…」
「明里さんはもうその話をお受けに?」
総司が恐る恐る訊ねると、女将は首を横に振った。総司はほっと安堵する。
「明里はまだ迷うてます。山南せんせのこともやけど、目ぇのこともあって…」
「目…」
「若旦那は長崎の良いお医者を知ってはるそうで…身請け後はすぐにご紹介くだはると」
今度は総司が呆然とする番になった。
それはきっと明里にとって最も良い身請けの話だろう。つらい奉公から逃れ、目も治るかもしれない。周囲から疎まれ、いつ危険が及ぶかわからない新撰組の元へ身請けされることに比べれば、よっぽど将来の展望も開ける。山南への情愛があったとしても彼女が揺れるのは当然だ。
すると難しい顔をした土方が唸るように口を開いた。
「…その話を、山南総長には…?」
総司ははっとした。
(山南さんが気落ちしているのはそのせい…)
山野は上七軒に向かってから様子がおかしくなったと言っていた。もしかしたらこの話を知ってしまったのではないか…だとしたら辻褄が合う。明里が別の男に請け出されることにショックを受けたのではないか。土方もそう考えたのだろう。
すると女将は躊躇いつつ答えた。
「…お耳に入れるつもりはありまへんでしたが…」
俯く女将の表情には後悔がある。何かの拍子に山南は知ってしまったようだ。
まるで不幸の連鎖が起きているようだ。総司はそう感じざるを得ない。山南があのように塞ぎこんでしまうのは当然のような気がした。
しかし隣の土方は表情を崩さない。
「わかった。一度、話を持ち帰らせてもらう」
淡々と告げ、立ち上がる。さっさと部屋を去っていく土方を総司は女将への挨拶もそこそこに、追って外に出た。
するとそれまで感じることはなかったのに、途端に冬の風の冷たさを感じた。総司にはそれがまるで山南に吹く向か風のように思えて仕方ない。しかし土方は言葉通り屯所に足を向けて歩き出す。
「…どうするんですか?」
総司は躊躇いつつ尋ねた。土方の表情が読めなかったからだ。
「身請けの件は保留だ。確かめたいことがある」
「確かめたいこと…?」
冷たい風が土方の髪をなびかせる。その表情は変わらないが、瞳は冷たく厳しい。
「土方さん…?」
土方は突然足を止めた。そしてふり返り、総司を見た。
「…お前は気が付いているか?」
「何を…ですか?」
心当たりがない総司を、いつもの土方ならからかうだろう。鈍い総司を笑うだろう。しかし今日の、目の前の土方はそうではない。
「まだ推測でしかないが…明里を身請けしようとしている大坂の若旦那は、俺たちの知っている奴だ」
「知っている?どういうことですか?」
総司には全く土方の意図がつかめない。新撰組としては大坂にはもちろん伝手がある。その知り合いだとでも言うのだろうか。
しかし土方は、総司が思ってもいないような驚くことを口にした。
「鈴木だ」
「鈴木…さんが?」
鈴木、といえば先程、この辺りですれ違ったばかりだ。いつもよりも派手な衣服に身を包み、総司と土方を見てとても嫌な顔をした…
「…まさか、そんな…」
あの服装は大坂の商人を偽装するためだった…そう考えれば確かに土方の言う通りだ。
(でも何故そんなことを…?)
その答えに在り着く前に、土方は先に歩き出す。彼はおそらく答えを知っているのだ。









解説
273一年前の年越しは131話です。
277大晦日のシーンは273話です。
278河上との出会いのシーンは223話です。
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