わらべうた





281


女将から話を聞き終わった明里は、唇を噛み俯いた。
山南と出会っていなければ、大坂の若旦那の話をすぐに受けていただろう。何回か酒の席を共にしただけ…しかも目が見えない自分を囲うとしたら、裕福な商人くらいのものだ。まさに明里が希望する平穏で豊かな生活が待っていることだろう。
しかし、明里の脳裏に過るのは、いつだって山南の姿だ。
「明里…どないするつもり…?」
明里の複雑な心情を、もちろん女将は察しているだろう。
「…お母はんは…どうおもう…?」
幼い頃から自分を仕込んでくれた女将。明里は母代りと言ってもおかしくない中年の彼女に答えを求めた。
すると女将は少し間をおいて答えた。
「うちは、大坂の若旦那を頼る方がええと思うとる」
「…」
「この間も蛤御門の戦があったやろ。京は何が起こるかわからへん。それに比べると大坂の方は平和や。少うし無口やったけど、目ぇも治してくれはるし、羽振りも良さそうな若旦那や。…確かに山南せんせはあんたにとって申し分ない方や。せやけどな、明里、いくら仏の方にお優しい方でも新撰組は新撰組や」
いつ何が起こるかわからない。そして女将の声が低くなる。
「…あんたには、君菊のようになった欲しくはないんよ…」
痛みを堪えるような女将の懇願に、明里はさらに俯いた。
心が揺さぶられていた。確かに女将の言うとおり、大坂の若旦那を選ぶのが正しいのだろう。思い描いていた穏やかな暮らしが待っていて、それは何よりも育ててくれた女将への恩返しとなる。身請け先として後ろ指を指されたりしない場所だ。
(でも…それでも)
心が、叫んでいる。あの人が言っている。
『うちが一緒にいてあげる。明里のたった一人に出会えるまで…』
そう言った君菊はいなくなった。そして君菊が出会わせてくれたのが山南だった。この人が、たった一人の待ちわびた人なのだと今でも確信している。君菊が自分に与えてくれた最後で、最大の幸福だと信じている。
(そんな方を忘れて…うちは、生きられるん…?)
自分に問いかける。周囲の賛同が得られる方を選ぶ方が、本当に幸せ?穏やかに生きるのが、そんなに大切なこと?
(ああ…)
どこでも飛び越えていける翼が欲しい。飄々と駆け抜けていける足が欲しい。
そう願うのに、そう言って空を見上げるのに、自分はいつまでたっても地面に這いつくばって生きる、飛べない鳥だ。そして道標を失い、真っ暗に落としたままのこの目が、憎い。
『待っていてほしい』
身体にも心にも傷を負ったあの人の傍にいたい。けれど、自分に何ができるのだろう。
「…ままならないんやなぁ…」
心が分裂して、張り裂けて、ぐじゃぐじゃになって。
その輪郭が揺らぐ。


総司と土方は真っ直ぐに屯所に戻った。土方はとても早足だったが、総司は文句ひとつ言わずついて帰った。土方からはまるで戦に向かうような覇気が感じられて、その眉毛がまるで鬼のように尖っていた。
しかし土方はそのまま前川邸に入る。てっきり八木邸の離れにいるであろう鈴木、もしくは伊東を問い詰めるものだと思っていた総司は、少し拍子抜けした。
「土方さん、どちらへ…?」
総司の質問に土方は答えない。その代わりに隊士達の大部屋を通り抜けて、その先にある山南の部屋に向かう。その部屋に入る一歩手前で「お前はここで待て」と土方が総司を止めた。
「どうしてです。私も一緒に話を…」
「話を聞くのは構わない。何だったら俺が正しくないと思ったら踏み込んでもいい」
「でも…」
食い下がろうとする総司を、土方が両肩を両手で抑えるようにしてまた止めた。
「土方さん…」
「いいから、俺に任せてくれ。悪いようにはしない」
「……」
土方は総司を安心させるためか穏やかに微笑んで見せた。そこまで言われて、土方を信用しないわけには行かない。総司はゆっくりと頷いた。
そして土方は総司から離れて部屋の前に立った。
「…山南さん、俺だ。話がある」
固い問いかけに部屋の中から返事はない。しかし人の気配はあるので、そこにいるはずだ。土方は返答を待たずに部屋の中に入った。
(…土方さん…山南さん…)
冬の廊下は冷たかったけれど、部屋のすぐそばで彼らの声が聞こえる場所に膝を折った。そして自分でもらしくない、とは思いつつも両手を合わせて目を閉じた。
けれど、仏に何を願ったらよいのか。それは良くわからなかった。

土方が部屋に入ると、山南は手にしていた本を閉じて、ゆっくりと身体をこちらに向けた。
「…話、とはなんだい」
口調はいつものそれに違いないが、しかしその声色は擦れ顔色も悪い。ここ一年くらいずっと身体を壊していた山南だが、それがより顕著になったように感じられた。
(世間話はかえって腹の探り合いになるだろう)
土方は早速、本題を切り出した。
「腕の怪我のことだ」
「!」
まさかそんなことを言われるとは思わなかったのだろう。動揺した山南は「何故…」と呟いて、包帯を巻いた右腕を隠す様に左手で抑えた。
「俺はすべてを知っている。それも仕事の一環だからな…」
「そう…か…」
監察辺りに調べさせたのだろう、と山南も察しはついているはずだ。すると山南は目の据わった表情を土方に向けた。
「それで…君は、私をどうするつもりなんだ?…そうか、それを告げに来たのか?総長から降ろすかい?それとも隊から追い出すのかな…」
「…山南さん」
「どちらでも構わないよ。私は君に従う」
それはかつてないほどの覇気のない声だった。いつだって、まるでそれが癖か何かのように意見をぶつけてきた。少なくとも西本願寺移転の話をした時の山南の目には、炎が宿っていたはずだ。
しかし今はどうだ。その炎は火種を無くして消えかかっている。
「…あんたらしくねえよ。俺に従うだなんて、そんなことをまさか口にするとは…」
「そうだね…君の求める山南敬助はこうじゃないのかもしれない」
山南はふっと笑った。
「でも私だって知らなかったんだ。ただ右腕を失っただけで、こんなにも自分に価値が無いと思うとは…知らなかった」
「価値が無い…か?」
「少なくとも新撰組にとっての価値はない」
山南は断言した。何をも寄せ付けないほど、きっぱりと言い切った。それが本音だということだろう。
剣の腕一つで上洛してきた身で、その腕を失うことの痛みがどれほどのものか、それは当事者でなければわからないだろう。しかし誰よりも理知的で冷静で穏やかな彼が、自分に下す審判がそこまで重いものなのだろうか。
土方は少し間をおいて、口にした。
「…あんたは新撰組を抜けたいのか?」
最初からまるですべてを捨てるかのような物言いだ。ただ実際にそうしないのは局中法度があるから。それだけの理由で留まっているだけで、本当は見捨ててほしいと願っているかのように、土方には聞こえた。
すると山南は寂しげに笑った。
「ああ……その通りだ」
「……」
「君も分かっているように、私には迷いがある。いろんな迷いだ。腕のこと、移転のこと、すべてのことに迷いがある。こんな私は新撰組にとって足枷になるだろう」
重荷にはなりたくない。
そう微笑んで見せたその表情には、かつての山南の穏やかさが垣間見えた。
だからこそ、土方は苛立った。山南の左腕に掴みかかる。
「あんたは逃げるのか…?!俺や、新撰組や、今置かれている現状から…逃げるのか…?!」
それまで堪えていた感情が爆発するかのように、土方は叫んだ。
新撰組に相応しくないだとか、価値が無いだとか、足枷になりたくはないだとか。
土方にとってはそれが逃げの口上にしか聞こえなかったのだ。
「逃げてどうなるってんだ…!逃げたその先に、あんたは何を求めるんだ!それともなんだ、明里とかいう女と駆け落ちでもするつもりか…!」
明里、という名前に山南は一瞬だけ反応を見せた。しかしそれ以外は土方にされるがままになり、まるで聞こえていないかのようにその表情を変えなかった。
「…わからない。逃げた先に何があるのかなんてことはわからない。でもそんなことはどうでもいいんだよ」
「何…?!」
「離してくれ。これは私闘になる」
それは憎らしいほどの冷静な返答だ。土方は「ちっ」と舌打ちをして、仕方なく掴んでいた左腕を離した。
すると二人の間に沈黙が流れた。おそらくは少しの時間だったのだろうが、それでも土方にはそれがとても長く、重く、苦しい沈黙に感じた。
山南の心は既に離れていた。繋ぎとめたいと願っても、それはきっと自分の役割ではない。何よりも対極にいる自分が、どれだけ言葉を尽くして誠意を見せても山南は応じないのだろう。
「…もう一つ、聞きたいことがある」
土方は沈黙を破って訊ねた。
「何だい?」
「あんたは何故そこまで西本願寺への移転を反対するんだ。確かに京中にいる信心深い町人たちはさらに新撰組を毛嫌いするかもしれない。だが、そんなことは現状だって同じはずだ」
「……」
山南の目が少し泳いだ。これまでの会話では強気な面を見せていた山南であったので、それはあまりにもわかりやすいほどだ。
すると山南は目を伏せて、ゆっくりと口を開いた。
「…西本願寺には、君菊さんが眠っている」
「君菊が…?」
「ああ。明里が遺骨を持ち込んで、菩提を弔ってもらっている。彼女たちにとっても馴染みの寺だそうだ」
重く語る山南に、土方はようやく彼がここまで徹底抗戦を続けた理由を知った。
自分の大切な人と、そしてその友人である君菊の神聖な場所を汚したくない。いかにも山南らしい理由だ。彼でなければここまで抗うことはなかった。
(いかにも…俺には似つかわしくない理由だ)
土方はふっと笑った。
「…だったら、何だと言うんだ」
「土方君…!」
山南の表情が一気に険しくなる。それまで萎れていたものが、一気に尖るかのようだ。しかし土方は続けた。
「そんなことで移転を取りやめるわけにはいかない」
「そんなこと…だと…!」
「ああ、俺にとっては過ぎた話だ」
土方の返答に迷いはなかった。
山南はその言葉に激昂した。それまで青白かった肌を紅潮させて、怒った。身体が震えて今にも掴み掛りそうな勢いだったが、しかしそれでも彼は何も言わなかった。次第にまるで血が出るほどに唇を噛みしめて悔しそうな表情をして、そしてその表情を沈ませた。
それは「諦め」であり、「失望」の表情だ。
「…君には、もう何も言うことはない…」
ぽつりと呟いた山南はゆっくりと立ち上がると、身体を引き摺るようにして部屋を出て行く。
土方は何も言わなかった。


282


「山南さん…!」
部屋から出てきた山南を総司はすぐに引き留めた。生気のない顔色は、まるで血が通っていないかのように青白くなっていた。
「沖田君…聞いていたのか」
「山南さん、話を聞いてください。土方さんが言いたいのは、君菊さんの気持ちを蔑にするとか、そういうことじゃないんです」
総司は引き留めつつちらりと山南の部屋を覗いた。その部屋にいるはずの土方は追ってこようとはしない。何の言い訳もするつもりはないのだろう。
山南もまた何も聞くつもりは無いようで、総司の言葉を無視して通り過ぎようとする。しかし総司は山南の袖をつかんだ。
いつも、相手の視点に立って話をしてくれる山南が、こんなにも総司を拒むのは初めてだ。それだけ土方に対する、また新撰組に対する絶望が大きいということなのだろう。
でもここで手を離せば消えて無くなりそうな気がして、総司は必死に食い下がる
「確かに君菊さんの菩提が弔ってあることを知っていれば、移転の話はなかったかもしれません。私も躊躇ったかもしれない。でも、もう話は進んでいて…」
「沖田君」
総司の言葉を遮るように、山南は口にした。それはかつてない程に冷たく響いた。
「君は君菊さんが眠るその墓の前で、誰かを斬り殺すことができるのか?」
「…山南さん…」
突然の重い問いかけに、総司は言葉を失った。そして山南は首を横に振った。
「私には出来ない。自分を殺した相手でさえも見逃した彼女の前で、敵…いや、味方をも斬ることになる。それは彼女への裏切りだ。君は…」
それが君にはできるのか。
山南は総司に問いかける。
久しぶりに総司の脳裏に君菊の表情が浮かんだ。穏やかに美しく嫋やかに微笑む彼女は、既に思い出となっている。彼女は何を願っていたのだろう。命を賭して何を守ったのだろう。
少なくとも、こんな風に意見がたがえることを望んでいたわけではないはずだ。
そして総司は結論を出した。
「私にはできます」
「……」
「私たちが犠牲にしてきたのは君菊さんだけではありません。かつてこの新選組にいた仲間でさえも、何人も何度も犠牲にしてきました」
虚ろな山南の眼差しに、総司は強い意志を示した。
「それを後悔するつもりはありません。もし私が死んだときに落ちるのが地獄だとしても」
きっと笑いながら死んでいけるだろう。
その総司の答えを、山南は噛みしめるような表情で受け取った。そして虚ろな眼差しをほんの少しだけ、穏やかないつものそれに戻す。
「…君はそれでいい」
先程までの詰問とは違う。穏やかで優しいいつもの声色だった。しかし総司には安堵とともに寂しさが襲ってきた。
「山南さん…」
(それでいいだなんて…)
そんなことを言ってほしかったわけではない。
だって、そんなことを言ってしまったら、まるで自分だけがそうだというみたいで
(あなたがたった一人になってしまうみたいだ…)
すると山南は言葉を去ろうと一歩を踏み出した。そして一言
「追わないでくれ」
と言った。追いすがろうと手を伸ばした総司を、山南は拒絶した。総司はその言葉を受け入れてただ去っていく山南の背中を見送ることしかできなかった。


山南は前川邸を出て、何となく隣の向かいの壬生寺に足を運んだ。寺では夕方も近いというのに子供たちがはしゃぎまわっている。山南はその様子が見られる境内に腰を下ろした。無邪気に笑う子供たちを見ていると、憤っていた心が少しずつ冷えていく。
『私にはできます』
そう言い切った総司の言葉が脳裏によぎった。しかし彼がそう言い切ることは、山南は心のどこかで知っていた。知っていたからこそ訊ねたのだ。
(君にはできて私にはできない)
それをまざまざと見せつけて、自分を苛めたかったのかもしれない。そう思うととても滑稽で、子供のようだ。
山南は自嘲した。そして膝を抱えて、頭も抱えた。
(私はどうすればいいんだ…)
伊東の言った通り君菊の事を切り出しても、土方の気持ちは変わらなかった。彼は彼の中にある信念を優先させることを選んだ。これ以上、何が出来るというんだ。
八方塞だ。移転のことも自分の感情も…どこへ持っていったらよいのかわからない。
(私が守りたかったもの…)
そのたった一つさえ、守りきれないなんて。
(…私の生きる価値…とは…)
すると夕日の日差しを何かが遮った。
「山南総長」
山南が顔を挙げると、そこには鈴木がいた。
「…鈴木、くん」
相変わらずの無表情で佇む彼は、「宜しいでしょうか」と前置きをしながらも、言葉に平坦な感情しか載せていない。
「伊東参謀がお呼びです。今すぐにご一緒に来ていただけませんか」
「…」
山南は躊躇った。今の弱い心では、伊東の言葉に惑わされてしまいそうで。もしそうなったら、もう自分が自分ではなくなるような気がしたのだ。
本物の傀儡に成り下がる。
しかし鈴木は
「来ていただけますよね」
とその語気を強めた。腕の怪我がある限りは逆らえないはずだ、とどこか彼の表情が強気に見えた。しかしその脅しに屈する必要は、もうない。
(もう土方君にも知られてしまった…)
だから彼の誘いに乗る必要はない。誰に知られても構わない。
なのに
「…わかった」
山南はそう答えた。いま、彼を拒む方が面倒に思ったのだ。それにどこへも行くあてはないのだから、構わないだろう。そんな投げやりな気持ちだった。
そして、鈴木に案内されるままにやって来たのは、町はずれの茶屋だった。屋内は鬱蒼としていて人の気配はあまりない。しかしだからこそ密会に相応しい場所なのだろう、と山南はぼんやり思った。
鈴木の後ろについて山南は一番奥の部屋にやってくる。するとそこには伊東とその腹心である内海がいた。
「わざわざご足労をおかけしてすみません」
伊東がまず下手に挨拶を述べる。山南は「いえ…」と適当に聞き流して伊東の前に座った。
「お元気がありませんね。お身体が優れませんか…?」
「いえ…大丈夫です。それでご用件と言うのは?」
余計な前置きはいらない、と山南は話を切り出す。すると伊東は表情を柔和なものに変えて、「朗報です」と笑った。
「こっそりと黒谷の方へこの内海を行かせたのですが…実は会津藩士のなかに西本願寺への移転を危惧する方がいらっしゃいました。浄土真宗への信仰が厚く、移転は信仰を穢されると息巻いています。もし移転を阻止しようというのなら協力をしたいと」
「…」
「これで会津候の意向が変わる…と、まさか私もそんな簡単な話ではないとは思ってはいます。けれども何かのきっかけになるかもしれない。そうは思いませんか?」
伊東の問いかけに、山南は曖昧に頷いた。伊東の話はどこか現実味がない。
(それは本当なのか…?)
山南は内海に視線を向ける。内海は伊東の一番の腹心のようで、いつも隣に寄り添っている。
「…その移転に反対する藩士のお名前は?」
しかしその問いかけに、内海は首を横に振った。
「これは会津への裏切り行為と見なされることもあり、決して名は明かしてくれるなと言われています」
「…そうですか…」
だとしたら内海を、そして伊東を信じるしかなくなるということになる。信じたい気持ちはある。もしそれが本当だとしたら最後の希望だろう。
しかし彼らを簡単に信じても良いのだろうか。
山南が迷っていると、伊東は声を落とした。
「しかしですね、山南総長。江戸からの知り合いである我々の親交をもってしても、今回の交渉はなかなか難儀なことです。相手は会津一藩なのですから、もしかしたら私さえも処分されてしまうかもしれない」
この感覚を。
山南は知っていた。
目の前の伊東という男は、時としてまるで別人のようになるのだ。その眼差しの奥に隠している「何か」を呼び覚まし、そしてまるで催眠術でもかけるかのように、言葉で誘い、惑わせ、そして
「条件があるのです」
支配するのだ。
「…条件…とは…?」
そんな伊東を目の前にして、山南は生唾を飲み込んだ。しかし伊東はその甘美な声で淀みなく続けた。
「このような繊細な交渉には、やはり裏方の力が必要になる。しかし監察はこれまで新撰組を支えてきた隊士ばかりが名を連ねている…いわゆる土方副長に従う者ばかりがね」
「それは…」
「そこで、山南総長のお力で私の手下何人かを監察に加えてほしいのです」
口角を上げてにやりと微笑んだ伊東の表情に、山南は戦慄する。
そしてようやく気が付いた。
(この人は…恐らく移転などはどうでもいいのだ)
会津藩に掛け合い、移転の反対交渉をする…それが真実か偽りかはわからない。けれど、伊東にとってそれが第一の目的ではないのだということはわかった。
(この人が欲しいのは、新撰組か…!)
監察はある意味、土方の権力の象徴だ。外部的な監察活動だけではなく、誠実な局中法度の履行…それを目的に組織されているそこに伊東派を加えるということは…
(隊を二分し、新撰組を崩壊させる引き金を引くことになりかねない)
これを許せば、その引き金を引くのが、自分になってしまうだろう。
そして聡い伊東がまさかそんな下心無しに山南に交渉してきたわけはない。
(屯所の移転か、監察の受け入れか…)
それは伊東を選ぶか、土方を選ぶかということに等しい。
「…っ」
心が軋む。心が沈む。心が歪む。
(呼吸が…)
まるで深いところへ沈んでいくようだ。淀んだ沼底へ――。
「山南総長?」
目敏く気が付いた内海がすぐさま山南に近寄る。息切れを起こした山南の背中を擦った。
「伊東参謀、お話はこのくらいに。鈴木くんは医者を呼んできてくれ」
的確な内海の指示に、伊東は頷き鈴木はすぐさま部屋を出た。慌ただしくなった様子を、山南は曇っていく視界のなかでぼんやり見ながら、次第に目を閉じた。



283


私はゆっくりと目を開いた。視界の額縁がぼんやりとしたままだが、一番に目に飛び込んできたのは見慣れた天井の木目だった。
(ここは…どこだ…)
見慣れているのに、懐かしい。
そんな不思議な感覚を覚えつつ、私はもう一度目を閉じた。すると、これもまた聞きなれた、それでいて懐かしい声が私を呼んでいた。
「山南さん、まだ起きてねえのか?」
「寝かせておいてやればいいだろう。飲みに行くのはまた今度だ」
「じゃあ行きましょうか」
原田君の不満げな声、永倉君の彼を諌めるいつもの声、そして藤堂君の明るい声…彼らの声が遠ざかる頃にようやく私は目を覚ました。
「ん…?」
上半身を起こすと、肩から掛布団がずり落ちた。そして私はどうやら書物を枕にして文机に突っ伏したまま寝てしまっていたらしいと気が付く。
目を擦り、背筋を伸ばして、息を吐く。読みかけの書物はどこまで読んでいたかな…そんなことを思いつつ、目を落とすと誰かの足音が聞こえた。
「山南さん、起きたかな?」
伺うように訊ねてきた声。私はすぐに分かった。
「起きました、近藤先生」
部屋の障子が開くと、人影とともに庭から夕日が差し込んできた。一日が始まったばかりだったはずなのに、もう暮れ始めているらしい。どうやら長い時間寝ていたようだ…と思う。
すると近藤先生は「おはよう」と笑って私の顔を見た。
「原田君たちは飲みに出てしまったよ。私は試衛館に残るつもりだが、君はどうする?」
「…私も残ります」
まだ眠気が残っていて、酒を飲む気分でもない、と私は首を横に振った。すると近藤先生は口角を持ち上げて笑った。
「よかった。歳も総司も出掛けてしまったんだ。これで夕餉を共にする相手ができた」
強面の顔が無邪気に綻ぶ。私もその表情を見て安堵する。
「もう用意はできている。一緒に行こう」
「はい」
近藤先生が部屋を去っていくのに次いで、私は書物に栞を挟み、腰を持ち上げる。
(掛布団をかけてくれたのは誰だろう…)
そんなことを思いつつ、部屋を出た。

「それはたぶん総司だよ」
珍しい二人だけの食事。火鉢を前に汁物を手にした近藤先生は相変わらずにこにこと笑っていた。
「沖田君が…」
「今日は歳と一緒に芝居を見に出かけているよ。出掛けに君を誘ったようだが、寝ていたようだからそっとしておくってとか言って出て行ったよ」
「そうですか。帰ってきたらお礼を言わなければ」
まだ冬の冷たい折だ。あのまま寝こけていたら、風邪を引いていただろう。彼の気遣いに感謝しつつ、私は漬物を口にした。
この道場に来て数年。私が居ついた道場としては一番長い間ここにいる。そしてそれは私の家のような場所になっていて、この漬物の味でさえ故郷のそれのように感じてしまうから不思議なものだ。
すると近藤先生は箸をおいて「山南さん」と切り出した。
「少し根を詰め過ぎじゃないか?」
近藤先生は少し眉を潜めた。
ここの所、書物ばかりに目を通し、寝食を欠くことが多いことを気にしてくれているのだろう。しかし私は心配させまいと「いいえ」とほほ笑んだ。
「浪士組のことは慎重に進めなければなりません。京は危険も多いと聞きます。いくら準備してもし足りないほどです」
浪士組に参加しての上洛について近藤先生や試衛館の食客たちに伝えたのは私だ。昔の北辰一刀流の馴染みから伝え聞いた話で、それは浪人を集めて将軍警護に参加するという、今まででは考えられない話だった。試衛館の皆は諸手を上げて喜んだが、私自身はまだ不安なことが多く出発まで下準備に時間を費やしているのだ。
すると近藤先生は顰めた眉を、穏やかなそれに戻し、
「山南さんには感謝している」
と、突然告げた。あまりにも突然のことに私は驚いた。
「私は何も…」
「私なんかは目の前のことで精いっぱいだ。門弟たちの世話、出稽古先への挨拶…自分の周りのことを整理しておくのに精いっぱいなのに、山南さんは皆のことを考えてくれている。本当に有難く思っています」
深々と頭を下げる近藤先生に、私はさらに慌てて「やめてください」と頭を上げるように懇願した。
「まだ何も始まってはいないのです。それにこの話は、いうなれば博打に近い…その恐れがあるからこそ私は準備をしておかなければ気が済まないだけなのですから」
話を持ち込んだのが私自身であるということが、さらに私自身に責任を課していた。だからむしろ自分の周囲に気を配る近藤の方が、自分よりもよっぽど余裕があるだろう。
それに、私にはこれしかできないのだ。
「…私は、過去ばかりに答えを求めてしまう性のようです」
「過去?」
近藤先生は首を傾げていたが、私は続けた。
「私の頭の中や書物に、同じような事例がなかったか…そしてどんな結末に導かれるのか。あらかじめ予測を立てて置かなければ、一歩を踏み出すことができない。石橋を叩いて、叩いて渡る性格なのです。…おそらくこう言うところが、土方くんとは正反対なのだと思いますが」
私がそう言うと、近藤先生はその大きな口を豪快に開いて笑った。
「歳は猪突猛進、ひとまずやってみて考える性格だからなあ!」
私も近藤先生と一緒に笑う。
しかしそれでも、彼は愚かではない。野生の勘のようなものが働いていて、懸命に考え抜いた私と同じ答えを一瞬で出してしまうこともある。
(私よりきっと…賢いのだ)
生きる知恵を良く知っているのだ。
「しかし、山南さん」
笑っていた口を閉ざして、近藤先生が私に穏やかに問いかける。
「過去の答えは正しいのでしょうか?」
「正しい…?」
その問いかけに、私は呆然とした。
正しい。
私はそれを探していた。何も疑うことなく、それを求めていた。しかし彼はそうではないという。
「私たちの先人が歩んできた道であることに違いはないでしょう。確かにそれは参考にはなる。けれどもそれは正しいかどうかはわからない」
おそらく知識や、読んできた書物の量は私の方が多い。
だが
「だから、正しさを見つけるのではなく、歩むべき道の道しるべを探す…そんな気持ちで私は書物に向かうようにしている」
それを読み解く視点は違い、近藤先生の方が遥かに勇敢だ。
いつだって、憧れる。焦がれる…そんな人だ。
この人の言葉はいつだって心にすとんと落ちて、何の反論もなく、受け入れてしまうのだ。
「…そうですね」
私は穏やかに頷いた。
この人には敵わない。ずっと、この先、何度も何度も同じことを想うのだろう。
そして私はその度に、この人と出会えた喜びを噛みしめるのだろう。


「山南さんの具合はどうなんですか?」
総司は見舞いに向かった近藤と土方に訊ねるが、二人とも顔色があまり良くない。
倒れた山南が屯所に運ばれてきたのはつい先ほどのことだ。伊東らとともに食事に出たところで具合が悪くなったらしく、内海と鈴木が抱えて戻ってきた。医者には既に診せたようで、しばらくは休ませるようにとのことだった。
「まだ意識が戻らない。何だか深い眠りについてしまったかのようで、心配だ…」
肩を落とし声を低くした近藤が、身体が重いと言わんばかりに腰を下ろした。そしてその隣に土方が座る。
「馬鹿を言うな。そんなことあるわけねえだろう」
「しかしなあ…歳…あんなに顔色の悪い山南さんを見たのは初めてだ」
近藤はかなりショックを受けた様で、深いため息をついて頭を抱えてしまう。その様子を見た土方は「しっかりしろ」と近藤の肩を叩いた。
「こういう時だからこそ、弱音を吐くな。医者には毎日通わせるんだ、そのうちよくなる」
「…ああ、わかっているよ…」
言葉とは裏腹に近藤はまたため息をつく。すると土方が総司と目を合わせた。
「取りあえず近藤先生は休め。西本願寺との折衝は明日だ。疲れた体で相手ができるほど、あちらは馬鹿じゃねえんだ」
「…わかった」
そして土方はさっさと部屋を出て行く。先ほど視線が合ったのは「お前も出ろ」という合図だと総司は解釈して、同じように部屋を出た。
土方は腕を組んで、足早に歩く。総司は駆け足で近づいた。
「土方さん、どちらに?」
「別宅だ。お前は来るなよ」
当初、別宅は総司と過ごすための場所だと言っていたが、最近は土方が一人で考え事をするための場所になっていた。もちろんそのこと自体に異論はない総司だが、
「…身請けのことはどうするのですか?」
と訊ねた。
鈴木が大坂の若旦那と偽り、明里を身請けする。それがどういう意図かはわからないが、総司はそれが鈴木だけではなく伊東による画策があるのではないか…そして山南がここまで精神を疲弊させている一因なのではないか…そう考えずにはいられなかったのだ。
そしてそんなことはもちろん土方もわかっている。
「すぐに監察に確認させる。さっきも言っただろう、これは俺の推測にすぎない。動くわけにはいかない」
「…」
「それに俺の言葉はもう山南さんには届かない」
総司はその言葉に驚いた。
それは強気で傲慢で彼らしくない、弱音に聞こえたからだ。
(土方さんだって…傷ついていないわけがない…)
これまで共に歩んできた仲間からの、決別の宣言。誰よりも新撰組を思い、誰よりも周囲のことを思う彼が出した結論。…それが自分のせいだと責めるのは当然なのだ。
(ただこの人は顔に出さないと言うだけで…)
感じていないわけではないのだ。




284


八木邸の離れの障子を、内海は周囲を窺いつつ閉めた。山南を運び込んだ時は騒ぎ立った屯所は既に元通りの様子を取り戻しつつある。
「…少し追い詰め過ぎではないですか?」
内海は躊躇いつつも進言し、伊東の前に座った。しかし当の本人は悠々と茶を飲んでいる。
「そんなことはない。計画通りだよ」
伊東は内海の言葉を意に介することはない。部屋には伊東、内海が向かい合って座り、その奥に鈴木が控えている。
「こんなことで山南総長が手中に収まるとでも?」
「そこまでは期待していない。が、しかし、確実に亀裂が生れていることは確かだ。やがて山南総長は我々に下り、傀儡となることだろう」
ふふっと鼻を鳴らして笑う伊東。表向きは飾り立てた言葉でその本性を隠しているが、内海の前ではこうして本音を吐露することが多い。それは信頼の証だと内海は理解しているものの、その言葉でさえも実は偽りなのではないかと疑ってしまう。そんな不気味さを感じざるを得ない。
内海は鈴木が入れた茶を手に取り、口に含んだ。
「…あなたの口からはつらつらと嘘が出てきますね」
茶屋に山南を呼び出した一件。確かに内海が会津藩と交渉をしたのは事実だが、しかし会津は全面的に移転に賛同していた。むしろ早く移転するようにと急かしたほどだ。誰一人として、移転に参加する者はいなかった…内海は確かにそう報告したはずだ。しかし伊東はそのシナリオを書き換えた。会津藩に移転に反対する者がいる…そしてその誘いにまんまと山南は心揺さぶられた。
内海の指摘に、伊東はさも面白いものを見たかのように微笑んでみせる。整った顔立ちが綻ぶと、誰もが心を油断させてしまうものだが、内海は違った。むしろこういう時だからこそ、伊東という人間が思うことを正しく見極めなければならない。
「西本願寺移転は免れない。そんなことは、山南総長も分かっているはずだよ。しかしそれでも彼には納得してはならないという意地がある。私はそれを利用する。彼が意地を張り続ける限り、彼とそして彼の周りにいる人間との距離は遠のくだろう。だから私は、彼が意地を張り続けてくれるために、色々な策を立てた。…ただそれだけだ」
「意地の悪いことをなさる」
内海がはっきりと感想を述べる。結論は同じだと言うのに、これではゆっくりと息の根を止める狩人のようだ。
すると傍に控える鈴木がギロリと内海を睨み付けた。内海がこうして進言するたびに実弟である彼は厳しく内海を非難する様な瞳を向けるのだ。
しかし伊東はすべてを察して、尚も微笑んで続けた。
「…船頭多くして船山に上るというだろう。船頭は多くは要らない」
言い切ると、伊東は一気に茶を飲み干す。そして
「少し喉が渇いた。もう一杯入れてきてくれ」
そう鈴木に投げかけた。そしてついでに「お前は?」と内海に訊ねてきたので、首を横に振った。手元の湯呑にはまだ茶が残っている。
鈴木は盆を持って部屋を出て行く。その足音が遠ざかっていくと、伊東はふっと息を吐いた。
「すまない。いくらお前でも良い気分ではないだろう」
それはこれまでの策略のことか、それとも鈴木の視線のことか…しかしどちらにしても内海は「いいえ」と答えた。
「あなたのなさることを翻したいと思っているわけではありません。お考えがあってのことだと理解しております」
「…お前のそういう理解の早いところが気に入っているよ」
「理解していても、納得をしているかは別ですが」
内海の言い草に、伊東は「ん?」と首を傾げた。内海は嘆息した。
「私にまで嘘を付く必要はありません。ただ、あのような真似はあまりにもらしくないと思っています」
「…内海、話が見えないのだが」
「山南総長の馴染みの女のことですよ」
伊東は「女?」と訝しげに眉を潜めた。それまで機嫌よく寛いでいた身体を起こし、
「何のことだ?」
と内海を問い詰める。その様子に驚いた内海だが、聡い彼は「ああ…なるほど」と理解した。どうやら自分の勘違いだったようだ。
「てっきりあなたの指示かと思っていましたが、違いましたか。…鈴木君は身を偽り、山南総長の馴染みの女に手を出しています」
「なんだと?!」
「身請けを持ちかけているようです」
伊東は瞬時に顔色を変えた。みるみるその顔が赤くなっていく。
「何を考えているんだ、あいつは…っ!」
叫びだしそうなほどの激昂を抑えつつ、伊東は唇を噛む。忌々しく鈴木が出て行った方を見たが、もちろんそこに彼はいない。
内海はその様子を見ながら(これは偽りはないらしい)と冷静に判断した。
「おそらくはあなたの『総長降ろし』に一役買ったつもりなのでしょう。山南総長の憔悴振りを見る限りではそれも効果があったようですし」
「しかしそれはあまりにも愚策だ!土方君に気づかれでもしたら…!」
「おそらくはもうお気づきでしょう」
内海の言葉に、さらに伊東は苛立ち、そして親指の爪を噛んだ。
これが昔から苛立った時の癖だと内海は知っている。
「落ち着いてください。勘付かれた以上は、あなたが知らぬふりをすればよいことです。『鈴木君が勝手に山南総長の馴染みの女に横恋慕した。しかし身分を明かすわけにはいかなかったために偽った』…あなたがそういえばいいことです」
「あ…ああ…そうだな…」
伊東は爪を噛むのをやめた。激昂した思考が冷静になっていくように、顔色も元のそれに戻っていく。しかしまだ苛立ちは抑えきれないようで
「相変わらず…不出来な…」
とぶつぶつと呟いた。内海はそれには何も答えなかったが
(あなたがそのように苛立つのは実弟のことだけですが)
そう心の中で思った。


総司は別宅に出掛けて行った土方を見送ると、八木邸に引き返した。色々なことが重なり、心身共に疲れていたからだ。幸いにも巡察は明日の昼。ゆっくり考える時間はありそうだ…と、そんな風に思っていると、盆を持った鈴木に出くわした。
「…っ」
鈴木は相変わらずの無愛想な表情を浮かべ、目は総司を見下すようだった。いつもなら気にせず通り過ぎることができただろうが、今日はそうもいかなかった。
総司は隣を通り過ぎる鈴木の腕を捕まえた。
「ちょっと良いですか?」
「…何でしょうか」
握りしめた腕に力が入る。もちろん鈴木はそんなことには気が付いていただろうが、何も言わずに総司の次の言葉を待った。
「何を企んでいるんですか…?」
「お話が見えませんが」
「白々しいことを言いますね。じゃあ、単刀直入に伺います」
『事を急くなよ』
一瞬土方の忠告が頭をよぎったが、総司には我慢がならなかった。山南を苦しめる彼が、こんなにも無表情に無関心に素知らぬ顔をしていることが、許せなかった。
「明里さんを身請けしようとしているのはあなたですよね」
「…」
「何故、そのようなことを?山南さんを何故苦しめようとするのですか?」
気づかれてしまった、という動揺は彼にはない。総司の言葉を淡々と受け入れて、それで言ってまるで達観するかのように、無表情を貫いていた。その表情がますます総司を苛立たせた。
「答えてください…まさか明里さんを気に入って身請けしたいだとか、そんな見え透いた嘘をいうつもりはないですよね…?それとも…伊東参謀の指示ですか?」
伊東参謀…その言葉を出した途端、鈴木の表情に色が宿る。総司が掴んでいた腕を無理矢理に振りほどいて、
「兄上は関係ない!」
と叫んだ。眼の色を変えて、まるで野性に目覚めたかのように。しかしそれで怯む総司ではない。
「だったら!何を考えているのですかっ!」
怒鳴り返すと、鈴木はぐっと唇を噛む。そして目を逸らし、わなわなと身体を震わせた。
冬の冷たい空気に、二人の熱い息が白く溶けていく。そしてその白い息に包まれる中、
「あなたにはわからないだろう」
と鈴木は呟いた。
「何…」
「自分の思うように愛し、愛されるあなたにはわかるはずもない…!」
全身に怒りを漲らせ震える鈴木は、まるで何かを振り切るようにして吐き捨てて、そして総司の目の前から去っていく。
一体彼が何を言おうとしたのか。何が言いたかったのか。
「待て…」
問い詰めるため手を伸ばそうとした総司だが、そうすることはできなかった。自分が鈴木にそうしたように、自分の腕が誰かにつかまえられていたからだ。
「斉藤さん…っ」
背中には斉藤の姿があった。いつの間にそこにいたのか、総司にはわからなかったが、すべてを聞いていたような物言いで
「ひとまず部屋に戻れ」
と総司の腕を引いた。
「でも私は…!」
「いいから。ここだと伊東参謀の離れから聞こえてしまう」
そう言われてしまうと、総司には一言もなく、渋々斉藤に従うことにした。部屋に戻り、火を起こしてあった火鉢の前に座る。
「どうして止めるんですか…」
鈴木に対する苛立ちが止まらず、総司は斉藤に怒りをぶつけた。すると斉藤は相変わらずの無表情で…しかし鈴木のそれとは違う表情で答えた。
「私闘になる」
「……」
淡々と言われたその一言に、しかし納得せざるを得なかった。あのまま怒りをぶつけ合っていたら、斉藤の言うとおり必ず鈴木と斬りあいにあっていたことは間違いないのだ。
そこまで思い至り、総司はようやく「ふう」と息を吐いて、苛立ちを抑えることができた。
「ありがとうございました」
「…別に礼には及ばない」
素っ気なく返答した斉藤は、まるで何事もなかったかのように火鉢に手を翳した。総司も同じようにしながら、目を閉じて彼の叫んだ言葉を反芻した。
(自分の思うように…か…)
彼はそう断言したけれど、総司自身に自覚はない。むしろこれまで歩んできた日々は儘ならないと思うことが多かったはずだ。
(でも…それでも)
きっと自分は恵まれているのだろう。尊敬できる師匠が居て、いつも暖かい部下たちに、素っ気ないけれど冷静な同室の友人、そして同じ思いを返してくれる最愛の人…そんな人々に囲まれている今が、彼にとっては嫌悪するほどに生暖かく見えてしまうのかもしれない。
彼は一体、何を望んでいるのだろう。
何が欲しくて、駄々をこねているのだろう。
あの時、わなわなと身体を震わせた彼は、苛立っているようにも見えたが、同時に寂しさを叫んでいるようにも見えたのだ。



285


いままで、淡い夢を見続けていたように思う。
走馬灯のように自分の生きてきた道を、時間を、風景を振り返るとき、いつだって仲間の顔があった。本気で向き合い本気で笑いあい本気で戦いここまでやってきた仲間たちの顔はいつだって生き生きとして見えた。
私にとってそれは誇りだった。
この右も左もわからない、いつ死ぬのか生きるような世情の中で、ここまで上り詰めてきた。
その誇りの為に、生きよう。
その誇りの為に、死のう。
決して傀儡などに成り下がってはならない。



鳥のさえずりが冷たい空気に凛と響く音が聞こえて、山南は重い瞼をゆっくりと開いた。
まずはじめに飛び込んできた天井の木目。しかしそれは夢で見た試衛館のそれとは違う。見慣れたいつもの光景だ。そしてひやりとした空気がすぐに頭を冴えさせた。
(ああ…)
心地よい夢から覚めてしまったようだ、と山南は残念に思った。江戸にいた頃に思いを馳せるのはいつだって山南を心地よくさせてくれるのだ。
そしてふっと気が付くと、自分の傍に腕を組んだままうとうとと眠る男の姿があった。
「近藤…局長…」
山南は驚いて目を見張り、上半身を起こす。身体は酷く重かったが、気温も下がった真冬にこんなところで眠りこけてしまえば、風邪をひくだろうと思ったのだ。するとその山南の物音で近藤が目を覚ました。
「…ああ…山南さん、起きたか」
「局長、お風邪を召されます」
「構わんよ」
近藤は宙に手を伸ばし、「うーん」と低い声を上げて背伸びをした。そして肩を凝らせたのか、軽く身体を動かし始めた。
「いつからいらしたのです?」
「そうだなあ…昨晩に様子を見に来て、そのまま寝てしまったようだ」
昔から寝覚めの良い近藤は笑ったけれど、一晩中ここにいたのなら相当身体は冷えてしまっているはずだ。しかし近藤は平気そうな顔で山南に微笑みかける。
「昨日のことは覚えているか?」
「…伊東参謀らと共にいたときに、倒れたのでしょうか?」
西本願寺への移転を阻止するために、監察に伊東派を取り込むのか…その選択を迫られ、精神的なものなのか急に息苦しくなり意識を失ってしまったのではないだろうか。最後の記憶を辿りつつ近藤に訊ねると、彼は安堵して頷いた。
「頭は大丈夫のようだな」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」
山南は頭を丁寧に下げた。すると彼は恐縮して「頭を上げてくれ」…そう言うだろうと思ったのだが、近藤はしばらく沈黙した。
「局長…?」
先ほどまでの満面の笑顔が一転して、寂しげな表情に変わる。
「…ずっと考えていたんだ。山南さんを悩ますものは一体何なのだろうか。移転のことだとは思うのだが、私に分かるのはその片鱗だけだ。歳はおそらくわかっているんだろうが…しかし私には見当がつかなくてね」
「近藤局長…」
表情だけでなく、声までもが寂しげに響く。
彼は何も知らないのだ。腕のことも、明里のことも、君菊のことも…すべて蚊帳の外と言っても過言ではない。しかしそれは土方が敢えてそうしているのだろうと思う。そして近藤の性格を考えれば、それが正しいのだろうとも。
しかし当の近藤はどう思っているのだろう。自分がそうした状況に置かれていることを、甘んじて受け入れるような人ではない。いつだって仲間のことを按じている。食客たちを家族同然に思っている。それはもちろん、山南のことも。
「移転のことで悩ませてしまっているのはわかっている。確かに山南さんの言う通りなんだ。信仰厚い都の人々の心を傷つけて、何が新撰組だ、京都守護だ…」
いつもの彼らしくない表情に、山南は何も言うことはできなかった。
「山南さん。私はいつも綺麗な道を歩かせてもらってここまで来たと思う。あなたのように思い悩むこともなく、歳のように手を汚すこともなく…歳もそうだが、あなたにもおそらくは多大な心労をかけてきたはずだ」
「…それは…」
そんなことはありません、と口にするのは簡単だ。しかし近藤はそんな返答を求めてはいないのだろうし、それは明らかな嘘になる。この人の前で嘘を付くことはできない。
山南は正直な気持ちを告げた。
「私は…自分の役目を果たし終えたと思います」
「まさか、そんなはずはない!」
声を上げる近藤に、山南はかぶりを振った。
「いえ、私は確かに浪士組の話を試衛館にもたらし、皆を誘い、そしてここまでやってきました。けれど…最近は寝込むことも多く、仕事も土方君に任せきりです。…それに、伊東参謀もいらっしゃる今、私は総長としてここに居座るのは勿体ないと感じます。それが私の嘘偽りない気持ちです」
自分を卑下するつもりはない。同情されたいわけでもない。あくまで客観的に己を見つめ、そのうえで感じたことを述べただけだ。
山南の言葉を近藤は噛みしめるように聞いて、沈黙した。山南にはその沈黙がとても長いように感じた。
すると近藤はふっと力を抜いて、山南の顔を見た。
「山南さん、新撰組を抜けたいのではないか?」
「…!」
近藤はとても穏やかな笑みで問いかけてきた。山南は酷く驚いたが、近藤は冗談を口にした素振りではない。彼は山南の本音を感じ取ったのだろうが、だが山南自身がそれ漏らしたのは土方だけだ。
「土方君が何か…?」
山南は彼が何か入れ知恵をしてここに近藤局長を遣ったのではないか…そう疑ったが、近藤は少し呆けた表情で「歳が何だ?」と何の心当たりもないようだ。
(私は…どこまで…)
愚かな考えを持ってしまったのだろう。近藤は一晩中自分の傍で看病をしてくれていたというのに…そんな考えを持った自分に失望する。だが、何も知らない近藤は話を続けた。
「何となく思っただけだ。身体のこともあるが、山南さんはきっと江戸に帰りたいのだろう…そしてそれが山南さんの為なのだろうと思った」
「…しかしそれは…」
結局は、できない話だ。想像するだけで意味もないこと。
しかし近藤は尚も穏やかに告げた。
「歳に相談しようと思うんだ」
「…正気ですか…?!」
山南の中で自分のことを思いやってくれる感謝よりも、驚きの方が勝った。それは言うまでもなく、新撰組の中での絶対である局中法度を破るということになる。これまでも局中法度によって何人もの隊士が命を捨ててきたのだ。
すると近藤はあっけらかんと笑い
「何事にも例外はある。山南さんの病は周知の事実であるし、隊を脱するとまで行かなくても江戸で静養すると言う口実なら皆を納得できるだろう。何だったら藤堂君のように、江戸での隊士募集に一役買ってくれればいいじゃないか」
「近藤局長…しかし…」
そんな風にできるなら、とっくにそうしている。近藤が楽観的に笑うだけだが、山南には現実味のある話とは思えなくて少しだけ苛立った。口先だけで慰めるならだれでもできる…だからだろう。
「…私は、江戸で任務を放棄するかもしれませんよ」
意地の悪いことを口にした。実際に、江戸に行ってしまえば箍が外れておそらく自分は逃げ出すだろう、その想像は難くないのだ。
そう言われれば、さすがに近藤も困るだろう…そう思ったのだが
「それでもいい」
と近藤は笑った。試衛館にいた頃と変わらない微笑みで、穏やかさで、寛容さで、懐の広さで…微笑んだ。
その反応に山南は言葉を失った。
「歳には怒られてしまうかもしれないが、私はそれでもいいと思う」
「近藤局長…」
「私たちは君が切り開いてくれた道に沿って、ここまでやってきた。もうそれだけでも十分だ。隊士も…食客たちも、君を責めたりはしない」
凍りきって、塊になっていた心が、近藤の言葉で一つずつ、少しずつ、解かれて、溶けて、ゆっくりと瓦解していく。
きっと同じ言葉を他の人間が口にしたところで、何にも響くことはなかっただろう。
彼だから、近藤勇という彼だからこそ。
何もかもを、温かく融かしてしまうのだ。
(もういい…)
諦めにも似た、しかしそれでいながら穏やかで優しい気持ちになりながら、山南は布団から出て近藤の前に正座をした。
「山南さん…?」
近藤は驚いていたようだが、構わずに丁寧に両手を付き、ゆっくりと頭を下げた。
「西本願寺移転の件、了解いたしました」
その言葉を口にするのに、もう躊躇いはなかった。
(十分なのは…近藤局長のお気持ちだ)
山南を逃がすということは、すなわち新撰組の存続にもかかわる。しかしそれを賭けてでも山南を解き放とうとしてくれたその気持ちさえあれば、もう十分だ。
「本当か…?」
「はい。今までご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
思った以上にすらすらと出てきた言葉。むしろ何故今までこの言葉が言えなかったのだろうかと不思議になるほどだ。
すると近藤が山南の両肩に手を添えた。
「…ありがとう…」
山南はその言葉を、心に刻み付けた。


雪の多い冬だった。真っ白な雪が視界を淡く染め、しんしんと積もる世界はまるで幻想的な場所に来たかのように静かだった。
元治二年二月。
山南はその姿を眩ませた。
真っ白な雪に、その姿を溶かすように。



286


てのひらで、うけては透明になって消える、牡丹雪。


元治二年二月半ば。
雪が降り続き、朝陽を隠す早朝、八木邸の自室に眠る総司のもとへ山野が訪れた。
「どうしたんですか?」
寝覚めは悪くない総司だが、起きるにはかなり早い時間だ。まだ半分は眠ったままの頭で眼を擦って、やってきた山野と向き合ったが、彼は総司とは正反対に青白い顔で瞳孔を開き、わなわなと身体を震わせていた。
「山野君…?」
ただならぬ様子に、一緒に目が覚めたらしい同室の斉藤も怪訝な表情を浮かべた。しかし山野は黙ったままだ。唇を強く噛み、その両手でぎゅっと折りたたまれた文を握りしめていた。
「…それは?」
斉藤が促すと、山野はようやく強く噛んでいた唇から音を零した。
「ぼ…僕のせいです…」
「山野君?何のことですか」
彼は一番隊を離れ、山南の世話役をしている。総司に謝罪することは何もないはずだ。
すると斉藤は山野が握りしめたままの文に手を伸ばし、やや強引にそれを取り上げた。投げるように荒っぽくそれを広げ、斉藤はすぐに表情を変えた。そして声を潜めて山野を問い詰めた。
「これを他の者には?」
「み、見せていません。僕が目を離したばっかりに…!でも、どうしたら良いのかわからなくて…沖田先生にお知らせしなければと、まっすぐここに…!」
焦り、早口で答える山野。彼らしくない動揺だ。
状況を掴めない総司に、斉藤は文を押し付ける。総司はその文面を目にして、あっと声を上げそうになった。
(山南さん…!)
そこには、『江戸に帰る』とただそれだけが書かれていた。何かの間違いだ、と思ったけれどその端には山南の署名もあって、何よりもそれが山南の手だということは総司自身がよく分かっていた。
(どうして…!)
そう叫びそうになったが総司は文を握りしめて、込みあがってくる感情を堪えた。
山南が西本願寺移転を了承したと聞いたのは、つい数日前だ。近藤が説得をしたのだと聞いて、総司は近藤の人望とそして改めて試衛館食客としての山南の懐の広さを実感した。これでようやく移転に向けて何の壁もなく進んで行ける…久々の安堵と味わった、その矢先だ。
(山南さん…!)
局を脱するを許さず。
そんなことは言うまでもなく、誰もが知っていることだ。
山南だって知っているはずだ。
「山野、山南総長がいなくなったのはいつ頃だ」
混乱する総司の隣で、斉藤は山野に訊ねる。彼らしくなく、声色には少し緊張が走っていた。
訊ねられた山野は今にも泣きだしそうな表情で、首を横に振った。
「わ、わかりません…。ただ、二刻ほど前には厠に立たれたはずです」
「二刻か…」
「…まだ遠くには行っていませんね…」
昨夜から降り続く雪のせいで、そう早くに抜け出すことは出来ないはずだ。総司は早速、刀を手にした。
「どこに行く」
「探しに行きます。大丈夫、きっと何かの間違いですよ。この辺りを散歩されているだけかもしれません」
そうだ。
そのはずだ。
だから脱走なんて大ごとにする必要はない。
山野を安心させようと、そして自分を落ち着かれようと微笑んだ総司だが、無情にも斉藤は
「無駄だ」
と切り捨てた。
「書き置きをしていくということが紛れもなく脱走を意味する。わからないあんたじゃないだろう」
「…」
文に『江戸に帰る』と書いている以上、斉藤の言う通りだろう。でもそれを間違いであってほしいと願うのは、誰しも同じだ。
(わからないんじゃない。…分かりたくないんだ)
どうやら自分は現実に向き合うのを避けているようだ。そんな浅はかさを斉藤に指摘され、総司は力なく腰を下ろした。
「ひとまず、このことは土方副長に伝える。山野は誰にも口外せず部屋に戻れ。いいな」
「はい…」
斉藤は山野を部屋から下がらせる。自分のせいだと責める山野は、その表情を落としたままだったが、総司にも彼を慰める余裕はなかった。
震えが止まらない。握りしめすぎた指先は、皮膚に食い込んで感覚を無くしていく。
するとその手に重なる温かいものがあった。
「斉藤さん…」
「土方さんを信じろ。仲間を見捨てたりするような人じゃないだろう」
強く握った拳を解きほぐすように、斉藤は手のひらを重ねる。冷たくなった指先が人の体温に触れて、ようやくその緊張を解いた。
(斉藤さんらしくないや…)
それは、いつもは無表情な彼がこうしてわざわざ慰めるほど自分が動揺していたということだろう。
「…はい」
総司は頷いた。

それからすぐに二人は土方の元へ報告に向かった。寝起きの悪い土方だが、この知らせばかりは飛び起きるように眼を開けた。そして文を見て「くそ」と漏らす。
「山南さんには監察をつけていた。屯所移転を納得したと聞いてからは外させたのが仇になったな…」
「西本願寺への移転を、やはり納得されていなかったということでしょうか…?」
あれは優しい嘘だったのか。そう思うと総司は胸が痛んだが、しかし土方は
「んなことはどうでもいい。理由は問い詰めればいい話だ」
と苛々して答えた。すると斉藤が「追いますか?」と尋ねる。問い詰めるということは、追うということ。斉藤は目敏く尋ねたが、しかしこちらの質問には沈黙して苦い顔をした。
そして悔しそうに
「近藤さん次第だ」
と答える。本当は知らせたくないのだろうが、そう言うわけにもいかない。
そしてまだ朝日も昇らない頃、近藤を起こし事情を説明した。近藤は事情を飲み込むと、だんだんとその顔色を変えた。そして身体の力が抜けてしまったように
「俺のせいだ」
と肩を落として呟いた。そして頭を抱えた。
「俺は山南さんが納得してくれたんだと…そう思って話を進めてしまった。説得なんて出来ていなかったのに、それが山南さんを追い詰めてしまった…!」
「近藤先生…」
腕の怪我のこと、そして明里のこと…何も知らされていない近藤は、ただただ自分のせいだと責める。総司はかける言葉も見つからず、土方を見るが、彼は相変わらず眉間に皺を寄せて何かを考え込むように、視線を落としたままだ。
暗澹たる雰囲気が流れる中、斉藤が口火を切った。
「…事が起きてしまった以上、過去を悔やんでも仕方ありません」
相変わらずの無感情だが、一番客観的に物事を見る斉藤だからこそのコメントだ。そして斉藤は視線を土方に向けた。
「俺に追っ手を命じてください」
「斉藤さん…!」
それは捕まえるということだ。総司は止めようとしたが
「待ってくれ、斉藤君!」
と近藤の声量の方が勝った。その声は屯所中に響いたが、近藤には周囲を気にする余裕はない。そして苦虫をかみつぶした顔で打ち明ける。
「…俺は…山南さんに江戸に戻れるように歳に話をつけると、持ちかけたんだ」
「かっちゃん?!」
土方は驚きのあまり叫ぶ。しかし総司も、そして斉藤も驚いた。
それは局長自ら脱走を認めるということだ。今まで誰一人として例外を認めなかった法度を破るということ。隊の長である近藤がそのようなことを口にして断じてならないはずだ。
だが、近藤は俯いた。
「ただその時、山南さんはそれには答えなかった…その表情が、俺にはその必要ないと言っているようにも見えたんだ。…だがしかし、文に『江戸に帰る』と書いているということは、その時の話を…!」
(真に受けた、もしくはそれを口実にした…?)
「それはない」
近藤の話に総司が感じた違和感と同じものを土方も感じたようだ。土方は近藤の話をさえぎり、断言し、続けた。
「仮にその通りだとしたら、山南さんの脱走がかっちゃんのせいということになる。あの頭のいい山南さんがそこまで考えが及ばないということはない」
そしてそれは新撰組の崩壊になるだろう。もし山南が新撰組を憎み、壊したかったのだとしたら脱走と言う方法を取るはずがないのだ。
総司は土方と考えが同じであったことに安堵を感じつつ、近藤の手を握った。指先が悲しさと、悔しさと、落胆と、後悔で震えていた。
「…そうですよ、近藤先生。山南さんは優しい人です。自分の所業を人のせいにしてなすりつけるような、そんな卑怯な人ではありません」
「…そうだ…そうだな」
やがてその震えは収まる。
誰かのせいだと責めるのも、そして自分のせいだと口にするのも簡単だ。けれど今起きていることだけで山南を断定し、肯定し、否定するのはこれまでともに生活してきた時間を無くしてしまうのと同じだ。
取り乱した近藤がようやく落ち着き始めたところで、土方が腕を組み直した。
「近藤局長、決断してくれ。山南さんを追うか…見逃すのか」
土方は先程まで「かっちゃん」と呼んでいた口調を、鬼副長のそれに戻す。それがあくまで私情を伏せた問いかけだからだろう。
しかし近藤は答えを口にしない。迷っているのか、視線を落としていた。すると土方が続けた。
「俺は…この文を残したということは、追ってくれって言っているようなものだと思う。そもそも文を置くなんてわざわざ自分が脱走したことを証明するようなものだ」
普通の脱走なら出来るだけ時間を稼ぎ、自分がいなくなったことを露見しないように徹底するだろう。それを何故、置手紙でわざわざ知らせるような真似をしたのか。
でも、それでも。
「土方さんは…山南さんをつかまえてどうするんですか?」
「…」
「切腹ですか?」
総司の問いかけに、土方は沈黙しなにも答えなかった。そしてその視線を近藤へと向けた。
「近藤局長。新撰組の局長として決断してくれ」
追うのか。
見逃すのか。
その場にいた三人の視線が近藤に集まる。
総司には近藤が答えを出すまではとても長い時間のように感じた。
「…追う。山南さんが追ってくれと言うのなら、まだ俺たちに何かを伝えたいということなのだろう。だったら話を聞く。それから先は…その時だ」
その答えに、総司は納得と落胆をした。それは山南の意思をくみ取るが、しかしそれでいて山南の命を保障するということではない。新撰組の局長として仕方ない判断だと分かっていても、それでも総司は私情を、混ぜずに考えることはできなかったのだ。
でもその一方で、近藤が言うように山南は何かを伝えたいのではないか。たとえ脱走の罪で問い詰められたとしても、話したいことがあるのではないか…そんな気がしてならない。
(山南さん…)
あなたが何を考えているのか。
(あなたの口から…聞きたい)
総司の隣にいた斉藤は、土方に身体を向けて畏まって頭を下げた。そして
「追っ手をお任せください、土方副長」
ともう一度進言した。
彼は周囲から試衛館食客の一人として認知はされているものの、実は長く試衛館にいたわけではなく、山南とは身内のような仲だが、実は一番遠い存在でもある。
何よりも話を聞いて若干の驚きはあったものの、冷静な態度を崩さず取り乱すこともない。客観的に見ても斉藤が相応しい…土方も異論ない表情をして頷きかけたが
「待ってください」
と総司が口を開いた。
「私に行かせてください」
「総司!」
まるで子供を叱るように、近藤が声を上げる。そして土方も驚き、斉藤は
「駄目だ。あんたは感情的になっているだけだ」
とすぐに反論をした。総司はしかし生半可な気持ちで手を挙げたわけではない。総司は土方の目を見据えた。
「山南さんは『江戸に帰る』と書き置きをしています。それは場所としての『江戸』という意味もあるかと思いますが、きっと試衛館にいた頃と言う意味の『江戸』だと思うんです」
「…試衛館…」
野心に燃え、夢を追いかけ、希望しか感じなかったあの頃。山南は何度もその光景を思い出しては懐かしんでいたようだ。だから、山南はそこに帰ると言いたいのではないか。
何の証拠もない。けれど何故か確信はあった。
「だから、一番付き合いの長い私が行きます。行って、見つけて…必ず連れ戻します」
「総司…」
土方にしては珍しく迷っているようだった。しかし、近藤が横から
「いいだろう」
と同意した。
「かっちゃん…」
「近藤局長!」
まだ決めきらない土方と、拒む斉藤は近藤を見る。しかし近藤は総司に大きくうなずいた。
「お前に任せるよ。山南さんはお前に来てほしいんじゃないかと…俺も思う」
近藤は穏やかな表情で「頼む」と告げて、総司の肩に手を置いた。その指先はもう震えていなかった。




287


降り積もった雪が足取りを重くし、行き先を阻む。冷たく足に纏わりつくそれが、まるで心の中にある躊躇いや後悔や罪悪感のように感じ、山南はそれを振り払いたくて、必死に前へ前へと足を動かした。
夜も更けた時間のせいもあるだろうが、雪のおかげで誰一人として通り過ぎる者はいない。脱走の身としては好都合ではあるが、物音一つしない屋外というのは誰にも見送られない悲しさもまた少しだけ生まれる。
(いや…それは勝手だな)
山南はふっと白い息を吐いて、頭に被った笠を深く被り直した。
不思議と、自分から逃げ出したというのに脳裏を過るのは残してきた仲間のことばかりだった。試衛館を訪れて、居つくうちにまるで導かれるように増えていった仲間達。年頃が同じせいか、すぐに意気投合した。黒船の来航により世情が不安になった頃、この仲間と一緒なら大丈夫だと信じ、上洛を果たした。そんな、今思うとかけがえのない日々の輝きが、脳裏を巡る。
どうしてあの頃のままでいられなかったのだろう。
ふっと湧き上がった疑問を、山南はかぶりを振って掻き消した。
皆が変わってしまったのではない。
自分が、変わることができなかったのだ。
しかし、そのことを恥じているわけではない。
西へと向かう途中、唯一山南の足を止まらせる場所があった。雪が降るなかでも暖かい明かりを灯し、少なからず客の出入りがある上七軒。雪の中に見つけた仄かな光が、山南を慰める。
(寄らずに行こうと思ったが…)
このまま姿を消してはあまりに不義理だろう。山南は躊躇いを感じつつも、行き慣れた店への道を歩んだ。しかしもう仕舞いの時刻だ。客は夢から醒め帰り支度をはじめたり、部屋を取る者もいるだろう。芸妓たちも長い夜を過ぎようやく眠りに解く時間だ。
(会えなければ、それも定めと思おう)
山南はそう思いつつ、店に顔を出す。するとタイミングよく馴染みの女将が現れた。久しぶりに顔を出した山南に、閉店前とはいえ女将は気前よく歓迎の挨拶をして
「どうぞ中にお入りやす」
と促した。しかしここは脱走した山南を匿う場所として一番候補に挙がる場所だ。長居をするわけにはいかない。
「いや…この後、急な用があるんだ。明里の顔を少し見ていければそれで十分だから」
やんわりと断ると、女将は残念そうな顔をした。
「明里はいまお座敷に…」
語尾まで待つまでもなく、呼ばれてまだ戻って来ていないということだろう。山南は落胆するとともに安堵した。
(これで…もう迷いはない)
彼女を残していくことに耐えきれず、理性を失って、彼女を道連れにすることはない。彼女の歩む幸福な人生の障害となることもない。そのことに安堵できた。
「…そうですか。では、…出直します」
もう会うことはないだろう。そう思いつつも、そう言うしかなくて一抹の寂しさを感じつつ口にする。
そして山南は手にしていた風呂敷を女将に手渡した。受け取った女将は
「これは…?」
と小ぶりだがずっしりと重いそれを不思議そうな表情で受け取る。しかし山南は多くは語らず
「明里に渡してください。…では」
と背中を向けてさっさと店を出た。
店を出ると、降りつづけていた雪が止んでいた。真っ暗な闇と足元の真っ白な雪。その間に挟まれた道を山南は歩き出した。



ようやく朝日が昇り辺りが明るく照らされた。日差しは幾分か温かく感じられ、昼になる頃には降り積もった雪を溶かしはじめるのだろう。
しかし、いまだ屯所は凍りついたままだ。
「まだ怒っているんですか?」
着替えを済ませた総司は、憮然と腕を組んで不機嫌そうにしている斉藤に笑いかけた。何があっても無表情の彼が表情を歪ませている。追手を名乗りでたことで、それだけ彼を怒らせてしまったのだろう。
「どういうつもりなんだ」
「どういうって…そりゃ、山南さんを見つけて、連れ戻して、それから…」
それから。
その先を考えて、しかし総司は思考を止めた。そして笑って誤魔化した。
「大丈夫ですよ。迷子になったりはしないし、それに池月はまだ私しか乗せてくれないんですから、そういう意味でも適役でしょう?」
茶化して続けるが、尚斉藤は不満げだ。
池月は会津から拝領した馬だ。すでに遠方に離れた山南を追うには馬に乗るのが良いだろうが、その池月は未だに総司以外を背中に乗せようとはしない。
しかし斉藤は「そういうことを言っているのではない」と切り捨てた。
「長年の仲間なら、感情的になって誤った判断をしかねない」
「それは見つけ出したとしても、見逃すとか…そういうことですか?随分信頼されていないんですね」
「……」
総司が返答すると斉藤は苦い顔をした。
(ちょっと意地悪なことを言っちゃったかな)
そう思いつつ、笑った。
「…わかっています。山南さんはもしかしたら死に物狂いで斬りかかってくるかもしれないですからね。その時に私がどんな判断をするか…斉藤さんはそういうことを心配してくれているんでしょう」
長年の情に流されてわざと斬られるのではないか。彼は口にはしないがそれを気にかけているのだろう。
図星を指された斉藤は
「…わかっているなら、素直に追っ手を降りろ」
と憮然と述べた。代わりに俺が行く、と言わんばかりだ。
斉藤の優しさは理解している。けれど、総司は
「じゃあ斉藤さんは山南さんを斬るつもりなんだ」
と尋ねた。すると彼は冷たい瞳のままで返す。
「必要あらばそうする」
その容赦ない返答に総司は苦笑した。
恐らく斉藤は山南が抵抗すれば斬るつもりなのだろう。そうして自分だけのせいにしてしまうのだ。試衛館食客たち、そして隊士ら全員から憎まれ恨まれたとしても、その方が隊の為だと冷静で冷酷な判断を下すのだろう。
(でも…山南さんが望んでいるのはそうじゃない)
総司は刀を帯び、
「そうはさせません」
と斉藤の目を見た。
「私はまだ何かの間違い…いや、一時の気の迷いだと信じます。山南さんは仲間ですから」
(そして、家族だから)
誰が何と言おうと、そうだと信じている。逃げ出した今でさえ。
すると斉藤はぐっと言葉を飲み込み、視線を逸らした。もう何も言うことはない、と言わんばかりだったが、しかし納得はしていないようだ。その斉藤の隣を通り、部屋を出ようとしたところで次なる客が訪れた。挨拶もなく障子を開けたのは土方だ。
土方は斉藤を一瞥し、
「…斉藤、席を外せ」
「…」
端的な命令に斉藤は、しばらく沈黙したものの頷いた。そして厳しい瞳で総司をちらりと見て、それでも部屋を去っていく。
「何ですか?すぐに出なきゃいけないんです」
と土方を急かした。時間が経てば経つほど山南は遠くに逃れてしまう。
すると土方は眉間に皺を一つ寄せた。
「…お前、馬鹿なこと考えていないだろうな」
「馬鹿なこと?」
「山南を逃がすとか、その為に自分が犠牲になるとか、そう言うことだ」
土方はごく真面目にそう言ったのだが、総司はそれを聞いた途端「ぷっ」と噴出してしまった。
「何だ」
「斉藤さんと同じことを言っていますよ。こんな時まで本当によく似ているんだからなあ…」
「…そうかよ」
土方はさらに不機嫌そうにした。そして総司の手を取り、引き寄せた。
「…土方さん?」
「斉藤が何を言ったのかは知らねえが…自分を犠牲にするとか、そんな馬鹿なことは考えるなよ。近藤さんや他の食客たちも、そんなことを望んでいるわけじゃねえんだ」
「…わかってますよ。もう、信用無いなあ…」
「信用しているから言っているんだ。お前は近藤さんを守るためなら何でもするだろう。何かあれば自分の身も顧みない…だからこそ気持ちだけですべてを投げ出しそうで、怖いんだ」
怖い。
その言葉が何よりも土方の心情を表しているように思った。彼が弱気なことを口にするのは、本当にそう思っているときだけだ。
そして土方はより一層強く、総司を抱きしめた。抱きしめられるのは珍しいことではない。けれどいま、目の前にいる土方はかつてないほど強く、息ができないくらいの力で総司を抱きしめている。回された腕に込められた力は、今までにないほど強く、まるで逃がさない為に羽交い絞めにするようだ。
それだけ土方は不安なのだろう。
厳しい顔をしたその裏側で傷を負っているのだろう。
そしてこれ以上無くさないように、捕まえていたくて、こうしているのだろう。
(…少しはわかってきたみたいだ)
一年前には土方の考えていることがわからなくて、まるで言葉が通じないひとになってしまったと思っていた。けれど、時を経てこんな関係になってからは、言葉にしなくても彼が言いたいことが何となくわかる。
そして彼が何を望んでいるのかも、少しだけわかる。
「…大丈夫ですよ」
総司は柔らかく、土方の背中に手を回した。子供をあやすように軽く何度も叩く。そして大丈夫、大丈夫と何度も繰り返した。すると安堵したのか次第に土方の力が抜けていく。そして小さく呟くように
「絶対に…帰って来い。これは命令だ」
と言った。いつもの鬼副長らしい声色だ。
総司は頷いた。
「はい」
そして自然と二人の距離が縮まった。言葉にしなくてもわかる。顎を上げ、唇を重ねる。お互いに緊張のせいか乾ききったそれが、お互いの体温と混じり、融けていく。
「…歳三さん」
「何だ…?」
「私は歳三さんが好きだから、大丈夫ですよ」
総司は屈託のない笑顔を土方に向けた。
いつもなら感じる恥ずかしさや羞恥心がいまはない。それくらいまっすぐに、この言葉を伝えたかった。
すると土方は虚をつかれたのか、刹那驚いた顔をした。そして
「そうだな」
と優しく返答した。


「沖田先生!」
総司が準備を済ませ、土方と共に厩に向かうと山野が池月に鞍をつけて待ち構えていた。屯所は朝番の隊士たちが起き始めたくらいなので、騒ぎになる前に屯所を出ることにする。
総司は池月にそっと触れた。
(まさかこんな時に初めて乗ることになるとは…)
「宜しく頼むね」
呟くと、池月は鼻を鳴らして答える。まるで「任せろ」と言っているように思えて、どこか頼もしい。
総司は山野の助けを借り、蔵に乗った。
見送りには近藤と斉藤もいた。
「総司、気を付けていくんだぞ」
顔を歪めたまま心配そうに言う近藤に、総司は努めて明るく笑い、
「わかりました」
と答えた。そして馬上からまだ不機嫌そうな顔をしている斉藤を見て苦笑し、そして土方を見た。
彼は何も言わなかった。けれど総司は頷いた。
「行ってきます!」
手綱を引き、池月を蹴る。
雪道を駆けて、冷たい空気を裂いた。




288


「何ですって…!」
山南脱走の知らせを聞いた伊東は驚きを隠せなかった。二人がここで手のひらを反して冗談だ、と言う方がまだ現実味があるが、しかし目の前にした近藤、土方にその様子はない。
「今朝…いや、夜のうちに屯所を抜け出したようです。置手紙もあり、ほぼ間違いありません。いま、沖田に追っ手に行かせていますが、果たして見つけられるかどうか」
近藤は痛々しい表情で告げる。しかし隣にいる土方は淡々と
「くれぐれも内密に願います。総長の脱走ともなれば混乱を招きますので。…まあ、しかし知れるのは時間の問題でしょうが」
長年の仲間に対する態度とは思えない、まるで鉄の仮面を被っているようだ。
それが本心なのか演技なのか、伊東には分からない。
「…かしこまりました。しかし追っ手を出し、連れ戻した際には…」
どうするつもりなのか。それは誰もが思う疑問だろう。
隊には絶対的に君臨する「局中法度」がある。伊東にはまだ実感がないが、かつての局長を葬り、そして何人もの隊士を殺してきた法だ。有象無象の隊士たちが規律に沿った巡察を行っているのも、この法がある為だ。
遵法するならば、山南は切腹だろう。
しかしこれに土方は答えなかった。替りに近藤が
「…ひとまずは山南総長の言い分を聞いてからにしましょう」
とわざとらしく話を切り上げる。伊東は「そうですね」と同意しておく。
「それよりも伊東参謀にはお伺いしたいことがあります」
「私に…ですか」
「ええ。山南総長が脱走する理由に心当たりがないかと」
ストレートな物言いに、近藤は「歳!」と叱りつけるように土方を睨んだが、彼は気にする様子もなく伊東の目を見たままだった。
鋭く怪しく黒く染まったその瞳は、何故だか目が逸らせない。
(…まったく、まるで鷹のような目だな…)
数里先まで見通せそうなその目は、いったい何を見つめているのだろうか。
しかしここで屈するわけにはいかない。伊東は微笑みを作って返した。
「…私自身には特にありませんが、ただ愚弟のことは少し耳に挟んでおります」
「鈴木君のことですか?」
この場にそぐわない登場人物に近藤は首を傾げた。しかし土方は「彼が何か?」と冷たく問い詰める。
(…彼に対して必要以上の偽りは、かえって足元を掬うことになるだろう)
「どうやら山南さんの馴染みに、横恋慕していたようなのです」
「な…なに?」
近藤は呆けた反応を見せたが、土方の表情に変わりはない。
(おそらく知っていたのだろうな…)
内海も知っていることだし、土方の配下には監察がいる。それを考えれば自然な流れだろう。
「私も最近聞き及んだことですが…どうやら愚弟は新撰組であるということを隠し、その馴染みを落籍そうとしていたようなのです。幹部は別宅を持てる規則ですから、愚弟の行動に問題は無いのでしょうが…いくらなんでも総長の馴染みに手を出すなど、と私は憂いたのですが」
「なるほど、山南さんはそのことで思いつめていたのかもしれないな…なあ、土方副長」
「…ああ、それも原因の一つ、かもな…」
近藤はあっさりとその話を受け入れたようだが、土方は言葉だけは納得のそぶりを見せたが、実際の表情は固いままだ。
しかし伊東も怯むことはない。それにこれは「嘘」ではないのだ。伊東は近藤の方に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「愚弟のせいで総長を脱走にまで追いつめたのだとしたら、お詫びの仕様もございません」
「いえ、伊東参謀、あなたのせいではないのだ。それに山南総長がそのような私事で脱走にまで踏み切るとは私には思えん。どうか鈴木君を責めないでやってください」
「…はい。お気遣い痛み入ります」
伊東は安堵の表情を見せた。
(まったく、単純な大将だ…)
そう思ったが、彼を馬鹿にするつもりはない。大将の器とはある程度楽観的に物事を見て、そして家臣を信じるということなのだから。
しかしこの呑気な大将には、あまりにも有能な補佐がいる。
「何にせよ、山南総長に話を聞けば分かることです」
土方はそう冷たく告げた。伊東は何も口にすることなく、ただ頷いた。

「まずいことになりましたね」
内海にしては珍しくその表情を変えた。離れに戻った伊東は早速内海にだけ事情を打ち明けた。口外は止められていたが、しかしその内屯所中に人がるだけであるし、だったら遅いか早いかの問題だけだ。それに内海のことは信頼しているので、話を聞いた時からそのつもりだったのだ。
「山南総長がもし捕えられ、事情を聴取されればこれまでのことを洗いざらい吐く可能性があります」
「…どうかな」
伊東は座を崩して、肘置きに身体を預けるように傾けた。こめかみに手をやり、今後の様々なことを予測する。
「山南総長は捕まるでしょう。この雪ですが、京中に広まる監察から逃げ出すことはできないはずです」
「普通に考えればその通りだ」
「では大蔵さんは普通ではないとお考えですか?」
そう口走って、内海は「失礼」と名を呼び間違えたことを謝った。しかしそれだけ内海も動揺しているのだろうと思うと、普段の彼とは違う面が見られ、伊東には面白い。
「…私は山南総長を見逃すように指示が出ているのではないかと思っている」
「まさか!法度に例外を作ると?」
内海は驚く。しかし伊東は深く頷いた。
「追っ手に沖田君を出したという時点でその意向があるだろう。普通は腹心の部下ではなく、第三者として別の誰かを追っ手に向かわせるはずだ」
「それは…そうですが」
「しかし、大変興味深い」
焦る内海とは裏腹に、伊東は微笑む。内海は半ば呆れて「余裕ですね」と皮肉っぽく言った。しかし伊東はなおも笑った。
「山南総長をどのように処断するのか。冷酷に切腹を申し付けるならまだこの組織は延命するだろうが、しかしそうしないならば私たちも動きやすくなるだろうね」
「…その前に潰されかねない事態かと思いますが」
「お前は山南総長と言う人をよく分かっていないな」
「それは、あなたのように江戸で付き合いがあったわけではありませんから」
伊東は「確かに」と彼の言い分を認めてやる。そして続けた。
「山南敬助という人は、お前が思っている以上に強情で昔気質の人間だ。私が彼に移転の件で揺さぶりをかけ、そのせいで追い詰められて脱走したなど、絶対に口にはしない。もし連れ戻されるとすればその誇りにかけてそのまま墓場まで持っていくことだろう」
「…そういうものでしょうか」
伊東の言葉にも内海は不安げだ。確かに確証はないのだ。
しかしこれ以上言葉を尽しても内海は納得をしないだろう。伊東は姿勢を正した。
「ひとまずは慎重に動かなければならない。内海、しばらくは鈴木を監視しておけよ。あいつはろくなことをしない」
「…わかりました」
物言いたげな表情をしたが、伊東はあえてそれを無視した。
離れの小窓からは、再び降りだした雪がはらはらと舞っていた。


池月はまるで野に放たれたかのように足取り軽く駆けた。その厩での暴れん坊ぶりは影を潜め、手綱を引く総司のいうことを素直に聞く。
(何か感じているのかな…)
そんな現実離れしたことを考えてしまうほど、池月は従順に総司に従った。
馬上の総司はといえばせわしなく目を動かし、怪しい人影を探す。『江戸へ帰る』と書き残していた以上、西へ行ったりはしないだろう。しかし行先の目途が立たないので、適当に大津方面に向かうことにする。大津までたどり着いたら、もう諦めても良いだろう。
(どうか…そうか、遠くにいてほしい)
追っ手を志願したのは、山南が呼んでいるような気がしたからだが、しかしだからといって総司の心がその呼びかけに応じたいと思ったわけではない。
近藤は山南と話したいと言った。けれど総司は、どうかこのまま逃げ延びてほしいと思う。それがたとえ局中法度に背くものだとしても、そう願わずにはいられない。
もし見つけてしまったら、
(土方さんが、山南さんを殺してしまう…)
土方はまだ何も決断はしていなかっただろうけれど、殺さざるを得ないという判断は心のどこかにあるはずだ。そして彼はきっと私情や感情を押さえつけて、それを選ぶだろう。
(私は土方さんにそうさせたくない…)
かつて、土方は『違う道を歩む』と言っていた。それは浅黄色の羽織を纏い正義を掲げ堂々と歩く自分たちの影で、憎しみを負い、悲しみを抱え、鬼として生きるという修羅の道なのだろう。
そして土方が山南を殺せば、ますますその道の先へと姿を消してしまう。やがて、その姿が見えなくなってしまいそうで…怖い。
「…馬鹿みたいだ」
空想か、妄想か、はたまた現実逃避か。
土方は目の前にいるし、離れていかないとわかっているのに、どうしてこんなに不安になるのだろう。
そんなことを考えていると、目の前で白い破片が舞った。はらはらと降り始めた雪が、また山南の姿を隠していく。




289


降り始めた雪は、昼を過ぎてもはらはらと舞うだけで、積もることなく地面に落ちては解けて消えていく。
凍てつくような寒さのなか、部屋に集められた原田と永倉の表情は、思ってもいない知らせに外の寒さ以上に凍りついた。
「嘘だろ…?」
どんな時でも陽気な原田が吐きだしたその台詞を、同じように永倉も思っていたのだろう。
「…笑えない冗談ですよ」
永倉は未だに信じていないようだったが、目の前の近藤の沈痛な眼差しと土方の不機嫌そうに曲げた唇を見れば、次第に理解せざるを得なかったのだろう。
「なんでだよ…!」
原田は握りしめた拳を思いっきり畳に叩きつける。
「山南さんはそんな人じゃねえだろう!そんな馬鹿みたいな選択をする人じゃねえ!だから、何かの間違いに決まっている!」
浮かぶ嫌な予感を払しょくするかのように原田は叫ぶが、それはただただ虚しく響くだけだった。
冷静な永倉は己の感情をぐっと堪えて、土方を見た。
「…脱走の原因は西本願寺への移転ですか?」
「わからない。それは本人に聞いてみてからだ」
「捕まえるのかよ!」
放逐すると信じていた原田が喚くが、土方は重々しく頷いた。
「…局を脱するを許さず。いままで例外を作ったことはない」
「その前に仲間だろうがっ!」
原田は土方の胸ぐらをつかむ。あくまで冷酷な返答に徹する土方が、仲間を思いやる原田とは対極にあったからだろう。隣にいた近藤が止めようとするが、土方は「いい」と端的に答えた。
「今まで死んだ奴も仲間だった。そうだろう?」
「そんなのは屁理屈だろうが!」
「屁理屈だろうと、理屈は理屈だ」
感情的なる原田とは対照的に土方は表情を変えない。それどころか
「これも私闘になる」
と冷たく言い放った。お前も法度を犯せば同じだ…その意図を察知した原田はぐっと唇を噛み、「畜生」と呟きつつ渋々胸ぐらをつかんだ手を離した。
すると永倉は近藤に視線を移した。
「近藤局長はどうお考えですか?土方副長がそういうのなら、局中法度に照らし合わせて切腹となりますが」
他人行儀な物言いをした永倉は、原田以上の怒りを込め、睨みつける。近藤はその視線から目を落とし、腕を組み直してゆっくりと答えた。
「…今のところはわからん。ただ、俺は新撰組局長としてではなく、古い馴染みである近藤勇として山南さんの言い分を聞きたい」
「それは、このまま見逃すということはないと?」
「……それは」
近藤は落としていた視線を永倉の方に向ける。
「追っ手に遣った総司次第だ。俺は総司を信頼している。総司はきっと連れ戻すべきではないと思えば、見逃すだろうし、連れ戻すべきだと思えばその通りにするだろう。俺はその判断の全ての責任を負うつもりだ」
そうだよな、と近藤は土方に視線を向けた。土方の合意を得て総司を派遣したわけではないが、少なくとも近藤はそういうつもりだったのだ。
すると土方は少し間をおいて頷いた。
その返答に永倉は納得をしたわけではなさそうだったが、「わかりました」と答えた。
「俺は総司がこのまま見逃すことを願っています」
あくまで局中法度の遂行に反対する。それはかつて建白書を提出した永倉の意固地さを考えれば当然の反応だろう。彼はその明確なスタンスを言い放ち、「行こう」と原田の肩を叩いた。
原田は悔しそうに顔を歪め
「山南さんが脱走したのは…俺たちの皆のせいだな」
と呟いた。そして力なく立ち上がり、永倉の後を追って去っていった。
二人が去った後は、重い沈黙が流れる。そんななか
「左之助の言う通りだな…」
近藤は力なく言葉を零す。そして遠い眼差しをした。
「西本願寺移転や腕のこと、明里さんのこと…いろんなことがあったかもしれないが、そんな風に追い詰められていった山南さんを気遣うことができず、ましてや俺は彼がそこまで悩んでいるということに思い至りもしなかった。もっと話を聞いてやればよかったのに…。山南さんがここではもう生きられないと思ったのは…誰かのせいではなく、誰も等しく、少しずつ皆のせいなのかもしれないな…」
山南脱走の知らせに、みな驚き、みな不安になり、そしてみな自分を責めた。ここの所塞ぎこみがちだから、と遠ざけてしまったのは皆同じなのだろう。そうすると今までの全てを後悔したくなる。
「…あんまり、悲観的になるなよ」
落胆する近藤に、土方はそっけなく声をかけた。
「抱え込まずに、誰かのせいにした方が全て楽になるんだ。お互いがお互いのせいだと指差して笑う。こういう時はそうやって誤魔化せばいい」
「歳…それはお前が指差されてもいいということか?」
鬼副長である自分の仕事だと?
すると、土方はあっさり頷いた。
「ああ。近藤さん、あんたは全て俺に任せると言ってくれた。だからあんたは俺のせいにしたっていい。俺はあんたがそうやって落ち込む方が、困る」
局長はいつでも胸を張って堂々としていてくれ。
それは土方の口癖ともいえる台詞だ。自分は影でいい、陽の当たる道は眩しすぎるから。でも
「…歳、お前は苦しくないのか?」
近藤は自分を慰める彼にこそ、救いが必要なのではないのかと思った。
「苦しい?」
きっとその影は、刺すような冷たい風が吹きすさぶ、闇なのだろう。そんな場所にいる、そんな場所にいたいという土方が、近藤には痛々しくそして孤独に見える。
「いつだって隊の汚れ仕事はお前ばかりがやってきた。だから今回の山南さんの脱走も、本当は自分のせいだと思っているんだろう」
「…少なくとも自分のせいじゃない、とは思っていねえよ。山南さんを追い詰めたきっかけは、きっと西本願寺の移転だろうからな。それにそのこと以外でも、一番対立してきたのは俺だ。客観的に見ても間違いない」
ふん、と鼻を鳴らして笑う土方。それはまるで自嘲するかのようだ。しかしそれが彼一流の強がりだと、近藤は知っている。
「お前のせいじゃないよ」
穏やかにそう告げる。彼の慰みになるかどうかはわからないが、それでもそう彼に言っておきたかった。すると土方はやはり何の反応も見せない。
「歳は山南さんのことが嫌いか?散々反論してきた彼が憎いか?」
近藤の問いかけに土方は自嘲した笑みを隠し、ふっと息を吐いた。
「…好きじゃねえからと言って、嫌いだと言うのは違う。別に俺はあの人が憎いと思ったことは一度もない。あっちはどうだか知らねえがな…」
「…そう、だな」
(嘘はついていない)
疑うまでもなく、土方は近藤の前で見栄を張ることはあっても、嘘をついたりはしない。近藤がそうであるように、土方もまた本心を口にする。
(信じよう)
この結末が、良いものであると。
今はそれを祈るしかないのだから。


冬の陽は容赦なく陰りはじめ、夜を齎す。
総司は池月とともにようやく大津の宿に入った。夕暮れ迫るなかでは人も多い宿場町で山南を探し出すことは難しそうだ。
総司は池月の背から降りた。長い旅路を全力で駆けてここまで来た池月だが、身体が強いのか特に疲労はないようで、与えられた餌と水をがぶがぶと飲み込んでいく。
「…ありがとう」
総司はぽん、と池月を軽く叩く。池月は上機嫌に鼻を鳴らして答えたので安堵し、総司はひとまず問屋場に池月を預けて歩き出した。
大津の宿は賑わい、すれ違う旅人達は皆楽しげに表情を綻ばせている。総司はそんな中でまるで急かされるように表情を硬くさせ、周囲に視線を泳がせる様子は、割る目立ちすることだろう。小走りに宿場を巡りながら、
(…ここにいなければ、それでいいんだ)
自分の焦りを落ち着かせようと、何度も自分に言い聞かせる。
このまま日が暮れて、真っ暗になって、それで朝になったら引き返して、それで終わりだ。
『見つからなかった』
そう言うと、近藤は安堵するだろうし、試衛館の食客たちもよろこぶ。土方は良い顔はしないだろうが「仕方ない」と諦めるだろう。
誰しもが願う結末じゃないか。
それなのに。
「沖田君!」
その声を幻聴だと思った。しかしもう一度
「ここだよ、沖田君」
と朗らかなあの人の声が聞こえた。総司は足を止め恐る恐る声がした方向を見る。
「あ…」
宿場町のなかの何の変哲もない旅籠。その二階の窓から顔をのぞかせた山南は、ひらひらと呑気に総司に手を振っていた。
「早かったねえ」
「…っ、」
言葉にならない感情が、一気に総司の中で渦巻く。
しかし無意識に口からこぼれたのは
「どうして…っ」
という叫びだった。
どうしてここにいて、どうしてそうやって笑って、どうして自分の名を呼んで、どうして逃げ延びてくれなかったのだろう。
すると山南は柔らかく笑い、「こっちに来い」と言わんばかりに手招きした。



290


数里離れただけだというのに、大津の匂いに仄かな懐かしさを感じた。大津の宿にたどり着いたときはまだ日が傾いたくらいで、先の宿場町までは行けそうな気がしたが、何故だか足を止めて、今夜の宿に決めた。
宿の女将が二階の風通しの良い部屋に案内してくれたので、しばらく小窓に身体を預けて行き交う人々を眺めていた。
誰も新撰組総長である自分のことを知らない。恐れたり、怖がったりしない…ただ京を出ただけなのに、こんなにも自由になれるのかと久々の解放感を味わった。
そこからはぼんやりと窓の外を眺めるだけだった。雪が舞い、はらはらと落ちて、そして透明に消え始めた頃、馬の蹄が地面を駆ける音が宿場に響いた。
(ああ…来たな…)
山南はその蹄の音を聞いただけで、何となく直感した。その音がまるで自分に迫ってくる音に聞こえたからだ。



「どうぞ、ごゆっくりぃ」
夕暮れが過ぎていたので、女将は二人分の夕餉を運んできて穏やかに去っていった。山南はそれに愛想よく答えが、総司にはそんな余裕はない。膝に置いた両手の拳をぎゅっと握りしめたままだった。
「沖田君、お腹が空いただろう?ここまで長旅だったんだ」
「…山南さん、私は…」
「話はそれからでもいいじゃないか。温かいうちに食べないと」
固い表情を崩さない総司に、山南はまるで何事も起こっていないかのようにいつも通りだ。箸を取り特に気負いもなく吸い物を口にした。
仕方なく総司も香の物から口にした。味はしっかりついているはずなのに、どうしてだか味がしない。食べることをこんなにも苦痛に思ったのは初めてだ。
しかし食べきらないと山南は話してくれないだろうと思い、無理やりにかきこんだ。そうしてほぼ同時に食べ終えた二人は、女中を呼びつけて下げさせる。総司は姿勢を改めて山南に向き直った。
「山南さん、私がここに来た意味は…説明しなくてもわかりますよね」
「…ああ、わかっているよ。その為に書置きをしたのだから」
微笑んで答えた山南の表情は、ここのところの暗さはない。まるで憑き物が落ちたように、すっきりとしていた。
「でも君が来るのはちょっと意外だったなあ。土方君は許してくれないと思っていた。斉藤君か、永倉君か…そのあたりだと思っていたんだよ」
「追手を志願したのは私自身です。土方さんは斉藤さんに行かせようとしたんですが…何となく、私が行くのが良いんじゃないかと思ってしまったんです」
根拠や確信はない。しかし目の前の山南は満足そうにうなずいて
「そうだね…君が来てくれるのは、私にとって最上の望みだった。斉藤君ではおそらく他人行儀な話しかできなかっただろうし、永倉君と話せば新撰組に反旗を翻そうという企みになっていたかもしれない」
「私となら、どうなると思っているんですか?」
自分が来たら、どんな話をするつもりだったのだろう。
すると山南は少し間をおいて答えた。
「…君となら、私は素直に気持ちを打ち明けることができると思っていたよ」
山南は酒を手にして、口に含んだ。そして総司に徳利を向けたので、総司もそれを受け取った。
「理由を…聞かせてください。山南さんが私事で脱走するなんて、誰も信じていません。何か大きな理由や要因があるのでしょう?だったらそれを話してください」
その理由次第では切腹を免れるかもしれない。唯一の希望を託し、総司は必死の思いで尋ねたのだが、当の本人は穏やかな表情を崩さない。
「何かのせいだとか、誰かのせいだとか…そういうことはないよ」
「山南さん!」
(そんなのは嘘だ…!)
総司はそう叫びたくなるのを、堪えるのが精いっぱいだった。
君菊が眠る西本願寺の移転への抗議、剣客として再起できないほどの腕の怪我、そしてこれまで愛し、尽くされた人とのすれ違い…そのどれもが今回の脱走の引き金になったに違いないのだ。なのに、山南はまるで庇うかのように口にしようとはしない。
「…そんなの、ただの強がりです…!山南さん、貴方はいつも我慢をしてきたはずです。なのにどうしてそれをすべて背負って、すべて自分のせいにして…こんな…っ」
「沖田君」
強く握りしめ、震える総司の拳に、山南の手のひらが触れた。思った以上に温かいぬくもりを感じる。
「そんな恰好のいいものじゃないんだ。確かに君には色々納得できないこともあるのかもしれない。私のせいじゃないと言ってくれるのも、とても有難い…しかし、たとえ私が困難な直面にあたったとして、それを乗り越えられないとすればやはりそれは自分の弱さ故なんだ」
「弱さ…」
「ああ。それを初めて感じたのは…芹沢先生を殺した時かな」
それまで穏やかだった山南の表情が初めて翳る。そして触れていた手のひらが離れていく。
「君は…お梅さんを殺した。私がその時に酷く怒鳴ったのを、覚えているかい?」
「…ええ」
芹沢を斬ったあの夜。生かすべきとされていた梅を、本人の願いを叶え、総司は一刀両断にしてその命を奪った。そしてそのことに一番激昂していたのは山南だった。
「私はね、芹沢先生を殺したあの時でさえ、自分は善良な人間だと信じていたんだ。おかしな話だ。暗殺という卑劣な手段を用いて、命を奪ったというのに…これは正義の行いだと信じて疑わなかったんだよ。…でも、君が予定外にお梅さんを斬った時に自分が善良だと信じていた行いが、実はそうではないということを見せつけられた。そしてあの場にいた四人の中で、私が一番そのことをわかっていなかったのだと思い知った」
「……」
「それからはずっと迷っていたような気がする。これでいいのか、これで良かったのか…たった一度の間違いだと言うかもしれないが、その間違いで命を奪ったのかもしれない。そう思うと…私は怖かった」
山南は手にしていた酒を一気に煽る。そして「ああ」と飲み干して声を上げた。
「それからも様々なことで落ち込む私だったが、周囲の仲間たちや明里に励まされどうにかここまでやって来られた。伊東参謀という人物を加えてさらに新撰組は良くなるはずだ。もうあんな間違いを犯さない…そう思った矢先だ。西本願寺と腕の怪我が重なったのは」
悪いことは、悪いことを連れてくる。その言葉通りに山南にとっての不幸は重なったということなのだろう。
彼は自虐気味に吐き捨てる。
「私はもう間違いを犯したくはない。京の人々の信仰を傷つけ、さらに君菊を思う明里の心を汚したくはなかった。それだけは嫌だと思っていたのに…この腕のせいで私の誇りや矜持はすべて崩れ落ちたような気がした。もう私には何もできない…自分で自分を陥れたんだ」
「そんなことはありません!山南さんはたとえ剣が使えなくったって…!」
これまで土方と共に隊の編成や雑務にあたってきた。土方の厳しさと、山南の包容力で新撰組は保たれてきた。その能力は誰もが尊敬しているのだ。
しかし山南は首を横に振った。
「君にはわからないよ。何ものをも得ている君には」
優しいいつもの声色だったが、しかしその言葉には総司でさえも寄せ付けない拒絶があった。
「山南さん…」
「どんなに迷って、どんなに身体を壊し、どんなに落胆したとしても…私には北辰一刀流免許という支えがあった。それだけで新撰組にいていいんだと思わせてくれた。…剣はそれだけ私のことを支えてくれていた。だからそれを無くすことは、私の根幹を揺るがせたんだ」
それは山南の言葉通り、総司には絶対に分からないことだ。何をも手に入れている総司の励ましなど、山南には響くはずもない。
言葉無く視線を落とした総司に、山南は「すまない」と悲しそうな顔をした。
「君にそんな顔をさせたいわけじゃないんだ。ただ…私はぐらぐらと揺れていた。剣という自信を失った私はここにいてもいいのか、新撰組に相応しい人間なのかずっと考えていた。私にはまだ何かできるんじゃないか…そう思ったこともあった。けれどね、それは西本願寺の移転に了承した時点で、見事に完膚なきまでに崩れ去ったんだ」
「…近藤先生が、何かおっしゃったんですか…?」
移転を了承させたのは近藤だったはずだ。総司が恐る恐る訊ねると、山南は「いや」と首を横に振った。
「あの方は、私を信じてくれていた。何の疑いもなく信頼してくれている…その信頼が、逆に私には怖く感じてしまった。近藤局長が信じる『私』という人間はかつての強さはなく、いつか裏切るのかもしれない、反旗を翻すのかもしれない。…私は自分自身を信じられず、そう思った。だからこそ、私は私の弱さが許せなかったんだ」
「…山南さん、私にはわかりません。難しくって、わからない」
(そんなの、どうだっていいじゃないですか…)
いつか反目するのかもしれない。永倉のように考え方の違いを訴えるのかもしれない。
でもそれでもいいじゃないか。そうやって喧嘩して仲直りして続けて行けばいいじゃないか。
そう思ってしまうのは、楽観的だと言うことなのだろうか。
「わからなくてもいい。君は、私のことを愚かだと笑ってくれればいいんだ。そのほうが気が楽だ」
「そんな…」
「簡単に言えば、私はきっと…先を行く君たちについていけなかったんだ。過去ばかりを振り返り正解を求める癖はいつまで経ってもそのままだった。前に進むことに躊躇ばかりして、何も得ようとはしなかった。弱いものを弱いままでいいとして、そのまま見過ごしてきた…」
山南は徳利の酒を猪口に注いだ。
「西本願寺へ移転を了承した時点で決めていたんだ。ここで了承してしまう自分はもうかつての自分ではない。近藤局長や隊士たちの期待に添えられる総長ではない。そして…新撰組にはいられない。自分自身を信じられない私が、どうして君たちと一緒にいられるのだろう。総長なんて肩書を背負えるのだろう…ってね」
「…」
また一気に酒を煽る山南は、既にほろ酔い気味だ。総司も同じように飲むがちっとも酔えなかった。
「さて、話は終わりだよ。私が隊を逃げ出した理由は以上で終わりだ。沖田君はどうする?」
「…」
「ここで私を脱走者として斬り捨てるか、連れ帰るか…もしくは見逃すのか。君は託されているんだろう?」
まるで他人事のように語る山南は、いつになく陽気だ。まるで双六のようにこの行く末を俯瞰している。しかし、それが総司にはまるで空元気のようで痛々しく映った。
「私は…無理だと分かっていても、あなたに隊に戻ってほしいと思っています」
「それは難しい話だよ」
「わかっています。でも…私が『脱走ではなかった』と、そう言えばおしまいです」
山南は「はは」と笑った。まるで四方山話を聞く様だ。
「君が、嘘を抱えるということか?」
「墓場まで持っていきます。誰にも口外しない…そうだ、途中で気が変わって明里さんの所にいっていたと言います。それで解決ですよ。大丈夫です、近藤先生や土方さんにも…」
「ふふ。京中の監察の目は誤魔化せないだろう。この大津にも彼らはいるかもしれないのだから」
「…そんなのは、土方さんがどうとでもしてくれます」
無茶は百も承知だ。けれど総司にはそれを無理やりにでも押し通す決意はあった。たとえ誰かに咎められても、山南の命が助かるならそれでいい。
しかし山南は穏やかに笑って「やっぱり無理だよ」と言った。
「土方君が私の脱走をもみ消すような真似はしないよ。彼は私のことを良く思ってはいない。新撰組の秩序と天秤にかけて私を選ぶような愚かな真似はしないだろう」
山南は「ほら」といいつつ、また総司に徳利を差し出した。しかし今度は総司はそれを受け取らなかった。
「…本気で、そう思っているんですか?」
「……」
「土方さんがあなたのことが嫌いだと、本気でそう思っているんですか…?」
山南は総司の問いかけに答えず、代わりに手にしていた徳利を置いた。
「…好かれてはいないと思っている。それに私がいない方が隊は滞りなく進むだろう」
「そんなわけないじゃないですか!」
総司は山南の両肩を押した。そして揺さぶる。
「土方さんは…っ!土方さんは、あなたがいるからあんな風に傍若無人に振る舞っているんです!鬼だと言われても、そこに仏がいるから安心して鬼になれる!そんな風に信頼を寄せる相手が、どれだけ少ないのか…山南さんはご存じでしょう!?」
「…」
「もし信頼していないなら、とっくに総長を降ろしてますよ!山南さんはわかっているはずだ、だからずっと身体を壊しても気持ちを落としても、最後まで総長で在りつづけたんでしょう…?」
総司は掴んだ両肩に力を込めた。
「あなたがいなくなっては困ります…!」
どんなに複雑な心情があっても、どんなに悩ませてきた理由があっても…それで追い詰められたのだとしても、総司が言いたいことは変わらない。
生きてほしい。
いなくならないでほしい。大切な人を、奪いたくはない。
総司の目頭に熱いものが込み上げた。久々に込み上げてきた涙はいつ振りなのだろう。
「私が…追手に出ると言ったら、土方さんと斉藤さんは同じことを言いました。自分の命を犠牲にして山南さんを助けるんじゃないかって」
「…それは…」
「私は笑い飛ばしました。そんなことはしない、絶対に生きて帰る…って。でも、今、とても揺らいでいます。あなたに今ここで私を斬って、逃げてほしいとさえ思います」
山南は刹那驚いた顔をした。それほどまでの覚悟をもっていま総司がここにいることに気が付かなかったのだろう。
すると山南が、総司の手を取った。
「…ありがとう。君は、いつも私を慰めてくれる。君の傍で話をするだけで、私の心がどれだけ癒されたのか、君は知っているかい?」
「わ…私は…何も…」
気の利いた言葉も言えなかった。もっと何か良い言葉をかけていればとここに来るまでずっと悔やみ続けてきた。
けれど山南は首を横に振った。
「沖田君の傍にはいつも柔らかな…江戸の時と同じ風が吹いているんだ。懐かしいような、優しい、暖かい風だ。たぶん土方君も同じように思っているんじゃないのかな」
「山南さん…」
「君はいつまでも土方君のことを好きでいてあげなさい。彼はきっと、君を想う時だけ、鬼の仮面を取ることができるだろうから」
そして山南は総司の頬に触れて、流れた涙を拭った。
「私は君と一緒に帰るよ」
「…山南さん…」
「せめて最後は…花となって散る様に、武士として誇らしく死にたいんだ」
凛と響いた声に、総司ははっとする。
もう逃げるつもりもなく。
もちろん総司を斬るつもりもなく。
何の抗いもない。
(もう山南さんは決めている…)
そしてその直感通り山南はかつてないほどに真剣な眼差しをして、総司の頬から手を離し、後ろに下がった。そして畳に手をついてゆっくりと頭を下げる。
「…私と一緒に屯所に戻ってくれ」
その懇願には、自暴自棄はない。今から処罰を受けることに真正面から向き合う、山南の真摯さがあった。
最初から、この人は逃げるつもりはなかったんだ。
でも屯所にいる仲間は皆、優しくて、誰も山南のことを責めようとはしなかったから。だからこんな風に脱走という、誰が見ても切腹を申し付けられるような状況に自らを追い込んだのだろう。そして弱い自分に鞭を打って、せめて弱いままに死にたくないのだと、切腹をしたいと思ったのだろう。
(あなたの中の武士は消えていない…)
「山南さん、お願いが一つあります」
「…何かな。私に叶えられそうなことなら」
総司は涙を袖で拭った。こんな泣きじゃくった顔で口にしたくはなかったからだ。
「介錯は…私に務めさせてください」
その彼の弱いながらも誇り高い最後の一瞬を、自分に託してほしい。
彼が自分のことを優し風だと言うのなら、彼が焦がれる風に流れるように、その花を散らせたい。
それが唯一、自分にできることだ。
(もうそれしかないんだ…)
すると山南はゆっくりと頷いた。
「ああ…もちろんだ。君にお願いしたいと思っていたんだ。…ありがとう」


それからその夜は一晩中、山南と語り明かした。
話はくだらないことばかりだったが、特に試衛館にいた頃の昔話は、まるであの頃に戻ったかのように盛り上がった。青春の輝かしい日々を語る山南の瞳は、童心に戻ったかのように嬉しそうだった。そして彼がどれだけ仲間のことを想っているのかを知った。
総司は何度も笑った。込み上げてくる感情は節々にあったけれど、山南は自分に泣いてほしいわけじゃないんだと自分に言い聞かせ、必死にこらえた。
雲に時折陰る月。
暗闇の中に光る星。
そして明けていく闇。
瞼に焼きつくすべてを、忘れたくない。

これはきっと生きてきて一番悲しい夜だ。
でも悲しい夜であっても、この夜だけは明けてほしくない。
そう思った。









解説
なし
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