わらべうた





291


元治二年二月二十二日。
連日降り続いた雪がようやく止み、皮肉なほどに冴えわたった青空を見上げながら、総司は八木邸の縁側に腰を下ろしていた。
春を予感させる季節外れのこの日差しが陰る頃、いままさに腰に帯びている刀が一閃されるだろう。嫌いでもない、憎くもない、大切な仲間の命を奪う為に。
まだ現実味のない事を考えながら、総司はぼんやりとしていると、八木邸の庭の茂みが揺れた。
「…ん?」
静寂を破ったのは真っ黒な猫だった。庭で猫が遊んでいるのは珍しくない。総司の気が向いた時にエサなどをやっているから、定期的に顔を出す猫もいる。
茂みから顔を覗かせて、いつもなら颯爽と逃げ去る猫が今日は何故かじっと総司の目を見つめたまま動こうとはしない。凛とした真っ黒な瞳が何を言わんとしているのか、総司は何となく分かった。
「…君は、確か芹沢先生が亡くなる前もここに来たね」
総司が声をかけるが、もちろん黒猫は何も答えない。
目の前の猫があの時と同じかどうか確証はない。それにあの時の猫は、猫じゃらしに誘われてすぐに総司の元へやって来たのに、いまは冷たく侮蔑するように総司の目を見て微動だにしないのだ。
(君も…責めるのか)
口にすることなく語りかけると、猫は踵を返して背を向けて、軽々と庭を駆けて去っていく。
その姿は、すぐに見えなくなった。


山南は屯所の戻ると、前川邸の奥にあるたった四畳ほどの部屋に待機するように命じられた。その頃には既に山南脱走の知らせは屯所中に知れ渡っていて、隊士たちは戸惑いを隠せないまま遠巻きに山南を見ていた。部屋の傍で見張りの隊士が交代して自分を監視していたが、
「…落ち着くなあ…」
と思った。
自ら呼び寄せた死は近いと言うのに、不思議と心は穏やかだった。四畳の狭い部屋ではあるが、小窓があり外にはいつもと何ら変わらない日常がある。そう思うと、取り乱したり慌てたりする気が失せたのだ。
(何ももう考えることはない…)
山南が目を閉じて無心を努めていると、
「…失礼する」
と障子の向こうから声がした。その固い声色に「はい」と答えると、近藤が顔を出した。
「局長…」
「…」
近藤は何も言わずに山南と向かい合って座る。膝が付くほどの近い距離だったが、何故だか心は遠く感じた。おそらく近藤の方がよりその思いは強いだろう。
まず山南はその場に指をつき、ゆっくりと頭を下げた。
「…最後までご迷惑をおかけし、近藤局長には大変申し訳ございませんでした」
山南の整然とした挨拶に、近藤は顔を真っ赤に染め、感情を爆発させてその拳を叩きつけた。
「俺は…!そんなことが聞きたいんじゃないっ!」
「局長…」
近藤は激高していた。おそらくはその声は見張りの隊士だけではなく、屯所中に響き渡っただろうが、彼はそれどころではなく怒っていた。
そして、泣いていた。
「…っ、山南さん、どうして帰って来たんだ…!俺は貴方が逃げてくれると思っていたのに…!」
悲しみと、苛立ちと、憤りと、困惑と、混乱。そのすべてが涙となって流れている。近藤の中で様々な感情が渦巻いているのが見て取れた。山南は胸が痛かったが、ここで一緒に泣くわけにはいかない。その資格はない。
それに、
(この人は…何も悪くはない)
誰よりも自分を信じてくれていた。だからこそ、こうして仲間に裏切られる悲しみを、誰よりも感じているだろう。
だから山南には
「申し訳ございません」
と謝ることしかできなかった。頑なにそれ以上は何も語りたくないのだと、口を閉ざした。
責めるだけでは同じ答えしか返ってこない。それに気が付いた近藤はぐっと唇を噛む。
「…理由を、聞かせてくれ。今までのことは歳から色々聞いた。でも俺は山南さんの口から真実を聞きたいんだ」
「…」
「もしや私が江戸に帰ることを勧めたからか?山南さんの自尊心を傷つけてしまったのだろうか…?」
不安げに訊ねる近藤に
(それは違います)
そう言いかけた口を、山南はやはり閉じた。
江戸に帰ってもいい。そう言ってくれた近藤の気遣いは心から嬉しかった。自分のことをそこまで思いやってくれる近藤の優しさと信頼が、嬉しくて、そして同時に自分の不甲斐無さを思い知った。
近藤の真摯な眼差しに、山南の心はいつも揺さぶられる。
このまっすぐさに惹かれ、魅かれてきたのだ。
しかし彼の求める『真実』は、おそらく彼を迷わせるだけだ。彼が進んできた道を、振り返ることになる。
まるで、自分のように。
山南は重く、ゆっくりと首を横に振った。
「…私は何も言いたくはありません」
「山南さん!」
「どんな理由や言い訳があったとしても、結果は同じです。近藤局長はその結果だけをご判断頂ければ良いのです」
きっぱりと言い切った。近藤に諦めてもらうために。
すると近藤はわなわなと唇を震わせて
「……俺に、貴方を殺せと言うのか」
と問うた。
自分たちが作った、局中法度に従って。
山南はその問いにゆっくりと頷いた。
「近藤局長のことを、私は今でもご尊敬申し上げております。もし貴方が出自も武士であったならば、私は何の躊躇いもなく家来の一人としてお仕えしたいと思っていたほどです」
「ならば…なぜ…」
「どうかご理解ください。私は貴方を裏切りたくないからこそ、脱走をしたのです」
弱い自分が、もう何にも惑わされるように。
弱い自分が、この人を裏切らないように。
それが自分にできる最後の奉公だと信じたまま、逝ければそれで満足だ。
近藤の表情がまた変わっていく。苛立ちや憤りは失せて、ただただ悲しみだけに染まっていく。
しかし山南は唇を固く閉じた。
(この人にこれ以上の言葉を遺していくのは、迷わせるだけになる)
優しすぎる局長は、自分が殺してしまった罪悪感に捉われ、これまで信じてきたものを疑い始めてしまうだろう。
(私が望むのはそうではない)
「…山南さん、ならば一つだけ聞かせてほしい」
「何でしょうか…」
近藤は畳に膝を滑らせて、山南の元へ近寄る。そして震えた指先で山南の手の甲と重ねた。
(暖かいな…)
そうだ、この人はずっと暖かい。まるで太陽のように。
「俺たちが…憎いのか?」
ああ、この人だけじゃない。
皆ずっと、暖かかったんだ。
それをもっと早く知っていたら。もっと早く心を許して相談が出来ていれば、何かが変わっただろうか。
(しかし…それももう遅いこと)
別れを告げよう。
穏やかな、微笑みで。
「いえ…誰も憎くはありません。私は試衛館で皆さんに出会い、そしてここまで来られたことを少しも後悔していません」
もし生まれ変わったらもう一度出会いたいくらいに。
すると近藤は「そうか」と頷いた。そして山南から離れて、姿勢を正し胸を張って告げた。
「…局中法度に則り、切腹を申し付ける…!」
「はっ…!」
その凛とした声に、自然と山南も頭を下げた。
局長の命令を、総長の自分として素直にすべてを受け入れる。そしてその心には感謝しかなかった。
(ありがとうございます…)
その決断を下す痛みは、きっと近藤しかわからない。そして近藤がずっと背負っていくのだ。
でも、その決断を下してくれた。武士として花と散ることを許してくれた。山南にはその感謝しかなかった。
すると近藤はすぐに立ち上がり、部屋を去っていった。
まるですべてを断ち切るかように、振り切るかのように。


それからすぐにやって来たのは、永倉と原田だった。血相を変えた二人は、まず最初に
「冗談ですよね?」
「な?ちょっと気が向いてふらっと出かけただけなんだよな?」
と山南に訊ねた。あまりに現状からかけ離れた、彼らの願いが籠った問いかけに、山南は微笑むしかなかった。
「ありがとう。私を信じてくれて…」
「当然じゃねえかよ!なーんだ、やっぱり悪い冗談だったんだな。さっさとこんな部屋出て稽古にでも顔を出してやってくれよな!」
「そうですよ、隊士たちも心配していますから…」
しかし彼らも馬鹿ではない。この現状を理解できないわけはない。だから彼らの見せる空元気は山南には胸を締め付けた。
山南はゆっくりと頭を下げ、彼らの信頼に敬意を表した。
「…申し訳ない。君たちの信頼を裏切ってしまったことを心からお詫びしたい」
そう告げると二人の表情が、みるみると陰っていく。永倉はぐっと拳を握り、原田はそれでも
「は…はは、冗談きついぜ」
と笑った。
「山南さん、疲れているんだよ。ちょっと休めばいつも通りさぁ…」
「左之助…」
原田はそれでもなお、この状況を理解することを拒んだが、聡い永倉はその肩を軽く叩いた。すると原田はその明るい表情で堪えていた涙を、一気に流し
「なんでだよ!」
と叫んだ。絶叫に近い悲鳴は、山南の心を抉る。
「山南さん、あんた言ったじゃねえかよ!新撰組のことを気に食わないことはないって!たとえ落ち込んでいたって、あんたはいつも新撰組のことを考えていた…そんなあんたが、俺たちのことを見捨てて逃げるなんて、俺は納得いかねえよ!」
「原田君…」
原田は山南の胸ぐらを掴みかかる。
「それに平助に何て言えばいいんだよ!あいつは誰より山南さんのことを慕ってる。脱走の理由も話してくれないんじゃ、俺達は何て言ってあいつに説明すればいいんだ!」
「左之助、いい加減にしろ!」
永倉は原田の腕を取る。そして無駄のない仕草で組み伏した。
「離せ!」
原田が言い足りないと言わんばかりに暴れ、永倉に抵抗したが、
「感情的になるな!」
の一喝にようやく言葉を止めた。原田の悔しそうな表情、そして同じ心情でありながら原田を止めることを選択した永倉の悔しそうな表情。
(二人の憤りを私以外に向けてはならない…)
「永倉君、腕を解いてやってくれ」
山南は永倉に申し出る。永倉は少し躊躇ったものの、原田の腕を解き、ゆっくり離れる。しかし原田は突っ伏したまま、悔しげに身体を震わせていた。
「…山南さん、心残りはないのですか?」
感情的になる原田とは正反対に、淡々と訊ねてきた永倉。山南は「そうだな…」と少し考えて
「ないかな」
と答えた。しかし永倉は「あるはずです」とその答えを拒んだ。
「永倉君…」
「ですから、今からでももう一度逃げてください。見張りの隊士は俺の組下です。何とでも言い訳はできる」
「…」
「山南さんが脱走した理由を話したくないのはわかっています。しかし、俺は納得できません。どんな理由があったにせよ、貴方を失うことがどれだけ新撰組を揺るがすか…近藤局長や土方副長だってわかっているはずだ。こんな処断は愚かです」
彼はきっぱりと二人を非難して続けた。
「総司も総司だ。例え局中法度があったにせよ、山南さんを逃がしたところで、総司が何の咎に問われるわけでもなかったのに、馬鹿正直に連れ戻さなくても良かったんだ」
そう吐き捨てて苛立った表情を浮かべた永倉は、悔しげに顔を歪ませていた。
そうだ。
彼は原田以上に頑固だった。生真面目で冷静で慎重に見えて、建白書を提出する豪胆さがある彼が、簡単に納得するはずはない。
「さあ、逃げてください。今度は総司に追わせたりしない」
山南を促し、道を開ける。原田も同じように身体を脇に寄せた。しかし山南は、身体を微動だにせず
「それはできないよ」
と穏やかに微笑んで返した。
「永倉君、君は勘違いをしている。私は沖田君に無理矢理屯所に連れ戻されたわけじゃない。私は沖田君と会った時点で、どこへも逃げるつもりなんかなかったんだ。彼のせいにはしないでほしい」
むしろ今回のことで一番傷ついているのは彼なのだ。山南は総司の責を問われることを一番に避けたかった。
永倉はぐっと言葉を飲み込み、
「…じゃあ、誰のせいだっていうんですか…!俺たちは、誰を憎めばいいんですか!」
叫ぶ。
怒りをぶつける場所を、教えてくれと。
永倉はその生真面目な表情をようやく崩した。そして流さまいと必死に堪えていた涙を一筋零し、隠そうとすぐに袖で拭った。
山南は穏やかにその答えを口にした。
「私を憎んでほしい」
「…山南さん…」
「永倉君。君の実直で芯を曲げない心の強さを、私は尊敬している。けれど、その一方で近藤局長や土方君とぶつかることも恐れている。私の今回の一件で亀裂を生むようなことは、私の本意ではない。納得はできないだろうが、私に免じて抑えてほしい」
これが君への最後の願いだ。
山南は口にはしなかったものの、きっと彼には伝わったはずだ。永倉は複雑な表情のまま視線を逸らした。そして山南は原田の方を向く。彼はまるで子供が泣きじゃくるように、ボロボロと涙をこぼしていた。心に素直な彼が、今は羨ましく思う。
山南は原田の傍に寄って、その肩に手を置いた。
「…原田君、君は人の立場に立って思いやれる人間だ。その明るさに励まされる者は多いだろう。これからも君にはそう在って欲しい」
感情を優先しがちな彼だからこそ、人は彼を慕う。人間味あふれる原田は、これからも隊士たちの良い兄貴分になるだろう。
原田は山南の言葉を受け止めると、「畜生」と小さく呟いた。
「もう…何も言えねえじゃねえかよ…」
悔しげに、寂しげに、しかし山南の願いを叶えるように微笑んでみせる表情に山南は安堵した。
新選組は大丈夫だ。
(私がいなくなっても…)
そう確信できた。
「ありがとう…」
小窓から差し込む日差しが傾く。
別れの時は、もうすぐだ。



292


永倉と原田が去った後、山南は部屋の障子をそっと開き、見張りの隊士に声をかけた。
「申し訳ないが、鈴木君を呼んでくれませんか?」
「鈴木…組長ですか?」
「ええ。鈴木三樹三郎君です」
隊士は困惑した表情をうかがわせたが、「わかりました」と返答し、もう一人の隊士にこの場を預けて預けて呼びに行く。
山南は障子を閉めて元いた場所にもう一度正座した。
『心残りはありませんか?』
先ほどの永倉の問いかけに、山南は『ない』ときっぱり答えたが、実は一つだけどうしても鈴木に話をしておきたいことがあったのだ。
(…陽が落ちるな…)
上七軒の女将に渡したあの風呂敷はもう明里の手元に届いているだろうか。そしてその意味を明里は気が付いただろうか。
(ああ…やはり…)
会いたかったな。最後の一目だけ、その姿を焼き付けられたら良かったのに。
「…黒髪の 結ぼれたる 思いには…」
黒髪の 結ぼれたる 思いには
解けて寝た夜の 枕とて 独り寝る夜の仇枕 
袖は片敷く妻じゃと云うて 愚痴な女子の心も知らず
しんと更けたる鐘の声 昨夜の夢の今朝覚めて 
床し懐かしやるせなや積もると知らで 積もる白雪
…君はこの雪がはらはらと舞う姿を見て、私のことを思いだしてくれるのだろうか。何も言わずに去っていった私のことを、探し求めたりしないでほしい。溶けてしまった白雪が元に戻らないのと同じで、もう過去へは戻れないのだから。…そう願うのは、きっと男の我儘なのだろうが。
「失礼します」
明里への思いを馳せていると、思った以上に凛とした声が部屋に響く。山南は「どうぞ」と招き入れると、そこには呼び寄せた鈴木ではなく伊東がいた。
「伊東参謀…」
「申し訳ありません。愚弟をお呼びとのことでしたが…所用で屯所を出ていまして」
「そうですか…」
(それはおそらくは偽りだな…)
仲間割れさえ危ぶまれるこの件で、鈴木が余計なことを口にしないよう嘘を付いたのだろう。それは山南でさえ想像がついた。
「私で宜しければ、言付かります」
それに伊東の口ぶりはいつにもまして強引に聞こえた。そしてその表情は普段の華麗な整いを崩し、どこか緊張感があるものだった。山南はふっと息を吐き「大丈夫です」と伊東に声をかける。
「私は…何も言いません。それに今回の脱走は伊東参謀とのお話とは何の関係もないことです」
「…そのようなことを気にかけているのではないのですが…そう言っていただけると、私も少しは心が楽になります」
山南が伊東とのやり取りを近藤や土方に暴露すれば、入隊したばかりの伊東の立場は悪くなる。それを彼が恐れない訳はない。伊東は口外する心配などしていないと、表向きはそう言ったものの、表情の緊張はほぐれていた。
「ただ私には何もできなかった。切腹の件は近藤局長から伺い、意見を申し上げましたが…覆らなかった。そのことを申し訳なく思っています」
伊東はしおらしく頭を下げる。しかし山南にはそれがいつも以上に芝居がかったように見えて、最後の最後まで得体の知れなさを実感させられる。
山南は処断の件には何も言わずに、切り出した。
「…伊東参謀、一つだけあなたに申し上げたいことがあります」
「何でしょうか」
「私はあなたに期待をしています。新撰組をより良い道へ導ける、道しるべとなられることを。しかし…私とは違い、新撰組は易々とあなたの手に下ることはありません」
きっぱりと言い切った台詞を聞いて伊東は視線を上げ、山南を見る。その目は体裁を取り繕う優美な参謀の瞳ではなく、彼の中にある本性を秘めたそれだ。
しかし新撰組は…仲間たちはそんな彼の表裏のある瞳や、周囲を騙す飾りなどには惑わされない。彼らは真っ直ぐにただ自分のあるべき道だけを信じて進むだろう。少なくとも山南はそう信じている。
「去る者が何を告げても仕方がないとわかっています。だから、それだけをお伝えします。新撰組をどうぞよろしくお願いします」
「……」
伊東はしばらく無表情のまま山南を見つめていた。そしてふっと息を吐いて頷く。
「あなたは私が思っていた以上に強情でした。だから、こんな思ってもいない結末になった…私の計算違いでした」
その声は時折聞いたあの低い声だ。おそらくはこれがもともとの声色なのだろう。
「それで、愚弟への言付けというのは?」
「ただ…ありがとうと、感謝を伝えてほしい」
「感謝?」
伊東は訝しげな表情を浮かべた。山南はその疑問に答える。
「…私の腕が斬られたとき、彼は咄嗟に私を助けてくれました。そのお礼をまだ言っていませんでしたから」
「そうですか…わかりました」
頷くと、伊東は膝を立てて立ち上がる。そして微笑み、
「では」
とあっさりと告げて去っていく。誰もが別れがたそうにこの部屋を去っていったが、伊東はそんなことはなかった。
(それだけの関係だったということだ…)
そんな彼にこの数か月間振り回されたのだから、可笑しなものだ。
過ぎていく足音を聞きながら、山南はまた目を閉じた。
そこに、得意の「黒髪」を舞う彼女の姿を探した。



青が薄くなり、赤と混じる夕焼けの頃。
「そろそろ時間だ」
八木邸で待つ総司に、そう告げに来たのは土方だった。憮然とした様子はいつもと変わりないが、顔色は悪い。
「…そうですか」
総司はそう言いつつ立ち上がり腰に刀を帯びる。加賀清光…上洛の際に近藤から受け取ってから、ずっと愛用してきた刀だ。
(…芹沢先生を斬ったのも、仲間を斬ったのも…この刀だ)
そしてまた今日も一人、手にかけることになる。
「土方さん…」
「…なんだ」
「私…ちゃんとやれるでしょうか…?」
総司は自分の両掌を見る。その指先が小刻みに震えていた。いままでどんな場面に立ち会っても、こんな風に身体の芯から震えたことなどなかったはずだ。
するとその震える指先に、土方の手のひらが重なった。
(冷たい…)
まるで血が流れていないかのように、土方の指先は冷たい。そして彼は重く口にした。
「俺がやる」
「……」
「思えば、お前にはこういう目に遭わせてばかりだ。いい加減…俺にも体験させろ」
土方は緊迫した空気を打ち砕こうと茶化したように言ったけれど、少し触れているだけで彼の緊張が伝わってくるようだ。
「…駄目ですよ。私から、言い出したんです。だから…ちゃんと、全うしなきゃ…」
きっと後悔する。
そう思ったからこそ、介錯を引き受けたのだから。
すると土方は「そうだな」と寂しく言って、もう片方の手で総司の頭を撫でた。子供をあやすような優しさに触れて、強張った身体が解けていく。
もう何かを語る必要はない。
こうして身を寄せているだけでいい。
「…もう大丈夫です」
介錯人に必要なのは弱さではない。躊躇いでも、悲しみでもない。
ただ切腹におもむく者が、せめて美しく苦しむことなく逝けるように…それだけを願うのだ。
(花となって散る様に…)
山南が口にしたその言葉が、総司にはいまは救いのように思った。
枯れて茎から朽ちるより、その花弁を散らして新しい花を咲かせる方が良いと望むのなら、それを叶えてあげることしかできない。

土方と共に山南が身を置く部屋を訪ねる。見張りの隊士に「もういい」と土方が告げると、彼らはすっと身を引いて去る。周囲には人はなく、まるでこの場だけが別の場所にあるかのような静けさがあった。
「…入るぞ」
土方はそう告げると、返事も待たずに障子を開けた。そこには切腹前の沐浴を済ませ、凛と髪を結い、真っ白な切腹裃に身を包んだ山南が穏やかに正座していた。
「山南さん…」
「…君は来てくれないのかと思っていたよ」
山南はそう言って、土方に穏やかに語りかける。土方はぐっと唇を噛み、その場に腰を下ろした。
「…あんたには俺の言葉はもう届かない。俺に会いたくはないだろうと思っていたからな」
「土方さん…」
最後の最後まで憎まれ口をたたく土方に総司は顔を歪ませるが、山南はそれさえもゆったりとした微笑みで受け取った。
「いや、むしろ君に一番会いたかったよ。君には言いたいことが沢山あるんだ」
「…なんだよ、最後の最後まで、文句かよ…」
「そう言わないでくれ」
微笑む山南と、不機嫌そうに顔を顰める土方。まるで二人の空気は仏の総長と鬼の副長のままだ。しかしだからこそ、総司はそれが最後なのかと思うと胸が締め付けられた。
「まず私の脱走については、西本願寺への移転に反対したためと隊士らには説明してほしい。幸いにも私が酷く移転に反対していたことは周囲に知れ渡っている。理由はそれだけで、それ以上はない。君はそう説明すればいい」
「…わかった」
「それから、私が死んだ後に局中法度以上に詳細な法度を作ることをお願いしたい」
「法度…?」
その申し出に土方は戸惑うが、山南は続けた。
「これから西本願寺へ移転したのちは、さらに隊士が増えるだろう。人が多ければそれだけ問題が増える。その時の為に細かな法度を決めておく方が良い。今の局中法度の五箇条だけでは心もとない」
「…それは、さらに隊士を締め付けるべきだということか?」
「仕方ないが、それが良いと私は思う」
「わかった…近藤局長と相談する」
二人の会話を聞いているだけの総司だったが、何も間の手を入れることはできなかった。
(今まさに局中法度に殉じようとしている人が…)
その法度を恨むことなく、さらにその法度を発展させるようにと忠告をしている。その未来に自分はいないのに。まるで信じられない光景だ。
「それから…これが、最後のお願いだ」
「…何だ」
「どうか信じてほしい。私は土方君を憎んでいるわけではないのだということを」
「あ…」
声を漏らしたのは総司だった。土方は一気に顔を強張らせたが、山南は尚も微笑んだまま続けた。
「確かに、君とは意見が合わないことも多かったし、何度も衝突をした。それに西本願寺へ移転の件は…未だに君菊さんのことを想うと、納得できない面はある。しかしそれでも私は君を憎んでいるわけでも、そして嫌いなわけでもない。それだけは信じてほしい」
「……」
「君はこれからさらに修羅の道を歩むのだろう。そしてその道をたった一人で歩いていくのだろう。私が同じ道を歩くことが叶わず、それどころか道を外れてしまったことは申し訳なく思っている。…しかし、その道は一人で歩くにはあまりにも過酷だ。大きくなった新撰組を一人で背負うことなどできるはずはないんだ」
そして山南は総司に視線を向けた。
「君には…君を支える人がいる。君と同じ道ではなくても、君のすぐ隣の道を歩いていきたいのだと願う人がいる。だから君はたまにはその鉄のような仮面の脱ぎ捨てて、彼に甘えたっていいんだ。私は…君の幸せを願っている」
誰も恨むことなく。
誰も憎むこともなく。
ただ一人で旅立とうとする。
ああ、
(どうして私は…)
この人を殺さなくてはならないのだろう。
誰よりも仲間を思い、誰よりも新撰組を想う彼を、どうして手にかけなければならないのだろう。
(神様は意地悪だ…)
誰をも責めることができないこの状況では、運命や宿命と言った形無いそれを恨むしかない。
山南の言葉を聞いて、土方は視線を落とし俯いた。涙こそ流さなかったものの、しかしその身体は少し震えていて
「あんたは…いつもそうだ」
「土方さん…」
「あんたは綺麗事ばっかり言って、自分の正しいことばかりを主張して、至極当然のことを胸を張って堂々と口にする。俺だって馬鹿じゃねえ。あんたが言っていることが正しいと分かっている。けれど敢えて悪者に徹する俺には、そんな清廉潔白なあんたが…いつも、疎ましく思っていた」
山南の表情は変わらない。
土方の葛藤も、山南への感情も…きっと知っていたのだろう。
「だからって…消えてほしいと思ったわけじゃねえ」
「土方君…」
「俺が行き過ぎたときは、あんたがいる。たとえ俺が隊士から憎まれて刺し殺されたとしても、あんたがいれば新撰組は何とかなる。今は疎ましく思ったとしても、今後必ず必要な人だ…そう思っていた…」
(土方さん…)
総司は言葉を発することすらできなかった。
本当は彼の背中を抱きしめたかった。哀しいのだと口にできない鬼の叫びを、涙を流すことができない鬼の悔しさを包み込みたかった。
『逝かないでほしい』
そう口にすることができない、彼を哀しく思った。
「困ったな…」
真っ白な切腹裃を纏った山南は、ようやくその表情を崩す。
「初めてだよ。脱走したことを…後悔したのは…」
涙こそ流さなかったものの、目尻には光るものがあった。
もっと向き合えていれば、もっと話をしていれば、もっと理解していれば、こんな結末を選ばないで済んだのだろうか。
すると土方がかっと目を鋭くし
「…馬鹿野郎…が…っ!そんなの、遅ぇんだよ…!」
と叫んだ。
試衛館にいた頃から、正論を述べる山南に対して土方はいつも皮肉っぽく反論してきた。二人にはいつも距離があって、だからこそ二人が互いに感情的にぶつけることはなかった。
最後の最後に交わす会話で、ようやく土方はその感情を山南にぶつける。
そしてそれを山南は受け止めて、そして詫びた。
「申し…わけ、…ない」
山南の途切れ途切れの言葉には後悔が混じる。
今まさに感情をぶつけ合い、二人はようやく友となったのだろう。
(遅すぎるけれど…この時しか、無かったんだ)
二人がわかりあえるのは、きっとこの時までかかったのだ。
「頼んだよ…」
山南はぽつりとそう呟いた。それは土方への餞別か、総司への願いか…それはわからなかった。


293


視界が閉ざされた分、鋭くなった耳からは、しかし雑然とした音しか入ってこない。部屋の小窓に身を寄せて、遠い場所の音を、彼を探す。
(どうしてやの…?)
その手元には、山南が置いて行ったという風呂敷があった。
『何や、店が仕舞いになる頃にいらっしゃって…明里はもうすぐ帰るってお引止めしたんやけど、これを置いていってしもうたわ』
『…お母はん、これ…』
目が見えない明里だが、しかしその風呂敷の中身は触れればすぐに見当がついた。驚いて『どうゆうこと?』と女将に訊ねるが、
『わからへんわ…』
と女将も事情は良く知らないらしい。
山南は『また来る』と言って、店を後にしたようだがこの中身を知れば、その言葉が偽りなのではないかという嫌な予感ばかりがした。
壬生の屯所は遠くはない。使いの者を遣れば、すぐに連絡が取れるだろう。
(それなのに、なんでや…)
こんなに、不安になるのだろう。
「明里姐はん!」
小常の大きな声と部屋の襖が乱暴に開く音がして、明里はびくっと身体を震わせた。音に敏感な明里に配慮して、店ではあまり大きな物音を立てないように配慮されている。だからこそ、ただならぬことが起きたのだと明里はすぐに察した。
「小常ちゃん…どない…」
「姐さん、落ち着いて聞いて。いま、うちんとこに永倉せんせのところの方が来られてな…すぐに屯所に来てほしいって」
「…どうして…?」
小常は明里の手を取る。落ち着いてほしいと言ったのに、小常の指先の方が小刻みに震えていた。
「小常ちゃん…?」
「山南せんせ、切腹やって」
「…え…?」
言葉の意味を理解するのには、時間がかかった。
しかし身体はその意味をすぐに理解して、小常と重ねた指先から足の先へと震えが伝わり、膝に置いていた風呂敷を畳に落とす。
その風呂敷からは、重たい小判が甲高い音を立てて溢れ落ちた。


空が赤く染まる頃、土方の口から山南切腹が隊士たちに伝えられた。既に脱走の事実は知れ渡っていたものの、総長でありまた旧知の仲である山南の命までもを処断するという決定は、忽ち隊士たちを動揺させた。
しかし幹部たちの冷たく張りつめた緊張感と、土方の誰をも寄せ付けない物言いに歯向かう隊士は誰一人としていない。
「切腹は七ツ時に執り行う」
粛々とした発表に、隊士たちは息をのみその時間がもうすぐそこに迫っているのだと実感させられた。

「介添人は永倉さんですか」
総司は身なりを整えて、同じ部屋に控える永倉に声をかける。介錯人は切腹者の最後の一瞬に立ち会い、介添人はその覚悟の現れとして切腹刀を運ぶ重要な役目を担う。永倉は顔を強張らせたまま「ああ」と返答した。
「山南さんが指名してくれたからな…光栄に思う」
「そうですね…」
武士として誇り高く去る、その最後の一瞬を託す――…それは思った以上に責任の大きな仕事だった。総司の中にも自然と重いプレッシャーがかかる。
すると永倉が「大丈夫か?」と声をかけてきた。おそらくは固い表情をしていたのだろう。総司はぎこちないながらも微笑みで返す。
「大丈夫です。もう…覚悟はできました。それに永倉さんが介添役なら安心です」
「…いや、俺はまだ何も理解できていないような気がするんだ」
「え?」
永倉は苦々しい表情で総司から視線を外した。
「まだ納得ができない。この状況を打破できるのではないかと…思ってしまう。山南さんがそんなことを望んでいないと分かっていても、俺は生きていてほしいと思う」
「永倉さん…」
彼の本音は、もちろん総司のそれと一緒だ。同じ釜の飯を食べてここまでやってきた仲間を簡単に切り捨てられないのは当たり前のことだ。生真面目な永倉ならなおのことだ。
しかし彼はふっと息を吐いて、その表情を和らげる。
「でも、頼まれてしまったんだ。今回のことで隊に亀裂を生むのは山南さんの本意ではないのだと。だったら…納得ができなくても、納得をしなければならない。それが俺に出来る最後の恩返しだと信じるしかない」
そう言って永倉は微笑む。総司はゆっくりと頷いた。
(山南さんは…すべてを柔らかく包んでくれたんだ)
自分が去ることによって、何が起こるのか、どんな亀裂が生まれるのかを予想して、先回りをして。そして誰かが誰かを恨まないで済むように慰めてくれているのだろう。
「花と散る…か…」
きっとこの散り際は、本当に美しいものになるだろう。
総司が決意を新たにした、その時だった。
「新八!間に合ったぞ!」
張りつめた空気が流れる中、爆音のような原田の声が響く。永倉ははっと表情を変えて声のする方へ駆けだした。総司も後を追い、前川邸の門前までやってくる。
「左之助、遅い!」
「うるせえな!間に合ったんだからいいじゃねぇかよ!」
息を荒げる原田の後ろには、駕籠かきの男が二人いてその駕籠からは艶やかな衣装に身を包んだ女がいた。その顔を見て総司はすぐに名を呼んだ。
「明里さん!」
「…沖田、せんせ…?」
声を探す様に視線を泳がせた明里に、総司はさっと近づいて手を取る。すると彼女は少し安堵したようだが、すぐにその表情を強張らせた。
「あの…山南せんせが…切腹って…ほんま、に…?」
「…っ、」
未だに信じられない様子の明里だが、七ツ時はすぐだ。総司は意を決して「はい」と答えた。
「山南さんは隊規違反の咎によりもう間もなく切腹となります」
簡潔に説明をすると、明里の表情が固まり声を漏らす様に
「せやから…うちの…とこに…」
と呟く。
「山南さんが明里さんの所へ?」
「へぇ…でも、うち…」
「総司、もう時間が無い」
ここで話している時間はないのだと永倉に急かされて、総司も頷いた。明里を呼んだのは永倉なのだろう。そして明里の様子を見れば、彼女は山南の脱走を知らなかったということだ。
だったら別れの言葉さえ交わしていない。
しかし、妻ならともなく遊女である明里を屯所の中に通すわけにはいかない。総司は明里の手を引いて、山南が座している部屋と小窓で通じ合える場所に連れてきた。
明里はすぐにその窓に縋る様に手を当てて、
「山南せんせ…!」
と叫んだ。するとその奥で人影が動き、その障子がゆっくりと開かれる。
「明里…」
山南は嬉しさと悲しさを織り交ぜた複雑な表情で顔を覗かせる。
「なんで…?こんな、うち…聞いてへんよ、せんせぇ…!」
明里は悲痛な声で叫ぶ。そして何度も何度も山南の名前を呼んだ。涙をボロボロと流し、今生の別れを嫌がる明里はまるで子供のようだ。
「…原田さん、彼女のことを任せます」
「総司?」
ここまで明里を連れてきた総司だが、その場を離れた。
(…私は、山南さんの首を落とす)
そんな自分がどうしてこの場にいられるというのだろう。
彼女の憎しみの矛先が向いてもおかしくない自分が、傍に居られるわけはないのだ。
総司は足早にその場を離れた。

全てが穏やかに静まり、後は時を待つだけだと覚悟をし、ただただ無心を努めていたのに、明里の泣きじゃくる声を聞くと心がぎゅっと傷んだ。
忘れようとした彼女への思いが湧き上がる。それは切腹の覚悟さえ覆してしまうほどの想いになる。
(しかし、もう戻れないんだ)
「明里…聞いてくれ」
抱きしめたいのは山々だが、窓の鉄格子のせいでそれは叶わない。山南は格子から手を伸ばし、彼女の白い頬に触れた。
「すまない。君に別れを告げる勇気が無かった私を…許してくれ」
「…っ、うちには、難しいことは、わからへん…!けど、なんで?なんで死ななあかんの…?」
「それは私の選んだ道だからだ。…お願いだ、納得はできなくてもいい。だから、君は誰も恨まないでくれ。君には誰かを憎んでほしくはない」
「そんな…!」
明里が格子越しに伸ばした山南の手を、ぎゅっと強く掴む。
「うちを、身請けしてくれはるって…!うちは、それを、待って…」
「君には…私以上に、君を幸せにしてくれる人に出会えるはずだ」
「そんなの、山南せんせの決めることやない…!」
いつも穏やかで、人に意見などしない明里が、その感情を露わにして反抗する。
「うちには、山南せんせしか…おらんのに…」
「明里…」
「いやや…!いかんといて!もう、置いていかんといて…」
明里は大粒の涙を流し、懇願する。その細く白い指先が可哀そうなほどに震えていて、切なさが募っていく。
しかしそれを断ち切るのだと選んだのは自分自身なのだ。
「…明里、君に渡したあの金は君を身請けするために貯めていた金だ。足りないだろうが、君が身請けされた暁にはその目を治してもらえる医者にかかりなさい」
「目…?」
「君の目を治してくれるなら、私は君が…他の男に身請けされても構わない。君がこの世界で幸せに生きてくれるなら、私にとってそれが一番の望みなのだから」
それが誰であっても構わない。彼女のことを大切にしてくれるなら。そしてその場所で君が笑っていられるなら。
山南は明里の頭を撫で、そしてそのまま輪郭に手を滑らせる。そして大粒の涙を彼女の代わりに拭う。
「お別れだ」
「いや…」
取りすがる様に伸ばした明里の手から逃れるように、山南はその身体を窓から引いた。長く彼女と話をしていれば、決意が鈍る。誰にもゆるがせられなかったこの決意を、崩してしまう。
「明里…君の名前は『冥利』とも読むんだ。だから、君の未来はきっと仏や菩薩に見守れている。だから、大丈夫だ。何も怖がることはない。この世界は…美しいのだから」
私がいない世界でも、君はきっと幸せになれるだろう。
その願いを込めて、山南はそのままゆっくりと障子を閉じた。
窓の外からは明里の絶叫にも似た悲鳴が木霊していた。山南はその場に膝をつき、呆然とその彼女の悲しみに向き合った。
「頼むから…」
私を許してほしい。
そしてまた笑って欲しい。
いま彼女は混乱し、錯乱し、山南の言葉をまともには理解できなかっただろう。しかし彼女に伝えた言葉がこの後の人生の救いとなるように、と山南は目を閉じて手を合わせて祈る。
「山南総長」
襖の向こうから、固い声が山南を呼ぶ。すっと開いて顔を見せたのは斉藤だった。
「もう宜しいでしょうか」
いつまでもぐずぐずしていては決意が鈍るだけだ。そしてそれは自分が望む最上の最期を揺るがせてしまう。
「ああ…大丈夫だ」
山南は迷いなく頷いた。


北に向いた切腹の座に山南が座る。そして隊の全幹部が揃いその真っ白な舞台を見守る。
「新撰組総長、山南敬助。脱走の咎により、局中法度に則り切腹を命ずる」
近藤の重々しい言葉が、厳粛な間に響く。
「ありがたき仕合せに存じます」
白小袖に上下の水浅葱の麻無紋を纏った山南が礼を言って、仄かに微笑む。
そして水入りの銚子を手に取り、末期の盃を二口飲み終えた。そして介添人の永倉が切腹刀を三方に乗せて、山南の前に置いた。痛みを堪えられないことを恐れて扇で代用する者が多いなかで、断固として腹を斬る痛みを受け入れると言う山南の意思で鋭い刀が準備されていた。
総司はその後ろで鞘を払い抜刀し構える。
(私が合図をするまで、待っていてくれ)
切腹に臨む前に山南からそう頼まれていた。総司は痛みを堪える山南のわずかな合図を見逃さまいと意識を集中させた。
山南は目礼し、右左の順で肌を晒した。
そしてその鋭利な刃先が山南を捉える。
緊迫した空気が一気にその緊張をさらに高める。
近藤はその表情を変えず、瞬きも忘れて山南を見ていた。土方は深く眉間に皺を刻んで睨むように見つめ、伊東はどこか剣呑とした様子で構えていた。他の幹部らも息を飲み、それぞれがそれぞれの感情でこの場に立ち会う。
そしてついに刀は左腹部に突き立てられ、渾身の力で引かれる。
声も漏らさず、静かな最後を遂げようとする勇敢な姿に、皆が絶句する。その一瞬の後、総司と山南の視線が交わった。
総司は刀を一閃させる。
そして全てが終わり、静けさだけが残った。
最後の最後まで己の意志を貫き、凛とした姿で、まるで花が散る様に、彼はこの場を去っていった。




空は闇に落ち、星々もその輝きを雲の奥へと隠した。
静謐で厳粛であった儀式を見届けたあとの屯所は、静けさに包まれていた。
そんななか、総司は一人八木邸の井戸の前にいた。寝静まった隊士たちを起こさないように、井戸水を汲み上げて、冷え切った氷水のようなそのなかに自分の両手を入れる。冷たさで指先がかじかむが、構わない。むしろそのほうが良い。
それを何度も繰り返していると、ふと背後に人影を感じた。
「…土方さんですか?」
その姿は見えなかったけれど、それが誰かなんてことはすぐに分かった。一本の蝋燭を手にした土方が
「何やっているんだ」
と怪訝そうにこちらにやってきたが、総司は構わずまた井戸の水をくみ上げる。
「手をね…洗っているんですよ」
冷たい水の中に、真っ赤になった指先を漬ける。痛むほどの冷たさだが、それでもまだ足りない。汲み上げた桶の中で泳がせるように指先を流すと、土方がその傍に蝋燭を置いて、その手を無理矢理引き上げた。
「…いつからこんなことやっているんだ」
「いつから…か、そんなことはわかりませんけど…少なくとも十回はこの桶を引き上げたような気がします」
淡々と告げる総司だが、その指先は震えていた。
冷たさと、そして
「…消えないんです」
山南を終わらせた、あの感触が指先に、身体中に残っている。
「こんなにも…鮮烈な感触だとは、知りませんでした。今までとは明らかに違う…私は…」
「総司…」
「私には…耐えられないほどの…!」
叫びだしそうなほどの、強烈な感触が身体中に残っている。刻み込まれている。
総司は自ら土方の身体に身を寄せた。冷水でかじかんだ指先を、必死に土方の背中に回した。すると土方は総司の頭に手を回して、ぎゅっと自分の方に押し付けるようにして抱きしめた。
「…お前のその痛みは、お前ひとりで抱えられるようなものじゃない」
「ひじ…」
「いいから、一緒に来い」
土方は総司の冷たい手を取って、歩き出す。蝋燭をもう片方に灯して土方は屯所を出て真っ直ぐに歩く。
どこへ行くのか…。
それは何となくわかった気がした。こんな時に屯所を抜け出すのはどうかとか、いつもならそんな文句を言っていただろうが、しかし今の総司にはそのような余裕はなく、手を引かれるがままに土方について歩いた。
そしてたどり着いたのは屯所からほど近い別宅だ。真っ暗な家にはもちろん世話をつとめるみねの姿はない。土方は総司を家に上げて、そしてそのまま部屋に入った。
「ひじか…」
「もう何も言うな」
土方はそう言うと、ゆっくりと総司を押し倒す。ふわりと重なった土方の体温や匂いが何故か懐かしく感じて、涙が滲みそうになった。
「…一回、真っ白になれ。俺たちはこの痛みを忘れなきゃならねえ。でも…それは消えたりはしない」
だから、忘れても大丈夫だと。
土方はそう告げて、唇を重ねた。啄むような口付けが、やがて貪るようなそれに変わっていく。総司はその口腔で重なった唇で、ようやく身体に体温が戻ってくるような熱さを感じた。まるで冷え切った身体が上書きされていくかのように。
「…っ、と…し…」
冷たい部屋に二人分の熱い吐息が漏れる。
土方は輪郭を撫でるようにして包みこむ。そして襟に手をかけて地肌を晒し、重ねていくようにお互いを貪る。
同じ体温になるまで重なっていって。
「…ぁ…」
一番奥まで触れていく。
土方は自分の唾液を指先に含ませて、ゆっくりと解いていった。最初は力が入り固く閉ざされていた場所が、開かれていく。
いま、きっと自分は弱くなっている。
総司はされるがままに翻弄される自分を、そんな風に思った。
(でもきっと…それは悪いことじゃないんだ…)
「としぞ…さん」
昔の呼び方で彼の名前を口にする。土方は「何だ」と優しく訊ねた。
そして彼の首元に抱き着くようにして身体を起こし、小さくその耳元で呟いた。
「…歳三さんを…入れてください」
「総司…?」
「もう、大丈夫だから」
総司にとってはすべてが未知のことだ。だからこの先に何があるのかはわからない。
けれど、わかるのは。
きっとそれは彼となら大丈夫だということ。
「ああ…わかった」
土方は額に口づける。そしてゆっくりと、総司の様子を窺いながらその身体を繋げた。
「あ…あぁ…」
下腹部が圧迫し、かつてない感触と痛みに息が上がる。これが土方がずっと自分に求めていたことなのか、と頭は変に冷静だったけれど、しかし土方はどこか不安げに
「大丈夫か?」
と訊ねてきた。
「大丈夫…です、だから…」
身体の奥にもっと、刻み込んでほしい。
総司が手を伸ばすと、土方は指先を交差させるよう重ねて「わかった」と言った。
「気持ちよくしてやる」
その宣言通り、土方はまるで何もかもを知っていたかのように、総司を翻弄した。最初は堪えていた声が、次第に余裕が無くなるにつれて溢れてしまい、総司は必死に両手で口をふさぐ。しかし土方はそれを許してはくれない。
「聞かせろ」
そう言って、腕を頭上に固定してしまい、総司にはただただ唇を噛んで耐えるしかできない。
だが、身体中が揺れるような激しい突き上げに耐えきれず
「あっ、あぁ!」
と声は漏れた。そして土方は次第に激しく腰を上下させていき、総司は自分のなかに何かが段々と湧き上がってくるのを感じた。
「とし、ぞ…さん、もう、もうも…、駄目…」
「いくか…?」
「んっ、ふ…あ…あぁ」
そしてまるで身体中が弾けるような感覚で、一気に体の力が抜けた。そして繋がっている部分からも暖かい感触がして彼も同じように吐き出したのだと分かった。
「…総司…」
土方は隣に体を横たえる。そしてその腕の中に引き寄せられた総司は、荒い息のままそのまま眠りについた。
不思議と夢は見なかった。
けれど、その眠りはとても暖かかった。





294


切腹の後、伊東は誰よりも最初にその場から出て、そのまま八木邸の離れに戻った。
「お帰りなさいませ、伊東参謀」
「内海か…」
敢えて他人行儀な言い方をした内海が畏まって伊東を出迎える。伊東は返答もそこそこに部屋に入り、そしてそのまま腰を下ろした。
「いかがでしたか?」
「…美しい光景だった」
「美しい…ですか」
人の死にぎわに相応しい言葉だろうか、と内海は怪訝そうな顔をしたが、伊東にはその言葉の選択が間違いだとは思わなかった。
「あの四十七士さえも切腹の際は死を恐れ、扇子を用いたという話だったが、総長は扇子腹を嫌い文字通り腹を裂いて死を受け入れた。沖田くんの介錯もまるで風を切るかのように鮮やかで…壮絶だったが、それゆえに美しい最期だったよ」
組長以上の幹部たちが見守るなか、かつてない緊迫感に包まれても山南は穏やかな表情を崩さなかった。抵抗も恨み言もなく静かに死を受け入れ、鮮やかに散った。それはおそらく一生忘れない姿だったと思う。
しかし伊東は肘掛けに身体を預けて、「はぁ」と息を吐いた。
「だが、私の思惑はこれで見事に外れてしまった。山南総長の死は、返って新撰組の結束を強めることになるだろう。これは長期戦を覚悟しなければならないなあ…」
やれやれとこめかみに手を当てて見せた伊東だが、内海はすかさず「最初からそのおつもりだったのでしょう?」と指摘する。聡い部下の返答に伊東はにやりと笑って
「…それは秘密」
と半ば肯定して答えた。今度は内海がため息をついたが、そうしていると「失礼します」という固い挨拶が聞こえてきた。
声の主に気が付いた伊東は、身体を起こしたが不機嫌そうな表情を作って、返答はしない。代わりに内海が「どうぞ」と答えて招き入れた。
「兄上…只今、戻りました」
実の弟である鈴木はあからさまに青ざめた表情で頭を下げた。切腹は組長全員が揃ったため、鈴木も山南の切腹に立ち会ったのだ。
「…そこに座りなさい」
伊東は鈴木に自分の目の前を指定して座らせた。固い表情のままの鈴木は伊東の言うとおりに座り、堅く唇を噛んで拳を握りしめている。
「席を外しましょう」
内海はそう言って腰を上げようとしたが、「いい」と伊東が止めた。内海がいるからこそ冷静に話ができるのだ。
そして伊東は鈴木をじっと見て、口を開いた。
「いい加減、その辛気臭い表情は止めなさい」
「…兄上…」
「お前が明里とかいう山南総長の馴染みにちょっかいを出していたことなら知っている」
「!」
それまで俯いていた視線が、驚きと共に伊東のそれと重なる。その態度を見て、どうやら土方の作り話ではないらしいと伊東は悟った。
「お前が何を考えてそのようなことをしたのかは大方予想が付く。そして今、お前は山南総長の脱走の一因を自分が担ったのではないか…考えているのはそのようなことだろう」
「……」
容赦ない指摘に鈴木は声さえ洩らさない。
伊東は更に続けた。
「自意識過剰はそのくらいにしておけ」
「あ…兄上…」
「山南総長の脱走の理由は、そのような私事ではない」
伊東の言葉に、鈴木は傷つきながらもほっと安堵した表情を見せる。しかし伊東は厳しい眼差しを崩さなかった。
「ただし、土方副長には勘付かれた。これはお前の落ち度だ」
「…っ…申し訳…」
「謝罪はいい。ただこうなった以上、お前が落籍するのは難しいだろうが、それなりの落とし前をつけなければならない」
芝居がかったため息に、鈴木が怯える。伊東も分かっていてそうしているのだ。伊東は仕方なく懐から小さく折りたたんだ手紙を取り、鈴木に投げた。
鈴木はそれを恐々受け取る。
「これは…」
「私の大坂の知り合いだ。大店のご子息がちょうど山南総長の馴染みのことをご存じで、お前のかわりに落籍しても良いと話がついている」
鈴木は手紙を開き、素早く目に通す。
伊東は続けた。
「あとはお前に任せる。お前が女に横やりを入れて山南総長が脱走したなどと下劣な噂が立つ前に、どうにかしろ」
「…わかりました」
鈴木は手紙を元通りに畳むと懐に入れた。
「兄上、申し訳ございませんでした…」
謝らなくても良いと言ったが鈴木の気が収まらなかったのだろう。深々と頭を下げる。そしてそのまま重たい足取りで部屋を出て行った。
内海はその様子を見ながら苦笑した。
「あなたの兄らしい一面を久々に見たような気がします」
「そういう言い方は止めてくれ」
伊東はまた気だるげに姿勢を崩し、眉間に皺を寄せた。
「あれは血がつながっているだけの、不出来な弟の後始末だよ。このことを土方副長への借りにするわけにはいかない。それに尻拭いをするのは後々の為になる」
「はいはい。そうですね」
内海はさらりと聞き流して「茶でも入れてきましょう」と言って席を立ち、部屋を去っていく。
一人きりになった部屋で
(兄らしいものか…)
ふん、と鼻を鳴らし伊東は自嘲する。
山南の最期の伝言を、伊東は鈴木に伝えるつもりはなかった。それを伝えれば、鈴木が少しは救われるだろうが、しかしそれでは鈴木の為にならないだろうし、感謝されるよりも憎まれる方が気が楽だろう。
恐らく内海などに言わせれば
『それはあなたなりの気遣いでしょう』
と微笑ましく言うのだろうが、そうではない。
「…これはきっと罰なんだよ、内海」
伊東はぽつりと呟いた。


一方。
「いつまでも泣いているなよ、左之助」
永倉の慰めにも、原田は
「うるせえ、今日はいいだろう…」
と膝を抱えたまま、赤い目を擦る。永倉はため息をついたが「わからないでもないが」と同意した。
切腹の場面を目撃した幹部たちは、みな一様に言葉少なく退出した。永倉と原田、そして斉藤は何となく八木邸の一室に集まっていた。
結局、詳しい処断の理由や脱走の原因などは伏せられたままで、ただただ土方の口からは
「西本願寺への移転への反対を理由に脱走。局中法度違反により切腹」
という当然の理屈だけが語られた。納得が出来ないのは当然だが、それを受け入れるべしというのは近藤の命令であり、そして山南の願いでもあった。だから今は悼むしかできない。それに切腹を目撃した組長以上はまだしも、平隊士は状況が分からず困惑し、動揺したままなのだ。
「…そういえば、総司がいないな。どこに行ったんだ?」
永倉はこの場にいるもう一人の存在に声をかける。
「さあ…」
斉藤は無表情に刀の手入れを続けていたが、いつもよりもどことなく表情が固く、口元もへの字に曲がっている。
「どうせ、土方さんのところだろう。別宅も持ってるんだし、いいよな!」
原田が恨み節のように嘆き、「畜生」と息を吐く。
「俺だってまさちゃんを嫁にもらって、別宅を構えてみてえよ」
「じゃあ、そうすればいいだろう」
「馬鹿野郎、肝心のまさちゃんが駄目って言ってんだから無理じゃねえかよ!」
「こっちに八つ当たりするなよ…」
まるでいじけた子供みたいじゃないか、と永倉は自分の手拭いも差し出した。原田は受け取ると早速鼻をかむ。
すると傍にいた斉藤がぽつりと呟いた。
「あまり沖田さんを責めるな。今回のことで一番傷ついているのは沖田さんだろう」
「総司がかぁ?あいつ、淡々としてたぞ」
「そう見えるだけだ」
斉藤の言葉には相変わらず感情は無い。ただいつもよりも語気は強く、まるで庇うかのようだ。
「仲間だと思っていた人の追っ手になり、最後の介錯を務めた。その心労は計り知れない。…俺には最後の時、泣いているようにしか見えなかった」
「…斉藤にしては感傷的だな」
いつも言葉少なく、肝心なこと以外は口にしない斉藤にしては、らしくない台詞だ。永倉がそう返答すると
「贔屓していることは認めよう」
と斉藤は認めた。ますますらしくない。
(斉藤も斉藤なりに動揺をしているのだろうか…)
永倉がそんなことを考えていると、鼻をかみ切ったらしい原田が
「お前、ほんと総司のこと好きだよなあ」
と世間話の一つのようにあっさりと核心に触れた。永倉は驚いて「左之助!」と制する。
例え周囲が知っていたとしても、本人は秘めているのだから余計な口出しは無用だ。流石の斉藤も怒るのではないかと、永倉はハラハラしたが、当の本人は表情を変えることなく頷いた。
「ああ。だから、贔屓だろう」
「…」
「…」
さらりと認めた斉藤は相変わらず刀の手入れに勤しんでいた。



295


元治二年二月二十四日。澄み切った空の元、屯所にほど近い光縁寺にて新撰組総長山南敬助の葬儀が執り行われた。しめやかな葬儀に隊士すべてが参列し、その最期を見送った。
その席で伊東が歌を詠んだ。
「吹風に しほまむよりは 山桜 散りてあとなき 花そいさまし」
その歌は隊士たちの涙を誘った。山南が「花のように散りたい」と言っていたことを、伊東は知らないはずだ。しかしその伊東が山南の最期をそのように見え、歌ったというのなら、山南の願いはかなったということなのだろう。総司はその歌でまた少し大津でのことを思いだし、一層の寂しさを感じた。
線香の匂いが漂う中、温厚な優しさで包むような総長の人柄か、隊士たちは皆、鎮痛な表情を浮かべ、何名かの隊士は号泣し墓に手を合わせた。その一人が、山南総長の世話役を務めた山野だった。
「…っ…く…」
声を押し殺しつつも、涙を流す山野の肩に島田がそっと手を置いた。山南が脱走した際に傍に控えていながら気が付かなかった…山野はずっとその事を責め続けているようで、ろくに寝ていないのか目には隈を作り顔色は青ざめている。その傍にいる島田も痛ましい表情で山野を見つめ、何度も軽く肩を叩いて励ましていた。
総司は手を合わせ終えた二人のもとにそっと近づいた。
「山野君、今回のことはご苦労様でした」
「…沖田先生…」
山野は潤んだ瞳で総司を見て、ふらりと歩み寄った。総司も彼を抱きしめた。小柄な彼の身体が、いつも以上に頼りなく感じた。
「僕は…とても、取り返しのつかない…こと…を」
総司の腕の中で身体を震わせる山野に、出来るだけ穏やかな声で総司は告げる。
「山野君が自分を責める必要はありませんよ。見張りの隊士や門番の隊士もいたはずです。それを潜り抜けて総長は脱走をされたんですから」
「でも…僕は世話役を任されていて…!」
「君といた時の山南総長は楽しそうでしたよ。だから、誰も君を責めたりはしない…そうでしょう?」
「あ…」
総司は山野に視線を向け、そして島田の方を向いた。島田は目じりに貯めた涙をぬぐい、何度も「その通りだ」と頷いた。
そして総司は何度か山野をあやすようにして肩を叩き、その後を島田に任せた。
「山野君、明日から一番隊に復帰です。その時には元気になっててくださいね」
「…はい…!」
山野は必死に涙をぬぐい頷いた。総司はその姿に安堵して、「宜しく」と島田に言付ける。
そして総司は光縁寺を出た。隊士だけではなく、近所の住人も参列の中にあり山南がどれだけ親切者で知られたかが良くわかった。
山南を見送った時、不思議と涙は出てこなかった。介錯人を務めた自分が泣くべきではないと思っていたし、それに涙は既に枯れていた。
(…土方さんのおかげかな)
「おい」
「うわっ!」
思い浮かべていた人の声が聞こえて、総司は驚いて声を上げる。土方は訝しげにに「何だよ」と不機嫌そうに尋ねるが、総司は首を振って何でもないと言った。
「近藤先生のご様子はいかがでしたか?」
「ああ…目元は腫らしているようだが、気丈に振舞っている。心配ないだろう」
「そうですか…良かった」
切腹のあと、近藤は「一人にしてくれ」と言って部屋に籠ってしまった。試衛館の頃から誰よりも山南と友好を深めていた近藤の心痛は計り知れない。このまま悪い方向へ進んでしまうのではないかと危惧していたが、近藤もすべてを放り投げるような真似はせず、総司としても安堵した。
すると土方は
「お前はどうなんだよ」
と訊ねてきた。
「どうって…?」
「身体の方だよ」
あっさりとした返答を最初は理解できなかった総司だが、はっとして顔を赤らめた。
「だ、大丈夫ですよ!もう、こんなところで変なこと言わないでください」
「変なことじゃねえだろう。一回で済まそうと思ったのに、お前が…」
「いいですからっ!」
総司は慌てて手を伸ばして、土方の口を塞ぐ。隊士たちも大勢いるなか誰に聞かれているかもわからないのだ。
しかし、土方の言う通り身体の気だるさはあった。それまで感じたこともないような疲労感で、足腰はふらふらしている。それをどうにか誤魔化してここにいるのだ。
これまでずっと避け続けていた。それを選んだ昨夜の行為は感情的な選択だったが、しかし全く後悔はなかった。むしろあの夜が無かったら、とても平常心で山南を見送ることなどできなかっただろう。
「…土方さんには感謝しています」
「ん?」
「忘れてもいい、心配しなくても消えることはないって言っていたじゃないですか。その通りだなあって思ったんですよ」
総司は土方の口にあてがった手を離し、そのままその平を見つめた。
介錯のあと、そこに残っていた感触は土方と一夜を過ごすことでようやく消えた。
でも本当は怖かった。迷っていた。
消えてしまってもいいのか。この傷を、この痛みを、この後悔を忘れてしまってもいいのか。自分たちは、山南の死を負わなければならないのではないか。
そう自問自答していたけれど、忘れることでしか前へは進めないし、忘れたところで、消えるわけではないのだと、土方がそう言ってくれた。だからこそ納得できて、どうしようもない気持ちのやり場を見つけることができた。
「だから、大丈夫ですよ。私はもう…後悔はしない」
たぶん、これから先も、ことあるごとに思い出す事だろう。
あの柔和な笑顔を。
あの優しい言葉を。
そのたびにこの悲しさは溢れてくる。
けれど、あの人が選んだ最期を後悔する権利など、本人以外の誰にもないのだ。
総司は空を見を上げた。薄い雲が青い空に靡く。彼はその先にいる。その先できっと見守ってくれている。そう信じていられる。
すると土方はふっとその整った顔立ちを緩めて「そうだな」と頷いて、
「…帰るぞ。やることがいっぱいあるんだ」
ぶっきらぼうにそう言いつつも、そっと総司の手を取った。そして手を引いて歩き出す。その横顔はとても精悍に見えた。
これから土方はますます新撰組の屋台骨を支える存在になるだろう。信頼がおけるとは言い難い伊東と折衝をしながら、この難しい世の中を渡っていかなければならない。
一人で抱えて、一人で考え込んでしまうだろう。
喧嘩をしながらも前に進む仲間は、いなくなってしまった。
『土方さんこそ、大丈夫なんですか?』
総司はそう問いかけようとして、しかしやめた。彼はこういう時だからこそ本心を口にはしないだろう。彼が弱いところを見せたのは、山南と向き合ったあの時だけだ。
『どうか信じてほしい。私は土方君を憎んでいるわけではないのだということを』
山南が遺した言葉は、今後土方にとって救いの一言になるはずだ。恥ずかしがり屋でぶっきら棒な彼だけれど、本当は嬉しかっただろうから。
(わかる…)
ちゃんとこの人のことが分かる。前よりも、ずっと。自然と融けてくるようだ。
総司は隣を歩く幸せを、噛みしめた。


二人で光縁寺から西へ戻り、南へ向かえば屯所に戻る角…というところで、
「沖田様ぁ!」
と必死に叫ぶ声が聞こえた。総司が足を止め振り返ると、中年くらいの女性が手を挙げてこちらに駆け寄ってきていた。
「あ…女将さん?」
彼女は明里の置屋の女将だ。はあはあと息荒く駆け寄った彼女は、まるで縋るように総司の両腕を持ち、
「明里を!明里を見てまへんやろか…?!」
と必死に訊ねてきた。女将のただならぬ様子に驚きつつ、総司は土方に視線をやるが、彼も首を横に振った。
明里は山南との最後の別れの後、永倉や原田に付き添われて八木家に預けられた。とても憔悴しきっていて店に戻れるような状態ではなかったのだ。しかし、その後八木家の奥方が夜のうちに店の戻ったと知らせてくれたので、無事に戻ったのかと思っていたのだが、
「一度、うちんとこ戻ってきて…せたけど、部屋にも店にも…どこにもおりまへんのや…!」
「いなくなったのはいつ頃だ?」
土方が訊ねるが、女将は「朝には…」と曖昧な答えだった。
「一人きりにしてやろうゆうて…目ぇを離してしもうて…!明里はどこかへ一人で行けるような体やおへん!きっと思いつめて…死ぬんやないやろか…!」
君菊を亡くし、山南を失ったいま、明里が何を考えているのか想像に難くない。女将は悪い方へ悪い方へと考え、終いには号泣しその場に膝をついて座り込んでしまった。
その姿に困惑する土方だが、総司は女将の視線と合わせるように片膝をついた。
「大丈夫です。行先は…わかります」
「総司?」
いつにない断言に土方は驚くが、総司は説明はしなかった。
そして総司は女将の腕を引いて、そのまま屯所に向けて歩き出した。丁度出くわした八木家の奥方に女将を預けて、そのまま南へ向かう。
「土方さん、行きましょう」
「行くって…お前、どこへ…」
「西本願寺ですよ」
総司は迷いなく答えて、駆けだした。




296


その場所は髪を揺らす程度の爽やかな風が吹き、まるで身体中が何かに包まれたかのような温もりに溢れていた。冬の冷たい空から覗く陽の光は耳元で何かを囁くようなくすぐったさがある。
店から抜け出し、駕籠を捕まえてたどたどしい足元ながらも西本願寺までやって来た。丁度通りかかった僧侶に声をかけて、君菊の墓まで案内してもらった。
(姐さん…)
手探りで小さな墓に触れる。陽光で暖まった墓石は、人肌のように温もっていた。その温かさに触れ、涙がじわりとうかんできた。
目が見えなくなって数年が経ち、もう外の世界がどんなものだったかなんて忘れてしまった。真っ暗闇に落とされたまま、出口のない場所をさまよい続けていた。
しかし、その絶望の中で、明里は二つの光に出会った。
一つ目は目が見えなくなった時より前から世話を焼いてくれていた君菊だ。澄み切った歌声と裏表のない明るい性格で多くの人に愛されていた。分け隔てない優しさを明里に惜しみなく注いでくれた。
闇のなかでも希望があるはずだと、信じさせてくれた。本物の姉のように慕った。
しかしその光は突然閉ざされた。頭上に燦々と降り注いでいたはずの光は、跡形もなく消えた。
だが、彼女はもう一つの光を明里に教えてくれた。
出会った時から、まじめで真摯な雰囲気を感じ、隣にいるだけで穏やかな気持ちになった。顔も見たことが無いけれど、何故だかよく知っているような気持になって、きっと優しい顔をしているのだろうと思えた。
もうこの人しかいない。
そう思い、その光に手を伸ばそうとしていたのに。
「君菊姐さん…山南せんせ、死んでしもうた…」
明里は呟いて報告した。そして膝を地面に落とし、力なく座り込んだ。
突然訪れた別れ。それは大坂の若旦那の身請け話に迷っていた自分への罰のようだった。
明里は事情も理由もわからずに、突然最後の別れを告げられ、ただ隊規を犯したための切腹だと教えられた。
しかし彼は、『それが私の選んだ道』だといった。
(うちにはわからへん…)
こんな悲しい別れ方をどうしてしなければならないのだろう。あなたがその道を選ばざるを得なかったというのなら、だれがあなたをそこまで貶めたというのだろう。
(でももう…そんなの、どうでもええね…)
そんなのは、あなたに会って聞けばいいのだから。
明里は懐に仕舞った小刀に手をかけた。
闇を歩きつづけることと、死ぬことの何が違うというのだろう。同じ苦しみなら、二人が待つ場所に行ける痛みを受け入れた方がいい。
その時だった。
「明里さん!」
その声に手を止めて声のする方に向けると、二人分の足音が聞こえた。
「……」
「やはり、ここでしたか…」
この声を知っている。穏やかなあの人が、とても可愛がっていた人。
「沖田せんせ…」
「女将さんが心配しています。帰りましょう」
足音が近付く。しかし明里は手を払い、逃げるように身体を背けた。
「近寄らんといて…!」
「明里さん…」
「うちは、あの人を殺したすべてが憎いんや…!」
『君は誰も恨まないでくれ。君には誰かを憎んでほしくはない』
最期の別れの際に懇願する彼の声が木霊したけれど、気持ちは抑えきれなかった。
(そんなの無理や…!)
全てを受け入れて、全てを納得して、悲しみや憎しみさえも許すなんて、そんなことは出来ない。
「あんたらは…うちの光ばっかり奪う!君菊姐さんも、山南せんせも…!」
何もかも、奪っていく。
あなたが憎い。新撰組が憎い。誰かをこんなに憎んだことはない。目から大粒の涙が零れた。ぽたぽたと音を立てて落ちていく悲しみを受け止めてくれる人は、もういない。
「…ごめんなさい」
肩を震わせて泣く明里に、拒まれてもなお総司は手を伸ばした。
「あなたは何も悪くないのに、あなたが一番傷つくことばかりだ。償っても償いきれない…」
「いやや!さわらないで、あっちにいって!」
「嫌です。だってこうしていないと、あなたはきっと山南さんのところに行ってしまうのでしょう?」
明里ははっと目を見開いた。懐に隠していた小刀を目敏く見つけられてしまったのだろう。
「許してほしいなんて言いません。あなたは誰よりも君菊さんを奪い、山南さんを殺した新撰組を憎む権利がある。だから、あなたがどうしても憎しみを誰かにぶつけたいと願うのなら、自分自身ではなく、私にぶつけてほしい」
「総司」
そこでようやくもう一人の人物の声がした。低く鋭い声は今まで聞いたことのない声だ。しかし総司はその声を無視して続けた。
「…明里さん。山南さんを介錯したのは私です」
「!」
身体中に電気が走ったかのような衝撃に明里は流れる涙も、息をするのも忘れてしまった。
(この人が…!)
怒りと憎しみが身体の奥底から込みあがる。そんな明里を前にして、それに気が付かないわけがないというのに、総司は明里の手を取り
「山南総長を殺したのはこの手です」
と教えた。
明里は爪を立てて、総司の手のひらを強く握った。
「…っ、く…!」
憎い。
彼の最期を、彼を終わらせたこの手が…憎くて。
でもその手のひらは温かくて。
あの人の手のように、
あの人の声のように
あの人の全てのように、温かくて。
責め続けるなんてできない。
身体から自然と力が抜けた。
「…あかん…」
明里は握りしめていた手をゆっくりと離した。
「うちには…いくら憎んでも…どうすることもできへんのや…仇討ちすることもなにも…」
「…明里さん…」
憎み続ける強ささえない。
「うちは…うちを許せへん。この目ぇが見えんばっかりに、何にも気が付かないで、無知で、のうのうと生きてきた…君菊姐さんを支えることも、山南せんせを助けることも、できへんかった。うちは、うちが一番憎い…」
「それは違う」
自分を責める明里を止めたのは、目の前の総司ではなかった。
「土方さん…」
声の主は総司の足音よりも重いそれで近づいてきた。
「…ひ、じかた…?」
それは誰もが聞き覚えのある名前だ。新撰組で鬼と恐れられ、山南と同等の地位にいた人物。
そして君菊が愛した人。君菊を殺した人。
(この人が…)
「総司の言う通り、あんたは自分を恨む必要はない。恨むなら俺達を恨め。そしてその目が見えるようになった暁には…俺達を殺しに来い。そのために生きろ」
「土方さん…」
「総司、駕籠を呼んでやれ」
「でも」
「いいから」
有無を言わせない命令に、総司は「わかりました」と渋々答えてその場を去り、駕籠を呼びに向かう。
その音が聞こえなくなった頃、
「新撰組は西本願寺に移転することになっている」
と土方が突然切り出した。
「…」
「山南総長は最後までそのことに抵抗していた。君菊が眠るこの場所に、血なまぐさい新撰組が乗り込むことは許されない。表向きはそう言っていたが…あんたの大切な場所を傷つけないためだ」
ザァッと風が二人の間を通り過ぎていく。生暖かいその風には匂いは無い。
「何を恨んでもいい。憎んでも構わない。但し、山南総長があんたのことを大切に思っていたという事実だけは胸に刻んでくれ。でなければ浮かばれないだろう」
「…」
明里は土方の言葉には頷かなかった。
いまはまだ何も答えはない。何も受け入れることはできない。
けれど、山南が遺してくれた言葉だけは受け入れることができる。
『君の名前は『冥利』とも読むんだ。だから、君の未来はきっと仏や菩薩に見守れている。だから、大丈夫だ。何も怖がることはない。この世界は…美しいのだから』
再び堕ちた暗闇の中にはまだ光は無い。しかし、その言葉は足元を照らす仄かな灯火となるはずだ。
「何も…怖くない…」
君菊もかつて同じことを言っていた。
山南も同じ言葉を遺した。
二つの光が指し示す場所は同じだった。
だったら、この世界は本当に美しいはずだ。
憎しみを越えた先に、きっと何かがある。この苦しみはやがて来る幸福な日々への足掛かりなのだろう。
(この目を…治そう)
そしてその先に見えた世界が本当に美しいものだったとしたら、この憎しみは晴れるはずだ。
いまは憎しみを力に変えて、君菊とそして山南が遺してくれた希望の道を歩む。
それだけの為に、生きよう。


西本願寺から出立した駕籠を見送って、総司ははぁと安堵の息をついた。
「これで…もう大丈夫ですね。間に合ってよかった」
明里の場所がすぐに見当がついたのは、山南のおかげだ。西本願寺に君菊の墓があると教えてくれたのは彼なのだ。
「お前、成長したな」
「え?」
腕を組んだ土方がまじまじと総司を見ていた。
「何なんですか、突然…」
「いや…」
総司は不思議そうな顔をしたが、土方は既視感があったのだ。
あれは芹沢を殺した夜。傍にいた梅はいまの明里と同じように愛しい人を殺された憎しみをぶつけて、自分を殺してほしいと願った。
総司はその時、その願いを叶え、独断で梅を斬り伏せた。その咎は自分のものだと言わんばかりに、全ての責任を負った。憎しみを絶った。
しかし、今回、自らの命を終わらせようとした明里を止め、そして憎しみを生きる術にして欲しいのだと捨て身で救おうとした。生きてほしいという願いを我儘を、捨てなかった。
「…何でもない」
「あーもう、気になるじゃないですか!」
土方は屯所へ歩き出し、総司がその後ろを追った。
陽の光が夜に重なり、また一日が終わろうとしていた。






297


山南の死から五日ほど経った頃、西本願寺が新撰組の屯所移転を了承する口上書を朝廷に提出し、移転が決定的となった。移転の日取りも十日後と決まり、山南の死によって新撰組内に流れていた暗澹たる空気も、ようやく変わりつつあった。
「ま、心機一転じゃねえけど、世話になった場所を明るく退散するってのも礼儀だよな」
と原田が指揮を執り、八木邸及び前川邸での引っ越しの準備が進められていた。
とはいっても、日々の巡察と並行して行うため、隊士たちには屯所に戻ってもおちおち休めない毎日となってしまった。
もともと物が少ない総司は、自分の身の回りの物を行李に仕舞えば、いつでも引っ越しできる状態だ。同じように物に固執しない斉藤も、自分の物をさっさとまとめて小荷物方の手伝いに出かけた。これを機に、予備として置いている刀の選別を行うらしい。刀に詳しい斉藤にぴったりの仕事だ。
そういうわけで、総司はすぐに手が空いてしまったので隣の原田・永倉の部屋の手伝いをすることにしたのだが。
「…原田さん、これ全部持っていくんですか?」
総司は部屋の大半を占める原田の荷物に、呆然としてしまった。しかもそのほとんどが艶本なのだ。
「当然だろ。これは俺が上京して集めた相棒みたいなものなんだからよ」
両手を腰に当てて胸を張る原田は、清々しいほど堂々としている。そういえば試衛館にいた時も同じような光景を見たな…と総司は呆れつつ「はいはい」と聞き流し、その山のような艶本を適当な冊数で束ねることにした。
「そういえば、永倉さんはどうされたんですか?」
「あいつ、生真面目だからさあ。艶本を見てすっげー嫌な顔をしやがって。いまは山南さんの部屋の片づけに行ってる」
同じ本でも山南が持っていた本は種類が違う。永倉の気持ちは分からなくはないな、と総司は内心苦笑した。
そうしてしばらくは足元に無造作に広がった本を片付ける。どれもこれも目のやり場に困るようなものばかりだったが、しばらくすると慣れてしまうのが不思議だ。
しかし当の本人は、片付けている間にその艶本を広げて読み始めてしまうのだ。
「あー、もう。原田さん、休まないでくださいよ」
「いいじゃねえかよ、ちょっとくらい」
「よくありませんよ。引越しの責任は原田さんですからね。さっさと自分の物はまとめて他の手伝いに行ってくださいよ。まだ道場とかいろいろ手を付けていないところが沢山あるんですから」
「うるせえなあ」
顔を顰めつつも仕方なく原田は本を閉じて、片付けに戻る。すると突然「あっ!」とは声を上げた。
「今度は何ですか?」
総司がため息をつくと、原田はにやりと笑って
「これはお前にやるよ」
と一冊の本を突き付けてきた。
「いらないですよ、どうせろくでもない内容なんでしょう?」
「ろくでもなくはない。お前にとっては座右の書って感じだな」
「座右の書…?」
訝しげに思いつつも、総司は突き付けられた本を受け取りページをめくる。しかしその内容を目にした途端に本を閉じ、
「やっぱり要りません!」
と原田につき返した。総司の動揺を見て原田は豪快に笑う。内容は男女ではなく、男同士の生々しい浮世絵が書かれていたのだ。
「そう言うなって。お前だって無知のままじゃ心もとないだろ?こういうのを見て学習しておくんだって」
「が、学習って…じゃあ原田さんも、これを読んで学習したってことですか?」
「まあな」
総司の鸚鵡返しに、原田はあっさりと認める。
「…え?原田さんって…」
「俺は男でも女でも可愛ければいいぜ。何だったらお前が相手してくれたら、その気になっちまうかもなあ」
原田はそう言いつつ、総司の顎を引いた。いつもの表情とは違う真摯な眼差しに、総司はどきりとしたものの、彼はすぐに破顔して
「冗談に決まっているだろう!」
と笑い飛ばした。
「俺は女しかダメ。いくら綺麗な男でも、俺の息子が役に立たねえの」
「はあ…」
「何冊かあるからやるよ。何だったら土方さんにあげればいいだろう」
参考になるって、と何度も押され総司は仕方なく二、三冊を受け取った。しかし、自分で読むことはないだろうし、土方に渡すのも気が引ける。どうしようかと悩んでいると
「で、どうだったんだよ」
と原田が声を落とし、真摯な態度で総司に尋ねる。
「どうって…」
「だからさ、土方さんとやったんだろう」
「な…っ」
原田の直接的な物言いに総司は顔を真っ赤に染めた。
「原田さんっ!そうやってからかうばっかりは止めてくださいって…」
「いや、からかってるわけじゃねえんだけどさ」
総司はようやく、原田の表情が言葉通り真剣だと気がつく。
「お前たち見てると、羨ましいとは思うぜ。キツイ時に一番好きな奴が傍にいてくれるんだからさ」
「原田さん…」
「あの切腹の夜。山南さんを連れ戻したお前のことや、切腹を言い渡した近藤さん、土方さんのことが許せなかった」
原田は手を止めて正直に述べた。
「でも、だからってどうすればよかったのかは俺にもわからねえんだけど…ただただ、何もできなかった自分が悔しくてたまらなかった。…でも、斉藤がさ、お前のこと心配してたんだ。一番つらいのはお前に違いないって。確かにそうだなって思った」
「いえ…私は…」
誰が一番つらいかなんてことを考えたことはない。しかしあの時に山南の口から脱走の理由を聞かせてもらえたのは、何も聞かされなかった原田や永倉に比べてむしろ心の整理がつける分、幸福だったのではないかと思うくらいだ。
すると原田が強張った表情を、いつもの明るいそれに戻す。
「でもさ、次の日の朝、お前はまるで憑き物が落ちたみたいな顔をして、屯所に帰って来たじゃねえか。ちょっとふらふらして」
「あ…ああ…」
誤魔化しているつもりだったが、ばれていたんだな、と思い総司は頭を掻く。原田は続けた。
「お前は気が付かなかったかもしれねえけど、あの時土方さんもすっげえ穏やかな顔をしてたんだぜ」
「土方さんが?」
「ああ。だから、俺は安心した。山南さんがいなくなって、土方さんはどうするんだって思ってたからさ。仏は鬼がいるからこそ、鬼は仏がいるからこそ…片割れを亡くしたらきっと新撰組の屋台骨が崩れちまうんじゃないかって。…でもお前がいるんだよな」
原田は艶本を束ね、「終わった!」と満足そうに笑った。そして続ける。
「まあ…だからよろしく頼むわ。俺から言うのも変だけどさ」
ははっと笑い飛ばして、原田が総司の肩を二、三回叩く。
屋台骨を失ったいまだからこそ、明るく笑わなければならない。原田がそんなことを意識していて、総司にそう言ったのだとしたら彼らしくないけれど、原田はいつも自然体で、自分の為すべきことを理解しているのだろう。
「…わかりました」
総司は頷いた。
何ができるのかはわからないけれど、この新撰組を大切にしたいと思う気持ちははっきりと心の中にある。
そしてその気持ちは原田や永倉、他の隊士たちの心にもあるはずだ。
すると原田が「でさあ」と話を切り出す。
「結局、ここの具合はどうだったんだよ?」
原田はからかいながら、総司の尻に軽く触れたのだった。


「…こんなものかな」
永倉は肩から掛けた手拭いでじわりとかいた汗をぬぐいつつ、部屋を見渡した。
原田の艶本の片づけから逃げるように山南の部屋の片づけに取り掛かったが、まだこの部屋には彼の気配がするような気がして、酷く寂しい気持ちになった。
それを振り払うように始めた片づけを、永倉は夕暮れを過ぎるくらいまで熱中して続けていた。
雑然として生活感があった部屋も、書物を分類して束ね、山南の持ち物を行李に納めてしまえばここにやって来た時の姿を取り戻す。
「あっという間に片付いたな…」
それはそれでもの寂しい気持ちにさせた。すると隣の部屋と繋がる襖が開いた。
「ああ、永倉君か。ご苦労様」
「近藤局長…」
隣室の近藤が顔を覗かせて、「すっきりしたな」と部屋を見渡して微笑んだ。
「よかったら茶にしないか。旨い菓子をもらったんだ」
「…はい」
近藤に招かれて、永倉は隣室である近藤の部屋に足を踏み入れた。近藤の部屋はあらかた片付けが終わっている。
「歳が若い隊士に手伝うように命じたみたいでな。俺はほとんど何もしていないんだ」
「局長は近所周りの挨拶があるのでしょう。お忙しいのを見越して土方さんが手配したんでしょうね」
「まあなあ…」
近藤は永倉に茶と大福を差し出した。大きな大福だったが、局長は一口で頬張ってしまう。
「山南さんの蔵書は俺が引き受けようと思うんだ。もともと山南さんとは思想的なところで一致していた。私の知らない書物も多いだろう」
「…そうですか」
永倉は大福には手をつけず、茶を口に含んで返答した。すると近藤が
「永倉君は、怒っているね」
と寂しげに言った。永倉はすぐには答えずに、手にしていた湯呑を置く。
「…怒ってはいません。ただ、悔しいだけです」
「悔しい…か」
「何もできなかった悔しさが、まだ自分の中で整理がつかないだけです」
だからこそ、山南の部屋の片づけを買って出たのかもしれない。この人はいなくなってしまったのだと、自分に言い聞かせるために。けれど、心の整理はそんなんに簡単にできなかった。むしろ部屋の方があっさり片付いてしまったことが恨めしかったくらいだ。
すると近藤が微笑んだ。
「君は怒ってもいい。私や歳に不満があったら何でも言ってくれ」
「…そんなことを言ってもいいんですか。俺はまた建白書を出してしまうかもしれませんよ」
「その時はその時だ。また考えるよ」
楽観的に笑う近藤に、永倉も気が抜けてしまう。
近藤は茶を飲み干して息を吐いた。
「永倉君、俺はとても今更なことを思っているんだ。いなくなってしまった人はもう戻らないんだよなあ…って。わかっているつもりだったが、あの時は分からずに切腹を言い渡していたんだ。俺は局長失格かもしれない」
「…」
「でも、不相応だと思いながらも、ずっと局長であり続けたいと願い、努力を続けるべきだと思うんだ。俺は生まれ持っての大名や幕臣ではない。まだまだ新米の大将なんだ。足りないところや、相応しくないところがあって当たり前なんだ」
後悔や悔しさや怒りや憤りは誰の心にもある。けれどもうそればかりを見つめて立ち止まっているわけにはいかない。
誰よりも強くそう思っているのは、近藤なのだろう。
「だから君には私の悪いところは遠慮なくいってもらっていい。悔しいところや納得のいかないところをぶつけていってもらって構わない。俺たちは…仲間、だからな」
傷をなめ合うのではない。傷を共有することで前に進める。
永倉は自分の張り詰めたままだった心が、少しだけ解けたような気がした。
そして近藤がそうしたように、目の間にある大福を口いっぱいに含んだ。甘い味が口の中に広がったが、その味はとても懐かしく感じた。
(…これは…)
「試衛館の味に似ていると思わないか?」
食客として居座っていた頃。
皆で大福を囲んで食べていた時と似た味。
「…そうですね」
欠けた場所が埋まるかのような気持ちになった。



298


総司が近藤と共に屯所から少し離れた八木家の親族の家を訪ねたのは、二月も終わりに迫った頃だった。
「何や、寂しくなりますなあ」
八木家の主人、源之丞は移転の報告を聞くと、近藤と総司の顔を見てしみじみと笑った。
伊東ら江戸からの隊士が増え、手狭になった屯所では、八木家の人々がのびのび暮らすことがままならず、昨年末から親戚の家を間借りしてそちらに移り住んでいた。仮住まいは屯所とは目の鼻の先であり、いまだに行き来を繰り返していたようだが、何かと不便だったことだろう。
「八木さんにはとてもお世話になりました。当初は半年の予定だったところを長くお借りし、心苦しく思っておりましたが、ようやく西本願寺への移転の目途が立ちました」
近藤はようやく肩の荷が下りたのか、安堵の表情を浮かべる。二年前、屯所として半ば強引に借り受けておきながら、最後には追い出すような形になってしまったことをずっと気にしていたのだ。
すると源之丞は穏やかな表情で湯呑を手にした。
「…正直、最初はどないなことになるかとハラハラしておりましたわ。浪士組やゆうても、荒くれ者の集まりや。幼い子もおる家長としては、夜もおちおち眠れまへんでした」
オブラートに包みがちの都の人々だが、源之丞が近藤に心を許し本音を語っていることは総司にもわかった。
「せやけど、この間の蛤御門の戦のとき、戦禍に見舞われた中で皆さんが壬生にいてくれはって、心強かったのもほんまです」
「そんな…私たちはただ、屯所を守っていただけで」
謙遜する近藤に、源之丞は頷いた。
「へえ、いつの間にかいてくれはるだけで、安堵できる、信頼できる方々やったんやと思いました」
源之丞は「なあ」と傍に控えていた夫人に声をかける。もともと穏やかな夫人は頷き、そして視線を総司へ向けた。
「沖田さまには、子供たちとよう遊んで頂きました。壬生を離れてこちらに来てからは子供たちも残念がって、家に戻りたいせがむんです」
「そうだったんですか。私で良ければいつでも遊び相手になりますから、お知らせください」
総司が申し出ると、襖の向こうから「ほんまっ?」と声が聞こえた。そして顔を出したのは、為三郎だった。総司は茶目っ気たっぷりに答える。
「ほんまほんま。西本願寺なんて目と鼻の先だからね、いつでもおいで」
「やった!」
諸手を上げて喜ぶ為三郎に、源之丞は「これ!」と軽く叱りつける。だが為三郎は怯まず「約束やで!」と手を振って襖を閉めた。しかしなおも為三郎がはしゃぐ声が隣の部屋から聞こえて来て、場は更に和んだ。
「それで、新しい屯所は西本願寺の太鼓番屋の方やとうかがいましたが」
「はい。広い講堂があるのでそれを間仕切りして使わせて頂きます」
「ようお西さんが了承されましたなあ…」
源之丞の素直な感想に、近藤と総司は苦笑するしかない。未だ西本願寺の僧侶たちは納得していないようで、敵地の乗り込んで借り受けるようなものなのだ。
「私たちも戦々恐々としておりまして…引っ越しは三日後を予定しています」
「三日後か…」
「お早いですねえ」
八木の夫婦は寂しげな表情をして、少し物言いたげに二人で目を合わせた。沈黙が流れすなか総司が
「あの、何か?」
と尋ねると、夫人が少し躊躇いつつ
「山南せんせの喪が明ける前にはお引越しされないのかと思うてました…」
とぽつりと答えた。
総司だけではなく、山南も八木家とは親しく交流をしていた。誠実な性格で知識人として知られた山南は、八木家だけではなく近所の住人の住人からも好かれていた。その山南が切腹して亡くなった寂しさと悲しさは、八木家の人々も隊士たちと同じだ。
「ええ…最初はそう思いましたが、もう移転の日取りは決まっていましたので…」
近藤は言葉に詰まりつつも、そう答えた。
本当は移転を急ぐ理由はなく、夫人が言うように喪が明けるのを待てば隊士たちの心の整理もつくだろう。
けれど敢えて移転を続行したのは、このまま屯所に居続ける切なさや悲しさを知っていたからだ。屯所には思い出がたくさんあり、思い出すたびに心を締め付けられるのだ。
しかしいつまでも思い出に浸るわけにはいかない。
すると源之丞が
「皆さんは立ち止まってはおられんのやな」
近藤の心情を察したのか、そう穏やかに言った。すると夫人も頷いて
「山南せんせのお墓は、うちが綺麗にさせて頂きます」
と申し出た。
「そうして頂けると有難いです」
山南のことを知っている人に任せられるのは安心だ。総司はしみじみと良い人に巡り合ったものだと感動した。
そして近藤が明るく笑って話を変える。
「御恩をお返しすべく、いま隅々綺麗にさせて頂いているところで……あ…」
「近藤先生?」
近藤は明るい調子で始めたが、最後で言葉を濁した。そして言いづらそうに頭を掻きながら
「刀傷がいくつか残ってしまいました」
と恥ずかしげに苦笑した。確かに軒先や柱に刀傷が残っているのだ。
すると源之丞も大きく笑って
「ええですわ!記念ゆうことで、子々孫々に伝えていきます。ここにはお侍さんがおったんやって!」
と夫人と笑い合った。気持ちの良い返答だったが、しかし近藤は目を見開いて驚いた。
「お侍…ですか」
「違いましょうか?」
身分としては、浪人ばかりの新撰組は決して侍と言う誉れ高いものではない。そう名乗ることさえ躊躇われるほどだ。
しかし源之丞は疑いもなく続けた。
「侍は生まれた場所が違えばなれへんものやと、思うておりましたが…私は皆さんのお姿を見て、もしかしたら生まれが違うても、時代に恵まれれば、なれるかもしれへんのかなあと思いました」
「私たちが…ですか」
「時代が時代や。何かが大きく変わろうとしているのは、郷士の私でもようわかります。そのなかで、皆さんのようにまっすぐに誠実に幕府に仕えられるんやったら…ええことも、ありましょう」
微笑む源之丞はまるでわが子を慈しむような目で近藤と総司を見ていた。近藤の目頭にじわりと涙が滲んだ。


「良い方に出会えてよかったです」
屯所への短い帰路、総司がそう言って近藤の隣を歩く。近藤も深く頷いた。
「最初は嫌われても仕方ないと思ったが…あのように思っていてくれたとは、有難いことだな」
「はい」
すると近藤が「よし!」と声を吐く。
「何も思い残すことが無いよう、去り際は美しくだな!総司、八木さんの家はよろしく頼むぞ」
「はい。もう、原田さんの荷物さえ片付けば手がすきますから、隅々まで雑巾掛けをします」
近藤はははっと高らかに笑った。総司は試衛館でも良く雑巾がけを担当していたのだ。
そして
「じゃあ任せたぞ」
と軽く肩を叩いて前川邸の方に戻っていく。前川邸では隊士たちが大部屋の掃除に奔走していた。そこかしこでまとめられた荷物を見ると、まだ二年ほどしか住んでいないというのに、まるで長年住んだ土地を離れるかのようだ。総司はその様子を横目で眺めながら八木邸に戻る。
すると偶然、鈴木と鉢合った。
「あ…」
声を漏らしたのは鈴木の方だった。普段の能面面が少し歪んでいる。
鈴木と相対したのは、山南の脱走以来だ。彼が横やりを入れるように明里の身請けに名乗りを上げたことを総司が責めて、それっきり言葉を交わしていなかった。
「…お疲れさまです」
総司は当たり障りのない挨拶をして通り過ぎようとしたが、鈴木の方が
「待ってください」
と総司を引き留めた。
「…何でしょうか」
「ご報告はさせて頂きます」
「報告?」
鈴木は顔を引き締めて姿勢を正し、総司の方をまっすぐに向く。
「山南総長の馴染みの女は、大坂の商家へ身請けされることになりました」
「…商家へ?」
「裕福な商家の次男坊が身請けしました。それから、長崎の西洋医学に詳しい医者に診せることになりました」
「目の件ですか?」
総司は素直に驚いた。彼女の眼はその視界を固く閉ざし、もう治らないのだと告げられたと山南から聞いたことがある。しかしそれが西洋医学ならば可能だということだろうか。すると鈴木は淡々と
「山南総長が脱走の際に、女に金を渡し、目を治すよう予め伝えていたそうです」
「山南さんが…」
「兄上が医者を紹介しています」
伊東も裏で絡んでいるという不可解なものは感じたが、しかし明里には良い知らせだったに違いない。
「そうですか…それは良かった」
「それだけです。失礼します」
鈴木は言うべきことは言ったと言わんばかりに、取り着く暇もなく総司に背を向けて去っていく。
総司はその背中を見送った。まるでそこに一枚の壁があるかのような遠い姿のように見えた。




299


ついに引越しが明日に迫った。屯所内もあらかた綺麗になり、元通りとはいかないまでも作業前と比べると随分すっきりとした。
「一番隊は朝の巡察の後、引越しに加わります。各々、近所の方にはあいさつを済ませておいてください」
総司が指示をだし、この日の巡察は終わりとなる。体力が必要な明日へ向けて解散となるなか、
「沖田先生」
と、山野が総司のもとへやって来た。
「顔色、よさそうですね」
山南脱走から憔悴しきっていた山野だが、葬儀を経て一番隊に復帰してからはいつもの色つやの良い元気な彼に戻りつつあった。山野も頷いて答え「ご心配をおかけいたしました」と微笑む。
「明日の引越しですが、僕の荷物は行李ひとつくらいで終わりなんです。僕に何かお手伝いできることがありましたら何でも申し付けてください」
「ありがとう。私もあまり物が無いから私自身はお願いするようなことは無いけれど…そうだな、近藤先生のお手伝いをお願いします。山南さんの書物はほとんど近藤先生が引き取ったそうだから、きっと荷物が多いことでしょうし」
「わかりました!」
山野が溌剌とした笑顔を向け、総司も励まされる。生まれも末っ子で、試衛館でも子ども扱いばかり受けていた総司は、何となく弟がいればこんな感じかもしれない、と微笑ましく思う。
すると山野は「あの…」と声を潜める。そしてそっと距離を縮め、懐から懐紙に包んだ小包を取り出した。
「これは?」
山野は総司に押し付けるように渡した。
「膏薬です。差し出がましいことかもしれないとは思ったのですが、僕は池田屋以来、沖田先生のお身体のことを仰せつかっておりますし、何より僕自身が良く知っていることですから」
「え?何の…?」
山野が手渡したのは漢方か何か少し匂いのある、見たこともない膏薬だ。隊内での怪我の処置は石田散薬など隊に常備してあるものを使うので、これは山野の私物なのだろう。
「原田組長から伺いました。土方副長と初夜を迎えられたと」
「しょ…っ?」
山野のような凛とした美少年から、あられもない言葉が飛び出し、総司は驚いた。清廉潔白とした風貌なのに、しかし山野は淡々と口にしてしまう。
「本来、受け入れるべき場所ではないですから、傷になって当然です。ここの所、沖田先生は歩き方もぎこちなかったですし…」
「そ、それ、そんなにわかるものなんですか?」
同じ立場の山野ならまだしも原田も同じことを言っていたのだ。すると彼ははあっさりと頷く。
「他の隊士も気が付いているかもしれませんけど、でも原田組長が吹聴していらっしゃるので、ほとんどの方がご存知だと思います」
「原田さん…っ」
原田へ口止めはしていなかったけれど、隊士の間で早々に広まってしまったことに、総司は愕然とする。
(隠したいわけではないけれど…)
あまりにも恥ずかしい。
しかし山野は至って冷静かつ真面目に心配しているようだ。
「それで、痛みとかはありますか?この薬は自分で塗るのはなかなか難しいかと思いますので、できなければ土方副長に頼んで…」
「だ、大丈夫です。違和感はあるけれど、痛みは無いし…膏薬は有難くいただいておきますけど」
総司は手渡された薬をそそくさと懐に仕舞う。
すると山野は安堵したように笑った。
「痛みが無いなら良かったです。土方副長は沖田先生にはお優しいんですね」
そういうと山野は「失礼します」と言って下がっていった。
(優しい…)
普段のやり取りは試衛館のそれとあまり大差なく感じる。総司のことをちょっと小ばかにしたような態度も相変わらずだ。
しかし二人きりの時に、時折見せる、慈しむような、愛おしむような表情はきっと誰も知らない。まるで蕩けるような魅惑の表情は自分だけに向けられたものに違いない。
総司は自分の頬が熱くなるのを感じたが、どうにか振り切って、巡察の報告の為、前川邸に向かう。
新撰組では前川邸の母屋と離れの間に「久武館」という道場を設備し、隊士はここで日々の訓練を積んでいた。屯所が西本願寺に移る際にも、この建物を分解して移築することになっている。
その道場は既に稽古道具などが運び出されているはずだが、ブンブンという竹刀が風を切る音が響いていた。総司が不思議に思って顔を覗かせると、そこには一人、斉藤が凛とした姿勢で竹刀を振り続けていた。
「斉藤さん」
総司が声をかけると、斉藤はぴたりとその手を止めた。冬だというのに上半身をむき出しにして汗を流す斉藤は、いつも通りの無表情で総司を見た。
「どうしたんですか、一人で…」
「たまには一人で竹刀を振りたい時もある」
「ふうん…じゃあ、お邪魔ですね。退散します」
「居たいのなら、いてもいい」
斉藤は淡々と答えると、また竹刀を振り下ろす。
総司はその言葉に甘え、道場の末席で膝を折った。
真っ直ぐに伸びた背。人とは少し違う構え方。斉藤自身は様々な流派を学んだと語っているが、それはまさに彼自身しか身につけていない「斉藤流」という名前が相応しいと思えるほど、堂々としていた。
総司は斉藤の剣術が好きだった。天然理心流一辺倒の自分とは違い、我流だからこそ斉藤の色が出る。普段は何も語らない斉藤が、剣術に向き合う時だけは饒舌であるかのようだ。
(我流…という意味では、やっぱり土方さんも同じだけど)
土方の喧嘩剣法と、斉藤の積み上げてきた我流の流派を同じにしてはいけないのかもしれないけれど、やはり二人は良く似ている。
(そう言うと、二人とも不機嫌になっちゃうけど…)
総司がくすっと笑うと、斉藤が竹刀を止めた。
「暇なら相手をしてくれ」
「それは構いませんけど、もう武具は持って行ってしまっているでしょう」
「竹刀ならある」
斉藤は防具無しでいいと言わんばかりに竹刀のみを総司に渡した。甲乙つけがたい二人の実力では相手が怪我をしかねないのだが、総司は巡察帰りであるし、斉藤も相当素振りをした後だ。疲れ切っている二人ではいつもほどの威力は無いだろう。
総司は浅黄色の羽織を脱ぎ、斉藤の前に立った。
「斉藤さんと打ち合うのは久々ですね」
「…打ち合うたびに、お互い命がけになるからな」
「それはそうですね。でも、ここでの打ち収めにはお互い相応しい相手じゃないですか?」
ははっと笑い、総司は斉藤の目を見て一歩を大きく踏み出した。合図は無い。しかし、斉藤は見事に避けて、間髪入れずに反撃を繰り出す。総司はそれを距離を開けることで対処した。
命がけだと彼は言ったが、しかしその反面寸前のところで踏みとどまる技量があることも知っている。正しい回避を知っているからこそ、平隊士なら怪我では済まないところを躱せる。本気になれる唯一の相手なのだ。
「…っ」
しかし集中力を途切れさせることが、大怪我に繋がりかねないこの緊迫したなかで、総司の足を引っ張るものがあった。
(…この感じ…)
山野と話したばかりだからこの違和感の正体はすぐに分かる。あれから数日が経ったものの、刻み付けられた異物感はまだ少しだけ残っている。その少しだけという感覚が、しかし斉藤と打ち合う状況では大きな変化となっているのだ。
斉藤の素早い動きに総司はまた一歩下がる。踏ん張った時の足の入り方がいつもよりも弱く、バランスを崩しそうになる。
「…っ、く…!」
斉藤の剣を受けるのが精いっぱいだ。押され続ける体勢が続き、総司は打ち込むことができない。
すると三度目に距離を取った時に、斉藤が竹刀を下した。そしてそれまでの覇気を消して「やめよう」と言った。
「…すみません」
身体の不調を誤魔化して打ち続けたことに斉藤は気が付いたのだろう。しかし斉藤は「別にいい」と無表情に返答した。もしかしたら彼も、隊内に広まっているらしい噂を知っているのかもしれない。
二人で腰を下ろして静かな道場で息を整える。しんと静まった道場は何故か別世界のように静まり返っている。彼との沈黙はさほど気まずいものではない。
「…西本願寺では、組ごとに部屋が分かれるそうですね」
総司は何となく切り出した。
「ああ」
「斉藤さんとの同室も今日で最後ってことですね。残念だなあ」
「…俺はほっとした」
「え?」
世間話のつもりが、思ってもない返答に総司は驚いた。空耳かと思ったが、しかし斉藤は構わず続けた。
「毎日、気が気じゃなかった」
「…」
淡々とした感想は、冗談を言っているようには思えない。この二年間疎まれていたとすれば、素直にショックだ。総司は二の句が継げないでいると、斉藤はふっと力を抜いた。
「自分で箍が外れるんじゃないかと疑って過ごす身にもなってみろ」
「…箍…?斉藤さん、いったい何の話ですか?」
話の筋が見えずに困惑する総司をしり目に、斉藤ははぁと長い息を吐く。
そして立ち上がり総司の前にやって来て、目の前に腰を下ろした。そしてまっすぐに総司を見つめる。射抜くようなその黒い目の力は、やはり土方のそれに似ていた。
「あんたはこういうことに鈍感で困る」
「こういうこと…?」
斉藤が伸ばした手が、髪に触れて、輪郭に伸びる。まるで土方がそうするように。
(土方さんと同じ…?)
斉藤の意図の片鱗が見えたその瞬間だった。
「…っ?」
まるで貪るように斉藤の唇が重なった。口腔を貪るように嘗め回し、まるですべてが吸い取られるようだ。息ができないほどに野生じみた口づけにくらくらする。
「…っ、斉藤さん!」
総司は両手で彼の胸板を押す。そこでようやく口づけは終わったが、しかし彼の顔はすぐ触れられるほど近くにある。
(あ…れ…こんな人だったっけ…)
同室の彼は無愛想だけれど、いつも親切にしてくれた。いつも先回りをして助けてくれていた。弟のようで、兄のようで、友人のようで、同僚で。
「最後だからと思って言う。忘れてもらって構わないし、返事は要らない」
こんな顔をするような、人だったっけ。
「あんたが好きだ」
「…っ…え?」
(いま、なんていった…?)
頭が真っ白になる。驚きと困惑、混乱が混じり、心が一気に膨張していくかのように。
しかし斉藤はふっと彼らしくない笑みを浮かべた。
「…困らせるだけだと、わかっていた。だから忘れてくれていい」
「困るとか…そういうのは…」
「答えられないなら同じだろう。これはただのけじめだ」
斉藤は膝を立てて立ち上がる。そしてそのまま背を向けて道場を出て行ってしまう。
晴れ晴れとした背中を、総司は呆然と見る。
彼の言葉が、
彼の気持ちが本当だとしたら。
土方と比べて、同じだと思うのは彼にとって屈辱的なことだっただろう。
(何も…気が付かなかった)
彼の思いも、彼の考えていることも、知らなかった。
「けじめ…」
道場へ降り注いでいた光が遮られる。夕日が落ちて闇を迎える。


300


柔らかな冬の日差しが、やがて訪れる春を予感させる中、総司は壬生の八木邸から少し離れた光縁寺へと足を運んだ。縁も所縁もない死者を拒むことなく受け入れるという寺は、名も知らぬ人々が眠る静かな場所だ。
花を抱えた総司はその墓のなかから目的の場所を見つけ出し、その場でそっと膝を折った。真新しい墓はいつも誰かが綺麗に磨いているようだ。
「山南さん、しばらくは来られなくなると思いますけど、許してください」
供物を置き、手を合わせる。まだ脳裏にははっきりと山南の声が残っていて、彼の穏やかな返答が聞こえる気がした。
誰もが慕った彼の墓には真新しい線香や花が溢れんばかりに供えられていた。西本願寺の移転を前に、総司のように挨拶に訪れた隊士たちのものだろう。
「…無事に引っ越しも済みそうです。ここを離れるのは寂しいですけど、新天地で頑張ります。それから…」
総司は言い淀んだが、しかし続けた。
「…必ず…君菊さんが眠る場所を守ります」
山南が最後まで抗い続けた意思を無視して、自分たちは移転を決行する。だったらせめて山南の願いは常に胸に秘めていたい。
彼女が穏やかに眠っていられますように。
あなたが安らかに見守ってくださいますように。
その後しばらく黙り込んでいた総司だが、
「じゃあ…行きますね」
と早々に別れを告げた。いつまでも長居をしては離れがたくなってしまうからだ。
後ろ髪をひかれるような思いを振り切るように立ち上がると、こちらに近づく足音が聞こえた。また隊士が墓参りに来たのか…そう思ったが、やって来たのは意外な顔だった。
「土方さん」
「あ…ああ、お前か…」
現れた土方は、総司の顔を見るやバツの悪そうな顔をした。総司と同じように手には花束を抱えている。
「お墓参りですか?」
「まあな…」
そっけなく答えた土方は、総司がそうしたように花束を供えて手を合わせる。しかしすぐに立ち上がると
「行くぞ」
と総司の背中を軽く叩いた。あっさりとした墓参だが、おそらく総司がいたので恰好がつかなくなったのだろう。
誰かを悼んで悲しんだり、物思いにふけるのは『鬼副長』には似合わない姿…恐らくそんな風に思っているのだ。
(悪いことしちゃったな…)
わざとではないにせよ、タイミングが悪かったようだ。総司は内心苦笑しつつ、去っていく土方を追った。
「もう一番隊は西本願寺へ移り終えたらしいな」
「ええ。山野君が采配をしてくれるおかげで、てきぱきと物事が進んで助かります。それに力持ちの島田さんが私の荷物まで運んでくれたので、やることがなくなっちゃったんですよ」
「やることが無いなら小荷駄方でも手伝ってやれ」
「え?でも小荷駄方は斉藤さんが…」
と言いかけたところで、総司は不意に口を閉ざした。
目敏く察した土方が
「斉藤がどうした?」
と訊ねてきたが、「何でもない」と頭を振った。
(まさか…言えるわけがないし)
昨日、斉藤の思いを告白されてから一晩悩んだが、最後の同室だと言うのに斉藤はまるで何事もなかったかのように総司に接し、安らかな寝息を立てて眠った。それが余計総司を混乱させたが、しかし彼が言うようにこれが彼にとっての「けじめ」で、総司も答えが要らないと言われた以上、何も言うべきことはないのだろう。
しかしそれでも、
(何だか…苦しいな…)
彼の気持ちを知らず、彼を頼り、悩みを打ち明け、「よく似ているなあ」と斉藤のことをどこか土方と重ねてみていた。それが彼にとってどれだけ苦々しく、負担だったかと考えると、胸を締め付けられるような思いだ。
悶々と考え込んでいると、突然こめかみを軽くはじかれる。
「何、気難しい顔をしているんだ。眉間に皺、寄ってるぞ」
ついでに眉間に皺まで突かれて、総司は「やめてください」と苦笑する。
「いつも難しい顔をしているのは土方さんの方じゃないですか」
「…それは認める。山南さんがいなくなった分、仕事が増えたのはあるからな」
腕を組み少しため息をついた土方はお疲れの様子だ。引っ越し采配や西本願寺への折衝、山南の業務の引き継ぎともなれば、やるべきことは山のようにあるだろう。
「それに山南さんの遺言の件もある」
「法度の件ですか?」
「ああ。それから隊の編成の件だ」
「編成?」
土方は懐から小さく折りたたまれた紙を取り出し、総司に渡す。
総司がそれを開くと、そこには山南の手で隊編成に関する図解が記されていた。細かな字が整然と並んでいるのはいかにも彼らしい。
「これは…?」
「山南さんの部屋の整理をしていた山野が持ってきた。おそらく自分が総長を降りた時のことを考えて、組み直していたものだろう」
「へえ…」
総司はその詳細に目を通す。一番隊には総司の名前、二番隊、三番隊…と試衛館食客たちの立場はあまり変わりがないが、そのかわり他の組長には些かの変更があり、平隊士たちの配置も変更していた。しかも驚くべきことに、その理由についてまで一人ひとり詳細に示されていて、ある者は性格上の理由、またある者は得意とする武術の理由、また人間関係の衝突を避けるべく異動すべき隊士たちがずらりと並んでいる。
「これ、山南さんがおひとりで…?」
「少なくとも俺は一言も聞いてねえ。おそらく池田屋以降、屯所にこもりきりだった際に、せめてその勤めを果たそうとしていたのだろう」
「そうですか…」
的確な人員の配置に総司は嘆息する。これほどに頭の回転が良く周囲に目を向けて的確にその人物を見抜く山南が土方とともに責務を果たしてくれたら…その願いは叶うことが無いのだと分かっていても、そう思わずにはいられない。
その才能を土方も理解していたようで
「この通り採用する。西本願寺に移転したら早速、入隊希望者を募るつもりだ」
と、その案をまるごと受け入れるようだ。
「…そうですね、わかりました。移転したら忙しくなりそうですね」
「ああ、そうだな」
儚く散った命への郷愁。
寂しさや後悔はいつだって溢れてくるが、しかしそればかりでは前へ進むことができないということをよく知っている。
今まで何度だって味わってきた。
だから言葉にはしないで、思いだけを共有する。
何も言わないでも伝わるはずの、同じ思いを。
「…土方さん」
「何だよ」
「一つ、お願いがあるんです…でも、無理だったら諦めますけど、出来れば叶えてほしいんですけど」
「もったいぶるな」
前置きをする総司を、土方が促す。
「たまに、こうしてここに来ませんか?」
「…墓参りにか」
「ええ。できれば月命日に。でも土方さんは忙しいでしょうから、毎月とは言いませんけど…。土方さんにとってここに来ることは自分の弱さを露呈するのと同じかもしれませんけど、ここに来ることは決して過去を悔やむばかりではないはずです」
この場所は全ての始まりの場所だ。
名もなき浪人にすぎなかった若者たちが集い、野望に胸を焦がし、夢を見た。しかしその一方で闇に手を染め、邪魔者を殺し、追い詰められた仲間が死んだ。
そのすべてが在った場所。
「ここに来るたびに…自分に問いかけることができる気がします。犠牲にしてきた命の分まで…生きているのかどうか」
喜びや悲しみ、痛みや涙、味わってきたすべての感情を刻み付けて、前へ進んで行きたい。
そうすることで、せめてもの償いになるはずだから。
「…ああ、そうだな…」
並んで歩いていると、二人の間を風が通り抜けていく。
手で触れることのできない、目には見えない、その形なき姿を追いかける。
その先に何があるのか。
今は分からないけれど。
この歩みを止めることは出来ない。



第三部完



解説
山南敬助の脱走については、新撰組の歴史の中で有名な出来事ですので割愛させていただきますが わらべうた内の好意的な扱いはどちらかと言えば創作で、周囲との距離を感じ、また仲間達も 疎外に扱い、思想的な部分での決別から脱走したと考えられます。また「山南脱走」自体も 今の所歴史的な裏付けがなく、永倉の手記にも残されていない出来事です。
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