わらべうた





301


山南敬助の切腹の直後の元治二年三月。
池田屋事件から七十名ほど隊士を増やした新撰組は、そのすべてを収容できずついに屯所を壬生から六条西本願寺へと移した。西本願寺に白羽の矢が立った理由は、本堂の北に「北集会所」という諸国の僧侶が集まる大法会を行う以外には使用されない三百畳以上の大広間があった為。そしてかねてより討幕派の長州藩士を匿っているという噂が絶えなかった西本願寺を、内部から監視するためでもあった。

「広ぇなー!」
十番隊組長・原田左之助が興奮気味に広い北集会所を見渡す。隊士たちも新しい屯所には目を輝かせていた。
「各部屋の仕切りは急ごしらえという感じだが…俺たちには十分な広さだな」
永倉新八も原田の意見に賛同し、腕を組んで頷いていた。
三百畳もある北集会所は大工によって各隊の小部屋に分けられた。その造りは急ごしらえかつ、本格的に釘を打った造りではない。あくまで臨時で貸すだけだ、という西本願寺の意向が含まれているだろう。
原田は天井から足元まで見渡してため息交じりに声を漏らす。
「何だか、小さな貧乏道場の片隅で燻ってた俺たちが嘘みたいだよなあ」
「そうだな…早く平助を驚かせてやりたいな」
「そういや、平助はいつ帰ってくるんだ?」
「ここに移転して、江戸からの隊士も受け入れられるようになったから、そろそろじゃないか?」
「そうか…早く帰ってきて酒でも飲みてえなあ…」
二人がしみじみと立ち話をしていると、背後から急かす様に少し甲高い声が響いた。
「原田先生!永倉先生!隊士の荷物を運びますから、そこ、どけてください!」
袂を縛り、忙しなく動き回っている山野八十八だ。後ろには新撰組で一、二を争う巨漢である島田魁が苦笑いして「すみません」と両腕一杯に荷物を抱えていた。
原田と永倉が道を開けてやると、山野は傍の部屋の仕切りを開けて荷物を運び入れる。隊でも美少年と噂の彼だが、その顔立ちの整った様子とは裏腹に、小回りよくせっせと動き回っている。
原田は感心しつつ
「早速、張り切ってるなあ」
と褒める。すると山野は
「原田先生のお荷物はどちらですか?」
と訊ねてきた。
「一番隊の荷物はもうこれで終りなんです。沖田先生から原田先生のお荷物を運ぶのをお手伝いするようにと言付かっています」
「ははっ 総司のやつ、気が利くぜ」
原田が大声で笑い「こっちだ」と山野と島田を引き連れて去る。
最も、原田の荷物というのはほとんどが艶本ばかりでおそらく二人は辟易とするのだろう。永倉はその様子を想像しながら笑った。


新撰組が借り受ける北集会所と本堂の間には新たに竹矢来が設けられ、まるで別個の建物のように独立している。これも西本願寺の意向で、神聖な僧侶の世界と、野蛮な浪士たちの世界…その境界をはっきりさせたかったのだろう。
土方歳三は引っ越しの騒々しさから逃れ、腕を組んでその竹矢来の向こうを眺める。不自然なほど僧侶の姿はこちらからは見えないが、しかしどこか視線を感じるのは気のせいではないはずだ。
敢えて敵地に乗り込むような真似をしたのは、新撰組であり、そして土方の決断だ。反対を続けた山南の懸念通り、おそらくは西本願寺だけでなく京の人々の反感を買ったことだろう。信心深い人々は、新撰組が西本願寺の信仰を汚すとでも思っているはずだ。
(それは構わない…)
もともと好かれてなどいない。これ以上、嫌われることの無いところまで堕ちればむしろ動きやすくなるはずだ。
ただ隣には常に敵がいる。
これからは悪意と隣り合わせの生活なのだ。
そのことを意識しなければならない。
広い屯所に移ったことに浮かれている場合では無いのだ。
「土方さん」
土方がそんなことを考えていると声がかかった。新撰組の中で土方にこんな風に気軽に声をかけるのは数人しかいない。
「総司」
「どこに行っちゃったのかと思いましたよ。広い境内ですから、探すのに苦労しました。…何をしているんですか?」
「…別に何もしていない。何か用か?」
土方は竹矢来に背を向けて総司の方を見る。総司はいつもと何ら変わりない笑みを浮かべて「宴会のことですよ」と言った。
「ああ…引っ越しの宴会か…」
「ここの所引っ越しと巡察とでみんな忙しくしていましたからね。宴会くらい開いてあげないと鬱憤が溜まる…って、これは原田さんの意見ですけどねえ」
「あいつが言いそうなことだな」
ふっと笑って、土方ははっと内心気が付いた。
(…表情が引き攣っていたな…)
西本願寺が敵地である…それを誰よりも自分自身が深く受け止めていたのだろう。自分が思っている以上に表情はこわばった。それを総司の会話で気が抜けたことで、ようやく気が付くことができた。
最も、総司がそれを意識して声をかけてきたわけではないのだろうが。
「前よりも島原が近くなりましたから、隊士も今か今かと宴会の知らせを期待しているみたいですよ。近藤先生も土方さんが了承するなら宴会を開いてもいいって言っていました」
「わかった。近藤局長がそう言うなら良いだろう。伊東参謀に知らせておけ」
「…伊東参謀にですか?」
それまで朗らかな表情を浮かべていた総司が、伊東甲子太郎の名前を聞いた途端に少し表情を歪めた。
「何だ、嫌なのか?」
「嫌じゃありませんけど、伊東参謀と話をすると長くなってしまうんです。参謀はお話が上手ですから、聞き入ってしまうと言うか…それが悪いっていうわけじゃないんですけど…何ていうか…」
総司らしくない歯切れの悪い言い方だ。しかし土方にも同意できる意見ではある。伊東は社交的で口が上手く、上品な物腰から隊士からの信頼が高いが、土方にとってはその上っ面の受け答えがいつも疑わしく感じてしまうのだ。
「わかった。じゃあ別の隊士にでも伝えさせる」
土方がそう言うと総司はほっと安堵した表情を浮かべ「お願いします」と答えた。
そして総司は二、三歩歩き、後ろの竹矢来に視線を向けた。その視線を遠くする。
「…この矢来の向こうは敵地なんですよね」
「ああ。俺たちがここに乗り込んだことで、長州のやつらが出入りすることは難しいだろうが…それでも、西本願寺の僧侶が手のひらを反してこちらの味方をするわけではない」
「壬生の皆さんのように仲良く…とはいかないんですね」
総司は残念そうにため息をつく。壬生の屯所にいた頃は近所の子供たちとよく遊んでいた総司としては、物寂しい気持ちになるのだろう。
そして総司はポツリとつぶやいた。
「何だか、檻みたいですね」
「……」
捕えているのは。
捕えられているのは。
一体どちらなのだろう。
(いまはお互いがお互いのことを檻の中にいれたのだと、思っている…)
少なくとも新撰組は西本願寺を捕えたのだと思っている。これが抑止力になるのだと疑いもなく。しかしあちらはどう思っているのだろう。
ひしひしと感じる西本願寺からの視線は、ただの嫌悪や恐怖だけではないはずだ。
総司はそれを自然と感じているのだろう。
「お前、やっぱりちょっと変わったな」
昔の総司ならそんなことを言わなかったはずだ。考えることを放棄して、思いつきもせず「近藤先生についていくからそれでいい」という態度で呑気にしていたはずだ。
すると総司はまるで子供のように口をすぼませた。
「あ、それ、この間も言っていましたよね。成長したとかしてないとか。それはいい意味なんですか?悪い意味なんですか?」
「素直じゃねえな。褒めているんだからそれでいいだろう」
「冗談ですよね。土方さんが褒めるなんてありえないじゃないですか」
「ああ、もう、うるせえなあ…」
文句を垂れる総司を置いて、土方は歩き出す。総司は「もう」と不満げに声を漏らしたけれど、土方を追って走ってきた。
西本願寺の桜が、色付き始めていた。



302


目にも鮮やかな花々が、今が盛りと咲き誇り、春の香りが漂う。まるで新撰組を歓迎するかのような季節だが、実際に歓迎しているのはその花々だけだ。
引っ越しが落ち着き宴会も済ませ、ようやく日々の様相が正常なそれに戻ろうかという頃。
「…はぁ…」
土方は手元の手紙に目を通し、ため息をついた。
引っ越しをしたからといって土方の仕事が減ったわけではない。むしろ山南がそれまで抱えていたものが本格的に土方に移行されてしまい、毎日仕事に追われている。
そんななかでも一番土方を悩ませているのは人員の確保だった。池田屋以降、名前を挙げた新撰組へ入隊を希望する者は多いが、半分以上が興味半分といった具合で、局中法度を見れば入隊前に逃げ出す始末だ。しかし、それならまだマシな方で、入隊したのちに脱走を図る者が絶えない状況が続いていた。それは監察の仕事を増やし、隊の士気を下げてしまう。
「土方副長、宜しいでしょうか」
土方が頭を悩ませていると、淡々とした声が聞こえた。「入れ」と答えると、顔を覗かせたのは斉藤一だった。
「失礼します」
斉藤は物音を立てずに膝を折り、
「巡察は滞りなく終わりました」
と、無感情かつ事務的に告げた。それはいつものことだ。
「そうか、ご苦労」
「では…」
無駄話を厭う斉藤はさっさと部屋を去ろうとする。土方も普段ならそれを追ったりはしないのだが、今日は珍しく
「ちょっと待て」
と引き留めた。斉藤は振り向いて、再び膝を折る。
「何でしょうか」
「先日、お前の組下に入れた新人隊士だが…」
「逃げられましたか」
斉藤の目敏い指摘に、土方は「ああ」と答える。
西本願寺への移転を果たし、最初に行った入隊試験で珍しく新撰組に対して意欲を持ち、剣の腕もそこそこある男の入隊を許した。その男を斉藤に任せたのだが、三日後には脱走をしてしまったのだ。
「西本願寺は広い。これまでのように門番を置くだけでは目が届かず、脱走は容易なのでしょう」
「ああ…それもあるが、最近入隊した奴らは大抵京かその近郊の、この辺りの地理に詳しい者ばかりだ。こちらの知らない抜け道や協力者の手を借りて、簡単に監察から逃れちまう」
「難儀ですね…」
斉藤はそう言うものの、表情は特に変わっていない。それは無感情だというわけではないようだが、きわめて客観的な視点を持っているからこそなのだろう。
土方は文机に肘を置いて、気怠い身体を預けた。
「やはり、幕府への忠義の厚い江戸で隊士を募るべきだろう。平助が奔走してくれているようだが、会津からは至急隊士を増やす様にとお達しが来ている。ここはいっそ江戸に何人か人を遣って、隊士募集に力を入れさせようと思うのだが…」
「そのお役目ですが」
土方の言葉を止めるように、斉藤が口を挟む。自己主張をしない斉藤にしては珍しいことだ。
「何だ」
「私に行かせていただけませんか?」
そしてその申し出もまた、土方の予想だにしないことだった。
「お前にか…?」
「はい」
淡々とした受け答えだが、そこには斉藤の強い意志があった。
「確かにお前があちらで入隊希望者の腕を見て餞別して来れば、平助の負担も減るだろうが…」
「ぜひ、お願いします」
頑なに頼み続ける斉藤に、土方は理由を問い詰めようとしたものの、しかし言葉を飲み込んだ。
(おそらくは語らないだろう…)
彼の性格からそう察しがついたのもあるが、「聞かないでくれ」という雰囲気を感じ取ったのかもしれない。
「…わかった。その方向で考えておく」
「有難うございます」
斉藤は軽く頭を下げると、「では」とそのまま部屋を去っていった。普段からまるで監察のように足音を立てない彼はいつの間にか消えている。そんな印象だ。
「…なるほど、な…」
そんな彼が珍しく己の意思を主張した。その意味を、土方は何となく察していた。


「江戸へ…ですか?」
土方はその日の夕方、総司を誘って別宅へとやってきた。壬生から西本願寺へ移転したことで別宅は近くなったものの、足を運ぶ暇はなく、移転後は初めての訪問だ。
別宅の世話をしているみねは大店に仕えていただけあってよく気が利き、部屋は清潔に保たれ、庭の樹木は選定され、簡単な食事を準備してくれていた。その食事を口にしつつの会話だった。
「ああ。近藤先生も『兵は東国に限る』ていうのが口癖だから、江戸で隊士を確保するのは賛成してくれた。それに新撰組の噂を聞きつけた江戸の者が試衛館へ入隊を懇願しにくると、彦五郎さんの手紙にもあったからな…それなりの数は確保できるだろう」
「そうですか。ではこの間のように近藤先生がまた江戸へ行かれるんですか?」
「いや…ほいほい大将に留守にされちゃ困る」
土方は汁物を流し込み、箸をおく。
「ま…普通に考えれば、俺が出向くべきだろうな」
「土方さんが?」
総司は驚いて箸を止めた。
「何だよ、そんなに驚くことか?」
「あ…いいえ、土方さんは新撰組のことが心配で、あまりそういう外向きの仕事はしないのだと思っていたので」
「それくらいことは急ぐんだよ…ただ、問題があるとすれば」
「伊東参謀ですか?」
総司の問いに、土方は頷いた。
「今のところ、あちらも何か仕掛けるような雰囲気はねえけど、俺が留守をすれば動きやすくなるのは確かだろうからな。近藤先生が丸め込まれて、おかしなことになったら困る」
「近藤先生はそんな簡単に丸め込まれたりしないと思いますけどね…もう下げますね」
総司は自分の膳とそして土方のものを抱えて台所へ向かう。土方はその場に身体を横たえた。
今日、近藤に同じことを相談した時も『俺は大丈夫だよ』と楽観的に笑っていた。ついでに『伊東参謀のことをむやみやたらと疑うんじゃない』と小言を貰ったのだ。
しかし土方はどうしても伊東のことを信じられない…受け入れることができない。少しでも足元を掬われれば、すべてを持って行かれそうな…そんな底知れないものを感じるのだ。
(単純に…苦手、と言い換えてもいい)
おそらく新撰組という場が無ければ、一生関わることの無かったはずだ、と断言できるほど自分には合わないのだ。
すると台所へ向かっていた総司から声がかかった。
「土方さん、風呂を焚きましょうか?」
「ああ…いや、まだいい」
「わかりました」
総司はそういうと部屋に戻ってきて、身体を横たえた土方の傍で膝を折った。
「さっきのお話ですけど」
「ん?」
「近藤先生と伊東参謀の二人が拙いなら、じゃあ伊東参謀も一緒に江戸に行かれてはいかがですか?」
「はぁ?」
総司の提案に土方は反射的に声を上げた。しかし土方の驚きとは反対に、総司は首を傾げる。
「え?だって、そうじゃないですか。土方さんが伊東参謀の動きが逐一気になるというのなら、一緒に江戸へ行かれる方が土方さんは安心でしょう」
「安心は安心だが…」
正直、気の進む話ではない。江戸への長い道中、あの得体の知れない存在と共に過ごすということだ。それは想像もできない光景だ。
「あ、意外と一緒に旅をすれば、仲良くなっちゃったりするかもしれませんよ」
他人事だと思っているのか、気楽に笑う総司を見て土方は深いため息をついた。
「勘弁しろよ…道行には斉藤もいるんだ、どんな空気になるか…」
「え?斉藤さんが?」
「……ああ、あいつにも同じ話をしたら、自分に行かせて欲しいと申し出てきた」
「へぇ…隊士募集だなんて斉藤さんはあまり好きそうな仕事じゃないですけど、珍しいこともあるものですねえ…」
土方は、総司の表情が刹那強張ったことに目敏く気が付く。総司は必死に取り繕うように笑っていたが、それはあまりに露骨だった。
(…斉藤…か)
総司が斉藤の名前を出して態度や表情変えるのは少し前からだ。面倒なのは、二人の間に何があったのか、土方には何となく推測できてしまうことだ。だからこそ、斉藤が頑なに江戸行きにこだわったことについて理由は訊ねなかったのだ。
しかし今は敢えてそれに気が付かないふりをして、土方は総司の手を取った。
「ところで、お前は俺が江戸に行くことについては何の感想もないのか?」
「感想…ですか?」
相変わらず鈍い反応を見せる総司に、土方は内心ため息をつく。
「何日も俺に会えないんだ。恋人としてその辺りについて何か思うことはないのか、と聞いている」
「こ…」
恋人。
その響きに総司は少し顔を赤らめて、恥ずかしげに視線を外した。しかし土方は構わずその手を引いて同じように横たえさせて、背中から腕の中に包み込む。
「仕事だから…仕方ないですよ」
耳まで真っ赤に染めた総司は、しかし寂しげに続けた。
「いい加減、藤堂君をこっちに戻してあげないと可哀そうですよ。彼にはまだ…山南さんのことを直接報告できていないんですから」
「…ああ、そうだな」
土方は腕に力を込めて抱きしめる。女のそれとは違う、骨っぽい身体は男のそれに違いないが、だが何故だか特別なものに思えた。
しかし総司は逃れるようにして身体を丸める。
「…土方さん、」
「ん?」
「今日は…嫌です」
もごもごとして小さな声を漏らす。土方は「何故?」と訊ねると、総司は顔を先ほどよりも赤く染めた。
「だって、あのあと、私、どれだけ皆にからかわれたと思っているんですかっ!原田さんは皆に言いふらしちゃうし、山野君にまで身体を気遣われて…本当、居心地悪かったんですから!」
「へえ、知らなかったな」
「知っているくせに!」
隊内の噂なら些細なことでも何でも知っている土方だ。もちろん総司の指摘通り、そう言ったうわさが流れているのを小耳にはさんでいた。
総司は拗ねたように「もういいです」とそっぽを向く。土方は苦笑しつつ、
「わかったわかった」
と総司の言い分を認めてやったのだった。





303


「それは良い案だな」
近藤は土方の話を聞くと、すぐにそう言って頷いた。
「歳が江戸に行くなら、お義父さんや佐藤のおのぶさんも喜ぶだろうし、ちょうどいいな」
「別に姉さんに会いに行くわけじゃねえが…本人からの申し出もあったから、一緒に斉藤も連れて行こうと思う」
「へえ、斉藤君がか。…そうだな、なんせ、新撰組の鬼副長だ。命が狙われてもおかしくはない」
「新撰組の局長ほどではないさ」
土方がそう答えると、近藤は「そうだな!」とその大きく開いた口で笑った。
江戸での隊士募集は土方が東下することでほとんど話はまとまりつつあった。江戸での募集は藤堂と共に義兄である佐藤彦五郎が仕切っているそうなので、適当な人選だろう。しかし、土方が懸念しているのは江戸への人選ではなく、残していく新撰組の体勢だ。
「心配ないさ。伊東参謀もいらっしゃるんだ、どうにでもなる」
近藤はそう楽観的に語るが、その伊東こそが土方にとっての懸念材料だとは思ってもいないようだ。
(確かに、山南さんの一件で伊東も積極的な行動は自重するだろうが…)
それでも野放しにしておくべきではないだろう。
すると近藤は
「総司は連れて行かないのか?」
と何の気なしに訊ねてきた。
「ああ…一番隊組長まで抜けると格好がつかねえだろう」
「おみつさんが総司に会いたがっているとつねの手紙にはあったんだがなあ…」
「またの機会にしてくれ」
土方が頑なに拒むと、近藤は「そうか」と残念そうな顔をした。
もちろん、土方としても近藤の親心は理解しているし、総司が供に行くのならそれは別の意味で良い旅になるだろうとは思うが、さすがに斉藤と三人でというのは想像もつかず、気が引ける。
土方はそんな心の内を、意外と勘の良い近藤に悟られては面倒だ、と咳払いを挟み、「話を戻すが」と切り出す。
「伊東参謀のことだが…仮に、だが…江戸行きに加えてはどうかと思っている」
「伊東参謀をか?!」
土方の申し出に、近藤は想像以上に大きなリアクションで返した。土方の方が驚いてしまったほどだ。
「何だ、そんなに驚くことか?」
「いや、お前は伊東参謀のことを…苦手、にしているだろう?そんなお前がまさかそんなことを口にするとは思わなくてだな…」
「…ま、積極的に一緒にいきたいというわけではないが…そのほうが、都合がいいだろう。江戸での人脈を生かしてもらえれば、それで」
土方は理由を曖昧にして誤魔化した。
(隊に残ってよからぬことを企てられては困る…と言えば、またかっちゃんに小言をいただくだけだしな…)
余計なことは口に挟まずにあくまで江戸行きへの人選の案だ。
すると近藤は腕を組んで少し考えた後「それは確かに良い案だな」と同意した。
「俺も前回の江戸行きで伊東参謀の人脈の広さは実感した。さすがに北辰一刀流と神道無念流を修めただけのことはある…。お前や伊東参謀がいなくても、こっちはどうにでもなるだろう。伊東参謀さえよければ、歳の思うとおりにしたらいい」
「ああ、わかった」
局長である近藤の了承も得て、ようやく土方も覚悟が決まる。そもそも伊東の名前を出したのは総司で、その話を聞いたときは土方としては気が進まないしまるで現実味のないことだと思ったのだが、しかしよくよく新撰組のことを考えると一番良い案ではあったのだ。
(あいつも、頭が回るようになったらしい)
本人にそう言えば「また馬鹿にして」と拗ねるだろうから口にはしないが、土方は柔らかいため息をついた。
すると次に近藤が
「俺からも歳に話があるんだ」
と話を変える。文机に雑然と重ねられた手紙の中から一枚を取り出して土方に渡した。
「誰からだ?」
「松本良順先生だ」
「松本…?まさか奥医師の?」
「ああ」
近藤は満足そうに微笑み、おおきくうなずた。
「西洋医学所から幕府御典医となられたお方だ。かつて一橋公の病を、禁薬であった阿片を用いて一晩で直してしまったという、豪胆な方だよ。長崎で西洋医学を学ばれた先生が医学だけではなく、政情や外国の情勢にも通じているという噂を聞いて、俺の方から和泉橋の医学所を訪ねたんだ」
「へえ…」
土方は手渡された手紙に目を通す。医者とは思えない大胆な筆跡だ。近藤が江戸から帰ってきた際に紹介したい人がいると口走っていたが、その男のことだったのか、と土方は気がついた。
「俺は早急な幕府による攘夷の必要性を訴えたのだが、松本先生は一笑してそれは無理だとおっしゃった。外国の戦力はとても及ぶべくもない。攘夷を決行する前に、開国をしてその知識と技術を取り入れ、そして攘夷をしたい奴はすればいい…と。自分も西洋の医学が学べるからそのほうが都合がいいと笑っていらっしゃった」
「ふうん…で、江戸へ行った際には俺からも挨拶に行け、ということか?」
「ああ。そのうち京へ上洛されるとのことだ。その際にはぜひ屯所にお招きしようと思っている」
「わかった、顔を出すようにしておく」
「よろしく頼んだ」
近藤はそれから松本良順がいかに素晴らしい人物であるかということをとうとうと語り始めた。どうやら余程気が合ったらしく、何度か通い持病の胃痛までも治してもらったのだと近藤は嬉しそうに言っていた。土方はその話を聞きつつ
(…どうやら、江戸に行かなくてはならないようだな…)
自分のなかにわずかながらあった、一抹の寂しさを感じた。昨晩のような総司との優しく穏やかな時間が少しだけとはいえお預けになるのだ。


一方、その頃。
「…おはようございます。今日はよろしくお願いします」
朝方、土方と共に屯所に戻った総司はそのまま巡察となった。巡察は斉藤の隊と合同のものだ。
「ああ、よろしく」
斉藤は短く返答し、そのまま三番隊と共に歩き始める。総司はいつも通りその隣を歩くが、何となく居心地が悪い。
『最後だからと思って言う。忘れてもらって構わないし、返事は要らない』
彼がそう言う以上はその通りなのだろうとは思うが、しかしあのときのお真摯な眼差しと彼の淀みない言葉を無視して聞かなかったことにするのは、何となく卑怯であるような気がしてならない。
すると斉藤がちらりと総司の方を見た。
「河上のことだが」
「えっ?」
斉藤はまるで昨日話したかのような口ぶりだ。しかしその後も同じ調子で続けた。
「河上彦斎のことだが」
「あ…ああ、ええ、なにか?」
「監察に聞くと、とても小柄な男だそうだな」
「ええ…そうですね、色白で、以前出会った時は女に変装をしていましたが、知らぬ人ならそれで通るでしょうね」
「ふうん…」
斉藤はそう言うと、再び口を噤む。沈黙のなか、総司は恐る恐る
「あの…河上がなにか?」
と訊ねてきた。何か深い意図があって声をかけてきたのだろうと思ったからだ。しかし斉藤は淡々と答えた。
「面識があるのはあんただけだろう。だから聞いてみただけだ」
「そ…そうですか…」
そしてまた沈黙が訪れる。重くて息苦しいほどの。
(世間話なんて…らしくない)
そういう無駄な話を厭うのが斉藤のはずだ。けれどだからと言って、沈黙でいることがこんなにも苦々しい気持ちに為させなかったはずだ。彼との間に流れていた時間は、静かだったけれどもっと穏やかで柔らかったはずなのに。
そんななか、ようやく巡察の目的の場所に到着した。いつも通りの指示を出すと、隊士達は散らばって周囲の巡察に向かう。
総司は斉藤と共に彼らの帰りを待つ。
二人きりになったことでさらに重苦しい沈黙が流れる。総司は意を決して、口を開いた。
「あ…の、斉藤さん、土方さんに聞いたんですけど、江戸に行かれるんですか?」
「…」
(あ、拙いかも…)
総司は口にしてすぐに後悔した。彼の前で土方の名前を出さないように努めようと決めたばかりだ。
しかし斉藤は表情一つ変えなかった。
「ああ」
「…何か江戸へ用事でも?」
「別に。江戸は俺にとって縁もゆかりもない場所だ。用などない」
「だったらどうして?」
斉藤は総司の問いに、ゆっくりと顔を向けて、そして大きくため息をついた。わざとらしいほど大きい。
「…それを聞いてどうすると言うんだ」
「どうするって…」
「あの時に言ったはずだ、忘れろと」
「それは…」
総司は口ごもる。忘れられない自分が悪いと言うのだろうか。あんなに重い言葉を。
すると斉藤は視線を逸らす。
「…時間が欲しいだけだ」
「時間…」
「これ以上はいくら鈍感でも自分で察しろ」
そう冷たく言い放ち、また口を噤んでしまった。




304


「江戸へ…ですか」
驚いた反応を見せたのは腹心の内海だけではなく、篠原や加納、服部も同じような表情を見せ、しかしもっとも顔を歪めていたのは実弟の鈴木だった。
だが、彼らに報告をした伊東はいつもの他愛のない雑談のような気軽さだ。
「在京の者ではなく、江戸で隊士を募集すべきという話は近藤局長が前々からおっしゃっていたことだが、まさか私の名前が挙がるとは思っていなかったなぁ…」
「一体、何ゆえ先生が…?」
緊迫した篠原の問いに、伊東はゆったりと答える。
「さあ…近藤局長は私の江戸での人脈を生かしたいという話だったが…おそらく江戸行きとしての人選ではなく、私を新撰組に残しておくことに問題があるということだろう。近藤局長によからぬことを吹き込むと思っているのか、何か企てるとでも思っているのか…どうやら土方副長は私のことを全く信用していないようだ」
「なんて無礼な…!」
加納は感情的に声を上げたが、隣にいた内海が「声が大きい」とすぐに諌める。八木邸の離れにいたころと違って、声が筒抜けなのだ。
それに伊東に従う彼らが怒ったところで、当の本人である伊東が特に気にしていない様子なので、そう言った感情的なリアクションは不必要ということだろう。内海は鋭くそう察していた。
「…どうされるおつもりですか?」
内海の質問に、伊東は少し間をおいて答えた。
「もちろん、行くさ。それにこれは近藤局長の命令だ、私が局長の命令を拒む理由はない」
「…兄上…!」
「こういう機会もなければ、彼とゆっくり語り合うことはできない。…そういう意味では、楽しい旅になりそうだ」
声を上げた鈴木だが、その叫びはあっけなく無視される。余裕綽々の伊東に、盟友たちも
「先生がそうおっしゃるなら…」
と雰囲気を和らげた。
その中で鈴木だけはいまだに眉間に皺をよせていた。


夕暮れ時、総司は茶を持って近藤のもとへやってきた。
「近藤先生、いらっしゃいますか?」
「ああ、総司か。入ってくれ」
近藤の返答を受け、総司は襖を開ける。すると部屋はいまだに片付けられていない引っ越しの荷物で山積みだった。
「すまない、足の踏み場がないだろう。適当に片して座ってくれ」
「はい…お荷物が多いですね」
「ああ、山南さんの書物を引き継いだからな。新しい場所に越してきたというのに、すぐに手狭になってしまいそうだ」
ははは、と笑いつつ近藤は自分の足元に散らばる書物を端に寄せる。総司も同じようにしつつ隣の部屋の様子を窺った。
「…土方さんはいないんですね」
近藤と襖越しに隣の部屋を陣取る土方だが、いまはその気配がない。せっかく彼の分も茶を準備したのだが、必要なかったようだ。
「ああ。江戸行きが決まったから、土産物などを買いに行くと言って出て行ったよ。前々からおのぶさんにあれこれ買って欲しいと手紙で頼まれていたようだから、これを機会にまとめて土産にして買って帰るのだろう」
「ふふ、鬼副長も姉上の前では形無しですね」
「それは仕方ない。お前は知らないだろうが、おのぶさんは怖かったんだからな」
幼馴染である二人は、よく土方の姉であるのぶに叱られたのだという。総司はおのぶには可愛がられた記憶しかないので想像できない姿ではあるが。
「そうだ、総司。落雁があるんだ、お食べなさい」
「いいんですか?」
「もちろんだ、二人でこっそり食べよう」
近藤は悪戯っぽい顔を浮かべて、奥の戸棚から懐紙に包んだ落雁を持ってきた。総司の持ってきた茶とともに口にする。上品でほのかな甘みが口いっぱいに広がった。
「それにしても、今回もお前を江戸へ遣ることができなくて、申し訳なかったなあ」
「仕方ないです、試衛館の皆さんに会えないのは残念ですけど、まあ、土方さんが行くのだから皆喜ぶでしょうし」
「それはそうだが、しかし、おみつさんがお前のことを大層心配しているとつねからは手紙が何度も来た。お前が相変わらず梨の礫だからいけないんだぞ」
近藤のお叱りに、総司は苦笑いで返すしかない。
「…すみません。頼りが無いのは元気な証拠だって、姉上は前にいっていましたから…」
「それは試衛館にいたときだろう。江戸と京都じゃ心配するのも無理はない。…今度こそ、歳に手紙を預けておくんだぞ」
「わかりました」
総司は素直に答えると、近藤も満足そうにうなずいた。
「歳と伊東参謀が屯所を空けることになると、俺の次点は、一番隊組長であるお前ということだ。しっかり頼む」
「…はい」
自分で淹れた茶を啜りる。甘さが際立つほろ苦さは、何故か自分の心に宿り続ける苦い気持ちに似ていた。
(…どうしてだろう)
一番隊組長として新撰組を離れるわけにはいかないのだと分かっているのに、言いようもない不安が心を占める。
(何だっけ…この気持ちは、以前にも味わった気がする)
息苦しいような、この気持ちを。
「元気が無いな」
近藤の言葉に、総司ははっとなる。気が付けばぼんやりしていたようで、近藤が穏やかな眼差しで総司の顔を見ていた。
「す、すみません、何でもありません」
「なんでもないことはなかろう。なんだ、心配ごとがあるのなら、今のうちに言いなさい。誰も聞いちゃいない」
総司は時折、近藤のことを師であると同時に、自分の父親であるような錯覚をすることがある。父は生後間もなくして亡くなったと聞いたため、記憶にはないが、その穏やかな雰囲気と優しい声には何故か覚えがあるような気がするのだ。
だからこそ、隠し事ができずに、土方よりも先に気持ちを打ち明けてしまうのだろう。
「…たぶん、ちょっと寂しいだけです」
自分がこんな気持ちになるなんてついこの間まで知らなかった。
仕事だから仕方ないと分かっていても、心は何もわかっていない。自分のなかでこんな矛盾が生れるなんて、何も知らなかった。
「ふっ、寂しいか。…そうだな、そうだよな」
近藤はその手を伸ばして、総司の頭を撫でた。大きくてごつごつした手のひらが心地よく頭を滑る。
「その気持ちは、ちゃんと歳に言った方が良い」
そしてその言葉はいつも心にすとんと落ちる。


夜の闇に落ちた頃、伊東の部屋を訪ねた鈴木は早速、
「兄上、これは策略です」
と顔を顰めて進言した。
一本の蝋燭の下で文をしたためていた伊東は、軽くため息をついてその手を止めた。
「お前の妄想には付き合いきれないな」
「妄想などではありません。江戸へ向かうのは土方副長と斉藤組長だと伺いました。斉藤組長は土方副長の腹心の部下です!」
「声を落とせ」
伊東の冷たい声に、鈴木はびくん、と身体を揺らす。しかし怯まずに続けた。
「そうなると状況は常に二対一…!兄上は、敵と共に旅をするというのですか?」
「敵など言うものではない。彼らは新撰組の仲間だ…少なくとも表向きは」
「表向きの話など…!」
「鈴木」
伊東は鋭いまなざしで鈴木を制した。同じ血を分けた兄弟であることに違いはないはずの二人に与えられた別の名字。それを突きつけられるとまるで決別を宣言されるかのような痛みが伴う。
「彼らが私を殺すなどと本気でそう思っているなら、浅はかな考えを持つ自分を恥じなさい」
「し、しかし…可能性が無いわけでは…」
「ない。もし彼らが私を殺せば、屯所に残るお前たちが反乱を起こす…近藤局長の傍には沖田くんしか残っていないんだ。いくら彼らが天才的な剣術の腕前だとしても数では劣る。土方君はそんな危険を冒すようなことはしない」
「…っ」
兄の言い分を理解はできる。
しかし、それでもわざわざ危険な場所に行く兄を受け入れることはできない。
(兄だからではない…!)
「俺も…行きます。行かせてください」
誰よりも
何よりも
自分よりも
大切な人だからこそ。
(こんな苦痛は、死ぬよりも耐え難い…!)
「無理に決まっているだろう」
「兄上…!」
しかし、鈴木の懇願を伊東はあっさりと却下した。
「組長であるお前がそんなことできるわけない。それに…足手まといだ」
その冷たい声と尤もな正論に、鈴木は何の抗う言葉も口にすることはできなかった。




305


元治元年三月二十五日。隊士募集の為、土方は参謀の伊東と三番隊組長斉藤とともに江戸へ下ることとなる。彼らが江戸に到着する頃には慶応へとその元号が変わり、それは時代の終焉の象徴となるのだが、そんなことはもちろん彼らには知る由もないことであった。

その出発の前日である二十四日。
「…よし」
総司は時間をかけてしたためた文をもう一度読み返して、頷いた。
近藤に言われたとおりに、姉であるみつに手紙を書くことにした。内容は日常生活や自分のことを少しだけ書いて、あとは新撰組や近藤の活躍など自分以外のことをたくさん書いた。どうにも自分のことを書くのは苦手で、恥ずかしくて、書き上げるにも時間がかかってしまったのだ。
それから甘いものが好きであろう姪や甥には吹き寄せ菓子を買ってきた。江戸のそれとは違う都風の菓子を喜んでくれれば良いのだが。
「お手紙、書きあがったんですか?」
そんな総司を覗き込むようにして声をかけてきたのは、山野だった。西本願寺に移ってからは各隊ごとの部屋割りとなり、組長も同室となったのだ。
「ええ、ようやく」
「それにしても、沖田先生の筆跡はとても…男らしいですね」
山野はまじまじと手紙を眺める。
「よく言われますよ。筆跡と顔があっていないって」
「そ、そんなことないですよ」
慌てて否定する山野だが、人に見せると大体の人に「意外だ」と言われる無骨な筆跡だ。字を習ったのは姉にだったが、姉は父に教わったそうなので父がそのような字を書いていたのだろう。
(まあ…みつ姉さんが見れば懐かしく思ってくれることだろう)
相変わらずだと笑うかもしれない。
総司は墨が渇いたことを確認して、小さく折りたたんだ。
「伊東参謀と土方副長は明日、ご出発されるんでしたね」
「ええ、明日から三番隊も一緒の巡察になりますから、よろしくお願いしますね」
「はい。斉藤先生までお留守にされるとは、何だか寂しいですね」
山野の台詞に「そうですね…」と総司は曖昧に答える。そしてそれ以上の追及を避けるように、立ち上がり
「ちょっと出てきます」
と告げた。今日は一番隊は非番なのだ。
「わかりました。いってらっしゃいませ」
山野は礼儀よろしくそのように見送った。まるで総司が今からどこへ行くのか知っているような口ぶりだ。
(もう…嫌になるなあ…)
総司は苦笑しつつ、西本願寺から出て目的の場所に向かった。

別宅にはやはり土方が居た。行李に荷物を入れて明日の出発に備えているようだ。
総司が手紙と甥姪への土産を手渡すと
「珍しいな」
と本当に驚いた顔を見せた。予想通りの反応だ。
「そんなに驚かなくても。近藤先生に手紙を書くようにと小言をいただいたんです」
「まあ、そんなことだろうとは思った」
土方は苦笑しつつ、総司から受け取ったものをそのまま行李へと入れた。すると台所にいた世話係のおみねが
「沖田せんせ、夕餉をご準備しましょか?」
を申し出てきた。台所からは土方の分であろう夕餉が準備されつつあり、良い香りが漂っていた。
「じゃあご相伴にあずかろうかな。ご一緒してもいいですか、土方さん」
「ああ」
土方の短い返事を聞いて、おみねは頷いて台所へ戻っていく。
総司は土方の荷造りを手伝うことにした。
「それにしても、本当に伊東参謀と一緒に行かれるとは思いませんでした」
「お前が言い出したんだろう」
「それはそうなんですけど、きっと土方さんは拒むだろうと思っていたので」
「仕方ねえだろう…結局、それが最善だと思ったんだ」
納得していると言いつつも、土方はやはりどこか不承不承という雰囲気だ。しかし旅を共にする苦痛と、残していく心労を天秤にかけて決めた選択なのだろう。
(土方さんらしいや…)
そんな風に思ったことは心に留めておいて、総司は行李にいれる袴を折りたたむ。荷物は、おそらくは姉が持たせてくれるものが大量にあるだろうからと、できるだけ少なくして最低限のものだけで行くそうだ。
そうこうして準備が終わる頃に、ちょうど夕餉の支度も終わる。おみねが作る食事はいつも温かな京料理が並び、色鮮やかだ。どこかの料亭に来たかのような豪華さに箸を休めることなく完食し、おみねも嬉しそうに片づけをして帰っていった。
「おみねさん、たまには屯所に来て夕餉の支度をしてくれないですかねえ…」
おみねが置いて行った大福に舌鼓を打ちつつ、総司がぼやくと土方は苦笑した。
「それは無理な話だ」
「そうですかねえ…今度、駄目もとでお願いしてみようかな」
「ま、いうだけはただだ」
「そうですね」
総司は手にしていた大福を飲み込み、茶を飲む。腹が満たされて、そして夜も大分更けていることに気が付いた。
「…もう、行っちゃうんですねえ…」
ポツリとつぶやいた言葉は、深い意味もなくごく自然に零れた言葉だったが、それを口にしてすぐに(あっ)と思った。しかし土方は目敏く気が付いていて
「何だ、やっぱり寂しいんだな」
と少し笑った。
「そ、そんなわけ…」
ない、と否定してしまうのは簡単だ。だけど、そんな風に強がったって、近藤にさえ気づかれたことを土方に知られない訳はない。
総司は少し躊躇いつつも、ちらりと土方を見た。
「…土方さんがいなくても、ここに来てもいいですか?」
「それは構わねえが…何故だ?」
総司は視線を逸らした。そして言葉を選びつつ、続けた。
「…西本願寺の部屋は、まだ真新しく…て、土方さんの気配がしないんです。…でも、ここなら…その…」
まるでそこにいるような気がするから。
傍に居てくれるような気がするから。
(ああ…駄目だ、おかしくなっている)
心臓が小刻みに震えて、体温が上がっていく。勝手に言葉が溢れて、まるで自分が自分じゃないみたいだ。
すると土方が穏やかに微笑み、身体を寄せて総司の手を取る。
「ここにいれば寂しくないか?」
「…っ、あんまりこっち見ないでください…!」
「何で?」
「…土方さんがいないくらいで、寂しいとか、そんな恥ずかしいこと…思うなんて、思わなかったんです…!」
永遠の別れでもなければ、近藤とつねのように離れて暮らすわけでもない。たった数日離れるだけだとそう思ったのに、出立の日が近づくにつれて心が苦しくなった。二人きりになれば、強がることさえできない。
「土方さんと…こうなってから、私は何だかおかしくなったような気がします…。何だか、病気みたいで…」
「…ああ、そうだな」
「病気ってことですか?」
目を丸くして驚く総司に、土方は「馬鹿」と笑う。
「それが好きだってことなんだろう」
「…そうでしょうか。前はこんな些細なことで苦しいなんて思わなかったんですよ」
この苦い気持ちは、君菊と土方との関係を誤解したあの時と似ている。どこか居心地が悪くて、でも心臓ばかりが脈打って。
(このまま、死んじゃいそうだ…)
すると土方は総司の輪郭に手を伸ばす。
自分のとは違う、大きくて厚い手のひらが触れるだけで、脈打つ心臓がもっと早く走り出す。
「寂しい思いをするのか、嫌でも忘れられない様にするのか…どっちがいい?」
「歳三さん…」
甘く蕩けるような囁き。
土方が何を言わんとしているのか、総司にはわかる。
(恥ずかしい…)
わかるようになったことが恥ずかしい。
そして、
後者を選んでしまう自分は、たぶん、もっと恥ずかしい。


翌日の、二十五日。総長に出立する土方、伊東、斉藤を見送るべく隊士たちが西本願寺の境内に集まっていた。
「伊東参謀、よろしく頼みます」
見送る側の近藤は丁寧に頭を下げる。すると伊東は「いいえ」とゆったりとほほ笑んだ。
「丁度、妻から手紙が来ていたところでした。顔を出す機会をいただいて、有難いと思っています」
「そうですか。それなら良いのですが」
「局長こそ、土方副長が抜けた分、お忙しくなるでしょうがお体を大事になさってください」
二人がそんな会話をする中、試衛館食客たちは土方の元へ集まる。
「土方さん、大先生によろしく言っておいてくれよな」
「ああ、わかっている」
「平助と一緒に帰ってくるんでしょう?」
「あちらでの募集の状況にもよるが、そのつもりだ」
原田と永倉は土方の返答に大いに喜ぶ。藤堂が江戸に向かって一年近く経つ。もともと仲の良かった二人だから、今か今かと待ちかねているのだろう。
そんななか斉藤はいつもの無表情のまま、三番隊の隊士らと別れのあいさつを交わす。そしてその視線を総司へと向けた。
「…斉藤さん」
「三番隊のことは任せた。義理堅い隊士ばかりだ、苦労を掛けることはないかとは思う」
「それはもちろん、心配はしていませんが…斉藤さんも、道中お気をつけてください。…それから」
総司は一歩、斉藤の方へ歩み寄る。
「…土方副長のこと、よろしくお願いします」
「……」
敢えて述べた「副長」の意図を、斉藤なら理解しただろう。これは個人的な願いではなく、あくまで一番隊組長として副長の無事を案じているのだ。
するとしばらく沈黙していた斉藤が、ふっとその表情を緩める。
「…気を遣わせて済まない」
「斉藤さん…」
「行ってくる」
斉藤はそっと総司の肩に触れて、そして背を向けた。そのまま土方と伊東の元へ向かい、出立となる。
「いってらっしゃいませー!」
「どうぞお元気で!」
「道中お気をつけてーっ!」
隊士達の声が上がる中、三人は背中を向けて去っていく。そのなか土方が少しだけ振り向いた。そしてたまたまか、それともわかっていたのか、総司の方を見て、何かを呟いた。
その声はかき消されて聞こえるわけはない。
けれど、
「頼む」
とそう総司の心に響いた気がした。



306


「総司、暇か?暇だよな?」
いつもの調子で原田が声をかけてきたのは、土方らが江戸へ隊士募集に出掛けてから二、三日が過ぎた頃だ。
「今日は非番ですから暇ですけど」
「よし、じゃあおまさちゃんとこに行こうぜ。永倉の奴は夜番だから寝てるんだよ」
彼が親しげに話すおまさは、仏光寺通りで甘味屋の手伝いをしている女性だ。上洛時に(原田曰く)運命的に出会い、それ以来ずっと暇を見つけては通い続けている。
「ああ、いいですね。私も久しくお邪魔してないですし」
「じゃあさっそく行こうぜ!」
総司の返答に原田のテンションも上がり、二人は早速屯所を出た。
過ごしやすい小春日和が続き、道々に咲く花々も待ちかねたようにその花を咲かせていた。和やかな気持ちになりながら連れ立って歩く。
「それにしても、意外ですよね。原田さんはもっと気の多い人だと思っていましたよ」
がさつで豪快な原田だが、その見てくれは整っており、花街にでかければかなりモテる。その昔、試衛館にいた頃も吉原に出掛けては朝まで帰って来ないことはしょっちゅうだった。そんな彼が、京に来てからはぴたりとその女遊びをやめて、おまさだけにアプローチを続けている。
「俺は遊ぶときは遊ぶが、本来は一途なんだよ。ガキの頃だって、近所の年上の女に十年くらい片思いしてたぜ」
「へぇ、やっぱり意外です」
「自分でも時々そう思うけどよ、やっぱり『この女だ!』って思ったら曲げられねえんだよなあ…」
気が多そうに見えるが、一つのことにはまっすぐ。それはなにより彼が前々から自慢している切腹傷が証明しているだろう。
「それにしても、せっかく幹部以上は別宅が持てるんだから、俺もいい加減、おまさちゃんを嫁に迎えたいんだけどなあ…断られちゃどうしようもねえよな」
「…それはやっぱり新撰組の十番隊組長だから、ですか?」
総司の問いに、原田は「いいや」と首を横に振る。
「その辺はおまさちゃんは度胸が据わってるから、関係ねえとは思うが…やっぱりあっちは名字帯刀御免の家の娘さんだからさ、脱藩浪人の俺じゃあ、家柄が合わねえんだろうなあ」
おまさは親戚の家が営む甘味屋の手伝いをしているが、その出自は単なる町民ではなく、武家と同じように帯刀を許され、名字を与えられた特別な名家なのだ。新撰組の組長とはいえども、単なる浪人に過ぎない原田とでは彼女の家が反対するのは無理もない話だ。
「…ふん、まあ、俺がいくら嫁に欲しくても、おまさちゃんが俺が旦那だと嫌だと言うのだから仕方ねえよな」
「それはそうですね」
はははと総司が笑うと、原田は「この野郎」と軽く頭を叩いた。
そうこうしている間に店にたどり着く。普段は町人の憩いの場として穏やかな雰囲気が漂う甘味屋だが、今日は中から言い争うような声が聞こえてきた。一人は男の声で、もう一人は女の…おそらく、おまさの声だ。
「不逞の輩か?!」
原田は飛び込むようにして店に入る。総司も続くと、そこにいたのはおまさと、そしてよく似た顔をした月代のある男だった。
「ですから、兄上!うちはまだ縁談なんて考えて…!」
「まだもなにもあるかいな!お前なんか、その齢で嫁の貰い手がないんや!この話、蹴ったら二度できへんで!」
「まあ失礼な!うちかて、その気になればいくらでも!」
「いくらもなにも、いままで話があったこともないくせに、偉そうな!」
言い争う二人は、話の内容や似た面立ちからも兄妹だとわかる。あわてて飛び込んだ二人は驚きのあまり固まる。
「えーっ…と」
「兄妹喧嘩…ですね」
するとこちらに気が付いたらしいおまさが
「いらっしゃい。空いている席へどうぞ。…兄上、その話は帰ってからでええでしょ」
「…おまさ、もしかしてこの方が新撰組の?」
「ええでしょ、帰ってからで!」
おまさは兄の背中を押し、出口へと押しやる。当然、総司と原田とすれ違うこととなったが、兄だと言う人は新選組と知っていながら臆することもなく
「うちの妹に、変なちょっかいを出さないでくれまへんか」
と、原田を睨み付けた。
「お…俺は…」
普段は売られた喧嘩は積極的に買いに行く原田だが、おまさの兄にはそうもいかなかったのだろう。二の句が継げない原田に代わっておまさが
「ええ加減にして!」
と兄を怒鳴った。兄は納得できないような表情を浮かべつつも、おまさに押されて店を出て行った。
おまさは「もう」と面倒に嘆息すると、二人の方を見て
「沖田せんせ、お久しぶりどす。原田せんせ、いつものでええ?」
と、いつもの軽やかな笑みを浮かべた。呆然としたままの二人を急かす様に席に座らせて店の奥に下がっていく。
まるで何事もなかったかのように振る舞うおまさとは正反対に、まるでこの世の絶望のような表情を浮かべているのは、目の前に座った原田だ。
「は…原田さん?」
「そ、総司…いま、縁談って言ってたよな?」
「言ってましたけど…」
「ぁぁあぁあ…嘘だろぉ…?」
原田は頭を抱えて突っ伏す。店へやってくるまでのハイテンションはどこへやらだ。
「あ、でも原田さん、おまささんは拒んでましたし、まだ決まったわけじゃないですよ?」
「あああぁ…縁談かぁ…」
「聞いてない…」
あまりの憔悴振りに総司が困惑していると、温かい茶を持ってきたおまさがやってきた。
「沖田せんせ、ぜんざいやったらすぐにできますえ」
「じゃあ、それでお願いします。…今のは、兄上ですか?」
原田に代わり訊ねると、おまさは困った表情を浮かべた。
「へえ。何や最近、縁談の話ばっかり持ってきて、ええ迷惑なんどす」
「おまささんのことが心配なんですね」
「それはそうやとは思うけど。うちはまだ考えてへんのに、次から次に話をもってくるんやから、ええ迷惑よ」
ため息をつき、本当に面倒そうな顔を浮かべるおまさに、総司は苦笑するしかない。
するとおまさはちらりと原田を見た。原田は突っ伏したままでショックを受けているのはわかっただろう。するとおまさは少し複雑な表情を浮かべた。それは
(あれ…?)
と総司が気が付く程度にはあからさまだった。しかしおまさは、すぐに表情を戻し
「ほな…」
と、立ち去ろうとした。しかし、原田がその時に顔を上げ、「おまさちゃん!」とその腕を掴んだ。
「な、何…?」
「俺のとこに嫁に来い!」
原田は決死の覚悟を秘めた表情で叫ぶ。その声は店中に響き、店の奥にいた店主が顔を出し、他の客たちも振り返るほどだった。しかし、一番驚いていたのは、当然おまさだ。
「…何ゆうてんの?冗談やろ…?」
「冗談じゃないって知ってるだろう!俺はおまさちゃんのことが好きだ、おまさちゃんだってそうだろう?」
「あ、あほ言わんといて。誰があんたのとこなんか…離して」
おまさは原田の掴んだ手を振りほどこうとするが、原田は強く掴んだままだ。
「何度も夢に見るんだ、おまさちゃんが赤ん坊抱いてあやしてる姿が!出会ってからこの二年、ずっとだ!」
「そ、そんなんせんせの勝手や。うちは関係ない…」
「確かに俺の勝手かもしれねえ。けど、俺はそれが夢だとは思いたくねえんだ」
「…っ、もう、離して!」
おまさは渾身の力で腕を振りほどく。もちろん原田が女の力に負けるはずはなかったので、わざと離したのだろう。
「…新撰組の組長以上は、別宅を持って所帯を構えてもいいってことになってる。…俺、もうおまさちゃんとの暮らし為に家を探したんだ」
「原田さん…」
それは総司にとっても初耳だったが、もちろん彼女にとっても同じだったのだろう。
「…そんなん、聞いてへん…」
おまさは顔を赤らめて俯く。原田の思いが真剣であると彼女だってわかっていたはずだ。
「今まで茶化してばっかりだったけどよ…ちょっとだけでもいい、考えてくれねえか?」
いつもとは違う、原田の真摯な声。
原田は屯所ではいつもおまさのことを面白おかしく話し、『嫁に貰うんだ』と酒を飲みながら笑っていた。隊士の誰もがそれは半分冗談みたいに受け止めていて、四方山話の一つだと思っていた。
しかし、原田にとってのこの二年は本気でおまさを想い続けた二年だった。表面上は茶化していても、その根底にある想いは誰よりも熱くおまさのことだけを思っていた。
そしてそれを彼女が知らない訳がないのだ。
「……考え、させて」
おまさは俯いたままポツリとつぶやく。そして店の奥へと小走りで去っていってしまった。
その場に立ち尽くした原田は、しばらく沈黙すると、総司の方に振り返った。
「…悪い、先に帰るわ」
そういうと返事も待たずに店を出て行く。総司は何も言えずに、その背中を見送った。


「…っていうことがあったんですよ」
屯所に帰った総司は、そのまま近藤の部屋へと向かった。局長の部屋だということで、他の部屋よりも一回り以上大きな部屋は、先日足を踏み入れた時よりは片付いていた。
「なるほどなあ」
近藤は腕を組み、唸る様に返答した。
いつもならこういう話は土方に持っていくのだが、彼がいない今、総司が相談する相手は近藤しかいない。それに幹部の一人である原田の問題だ。近藤に話を持っていくのは筋だろうと思ったのだ。
「左之助の奴、そこまで本気だったとは気が付かなかったなあ…」
「あんな真剣な表情の原田さん、初めて見ましたよ」
「おまささんさえ話を受けてくれればいいんだが…」
そう言いつつも近藤の表情は鈍い。
「…やはり、難しい話ですか?」
総司が不安げに訊ねると、近藤は躊躇いつつも頷いた。
「家柄の違いということもあるだろうが、新撰組の組長の妻ともなれば討幕派に目をつけられる可能性だってある。彼女も彼女の家族もそうそう容易く決断できることではあるまい」
「そうですよねえ…」
近藤の意見を聞き、深いため息をついた総司だが、一方で近藤は「よし」と表情を変えた。
「左之助の為に、ひと肌脱ぐかな」
「え?近藤先生、何かお考えでもあるんですか?」
総司が訊ねると、人の良い笑顔を浮かべた近藤は頷いた。
「歳がいないと何もできないわけじゃあない。俺だってやるときはやるんだよ」
「はあ…」
「任せておけ」
近藤の頼もしい言葉に、総司は疑問を覚えつつも頷いて返したのだった。




307


島田が困惑した表情で、恐る恐る総司に相談にやってきたのはすぐのことだった。
「あのぅ…沖田先生。原田組長、どうかされたんですか?」
先日、原田はおまさに勢い余って告白をしたものいまだに返事が無いようだ。原田は日に日に塞ぎ込むようになり、今ではあからさまなほど青白い顔で生気ない表情を浮かべている。
毎日無駄なほど元気だった組長が意気消沈ともなれば、その組下や原田を慕う隊士たちは当然戸惑い、自然と士気が下がっていた。
「自分としては、どうにか元気を出していただきたくて飲みにお誘いをしたのですが、断れてしまいました」
原田が飲みの誘いを断るなどよっぽどのことだ。時代の深刻さを受け止めつつ、総司は
「あー…まあ、大丈夫ですよ。そのうち元気になるでしょうから、そっとしておいてあげてください」
と、返した。原田はその理由については口を噤んだままのようで、島田を始め隊士たちは困惑するしかない。
「…わかりました。自分からも、他の隊士にはそのように伝えておきます」
「お願いします」
古参隊士である島田なら隊士たちも同じようにしてくれるだろう。島田が去ると、総司はこっそりため息をついた。
今後の原田ことについては近藤に任せているのだが、いまだ音沙汰がない。近藤のことだから悪いようにはしないとは思うが、ただでさえ土方、斉藤が抜けて新撰組を取り仕切る者が少ないなかで、原田の無気力な状態は隊に影響を与えかねない。
(どうにか…しなきゃな…)
局長に次ぐ、一番隊組長として何かできることがないものかと考えるが、総司にはおまさの微妙な心情や乙女心が理解できるわけもなく、また縁談の経験ないため話を進めることも、その手順や手段もわからない。下手に何かをしでかしてしまうのも良くない気がして、思いとどまるばかりだ。
もどかしい思いを募らせていると
「どうしたんだ、あいつ」
と声がかかる。総司に訊ねてきたのは永倉だった。
「永倉さん、何も話は聞いていないんですか?」
壬生の屯所では同室だった彼だからてっきり経緯を知っているのかと思いきや、彼は首を横に振った。
「聞いちゃいないが、あいつがあれほど落ち込むのはおまささんのこと以外はあるまい」
「鋭いですねえ、さすがです」
総司はおもわず賛辞の拍手をする。その後、総司は永倉に簡単に事のいきさつを説明した。すると永倉は「やっぱり」という相槌を打ち、軽く笑った。
「心配することはないと思うけどな。事はなる様にしかならないし」
「そういうものですかねえ…」
「それに、答えはたぶん出ている」
「答え?」
総司が首を傾げると、永倉は「ああ」と含んだ微笑みを浮かべて言った。
「だから放っておけばいい。…ただ一つ言えることがあるとすれば」
「何ですか?」
「人の恋路には無駄なお節介は禁物、ということだ」

永倉はそう達観していたものの、悪いニュースが総司のもとに届いたのは翌日のことだった。
「おまささんが、見合いに?」
総司は目を丸くして驚いた。しかしその知らせを齎した山野は、仰々しく「はい」と頷く。
「芝居小屋の近くで、可憐な振袖に身を包んだおまささんを見かけました。父君や兄君もご一緒のようでしたから、おそらくは見合いでしょう」
「…このこと、原田さんには?」
「いえ、まだ何もお伝えしていません」
山野の懸命な判断に、総司は胸をなでおろす。ただでさえ気落ちしている原田がこんな話を聞けば、卒倒してしまいそうだ。
総司はひとまず、山野には黙っておくように伝えて、すぐに駆け足で近藤の元へ向かった。部屋にはちょうど刀の手入れをしていた近藤がいて、総司の顔を見て
「どうしたんだ?」
と穏やかに迎えた。総司は斯く斯く云々、山野から聞いたことを伝える。てっきり慌てふためくかと思いきや、近藤は「なんだそのことか」と余裕のある様子で受け取った。
「それなら知っているよ。兄上殿の計らいで、立派な大店のご子息と見合いをすることになったようだ」
「え?!こ、近藤先生は何か原田さんとおまささんを上手く夫婦にする策があったのでは…?」
「策?そんなものは無いさ」
軽やかに笑う近藤に、総司はただただ驚き、拍子抜けした。数日前に『任せておけ』と近藤が言ったのは、聞き間違いだったのだろうか…。
「…一体、どういうことですか? っていうか、あれ、なんで見合いのことをご存じなんですか…?」
「ははは」
総司が困惑し問い詰めるが、近藤が笑って誤魔化す。そして手入れの手を止めた。
「総司、いいことを教えてあげよう」
「いいこと…?」
「人の恋路にはな、無駄に手を出さない。これは鉄則だ」
得意げに口にした近藤。
総司は既視感を覚えつつ「はあ…」と返答したのだった。


原田はふらりと屯所を出た。普段から胸を張って堂々と歩くことを信条としていたのに、ここ最近は俯いてばかりいた。
勢い余って、おまさにプロポーズしたのは良いものの、あれから数日何の音沙汰もない。自分とおまさの置かれた環境のギャップと、兄君のあの険しい表情を見れば、なかなか円満に話は進まないだろう。それは覚悟していたものの、日に日に不安は募り、悪い想像ばかりを重ねていた。
「畜生…」
しかし新撰組とおまさなら、自分はやはり新撰組を取るだろう。戦になった時は、その命を惜しむことなく一番最初に斬りかかる。それでこそ、原田左之助だ。それを捻じ曲げてまでおまさと一緒にはなれない。
だったら、この激しい衝動のような恋心はきれいさっぱり忘れてしまったほうがよいのではないか。
(っていうか…俺、やっぱりおまさちゃんに好かれてなかったのか…?)
考えは堂々巡りだ。
そしてついには嫌気がさし、
「…っ、あー!畜生!」
と、原田は叫び、空を仰いだ。
(こんなの、らしくねぇや!)
悲観的になって、一人で悩んで、待っている。そんな状況はもううんざりだ。
それにこんな覇気のない状態で敵と戦って、勝てるわけがない。そうなれば、それこそ、彼女の答えは一生得られないのだ。
「当たって砕けろだ!」
原田は駆けだした。おまさがいるはずの甘味屋へ全力疾走だ。
(振られたからって、諦めたりしねえ!)
嫌われたとしても、もう望みはないとしても、彼女が所帯を持って、子供が生まれても。
自分のこのなかにある炎を絶やしたりはしない。
諦めが悪いと言われても、それだけ彼女への想いが強いのだから仕方ない。自分がそう言う人間だということは、誰よりも自分が知っている。
それにおまさはきっと、そんな自分を「しょうがおへんなあ」と穏やかに笑ってくれることだろう。
(好きな女が、俺の目の前に現れて、生きてくれている)
それで十分じゃないか。
原田は息を切らし、店の前までやってきた。少しの躊躇いが足を止めたけれど、唇を噛んで店に飛び込んだ。
「御免っ!」
まるで討ち入りか、御用改めのような挨拶で店に踏み込むが、店には誰もいない。時間はまだ昼前で、店が混むのは昼を過ぎてからだ。
拍子抜けをしたような気持で呆然としていると、奥から人が出てくる気配がした。
「あ…」
その姿を見て、原田は身体中が強張った気がした。
「…遅いわ」
おまさはいつもの強気で、分け隔てない笑顔で原田に微笑みかける。そして続けようとしたが、
「あのな…」
「お!おまさちゃん、あの……え、縁談!縁談はどうなったんだ?」
と、原田が慌てて話を逸らした。勢いで飛び込んだものの、心の準備はまだできていない。するとおまさは「ふふ」と笑って「縁談はしたわ」と語りだす。
「兄上のご紹介で、大店の跡取り息子と芝居小屋でお見合いや。綺麗に化粧をして可愛らし振袖に袖通して、張り切っていってきたわ」
「そ…そうか…」
頭がガンガンと揺さぶられているようだ。
彼女が男に会うために身なりを整えて、最上の衣装で出かけたと聞いただけで、こんなにも嫉妬を感じるなんて。
しかし、目の前の彼女はその穏やかな笑みを崩さずに告げた。
「でも、お断りしてしもうた」
「え…?」
悪戯っぽく笑ったおまさは、まるで企みが成功した子供のようだ。
「なんやうちの好みやないし、大店の奥様やなんてうちには務まらへんし?せやけど父や兄は薦めたし、あちらも是非嫁に来てほしいって言われたんやけどなあ…一生に一度の機会やったかもしれへんのに、勿体ないことしてしもうたわあ…」
「おまさちゃん…」
少し芝居がかったおまさは、原田との距離を一歩、また一歩と詰める。
「でも仕方おへんよね。あんた、うちがおらへんと死にそうなんやもん」
そして原田の袖を握った。
「…売れ残ってしもうた。うちのこと、もらってくれるんやろ?いまさら、あのときの台詞を、無かったことにはせえへんよね」
二年。
彼女と過ごした時間は毎日ではなかったけれど、それでもこんなに優しく語りかける彼女は初めてだった。
「と…当然だろ!」
じっと、彼女に受け入れられたら嬉しくて、飛び跳ねて、喜んで、はしゃぎまわるのだと思っていた。自分が世界一の幸せ者だと叫ぶのだと思っていた。
でも違った。
(やべぇ…泣きそうだ)
しかし、それを彼女に悟られたくなくて、ぐっと唇を噛んで彼女の腕を取る。
「じゃあ行こうぜ!」
「え?ちょっとまって、どこに…?」
原田はおまさとともに店を出て駆けだした。
「俺たちの家だよ!」
おまさは驚いた顔をして、しかし嬉しそうにうなずく。
人混みの中、二人は手を取り合い、まるで飛び跳ねるようにして走った。
(空も飛べそうだ…!)
原田はそう思った。


その日の夜のこと。
「どういうからくりだったんですか?」
総司が訊ねると近藤は笑った。
「からくり、というほどのことはない。直接、おまささんの家に直談判に行ったんだ。しかし、さすがにおまささんの父君と兄君だけあって、『新撰組の近藤』だと名乗ったところで、ビクともしない。俺がお互いが好いているに違いないのだから、どうか一緒にしてやってほしいと頼んでも、頑として受け入れてくれなかった。そんなはずがないといってね」
「それで…?」
「それで、賭けをしたんだ。見合いをして、おまささんの気持ちを確かめてほしい。もし、おまささんが見合い相手を選ぶなら左之助に言って聞かせる。そのかわり、そうじゃなかったら認めてやってほしいとな」
「なるほど…」
同じ場面に立ち会えば、土方はあれこれ策を尽くすだろうが、近藤は逃げも隠れもしない直球勝負で挑んだ。そういうことだ。
「総司、歳に手紙で伝えてくれ。あの二人を夫婦にしてやると」
「…わかりました」
総司は頷いた。



308


久々に髪を揺らす江戸の風は、やはり潮の匂いがした。土方が障子を開け、春の心地よさに実を委ねながら、入隊希望者の名簿を読んでいると、誰かがやってきた。
「土方様、お手紙です」
礼儀よく膝を折った彼女は、近藤の妻であるつねだ。道場主不在の試衛館を切り盛りし、具合の悪いらしい養父・周斎の世話も務めている。
「ああ…申し訳ない」
多忙な彼女に礼を言いつつ、土方は手紙を受け取る。新撰組からだろう、と思っているとそこに書かれていたのは総司の筆跡だとすぐに分かった。
「では、失礼いたします」
つねは軽く頭を下げて、すぐに部屋を出て行く。
長らく男所帯に慣れていたせいか、仕事場に女がいるのは不思議な心地だ。半分はそんな違和感、しかしもう半分は懐かしい居心地の良さを味わっている。
江戸からの追加募集の為、数日前に試衛館に戻った。思った以上に試衛館の面々は歓迎してくれ、遠方の親戚から懐かしい門下生まで顔をそろえて土方たちを歓迎し、宴会が催された。藤堂はもちろん、少しだが滞在した斉藤や、社交的で口のうまい伊東が揃い、宴会はまるで祭りのような騒ぎだった。
それからすぐに、藤堂と伊東は共に伝手のある道場に足を運び、土方と斉藤は試衛館でこれまで集まった入隊希望者に会うこととなった。
(…正直、ほっとしたな…)
土方は手紙を広げつつ、そんなこと思った。
伊東との旅路は警戒していたほどのことはなく、途中は世間話や何のこともない会話でやり過ごすことはできた。彼がおしゃべりなのは辟易としたが、時折斉藤が聞き役に回ってくれたので、左程の疲労感はない。それに伊東が何か裏で画策しているような動きもなければ、政治的な意見を土方に求めることもなかった。
不気味なほどに平和的な旅だったのだ。
(油断はできない…が)
いまは同門であった藤堂と共に行動をしている。伊東が何を考え、何を企んでいるのか…しっかりと目を光らせておく必要がある。
そんなことを思いつつ、手紙に目を通した。角ばった筆跡はやはり総司のものに違いなく、手紙の挨拶もまるでお堅い役人におくるかのように厳かだ。
しかし読み進めていると、その内容は和やかなものだった。新撰組は上手くいっている、ようやく原田の恋が実り近藤の了解を得て縁談を進めているとのこと。そのことについて土方と伊東にも賛成してほしいといことだった。
(かっちゃんがいいなら、それでいい)
問題があるとすれば、相手の親だろうが縁談を進めているのなら、上手くやったのだろう。土方はひとまずその手紙を折り、文机の隅に重ねた。
そうしていると、
「ごめんくださいまし」
と玄関の方から声が聞こえた。聞きなれないが、聞いたことのある声だ。誰かが迎えに出る様子もないので、土方が仕方なく立ち上がり、玄関へと向かった。
するとそこにいたのは、総司の姉であるみつだった。土方の顔を見るや「あっ」と驚いた顔をした。
「土方さま、大変ご無沙汰しております。みつでございます」
「お久しぶりです。お元気にされていらっしゃいましたか」
「ええ、おかげさまで。土方さまのご活躍は日野にまで届いております」
みつの言葉に、土方は苦笑して「やめてください」と必要以上の気遣いを拒んだ。数日前の宴会でも大げさにもてなされてウンザリしていたのだ。そして彼女を客間へ通す。
姉であるみつと総司はよく顔立ちが似ている。色白の肌やしなやかな体躯など、筋肉のつき方は違っても、誰もが一目で姉弟であると分かるだろう。
「お忙しいのでしょう。すぐに、お暇いたしますから」
「いいえ、遠方から来たのですからゆっくりされてください。それに、ちょうど良かった」
「良かった、とは?」
土方は懐から手紙を取り出し、みつに差し出した。総司から預かっていたものだ。受け取り、筆跡を確認したみつは目を見開く。
「まあ…今回も梨の礫だと思っていたのに…驚きました」
皮肉っぽくいいつつも、みつの表情は明るい。彼女が早速、目を通し始めたので、土方は台所へと立った。台所では先ほどまでいたはずのつねの姿が見当たらず、土方は仕方なく自分で茶を入れることにした。
二年半経ち、子供が二人もいると言うみつだが、相変わらず楚々とした美人だ。
(もしみつさんに旦那が居なかったら、俺はみつさんに惚れていたのだろうか)
土方はふとそんなことを考えた。
もともと自分は男にはまったく興味が無い性質で、女ばかりを口説いてきたはずだ。それも決まって美人ばかりで、落ちるか落ちないのか、駆け引きを楽しんできた。今だって、乳房の大きな女や、腰の括れた女を見ると目に留まってしまう。
しかし、その駆け引きは総司には全く通じなかったように思う。いつも胸に焦燥感を抱き、遠回りをしてたどり着いた…思いが通じ合った時は、これまでの女を落とした時とは違う満足感と幸福感を得た。いくら顔が似ているからと言って、みつと総司では別だ。
(いや、総司だけが特別…か)
土方は苦笑した。そんなことを考えている自分が、可笑しかった。
そして茶を入れて、適当な茶菓子を持って客間に戻る。みつは手紙を読み終えていて、茶を受け取ると「ありがとうございます」と美しい所作で頭を下げた。
「土方さまに総司はとてもお世話になっているようですね」
「ああ…いや、総司は相変わらずですよ。ここにいたときと変わりない」
「そうですか。確かに、自分のことはあまり書いていませんでしたから、相変わらず、ですわね」
ふふっとみつは笑う。
しかし少し沈黙して、表情を落とした。
「昨年、近藤先生が試衛館にいらした時はお伺いすることが憚られて…どうしても気になっていることがございました」
「気になっていること、とは?」
「池田屋のことです」
みつはきゅっと唇を噛みつつ、続けた。
「討幕派の方たちと戦になったと伺いました…何分、江戸に伝わる話は真偽のわからない噂話が多いのです。ですから、すべてを真に受けてはならないと主人とも話をしていたのですが、あまりにあの子が手紙をくれないもので、いつも心配で…あの子は、本当に無事だったのですか?」
「無事…?」
目の前に総司の書いた手紙がある上で尋ねる質問にしては違和感があった。土方が訝しげに思いつつ、返答に迷っていると、みつはおずおずと続けた。
「こちらでは血を吐いて昏倒したと聞きました。あれは…本当に、間違いで宜しいのでしょうか?」
「もちろんです!」
土方は驚きつつ、即答した。
「根も葉もない噂話です。確かに暑さにやられて気を失ったようですが、大した怪我もなく、俺たちが応援に向かった頃には二階の敵を一掃していました。血を吐いたなど…」
あの時のことは鮮明に覚えている。無数に転がった死体の中、浅黄色の羽織を見つけたときにどれだけ安堵したか。身体の熱は燃えるように熱かったが、総司は血など吐いておらずその後もすぐに回復した。いまでは何の支障もない。土方がそう力説すると、みつもほっと胸をなでおろし、全身の力を抜いたようだ。
「よかった…本当に、よかった…」
みつは今にも涙を流さんばかりの安堵の様子だ。総司は『便りが無いのは元気の証拠だと姉さんは思っていますよ』なんて気楽そうに笑っていたが、母の代わりに総司を育ててきたみつにとって、根も葉もない噂だとしても気がかりで仕方なかったことだろう。
(…あいつにはもっと手紙を書くように強く言わなければな…)
土方はそう心に留めておく。
みつはそっと目尻の涙を拭った。
「すみません、変なことをお伺いしてしまって…どうしても『血を吐く』となれば心配で…」
「どういうことです?」
「え?あ…」
みつは土方の指摘に言い淀んだ。安堵したからこそ零れたのだろうが、土方には見過ごせないことだった。
するとみつは少し迷ったようだが、「土方さまにはお伝えしておきます」と居住まいを正した。
「…実は、父は労咳で死にました」
「労咳…」
土方は柄にもなく、ごくりと息を飲んだ。労咳…肺結核。血を吐いて、痩せ細って死ぬ、不治の病だ。気鬱や恋煩いから発症するという通説もあるが、一番多いのは先天性の遺伝による発症だ。
「総司が生れる前に亡くなりましたが、私は父が毎日、血を吐いて、息をするのも苦しそうな様子を見ていました。そして隔離された部屋で…孤独に亡くなった」
その後、働き扶持を無くした沖田家は困窮することになった。みつはこれまで病を憎み、忌み嫌っていたことだろう。そんなみつが総司が池田屋で血を吐いて昏倒したと聞けば、取り乱すのは当然だ。
「…そうでしたか」
土方はそう答えることしかできなかった。労咳で苦しむ患者はいままで何人も目にしてきた。そして何度も虚しい気持ちを味わってきたのだ。
「土方さま、できればこの話は誰にも…総司にも言わないでください」
「総司にも?」
「あの子は…父が何故亡くなったのか、おそらくは知らないはずです。知らないならば、知らない方が良いこともあるでしょう。気にして気鬱になっては…元も子もないのですから」
「そうですね…」
それに本人はいたって元気そうで、血を吐く素振りすらもない。このことはみつの言うとおり、胸の隅に留めておくくらいでいいだろう。
そしてみつも穏やかな微笑みに戻った。
「…それにしても、『あの子』だなんて、私もまだまだ弟離れができていないようですね。新撰組の一番隊組長…こちらで聞く噂話は何だか、夢のようです」
「それは…そうかもしれません。俺にとっても、あいつは…」
昔から変わらない。
しかし、それでいて胸を締め付けるような衝動を齎す唯一の存在。
(ああ…くそ…)
「土方さま?」
「…いえ、何でもありません」
あいつのことを考えるだけで。
早く帰りたくなってしまった。



309


身支度を整えた土方は、
「斉藤、出掛ける。一緒に来い」
と端的な命令を出した。書類に目を通していた斉藤は行先も理由もきかずに「わかりました」とすぐに返答して、刀を差し土方に従った。
すれ違ったつねに「出かけてきます」というと、彼女もまた何も聞かずに「いってらっしゃいませ」と頭を下げた。無駄のない動作は昔とは変わらないが、前よりも洗練されているようにみえた。それだけ「新選組局長の妻」という肩書は江戸まで響いているのだろう。
試衛館を出ると、桜の淡い花びらが散り、新緑の葉が顔を覗かせていた。風もいつの間にか生ぬるくなっている。ついこの間まで冬だったのに、季節はあっという間に移ろいでいたのだ。
「総司から手紙が届いた。原田の縁談がまとまったらしい」
「…そうですか。それは良いことですね」
言葉ではそういう斉藤だが、その表情は相変わらず無反応だ。本心からの言葉なのか、表面的な対応なのか…土方も時々、区別がつかなくなる。
「すでに別宅の宛てまで探しているそうだ。俺たちが戻ったら簡単な婚礼を行うそうだから、お前もそのつもりでいろよ」
「わかりました」
斉藤は土方の半歩ほど後ろを歩く。腕を組み、周囲の景色を眺める土方とは対照的に、斉藤の眼差しは真っ直ぐ前にのみ向けられていた。
しばらく沈黙と端的な会話を交わしつつ二人は歩きつづけ、お玉ケ池『西洋医学所』へたどり着いた。人の出入りが激しく、そのほとんどが患者のように見える。
そこへ来て斉藤はようやく
「こちらにどのような用件で?」
と訊ねてくる。
西洋医学所は長崎でシーボルトから西洋医学を学んだ蘭方医・伊東玄朴が設けた「種痘所」が母体になって設立された幕府の医学機関だ。特に病を抱えているわけでもない土方が、斉藤を連れ立ってくる場所にしては相応しくなかっただろう。
「近藤局長から、ここの頭取でおられる松本良順先生へ手紙を預かっている。ついでに挨拶をして来いとも言われていたからな」
「…そうでしたか。では俺は外で待っています」
「お前も一緒に来てもいいんだが」
いつもは表情を変えない斉藤が、珍しく顔を顰めた。
「こういう場所は苦手です」
「…」
端的な答えだ。病人ばかりが集う辛気臭い場所が嫌なのか、とも思ったが、斉藤の表情を見る限りそうではなく、命を奪う立場にいる自分がどうして命を救える場所にいられるのか…そういう葛藤が見えた。
(それはわからないでもない)
「わかった。じゃあしばらく待っていろ」
「はい。向かいの居酒屋でお待ちしておりますので、ごゆっくりなさってください」
斉藤が軽く頭を下げて、ひとまずは彼と分かれることになった。
土方は出入りをしていた若い男に、自分の身分を告げて「松本良順先生にお会いしたい」と用件を告げた。さすがに「新撰組の土方」という名前は知れているようで、男は驚いた顔をして慌てて奥に入っていく。ついでにその会話が耳に入ったらしい患者たちもジロジロと土方の方を見ては、怯えたように表情を変えた。
そうしていると、先ほどの若い男ともう一人が戻ってきて
「先生は診療中です。ひとまず奥へお入りください」
となかへ通した。いつまでも患者の傍で待たせるな、とでも命令が下ったのだろう。土方は彼らに従い、施設の奥の客間へと通された。診療所の騒がしさが嘘のように静かな場所だ。
「申し訳ありませんが、しばらくお待ちください」
「わかった」
どうやら彼らは医者の卵のようで、土方を通すと小走りで仕事に戻っていく。
斉藤はこのような場所には慣れないようだが、土方にはかつて薬売りをして何人もの患者に向き合っていた時期がある。鬼副長と恐れられていても、名前もわからない病に罹り、怯えて薬に頼る人々の気持ちは少なからずわかるつもりだ。
(…病、か…)
思い浮かぶのは、やはり先日みつから聞いた話だった。
総司の父が労咳で亡くなったこと。母親もすぐに亡くなったと聞いているが、もしかしたら同じ病だったのかもしれない、とそんなことを思う。
いままで死ぬときは誰かに斬られることしか考えていなかったが、命を奪うものはそんなことよりも病の方が多いはずだ。そしていつか総司も父と同じ病に侵されるのかもしれない…それは想像するだけで背筋の凍るような未来だ。
(考えすぎだ…)
まだ見ぬ先におびえてどうする。それに労咳という病は、原因がわからず予防することもできない。いま自分にできることは、このことを胸に留めておくこと…それだけだ。
そんなことを考えていると、ドカドカと豪快な足音がこちらに近づいてきた。土方が構えて待つと、障子ががらりと開く。
「…あんたが、土方が」
遠慮ない問いに、土方は「はい」と答えた。すると男はにやりと笑って中に入り、土方の前で胡坐をかいて座った。風貌としては医者というよりも武士然としていて、髭面で鋭いまなざしは威圧感を感じさせたが、しかし笑うと愛嬌がある。
「待たせて悪かった。松本良順だ」
「お初にお目にかかります。私は新選組副長の土方歳三と申します。お忙しいところ、突然お邪魔して申し訳ございません。このたびは…」
「堅苦しい挨拶はいい。それより、噂通りの色男だな、近藤の言った通りだ!」
はははっと快活に笑う松本が、何故近藤と意気投合したのか…土方は直感的に理解した。裏表のなさそうで、感情をストレートに顔に出す性格。近藤に通じるものがある。
松本良順は下総佐倉藩医師佐藤泰然の次男として生まれ、幕医松本良甫の養子として迎えられている。幕命により長崎へ遊学し、オランダ軍医の下で西洋医学を学び、日本初の洋式病院の開設に関わった。現在は西洋医学所の三代目頭取となり、幕医としても活躍している。
土方は懐から手紙を取り出して、松本に差し出した。
「近藤から預かってまいりました手紙です。持病の胃痛も先生のお蔭で良くなりましたことを、お伝えくださいとのことでした」
「そうか。まあ、あれは身体的な病というよりも精神的な病と言った方が正しいからな。気の持ちようを変えればすぐにでも治る。俺の力じゃあないさ」
謙遜というよりも本音のようで、松本は手紙を受け取るとそう言って笑った。すると松本はまじまじと土方の顔を見た。
「…なにか?」
その視線は決して不快なものではなかったが、松本は「ふうん」と意味深に微笑む。
「あんた、昔は薬売りをしていたらしいな。なんだ…石田散薬、というそうだな」
土方は(そんなことまで話したのか)と近藤の口の軽さに辟易としつつも答えた。
「ええ…まあ、家伝の薬です。西洋医学を学ばれた松本先生からすれば、効力のない薬に思われるでしょうが」
「そんなことはないさ。さっきも言ったが、『病は気から』だ。あんたの家の薬を飲むことによって安心して気が安らかになる者もいただろうさ。それは、まだまだ民から信頼を勝ち得ていない西洋医学にはない要素だ」
「…ありがとうございます」
松本のまっすぐな賛辞は心地が良い。決して意図しているわけではないだろうが、軽快な話口は土方にとっても馬が合うのかもしれない。
「それより、あんたは色白だが特に病をしているわけではなさそうだな。薬売りをしているだけあって、自分の体のことも良くわかっているのだろう」
「わかるのですか?」
「顔を見れば大体のことはわかる。もっとも、診察をすれば確かだろうが」
「診察…」
ふと土方は思いついた。
「…先生、もしよろしければ新撰組の屯所に一度お越しいただけませんか」
「新撰組?そりゃあ、興味が無いわけではないが…」
「男所帯故、面倒がって医者に行かない者も多いのです。池田屋の際も、夏の暑さにやられて動けない者が半分おり、大変難儀いたしました。もしよろしければ先生のお知恵をお借りできれば…」
土方の申し出に、松本の目が光る。
「そりゃあいけねえな。天下の一大事に病で動けねえともなれば笑いものだ。…よし、今度、都へ行く機会があれば必ず足を運ばせてもらう」
「ありがとうございます」
医者の血が騒いだのか二つ返事で受け入れた松本に、土方は丁寧に頭を下げた。
しかし松本を招くために口にした理由は、土方にとっては表面的なものだった。
(総司を…診てもらおう)
最も面倒がって医者を嫌がるのは総司だ。自分の周りのことには無頓着で目が行き届いていない性格で、昨年の池田屋以来、医者に診せていない。さすがに松本が診察を行うとなれば断れないだろうし、土方にしても西洋の医学なら身体に潜んでいる病魔の正体を早々に知ることができるのではないか、という期待があった。
しかし、そう思う一方で内心苦笑した。
(どれだけ…心配になっているんだ、俺は…)
こんな本音を吐露すれば過保護だと笑われることだろう。だからこそ、秘めておかなければ。
すると松本は
「ま、そんな遠い話じゃねえ。京へ行くのは夏ごろには可能だろう」
と、笑った。
「何故…?」
「長州征討さ。昨年の長州征討で、一応長州藩の討幕派連中が腹を切って収まったということになっているが、実際はまた討幕派が実権を握りつつある。幕府は毛利や三条へ圧力をかけているようだが、一向に応じる気配がねえ。その為、上様が上洛し長州征討の全軍の指揮を執られる…なんて話が進みつつある」
「…そうですか」
土方にとって初耳ではない。昨年の池田屋が発起となり蛤御門の変、そして長州征討を経て長州を打倒したように見えたが、その一方でいまだに長州では倒幕の熱が収まっていないとの話は近藤と何度か交わしたことがある。
松本は幕医という立場から将軍家茂公とも距離が近いため、自然とそのような話が耳に入ってくるのだろう。
すると松本はそれまでの明るい表情を少し落として、真摯な眼差しを土方に向けた。
「…これは堅物の近藤には言わなかった話だが、土方、お前にはこれだけは言っておく」
そう前置きした。
「俺は西洋の医学を学んできたからわかる…軍力は、残念ながらわが国と圧倒的な差がある。いま攘夷を謳ったところで返り討ちに遭って負け、それだけは確実だ」
「…先生、ですが…」
「まあ、最後まで聞け。俺自身は藩医の子に生まれ、幕府に恩義がある。何があっても幕府と命運を共にする覚悟で幕医を務めている。だが俺には、お前たちがただ盲目的に幕府に仕えているように見える。言っちゃ悪いが、それではただの犬だ。いつ手綱を離されてもおかしくはない…」
「…」
松本の飾りのない言葉に、土方はぐっと唇を噛む。
「…犬は犬でもいい。だが、忠義を尽くすだけが犬の役割と思うな」
「忠義、ですか」
「ああ。たまには噛みつく…そういう芸当を俺はお前たちに期待している」
彼は口角を上げて笑う。明朗快活な性格だからこそ、彼の「期待」という言葉は嘘ではないのだろう。
土方は自然とふっと息を吐いて苦笑した。
「…肝に銘じます」
近藤が懇意に思う人間であれば、その親友である自分が松本のことを気に入らない訳がない。会ってまだ時間は経っていないものの、土方はかつてないほどこの男に魅せられた。
そして今後、松本良順が新撰組に深く関わることを、どこかで予感していた。




310


「伊東先生、ご苦労様です」
馴染みの道場から出てきた伊東に、藤堂は満面の笑顔で声をかけた。伊東はふっと息を吐きながら「待たせたね」と言って二人は連れ立って歩き出す。
「いかがでしたか」
「ああ、やはり新撰組の話は道場にまで伝わっているようだね。しかしいまだ荒くれ者としての側面ばかりが目立っているせいか、私のように道場を上げての参加は難しいが、それでも何人かはともに来てくれそうだ」
「そうですか!それは良かったです」
藤堂は嬉しそうにうなずいた。
かつて短い時間ではあったが藤堂は伊東の門下生だった。その頃から素直で人当たりが良く、先輩に好かれる性格であったが、新撰組の一員となった今でもそれは変わらないようだ。
「藤堂君はどこか精悍になったようだね。額の傷もすっかり癒えて、いまはその傷が君の勲章としてよく似合っているよ」
「へへ、そうですか?あの時は死ぬかと思いましたけど、いまでは笑い話ですよ。まあ、それも命あってこそですけど」
藤堂は照れたように頭を掻く。
しかし、すぐに表情を落とした。
「…命あってこそ…なんですけどね…」
「山南総長のことかい?」
浮き沈みの激しい藤堂の内面は、すぐに表情に現れる。「わかりますか?」と藤堂は聞いてきたが、伊東でなくても何を考えているのかなんて筒抜けだ。
藤堂が試衛館に居ついたのも、すべては山南が縁を結んでくれたのだと言う。そんな彼の死に目にも会えなかった藤堂にはやりきれない思いがあるのだろう。
「山南さんのことは手紙で知ったんですけど…何だか、とても淡々とした内容でした。同じ釜の飯を食べてきた仲間が山南さんなのに、ただ脱走し、切腹した…それだけの報告だった。理由や感情のない、ただ事実だけを並べていました。そして土方さんや斉藤さんに江戸で再会しても、二人とも何も言わなかった…それが俺にはすごく、悲しく思いました」
「…それはそうだろうとも」
伊東は藤堂の肩に手を置く。すると藤堂はぐっと唇を噛んだ。
「だから俺、ちょっと京へ帰るのが怖いです。皆は悲しいからこそそれを隠すために淡々としているんだって、頭ではわかっているのに…それでも、本当は山南さんが死んでも、誰も悲しまなかったんじゃないか、みんな山南さんのことが嫌いなんじゃないかって…そう思ってしまうんです」
「…藤堂君、そんなことはないよ。皆、それぞれ山南さんの死を悲しんだ。…少なくとも私は、山南さんがどうして死ななければならなかったのか、今でも理解しがたい気持ちでいっぱいだ」
「伊東先生…!」
伊東の言葉に共感し、藤堂は目尻に涙を浮かべる。伊東はすっと懐から手拭いを差し出した。たった一人で隊士募集に奔走する藤堂にとって、失った仲間への悲しみはあまりに唐突過ぎて大きかったことだろう。
「私では君の気持ちをすべて汲み取ることはできない。しかし一つ言えることがある」
「何でしょうか」
「もしかしたら新撰組は君が思っているよりも変わってしまったのかもしれない」
「変わって…しまった…?」
藤堂の表情が曇る。しかし伊東は微笑んで続けた。
「悪い方向にという意味ではないよ。ただ、組織が大きくなるということは、その分、上に立つ人間がより一層襟を正して模範となる様に生きて行かなくてはならないということだ。昔馴染みだからこそある情を断ち切らなければならない。…それを、山南総長はよく理解されていた、だからこそ抗うことなく規則に殉じた死を選んだ…そのことに違いはない」
「…そうでしょうか…」
「少なくとも私が目にした最期の姿は、とても立派で誇らしいものだった。その誇りを、新撰組の全員が胸に刻んだことだろう」
伊東の言葉に、藤堂の表情が穏やかになる。そして何度もうなずいて
「そうですね」
と自分の言い聞かす様にして、嬉しそうに笑った。少しは彼の気持ちも晴れたことだろう。
しかし、その一方で伊東は
(我ながら、飾り立てた言葉だ…)
と内心自分の述べた言い訳じみた言葉を、苦々しく思った。
例えその最後がどんなに美しいものであったとしても、彼が迷い、選びきれなかった末に選んだ結末だ。そしてその一端を自分が担ったことに違いはない。
(本当は私が彼を慰める資格などないと言うのに…)
嘘ばかりがすらすらと口から出て行く。
「伊東先生、どうかされましたか?」
すっかり表情が彼らしく戻った藤堂が、心配そうに伊東の顔を覗き込む。
「…いや。藤堂君、今日は良かったらうちに来ないかい。妻が君の話を聞いて料理をふるまいたいと言っていたから、是非足を運んでほしい」
「いいんですか?ありがとうございます!」
邪気のない笑顔で藤堂は足取り軽く伊東に従った。


丁度同じ頃、斉藤は西洋医学所の近くにある居酒屋で土方の帰りを待っていた。
どこか上品な雰囲気が漂う京とは違い、江戸の居酒屋はまだ陽が暮れていないと言うのに賑わっていた。聞こえてくる会話も京のそれと比べれば女の話や賭け事の話などくだらない内容ばかりで気が抜けたが、都では常に不逞浪士の存在を気にしてばかりだったので、気を休めて飲むことができた。
「もう一杯」
「へぇい。…お客さん、蟒蛇だなあ!」
斉藤が表情を変えずに飲み続けているせいか、店主が物珍しそうに笑い、すぐに気前よく酒を持ってくる。
そして「それに比べて」と店の隅で寝こけている男をみて、やれやれとため息をついた。
「お客さん、寝ちまったら困るよ」
「寝てない…待ち合わせをしているんだ、もうちょっと待たせてくれ…」
「二刻はここにいるでしょうよ。いい加減にしなよ」
酔いつぶれている男は、斉藤が店に入る前から飲み続けていた。顔を真っ赤にして瞼を重そうにしている彼は、「待ち合わせをしている」と何度も言っていたが、しかし相手が一向に来る気配も無いので、それが本当かどうかはわからない。
しかし彼がそこそこ良い衣服に身を包み、刀を差している武家風の男だったため、店主も無理に追い出すことはできなかったのだろう。
「お侍さん、水だよ」
「…酒」
「水にしときなよ」
「酒ったら、酒だ!」
酔いつぶれた男に付き合うしかなさそうだ。店主がほとほと困った顔をしたので、斉藤は仕方なく席を立ち、男の向かいに座った。これ以上、騒がれても迷惑だ。
「おい、起きろ」
「……起きている」
酔った男は目を擦りつつ「誰だ?」と斉藤を見る。余程酔っているのか、警戒心のない様子に斉藤は淡々と
「新撰組の斉藤だ」
と目覚まし代わりに名乗った。驚いたのは店主の方で「えぇ!?」と声を上げ、店の奥の方では皿が割れる音が響いたが、しかし目の前の男は
「新撰組かぁ…」
と特に動揺することはない。京なら、名乗れば大抵の者は尻尾を巻いて逃げ出すのだが、江戸ではそうもいかないようだ。もっとも、酔いつぶれた男にしてみれば、理解できているのかも甚だ怪しいのだが。
「新撰組…新撰組ねえ……土方さんは、元気?」
「…土方副長のことか?」
「そう、それ」
男の遠慮のない、まるで子供のような態度に、(もしや副長の馴染みか…)と思ったところで、店に誰かがやってきた。
「いらっしゃーい」
店主が景気よく迎え入れるので、斉藤も自然とそちらに視線が向く。すると「あ」と思わず声が漏れた。するとあちらも斉藤の顔を見てふっと笑みをこぼした。
「おや、まさか会うとは思っていなかった顔がある」
飄々とした挨拶で斉藤を見たのは、伊庭だった。相変わらず卒のない雰囲気を漂わせ、小奇麗な容貌をしている。
「…どうも」
「土方さんが江戸に戻っていることは聞いていたんですけど、あなたも一緒だったんですねえ。これは奇遇だ」
「奇遇…」
ここは江戸なのだから、伊庭に会うことは想定の範囲ではある。
しかし例えこれが偶然の再会だとしても、この男に関わるとすべてが策略のように感じてしまうのだから不思議だ。斉藤は以前感じた「伊庭への苦手意識」を再び彷彿とさせたが、しかしもっと意外なことがあった。
「おい、酔っ払い。何やっているんだ」
斉藤の向かいで酔いつぶれる男は、伊庭の知り合いだということだ。伊庭が強引に男の襟を引いて顔を挙げさせる。
「…ん、八郎か。遅い」
「遅いって何だ、それはこっちの台詞だ。お前の方が待ち合わせの場所に現れないんだろうが」
「待ち合わせ…?俺がお前をここで待ってたんだぞ」
「約束の居酒屋と一本通りが違うんだよ」
うんざりしたように吐き捨てる伊庭に、男は「そうだっけ」と呆けた表情を見せる。完全に酔い潰れてしまっている男を見て、伊庭はため息をついた。
「まあいいや…おかげで斉藤さんに会えたし。…土方さんは一緒じゃないんですか?」
「土方副長なら、そろそろにここにやってくるはずだ」
「それは重畳。試衛館に伺う手間が省けました」
満足げに笑う伊庭に、今度は斉藤の方がため息をついた。彼と話をしていると調子がずれてしまうのだ。
しかし、斉藤を気にする風もなく伊庭がぺらぺらと喋りつづける。
「この男は本山小太郎と言います。俺の…まあ、幼馴染というか、友人というか…そういう奴です。見ての通り、酔うとこんな風になっちまうから、手がかかるんですよねえ…」
本山のことを何か誤魔化した言い方をしたが、斉藤が指摘する前に伊庭は店主に「俺にも酒」と声をかけた。
「沖田さんはお元気ですか?それから、近藤先生も」
「…ああ」
不意に彼の名を出されて、斉藤は少し動揺した。(しまった)とすぐに思ったが、やはりその動揺はあっさりと目の前の男に看破されてしまう。
「何かあったんですね?」
鋭く訊ねる伊庭に、斉藤は辟易とした。
(…だから、苦手だ…)
斉藤はその返答を、酒を煽ることで誤魔化した。すると助け舟と言わんばかりに
「何やってるんだ、お前ら」
と土方が顔を出したのだった。












解説
308 総司の父が労咳というのは、今作の中での設定です。
309 西洋医学所は蘭方医・伊東玄朴らが設けた「種痘所」が母体となって成立した幕府の医学機関。初代は大槻俊斎、2代目は緒方洪庵、3代目は松本良順。これが後の東大医学部の前身となった。
310 伊庭と斉藤の出会いは番外編「徒花メランコリア」をご覧ください。
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