わらべうた





311


穏やかな春の陽気に包まれていた屯所では、総司が眉間に皺を寄せて山野と向かい合っていた。俯いて悩み続ける総司に、山野は苦笑していた。
「…あの、沖田先生…そろそろ」
「もうちょっと、もうちょっと待ってくださいよ」
総司は彼に拝んで頼み、また視線を落とした。
非番である一番隊ではそれぞれが自由な時間を満喫していた。遊びに出かけたり、惰眠をむさぼったりと様々だが、総司は久々に将棋を持ち込んで山野に相手をしてもらっていたのだ。久々の勝負だがそれなりに出来るだろう、と総司はたかをくくっていたのだが、いざ勝負となると山野にあっさりと追い詰められてしまった。
「…山野君、将棋は得意なんですか?」
「得意というほどではありませんが、昔、父に仕込まれましたので、多少は…」
「多少かあ…」
圧倒的な差で負けている総司としては苦笑するしかない。
総司とて、試衛館に居た頃はよく土方の将棋の相手をさせられていた。試衛館では近藤や山南が囲碁をよく嗜んでいたが、土方はあまり好きではないといって、必ず勝てる将棋で総司を相手に憂さ晴らしをしていたのだ。
(兵を動かす方が楽しい…とか言っていたけれど、その通りだったってことかなあ…)
土方は、性に合っているといっていた将棋と似たような役目を今は担っている。そう考えると、将棋が得意ではない総司は、動かす側ではなく動かされる側の方が似合うということだろうか。
「…『飛車』、くらいだと良いんですけどね」
「何がですか?」
無意識に呟いていたらしく、山野は首を傾げる。総司は苦笑した。
「いえ…土方さんは将棋が上手なんです。人を動かすのが得意なあの人らしいでしょう」
「そうですか…確かに、僕も勝てる気がしません」
「うん、だから、私たちはきっとあの人の駒なんですよね。私は、せめて『飛車』くらいだといいんですけど」
「なにをおっしゃるんですか!」
山野は目を見開いて驚いた。そして前のめりになって訴える。
「先生が『飛車』なわけないじゃないですか!『金将』か『銀将』とおっしゃっていただかないと!」
「うーん…『大将』が近藤先生だとして、『金将』は土方さんでしょう。次が『銀将』だから伊東参謀ですよね」
「立場上はそうですけど!」
盤面を揺らしてまで声を上げる山野に周囲は驚いて「なんだなんだ」と視線が集まったので、総司は「どうどう」と収める。彼は可愛らしい顔立ちをしているのに、時折『池月』にも似た獰猛さがあるのだ。
「別に卑下するつもりじゃないんですよ」
「でも、先生…」
「それに私自身が『飛車』だといいなあと思うんですよね。こう…身軽で、誰よりも早く戦地に赴けて。まっすぐにしか進めないのは難点ですけどね」
総司は手駒の飛車をまじまじとみる。ひとつは山野にとられてしまったけれど、もう一つは山野の陣地に突っ込んでいた。山野はようやく大人しくなり
「じゃあ…僕は『歩』ですね。沢山あるうちの一つで、どんなに頑張っても一歩ずつしか前に進めない」
と笑ったが、彼の方が卑下したような物言いだ。しかし総司は穏やかに返した。
「そうかもしれないけど、前に進むことしかできないんですよ。それってすごいですよね」
「すごい…ですか?」
「迷いが無いってことじゃないですか。それに『歩』でも色々な『歩』がありますからね…『と』になれるかどうかは、山野君次第ですよ」
「…」
総司はそう言いつつ、ようやく諦めて「参りました」と軽く頭を下げた。山野に攻め続けられた末の「王手」にはどんな手も思いつかなかったのだ。
ふう、と一息ついた総司に山野は
「もう一戦しますか?」
と誘うが、日も暮れはじめ非番の一日も過ぎようとしている。これ以上山野をつき合わさせるのもどうかと思っていると、バタバタと騒がしい足音が近づいてきた。
「沖田先生!大変です!」
部屋に駆け込んできたのは島田だった。彼も同じ一番隊であるので、非番のはずだが息を荒げて表情を顰めている。
「どうしました?」
「祇園で火事です!」


昼間の春霞は消え失せ、夕方に立ち上る煙は黒々と都の町を覆った。
「急がないで!順番に避難してください!」
「怪我をした方はこちらに!」
「押さないでください!」
辺りを充満する煙の中、新撰組は数名の居残り隊士を残し、全員が誘導の為出動した。揃って浅黄色の隊服を身に纏ったためよく目立ったが、その姿を見るや毛嫌いして近づかない町人たちもいた。
総司は足腰を痛めた老人を支えつつ、火事の様子を眺める。祇園新地から出火したらしいが、その炎は辺り一帯に広まり、まさに火の海と化し飛び散る灰や充満した煙が時折息苦しくさせた。さらに祇園という場所と、店が開き始める夕方という不運なタイミングが重なり、逃げ惑う人々でごった返していた。
総司は何とか老人を支え、避難小屋までやってきたところでそこの者に老人を引き渡した。そしてまた煙が充満する方向へ戻る。
これを何度か繰り返していると、
「総司!」
と逃げ惑う群衆の向こうから槍を構えた原田が手を振っていた。
「原田さん、どうですか状況は…?」
「風に煽られて一気に広がってやがる。西は鴨川あたりで止まったらしいが…おっと」
原田の背中にぶつかった女が振り向く。すると原田の姿を見るや「ひぃっ」と声を上げた。
「え、えろうすんまへん…!」
女は怯えた様子で慌てて駆けていく。おそらく新撰組だと気が付いて慌てて逃げたのだ。原田はその後ろ姿を見ながら「ははっ」と声を上げて笑った。
「祇園の芸妓たちも逃げ惑ってる。別嬪さんが見れて俺たちは役得だよな」
「何言っているんですか、こんな時に。それに、おまささんがいるでしょ」
総司が呆れて返答すると、原田は「冗談だよ」と返した。
「それにしても、こんな火事は去年以来だな…」
「…そうですね」
前年の池田屋事件をきっかけに起こった蛤御門の変により、京一帯に広がった火事は、その後「どんどん焼け」と呼ばれ大きな被害を与えた。何の罪もない町人たちは、自らを陥れる契機となった新撰組を憎悪し、その憎しみは今も続いている。
「ま、今は何を考えても仕方ねえよな」
原田は総司の心情を察したのか、軽く総司の肩を叩く。そうしていると
「おーい!誰か来てくれー!」
逃げる人々の向こうで声がした。二人は揃って駆け出した。

そうして祇園から広まった火事は千軒以上の家屋を焼き、日の出頃にようやく鎮火した。一夜で姿を変えた町の様子に、人々は立ち尽くし、帰る家を失った人々は嘆き悲しんだ。そうした悲嘆に暮れる人々の姿を見ながら、総司は隊士達に帰営するように告げて回る。
「ああ、総司、ここにいたのか」
すると焼け焦げた家屋の中から、近藤が顔を出した。
「近藤先生、出動されていたんですか?」
「当たり前だ。知らせを聞いたときは会津黒谷へ向かっていたんだが、急いで引き返したよ」
「そうでしたか」
土方がいれば「大将がのうのうと歩き回るな」と言いかねないが、人助けの為ならば率先して動くのは近藤らしい行動だ。その証拠に顔が煤で黒くなり、表情には疲労の色が見えた。
「江戸ならば数軒を壊して終いだが、町屋ばかりの京ではそうはいかないんだな…」
寂しげに燃え尽きた家屋を見て、近藤はため息をつく。
「先生も屯所にお戻りになられてください。見廻組や別手組も退散しているようですから、もう…」
その時、ピーッという笛の音が木霊した。巡察の時に携帯している笛の音だ。
総司は咄嗟に駆けだす。あの笛は緊急時以外は使用しない手筈になっているので、この音には普段から敏感になっていたのだ。
角を折れたところで、浅黄色の羽織に身を包んだ隊士がぐったりと横になっているのが目に入った。笛を鳴らしたのは傍に居たもう一人の隊士だろう。
「何があった!」
大音声で問うたのは共に駆け込んできた近藤だ。隊士は
「大谷が…!大谷が、やられました…!」
と悲鳴のように叫んだ。横に倒れた大谷は脇腹を斬られたようでぐったりとしている。近藤が口元に耳を当てる。
「大谷君、大谷君、大丈夫か!」
近藤の問いかけに、大谷は少し眉を動かして答える。まだ息がある。
「…今は町医者も出払っているだろう…屯所へ運ぼう。総司、隊士を呼んでくるんだ」
「わかりました」
総司は頷いた。



312


一晩中祇園一帯を燃え尽くした炎は、どうやらある女による放火だった…という噂が新撰組の屯所にも流れてきた。何らかの避けられない原因で起こった事故ならば諦観できるものの、一人の故意による結果だとすれば住民は怒りを覚え、恨みを刻み、自らを慰めることもできない。そして、一晩中駈けずり回った隊士たちもやりきれない思いになる結末だった。

「…それで、どうなんだ、大谷君の具合は?」
近藤は腕を組み、眉間に皺を寄せたまま総司に訊ねた。大谷は三番隊の所属であり、斉藤の組下なのだがもちろん、斉藤は不在だ。その為、総司が兼任をしているので、今は総司の配下ということになる。
「あまり良くはないようです。傷は深く、おそらく回復は難しいと…」
「そうか…」
「昨日の火事で医者も大谷君につきっきりというわけもいきませんから…」
総司の答えに、近藤は珍しくしかめっ面をした。腕を組みなおして「うーん」と唸る。
「火事に乗じた不逞浪士の仕業…ということだろうか。目撃した者はいないということだったな」
「はい。避難者を誘導している際に、一緒にいた隊士は離れたそうです。その一瞬の隙に…ということでした。大谷君が回復すれば詳しい話が聞けるとは思いますが、口がきけるようになるかどうか…」
総司は目を伏せる。近藤と総司が駆けつけた時に、既に大谷はぐったりとした様子で出血もかなり多かった。屯所に運ばれ、医者も既にその状態を見て諦めたほどで、今は息をするのがやっとという瀕死の状態だ。
「…大谷君に、家族は?」
「神崎君によれば、弟がいるそうです。よく弟の自慢話をしていたということでした」
「だったらどうにか弟に連絡を取る様に、神崎君に伝えてくれ」
総司は「わかりました」と頷く。言葉には出さないものの、彼に残された時間は既に少ないのだろうと皆が察していた。だったら最期に家族を会わせてやろうという近藤の心情は当然だった。
総司はそのまま近藤の部屋を出る。火事のせいで一睡もしていないせいもあるか、大谷の件があり総司もかなり疲労していた。
(こんなときに…どうしていないんだろう…)
総司は江戸にいる彼のことを少しだけ恨めしく思う。彼がいれば事はもっと迅速に運ぶことだろう。情報網を持つ斉藤や、知恵のある伊東までもいないとなればなかなか難しい。
「沖田先生」
そうして、ふらふらとおぼつかない足取りで一番隊の部屋に戻ろうとすると声を掛けられた。振り向くと総司以上に憔悴した姿で立つ神崎がいた。
「神崎君…ああ、ちょうど良かった。近藤局長から、君に大谷君の弟と連絡を取る様に…とのことでした」
「俺が、ですか?」
「ええ…何か不都合でも?」
「い、いいえ…何も。了解いたしました」
神崎は目を伏せて、何かを言い淀んだ。彼は大谷と同じ隊に属し、一番親しくしていた間柄らしい。総司も二人が良く連れ立って歩いているのを記憶していた。
「あの、先生…」
神崎は少し距離を詰め、また小声で続けた。
「俺…気になることがあるんです」
「気になること?」
「ここでは…ちょっと言いづらいんです。お時間をいただけませんか?」
彼が言い淀んだのは何か言いたいことがあったようだ。総司はようやく察し、頷いた。
「わかりました。では行きましょうか」
「はい…」
神崎は「話を聞いてほしい」と持ちかけたものの、あまり気が進まないようだった。このタイミングで「神崎が言いたいこと」…鈍いと評される総司でも何となく察しはついた。
(大谷君のこと…)
隊で一番親しい彼だからこそ、大谷が刺された相手や理由に心当たりがあるのかもしれない。そう思いつつ、総司は内心ため息をついた。
(こういうのは私の役回りじゃないのになあ…)
この場にいない副長と、そして彼らの組長は今頃何をしているのだろう。そんなことを思った。

二人で連れ立って屯所を出る。一晩中の仕事に大抵の隊士はぐったりして眠っているので、二人を見送る者はいない。どこかの店に入ろうかと総司は思っていたのだが、神崎は「ここでいいです」と人気のない神社で足を止めた。
そして重々しく切り出した。
「話というのは大谷のことです」
やはり、と思いつつ総司は軽く頷いた。
「…君は、彼と一番親しくしていたんですよね?」
「そうです。入隊時期や年齢が近いこともあって気が合って…友人だと俺は思っていました」
総司は彼の語り口調が気になったものの、総司は聞き手に徹することにする。
「でも、最近様子がおかしかったんです。前は絶対そんなことはなかったのに、一人で飲みに出かけたり、変に花街へ出入りするようになったり…あいつはそんな奴じゃないかった。奥手で真面目で…隊務を疎かにしてまで羽目を外すようなやつじゃない!」
「……」
神崎の熱弁。彼らが…少なくとも神崎が大谷に対しては誠実な友人として接していたのだということが想像がつく。神崎は境内に腰を下ろした。腐った木板が外れそうだったが、総司も隣に腰を下ろした。
「それで、俺…数日前に大谷に訊ねました。何かあったのか、何か力になれることはないのかって。でも、あいつは軽く笑って『大丈夫だ』というばかりでした。『すぐに終わる。すぐに元に戻れる』」
「元に戻る…?」
「はい。俺も不審に思ったんですが、それ以上は聞けませんでした。そしてあんなことに…」
神崎は両手で顔を覆う。悔しさと混乱と疑問。そして疲労が重なって彼も疲れているのだろう。
「大谷君がおかしくなった、というのはいつ頃からですか?」
「…十数日前…いえ、よく考えれば…斉藤先生が江戸に下られてからでしょうか」
「…」
三番隊のことは総司が任されているが、それでも隅々まで目が行き届くとは限らない。大谷がもし何かを画策して動いているのだとしたら、斉藤がいないこの時期は絶好のタイミングということになる。
「…俺は、酷い男だと思います」
「神崎君…?」
「たぶん、もう助からないんですよね、あいつ…」
彼の問いに、さすがに総司も返答を迷った。誰が見ても明らかな状況とはいえ、口に出すのは憚られたのだ。
「あいつが死しても守りたかった、秘密にしたかったことを俺は暴きたいと思っている。もちろん、それがあいつを刺した奴を突き止めることができるからだと思う一方で…俺は、真実が知りたい」
神崎の目尻には涙が光る。しかしその一方でその瞳には強い力が漲っていた。
「…受け入れがたい、真実だとしても知りたいんですか?」
総司は思わず訊ねていた。痛みを抱えながらも「知りたい」と願う姿に既視感を覚えたからだ。
すると神崎は即答した。
「友達だから…隠し事をされて死んでしまうのは、つらいですから」
そのありのままの素直な返答に、総司はやはりドキリとさせられる。
(隠し事をされたまま…か)
それは先月亡くなった山南のことを指すようだ。結局彼は脱走の理由について、何も語らず、何も告げず、文字通り墓場まで持って行った。それを寂しいとは思ったけれど、それが山南の「死に方」なのだと己を納得させていた。
しかし彼は、そうではないのだという。
このまま大谷が死んでしまえば、抱えた大谷への疑念が、彼の進む道を阻んでしまうのだ。
「…わかりました」
総司は気が付けば、そう返答してしまっていた。
「監察にまずは接触してみます」
「ありがとうございます…!」
神崎の生気のなかった顔に少しだけ光が宿る。一平隊士では監察に接触することなどできない。それもあって臨時ではあるが上司である総司に相談したのだろう。
しかし総司は彼のように素直には喜べなかった。
「一つだけ言っておきます。君も気が付いていると思いますが、あまり良い話だとは思えません。もし彼が行っていたことが…隊規に違反する様なことだったとしたら、その時はその結末を受け入れてください」
それが条件…とまでは言わなかったが、総司としても釘を刺しておかなければならなかった。隊規に情状酌量の余地はない。それは土方がいないからこそ、一層引き締めなければならない鉄則だ。
すると神崎は
「わかっています」
と唇を固く結んだ。
「たぶんこれは自分の為です。大谷に向き合って別れを言うために、沖田先生にこんなことをお願いしているんです。…私情、ですかね、これは…」
哀しい感情を覆い隠す、彼の苦笑。頭を掻いて本音を誤魔化そうとする神崎に、総司は微笑んで返答した。
「…今回だけ、ですからね」
そういうと彼は「はい」と笑った。




313


監察である山崎に会ったのは、それから二日後のことだった。総司が呼びつけたわけではなく、魚売りに扮した彼がごく自然な動作で屯所にやってきたのだ。山崎の顔を知る隊士は少ないため、ほぼ誰にも気づかれずに彼は新撰組の台所へと入り込んだ。
「今日は活きの良い鯛やで!」
食事の世話を務める小者たちが、山崎が持ってきた活きの良い魚に群がる中、総司は
「近藤局長が手土産に魚を所望していますから、顔を出してもらえませんか?」
と適当な文句で誘うと「おおきに!」と山崎は話に乗った。飄々とした受け答えで足取り軽く総司に従った彼とともに、近藤の部屋に入る。しかし部屋の主である近藤は不在だ。
「何かお話がおありで?」
誰もいないことを確認した彼は、商人の仮面を脱ぎ棄てて監察・山崎烝に戻る。その変わり身の早さは役者よりも上手だ。
「まあ…そうですね、実は」
「大谷のことで?」
「ふふ、流石に話が早いですね」
「そりゃあ、副長には色々と言付かっておりますから」
「土方さんが?」
監察は土方直属の部下である為、自然なことではあるが「沖田組長のことも」と彼が付け足したので
「一体何を?」
と追及した。山崎は監察という役職でありながらつい一言漏らしてしまうところがあり、今回もそうだったようで「あー…」と何か言いづらそうにしたが、観念して話す。
「土方副長も、また斉藤組長も居なければ何かとやりづらいこともあるやろうということで、何かあればすぐに駆けつけるようにと。影ながら見守らせていただいておりました」
「…全く、過保護なんだからなあ…」
土方の根回しは流石と言ったところだが、とりわけ総司のことも頼むと監察の山崎に頼んでおくのは、私的な理由だろう。
しかし、今の総司にはそれが有難くもあった。
「じゃあ、遠慮なく伺いたいんですが…大谷君のことは調べが進んでいるんですか?」
「いや、まだまだ。なんせ火事の現場で混乱しているなかでのことやから、目撃者も少ないんで…現場に一番に駆けつけた神崎も怪しい者は見ていないということで、難航しております」
「なるほど…」
「ただ」
山崎は急に声を潜めた。
「実は大谷には入隊時から、まあ…怪しいちゅうか、ちょっと変な噂がありまして。その時には念のため身の上を調べさせてもらいました。…ま、副長ともお話をして、問題なしということでそのまま様子を見ていたところやったんですが…」
「変な噂?」
もともと人の噂に疎い総司には全く心当たりがない。そもそも大谷のことも一平隊士として、印象もあまりないのだ。
すると山崎はちょっと頭を掻きつつ、言いづらそうにした。
「まあ…変ちゅうのは、個人の感覚の問題やと思うんですが…」
「何ですか?はっきり言ってくださいよ」
歯切れの悪い山崎に、先を促すと、
「実は…男色家の気があると噂がありまして」
と、思わぬことを口にした。
「…はあ?」
「非番ともなれば、足しげく陰間に通い、意中の若衆と懇意になっているということでした。まあ、新撰組はもともとそっちの気がある隊士も多いし、規則に違反するわけでもない。…まあ、お咎めなしということで副長とも話は終わりました」
山崎が何故言い淀んだのか、最後まで聞いてようやく総司は掴むことができた。山崎は土方と総司の関係に気を遣ったのだろう。大谷の性癖を否定することは、二人のことを非難することになる。
(土方さんも認めざるを得ない…ってことか)
「あ…じゃあもしかして、神崎さんがお相手とか…?」
「いや、それはないようですわ」
総司の浅い思いつきは、山崎にあっさり否定される。
「あの二人はただの友人のようです。連れ立って陰間に通うことも、二人が出会い茶屋に入るようなところも見たことがありまへん。神崎の方が大谷の性癖を知っていたかどうかはわかりまへんが…」
「…なるほど」
確かに神崎は大谷との関係は「友人」であり「親友」だと言っていた。あの清々しい表情からは他に何の意図も感じなかった。
総司が少し考え込んでいると、今度は山崎の方が「お尋ねしても?」と窺ってきた。総司が促すと
「大谷のこと、お調べになるつもりですか?」
と怪訝そうに尋ねてきた。
「そのつもりです」
「神崎から頼まれたからですか?」
「…本当によく知っていますねえ」
神崎と会話をした時は屯所から離れ二人きりになったつもりだったのだが、それも山崎の手中だったようだ。山崎は盗み見したことを「仕事ですから」と言い訳はしなかった。総司もそれは理解していた。監察は敵方への捜索が任務だと思われがちだが、その一方で隊内の秩序の管理も請け負っているからだ。
そして山崎は重々しく続けた。
「俺たちは、監察として事実確認をしなければなりまへん。また、副長が不在の場合は自ら判断するようにと仰せつかっています」
「…自ら、判断?」
「真実がどうであれ、それを真実として扱うかどうか…というお話です」
オブラートに包む言い方をした山崎だが、その意図を総司はすぐに理解した。
真実が正しいのか、正しくないのかという点ではなく、それが新撰組にとって必要なのか不必要なのか。必要であればそれを巧みに利用して、不必要であれば徹底的にその事実を隠ぺいする。
それは土方の仕事だ。
そしてそれを監察である山崎は任されているのだという。監察は大谷を刺した相手を探し出す。しかしその相手を見つけた場合の判断に、正義のものさしを行使するわけではない。
山崎が言いたいのはそう言うことなのだろう。
(でも…)
新撰組を任されているのは、山崎だけではない。
総司は真っ直ぐに山崎の目を見据えた。
「…神崎君から頼まれちゃいましたから。友人であり親友である大谷君が何を隠しているのか知りたい…私はそのことを良いことだとは思いません。大谷君にだって墓場に持っていきたいことがある…それを掘り起こして知ったとしても、それはただの神崎君の自己満足に違いないのですから」
「せやったら…」
「でも、何も知らないまま、わからないまま亡くしてしまった後悔を、私は知っています」
総司の言葉に山崎の顔が強張った。山南のことを言っているのだと、彼はすぐに気が付いたはずだ。
「私は大谷君のことはよく知りません。組下でもない、一平隊士です。でも、彼を刺した人間のことは許せないと思うし、大谷君が隠していることを知りたいという神崎君の思いも良くわかる。彼の為に何かしたいと思ったんです。……最終的な判断は近藤先生と山崎さんに任せます。それまではどうか見守ってくださいませんか?」
公私混同だと、土方には言われるのかもしれない。
でも、神崎の懇願を退けることができなかった時点で、総司はもうこの事件に関わるべきなのだという覚悟があった。
すると山崎は表情を緩めて「…仕方おへんな」と苦笑した。
「たぶん、そういうところも含めて、土方副長に沖田せんせのことを『頼む』と言われたんやと思いますわ」
と茶化したのだった。


山崎は再び魚屋に扮して去っていき、総司はその足で自分の部屋に向かった。そこには朝の巡察を追えて休んでいる組下の隊士たちがいる。そしてその中で一番体躯の大きな男に迷いなく、まっすぐに近づいた。
「島田さん」
「…あ、沖田先生。自分になにか御用ですか?」
書物に目を通していた島田はすぐに本を閉じて総司の方へ向く。タイミングの良いことに山野は傍にはいない。
総司は周囲を確認しつつ、こっそりと島田に耳打ちした。
「今から私に付き合ってください」
「え?それは構いませんが…どこかお出かけですか?」
呑気に訊ねてきた島田に、総司はさらに声を落として続けた。
「陰間茶屋に付き合ってください」
出来るだけバレないようにと気遣った耳打ちだったのだが
「へっ?!」
と島田は大声で腰を抜かしてしまったのだった。




314


足取りの重い島田をどうにか引き摺って、総司は山崎から教えてもらった陰間茶屋にやってきた。店は、てっきり陰間の盛んな宮川町の店かと思いきや、町からは外れた場所にひっそりと佇んでいた。
「先生、勘弁してくださいー!」
この期に及んでも覚悟の決まらない島田が総司に頼み込む。
「別に買いに来たわけじゃないんですから、いいじゃないですか。お話を伺うだけですよ」
「し、しかし!こんなところを…その、隊士たちに見られたりしたら…!」
「大丈夫ですって。あ、山野君に見つかるのがそんなに心配なんですか?」
総司の指摘に、島田はあからさまに表情を落とした。余程、尻に敷かれているのか、何故だかその巨体がとても小さく見える。
「一人で行くのは気が引けるし、他に信用できる人がいないんですよ。島田さんは口も堅いから…ね、島田さん、山野くんには絶対に内緒にしますから、お願いですから一緒に来てください」
「…うぅっ」
島田に頼むのには理由があった。総司は自分の顔立ちについてはそこそこ自覚している。男っぽいと言うよりは女に近く、それはもう一人の信用できる部下・山野に言わせても同じこと。そんな自分が陰間茶屋に一人で尋ねるというのは、あまりに不審だ。そこで総司よりも一回りも二回りも良い体格をして、男らしい島田に一緒に来てほしかったのだ。
島田は入隊以来の直属の上司である総司に「頼みますよ」と何度も懇願されようやく、
「…っ!仕方ありません。男、島田魁、覚悟を決めます…!」
とやや大げさな宣言をした。
総司は「じゃあさっそく」と暖簾をくぐる。中では店主と思われる年老いた男がいて、総司たちの顔を見るや「いらっしゃい」と陰気な声を出した。皺だらけの顔の中、きらりと光る目がどこか不気味だった。
祇園や上七軒といった花街に軒を連ねる店と比べて、質素な室内だった。あまり人の気配も無く、しんと静まっている。
「旦那、どんなのがお好みで?」
店主はどこか下品な眼差しを、島田に向けた。顔立ちと大きな体躯のせいか、島田の方が総司よりも上の立場に見えたのだろう。もちろん、普段から腰の低い島田は戸惑いの表情を見せたので、総司は代わりに答えることにする。
「いえ、できれば宗三郎さんという方にお願いしたいのですが」
「…宗三郎をご存じで?」
店主は怪訝な顔をして総司を見たが、躊躇わず頷いた。
「とても上品で美しい、天女にも見紛う陰間だと聞いてきました。是非、一晩お相手を願いたい」
これももちろん山崎の情報だった。大谷がこの店で実際、どの陰間を買っていたのかはわからないが、一番評判で「花魁」と呼ばれている、最上位の陰間は「宗三郎」というそうだ。
「うちは一刻で一分、一晩で三両。よろしいか?」
店主に提示された金額は陰間の中でも高額だ。
(どうやら試されているらしい…)
「その金額で結構です」
店主の意向を察した総司は、即答して懐から三両の金を差し出した。その金を受け取って、店主の表情はやや緩む。陰間は天保の改革以来、禁止とされている。表舞台に立てない陰気な商売としては、どんな不審な客だとしても金を受け取りさえすればすべて目を瞑るということだろう。
「…お二階へどうぞ」
素っ気ない店主の言葉に、島田は少し顔を顰めたが、総司が「行きましょう」と誘ったので渋々従う。
ギシギシと軋む階段をのぼり、奥の部屋に入る。外観通りの質素さで、とても噂の「天女」の住まう場所には思えなかった。
「何なんですか、あの店主は…」
島田は部屋に入った途端、愚痴をこぼした。
「まあ、堪えてくださいよ、島田さん。新撰組だって知られたら、余計厄介になるんですから」
「それはそうですが…」
総司の隣に腰を下ろした島田は、まだ何か不満そうだ。しかしそうしているうちに、トントントンと身軽に階段を上ってくる音が聞こえた。
「失礼します、宗三郎どす」
襖の向こうから声がかかる。まだ高い声色だ。
「どうぞ」
総司の返答で、すっと開いた先に居たのはしなやかに頭を下げた女だった。いや、正しくは女ではなく男なのだが、それでも女として着飾り、髪を結いあげ、襟を広めに抜いている。総司さえも、白い肌にちらりと見えるうなじが色めかしいと思えるほどには、圧倒される美しさだった。
そして彼は顔を上げる。装うものが女のものであっても、しかしその顔つきは男に違いない。だが切れ長の目尻や高い鼻孔、整いすぎるほどに整った顔立ち…すべてが浮世離れしている。
互いに決まった相手がいるはずの総司と島田でも、しばらくはその天女の顔を呆然と見ていることしかできなかった。
「…ふ」
宗三郎が短く息を吐き、口元を綻ばせて微笑みかける。思わず総司は背筋が伸び、島田は居住まいを正したのだが。
「あんたらは、新撰組かな?」
と、宗三郎はそれまでの雰囲気を崩すかのように、乱暴な物言いをした。
「え?」
最初はそれが宗三郎から発せられた言葉なのかどうかさえ、怪しんだ。しかし宗三郎は値踏みするように二人を見て
「それとも、見廻組かな?」
と続けた。
宗三郎の指摘に島田はごくりと喉を鳴らし、何も言い返せないようだったが、総司は返答した。
「…何故、そう思うんですか?」
「江戸訛りの、金払いのいい客なんて新撰組か見廻組かしかいねえよ」
ははっとせせら笑った表情は壮絶に美しいのに、しかし物言いは見た目とは裏腹だ。
だが、彼の整った顔立ちの奥に、知性と賢さを感じた総司は
「隠すつもりはありませんでしたけど、その通りです。私たちは新選組の隊士です」
と素直に認めた。島田が慌てて「沖田先生!」と叫ぶが、それこそ逆効果で
「へえ、あんたがあの沖田かあ」
と宗三郎にさらに正体を突き止められることになってしまった。
「す、すみません!沖田先生!」
「いいですよ、別に。それに宗三郎さんには私がだれであってもあまり関係なさそうですし」
彼は総司たちに脅えることも、媚びることもない。新撰組であろうが見廻組であろうが、その対応は同じなのだろう。溌剌とした性格であることは、ここまでの会話だけでも十分に察することはできた。
すると彼はにやりと笑って、総司を見る。
「ま、何でもいいよ。それであんたたちは何の用?まさか、俺を買いに来たとは言わないよね」
「どうしてそう思うんですか?」
「どうしてって、鏡見りゃわかるだろう」
「鏡?」
思い当たることの無い総司が首を傾げると、彼は何がおかしいのか「ははっ」と声を上げて笑う。
「自分の顔を見たらわかるだろうって言いたいの。あんたは男を抱くよりも、男に抱かれる側のほうが似合ってる。むしろ、もう抱かれてるのかな?」
「なっ!」
動揺したのは総司ではなく島田だった。
「お、お、お、沖田先生に、なんてことを…!」
「どうやら図星みたいだね」
まるで島田は宗三郎に遊ばれているようだ。随分若いので年は下だろうが、遠慮のない語り口はいっそ清々しい。総司には不快な気持ちは全くなかった。
「ご想像にお任せします。じゃあ、私たちもあなたに聞きたいことがあるんです」
「ふぅん…?何?」
「ここに新撰組隊士が通っていませんでしたか?」
「…ああ、いたね。名前はよく知らないよ」
宗三郎はあっさりと白状する。そして膝を崩して「それが何?」と反対に訊ねてきた。
「あなたの客ですか?」
「いや、違う。俺を帰るほど金が無いからな。…ご執心の若衆がいたのさ」
「その者の名前は?!」
島田が詰め寄ると、宗三郎は
「教えてもいいけど、残念ながらもう京にはいないと思うな」
「何故?」
「先日の祇園の火事でさ、逃げ出したんだよ。そのまま行方不明」
宗三郎はつまらなそうに爪を弄るが、総司にとってはそれはとても有益な情報だった。
(祇園の火事…)
それは大谷が刺されたタイミングということになる。だとしたら痴情の縺れでその若衆が刺し、新撰組に見つかるのが怖くて逃げた…と単純に考えられる。
(でも…何か違う気がする)
理由のない違和感が胸に残る。
「それよりさ、今晩の相手はあんたがしてくれんの?」
宗三郎は視線を島田に向ける。島田は慌てて
「俺は違う!」
と叫ぶが、宗三郎は構わずに島田の肩に手をかけて、そのまま押し倒した。見た目は島田が全力で抵抗できないくらいに気品にあふれているが、しかしその力は男のそれなのだろう。
「違う?へえ、男を抱いたことないの?」
「そっ、それは…」
島田は嘘のつけない性格だ。宗三郎ほど聡ければ、その答えはすぐに分かっただろう。
宗三郎はその細い指を島田の鎖骨へと這わせる。島田はすっかり思考停止をしてされるがままになっているところで
「そのくらいにしてあげてください」
と総司は宗三郎を止めた。
「止めんの?」
「島田さんには可愛い相方がいるんですよ。それに、あなただって冗談のつもりでしょう。私が噂に聞いている宗三郎は、簡単に身体を売るような『花魁』ではない」
「…確かにね」
宗三郎はにやりと笑って、乗りかかった島田からすっと身体を引く。
「俺、綺麗な男は好きじゃないんだけど、あんたのことは気に入ったよ。だから、もう一つ教えてあげる」
「何…?」
宗三郎は得意げに微笑んだ。
「行方不明の若衆…名前は駒吉って言ってさ、まあ、駒って呼んでたんだけどさ。駒には新撰組以外にも執心している男がいたんだ」
「他にも…?」
全ての顔のパーツが整いすぎた彼の微笑みは、神々しいほどに眩い。
「長州訛りの、いい男だよ」



315


「おおきにー」
店主の気のない挨拶に軽く会釈して、総司と島田は店を出た。一晩の金を払ったが、宗三郎からは聞きたい情報は十分に聞けたので、夜も更けないうちに退散することにしたのだ。
宗三郎は
「つまんないねえ」
と早々に去る二人に愚痴をこぼしたが、それでも「またおいでよ」と艶やかな微笑みで見送ったので、彼のご機嫌を損ねることはなかったようだ。
しかし、宗三郎の息を飲むほどに麗しい容姿とは裏腹の、遠慮のない物言い…そのギャップはあまりに大きく、終始彼の手のひらで転がされているような気分だった。
「つ…疲れました…」
店を出た島田はげっそりとした表情を浮かべていた。すっかり宗三郎の良い玩具になってしまったようだ。
「でも有益な情報は聞けましたね。おそらくその駒吉という若衆が何かを知っているのでしょう」
「それはそうでしょうが…しかし、駒吉は逃げたということでした。祇園の火事は数日前になりますから、もう京からは出ているのでは…?」
「それはわかりませんが、それにしても何故逃げたんでしょうね」
うーん、と島田は頭を巡らせる。
「…勤めが嫌になった…ということでは?」
「宗三郎さんの言い方だと、そんな風には聞こえなかったですけどね。駒吉は新撰組の隊士と長州の浪人を魅了してやまなかったようですし」
「でしたら、大谷と長州の浪人とで、その駒吉を取りあった…痴情の縺れでしょうか」
「では、彼を刺したのは長州の浪人ということでしょうか」
「長州はやはり新撰組のことを目の敵にしているので、自分はそう思いますが…違いますか?」
島田は総司に問いかけるが、総司は何も答えることができない。
それも正解のような気もするし。
しかし何か的を射ていないような気がする。言いようもない違和感が胸の中で淀む。
「ひとまず、逃げた駒吉か長州の浪人、どちらを見つけ出すことができれば明らかになります。この辺りは監察に調べてもらいましょう」
「…そうですね。自分ももう疲れました」
ため息混じりの島田に総司は苦笑した。彼が疲れたと言っているのは宗三郎の相手だろう。日頃はもっと厳しい鍛錬を受けているのに、よっぽど宗三郎のことが苦手らしい。
店で借りた提灯を片手に屯所へ向かって歩く。
そのあとは他愛のない話をした。西本願寺に移って、夜はよく眠れるようになっただとか、稽古に身が入る様になっただとか。それから、近所の美味い料亭や甘味屋など島田は良く知っていた。
そんな話で盛り上がっていると、いつの間にか屯所に戻る。門番の隊士に迎えられて中に入ると、そこに仁王立ちで待ち構える影があった。
「…どちらに行かれていたんですか?」
厳しいまなざしを向けていたのは山野だった。宗三郎とは違った意味で可愛らしい顔立ちをしている彼だが、その表情を歪ませて怒っていた。
「や、山野君…待っていたんですか?」
「当然です。組長のおかえりを待たずして眠りわけにはまいりません」
「そんな規則はないんですけど…」
今日は非番なので隊士はそれぞれ自由に過ごしている。総司の帰りを待っているのは山野くらいで、後の隊士は寝入っていることだろう。
しかし、それは建前だ。
山野は視線を総司から島田へと移した。山野にきつく睨まれて島田は瞳孔を開ききっていて、口元も覚束なく身体が硬直していた。山野は島田に一歩近づくと、くんくん、と匂いを嗅ぎ、また島田の襟元をぐっと自分の方に引き寄せた。総司も島田も気が付いていなかったがそこにはおしろいのあとがある。宗三郎に乗りかかられたときについたのだろう。
「…どうやら、お楽しみだったようですね…」
聞いたことのない山野の低い声。島田は真っ青な顔をして「これは…!」と言い淀む。しかし山野は
「京一番の『花魁』、宗三郎とやらは大層お綺麗だそうですね…!」
とさらに島田に詰め寄った。島田はこれ以上何も言えずに、山野の追及にお手上げ状態だ。総司はそんな二人の間に入った。
「まあまあ、山野君。島田さんは私が誘ったんですよ。いや、誘ったというかついてきてもらったというか…島田さんにとっては業務の一環です。あんまり責めないでください」
「業務の一環で、こんなに匂いやおしろいが付くものじゃないですよね?」
「それはまあ…そうなんですけどね」
鋭い山野の指摘には総司も言葉が無い。宗三郎に迫られる隙を作ったのは島田だし、強く拒めていなかったのも島田自身の責任ではあったのだ。
「…というか、山野君は何で私たちが宗三郎さんに会いに行ったことを知っているんですか?」
「それは神崎さんに聞いたんです。沖田先生の所在を伺ったら、島田先輩と二人で陰間茶屋に出掛けたと」
「神崎さんが?」
神崎には大谷のことで協力をするという話はしたものの、陰間茶屋に向かうことは話していない。島田とは茶屋の前で一悶着あったので、その姿を見られたのかもしれないが…。
(それでも、あの茶屋は人通りの少ない細い路地にあった…)
言いようもない違和感を覚えて、総司が考え込んでいると
「沖田先生、お願いがあります」
「えっ?」
山野がキッと総司を睨み付けるように見据えて「今晩は外泊をお許しください」と許可を求めた。山野はまるで獰猛な子犬が吠えるようだったので、総司も思わず
「ああ…はい、どうぞ」
と二人の外泊を許可した。山野は硬直したままの島田の腕を掴んで、さっさと屯所を出て行く。二人がどこに行って、どうなってしまうのか…総司はただ、島田の無事を祈るしかなかったのだった。


「総司、おかえり」
かんかんに怒った山野と強引に連れ去れた島田を見送った後、総司は自室に戻ろうとしたが、穏やかに声を架けられた。
「近藤先生、まだ起きていらっしゃったんですか?」
「ああ。歳がいない分、仕事が溜まっていてな……ちょっといいか?」
近藤が手招きするので、総司はしたがって部屋に入った。近藤が忙しいと言うだけあって部屋もいつもに比べたら者が散乱しているように見えた。そして近藤が多くの書物の間から、折りたたまれた文を総司に差し出した。
「歳からだ。読んでごらん」
「土方さん…?」
総司は近藤から文を受け取ると、すぐに読み始めた。流れるような筆跡は土方のものに違いなく、まだほんの少ししか離れていないのに懐かしささえ感じてしまった。
土方からの手紙は主に仕事のことばかりで、伊東のお蔭で隊士募集は順調だということ、近藤の言うとおり知人や親戚周りへの挨拶を済ませたということ、そして試衛館の者は元気であるということ…など良い報告が多かった。その事実だけでも総司はほっと安堵する。
「もう少しで戻るということだったよ。五十名ほどが入隊する予定だから迎え入れの準備をしておいて欲しいとのことだった」
「五十ですか。一気に増えますねえ」
広い広いと思っている西本願寺だが、そのうちまた壬生の屯所のように手狭になってくるのかもしれない。そうなる頃には新撰組は大きな組織になっているだろう。
近藤は「そうだなあ」と笑いながら、もう一つ総司に文を差し出した。先ほどのものよりも小さく折りたたまれている。
「これは…?」
「歳からお前に手紙だよ」
「私に…ですか?」
総司は驚いて手紙を開く。そこには先ほどの手紙よりも小さな文字で色々なことが書き連ねてあった。総司から言付かっていた手紙を姉のみつに無事に渡せたということ、またみつが試衛館を訊ねてきて色々な話をしたということ…そして珍しく身体は無事かなんてらしくないことが書いてあった。
「…何だか、土方さんらしくない手紙ですね」
「らしくないもなにも、総司にとってはそういう手紙は初めてだろう?なんせ、離れたことが無かったしな」
「初めて?」
「ふ…っ まったく、俺に似て鈍感な弟子だな」
近藤がそう言って笑ったので、総司はようやく気が付いた。
これは『恋人』である自分に向けられた、個人的な手紙だということを。そして気が付いた途端、急に顔が火照った。すると近藤が微笑んで
「部屋に戻ってゆっくり読めばいい」
と促してくれた。土方との関係について総司から近藤に説明したことはないが、もちろん気が付いているのだろう。
「あ…あ、はい、わかりました…」
総司はどうにか誤魔化して手紙を懐に仕舞い、「おやすみなさい」と挨拶をして近藤の部屋を出た。
足早に一番隊に割り振られた部屋に戻る。しかし鼾が響く部屋の中で読むのも気が引けて、西本願寺の境内で月明かりを頼りに読むことにした。
先ほど流し読んだ内容を、今度は丁寧に目を通す。恋文だと自覚して読むと、それはまるでくすぐったい内容に思えてくるから不思議だ。そして手紙の最後には『お前のことだから、根を詰めて仕事をしているだろう。たまには別宅で寛げ』とあった。
「…何でもお見通しなんだからなあ…」
総司は悔しげにそう呟いたけれど、自分の顔が綻んでいることに気が付かざるを得なかった。



316


数日後、久々に訪れた別宅には、既に人影があった。
「あら…ようやくお見えになられましたねぇ」
穏やかに総司を迎え入れたのは、世話をしているおみねだった。ハタキを持ち、たすきがけをしているので掃除の真っ最中だったのだろう。
「こんにちは、おみねさん。…ようやく、というのは?」
「旦那様からは、沖田せんせはきっとちょくちょくいらっしゃるやろうと伺っておりましたので」
「あはは…案外、忙しかったんです」
総司が苦笑すると、おみねは「なかへ」と迎え入れてくれた。
土方は良い世話人を選んだようで、おみねは不在であってもこまめに別宅に訪れては、部屋をきれいにしてくれている。誰も住んでいないと家が傷むというが、いまだに別宅は新築そのものの様相だった。
「でもちょうど良かったどす。今日はせんせの好物のおはぎ、お持ちしましたえ」
「本当ですか?嬉しいなあ」
総司が子供のように目を輝かせて喜ぶと、おみねは笑って「すぐにお持ちします」といって水屋の方へ向かった。総司は障子を開けて小さな庭を眺めつつ、主人のいない部屋に腰をおろす。
近藤によるとあと数日で土方たちが戻ってくるとのことだった。大谷の件は「駒吉」の捜索を監察方に依頼して以来、動きが無いためこれ以上の進展はない。このまま土方に判断を委ねることになるかもしれない。
そんなことを考えてくるとおみねが戻ってきた。総司の分を取り分けてくれたのだが、
「一緒に食べましょうよ」
と総司はおみねを誘った。ただでさえ心細い別宅に、一人ぼっちでおはぎを食べるのは味気ない。するとおみねは察してくれたのか「はいはい」と軽快に相槌を打って自分の分も持ってきた。
総司は早速おはぎを口に運んだ。上品な甘さが口いっぱいに広がって、自然と笑みが瘤れた。
「美味しい、絶品です。やっぱり一度、屯所に持ってきてくださいよ。皆喜びますから」
「へえ…せやけど、いくつつくらなあかんのでしょうかねえ」
「ははっ 確かに。じゃあ作るときは私も手伝いますから呼んでくださいよ。こう見えて、昔は道場の下働きをしていたので、料理はそこそこできますよ」
「まあ」
おみねは意外そうな表情をした。
「てっきり、剣ばかりのお人やとおもうてました」
「そんなことないですよ。炊事洗濯は何でもこなせます」
「まあまあ。人は見かけによらんのやなあ」
おみねは穏やかに微笑み、総司があっという間に平らげたのをみるや「もうひとつもってきましょ」とおはぎを持ってくる。
親の顔さえ記憶に危うい総司にとって、おみねという存在は自分のなかでも珍しい存在だった。年輪を重ねたその顔の皺がどこか懐かしさを感じ、何でも話してしまえそうな気がした。
「そういえば、おみねさんはよくここに働きに来てくれますよね。その…新撰組っていうとまだやっぱり京の人々からは嫌われているじゃないですか。そういう気がかりはなかったんですか?」
西本願寺に移転してから、ますます町人たちの冷たい視線は感じていた。そんな新撰組のましてや副長の別宅ともなれば恐れられても仕方ないかと思うが、おみねは何の躊躇いもなく別宅に通ってきてくれていた。
するとおみねはふふ、と笑った。
「確かに、最初は良いお給金やけど、新撰組のお偉いさんのお世話やなんて気が進まなかったんやけど、まあ、鬼やとゆうても人には違いあらへんから、お会いしてから決めようと思うてました」
「それで土方さんに会ったんですか?」
「へえ。まあえらい色男で…ふふ、あと二十ほど若ければとほんの少し思いましたわ。せやけど色男やからどこぞの別嬪な花魁を囲われるんかと思いましたえ。何人も囲んで昼夜問わずどんちゃん騒ぎするんやないかって…せやけど、誰と過ごすんかと思うたら可愛らしい男の人で、内心はとても驚きましたえ」
「あ…あはは、そうですよねえ…」
総司は自分で質問をしておきながら、恥ずかしくなった。いまだに土方との関係を口にするのもされるのも慣れない。しかしおみねは続けた。
「人の本性はなかなかわからへんけど、その人の好いたお方を見れば何となくその人の本性が見えてくるもんやと思うてます。せやから沖田せんせを見たとき『大丈夫や』と思いましたえ」
「大丈夫…ですか?」
「無駄に年を重ねてきたわけやない、ゆうことですわ」
おみねはそう言って笑って、急須にいれた茶を差し出してきた。総司は茶を啜りつつ、二つ目のおはぎをあっというまにおはぎを平らげてしまった。
その後もおみねとの穏やかな歓談は続いた。普段は土方がいるので、仕事を終えると足早に去っていくおみねだが、今日は総司に付き合ってくれた。特に、評判の甘味処の話でも盛り上がり、店ごとに使っている小豆が違うなどおみねはさすがに詳しかった。
そのおみねに、総司は気軽な気持ちで尋ねた。
「そういえば、おみねさん、宗三郎という陰間を知っていますか?」
すると物知りのおみねは「ああ」とすぐに答えてくれた。
「お噂には聞いたことがありますえ。なんや男には見えへんほどに美しい陰間やと」
「有名なんですか?」
「ふふ、どうやろ。もともとは江戸生まれの陰間やと聞いたことがあります」
「へえ…」
そういえば宗三郎の言葉はいわゆる京の言葉ではなく、懐かしい江戸の快濶とした物言いだったのでおみねの話には納得ができた。
すると、開いていた障子の向こうにふっと人影が現れた。
「失礼します」
姿を見せたのは町人体に装った山崎だった。彼が気配を消して別宅に姿を現すことは少なくないので、驚きはない。
「どうかしましたか?」
「至急、屯所にお戻りください。…大谷の容体が急変しました」
山崎は淡々と告げたが、総司はその言葉に息を飲んだ。
ここ数日、大谷は小康状態を保っていたが長くはない命だと医者には言われていた。その最後の日が今日であってもおかしくはない。
「…おみねさん、すみません」
「へえ、いってらっしゃいませ」
突然のことであったが、おみねは丁寧に頭を下げて総司を見送った。総司は刀を腰に帯びて足早に別宅を出る。
山崎の姿はもう無かった。


屯所の奥まった病人ばかりが集まる部屋がある。別宅から戻った総司がそこへ駆けこむようにして入ると、すでに近藤や神崎、医者らが大谷を囲むようにして座っていた。
「近藤先生、大谷君は…?」
総司の問いに、近藤は首を横に振る。大谷は青白い顔色をして、か細い息を繰り返していた。目は虚ろで焦点が定まっていない様子だ。
「大谷っ!大谷、頼む…!話してくれよ、いったいお前に何があったんだよ…!」
堪えきれない涙を流し、神崎が枕元で叫ぶ。大谷には聞こえているのか、その眉間には深く皺が刻まれていた。
そして大谷は虚ろな瞳を迷わせつつ、近藤の方を見た。
「……ぉ…ねが…します…」
「何だね、大谷君…!」
近藤が大谷の手を握る。
しかし大谷は思わぬことを言った。
「…せ、ぷく…に…させ、て…くださ…い…」
「なに…っ?」
枕元に集う者たちがざわついた。彼は確かに「切腹にしてくれ」と言ったのだ。神崎の目が見開かれる。
総司は咄嗟に彼の耳元に近づいた。
「大谷君、君を誰が刺したのか私たちはどうにかして知りたいと思っています。あなたが倒幕の浪士に襲われたのなら、許すわけにはいかない」
「…おき…せん…せい…」
「あなたは駒吉という陰間と親しくしていたそうですね。その者は長州の浪人とも関わりがあったとも聞きました。…君を刺した相手と何か関係が?」
問い詰める総司の言葉に周囲の隊士たちは驚いたようだが、しかし大谷は穏やかにその口元を緩ませたままだった。
そしてその視線を神崎におくった。
「大谷…!」
「…お…れ、は……ません」
「え?」
小さすぎて聞き取れない声…そして大谷はそのまま目を閉じる。
医者がそっとその口元に耳を寄せると「大丈夫や」と周りに告げた。どうやら気を失ってしまったようだ。それがわずかな猶予だとしてもほっと周りが安堵するなか
「総司、どういうことだ?」
と近藤が訊ねてくる。宗三郎から聞いた情報は近藤には伝えていなかったのだ。しかし何をどこから伝えたらいいのか…だが、迷う暇はなかった。
「近藤局長!」
バタバタと騒がしい音が聞こえてくる。近藤が障子を開けると、何名かの隊士が下手人と思われる者を引き連れてやってきた。
「何事だ!」
「はっ!監察から話を受け、駒吉という陰間を捕まえました!」
「えっ?」
総司はその報告を受けて、近藤とともに境内へと降りる。
するとそこにはボロボロの衣服に身を包み、首を垂れている細身の少年がいた。




317


駒吉を連れて場所を移し、総司は神崎以外の隊士を人払いした。
「勝手を言って申し訳りません。近藤局長」
「いや、構わない。あとで詳細を報告してくれればいい」
近藤はすぐに承諾してくれて、隊士たちを連れて場を離れていく。神崎は困惑した表情で総司を見ていた。
「あの…沖田先生、この青年は一体…?」
「彼は駒吉といって、大谷君が懇意にしていた陰間です。…そうですよね、駒吉さん」
駒吉はぐっと唇を噛んで黙っていた。乱暴に扱われたのか、顔が傷だらけになっていた。おそらく新撰組隊士たちの連行に素直に応じなかったのだろう。そう言う意味でもやはり駒吉が何かを知っている、と総司は確信する。
「陰間…ですか」
「あなたは大谷君が陰間に通っていることは知らなかったんですか?」
「…いえ…その…」
神崎は口ごもった。知っていながら、しかしそれを口にすることが憚れたのだろう。すると駒吉は「ふん」と鼻を鳴らした。
「大谷はんのことを吐けって?うちは何にも知らん」
声色は可愛らしいものの、憎々しい返答だ。顔を逸らして、総司たちの詰問に応じるつもりはないようだ。
総司は駒吉の傍に寄り、腰を下ろした。
「嘘を付いても無駄ですよ。あなたのことは宗三郎さんから聞きました。あなたは大谷君と長州藩士の何某と、二人の寵愛を受けていたんですよね」
「宗三がうちのことを…?」
駒吉は目を見開いて驚いた。陰間仲間である自分のことを新撰組に売った…その驚きなのだろう。しかしすぐに「ちっ」と舌打ちした。
「確かに、うちは大谷はんと長州の浪人…二人から可愛がられましたわ。せやけど、それが何?うちにとっては大事なお客はんや。なんか罪にでもなるんか?」
「そのこと自体は罪にならないですね。…じゃあ、あなたはどうして逃げたんですか?火事の混乱に乗じて」
「そんなん…あの置屋が嫌になっただけや」
駒吉は顔を逸らして嘯いたが、総司は苦笑した。
「でもあなたは今さっき、宗三郎さんに売られたことに動揺しましたよね。あなたは逃げ出した仲間のことをまだ信頼していた…逃げ出すほど置屋のことを嫌いになったようには見えませんでしたけどね。それにもしそんな理由で逃げ出したのなら、宗三郎さんからそう言った話になったはずです。あの人は賢いのだから」
「……」
自分のふりを悟ったのか、今度は黙り込む。宗三郎ほどではないにせよ、整った顔立ちをしている彼をこれ以上責めるのは気が進まない。
総司はふっと表情を穏やかにして彼に告げた。
「…もし素直に話してくれたなら、あなたを逃がしましょう」
「沖田先生?!」
駒吉よりも驚いたのは神崎だった。しかし総司は神崎を制して続けた。
「そもそもあなたが罰を受けるとしたら、新撰組からではなく置屋からでしょうからね」
「…せやったら、うちが話す義務はもともとない」
「その通り。でも、あなたは新撰組を甘く見ているのかもしれませんね。やってもいない罪を被ることだって、できるんですよ?」
「……」
微笑んだ総司がさらりと挟んだ脅しに、さすがの駒吉も表情が凍った。神崎も二の句が継げないでいる。
そしてしばらくの沈黙が流れた後、駒吉は観念したように息を吐いた。
「うちは何も知らん。ただ…二人の間を繋いでいただけや」
「何だとっ?!」
叫ぶように声を上げたのは神崎だった。そして駒吉の胸ぐらを掴んで「嘘を言うな!」と声を上げた。しかし駒吉は「ふん」と鼻で笑っただけで
「本当さ。大谷…あいつは、長州の間者だったのさ。その証拠ならいくらでもある」
と淡々と述べた。
神崎は息を飲み、青ざめ、そして力なく駒吉の胸ぐらを掴んでいた手を離した。
そして総司はというと、駒吉のその答えには特に驚くことはなかった。
(可能性の一つだと思っていた…)
駒吉が大谷だけではなく、長州の浪士と繋がっていると分かった時点で予想できることではあったのだ。しかしその一方で腑に落ちないこともあった。
「大谷君は、間者としての使命を果たしたんですか?」
「…え?」
神崎が呆然と総司を見る。
もともと身の上を調べられるほどに…言い方を変えれば『目をつけられていた』大谷だ。その彼が情報を漏らしていたというのなら、とっくに監察が捕まえていそうなものだ。しかし山崎にはその心当たりがないようだった。
すると駒吉が「ふっ」と不敵な笑みをこぼした。そして次第に声を上げて笑い出す。
「あはははっ!ははっ!あんた、察しがええ!なんや、心の奥底まで覗かれとる気分や!」
「お前っ!真面目に答えろ!」
不快な駒吉の笑い声に耐えられず、再び掴み掛ろうとする神崎を総司は止める。そして駒吉はようやく笑うのを堪えて話を続けた。
「ふふ…そうや、あの大谷、ホンマに使えん間者やった。長州のせんせが『あいつは何一つ情報を持ってこない』って不満を零していたのをよう聞いとった!」
何らかの事情で、大谷は新撰組に入隊し間者として潜伏することになった。しかし、彼は何一つ情報を渡さず、何一つ新撰組を売るような真似をしていなかった。
『…お…れ、は……ません』
意識を手放す前に彼が言ったのは、
裏切っていません。
だったのではないだろうか。始まりこそ間違っていたにせよ、彼は新撰組に愛着を持ち裏切れなくなった…
「大谷…っ」
神崎も同じ結論にたどり着いたのか、声を押し殺して呻いた。大谷は神崎に『大丈夫だ』と言っていた。その裏で大谷がどんな葛藤をしていたのか…それを考えるだけで込み上げるものがあるのだろう。
しかし、まだ話は終わっていない。
「…それで、あなたが逃げ出したわけは?」
「自分の身を案じてさ。長州のせんせが、あまりに大谷が情報を持ってこないもんやから、うちのことを疑い出したんや。大谷と共に新撰組に加担してるんやないかって…ええ迷惑や。うちは、新撰組が大嫌いや」
駒吉はその新撰組を目の前にして躊躇いもなく吐き捨てる。しかし総司には特に感慨もなかった。「それで?」と話を促した。
「せやから逃げ出した。火事が起きたのは偶然やったけど、幸運なことやった。そして、さらに幸運なことに…新撰組隊士として働く大谷に出会った」
「何…?」
神崎の目が再び見開かれる。駒吉はにやりと笑った。
「大谷の裏切りのせいで、うちまで疑われることになった…それを責めた。お前のせいやと。せやけど大谷は何もいわへんかった、自分のせいの一点張り…うちは面倒になってな、こう吐き捨てたんや。…『全部、言いふらしてやる』」
「……」
「それから大谷と別れた。…うちが知ってるのはここまでや」
話し終えたといわんばかりに、駒吉はふうと息を吐く。
神崎は右手で刀の柄に触れていた。総司がそっとその動きを制してなければ、刀を抜いただろう。しかし、神崎の目からは既に殺気が溢れていた。
「沖田先生…!こいつは嘘を付いています!自分が大谷を殺したことを隠して…!」
「嘘やおへん!うちはなぁんにも知らんのや!」
「黙れ!お前の言うことなど信じられるか!」
神崎の身体中が震えていた。怒りと、憤りと、やるせなさと、そして…信じたくないという気持ちが溢れていた。
しかしここで神崎に斬らせては、私情になる。
「神崎君、下がりなさい」
「でも先生っ!俺は!俺はこいつを殺さないと気が済まない…!」
「大丈夫ですよ。わかっています」
総司は神崎が今にも抜きそうになっている刀身を押し戻した。神崎は抗えない訳ではなかっただろうが、ぐっと唇を噛んで堪え、どうにか一、二歩下がる。
その姿を見て、駒吉は「はっ!」と笑った。
「あんたも、大谷と同じやな!ホンマのホンマは人を殺すのが怖いんや!」
「黙りなさい」
神崎に向かって罵る駒吉を、総司は一瞬で制した。
「沖田…先生?」
神崎は唖然として総司の手元を見ていた。彼には抜くなと言っておいて、総司自身はもう右手に抜刀した刀を構えていた。さすがに駒吉も一気に青ざめる。
「な、なんや…!さっきは素直に話したら逃がしてくれるいうたのに、騙したんかいな!」
じたばたと縄から逃れようとする駒吉に、総司は切っ先を向けた。
「…当然、素直に話してくれた内容にもよりますよ。あなたが新撰組の情報を流す間者だと自白した以上、見逃すわけにはいきません」
総司の冷笑は、駒吉にどう映ったのだろうか。しかしその答えを知ることは永遠にできないだろう。その次の瞬間に、駒吉は事切れていたのだった――。



再び意識を取り戻したと聞いて、総司は神崎と共に大谷の下に向かった。その廊下ですれ違った医者によると
「もうこれが最期になるやろう」
と悲しい現実を突き付けられた。
彼が負傷するに至った事情が分かったとしても、彼が助かるというわけではないのだ。
それでも総司は大谷の枕元に向かった。まだやるべきことがある。
大谷は相変わらず虚ろな眼差しだったが、神崎の顔を見てふっと力を抜いたような表情をした。一番親しい友人だと、お互いに思っているのだろう。
「総司」
傍に居た近藤が総司に目くばせする。それは言葉にしなくても分かる…お前に任せると言っているのだ。
総司は少し息を飲み、しかし姿勢を正して大谷に語りかける。
「…あなたを切腹にします」
その言葉に周囲は動揺したが、神崎はぐっと感情を飲み込み、そして大谷は穏やかに微笑んだ。総司はこれで合っているのだ、と自分を言い聞かせて続けた。
「君のその傷は…誰に刺されたのでもない。もともと切腹によるものでしょう」
総司の問いかけに、大谷は穏やかに微笑んだままだ。
「駒吉にすべてを暴露され、処罰される前に…自分自身の始末をしようとした。そうですね?」
「……は…い…」
か細い声ではあったが、大谷は答えて頷いた。
愛着が沸いた新撰組を裏切れず、間者としての自分と決別し『元に戻りたい』と願ったが、それは駒吉の暴露によって叶わないものになってしまった。だったらせめて、すべてが露見する前に切腹をして責任を取りたい…それが大谷の行き着いた誰をも裏切らない『答え』だったのだろう。
「…『歩』のまま…で、良かった…んだ…」
「え?」
神崎が問い返す。
すると大谷の穏やかな表情に陰りが差した。
「『と』になん…て、なりたく…なかった…」
その言葉が、大谷の抱く後悔をすべて表していた。
偶然かそれともめぐりあわせか、総司は山野とした話を思い出した。
『「歩」は真っ直ぐにしか進めません』
自分のことをそう例えて、不満げにそう言った山野に、総司は『「と」になれるかどうかは山野君次第だ』と答えた。
しかし大谷は『歩』のままでいたかったのだ。それが新撰組か討幕派か、どちらの陣地から発せられた駒かはわからないが、ただただまっすぐに進むことができたら…『と』のように道を選ばないで済んだなら、そのほうが彼にとっては幸せだったのだ。
傍に居た近藤はすべてを理解したわけではないようだったが、問い詰めることなく状況を把握して「準備を」と周囲にいた隊士に声をかけた。バタバタと騒がしくなっていく中、神崎は大谷の手を握ったまま俯いて震えていた。
彼の中に占めるのは、悲しみや、嘆き、後悔、怒り…そして友人との別れ。大谷は虚ろながらも、その視線を神崎に向けた。そして振り絞るような声で
「…ご…めん…な」
と言った。
神崎は何も答えなかった。
ただただ、大谷の手を強く、強く握って答えたのだった。


そして、その日の夕刻。
大谷良輔、切腹。
その事実が残るのみである。



318


ある晴れた日。
切腹を果たした大谷良輔は山南と同じ光縁寺に埋葬され、その頼越人として神崎の名が刻まれることになった。そして簡単な葬儀を終えた後、神崎はすぐに総司の下にやってきた。
「沖田先生、お世話になりました」
目元に赤い痕を残しつつも、神崎は晴れやかな表情を総司に向けた。
大谷は本来間者として潜伏していたため、切腹という名誉ある死を授けられる立場ではなかったが、彼が間者として何一つ情報を漏らしていなかったこと、そして彼がすでに切腹という選択をしていたことを考慮した。そして彼は怪我を堪えて見事に切腹を果たした。
(土方さんがいたら結末は違っていたのかもしれない)
そう思うと、このタイミングで大谷が切腹したのは彼にとって一番良い結末だったのかもしれないとさえ思う。
「私は何もしていませんよ。勝手に物事が動いて行った結果ですから。それに大谷君を助けることができなかった」
「いえ、大谷は間者だった…それが真実だということなら、仕方のないことです」
神崎は視線を落とした。まだ整理のつかない気持ちがあるのかもしれない。そこで総司は彼を「歩きましょうか」と誘った。壬生にある光縁寺から西本願寺までは程よい距離がある。爽やかな風が吹くこの季節は歩くのも苦にはならないし、淀んだ気持ちも少しは和らぐことだろう。
隣り合って歩きながら総司は
「ところで、ひとつ聞きたいことがあったんですけど」
と切り出した。
「…はい」
「君は、本当は大谷君の最初の傷が、自害によるものだと知っていたんじゃないですか?」
総司の質問に、大谷は足を止めた。驚いた表情をして
「どうして…そう思われるんですか?」
と訊ねた。総司は穏やかに答えた。
「そうですね…決定的に何かがあったわけではなく、ただ何となくですね。一つ挙げるとすれば、あなたは大谷君のことを私に頼んできたときに、『死して守りたかった』っていいましたね。何の前触れもなく刺された側である大谷君が秘密を抱えていたとしても、そんな言い方をするのか、ちょっと引っかかっていました」
「…なるほど、俺も詰めが甘いですね」
神崎は案外素直に認めた。
「謀るようなことをしてもうわけありませんでした…ただ、俺には確信が無かったんです」
「確信?」
「あの火事の時…俺は、口論になっている大谷を見かけました。最初は火事に逃げ惑う町人ともめているのかと思いましたが、今から思えば駒吉と言い争っていたのでしょう。…そしてそのあと、大谷は突然、自害をはかった…俺には何が起きたのかさっぱりわからなかった」
神崎は俯いてぐっと拳を握りしめた。
居合わせていながら、親友の為に何もできなかった。総司が近藤と共にその場に駆けつけたとき、悲鳴のように大谷の名を叫び、取り乱していたのは神崎だったのだ。
「俺は知りたかった…どうして大谷が自害をはかったのか。いや、本当は俺の見間違いで誰かに刺されたのだと…そう思いたかった。だからこそ、沖田先生にお願いをしたんです。俺には何の力もなく、監察と接触することすらできないから」
「そうでしたか。じゃあ、そのあと私と島田さんの行動を監視していたのも?」
「監視だなんてそんな!」
違う、と神崎は訴える。
山野に島田の居場所を教えたのは神崎だ。あの細い路地にある店に偶然居合わせたというのも都合がよすぎるだろう。だとしたら、総司と島田の動きを監視していた…総司はそう考えていたのだが
「俺はただ、居てもたってもいられなくて…!大谷が死んでしまう前に、全てをいち早く知りたくて…先生方を疑っていたわけではないんです、申し訳ありません…!」
その場に平伏さんばかりの謝罪に、どうやら偽りのない気持ちなのだろうと思い、総司は苦笑して答えたそれにもともと疑っていたわけではない。
「いえ、いいんですよ。知りたいと思ったのは私も同じですから。…それで、もう一つ聞きたいことがあるんですけどね」
「な、なんでしょうか…」
「真実を知って…君は救われましたか?」
大谷の切腹の理由と向き合い、神崎はどう思ったのだろう。
間者として自分の傍に居た。親友として、隣にいた大谷に彼は何を思うのだろう。
何も知らなければよかった…何も知りたくはなかった、そう思っているのではないだろうか。
(何も知らずに見送った私と…どちらが幸せだっただろう)
そもそも今回のことで神崎を責める理由などない。大谷の死の理由を、そういった私情を交えて調べたのは総司の方なのだ。
すると神崎は俯いた視線を上げて、まっすぐに総司の顔を見据えた。
「俺は…救われたとは思いません。むしろ、大谷を助けられたなかった悔しさがずっと、死ぬまで在りつづけると思います。でも…」
「でも?」
彼は少し沈黙した。そしてぎこちない微笑みを総司に向けた。
「あいつの切腹を…あの瞬間を俺は受け入れることができた。大谷のことを、疑いのない、曇りのない心で最期を見送ってやれた…そのことは良かったと思います」


例の陰間茶屋を訪れると、店主は「上へ」とあっさりと総司のことを通してくれた。まだ昼時で営業はしていないはずだが、店主は嫌な顔一つしない。
言葉に甘えて総司が階段を上がると
「こっちだよ」
と手招きする声がかかった。声がする方へと足を向け、襖を開けるとそこにはやはり宗三郎がいた。気だるげな様子で窓に凭れかかっている。その体躯のしなやかさはやはり男には見えない。
「私が来ると分かっていたんですか?」
「いや、ここからあんたの姿が見えたから」
宗三郎はそう言って窓の外を指した。入り組んだ細い路地にある茶屋だが、見晴らしがよく大通りに人が行き交う様子が良く見える。おそらくは宗三郎はここから総司の姿を見て、あらかじめ店主に総司が来ることを知らせていたのだろう。
聡い人だ、と思いつつ総司は宗三郎に向かい合って膝を折った。客を取る時間ではないのか、宗三郎はまだ化粧をしていない。しかし、明瞭な目元に高い鼻梁、上品な唇は化粧をしていなくてもよく目立ち、総司には彼が精巧な人形のように見えた。
「この間のことの御礼に伺いました」
「御礼?」
「ええ、あなたに情報をいただいたおかげで…色々と解決しました」
総司は言葉を選びつつ報告し、持ってきた袱紗をほどいて宗三郎に渡した。
「これは新撰組局長 近藤からあなたへの御礼です。そしてこちらは店主へお渡しください」
「…」
宗三郎へ渡したのは、三十両の金。そのうちの十両は宗三郎宛てのもので、もう二十両は店宛てのもの。ただの町人なら飛びついて受け取るだろうが、しかしそれを見るや彼は「ふん」と鼻で笑った。
「店への二十両…これは駒吉の借金の分だね」
目敏い宗三郎は、じっと総司の顔を見た。
「…あんたが殺したのかな?」
「……」
聡いというよりも、宗三郎は聡すぎる。その射抜くような瞳は
(土方さんに似ている…)
だが、総司は敢えて微笑んで返した。
「こちらで捕縛したあと、病死した…とお伝えしたはずです」
「そんな見え透いた嘘を俺が信じるとでも思っているのかねえ…。まあいいよ、この二十両はあのぼんくら店主に渡しておこう。じゃなきゃ損だし」
宗三郎は懐から扇子を取り出して使い、十両の束二つ分を自分の方へ引き寄せる。そしてもう十両は総司の方へと押しやった。
「こっちはいらないよ」
「これはあなたへのお礼ですよ」
「だからいらない。仲間を売って得た金なんて…良い金じゃないだろう」
金への未練や執着などない…そんな風に宗三郎はあっさりと受け取りを拒んだ。少なからず同じ店にいた間柄としてこの金を受け入れるほど、傲慢ではないということなのだろう。
総司は彼の言うとおり十両分を袱紗に戻して、懐に仕舞った。する、と宗三郎が「ああ」と何かを思いついたかのように手を叩く。
「その金でまた会いに来てよ。何だったら局長さんも一緒にさ。新撰組の局長さんの顔は是非拝んでみたいと思っていたんだ」
「…それは構いませんが…」
「何さ、もうこれで縁切りだというつもりなのかい?」
つまらない人だね、と言わんばかりに遠慮のない宗三郎。総司はころころと変わる表情に思わず吹き出して笑ってしまった。
「宗三郎さんは変わった人ですね」
「変わった?」
「新撰組と関わったって良いことはない…皆口をそろえてそう言いますよ」
ましてや賢くて聡い彼が、新撰組と関わることで得る自分への不利益を計算できない訳ではないだろう。これまでついていた客も遠のくかもしれない。
しかし宗三郎はその口元を妖しく綻ばせる。
「興味深いだけだよ」
「新撰組がですか?」
「いいや、あんたがだよ」
そういうと、宗三郎は総司と距離を詰め、顔を覗き込むようにした。そして笑う。
「人を殺しても尚…そんな風に笑うことができる。本当にあんたは人間なのか…興味があるんだよ」
新撰組に、ましてや総司に対して、そのような挑戦的で遠慮のない問いかけ。
彼はきっと何をも恐れていないのだと総司は思った。たとえ目の前に刀を突きつけられたとしても、一切動じずに彼は笑うだろう。それは「度胸がある」の一言では片付けられない、彼の強さだ。
(そしてその強さは単なる陰間ではないという証拠…)
彼が総司を興味深い、と評するように、総司もまた彼のことを知りたい、と思い始めていた。
「…また来ます」
この先、彼と深く関わることになるだろう。そんな予感を感じながら総司は膝を立てた。今日の用件は済んだ…そして背を向けて去ろうとしたが、ふと足を止めた。
「私の幼名は…」
「ん?」
「私の幼名は宗次郎と言います。だから、あなたに親しみを感じているのかもしれませんね」
彼が気になる理由…どこか懐かしい響きを感じるのは、かつて自分が呼ばれていた名前に近いからだろう。
すると宗三郎は
「ははっ それはいい」
と満足げに笑って見送ってくれたのだった。




319


山のように積み上げられた荷物を見て、土方がウンザリとした表情でため息を漏らした。
「…姉さん、こんなに持っていけないと言ったでしょう」
予想通り、佐藤彦五郎の妻で実の姉であるのぶは、弟に持たせようと着物やら袴やらありとあらゆるものを準備していた。とても行李一つには収まりきらない荷物の量だが、しかし姉ののぶは「そうかしら」とケロリとした表情だ。
「ぎゅうぎゅうに詰めれば何とか持って行けるでしょう」
「こんなに持っていっても場所に困る」
「あんたにじゃないわよ。近藤先生や総司さんにも渡してほしいのよ。夜通し縫ったものもあるんだから、どうにか持って行ってちょうだい」
「……」
姉に押し切られるのは昔からだが、新撰組副長になったいまでも相変わらず姉には逆らえる気がしない。
ひとまず「これ以上は勘弁してくれ」と釘を刺して、土方はこれを京へ持ち帰る算段を立てることにした。
明日には江戸を経ち、京都へと戻ることになっている。江戸での隊士募集は五十四名もの隊士を獲得する成果を上げ、ひとまずは会津への顔向けもできる結果を得ることができた。連日、入隊を希望する者の腕前を確かめていたが、なかなか腕の立つ剣客も数名得ることができた。他のことには疎いくせに、剣のことには厳しい総司も喜ぶことだろう。
「副長、京までの帰路に荷物持ちの小者でも雇うというのはいかがでしょうか」
そう提案したのは斉藤だった。常に行動をともにする斉藤は、土方の実家にあたるこの佐藤家にも同行していた。
「…ああ、そうだな。手配を頼む」
「わかりました」
斉藤は淡々と頷くと、また姉ののぶが顔を出した。
「斉藤さんは話が分かる人だわ。ねえ、じゃあもっと持って行ってもらってもいいでしょう?」
「姉さん…」
「これくらいの嫌味は受け取りなさい。私が紹介した入隊希望の忠兵衛や佐吉をつれなくして入隊を拒んだって、旦那さまから聞いたのだから」
のぶの文句に土方は一層のため息をついた。
「だからそれは言ったでしょう。腕に見込みのない者は容赦なく落とすと…」
「同郷の者への情があってもいいんじゃないの、という話よ。もう全く、相変わらず融通が利かなくて冷たいんだから…」
のぶの口利きだという入隊希望の男たちは、それなりの剣の腕を持っていたが新撰組では通じないという理由で土方があっさりと入隊を却下した。そのことを姉はいまだに根に持っているらしい。
ブツブツ言いながらのぶはさらなる手土産を探しに行ってしまうが、土方は止めるのも面倒で見送ることにした。すると入れ違いで義理の兄である彦五郎が顔を出した。
「どうやら迷惑をかけているみたいだね」
「義兄さん…いえ、まあいつものことですから」
彦五郎は「確かに」と笑いつつ
「二人を落とした理由は、お前たちが京に戻ったら話しておくよ」
と気遣ってくれた。
のぶの紹介である忠兵衛と佐吉の入隊を認めなかった理由…それは二人とも農家の長男坊であるということだ。いつ死ぬかわからない新撰組に、同郷の跡継ぎである長男坊を迎え入れる…それは同郷であるからこそ気が進まないことだったのだ。
しかし、それでは新撰組の副長が「私情」を優先させたことになる…土方はそう思って誰も語らなかったのだが、兄である彦五郎には見抜かれていたらしい。
土方は「よろしくお願いします」と軽く頭を下げた。
「それにしても五十四名か。沢山集まったものだな」
「はい、義兄さんのお蔭です」
「俺は何にもしていないよ。新撰組の名声を聞きつけて勝手に入隊希望の者が集まっただけのことさ…それに、半分以上は伊東先生が集めたのだろう?」
「…まあ、そうですね」
五十四名もの隊士が集まった一方で、唯一気がかりなのは伊東の息がかかった者も入隊したということ。もちろん既に入隊している内海や加納、篠原たちに比べれば、伊東に心酔しているというほどではないが、それでも今後彼の手駒になるに違いない。
そうなると、伊東をつれてきたことを少しだけ後悔しないでもないが、しかし京に残しておくよりはマシだと土方は思っている。
そんなことを考えていると、彦五郎はくすりと口元を綻ばせて笑った。
「噂に聞くとお前はまるで人でなしの鬼のように語られているそうだが…実際に会うと、なんてことはない、昔か変わらないバラガキだな」
「変わらない、ですか?」
「ああ。上辺は気取っているが…実際のところは、近藤先生を支えたいというその一心のみだろう。そんなところは、昔から変わりがない」
「…そうですかね」
土方は照れくさくて彦五郎から視線を外す。
彦五郎は姉と一緒に自分を育ててくれた、父のような兄のような身近な人だ。そして誰よりも自分のことを知っていて、応援してくれた人でもある。そんな彦五郎だからこそ、短い再会でいろんなことを察せられてしまうのだろう。
「ま、あとは早く嫁を貰うことだ。お前があんまりにも女遊びに興じているようだから、のぶがやたら見合い相手を探しているぞ」
「それは…困りますね」
「ああ。早く安心させてやれ」
彦五郎はそう言うと土方の肩を軽く叩いて、去っていったのだった。


のぶがさらに積み上げた手土産たちは雇った小者に任せるとして、土方と斉藤は試衛館へと戻ることにした。のぶが余りにも引き留めるので既に夜になってしまっている。
「悪かったな」
土方は隣を歩く斉藤に声をかけた。ちょっとだけ実家に寄るつもりが、こんなに遅くなってしまったのだ。
斉藤は「いえ」と短く答えた。
しんと静まった夜に、虫の声と足音だけが響く。昔、総司と共に出稽古に通った道を、今は斉藤と歩いているのは何だか違和感を覚える。
すると斉藤が切り出した。
「…お耳に入れたいことがあります」
「何だ?」
それを切り出すのを、随分迷っていたのだろう、と何となく土方は雰囲気で察した。
「七番隊組長の鈴木組長のことです」
「ああ…伊東の弟か」
「はい。実は少し前、沖田さんと揉めている旨を聞きました」
「総司と?ああ…何だか気が合わないらしいということは総司からは聞いている。それ以来、同じ巡察は避けているはずだが」
「ええ…それは俺も、そういうことだろうというのは理解していました。副長は何故二人が揉めているのかはご存じですか?」
土方は「いや」と答えた。総司はただ単に自分のことが気に食わないのだろう、とそれだけ言っていた。土方もそういうことなら仕方ない、と納得していたのだが
「そうですか…」
と斉藤が何か意味深な受け答えをしたので「何だよ」と先を促した。すると斉藤は少し迷ったようだが、土方に対してこれ以上黙っていられるとは思わなかったのだろう。
「実は鈴木組長は、男色を毛嫌いしているそうです」
と答えた。彼にしては珍しく負の感情を抱いた物言いだったが、土方は単純にその事実に驚いた。
「男色…?俺と関係を持っていることを知って、鈴木が総司のことを嫌ってると言うことか?」
「はい、俺も詳しく聞いたわけではありませんが、鈴木組長が沖田さんに直接そのように言ったようです。…それに鈴木組長が沖田さんを嫌っているのは俺の目から見ても明らかでした」
「ふうん…」
総司がその事実を隠したのは土方に迷惑は掛けまいという意図だろうが、しかしそれを何故斉藤だけが知っているのかというところには不快なものを感じざるを得ない。だが、いまそれ以上に重要なのは鈴木が総司に対して「あからさまに」拒絶の態度を示していることだろう。
(ただの男色嫌い…とも思えねえな…)
自分たちの関係を誰もが快く受け入れるわけではない、ということはもちろんわかっている。口に出すことができなくても嫌悪している隊士もいることだろう。
しかし、入隊して間もない鈴木が一番隊組長である総司に面と向かって『自分は男色が嫌いだ』と言ったのだとすれば、余程何か理由があるに違いない。総司もそう感じ、ことを大きくすればそれが『私闘』に繋がると理解して黙っていたのだろう。
そして斉藤はその意図を汲み取ったうえで、土方に報告をした。告げ口という形になるだろう。
「…総司には口止めされていたんじゃないのか?」
「口止め…というほどではありませんが、彼が副長に言いたくないのだろう、ということはわかっていました」
「だったら何で俺に教えたんだ」
「……」
斉藤は黙り込んだ。しかし彼も土方に追及されると分かったうえで伝えたはずだ。
すると斉藤は少し声のトーンを落とした。
「俺は…もうあの人の力になれないだろうと思いました」
「…何故だ。少なくとも総司はお前を一番親しい友人だと思っているはずだ。お前のことを頼りにしている」
「その友人という関係を…俺が断ち切ったからでしょう」
お互いの顔も見えない暗闇の畦道。
誰にも聞こえない二人の話声。
斉藤が何故このタイミングでこの話をしたのか…それは鈴木の一件を伝えたいからではない。
「お前…言ったんだな」
こんな場所でなければ、話せないからだ。
お互いの提灯だけのほのかな明かりの中、斉藤が頷いた気がした。





320


元号は元治から慶応へと変わり、四月下旬となった。
隊士募集の為江戸に下っていた土方、伊東、斉藤、そして藤堂は新入隊士五十四名を従えて江戸を出立した。新入隊士には吉村貫一郎、宮川信吉、志村武蔵、鈴木直人ら後に新撰組の歴史に名を残す隊士達も含まれた。爽やかな陽気の中、京を目指す隊士たちは新天地への期待と興奮の旅路となった。
しかし、彼らを連れる立場である土方たちは、ぎこちない距離感で歩きつづけていた。
「土方副長、ご覧ください、藤の花が見ごろを迎えているようですよ。ここらで少し休憩でもどうでしょうか」
「…いえ伊東参謀、道を急ぎますので」
「そう堅いことをおっしゃらず。ああ、ちょうど風情のある茶屋もあります」
軽やかな伊東の誘いに、土方も断りきれずに「わかりました」と彼の提案を飲むことにした。伊東は満足げに頷いて、後ろを歩く新入隊士達に
「休憩にしましょう」
と声をかける。長く歩きつづけていた彼らはほっと安堵の表情を浮かべた。
隊士達が思い思いの休憩を取る中、伊東は早速隊士たちの輪に入っていきあれこれを気遣いの声をかけている。その隊士を労る自然な仕草には脱帽せざるを得ないが、自分はその役回りではないと土方は悟り、彼らとは距離を置いた木陰に凭れかかった。
春が過ぎ、初夏の兆しを見せ始めた日差しは確かに歩いているだけで体力を消耗させる。ふう、とため息をついて身体を休めていると斉藤がやってきた。
「どうぞ」
冷えた茶を差し出す。茶屋からもらってきたものだろう。
「ああ…」
土方が受け取ると、斉藤も自分の分に口をつけた。
昨日の帰路については、あれ以上は何も訊ねなかった。斉藤も答えたがらず、そして土方もその先の答えは随分前から察しがついていたのだ。
斉藤はおそらくこの江戸行きで自分の気持ちにけじめをつけたかったのだろう。もし斉藤が京に残ったのだとしたら、総司の傍に居続けざるを得なかった…区切りをつける時間も余裕もなかったことだろう。だからそれを避けたくて同行を望んだのだ。
土方は茶を一気に飲み干して息を吐き、
「…諦めるつもりなのか?」
と訊ねた。「何を」とは聞かずに、斉藤は手を止めて少し俯いて答えた。
「…少なくとも、こんなことで悩んでいるのは自分らしくないとわかっています」
「お前らしくない…か」
確かにそうかもしれない。寡黙で無駄を嫌い、察しが良すぎて冷静な彼らしくない。
しかし
「こういうことは…らしくないものなんじゃないのか?」
その「らしくなさ」を受け入れたからこそ、自分にとって総司が特別だということが実感できる。今までの自分にはない「何か」を実感できる。「恋煩い」とはまさに「らしくなさ」の連続なのだ。
すると斉藤は目を見開いて驚き、しかしまた視線を落とした。
「…あなたはやはり意地が悪いようですね。それは俺の欲しいものを持っているくせに、それを奪い取ってみろと言っているようなものですよ」
「そうかもな。…前にも言っただろう、俺はあいつのことを独占したいと思うが、その一方で俺だけのものにはしたくねえんだよ」
縛り付けて、誰の目にも触れさせないように…そんな狂気が自分のなかにあることを知っている。だからこそ、本当にそうしてしまうことが恐ろしい。
(ここにいる以上…ただ幸せであればいいだなんて、単純なことじゃない)
いつ死ぬかわからない場所に身を置いている。今日は無事でも、明日はわからない日々を過ごしている。…それを、総司にも強いている…それを思うと堪らなくなるときがある。
だから守りたい…と、そう言うときっと総司は怒るのだろうけれど。
「…ひとまず、鈴木組長の件はお任せします」
斉藤は突然、話を切り上げるように土方の傍を離れた。不自然な切り上げ方を不審に思っていると、ちょうど藤堂がこちらにやってきた。おそらく藤堂に話を聞かれるのを避けたかったのだろう。
「土方さん、蓬餅ですよ、おひとついかがですか」
「ああ…」
上機嫌な様子の藤堂は土方に一つ渡すと、もう一つの餅を取って斉藤と入れ替わる様に土方の隣に立った。
藤堂とは江戸に下ったのちも、別行動をすることが多く二人きりの時間はあまりなかった。以前、伊東道場に寄宿したこともある藤堂もまた顔が広く、伊東に同行して道場を訪ね歩いていたのだ。
「ようやく俺も京に戻れますよ。もう一年近く離れているので、新鮮な気持ちです。あ、そういえば原田さんがおまささんを嫁に貰うと聞きましたけど、本当ですか?」
「ああ…近藤先生からの手紙にはそう書いてあった」
「やっぱりそうなんですね!帰ったらすぐになれそめを聞かなきゃなあ。きっと原田さんの話は尽きないでしょうけど。でもいっぱい、皆には聞きたいことがあるんですよね、いっぱい…離れていたから…」
捲し立てるように話す藤堂だが、ふっとその表情に影を差す。そして自分で持ってきた蓬餅を一口頬張ると「やっぱり駄目だ」と呟いた。
「俺、やっぱり土方さんに聞きたいことがあるんです。聞くべきじゃないとわかっていても、京に戻ってまた頑張るために、自分の心に整理をつけさせてください」
「…」
何のことだ、と土方は訊ねなかった。藤堂が何を聞きたいのかは、すぐに分かった。
「…山南さんは、どうして切腹になったんですか?皆は…それを受け入れたんですか?」
魁先生、と藤堂のことを綽名する隊士がいる。その良く言えば勇猛果敢、悪く言えば向う見ずな性格は、何よりも額に刻まれた池田屋の傷が物語っている。
そして今の藤堂の表情は、まるで戦場に向かう剣士のように鋭く尖っていた。だからこそ、迎え撃つ土方もまた彼の答えに向き合う。
「脱走により切腹。…そう言ったはずだ」
「そういう『事実』は聞きました。でも俺が聞きたいのはそういうことじゃない。何故、山南さんがそこまで追い詰められたのかということです…!」
「……」
何故。
どうして。
こんなことになったのか。
藤堂の気持ちはわかる。遠く離れていたからこそ、降って沸いた信じられない話に聞こえるだろう。だからこそ、知りたいと思う気持ちが誰よりも強いはずだ。
しかし、土方にだって本当のことはわからない。複雑に絡み合って、この結果になった。それに
(真実を話して…どうなるんだ)
分かっているのは、山南が腕の怪我で追い詰められたこと、そしてそのことをきっかけに伊東らと距離を詰めていたこと…藤堂はそれを信じるだろうか。伊東のことを少なからず尊敬している藤堂が、土方の言い分を受け入れるだろうか。
「…藤堂、山南さんが脱走した理由は『西本願寺移転に反対』した。…そういうことだ」
「そんなことは嘘だってわかっているじゃないですかっ!」
藤堂は叫ぶ。
声が辺りに響き、隊士らが驚いた顔を見せたが、魁先生は構わずに続けた。
「そんなのは当たり障りのない口実だなんて、きっと皆わかっている。なのに、どうして納得しなければならないんですか?理解しなければならないんですか?」
どうして、どうして。
藤堂はまるで駄々をこねる子供だ。しかしそれの叫びは皆が胸に秘めて口にできなかったことだろう。
しかし、山南は最後に言ったのだ。自分の死は「屯所移転に反対したこと」…それ以外の理由は一切ないと。そう言う風に周囲には伝えてほしいと。土方はその山南との最期の約束を、聞き届けなければならない。
例え己が悪者になったとしても。
「納得して、理解するしかない」
「そんなバカな…!」
「藤堂君」
緊迫した空気の中、伊東がすかさずこちらにやってきた。そっと藤堂の肩を抱き
「落ち着きなさい」
と諭す。藤堂はぐっと拳を握りしめて身体を震わせていた。
「しかし…伊東先生、俺は…!」
「話は道々に聞こう。取りあえず新入隊士の前です、控えなさい」
伊東の真っ当な言い分に、藤堂も何も言えずに「申し訳ありません」と謝った。そして伊東に引かれるようにして土方の下を去っていく。
おそらくは山南切腹は、藤堂にとってまだ時間が止まったままの出来事かもしれない。彼の開いた傷が、そのまま時を経て癒えるのか、それとも膿み痛み続けるのか…それは今の土方にはわからなかった。

それからすぐに一行は出発することになった。藤堂は少し距離を置いて隊の後方を歩いている。そんななか、伊東が土方のもとへやってきた。
「ご迷惑をおかけしました」
「…何のことでしょう」
「藤堂君です。彼も彼で自分を追い詰めていたのでしょうが、場所が悪かったですね」
伊東はまるで藤堂が自分の身内のような言い方をした。彼は若き日の師であるので身内のような感覚があるのかもしれないが、藤堂は試衛館から浪士組に参加した、言わば近藤腹心の部下であるはずだ。
(…この数日で取り込んだ、とでも考えているのか…)
妙な疑いを持ちながらも土方は平静を保って答えた。
「別に構いません。藤堂とは…同じ釜の飯を食べた仲です。多少対立したところで、元に戻る」
「山南総長も同じ釜の飯を食べた仲だったのでは?」
伊東はあっさりと返答する。その遠慮ない物言いに土方は思わずカッとなり、伊東を睨み付けていた。
「…何をおっしゃりたいのか、わかりませんが」
「いえいえ、お気に障ったのなら申し訳ありません。ただ、昔馴染みの中に胡坐をかいていては、同じ過ちを繰り返すのではないかと危惧しました」
「…そうですか、ご忠告痛み入ります」
「土方副長を責めているのではありません。私も山南さんの件では責任を感じています」
しおらしい顔をして見せた伊東に、土方は
(心にもないことを…)
と喧嘩を買いそうになったがぐっとこらえる。
土方は何も言わずに伊東を振り切って、足早に歩いた。
頭のいい伊東が、先ほどのような程度の低い喧嘩を売ってくるとは思えない。
伊東は試したのだろう。
藤堂を、山南の二の舞にさせるつもりなのか、と。その隙が土方にあるのかと。
(面倒なことになりそうだ…)
京に着いた先に待ち構える日々に、土方は既に辟易とし始めていた。









解説
317大谷良輔の切腹は、事実として残る出来事ですが、何故切腹になったのかは不明だそうです。交通事故?なんていう説もあり、大谷自身の過失ではないような感じもします。
そして順番的には、大谷の切腹→西本願寺移転→(祇園の火事?)→土方江戸へ が正しいと思われる順番です。
もちろん「駒吉」「宗三郎」は架空の人物です。
318頼越人は切腹の采配や埋葬を取り仕切る役割のこと。大谷良輔の切腹については、神崎一二三と酒井兵庫が頼越人を務めた記録が残っています。

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