わらべうた





31
文久二年、梅雨。
ジメジメとしたこの天気に、苛立ちを隠せない試衛館食客達は今日も縁側で憂さ晴らしに猥談を交わす。そんな日々が日常となる辺り彼ららしい。
その中に一人毛並みが違うのも混ざっている。これも日常である。
「お前なぁ、今日もいるのかよ」
うんざりした顔で彼を見たのは土方だ。
「何ですか。文句でもあるんですか?」
生意気に口答えするのは伊庭。心形刀流の御曹司だ。
「まぁいいんじゃねぇの?親睦を深めるって奴?」
茶化すように大声で笑って、伊庭の肩を叩くのは原田。
「私は年も近いですから、」
その様子を横から眺めているのは藤堂。
「まぁ何より、彼は話題が多いからな」
そう、苦笑すのは永倉だ。
それぞれがいろんな個性があって、飽きないもの試衛館らしさ…かもしれない。


「じゃあ行ってきますね、」
大きな稽古道具を担ぎ、試衛館の食客に別れを告げたのは総司だ。伊庭はキョトンッとした顔をして
「え?どこに行くんですか?」
と尋ねた。変わりに答えたのは藤堂で
「出稽古に行かれるんですよ」
「出稽古?それはまた大変ですね…。どちらに行かれるんです?」
「布田の方に…」
「え?じゃあ俺もご一緒して良いですか?」
伊庭は嬉しそうに言った。土方は首を傾げて
「お前も用があるのか?」
「ええ。そっち方面に。じゃあお邪魔しました。」
伊庭は素早く手荷物を持ち、刀を差した。そして総司の隣で、試衛館の門から出たのだった。


「伊庭くんの用事って?」
「ああ、別にないですよ」
伊庭はケロッと言ってのけた。総司は唖然として
「は…は?」
「単に沖田さんと二人きりで話がしたかったってことです。」
にこっと笑うと、総司もつられて笑った。彼の笑顔には愛嬌がある。
彼は本当なら、もっと威厳のある風に接しても良いはずだが決してそのような仕草を見せない。彼に友人が多い理由はそこにある。
「試衛館にいると食客の皆さんが多いですし、何よりも沖田さんがどこにいるのか分かりませんしね」
「ああ…。ああいう猥談についていくのは苦手なんです」
「だと思った」
伊庭はくすっと笑った。総司は年下のはずなのに、少し子供っぽく扱われている気がしてならない。
まぁ、確かに大人っぽいとかそう言う意味では遙かに伊庭が長けているのだが。
「俺的には土方さんとどうこうした展開があるってのが楽しいんですけどね、まぁお互いそうじゃないようだし…」
「?」
「ああ、気にしないでください。そうだ、沖田さん。今度試合しましょうよ。なんだかんだ言ってまだ立ちあったことないですよね」
「そうです…けど」
総司の言葉には躊躇いが感じられた。伊庭は笑って
「あ、そうか。俺なんて相手になりませんよね」
「ち、違いますよっ。ただ、私の方こそ伊庭くんの相手になるかどうか…」
総司は不安げな顔をした。
こっちは田舎道場の塾頭だが、相手は心形刀流の次代目を継ぐような御曹司。気が引ける。
「御曹司って言っても、俺が剣術を始めたのは二年前ですよ」
「え?」
心の底を読まれた気がして、総司はビクッとしたがそうではないらしい。
遠い目をして、呟くように話す。
「それまでは親不孝にも、本の虫で…。身体を動かす事が大の苦手だったんですよ。
ましてや剣術なんて。…人を殺す為に、何で身につけなきゃいけないのか、って思って」
「……」
それは総司も何度も思った。
たまたまというか、いつの間にか始めていた剣術だが、要するに人を殺すための訓練だ。…そのことに気が付いたのは、ここ最近のことだが。
「まぁ、今では悟ってますよ。人を殺さないために、剣術を習うんだって」
「え?」
「名が上がればそうそう手を出す人なんていませんし、人を殺さない技だってあるじゃないですか。できればそう言うのを身につけたいと思って始めたら、まぁ、こんな風に『子天狗』様になっちゃった訳で」
彼の自慢話に決して嫌みはない。冗談と茶目っ気が溢れているからか。
伊庭が苦笑すると、総司もつられて笑ってしまった。
彼には、何か別の輝きがあるように思えた。自分とは違う、何かがある。総司はその得体の知れない何かが、羨ましくも感じた。
「それより、沖田さん顔色が悪いですよ」
「え?」
伊庭の言葉に驚いたのは総司の方だった。
「赤くなってますし。熱でもあるんじゃないですか?」
「そうかなぁ・・」
総司は自分の額に手を当てた。確かに少し熱い気がするが微熱程度だろう。「大丈夫ですよ」と笑って、稽古道具を担ぎ直した。梅雨なのに、炎天下だった。


布田の出稽古先に付くと、総司はまず稽古を付けた。伊庭はその稽古を傍らに座って眺めている。その眼差しは真剣だった。総司も緊張感を持って教える。
門下生が伊庭を見て「どなたですか?」と尋ね、総司が「伊庭八郎さんです。」と答えると彼らは腰を抜かす程に驚いた。彼の名はこんな田舎にまで広まっているらしい。

稽古が終わり、一段落付くと出稽古先の若奥さんがお茶を差し出してくれた。冷たく冷やされたお茶を、伊庭はグイッと一気に飲み干したのだが総司は手を付けなかった。炎天下のはずなのに、汗が一つも出ない。
「どうしたんですか?暑くないんですか?」
伊庭が不思議そうに尋ねる。
「暑いんですけど。喉が渇かないんですよねぇ…」
総司も首を傾げた。本当ならここで一杯グイッと飲んで、もう一杯頂こうかというところだ。
「やっぱりおかしいですって。ちょっと、額をお借りしますよ」
伊庭が急に近づき、総司の額に手を当てて己の温度と比べた。
「わっ!!すごい熱じゃないですかっ!」
伊庭のリアクションに驚いたのは総司の方だった。
「えぇえ?!」
まったく自覚がない。いつもの風邪なら喉から来るはずだし、咳も出ない。
「もしかして…。ちょっと失礼しますよっ」
総司の了承を得る間もなく、伊庭はぐいっと総司の袖をたくし上げた。
「やっぱり!これは麻疹ですね」
「え?」
「ほらっ、目の充血も酷いし何よりも赤い湿疹が出てる。奥さん。若奥さん!!」
伊庭は妻女に寝床を準備するように言い、総司を連れて行った。
寝転がると確かに目の前がグルグルして、自分が病人であることを気づかされた。急に身体が熱くなる。
「俺は麻疹をすませてますから、平気です。ほら、布団を被ってください」
「暑いですよ」
「何言ってるんですか。今年の麻疹は質が悪いんです。暖まって寝ないと酷くなる一方です」
伊庭は強引に布団を被せた。麻疹よりも汗疹の方が酷くなりそうだった。
「医者を呼びます。それから、試衛館の方にも伝えてくれるように頼んできます。沖田さんは安静にして、そのままでいてくださいよ、決して身体を冷やさないように!」
彼の行動は的確で素早い。
さっさと部屋を出て行ったと思うと、辺りが急にどたばたし始めた。
総司は急に襲いかかる熱さと眠気に、意識を失った。


伊庭の行動は慣れたもので、的確だった。そして冷静。
まず部屋を出るなり家の妻女を医者へと使わせ、小者には試衛館に連絡するように言った。
主人は丁度出掛けていたらしく不在で、伊庭は自ら桶に水を汲み手ふきを準備する。麻疹は幼い内に済ましておくのが、利口だ。むしろ大人になってから罹ったほうが死亡率が高い。伊庭も幼い頃に経験したが、あの苦しみといったら半端なものではない。そして頭に残っていることは身体を冷やさないようにすること。
「高熱の上に稽古の後…。かなり体力を消耗しているなぁ」
気がかりはそれだった。体力を要する病だからこそ、今の状態が一番危ない。もっと早くに気が付いていれば、と後悔する気持ちもあるが、今はそれどころではない。
医者の到着を待ちながら、伊庭は女中に冬に仕舞った湯たんぽを探させた。そして受け取ると湯を入れ、部屋へと向かった。
(土方さんなら飛んできそうだなぁ)
微笑ましい光景を想像して少し苦笑しながら、部屋を開けた。
「沖田さん・・・あっ!」
伊庭が湯たんぽを思わず足下に落とし、総司の駆け寄った。総司は熱さのあまり自然と布団を蹴っていたのだ。伊庭は総司の指先に触れた。
――冷たい…。
指先だけではなく、足先も冷たい。顔色は先程とかなり変わって青ざめているし、意識もない。
「沖田さんっ、しっかりしてください」
伊庭が慌てて布団を掛ける。
持ってきた湯たんぽを布団に忍ばせるが、それでも指先の冷たさは元に戻らない。
「…沖田さん」
冗談ではない。
「沖田さんっ!しっかりしてください!!」
声を強めるがその言葉に返事はない。医者はまだか、と庭先を見る。そのような気配はない。
炎天下の梅雨の空は、夕陽を覗かせていた。



32
文久二年。
珍しく炎天下だった昼が過ぎ、空が夜を迎えようとする頃。
土方はいつもの河原を、風のように走っていた。


「手先、足先がすっかり冷たくなっておる。意識も混濁しているようだし。 この御方は病に対しての抵抗力が、小さいようだ」
医師は冷静な顔をして、伊庭にそう告げた。
「…今夜が峠という所」
小さく呟くように言うと、医師は部屋から出て行った。
「…っ」
伊庭は素手でその畳をバンッと叩いた。悔しさと憤りを隠しきれない。
側にいればいくら暑くとも布団を掛けられていたはず、もう少し準備が早くできていれば…。
後悔しても仕方ないことは伊庭にも分かっている。それを思い始めると、キリがないことも分かっている。
「…っ、ぁ…ん」
「え?」
伊庭は声が発せられた方に振り向いた。
「沖田さん?沖田さん・・・?しっかりしてください」
「…ぁっ、い…」
「暑くても我慢してください。お願いですから」
「…水…」
医者から水は禁じられていた。
「…水はだめです。温かいお茶ならありますから…」
伊庭は総司の口元に湯飲みを近づけたが、飲んでくれる様子はない。総司の肌は熱気でほてり、かすかに開いた目も蒸気で潤んでいる。ただただ苦しそうに、呼吸を繰り返す。
伊庭は手を握った。氷のように冷たい手に、祈った。
「…っ」
「え…?何です?」
伊庭が総司の小さな声に気が付いた。
「…さんっ、とし…ぞ…さん」
「土方さんならもうすぐ来ます、だからもうちょっとだけ我慢してください…っ」
「…っさん、歳三さん…っ」
唸り声から、懇願するように聞こえ始めると、伊庭も心苦しくなった。伊庭の中でどうしようもない怒りが込み上げる。当てようのない怒りが。
「…っ、こんな時に…!早く来てくださいよっ馬鹿!!」
「『馬鹿』とは失敬だな」
「あ!」
すっと障子が開き、伊庭の隣に座ったのは土方だった。
よほど急いで走ってきたらしい、息を切らしている。
「やっと来た!」
「やっと来たとはよく言うぜ。全力疾走だ」
ふんっと微笑した顔が、次の瞬間には心配そうな顔に変わった。
「どうなんだ、具合は」
「…今夜が峠だそうです」
「何!?」
それほどまでに酷いとは思わなかったのか、土方の顔がみるみる変わる。
総て自分の責任だ。
「すみませんっ!俺のせいで…!」
伊庭は唐突に土方に頭を下げた。それ以外のお詫びの方法がわからなかった。土方が困惑した顔で、伊庭の肩を上げる。
「何でお前が謝るんだ。迷惑かけたのはこいつだろ」
「いえ。俺が色々準備している間に、沖田さんの身体を冷えさせてしまいました。病状を酷くさせたのは…俺です」
とても目が上げられなかった。土方が総司を大切にしていることを一番知っている伊庭だからこそ、この失態は許されないものだ。
しかし土方は穏やかに笑った。
「今ここでそんなこと気にしても仕方ないだろ。お前はよくやった。こいつには布団を蹴る癖があるんだ」
お前のせいじゃない、と土方は伊庭の頭をくしゃくしゃっと撫でた。この落ち込みようは確かに、総司よりも年下かも知れない、と感じられるほどに。
「…とし…ぞ…さん」
と、思考が離れていた所で掠れた声が土方の耳に辛うじて入った。
「総司!総司…!しっかりしろっ!!」
「…っ、あつ…い、暑い…っ」
土方は総司の手を握る。手先だけは冷たいが、辛うじてぬくもりが感じられる。
ただ顔色だけは優れない。
「しっかりしろ、ここで死んだら許さねぇぞっ」
一層総司の手を強く握りしめる。
幾分か、総司の息が静まり、少し微笑したように見えたのは気のせいか。

長い夜だった。
昼間の炎天下の気温はすっかり下がったが、ジメジメとした湿気はまだ残っている。総司の熱も土方や伊庭の看病を続けるが一向に下がる気配はない。さらに、総司は胸の辺りをぎゅっと掻きむしるように押さえ苦しみ始めた。
「どうした」
「くる…しいっ…」
土方は急ぎ、仮眠を取る伊庭に医者を呼ぶように言った。医者も離れの部屋で仮眠を取り、控えている。

駆けつけた医者は顔色を変える。
「これはいかん」
「麻疹が内攻しましたか」
「そうだ」
土方にも幾分か医学の心得がある。しかも麻疹は済ませている身だ。出稽古先の主人や妻女も心配そうに部屋を覗く。
「後はこの御方の体質と運に頼るしかない。異国の薬を使おう、少し値段は張るが…。それから部屋には蒸気をたてておくことだ」
医師はそそくさと部屋を立ち去った。というのも医師はかなりの年配で本来なら
総司の診察をするべきではないご老体なのだ。妻女に連れられ部屋から立ち去る医師は「何かあればすぐに」と土方に言いつけ、離れた。
彼は決して藪医者ではないようだ、と土方は感じた。
「土方さん、蒸気をたてなければ」
「ああ…」
暑がっている総司には苦しいだろうが、七輪などを用いて室内で湯を沸かした。
「これ、さっきの医者から預けられたんですが…」
伊庭が土方に渡したのは、異国語で書かれた紙の筒。中には粉が入っているようだから、先程話をしていた異国製の薬だろう。土方は早速湯飲みに水を準備し、その中に薬を混ぜた。よくかき混ぜよく溶かし、総司の口に含ませようと試みる。
だが、意識の朦朧とした人間には飲みにくい。口の中に入ってすぐにはき出してしまう。
「どうします?」
部屋は蒸気で充満している。後は薬だけだ。
「仕方ねぇ」
土方は自らがその薬を口に含んだ。そして総司の頭を少し持ち上げ、口付けを交わすように飲み込ませた。
ごほごほと初めは咳き込んだが、そのうち喉を通過するのを伊庭は確認した。
「…っ、不味い」
「そうでしょうねぇ」
土方は袖で唇を拭った。その後水をぐいっと一杯飲み干す。
「あとは沖田さんの運と体質ですね。沖田さんは身体は強い方ですか」
「どうだろうな、滅多に身体は壊してないが。何年か前にに風邪にかかったことがある」
「…そうですか」
伊庭は目を伏せた。総司の呼吸は相変わらず苦しそうで、見ているこちらも息が詰まる。
「伊庭、お前は寝ておけ。疲れてるんだろ」
「でも」
「いいから」
土方は無理矢理伊庭を部屋から追い出した。
冗談やからかいの一言も述べない伊庭は、初めてかも知れない。土方は二人きりになったその部屋で、総司の手を握る。少し温かい。
「死ぬなよ」
聞こえないのはわかっているが、そう言えば総司は生きてくれるのではないかと思った。
「…死ぬな」


明け方。
総司の峠は去り、熱も引き呼吸も安定した。医師は「異国の薬とこの御方の運がよかったのだ」と微笑して、家を去っていった。土方らは深々と医師を見送った。
その後、近藤が出稽古先の布田に駆けつけた。好物の大福を持って来て、総司に無事を知り安心した笑みを浮かべて、代わりに稽古を付けてやる、と稽古場に向かっていった。
「よかったです。沖田さんを死なせてたら、貴方に俺は殺される所でしたよ」
土方に本気で安心した顔を見せたのは伊庭だ。
「あ?」
「薬を思わず口付けで飲ませちゃうくらい大切な沖田さんが死んでしまったら、もうどうしようかと」
「お前なぁ」
伊庭が冗談を言えるのは、総司が回復したからだ。昨夜はまったくこんな調子の良い様子は見せなかった。

昼頃になると総司の意識が戻った。ぴくっと指先が動いたと思えば瞳がゆっくりと開き、辺りを確認するように眺めた。
「…ここは…」
「気が付いたか」
土方はほっと一息ついた。
「布田の出稽古先だ。」
「布田…そっか、確か伊庭くんと一緒に…」
「そうです、一緒に出稽古に来て、そしたら沖田さんが麻疹に罹ったんです。もう、大変でしたよ。昨夜は峠だったんですから」
伊庭が苦笑する。そう言えばあれほどまでに時間を長く感じた夜はなかった。
「ご、ご迷惑を…」
「ほんとにな。俺は夜道を全力疾走だ」
「え、そういえばどうして土方さんがここに?」
「そりゃもう、愛故にってやつで…いたっ」
伊庭の頭から快い音がした。はぁっとため息を付き、土方が総司の額に触れる。
「もう熱はないな。気分はどうだ。大人になったような気分だろ」
「もう…そんなことないですって。麻疹に罹るなんて、情けないです…」
総司が照れ笑いを浮かべた。
「そんなことないですよ。まぁ俺は沖田さんの寝姿にちょっとだけ、食指が動きそうになったのを押さえるのが大変で大変で…」
「ったく、調子良いこといってんじゃねぇ」
それが伊庭の冗談であることは間違いなく、場はすっかり和んだ。総司も寝床から微笑んだ。
そして
「お腹減った」
と土方に訴えたのだった。

ちなみに、総司が譫言(うわごと)で土方の名を呼んでいたことは伊庭だけが知る秘密である。



33
文久二年、晩夏。暑い季節がすぎ、まさに季節の変わり目という頃。
少しばかり遅れた『春』が訪れようとしている男がいた。

「あれ?永倉さんは?」
稽古着に汗を流し、肩から手ぬぐいをかけた総司が食客部屋を訪ねた。いつもなら、話の中心になるわけでもないが存在感のある永倉が背景を埋めてくれているのだが、総司にはその永倉が見当たらない。
「永倉さんなら出ていきましたよ」
「え?」
総司の問いに答えたのは藤堂。夕食の枝豆の皮むきをしている。またその横で分厚い本に目を通している山南が
「最近彼はよく外出するよね」
とぼやいた。するとその隣に寝そべっている大柄の男が、得意顔で彼らの疑問に答える。
「永倉なら女んとこだぜ?」
と。もちろん答えたのは原田左之助。いうまでもない。


蝉の声が聞こえなくなって何日経つだろうか。
そんな季節の移ろいを感じながら、永倉は出されたお茶に手を付けた。質素ながらも出窓から見える景色はなかなかのものである。
「永倉先生」
淑やかな声が、永倉の耳に入る。
「いや、よしてください『先生』は。私は試衛館の食客であって師範代ではないのですから」
永倉が遠慮しがちに、だがやや顔を赤らめて女に返事をした。
「いえ、でも助けて頂いたことに変わりはありません」
女はその細く白い手で、茶菓子を差し出した。
永倉がこの女と出会ったのは、つい先日のことである。
別に用があるわけでもなく、町を彷徨いていると女と番頭らしき男が、口論になっている所に出くわした。永倉がしばらく眺めている内に、口論の末、店の番頭が刃物を振りかざした。咄嗟にその女を助けたことで、知り合うことになった。
永倉としては、別に他意があって女を助けたわけではなかったが話して行く内に心惹かれるものを感じてしまった。
「それにしてもよいお住まいだ」
永倉は不意にそんなことを言う。女は微笑して答える。
「ええ。でも夏は風通しが良いのですが、冬は寒いです」
微笑むたびに心臓が高鳴るのは、何故か。


「永倉さんっ、おかえりなさい」
永倉の姿を見つけるなり、満面の笑みで迎えたのは藤堂だった。
律儀な彼はどうやら玄関の掃き掃除をしているらしい。だが、どこか不自然に思える。
「?平助、なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
と、永倉が問うと
「もうー、そんな隠さなくったっていいんですよ、みんな知ってますって」
「なにを?」
「だからー、好い人がいらっしゃるんでしょう?」
永倉の顔が、蒼白になる。

「お前っ!誰にも言うなっていっただろっ!」
永倉が激怒した相手はもちろん原田だ。元はといえばその現場を原田に目撃されていた。口止め料に酒までおごったというのに。
「だってよぉ、しんぱっつぁん。祝い事はみんなで楽しく…」
「祝い事ではないっ!」
頭をかきながら笑う原田に、激怒していた永倉だったが
「聞いたぜ、永倉。やるじゃねぇか。」
「もう、土方さんってば。永倉さんは真剣な恋なんですからねっ誰かさんと違って。」
「そうですよ、土方さん。え?俺ですか? 俺はいつでも真剣ですからね」
「永倉君聞いたぞ」
「どんな相手なのか、気になりますねぇ」
…今更隠しても仕方ない、とため息を付いた。
たまたま伊庭が遊びに来ていた、というのも何というタイミングの悪さか。

少しばかり意気消沈した永倉が縁側に腰掛けていると、隣に藤堂が座った。
「どういう女なんです?」
上目使いに、からかい混じり、だ。
「…別段、美人というわけでは無いが繊細そうな人だ」
「へぇ、どう言う所に惚れたんです?」
「わからん」
藤堂は隣で首を傾げるが、永倉も傾げてしまいそうになった。
そう言えば、彼女に何に惹かれているのだろうか。言葉に出来ないような、空気に和まされているのだろうか。試衛館の食客が決して落ち着かないとか、悪いものではない。だが、またそれとは全く違う何かに、惹かれないではいられないのだ。


からかい混じりの試衛館一同に押されて、永倉は再び女の元に訪れた。約束などはしていなかったが、ついでに寄ったという方便で菓子でもおいていこうと思った。
だが、その必要はなかった。
「永倉先生」
あちらから話しかけてこられた。
「あ、こ、こんにちは」
「こんにちは、先生。今日は何か?」
「い、いや別に。通りかかっただけで」
心構えが出来ていなかったせいか、言葉に落ち着きがない。
「ああ、でも丁度良かった。これから試衛館にお伺いしようと思っていたんです」
「え?」
それはどういう意味なのか。永倉が期待と疑問で半信半疑になっていると、女は物寂しげに
「実は、主人の急な都合であの家を明け渡すことになりました」
「ご…主人?」
永倉は全身の筋肉が凍てつくような錯覚に囚われた。
「ええ、実はわたくしの主人は遠く上方で商いをしておりまして。今までは江戸が本家と言うことでわたくしも江戸に住まっていたのですが商いの繁盛から、大阪に住を移すことになりました。そのご挨拶に」
女は少しばかり頬を火照らせながら、視線を落とす。
「そ、そうですか。ご主人とお住まいになられるんですか…ああ、良かった」
「ええ。わたくしも嬉しく思っております」
女は満面の笑み。だが永倉の心情は反比例するように落ち込んでいる。
「永倉先生はあの家をお気に召されていたでしょう?ですから…」
「い、いえ、そう言うわけではなく。あ、あ、あの、私は急な用がありますので、失礼します。…ご主人と、お幸せに」
「ありがとうございます」
女は頭を下げると、足早に立ち去ってゆく永倉を見送った。
永倉は一度も振り返ることはなかった。断ち切るように。


「…で、どういうことなんだ」
打って変った永倉のどんよりとした空気に、土方は沈んだ永倉の背中を見ながら総司に尋ねた。
「原田さんに聞いた話なんですけど、永倉さんが通っていた女の人にはご主人がいらっしゃったそうです。それで今度は大阪に引っ越すそうで」
「その女にとって永倉は恋人じゃなかったんだな」
「さらっと酷いこと言いますね」
土方は鼻で笑った。

「…そう言えば名前も知らなかったな」
永倉は呟いた。
季節が夏から秋に変わる。季節が永倉を癒してくれるかどうか、わからない。



34
文久二年。
この年に近藤家には新たな家族が加わった。近藤勇、そしてつねとの間に生まれた長子、たまの誕生である。男でなかったことを初めは不満に思っていた、勇の養母ふでであったが、赤子の魅力にすっかり魅了されてしまい、今や仏のような笑顔だ。自分が子を持っていないと、尚更愛おしいのかもしれない。
そんな試衛館に秋が訪れていた。


「たまちゃーんっ、ばぁぁ~」
たまを腕に抱き、機嫌を取るのはもっぱら総司の役目だった。といっても総司は元来の子供好き。それが苦痛であるはずもない。
「ったく、乳母が板に付いてるぜ、総司」
それを横でからかっているのが、土方である。
「いやぁ、実の父である俺よりも気に入られているんだ、妬くなぁ」
その縁側の二人を見て、苦笑しているのが父親でもある勇だ。
勇は元はと言えば島崎家の末子で、下に弟や妹がいたわけでもないので接し方を知らない。また土方も土方家の末子であり、赤子の接し方を知らない。
「もう、近藤先生っ そうやっているとたまちゃんに嫌われちゃいますよ」
総司は苦笑する。たまは決まって勇に抱かれると、泣きだしてしまうのだ。一見堅苦しく、鬼のような表情が赤子には怖いらしい。
「まっ、いつか俺の嫁になるんだよなー?たーまーちゃん」
「おいおい、原田。二十以上も違うんだ」
「いいじゃねぇか、若奥さんっていう響きも」
「たまちゃんが嫌がりますって」
何かと本気な原田に永倉と総司が突っ込み。
「俺にも妹がいましたけど、どうやって接してたかなぁ…」
「え?藤堂さん、妹がいらっしゃるんですか?」
総司が興味深そうに尋ねたが
「ああ、でも亡くなりましたけどね」
と、藤堂が答えると、しゅんっとへこんでしまった。
「あ、ああ、気にしないでください。もう、三年も前の話ですから……」
「ご、御免なさい……」
とても、理由を聞ける雰囲気ではなかったので、その話は切り上げとなった。丁度たまが泣きだしたのだ。
「あーわーわっ、たまちゃんっベロベローバーっ」
「待て待て、総司。そう言うのは本格的に、な。ベ~ロ~ベ~ロ~バァァ」
原田が顔を手でしわくちゃにして、たまに見せる。だが、もちろん逆効果でたまは一層大きな声で泣き出してしまった。
「あら、お腹が空いたのかしら」
こうなると妻のつねの出番である。

「試衛館も賑やかになりましたねぇ」
しみじみと言うのは山南だ。
「そうだな、赤子がいるとやっぱり…」
「そうではなく、私達食客のことですよ」
山南は勇の言葉を遮って続けた。
「いつまでもこうしているわけには行きませんからね。」
「まぁ確かに。私の手には負えないですよ。大体こんなボロ試衛館にどうしてこんな剣客がそろったんでしょうねぇ」
勇は苦笑する。世の中はこれほどまでに激動しているというのにな、と付け足すと寂しげな顔をした。何故今、ここにいるのか。
「…近藤先生」
「ん?」
山南は真摯な眼差しで勇を見た。
「もし…もし、私達が活躍する場が無条件で与えられたとすれば、どうしますか。」
「山南くん?」
突然の申し出に、勇は困惑した。
「…それは、言うまでもなく受け取るよ。このまま道場主としてだけで終わる気はさらさらない」
勇は笑った。
「まぁ、『与えられれば』の話ですがね」
「実は、今…そういう可能性があるんです」
「え?」
山南は懐から紙を差し出した。
「読んでください。そしてもし、それを『受け取る』ことになさるなら、是非私に助力させてください」
山南が手渡した手紙は、五、六枚ほどだった。


秋の縁側に今、蛍が一匹潜んでいる。夜になると仄かな光を放つのだが、一匹しかいないので物寂しい。
「歳三さん、はい、団子ですよ」
「あ?気が利くじゃねぇか」
「えへへ」
縁側で蛍を眺めていた土方に団子を差し出し、総司はその隣に座った。総司は蛍の姿を探した。だが、仄かな光さえも、よく見えない。
「歳三さん、蛍、どこにいますか?」
「あ?」
団子を頬張っていた土方が目をこらす。
「…いねぇな、どっかいっちまったんじゃねぇのか」
「なんだ、残念」
総司は空を見上げた。
ついこの間までこの時間はまだまだ、明るくて。風もどこかなま暖かくて。でもいつのまに、こんなに空が突き抜けるように遠く、暗闇を帯びていたのだろう。
風が冷たくなっていたのだろう。
「……歳三さん」
「ん?」
「もし、このまま時が過ぎて、おじさんやおじーさんになるまでここにいて。なんにも考えないまま…ずっとこのままでいられることが、幸せだと思いますか」
時代や、混乱の嵐に巻き込まれず。
自分らしく生きること。
これが幸せだといえるのだろうか。
「…さぁな、人それぞれだろ」
「歳三さんはどうなんですか」
土方は串に刺さっていた団子の最後を、喉に押し込み、緑茶を流し込んだ。そして空を見上げた。
「俺は満足しねぇ」
「え?」
「第一、そんな生活できるとは思っちゃいねえよ。いずれ何らかの形で俺たちは時代に関わる。 ……いや、関わりたいのかもしれねえけどな」
土方は苦笑して、空を指さした。
「人間が死んだら、星になるのだとしたら。俺はでっけぇ星になる。死んだ後さえも輝く星にな。そういう人生が俺の望む人生だ。不変を望む方が幸せであったとしても、な」
今夜の星は輝いていた。
土方の瞳を、総司は眺めた。輝きは似ていた。
「……なんてな」
土方の照れ隠しは歴然なもので、総司は思わず笑ってしまった。
「私は…不変を望むわけではないけれど、もうしばらくこのままでいたいかも知れない。家族がいて、食客のみんながいて、先生がいて、伊庭がくんいて…楽しいでしょう?」
その返事は土方の微笑で、わかった。


一方
「山南さん、この話は」
山南は近藤の部屋にいた。よく二人で世情について語り合っていたものだから、誰も不思議がらない。
だが、今日の用件は違った。
「…まだ確定的なものではありませんが。同じ北辰一刀流の剣客…いや、論客の発案です。幕府もこの企画には前向きで…。もしかしたら、これに参加できるかも知れません。」
山南の表情には自信の色がある。勇は山南から受け取った紙を握りしめていた。
これは、好機だ。

「浪士組の募集…」



35
文久二年、冬。
過ごしやすい秋が、いつの間にか通り過ぎ雪も降ろうかという頃。食客達が集う部屋に、朗報が届いた。

「浪士組…だって?!」
一番大きな声を上げたのは土方である。白い息が急に、消えてしまったのではないだろうか。
「どういうことですか……」
勇の隣に座る山南に総司が尋ねた。
「町に炙れている「浪士」たちを集め、将軍家茂候が京に上る際、身辺を警護する目的で浪士組を先行して京に送ろうということです。つまり将軍の警護役に」
「す、すごいじゃないですか」
歓喜の声を上げた藤堂だったが、その隣で難しい言葉の意味に四苦八苦する総司が頭を抱えている。
「それに一人につき十両二人扶持」
「じゅ、十両だって!?」
興味なさ気に聞いていたはずの原田が、飛び上がって喜ぶ。…気が早い。
「なるほどな、厄介者の不逞の輩を一時的にでも追いやるってことか」
口では捻くれたことを言うが、土方の表情は明るい。
夢が叶う。そう確信している微笑だった。
「しかし、その話は本当なのか。話の内容が良すぎる。でっちあげとか…」
永倉が冷静に判断するが、山南はきっぱり否定する。
「いえ。それはありません。幕府老中板倉様が正式に内示を出されています」
「試衛館を上げて参加するかどうかは、まだ決めていない。時間はあるからみんなそれぞれ冷静に判断して欲しい。」
近藤が皆にそう伝える様は、どこか生き生きとしていた。
考える意味なんて無い。
総司も、土方も試衛館食客が皆思っていた。


「あー。やっぱり参加されるんですね、浪士組」
「ええ」
伊庭が総司に差し出されたお茶を啜った。
丁度土方は筆を買いに出て行ってしまっていて、珍しく伊庭と二人きりだった。
そこで話題になったのが、浪士組のことだった。
「近藤先生も、土方さんも…みんな喜んでます。どうなるかわからないけど、武士としての働きが出来るんですから」
「…どこか、他人事ですね。沖田さん」
伊庭がお茶を飲むのを止めた。
「そんなこと無いですよ」
何を言っているのだろう。勇や土方が夢が叶うことは本当に嬉しいのに。
「…ねぇ、沖田さんは本当に参加するんですか」
「はい」
「もう帰ってこられないかも知れないんですよ」
「そんな、近藤先生や土方さんが一緒なら、構いませんよ」
「人を斬ることになるんですよ?」
「それも、仕方ないことです」
「…それも、土方さんや近藤先生のため?」
伊庭が窺うように、総司の顔を覗く。
総司は思わず視線を逸らしてしまった。あまりにも真摯な眼差しだった。いや、何かを見抜かれそうだった。
「前から思っていたんですけど。貴方が行動を起こす時って大体土方さんや近藤先生のためで…。自分のために、何かをしたことってないんじゃないですか?」
総司は少しムッとした。
「そんなこと無いです。私は自分の意志で…」
「本当かなぁ」
苦笑して、伊庭は再びお茶を啜った。その音が部屋に響く。
「…人のために、何かが出来るってそれはスバラシイことだと思いますよ?でも、それには限度があります。」
「…」
「土方さんはああいう血の気の多い人だから、貴方に無理難題を押しつけることあるかもしれない。 …もし、土方さんが「十人斬れ」と言ったら、どうするんですか?聞きますか?」
「…斬りますよ」
そう言いきってしまったのは意地だったのかも知れない。彼は、何を見ているのだろうか。
「…この話は、お開きにしましょうかね」
伊庭は微笑んだ。土方の足音が聞こえた。

「なんだ、伊庭。お前は参加しねぇのか。」
土方が不服そうに言うと伊庭は調子よく
「そんな、あからさまに言ってくださらなくても。土方さんが俺への愛情ゆえにさみしいさみしいと言っていることはわかりますけどね」
「んなこたぁ誰も言ってねぇだろうがっ」
「寂しいでしょう??」
「寂しくねぇよっ」
二人の遣り取りを聞きながら、総司は顔だけで微笑していた。
心の中は戸惑いと、不安と…。よくわからない。
「一応幕臣の子ですからね。それに道場のこともありますし…。そう言えば試衛館はどうするんです?」
「そういやぁ、聞いてねぇな…。」
土方が黙り込んだ隙に、伊庭が総司を見て
「で、沖田さんも俺と一緒に残りませんか?」
と、尋ねた。
「え?」
伊庭の突然の誘いに、総司は戸惑った。だが、それ以上に慌てたのは土方だ。
「お前、何言って…」
「そんなに焦らなくても、取って食ったりしませんて。浪士組に参加されないのなら、一緒に道場で師範代として門弟達に剣を教えてやって欲しいんです。」
伊庭が提案したのは、全く浪士組と関係のないものだった。
そしてまた、それは近藤や土方らと全く別の道に行くものでもあった。伊庭は続ける。
「沖田さんは元々武士の身分でしょう。そのうち講武所に推挙されることもあるかもしれません。敢えて浪士組で一旗揚げる必要はないんじゃないですか?」
彼の言うことは、総司には反論できないほど尤もなこと。
元々武士の身分である総司が、保証もない浪士組に参加し、その身分を確立する必要はない。
「でも…」
「お前の言うことは一理あるな」
総司が言いかけたのを遮るように、土方が口を開いた。冗談めいた口調ではなく、真摯に。
「歳三さ…」
「こう見えても一応はお前も武士だからな、敢えて危険なとこに入る必要はねぇよ。
この際だから天然理心流も継がせてもらう手もある。お前の進むべき道は、いくらでもある」
突き放した言い方ではない。優しく、兄のように見守る土方の言い分だ。
「けど…」
その後の言葉を紡ぐことはできなかった。
自分がどうしたいのか、自分で何ができるのか。
わからない。


冬の昼間は短くて、闇が試衛館を覆う。
総司は仄かな蝋燭の明かりだけを頼りに、自らの行李を取り出した。そこにしまわれているのは、長曽根虎徹。何年か前に藤堂と共に近藤の四代目襲名の祝いとして買ったものだ。
結局四代目襲名は斉藤の介入で等閑になってしまった。この長曽根虎徹も何年も眠っている。
天然理心流を継ぐのも、伊庭の元で師範代として務めるのも、ちがう。総司の求めているものではない。
一緒に、浪士組に参加したい。何故か。理由がないと、共に行けないのだろうか。
お前に進む道は、いくらでもある。土方の言葉が、脳裏を過ぎった。


総司は夜道を走っていた。手には何も持っていない。提灯も、草履さえも履いていない。前を照らすのは、月の光だけ。そして足に伝わる冬の雑草の感触だけ。

「沖田さん?!」
門弟からの突然の訪問者の知らせに、伊庭は驚いて寝間のまま玄関に飛び出した。
何事か、と総司を見るなり慌てて、全身を見渡す。裸足で、雑草から出来た擦り傷、切り傷。雪に触れている足は真っ赤に染まっている。
「その格好って…」
「…伊庭さん…っ」
息を切らしていた総司が、言葉を発した。
「…確かに、私の目の前には何本もの道があって…どれを選ぼうとも…誰にも文句を言われることはなくて…っ伊庭さんの、言うように…、わざわざ浪士組に参加する必要はないのかもしれない。だけど…でも、」
息を整えながら、総司は続けた。
「例えどの道の結果が同じであろうとも、例えどんな過酷な道であろうとも…私は、歳三さん…と、一緒に、生きます。上手く…説明できないけど、きっと、それが、一番…後悔、しないと思いますから」
総司は満面の笑みを浮かべた。
答えはもう、すでに出ている。迷うことはない。

あの人は、星になるといったのだ。だったらその傍で、小さく輝く星になろう。
そしてあの人の星が目立つように、その後ろで光を放とう。

「…わかってましたよ」
総司の困惑した顔に伊庭は苦笑した。
「俺の所にくるなんて、これぽっちも思ってませんって。普段のあなた達見てたらわかりますよ。俺には入っていけない絆がある。それに立ち入っちゃ、罰が当たりそうなほど、ね」
「伊庭さん…」
「貴方は、貴方らしく生きるべきです。そして、その貴方らしく生きることが、土方さんの傍で生きることなら、そうするべきです。」
伊庭は微笑して、苦笑いした。
「なーんて。らしくないこといっちゃいました。土方さんには言わないでくださいよ?」
「…はい」
足は雪で濡れていて、痛いのか冷たいのか分からない。だが、どこかが温かかった。



36
文久二年、年の暮れ。
今年の年越しも雪と共に、という試衛館だが寒さも吹き飛ばす程、試衛館は熱く、盛り上がっていた。浪士組の参加が内定した。正式な発表は年を越してからとなる。


 近藤と土方は連れ立って町の刀屋に顔を出していた。
「うーん、良い刀は無いか、歳」
苦悩の表情を浮かべた近藤が、隣にいる土方に話しかけた。
「気が早ぇんじゃねぇか?参加が内定したとはいえまだ支度金は貰ってねぇんだ」
かれこれ刀屋に二刻以上はいる。土方もうんざりしていた。今日は近藤の頼みで、浪士組参加に向けて新刀を買いにきていた。
「歳、なんかおすすめの刀は…」
「さっきからいってるじゃねぇか。俺の好みは和泉守兼定、長刀で俺が持ちてぇくれぇだ。それから、虎徹、あと堀川国広ってとこだ」
「名刀ばっかりじゃねぇか…」
近藤は大きくため息を付く。
和泉守兼定は室町時代の刀工で、濃州関の兼定が最も有名だが現在は会津お抱え刀工が継いでいる。堀川国広は虎徹と並ぶ名刀で、兼定以上の存在である。
もちろん、土方は総司が虎徹を持っていることを知っている。それ故、敢えて名刀ばかり言い、近藤に刀を買わせまいとしているのだ。
近藤も近藤で気が早い。将軍様のお伴をするならこんな安物じゃいかん、と急に刀を買う気になったのだ。これは早く総司に知らせて、渡すように言ってやらないとな…と土方が思っていると。
「これにしよう」
その隣で近藤の甲高い声が聞こえた。
「なにぃ!?」
近藤が手に取り、きらきらと目を輝かせる。
「加賀清光。乞食刀工として有名だが…この切れの良さそうな雰囲気が良いじゃないか。」
「確かに、切れ味は保証されてるみてぇだが…」
刀の切れ味は大体罪人の死体を使って試される。この加賀清光は「二つ胴」つまり、二人分の胴を、一度に斬って見せた、という銘が入っている。虎徹に比べるとやや劣るが、値段も安価で近藤が手に入れやすかったのだろう。
あっという間に購入すると、嬉々として試衛館に戻った。


「総司っそーじっ!!」
慌ただしく、土方が庭先の掃除をしているはずの総司を見つけ出した。丁度雪だるまを作っていた総司は、土方の顔を見るなり
「あーっ、やっぱりそっくりだなぁ。上出来上出来」
と、満足そうに笑ったその先には、眉間にシワを寄せた土方らしき雪だるま。
「んなことしてる場合じゃねぇ。虎徹、虎徹どうした!?」
「わっ、静かにしてくださいよー。みんなには内緒なんですから」
総司の静止にもかかわらず土方は続ける。
「かっちゃん、加賀清光を買ってきた」
「えぇ?」
「渡すなら今の内にしておけ。な?」
と、総司の背中を押す。
「でも…近藤先生がそちらで良いというなら、無理矢理には…」
「馬鹿野郎。加賀清光の切れ味と、虎徹を比べたら二倍にも、三倍にもなる。俺がお前のためにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」
「は、はぁ…?」
土方に背中を押され、総司は行李に手をかけた。


「実はかっちゃん、この総司から重大な貢ぎ物がある」
「べっ、別に貢ぎものじゃぁ……!」
「おいおい、歳。かっちゃんと呼ぶなかっちゃんと。」
二人が一斉に愚痴を土方に呟くが、構う土方ではない。総司の背中を押す。
「…実は、四代目襲名披露の際に、渡そうと思っていたんですけど」
照れくさそうに、総司が近藤に差し出した。
「なんだ、これは…」
刀の袋を手際よく抜き去り、近藤はその姿を露わにした。
「…これは…!!」
その、反りの浅さ。極めて実践向きの剣。銘を見なくても、その刀の名はわかった。
「虎徹……!総司、なぜ、お前が…!」
「近藤先生にのお祝いにと思ったんですが、渡しそびれてしまって…」
すみません、と謝る総司に、近藤は微笑んだ。刀身を眺め、しばらく茫然として虎徹を鑑賞したのち、近藤はそれを仕舞った。
「ありがとう。お前の気遣いはありがたい。だが、総司。これはお前が持て」
「え?」
「かっちゃん?!」
二人は驚きの声を上げた。だが近藤は微笑したまま「受け取るわけにはいかない」と繰り返す。
「どうしてですか?!」
総司が返された刀を、もう一度近藤に手渡す。受け取らない。
「それはお前が自分の金で買った刀だ」
「でも、」
「それに、総司。お前には道場に残って貰うかも知れない」
「…え?」
総司の押しつけていた刀の力が抜けた。頭が真っ白になる。
「浪士組は順調にいけば半年もあれば終わる。その間、お前には道場を守っていて欲しい。大先生ももうお歳だ」
「かっちゃ…」
近藤の決心は固いようで、土方の言葉を遮るように続ける。
「だから、お前が持てばいい。半年だ、加賀清光で十分だ。仕事が終わった後に、また買えばいい」
その言葉に悪意は全くない。
ただ、総司のことを考えてくれているのはわかる。二人は、総司に触れさせないようにしている。恐怖も、暗澹も、不安も、苦悩も。
だが二人が思うほど、総司は子供ではなかった。まっすぐな眼差しで、近藤、継いで土方を見つめはっきりと答えた。
「…せっかくですけど、近藤先生…そして歳三さん。私は浪士組に参加します」
「総司!」
近藤が聞き分けのない子供をしかりつけるように檄を飛ばしたが、総司は怯まなかった。
「私が剣を学んだのは、道場で一番になるため、道場を守るためではありません。私は幼少の頃…この試衛館に来てからずっと、決めていました。何があろうとも、近藤先生、歳三さんについていくと。」
「…それは俺たちに依存するということじゃないのか」
厳しい物言いで土方は言い放つ。だが、総司の意志は固かった。
「…今までの私だったら、そうだったかもしれません。私の進むべき道を照らすのは、いつも近藤先生や歳三さんで…。伊庭さんにも咎められました。そして気が付いたんです。私は、二人について行けば良いと思ってました。だけど、今は違います。」
 摯な眼差しは、二人をしっかりと捉えていた。
「隣でも、後ろでも良いから、私は一緒に行きたいんです。目的はわからないけれど、生きる道を選ぶのなら、例え修羅の道でもついて行きます。依存ではありません、私の意志が、そうあることを願っているんです」
「…わかった」
 方が小さく頷いた。その姿に総司はほっとしたのだが
「う…っ」
 藤をみて仰天した。
「こ、近藤先生……!?」
 藤がその無骨な顔の、優しげな瞳から大きな涙をこぼしていたのだ。
「おいおい、かっちゃん」
 方が苦笑しながら、てぬぐいを差し出した。近藤は照れながら、渡されたてぬぐいで涙を拭った。総司は近藤の号泣する姿など、初めて見たので言葉を発することさえできなかった。
「…総司、お前の気持ちは、よく、良くわかった!」
「じゃあ、この虎徹をもらって頂けますか?」
「ああ、ああ、もちろんだ! そして、この加賀清光は」
 総司の手渡した虎徹を受け取り、代わりに総司に近藤は側に置いてあった加賀清光を差し出した。
「…お前にやろう。血の盟約、とまではいかないから刀の盟約だ。後悔しても遅いからな、もう、お前を懐刀として連れて行くことを決めた」
「近藤先生っ」
 総司は瞼が熱くなるのを感じた。
 近藤が差し出した加賀清光。何よりも、輝く宝石のように見えた。

「お前も少しは大人になったんだな」
縁側で二人はつねの土産だという、あん餅を頬張っていた。
「歳三さんが褒めてくださるなんて、珍しい」
総司は苦笑しながら餅にかぶりついた。なかなか一口で収まりきらない大きさである。
「…刀の盟約か、俺とお前の間には何の盟約もねぇな」
ふと、独り言のように呟いた土方が、急に総司の手から餅を取り上げた。
「あっ」
取られた、と思い拗ねた総司だが、すぐに土方の食べかけの餅が手渡された。
「近藤さんと刀の盟約を結んだのなら、俺とは餅の盟約だ。心して食え」
「もう…強引なんだからなぁ」
餅は、総司の持っていた餅の半分くらいの大きさで、総司は口を尖らせたのだが。



37
年が明けて文久三年(1863)、正月。
例年の正月の忙しさに加え、浪士組への参加の準備と慌ただしい試衛館だったがここまでまた、思いも寄らないことが起こる。
総司二十一歳、土方二十八歳、近藤二十九歳の時のことである。

「…はぁ?」
土方が眉を傾げ、あきれ果てた声を出した。試衛館から離れた町の、茶屋でのことである。
「どういうことなんですか?」
続いて話の筋が理解できていない総司がもう一度尋ねた。答えにくいのか、口ごもる近藤に変わって、簡潔に説明したのは土方だ。
「今更になって、奥方とつねさんが浪士組参加を反対したんだよ」
「え?どうして」
「近藤さんも子供が生まれたばっかりで、道場主に外に出られては置いて行かれたこっちはどうなる…ってことだろ」
「へぇ…」
家庭を持たない土方や総司にとってはたいした問題ではないように思うが二世代の世代主である、近藤にとって頭を悩ませるものである。浪士組参加に関しては養父である、周斎の許可はとっている。周斎の妻ふでも、近藤の妻つねも何も言わないままだったのでてっきり了承してくれているのかと近藤は思っていたのだが、そうではなかったのだ。
大変ですね、と総司は近藤に傲って貰った汁粉を口に入れた。
「で、どうするつもりなんだ」
きびきびと近藤に尋ねるのはもちろん土方である。何故か興味津々な様子は、女がらみだからだろうか。
「どうと言われても」
「まさか、参加を取り消すとかいうんじゃねぇだろうな?」
「それはないな」
「じゃあ答えはでてるじゃねぇか」
「…うぅむ」
近藤は煮え切らない返事をし、腕を込んだ。眉間にはしわが寄っている。
「…それにしても、跡取りが出ていくってのを気に病むふでさんの言い分は分かるが、今頃になってつねさんまで、文句をいうとはな。つねさんは武家の出だろう。本来なら喜ぶべきことじゃねぇか」
土方は顎に手を置き、神妙な面持ちで考え込んだ。つねは今まで近藤に刃向かったことなど無かった。元からおとなしい性格をしていて、あまり思ったことを口に出したりしない。さすが武家の娘、とよく言われたものだった。
「このところ塞ぎ込んでしまって…なぁ」
「ったく、自分の女房だろうが。自分で解決しやがれ」
「いや、女のことは歳に聞いた方がいいと思ってだな」
「女のことには詳しいが、人の女房には手ぇ出さねぇ主義なんだよ」
「…」
数年前に、人の女房と出来て奉公先を追い出されたのはどこのどいつだか。
総司が丁度汁粉を完食し、箸を置いた。さて、何の話だったか。


「まず、話をするべきなんじゃねぇの?」
茶屋からの帰り、土方は近藤にそう提案した。だが、近藤の顔は渋く
「いやぁ…なんて言えばいいか」
「ったく、中途半端だな。仕方ねぇ、総司!」
「は、はい?」
二人の後を歩いていた総司は、突然名前を呼ばれ驚いた。…というのも話を聞いても訳が分からないので、よそ見をしていたのだ。
「大好きな若先生のためだ、お前がそれとなく、聞いてみろよ」
「えぇ?」
「いや、だが歳…」
「俺が聞いても堅くなっちまうし、かっちゃんは聞けねぇんだろ。こいつは人懐っこいから聞き出せるさ」
「えぇぇっ」
ある意味責任転嫁にも思える土方の言葉に、総司は順うしかなかった。「大好きな若先生」と、言われてしまっては何も口答えは出来ない。


試衛館は冬の寒さに見舞われていた。
外では氷が張り、水も冷たいなか、つねは夕食の支度に忙しそうにしていた。「手伝いますよ」と総司はごく自然と、つねに話しかけた。つねはびっくりした顔をしたが、すぐ嬉しそうに「ありがとうございます」と笑った。
つねは小柄で、総司の姉とは全く違うタイプの女性だった。総司の姉はどちらかと言えば、勝ち気で鋭く綺麗な女性だったがつねは辺りを温かくするように、可愛い女性だった。気も効くのでふでにも気に入られている。
「あの…つねさん」
みそ汁を掻き回す総司が、隣で漬け物を切るつねに話しかけた。つねは切りながら「はい?」と返事をした。
「その…近藤先生の浪士組参加…反対、されてるんですか」
「…」
つねは無言で漬け物を切る。
総司も何だか心苦しかったが、何を言って良いのか分からず、そのまま無言に徹した。そうしていると、つねは漬け物を切り終わり皿に並べた。
「勇様はどちらにおられるでしょうか」
「えっ?と…書斎で歳三さんと一緒じゃないかと…」
思うんですけど、と言う前につねは前掛けを脱ぎ、そのまま台所を出て行った。

つねはまっすぐ書斎に向かった。総司も後を追うが何か行けないことを言ってしまったのだろうか
つねの様子がおかしい。
いつもなら「失礼します」など一声かけて書斎にはいるのだが今日は障子をスパンッと開け、そのまま入っていった。
「つね?」
つねを見上げた近藤と土方は、言葉に詰まった。
総司がつねの顔をチラリと見ると、その顔は眉が吊り上がり、まるで鬼のように怒っている。
こんな表情を見たのは初めてだった。
「勇様、本日限りで里に帰らせて頂きます」
「つね!?」
そのある意味定番の言葉に近藤、土方以上に焦ったのは総司の方だった。
「そ、そんな…!つねさん、何か私…」
つねが豹変したのは、総司の言葉を聞いてからである。だが、そんな慌てた総司を無視し、つねは続けた。
「わたくしは、近藤家に嫁入りしたのではありませぬ。『近藤勇』という御方の妻になるために、ここにきたのです。ですが、総司さんの力を借りてわたくしのご機嫌を取ろうとするなどわたくしの夫である『近藤勇』がすることではありません。」
きっぱりと告げたその言葉には強さがあった。つねはまっすぐ近藤の瞳を見ていた。まるで射抜くように。
「よって、わたくしの夫『近藤勇』がここにいないのであれば、ここにいる意味はありませぬ。実家に帰らせて頂きます」
 射抜かれた近藤は素直に言葉を飲み込んだ。
「…わかった」
「いや、つねさん、これは俺が言いだしたことで…」
土方が庇おうとしたのだが、近藤は首を振った。
「…つね、総司や歳を責めないでくれ。すべては俺の気の弱さからだ」
「かっちゃん」
「近藤先生…」
近藤は微笑し、目の前に座るつねに小さく頭を下げた。
「悪かった」
「勇様…」
つねも一歩引き、「取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」と言う。総司は自分の姉と、何故かつねを重ね合わせてしまった。雰囲気は違うが、武家の誇りや格式、品というのは姉とよく似ている。懐かしいな、と思ってしまうほどだった。

「聞かせてくれ。何故お前は浪士組参加を反対するんだ」
「…たまが、不憫でなりません」
「たま…?」
たまは昨年生まれたばかりの、赤子である。
「京は今、大変治安の悪い場所と聞いております。言葉にするのは恐ろしいですが、勇様はお命をなくされるかもしれません。そうなのだとしたら…。親の顔も分からないままのたまが不憫で、可哀相で…」
顔は優しい母のそのものだった。
「やっと言葉を覚え、これからという時に…。父親のいない子は不憫でなりません」
「つね…」
優しい母としての言葉に、近藤はもちろん、土方も総司も感動しないではいられなかった。武家の妻よりも、何よりも、母という存在が一番強いのかも知れない。
「…ですが、そのことで貴方をお引き留めするつもりはありません。たまも、きっとそれを望んではいません。わたくしが立派に育て上げて見せます」
「…すまない、つね。きっとお前にはこれからも苦労をかけるだろう…」
近藤はつねの手を握った。
「…きっとあっちで手柄を上げてくる。そしてたまが誇らしく思う父になって帰ってくる」
「はい…っ」
つねは、急に糸が切れたようにボロボロと泣き始めた。
母の顔が、女の顔に戻っていた。


「家庭ってのは疲れるもんだな」
肩が凝った、と土方は呟いた。あの後、土方は「気をきかせろ」と、総司の首根っこを引っ張って部屋から退出した。
「でも、土方さんは家庭が欲しいから、あっちこっちの女の人に手を出しているんじゃないんですか?」
「んなわけねぇだろ」
土方は呆れたように言った。総司には意味が分からない。
「…まぁ、お子様はまだ知らなくていいんだよ」
「あー!またそうやって人を貶す!!」


つねの必死の説得で、ふでも浪士組参加を了承した。やっと本決まりになったように感じた。



 38
文久三年一月末。一通りの挨拶回りを終えた試衛館達の元に、新たなトラブルメーカーが訪れる。

「お願いです、助けてくださいよ」
いつにない甘い声を出しながら、土方に縋る男が一人。伊庭八郎。心形刀流宗家の嫡男で、試衛館の準食客。その家柄には似つかわない明るい性格で、試衛館食客にも好かれる存在であった。
「何だよ、てめぇの家のことは、てめぇで始末しろよ」
伊庭を突き放しながら土方は言うが
「腐れ縁も縁のうち。助けてくださいってば」
そんなことで引き下がる伊庭ではない。騒がしくなった二人をみて、日本外史を読んでいた総司が振り返った。
「どうしたんですか」
「あ、そだ!沖田さんをお借りしても良いですか?」
何がなにやら分からないまま、話は進みつつあるらしい。伊庭が総司の腕を力強く引っ張った。総司は焦って
「ど、どうしたんですかっ」
と尋ねた。伊庭は腕を引っ張っていた手の力を緩めると、落ち着きを取り戻したように座った。
「実は…」
「こいつに見合い話が来たんだと」
伊庭が総司の質問に答える前に、土方が答えてしまった。伊庭は拗ねたように口を尖らせる。
「見合い?」
「こいつももう良い年頃だしな。家柄も良いから女が寄ってくるんだろ」
「もう、素直に頭も切れて、顔も良いって言ってくれればいいのに」
「よく言うぜ」
土方が苦笑し、総司もつられて笑った。そんな台詞はきっと彼にしかいえない。彼はいずれ後世にも伝わる、美男である。土方のように、役者のような派手な美しさではないが、伊庭は凛とした強さを秘めた美しさを持っている。
二人は全く種類の違う美男だと、総司は認識していた。
それはさておき。
「女なんて傍に置いておけないですよ。身を固める気もないですしね。そこで、口が巧みな土方さんにお願いしてその女を口説いてもらって、土方さんになびいた所で俺の方を諦めて貰おうと思ったんです」
「俺は浪士組に参加すんだよっ!余計なことさせるな!」
土方が呆れたように吐き捨てた。浪士組参加まで後数日となっていた。
「そういうことでしたら、私の方がお役に立てませんよ。」
「まぁ…それもそうなんですけどね」
あっさり認めてしまう辺り、総司の色恋については理解しているらしい。
伊庭は拗ねた口元から、やがていじけた風になっていった。
「相手の家柄もいいし、美人だし、断りようが無いんですよ」
「女遊びは止めて、一人に落ち着けってことじゃねえか」
「…土方さんに言われたくないんですけど」
伊庭が睨むと、土方は目を逸らして鼻歌を歌う。似たもの同士とはこのような二人を言うのだろう。総司は苦笑した。
「娶りゃあいいじゃねぇか。武士の家柄の女なら浮気の一つや二つ、受け入れる器量があるんじゃねぇか?」
「冗談言わないでくださいよ。武士の家柄であるからこそ、浮気が許されないんじゃないですか」
伊庭は大きなため息を付く。
「さては、お前懇意の女でもいるんじゃねぇのか?」
土方の鋭い言いぐさに、伊庭は少しだけ反応した。鈍い総司さえも「そうなんですか?」と尋ねる。
「もう、からかわれると思って言わなかったのに。その通りですよ。小稲という遊女ですよ」
少し投げやりな言いぐさになったのは、きっと照れているからであろう。伊庭は聞き出した二人から目を逸らす。
「ほぉ、お前が選んだ女なら美人だろうよ」
「そうなんですか?」
「こいつ、美人にしか相手にしないからな」
「ちょっと、妙なこと沖田さんに教えないでくださいよ」
明らかにからかうように土方は総司に教える。
「小稲は確かに美人ですけど、器量も大きくて活きの良い江戸っ子なんですから」
「へぇ…」
やっぱり美人なのか。総司は心で呟いた。


数日が経った。
土方は伊庭の頼みを聞き入れて、伊庭の見合い相手だという女に会いに行くことになった。
伊庭と、土方。そして総司と三人だ。冬の寒さと、強引な伊庭の頼みに土方は不機嫌そうに歩く。
「ったく。これっきりだからな」
「はいはい、感謝してますって。どうせ京に行っちゃうんでしょう?最後の俺の頼みくらい、聞いてくださいよ」
伊庭は少し寂しげに言う。
伊庭は浪士組に参加しなかった。そもそも伊庭は幕臣だし、心形刀流の次代宗主である。短期間とはいえ、道場を離れる訳にもいかなかったし、伊庭は浪士組参加を希望しなかった。
「伊庭さんは、どうして浪士組に参加しないんですか?」
「そりゃぁ、道場や講武所のこともありますし。それに今回の浪士組、なんか胡散臭く感じるんですよね」
「え?」
「浪士組を提案した清河という男なんですが、根っからの尊皇思想の持ち主だと聞いています。そんな清河が幕府のために浪士組を結成させるなんて…。ちょっと不自然ですからね」
「はぁ…」
伊庭が言うことを、朧気に理解しながら総司は頷いた。まもなく、待ち合わせの茶屋に到着する。


女は既に茶屋で彼らを待っていた。
武士の生まれであるその女は、年老いた世話婆を隣に置き、凛とした眼差しで彼らを迎えた。武家の女だな、と土方は直感した。
「お待たせしました」
土方が小さく頭を下げた。伊庭と総司は外で待っている。
「八郎様は、わたくしとの縁談を破談になさるおつもりでしょう」
「え?」
女はいきなりそう切り出すと、微笑んだ。
「どこそこの女と良い関係をお持ちなのも、噂で聞きました。ですが、わたくしはこの縁談を破談にするわけにはまいりません」
女の意志は強かった。
伊庭の計画によって土方がこの女を口説き落とすことはまず無理だろう。
「わたくしはどんな女がいようと、一向に構いませぬ。…八郎様に、そうお伝えください。」
「だが…」
土方が言いかけた所で、「お待ちください」と、伊庭の声がした。
「伊庭?」
店の外に隠れていたはずの伊庭が、土方の後ろで厳しい顔をしている。総司も一緒だった。
「八郎様」
「俺には、本気で惚れた女がいます。貴方と縁談が成立した所で、その女を諦める訳じゃない」
女は少しだけ、その強い眼差しを弱めた。
「貴方に夜遅く帰ってくる俺を、出迎える強さがありますか?」
「!」
土方と総司は息を飲んだ。
「どんな女を抱いた後であろうとも、抱かれる強さがありますか?」
きっと武家の女には無いものだろう。遊女ならとにかく、武家の女にとってこの上ない恥辱だ。
「それは」
「それがないのなら、俺の妻になんてなれません。この縁談はお断りいたします」
女は強い眼差しなど、どこかに行ってしまったかのようにほろほろと泣き始めた。
隣にいた世話婆に泣きつく。その様は子供のように見えた。


「ちょっと、酷いんじゃねぇのか」
土方はその帰り道、伊庭に尋ねた。
門下生などには厳しい口調を向ける伊庭だが、女にそのような口を聞くのは初めてだった。
「…武家の女なら、あんなくらいで泣きませんよ」
総司はミツを思い出した。
確かに、泣き顔なんて両親が死んだとき以来見ていない気がする。
「第一、大抵あんな女って言うのは家柄だけを見て縁談を申し込むものです」
「お前な、結局お前が解決するんなら俺たちは来た意味がねぇじゃねぇか」
浪士組の準備で忙しいのに、と土方はぼやいた。
「ちょっとね、最後に良い思い出、作ろうと思ったんですよ。」
「あ?何だって?」
「何でもないですよ」
伊庭は笑顔でごまかした。
「じゃぁ早く帰りましょうか!忙しいんでしょ、準備で」
「お前が連れ出しておきながら、言うんじゃねぇ」
夕陽が赤かった。



39
文久三年、二月。
総司は疲労しきった両腕を天井へ振り上げ、大きく深呼吸した。長年住み続けた部屋も大分すっきりしたようだ。 もともと綺麗好きな総司の部屋は片付けるのも早く終わった。行李に荷物をまとめ、部屋には何もない。
食客たちもそれぞれ片付けに翻弄しているが、どうやら原田辺りが黄表紙を漁って準備が遅れているようだ。 永倉の説教が聞こえた。
明日、浪士組として江戸を立つ。その決断は大いに喜ばしいことではあったが、こうして綺麗に片付いた部屋を見渡すと寂しくもある。生まれた日野よりも近しい存在である試衛館。期間限定とはいえ離れてしまうのは、少し勇気がいる。しかし、まったく後悔はない。明日からの日々は不安ではあるが楽しみのほうが大きい。

「あ、そうだ…」
総司は思い立って、机の上に無造作に置いていた手紙を手に取った。
行李の奥に入れてあった手紙。幼い頃、姉のミツから送られたものだ。
幼い弟を試衛館に預け、口減らしのようなことにしてしまった総司に、ミツはいつも罪悪感と不安に苛まれていたようだ。総司にはあまり記憶にない手紙が何通も束にしてあった。内容はどれもあまり変わらない。
元気にしていますか、とか。ちゃんと食べていますか、とか。そして最後にはいつも、ふでの言うことを聞くようにと。
やむない事情で手放してしまった家族が、よほど心配だったのだろう。十日もあけず手紙が来ていた。一枚一枚読みながら、総司はそういえば、と思う。一度も返事を書いたことがなかった。文字が書くことができないわけではなかった。ミツには鬼のように怒られながらも教えられ、一通りは書くことができたはずだ。それなのに書かなかったのは、単に総司がめんどくさかっただけだろう。
「あの頃は稽古が楽しかったからなぁ…」
若先生と慕った近藤が、幼い自分のために稽古をつけてくれるのが嬉しくて、総司は暇さえあれば竹刀を振っていた。それがふでに怒られることもあったが、それでも楽しかった。
「姉さんには心配かけたのかなぁ」
幼い頃の自分に苦笑する。総司は傍らにおいてある筆と紙を手に取った。


「拝啓…いや、前略?なんか他人行儀だなあ…」
筆を手に取ったものの、総司は首をかしげた。
筆不精な総司はあまり手紙を書かない。無理矢理土方に押し付けられて年賀状を書く手伝いするくらいで、もしかしたら手紙を書くことは初めてかもしれない。
「うーん…」
いざ、手紙を書こうと思えば少し照れくさい。手紙は初めてだが、上洛の報告をするためこの間顔を合わせている。 ミツはやや心配そうな顔で見送ってくれた。だが甥っ子姪っ子たちは元気に手を振ったので、総司も安心して別れを告げたのだ。
「……あれ?」
総司が頭を悩ませていると、庭で懐かしい音色がした。

総司は筆を置いて、庭先に出た。空は既に茜色に染まり、冬の木枯らしが肌寒かった。庭も春が来るまで眠っているようすで、少しもの寂しい。
その庭に立ち尽くした背中は、見慣れたそれだった。
「懐かしいですね」
「…総司か」
土方が振り向いた。その手には横笛が握られていた。
「行李の整理してたら出てきた。きっと無くしたと思っていた」
「へぇ…」
懐かしそうに微笑む土方を見て、総司も思わず微笑んだ。慈しむように笛を見ていた。
「さっき吹いていた曲、何ですか?」
「なんでもねぇよ」
「昔も同じ曲を吹いてましたよ。ずっと気になっていたんです、なんていう曲なんですか?」
縁側に腰掛けて総司がなおも詰め寄った。土方は逡巡したあと眉間にしわを寄せて
「…だから、別になんの曲でもねぇよ。俺がガキのときにつくった曲だからな」
「え?そうなんですか」
土方が怒ったような、でも照れくさい顔をして、だから答えたくなかったのか、と総司は納得した。土方が先ほど吹いていた曲は総司に聞き覚えがあった。こそこそと吹いていたようだが、いつも同じ曲だった。句作のこともあり指摘したことはなかったのだが、記憶の片隅で眠っていたようだ。
「その笛、土方さんのものなんですか」
「いや。兄貴のもんだ。ガキのとき遊びに行っては教えてもらってた。俺が十くらいになったときにもらったもんだよ」
「へぇ…」
土方が少し優しい顔をした。
「兄貴のほうがもっと上手いな。目が見えないくせに手先は器用なんだ」
土方は一番上の兄、為二郎にはよく懐いていたようだ。為二郎は目が不自由だが、博学で温和な人柄だ。おとなしそうな顔をしているがやんちゃな土方をよく可愛がってくれていたらしい。土方よりも二三歳も年上だ。
「…いいなぁー…お兄さんって」


「そうか?俺は綺麗な姉さんのほうがよかったよ」
土方が微笑んだ。
「のぶさんがいるじゃないですか」
「あれは姉貴というよりも母親っぽいから違うんだよ」
総司は苦笑した。
土方には4人の姉がいたが、四女ののぶ以外は既に他界している。母もすぐに亡くなったので、のぶに育てられたようなものだ。
「お前はいいじゃねぇかよ。綺麗な姉さんが二人もいて」
「まあ、きん姉さんは私が幼いうちに嫁ぎましたから、あまり記憶にはないんですけど…。兄弟ですから綺麗だとかそんなことは思いませんよ」
「まあそうだろうな」
土方が総司の隣に腰掛けた。
「でも、ここに来てから兄さんみたいなひとはいっぱいできましたけどね。個性豊かですけど」
「ま、確かに」
二人で顔を見合わせて、笑った。
そして二人とも何となく感じていた。この場所から離れる寂しさを。この縁側から眺める綺麗な星空がしばらく見られないのだと。
「…覚えてますか、この間の話」
「ん?」
「俺が死んだら星になるんだーっ!ていうあれですよ」
総司がわざと大げさに言ってみると案の定、土方が嫌な顔をした。
「蒸し返すなよ」
「あ、別にからかってるわけじゃないのに。いいなあって思ったんです。いつまでも、この空を照らす光」
総司は空を見上げた。
満月に近い月。暗闇の中で輝き続ける光たち。それは時折、太陽よりも眩しく儚い。
「そんなことを思いました。さっき、土方さんの笛の音を聞いて。ね、もう一度吹いてくださいよ」
「……いやだな。吹いている顔を見られるのが好きじゃない」
「目をつぶってますから、ね、ね?」
総司は両手を前で合わせた。拝むようにすると土方が小さくため息をついて立ち上がる。
「一曲だけだぞ。目ぇ閉じろ」
「はい」
総司は約束どおり目を閉じた。

キラキラした曲だと思った。明るい旋律に、力強い音色。時折優しい風が吹くかのように、どこか暖かい。
目を閉じて思い出すのは、この場所で過ごした日々だ。貧しいと思ったときもあったけれど、哀しくはなかった。笑いが絶えることのない、かけがえの無い場所。帰ってくるなら、ここがいい。
夢をかなえて、誇らしげにこの場所にいられたらどんなに素敵なことだろう。

やがて演奏が終わり、消えるように笛の音がなくなっていった。
「…総司」
「あ、終わりました?」
「もう少し目ぇ閉じてろ」
「え?」
土方の言葉に総司は素直に従った。何か悪戯でもされるのだろうか、とドキマギしながら待機していると何か柔らかいものが口に触れた。
それはたった一瞬で消えた。
「…土方さん?」
総司はゆっくり目を開けた。だが半開きになっていた口に突っ込まれたのは
「んぅっ!」
「饅頭だ。食え」
それは口に入りきらないほどの大きな饅頭だった。思わず息が詰まる。
「もー!くれるなら素直にくださいよー」
不満たらたらで総司は土方を見上げる。土方は悪戯が成功したような子供の顔をして総司を見ていた。さっきの感触は饅頭だったのだろうか?
そんな疑問が総司の脳裏によぎったのだが、頬張った餅からあふれた餡子に気を取られ、一瞬にして忘れた。
「…お前って、目ぇつぶったらますます姉さんに似てるな」
「そーふぇすか?」

手紙は書きかけのまま、書き手を失って机の上に置かれていた。手紙はいつかで良い。またこの地に戻り、誇らしげに笑おう。
それだけで姉さんはわかってくれるはずだから。



40
文久三年、二月八日。
「小雨ですよー」
「縁起悪ぃなぁ」
肩に雨粒が一つ、二つ落ちた。浪士組は中山道を行く。


これより数刻前の試衛館。準備を終えた、試衛館メンバーが最後の別れを告げる。
「それでは、行って参ります」
旅姿の近藤が小さく頭を下げた。近藤の子、たまを抱えたつねが「お気を付けて」と微笑む。
「留守を、頼む。それからたまも」
「はい」
夫婦とは、かけがえのないものだ。以前近藤が言っていた言葉が、頭を過ぎる。
「夫婦って、いいものですね」
「欲しいってか?」
「まさか」
総司は土方と顔を見合わせて笑った。

浪士組はひとまず、伝通院に集まった。
「ちょっと減ってますね」
総司は辺りを見渡しながら呟いた。出発の一ヶ月前ほどに一度参加希望の浪士たちが集まったのだがとても神社の境内には入りきれないほど、大勢だった。
だが、今日は少なくはないが、境内に入れるほどに減っていた。
「隊別に並ぶらしいぜ」
長身の原田が言った。
「俺と歳、総司、山南君、永倉君 原田君 藤堂君は同じ隊。源さんは三番隊の中でも違う隊だ」
近藤があらかじめ貰っていた紙を見ながら言った。
「何で源さんだけ違う隊なんでしょう?」
総司のそんな疑問よりも試衛館食客にとって重要なのはそっちではなく。
「近藤さんが平隊士ってのはどういうこと何だっ」
「そうですよ、道場を上げて参加の近藤先生が…!」
近藤が平隊士として浪士組に登録されている、ということらしい。怒り心頭の様子の総司以外の試衛館食客達。
「小頭を担当しても良い所じゃねぇかよ」
「上の人に言って何かお役目を…」
口々に言う食客達を宥めるかのように近藤は微笑したまま
「一介の田舎道場の道場主じゃぁ、こんな幕府お抱えの浪士組の小頭なんかには、なれないよ。みんなの気持ちはありがたいが、俺は結構安心しているところだ」
「近藤さん…」
本当は悔しくない訳がなかろう。
名の知れぬ浪士が自分の上に立ち、ただ身分のみで下だと見なされる。人一番慕われる彼は、望まれて武士になってもおかしくないはずだ。

「…いいさ。いずれ望まれて上に立つ」
土方は微笑し、試衛館食客に目配せした。
「…そうですね」
皆、目を合わせて微笑した。

三番隊の旗の下にそろった浪士たちは幸いまだ人数は少なく、比較的に前の方に並ぶことが出来た。
「…試衛館、近藤先生ですか」
ふと、近藤は声をかけられた。声をかけたのは偏屈そうな顔をした男。近藤と同じくらいの年代だった。
「少し話を良いですか」
「はぁ…」
名乗りもしない礼儀のない男は、強引に近藤を連れ出した。
「…池田さんだ」
「あ?」
山南が呟いた。
「いえ。確か清河八郎の友人の池田さんですよ」
「友人?じゃあそれなりの役に就いてるってことか…」
もしかしたら臨時で何か相応の役を貰えるかも知れない、土方はふとそんなことを考えた。
総司には疑問があった。
「そういえば、私達の隊の小頭は誰なんです?」
「…聞いてねぇなぁ」
詳細は近藤のみが知っている。
「そのうち来るだろ。俺たちの小頭なんだ、相応の奴がくるだろうさ」
「そうだと…いいんですけど」
総司は得体の知れない胸騒ぎがしていた。
「お、小頭のお出ましだぜ」
背後から二人に声をかけたのは長身の原田。槍で方向を指す。
その方向を見れば、原田と同じくらいの長身の男。だがどっぷりとしてその体型は威圧感を感じた。
男は先頭に立ち、持っていた扇を開いた。振り返ると、総司は「あ、」と声が出た。

あの男だ。

今から三年ほど前。突然行方不明になった斉藤の行方を捜して町へと出掛けた総司は幼いときに出会った男と再会した。芹沢、という男と。

「知り合いか?」
土方が不審そうに聞く。
「土方さん、覚えてませんか?何年も前縁日で出会ったあの男・・」
「…ああ、あの男があいつか?」
何年かぶりで芹沢はすっかり顔が変わっていた。前よりも太っていて威圧感が増している。
「まさか、私達の隊の小頭…」
「…最悪の人選だな」
嫌みっぽく土方が呟くと、芹沢がこちらに気が付いた。総司を凝視し、近づいた。
「お前、どこかであったな」
「…」
「ああ。あの時の」
芹沢は扇子をバチンと叩き、微笑した。
「ますます、綺麗に育ったもんだ」
「綺麗は余計です」
「ふん、生意気になりやがって」
旧友に再会したように親しげな芹沢を、総司の背後で睨んでいたのは土方だ。
「…道中、楽しみだな」
土方に様子に気が付いたのか、芹沢は意味深に呟いて二人に背中を向けた。
「知り合いかぁ?」
何も知らない原田が、首を傾げた。


「…以上が諸注意だ。出立!!」
声高々に幕臣山岡鉄太郎が叫んだ。浪士組を立ち上げた清河八郎の友人であり、責任者の一人でもある。清河は先に京に発ったらしい。山岡は別名を山岡鉄舟といい、名の知れた剣豪だった。ぞろぞろと一番隊から出発した。新見錦隊の源三郎を見送り、芹沢鴨隊は出立した。

「近藤さん、何だったんだ」
出立の直前近藤が慌てて戻ってきた。
「いや、役目を仰せつかったよ。先番宿割だそうだ。徳田さんという責任者と一緒に先にゆく」
「そうか…がんばれよ」
「ああ」
短く会話を交わすと、近藤は小走りに徳田という男と共に先に行った。
「先番宿割…。あの人が最も苦手とすることじゃねぇか…」
些かの不安を感じつつ、土方は見送った。


数刻の後。浪士組は江戸の町を通り過ぎた。浪士の大行列に町衆は、驚いたが試衛館食客達は胸を張って歩いていた。
と、そこに。
「試衛ーぃ館!!一旗揚げて来いよーっ!!!」
大きな声で試衛館の名を叫ぶ者がいた。
「伊庭くんっ!」
見送る町衆の中に、つねとふで、周斎を引き連れた伊庭が大声でこちらに手を振っている。
「ふん、目立ちたがり屋め」
土方は苦笑したが、他の面々は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとよーっ」
原田が大声で返事をし、永倉は満面の笑みで返事をする。山南も手を振り、藤堂は小さく頭を下げた。総司は大きく手を振り、土方の分まで別れを告げた。

伊庭、そして試衛館とのしばしの別れとなる。

「もしかしたら、生きて帰ってくることは無いかも知れない。だが」
「きっとそれでも、後悔しない…でしょう?」
 土方と総司は顔を見合せて笑った。





解説
なし
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