わらべうた





321


土方らが江戸に下り新入隊士を伴い帰京をする間に、元号は元治から慶応へと変わり、新撰組は今まさに絶頂の時を迎えていた。

江戸の田舎から手柄を挙げようとやってきた新入隊士達は、煌びやかな京の町、華やかな文化、そして荘厳な屯所の構えに、目が泳ぎ浮足立っていた。
「すげぇ!広い屯所だ」
「ここで寝起きするのか?」
「花街も近いし、何だか夢のようだ!」
到着早々、落ち着かない様子で興奮する隊士たちは、西本願寺の境内に集められる。そこには既に在籍する隊士らも集い、新撰組全隊士が集合する珍しい光景となった。
そして近藤らの幹部たちが登場し、その場はわっと湧いた。
「諸君、長旅ご苦労だった。私が新撰組局長、近藤勇。そして隣に並ぶのが既に知っているように副長、参謀。そして以下は組長だ」
柔和な笑顔を向けた近藤の隣にざっと並ぶ幹部たち。
新入隊士達は様々な反応を見せる。
「あれが近藤局長か」
「池田屋では鬼のようだと噂だったが」
「そんな風には見えない」
口々に感想を述べる隊士たちに、近藤は構わず続ける。
「既に聞き及んでいるかと思うが、我々は主従関係によって結ばれた組織ではなく、誠の心を持って幕府に尽くす同志だ。身分に関係なく実力のみを評価する…ここに並ぶ組長は精鋭ばかりだが、君たちにもここに並ぶ資格はある。それを目標に、今日から始まる日々を懸命に過ごしてほしい」
近藤からの挨拶に隊士達からは拍手が起こった。身分に関わらず立身出世が叶う夢のような組織…隊士たちの期待は近藤の言葉によってさらに高まった。
するとすっと隣に立っていた土方が前に出る。
「いま、局長からお話があったように我々は同志であり、主従ではない。我々が行動の模範とすべきはこの『局中法度』のみだ。破れば例外なく切腹。己の身を案じるならばよくよく遵守し、唱和して肝に銘じるように!」
近藤の希望に満ちた挨拶から、土方の現実的な忠告…まさに天国から地獄、という言葉が相応しい。
新入隊士、そして既に在籍する隊士らが『局中法度』を高らかに唱和するが、その内容はそれまでの安寧の日々からは考えられないほど過酷で冷酷だ。新入隊士の顔はその内容を唱和することで改めて実感し、先ほどまで華やかな京への期待や興奮は一気に醒めてしまったようだ。
(土方さんらしい)
『局中法度』の唱和が続く中、幹部の一人として前に立った総司はちらりと土方の顔を伺った。新入隊士の入隊を歓待する近藤、その隣で穏やかな表情を崩さない伊東、そしてまるで戦に向かうかのように厳しい眼差しを向ける土方――。適度なバランスが取れているが、しかしその均衡もいつ破れてしまうのかわからない。いつも危うさを秘めている。
そんなことを考えていると『局中法度』の唱和が終わる。
「長旅でお疲れでしょう。新入隊士諸君は組割を確認した後はゆっくり旅の疲れを癒してください」
伊東の取り成しに、近藤も「そうだな」と同意する。
解散の号令と共に隊士たちは散り散りに分かれて行ったのだった。

「ご苦労様だったな」
その後、配下の隊士を迎え入れる斉藤を除いた、土方と伊東、藤堂の三人を部屋に呼び寄せて、近藤は労った。
「いえ、局長。新撰組の名は既に江戸で轟いており、入隊希望の者が絶えず良い結果を得ることができました。何事もなく職務を終えられたのは藤堂君が前もって準備を重ねてくれたおかげでしょう」
「江戸での隊士募集はずっと任せっぱなしで悪かったな、平助」
近藤が藤堂に視線を向けると「いえ…」と藤堂は歯切れ悪く返答した。近藤は首を傾げつつ
「どうした、具合でも悪いのか?」
と訊ねると、藤堂は少し目を泳がせながら口ごもる。すると見かねた伊東が助け舟を出す様に代わりに答えた。
「そのようですね。藤堂君、今日は早めに下がらせてもらって、ゆっくり身体を休ませなさい」
「…はい。そうさせていただきます、すみません」
藤堂は視線を落としたまま、重たい身体を引き摺る様に立ち上がる。すると伊東が
「藤堂君は西本願寺の屯所は初めてでしょう。私が案内がてら部屋まで付き添います」
と申し出た。参謀自ら、と近藤は戸惑いつつも、頷いて答える。
「あ、ああ…伊東参謀、申し訳ないがよろしく頼む」
「構いません。江戸でお話はまた機会を改めて是非…それでは」
伊東は藤堂を支えるようにして部屋を出て行く。近藤は障子越しに不思議そうな顔をして二人の後を追いながら
「藤堂君は大丈夫なのか?」
と土方に訊ねた。土方は畏まった姿勢を崩し「さあな」と適当な返答をする。
藤堂に覇気がないのは、あの道中での出来事以来ずっと続いている。土方に対する不信感が故、近藤にさえも真っ直ぐに目を見て話せないのだろう。そう言う実直さや素直さは藤堂らしいと言えば藤堂らしい。
だが、近藤に余計な不安をかけるわけにもいかず
「永倉や左之助に会えば元気になるだろう」
と土方は話を切り上げた。近藤も同意する。
「そうだな、試衛館の頃から三人は良くつるんでいたからな。…それよりも歳、ご苦労だったな。皆は元気だったのか」
「ああ。変わりなく元気そうだった。松本良順先生もお会いすることができた」
松本の名を出すと、近藤はその大きな口で嬉しげに声を上げた。
「そうか!あの御仁はなんておっしゃっていたんだ?」
「別に…世間話を少々な。それから京に来るときには屯所にも足を運んでもらうように申し出たら、喜んで診察に来るということだった」
「診察?松本先生がか?!」
近藤は目を丸くして驚く。松本は西洋医学所で分け隔てなく患者を診る医者ではあるが、その一方で幕府の奥医師でもある。将軍家茂公にも気に入られ、帯同することも多い高名な医者だ。
「ああ…快くお引き受けいただいた。男所帯で病人も多い。池田屋の時のように夏風邪にばかりかかるようでは新撰組の沽券に係わるだろうと」
「それは有難い!」
喜ぶ近藤に、それも遠い話ではなさそうだ、と松本から聞いた江戸での状況も伝える。いまだ不審な動きを続ける長州に対し、家茂候自らが軍を率いて戦を行うかもしれない…そう話すと近藤は神妙な顔で腕を組んだ。
「なるほど…だとすれば新撰組の出番も近いな」
「ああ。俺も早々に隊編成に取り掛かる。あと…法度だ」
「法度?『局中法度』を変えるのか?」
近藤の疑問に、土方は「いや」と首を横に振った。
「あれに加えて詳細な法度を作る。今までは五箇条で何とかなってきたが、隊士が増えた分、より具体的な法度が必要だ」
「そうか…歳はいろんなことを考えているんだなあ」
しみじみと子供っぽい感想を述べる近藤に、土方は黙り込む。
そもそも法度を作るべきだと言い残したのは山南だった。山南は西本願寺へ移転すれば隊士も増え、さらに厳しい法度が必要だろうと見越していたのだ。しかし土方は敢えてそれを近藤には話さなかった。何度も重ねた同じ感傷に浸っている場合では無いのだ。
(そうだ…そんな暇はない…)
だから、藤堂にも早くけじめをつけさせなければならない。そのけじめの形がたとえ土方を恨むことであったとしても、拗ねて立ち止まって動かないよりはよっぽどマシだ。
(幸いにも恨まれることには慣れている…)
「歳、どうしたんだ?」
黙り込んだ土方の顔を近藤は覗き込む。藤堂には、少なくとも近藤を憎む気持ちだけは芽生えさせてはならない。
「…何でもねえよ。それよりかっちゃんの方はどうだったんだ。俺が不在の間は…」
土方は無理に話を変えたのだった。

一番隊はやはり新撰組の花形という位置づけであるようで、新入隊士も精鋭が揃った。
「私が組長の沖田総司です。立場は組長ということですが、年齢は皆さんとも近く、組長は同室です。何かあれば気軽に相談してください」
新入隊士らに穏やかに語りかけたものの、彼らの表情は硬い。やはり先ほど唱和させられた『局中法度』の影響かそれとも噂に名高い『沖田総司』の名前故か、その判別は総司にはつかない。
「それから伍長の島田魁です。新撰組という名前を会津から賜る前から在籍する古参隊士です。私がいないときは彼を頼りにしてください」
総司は島田を紹介し、あとは彼に任せることにした。兄貴分の島田は入隊したばかりの隊士の扱いには慣れているので、彼の気分を和まして平隊士同士で和気あいあいとなることだろう。総司自身は彼らとの距離を徐々に詰めて行けばいいだろうと思い、その場を離れることにする。
そして自然と足が向いたのは、土方が居るであろう局長の部屋だ。土方たちが戻ってきてからすぐにあのような仰々しい挨拶になってしまったため、まだ面と向かって何も話していない。
自然と浮足立ちつつ、足早に歩いていると偶然斉藤とばったり会ってしまった。
「あ…おかえりなさい」
「…ああ」
一瞬、斉藤は総司以上に複雑な表情を浮かべたが、すぐに無表情を取り繕う。
「三番隊が世話になった。大谷が…迷惑をかけたそうだな」
「え?…ああ、いえ。大丈夫です」
「…」
「…」
それ以上の会話が続かずに、二人はお互いに視線を躱すことなく黙り込む。
以前までは、斉藤との沈黙が気まずく感じることなどなかった。斉藤が淡々としているのはいつものことだったし、それを気にしたことなど一度もなかった。
(どうすればいいんだろう…)
総司が迷っていると、斉藤は痺れを切らしたのか「じゃあ」と総司のそばを通り過ぎる。
「あ…」
総司は引き留めようとして伸ばした手を、しかしすぐに降ろした。
引き留めて何を話せばいいのか…総司には全くわからなかったのだ。





322


総司が斉藤と別れ、近藤の部屋を訊ねると既に土方は自分の部屋に戻ったということだったので、その隣の土方の部屋を訪れた。
「失礼します」
気が付いているだろうと思い、返答を待たずに部屋に入ると、土方は文机に向かって筆を執っていた。
「土方さん、もうお仕事ですか?」
旅の疲れを癒しているのかと思いきや、土方はそんな暇はないと言わんばかりに何かを書き連ねている。
「ああ…お前こそ、新入隊士の世話はいいのか?」
「はい。うちには島田さんや山野君がいますから、大丈夫です。…それよりそれは?」
「まだお前に見せることはできない」
「へえ…」
きっぱりとそう言った土方は、切りの良いところまで書き上げると、筆を置いて紙も軽く畳む。
「お邪魔でしたか?出直しましょうか」
と訊ねると、「そんなわけあるか」と土方は即答して、ようやく総司の方へ向き直る。総司は改めて居住まいを正して軽く頭を下げた。
「長旅ご苦労様でした。お元気そうで何よりです。道中は何もなく?」
「ああ…つつがなく終わった。それよりもお前の方が大変だったそうだな」
既に大谷のことが耳に入っているのだろう。総司は「ええ、まあ」と曖昧な返答をする。
「…近藤先生の許可は得たとはいえ、一組長でしかない私が切腹を申し付けるという勝手なことをしてしまいました。申し訳ありません」
「いや…大谷の件は結局は同じ結果になっただろう。むしろ俺なら斬首を言い渡していた…」
「…そうかもしれませんが…」
「その件についてはもういい」
土方はぴしゃりと話を切り上げてしまう。総司としても、これ以上の議論が何の意味も為さないことはわかっていたので、素直に従った。
「それよりも…お前は身体の具合はどうだ」
「身体の具合?」
今まで聞かれたことの無い質問に、総司は驚いた。特に別れ際に風邪を引いていたわけでもない。しかし目の前の土方はごくごく真剣に総司に訊ねているので、茶化すわけにもいかない。
「…特段、怪我をしたわけでも病気をしたわけでもありませんよ」
「そうか。ならいい」
言葉には出さないものの土方が安堵しているのはわかる。いつもは決して訊ねて来ないような土方の問いに、総司は
(どうしたんだろう)
と違和感を覚え、首を傾げるしかない。
すると土方は傍にあった風呂敷を解き始める。
「それはそうと…おみつさんから手紙を預かっている」
「姉上から?」
「ああ。おみつさんは大層、お前のことを心配していた。今度からはもっと頻繁に手紙を書け」
「それは…まあ、近藤先生からも再三お話はされてますけど…」
「いいから、ちゃんとかけ」
土方の語気が強くなり、総司は「はい」と受け入れるしかない。もしかしたらみつにそのように言いつけるように頼まれたのかもしれない…と思いつつ、土方から受け取った手紙を開く。そこには少し懐かしいみつの筆跡が並んでいた。みつもまた父に教わったので、総司のものとよく似ている。
ざっと目を通しただけで、みつが自分の体のことを心配しているのはわかった。少し過剰なくらいだ。
(なるほど、やっぱり土方さんは姉上からよくよく説教をしてくれと頼んだみたいだ)
総司はふふっと笑いながら、あとでゆっくり読もうと思い手紙を懐に仕舞った。
すると、さらに土方は風呂敷の中身を総司に押し付けてくる。
「これは?」
「姉さんからお前に、だ」
「おのぶさんですか?」
風呂敷の中には数着の着物が畳まれている。おそらくは手先の器用な土方の姉ののぶが仕立ててくれたのだろう、手に取ると懐かしい故郷の匂いがするようだ。
「おのぶさんのことだから、色々言付けられたんじゃないですか?」
「ああ、手土産だ何だとな…結局は小者を雇って運ばせる羽目になっちまった」
「それは難儀でしたねえ…」
土方は本当に面倒そうな表情をしたが、のぶには昔からお節介なところがあるのは重々承知していたはずだ。総司は「ふふ」と笑って有難く贈り物を受け取った。
すると、土方はふうっと息を吐く。
「土方さん…お疲れですか?」
その表情には幾何かの疲労の色があったが、土方は認めずに「いや」と首を横に振る。しかし総司は引かずに
「今日戻ってきたんですから、お疲れに決まっているじゃありませんか。仕事熱心なのはわかりますけど、倒れたりしたら困るのは土方さんだけじゃないんですよ。いいから、休んでください」
「駄目だ、急ぐ仕事がある」
「駄目も何もありません。布団を敷いてあげますから」
土方の抵抗を無視して、総司は立ち上がりせっせと布団を敷く。
「ほら。いいから、少しだけでも寝てください。土方さんがいないと困るっていうのは、この数十日で身に沁みたんですから」
「身に沁みたのか?」
「ええ、近藤先生も同じようにおっしゃっていました。ですから、ここで倒れられると困ります」
総司は土方の背中を押し、無理やりにでも睡眠を促す。すると土方も
「わかったよ」
と苦笑しつつも従って、総司の言うとおりに布団に横になったが、その代わりの我儘と言わんばかりに総司の腕を引いて同じ布団に引き寄せた。土方の上に覆いかぶされるようになってしまう。
「土方さん!」
「寂しかったか?」
耳元を撫でるような声で囁かれ、一気に体温が上がりドクドクと心臓が跳ねる。「そんなことない」なんて言っても、この至近距離では嘘だとすぐにわかってしまう。
「…歳三さんは?」
自分ばかり訊ねられるのが悔しくて、総司が鸚鵡返しに訊ねる。すると土方は耳朶を甘噛みした。
「早く帰りたかった」
「…っ」
恥ずかしげもなく感情を吐露されて、訊ねた総司の方が煽られてしまう。しかし土方は構わずにその口唇を耳元から首元へと移したので、総司は慌てた。
「と、歳三さん…ここ、屯所、ですよ…?!」
こういうことは別宅で、と言いたかったのだが
「だからなんだ」
と土方はそのまま行為を進めようとする。総司は抗って身体を捩るが手慣れた土方に簡単に組み伏せられてしまう。
「も…っ、歳三さん!」
ここは簡単な仕切りで間仕切られただけの屯所で、隣は局長の部屋で、まだ日中で、隊士も大勢いる。そしてそんなことは土方も分かっているはずだ。
けれど、土方は総司の口を塞ぐ、甘く深く息もできない口付けを仕掛けてくる。
「ん…っ、んぅ、」
土方に誘われるように、総司の中で何かか溢れ出す。たった数日離れていただけで、何かが重なり、募り、そして零れる。
「…お前が声を我慢すれば大丈夫だ。誰もここを訪ねてくるわけがない」
「っ、も、もう!」
なけなしの理性でもう一度、土方の胸板を押すが彼は引くことはない。
「いいから…お前を、味あわせろ」
そう言われてしまえば、
(もう何も言えない…)
「少しだけですから…」
早く帰ってきてほしかったのは、総司だって同じだったから。


「よぉ!平助、久しぶりだな!」
八番隊の部屋を訪ねてきた原田と永倉に、藤堂は
「お久しぶりです」
と、どうにか笑みを作るのがやっとだった。しかし鈍感な原田は藤堂の肩をたたき、まるで堰を切ったかのように話し始めた。
「平助にはいっぱい話してぇことがあるんだが、まずは俺の嫁を今度紹介してやるからな!もう屯所の近くに別宅を設けて住まわせているんだ!お前も良かったら遊びに来いよ!俺の嫁が手料理を振る舞ってくれるからよ!」
「は、はあ…おまささん、ですよね。お元気ですか?」
「元気に決まってんだろ!新婚に何言ってんだよ、近いうちに婚礼を行うからお前も…」
「平助、ちょっと疲れていないか?」
捲し立てて喋りつづける原田を遮って、永倉が藤堂を気遣う。
「何だよ、長旅の疲れか?まったく、しょうがねえなあ」
「そういうなよ、左之助。五十人以上もの隊士を引き連れてきたんだ、疲れていて当然だ」
「それはそうかもしれねえけど、今晩はうちに招いてやろうと…」
二人の楽しげな会話が続く。いつも通りの二人で、久々に帰ってきた自分を喜んで迎えてくれたのだとわかるのに、藤堂はどうしてもその会話に入っていけない。むしろ明るく笑う二人を見ているのが苦痛になった。
「平助?」
「あ、あの…」
「何だよ、辛気臭い顔して」
伊東は言った。
『もしかしたら新撰組は君が思っているよりも変わってしまったのかもしれない』
だとすれば、自分も変わらなければならないのか、と思いつめた。この悲しみを受け入れられない自分が、弱いのかとも思った。
しかしその答えを土方は教えてくれなかった。
『納得して、理解するしかない』
と切り捨てた。
それはもう昔の仲間のことを忘れろということなのだろうか。飲み込めないものを飲み込んで、空元気で過ごして行けということなのだろうか。
彼らは…そんなに冷たかったのだろうか。
「…山南さんは、どうして脱走なんかしたんですか?」
藤堂の問いに、それまで明るく話し続けていた原田の表情が停止して、永倉は顔を顰めた。しかし彼らは驚かなかった。いつか藤堂が訊ねてくることは予感していたのだろう。
藤堂は二人を問い詰めた。
「お願いです、教えてください!山南さんはどうして脱走を…?皆は止めることができなかったんですか?山南さんを救ってあげることができなかったんですか?!」
「平助…」
「それは…」
「どうして切腹なんかに…!」
あの穏やかな笑顔を、あの優しい言葉を、皆知っているはずだ。それなのにどうして救ってあげることができなかったのだろう。
藤堂は目尻に浮かんだ涙を、強く拭った。二人に慰められたいわけじゃない。ただ、すべてが知りたいだけなのだ。
すると、永倉が重々しく口を開いた。
「…詳しくは、俺たちも知らない。土方さんは西本願寺への移転に反対したための脱走だと、それ以外は何も語らなかった。だから、俺たちに話せるのは、あの日何があったかだけだ」
「あの日…?」
「山南さんが切腹した日だよ」
永倉に続いて原田が苦々しい顔で語る。
「わかってる、近くにいた俺たちだってすべてを飲み込むのに時間がかかったのに、遠く離れていたお前が納得できるわけねえんだ。…だから、話すぜ」
重たい表情を浮かべる永倉と、いつになく真摯な眼差しの原田。その二人に向き合って、藤堂はごくりと息を飲んだ。





323


総司は光縁寺に向かう道を一人で歩いていた。両手には通りすがりの花売りで買った名も知らぬ花を抱えている。
(月命日を少し過ぎちゃったけど…山南さんは許してくれるかな)
そうやって穏やかに思えるようになったのは、時間が少しは解決をしてくれたからだろうか。
月に一回この道を辿るたびに、無くしてしまった大きな存在を思い知らされる。あの時の決断を迷う。けれどその一方で、すぐに墓参りに行ける距離にいる分、まだ山南が傍に居てくれるような気がして心強くもある。
最後はあれ程に壮絶だったにも関わらず、記憶に残るのはあの穏やかな日々だ。この日だけはあの笑顔や優しい眼差しを思い出して、胸の奥にしまっている感情を少しだけ呼び覚まして浸る。そしてこの道を帰路とするときはまた、その感情を奥へ奥へと仕舞いこむのだ。
忘れても、消えるわけじゃない。
土方のその言い分は、彼らしい理不尽さもあったけれど、でも総司自身は救われていた。
しばらく歩きつづけ、壬生寺を通り過ぎ右の角に折れて真っ直ぐに進めば光縁寺が見えてくる。屯所が西本願寺へ移ってからは、このあたりは元の静けさを取り戻していた。隊士の姿ひとりとしていないのはいつも通りであり、違和感でもあるが、しかし今日は遠くに見知った姿が見えた。
「…藤堂君?」
総司が気が付いたのと同じタイミングで、藤堂もこちらに気が付いたようだ。すると小走りにこちらに駆けてくる。
「沖田さん、墓参りですか?」
「ええ…藤堂君も?」
「そうです。月命日を過ぎてしまいましたが…沖田さん、ご一緒してもいいですか?」
「良いですけど、藤堂さんは既に行かれたのでは?」
「何度行ったって構いません。山南さんは仲間ですから…」
藤堂の物言いに少し棘があるのを感じたが、総司は飲み込んで「じゃあ行きましょうか」と並んで歩くことにした。
彼の様子がおかしい、というのは彼が屯所に戻ってきてからの表情を見て総司はすぐに気が付いていた。それは約一年離れていたから風貌が少し変わっているというのもあるだろうが、しかし彼の顔つきはまるで敵地に乗り込んできたかのように鋭かった。
しばらくは無言で歩いた。普段は人が良く、穏やかで人に敵意を向けることさえない礼儀正しい彼だからこそ、その沈黙が重たい。
いつの間にか季節は通り過ぎて、梅雨が訪れようとしていた。今日の雲も鈍色に見える。
「…すべて聞きました」
「え?」
ようやくその沈黙を破ったのは藤堂だったが、彼は苛立ちを隠せない様子だった。
「永倉さんと原田さんに聞きました。山南さんが脱走して、沖田さんが連れ帰って…切腹になるまでのことを…」
「…そうですか」
「でも、肝心なことはわかりませんでした」
藤堂は足を止めた。光縁寺はすぐそこだが、墓前でするような会話ではないと思ったのだろう。
「どうして、山南さんは脱走なんて真似をしたんですか?」
「……」
「永倉さんや原田さんの話だと、突然そういうことになったのだと…そういう印象を受けました。あの人たちは何も知らない、知っているのは近藤先生や土方さん、それから…山南さんを連れ戻した沖田さんだけじゃないかと思っています」
隠すことの無い怒りや憤りを、藤堂は真っ直ぐに総司に向けた。彼のそれは負の感情なのに心地よいほどに清々しく、総司は真正面から向かい合うべきだと感じてしまった。
それは『魁先生』…その異名通りにだったのだろう。
「俺がいない間に…変わってしまったんですか?ここは…新撰組は…」
「…」
「教えてください!黙っているなんて、卑怯です!」
藤堂の甲高い声が、そこら中に響く。ここは新撰組の古巣で二人の顔を知っている近所の人もいる。しかし藤堂はそんなことを気に留めることなく、答えを総司に求めていた。
総司は少し俯いて言葉を選び、そして藤堂に向き直った。
「…私は、何も知りません」
「沖田さん!」
藤堂は責めるよりも、縋る様に叫ぶ。しかし、総司は首を横に振った。
「表面的な理由や原因は教えてくれました。ある日の巡察で、利き腕に重傷を負い絶望した…そしてそれに重なる様に、山南さんの意に反することばかりが起きて…それ故、疲れてしまった。山南さんが私に語ったのはそういうことだけです」
「それを沖田さんは納得したんですか!そんな上辺だけの理由に納得したから、連れ戻したんですか?」
納得できるはずがない。
藤堂はそう決めつけているようだが、総司の考えとは違った。
「…納得するしかなかったんです。もう…山南さんは死ぬことを決めていた。その凛とした姿を見て…連れ戻さないという選択の方が、山南さんをより苦しめるのだと私は思ったんです。それに…きっとどんなことをしても、山南さんは納得してくれなかった」
あの大津での夜のことを、総司はまるで昨日の記憶のように覚えている。自虐的に自分のことを笑い、自分のことを信じられなくなったと悲しく告げ、そして連れ戻して切腹をすることだけが、最後に自分ができることだと、既にすべてを飲み込んでいた。
必死に説得をしても、泣いて縋っても、土下座して頼み込んでも…おそらく山南は靡かなかったことだろう。しかし、一つだけ方法は残っていた。それは選ばなかった。
総司はふっと藤堂に微笑みかける。
「でも…もしかしたら、山南さんの代わりに私が死ぬと言えば…山南さんは生き残ってくれたかもしれないですね」
「!」
「だから藤堂君は私を恨んでもいいですよ。その最後の手段を取らなかった……山南さんの命よりも自分の命を優先した私を憎んでも、私は何も文句は言いません」
それまで総司を問い詰めていた藤堂の表情が、はっと冷水を浴びたかのようにその表情を失った。そして一二歩下がり
「俺は…そんなことを…」
そんなことを言いたいわけじゃない、と藤堂の表情が青ざめる。そんなことは総司ももちろん理解していた。
「分かっています。でも、私は山南さんを屯所に連れ戻した時点で、こうやって誰に責められても文句は言うべきではないという覚悟をしました。山南さんの件で一番悪いのは私です。私の選択がこの結末を産んだ…そこのついては弁解の余地はありません。…ですけどね」
総司は花束を抱えたまま、藤堂に頭を下げた。
「どうか、私以外の他の誰をも責めないでください。近藤先生や、永倉さん、原田さん…土方さん。皆、最善の努力をして、山南さんの命を救おうとしたんです。でもそれができなくて、皆悲しいお別れをいまどうにか受け入れている。それだけは…わかってください」
「…っ」
目を閉じれば思い出す穏やかな日々のことを想うのは、総司だけではないはずだ。皆口には出さなくても、悲しみや後悔がいつでも胸の中に在りつづけるだろう。
その責任を一手に負うなんてことは考えていない。そんなのは烏滸がましいとわかっている。けれど、責められるなら自分以外の誰をも責めてほしくはない。
「…そんなの…卑怯だ…」
頭を下げた総司に対して、藤堂はそう零すとそのまま踵を返して光縁寺を離れていく。総司はその姿を見送りながら
(藤堂君自身も…責めないでほしい)
と思った。
遠く離れた彼は一番大きな後悔と、受け入れがたい悲しみを味わったことだろう。彼がこうして堪えきれない感情を総司にぶつけてきたのは、生来の素直さ故だと総司も理解している。いつか彼は彼の放った言葉を後悔する。そして自分を責めてしまう。
(少なくともそれは…山南さんの願いじゃない)
その確信はある。
何故だか、そう思える。

「…総司」
総司が藤堂の姿を見送ってぼんやり立ち尽くしていると、土方がやってきた。元々月命日は一緒に墓参に来ると約束をしていたのだ。
腕を組んで複雑な表情をした土方はおそらく先ほどまでの話を聞いていたのだろう。
「相変わらず、地獄耳っていうか…何度も言いますけど、立ち聞きなんて趣味が悪いですよ」
総司は努めて明るく土方に笑いかける。土方もそれに気が付いたのか
「俺があの場に出て行ったら、収拾がつかなくなっていただろう」
と軽く微笑んだ。
「それもそうですね。…じゃあ、行きましょうか」
総司は光縁寺に向けて歩き出そうとする。すると土方の大きな手のひらが、ぽんぽん、と軽く頭を叩いた。
「ん?なんですか?」
「いや…何でもない」
「…だったら子供っぽいことをしないでくださいよ」
と、総司は土方の手を払いのけて、そのまま門をくぐる。
悲しみを隠そうと気丈に振る舞っている…そんな風に土方に思ってほしくはなかった。
(傷ついてなんかいない)
藤堂の主張は当然のことなのだ。いつか誰かに指摘されるべき、自分の大きな罪。
しかしそう思っていても、何も感じていない訳ではない。
(忘れても消えやしない…か…)
それは案外難しい。
総司はそんなことを思った。





324


逃げるように、光縁寺から、そして総司の下から去った藤堂だったが、その足取りは西本願寺に近づくほど重くなっていった。
(俺…どこに帰ればいいんだ…)
そもそも江戸から戻って数日の藤堂にとって、西本願寺はまだ馴染みが無い場所だ。そしてそこにいる仲間たちも見慣れない顔が多く、どこか孤独を覚えていた。
山南の死について仕方ないことだと、頭のどこかではわかっていた。誰にも止めることもできない、どうしようもないこと。それに山南の温厚だが強情な一面は藤堂も良く知っていた。だからその状況も感情も推察できる。
しかし、その一方で拭いきれない、気持ちもあった。
試衛館での楽しかった日々、京にやってきてからの勇ましい日々…そのすべてを共にしてきた仲間を、殺した。見捨てた。どんな理由があったとしても、その事実だけは揺らがない。
『山南さんを殺したのは沖田さんだ』
誰かを悪者にして、憎しみを怒りを憤りをぶつけるのが楽だと…そう思いたかった。
けれど。
『だから藤堂君は私を恨んでもいいですよ』
そう語った彼の明るさや穏やかさを目の当たりにして、その裏にある悲しみの深さを思い知らされた。
悲しいことを、悲しいと言えない。
言い訳をしたいのに、できない。
鬩ぎあい、苦しんだ末にだした結論が、あんなふうに穏やかにすべての憎しみを受け入れることなのだとすれば、彼はどれだけ傷ついたのだろう。どれだけ自分を奮い立たせたのだろう。
それは考えるだけで藤堂の胸を締め付けた。そして安易に彼を悪者に仕立てて、問い詰めてしまった自分を恥じた。
(何が仲間だ…)
仲間のことを想うあまりに、仲間のことを信じられずに傷つけてしまうなんて、本末転倒じゃないか。
まるで八方塞のように自問自答を繰り返す帰路は、いつもより長い道となり、西本願寺にたどり着く頃には既に陽が暮れはじめていた。
今の藤堂にはその荘厳な建物は、まるで自分たちに似合わない檻のようにしか見えなかった。すると、自然に足が止まった。どうしても、屯所に戻っていつもの自分でいられるような気がしなかったのだ。
(このまま脱走したら…どうなるんだろう…)
山南と同じような最期を辿るのだろうか。
「藤堂君」
ぼんやりと立ち尽くしていると後ろから声を架けられた。藤堂が振り向くと
「内海さん」
伊東の腹心である内海がいた。彼はいつも淡々としていてやや感情表現に欠ける所があるが、理路整然とした物言いを伊東はとても気に入っているらしい。
「こんな往来でどうしましたか。屯所はすぐ先ですが」
「は…はい、わかってます。ちょっと…考え事をしていただけで…」
美味い言い訳が見つからず目が泳ぐ藤堂だが、内海は指摘することなく「そうですか」と簡単に納得した。
「伊東参謀も心配されていた。江戸にいたときにもっと話を聞いてやればよかったと…」
「そんな…伊東参謀には何度も励ましていただきました。道中もお疲れなのに気にかけていただいて…内海さんにもご迷惑ばかりをお掛けしてすみません」
丁寧に頭を下げた藤堂に対して、内海は怪訝な顔をした。
「君は八番隊組長…私のような平に簡単に頭を下げるのはやめていただきたい」
「しかし、内海さんは伊東先生の道場で師範代を務めていらっしゃいましたから、そうそう偉ぶったりはできません」
伊東道場に門下生として通っていた藤堂にとって、内海は「先生」だったのだ。今の立場は少しやりづらさを感じざるを得ないのだ。
藤堂の返答に内海は「困ったな」と顔を顰めたが、
「まあいい。よかったら今から伊東先生たちとともに食事に行くところです。君も一緒にどうですか」
と誘ってきた。
藤堂は少し迷った。淀んだ気持ちで屯所に帰るのも気が進まなかったが、師匠にあたる伊東にこれ以上の迷惑をかけるのも本意ではない。
「俺は…」
答えを見いだせないままに、返答をしようとしたところで
「平助」
とさらに声を掛けられた。その声に藤堂は驚いて振り向く。
そこには穏やかな表情を浮かべた近藤の姿があった。
「近藤局長…?」
「内海君、申し訳ない。藤堂君は先約があるんだ、伊東参謀によろしくお伝えしてくれ」
「え?」
非番である自分には先約などないはずだ、と思ったが内海が
「わかりました。では…」
とあっさり引き下がってしまったので、藤堂は近藤に従うことになってしまった。軽く会釈をして通り過ぎて行った内海を見送りつつ、近藤は
「悪かったなあ、勝手に。何か約束でもあるか?」
と呑気に訊ねてきた。藤堂は戸惑ったものの、何も用事が思いつかない「いえ」と答えるしかない。すると満足げに笑った近藤は
「それは良かった。じゃあ行こう」
そういって歩き始める。近藤には何か目的地があるのか、迷いなく進んでいく。何故か手には大きな風呂敷を抱えていた。
藤堂はその半歩後ろを控えるように歩きながら、
(大きな…背中だ…)
と思った。


夕暮れ時、雑談程度の会話を交わしながら歩きつづけていると、近藤がやがて一軒の家の前で足を止めた。京都ならではの風情が漂う町屋の佇まいで、中からは聞き覚えのある騒がしい声が聞こえてきた。
「おや、もう始まっているのかな」
近藤が明るくそういいつつ、遠慮なく中に入る。藤堂は不思議に思いつつも後に従うと、
「いらっしゃいませ」
と、おまさが顔を出した。おまさは満面の笑みを浮かべて二人を迎え入れる。
「近藤せんせ、お待ちしておりました。藤堂せんせもお久しぶりどす」
「ああ、どうやらもう始まっているようだなあ」
「へえ、せんせ達をお待ちしたほうがええんやないかっていうたんですけど、あの人、聞かへんし…すんまへん」
「はは!左之助らしい」
おまさに招かれるままに中に入りつつ、藤堂はようやく事情を察する。
(ここは…二人の新居か…)
縁談がまとまった二人が早速別宅を構えて暮らしているというのは聞いていた。思えば小ぶりで二人で暮らすには良いくらいの間取りだ。
おまさに案内されるままに部屋に通される。
「遅かったな!」
「もう始まっていますよ」
既に顔を真っ赤にして出来上がっている原田と、珍しく上機嫌に酔う永倉の姿。そして
「待ちくたびれた」
寛いだ姿で悪態をつく土方の姿もあった。近藤は頭を掻きながら「悪い悪い」と謝って、
「おまささん、つまらないものだが今日の肴にしてくれ」
と持ってきた風呂敷を手渡す。おまさは「おおきに」と受け取って早速、台所があるのだろう奥へと向かった。
「平助、こっちに来いよ!」
藤堂は原田の手招きに応じて、隣に腰を下ろす。既に宴会が始まって時間が経っているのか、おまさの手作りの料理も半分ほど平らげられていた。
「すみません、気が利かずに…俺、何にも手土産が無くて」
「いいんだよ。平助には内緒にしてたんだから、当然だ。なぁ?」
「内緒に?」
「おいおい、左之助。もう種明かしか?」
口の軽い原田に、永倉は苦笑して突っ込む。原田は「いいじゃねえかよ」と大声で笑った。
「内緒って…?」
「そりゃもちろん、『平助の無事の帰還を祝う会』と俺の女房のおまさちゃんのお披露目会に決まっているだろう」
「は…はあ…」
「いいから飲め!飲んで、飲みまくれ!」
冗談か本気かわからない原田が、酒を進めてきたので藤堂は素直に受け取ることにする。
すると土方の酌を受け取った近藤が
「じゃあ平助、乾杯だ」
と猪口を差し出してきたので、藤堂は応じた。一気に飲み干した酒は、久々に清々しいのど越しだった。
「江戸での働き、ご苦労だったな。こうしてまた皆で酒が飲めるのは何だか懐かしい気がするな」
労う近藤に、藤堂はぎこちなく笑う。
すると
「追加のお酒ですよー」
と、軽快に総司が姿を見せた。藤堂は「あ」と声を漏らす。気まずい別れ方をしたばかりだ、どんな顔をしたらよいのか藤堂にはわからなかったのだ。
しかし、総司はそれを察したのか
「遅かったですねえ。藤堂君を見つけるのが遅いですよ、近藤先生」
といつもの調子で笑った。まるで気にしていないという雰囲気の総司を見て、勝手なことに藤堂はその明るさに安堵してしまう。
(安堵…)
心に浮かんだその言葉に、藤堂は手を止めた。
豪快に酒を飲み周囲を笑わせる原田、生真面目で堅物だけれど原田のお守り役の永倉、いつも不機嫌そうだけれど全員が揃う場には必ず顔を出す土方、そんな土方の一番近くで笑う総司、そしてただそこにいるだけで皆が和やかな気持ちになる近藤。
(まるで試衛館みたいだ…)
場所は違うのに、同じように誰もが笑い心を開いて輪を作る。
確かにその一つは空席になってしまったかもしれない。ぽっかりと空いた穴になってしまったかもしれない。誰もがその名前を口にすることを躊躇い、思い出すたびに悲しさや悔しさを思い返すことになるのだろう。
傷の大きさは皆、違う。けれど遠くに離れていた自分の傷は、最期の瞬間に刀を振り落した彼の傷にはきっと及ばないだろう。
それでも自分を憎んでほしい、と彼が言ったのは、そうすることでお互いの傷が混じりあって、理解していくことを知っていたから。
(こうして癒していくんだ…)
その穴を埋めるのは、きっと自分一人じゃできない。時間だってかかる。だからこうして少しずつ、その穴を埋めていく。
一緒に笑って、一緒に悲しんで、一緒に怒って、一緒に…過ごして、息をして。
「お待たせしました。近藤せんせに頂いたお饅頭どす」
近藤のお持たせを皿に並べたおまさが部屋に戻ってくる。宴会の席だというのに、饅頭の差し入れにどっと沸いた。
「流石、近藤先生だぜ!相変わらずの甘党!」
「おいおい、左之助、口が過ぎるぞ」
「かっちゃん、ちょっとは考えろよ」
「私は嬉しいですけどねえ」
場は近藤『らしい』行動にさらに盛り上がる。笑い声が響く中、そんななかおまさが取り分けてくれた饅頭を、藤堂は口にした。
「あ…」
一口味わっただけですぐに分かった。
「どうだ、美味いだろう。試衛館の味に似ているんだ」
近藤が嬉しそうに笑う。
そうだ、これはあの昔日に皆で囲った味に似ていて…涙が出るほど懐かしい。凍った心が甘く包まれていくようで。
「…そうですね」
藤堂はもう一口で饅頭一つを平らげた。甘い味が身体に沁みわたっていくようだ。
「沖田さん」
「へ?」
丁度饅頭を頬張っていた総司は、藤堂に声を架けられて驚いたようだった。しかし藤堂は続けた。
「さっきはすみませんでした」
謝りたいという気持ちは、いつまでも胸に秘めていないで早く伝えたい。
仲間だから。魁先生らしく。
「…いいえ」
総司は笑った。無邪気さを覗かせたその顔は、やはり試衛館のときのままだった。






325


ある五月のこと。
姿を隠して屯所にやってきた監察山崎からの報告に、土方は隠すこともなく嫌悪の表情を表した。
「…不義密通?」
眉間の皴がまた一つ刻まれた。鬼の副長に睨まれれば大抵の隊士は怯むが、しかし監察として裏の仕事に付き合ってきた山崎はすっかり慣れている。
そんな彼が本日、土方に報告をしてきたのは入隊したばかりの隊士が不義密通…つまり人妻に手を出したらしいということ。
「はい、ほぼ間違いありません。先日入隊した石川三郎が、近所でも評判の商家の奥方の元へ足しげく通っている姿を何度も見ました」
淡々とした山崎の報告に、土方は深いため息をついた。石川という名前には何となく憶えがあるが、京に初めてやってきて、浮足立った故の結果なのだろうと推察はできる。
不義密通は一昔前なら死罪となる大罪だ。しかしいまでは妻を寝取られたという恥を晒すことを夫が恐れ、滅多なことでは死罪にはならず示談で済むのが暗黙の了解となっている。
しかし、それはあくまで巷でのこと。新撰組の『局中法度』に照らし合わせれば、石川の処罰は決定的だ。
「…旦那にはバレてねえのか?」
「そうやとおもいます」
不義密通は夫の訴えがなければ処罰されない。まだ表立っていないのは夫に露見する前に、監察が掴んだということだろう。監察の優秀さはいつものことだが、しかしその一方で新入隊士の早速の不祥事には辟易とさせられた。
「石川…石川か。伊東が江戸で声をかけた奴だったな」
「はい。ですので、足しげく通っていた、という事実だけで切腹に処するのは面倒なことになるかもしれまへん。しっかり裏を取ってからにしたいと思うてます」
「そうだな…」
江戸での募集では、新撰組の噂を聞きつけて集まった者と、伊東が所縁のある道場に声をかけて集まった者と二種類いる。石川三郎は後者に当たり、前者なら有無を言わさず「士道に背く間敷事」として切腹にするが、処断するにも伊東に話を持ちかける必要があるだろう。山崎もそのあたりを察してきちんとした「裏を取る」と言っているのだ。
「女に吐かせるつもりか?」
「いえ…下手に接触して夫に露見するのも面倒です。それに、女はどうやら名の知れた阿婆擦れだったようで…他にも何人もの男を手玉に取っているようやということです」
「…ちっ。面倒なのに引っ掛かりやがって」
土方は吐き捨てるしかないが、山崎の話は続く。
「せやけど、数々の男を家に引き入れる女が、唯一自ら進んで通う陰間茶屋があるそうです。贔屓にしている若衆がいるようでその者なら何かを知っているのではないかと…」
「陰間茶屋…」
陰間茶屋は男色の相手としての側面と、裕福なお家の御彩後家の未亡人などを相手に春を鬻ぐ男娼としての側面がある。役者の卵である見目麗しい男娼に心を奪われるのは、何も男だけではない。陰間茶屋が廃止されて久しいものの、上方では「若衆茶屋」としていまだに存在していた。
すると山崎が少し表情を崩した。
「それがなんの偶然か、先日の大谷の件で関わった陰間でして」
「大谷の件…?」
「宗三郎という者やそうです」
山崎に名前を出されて、土方はようやく「ああ」と思いいたる。土方が不在の間に起きた大谷の件については、近藤から話を聞いていた。何でも総司が直接出向いて話を聞き、事件の解決を図ったそうだが、情報を提供してくれた店には金を払ったとのことだった。
「これが非常に気難しいというか手ごわいというか…気に入った人間以外は、どんな相手であろうとも座敷にあげないような陰間やそうです」
「…なるほど、それで総司に頼みたいということか?」
いつもなら裏が取れたうえで報告をしてくる山崎が、こうして訪ねてきた意味を土方は悟る。山崎は頷いた。
「できれば、そうしていただければ有難く思います」
「わかった。その陰間については俺も興味がある…この一件は任せろ」
「よろしくお願いいたします」
山崎は丁寧に頭を下げた。

それからすぐに、総司を呼びつけて事情を話すと
「いいですね、行きましょう」
と意外にも乗り気な返答が帰ってきた。事は急ぐので、早速屯所に出て陰間茶屋に向かうことにする。
「それにしても、かつて人妻に手を出して奉公先を首になった土方さんが、同じ所業をした隊士を処断するなんて、可笑しい話ですね」
石川の経緯を聞いた総司は、そんな茶化した感想を述べた。
「うるさい。そんなことよりも宗三郎は気難しい陰間だと聞いていたが、どうなんだ?」
土方が話を逸らして訊ねると、総司は驚いた顔をした。
「変わった人だとは思いましたけど、気難しいとは思いませんでしたよ。なんていうんだろう…遠慮が無い分、清々しいと言うか。おみねさんから聞いた噂では、江戸の人だということでしたけど。まあ土方さんもきっと仲良くなれると思いますよ」
総司の呑気な返答に土方は内心苦笑する。
(陰間と仲良くなっていいのか?)
そう問えば、総司は真っ赤になって怒るのだろう、へそを曲げられても困るので土方は敢えて胸に留めておくとする。
総司は続けた。
「宗三郎さんはこの世のものとは思えないくらい綺麗な人ですよ。男にも女にも属さないというか…ああいう人はきっとこの世にはいないんじゃないかなって思います」
「なんだ、お前がそこまで褒めるのは珍しいな」
容貌がどうだとか、見目がどうだとかそういうことを滅多に口にしない総司からそういう感想を聞くのは珍しい。過剰に表現しないタイプだからこそ、本当にその宗三郎が優れているのだろう。
「土方さんも一目見たらわかりますよ。それにまた来てほしいって言われていたので、宗三郎さんも喜ぶと思いますよ」
有名な陰間の元へ向かうと言うのに、総司はまるで友達に会いに行くかのような気軽さだ。
そんな話をしながらしばらく歩いていると目的の場所にたどり着く。大通りから脇道に入り、入り組んだ道を行くと質素なつくりの店がある。一見すると、陰間茶屋には見えないが、総司は躊躇いもなく店に入る。
「こんにちは」
総司が親しげに声をかけたのは店主らしき男だった。ちらりと総司を見る。
「…宗三郎ならいま客を取っているよ」
愛想なく平坦に述べた店主だが、総司は構うことなく
「そうですか、じゃあ待たせてください」
というと、懐から金を渡した。店主の無愛想はいつものことなのだろう。渡した金は普通の陰間に比べて倍額以上の金だが、店主は受け取ると奥の間を案内してくれた。
島原や祇園のような煌びやかさのない、見た目通りの質素さだ。とても一晩三両を取るような花魁がいる店には見えない。
「土方さんは陰間に来たことがあるんですか?」
総司は出された菓子に手を出しつつ、土方に訊ねる。
「…あるわけないだろう」
「それはそうですね、土方さんは沢山の女性のお相手で忙しかったですもんねえ。陰間まで通う余裕はないか」
はははっと呑気に笑う総司は、特に感慨もないようだ。過去に土方がよく女と遊んでいたのは良く知っているので、今更誤魔化しようもないが、いったいそのあたりについて総司はどう考えているのだろう、と不思議に思う。
もし総司が過去に男でも女でも誰かとそういう関係にあったとしたら、土方としても自分のことを棚に上げて複雑な気持ちになってしまうだろう。
(そういう気持ちが、ないのか…?)
呑気に菓子を食べる総司をまじまじと見ていると、誰かが階段から降りてくる音が聞こえた。
「また来るわぁ」
妙齢の女の上機嫌な声がする。おそらく先客だろう。
「また待ってるよ」
そして答えたのが宗三郎だったのか、総司が目くばせしてきた。声を聞くとそこまで若いというわけでもなさそうだ。
しばらくは名残惜しそうにしている女の声が聞こえたが、その声も聞こえなくなる。するとこちらに近づく足音がした。
そして彼が顔を覗かせる。
「こんなにすぐに遊びに来てくれるなん…」
宗三郎の軽やかな挨拶が、途切れる。そしてその視線は土方と重なった。
肩ほどに伸びた髪、白い肌、ほっそりとした輪郭に際立つ黒目。形の良い唇に、高い鼻梁。先客との情事の後ゆえか、漏れる色気が艶めかしい。なるほど総司が言うように女とも男とも取れる、不思議な存在感を彼は放っていて。
そして土方はこの顔を知っていた。
「…薫、か…?」
土方から零れた言葉に、宗三郎の表情は益々固まった。二人の間に挟まれた総司が
「え?お知り合いですか?」
と困惑するが、二人の間に流れる空気はそのようなものではない。
宗三郎の唇が揺れた。
「歳さん…」
と。






326


話は数年前に遡る。
土方がまだ試衛館で腕を磨いていた頃だ。
「やだなあ、土方さんとまたこういうところで会うなんて。今日はついてないや」
人の顔を見るや芝居がかったようすでため息をついて見せたのは、当時『伊庭の小天狗』として名を馳せ始めた頃の伊庭だった。顔を合わせたのはいつもの場所…江戸・吉原だ。
「…それはこっちの台詞だ、馬鹿。お前と一緒だと、俺が面白くねえんだよ」
悪所仲間であり、遊女の人気を二分する二人は年は離れているものの不思議と気が合う仲だ。土方にとってこうして軽口を交わしても嫌な気分にならないのは総司と伊庭くらいだろう。
夕暮れ迫る吉原には、既に客が今宵の相方を吟味するためにどこからともなく男たちがやってきていた。吉原は幕府公認の遊郭であるが、難点としては何故か賑わう町から離れた田舎にあること。来るまでに時間を要してしまう。
「そりゃ、伊庭道場の御曹司で、昨今巷で噂の美男子が隣にいるとあれば、さすがの土方さんも霞んでしまいますよねえ」
「…お前、あんまり調子に乗ってると痛い目に遭うぞ」
「どんな痛い目に遭うんでしょうねえ」
ははっと笑う伊庭には余裕がある。それもそのはずだ、痛い目を見せてやろうにも、彼の腕は悔しいことに既に土方を越えているのだ。
土方は反論したい気持ちを抑えて話を変えた。
「それで、お前はどの店に用があるんだ?馴染みの小稲か?」
さらにいけ好かないことにこの伊庭は、吉原で一番の美女・小稲に惚れられているとの噂だ。本人がどう思っているのかは、語りたがらないので知らないが。
しかし伊庭は少し気が進まない表情をした。
「いえ、今日は別の店に行ってみたい気持ちなんですよねえ。変わりばえしないのは身体に良くないでしょう」
伊庭は訳の分からない言い訳をして、懐から『吉原細見』を取り出した。『吉原細見』はいわゆる吉原の案内書で、妓楼や遊女、揚屋代、見取り図などこと細かに記されてる。
長年、吉原に通い慣れた土方からすればそんなものを読んで何がわかる、格子越しに花のかんばせを拝見したほうが早い、と言いたいのだが、伊庭は元々本の虫であるので、読み物という読み物に興味があるのだろう。
それから二人でふらふらと当てもなく歩き出す。人が行き交うなか、足を止めて店頭で女を見定めたりしながら歩いていると
「そう言えば、今日のことはもちろん沖田さんにはお話しているんですよね?」
と何故かそんなことを切り出した。土方は反射的に「はあ?」と驚いた。
「総司に?何で、いちいち報告しなきゃいけねえんだよ」
女房じゃあるまいし、というと、伊庭は困惑した表情を見せた。
「何も言っていないんですか。困ったな、また沖田さんに叱られる」
「総司が?お前を?」
総司は性格的には人見知りなのか、試衛館の人間以外には遠慮がちに付き合っているところがある。伊庭を叱りつけるなんて想像できない光景だが、伊庭は続けた。
「『土方さんは剣の稽古を怠って、女の人のところばかり通っている』って愚痴をこぼしていましたよ。遠回しに土方さんの悪所通いを諌めてくれって言われたんですけど」
「お前も俺と変わらず悪所通いばかりじゃねえかよ」
「そうなんです、だから土方さんを叱るわけにはいかないんですけど、まあ沖田さんの頼みなんで一応は引き受けたんですけどねえ」
やれやれと苦笑する伊庭に、土方はため息をついた。
「あいつは馬鹿が付くほど真面目で潔癖なんだよ。女と関わることが悪だと思ってやがる。だからいつまでも童貞なんだ」
「でも、土方さん。沖田さんがもし誰か…女と懇意になっても面白くないでしょう?」
「…んなことねえよ」
土方は否定したものの、それは考えたこともない想像だった。
総司はいつも試衛館に居て、何が面白いのか剣術のことばかり考えている。あとは甘いものを食べているか、道場の手伝いをしているか、子供たちと遊んでいるか…それくらいで、剣術以外についてはまだまだ子供なのだ。年を取ってもそれは変わらない気がする。
「ふふ、そうかな、土方さんは絶対面白くない顔をすると思いますけど。…まあ、人それぞれじゃないですか。土方さんみたいに女にうつつをぬかしすぎて人生を狂わせる人もいれば、剣術ばかりをして色恋に興味が無い人もいますよ」
「別に人生が狂ってるわけじゃねえだろ!」
いちいち嫌味っぽい伊庭に土方は思わず怒鳴る。しかし伊庭は飄々としていて笑っていた。
「ひとまず、沖田さんに頼まれたから義理は果たしておきますけど。少しは剣術に没頭してみたらどうですか?沖田さん曰く、土方さんは集中して腕を磨けばもっと上の免許だって取れるのに、それをしないからいけないんだ、ということでしたよ。これについては近藤先生も同じことをおっしゃっていましたし」
「…ふん」
土方は鼻で笑う。それは伊庭に言われなくとも、近藤から何度も言われていた言葉だった。
土方とて、夢を持ち剣術だけをやっていたいと思ったこともあった。けれど実家の行商の手伝いや豪農の末っ子の食い扶持…現実的なことを考えれば、剣術だけに実を捧げる人生に二の足を踏んでいた。
『お前には才能がある!』
幼馴染である近藤は何年も前から何度もそう言って励ました。たまにそう言って怒った。
けれど、その言葉がお飾りに過ぎないことを土方はよく知っていた。
総司の存在だ。
身近にあんな天賦の才を持った人間がいれば、自分なんか、と卑屈にならざるを得ない。そうでなくても試衛館に集まってくる食客たちは皆、有名道場の免許や我流で旅をしてきた強者ばかりだ。
そんな才能の塊みたいな試衛館は時々息苦しい。
(だからこうして吉原に来ているんだろうな…)
そう思うと、これは女に弱さを吐き出しているのか、と嘲笑したくなる。しかしこの吉原に来ても、伊庭のようなこれもまたとびぬけた才能の持ち主に出会うのだから、困ったものだ。
「…いいんだよ、ここでそう言う話は…」
「確かに、現世を忘れて楽しむ場所ですもんね。俺だって口煩くはいいたくありません」
土方が話を切ると、伊庭は何かを察したのか切り上げた。伊庭もまた総司と同じような才能の持ち主であるが、こういうあっさりとした性格故に土方が卑屈にならないで済んでいるのかもしれない。
そうしてしばらく歩いていると、『吉原細見』を読んでいた伊庭はふと足を止めた。
「土方さん、これは提案なんですけど」
「何だ?」
「今日は湯島天神の方へ行きませんか?」
「はぁ?」
伊庭の提案に土方は驚いた。吉原と湯島天神は左程離れている場所ではないが、しかしその場所には遊郭はない。
「…湯島天神は陰間茶屋ばかりだろう?」
湯島天神は女色を禁じられた僧侶の為の陰間茶屋が多く存在しているのだ。つまりは男色趣味の者が向かう場所である。
「だって日本橋の芳町はちょっと遠いじゃないですか」
「そういう問題じゃなくて、お前は男色に興味があるのかってことだ」
「興味はありますね」
あっさりと断言した伊庭だが、彼のいう『興味』は実際の性癖という話ではなく、『好奇心』ということだろう。
「湯島天神で評判の陰間がいるって聞いたんですよ。何でも、天女に見紛う風貌で、僧侶を虜にしているとか。吉原の太夫でも及ばないんじゃないかって言われているそうですよ。興味ありませんか?」
伊庭の誘い文句に、呆れていた土方も、ふと考える。
これまで自分の興味対象は女しか向いてこなかった。男なんか女のように柔らかくもなければ、きめ細やかな肌でもない…男色のことなど考えてみたこともない。
「いいじゃないですか、百聞は一見にしかず、ですよ。何も試しに抱いてみろって言っているわけではないんですから」
「…ああ、わかったよ」
伊庭が食い下がるので土方が諦めると、
「じゃあ行きましょう」
と何が楽しいのか伊庭は足取り軽く歩き出した。吉原を出て、田舎道を歩き、湯島天神前へ向かう。
吉原の賑やかさのせいで気が付かなかったが、既に真夜中で皆が寝静まっている。灯りが付いている家もまばらで、辺りは真っ暗だ。
「土方さん、先ほどの話の続きですけどね」
「ん?」
手元の提灯しか光が無いので、伊庭の表情は見えない。
「土方さんは何のために試衛館にいるんですかね?」
「…何のために?」
「行商をやめて、試衛館に居ついて…剣術に思いっきり取り組める環境になったじゃないですか。だから、もう剣の道のみを歩んでもいいはずなのに…時々土方さんは、まるでそこから逃げたいかのように見えますから。だから沖田さんや近藤先生が心配しているんじゃないですか?あの人たちは口にはしないけれど、土方さんがまたどこかに行ってしまうんじゃないかって」
「…」
伊庭の問いかけに、土方は咄嗟に答えが見つからなかった。
逃げたいと思ったことはない。試衛館は自分の居場所で、食客たちは仲間だと本気で思っている。何かあれば助けるし、自分も助けてもらえる関係だと思っている。
けれど時々思う。
『自分にしかできないことはないのか?』
剣術でもなく、知識でもなく…自分が一番だと誇れるものは無いのか。
だが、それを考えると憂鬱で仕方ない。
(それが、何もない気がする)
けれどそんな自信のないところを晒したくなくて、こうして時々彼らから逃げているのかもしれない。
「…考えすぎだ」
伊庭が指摘したことは正しい。
けれどそれを認めるほど、自分は大人ではない。
「…そうですか」
伊庭は少し笑った。けれどそれ以上は何も言わなかった。






327


湯島天神付近の陰間茶屋はひっそりと静まっていた。仄かな提灯が十軒ほど並ぶだけで、吉原のような活気はなく人通りも少ない。
しかし闇夜に隠れるようではあるが、確かに人の気配はする。心地よい三味線の音や男の嬌声が響き、妖艶で密やかな…独特の空気が流れていた。
「えーっと…多嶋屋だったかなぁ…」
慣れない異様な雰囲気に、土方は少し飲まれていたが、怖いもの知らずの伊庭は構わず足を踏み入れる。きょろきょろを辺りを見渡して目的の『多嶋屋』を見つけると
「ありましたよ!」
と無邪気に笑って土方を手招いた。
怖いもの見たさという気持ちが強かった土方は、今更ながら
「おい、本当に…」
行くのか、と伊庭に確認をしようとしたが、伊庭はさっさと暖簾をくぐってしまったので、土方もそれに続くしかなくなる。
すると店の番頭が「いらっしゃい」と小気味よい挨拶をしたが、伊庭の姿を見てその表情が少し変わる。土方と違って身形が良く、いかにもどこかの御曹司という風貌であるため、伊庭は良く目立つのだ。
「すみません、薫さんは?」
伊庭が早速訊ねると、番頭が残念そうに顔を顰めた。
「申し訳ございません、薫は今、お座敷に出ておりまして…!」
「そうですか…土方さん、どうします?」
正直、天女に見紛う薫の顔を拝んでみたい、という興味だけだった二人は薫の不在に戸惑う。今更吉原に戻るのも気が進まないが、他の陰間茶屋に行こうかという気分でもない。
「仕方ない、出直しますか」
伊庭も同じだったようで、踵を返そうとする。すると「待ちなよ」と遠慮のない声がかかった。
土方は声のする方を見る。二階から覗くように見ていた女…いや、男がこちらに手を振っていた。
「薫!」
番頭が彼を叱りつける。階上から呼びかけるのが失礼だ、といつもならそう思うかもしれないが、土方は薫をみて言葉を失った。
彼は目を見張るほどに端正な顔立ちをしていた。そもそも土方にとって整った顔立ちは見慣れていて、驚きはしないのだが、彼は別格だった。まるで後光が差しているかのようで、吉原の美女にさえこれほどまでに目を奪われたことはない。
(天女…か)
伊庭に聞いたときは半信半疑、話を盛っているだけだと思っていたが、こうしてみると確かにと言わざるを得ない。かく言う伊庭も呆気にとられた顔をして彼を見上げていた。
すると薫は軽やかな足取りで階段を下りてきた。
「薫!お座敷の途中だろう!」
番頭が叱りつけるが、薫は意にも介さない。
「もう飽きちゃったんだ、坊さんのお相手は。こちらのお武家風のいい男たちのほうが気に入ったんだよ」
「何を言っているんだ、ちゃんと花代を貰ったからには…」
「酔いつぶれて寝ちまったよ。放っておけば朝まで起きないさ」
飄々とした薫に、番頭も押し黙るしかない。すると薫は、土方と伊庭の顔をまじまじと見る。
年の頃は十五、十六くらいだろうか。近くで見ると幼さを感じるが、しかし圧倒的な美しさは少し距離を置いてみたいほど強烈だ。
「あたしを探していたんでしょう?」
薫はそう微笑むと、伊庭ではなく土方の手を取った。
「お、おい…」
「そちらのお武家さんも、こっちにおいでよ」
土方は薫に手を引かれるがままに店の奥に入る。伊庭は驚きつつもそのあとに続き、二人は無理矢理、部屋に押し込められた。
「はーっ、助かった。今日の客は趣味じゃないんだ」
部屋に入った途端、薫は吐き捨てた。見た目とは裏腹に口は良くないようだが、それを差し引きしても彼の魅力は尽きない。
すると伊庭が笑った。
「じゃあ、我々のことをお気に召して座敷に招いてくれたというわけじゃないんですね」
「お気に召すかどうかは今からじゃないかい?」
伊庭の軽口に、薫はあっさりとそういってのける。客に媚を売るでもない、取り入るでもない、自然で誇り高い姿勢。
彼が女であれば、確実に吉原で一番の看板を掲げていただろう。
すると薫は二人を座らせて、まずは伊庭の傍に腰を下ろした。
「ふうん…こちらは少し整いすぎている顔だね」
まじまじと値踏みをするように見て、薫は伊庭のことをそう評した。整っている、など薫に言われたところで説得力はないが、それでも伊庭は「ありがとう」と笑った。
「俺は伊庭八郎と言います。お見知りおきを」
「伊庭…?へぇ、伊庭道場のの御曹司、小天狗さんだ」
薫は伊庭の名を聞いてもその態度を変えなかった。大抵の女は媚びるのだが、彼は巷の噂を聞いたところで所詮は別の世界の人間、と割り切っているように見える。
「あなたのことは噂で聞いていました。天女に見紛う陰間がいる…その通りみたいですねえ」
伊庭はお世辞とも本音とも見えることを述べる。薫は言われ慣れているのだろう、ふっと息を吐いた。
「ありがとう。でもあたしは綺麗な男は好きじゃないんだ。特にあんたみたいなのは、一番ここに相応しくないよ」
「酷いなあ。どういう意味です?」
「あんたは男を抱くよりも、男に抱かれる方が似合ってるよ」
さすがの伊庭も一瞬言葉を失い、土方もまた驚いた。剣豪として知られる伊庭道場の御曹司を、冗談とはいえ侮辱する様な発言だ。これが薫でなければ「無礼だ」と斬り捨てられていてもおかしくはない。
だが、薫の飄々とした態度ではこちらは笑って聞き流すしかない。彼のそういう雰囲気のせいか、伊庭は特に気にしてない風に笑った。
「土方さん、そういうことだそうですよ、困ったなあ、どう思います?」
そう言って話を土方に振った。どう思う、と聞かれたところで「知るか」としか土方も答えようがない。すると薫が興味を土方に移した。
「それに比べてこっちの男はあたしの好みなんだ」
「良かったですねえ、土方さん。あ、この人は俺の友人で、試衛館師範代の土方歳三さんですよ」
「へぇ…シエイカン?」
貧乏道場の名前までは知らなかったのか、薫は少し首を傾げたが、伊庭の隣を離れて今度は土方の傍で腰を下ろした。
お香の匂いがした気がした。くらくらと脳天を揺るがすような、甘い衝撃だ。
「ひじかた…土方。何だか聞いたことがある気がする」
「あはは、土方さん、既にこちらにも名前が届いているんですか?モテる男は大変ですねぇ。薫さん、この人はね、気に入った女には声をかけずにはいられない天性の遊び人なんです。薫さんには勿体ないですよ」
「うるせえ、伊庭」
土方は軽く睨むが、茶化す伊庭は受け流す。
「それで、薫さん、土方さんのどういうところが気に入ったんですか?顔ですか?」
「顔?顔も悪くないけれど、…何となくだよ、何となく」
値踏みを続ける薫と、傍観者の立場に徹することにした伊庭がニヤニヤとこちらを見ている。土方は居心地悪く、「離れろ」と薫を押し避けた。
薫は拗ねた顔を作る。
「一晩、三両の陰間を雑に扱うねえ…」
そう嫌味っぽく言いつつ、薫はすっと立ち上がると、床の間に置いてあった三味線を手に取る。そして土方らの前にゆっくりと腰を降ろし、三味線を構えた。それまでしなやかだった体躯が、すっと背筋に一本の線が通ったかのように伸びる。凛とした横顔が、より一層の美しさを引き立てる。
「一晩三両は、高すぎると思うかい?」
パラン、と三味線独特の切なげな音が漏れる。
吉原の女とは違い、陰間と情を通じるのに回数を重ねる必要はない。出会った初日から身体の関係を持つのは当たり前なのだ。そんななか薫を座敷に呼ぶには、一晩三両…吉原の娼妓以上の金がかかり、遊びにしては高額な値がついている。
薫のその質問は土方に向けられていたのだが、答えなかったので伊庭が代わりに返答した。
「そうですねえ…『切り百文』の陰間がごろごろいるなかで、一晩三両というのはなかなかないですよね。でもあなたならさもありなん、って感じでしょうか。ねえ、土方さん」
「…さあな」
冗長に語る伊庭と短く答えた土方を見比べるように眺めて、薫は「ふっ」と笑った。
「あたしは高いと思うよ。高すぎる…一晩だけで三両なんて、割に合わないよ」
「そうですかね」
「そうだよ。あたしは…そんなに高くはない」
薫は明確な返答を避けたので、その意図は掴めなかた。
自分を誇らしく見せるくせに、どこか暗い影が差しているようにも見える。
美しさと儚さは背中合わせだ。少しでもどこかが崩れるなら、その美しさはすぐにでも失われてしまう。薫の風貌はそういう「危うさ」が常にあるように見えた。
すると薫の三味線がその弦を鳴らし始めた。
寂しげに。
切なげに。
その見た目の華やかさに影を差すように。

磯部の松に葉隠れて 沖の方へと入る月の
光や夢の世を早う
覚めて真如の明らけき
月の都に住むやらん
今はつてだに朧夜の
月日ばかりは巡り来て

三味線の頼りなく紡がれる音と、透き通った声に土方と伊庭は言葉もなく聞きつづけた。
その美しさに目を奪われ、
その声に耳さえも虜になり、
「野郎の弄びは散りかかる花のもとに狼の寝ているがごとし…どうだい、試してみるかい?」
上目遣いの瞳が、止めを刺した。







328


「『野郎の弄びは散りかかる花のもとに狼の寝ているがごとし。傾城になじむは入りかかる月の前に提灯のない心ぞかしとならん』…井原西鶴ですね」
薫のいる多嶋屋からの帰り道、伊庭がそう教えてくれた。人通りは少なく通りすがる人もいない夜更けになっていた。
「井原西鶴自身も男色家として有名だったそうです」
「ふうん…」
土方は生返事をした。
確かに運命的に薫のような陰間に出会ったとすれば、その価値観も真逆になってしまうだろう、と理解はできた。
結局あの後は、薫の三味線を聞きながら食事を共にしたところで、先客であった僧侶が目を覚まし、薫が傍に居ないことにカンカンに怒ったようで急いで番頭が呼びに来て、場はお開きになってしまった。
薫は大きくため息をついて二人に別れを告げた。
そして妖艶なその微笑みで。
「また来てくれる?」
と甘い囁きをあからさまに土方に向けた。
「それにしても、土方さん、随分気に入られたみたいですね。俺の方なんか見向きもしなかったですからね。残念だなあ」
袖にされたことに対して伊庭はそう漏らしたものの、言葉にするほど残念な様子は見えない。
「…お前、途中から面白がっていただろう」
「そりゃそうですよ。あんなに見向きもされなかったのは久々ですから、多少の意地悪は許してもらわないと」
軽やかに笑った伊庭だが、一方で土方は深くため息をついた。
「…何だか、疲れた」
女でもなければ、男でもない。
薫の独特の雰囲気にのまれて、どう扱っていいのかどう答えていいのか、土方は随分と戸惑ってしまった。なので、宴の席では主に伊庭は(土方を出しにして)喋りつづけ、土方はろくに薫と目を合わせていない。
(合わせられなかったのか…?)
自分のなかに、何故だか罪深い意識がある。女とどれだけ羽目を外しても感じない、罪悪感を薫には感じた。
(何故だ…?)
彼が女ではないからか?
彼が美しすぎるからか?
黙り込んだ土方を見て、伊庭はくすくす笑った。
「遊び人を自称するなら女も男も嗜まなきゃ」
「お前は嗜むつもりがあると?」
「ありませんね。俺は遊び人じゃありませんから」
伊庭は即答して続けた。
「俺にとって女遊びは…まあ、男も遊びも、でしょうけど、たぶんただの見聞なんですよ。知らないことを知りたい、自分にとって知らないことがこの世にあることが許せない。そういう発想なんですよ。だから、馴染みは要らない。次々と新しい人に出会って、その人のことを知りたい…その繰り返しで満たされるんです。俺にとって女遊びは学問と一緒です」
「…」
伊庭のその考え方を、理解はできないものの、土方は以前から知っていたような気がした。
彼は小稲という意中の花魁という噂の裏で、様々な女に関わってきた。高嶺の花ともいえる花魁から、見てくれは醜いと思わざるを得ない女まで…分け隔てなく接していた。土方からすれば女は美しいに限ると思うが、伊庭にとっては自分の興味を満たしてくれる存在であれば、ある意味誰でも良い。おそらくそのポリシーは彼の中の「遊び人」には当てはまらないのだろう。
「そういう意味では、薫さんのことは今夜一晩で良くわかりましたよ」
「わかった…?何がだ?」
土方は驚いた。
掴みどころのない性格。
飄々とした言動。
それでいて時折見せる切なげな表情。
麗しい見目と重なって、土方は薫のことが理解できずに混乱ばかりしていたのだ。伊庭も同じだろうと思っていたのだが、彼は既に達観した言い方をしていた。
しかし伊庭は答えを教えてくれず
「それは内緒です。俺の主観ですから」
と笑った。
「ただ一つ言えるのは…土方さんが薫さんのことを『苦手だ』と思っているとしたら、それはきっと同族嫌悪ですよ」
「同族嫌悪…?どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ。答えは薫さんのところに通いながら見つけてください」
丁度二人は、分かれ道に差し掛かる。
「おい、俺は通うなんて一言も…!」
「賭けてもいいですよ。土方さんはきっと薫さんの所にもう一度行くでしょう。行かないと、気が済まないだろうから」
「おい…!」
伊庭は謎かけだけを残して「じゃあここで」と角を折れて去っていく。提灯の灯りが土方の分だけぽつんと残される。
(何だっていうんだ…)
土方はその場に立ち尽くし、己のうちにある不快感を覚えた。それは伊庭に得意顔で、心の奥底を覗かれたような気がしたからだ。


「今日は早かったですね」
試衛館に着くなり、玄関で出くわしたのは総司だった。夜も大分更けているので、さすがに寝間姿だ。
「…何だ、起きていたのか」
出来れば会いたくはなかったな、と思いつつ足を洗いながら訊ねると「違います」と総司は答えた。
「歳三さんじゃあるまいし、こんな時間まで起きているわけがないじゃないですか。ちょっと厠に起きて、物音がしたから覗きに来ただけですよ」
「そうだな、ガキは寝る時間だからな」
「またそう言って…」
総司は不満そうな声を出したが、土方の隣に腰を降ろした。
「…今日はいつもと違う匂いがしますね」
くんくん、と鼻を鳴らしながら総司は土方の首元の匂いを嗅ぐ。土方はぎょっとして「離れろ」と総司を押しやった。自分でもなぜそこまで動揺したのかわからなかった。
「今日は…別の女のところに行っただけだ。大体匂いでわかるのかよ」
「わかりますよ、試衛館に女っ気が無いので、そういう変わった匂いは珍しいんです。ふうん…良い匂いですね」
土方の咄嗟の嘘に、総司は気が付いていないようだ。
(陰間茶屋に行った…なんて言ったら、余計に騒ぎかねないからな…)
総司だけならまだしも、試衛館食客にでもバラされるとからかわれるのは目に見えている。
「大体、歳三さんは次から次に女の人を変えて、その都度、修羅場になるんだって聞きましたよ。いつか痴話げんかで刺されるんじゃないですか?」
「誰に聞いたんだよ、そんな話」
「伊庭君に決まっているじゃないですか」
またあいつかよ、と土方はため息をつく。余計なことばかりを総司に話すので、今度口止めをしなければならないだろう。
そして足を洗い終えて
「じゃあな」
と総司から離れようとしたところで「待ってください」と引き留められた。
「話があるんです」
「話ぃ?」
土方はあからさまに拒んだが、総司は「真剣なお話です」と頑なだ。土方は仕方なくもう一度腰を降ろした。
「歳三さん、いい加減に女遊びは謹んで、剣術に真摯に取り組んでください」
「…またその話かよ」
それは幾度となく、近藤や総司からも聞かされていたし、今夜も伊庭から忠告を受けたところだ。ウンザリしたが、総司は続けた。
「歳三さんはまだ目録ですが、実力では免許以上のはず…もっとまじめに取り組めば免許皆伝も遠い話ではないんです」
「免許皆伝の沖田先生にそこまで言ってもらえるなら、そうなんだろうな」
「茶化さないでください。歳三さんは『型に嵌るのが嫌い』だとか『我流で極めた』なんて言いますけど、それでもある程度は基本の型が無いと、強くなれない…そのことは歳三さんも分かっているんでしょう?」
「…うるせえな」
薬の行商をしていた頃、土方は我流で鍛えた剣術を行商途中に立ち寄った道場で披露していた。田舎の道場では負けることはなかったが、それなりの流派を極める道場では全く歯が立たなかった。それは土方にとっても苦い記憶である。
しかし総司は怯まなかった。
「うるさいって言われても続けます。それをわかっているのに、どうして真面目に取り組まないんですか?幸いにも行商の手伝いもなくなって、試衛館の食客として剣だけに取り組める環境に恵まれたじゃないですか。歳三さんが望んだことでしょう」
「望んだこと…ねえ」
「それなのに、女の人のところにふらふらと…まるで、逃げるみたいに」
『逃げる』
その言葉を聞いた途端、土方の中に何かが一気に渦巻いた。黒くで歪んだ感情が。
暗がり総司はで気が付かなかっただろうが、土方は総司を睨み付けた。かつてないほど強く、鋭利に。
「…話はそれだけか?」
苛立ちを隠しきれずに、土方は冷たく総司に問いかける。総司も何かを感じ取ったのかその表情を変えた。
「…近藤先生の気持ちも考えてください。近藤先生は誰よりも歳三さんと一緒に歩みたいと…」
「だったらお前は、俺の気持ちも考えろよ」
「え?」
土方は膝を立て、立ち上がる。そして総司を見下ろして続けた。
「俺は誰よりも…お前にはそれを言われたくねえよ」
「歳三さん…?」
「じゃあな。俺は寝る、もう話は聞かねえからな」
冷たく拒み、土方は総司に背を向ける。総司もさすがに怯んだのか追いかけてくるような真似はしなかった。
(くそ…っ)
胸糞が悪い。
伊庭に言われたことも、総司に忠告されたことも、すべてが自分を苛立たせる。
(んなこと…わかってんだよ…!)
土方は心の中で叫んだ。





329


翌日は雨が朝から降り続いていた。
「あー!総司、参った!もうやめようぜ!」
悲鳴のような声を上げて、原田はその場に腰を降ろした。じめじめとした試衛館での稽古は、不快な汗がまとわりついてしまう。
「もうですか?」
肩で呼吸をする原田と違い涼しい顔をする総司に、彼は「勘弁しろよ」とついには道場に大の字に転がった。
「ったくよぉ…稽古に付き合えっていうから、渋々つきやってやってんのに、お前、本気で打ち込んでくるんだもんな。手加減くらいしろよな、相手しきれねえよ、畜生…」
と原田はブツブツと文句を言った。彼はもともと槍専門で剣術は苦手だという前提はあるものの、二人の実力は天と地ほどの差があるのだ。
「だって、山南さんも永倉さんも藤堂君も出掛けて、近藤先生はお忙しそうだし…誰も相手にしてくれないんですもん」
「土方さんがいるだろー」
「…歳三さんは、まだ寝ているんです」
「起こして来いよ、いつものことだろう」
「それは…そうですけど…」
言い淀んだ総司に目敏く気が付いた原田が寝転がっていた上半身を起こし
「何だ、喧嘩でもしたのか?」
と訊ねてきた。
「喧嘩っていうか…」
「ま、お前らはいつも喧嘩してるもんな」
「…今回のは、そういう感じでもないんですけど…」
総司は少し俯いた。
昨晩は結局、あのまま別れてしまい、それ以上を訊ねることができなかった。土方はさっさと眠ってしまったようだが、総司は何が土方を怒らせたのか…そのことばかりを考えてあまり眠れなかった。
『俺は誰よりも…お前にはそれを言われたくねえよ』
そう冷たく言い放った土方の言葉は、かつてないほどに刺々しく聞こえた。
(何が…怒らせてしまったんだろう…)
あんなふうに小言を言うのはいつものことだ。土方はその度は茶化して、誤魔化して「はいはい」と適当に聞き流す。ある意味、いつものやり取りに違いなかったのに。
「…何か、嫌われちゃったみたいです」
何かが、土方の逆鱗に触れた。そして総司をあからさまに拒んだ。それだけはわかるし、それだけしかわからない。こんなにも土方のことがわからないと思ったのは、初めてだ。
すると原田が「ははっ」と笑い飛ばす。
「あり得ねえ。いつも通りの喧嘩だろ?」
「そうでしょうか…」
「…ったく、だから稽古かよ。俺に八つ当たりしやがってさあ…さっさと仲直りして来いよな!」
そう言って、総司の肩を叩いた。
豪快な笑い声と根拠のない原田らしい励ましに、総司は少し気が緩む。
「そう…ですね」
偶然機嫌が悪くて、虫の居所が悪くてそれこそ本当に『八つ当たり』されたのかもしれない。総司はそう思い返し、どうにか微笑む。
すると道場に近藤が顔を出した。
「ああ、総司、ここにいたのか」
「近藤先生、どうされたんですか?」
「いや、歳が居なくてな」
「え?」
近藤は「知らないか?」と訊ねてきたが、総司は首を横に振った。近藤は顔を顰めた。
「ったく…てっきり寝ていると思ったのに…どこに行ったんだか…」
困った奴だ、と言わんばかりにため息をついたが、総司は再び暗澹たる思いに包まれたのだった。


土方は目を覚ますとすぐに試衛館を出た。細心の注意を払い、誰にも見られないように出たので誰も気が付いていないはずだ。
昨晩と同じ道を歩く。さすがに日中ともなれば人通りは多い。いつも通りの行き交う楽しげな声を聞きながら、しかし土方はいまだに胸の中にある苛立ちと向き合ったままだった。
『逃げるみたいに』
総司が何気なく言った言葉が、木魂していた。そしてそれが自分のなかにある触れてほしくない場所に刺さった気がした。
だが一方で、そんなことで傷つく自分を客観的に俯瞰する、もう一人の自分も居る。
(…思春期のガキかよ、俺は…)
たかがそれだけのことで、こんな風に総司を避けて道場を飛び出し、行く当てもなく彷徨っているなんて馬鹿げているし、自分らしくもない。
『土方さんは何のために試衛館にいるんですかね?』
伊庭の問いかけに、答えられなかった自分が情けない。そしてそんな自分だからこそ、総司の言葉に噛みついてしまったのだと思う。
混乱しているようで、ちゃんとわかっている。
その通りなんだ。
逃げている。
剣術にも、試衛館にも、近藤にも、食客たちにも、そして総司にも向き合いたくない。
(あいつらは…眩しすぎるんだ…)
一途にまっすぐで。迷いが無くて、振り返ることもしないで。
それが、自分には…
「歳さーん!」
「…あ」
土方は呼ばれた声で、気が付いた。いつの間にか自然と昨晩の足跡をたどる様に湯島天神に来ていたのだ。
そして親しげに呼ぶのは
「…薫…」
見上げた店の二階の出窓から、手を振ってこちらに笑顔を向ける姿があった。おろし髪で一瞬誰だかわからなかったが、その整いすぎる顔立ちは遠目からでもすぐに目についた。
薫は手招きするように呼び寄せて、窓辺から去ってしまう。はからずしも伊庭の言った通りに再び多嶋屋に来てしまったのは癪に障るが、
『同族嫌悪ですよ』
と伊庭が言っていた指摘も気になっていた。
土方は躊躇いつつも、多嶋屋の暖簾をくぐったのだった。

「歳さんがこんなに早く会いに来てくれるなんて思わなかった」
薫は土方に笑みを浮かべた。昨晩のような化粧は施していなかったが、それでも際立って美しい顔立ちだ。
薫は親しげに「歳さん」と呼ぶ。いつの間に呼び始めたのか、土方は気が付かなかったが今更指摘するのも手間なので、受け入れることにした。それに不思議と、それが不快ではないのだ。
「…まだ店は開いていないんだろう」
土方がやってくると昨晩の番頭が困った顔で出迎えた。まだ日中で、吉原でも女たちが休んでいるような時間だ。しかし薫が無理やりに部屋に連れ込んでしまったので、番頭も何も言えなかったようだ。
「いいよ。あたしが連れ込んだんだから、金も要らない」
「そんなわけには…」
「そうだね…じゃあ『一切り百文』でいいよ」
薫は伊庭が言っていた言葉を引用して茶化した。相変わらず読めない思考だ。
惑わされないように土方は一息ついて
「…それよりも、何の用だ」
と切り出した。
「用って?」
「用があるから呼び寄せたんだろう」
「野暮なことをいうねえ」
土方の問いかけに、薫は少し驚いたような顔をした。そしてゆっくりと土方に近づいて両肩に触れた。上目遣いで顔を覗き込む。
「ここは吉原じゃない。いちいち、初会だ馴染みだなんて手順を踏む必要はないんだよ」
「…だから、何だ」
「それをあたしに言わせるなんて、意地が悪いねえ…抱いてもいいよって、言っているんだよ」
薫はすっと土方の首筋に手を伸ばした。二人の距離が近づいて薫の香の匂いが鼻を掠める。
『…今日はいつもと違う匂いがしますね』
総司の声が脳裏を過り、土方はかぶりを振った。
(あいつは…関係ない)
土方は自分にそう言い聞かせるように、意識を薫にと集中させた。
昨晩の女の装いとは違う、着流しの恰好をした薫は胸の膨らみもない男に違いないのだが、それでも十分に相手を見惚れさせるような雰囲気が漂っている。細く白い手首が土方の首に回される。こんなところまで女のようだ…と思ったのもつかの間、土方はすぐにその手首を掴んだ。
「…この傷は何だ?」
薫の手首にある真新しく生々しい傷跡に気が付いたのだ。それに薫の身体をよく見ると、首筋には赤い鬱血したような後も残り、足には切り傷もあった。
しかし薫は「ああ」と特に反応はない。
「昨日の坊さんだよ。お座敷を抜け出して、歳さんたちと遊んでいたことを咎められたんだ。…全く、御仏の遣いだなんて言いながら、縛ったり殴ったりするのが趣味だって言うんだから、坊さんっていうのは信じられないよね」
淡々と語る薫はまるで他人事のようだ。傷跡はいまだ痛みを持っているだろうが、まるで感じていないという雰囲気だ。土方は正直、驚いていた。
「お前は一応…売れっ子の陰間なんだろう。そんな扱いをして店は出禁にしないのか」
「そんなことするわけないよ」
おかしなことを言うね、と言わんばかりに薫は笑った。
「歳さんはまだわかっていないようだけど、俺がどれだけ美しくて、着飾って、見たこともない『天女』だとしても、所詮は男だ。ここを訪ねてくる男色好きなんてほんの一握りで、皆興味本位…女の代用品だ。だから、どれだけ乱暴に扱われたって、男だから平気なんだと思われる。店だって、金さえ払ってくれればそれでいいんだ」
「…そんなことは…」
「あるさ。前なんて、嫉妬に狂った女に蝋燭の火で肌を焼かれそうになった。まったく頭のおかしい客ばかりだ」
「……」
あっさりと薫は語るが、土方は返答すらできなかった。
すると薫は突然、土方を押し倒した。そしてその上に馬乗りで乗りかかる。
「男が来たら抱かれ、女が来たら抱いてやる。それが陰間茶屋だ…でも」
「…なんだ?」
「俺は、いったい何なんだろう」
下から見上げた薫に、土方はごくりと息を飲む。それはまるで土方の心を抉るような言葉だったからだ。
一体、自分は何者なのか。
本質的な問いかけを、薫は躊躇いもなく土方に投げかけた。
(そう言うことか…)
伊庭が言いたいことが、薫のその言葉でようやく理解できた。
土方が試衛館で感じる、周囲の才能に埋もれるという恐怖。
そして薫が抱く、自分への存在への矛盾と孤独感。
二人とも、表に見えるものと裏で感じている感情が重なり亀裂を生んでいて、どうしようもなく抜け出せないでいる。この火傷に似た痛みを、伊庭は『同族嫌悪』だと言ったのだろう。
「見た目が美しいだけでいいと言うのなら、人形でも玩具でもいいはずじゃないか…俺じゃなくても、空っぽのままでも。それを天女だなんて持て囃されて…馬鹿みたいだと思うんだ」
悲しげな物言い。
土方の前で初めて使った『俺』という一人称が、本来の姿なのだろう。
そしてその姿が、自分に似ていると少し思った。
「…俺に抱いてほしいのか?」
土方は真っ直ぐに薫に問いかける。薫は少し目を見開いて驚いた様子を見せたが、ゆっくりと頷いた。
「抱いてほしい。いますぐに」
「何故だ」
「さあ…どうしてだろう。歳さんなら答えをくれるとでも思ったのかもしれない」
唇が触れそうになる。
薫が望むような、明確な答えなど持っていない。そもそもまだ出逢って一日も過ぎていない。相手のことなんてわかるはずがない。
しかし、土方は身体を起こし逆に薫を押し倒した。
「…っ」
まるで何かの糸が切れたかのように、土方は薫の身体に貪りついていた。女ほど柔らかくもない、男ほど固くもない、白くしなやかな身体に。
これは一体、何の感情なのだろう。
自分は陰間趣味ではない。
薫に欲情したわけでもない。
だったらこれは?
(慰め合いか?)
首筋に、鎖骨に、愛撫を繰り返すなか、薫がそっと土方の背中に手を回した。
「ねぇ…一緒に溺れよう。初めて会った時から…あんたなら良いって…思ったんだ」
ぽつりと呟いて、彼は長い睫毛を伏せた。




330


「また不義密通ですか?」
近藤の話を聞いた総司は、さすがに驚いてしまった。
「ああ、石川に引き続いて施山くんで二人目だ。二人とも上州館林出身だということだから、こういう京の煌びやかな雰囲気に踊らされてしまったのかもしれないなあ…」
普段から温厚な近藤は同情を込めた感想を漏らすものの、腕を組んでため息をつくしかないようだ。
先日、入隊して間もない石川三郎が人妻と不義密通をしていることが発覚したばかりだが、まるで同じことが施山多喜人という新入隊士にも起きてしまったのだという。二人とも組下ではないので良く知らないが、田舎から出てきて羽目を外しすぎたということらしい。
「…ということは、切腹ですか?」
「ああ。石川くんと同時に行うということだ。…全く、仕方ないこととはいえあまり気分が良い話ではないな」
近藤はしかめっ面をした。
先日の石川の不義密通の件は、宗三郎からも確認が取れたため、伊東も切腹には了承したらしい。厳しすぎるとは言わないが、せっかく入隊した隊士がつまらないことで切腹になるのは、残念ではある。
「人数が急に増えて、指導の目が行き届かないのでしょうか?」
「うむ…歳は今回の切腹が良い見せしめになるだろうと言っていたが」
「土方さんらしい意見ですね」
総司は苦笑した。
彼らはたかが不義密通、示談で交渉すればそれで終わり、と思っていたのかもしれないが、新撰組には『局中法度』という鉄則がある。その第一条である『士道に背く間敷事』はいかようにも解釈され、その先には切腹が待っているのだ。今回の出来事は確かに土方の言うとおり、新入隊士の気を引き締めることになるだろう。
「今回の件は仕方ないとしても、そろそろ局中法度に加えた新たな法度を検討しなければならないと話していたところだ」
「ああ…それでしたら土方さんが既に草案を作られていたようでした。残念ながらまだ見せてもらえませんでしたけど」
「相変わらず仕事が早いなあ」
近藤は笑いながら、総司に菓子を進めてきた。
「あ、金平糖だ」
「お前は小さい時から好きだったからなあ」
「子供の頃から好きだったんですよ。町に出るたびに姉さんにねだって…」
総司は早速、口の中に一つ放り入れる。程よい甘さが広がり、幼い頃の思い出が込み上げてくるようだった。
するとそんな様子を見ていた近藤が微笑んで
「…それで、今日は何に悩んでいるんだ?」
と訊ねてきた。
「え?」
「お前がそういう顔をしているときは大体、何か悩んでいる時だからな」
師弟揃って鈍感だ、と土方は言うけれど、近藤は近藤で自分なりのものさしを持っていて、そのものさしを宛がうことができれば鋭く相手の感情を読み解くことができる。ただそのものさしが本当に近い人…土方や総司にしか使用できないと言うだけのことなのだ。
「…近藤先生、薫さんってご存知ですか?土方さんの…その、馴染みの。試衛館に居た頃のことなんですけど…」
「薫?聞いたことの無い名前だなあ…」
「そうですか…」
近藤の返答に総司は少し俯いた。
二人で薫…こと、宗三郎のもとを訪ねたとき二人が旧知であることを総司は知った。仮面を何枚も被ったかのように飄々としている宗三郎が土方の顔を見て、酷く驚いていた。また土方もまた予想だにしない再会に動揺しているように見えた。
そして土方は、宗三郎の顔を見るや
『任せた』
といってさっさと去ってしまったのだ。
二人の間に何かがあった…というのは、鈍感な総司にもわかった。宗三郎ほど美しい面立ちなら、二人が出会った場所も想像がつく。
(陰間茶屋に通っていたなんて…そんなこと、聞いたことが無いなあ…)
土方が江戸の吉原で『やんちゃ』をしているという話は幾度となく聞いていた。あの頃は、土方が試衛館に居なければ『吉原に行っている』と考えるのは試衛館食客皆に共通していたことだろう。そのことについて、今更責めるつもりはない。
けれど、陰間茶屋なら話は別だ。
(男はお前が初めてだって…そう言っていたのに)
固執していたわけではないものの、土方に嘘を付かれていたとしたらそれはショックだ。だが、何故か本人に聞く勇気はなかった。
肯定されたくなかったのかもしれない。
「で、その薫…がどうかしたのか?」
事情を知る由もない近藤は首を傾げる。総司は少し黙り込んだものの
「なんでもないです」
と笑って返した。金平糖を二、三粒口の中に入れて、ころころと転がして誤魔化した。


その後、総司は近藤と雑談をして部屋を後にした。晴れない気持ちは確かにあったものの、近藤に迷惑をかけるわけにはいかない。それがましてや色恋沙汰の相談など、新撰組の局長にできるわけもない。
(こういうことに詳しいのは、原田さんだけど…下手に吹聴されるだろうし、永倉さんは真面目だからなあ…)
状況がわかるわけがない藤堂も困るだろうし、あとは試衛館で近藤の兄貴分だった井上源三郎もいるが、彼も色恋沙汰には疎いだろう。もしここに伊庭がいれば状況はすべてわかっているのかもしれないけれど、早々都合よく彼がいるわけもない。
そして思い至ったもう一人が、偶然目の前に現れた。
「…斉藤さん」
その姿を見るだけで、どきりと緊張が走る。斉藤は巡察帰りのようで、無表情のまま「ああ」と端的に返答をしたが、まるで以前一緒の部屋で過ごしていたことが嘘のようだ。
「副長は?」
「…土方さんは留守みたいですけど」
「そうか…」
斉藤がちらりと総司を見た。どういう顔をして良いのかわからず思わず顔を逸らすと、斉藤は
「…話がある」
と強引に総司の腕を取った。
「え?え…?斉藤さん?」
「いいから」
有無を言わさず総司は斉藤に引っ張られるままについていく。隊士たちが不思議そうな目で見る中、二人は西本願寺の境内の反対側…人気のない裏手にやってきた。そこでようやく斉藤が腕を離す。
「あ…あの、話って?」
木陰になった裏手では顔の陰影がはっきりする。すると普段は喜怒哀楽を示さない斉藤が、何故か能弁に何かを物語っているようにも見えた。
斉藤はやや不満そうに漏らした。
「いちいち構えられても困る」
「か、構える…?」
「あれは、けじめだと言ったはずだ。忘れろ」
「…それは…」
それはあの日、斉藤からの想いを告げられたときの言葉だ。答えられないのは知っている、けれでも伝えたのはけじめなのだと斉藤はそう言っていた。
それからは確かに斉藤は何事もなかったかのようにあっさりとしていたが、その反対に言いようもない混乱と戸惑いを感じていたのは総司の方だ。
言い淀む総司とは裏腹に、斉藤は木の幹に背を置いて腕を組んだ。
「…言い直そう。取り消す」
「え?」
「忘れてくれというのができないなら、あれは嘘だったと言うしかないだろう」
斉藤が自嘲するように言うので、総司は思わず
「それは駄目です!」
と叫んでいた。斉藤は「は?」と目を向いて驚いたが、総司は続けた。
「いや…駄目っていうか…別に、取り消してほしいわけじゃないんです。それに、例え嘘だったなんて言われても…あの日の斉藤さんがどれだけ真剣だったのかくらい、わかりますから…」
「…」
試衛館の食客たちほどではないにしても、斉藤と過ごしてきた時間も長い。だからこそ、その関係を壊してまであの日の斉藤が決意を秘めて伝えたのだということは痛いほどわかる。
けれど
「私はただ…申し訳ないと思うんです。そんなに…想ってもらえているのに、何も返せない…から」
「…返してほしいなんて言っていない」
「それは…そうですけど…」
自分がどうしたいのかわからず、総司は言葉が見つからない。
本当は斉藤の言うように、何もなかったことにして時間が経つのを待っていればいい。斉藤がそうしてほしいというのだから、それが一番正しいはずだ。
「…斉藤さんは、平気なんですか?忘れてほしいとか、取り消すとか…本当にそう思っているんですか?」
「……」
総司の問いかけに、今度は斉藤が少し視線を落とした。腕を組み直し言葉を選んでいるのがわかる。
そうしてしばらくの沈黙が流れた後、斉藤がようやく口を開いた。
「らしくないのは、嫌いなんだ」
「らしくない?」
「自分を冷静に見ることができなくなるのが、一番、面倒なんだ。ましてや色恋沙汰で頭を悩ますなんて馬鹿げているとしか思えない」
「…」
それはとても斉藤らしい考え方だと思った。そんな彼が「らしくない」と思うほど、いま悩み考えている。それほどまでに重い告白だったのだと、総司は改めて実感する。
「…今思うのは…あの時、何も言わなければ良かったということだ。おそらくあんたは一生、俺の気持ちなど気が付かなかっただろう」
「…斉藤さん」
「けれど、仕方ないな」
斉藤が力を抜いたのがわかった。まるで少し荷を下ろしたかのような表情をした。
「こういうことは、らしくないものらしい…」
「…どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味だ」
総司が首を傾げると、斉藤は木陰から離れ、一、二歩総司の方へと近づいた。
「元通りとは言わない。あんたが器用じゃないのは重々知っている。だから…今まで通りにしよう」
「今まで通り?」
「一番隊組長と三番隊組長、そして試衛館からの旧知の仲、壬生では同室の仲…そういうことだ」
「…それで、いいんですか?」
総司が食い下がると、斉藤は「今は良い」と答えた。
「あんたに頼られない方が苦痛だと、今わかったんだ。だから何かあったなら、相談してくれ」
「…相談…って」
「何かあったんだろう」
斉藤の目が優しいものに変わる。彼が言った通り、元通りとまでは行かないまでも、総司との友人は続けてくれるようだ。
その優しさに絆されて、総司はつい口を滑らせてしまうのだった。






解説
325石川三郎件については、後ほど解説に書きますが、時系列的には順番がずれています。
327地歌『残月』ですが、地歌とありますようにこれは上方(京都)の方の地歌です。
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