わらべうた




331


総司の話を聞き終えた斉藤は、あっさりと
「本人に聞けばいい」
と答えた。
「本人って…土方さんにですか?」
しかしそれはあまり気の進まない選択肢だった。宗三郎と対面した時点で、土方はとても嫌そうな顔をしていて、屯所に戻ってから顔を合わせてもあからさまに「何も聞くな」と言わんばかりの雰囲気を醸し出しているのだ。
斉藤は「あんた以外誰が聞けるんだ」と訊ね返してきた。確かにその通りで、これは土方と総司、二人だけの問題なのだ。
だが、それでも総司は迷いがあった。宗三郎と土方がどんな関係だったのか、それは宗三郎の容姿を鑑みれば聞かなくても想像できることだし、肯定されても否定されても過去はどうしようもない。
それよりも
(昔のことにこだわってる…って思われるのは、何か嫌だ)
土方が昔から女遊びに勤しんでいたことは承知しているし、そういう人だと分かってこういう関係になっている。まさか男までも、と最初は驚きはしたものの、それも織り込み済みで理解すべきだと思う。
それなのに
『宗三郎さんとどういう関係なんですか?』
と総司が口にすれば、土方はどう思うだろう。総司が気にしている、嫉妬しているとすぐに思われてしまうだろう。
「斉藤さんは呆れるかもしれないですけど…そういうことを気にしてるって、土方さんに思われたくないんです」
「…よくわからないな」
「過去に何があったとしても、そんなこと気にしない奴だって土方さんには思われたいんです。変なところで気を遣われたくないし、心配されたくもない」
土方が自分のことを大切に想ってくれていることは重々知っている。だからこそ、過去のことに嫉妬するなんて、彼の今のその気持ちを信じていないの同義だと思う。
だから、問い詰めたくない。そんなことで忙しい土方を煩わせたくない。
本当は斉藤に相談するまでもなく、『過去なんてどうでもいい』と割り切れたらいいのにと思う。
「…強情だな」
総司の心情を、斉藤はため息交じりに受け取った。遠慮のない、それでいて的確な感想だ。
「そうかもしれません」
「それに面倒だ。そんなことで悩むなんて、時間の無駄でしかない」
「ああ、もう。そんなことは私だってわかってますよ…斉藤さん、言いたい放題ですね」
年下であるはずの斉藤の端的な返答に、総司は苦笑しながらも密やかに安堵する。彼の心情を慮ると簡単に喜ぶべきではないのかもしれないが、ここ数か月の間はまたこんな風に友人として付き合って行けるとは思っていなかったのだ。
「じゃあ、どうするんだ。何も見ないふりをしてこのまま忘れることに徹するのか?」
「…それもそれで、良くないと思うんです。様子がおかしいって近藤先生にも心配をおかけしたし、斉藤さんにだって気づかれちゃいましたから。そろそろ土方さんにも何か言われそうで…」
「だったら、方法はもう一つしかないだろう。その、宗三郎とかいう陰間に直接聞いてみることだ」
「直接…」
それは考えてもいない方法だった。本来であればすぐに思いつく手だったのかもしれないが、宗三郎の飄々とした受け答えやどこか冷めた物言いから、彼の本音は聞き出せないだろうと思っていたからだ。
「…それも、難しいかも」
「じゃあ八方塞じゃないか」
「ははは…確かに」
総司は頭を掻いて誤魔化したが、斉藤はふうと息を吐いて腕を組みなおす。
「…取りあえず、少し冷静に考えてみろ。何も急くことはない」
「そうですね…じゃあ、また相談に乗ってくれますか?」
総司は斉藤の顔を覗き込む。
その申し出に斉藤は少し驚いた顔をしていたが、すぐに顔を顰めて視線を逸らし、わざとらしく大きくため息をついて
「…仕方ない」
と答えたのだった。


その日の夕焼けは、いつもよりも赤々としていて、通り過ぎて行った青ともうすぐやってくる黒の狭間で、鈍く辺りを照らしていた。ぼんやりとその奇妙な夕焼けを窓越しに眺めながら、宗三郎は怠惰に時間を過ごしていた。そろそろ梅雨がやってくる湿った空気を感じながら、陽が暮れる前に家路につく人々の往来を眺める。
そうしていると、その中から目立つ人影を見つけた。足早に店に入るための角を曲がりこちらにやってくる。目を細めてその人物の姿を確認し、宗三郎は気だるい身体を起こして、階段を下りた。
「…お客さんかい?」
店主の素っ気ない質問に、宗三郎は「たぶんね」と答えた。すると店主は
「面倒はよしてくれよ」
と言いつつ店の奥に引っ込んでいく。元々商売っ気がなく売り子にも関心のない店主だが、先日お抱えの陰間だった『駒吉』が新撰組に殺された一件から、面倒事にウンザリしているようだ。
そうしていると、店の暖簾が揺れた。
「おこしやす」
わざとらしい京言葉で出迎えると、やってきた土方は宗三郎を見て嫌そうな顔を浮かべた。
「お前…何でここにいるんだ」
「相変わらずだねえ…窓辺から歳さんの姿が見えたから、こうして待ち構えていたんだよ」
「そういう話じゃない。俺は…」
土方が言いたいことはわかっていた。だが宗三郎は敢えて気づかないふりをして、パンパン、と手を叩いて遮った。
「こんなところでする話じゃあないだろう。上がってよ」
「……」
宗三郎が誘うと、土方は渋々ながら履物を脱ぎ店へを上がった。宗三郎と共に廊下を登り、一番奥の部屋に入る。
「…すぐに帰るからな」
「へえ、すぐに済むような話なのかねえ…?」
性急な土方の物言いを宗三郎がからかうと、土方は苛立ったように息を吐き、その場に腰を降ろした。宗三郎は襖を閉めて、彼の前に膝を折って座る。
「まあいいや。俺も話をしたいと思っていたからね」
「何だ」
「…あの子が、『ソウジ』?」
釜を賭けるように訊ねると、土方の表情があからさまに変わった。どうやら思ったとおりらしい、とわかると自然と宗三郎は笑いが込み上げてきた。
「は…ははっ なるほど、そうか、そういうことか…!」
「…何だよ」
土方は相変わらず不機嫌な表情のままだ。新撰組の鬼の副長とも噂される彼に睨まれると、縮み上がる者も多いだろうが、しかし宗三郎にとって、目の前の男はただの昔馴染みの男だ。
「誰かに抱かれている顔だとは思っていたけど、まさかあの子が、歳さんのお稚児さんか。いや、お稚児さんなんていう年じゃないんだろうし、巷では評判の新撰組随一の遣い手なんだろうけどねえ…」
「いいだろう、その話は別に…」
「良くないよ」
宗三郎は土方の言葉を遮る。そして膝を突き合わせ、土方の両頬に手を伸ばしてぐいっと引き寄せた。
「だって、歳さんがどんな相方を、どんな顔をして抱いているのか…俺はとても興味がある」
「…悪趣味だな…」
「よく言うよ。俺を捨てておいて」
捨てた。
その言葉に、土方の表情がぴくりと動く。そして眉間の皴を一つ増やして「離れろ」と宗三郎の手を振り払った。
しかし宗三郎は怯まなかった。強引に土方の腕を引いてバランスを崩させ、そして上に乗りかかる。
「ああ…あの時と同じだ。あの時も、出会ってすぐに歳さんは俺を訪ねてきた。そして俺がこうやって組み敷いたんだ。…覚えてるかい?」
「……」
宗三郎は額を土方と重ねた。少しでも動けば唇が触れると言う距離で囁く。
土方は何も答えない。その代わりに宗次郎を見据える。
「薫、俺は…」
「俺は、忘れたことはなかったよ」
あれからもう数年が過ぎている。
宗三郎は二十歳近く、陰間では終道と言われ、男の盛りを過ぎたと言われる齢だ。しかし目の前の宗三郎はあの頃と何も変わらず、一層の妖艶さを増し、美麗な顔立ちを崩してはいない。
まるで、あの頃に戻ったかのようだ。
いや、違う。
「…俺も、お前に聞きたいことがある」
土方は宗三郎の言葉には乗らなかった。宗三郎が「何だい?」と促したので、迷いなく続けた。
「お前は、俺を追ってここまで来たのか?」
いくら目の前の宗三郎の姿が変わっていないからと言って、ここは江戸ではない。そして自分のまたあの頃の根無し草のような存在から、『新撰組副長』へと変わった。
そう、宗三郎以外のすべてが変わったというのに。
彼はあの頃のまま、美貌も、身体も、声も…そして心もまた変わらないように見えた。そして変わらない姿でまた土方の前に現れた。
すると宗三郎は沈黙し、すっと顔を離す。そして口角を上げて微笑んで告げた。
「そうだよ」
と。
その言葉は土方の脳裏で木魂した。
「あっさりと俺を捨てた歳さんが…許せなくて、仕方なかった。だから、ここまで来たんだ」
「…お前とは、そういう関係になった覚えはない」
「そうやって数々の女を捨ててきたんだろうけど、俺はそうはいかないよ」
宗三郎が土方の頬に触れ、爪を立てる。
ピリッとした痛み伝わってくる。
「天女を捨てたら、罰が当たる。歳さんは…本当に罪深い」
彼の声が少し低く響き、髪がはらりと落ちる。
その妖艶な姿は昔と変わらないのに、何故だか土方の心はあの頃のようには動かなかった。
「お前は天女と呼ばれることを嫌がっていたはずだ」
「揚げ足を取らないでよ。俺が言いたいことは、そうじゃない。歳さんに捨てられた後、俺がどれだけ傷ついたのか…知らないでしょう?」
「…」
知らない。
宗三郎のことは『あの時』以来、記憶の奥底に封印していた。土方にとってはまるで彼方に置いてきたかのように、遠い昔のことのように思えた。
けれど、一つだけ覚えている。
宗三郎との関係を、自分は後ろめたく思っていたのだ。
「…どうせ捨てるなら、優しくなんてしないでほしかった。一度そんなものを知ってしまったから、俺は囚われてしまったんだ」
寂しげにつぶやいた宗三郎は、土方の唇にそれを重ねた。
紅の香る口付けに唆され、土方は宗三郎を捨てたあの時の記憶を辿る。




332


「あれ?土方さん、いないんですか?」
遠慮も何もなく、試衛館の夕飯時に顔を出した伊庭は、きょろきょろと見渡した。夕飯を囲む試衛館食客の中に探していた土方の姿はない。
「朝っぱらからいねえよ」
茶碗をかき込みながら、原田が手を振って答える。そして隣にいた永倉が
「あの土方さんが早起きして出て行くなんてなあ」
と苦笑していた。藤堂もそれにつられて笑って「本当ですよねえ」と汁物を啜った。
土方が朝に弱いのは試衛館周知の事実だ。たとえ女のところに行くとしても、わざわざ早起きしてまで行くことはない。そんな彼がどうやら早朝から試衛館を留守にしているようだ。
「こりゃ、そうとうご執心だな!」
ははっと原田が笑い飛ばすが、近藤は顔を顰めた。
「執心しているのは構わないが、あくまで遊びに留めてもらわないと困る。鍛錬を怠るようなら一度しっかり言いつけなければならないな…」
表情を落とした近藤を気遣って、山南は穏やかに
「近藤先生、土方君もそのあたりはよくわかっているでしょう。彼を信頼して、もう少し様子を見てはいかがですか?」
と慰める。加えて食客たちの「そうだそうだ」という声に押されて、ようやく近藤も「そうだな」と頷いた。
「伊庭君、良かったら一緒に食べて行けばいい。歳の分が余るだろうからな」
「あ、いいんですか。じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」
近藤の誘いに、伊庭は飄々と乗った。土方から始まった縁だが、今ではすっかり試衛館食客の一員になっている。彼らは来るもの拒まずで、等しくおおらかだ。それは道場主である近藤の影響だろう。
ちゃっかりと食事にありついた伊庭は、総司の隣に座る。そしてその表情を見ると、他の試衛館食客からは浮いていた。
「どうしたんですか、沖田さん」
「…えっ?」
「変な顔をしていますよ」
「変な顔…?」
総司は箸をおいて、両手で頬を挟む。どうやら伊庭に指摘されるまでは自覚が無かったようだ。するとその様子を見た原田が「ああ」と笑う。
「朝からこんな調子なんだよ。昨晩、土方さんと喧嘩したんだよな?」
「そうなんですか?」
「ええ…まあ…」
総司は言葉を濁す。昨晩と言えば、もちろん土方は伊庭とともに陰間茶屋を訪れていた。薫を伴って酒を飲み、試衛館に帰り着いた後、彼らに何かあったようだ。
しかし、土方と総司の喧嘩は日常茶飯事のことで、それは仲の良さの現れのようなものだ。後を引いたりもしない喧嘩なので、総司の表情がここまで陰っているのは珍しい。
「…ご馳走様でした」
総司は手を合わせ、膳を下げる。まるで逃げるように、輪から外れて行った。
その後、伊庭にも夕食が振る舞われ総司以外の食客は、いつも通りの楽しげな雰囲気で歓談を交わしていた。同じ年頃の若い者が集まればそれだけで盛り上がり、政局を論ずる輪があれば、猥談で騒ぐ輪もある。伊庭からすれば、気の置けない間柄と毎日を過ごせる試衛館は、毎日が楽しい宴のように見えた。
伊庭は頃合いを見計らってその歓談から抜け出して、縁側に腰掛けぼんやりしている総司の元へ向かった。いつもなら歓談に加わって穏やかな表情をしているのに、今日はやはり浮かない様子だ。
「酷い喧嘩だったんですか?」
伊庭がそう声をかけると、「え?!」と総司はとても驚いた様子だった。伊庭がやってきたことに気が付いていなかったらしい。伊庭は断りもせずに隣に腰を降ろした。
「いつもなら喧嘩をしても次の朝にはケロッとしているじゃないですか?」
「それは…私も、そうなるだろうと思っていたんですけど…私が思った以上に、歳三さんのことをとても怒らせてしまったみたいです」
「ふうん…」
伊庭からすれば、八つも年下の弟分の文句など聞き流せるくらいの度量があって当たり前だとも思うが、土方は年齢の割には子供っぽいところもあるので、そこを指摘しても仕方ないだろう。
「何か言ったんですか?」
「…わかりません。ただ、夜遅く帰ってきたので、近藤先生が心配しているとか…あんまり女の人に現を抜かしていないで、もっとちゃんと稽古をすればいいのにとか…それから…」
「それから?」
「逃げるみたいだって」
いつもの小言だったのにその言葉を聞いた途端、土方の表情が変わった。空気は一気に張り詰めた。そして何をも拒むかのように、土方は怒った。
伊庭はそれだけを聞いて「なるほど」とすぐに理解した。
「それはたぶん、土方さんが一番言われたくないことでしょうからねえ…」
「…やっぱり、そうでしょうか?」
総司は増々俯いてしまう。ただの喧嘩ではなく、相手を傷つけるような喧嘩を二人はしたことがなかったのかもしれない。
思い詰める総司を見て伊庭は苦笑した。
「沖田さんのせいじゃありませんよ。だって、日頃の鬱憤を女で晴らしているのは事実だし、傍から見ていてもそう思う。逃げてるなんて、誰よりも土方さんが一番わかっていることでしょう。…ただ、沖田さんには一番言われたくなかったのかもしれませんけど」
「どうしてですか…?」
「土方さんはね、きっと沖田さんのことが羨ましいんですよ」
「羨ましい?」
思い当たることが無いのか総司は首を傾げたが、伊庭は続けた。
「剣の才能があっていつも朗らかで、素直じゃないですか。土方さんだって本当は素直に剣に向かい合いたい。童心に帰って…努力して一生懸命になってみたい。でもあの人は我流で極めた剣をまた一から始めるほど、素直じゃないんですよ」
伊庭は「わかるでしょう?」と訊ねて茶化して笑った。
「だから、ここが…試衛館が時々居づらく感じるんじゃないですかね。言葉ではうまく言えないけれど、その気持ちは俺も何となくわかります」
明るくて、眩いからこそ、目を逸らしたい。ここから少し離れてみたい。
二律背反するその気持ちは、伊庭は何となく理解できた。しかし総司は少し黙り込んで、首を横に振った。
「…私には、良くわかりません」
剣の道を一筋に、寄り道もなく進んできた総司にはまだこの気持ちがわからないのだろう。それもそれで伊庭には理解できた。
「わからなくったっていいんですよ。これは…そうだな、たぶん十年後、二十年後に振り返った時に、いわゆる青春の過ちだと思うことになるんでしょうね。まあ、もう二十歳も超えて青春だなんて笑っちゃいますけどねえ!」
笑い飛ばす伊庭を見て、総司は戸惑う。
ひとしきり笑った後、伊庭は微笑んだ。
「大丈夫ですよ。あなたが謝ることは何もない。ただ…帰ってきたときに『おかえりなさい』って言ってあげたらいいんです」
「それで…良いんですか?」
総司はいまだに不安げな表情だったが、伊庭は頷いた。
「説教をしたところで聞くような人じゃないでしょう。だったら態度で示す方が、きっと土方さんも後ろめたくなって帰ってきますって。大丈夫ですよ」
伊庭が軽く総司の背中を押すように叩く。
「…わかりました。やってみます」
するとようやく総司の強張った表情が緩む。解決策を提案したことで、安堵したようだ。伊庭はひとまず安心して
「まあ、そうなると」
「え?」
「まるで浮気性の旦那を持つ女房って感じですけどね!」
と、さらに茶化したのだった。


透けるように白い肌を掻き乱しながら、土方は薫の首筋から鎖骨の辺りに触れた。もちろん乳房は無い。しかしもしそこに在ったとしても驚かないだろう、と思った。それほどまでに薫の纏う雰囲気は色めかしかった。
薫はすべてを土方に任せると言わんばかりに、拒むこともなく、ただただ受け入れる。土方は心の中にある何かを薫にぶつけるように、身体中を弄った。きめ細やかで滑らかな肌、細い体躯…これまで抱いたどの女よりも、艶やかで美しい。
男だ、という隔たりは既に土方の中で消え失せた。このまま溺れてしまうのだろうか…客観的に俯瞰してそんなことを考えていると、土方はふとあることに気が付き薫から離れた。
「…え…?」
薫は驚いた顔を見せる。互いに息が上がっていたのに、土方は離れて行ってしまったのだ。拒まれた、と絶望した薫は表情を落としつつ小さなため息をつく。それでも余裕ぶって
「…何だ、やっぱり男の身体は嫌になったのかい?」
寂しげに笑って見せたが、土方は「違う」と否定した。
「俺は嗜虐趣味は無い」
「え…?」
「…お前を抱くなら、その怪我が治ってからだ」
そう言って、乱れた衣服を整えた。見た目ではわからなかったが、薫の身体にはあちこち生々しい傷跡が残っていたのだ。昨日の僧侶だろう。
土方の言い分に、薫は唖然としていた。しかし土方が家伝の石田散薬を取り出して渡すと、ようやく実感したようで苦笑した。
「…優しいんだね」
「優しくはない。当たり前のことだ」
痛がる相手を抱くほど、飢えているわけでもない。土方としては当然の選択だったが、薫は俯いた。
「…何だよ」
「なんでも…ない」
彼は嘘を付いた。その目からは涙が零れていた。そして極上の微笑みを向けて「ありがとう」と言ったのだった。




333


薫の身体の手当てを一通り終えた土方は、彼のつま弾く三味線をただただ聞いていた。
弾けては消える音。
反響する余韻が耳を掠り、その切なげな音色はまるで薫の声のようにも聞こえた。

磯部の松に葉隠れて 沖の方へと入る月の
光や夢の世を早う
覚めて真如の明らけき
月の都に住むやらん
今はつてだに朧夜の
月日ばかりは巡り来て

地歌 残月。
門人の娘の死を悼んで作られた曲だそうだが、通常の激しい旋律の三味線とは違い、まるで雨が降り続けているかのようにしとしとと音が零れていくような歌だ。それが耳に心地よく、土方は飽きることなくいつまでも聞いていられた。
その後、土方は薫と深く話はしなかった。たまに二、三言交わすだけであとは何も話さないが、ごく自然に時間は流れていく。陰間茶屋に来ているのが嘘のようで、静寂な空気がただただ流れていた。
『同族嫌悪だ』…伊庭が言ったその言葉を証明するかのように、土方は薫に自分と同じものを感じていた。心に何かを抱えながら、しかしそれを打ち明けることもできずに、仮面を被って生きているような。
このままじゃ駄目だ。
でも、どうすればいい?…それを自問するばかりの日々。
土方は心地よい音色を聞きながら目を閉じた。早朝に試衛館を出たせいか、そのまま浅い眠りについた。
眠りの、その向こう側で流れ続ける三味線の音。
しかし夢の中に現れるのは、何故だか試衛館のいつもの光景だ。世情の難しい話ばかりをする近藤や山南、そして正反対に猥談に花を咲かせる原田たち。逃げたかったはずの場所。
そして
『歳三さん』
少し甘えるように、名前を呼ぶ総司。喧嘩ばかりするけれど、血の繋がらない弟のように思える。
そう、その場所が心地よくて、心地よすぎて、何も為せない自分が歯がゆくて。
だから時折離れてみたくなる。あんな居心地の良い場所は自分には相応しくないのではないか。女に溺れ、遊びに溺れる自分こそが、本当の自分の居場所なのではないか。
でも、いつも。
どんなに遊びつくした夜でも、女を抱いて朝になっても、必ず試衛館に戻っていた。自然と足が向いていた。それは誰よりも自分がここに帰りたいのだと知っていたから。
そして朝になれば
『歳三さん、起きてください』
総司が全く同じ時間に起こしにやってくるから。
『もう朝ですよ、歳三さん』
ため息交じりのうんざりした様子なのに、次の日の朝だって、お前はやってくる。俺を起こしにやってくる。俺を連れ戻しにやってくる。
ここに、連れ戻しにやってくる。
(俺は…)
たぶん、お前に
「起きて、歳さ…」
「…総司…?」
身体を揺さぶられ、土方ははっと目を覚ました。気が付けば三味線の音は消えていて、薫が目の前にいた。
「あ…」
土方はすぐに拙いと感じた。それまでの雰囲気を壊すことを呟いてしまったと分かったからだ。
薫の様子を窺うと、思った通り酷く驚いた顔をしていた。彼のことを、総司と呼んだのを聞かれてしまったようだ。目を伏せた薫は唇をきゅっと噛んだが、しかしすぐに笑顔を作り
「もう時間だよ」
と微笑んで見せた。彼が感情を押し殺したのは気が付いたが、土方は「ああ」と答えるしかない。寝惚けて、薫と総司を間違えた…そんな言い訳を口にするつもりはなかった。
「帰る」
「うん…」
薫はどこか目が泳いでいたが、土方は振り切って帰り支度を済ませた。
「じゃあ…」
「歳さん!」
背を向けた土方の裾を、薫が握る。引き留めるように強く。そして震える声で続けた。
「…約束。また…ここにきて、その時こそ抱いてくれるって…約束をして」
『天女』と謳われた陰間が、縋る様に自分の袖を引いている。それが芝居でもなく、彼の本音だということはわかっていた。彼は出会った時から、土方に運命のようなものを感じたと言っていた。それは常套句なのかもしれないが、しかし今、目の前にいる薫は心から自分を求めているように見えた。
だからだろう。
「…わかった」
覚悟も決まらないのに、安直な返事をしてしまったのは。
薫は力を込めていた指を離した。そして土方はそのまま部屋を出て、店から去っていった。


提灯を手に土方は帰路についた。まだ陽が暮れてからまもないので、これからが花街の時間となる。そんななかで試衛館に戻るのは何だか滑稽だ。
(俺は…)
俺は、どうしたいんだ。
薫を抱けばその答えがわかったというのか…いや違う、きっと薫を抱いたところで自己嫌悪に陥るだけだっただろう。
しかしその一方で、彼と溺れてしまえれば楽になるのだろうと思った。言葉を交わさなくても一緒に居られる…あの安堵は薫以外に感じたことはなかった。
試衛館に戻ると、まだ薄明かりが付いていた。土方はこっそりと玄関を開けて草履を脱ぐが、すぐに人の気配を感じた。
「…歳三さん」
土方のことを、そう呼ぶのは総司だけだ。
「…まだ起きていたのか」
素っ気なく返答すると、総司は唇をきゅっと噛んだ。何か物言いたげにしているのはわかったが、土方は敢えて何も問わなかった。
「…伊庭君が来ていました。歳三さんを探しに来られたようで、先ほどまでいらっしゃったんですが、おかえりになられました」
「そうか」
伊庭と約束があったわけではない。おそらく彼は土方の様子を覗きに来たのだろう。
(いけ好かない奴だ…)
土方は毒づく。それは彼の言った通りに、薫に会いに行ってしまったからかもしれないが。
すると総司が土方の方をじいっと見た。そしてくんくんと鼻で嗅ぐような仕草をして
「また同じ匂いがする…」
と呟いた。それは薫の匂いに違いない。
「じゃあな、俺は寝る」
土方は総司を無視して、振り切ろうとした。おそらく総司は女の匂いだと思っていて、薫のことに気づくわけはないだろうが、それでも総司に追及されたくはなかった。
しかし総司は土方の袖を引いた。…まるで薫と同じように。
「あ、あの、ちょっと待ってください!」
「…何だよ、もう寝るんだよ」
「だからちょっとだけでいいですから、話を聞いてください」
総司は両手でがっちりと掴んでいて、強引に離れるのは無理そうだ。総司が強情であることも知っている土方は、大きくため息をついて「何だ」と先を促した。
すると総司は固く結んだ唇を解いた。
「…私は、もう待ちません」
「は?」
何のことだ、と土方は目を向く。しかし総司は迷いなく告げた。
「待っていることが歳三さんにとって重荷なら、女と遊んで、気が向いたら帰ってきて…歳三さんの好きにしてください。だから、私はもう待ちませんし、文句も言いません」
「おい…」
土方は驚いた。てっきりまた小言を食らうのかと思っていたのに、総司はもう待たないと言った。
そしてそれは思った以上に、土方の心を抉った。
(待たないって…)
まるで、別れのようじゃないか。それを聞いて土方は自分がらしくなく慌てるのがわかった。
「ちょっと、待て。お前何を言って…」
「だって、帰って来ないんじゃないかって…!いつも、不安になるのはもう嫌なんです」
「は…っ?」
気が付けば、総司はさらに強く袖を掴んでいた。
「歳三さん、いつだったか家の事情で試衛館を離れていましたよね。あの時、歳三さんが帰って来ないんじゃないかって、本当に、本気で私は思っていたんです。このまま剣から離れていくんじゃないかって…でも、いまだって同じなんです。歳三さんがこのままいなくなって、帰って来なくなったらって思うと…」
その言葉の続きを、総司は言い淀んだ。
つらい、なのか、寂しいなのか…それはわからない。けれど。
「だから、もう待たないんです。その方が…」
次の瞬間には、土方は迷いなく総司を抱きしめていた。
「…っ、歳三さん…?」
強く抱きしめて、
「悪かった」
「え…?」
「俺が、悪かった…」
自然と溢れてきたのは、その言葉だった。
(たぶん、俺は甘えていただけだ…)
この場所の温かさに、優しさに。ただ甘えて、自分を甘やかしていた。どんな時でも待っていてくれるのが当たり前だと思ってた。
けれどそうじゃない。
これは当たり前なんかじゃない。
(ここは、幸運な場所だ…)
おそらく、このどうしようもない人生の中で最良の場所だ。
それを知っていた。
「…だから、お前は…ちゃんと、待ってろ」
待たないなんて言うな。
土方は強く抱きしめた。
すると
「…おかえりなさい」
総司は土方の胸の中でそう言った。
いつも何気なく聞いていた言葉が、こんなにも胸を締め付けるなんて知らなかった。
「ああ…」
けれど、ただいま、と答えるのはさすがに気恥ずかしい。
しかし総司もそんなことはわかっているだろう。くすっと笑ったのはわかったが、土方は敢えて気が付かないふりをした。

そうして、二度と薫に会うことはなかった。





334


話は前年に遡る。
元治元年十一月。長州藩は禁門の変で御所に発砲した罪によって、朝敵となり、幕府は諸藩の兵を動員してこれを討伐することを決めた。しかし長州藩内の恭順派がその攘夷派を抑えて実権を握った為、長州は降伏。三家老が切腹を遂げ、藩主毛利敬親父子には蟄居謹慎の処分が与えられた。第一次長州征討は戦とならずに集結し、征長軍は解散となり、出陣命令を待っていた新撰組は肩透かしを食らうことになってしまった。
それから年が明けた慶応元年、幕府に恭順したとみられていた長州藩では、恭順派が討幕派に打倒され、再び討幕派が実権を握るようになった。これを問題視した幕府は、毛利父子と三条実美ら五卿を江戸に呼びつけたが、すでに倒幕が実権を握った長州藩はこれに応じず、再び征討軍が送られることになった。これが第二次長州征討である。
しかし実際に、この第二次征討を起こすにはこれから一年ほどの月日がかかるのだが、今の彼らには知りようもないことである。
「将軍家茂公自らが全軍を指揮するために上洛される。そこで、われら新撰組からも二十名ほどの隊士を大坂におくることになった」
近藤からの発表に、集まった幹部らはそれぞれ頷いて受け取った。
「谷君」
近藤から重々しく名前を呼ばれた谷三十郎は、「はっ」とやや仰々しく返答して頭を下げた。
「今回の下坂は長期に渡る。君は大坂の地理に明るく、良い働きができるだろう。よろしく頼む」
「承知いたしました!谷三十郎、身命を賭して務めさせていただきます!」
「下寺町の万福寺に駐屯させることになるでしょう。同行する二十名の人選は他に組長にお任せします」
伊東の補足に谷は「はっ!」と畳に額を打ち付けんばかりに頭を下げた。媚び諂う谷の姿はその場に居合わせた幹部らの失笑を買ったが、雰囲気を察した伊東がパンパン、と手を叩いて打ち払う。
「大坂行きのお話はここまでで宜しいでしょう。土方副長」
伊東に促され、土方は懐から紙を取り出し素早く拡げた。
「皆もわかっているように西本願寺へ移転し、隊士が増え、早速数名の隊規違反者が出ている。もちろん、羽目を外した者たちの処分は当然であると考えるが、これまで局中法度のみで運営してきた新撰組の体勢にも問題がある。そこでこれまでの局中法度に加えた隊規を決める」
「さらに加える…と?」
永倉の驚きと困惑に、近藤が「そうだ」と大きく頷いた。
「この隊規は土方副長が考案し、すでに伊東参謀の了解をいただいているが、一刻も早く施行させる必要があると俺も考えている。よくよく吟味し、意見のある者は一両日中に知らせてほしい」
一方的に押し付けるものではない…近藤の言葉に、永倉は「そういうことなら」と受け入れる。土方はその様子を横目に続けた。
「今から読み上げる」
一、役所を堅くあい守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事。
一、敵味方強弱の批判いっさい停止のこと。
  附、奇矯、妖怪、不思議の説を申すべからずこと。
一、食物いっさい美味禁制のこと。
一、昼夜に限らず、急変有之候とも決して騒動致すべからず、心静かに身を堅め下知を待つべきこと。
  ただし、夜討ちこみの節、勿論のこと。
一、私の遺恨ありとも陣中に於いて喧嘩口論仕り間敷きこと。
一、出勢前に兵糧を食ひ、鎧一縮し槍太刀の目釘心付べきこと。
  附、陣前においてみだりに虚言申す間敷こと。
一、敵間の利害、見受之あるに於いては遠慮及ばず申出るべく、過失を咎めざること。
一、組頭討死候時、その組衆、その場において死戦を遂ぐべし。もし臆病をかまえその虎口逃来る輩有之に於いては、斬罪鼻リ罪。その品に随って申し渡すべきの候、予て覚悟、未練の働無之様あい嗜むべきこと。
一、烈しき虎口において組頭の他、死骸を引き退くこと無用、その場を逃げず忠義をぬきんずべきこと。
一、合戦勝利後乱取り禁制なり。その御下知あり之に於いては定式の如く御法を守るべきこと。
土方が読み終えると、
「げぇっ!」
と原田が声を上げた。
「土方さん、これ、本気かよ!美味禁止、奇矯、妖怪、不思議の節も無しなんて!何の息抜きも、楽しみもねえじゃねえかよ!」
不満を直接口にできたのは、原田のキャラクターと試衛館食客という身近の立場故だが、思いは全員同じであると言えた。局中法度ではどういった態度でも、最終的に武士道に反しない範囲であれば、多少羽目を外したとしても黙認されてきた。しかし今回の軍中法度では、生活全般に対して規則が絡み、より一層、緊張感が増した厳しい生活が強いられることとなる。
皆が辟易した反応を見せたなか、土方が続けた。
「…ある程度は許容する。何も四六時中監視しようっていうんじゃない。そんな暇があるなら討幕派の練習に目を向けたほうがマシだ」
「だ、だよなあ!」
「しかし、羽目を外しすぎるなら組長でも容赦はしない」
土方が強く釘を刺し、緩みかけた空気がより重く沈黙する。しかし並べられた規則がどれも真っ当な正論であるがゆえに誰も反発はできなかった。
しんと静まった空気のなか、
「私は構いません」
と沈黙を破ったのは総司だった。
「ここに書いてあることはすべてこれまでの局中法度と同じことです。それに新入隊士が隊士が多くなることで統率しきれなかった分を、軍中法度によって補えることができるでしょう。私は特に異論はありません」
「…そうか」
総司の返答に近藤は安堵した表情を浮かべ、土方は無表情のまま受け取った。伊東は「素晴らしい」と総司を称賛する。
「ご理解が早くて助かります。我々はこの法度を皆さんを縛るために使うのではなく、より良い新撰組となるために制定するのです。皆さんも、新撰組を良い場所としたい…その思いは同じでしょう?」
重い空気を諸共しない穏やかで美麗な伊東の微笑みに、場の空気は少しずつ緩み始める。法度に賛同する声も上がり始め、最初は反発していた原田も「しかたねえか」と頭を掻き、永倉も渋々了承しはじめる。
しかし、その一方で土方の表情は苛立っていくのを、総司は見逃さなかった。
(土方さんが警戒しているのは、きっとこういうことなんだ…)
人はだれでも優しい方に流れる。自らを痛めつけるよりも甘やかす方へと身を委ねる。
ここに並ぶ新撰組の幹部たちは新撰組結成時からの同志が多い。そんな彼らでもまだまだ新参者といえる伊東の意見に流されてしまう。
しかし、土方は今更、悪である今の立場をやめることはできない。そんなことをすれば新撰組は忽ち崩れてしまう…そのことを土方は重々知っているからだ。
(ああ…また、眉間に皺が増えるんだろうな…)
周囲の意見が賛同へと流れる中、総司は土方の表情を伺いつつ、そうため息をついた。

「沖田君」
軍中法度が承認され、会議が解散となるなか声をかけてきたのは伊東だった。
「どうかされましたか」
「いえいえ、先ほどのお礼をと思いまして」
「お礼…?」
何のことか、と首を傾げる総司に、伊東は微笑んだ。
「君があの法度を受け入れてくれたことで、皆が同じ気持ちになることができた。正直、あの法度を認めてもらうのは難しいと思っていたので、助かりましたよ」
「いえ…私は、何も」
何の意図もなく良いと思ったものを、良いと思ったまでだ。誰かの気持ちを動かすために先陣を切るなんて伊東が思うようなことをしたわけではない。
「ご謙遜を」
「謙遜…というわけでは、無いのですが…」
伊東の賛辞が心からのものなのか、そうではないのか、総司にはまだ測り兼ねる。しかしその整った顔立ちに微笑まれると心がざわつくのも事実だ。言いようもない伊東の色気に困惑していると
「総司」
と、肩を引かれた。土方だった。
「土方さん」
「伊東参謀、話を遮って申し訳ないが、用事があるので」
「そうでしたか。いえいえ、こちらこそ引き留めて申し訳ない。沖田君、またゆっくりお話をしましょう」
嫌な顔一つせずに伊東は総司から離れていく。総司が呆然としていると、土方は総司の腕を引いた。
「い、痛い。なんですか?」
「あんまり伊東と関わるな」
「何言っているんですか、あちらは参謀で上司なんですよ?」
総司の真っ当な答えに土方は反論はないようだ。総司は仕方なく強引に引っ張られるがままに土方の部屋の中へと入った。
「…それで、用事というのは?」
「別に。お前が困っていたみたいだったから、会話を絶ってやっただけだ」
「……」
勝手な物言いに、総司は少し押し黙る。土方は特に気にする様子もなく文机に向かい紙を広げ始めた。どうやら軍中法度を張り出すための準備をするようだ。
土方が不機嫌なのはわかる。先ほどの議定で伊東の言いようにされてしまった…負けず嫌いの騒いでいるのだろう、とも総司は理解できる。
しかし総司も総司で、いつでも土方の振る舞いを受け入れられるほど大人ではない。
「…土方さんが庇ってくれなくたって大丈夫です。私は一番隊組長なんです、子供じゃないんだから…」
「嘘つけ。伊東参謀に声をかけられて、困った顔をしていたくせに」
「困ってなんかいません。ただ伊東参謀のとお話しするのが少し緊張するだけです!」
ムキになって言い返す総司だが、土方はまるで相手にせずに筆を執り始める。
「…大体、私のことにはそうやって干渉するくせに…」
「あ?」
何の話だ、と眉間に皺を寄せて、ようやく土方は振り向いた。しかし総司はぐっと唇を噛んだ。
(自分のことは…何も教えてくれないくせに)
宗三郎のことを土方は何も語らない。それどころかまるで何もなかったかのように総司の前で振る舞っている。説明する気も、話すつもりもない。
どうして教えてくれないんですか。あの人は、誰ですか?
「……何でも、ありません」
しかしそれを口にすることはできなかった。自分は強いんだと言い聞かせていたかったから。
(こんなことで…迷っている場合じゃないんだ)
「失礼します」
総司は軽く頭を下げて部屋を出て行く。
土方が引き留めなかったことが、さらに総司の心に暗澹たる思いを産んだ。





335


谷を筆頭とした大坂行きのメンバーは早速、下坂することになった。
「内海、何かあったらすぐに知らせてくれ」
大坂行のメンバーに選ばれた内海が準備を進める中、伊東が声をかける。しかし彼はややウンザリした表情を見せた。
「…大蔵さん、それは何度も聞きました」
「もちろんわざと何度も言っているんだ。お前は面倒なことを厭う。些細なことなら自分に胸に秘める性質だろう」
図星、といいたいところだが、内海にはそんな自覚は無い。必要なことであればきちんと伊東に知らせる。ただその必要なことの範囲が伊東に比べて狭いだけだ。
「…わかりました。些細なことでもお手紙を差し上げます」
しかし、頭の良い伊東と議論すると時間を取られてしまいそうだ。内海が適当に返事をすると伊東は「うんうん、いい心がけだ」と満足そうにうなずいていた。
数枚の衣服を風呂敷にまとめつつ
「伊東参謀こそ、私が留守の間はどうか平穏にお過ごしください」
と内海は告げる。すると伊東は笑った。
「心外だなあ。私は子供じゃないから、悪さはしないよ」
「そうでしょうか?悪さはしなくとも、兄弟喧嘩はなさるのではないですか」
内海が遠慮なく指摘すると、伊東も笑いを引っ込める。そして顔を顰めてしまった。
「…兄弟などと、言われたくないものだ」
「血が繋がっていらっしゃるのですから、そこは仕方ないでしょう」
「血が繋がっているとしても、あれ程似ていなければ兄弟ではないと言い切ってもおかしくはないだろうに」
この場に鈴木がいれば卒倒しそうなコメントだ。しかし伊東の表情は、いつもの取り繕うような笑みを消した真摯なものだ。
「似ていない訳ではないと思いますが。顔の形などはそっくりですよ」
性格は二人を足して二で割れば人の好い人間になりそうなものだ。
内海はそう言いかけたものの、さすがにそれでは伊東の機嫌を損ねるだろう、と敢えて止めておく。内海からすれば、実弟である鈴木が伊東の言うように人間として劣っているとまでは思わない。兄に似ず愛想は無いものの、組長に相応しい剣の腕は兼ね備えている。しかし、伊東はどうしても弟の存在を認めようとはしない。
(何があったのか…おぼろげにしかわからないが)
無理に聞き出そうとも思わない。これは兄弟の問題で、他人が口を挟むようなことではないからだ。それに伊東の言う通り、自分は『面倒なことを厭う』。
「…何か土産を買ってまいります。何が宜しいですか?」
眉間に皺を寄せていた伊東の表情が、ぱっと花が咲くように綻ぶ。
「なんでもいい。無事に君が帰ってきてくれればね」
整いすぎた顔立ちはある意味で残酷だ。喜怒哀楽のすべてを美しいという言葉で隠してしまう。だから、誰もが伊東の表情の奥まで読み取るのは難しいと思うのだろう。
だが、その言葉は嘘ではないだろう。
「わかりました」
内海は頷いたのだった。


五月の爽やかな風があっという間に湿気を含んだ鬱陶しいものに変わったが、宗三郎は相変わらず窓辺から行き交う人を見下ろしていた。毎日の光景ではあるものの、不思議と同じものは一つとしてない。商売人が声をかけ、旦那の帰りを待つ妻が夕飯の買い物に訪れ、子供たちははしゃぎ廻る。
「……」
平穏な外の光景を眺めながら、宗三郎はため息をついた。
先日、ここを訪れた土方は結局あれからすぐに店を出て行ってしまった。彼は『話がある』といったけれど、何を言いたかったのか、何を聞きたかったのかは明確にならないまま、たった一度だけ口付けを交わしただけで、
『帰る』
と不機嫌そうに宗三郎を拒み、部屋を出て行った。
きっと彼は確かめたかったのだろう。宗三郎が薫であるのか。薫が宗三郎であるのか。
しかしそんな土方とは違って、宗三郎はすぐに彼が『歳さん』であることはわかった。一目見たときから、彼が本人かどうかという疑いよりも、ようやく会えたという感慨の方が強かった。
それくらいに、会いたかった。
あの日、別れてから一度も会うことが叶わず、噂で新撰組の一員になっていると聞きつけて、ここまで追いかけて来て…都一の評判の陰間になれば、いつか彼が顔を出してくれるかもしれない。そんな期待を抱いて、この窓辺から行き交う人々を眺めていた。
会えればそれで満足だ…その気持ちはあった。でもそれが単なる綺麗ごとだと、土方と再会して気が付いた。
「…駄目だ…」
思った以上に、彼のことがほしかった。思った以上に、鷲掴みにされてしまっていた。
あの優しさの中で、微睡みたいと願ってしまった。
けれど。
「ソウジ…」
あの日も彼が呟いた名前。土方の前に出会うことになるとは思わなかったけれど、おそらく彼が土方の意中の人物なのだろう。
無邪気で、素直で、無垢。自分とは真反対だ。悔しいほどに。
宗三郎は膝を抱えて、身体を小さく丸めた。そうしなければ、何かが溢れ出てきそうだった。
土方との再会は喜ばしくもあり、嬉しくもあり…そして悲しくもあった。彼がもう自分には関わりたくないのだと拒んでいることに気が付いてしまった。
(未練ばかりだ…)
泣きたくなんかない。泣くのは、あの日にやめたじゃないか―…。
「宗三郎」
無愛想な声に呼ばれ、宗三郎ははっと視線を上げる。あわてて目尻に滲んだものを袖で隠し、「はいはい」と平気なふりをして襖を開けた。
「何?」
無愛想な店主は、「お客さんだ」と告げた。しかし無愛想なりに、店主の態度がおかしい。
「…誰?」
「駒吉の相方や」
「!」
宗三郎は予想だにしない来客に驚いた。
駒吉は、先日の新撰組隊士の一件で殺された陰間だ。新撰組に間者として潜入したある隊士と、長州藩の志士との間を取り持ち情報の受け渡しの手伝いをしていた。その罪を問われ新撰組に寄って殺されたと総司から聞いている。
そして駒吉のことを新撰組に告げ口したのは、自分だ。
(いや…しかし、それは彼らは知らないはずだ)
駒吉のことは新撰組にしか話をしていない。そこから情報が漏れない限り、自分が関わったことなど討幕派の連中が知るわけがない。
「…通して」
「ええのか?」
「うん…大丈夫」
頑なに拒めば、そのほうが不審に思われてしまうだろう。それなら何も知らないふりをして対応したほうが良い。宗三郎の答えに、店主は不承不承という雰囲気ではあったが、
「わかった」
と言って、すぐに客を案内してきた。
やってきたのは二人の男だった。一人は駒吉の相方だ。名前は知らないが、長州訛りの顔のいい男だ。それからもう一人。こちらは目深に被った頭巾のせいで顔は見えなかったが、小柄で色白の一見すれば男かどうか分からない体格をしていた。しかし漂う雰囲気は宗三郎でさえ息を飲むほどに暗く、淀んでいた。
「久しぶりだな」
駒吉の相方がまず口を開いた。宗三郎は動揺を抑えつつも、いつもの笑みを浮かべた。
「いつぶりやろか?駒吉は…」
「それは話に聞いている。新撰組にやられたらしいな」
「へえ…惨たらしいことで」
男は「そうだな」と思った以上に淡々としていて、駒吉が死んだということに特に感慨はないようだ。おそらく彼にとって使い捨ての駒の一つなのだろう。
「…それで、うちに何か?」
男の用件は何となく想像はできたが、素知らぬ顔で尋ねてみる。すると男は
「ここに新撰組の隊士が通い詰めているらしいな」
と訊ねてきた。
「へえ…まあ、お客はんやから来るもの拒まずいらっしゃいます」
「新撰組の沖田がここに来ただろう」
「…駒吉の一件をご報告に」
総司は三度、この店を訪れている。顔を見られていても不思議ではない。すると相方の男は「ほらな」とどこか自慢げに隣の男に話を振った。頭巾の男は「ああ」と短く答えただけで、それ以上のリアクションは無い。
すると相方の男は話を続けた。
「話は察しが付くだろう。お前の駒吉の代わりを頼みたい」
「…代わり、ゆわれても…何のことか、さっぱり」
「誤魔化すな。駒吉のことを新撰組にタレこんだのは…お前やろ。俺らは知っちょる」
男の剣幕が鋭く変わる。しかし宗三郎は「さあ」とあくまでとぼけた。
(別に…怖くなんかない)
その気持ちに偽りはなかったからだ。
すると男は「お前…!」と刀の鞘を持ちかけるが、しかし頭巾の男がさっと制止させた。
「勘違いするな」
頭巾の男が鋭く言い放つ。体型に不似合いな低い声だった。
男は「ちっ」と舌打ちするものの、頭巾の男に従った。彼らの関係は対等ではないようだ、とこんな状況でも宗三郎は冷静だった。
すると頭巾をかぶった男がようやくその顔を晒した。思った通り、剣幕は鋭いものの顔立ちは中性的だ。しかし漂う雰囲気のせいかとても危うい存在に感じた。
「俺は新撰組の沖田に興味があるだけだ」
その言葉に嘘はない。
宗三郎はごくりと息を飲みつつ訊ねた
「…あんたはんは…沖田さんを殺したいの?」
本当は聞くまでもなく。
「ああ…本気でやりあってみたい。これまで何度も機会を逃している」
その目が語っていた。
野性の殺意をむき出しにしたその目が、ギラギラと何かを見つめている。
「名前は…?」
「河上だ。河上彦斎だ」
凛としたなかに見せる闇のように光る鈍い感情。宗三郎がこんなにも圧倒される存在に出会ったのは初めてだった。






336


「雨が降りそうだな」
共に巡察に出た斉藤がそんなことを言ったので、総司はつられて空を見上げた。薄暗い雲に覆われて、まだ昼間だというのに薄暗い。
「そうですね。早めに退散しましょう」
一番隊と三番隊の隊士はそれぞれ分かれて周囲の探索に向かっている。おそらくそろそろ探索を終えて総司と斉藤が待つ場所へ戻ってくるだろうから、足早に屯所に戻らなければ。
そんなことを考えていると、ふと自分の小指の指先にささくれができていることに気が付いた。どこかで引っ掛けたのか少し血が滲んでいる。
「どうした」
目敏く気が付いた斉藤に苦笑しつつ「ささくれです」と言い総司は軽く口に含んで舐めた。ピリリとした痛みを感じた。
「昔、姉には親不孝をするとささくれができるって教わりました。けれど、もう私には親がいないから、ささくれができるはずがないって子供の頃思っていたんですけど、こうしていまでもできるんですから、あれはやはり迷信なんでしょうね」
ふふ、と笑いつつそんな話をすると「俺が聞いた話とは違う」と斉藤は返事した。
「へえ。お国によって違うんですかね。ちなみに斉藤さんは何と?」
「俺は嘘を付くとささくれができると聞いた」
「…嘘、かあ…」
特に意図もない世間話だったつもりが、何故か核心を突かれたような気持ちになり、総司は視線を落とした。
自分が誰かに明確な嘘を付いているつもりはない。けれど、自分に対して嘘を付いているのかもしれない。嘘を付いて自分を誤魔化している。
「…まだ解決していないのか?」
やはり目敏く察した斉藤が訊ねてくる。何を、とは言わなかったがもちろん土方と宗三郎の件だろう。
「解決…って、何なんでしょうね」
「すべてを知るか、それともすべてを忘れるか。そのどちらかだろう」
「…」
斉藤の端的な答えに、総司は黙り込む。
自分は後者を選んだつもりだった。何も気にしない、土方と宗次郎の過去に何があったとしても平気な顔をしていたい、そんなつまらないことで思い悩みたくない…と。しかしその一方で、何も話してくれない土方に苛立ちを感じているのも事実だ。
「どっちも選びたくないって言ったら…我儘なんでしょうか?」
「…さあな」
斉藤の返答は、わざとはぐらかしたように聞こえた。それは誰かに答えを求めるべきではないと遠回しに言いたいのかもしれない。
総司が己の甘さにため息をついていると、各地に別れて巡察に向かっていた組下たちが戻ってくる。今日は特に捕縛者もなく、このまま何事もなく早々に屯所に戻ることができそうだ。
すると、通りかかった町人風の男と総司の肩が当たった。
「堪忍」
短く謝った男は、そのまま走り去っていく。顔は見えなかったが、その男は総司の足元に小さな紙切れを落として行った。総司は何か予感がしてその紙切れを拾う。そこには「カワカミ マツバ」とただそれだけが書いてあった。
その内容はぴんときた。そして、いま走り去っていった男がおそらく監察の山崎だろうとも気が付く。
「斉藤さん」
総司は斉藤のその紙を渡す。斉藤は内容を確認して顔を顰めた。
「河上彦斎か」
「おそらく」
「マツバ、というのは?」
「宗三郎さんのいる店が、松葉屋と言います」
それを聞くと斉藤もすべて理解したのだろう。その表情に一気に緊張が走る。
「今から不逞浪士の捕縛に向かう」
組下たちに声をかけ、一番隊、三番隊は揃って駆け出したのだった。



『人斬り彦斎』
その名前をかつて耳にしたことがあった。誰がその噂を口にしていたのかは覚えていないが、その男が志士と名乗る者の中でも残忍な人斬りだ、と。
しかし目の前にいる彼がその人物だと知っても、宗三郎に恐怖や畏怖という感情はなかった。むしろ異常なまでの存在感はそれ故かと納得できたくらいだ。だが、その物々しい雰囲気に比べて、中性的な顔立ちだけが浮いている。
「…女みたいな顔や」
小柄で色白で、まるで噂に聞いていた苛烈な人物には見えない。
駒吉の相方が「おい!」と宗三郎の物言いにケチをつけたが、目の前の河上はにやりと笑っただけで、特に気分を害した様子はなかった。強引に宗三郎の顎を取り、ジロジロと顔を眺める。まるで見定めをするような視線だが、そんな視線は慣れていた。
「お前こそ、男か、女か…そのどちらでもない顔をしている」
「…」
どちらでもない。
河上の指摘に
(そうかもしれない…)
素直にそう思った。
ときどき、自分の存在がわからなくなる。男に抱かれているとき、女を抱いているとき…そこには全く違う自分が居るような気がしている。
そしてそんな矛盾した感情を持つ自分を、あっさり河上に見破られたような気がした。出会ってまだ少ししか経っていないというのに、心の奥底を覗かれたかのようだ。
「俺に…新撰組と通じろって?」
宗三郎は顎を引いたままの河上に訊ねた。それまでの京言葉を止めたのは、取り繕う必要がないと思ったからだ。
すると河上は
「ああ…そういうことらしい。もうじき将軍が上洛し、長州に戦を仕掛けるだろう。何でもいいから情報が欲しいそうだ」
河上は他人事のような言い方をした。先ほども彼が口にしていたように、彼の興味は『新撰組の沖田』にのみ注がれているのだろう。
宗三郎には新撰組随一の遣い手である総司と、目の前の人斬り彦斎のそのどちらが強いのか…そんなことはわからない。ただ目の前の男に感じる明確な殺意に比べて、総司はまるで無邪気な子供のように明るく、二人は正反対に見えた。
(…この男が、あの人を殺すのだろうか)
総司がいなくなれば、どうなるだろう。
土方は、自分を求めてくれるのだろうか。
例え、代用品としてでも?
邪な期待。
必死に食い止めようとする理性。
後ろ暗い気持ち。
欲望に身を任せたい甘え。
全てが混じりあって、ドロドロと塗りつぶしていく。
ここで頷けば、どうなる――?
宗三郎が迷っていると、河上は急にその手を離した。その剣幕を鋭くして、出窓の方へと足を向ける。
「どうした」
もう一人の男が声をかけると、河上は
「新撰組だ」
と端的な答えを述べた。その言葉に、宗三郎はドキリとさせられる。まるで自分の邪な心を見抜かれたかのようなタイミングだ。
「くそ…!」
慌てた男はすぐに部屋を出て行く。バタバタと忙しなく焦る男に比べて、河上は冷静に頭巾でその顔を隠した。そして宗三郎を見下ろして
「また来る」
と告げた。そしてさっさと部屋を出て行く。
足音もなく、彼は消えるように宗三郎の前から姿を消した。

隊士らに周囲を取り囲ませ、総司は斉藤と数名の組下とともに松葉屋に踏み込んだ。もともと人通りのない場所にひっそりと佇んでいる店なので、隊服に身を包んだ隊士たちが集まると、周囲は騒然とした。
しかし、店主はいつもと変わらぬ無愛想な対応で総司たちを出迎えた。
「ここに不逞浪士が二名、訪ねてきたはずです」
「…知らん。ここは陰間茶屋、客の素性など訊ねぬのが礼儀や」
あくまで無関心な態度を崩さずに店主は答えた。新撰組に店を取り囲まれているというのに、驚きもしなければ、怖がりもしない。
「宗三郎さんはどちらですか?」
総司が訊ねると「二階や」とあっさりと教えてくれた。店主は好きにしろといわんばかりに店の奥に引っ込んでいく。斉藤は顔を顰めて
「いつもああなのか?」
と訊ねてきた。
「そうですね…いつも、あんな感じです」
「…まあいい。二階だな」
斉藤は遠慮なく店に踏み込む。しかし斉藤がそうであるように総司もここに河上がいないことを既に察していた。いたとすればこんなにも静かで平穏であるわけがない。
総司は入口に隊士を残し、斉藤と二人で階段を上がっていく。部屋に上がってすぐの部屋が、宗三郎がいる部屋だ。部屋の前には話し声一つしない。勢いよく襖を開けると、やはりいたのは宗三郎だけだった。いつもと同じ、窓辺で景色を眺めるように佇んでいた。
「…何だ、あんたが来たのか」
宗三郎は憮然と答える。いつもその整った顔を綻ばせることを忘れない彼にしては、その表情が暗い。
「ここに二人の浪士が来たはずだ。一人は河上という男だ」
「知らない」
斉藤の問いに、宗三郎は即答した。
「お客さんの名前なんて知らない。そんなのは知る必要もない」
まるで二人を拒むかのような態度が、逆にここに『誰か』が来たということを物語っている。総司はそう直感したし、それはもちろん斉藤も気が付いただろう。
しかし宗次郎の素っ気ない態度ではこれ以上、聞き出せることはなさそうだ。
「…そうですか。お騒がせをしてすみませんでした」
「本当だよ…全く、こんな大勢で取り囲んでさ」
窓から隊士たちの様子が見えたのだろう。普段からひっそりとしている店がいつになく大騒ぎになってしまっている。総司はもう一度「すみません」と謝って引き下がろうとしたが、
「沖田さん、あんたはここに残れ」
と斉藤が引き留めた。総司は驚く。
「え?」
「話があるはずだ。…そうだろう?」
総司は最初、斉藤が何を言っているのかわからなかった。しかし斉藤が言いたかったことは河上のことなどではなく、土方と宗三郎の事だと気が付く。
しかしそれは隊務に関係ない、個人的なことだ。もちろん総司には躊躇いがあった。
「でも、斉藤さん…それは…」
「あんたが厄介事を抱え込むと、それは仕事に関わる」
斉藤はあっさりとそう言うと、「いいから」と彼にしては強引に総司の背中を押した。
「一番隊と共に先に屯所に戻って、副長にはすべて俺が報告しておく。だから心置きなく話をしろ」
「……斉藤さん」
いまだ戸惑う総司を、斉藤は「じゃあ」と言って無理やり襖を閉めてしまった。斉藤が階段を下りていく音が聞こえる。
総司は冷たい沈黙が流れる部屋に残された。





337


窓の外から騒がしい声はだんだんと聞こえなくなった。一番隊、三番隊の隊士たちが斉藤に率いられて屯所に戻っていったのだろう。
総司は重苦しい空気に少し緊張しながら宗三郎の前で膝を折った。宗三郎はいまだに無表情のまま、窓の向こうの景色を眺めつづけている。
突然斉藤に嗾けられたので、宗三郎に何を話せばいいのか、どう切り出せばいいのか…総司には全く心の準備は無かった。けれど、だからと言ってここから立ち去る…という選択は、何故だか総司にはなかった。
二人の間には沈黙が流れ続ける。どんよりとしていた雲は次第にその色を濃くして、ついには雨がポツリポツリと降り始めた。するとようやく宗三郎が窓の外から、総司へと視線を移した。
「…何が聞きたい?」
「はい…?」
「歳さんは…何か言っていた?」
宗三郎の眼差しはやはり以前と比べて鋭く暗い。そして彼が親しげに『歳さん』と呼ぶことは…総司の胸を締め付けた。
「…何も聞いていません」
「ふうん、じゃああれから歳さんがここに来たのも知らないんだ」
「え?」
総司は驚いた。
共にここを訪れたあの日、宗三郎を見た途端に嫌そうな顔をして引き返した土方が、もう一度ここに来ていた。それはつまり、総司には聞かれたくない話があったのではないかということ。
(どうして…)
あからさまに動揺する総司を見て、宗三郎は薄く笑った。
「あんたが聞きたいことはわかっているよ。俺と歳さんが、どういう関係だったのか…そういうことでしょ?」
「……はい」
図星を指され、総司は躊躇ったものの頷いた。何をどう取り繕っても、総司が聞きたいことの核心はそこに違いないのだ。すると宗三郎は総司の方へと身体を寄せて、その整った顔立ちから妖艶な笑みを浮かべた。そして話を語りだす前に、
「ねえ…歳さんにはもう抱かれたの?」
と訊ねてきた。
予想だにしない質問に総司は驚いた。
「…な…っ?」
しかしそのリアクションが答えとなってしまったようで、察しの良い宗三郎は「何だ」とわざとらしくため息をついた。
「あんたを初めて見たときの感想は間違っていなかったのか。しかも相手が歳さんだなんてね、皮肉なものだ。…それにしてもあの人は相変わらず手を出すのが早い」
「相変わらず…って…」
宗三郎の言葉一つ一つが心を揺さぶっていくようだ。聞きたいような、聞きたくないような心地で総司は彼の言葉を待つ。
宗三郎はその美しい笑みを浮かべたまま続けた。
「歳さんは、江戸に居た頃…俺のところに来たことがあるんだ」
「江戸に居た頃…?」
「もちろん、陰間茶屋さ」
総司は息を飲んだ。
やはりと思う反面、揺さぶられるような衝撃もあった。土方が女のところへ足しげく通っていたことは良く知っているし、今更気に病むことではないと悟っていた。けれど、それが男の宗三郎だとすれば話は別だ。
何も言い返せないでいると、宗三郎が話を続けた。
「何年前かな…歳さんと、もう一人、整った顔立ちの男が突然、陰間茶屋にやってきたんだ。おそらく最初は興味本位の好奇心だったんだろうけれど、あの人は初めて俺と出会って、その次の日にはまた訪ねてきた」
「……」
それが土方と親しい整った顔立ちの男だというのなら、おそらくは伊庭なのだろう。しかし今まで土方からも、また伊庭からも、宗三郎のことを聞いたことはない。特に伊庭辺りはそのあたりの面白そうな話はぺらぺらと口にしていそうなものだが、総司は耳にしたことが無かった。
(それだけ…真剣だったということ…?)
総司の中で悪い予感が過るが、宗三郎は続ける。
「流石に吉原で評判の色男だというだけあって、今までのどんな男よりも口付けが上手だったよ。最初は歳さんも男だということに躊躇いがあったみたいだけど、だんだんとその気になってさ。あとは…言わなくても分かるだろう?」
「……」
冗長に話す宗三郎に、総司は何も言い返せなかった。
宗三郎の言っていることが嘘だと思えなかったのは、彼の浮世離れした美しさ故かもしれない。土方が彼に出会った時、どんなことを思うのか…想像ができたから。
総司は宗三郎から視線を逸らした。その形の良い唇や滑らかな肌に、土方が触れたのかもしれない。女では平気だと思えたのに、男の宗三郎を目の前にするとまるで目の前が真っ暗になるような気持ちになったからだ。
雨が地面を打ちつける音が、強くなる。耳元で弾くような音ばかりが聞こえてきて酷く五月蠅い。
いくら「鈍い」と揶揄される自分でも、全てわかった。だから、もう何も聞きたくはない。あの人がどんな顔で、どんな言葉で、どんな仕草で…宗三郎に接したのか。そんなことはもう知りたくはない。
しかしそんな総司の青ざめた顔を見て宗三郎は「くっ」と笑うだけだった。
「…何をそんなに動揺しているんだ。あの人が生粋の遊び人だということは知っているんだろう?」
「そ、それは…」
「それとも何だ。男はお前だけだという甘い言葉を、易々と信じたのかい?」
宗三郎は嘲笑い、総司はぐっと唇を噛んだ。
信じていた。
きっと土方にとって、自分の存在だけが特別だと、心の奥底で信じていた。
(違う…)
土方が宗三郎と関係を持っていたことよりも、総司の心を傷つけたのは土方が口にした言葉のすべてが、偽りかもしれないという事実だった。お前だけだと聞いたあの甘い言葉が、この人にも向けられていたのかもしれない――。
「…何だ。案外、打たれ弱いんだな」
宗三郎の追い打ちをかけるような言葉に、総司はピクリと身体を震わせてた。
「あんた、本当に歳さんのことが好きなのか?」
「…」
その問いかけに、
(どうして、即答できないのだろう…)
総司は自分自身が信じられないような心地になった。けれど、どうしても迷いや疑念が邪魔をして、総司に言葉を飲み込ませる。
すると宗三郎は総司の頬に手を当て、自分の方へと無理矢理に向かせた。
「…ただの昔馴染みのよしみとか、曖昧な気持ちであの人のことを『好きだ』というのなら…俺に頂戴」
「宗三郎さん…」
「少なくとも、あんたより…俺はあの人を愛している。身体だって満足させてあげられる」
いつもどこか距離を置いて達観し、その整いすぎた美しさを纏い演技じみた笑みを浮かべている宗三郎が、いま総司に真剣な眼差しを向けている。それが何より、冗談でも嘘でもなく、宗三郎の本音だということだ。
この人は、本当に土方のことを想っている。
土方のことを昔の関係だと割り切っているのではない。
鈍い総司でさえ、それはひしひしと感じた。
(嫌だ…)
もう、ここに居たくない。
総司は宗三郎を無理矢理引きはがすようにして離れた。そして何も言わずそのまま部屋を駆けだしていく。
ここは、まるで空気が足りないかのように息苦しい。
こんなにも締め付けられるような気持になるのは、初めてだ。
慌ただしく階段を下り、店を飛び出た。雨がザアザアと強く降っていたが、躊躇いもなくその中に走り出す。すると、誰かに後ろから手を掴まれた。
「…っ、斉藤さん…!」
先に戻っていたはずの斉藤だ。彼は傘を片手に総司の手を引いていた。巡察の時には傘なんて持っていなかったはずだ。そんな彼が何故ここにいるのか…そう問い返す余裕もなく、総司は立ち止まる。
すると
「行くぞ」
斉藤は自分が濡れるのも厭わず、総司に傘を差し出した。痛めつけるように打ち付けるような雨を遮る彼の優しさが、有難くて嬉しくて…
「……っ」
そして少しつらかった。


雨が降る中、斉藤は土方の元へ報告へ向かった。監察から報告を受け、河上彦斎がいる店へと向かったが残念ながら逃げられた後だった。その話を聞いたところまでは、「そうか」と彼は淡々と聞いていたが、
「店は松葉屋です」
と斉藤が付け足すと、土方は急に顔を顰めた。そして話を逸らすように
「…総司はどうした?」
と訊ねてきた。
「沖田さんは部屋に戻りました。体調が優れないようでしたので」
「体調が…?」
その言葉に土方の表情がまた変わる。
「多少雨に降られましたので、俺が念のために部屋に戻るように言っただけです。大事ありません」
「…そうか」
斉藤の説明に、土方は幾分か安堵した表情を浮かべた。土方が総司に対して過保護なのは前からだが、あまりにも敏感に反応を見せるのは珍しくも感じた。
土方は
「わかった。ご苦労だった」
と斉藤の報告を終えたものとする。斉藤もいつもならここで引き下がるのだが、「差し出がましいようですが」と話を続けた。
「あの宗三郎という者。副長とはお知り合いでしょうか」
「…会ったのか?」
土方はあからさまに嫌そうな顔をした。聞かれたくないことなのだろう…と斉藤は察することができたが、敢えて続けた。
「会いましたが、俺は詳しい話は聞いていません。沖田さんは…何かを聞いたと思いますが」
「総司が?何故だ?」
「…副長は既にご存じなのではないでしょうか?」
「何…?」
土方は怪訝な顔で軽く斉藤を睨んだ。しかし斉藤は淡々と続けた。
「お気づきではないのだとすればそれでも構いません。ただ…あまりあの人の優しさに甘えるのはどうかと思います」
「一体何を…」
言っているんだ、と訊ねようとした言葉が途切れる。そして土方の表情が変わり急に立ち上がると、斉藤をその場に残して部屋を出て行く。
残された斉藤は足音が遠ざかるのを聞きながら、深いため息をついた。
「…何をやっているんだか…」
と呟いた言葉は雨でかき消された。




338


ガンガンガン、と脳裏に叩きつけるように音が響く。それは雨粒の音か、それとも別の何かか。総司にはよくわからない。
「沖田先生、顔色が悪いですよ」
鋭く指摘したのは山野だった。池田屋以来、総司の体調を慮るのが癖になっている彼は、ほんの少しの不調でも見抜いてしまう。
「ああ…大丈夫ですよ、ちょっと疲れただけで…」
彼の気遣いに、総司は笑ってやり過ごそうとしたのだがそう簡単にはいかない。
「雨の中帰られたのでしょう。お風邪を召されては困ります」
「大丈夫です、これくらい…」
「用心が必要です、お医者さまを呼んで…!」
「いいから!」
山野の大げさな計らいに、総司は無意識に声を荒げていた。その声は自分が驚くくらいに大きく響いて、山野がさっと表情を変えて「申し訳ありません」とすぐに頭を下げてきた。
「い…いえ、ごめんなさい、本当…何でもないですから…」
どうにか言い繕うものの、総司が隊務以外の場所で怒鳴ることなどない。山野は酷く驚いて、そして落ち込んでいた。
だが、今までに感じたことがないほど、苛立ちを感じていた。宗三郎の元から逃げるように飛び出て、斉藤と共に屯所に戻った。斉藤は道中は何も聞かず「報告は俺だけで行く」と有無を言わせずに告げて去り、総司は放心状態のまま部屋に戻ってきたのだ。
(何だろう…これ…)
心臓の音がうるさいほどに響く。自分で制御できないほどの速さで、身体を打ち付けるように。そのせいで感情に余裕が無い。
「…沖田先生」
山野との間に流れていた重たい沈黙の中、島田が声をかけてきた。もちろんやり取りは聞いていたのだろう。
「ひとまずお休みください。顔色がお悪いのは本当です、もし明日もお身体の具合が悪いようでしたら、山野にお話し頂ければ良いかと」
「……そうですね。ありがとうございます、島田さん」
仲裁に入った島田の申し出を総司は受け入れることにした。空気が緩み山野もほっと安堵した表情を見せ、早速寝床の準備に取り掛かってくれた。健気な彼を簡単に怒鳴りつけてしまったことを申し訳なくおもいつつ、
(駄目だな…こんなの…)
と総司は頭を掻いた。
古参である島田や、馴染みの山野ならともかく、新入隊士が入ったばかりのこんな時期に苛々した様子を見せては彼らが委縮してしまうだろう。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。するといまだ心臓の音は高鳴っていたけれど、幾分かやり過ごせるようになった気がする。
総司は濡れた衣服を脱いて取り換えた。纏わりつくような気持ち悪さが拭われて、少しは冷静になるだろう。
二人のいうとおり、総司は山野が敷いた布団で一足早く休むことにした。しかし、身体が疲れていても頭はしっかりと動いていて、なかなか眠れず、今日起こったことを脳裏で何度も再生した。
『歳さんは、江戸に居た頃…俺のところに来たことがあるんだ』
『男はお前だけだという甘い言葉を、易々と信じたのかい?』
『ふうん、じゃああれから歳さんがここに来たのも知らないんだ』
ぐるぐると同じ台詞と景色をめぐるなか、総司の視線は天井だけをみていた。いつもと同じその天井が今日は遥か高くに見える。でも、上を見上げていればすべてを飲み込める気がした。今日感じたこと。喉元で閊える『何か』が、別のものに混じりあって、誤魔化されて、流れていくように。
(こんなのは…平気なんだ)
そう。
平気だと笑えるほど、強くなりたい。
誰にも心配を掛けない、強さが欲しい。
土方の隣に相応しい、強さが――。
雨の音が激しくなった。
周囲の音を掻き消していくなか、突然、バンッという激しい音がした。刹那ついに雷でも落ちたかと思ったが、そうではない。
「…土方…さん」
西本願寺に移ってからは隊ごとの部屋割りになっている。つまりこの場には一番隊の隊士たちがいるわけだが、揃って土方の登場に皆、背筋を伸ばす。だが、土方は不機嫌な表情をそのままに
「島田」
「は…っはい!」
「総司と話がある」
「わかりました!」
島田は隊士たちに目くばせする。すると隊士たちは指示もないのに次々と部屋を出て行ってしまう。ついには山野と島田も部屋を出て、すっかり誰も居なくなってしまった。
「…雨が降っているのに、可哀そうじゃありませんか」
総司は寝た身体を起こしつつ苦笑した。すると土方がやってきて
「具合が悪いのか?」
と、真面目に問いかけてくる。土方は江戸から帰ってきて以来、何故だか不思議なくらい総司の体調を気にするのだ。
「大丈夫ですよ。ちょっと雨で濡れたから早めに休ませてもらっているだけです」
「…ならいい」
土方の表情が少しだけ緩む。
誰にも見せない優しい顔を覗かせたとき、やはり自分は大切にしてもらっているのだと改めて気づかされる。だから、何も疑う必要はない、何も考える必要はない…というのに。
(どうしてこんなに…苦しいのだろう)
土方の顔を見て、こんなに苦しい気持ちになるのは初めてだ。もどかしくて、切なくて…堪らなくなる。
総司は堪えきれなくなって顔を逸らした。しかし土方はそれを許してくれず、両肩を掴んで自分の方へと向かせた。
「お前、何を聞いたんだ?」
「何…を…?」
「宗三郎と話をしたんだろう?」
「…どうして…」
どうしてそんなことを知っているのか…それは愚問だろう、もちろん斉藤が土方に話したのだ。総司はぐっと唇を噛みつつも、無理やりに微笑んで見せた。
「…大した話じゃありません。宗三郎さんが土方さんと…お知り合いだって…そういう話をしただけです」
「本当か?」
「…本当です」
両肩を掴んでいた土方の手が、総司の頭を鷲掴みにする。
「じゃあ何でこっちを向かないんだ」
「…」
「何を聞いたんだ、話せ」
いつもより強引で…それがまるで焦っているようにも見えた。
(そんなに…宗三郎さんのことは、知られたくない…?)
女との関係ならあっさりとひけらかすくせに、どうして宗三郎のことだけはこんなに必死になっているのだろう。
それが宗三郎の話が嘘ではないのだと、証明しているようで。
(だったら、何も知りたくない…!)
知って苦しみくらいなら、知らずにいたほうがまだマシだ。
「…だから、何も聞いていませんって。単純に世間話をして帰ってきただけですよ。それから土方さんの方を向かないのは、もし風邪だったら土方さんに移したら悪いかなって思っているだけです」
総司は必要以上に微笑んでみせる。すると次の瞬間、痛いほど強く押されて背中を打ち付け、土方に押し倒されていた。
「いた…っ」
「いまのが本音か…?」
覆いかぶさるように土方が訊ねてくる。射抜くような、真摯な、眼差しで。
しかし総司は土方の意に反して、
「はい」
と頷いた。
土方と宗三郎との関係が、心の奥底で引っかかっているのは本音だ。宗三郎からではなく、土方の口から本当のことを聞きたいと思うのも間違いない。
でももう半分の『平気でいたい』という願いだって、総司にとっては本音なのだ。この弱弱しく女々しい感情を土方には知られたくない。
その二つが心の中で鬩ぎあっているだけで、どちらも間違いではない。
だが、その答えは土方をさらに苛立たせた。
「…っ、!」
本音を言えというくせに、土方は総司の口を塞いでしまう。いつもの形の良い唇が生暖かく重なって、蕩けていく。そして何もかもを溶かそうとする。
これは昔からだ。何か伝わらないもどかしさを感じると、言葉にならないその『何か』を伝えたくて、二人はこうして重ねてきた。
しかし総司は口付けを拒むように、咄嗟に渾身の力で土方の胸板を押して離れた。
「やめてください!」
「…っ?」
総司の拒絶に、土方は目を丸くして驚いていた。しかし、驚いたのは土方だけではなく総司も同じだ。
(なんで…)
土方が強引なのはいつものことだ。我儘で自分勝手で…でも、だからこそそういう彼をいつでも受け入れていたいと思っていた。受け入れられるのは自分だけだと思っていた。
けれど、今は違う。
この気持ちに、誰よりも、何よりも土方には…触れてほしくはない。触れられたくない、知られたくない。
(…もう、頭の中がぐしゃぐしゃだ)
混乱で、真っ暗だ。
こんな気持ちは初めてで、苦しくて、眩暈がする。気持ち悪くて、おかしい。
けれど、そんななかで総司はどうにか口にした。
「……言ったでしょう、風邪…引いているかも、しれないんですよ。この大事な時期に土方副長に…移すわけにはいかないんです」
話しながら、こんな言い訳を土方が納得してくれるわけはないと思っていた。誰よりも総司のことを見通している彼は、『嘘』だとすぐに見抜くだろう、と。
しかし、土方は
「…そうか」
と答えた。そしてあっさりと立ち上がると「ゆっくり休め」と告げて背中を向けて部屋を出て行ってしまった。あまりにあっけなく引き下がっていってしまったので、総司が理解できなかったくらいだ。
そこでようやく総司は思う。
土方はどう思ったのだろう。
明らかに宗三郎から『何か』を聞いたということはわかっただろう。それを話してくれと懇願しても総司は話さなかった。挙句、口付けさえ拒んだ。
土方は…何を思ったのだろう。
「…歳三さん…」
呼んだその声は届かない。
激しく降り続ける雨の中に、混じって、消えていくから。



339


この数日で季節はいつの間にか梅雨になったようだ。雨が連日降り続け、肌に張り付くじめじめとした気候の中、総司は布団に横たわっていた。
「先生、お加減はいかがですか?」
山野は二刻に一度はそう言って顔を覗かせる。ここは一番隊の部屋から少し離れた、屯所では最も風通しの良い部屋だ。
「大丈夫ですよ、重病人じゃあるまいし、そんなに心配しないでください」
総司は苦笑した。
病は気からというのはどうやら正しいようで、あれから総司は本当に寝込んでしまった。医者が来て「風邪だ」ということなので、一番隊の部屋から離れてこの部屋に移って静養しているのだ。
「それより巡察の方はいかがでしたか」
「特に問題ありません。斉藤先生のもとで皆、いつも通り真面目に取り組んでいます。…先生、お薬です」
山野は手にしていた粉薬と白湯の入った湯呑を差し出した。口直しの菓子も添えられている辺り、山野はすっかり総司の世話に慣れてきたようだ。
嫌々ながらも薬を飲み、落ち着いたところで
「この間はすみませんでした」
と総司は謝った。心当たりがなかったのか、山野は「え?」と驚いた。
「あの日は…何だか、苛々してしまって。結局は山野君の言うとおり風邪だったんですから、どうしようもないですよね」
「そんな…僕の物言いが先生を苛立たせてしまったのでしょう。僕の方こそ、申し訳ありませんでした」
山野は丁寧に頭を下げる。ここで「いや私が」と言えば謝罪の応酬になってしまうので、
「そんなことはないと思いますけど、じゃあ、おあいこですね」
と笑って話を切り上げた。山野も嬉しそうに頷いた。
あの日、土方が去って行ったあと、身体中の熱が引いてしまったかのような悪寒を覚えた。それが精神的なものだったのか、身体的なものだったのかはわからないが、寝よう寝ようと思っても上手く寝られずに一晩を過ごし、朝になる頃には身体中が気怠かった。
だが、幸いなことに風邪だということで数日休むと、色々と考えていたことや悩んでいたことも消化した。消化したからと言ってなくなったわけではないけれど、燻っていた感情をどこかに追いやることができた。見ないようにすることができた。
それに
(土方さんも…顔を出さなかったな…)
あれだけ身体のことを心配していたくせに、総司が寝込んでから顔を出してはいない。同じ屯所に居るのだから、お見舞いというほどではないにせよ、何か気遣ってくれてもよさそうなものだが、しかしあのやり取りの後だ。それに、顔を合わせづらいのは総司も同じだ。
「先生?」
「え?…ああ、すみません、何でもないですよ。もう、明日くらいには仕事に復帰してもよさそうですかね」
「お医者様はそうおっしゃっておられましたが…本当に具合は宜しいのですか?」
心配そうな山野に、総司は微笑んで答えた。
「大丈夫です。早く動かないと腕が鈍りそうですよ」
「…そうですか。わかりました」
そう答えたものの、山野はあまり納得していないようだった。池田屋から一年も経っていない中でこうしてまた身体を壊してしまったのだから、心配性の彼を納得させるのはなかなか難しそうだ。
そうしているとこちらにやってくる足音が聞こえてくる。顔を出したのは斉藤だった。山野は斉藤の顔を見ると「僕はこれで」と湯呑を下げて去っていく。そして山野のいた場所に斉藤が腰を降ろした。
「すみません、一番隊までお任せしてしまって」
「…人数が増えようと増えまいとやることは同じだ」
淡々とした感想に総司は苦笑した。もちろん、新撰組の中でも精鋭が集まる一番隊には島田や山野がいて、何の不安もないし、率いるのは斉藤なのだから安心して任せてはいる。
「明日には仕事に戻りますから」
「急がなくてもいい。それに…明日から近藤局長と土方副長は大坂に行くようだ」
「大坂ですか?」
二人揃って屯所を開けるのは珍しい。
「いよいよ将軍が上洛される。既に大坂に隊士を遣っているが、局長と副長も顔を出すべきだという会津の意向だろう」
「ふうん…じゃあますますこうして床でのんびりしている場合では無いですね」
ははは、と笑いつつ、心の奥底では暗澹たる思いが渦巻いていた。この数日顔を合わせていない。土方が何を考え何を思っているのか…わからない。そしてまた土方が離れて行ってしまうようで…
(そんなことないのに)
まるで、心が我儘になってしまったみたいだ。
するとまた強く雨が降り始めた。まるで滝のような轟音が響きすべてを掻き消していく。そんななか
「悪かった」
と斉藤が呟くように謝った。
「え?何がですか?」
「いや…あの陰間と話をしてみろと強制したのは俺だ。それに土方副長に事情を話したのも……余計なことをした」
「そんなことは…ないですよ」
立ち止まっていた総司の背中を押してくれたのが、斉藤だったということ。知った事実がたとえ総司にとって知りたくなかったことであったとしても、それを後悔しているわけではない。
「いつかは知ることになっていたことでしょうし、知りたいと思っていたのは本当です。むしろ、こんなことで身体を壊すなんて…自分が情けないですよ」
総司は苦笑する。しかし斉藤の表情はいまだに固い。
「副長とは話ができたのか?」
「…話…かぁ…」
あの日は話という話をしていない気がする。土方の言葉をことごとく自分が跳ね返してしまっただけのやり取りで、お互いの距離を遠く感じただけだった。
「土方さんを目の前にすると…何を言えばいいのか、思いつかないんです」
言いたいことが。
聞きたいことが。
沢山あるはずなのに、でもそれを口にしてしまえば崩れてしまうような気がして。
轟音のように降っていた雨が、再び小雨へと戻っていく。移ろいやすい不安定な天候はまるで自分の心みたいだ。
「…前に副長が言っていた」
「え?」
「『こういうのはらしくないものだ』と」
それは前にも聞いた言葉だ。その時、総司が『どういう意味ですか?』と訊ねると斉藤は『言葉通りの意味だ』と答えた。
「今まであんたの中になかった感情が…体調を崩すほどのそれが、一体何なのか…知ったほうが良い」
「…斉藤さんは知っているんですか?」
斉藤は膝を立て、立ち上がる。そして何も答えずに、背中を向けて去っていった。


「総司の具合はだいぶ良くなったようだな」
近藤は明日からの大坂行きの準備をしながら、安堵したように笑った。屯所を開ける前に心の閊えがなくなってほっとしているのだろう。しかし、土方は「そうか」と気の抜けた返事をした。
「…またお前たち、喧嘩をしているようだな?」
一体何度目だ、と呆れた表情を浮かべる近藤は、わざとらしくため息をつく。
「総司も俺に似て頑固なところがあるが、お前の方が齢も上なんだから多少のことは許してやれよ。じゃなきゃ、いつまでも喧嘩になるじゃないか。それに新撰組の副長と一番隊組長が喧嘩なんて外聞がだな…」
「今度のはそういう単純な話じゃねえんだよ」
ブツブツと近藤を遮って土方が吐き捨てる。不機嫌を丸出しにした土方の態度は、近藤でなければ怯んでしまいそうなものだが、幼馴染は
「じゃあなんだ?」
とあっさりと躱して続きを促した。その遠慮のなさは心地よいくらいだ。
「…俺が許すとかじゃねえんだ、あいつが…許してくれるかどうかだ」
風邪で倒れる前の総司の態度から察するに、宗三郎が何か余計なことを言ったに違いないが、土方としては今更宗次郎との過去を掘り起こすのは酷く面倒だった。あの頃の、少し荒んでいた頃のことを思い出すだけでも億劫だし、それを誰かに…近藤にさえ明かしたくはない。
その気持ちが先行して、総司が何か思い悩んでいると分かっていても話すことはできなかった。
(どうしたもんかな…)
少し考え込んでいると、近藤の顔色はみるみる青ざめてしまう。
「お前、まさか浮気でもしたんじゃないだろうな…?!」
土方の両肩を掴み揺さぶる近藤に、反論する気力はなかったが
「そんな暇ねえよ」
と、これ以上の近藤の余計な妄想には釘を刺しておく。ただでさえ新入隊士のことや新しい法度、諸郡の上洛など情勢は目まぐるしく変わっているというのに、そんな余裕があるわけがない。
しかし、近藤は尚も疑いの眼差しを土方に向けていた。
「そう言えば、ちょっと前に総司が気にしていたぞ。なんだ、薫…っていう名前の馴染みを知っているかって」
「……」
「やっぱり女がらみなんだな!」
少しピントのずれている近藤の詰問に、土方は何も答えずに聞き流したのだった。


雨は好きだ。
降り続ける雨が、まるで自分を囲う壁のように一人にしてくれる。音はただただ単調で、雨が地面に触れて弾ける音もいい。だからか時々、傘も差さずに外に飛び出してしまいたくなる。雨が何もかもを流してくれるような気がして。
遠くに見える薄暗い雲がこちらに近づいてくる。そろそろまた雨が降るだろう。そんなことを考えていると、襖が開く音がした。人の気配は感じなかったのに、彼はいつの間にかそこにいたようだ。
「また来たんだ。早いね」
「この間の返事を貰いに来た」
男は目深に被った頭巾の下で、挨拶もなく用件を告げる。宗三郎も特に動揺することなく返答した。
「…いいよ。ただし、条件がある」
「聞こう」
「俺を抱いてくれる?」
その申し出に、彼は笑った。
「俺にはお前を買うような金はない」
「金なんて要らない。ただ…そうだな、痛めつけるように抱いてほしいんだ。そういうのが得意なんだろう?」
人斬りならさ、と宗三郎は薄く笑う。
すると男は「くくっ」と噛みつく様な笑い方をした。
「…なんだ、そういう趣向か?」
「どうとでも言えばいいよ」
宗三郎の投げやりな条件。男は…河上は「いいだろう」と笑い、宗三郎の近くで腰を降ろした。そして目にも留まらぬ速さで、宗三郎の首筋に短刀を突きつける。首の皮一枚切れただろうか、鮮血がすっと首筋を伝った。
しかし宗三郎は驚くことなく、厭うことなく、恐怖におびえることなく、河上の背中に両腕を回した。
(痛みがあればきっとこの気持ちも消えるだろう)
そう願い、そして瞼を閉じた。




340


慶応元年五月下旬。
公武一和を推進しようと上洛した将軍家茂が大坂に入ったことを受け、土方は近藤と共に下坂したが、大坂での将軍警護の任務は谷三十郎らに任せ、二人は将軍の侍医として共にやってきた松本良順を訊ねるべく、滞在している宿へ向かっていた。
「ようやく容保様の念願がかなってのご上洛だ」
近藤は終始ご機嫌な様子だった。
そもそも幕府は家茂の上洛には否定的であった。昨年の第一次長州征討で勝利したことを受け、公武合体を進める必要はないという見方をしていたからだ。しかしそこに異を唱えたのは松平容保だった。京都守護職としてあくまで公武一体による挙国一致を目指していた容保は、公武合体から離れつつある幕府の体勢を憂慮し、江戸で将軍上洛運動を起こすことまで計画した。
「紆余曲折あったものの会津候のご希望通り、ついにご上洛いただけた。ようやく公武合体、そして攘夷敢行だな。新撰組もますます兵力を増強して戦に備えなければならないな!」
「攘夷ねえ…」
目を爛々と輝かせている近藤の隣で、土方はひっそりとため息をつく。
先日、近藤に頼まれ、江戸で松本良順の元を訪ねたとき、土方は松本から攘夷の無謀さを解かれた。西洋医学を学んだ松本だからこその実感の籠った言葉に、土方も納得ができた。それまで二百余年日本を統治してきた徳川幕府が、外国勢力にしり込みしている…若い頃はそれが「腰抜けだ」と軽々と批判できたことだが、少し時勢に関わる今の立場なら何となく理解できる。見えない異国という国の大きさを感じる。
(それでも…)
土方はちらりと近藤を見た。
幼い頃から慕ってきた大将は、幕府の元で働きこんなにも嬉しそうな顔で新撰組の局長を務めている。幸運で幸福な日々を噛みしめるように、歩きつづけている。真っ直ぐと、寄り道することなく、誠実に。
そんな彼に水を差すようなことは言えるわけがない。
ただ、幼馴染は少し不器用で、まっすぐだから。足りない部分を補完するのは自分の役目だと思っている。
(上手くやる…)
土方の中に常にある信条だ。
そろそろ目的の宿に着く。
「ところで、松本先生のことだが、面白い話を聞いたぞ」
「面白い話?」
「一橋慶喜公が体調不良を訴えられたときの話だ。松本先生は早速診察を行い、投薬をした。するとみるみるうちに体調が改善されたことで、一橋公らの信任を得ることができたらしいんだ」
「それは聞いた話だが…」
土方が首を傾げると、近藤は「まあ続きを聞け」と笑った。
「その投薬をした薬。何とご禁制の阿片だったらしい。医療目的の一時的な使用は身体に害がないらしく、多忙を極める一橋公を休ませるために阿片を飲ませ、一日中眠らせたそうだ。するとすっかり良くなったという逸話があるんだ!」
「へえ…」
阿片を劇薬として用い、見事に完治させた。相手が庶民ならさもありなん、という話だが、相手は御三家の一橋家だ。もし万が一のことがあれば…と常人なら背筋が凍りつくが、松本の豪胆さを窺い知ることができるエピソードだ。しかし何故だか
(あの御仁ならやりかねない…)
と土方が思ってしまうのは松本に漂う雰囲気ゆえだろう。
「その松本先生に屯所に来て診療してもらえるなら有難いことだな」
土方はそう返したのだが、それまでご機嫌に話を続けていた近藤が途端にその表情を変えた。そして土方の顔を伺うように
「…歳、前々から気になっていたんだが」
と切り出した。
「あ?」
「お前、身体の具合でも悪いのか?」
「…俺がか?」
風邪を引いて寝込んでいた総司ならともかく、自分には全く心当たりはない。むしろ京都にやってきてからは体調不良を感じたことはほとんどないので、そういう素振りも見せていないはずだ。
しかし、近藤がそう思った理由は違った。
「お前は昔は医者を信用していなかったじゃないか。家伝の散薬さえも、一緒に飲む酒のおかげで治るんだなんて言って…てっきり俺は医者や薬なんていう目に見えないものを信用していないんだと思っていたが、松本先生のことについては肯定的じゃないか。まして屯所に来て診察してもらうなんて…お前が言い出すなんて何だか変なことだなと思っていたんだ」
「ああ…」
近藤の言い分は理解できた。確かに医者や薬、ましてや西洋医学などは鵜呑みにしない性格だ。そんな土方が積極的に松本の診療を受けようとしているのだから、疑うのは当然と言える。
「…松本先生が立派な方だというのは会った時から感じたんだよ。この人は信頼できるだろうと。かっちゃんも同じだろう」
「それは…そうだが…」
土方の返事に、いまだ近藤は懐疑的だ。
(だが…本当のことを話すわけにはいかねえよな)
まさか総司を診せるのが目的で、その理由は江戸で姉のみつから総司の父のことを聞いたから…とは言えない。労咳は遺伝的なもので、いつ発症するかわからないし、発症しないかもしれない。余計な重荷を近藤に背負わせるわけにはいかないし、みつもまたそれを望んではないだろう。
「…池田屋の時、半分以上の隊士が暑さにやられて使い物にならなかっただろう。ああいう非常時がいつ訪れるかわからないんだ。俺は…あくまで新撰組のことを考えて、診察に来てもらえればいいと思っただけだ」
「ああ…なるほどな」
それは松本に話をしたこともでもあり、あくまで新撰組の副長としての考えだ…そう主張すると近藤はようやく腑に落ちたようだ。
「わかったよ。俺からもお願いしよう」
そうして安堵した表情で笑う。土方は(それでいい)と内心、思った。
そして二人は宿にたどり着いた。

松本の元には既に来客があった。
「これはこれは、近藤局長ではありませんか」
来客は会津藩医の南部精一であった。厳つく強面の松本とは真逆の、温厚そうな一重の瞳が印象的な人物だ。
「南部先生、いらっしゃっていたのですか」
顔見知りである近藤が親しげに声をかけると、南部は微笑んだ。
「ええ。私は良順先生の父君である井上泰然先生の弟子ですから、ご挨拶に」
「そうでしたか」
「まあ、座れよ」
松本が近藤と土方を手招きして座らせる。
「久しぶりだな…近藤とは半年ぶりくらいか?」
「はい、ご無沙汰をしておりました」
「持病の胃痛はどうだ?」
「もうすっかり完治いたしました。松本先生のお蔭です」
「ならいい。そういうのは治ったかどうかよりも『治った』っていう気持ちでいるのが重要だからな」
「相変わらず豪胆な!」
近藤がその大口で笑うと、松本も笑う。軽快な会話の様子からしても気があうのだろうということは傍から見ていても良くわかった。
そして松本は傍にあった菓子を二人に薦めてきた。
「カステイラという菓子だ。長崎から取り寄せている」
「カステイラ…」
「家茂公も甘党でな、こういう菓子を気に入って召し上げているんだ」
将軍をまるで友人のように話す松本に、近藤は「そうですか!」と感激した様子だ。農民出身の近藤からすれば恐れ多い名前も、あっさりと松本は話題にしてしまうのだ。そういうところは松本らしいともいえる。
土方は近藤と共にそのカステイラを口にした。甘い感触がすぐに口の中で消えていく。饅頭や大福などを食べ慣れている身からすれば物足りなくも感じるが、上品な菓子だということはわかる。
そしてしばらく世間話をしていると
「それで、土方。この間の屯所への診察の件だが、もう数日で京に上ることができるだろう」
と松本が土方へと話を振った。
「有難うございます。体調の悪い者や病の心当たりがある者に声をかけ、診察を受けるように指示しておきます」
「いやいや、それじゃあ甲斐がねえだろう」
「は?」
土方は首を傾げたが、松本はにやりと笑ってその視線を南部へとやる。
「せっかくなら隊士全員を診察してやるよ。なあ、南部手伝えよ」
「それは構いませんが…」
「宜しいのですか?!」
近藤が驚くと、松本は大きく頷いた。
「これも何かの縁だ。もし病の者があれば引き続き南部に診てもらえばいいだろう」
「ははは、良順先生は私の仕事を増やすおつもりなのですね」
「いいだろう。近所に住んでいる誼だ」
「はいはい、わかりました」
南部は穏やかに微笑んでいた。松本はやや強引な物言いだが、この二人はいつもこのようなやり取りなのだろう。
いつの間にかとんとんと話が進んでいき、松本の屯所への来訪は確定となった。隊士たち全員を見てもらえるという安堵がある一方で、土方には不安がよぎる。
(もし…総司に労咳の気があるとしたら…)
この松本良順という男があっさりと見抜いてしまうのではないか。そんなことを思った。
「まあ、おそらく京での滞在は長くなるだろう。重い病の者がいれば俺が診てやるさ」
「長く…?大樹公は早速、長州征討に取りかかられるのでは?」
「なかなかそうはいかないようだ」
松本はしかめっ面をした。
「長州の奴らはなんだかんだと言い訳をつけて、幕府の命令なんか聞きやしねえ。とうとう家茂公がご上洛となって少しは圧力になるだろうが…それでもこの先は不透明だ、見通しが立たねえ」
「…そうですか」
将軍上洛に伴い、早速戦の準備に本腰を入れようとしていた近藤は拍子抜けしてしまったのだろう。その表情が曇ってしまう。
しかし松本はその白い歯を覗かせて、近藤の肩を叩く。
「公武合体が上手く行くなら、とっくの昔に上手く行っているだろう。気持ちはわかるが耐えるのもまた役目だと思え!」
「…はい、そうですね」
こうして彼らが顔を合わせたのは二度目だ。だが、松本は近藤のことをよく心得ていて、まるで長年の友人のように接している。それが松本の自然体なのかもしれないが、新撰組の局長として幕府の御典医と懇意になることができたというのは、これから大きな頼りとなることだろう。
土方は自分の気が久々に緩んでいるのを感じた。






解説
334 軍中法度について今回は山南の切腹後に制定したことにしていますが、これは池田屋を経た11月ごろに制定されています。池田屋事件の際に、何名かの隊士が混乱に乗じて逃げ出したため、その防止のためにさらに厳しくされたものと思われます。
ですので、ここまでは、軍中法度制定→山南切腹→西本願寺へ移転→大坂行き→数名の隊士の切腹が正しい順番です。また軍中法度については現物が残っているので、局中法度よりも信憑性が高い法度と言われています。(作家の子母澤寛が、軍中法度から局中法度という名前を創作したということらしいです)
335 大坂行のメンバーについて、資料が手元になかったので、すみません、内海が行ったようにしているのは、わらべうた内の創作となります
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