わらべうた





341


雨はまだ止まない。
耳鳴りがするほど五月蠅い。けれど、それがまるで檻のように世界を二人だけにするから、それでもいいとさえ思う。
「俺には…たぶん、形が無いんだ…」
独り言のつもりで呟いた言葉を、男は
「そうかもしれないな」
とあっさりと肯定した。詳しい事情を何も知らないはずなのに、同情も侮蔑もなくその瞳の奥に非常な炎を灯らせたまま。
でもその冷たい目で見つめられると、不思議と心が高揚した。
この男は自分を見ている。
そのことに間違いはないのだから。
けれど、それでもこの虚しさは埋まらない。
「どろどろに溶けて…」
消えてしまいたい。
しかし男は白く細い腕を強引に掴む。壊れかけた身体を引き寄せて、そして肩口に噛みついた。ピリリとした痛みを感じる。
「…っ、ねえ、それ…好きなの…?」
虚ろな眼差しで尋ねた。男によって首筋から鎖骨にかけて、歯形がくっきりと何か所にもわたって刻み付けられている。
すると男は怪しく微笑んだ。
「ああ…まるで支配しているようだ」
「…俺を…?」
男は頷いた。
望まれないものだと思っていた。
皆が欲しいのは外見だけで、自分という人間は空っぽでもいいのだと、そう思っていた。けれど、目の前の男は違うのだという。
「俺はお前の美しさが目障りだ」
「目障り…?」
「ああ…酷く、苛々する顔だ…」
誰もがこの顔を見て賛美し、誰もが称賛し、誰もが美しいのだと口にした。見せかけだけに目を奪われる愚かな者ばかりだった。
けれど、男はそれが嫌だという。
外見は要らないのだという。
(それ…いいな)
誰にも言われたことがない言葉。けれど表面だけの称賛よりはよっぽど心に響いた。
「ねえ…もっとしてよ」
宗三郎は男へと手を伸ばした。
与えられるなら、痛みでも苦しみでも構わない。
優しさでなければいい。


雨が降り続いている。梅雨の季節だから当たり前と言えば当たり前ではあるが、それでも視界を淀ませ、足元を汚す雨はあまり歓待できない。
土方は縁側から庭を眺めていた。かつての屯所である八木邸ほど立派ではないが、小さいながらも趣のある庭だ。
相変わらず大坂でも評判の悪い新撰組だが、八軒屋の船宿・京屋の主人忠兵衛は懇意にしてくれていて、今日のようにしばしば大阪を訪れた際は宿泊をさせてもらっていた。
(京屋と知り合ったのは…いつのことだったか…)
土方は過去へと思いを馳せる。確か芹沢が生きていた頃まで遡るだろう。そうだ、確か芹沢を殺した夜も雨が降り続いていた…。
「…ちっ」
土方はそこまで思い至って、無意識に舌打ちしていた。過去を振り返るなんて自分らしくない。それは自分を立ち止まらせるだけだと、誰よりも言い聞かせてきたはずだ。
苛々としながらそんなことを考えていると
「失礼いたします」
と襖の先から声がかかった。京屋に奉公に来ている女中だったはずだ。土方が「ああ」と返答すると、襖を開けた。
「お客様でございます」
「客…?」
土方には来客の心当たりがない。さらに近藤は谷らと共に仕事に加わっており、ここには土方しかいないのだ。近藤の客人ならば出直してもらわなければならない…と思ったのだが、その必要はなかった。
「こんにちは、お元気そうですねえ」
顔を覗かせたのが伊庭だったからだ。突然の登場だが、いつも通りの飄々とした姿に土方は驚くよりも先に気が抜ける。
ひとまず女中を下がらせて、伊庭を部屋に招き入れた。
「お前、どうしてここにいるんだ?」
「それは愚問ですねえ。俺は奥詰ですよ、家茂公が上洛されるならご一緒するに決まっているじゃありませんか」
「……」
確かに言われてみればその通りだ。前回の家茂公の上洛にも同行した伊庭が、今回もやってくる…そんなことさえ察せなかった自分が憎らしい。
伊庭は微笑みつつ、腰に帯びていた刀を置いて座った。
「いや、実は土方さんをお伺いするのは、都に着いてからにしようと思っていたんですよ。西本願寺に立派な屯所を構えられたと聞いて是非、お邪魔してみようと思って…。でも先ほど、たまたま近藤先生にお会いしたんです」
「近藤さんに?」
「ええ、それでここを教えてもらって訪ねてみたんです」
「何でまた」
伊庭とは先日、江戸で再会したばかりだ。そのせいか伊庭の顔を見ても「久しぶり」という感覚はなく、つい先日一緒に飲んだような感覚だ。それは伊庭も同じはずだから、急いで会いに来る必要はないはずだが。
伊庭が事情を口にしようとしたが、ちょうど先ほどの女中が茶を淹れてきた。「ごゆっくり」と伊庭に声をかけて去っていく。
すると続きを話し始めた。
「いやね、近藤先生がご心配されていたんですよ。また土方さんと沖田さんが喧嘩をしたらしい、と。それだけなら俺も心配なんてしなかったんですけどね、何やら土方さんが浮気をして、その相手が『薫』というらしい…そう聞けば気になってしまうじゃありませんか」
話の半分以上は近藤の妄想のようなもので、浮気なんかしていないどころか喧嘩という喧嘩もしていない。しかし、土方が『薫』と再会したと聞けば気になって、こうして訪ねてきたのだという。
伊庭は『薫』と土方のことを知っている唯一の人間だ。
「『薫』…っていうのは、あの陰間のことですか?」
包み隠すことなく伊庭はストレートに疑問を口にした。
土方はすぐには答えずに茶を口にした。程よい温かさと苦さを飲み込んで、伊庭に対する返答を考える。
「…ああ」
「まさか土方さんを追ってきたんですか?」
「本人はそう言っていた」
「はあぁ…全く、どういう別れ方をしたんですか」
伊庭は驚くというよりも呆れた顔をした。
「あの頃、土方さんはあまり事情を話したくない雰囲気だったから俺も深くは訊ねませんでしたけど…そう言えばあの頃からですよね、土方さんが女遊びを控えて、剣術に真剣に向かい合うようになったのは」
「…そうか?」
「そうですよ。それからすぐに浪士組の話が来て、今に至るんじゃないですか」
自分のことではないのによく覚えている。
土方は苦笑した。
「正直…薫のことは忘れていた。顔を見るまでさっぱり覚えていなかった」
「薄情な人ですね。あんなに綺麗な人だったのに」
「たぶん、忘れようとしていたんだ。…お前こそ、覚えているのか?お前は俺と薫が似ていて、薫のことを気に食わないのだとしたらそれは『同族嫌悪』だと言ったんだぞ」
「覚えているに決まっているじゃありませんか」
伊庭はあなたと一緒にしないでください、と言わんばかりの不満顔を作った。
「本心では自分のやりきれない思いを抱えているくせに、表面上では取り繕った芝居をする。そういう意味で二人が良く似ていると思いましたし、傷を舐めあうにはぴったりの二人だとも感じました」
昨日のことのように話す伊庭は、遠慮ない物言いで指摘した。
「傷を舐めあう?」
「舐めあう…というか、お互いに塩を塗りこむような感じですかね」
伊庭の抽象的な表現をすべて理解できるとは言い難かったが、それでも彼が何を言いたいのかは理解できた。
似た者同志だからこそ、お互いを理解しあえるのだと錯覚する。
そしてまた傷つけあう。
「…お前の言うとおりだな。薫は鬱憤を抱えたまま生きるあの頃の俺そのものだった。だから見ていて苛々したし、その一方で可哀そうだとも思った。こいつのことを理解してやれるのは俺だけだと思ったし、あいつもそれを求めているような気がした」
「それに答えてあげたんですか…?」
「いや…答えなかった」
別れ際に薫は念を押すように土方の手を取った。
また来て。
そして、その時には――抱いてほしい。
けれど土方は、彼の求めた手を振り払うように、薫に会いに行くことはなかった。
「何故ですか?」
「…総司が、俺を待たないと言ったからだ」
「え?」
『帰って来ないんじゃないかって…!いつも、不安になるのはもう嫌なんです』
そう言って、『もう待たない』と言い放った総司の言葉が、思った以上に堪えた。ずっと一緒だと思っていた仲間からの拒絶に揺さぶられた。
そして気が付いた。
我儘かもしれない。面倒かもしれない。疲れるかもしれない。…それでも、土方は待っていてほしかったのだと。
「…結局、あの頃の俺は我儘だった。剣のことだけに集中できずに周りとの実力の差を見せつけられて、その鬱憤を色恋にぶつけていた。かっちゃんや総司、試衛館の連中が心配していると分かっていても、素直に剣に向かうことができなかった。総司みたいな奴が傍に居れば居るほど…こいつには敵わないと思い知るのは、億劫だったからだ」
「まあ…その気持ちはわからんでもないですけどね…」
伊庭は微かに笑みを浮かべつつ頷いた。彼も彼で御曹司として生まれながら、剣に向き合えなかった時期がある。それ故に、土方の気持ちも理解できるのだろう。
「もし…薫とあのまま溺れていれば、俺は剣に戻ることができないだろうと思った。同族嫌悪は自己嫌悪に変わっていくことを…無意識に、頭のどこかでは理解していたんだろう」
傷を舐めあうのは簡単だ。どこに傷があるのか、それがどれだけ痛いのか知っていれば、かりそめの優しさであったとしても慰めることができるから。
けれど、土方が心から求めていたのはそんな生暖かいぬるま湯のような世界ではなかった。
心から信頼できる仲間と切り開いていく、胸を張って歩ける道。
無謀だと思っても、無我夢中に求め続ける熱さ。
だから薫を忘れた。忘れることで、弱い自分と決別したかったのだ。
するとしばらく黙り込んでいた伊庭がゆっくりと口を開いた。
「…なるほど、理解できました。薫の側からすれば傷を舐めてくれる人が自分の前に現れたのに、理由もわからず突然捨てられた。それをずっと胸に秘めて…ここまで来たんでしょうね」
多くを語らずとも伊庭は察する。目敏すぎる彼のそう言うところが気に食わないときもあれば、有難いときもある。彼はそういう稀有な友人だ。
「だとすれば、薫は相当、土方さんに執念を持っているでしょう。沖田さんとのことも知っているとすれば、何をしでかすかわからないですよ」
「ああ…まあ、そうかもな…」
伊庭の忠告に土方は曖昧に頷く。そして伊庭はなおも続けた。
「もし沖田さんに何も話していないのなら、本当のことを話したほうが良いと思いますよ。嘘は誤解を生んで…もう取り返しがつかなくなるかもしれない。そうなってからでは遅いんですよ」
「あいつが聞きたくないと言ってもか?」
「それを沖田さんの本心だと思っているんだとしたら、愚かとしか言いようがありませんね」
伊庭は遠慮なくはっきりと切り捨てて、途端に土方へ厳しい目を向けた。
彼が何を言いたいのかわかって、土方は「ふっ」と息を吐いて笑った。
(まったく…その通りだ)
それは、誰かに指摘されるまでもなくわかっていることだ。
「…ああ。お前と話して決心がついた」
何も聞きたくないと総司が強がっても、無理やりにでも話す。それであいつの気が少しでも休まるのなら…そのほうが良いに決まっている。
『あまりあの人の優しさに甘えるのはどうかと思います』
不意に斉藤が言っていた台詞を思い出した。深い事情は知らないにせよ、斉藤は総司の側から立って言葉を発したのだろう。
許してくれるはずだ、理解してくれるはずだ…と優しさに胡坐をかくのは簡単だ。けれど、その優しさの向こう側で総司が何を感じて、何に傷ついているのか…慮るべきだ。
土方が話を受け入れたのを見るや、伊庭は安堵したようだ。
「全く…もういい大人だっていうのに、世話が焼けるんだからなあ」
江戸からやってきた友人はやれやれと言わんばかりに息を吐く。いつもなら「何だと」と突っかかりそうなものだが、今日は土方は敢えて何も言わずに聞き流したのだった。



342


慶応元年五月。
梅雨の季節、連日雨が降り続いているなかで、その日だけは雲一つない快晴だった。
「きっと良順先生は晴れ男なのでしょう」
松本良順とともに駕籠で乗り付けた南部精一はそう言って笑った。松本もにやりと笑い空を見上げた。
「そうかもしれない。俺は旅先で雨に降られたことがない」
そして視線を降ろして、
「やれ、立派な門構えだ!」
と西本願寺の門前で高らかに笑ったのだった。

「お初にお目にかかります。新撰組参謀 伊東甲子太郎と申します」
近藤、土方とともに出迎えた伊東は早速、その顔に美麗な微笑みを浮かべて得意の握手を求めた。西洋医学をおさめた松本も心得ていて難なく握手を交わす。
「松本良順だ。何だ、新撰組は整った顔じゃねえと入隊できないってわけかい?」
伊東の整った顔立ちを見て、松本は茶化して近藤に視線を送る。
「いえいえ、私のように岩のような顔立ちの男もおります」
「ははっ! そりゃそうだな」
豪快に笑う松本と、大きな口を開け冗談めかして答える近藤。相変わらず気が合う二人はすっかり胸襟を開いている。伊東はその様子を見るのは初めてだったのだろう、戸惑ったように微笑みながら様子を窺っていた。
伊東は幅広い人脈を生かし、参謀という立ち位置に居る分、外部の力を掌握しかねない。土方からすれば、松本のように幕府に近い人物が近藤を重用してくれているのはパワーバランス的にもつり合いが取れて良いだろうと思っていた。もっとも、近藤がそんなことまで考慮して松本と距離を縮めているわけではないだろうが。
「それでは、屯所をご案内いたします」
土方は会話もそこそこに本題を切り出したのだった。

からりと晴れた日であっても、連日の雨のせいでじめじめとしている。総司は巡察から戻るとすぐに隊士らと井戸に向かい、汗を流した。
「沖田先生、松本良順先生がいらっしゃっているそうですよ」
山野は固く絞った手拭いを総司に差し出した。
「松本良順先生?」
「先日、近藤局長がおっしゃっていた方です。幕府御典医の」
「ああ…西洋医学、でしたっけ?」
受け取った手拭いで身体を拭きながら、総司は大坂から戻ってきた近藤が確かそんなことを言っていたな、と思い起こす。将軍の二条城入城とともに大坂から戻った近藤は上機嫌に幕府御典医が新撰組全員の診察を請け負ってくれたと喜んでいた。
総司は襟を正しながら、ため息をついた。
「お医者は苦手なんですよねえ」
「あ、また先生、そんなことを」
総司の愚痴に、山野は少し拗ねたような顔をした。池田屋から先日の風邪まで山野に世話になっている身分としては言えた義理ではなかったものの、
「だってまるで自分の奥底まで覗かれているような気分なんですもん」
と続けると、隣にいた島田が「ははっ」と笑った。
「それは自分もわかります。医者には苦い薬を飲め飲めと言われたものですから、自分も小さな頃は医者が大嫌いでした」
「ですよねえ!」
島田と総司が笑っていると、
「先輩」
と山野はギロリと島田を睨んだ。島田は「おっと」と視線を逸らして素知らぬふりをする。どうやら島田はすっかり山野の尻に敷かれているようだ。
すると、山野はその視線を総司に向けた。
「でも先生。一度、本当にしっかりお医者様に診ていただいてください。時々、ため息をこぼしていらっしゃいますし、先日、お風邪を召されたのもお疲れが溜まっていらっしゃるのではありませんか?」
「…ありがとう。そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。先日の風邪は雨に降られたからですから、原因はわかっていますしね。それに、お医者様には全員診ていただくお話でしょう?さすがに命令ともあれば私も逃げたりしませんって」
「それは…そうですけど」
「じゃあ、私は報告に行ってきます。一番隊の皆さんは部屋で待機をするように」
山野を振り切るように総司は指示を出して、その場を離れた。


屯所をぐるりと一周して、松本が漏らした感想は
「こりゃあ、いかん」
の一言だった。そして隣の南部もまた大きく頷いていた。二人の表情は揃って暗いが、しかし心当たりのない近藤は首を傾げて
「松本先生、何か?」
と訊ねる。すると松本は眉間の皴をもう一つ刻んだ。
「何か?じゃねえぞ、近藤。確かに、世間に名を轟かせた新撰組の屯所だけあって、豪傑が揃っているようだ。今まさに戦が起きたとしてもすぐに出陣出来る、時代錯誤ともいえる雰囲気だが、しかし幕府の緩んだ幕臣たちに比べれば壮快ではある」
「はあ…」
褒めているのか貶しているのか…松本らしい豪快な感想だ。近藤は戸惑っていた。言葉ほど松本の表情は冴えていないからだ。
そして矛先を土方に向けた。
「おい、土方」
「はい」
「隊士の四分の一…いや、三分の一は病か怪我をしているだろう」
松本の指摘に、土方はすぐに頷いた。
近藤が先導して、松本、南部とともに屯所を一周すると確かに具合が悪そうにしている者や昼間だというのに横になって疲れた表情をしている者も多かった。
「男所帯ですので、そう言ったことに疎く…医者に診せる者は少ないかと思います」
「いくら剣ができて、体格が立派な者でも、病に掛かれば使い物にはならねえだろう。お前さんはそのあたり、理解しているはずだ」
「…ええ」
松本の容赦のない指摘は、しかし全くその通りだったので土方も弁解はできなかった。
「後回しにしているといつかツケが来る。今日、俺たちが全員の診察をしたとしても、病は繰り返され一向に改善はしないだろう。一人一人の健康への意識改善は必要だが、それ以上に大切なのは病にならない予防をする。そして病になった際には対応できる環境をつくる。俺はそれに尽きると思っている」
「はい」
土方が素直に頷いたので、松本は満足げに口角を上げた。そして挑戦的に土方を見据えた。
「今から俺の指示通りに生活環境を改善してみてくれ。それで病人が減らないなら…ここの規則に則って、腹を切ってやろう」
「良順先生」
冗談が過ぎる、と言わんばかりに南部は苦い表情を作ったが、松本の表情は真剣そのものだった。土方もその松本の本気と覚悟を受け取って頷いた。
「わかりました。できる限りのことをします」
「…よし、じゃあ善は急げだ。南部、診察の準備をしてくれ。俺は土方に話がある」
松本は言い捨てて、早速、土方と共に歩き出す。
南部はその様子を見て苦笑し、近藤と伊東の方へ向き直った。
「すみません、良順先生はいつもああなんです」
「いえ、さすが幕府御典医でいらっしゃるだけあって、的確かつ迅速なご判断かと思います。それに、私も病人の多さには以前から憂慮しておりましたので、良い機会になるかと存じます」
伊東が返すと南部も「有難うございます」と安堵したように丁寧に頭を下げた。
「近藤局長、私は南部先生をご案内して参ります。診察の準備をしていただかなければなりません」
「ええ、頼みます」
そうして伊東は南部と共に去っていく。忙しくなってきたなと思っていると、すれ違うように総司がやってきた。
「総司、帰っていたのか」
「はい。巡察は何事もなく終わりましたので、ご報告を。…今の方が、松本先生ですか?」
「いや、今の御方は会津藩医の南部先生だ」
「へえ…お医者様がお二人も来てくださるなんて、思ったより大がかりだなあ」
総司の率直な感想に、近藤は「そうだな」と笑う。
「江戸の田舎者と笑われた俺たちが、幕府御典医と会津藩医に診察してもらえるなんて、何かの冗談のようだな」
「ははは、確かに。昔、土方さんは医者を見れば『藪医者』だなんて馬鹿にして、家伝の薬を飲む方がまだマシだなんて嘯いてましたよね」
「流石に歳も、あのお二人に診察してもらったらそんなことは口が裂けても言えないだろうがな」
「あはは、でしょうねえ」
総司がケラケラと笑うのを見て、近藤はふっと穏やかな息を吐いた。
「元気そうだな」
「すみません、ご心配をおかけして…。風邪はもうすっかり治りましたから」
「それもあるが…」
近藤は何かを言いかけて「いや」と首を横に振って話を変えた。
「そう言えば、大坂で伊庭君に会ったよ」
「伊庭君が大坂に?ああ、そうか。家茂公とご一緒にいらっしゃっているんですね?」
「そのようだ。彼もようやく江戸に戻ったかと思えば、また京入りとはご苦労なことだ」
「でもまたお会いできるなら私は嬉しいですよ。時間があったら剣の相手をしてほしいですし」
斉藤や永倉など新撰組には剣の使い手は多くいるが、伊庭と向き合うと彼の存在感故か背筋がピンと伸び、今までになく真摯な気持ちで剣に向き合うことができる気がするのだ。
(そういえば伊庭君は…宗三郎さんのことを知っているんだ)
宗三郎が語った過去の出来事に、伊庭の名前は出ていないものの、彼の存在があった。もしかしたら彼はすべてを知っているのかもしれないし、土方の心情を理解しているのかもしれない。総司が訊ねれば、いつものあの飄々とした語り口で、教えてくれるのかもしれない。
(いや…違う)
人づてに聞いた話は、決して土方の考えと一致するわけではない。伊庭の言葉はこの胸の閊えを解消してくれる手助けをしてくれるかもしれないが、それでも答えではないだろう。
『その感情が何なのか、知ったほうが良い』
斉藤が言った言葉が、脳裏に焼き付いている。
この知らない、慣れない感情…この『らしくなさ』に向き合えば、何かが変わるのだろうか。



343


原田は上機嫌だった。
「ありゃあ大した先生だ!俺の切腹傷を見るや、ここまで裂けた腹を持った男はいねぇって褒めてくれたぜ!幕府御典医なんて堅苦しいお医者かと思えば、話の分かる御仁じゃねえか!」
かねてより切腹傷の自慢話を欠かさない原田としては、その傷を褒められたことがよほどうれしかったのだろう。診察を終えるや否や、松本良順について「いい先生だ!」と隊士達に吹聴して廻っていた。
既に半分以上の隊士が診察を終えていた。始めは診察なんて、と面倒がっていた隊士たちも、戻ってくると顔が綻んでいる。堅物の永倉もその一人だ。
「あの先生は本物だ。顔を見るだけで、風邪を引いているのか、もっと飯を食えなんて忠告を受けている者もいたぞ。どうやら部屋に入ってきた歩き方でどこを痛めているのか瞬時に分かってしまうそうだ。それが大体あたっているんだから、西洋医学っていうのは凄まじいな」
本音しか口にしない永倉の称賛。さらに隣にいた藤堂も感動しきりだった。
「俺は額の傷を見ていただきましたが、すっかり良くなっているそうです。おまけに傷跡も正面傷だ、誇らしいなんて言ってくださって…へへ、何だかあの先生のお話を聞いていると気分が爽快になりますよね」
「へえ…」
三人の感想に総司は驚いていた。医者嫌いの多い男所帯のなかで、誰一人として松本の診察を疑う者はおらず、絶賛されているのだ。しかも彼らのお話を聞く限りは親しみやすい人柄のようだし、近藤が松本を気に入っているというのはその通りなのだろう。
しかし、巡察帰りの一番隊は診察が最後に回されている。一番隊の隊士たちは早く診察が受けたい…と期待と興奮でうずうずしているようだが、総司はいまだに気が進まなかった。
身体について特筆して心配事があるわけではないが、池田屋やこれまで何度か病に伏せってきたことを考えると、何か身体に問題があると指摘されてもおかしくはない。もしそれが、隊務に支障をきたすようなものなら一番隊組長としての役目を果たすどころか、新撰組にさえ居場所はないだろう。
「……」
そんな不安を吐露するとまた山野に心配を掛けてしまうので、意地でも口にはしないが、憂鬱な気分はどうしようもないし、いずれ診察の時間はやってくる。総司は西本願寺の境内に腰を降ろし、出来るだけ深く物事を考えないように、ぼんやりと過ごすことにした。
診察の行列ができる一方で、裏手では何やら騒がしい。揃いも揃って体格の良い男たちがせっせと木板を運んでいるのだ。増改築でもするのだろうか…などと考えていると
「風呂桶を作るのだそうだ」
「斉藤さん」
と、斉藤がやってきた。彼もいま診察を終えたところなのか、上半身を晒したままの姿だ。
「風呂桶…ですか?」
「松本先生からの指示だ。これからは洗濯を欠かさず行い、風呂も毎日入ること…そういう命令が下るだろう」
「へえ…何だか変な感じですね。でも皆、面倒がってやらないんじゃないですか?」
「洗濯や風呂の世話は小者を雇ってさせるらしい」
「本当ですか?すごいなあ…」
どうやら本格的に生活態度を改めることになりそうだ、と総司は実感した。
今までは自分の身の回りのことは自分で任されていた。風呂桶が無いわけではなかったが、それでも隊士全員が毎日使えるほどの大きさではなかったので、綺麗好きの者を除いて三日に一度程度の入浴で、それ以外は手拭いで身体を拭いて終りだった。
「斉藤さんは、お体の方はいかがでしたか?」
「別に。これと言って問題はない」
「そうですか…良かったですね。斉藤さんが体調を崩すとしたら食あたりくらいですもんね」
「そんな昔のことをよく覚えているな」
斉藤は少し呆れながら、衣服を整えた。彼が食あたりになったのはもう二年以上前だ。芹沢らと大坂に下った時に珍しく顔を歪めていたのをよく覚えている。
「あの時は大変でしたよね。力士と揉めて、芹沢先生が怒って、力士たちが大勢押し寄せて…」
『芹沢』
その名前を口にしたのは、いつぶりだろう。少なくとも自ずから過去の記憶を引っ張ってきた覚えはない。懐かしささえ感じるほど昔のことだ。
きゅうと胸を締め付けるような痛みが刹那襲ったが、
「あんまり昔を思い出しても良いことはない」
感傷に浸る総司を、斉藤はあっさりと切り捨てた。清々しいほどの物言いに、総司は苦笑するしかない。
それに彼の言うことは正しい。過去を振り返るときは、大抵いまから逃げたい時だ。それに思い出す過去が良い思いでのものばかりとも限らないのだから。
「…そうですね」
「沖田先生!そろそろ診察のお時間です!」
タイミングよくやってきた山野に「わかりました」と返答し、総司は立ち上がる。
「斉藤さんは強いですね」
羨ましいほどに。
しかし斉藤は「そんなことはない」と素っ気なく返すと視線を逸らしたのだった。


山野に背中を押されて、総司は一番隊で最初に診察を受けることになった。
「失礼します」
恐る恐る襖を開けると、そこには二人の医者の姿があった。一人は先ほど、伊東と一緒に居る所を見た。優しげで穏やかな面構えをしていて、柔らかな物腰だ。一方もう一人は、角ばった面立ちで一見すると医者には見えない厳つさが目立った。
(この人が松本…良順先生)
眼光鋭い松本と視線が重なった。
総司はやや身構えつつも、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私は新撰組一番隊組長、沖田総司と申します」
「ああ!お前が沖田か」
総司の肩苦しい挨拶を一蹴するように、松本は総司を見るや、白い歯を剥き出しにして笑った。その一瞬で、総司は(この人はいい人だ)と感覚的に理解した。
「お前さんのことは、近藤から聞いている。子供の時分から近藤のところで育ってきたんだって?」
「はい。近藤先生には家族のように接していただいています」
「近藤も同じことを言っていた。弟のような存在だが、若くして塾頭を務めたんだって?近藤はおそらく剣の腕は自分よりも上だろうと褒めていたぞ」
「そんな、とんでもないです」
総司は慌てて謙遜したが、近藤が総司のことをそこまで話しているのなら、二人は上辺だけの付き合いではなく、かなり打ち解けているのだろうとも察した。二人が馬が合うだろうというのは明らかだった。
「まあ弟っていっても、顔が全く似ちゃいねえな。近藤と違ってお前さんは女みたいに整ってやがる。それにしても新撰組は面構えの良い男ばかりだな。土方や伊東、それからさっき診察に来た原田も粗暴だがよくよく見れば男前だ。近藤は否定していたが、やっぱり入隊には顔が良くねえと駄目らしい。なあ、南部」
「それでしたら良順先生には無理だということでしょう」
「ははは、さもありなん」
松本は南部と軽口を交わしながら、総司に「脱げ」と指示した。そして心の臓の辺りに、見たこともない道具を当てている。
「それは何ですか?」
総司が率直に訊ねると
「これは聴診器だ。こうして胸の音を聞いて、身体の中を診ているのさ」
「音を聞くだけでわかるのですか?」
「ああ。病の者は大抵、ここから変な音が聞こえてくる」
「へえ…すごいなあ」
「いいから、ちょっと黙ってろ」
松本は聴診器をしばらく当てて黙り込む。それまでの軽快な雰囲気が真剣なものに変わり、総司も少し緊張した。
幕府御典医ともなれば、この国で一番の医者だ。彼が病だと断定すれば、誰も否定なんかできやしない。総司は自分の不安がどうか当たりませんように、と願うしかなかった。
すると、しばらく胸の音を聞いてた松本が聴診器を離した。そしてにかっとその白い歯を覗かせて
「心配ねえな」
と笑ったので、総司は途端に安堵した。
「そうですか、良かった」
「ただ、お前さんは色が白い。いくら剣術ができてもちょっとのことでも体調を崩しやすいだろう。しっかり精の付くものを食べることだ」
「わかりました」
総司は嬉々として頷いて、衣服を正した。それまでの不安が一気に吹き飛んで、久々に爽快な気分だ。これで診察も終わりかと思い、「ありがとうございました」と一礼したが、松本は
「まあ待て」
と総司を引き留めた。
「何か?」
「お前さんの身体の方は心配ない。池田屋の一件は近藤から聞いているが、きちんと体調管理をして食うものを食ってれば戦闘中に倒れることもないだろう」
「はい」
「それよりも、お前さんには別の問題があるようだ」
「問題…ですか?」
心当たりのない総司は首を傾げる。今まさに、総司が抱えていた身体への不安は払しょくされたところだ。
すると松本は得意げに語った。
「何か悩みごとがあるんだろう?」
「え…?」
「身体は健康そうだが、顔色が悪い。自覚はないかもしれねえが、眠りが浅いから瞼にうっすらくまが浮かんでいる。そういう時は大抵、心の病に違いねえんだ」
遠慮のない指摘だが、何故だか不快感は無い。むしろ無自覚な点を指摘され、新鮮な気持ちになったくらいだ。
総司は苦笑した。
「西洋医学は心の奥底まで見通せてしまうんですか?」
「いや。これは医学じゃねえよ、長年の経験って奴だな。病は気から、気が駄目ならいくら病を治しても繰り返すからな」
「やっぱりすごいなあ」
呑気に感心する総司を見て、松本は気が抜けたように「お前なあ」とため息をついた。そして後ろに控えていた南部に
「ちょっと席を外してくれ」
と頼む。南部は人の好い笑みを浮かべて「はいはい」と言いながら部屋を出て行った。どうやら人払いをしてくれたようだ。
「…よし。じゃあ、話せ」
「話せって…言われても」
初対面どころか、まだ会って間もない松本に何を話せというのだろう。総司が困惑していると
「なあに、近藤から大方話は聞いている。お前さんが土方のイロだってこともな」
「イロって…」
心をすっかり許してしまったらしい近藤が、いったいどこまで松本に話をしているのだろう…と愕然としたが、しかし松本の性格と言動を目の当たりにすれば、すべてを話してしまったのも頷けるような気はした。
この人を前に嘘や虚勢は通じない。
「昔の女を気にしても仕方ねえぞ。ああいう色男がこれまで散々持て囃されてきただろう、なんて俺だって見当がつくぜ」
「はあ…」
正確には男なのだけれど…と思いつつ、総司は曖昧に相槌を打つ。
「ま、嫉妬しちまうのも分からねえでもないが…」
「嫉妬?」
「嫉妬してるんだろう?違うのか?」
松本が腕を組んで首を傾げている。
言葉にできない感情。今まで感じたことの無い、痛みに似た疼き。それがずっと何なのか、わからなかった。
宗三郎への複雑な想い。
そして土方への苛立ち。
不安定に揺れた心。
「あー…なるほど」
これが嫉妬だと、総司はようやく悟る。言葉は知っていたも、その気持ちを今まで持ったことはなかった。
感情が保てなくて、苛々したり、落ち込んだりもした。それでも平気なふりをしていたかったのは、過去のことで嫉妬をするなどという心の狭いところを知られたくなかったからだ。
『その感情が何なのか、知ったほうが良い』
斉藤はおそらく分かっていたのだろう。しかし、それを彼が教えてくれなかったのは、彼がそれを言う立場ではなかったからだ。おそらく総司も、斉藤からその言葉を聞いていたとしたら、申し訳ない気持ちでいっぱいになっただろう。
「なるほどって、お前なあ…」
松本は呆れた表情で総司を見ていた。
しかし総司はこの感情に名前があることを知って、逆にすっきりとした気分にもなった。得体の知れない靄が、少しだけ晴れたのだ。
「やっぱり、松本先生はすごいですね」
総司は満面の笑みで微笑むと、事情の分からない松本はぽかんと口を開けたものの
「面白い奴だ!」
と大声で笑ったのだった。





344


隊士全員の診察を、一日で終えた松本は
「さすがに疲れたな」
と南部に声をかけた。
男ばかりの新撰組に「清潔さ」を求めていたわけではなかったが、それでも閉口するほど不浄な生活を送る者もいて、診察には非常に手を焼いた。それが百人以上ともなれば、松本でさえ大きなため息をつきたくなるほどだった。
しかし彼はいつも柔和な表情を崩すことはなく「そうですね」とほほ笑んで答える。知識や技術、そして学ぶ機会を与えられた自分よりも、どんな相手でもニコニコと対応している南部の方が医者らしく見えるのだから不思議だ。
すると、襖の向こうから「宜しいでしょうか」と土方の声がした。招き入れると、土方はまず
「改めまして、このたびは有難うございました」
と礼を述べたが、松本はすぐに手を振った。飾り立てた言葉は不要だった。
「礼は良い、好きでしたことだからな。…診察結果については南部に帳面に記してもらっているが、一番多いのは風邪だ。これは生活を改善すればよくなる程度のもので、心配はいらない。薬を届けさせるから必ず飲ませて、しっかり食わせろ。そして次は怪我。こっちは放って置けば治るなどと馬鹿げたことを言わないで定期的に医者に診せるように指導しろ。化膿しては命に係わる」
「わかりました」
土方は表情を変えずに返答した。ある程度は予想がついていたのだろう。
近藤は一角の人物であるようだがやや察しが悪い。その分をこの聡く鋭い土方が補っているのだと、松本はすぐに見抜いていた。だからこそ、近藤ではなく土方に生活改善を指示したのだ。
松本は続けた。
「病は食あたり、梅毒…それから心の臓の病、労咳がそれぞれ一人ずつだな」
「労咳…ですか」
土方の表情がピクリと動いたのを、松本は見逃さなかった。
「ああ、二人とも脱退させろ。静養すればまだ回復の見込みはあるからな」
「…労咳、というのは?」
それまで平静を保っていた土方が、どこか必死に松本に問い詰める。
「ああ、八番隊の平隊士だ…どうした?」
不思議に思いながらも答えると、土方の表情がようやく和らいだ。どうやら思い当たる名前ではなかったようだ。
「いえ…すぐに脱退させるように計らいます」
「何か心配事か?」
土方が曖昧に誤魔化そうとしたのは気が付いたものの、松本は敢えて問い詰めた。しかし鬼の副長とも言われる彼は頑なに押し黙り、どうにも口を開く様子はない。
隊の内情に関わることなのか…とは察することはできたが、松本は腕を組み嘆息した。
「…土方。俺はこの一回で仕事が終わったなんて思っちゃいねえ。確かに日々の診察については南部に任せるが、俺も機会があれば診察に来るつもりだ。お前たちと一度結んだ友誼を無下にはしねえよ」
「……」
「だからこそ、隊士の身体に不安があるのなら先んじて教えてもらうべきだと思っている。…何、他言はしない。医者とはそういうものだ。信じられないというのなら、俺の命を賭けて約束しよう」
松本は真っ直ぐに土方を見つめた。
決してそれは口約束のつもりはない。幕府に仕える者として、義には義で返すつもりだ。だからこそ、自分を信用してほしい…松本は何の邪な気持ちもなく、そう思っていた。
近藤は『幕府御典医』の肩書を見ればすぐに「信用する」というだろう。それが愚鈍とは言わないが、権力に弱いところがあるのは確かだ。
しかし土方は同じではない。彼は目の前にいる人物を自分自身の目で見極める。だからこそ、松本は土方から視線を外さなかった。
すると土方は迷ったようだが、根負けしたように重い口を開いた。
「…一番隊組長の沖田のことです」
「ああ…お前のイロか」
松本の軽い物言いに、土方はやや怪訝な顔をしたが続けた。
「実は、父親が労咳で亡くなったそうです」
「何?」
それまでやや茶化して聞いていた松本もさすがに顔が強張る。そして傍に控えていた南部の表情も変わった。
「沖田はそんなことを一言も言って無かったぞ。だよなあ、南部」
「ええ…」
「本人は知りません。私も先日、姉君から聞いたところです。池田屋の件では総司が血を吐いて倒れたなどという噂話が江戸で広まったそうで、姉君が心配され、私にだけ話してくれました」
「…なるほどな」
松本は大きくため息をつく。腕を組み直し、少し黙り込んで土方の表情を窺った。
面では平静を保っているものの、彼の表情には焦りがあった。これまで淡々と仕事を熟してきた彼でも、さすがに自分の想い人のことともなれば話は別なのだろう。
(そういう意味では人間味があるがな…)
冷酷な鬼のような人間だと噂だけは聞いていたが、しかしそう言った人間らしい一面も彼にはある。松本は安堵するとともに両方を兼ね備えて使い分ける土方を一層優秀な男だ、と認識した。
「土方。残念ながら、西洋医学を以ても労咳の原因はわかっていない。血脈の説から気鬱まで…色々と仮説ばかりだ。しかし俺は何人もの患者と接してきた分、いま労咳に掛かっているかどうかはすぐにわかる」
「…」
「少なくとも今は沖田の身体は健康だ。気がかりなのはわかるが、気にしても仕方ない。いくら健康な人間でも明日、馬に蹴られて死ぬかもしれない…それと同じことだ」
松本は南部に視線を送った。土方のような人間には、自分だけではなく別の人間からも説得をした方が良いと思ったからだ。
察した南部は、穏やかに笑って続けた。
「良順先生のおっしゃる通りです。むしろ労咳に掛かるのではないか、と気にする方が疲れてしまうでしょう。この件は良順先生も私も心に秘めておきますし、診察の際は必ず気にかけておきます。本人に伝える真似も決していたしません。どうか、土方副長はご自身の職務に邁進されてください」
土方は松本と南部、二人の顔をじっと見つめた。そして
「よろしくお願いします」
と重く告げて頭を下げた。松本は大きく頷いて「任せろ」と笑い、そして南部も微笑んだ。顔を上げた土方も肩の荷が下りたのか、少しだけだがすっきりとした顔をしていた。
「…で、お前に託した件はどうなった?」
「はい。是非、松本先生にご覧いただければと思い、伺いました」
「へえ、もう整ったのか?」
松本は驚いた。

土方が二人を先導し近藤も加わって再び屯所内を案内する。しかし今朝方彼らを招いた時とはその様相がすっかり変わっていた。
まず、それまで怪我人、病人は各自の部屋で点在するように静養をしていたのだが、それを一つの部屋に集めていた。部屋には専属の小者を雇い病人の世話をして、治療に専念できるように隊士の部屋とは隔離されている。そして、小さな風呂桶しかなかった屯所に、大きめの風呂桶が三つ置かれていた。隊士達は毎日風呂に入り、衣服を着替えて洗濯し、清潔を保つように既に命令が下っているとのことだった。
「合格だ」
迅速な対応の満足して、松本がにやりと笑いかけると、近藤は
「ありがとうございます!」
と大仰に喜び、土方は表情を変えずに軽く頭を下げただけだった。松本はたった一日で清潔な環境を整えられるとは思っていなかったのだが、彼の中では何も特別なことをしたわけではないのだろう。
「しかし、病人が減るかどうかはこれからだ。俺もできるだけ足を運ぶが、この南部にも通わせる。できれば隊士のなかで医学の心得がある者がいれば助かるが…」
「医学ですか……土方副長、心当たりがあるか?」
近藤に訊ねられて、土方は思い当たらないではなかったのだが、「検討します」とその場は返答をとどめておく。松本は続けた。
「それから豚だ」
「豚…?」
「ああ、台所の残飯を餌にして豚を飼えば、おそらく四、五頭を養えるだろう。丸々と太ったら、隊士に食わせたらいい。残飯処理と栄養補給で一石二鳥だ」
松本のアドバイスに、さすがの近藤も渋面を作った。豚などの畜生を口にする習慣がなく、想像がつかなかったからだ。しかし近藤の迷いを断ち切るように、土方は
「すぐに手配しましょう」
と返答をした。
そんな話をしていると伊東がやってきて、帰りの駕籠が準備できたという。既に日も暮れはじめ、すっかり夜になってしまっている。御礼の宴を催すつもりだったのだが、松本は忙しいようで、仕方なく局長、副長、参謀と三人揃って門前まで見送りに出ることにした。
駕籠に乗り込みながら、松本は
「土方」
と呼び、手招きした。土方は一歩前に前に出て「何か?」と訊ねると松本は神妙な面持ちで声を潜めた。
「沖田のことだ」
「え…」
予想だにしなかったのか、土方の表情が変わる。むしろ無表情で淡白な返答が多いなかで、総司のことだけが彼の顔色を変えさせる。
「何か…?」
恐る恐る訊ねた土方に、松本は笑った。
「色事っていうのは拗れると大変だ。残念ながら、俺は恋患いの方は治せねえからな」
「…は…?」
「沖田によろしく伝えてくれ」
唖然とした土方の表情を見て、松本は白い歯をのぞかせる。そして別れの挨拶をすると、南部を乗せた駕籠と共に屯所を去っていったのだった。




345


偽りのない男だ……宗三郎が河上に対して抱いた感想はそれくらいのことだった。
暗殺者として名の知れた志士だそうだが、目の前の彼は他人には無関心でただただ己の芯を曲げない男だった。宗三郎を一人の「人間」として扱う代わりに、決して容赦はしなかった。同情もしない、もちろん愛情もない。何事も二心は動かないようで、だから乱暴に痛めつけるように抱いてほしいという欲望を十分に満たすほどには、彼は粗暴に宗三郎を扱った。
彼には人間としては逸脱した狂気を孕んでいて、得体の知れなさを感じざるを得ない…だからこそ、いまだに本当の彼はよくわからない。何を考えて、何を想っているのか…宗三郎には不思議と河上の輪郭がぼんやりして見えるのだ。
しかし、男は自分自身について
「せっかちだ」
と語った。
「俺は昔からせっかちな性質だ。話せば理解しあえる相手にも気が付けば刃を向けている」
河上は自分自身を俯瞰するように笑う。一晩暴れるように宗三郎を抱きつづけたというのに、彼は平気な顔をして疲れさえ見せていない。ぐったりとした宗三郎とは正反対だ。
(刃…か)
宗三郎はちらりと彼を見た。
彼はきっと触れれば皮膚を裂き、その血を啜る。河上が人を寄せ付けない独特の雰囲気を醸し出しているのは、近づけば近づくほど己の身が危ないと本能で誰もが理解するからだ。傍に居ればきっと支配される…そんな圧迫感を宗三郎とて感じている。
だからぼんやりと思っていた。
(たぶん…俺は殺されるんだな…)
この男に。
この刃に。
それでも宗三郎にとって、河上がどんな男であるのかはあまり問題ではない。近づけば死ぬだけだと分かっていても止められない。
ただ求められればいい。
必要だと言ってくれるなら、それで生きる意味にはなるだろう。
そしてそれは死ぬ意味にだってなるのだ。
「…そろそろだな」
「なに…?」
「言っただろう、俺はせっかちなんだ」
河上はにやりと笑って続けた。
「そろそろ沖田を呼び出せ」
宗三郎は一瞬、彼が何を言っているのかわからずに、返答できなかった。するとその一瞬の隙に、河上の両手が宗三郎の首に回された。
「…っ」
強く圧迫されて息が苦しくなる。
「早く…あいつと対峙したいんだ」
彼の欲望の先に、総司がいる。
(やっぱり…彼なのか)
誰も彼も、求めるのは彼なのか。
どうしようもない嫉妬と憧憬が宗三郎の心を掻き乱して。
正常な判断を狂わせていく。


梅雨のあいだ降りつづけていた雨が先日の松本の来訪以来、ぴたりと止まった。季節的なものだろうが、あまりのタイミングの良さに隊士たちは「どうやらあの先生が吹き飛ばしたようだ」と笑った。
松本の来訪から屯所の様子は変わった。隊士達は欠かさず風呂に入り身を清め、着物は毎日取り替えて洗濯を行い、怪我や病気はすぐに医者に相談するようになった。当初は漫然と過ごしていた隊士たちは生活習慣を改めることにつて多少の不満はあったようだが、いざ実践してみると整然とした生活は清々しい気分になり、自然と仕事にも身が入るようだ。
そして、松本が提案した生活改善の中で最も意外な方法が、早速実践されることになった。
「可愛いなあ」
総司は西本願寺の境内で腰を屈めていた。目の前をちょこまかと動く小動物はいつまでも見ていても飽きない。しかし山野はため息交じりに苦笑する。
「先生、あまり愛着を持ってはいけません。いずれ我々が食すことになるんですから」
「そうは言っても、山野くん。可愛いじゃないですか。これが大きくなるなんて信じられないなあ…」
山野の忠告を聞き流しつつ、総司はにやにやと小刻みに動き回る子豚たちを眺めていた。
西本願寺の一角に新たにつくられた部屋小屋では、五、六頭の子豚が元気に走り回っていた。子豚たちは屯所で飼われ、残飯を餌にして成長し、肥えた暁には食すことになっている。
「自分はあまり気が進みません」
子豚たちを眺めて喜ぶ総司の隣で、島田は顔を顰めていた。
「豚は食べると臭いらしいと耳にした覚えがあります。自分は猪も苦手で…滅多に口にはしません」
弱気な島田を見て、山野は笑った。
「そうは言っても、あの一橋慶喜公は自ら好んで豚を食されるそうですよ?百聞は一見にしかず、一度召し上がってみてはいかがですか?」
「うーん」
「案外、美味しいかもしれません」
山野の言葉に絆されて、島田は「そうかな」と表情を崩す。二人の関係を知っている人間は少ないものの、こうして傍に居ると二人が親密だということはよくわかる。
そんな穏やかな関係が羨ましいとは思わないけれど、それにしても土方はこのところ忙しそうだ。上洛した将軍は二条城に入った後大坂へと再び下ったが、それでも将軍の一挙一動は京の情勢に深く関わるため、新撰組としても会津との連絡は欠かせない。それに走り回っているのか、土方の姿を屯所では見かけなくなった。
だから、総司はどうしても忙しく動き回る土方を捕まえて、「話をしたい」とは言えなかった。
(何を話したらいいのかわからないけれど…)
「あ、斉藤先生」
豚小屋の前で話しこんでいると、斉藤がこちらにやってきた。斉藤はどこか不機嫌そうにして
「こんなところによくいられるな」
と眉間に皺を寄せていた。豚小屋には独特の畜生の異臭が漂っているので、少し潔癖なところがある斉藤としてはあまり近寄りたくないのだろう。
「斉藤さんも見てみたらどうですか。大きくなった豚はどうかわかりませんけど、子豚は可愛いですよ」
「遠慮する。畜生は嫌いだ」
斉藤は即答して「こっちにこい」と総司に手招きした。余程近づきたくないようで、総司は仕方なく豚小屋を離れて斉藤の元へ向かう。
「何か?」
「手紙だ。屯所の門前で、小者から預かった」
「手紙?」
総司は斉藤から小さく折りたたまれた手紙を差し出される。差出は『ご存じより』…馴染みの女性から送られるときの定型句だ。だが、もちろん悪所通いに縁のない総司には身に覚えがない。それは斉藤も良く知っているはずだ。
「誰かの間違いじゃないですか?」
「間違えるとしても、一番隊組長の『沖田総司殿』とは間違えないだろう」
「それはそうですけど…」
不審に思いつつ、総司は手紙を開いた。そこには一言、『本当の話がしたい』と書いてあり名前には『夜香木』とある。
「やこう…?」
「夜香木(やこうぼく)だ」
「なんですか、それは」
「名前の通りだ。夜に花から芳香が出る」
「へえ…斉藤さん、意外に博識ですね」
花に造詣がない総司としては全く聞いたことの無い花の名前だったが、しかし『夜に香る花』だと聞けば思い当たるのは宗三郎のことだ。彼が江戸では『薫』と名乗っていたし、夜に香るというところが陰間を連想させた。
(本当の…話?)
宗三郎から聞いたのは、彼と土方が顔見知りであり、土方は宗三郎と親しかったということ。宗三郎が今でも土方のことを想っていて、京まで追いかけてきたということ。
(何が嘘だったというのだろう…)
彼が話したあの時の声は、とても真摯だったというのに。
「いくのか?」
斉藤の問いかけはいつも的を得ていて、まるで以心伝心のようだ。総司は苦笑しつつ答えた。
「…行きます。本当の話が何かわかりませんけど、宗三郎さんから話があるというのなら余程のことでしょうし」
「俺も行く」
「ダメですよ」
勇んだ斉藤を、総司は止めた。
「これは私の問題ですから。斉藤さんが付き添いで来たら、宗三郎さんだって委縮しちゃうでしょう」
「付き添いではない。あの陰間の店には以前、河上の姿が確認されている。用心に越したことはない」
「大丈夫ですよ。それに河上彦斎がいるのなら、余計、斉藤さんと一緒は困ります」
「何故だ」
彼らしくなく食い下がる姿に総司は苦笑しつつ、続けた。
「だって、負け越しですもん」
「…負け越し?」
「彼と初めて対峙した時、私は刀を落として負けた。二度目に出会った時は引き分けでした。その勝負がついていません」
「馬鹿なことを」
総司の子供っぽい言い草に、斉藤は率直な感想を述べる。相手は手段を選ばない暗殺者だ。いくら剣の腕が立つ総司であったも無事で済むとは限らない。
しかし、それでも総司は
「馬鹿なことなんかじゃありません。私は負けず嫌いなんですから」
と茶化して答えた。すると斉藤は呆れたのか表情一つ変えずに「勝手にしろ」と踵を返して去ってったのだった。






346


総司は一番隊の稽古を島田に任せて、一人きりで屯所を出た。
宗三郎から呼び出されたことは斉藤以外は知らない。土方は不在であったし、相談すべきではないと思っていたからだ。
夕暮れが迫るなか、総司は人々が行き交う橋の上でふと足を止めた。
遠い山々まで見通せる開けた景色。サラサラと微かな水音が聞こえてくるこの場所で、かつて君菊と出会った。込み上げる懐かしさと共にあれから一年程しか経っていないのだと驚いた。今でもまだあの明るい笑顔を鮮明に覚えているのは、彼女が西本願寺で眠っているからだろうか…そんなことを考えた。
結果的には叶わなかったものの、土方が君菊を身請けすると聞いたとき、僅かに心は揺れたもののそれ以上に「良かった」という気持ちが勝った。君菊を姉のように慕っていたし、駕籠の中に囚われて寂しげに笑う君菊に同情していたのかもしれない。幸せになってほしいと心から願っていた。
今から思うと、不思議だ。土方のことを好きだという女と、二人で支えていければいいと…あの時は本気で思っていたのだから。
(…あの頃に比べたら、心が狭くなったみたいだ)
総司は川の流れのその向こうを見据えつつ苦笑し、また歩き出した。
君菊に言った言葉を、宗三郎の言ってあげることは、たぶんもうできない。

それからも歩きつづけ、夕日が落ちる頃、総司はようやく店にたどり着いた。暖簾を分け中に入ると、いつもの無表情の店主が迎えてくれた。すると総司が用件を話す前に「二階へ」と案内されあっさりとなかに通される。他に客はいないのか、二階はいつにも増してしんと静まっていた。
そのなかで唯一人の気配のする部屋の前に立ち、
「宗三郎さん」
と総司は声をかけた。返事はない。総司は迷いつつ部屋の襖をゆっくりとあけた。部屋にはいつも通り、窓辺に凭れて気怠そうにしている宗三郎の姿があった。
「…なんだ、もう来たの?一人?」
「一人です…けど」
総司の顔を見るや呼び出したくせに、残念そうな表情を浮かべた。しかしそう見えたのはいつもよりも顔色が悪く、目元にはクマが見えたからかもしれない。
「どうしたんですか」
「どうしたって…?」
「体調悪そうですよ。それに…怪我でもしているんですか?」
よくよく見ると首元や手首に痛々しい切り傷や鬱血の痕がある。透き通る中性的な声も擦れていて、彼が身体を擡げているのは身体が辛いのではないかと思うくらいだった。
宗三郎は「ふっ」と吐き捨てるように笑った。
「陰間にとって、こんなことは日常茶飯事だよ」
「そうなんですか…?」
「所詮陰間は女の代用品だ。安い金で手軽に抱ける。礼儀を尽くす必要もないし、少々乱暴にしても女よりも丈夫だし、勝手をしても子を孕むこともない…便利な存在だ。そんなことも知らないのかい?」
己の境遇を蔑み、何も知らない総司を世間知らずだと小馬鹿にするような言い方だったが、総司は真っ直ぐに宗三郎を見つめた。
「でも、土方さんはそうじゃなかったんでしょう?」
「……」
総司の言葉で宗三郎の表情が変わる。いつも他人事のようにすべてを語る彼の眼差しに、色が滲む。
総司は敢えて続けた。
「土方さんは他人に対して冷たいところもあるけど、一度自分の懐に入れた人間には優しい人です。あなたに対して少しでも情があったのならば、粗雑に扱うようなことはしない」
「…っ!」
「その優しさを知っているから、あなたは土方さんを好きだというんでしょう」
総司の問いかけに、宗三郎は拳を畳みに打ち付けて怒鳴った。
「あんたが何を知っているっていうんだ…っ!」
薄暗い世界だった。人を人として扱わず、モノかそれ以下のような扱いを受ける日々の中で、突然優しさに触れた。この人なら自分のことをわかってくれる、理解してくれる、助けてくれる…そう思えた人が、手をすり抜けていくように消えた。淡い夢から一気に落とされた。
喪失感と。
無力感を。
知っているというのか。
「あんたは、自分の方が歳さんのことをよく知っているんだとひけらかしに来たのか…っ!」
彼が自分のものだと言いたいのか。
宗三郎の眼差しが鋭く総司を射抜く。普段の斜に構えている宗三郎の姿はどこにもなく、彼は苛立ち、憤っていた。
しかし総司は動揺することなく、
「そうかもしれません」
と淡々と答えた。わなわなと唇を震わせた宗三郎は「なんだって?」とさらに強く睨み付ける。
「私は、あなたよりも歳三さんのことをよく知っていて…あなたよりも土方さんのことが好きだと言いたかったんです」
「は…?」
「あなたと歳三さんの間に何があったのかはわかりません。最初は動揺したけれど…でも結局何があったとしても、今のこの気持ちは揺らがないとわかったんです。…だいたい、あの人の女遍歴は考えるだけでも疲れますからね。疲れることはしたくありませんし」
激昂する宗三郎とは対照的に微笑む総司。次第に宗三郎の熱は下がったようで、呆然と総司を見ていた。
「私はあなたとは仲良くしたいです。でもそれはきっとあなたを苦しめるのでしょうし、私が言う立場ではないのはわかっています」
自分を嗾けるように怒鳴った相手に対して、総司は心底残念そうにしている。そんな彼を見て宗三郎は力が抜けた。そして
「……はは…」
無意識に乾いた笑い声を漏らしていた。
無性に泣きたくなった。
「本当に…憎いな…」
「…宗三郎さん」
「あんたはそうやってへらへら笑って、何でもかんでも手に入れてさ…暗い谷底も泥濘も知らずに、綺麗なところばっかりでさ…生きてきたんだろうね」
それがどんなに幸せなことだと知らずに。羨ましいほど清純な道ばかりを。
だが、総司は「そんなことはありません」と表情を落とす。自分の恵まれた境遇に気が付いていない…それがまた宗三郎を煽った。
「ねえ…人から求められる気分って、どういう気分なんだい?」
「え…?」
「誰かに必要とされて、望まれ続けるってどういうことなんだ?」
教えてくれよ。
宗三郎がそう叫んでいるように見えた。
その一瞬のことだった。
「話が長い」
気配も無く現れた『せっかち』な男が、話を断ち切ったのだ。


土方が屯所への帰路に着く頃は、既に陽が暮れていた。会津から共に呼び出された近藤は、宴の席に呼ばれてそのまま残った為、土方は一人提灯を片手に歩く。
(疲れたな…)
土方はため息をついた。
幕府や会津の要人との折衝は隊内の仕事にはない疲労感だ。最初は浪人の寄せ集めと蔑まれていた新撰組が、一目置かれる存在になったのは喜ばれることだが、仰々しく礼儀をつくし、相手の機嫌を伺ったりするのはあまり得意ではない。そういう意味では、近藤の方が堂々として素直に相手の意見に賛同したりできるので適役だろう。
土方はもう一度ため息をついて、ふと空を見上げた。星々の細やかで鮮やかな光に、淡く照らされる月。
(今夜あたり…話をしてみるか)
伊庭に嗾けられて話をする決心がついたものの、松本の来訪などで忙しくしていたため、最近はろくに話をしていない。それに何をどう話せばいいのか…と考えただけで手間取ってしまい、ぎこちなく開いた距離は遠くなるばかりだ。
(あいつはどう思っているのだろう)
何も言ってこないのは、もう気にしていないということなのか、それとも…。
そこまで考えたところで、ふっと目の前に人の姿が現れた。土方は咄嗟に構えたが、その正体はすぐに分かった。
「…山崎か」
膝を曲げた山崎が小さな声で「はい」と答える。土方は提灯の炎を消した。辺りに人の姿はないが、新撰組副長である土方と監察の山崎が接触する姿を見られるのは不都合が多い。
「何かあったのか?」
「ある筋から…今晩、松葉屋に河上が来たという情報が入りました」
「…宗三郎のところか」
「おそらく。あの陰間は倒幕派と通じているのは確実やと思います」
「…」
土方は黙り込んだ。
おそらく宗三郎は金や権力に目が眩んで協力しているのではない。過去のことを恨み、土方のことを憎んでいるのだろう。過去の過ちが宗三郎を間者にさせてしまったのかと思うと、簡単に「始末しろ」と山崎に命令を下すことはできなかった。
すると、前方から足音が聞こえてきた。山崎も気が付いてすぐに姿を眩ませて去る。足音の主は提灯を片手に土方のところへ近づいてきた。その仄かな明かりでそれが斉藤であると土方は気が付いた。
「…何だ、お前か」
「ようやくおかえりですか」
ようやく、という言い方に少しの嫌味を感じつつ、「何だよ」と土方は問い返した。すると斉藤は少し間をおいて答えた。
「沖田さんが松葉屋へ向かいました」
「なに…?!」
土方は驚いた。まるで示し合わせたかのような話だ。山崎の話と合わせれば、二人は今夜、松葉屋で鉢合わせるということになってしまう。
(いや…違う…!)
土方はこれが偶然の出来事ではないのだ、とすぐに考えを改める。二人の間には共通の存在である宗三郎がいる。だったら、宗三郎が手引きをしたと考えるのが当然だろう。
そしてこの目の前の男も、気が付かなかったわけがない。
「何故止めなかった…!」
土方は苛立ちをぶつけた。しかし斉藤は
「止めましたが、無駄でした」
と答える。
土方は「ちっ」と舌打ちして、すぐに走り出した。
美しいと思っていた月夜が、忌々しく妖しい光に変わるのを感じながら。




347


宗三郎は目の前で何が起きたのかわからずに、部屋の片隅で力なく座り込んでいた。
河上が気配も無く現れたその一瞬で、二人は刀を抜き部屋中に金属音が響いた。まるで示し合わせたような二人の動きは、芝居なのではないかと思うくらいに美しく無駄のないものだった。
しかし、相対する眼差しは、河上はとにかく、先ほどまでの昼行灯の総司はどこにもいない。見たこともない様な鋭さは別人のようだ。噂に聞く「鬼」の姿がこれがと宗三郎は言葉を失った。
天上の低さなど諸共せず、何度か刀を合わせると二人は距離を取った。耳を裂くような激しい打ち合いを繰り広げたにも関わらず、二人とも息ひとつ乱れていない。異様な雰囲気が漂うなか、河上がギロリと宗三郎を睨み付けた。
「…裏切ったのか?」
「…っ」
身が竦むような眼差しだった。どんな恐怖や畏怖にも脅えることのなかった身体が、カタカタと揺れる。
あまりに用意周到な総司の動きを見て、彼は疑っているのだ。河上が待ち構えていることを総司に伝えたのではないか、と。
宗三郎は河上という男を見誤っていた。彼が今まで見せていた乱暴で傲慢な一面が優しさだと思えるほど、彼はもっと恐ろしい存在だったのだ。
何も答えられないでいる宗三郎を、河上が睨み続けていたが、交錯する視線の間に総司が入った。宗三郎を背にして守るように。
「違います。あなたがいると分かっていて、私は来たんですよ」
「え…?」
驚いたのは宗三郎の方だった。
河上は表情を変えない。
「負けっぱなしは嫌なんです」
少し茶化して言い放つ総司には、童のような無邪気さがある。宗三郎はさらに腰を抜かしそうになった。
(どれだけ…愚かなんだ…!)
しかし喉元で叫ぶだけで声は出ない。
こんな、互角以上の相手と遣り合う理由がそんな子供っぽい意地だなんて。この男の恐ろしさを知らないのか。
そして総司は構えなおして、続けた。
「あまり難しいことはわからないのですけど…長州はまだ幕府に対して恭順の姿勢を見せていないんですよね。だったら彼らに協力するあなたは、私の敵ですよね」
戦う理由はあるはずだ、と宣告する総司に河上は薄く笑った。
「…俺には関係のないことだ。俺は俺のやりたいようにする」
「気が合いますね」
河上は刀を降ろした。そして総司の目を刹那睨み付け、踏み出したその一瞬に降ろしていた刀を振り上げるようにして総司の刀を払おうとする。しかし、寸でのところで交わされて、逆に総司に手元を狙われた。しかしそれも分かっていたかのようにひらりと避けて、二人は狭い室内で軽快に立ち回る。
宗三郎は唖然として二人を見ていた。
互いに身の毛の弥立つような殺気を孕みながらも、二人はとても楽しそうに刀を合わせている。宿命の敵に出会ったかのように勝負を楽しんでいた。その先のどちらかの死があるなんて考えられないくらいの光景だ。河上の細い身体から放たれる胆力に驚き、また穏やかな表情を崩さなかった総司の豪気な剣術に目を奪われた。
しばらく二人の打ち合いが続いた後、河上が再び距離を取った。
「…今まで、何人殺した?」
挑発するように問いかける。
総司はやや不快な顔を浮かべた。
「数えたことはありません」
「数えてみればいい。十や二十は超えたか」
「……」
総司はさらに強く河上を睨み付けるが、河上は受け流した。
「こちらの話が新撰組に筒抜けであるように、お前たちの噂が耳に入ってくることもある。…お前はかつて、同じ釜の飯を食った仲間を殺したんだって?」
「!」
総司の表情が明らかに変わったのを、宗三郎でさえも見逃さなかった。
「俺は俺の前に立ちふさがる者しか殺さない。しかし、お前は仲間さえ容赦なく殺す。…俺よりもよっぽど、お前の方が血に狂っていると思わないか」
「…っ、なにが…なにが、わかる…!」
吐き出しそうな感情をどうにか塞き止めるように、総司が唇を噛んでいた。そしてさらに強く柄を握り怒気を孕んだ視線を河上に向けた。彼の指摘に心当たりがあるのだろう。
しかし河上はせせら笑うだけだった。
「人斬りに理由など不要だ。人を殺めるたびに身を削るようでは身が持たない」
「そんなのは、あなたの勝手な考えでしょう。私は違います」
「どうだかな。理由がある人斬りの方が俺には残忍に思える。『理由』や『言い訳』さえ用意できれば、お前はその刀で人を殺すんだ。大義名分という盾を構えてな…俺はそういうのが許せない。それは自分の本意では無いからだ」
「じゃああなたは何のために人を殺したというんですか?」
苛立った総司の問いかけに、河上はぺろりと舌を出して唇を舐めた。そしてその中性的な顔立ちを綻ばせて
「邪魔だからだ」
と笑った。
それは傍で聞いている宗三郎にもゾクリと悪寒が走るような物言いだった。昨日まで彼に抱かれていたことが、今になって打ち震える恐怖になる。
しかし河上はさも当然のことのように言い放った。
「そこに生えた草が邪魔だと思って抜くように、邪魔だと思うから斬る」
「…」
「ふん…生来から俺は変わり者だと言われた。何故人を殺してはいけなのに、家畜を殺すのか。そんなことを良く考えていた。答えは結局わからなかったが、わからなかったこそ、こうして人斬りになったのだろうな」
笑い飛ばす河上の声は枯れている。総司は何かを言いかけたが、ぐっと言葉を飲み込んで
「…無駄話はこれくらいにしましょう」
と刀を構えなおした。先ほどよりも低い構え。河上は「突きか」と笑い同じ姿勢を取る。
鏡のように一対の姿勢を二人は保つが、二人は似ていて非なる存在だ。それは宗三郎が気が付くまでもなく、二人とも悟っていることなのだろう。
低い天井の元で有効である突きはその分、防御が薄くなる。次一瞬でどちらかが死ぬ…宗三郎はごくりと息を飲んだ。本当はこの場から立ち去りたいほどの重圧を感じていたが、その事態を招いたのが自分だという冷たい事実は身体中を重くしていた。
ジリジリとした沈黙のなか緊張感が増していく――宗三郎はその一瞬を逃げたいような気持で待つが、河上がふっと視線を外した。そして
「…ちっ」
と軽く舌打ちすると、それまでの構えを解いて一気に駆け出した。驚いた総司を真横から薙ぎ払うように刀を振る。総司はもちろんそれを避けたが、しかし河上の狙いはそれではない。
「え?」
視線が追い付かないほどの速さで、宗三郎の元へやってきた河上は刀を突きつけて宗三郎を無理矢理に立たせた。肩が脱臼する様な音を立てたが、ほぼ同時に部屋の襖が勢いよく開く。
「土方さん?!」
「無事か…っ?」
刀を抜いたまま部屋に飛び込んできたのは土方だった。河上は土方の気配に気が付いたのだろう。
「土方さん、どうして…!」
「話は後だ。総司、この男が河上か…?」
「お前が、新撰組の土方か」
二対一の状況になっても、河上は余裕があるようだ。土方はその切っ先を河上に向け「そうだ」と堂々と応えた。
(歳さん…)
羽交い絞めにされている宗三郎には、土方の表情は良く見えない。
「まもなく新撰組の隊士たちがここを包囲する。大人しく捕まれ」
「…まもなく、ということなら、まだ取り囲まれているわけではないのだろう」
土方の宣告を聞いても、河上には焦りはない。にやりと笑うと、羽交い絞めにした宗三郎に剣先を向けたまま、引き摺るように窓際へ移動した。二階から飛び降りるつもりなのだろう。
「せっかくの勝負が、また持ち越しだな、沖田」
「宗三郎さんを離せ…!」
「断る。この男は…俺を裏切った」
剣先が喉を掠める。サッと熱い感触がして、どうやら喉元が軽く切れたようだと分かる。
「宗三郎さんは裏切ってなんていない…!」
「そんなことはどうでもいい。ただ今宵は、どうしてもお前を殺したかった。それが叶わないのなら、そこらの町人を斬り伏せてやろうかという気分だ」
「外道が…!」
土方が憤って吐き捨てる。
河上は構わず続けた。
「だから、この叶わなかった殺意をぶつけるのなら、この男が最適だろう。お前たちだって、この男を許すことはできないはずだ。だったらここで殺しても同じだろう」
「それは…!」
宗三郎は羽交い絞めにされ、息も絶え絶えの朦朧とした意識の中、三人の会話を聞きながら駒吉のことを思いだした。新撰組と長州との間を取り持った駒吉は間者として新撰組に殺された。いま自分はそれよりも罪深いことをしてしまった。
だから、河上に殺されなくても、新撰組に殺される。
だが、それを『嫌だ』とは思わなかった。
(歳さんに殺されるなら…それはそれでいい)
そんな諦めにも似た気持ちが込み上げてくる。
しかし、憤怒を込めた重厚な低音の声が聞こえた。
「そんなことは、てめぇが決めることじゃねえ、河上…!」
土方の声。
かつて、そんな声は聞いたことがない。あの頃の土方は口数は少なかったけれど、言葉尻は温かかった。ぶっきら棒だけれど、穏やかだった。
けれど今は重くて、尖っていて、触れれば切れる、鬼の副長に相応しくて。
(ああ…もうやっぱり、あの頃の歳さんじゃないんだ)
殺されるかもしれない状況の中で、宗三郎はそんなことを思った。
『私は、あなたよりも歳三さんのことをよく知っていて…あなたよりも土方さんのことが好きだと言いたかったんです』
ああ、その通りだ。
何も知らない。土方がが『鬼』と呼ばれるようになった経緯や過ごした日々も…何も知らない。いま土方が何を考えているのか、そんなことは微塵も分からない。
しかし、彼は知っているのだ。
喜びも、悲しみも、怒りも…すべて共有して同じ時間を過ごしてきた彼は、何もかもを知っている。
(敵わない…)
そう認めた瞬間、まるで憑き物が落ちたかのように気持ちが軽くなった。頭の中が真っ白になって、力が抜けていく。
(もう…いい)
ここで死ぬのならそれも定めだったのだろう。
そして土方に殺されるのなら、それもまた運命だったのだろう。
そうすべてに諦めがついた、その時だった。
「宗三郎…っ!」
誰かが強く腕を引いた。その一瞬に気を取られて河上はあっけなく宗三郎を離すが、しかし彼に持っていた刀は庇うように前に立った声の主に、躊躇いもなく一閃された。
「あああぁぁあ!」
断末魔が部屋中に響く。放り投げられるように身を横たえた宗三郎はすぐに総司に守られたが、状況は全くわからない。
(誰が…)
誰が自分を助けてくれて、
誰がいま死んだのか。
土方が総司か…朦朧としていた視界が赤い鮮血で一気に現実に引き戻された。
「店主…っ!」
河上の前で息絶えていたのは、店主だった。いつも無愛想で言葉数の少ない男が、いつもの表情で血まみれで倒れていた。
河上は「ちっ」と舌打ちした後、刀の血を払い、
「またな」
と総司に目くばせした。彼は追手を塞ぐように傍に合った燭台を蹴り倒して、二階から去っていく。
そして、燭台に灯っていた炎が畳に燃え移る。
「出ましょう、土方さん…!」
総司の言葉に土方は「ああ」と答えた。炎はあっという間に燃え広がり倒れた店主を囲う。しかし、宗三郎は構わず駆け寄った。
「店主…!」
「宗三郎さん…!」
火の手が迫るなか、宗三郎はもう動かなくなった店主の身体を揺さぶった。
(何で…!)
死ぬしかない自分を、どうして守った。どうして生かしたんだ。
「あんたは、どうでもいいんじゃなかったのかよ…!」
店の陰間のことなんてどうでもいい。客さえ来て金を落としてくれればいい。だからこそ、あんなに無愛想だったんじゃないのか。
しかしその答えはない。店主の瞳は固く閉ざされている。
煙が二人を覆う。
(もう…いい)
このまま死んでもいい。どうせ新撰組に連行されても同じ結末を辿るなら、一日でも長く生きていたくない。
しかしそんな宗三郎の決意を打ち砕くように、また誰かが身体を引き寄せた。
「…っ、歳さん…!」
「行くぞ」
宗三郎は土方に抱えられるようにして部屋を出る。
炎は部屋を覆い、真っ赤に染めて、すべてを消し去っていった。





348


宗三郎を抱えたまま松葉屋を出た土方と総司は、包囲していた隊士たちに火消しを呼ぶように伝えた。二階から燃え広がった炎はあっという間に店を焼いている。野次馬が集まり始め、辺りが騒然とする中、土方は近くの民家の一室を借りた。宗三郎の火傷が酷かったからだ。
「すぐにお医者を呼んできます」
総司は踵を返そうとしたが、宗三郎に止められた。
「医者なんていらない!それよりも、あの人…店主を…」
「…」
総司は土方をちらりと見ると、彼は小さく首を横に振った。河上から一閃を浴びた店主はおそらく即死だったはずだ。また、この炎に包まれた中では生存の可能性は極めて少ない。
「…人のことよりも、まずは自分のことを心配しろ」
土方が淡々と告げると、宗三郎の顔がくしゃくしゃに歪んだ。店主に駆け寄った時に浴びてしまった火傷は、首筋からこめかみにかけて赤く膿んでいる。しかしその痛みよりも、店主が死んでしまったという悲しみが宗三郎には大きいようだ。
「…総司、取りあえず医者を…」
土方が促したその時。
「医者ならいるぜ」
と遠慮なく扉を開けた男がいた。
「松本先生…!?」
提灯を片手に顔を出したのは松本良順、そして南部精一の二人だった。土方も驚いて二人を出迎えた。
「何故ここにいらっしゃるのですか…?」
「なに、ここは南部の家の近くだ。一晩飲み明かそうとしたら火事だっていうもんだから、覗きに来た。怪我人がいるかもしれねえと思ったからな」
「助かります!宗三郎さんを…彼を、診てあげてください!」
総司は松本の袖を引き、宗三郎の元へ連れて行く。患部を見る松本の瞳が医者のそれに変わり、南部が出際よく準備を始めた。
「ひでぇ火傷だ。痛いだろう」
「…別に…」
宗三郎はそっぽを向いて松本から逃れるように背を向けた。しかし松本は「ふん」と少し笑って続ける。
「強情張れるなら、大丈夫だな。…土方、沖田、ここは俺に任せろ」
「しかし…」
「お前たちがいるんじゃ、こいつの気が休まらねえんだよ」
松本は「しっしっ」と言わんばかりに手を払って、二人に出て行くように命じた。総司は「わかりました」と従って、土方と共に家を出る。
周囲は慌ただしく駆け回る火消と、それを手伝う隊士たち、そして近所の野次馬で溢れていた。松葉屋にあがった火の手は激しく辺りを焼いたようだが、処置が早いおかげか周囲に収まることなく鎮火へと向かっていた。総司はほっと安堵しつつ、土方の方へ向いた。
「すみませんでした。勝手なことをして…」
宗三郎からの手紙が、何かの罠だと分かっていながら個人の判断で河上と対峙した。それがこんな大事になってしまったのは、自分のせいだと総司は痛感していた。
しかし土方は腕を組み
「お前のせいじゃないだろう」
とあっさり答えた。そしてそれ以外は何も言わずに、黙り込んでしまい、ぎくしゃくとした空気が流れる。こうして二人きりになるのは久しぶりだ。
総司は言葉を選ぶながら口を開いた。
「あ…あの。どうして土方さんがここに?」
「監察からの知らせと…斉藤が」
「斉藤さんが?」
「ああ。監察から河上が店を訪れたこと、そして斉藤からお前が店に向かったことを聞いて…悪い予感がした」
「…そうですか」
総司が店に向かうことを知っているのは斉藤だけだ。彼は総司の判断を呆れたように受け取っていたが、彼らしく用意周到に立ち回ってくれたようだ。
(また借りができちゃったな…)
総司が内心苦笑しつつ続けた。
「でも助かりました。もしあと一歩遅ければ、私か河上、どちらかが命を落としていたでしょうし…」
「お前は剣術のことになると見境が無くなりすぎる」
土方が憤った言い方をして、総司を厳しく睨む。
「もう少し慎重に物事を考えろ。お前が死んだらどうなると思っているんだ」
「…すみません。浅慮でした」
確かに宗三郎からの呼び出しで何となく河上との邂逅を感じていた。それを敢えて受けようと決断した時に、新撰組一番隊組長としての自覚は無く、ただただ勝負の決着をつけたいという欲望の一心だった。斉藤もそういうところに呆れた顔をしたのだろう、ということにようやく気が付く。
総司は目を伏せて自分の考えなしの決断を後悔したが、土方はさらに
「わかってねえな」
と諌める。
「わかっています。私は一番隊組長として…」
「そうじゃねえ…お前は俺を置いて勝手に死ぬつもりなのか?」
「…土方さん…」
総司はようやく気が付いた。土方が口にしたのは、新撰組副長としての命令ではなく、総司にとって一番大切な人間としての発言だったのだ。
「ごめんなさい…」
自分の軽はずみな行動、そしてその気持ちに気が付かなかったこと、二重の意味を込めて謝ると、土方は「いや」と腕を組みなおした。
「お前だけのせいじゃねえんだろう。お前は宗三郎の呼び出しだからこそ応じた…本当のことが知りたかったんだろう?」
「…それは…」
知りたい。
そう告げるのは躊躇われた。すでに気持ちの決着をつけたことだ。なにも蒸し返さなくても良いのだと思っていた。けれどいま土方は総司の気持ちに向き合おうとしてくれている。
「ちゃんと話す。だが…話はこの場が収まってからだ」
「…わかりました」


ようやく上がった炎が鎮火する頃には、辺りが薄く明るくなり始めていた。朝靄の中、ようやく火消しや隊士たちは引き上げていき、野次馬達も去った。
事態の収拾に奔走していた土方と総司がようやく安堵していると、南部がこちらにやってきた。
「お疲れ様でございます。こちらもようやく治療が終わりました」
「ありがとうございます!あの、宗三郎さんは…」
「良順先生からあなた方を呼んでくるように頼まれました。一緒に来ていただけますか」
拒む理由は無く、二人は南部に連れられ宗三郎の元へと戻る。
するとそこにいる宗三郎を見て二人は言葉を失った。店から逃げ出した時には気が付かなかったが、火傷の程度は酷いらしく左半分の顔面を包帯で覆われて、痛々しい姿となっていた。美貌は半分を失っても目立つが、それが余計哀愁を漂わせている。
「松本先生…怪我は…?」
総司が訊ねると松本は首を横に振った。
「残念だが火傷の跡は残るだろう。特に首筋から頬にかけての傷が酷くてな…まあ、今はそれよりも気持ちの問題だ」
「気持ち…」
総司は改めて宗三郎へと視線を向けた。
いつもの人を食ったような瞳は暗く陰り、『天女』として周囲を魅了する彼はどこにもいない。傷よりも深く彼の心が萎れてしまったようだ。
どう声を掛けたら良いか…迷う総司とは裏腹に、土方は遠慮なく宗三郎に近づいた。
「お前は河上と通じていたのか?」
「……」
「土方さん!私はわかっていて河上と対峙したんです!宗三郎さんは何も…!」
「答えろ」
総司の言い分など聞かずに、土方はまるで敵に対峙したかのように厳しい眼差しを宗三郎に向けていた。昔馴染みの『歳さん』としてではなく、『新撰組副長』として宗三郎を問い詰めているのだ。
すると宗三郎が呟いた。
「…そうだよ…河上に新撰組の沖田総司を呼び出すように頼まれた…。あいつはどうしても殺したいそうだ…」
「宗三郎さん…」
「でも、もうそんなのどうだっていいじゃないか…」
落としていた視線を上げて、宗三郎は土方を見上げる。
「歳さん、これで駒吉と同じだよ。俺は新撰組の敵になったんだ…俺を殺してくれよ…」
「どうしてそんなことを…宗三郎さんは…っ」
「忘れられるよりその方が良かったんだ…!」
宗三郎は悲鳴のような声を上げ、そして総司を睨んだ。
「あんたにはわからない!忘れられるということがどれだけ苦しいか…っ!拒まれるということがどれだけ悲しいか…!だったら、一生忘れられないように裏切って、殺してもらえる方がまだマシだ!」
宗三郎の頬に何筋もの涙が流れていた。
彼が泣いているのを見るのは初めてだった。いつも飄々として勝気な彼は、決して弱みを見せようとはしなかったから。
総司は何も口にすることはできなかった。その気持ちを嘘でも『わかる』とは言えなかったからだ。しかし宗三郎の言うとおり、土方に協力し殺されてしまった君菊の存在はいつまでも土方の中に残り続ける。彼はそうなりたかったということなのだろうか。
宗三郎は再び土方へと視線を向けた。
「店主は馬鹿だ…俺を庇う必要なんて何もなかったのに…。どうせこんな顔じゃ陰間は続けられない、もう生きる意味なんて何もない…」
「……」
憮然と立ち尽くす土方は何も答えない。しかし隣にいた総司もまた何を伝えればいいのかわからなかった。
すると宗三郎は穏やかに語りかける。
「歳さん…いや、新撰組の副長さん。俺を殺してくれ、それですべてが丸く収まるんだよ…」
まるですべてを諦めたかのような宗三郎の姿に、総司は胸を裂かれるような痛みと既視感を覚えた。
(あの時と、山南さんと…同じだ)
大津でのあの夜。
山南は脱走をしたという自分の選択を後悔することもなく、またその先にある結果さえも穏やかに受け入れていた。自分は死ぬべき人間だと悟っていた山南に対し、総司は何も言うことができなかった。その決断を翻す言葉を見つけることができなかった。
そして山南は言った。
『君にはわからないよ』
何ものをも得ている君には、わからない。そしてまた宗三郎も総司を同じように拒んだ。
(…何もわからない…?)
山南の迷いも
宗三郎の間違いも
山南の苦しみも
宗三郎の悲しみも
(何もわかっていないのだろうか…)
自分だけが取り残されているのだろうか。
「…わかった」
総司はハッと我に返る。土方が重々しく口を開いたからだ。
「新撰組副長として、総司を謀り、危険な自体を招いたお前を…許すことはできない」
「土方さん…!」
総司が宗三郎を止められなかったのと同様に、土方はまたかつての友人を殺してしまう。新撰組副長として、己の感情を押し殺してしまう。
(そんなのは駄目だ…!)
総司が手をのばそうとしたその時。
「ふざけんなっ!」
と、怒りに満ちた怒号が部屋中に響いた。総司は最初誰の声かわからなかったが、振り返ると松本が眉を吊り上げてこちらを睨んでいた。
「…松本、先生?」
「さっきから黙って聞いてりゃ、下らねえことで命を投げ出しやがって!土方、お前もだ!少しでも情がある相手を殺して何になるっていうんだ!」
怒りに打ち震えていた松本は、おそらく先ほどまでのやり取りをどうにか我慢して聞いていたのだろうが、それが爆発したようだ。
「確かに宗三郎には殺すべき理由があるのかもしれねえ!新撰組として許せねえことをしたのかもしれん!だが、この男はただの陰間だ。隊士でもなければ武士でもねえだろうがっ!生かすべき理由が少しでもあるのならそっちを優先すべきだ!」
「良順先生、そのくらいに…」
「大体な!この幕府御典医の俺が治療した相手を簡単に殺していいと思ってんのか!」
南部の静止を振り切って松本が怒鳴る。松本は医者として、人を助ける立場として、おそらくは土方の決断と宗三郎の命に対する諦めが理解できなかったのだろう。
宗三郎は唖然として、土方は苦虫を噛み潰したような顔をした。そして松本は「畜生」と吐き捨てつつ、宗三郎の元へ近づいた。
「お前さん、聖母ってやつを知っているか?」
「…聖母?」
「キリシタンたちの中で、神を産んだ聖なる母ってことで崇められている。俺ァ別にキリシタンじゃねえが、西洋医学を学ぶ中で何度かその顔を拝んだことがある」
「松本先生?」
何の話だ、とその場に居る全員が首を傾げる中、松本はにかっとその白い歯を見せて笑った。
「お前さんはその聖母にちょいと似ている。男であるお前さんには失礼かもしれねえが、聖母はすべてを優しく包み、弱き者を助ける…そういう顔だ」
「…俺…が?」
中性的でどこか浮世離れした顔立ち。それが今まで嫌だった。美しいと褒められるのも、大嫌いだった。
けれど松本は大きく頷いた。
「ああ。ま、日本で言うならば観音様みたいなもんか。お前さんの顔を拝んだだけで喜ぶ人間がいるのは、生まれ持った才能じゃねえかよ」
「…才能…」
「それに俺は新撰組を敵に回すその根性が気に入ったんだ。ただ一度の過ちで殺されるのは惜しい。…そうだ、南部。人手を欲しがっていただろう、弟子にしてやれよ」
「松本先生…!?」
総司は目を見開いて驚いたが、松本が冗談を言っている様子ではない。そして南部もまた「わかりました」とすぐに了承した。
「これも何かの縁だ。南部のところで医学を学べ。お前さんが自分を要らねえって言うんなら、俺がもらってやる。お前さんは必要な人間だ」
「…俺が…必要?」
「ああ。なんだ、文句あるのか?」
宗三郎の意思など関係なく、松本が簡単に物事を進めて行ってしまう。しかし宗三郎の凍てつくように固まっていた心は、まるで魔法にかかったかのように解けていく。
(必要…)
そう言ってくれる人がいる。そうだ、そう言ってくれる人に出会いたかった――。
心が解かれていくのと同時に、涙が滲んだ。
この涙の名前はわからない。けれど、とても温かい。
「土方。お前はお前の立場があるのだろうが、今回は俺に免じて見逃せ。それに沖田も宗三郎は裏切っていないと言っているだろう」
「……」
松本の取り成しに、土方は迷っているようだったが、
「土方さん、私も松本先生のご提案に賛成します」
と総司からも頼み込むと渋々ながら「わかりました」と言った。そして土方は宗三郎を見て訊ねた。
「…それでいいか?」
その声は。
江戸に居たあの時に似ていた。優しくて穏やかで何もかもを許してくれる、あの声に。
土方は変わってしまったのかもしれない。けれど、その奥底には必ずあの時の土方が居るんだ。
「…うん…」
宗三郎が頷く。
すると松本は満足げに笑った。
「お前さんは名前を変えて、南部の弟子として今日から生まれ変わるんだ。そして新撰組に生かされた分、お前は必死に医学を学べ。それがお前たちへの恩返しになるだろう」
松本の言葉に宗三郎は何度も頷いた。
ようやく彼に長い夜が明け、朝が来るのだ。





349


長かった夜が終わり、眩い朝日が昇る朝。
屯所に戻った総司を最初に出迎えたのは斉藤だった。
「ご苦労だったな」
労りの言葉をかけてくれた斉藤だが、彼も彼でとても瞼が重そうだ。斉藤は火事の際、鎮火の指揮を執っていたのだ。
「待っていてくれたんですか?」
随分先に戻ったはずなのに、と総司が訊ねると斉藤は酷くばつの悪そうな顔をして「副長は?」と話を逸らした。
「土方さんは松本先生と南部先生をお送りに。もうそろそろ戻ってくるとは思いますけど」
「良い形で収まったのか?」
「ええ…たぶん」
身体は疲れていたけれど、不思議と気持ちは満たされていた。
河上に殺されかけ、居場所を無くし、すべてを諦めていた宗三郎は投げやりに「自分を殺してくれ」と何度も言った。苦々しい思いと隊を統べる規則の狭間で揺れる総司と土方だったが、松本の計らいで新しい道を見つけ、彼はその道を歩んでいくことを決めた。それは、もしあの場に松本がいなければ生まれなかった結末だ。様々な偶然が重なりあった、幸運な結末だと思える。
「斉藤さんが土方さんに私の居場所を教えたんですか?」
「…ああ。余計なことをしたか?」
「いいえ…そんなことはありません」
総司は穏やかに微笑んだ。
宗三郎から手紙で呼び出されたことを知っているのは斉藤だけだから、土方があの場に登場した時点で気が付いていた。
もしあのまま斬りあっていたら、死んでいたかもしれない。河上ともう一度対峙したいという気持ちが先行して周りが見えていなかった。それを止めてくれたのは、土方と斉藤だ。
「何だか斉藤さんには借りばかりを作っているような気がします」
「貸しだなんて思っていない」
「斉藤さんはそうかもしれないですけど…じゃあ今度、一緒に飲みに行きましょう」
「らしくないことを言うな。それに、あんたは飲めないだろう」
「隣で甘いものでも食べています」
「勘弁してくれ」
心底嫌そうな顔をした斉藤をみて、総司は笑う。
そうしていると
「総司」
と背後から声がかかった。
「土方さん。もうお戻りですか?」
「ああ…斉藤、近藤局長にすべて片付いた旨を報告してくれ」
「わかりました」
斉藤は軽く頭を下げて「では」と去っていく。去り際にちらりと総司の方を見て何か言いたそうにしたが、結局は何も言わなかった。
すると、土方がやや強引に総司の腕を取った。
「行くぞ」
「え?どこへですか?」
「決まっているだろう」
土方は総司を引き、もと来た道へ戻って屯所から離れていった。

ちゅんちゅんと小鳥の囀りが響く中、総司は土方と共に別宅へとやってきた。世話役のみねの姿はなく、朝の静けさに包まれている。
(何だか…ここに来るのは久しぶりだな…)
いつものことながら小奇麗な部屋をぐるりと見渡した。しかし、以前の新品の畳の匂いはすっかりなくなっていて、ここに人が住んでいるのだという雰囲気はある。
土方は総司の目の前に腰を降ろし
「話だ」
と前置きもなく切り出した。一瞬、総司は何のことだかわからなかった。
「…ああ、宗三郎さんのことですか?一晩中駆け回って疲れているでしょう?また今度でもいいのに…」
「また今度と思ううちに、こんなに時間が経ったんだ。いいから黙って聞いてろ」
相変わらずの強引な物言いに総司は苦笑しつつ「仕方ないなあ、聞いてあげますよ」と茶化して頷いた。しかし内心はどこか他人行儀だった距離が、いつもの二人の距離に戻ったようで安堵していた。
土方は一息ついて口を開く。
「わかっているとは思うが…あいつは当時『薫』と名乗り、江戸では有名な陰間だった。俺は伊庭の野郎が興味本位で店に足を踏み入れたのがきっかけで知り合った」
「伊庭君が…」
「言い訳じゃねえが、最初は全く興味はなかったんだ。男色なんて想像も出来ねえし、女で足りてる…そう思っていた。…しかし、薫に出会った時、俺はあいつが自分に似ていると思った」
「似ている?」
総司は首を傾げる。いかにも線の細く美貌を持つ宗三郎と、背が高く男の体躯である土方が似ているとは微塵も思わなかったからだ。
すると土方が首を横に振った。
「姿形じゃねえよ。ただ…狭っ苦しい場所に閉じ込められて、不満はあるのにでもどこか諦めていて…表面上は取り繕っている。そういうところが自分に似ていて…苛々した」
「…苛々?好感を持ったんじゃないんですか?」
「違う。伊庭曰く…同族嫌悪、というやつらしい。薫を見ていると自分を見ているようで…苛々した」
「……」
土方の苛立ちが、総司にはあまり理解できなかったが、確かにあの頃の土方はまるで毎日が「つまらない」と言いたげに鬱屈していた。剣を直視できずにその日、気のままに過ごしていて…そういう部分が全てに投げやりで他人事のように俯瞰しているところが薫と一致したのだろうということは想像できた。
「しかし薫は違った。薫もまた俺を見て自分に似ていると感じたが、俺と違ってそれを何かの運命だと思い込んだのだろう」
「思い込んだって…」
総司は苦笑した。宗三郎が聞いたら怒りそうな物言いだ。しかし土方からすれば、真反対の感情を持った薫に対して『思い込みだ』と感じたのは間違いではないのだろう。
すると土方は大きくため息をついて話を切る。
そして少し黙り込んで、とても言いづらそうに続けた。
「…俺も若かったからな。いくら同族嫌悪している相手とはいえ、あの美貌を持つ相手に好意を寄せられていると分かれば、食指が動かない訳でもなかった」
「……」
「その時、俺は女しか抱いたことがなかった。女に飽いたことはなかったが、それでも現状に満足できずにいた。そんな下らねえ日常を、男を抱くことで変えられるのかもしれないとも思った」
土方の言葉に、胸が痛んだ。それはその時の土方の感情であり、今の土方の想いではない。それがわかっていても、苦々しい感情は飲み込めなかった。
抑え込んで、いなくなったはずの痛みが蘇る。まるで瘡蓋が取れたみたいに。
しかし、土方は思わぬことを口にした。
「だが、俺はあいつを抱かなかった」
「…え?」
「いや、正しくは抱く前に逃げ出した。それを…あいつは今でも恨んでいるのだろう」
それが今回の騒動に繋がったのだ、とため息交じりに語る土方だが、その言葉はまるで総司に入ってこない。
(でも宗三郎さんは…)
『最初は歳さんも男だということに躊躇いがあったみたいだけど、だんだんとその気になってさ。あとは…言わなくても分かるだろう?』
宗三郎の物言いを聞いて、総司はすっかり二人の間には関係があったのだと思い込んだ。しかしよくよく考えると、彼は明言をしていない。彼が曖昧な物言いをしたのはもしかしたら、彼は総司に対して虚勢を張り意地を見せたかったのかもしれない。
昔のことなど気にしてなどいない…そう言い聞かせていた。斉藤にもそう在りたいと宣言した。けれどやはり胸の奥底では小骨が刺さったかのように引っかかっていた。だからこそ、いま酷く安堵しているのだ。
すると土方は逸らしていた視線を、まっすぐに総司へと向けた。
「お前が…俺を引き留めたんだ」
「…なんのことですか?」
総司には身に覚えがない。薫の名前さえ聞いたことがなかったのだ。
「お前はわからなくてもいい。ただ、あの時…自分にとって何を優先すべきなのか、思い知った。だから薫とはそれっきり会っていない。京で再会するまですっかり忘れていた…話は、これで終わりだ」
土方は言い淀みつつ最後まで話し、総司の表情を伺う。しかし、総司の方は
「…何だ、それだけですか?」
あまりに拍子抜けしてしまい、笑ってしまった。
「二人の間に、もっと重大な事件とかがあったのかと思いました」
「お前にとっては重大なことだったんだろう?」
「まあ…そうかもしれません」
総司は足を崩した。
「…松本先生がね、教えてくれたんです。これは『嫉妬』だって」
「嫉妬?」
「ええ。自分では気が付かなかったんですけど、指摘された途端に納得しました。私はきっと宗三郎さんに嫉妬していたんです」
あんなにも美しくて、総司の知らない土方を知っていることが、羨ましかった。
「不思議ですよね。昔…君菊さんと話していた時にはそんなこと全く思わなかった。むしろ、君菊さんと土方さんが幸せになってくれるならそれでもいいと思えていたのに……宗三郎さんに対してはそうは思えなかったんですから」
「総司…」
「それはきっと、あの時よりも私が歳三さんのことを好きになってしまったからだと思います」
総司は土方との距離を詰めた。そして上目遣いに土方を見つめる。
「だから、今後は女であろうと男であろうと、許してあげられるかわかりません。見苦しく歳三さんを責めて、怒ってしまうかもしれない…それでもいいですか?」
宗三郎の一件で、自分のなかに生まれた嫉妬という新たな感情を知ったけれど、
(けど、もう懲り懲りだ)
そう思った。こんな重苦しい気持ちは仕事にも支障が出てしまうし、精神の不安定さから体まで壊して斉藤や山野、島田にまで心配を掛けてしまった。
こんなのは全く、自分らしくない感情なのだ。
こんな気持ちは知るだけで十分だ。できれば何度も味わいたくはない。
すると、最初は驚いていたような顔を見せていた土方が、柔和な表情になる。そして総司の頬に手をのばして
「分かった」
と頷いた。そして後ろ頭から引き寄せるように抱きしめる。
ふわっと温かい何かに包まれて、総司はとても懐かしく思った。遠のいていた距離が縮まることにこんな安堵感を覚えたのは初めてだ。
そしてこの温もりを誰にも渡しくないと、改めて思う。
(いつまでも…好きでいてほしい)
人の感情は移ろう。
永遠だなんて、簡単には言えない。
けれど宗三郎に言わせれば、けれど抱きしめられているこの間だけでも、傍に居られる自分は本当はとてもとても幸せなのだろう。
「…歳三さん」
「何だ」
「眠いです…」
「ああ…寝ちまえ」
耳元でくすりと笑う土方の声が聞こえる。
総司は目を閉じて、微睡の中へと落ちて行った。





350


ここに、ある一隊士の一日を記す。

新撰組の一日は過酷である。
まず、朝はゆっくりと眠ることができなかった。
「…ん?」
俺、今井祐次郎はまだ鳥も鳴かない朝に不意に目を覚ました。俺は七月に土方副長の呼び掛けにより入隊したばかりの若輩者だ。そんな俺は部屋のなかでも一番廊下側に寝床を与えられていた。そのすぐ傍の廊下からひたひたと微かな足音がしたのだ。
まだ眠気の残る身体をどうにか起こして、
(侵入者か?)
と、枕元の刀を構えたその時、襖が勢いよく開き、その足音の主がわからないうちに脳天に何かがが落ちてくる。
「ぎゃぁ!」
俺はみっともない声を挙げつつ、手にしていた刀を鞘のままでそれを受け止めた。鞘とぶつかった瞬間、びりびりと手のひらが震えるほどの衝撃を感じたが、しかし相手の武器は竹刀だ。
俺は朝日で逆光になった光の中、突然現れたその人をまじまじと見た。そのうち、同室の隊士たちも目を覚まし始め、なんだなんだと声が聞こえてくる。すると、ようやく俺の焦点が合ったところで
「おはようございます」
とにっこりと笑われた。声の主は一番隊組長の沖田先生だ。
「お…おはよう、ございます…」
「今井さん、合格です」
満足げに頷いて笑うその人は、見目が整いすぎていて俺には朝日よりも眩しい。
「は…はあ、あの…?」
「沖田さん、朝から精が出ますねえ」
俺が戸惑っていると、藤堂先生が部屋の奥からそう揶揄して声をかけてきた。俺は七番隊に属しているので、先生は直属の上司ということになる。
「あの、藤堂先生、これは…」
「これは恒例行事みたいなものですよ。入隊したばかりの隊士に、こうして朝早く奇襲をかけるんです。気を緩めていないか、いつでも戦闘に迎えるかってね」
藤堂先生はそう教えてくれたけれど、俺は
(そんな無茶な)
と内心そう思った。だが、当時に偶然とはいえ見事に避けることができたので安堵もしていた。
正直に言うと、池田屋の一件で名を馳せた新撰組に入隊できたときは、鼻高々、意気揚揚としていた俺だが、まさかこんなにも厳しい生活を強いられるとは思ってもいなかった。毎日が戦のような緊張感の中、当番制で訪れる死番と細かい隊則…死と隣り合わせという生活は、思った以上に息苦しかった。
しかし今更隊を抜けることはできない。脱走として裁かれてしまうからだ。
「まあ、避けれなかったからと言って脱退させるわけではありませんけどね。あまりにも醜態をさらし脅えてしまうようなら使い物になりませんから」
沖田先生はさらりとそんなことを言って、俺は呆気にとられた。
新撰組には何故か見目麗しい者が揃っている。その筆頭が沖田先生で、隊士の中には一目見て懸想してしまったものも多いと聞く。しかし、その思いを彼らは絶対に表沙汰にはしない。先生は土方副長という絶対無二の存在がいるからだ。
(初めてそれを聞いたときは…ちょっと残念だったもんなあ…)
懸想…とは行かないまでも、少しだけ気になっていた俺もこっそり肩を落としたものだ。
「どうかしました?」
まじまじと顔を見ていたせいか、沖田先生は不思議そうに俺の顔を覗き込む。俺は慌てて「いえ!」と首を横に振った。
沖田先生はくすりと笑った。
「まだ寝ぼけているみたいですね」
「あ…その…」
「二度寝をしても構いませんよ。まだ朝起きるには早いですからね」
先ほど強襲してきたとは思えないほど、沖田先生は朗らかに笑っている。俺が、思わず息を飲むほどに。
「さ、もう一眠りしましょう」
藤堂先生が皆にそう声をかけて、周囲もくすくす笑いながら布団を被る。沖田先生は「お邪魔しました」とやっぱり笑って出て行ってしまった。
俺はしばらくぼんやりとしていたが、手にしていた刀を枕元に戻して布団を被った。
心臓が高鳴る。
それは突然襲われた動揺ではなくて。
(ヤバい…)
と俺はぎゅっと布団を抱きしめて、何かを堪えていた。


結局、その後は良く眠ることはできずに、俺は寝不足のまま再び身体を起こして井戸へと向かって歩いていった。顔を洗ってサッパリしたい気分だったのだが、先客がいた。
「おはよーさん」
十番隊組長の原田先生と、
「ああ、今井さん。早いですねぇ」
沖田先生だ。先生も朝は早かったはずなのだが、サッパリとした様子だった。
「お…おはよう、ございます」
「聞いたぜ、今井。ばっちり避けたんだって?すげぇじゃねえか」
原田先生は俺の肩を思いっきり二、三回叩きながら褒めてくれた。陽気で明るい原田先生は、何度か居酒屋に連れて行ってくれたので俺のことを覚えてくれている。
「は…はあ、たまたまです」
謙遜する俺に
「珍しく総司が褒めているんだから、素直に受け取れよ!」
と、止めの一発を食らわされる。加減を知らない原田先生とのやり取りは居心地は良いけれど身体には痛みが残る。
「はぁ…」
「よし、じゃあ総司、俺、先に行くわ」
原田先生は沖田先生に手を振って去っていく。…となると、当然、井戸には俺と沖田先生が残された。
(ま…まずい)
俺は早速、井戸から水をくみ上げるのだが、沖田先生は手拭いを丁寧に折りたたんで身体を拭き始めた。俺はじゃぶじゃぶと顔を豪快に洗いつつも、こっそりと先生の方を見た。
新撰組随一の剣豪である沖田先生だが、その体つきはまるでそんな風には見えない。色白で必要以上の筋肉はなくて、どこか洗練されている。その身体のどこからあんな豪胆な剣が繰り出せるのか不思議なくらいだ。
「今井さん」
名前を呼ばれ、俺はどきっとして背筋を伸ばした。
「は、はい!」
「信州のご出身だそうですね」
「あ…そうです。まあ…」
沖田先生は一番隊の組長。七番隊の俺とは今朝初めて言葉を交わしたというのに、俺のことをいったいどこから聞いたのだろう。
「私は信州にいったことがないんですけど、どんなところなんですか?」
沖田先生は世間話の一つとして俺に訊ねてきた。俺は、慎重に言葉を選びつつ答える。
「その…京や江戸に比べたら…何の変哲もない、田舎だと思います。どこを見渡しても木々ばかりで…。家は、豚を飼っていました」
「豚をっ?」
何気なく漏らした言葉に、沖田先生は目を輝かせて飛びついた。俺の父は珍しい物好きで豚を好んで飼い、食していた。ちょうど同じように新撰組には先頃から残飯処理の為に豚を飼い始めたばかりなのだ。
「ええ…まあ…」
「松本先生に聞いたところによると、屯所で飼っている豚は、まだまだ小さいそうで、これから大きくなるんですよね。今井さんの家で飼っていた豚はどのくらいの大きさだったんですか?」
「そ…そうですね、両手を広げたくらいでしょうか…」
「へぇ!すごいなあ」
沖田先生はまるで子供のように喜んで俺の話を聞いている。ただ、先生は汗を拭く最中なので、上半身を晒したままだ。俺は目のやり場に困る。
(…って、同じ男だろうが…!)
俺は首を横に振り、何かを誤魔化す。
しかし、沖田先生はそんな俺に気が付く様子はない。
「そんなに大きくなってしまうなら、あの小屋だと小さいですよねえ…ああ、そうか、食べちゃうからいいのかな。豚は美味しいって聞いたんですけど、どうなんですか?」
「ま…まあ、美味いと思いますよ。馬や猪より臭くないし…」
「そうなんですか。楽しみだなあ」
沖田先生は豚を可愛がっているらしいのだが、この様子を見る限り食べることには躊躇いがないようだ。無邪気なところもあれば、割切るところもある。そういうところが剣の二面性に現れているのかもしれない。
…なんて、考えていると。
「総司!」
その声を背後から聞いた途端、俺の中に電流が走ったかのような衝撃を受けた。そう、まるで今までの沖田先生とのやり取りが夢か幻だったのかと思ってしまうほどの。
「何なんですか、朝っぱらから…」
ウンザリした様子で沖田先生は返答し、衣服を整える。そして俺に「じゃあまた」と軽く返答をして小走りして去っていく。
俺は、恐る恐る振り返った。その先にはもちろん、土方副長がいた。
「お…おはよう…ございます…!」
声を振り絞り、また硬直した身体をどうにか動かして俺は頭を下げた。
「…ああ」
土方副長のあからさまに不機嫌そうな声。
そして頭を上げてちらりと表情を伺うと、まるで今にも殺されそうなほどに鋭い瞳だ。
「もう、土方さん、何睨んでいるんですか。朝に弱いからって手当たり次第に八つ当たりしないでくださいよ」
沖田先生は、ちょっと見当はずれなことを言って土方副長の背中を押して去っていく。
まるで土方副長に俺の下心を見抜かれたような気がして…二人の姿が見えなくなって、俺は思わずその場に座り込んでしまった。
そして俺の芽生えてもいない、淡い……恋心…かどうかさえわからないものは一気に消え去ったのだった。

…全く、新撰組での日々は過酷である。





解説
350今井祐次郎は新撰組の七番隊隊士。藤堂の配下として活躍し、鳥羽伏見の戦いで戦死したと言われいます。
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