わらべうた





351


雨が通り過ぎ、季節は日を追うごとに夏へと向かっていった。
盆地での夏にはようやく慣れてきたものの、西本願寺へ屯所を移してからは初めての夏だ。八木邸にいた時は風が屋内に居ても風が通り過ぎていたものの、大きな集会所を区切っただけの今の屯所では気持ちの良い風は入ってこない。その為、総司は内輪片手に境内に腰掛けていた。
「総司」
そうしていると背後から声がかかった。声の主は振り向かないでもわかったのだが、
「…あれ?土方さん…と」
背後に控えるもう一人は意外な人間だった。総司は一瞬、彼の名前を口にして良いものかと迷ったが、彼は察したのかにっこりと笑った。
「沖田先生、構いまへん。山崎です」
小気味の良い関西訛り。いつもは町人や物乞いに身を窶し、滅多に顔を出さない監察の山崎だが、今日は小奇麗に髷を結い堂々と顔を晒している。彼のそんな姿は久しぶりに見た。
「どうしたんですか?」
彼は立派な隊士なのだから屯所にいてもおかしくはないのだが、監察という仕事を務める彼は積極的には姿を現そうとはしなかった。その為、彼の顔を知っている隊士は少ない。総司は思わず声を潜めて訊ねると、代わりに土方が答えた。
「これから山崎には別に仕事を任せることになった」
「あれ…じゃあ監察から異動ですか?」
「いえ、すぐすぐにというわけにはいきまへん。ただ、さすがに顔が知られ始めましたからな…徐々に別の監察に引き継ぎをさせるということになりました」
「へえ…」
思えば、山崎は入隊時から監察として働いてきた。もともと大坂の生まれだと言う彼には人脈があったし、京の地理にも詳しかったのだ。新撰組の情報網が確立されていく一方で、色々な姿に変装をしたとしても彼の顔が知られてきた、というのは事実なのだろう。危険な仕事と隣り合わせの監察では顔を知られるというのはやりづらい面も多々あるはずだ。
「お疲れ様でした。では、副長助勤としてお勤めされるんですか?」
「いえいえ、違います。それならまだ楽やったんですけどねえ…」
山崎は頭を掻いて苦笑する。総司が首を傾げると、バタバタと足音が聞こえてきた。やってきたのは近藤だった。
「歳、ここにいたのか。松本先生がお待ちだ」
「ああ、わかった」
土方は頷いて、山崎と共に去っていく。その慌てだしい光景を見ながら、総司は反対側に首を傾げて見送った。

部屋には既に松本良順がいた。紹介もそこそこに、松本はやってきた山崎の顔を見るなり「これはいい」といつものように快活に笑った。
「お前さん、目が良いだろう」
「ええ…まあ」
さすがの山崎も松本の遠慮ない問いかけには面食らったようだが、それでもすぐに頷いた。
「お分かりになるのですか?」
近藤の隣に控えていた伊東が松本に問いかける。松本は「根拠はねえけどな」と笑い飛ばした。
先日、松本から「医学の心得のある者を一人置くように」という指示があり、土方はすぐに隊士全員の経歴を洗った。すると山崎がもとは鍼医師の息子であることに気が付き、監察の仕事から手を引かせる意味でも彼に新たに任命したのだ。
松本はまじまじと山崎の顔を見る。
「鍼医師の子だそうだな」
「ええ…ただ、土方副長にもお話しましたが、私には医学の知識はありません。父の仕事を傍らで見てきただけで、技術も知識も長兄が受け継ぎました」
「問題ない。医者って仕事がどんなものかわかっていればそれでいい」
不安げにしていた山崎だが松本の即答を聞いて「そうですか」と安堵の表情を浮かべた。そして居住まいを正して
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
と深く頭を下げた。彼も彼で、新しい職務を果たす決心がついたのだろう。
すると、伊東が近藤の方を見て微笑んだ。
「山崎君は入隊時から監察の仕事を務めています。監察の様な気の長くなる地道な仕事を立派に果たしてきた彼ですから、医学にも真摯に取り組んでくれるでしょう」
飾り立てた賛辞をさらりと口にした伊東を見て
(ご苦労なことだ)
と土方は思った。どんな時でも人を褒め、人の間を取り持とうとする。伊東の性格は参謀という役職に相応しいものの、土方なら気疲れしてしまいそうなものだ。
しかし、一方で近藤は伊東の言葉をまっすぐにしか受け取らない。その言葉の裏に何があるのかなんて無粋なことは考えないのだ。
「ええ…そう思います。松本先生、山崎君のことをどうぞよろしくお願いいたします」
だが、この察しの良い松本は伊東のことをどう思っているのだろう。土方には松本と伊東はまるで両極端の場所にいるように見えるのだが。
「ああ。一人前になれるように仕込むつもりだ、任せてくれ。…ところで、土方」
松本は二人の言葉をさらりと受け取りつつ、土方へと視線を向けた。
「何でしょうか」
「今晩、沖田を借りたいのだが…いいか?」
「…沖田を、ですか?」
総司の名前を聞いて土方が訝しげに松本を見た。その視線に気が付いた松本は「ははっ」と高らかに笑う。
「なに、捕って食おうってんじゃねえよ!人のモンに手を出す趣味もねえしな」
頭がよく、快濶で遠慮がなく気さくな松本の唯一ともいえる欠点と言えば、物事をおおっぴらに口にしてしまうことだろうか。そういう明朗なところは江戸っ子らしいところではある。
(それが悪いってわけじゃねえが…)
近藤や伊東の前で総司との関係について言及されるのは反応に困ってしまう。一度、釘を刺しておかなければ…そう思いつつ、土方は内心ため息をついた。
「…一応、沖田は一番隊の組長です。何か所用があるのでしたら、他の隊士も付けますが」
敢えて事務的に返すと、松本はまだ笑っていた。
「そんな大事じゃねえよ。一緒に食事でもどうかと思っただけだ」
「食事ですか…?」
「精の付くものをたらふく食わせてやるんだ」
土方はようやく松本の意図を掴んだ。労咳のことを知り、総司の身体のことを気にかけて食事に誘っているのだろう。願ってもない話に断る理由などない。
土方は「そう言うことでしたら」とすぐに頷いた。


その晩、松本と料亭で待ち合わせをすることになり、総司は陽が暮れた頃、提灯を片手に屯所を出た。
「どんな美味しいものを頂けるんでしょうね。きっと松本先生のことだから舌が肥えているでしょうし、楽しみだなあ」
嬉しそうに歩く総司の隣を、土方も歩いていた。
「お前は呑気だな」
松本はてっきり総司だけを呼んだのだと思いきや、松本は後で土方に「お前も来い」と耳打ちをしてきた。総司だけを呼び出すことに気を遣ったのかもしれない。だが、何も事情を知らない総司は「美味しいものが食べられる」と上機嫌だ。
「土方さんと出掛けるのも久々じゃないですか。最近は忙しくないんですか?」
「将軍も大坂へ下ったからな。ようやく一息ついたところだ」
「そうですか…何だかよくわからないけれど、大変ですねえ。あ、そうだ。山崎さんのことを聞きましたよ。医学を学ばれるそうですね」
「ああ…適材適所だ。松本先生も山崎を気に入ったようだしな」
「ははは、それはいいことですね。でも山崎さんが医者の恰好をしていると、医者の変装に見えてしまいそうですよね」
「それは…そうだな」
総司との他愛のない会話が何故だか心に沁みた。将軍の上洛や屯所の衛生に奔走していたことを『大変だ』とは思わなかったが、疲れていたのは確かだったのだろう。
「色々片付いたのなら、別宅でゆっくり過ごせるといいですけどね」
「…まあな」
土方は曖昧に答えた。一息はついたものの、正直これからも日々の仕事に忙殺されるだろうし、別宅でのんびりする余裕はないのだが、しかし別宅という存在は唯一安寧を感じる居場所だ。
「最近、おみねさんが土方さんのことを心配していましたよ。たまには足をのばしたらどうです?」
「…じゃあその時はお前も来いよ」
「そりゃおみねさんの作るご飯やおはぎは美味しいからいつでもお供しますけど」
総司はすっかり食べ物のことで頭がいっぱいのようだ。土方は苦笑した。
「その時は朝まで寝かせねえからな」
「…へ?」
「さすがにお前も意味がわからねぇわけじゃねえだろう?」
土方は総司の指を絡ませる。温かい指先が妙に心地よい。
「ちょ…!歳三さん、こんな往来で…」
「こんな夜中だ、誰にも見えねえよ」
「それは…そうですけど」
薄闇の中、総司の顔が火照っているように見えた。それが提灯の灯りのせいなのか、こうして手を繋いでいるせいなのかはわからない。
恥ずかしそうに視線逸らしていた総司だが、次第に繋いだ指を土方の方へと絡ませてきた。
「す…少し、だけですからね」
子供っぽく、しかし恥ずかしそうに言い返して来たのを土方は
「わかったよ」
と聞き流してやったのだった。



352


静かな佇まいの落ち着いた雰囲気のある小料理屋にたどり着いた二人は、女将に案内されるままに二階の座敷へと通された。
「よお、遅かったな」
部屋には松本がいて、土方と総司の姿を見るや手招いた。松本の傍には美しい女が侍っていたが、「ほな」と軽く挨拶を済ませるとあっさりと部屋を出て行った。
そして二人を案内した女将は「すぐにお料理をお持ちします」と声をかけて下がっていく。松本に促されるままに腰を降ろしつつ、
「お招きいただきありがとうございます。お待たせしましたか?」
と、総司が訊ねると、松本は率直に「ああ、待った」と答えて
「逢引が長引いているんだと思っていたぜ」
そう茶化すように笑った。総司は慌てて「そんなことありませんよ!」と首を横に振ったが、土方はだんだんと松本の遠慮のない物言いに慣れていたので聞き流した。
「今夜はおひとりですか?」
土方は訊ねた。松本以外に部屋には誰もいない。大抵、友人の医師である南部をつれているので珍しくも感じた。すると松本は頷いて腕を組みなおした。
「ああ。南部は忙しいんだ。最近、新しい弟子ができたからな。あいつはどこか説教くさいところがあるから、延々と医学の心得を説いているんだろうな」
南部の新しい弟子…もちろん二人はすぐに分かった。
「宗三郎さんは…お元気ですか?」
総司は少し躊躇いつつも訊ねた。先日の一件から数日経ったが、南部の元へ弟子入りした宗三郎の状況は全く耳にしていなかった。
しかし総司の心配を跳ね除けるように、松本は笑った。
「ああ、元気だ。火傷の怪我も大分良い様だが、傷跡が目立たなくなるには時間がかかるだろう。しかし、お前さんたちが気に病む必要はない。英自身も前を向いて生きている」
「はな…ぶさ?」
「新しい名だ。俺が考えた」
「へえ…」
総司はちらりと土方の顔色を窺った。彼も宗三郎の新しい名前を知らなかったのか、驚いているようだった。
松本は二人を見て穏やかに微笑んだ。
「まあ、名前を変えたからって、すぐに気持ちまで変えられるわけじゃねえ。だがいつかお前たちと向き合えるようになるだろう。それまでは待ってやってくれ」
「…わかりました」
まだ知り合って数日だと言うのに、松本は英のことをまるで自分の友人か家族のような親しみを込めて話す。やはり任せて良かった…総司は改めてそう思った。
(いつか…向き合える日が来るだろう)
それがいつになるのかはわからないけれど、彼が望んでくれるのなら、いつだって真っ直ぐに彼に向かい合いたい。それはきっと土方も同じように思っているのではないだろうか。
そうしていると女将と女中たちが料理を持ってやってきた。色とりどりの趣味の良い器に包まれた料理の数々は目にも美しい。総司はいつになく背筋を伸ばしつつ、お椀を手に取り慎重に箸をすすめる。絵画のような料理は一口一口が繊細で、溶けるような味わいだ。総司が噛みしめて口にしていると、松本は「もっと気楽に食えよ」と笑った。
「松本先生はこんなにおいしいお料理をいつも召し上がっているんですか?」
総司の覚束ない様子とは違い、松本はまるで毎日の食事のように遠慮のない食いっぷりだ。しかし、意外にも「いや、そうでもない」と松本はケロッと笑った。
「こんなに豪勢な食事をするよりも、南部と酒を酌み交わしている方が多いくらいだ。酒の肴やつまみがあれば十分だ」
「そうなんですか?でしたら、わざわざご用意してくださったんですか」
「…そういう気分の時もあるんだよ」
松本は何故か曖昧に濁して汁物を啜った。
そしてしばらくは土方も交えてくだらない雑談が進み、女中が膳を下げ終わったころに
「本題だ」
と突然松本が切り出した。
「本題…ですか?」
「何かお話が?」
総司はもちろんのこと、土方も聞かされていなかったようだ。松本は手にしていた酒を一気に飲み干した。
「人を探している」
「人…ですか?」
「ああ。以前、俺の元で医学を学んでいた男だ。突然、姿を消した」
「なにゆえに?」
すぐには答えずに、松本は猪口を置いて一息ついた。
「…時代の波に、流されちまったのかもな…」
「波…ですか?」
総司と土方は顔を見合せた。いつも率直で、飾りのない言葉を口にする松本らしからぬ詩的な物言いだったからだ。
しかし松本は冗談を言った風ではなく続けた。
「生真面目な男だったんだ。熱心に医学に取り組み、昼夜問わず書物に向かい…俺がたまには休めと言っても聞かなかった。頑固な男だったな」
松本の話ぶりからするに、大層可愛がっていたのだろう。だが、慈しむような表情の裏には影があった。
「友人の命を助けたい…詳しくは語らなかったが、医者を志す理由があったようだ。その真摯な姿を見て、俺も絆されちまってな。あいつの勉強に付き合ってやったもんだ」
「波に流された…というのは?」
土方が先を促すと、松本は少し言葉を選んだ。
「……生真面目っていうのは、褒め言葉でもあるが、馬鹿正直と表裏一体だ。己が信じることへ猪突猛進してしまう。…その男は、攘夷だ、倒幕だなんていう世の中の風潮に染まっちまった。黒船来航以来、吹き荒れる嵐のような時代のなか、。男はただただ愚直に医学だけに向き合うことができなかった」
「つまり、医学を諦めてしまったということですか?」
弱腰な幕府の態度に辟易し、攘夷に息巻いた若者は多い。松本が語る男もまた医学よりも世の中のそう言った流れに、のめり込んでしまったということだろう。
松本は残念そうに顔を顰めて「ああ」と頷いたが、土方はさらに問い詰める。
「しかし、そう言った弟子は多いのではないですか。時代の波に流されなくとも、医学の険しい道を志しても挫折してしまう…松本先生がその男にこだわるのは何故でしょうか」
「ああ…そうだ。お前の言うとおりだ。根性のない奴はすぐにやめる。それにあの時は特に世の中が混乱していて、医学なんて気の長くなるような果てしない修行に構っていられない…そう言って挫折する、辞めちまう奴はゴロゴロいた」
「ではなぜその男を気にかけるのですか」
「ちょっと、土方さん」
まるで詰問のように容赦のない質問攻めに、さすがに総司は土方を引き留めたのだが、
「いや、いい」
と松本は軽く首を横に振った。話す覚悟はしている、ということなのだろう。
そして松本は少し間を開けて、重たく続けた。
「その男が俺に暇を申し出てきたときの顔が…どうしても忘れられねえんだ」
「顔…ですか?」
「ああ…誰かを殺しちまうような、恐ろしい顔だ」
「……」
「俺はあいつの『人を助けたい』という気持ちしか知らなかった。それが何故…いつの間にか『誰かを殺したい』と願うようになっちまった。…情けない話だが、俺には何故あいつがそんな風に考えるようになったのか、わからなかった」
松本の話を聞いて土方はただ沈黙し、そして総司もまた返す言葉が見つからなかった。
それは自分自身が殺したい、と願ったことがないとは言い切れない道を歩んできたからだ。必要だと思えば殺してきた…ここ数年の間に何人も手にかけてきた。
『…今まで、何人殺した?』
ふっと脳裏に過ったのは、先日河上との邂逅の場面だった。
『『理由』や『言い訳』さえ用意できれば、お前はその刀で人を殺すんだ。』
ただただまっすぐと指摘された河上の言葉に、総司はあの時何も言えなかった。何も聞かなかったフリをするので精いっぱいだった。
(それが…図星だったから?)
「総司?」
「えっ?…ああ、すみません。何でもありません」
目敏く声をかけてきた土方に、総司は微笑みで答える。つまらない感傷を誰かに話すつもりはなかった。
「松本先生は、私たちにその人を探して欲しいと言うことですか?」
総司は誤魔化すように視線を土方から松本へと向けた。
「ああ…俺は将軍が上洛され、従うことになった時、これは好機だと思った。いまの世の中の中心は京だ。ここならあの男がいるかもしれねえ…いや、きっとあの愚直なまでの生真面目さゆえに、ここにいるだろうと思ったからな。だが、残念ながら幕府御典医としての立場は動きづらい。町医者の南部に頼むわけにもいかねえ」
「なるほど。でしたら、監察や隊士に含めて探して…」
「いや、待て」
土方が総司の返答を止めた。
「松本先生。もし、その男が討幕派に関わりがあり、不穏な動きをしていた場合…はっきり言えば、新撰組の敵であった場合は、たとえ松本先生のお知り合いであったとしても、その処断を変える理由にはなりません。それでも良いでしょうか」
松本の口添えがあっても容赦はしない…それは、鬼の副長らしい忠告だ。
しかし松本も既に悟っていたのだろう。
「ああ。もちろんだ。あの男に自分の考えがあるように、お前らにも使命がある。それを邪魔する権利は、俺にはない。ただ…」
松本は居住まいを正して、二人に向き合った。その目はまるで患者に向き合った時のように真摯なものだった。
「殺すことになれば…俺に一報をくれ。俺はあいつに話したいことがある」
「…わかりました」
土方が受け取り、総司も頷く。松本は少し安堵したように微笑んで
「頼む」
と軽く頭を下げた。



353


カラリと晴れた日が続いていたが、ある日突然、雨が降った。蒸し暑い夏に降る恵みの様な雨は、しかし一方でじめじめと屯所に湿気を齎している。
「奈良…ですか?」
伊東の申し出を聞いた近藤は、少し目を丸くして驚いた。
「ええ。先日伺った奈良に浪士が潜伏しているという一件。宜しければお任せいただけないでしょうか」
この気候のなか、伊東は軽く扇子を仰ぎながらも涼しい顔をして続けた。
奈良に倒幕を企む浪士たちが潜伏しているらしい…その情報は昨日、会津から新撰組に伝わった。慢性的に人手不足の会津藩は新撰組にすべて任せるということだったので、奈良行きの人選を見繕っていたところだった。
「構いませんが…何も、伊東参謀自ら行かれなくとも」
困惑した近藤はちらりと土方の顔を伺った。土方も同意見だったので、軽く頷くと、伊東は微笑んで答えた。
「参謀は屯所の留守番…というわけではないでしょう」
「それはもちろんですが…」
「何か目的でも?」
土方は率直に訊ねた。伊東のペースに乗ると肝心なことを聞き出せないということは、半年ほどで実感していた。だから敢えて自分のペースで問いただす方が良い。
すると、伊東は扇子を閉じてゆっくりと口を開いた。
「…正直に申し上げると、入隊して以来、新撰組に功績をあげないまま参謀の座についていることが歯痒く思えてきたのです。このまま命を張ることもなくのうのうと呑気にしていいのかと…」
「そんな…!伊東参謀は学問も剣術も一流でいらっしゃる。隊士たちはみな、あなたを尊敬している」
「ありがとうございます。しかし、それもいつしか薄れてしまうでしょう」
近藤の称賛も、伊東は軽くかわす。華々しい過去の経歴はいつまでも伊東を持ち上げる理由にはならない。いずれ実績を伴わない彼の立場は危うい。伊東はそのことを自覚しているのだろう。
(だから、ここらで何か成果を上げようということか)
土方は伊東の意図を掴む。しかし腑に落ちない点もある。
彼は懇切丁寧に説明を続けた。
「それに私の腹心である篠原や富山、茨木なども己の立場に見合う仕事をしたい、己の腕を試したいと何度も申しております。奈良の一件は、池田屋のような大きな功績とはならないでしょうが、それでも解決した暁には彼らも満足して、これからの隊務に邁進することでしょう。どうか彼らの為にも、奈良行きをお任せいただけないでしょうか」
これと言った活躍のない、自分の部下たちに場を設けてほしい。伊東の真摯な願いに、かつて道場主として同じことを願っていた近藤が、絆されない訳がない。
「ええ、わかりました!」
二つ返事で了承し、
「そういうことだ、土方君」
と話を投げかけてきた。しかし近藤とは真反対の慎重な性格である土方は、少し間をおいて
「同行するのは、篠原君、富山君、茨木君…三人で宜しいのですか」
と訊ねた。
伊東の申し出た奈良行について反対するわけではない。会津でもそうであるように、新撰組も人手があるわけではないので、参謀自ら出動するのもたまには良いだろう。しかし、それが揃って伊東派か、最近入隊した者ばかりだというのが納得いかなかったのだ。
しかしそこは伊東も抜け目ない。
「加えて粂部君に同行してもらおうと思っています。彼は大坂出身で、奈良にも詳しいそうです」
「……」
「粂部君ですか。それはいい」
名前の上がった粂部は池田屋以前から入隊している。伍長も務め、信頼できる隊士でもあった。
何かの策か…そう思わないでもなかったが、粂部に含めておけば問題ないだろう。
「わかりました」
と土方は了承した。すっかり賛同してしまった近藤を押しのけてまで、反対する理由はない。すると伊東は口角を上げて「ありがとうございます」と笑ったのだった。


「奈良かぁ…いいなあ。あそこには大きな大きな大仏様があるんでしょう?一度行ってみたいと思っているんです。そんなに大きいならば、願いの一つや二つ叶いそうなものじゃありませんか」
総司は伊東たちの奈良行きを聞いて羨ましそうに声を上げた。傍では斉藤が呆れたようにため息をついた。
「遊びに行くんじゃないんだ」
「わかっていますよ。でもちょっと寄ることくらいできるでしょう?なんせ、この世のものとは思えないほど大きな大仏様だって聞きましたよ。本当にあるんですかね、見てみたいなあ」
羨ましい、羨ましいと繰り返す総司を諌めるように、斉藤は
「それで、目ぼしい隊士は?」
と話を変えて、訊ねた。
今日も今日とて西本願寺での境内では入隊希望者の試験を行っていた。新撰組の中でもそこそこ腕の立つ隊士が、希望者との打ち合いを行っている。才覚があるものはその後、総司や斉藤が相手をして腕を見極めることになっていた。
総司は境内に腰掛けて周囲を俯瞰して
「今回は…無し、ですかねえ」
と苦笑した。
今日の希望者は五人ほどだが、どれもこれも隊士たちに打ち負かされている。明らかに戦意を喪失している者や、傍から見ても剣術など身に着けていない粗野な者もいる。それに年齢も老いている者や、若すぎる者が多い。
「あとは話を聞いて、勘定方で使えそうな者がいたら拾ってもらえるかどうか、ってところじゃありませんか」
「相変わらず厳しい」
「昔からです」
いつもは呑気なくせに、剣術のことになるとことさら辛口になる。それで塾頭を務めていた頃は、総司の稽古を嫌がって出て来ない門下生も多かった。もう少し優しく指導しろと何度近藤に叱られたことか。
「でも、斉藤さんだって同じでしょう」
剣に生きる者なら、他人の腕前などどうでもいい。
その感覚はおそらく斉藤も同じなのだろうと総司は思っていたが、彼は「どうかな」と誤魔化した。
「じゃあ、目ぼしいひと、います?」
「いなくはないが、入ったところで今日明日には野垂れ死にしそうだ」
「だったら入れない方が良いでしょう。私と同じじゃないですか…いや、私の方が死ぬ前に諭してあげるんですから、優しいくらいじゃないですか?」
総司の返答に斉藤は「確かに」と軽く笑った。
彼は最近、少し気を抜いて笑うようになった気がする。時々思いつめた表情をしていたものの、それもなくなり柔らかくなった。
(あんな曖昧な答えでも…良かったのかな)
彼に対して明確な答えを渡したわけではない。けれど彼はどこかで納得をして、またこんな風に傍に居てくれる。
周囲に「明るい」と言われる総司だが、実は自分で友人と呼べる人は少ない。そんな中で斉藤の存在は貴重で、特別だ。
(その特別が土方さんとは違うけれど)
彼はきっとそれでもいいと思ってくれているのだろう。
総司はもう一度、試験を行う光景を見渡した。既に終わっている試合が多いなか、一人の男に目が留まった。
「……あの人」
「ん?」
「なんて名前でしたっけ。隊士の方です」
総司が指さした方向を見て、斉藤は目を細める。
「ああ…馬越、か」
「馬越君…」
「馬越三郎。入隊は大分前だ。確か野口が死んだとき、武田組長と共に頼越人を務めた」
「へえ…」
斉藤が教えてくれたもののあまり心当たりがない。関心が無い限りは隊士一人ひとりのことまで覚えられない。
しかし馬越の姿には惹きつけられるものがあった。それは剣術が優れているからではない。
「…彼、とても綺麗な子ですねえ…」
思わず総司が呟くほど、彼の容姿が整っていたからだ。一重の眼差しと色白で面長の顔立ちが上手く均衡が取れた彫刻のようだ。そしてそんな彼が剣を振るう姿がまるで若武者の舞に見えてしまう。
すると斉藤がふう、とわざとらしく大きなため息をついた。
「何ですか?」
総司が訊ねると「厄介なのに目をつけた」と斉藤は嫌そうに続けた。
「あれは見目が整いすぎている」
「整いすぎている?いいじゃないですか、山野君だってそうでしょう?」
「そういうことじゃない。山野は害がないが…馬越は変に、人を惹きつけるんだ」
「変?そう…ですかね」
総司はもう一度馬越を見た。すると確かに、まるで彼だけが輝いているようにも見えなくもない。
「それが何か問題でも?」
「問題だらけだ。…本当に知らないのか?馬越と、武田のことだ」
「武田…?武田組長のことですか?」
武田観柳斎は入隊は大分古く、剣術よりも軍術に長けた副長助勤だ。軍術と言っても西洋のそれではなく、甲州流軍学というもので、土方曰く「古臭い」ものらしい。昔の物語などを好む近藤は武田の話を面白がって聞くが、総司は難しい言い回しをして諂う武田のことが苦手だった。
「…馬越君と何の関係があるんです?」
総司にはあんなに人目に付く馬越と、どこか陰気な武田とは月とすっぽんに見える。共通点があるようには見えなかったが、斉藤は
「知らない方が良いこともある」
と、自分ら言い出したくせに曖昧に濁したのだった。



354


伊東の部屋に呼ばれた内海は
「決まりましたか?」
と、開口一番に訊ねてきた。伊東は満面の笑みを浮かべて満足げに頷いた。
「ああ。粂部君も了解をしてくれた」
「あなたも相変わらず抜け目ないですね。同行者が腹心の篠原や入隊時にこちらに恩がある富山君、共に入隊した茨木君では確かにこちらに偏ってしまう。そんな面子では土方副長は奈良行きを了承しないでしょう。…そこに粂部君を加えるとは…」
「粂部君は古参隊士だ。名前を出せば一発だったよ。近藤局長もすぐに了承された…まあ、それもまた土方君には抜け目なく見抜かれているとは思うが、彼も了解をしてくれたのだから、良しとしよう」
伊東の返答を聞いて内海は「では準備をしましょう」と早速行李を取り出した。こういえば本人は嫌がるだろうが、まるで女房のように気が利く男だ。
「ですが、また鈴木君が拗ねるのではないですか。この間の江戸行きも相当反対していたでしょう」
しかし、容赦なく弟の名前を出すところは彼の欠点か。伊東はふん、と吐き捨てた。
「愚弟をつれていく気はさらさらない」
「そうおっしゃいますが、鈴木君は貴方に似て剣の腕もある。十分、使える人材だと思いますが」
「その話は良い」
伊東は話を無理矢理切り上げた。内海は少し呆れたような顔をしたものの、伊東の気分を害す境界を越えるようなことは決してしない。言われたとおりに話を切り上げて
「わかりました。…それで、今回の奈良行きの目的はなんです?」
伊東の分の着替えをテキパキと折りたたみつつ訊ねる。伊東は途端、上機嫌に笑った。
「物見遊山だよ」
「…は?」
聞き間違いか、と内海が振り返る。しかし確かに伊東はやはり笑っていた。


カラリと晴れた初夏の暑さのなか、巡察を終えた総司は井戸で軽く汗を流して土方の元へ向かった。さすがに暑さに耐えかねたのか、開け放たれた部屋を覗くと土方は内輪を仰ぎながら手紙に目を通しているところだった。
「戻りました」
「ああ」
「特に何もありません」
「そうか」
いつもならこれで終わる報告だが、土方が手招きしてこちらに来いと総司を呼んだ。切羽詰まった様子はないので、世間話でもしていけ、ということだろう。総司は土方の傍で腰を降ろした。
「伊東参謀の奈良行きは明日でしたっけ」
「ああ。篠原、富山、茨木、粂部も同行する」
「腹心の篠原さんはともかく、他の三人はどうして選ばれたんですか?」
総司としては奈良に行けるのは羨ましいな、という世間話のつもりで尋ねたのだか、土方は思った以上に渋い顔をした。
「…富山弥兵衛は薩摩の出だ。入隊時に薩摩の間者かと俺は疑ったが、伊東が取り成して入隊させた。つまりは伊東に対して恩がある男だ。それから茨木は根が生真面目すぎるほど生真面目な性格で、筋を通して喋る理屈っぽい伊東のことを心酔している」
「…なるほど、二人は伊東先生に近しい人物ということなんですね。でしたら、粂部さんは?」
「粂部は顔色伺いだ」
「顔色?」
「古参隊士である粂部を連れて行くことで、伊東派ばかりをつれていくわけではない…ということを言いたいのだろう」
「へえ…」
少し不機嫌そうに顔を顰めた土方は、奈良行きのメンバーについては不承不承という具合だった。しかしそれでも許可を出したのは断る理由がなかったからだろう。
「まあ、なるようにしかなりませんよ」
起きてもないことを心配しても仕方ないし、悩んでも土方の眉間の皴が一つ増えてしまうだけだ。総司はわざと呑気なことを言って、「それよりも」と話を逸らした。
「松本先生に頼まれた件はどうなっているんですか?」
「ああ…」
かつての弟子を探してほしい…幕府御典医である松本にそう頼まれたのは数日前だが、あれから動きはない。土方は丁度手にしていた手紙を総司の方へ差し出した。細かく折りたたまれた文は監察からのものだ。
「もちろん、探させているが…難しい。名前も変えているだろうし、そもそもその男が京にいるのかどうかも分からない」
「松本先生は京にいるだろうとおっしゃっていましたから、そうなんだと思いますけど」
「…確かに、あの御仁の言うことだからな。何となく、信憑性があるが…それでも、顔がわかるのは松本先生だけで俺たちに出来るのは見当をつけるまでのこと…だ」
「困りましたねえ…」
総司は渡された手紙を土方へと返しつつ、
「でも松本先生だって、その人を見つけることがどれだけ難しいか、わかっていらっしゃるでしょうし、気長に待ってくれますよ」
と軽く笑った。すると土方は少し呆れたように息を吐き「呑気だな」と苦笑した。そして膝を立てて
「行くか」
と立ち上がる。総司もそれに続いた。
今日は山南の月命日なのだ。


支度をするから待っていろ、ということだったので総司は屯所にしている西本願寺の裏口へやってきた。通りかかった花売りに墓参りの為の花を求めて両手に抱えた。瑞々しい葉の色、名前はわからないものの良い香りのする白い花。きっと山南も喜んでくれるだろうと総司は上機嫌だった。
山南が亡くなったあとから続く、月命日の墓参りはもう数回続いている。どんなに忙しくても欠かさずに通う土方は、実は山南のことを親しく思っていたのではないかと、この頃思う。表面上では喧嘩ばかりで嫌味ばかり言っていたけれど、近藤の次に信じていたのは、頼りない自分よりも山南のことだったのではないだろうか。それをもっと早くにお互いに気が付いていれば良かったと後悔の念も少なからずあるだろうが、けれどもう振り返らないと決めた。振り返っても山南は帰って来ないのだから。
だから月の一度のこの日は、あの日の誓いを思い出すための儀式なのだ。
「…遅いなあ」
総司は裏口で待ち続けるが、土方がやってくる様子はない。そもそもなぜ表立って屯所を出て行かないのかといえば、それはもちろん土方が『山南の墓参りに行く』姿を見られたくないという彼らしい我儘なのだが。
「……ん?」
耳を澄ませると、ガサガサッと草木が揺れる音が聞こえた。それは風に揺れるような自然なものではない。もちろん野良犬や野良猫が屯所に入ってくるのは珍しくないが、そういう類の聞きなれたものでもない。
(賊か…?)
新撰組の屯所ともなれば忍び込んでくる不届き者がいないとは限らない。総司は両手に抱えていた花束を音を立てないようにゆっくりと足元に置いた。そして身体に緊張を漲らせ、刀に手を立てて音が聞こえたほうへ気配を消してゆっくりと近づく。
そろり、そろりと近づくと草木が揺れる音が大きくなるとともに人の声が聞こえてきた。それは小声で、言い合うような声。そしてそれはまた総司にとっては聞き覚えのある声だった。
(武田組長…?)
一対一で話をしたことはないものの、それは武田のそれに違いない。総司は緊張を解いたが、独特のねっとりとした声色はいつもより陰険な音に聞こえてくる。
総司は誰と何を話しているのか気になって聞き耳を立てた。すると武田の声とは正反対に、透き通った高めの声色が聞こえてきた。
「…武田先生、ここでは…止しましょう」
馬越三郎。
先日、斉藤に教えてもらった若い隊士だ。剣術の腕はまだまだだったものの、その容姿の整いっぷりに思わず見惚れてしまったのを覚えている。その彼は武田ではなく、試衛館の門人である井上源三郎の配下だったはずだ。
「ここには人など来ぬ。気にすることはあるまい」
「そう言うわけには参りません。何卒…ご容赦ください」
「おぬしが声を挙げねば良いのだ」
「先生…」
古風な物言いに、やはり相手は武田と馬越だと確信する。しかも武田の言葉や会話の内容から二人の関係は察することができた。
(斉藤さんが言いたかったのは、このことか…)
斉藤は二人の関係について曖昧に濁して詳しくは教えてくれなかったけれど、どうやら二人は男色の関係にあるらしい。総司は驚くと言うよりも納得した。彼が話したがらないわけだ。
だったら、もう聞き耳を立てる必要はない。二人の関係について詮索する気は毛頭ない。総司はそう思い、その場から逃れようとしたのだが
「ゴホン!」
と、離れた場所から大きな咳ばらいが聞こえてきた。その音は武田と馬越にも聞こえたのだろう、二人は急に息を潜めてその場から足早に離れて行った。二人がこちらに逃げて来なかったのは幸いだ…そう思いながら総司も元いた場所に戻る。その咳払いの主はまだやってこない土方だろうと思ったからだ。
しかし、それは総司の大きな勘違いだった。
「…鈴木さん」
そこに憮然と佇んでいたのは、土方ではなく伊東の実弟である鈴木三樹三郎だったのだ。



355


咳払いの主である鈴木は顔を顰めたまま腕を組んでいた。それは慌てて去って行った武田と馬越への冷たい視線…というよりも、それを覗き見していた総司への侮蔑の眼差しだった。
言い訳をするつもりはなかったが、
「…賊かと思い、様子を窺っただけですよ」
と、念を押しておく。鈴木が自分へ良い感情を持っていないことはわかっていたが、妙な思い込みをされるのも心外だった。鈴木はそれでもあまり良い顔をしなかったものの、納得はしたようで、「そうですか」と淡々と返答した。
鈴木との確執は初めて出会った頃からだ。総司からは特に悪い印象はなかったが、一方的に嫌われてしまい、山南の一件でそれが決定的になった。山南を追い詰める一因が彼にある…それを知った時は怒りに震えたが、明里のことをそれなりに思いやり、身請けしたのちも世話を焼いていると聞いてひとまずは怒りを収めることができた。
それからしばらく経ったが、彼との距離は依然開ききったままだ。
「…山南総長の墓参りですか」
しかし、今日は珍しく鈴木の方が会話を続けようとした。いつもは顔を見れば去っていくような間柄なので珍しいことだ。
「ええ…月命日ですから」
「土方副長もご一緒ですか」
「そうです。そういう習慣にしているんです」
総司が答えると、彼はさらに顔を渋らせた。
彼が総司を嫌う理由について、明確なものはわからないが、どうやら土方との衆道関係が気に食わないらしい。それは単純な生理的嫌悪以上の何かがあるようなのだが、総司にはわからない。しかし土方とのことを隠すつもりはなかった。
「いい気なものだ」
鈴木はそう言い捨てると、踵を返そうとする。総司は咄嗟に「待ってください」と引き留めた。
彼は足を止めて
「何ですか」
と訊ねる。
「…前にもあなたは…私と土方さんの関係について責めましたよね」
「……」
「別にそれについて思うところはありません。土方さんとのことは誰がどう思おうと関係ないと言い切れますから。でも、良ければ理由を教えてもらえませんか」
「理由?」
鈴木がぎろりと総司を見た。
いつも思っていた。彼の表情にはいつもどこか曇りがある、と。
「あからさまにそんなにも嫌われると、かえってその理由を知りたくなりました。まあ…話したくない、と言うのなら無理強いはしませんけど」
「……」
鈴木は何も答えようとはしない。しかし、その場を離れようともしない。しばらくの重たい沈黙の後、鈴木はそれまで睨み付けていた視線を他へと逸らす。
「あなたを見ていると…昔のことを思い出す」
「昔のこと?」
「閉じ込めたはずの過去を、無理やりにこじ開けられるような気分になる。だから、不快だ」
怒りを半分。
そして、悲しみをもう半分。
融和して混じりあった感情が鈴木の表情に複雑に現れる。
それが一体何なのか…彼の過去に何があったのか。
しかし
「兄上の支度の手伝いがあります」
鈴木は再び、その表情を凍らせた。これ以上話すつもりはない、と言いたげに再び総司に背中を向けて足早に歩き出す。だが、彼はすぐに立ち止まる羽目になった。
「…土方副長…」
そこに居たのは総司との待ち合わせにやってきた土方だった。すぐに鈴木は視線を落として「失礼します」と口にして、土方の横を通り過ぎていく。駆け足で、まるで逃げるかのように。
総司はため息をついた。
「何度も、何度も、何度も言いますけれど、盗み聞きは悪趣味ですよ」
何度同じことを繰り返したのか、と呆れつつ足元に置きっぱなしだった花束を拾い上げた。土方のことだから、鈴木との会話はちゃっかり聞いていたに違いない。
土方はひとまず「行くぞ」と裏口から屯所を出た。総司もそれに続き、北へと歩き始める。しばらく歩くと土方が口を開いた。
「あいつがお前を嫌っているということは、斉藤から聞いていた」
「そうなんですか?」
総司は鈴木とのことを土方に相談したことはなかったが、斉藤は察していた。彼が気を利かせて土方に話していたのだろう。
「ただの男色嫌いかと思っていたが…そういうわけでもないようだな。お前、何か気に障ることでもしたのか?」
「いいえ。むしろ、身に覚えがないから困っているんじゃないですか」
彼に対して失言をしたのなら謝ることができるが、そうではない。先ほど彼が口走ったことから察するに、どうやら彼の過去が関係しているらしい。
「過去…と言えば、伊東参謀も何かご存じなのでしょうか」
「あの兄弟のことは俺にはわからねえよ。藤堂曰く、伊東参謀は当初、実弟である鈴木と共に入隊することを酷く拒んでいたらしい。腹心の内海が間を取り持って、どうにか入隊を許されたようだが、兄弟仲が良いとは思えねえな」
土方は吐き捨てるように言ったが、総司は「そうですかねえ」と首を傾げた。
「確かに、傍目には距離がある兄弟に見えますけれど…何事にも動揺せずにまるで舞うように立ち振る舞う伊東参謀が、唯一人間らしい剥き出しの感情…『嫌悪』を向ける相手が、実弟の鈴木さんだということを考えると…単純に仲が悪いだけ、とは思えませんけど」
「へえ…お前にしては、なかなか面白いことを言うな」
「お前にしては、とは失礼ですね」
二人は壬生村に入る。しばらくまっすぐに歩き、屯所を構えていた八木邸を越えたあたりを東へ向かうと光縁寺がある。住職に挨拶をして奥にある山南の墓の前までやってきた。綺麗に磨かれた墓石は、住職によるものだけではなく、ここに引っ切り無しに訪れる隊士たちによるものだろう。供えてある花もまだまだ瑞々しい。
「そういうわけですから、土方さんは余計なことをしないでくださいよ」
「余計なこと?」
「監察に探らせたりとか…そういうことですよ。これはあくまで鈴木さんと私の問題なんですからね。それに今日は彼の本心をほんの少しでも垣間見ることができたんです」
そのうち彼が何かを話してくれるかもしれない。今日の出来事はそう期待できるものだった。
「…お前、あいつとなかよくしたいとか思っているのか?」
土方は呆れる、というよりも、単純に驚いた表情を見せた。人の好き嫌いの激しい土方は、嫌悪を向けた相手に歩み寄ろうという考えはない。土方からすれば、嫌われた鈴木対して再び好意を抱く可能性はゼロに等しいのだ。
総司は苦笑した。
「全然、思っていなかったんですけどね。さっきの言葉を聞いて…少し、知りたくなりました」
山南のこと。
明里のこと。
考えると、鈴木への印象は決して良くはない。けれど、
「山南さんなら、同じことをするだろうと思うんです」
あの人も決して、人を見捨てなかった。人には良い部分も悪い分もある。それを理解して丸ごと受け入れる懐の深さがあった。だから今でもこうして慕われているのだ。
彼と同じようにはできないけれど、できるように努めることはできる。
「…わかった。だが、何かあったらすぐに言えよ」
土方も理解してくれたのか、そう答えた。
「ええ、そうします」
総司は目を閉じて手を合わせた。
土方も同じようにする気配がした。


その日の夜。
「兄上、宜しいでしょうか」
鈴木は実兄である伊東の部屋を訪ねた。壬生の屯所にいた頃は離れでともに寝起きをしていたが、西本願寺に移ってからは各組それぞれに部屋が与えられたので、少し距離が遠くなった。
しばらく返答はなかったが、「ああ」と不機嫌そうな声が聞こえた。伊東は弟の来訪を決して喜ぶことはない。鈴木もまたそれを知っていた。ゆっくりと部屋の障子を開くと、既に明日からの奈良行きへの支度は整っていた。
「兄上…」
「くだらないことを口にするなら出て行きなさい」
兄に遮られ、鈴木はぐっと言葉を飲み込んだ。兄は弟が何を言うのか既に分かっていたようだ。
「何故、自分を連れて行ってくれないのか…お前が言いたいのはそんなところだろう」
「…篠原さんはともかく、どうして茨木や富山なのですか」
「彼らが活躍の機会を懇願していたからだ。奈良行きは絶好の機会だ」
「でしたら私も…」
「お前は組長だ。簡単に仕事を投げ出すんじゃない」
伊東の厳しい一言が心を貫いた。
兄の言うことが正論であることに間違いはなく、そこに私情を挟むことなど一切ない。血を分けた弟であってもそれは同じだ。
しかし、それが時々寂しい。
兄はまるで自分が弟であることを忘れたかのようだ。
「…ずっと、お尋ねしたかったことがあります」
「何だ」
伊東はこちらを見ることなく、書物に目を通しながら返答した。
「私のことが…お嫌いですか?」
特別扱いをしてほしいわけじゃない。
伊東とだからと言って甘やかしてほしいわけじゃない。
(ただ…兄上の役に立ちたい)
それだけなのに、それさえも拒まれる。違う名字である自分を、厭うかのように。
「……」
兄は何も答えないまま、書物を閉じた。そしてため息交じりに、ようやく鈴木の方へ向いた。
「そんなくだらないことに囚われてばかりのお前は…相変わらず、愚かだな」
「…っ!」
「下がりなさい。明日は早いんだ」
伊東は視線を再び書物へと戻す。まるで何もなかったかのように、まるでここに誰もいなかったかのように。
足先から、指先から凍り付いてしまいそうなほどの冷たさで。
「…失礼…します」
鈴木はそう口にするのが精いっぱいだった。




356


数年前のこと。
『…暇、だと?』
その申し出がまるで冗談のように想像できないものであったため、松本は思わず
『悪いが…俺の聞き間違いか?』
とその男に訊ねた。
しかし男は首を横に振って否定した。そしてまるで睨み付けるように松本の顔を見た。
『先生には大変お世話になりました。とても心苦しく思っています』
男は頭を下げて謝ったが、しかしその言葉は抑揚がなく固い。この男はこんなにも感情の起伏のない話し方をしていたのか疑いたくなるくらいだ。
これまで暇を申し出る弟子は多く、長く険しい勉学の日々に心を砕かれてやめていく者はたくさんいた。松本がその者達を引き留めたことは一度もない。人の人生は一度きり、医学の道が己の道ではないと気が付くのは早い方が良いとさえ思っていた。
しかし、今回は、彼に対しては違った。
『…俺はお前が医者なるのだと思っていた』
思わずそう引き留めてしまったのは、男は医者になるものだと信じていたからだ。一日も勉学を欠かさず、寝る間も惜しんで医学に実を捧げていた。誰よりも熱心に医者を志し、その能力も太鼓判を押せるほどのものを持っていた。松本自身も彼の努力を重ねる姿に惚れこみ、時間が許す限りは持てる知識をすべて彼に教えてきた。
彼はそれを捨てるのだと言う。それは松本を落胆させ、そして勿体ないと思った。それが松本の率直な感想だったが、しかし、男の決意は頑なだった。
『先生、私にはもう医学の道を志す理由がないのです』
『何故だ?』
『…それは、言えません。それを口にすれば先生をさらに失望させることになる』
男はそう断言した。
固く、強く、ゆるぎない決意を目の前に松本はそれ以上何も言えなかった。何を言っても彼の心に響くことはないのだと感じた。
そして同時に不思議に思った。
(この男は…こんな顔をしただろうか?)
鋭さを伴う険しい表情。怒りと悲しみの真ん中にある殺伐とした眼差し。それは今まで穏やかな目で患者と向き合っていた男のそれと同じものには思えなかった。
彼自身の中身が誰か他の別人と入れ替わってしまったのではないか。
そんな現実味のないことの方が、現実に思えるほど彼はまるで人が違っていた。
『…そうかよ』
理由がどうであれ少なくとも、この目はもう医者ではない。
まるで何かを殺さんばかりの決意と殺意を秘めたこの瞳を、患者の前に晒すわけにはいかない。
この男は医者失格なのだ、と松本は割り切った。いつまでも未練たらしく彼を引き留めたくはなかったし、彼も引き留められたからと言ってその決意を変えることはないだろう。
『もういい、出て行け』
もう会うこともないだろう。怒りさえ感じつつ、振り払うように松本は手を振った。男は刹那悲しげな顔を浮かべたが、もう一度姿勢を正して
『お世話になりました』
と告げた。そしてそのまま去って行った。振り返ることも、戻ってくることもなかった。
松本は後悔することになった。
何故、理由を訊ねなかったのか。
何故、彼は医学をやめてしまったのか。
何故、彼は…あんなにも恐ろしい眼差しをするようになってしまったのか。
その理由をずっと、知りたかった――。


伊東達が奈良へと経って数日が過ぎた。日差しは夏のそれに変わりつつある。
「清々しい」
土方が背筋を伸ばして彼らがいないことについて感想を漏らしたが、「おい、歳」と早速近藤に諌められる。その穏やかな光景をみて総司は笑った。
「まあ、その気持ちはわからないでもないですよ。伊東参謀の前では何だか上品に振る舞っていないといけない気がして」
「こら、総司まで何を言っているんだ」
近藤に叱られ、総司は「すみません」と舌を出しつつ謝った。しかしそれは本心に違いなく、無意識に伊東に対して気構えていたのだとわかる。
二人を見つつ近藤は呆れつつも大福を頬張った。
「全く…お前たちまで気が緩んでもらっては困るぞ」
「お前たちまで、ってのはどういう意味だ?」
「…目敏いな」
その大きな口で頬張った大福を飲み込んで、近藤は少し言葉を選ぶように続けた。
「まあ…その、隊内でも…気が緩んでいる者がいるというか。そういう光景を…見て、しまった…というか」
「光景ですか?」
言い淀む近藤は湯呑の茶を飲みほした。思い当たることの無い総司は首を傾げたが、一方で土方は大きくため息をついて
「もしかして、武田のことか?」
と指摘した。
「え?」
「…う、うむ…」
近藤は気まずい顔をした。
武田のこと…と言えば思い至るのは武田と馬越の関係だ。総司はあれ以来二人を見ることはなかったけれど、近藤の言いづらそうな様子を見れば、同じような光景に出くわしたのだろう。
「武田君と馬越君がその…まあ、人気のない所にいて…。まあ、俺に見られたと気が付いて逃げるように去って行ったが…それにしても…その、彼がそういう趣味だったというのは知らなかったなあ」
「俺は知っていたけどな」
「そうなんですか?」
「そうなのか?」
土方のあっさりとした言葉に、師弟ともども声を合わせて驚く。土方は近藤と総司の顔を見てやや呆れた表情をした。
「…武田のあの顔を見れば誰でもわかるだろう。隙さえあれば隊士を舐めるような目線で見てやがる…気色悪い野郎だ」
「その言い草だと、随分前から知っていたようだな」
「あいつが入隊していた時からきな臭いと思っていた。監察に調べさせれば一発でわかった」
「へ、へえ…」
「まったく、お前は…」
師弟の鈍感さとは正反対に鋭すぎる土方の感覚に、近藤と総司は脱力するしかない。武田が入隊したのは池田屋以前の、随分昔のことだ。土方が武田のことをことあるごとに忌み嫌っていたのはそういう理由もあったのだろう。
「ま、まあ、個人の趣向に口を出すわけではない。そういうのは任せているからな…しかし、相手が馬越君というのは…その、意外だったな」
「馬越君にもそういう趣味があるんですか?」
総司は土方に訊ねた。彼はきっと全隊士のことを把握しているに違いないと思ったのだ。しかし、土方は「さあな」と答えをはぐらかした。
「だが、何か起こってもおかしくねえ顔だとは思うが」
「確かに…そうですよねえ…」
隊内に整った顔立ちの若い隊士は沢山いる。松本が『顔で入隊させているのか』とからかいながら言っていたが、その通りの美男子は多い。
しかし、その中でも馬越は群を抜いていた。かつての宗三郎に匹敵するほどの容姿に加えて、剣を持てば男としての色も加わり、まるで吸い込まれるように魅入ってしまう。今まで何故彼ほどの際立った存在に気が付かなかったのかと不思議に思うほどだ。
「男ばかりの集団だ。男色が流行したことも少なからずあるが…あれ程に整っていれば、男色好きの武田君が惚れるのも頷ける」
馬越の容姿にはさすがに近藤も唸ったが、しかし土方は顔を顰めた。
「…近藤局長。俺たちの前では構わないが、そう言うことを他の奴らには言うなよ」
「ん?どうしてだ」
「誤解されるからだ。『近藤局長が馬越に惚れた』だの『馬越を特別に寵愛している』だの、言われたくないだろう」
「な…っ!当たり前だ!俺には江戸に残してきた妻と可愛い娘がいるんだからな!」
と、近藤は狼狽えて否定したのだった。


「あんまり関わるなよ」
近藤の部屋を出ると、土方は早速、総司に耳打ちした。
「関わるなって…武田さんのことですか?」
「違う。馬越の方だ」
「馬越君…ですか?」
意外な答えに総司は首を傾げた。てっきり男色趣味の武田に狙われないように…という必要のない心配をされているのだと思ったのだが、そうではなかったらしい。
「馬越君は源三郎さんの所の配下でしょう?私も最近まで彼のことは良く知らなかったし、今まで話をしたこともないし…むしろ関わるほうが難しいですよ」
「そう言うことじゃねえんだよ。馬越は…あいつは、人を惹きつける」
「…」
『馬越は変に、人を惹きつける』
そのセリフには聞き覚えがあった。
理由については明確にはしなかったものの、斉藤も馬越のことについて同じように述べていた。二人が似たようなことを口にするのはいつものことだが、そういう時は大抵、何か起こる。
総司の脳裏に馬越の姿が浮かんだ。
彼は際立って整っていて…まさに妖艶、という言葉が相応しい。誰も彼もの視線を奪い、引き込む。武田が特別というわけではない。少しぞっとするほどのあの瞳は総司の記憶に焼き付いている。
「…わかりました。今はとにかく馬越君のことよりもやることがありますしね」
「ああ…そうだな」
総司はひとまず馬越のことを心の隅に置いた。
しかし、それは正しい判断ではなかったのだと、後に気が付くことになるのだった。



357


風が吹いている。
様々な声の混じりあった風が、音が、目の前を流れていく。時代が動いたのだと誰かが叫び、日本はどうなってしまうのだと誰かが嘆き、そして今こそ、と立ち上がる誰かがいる。
いま、激動の時代に生きている。
その実感を持ちながら、しかしそれを掴むことすらできずに、自分は病の床に伏したままもどかしい気持ちを抱えていた。
病は急に発症した。元気だったはずの身体が、一日一日を経るごとに衰えていく。それは確実に死につながっていた。まるで少しずつ、少しずつ病に閉じ込められていくようだ。
「無理をしないほうがいい」
苦しむ自分を見かねて、親友がそう言ったが、
「身体を起こしてくれ」
と頼んだ。親友は「やれやれ」と言わんばかりの表情を浮かべたが、言うとおりに背中を支えて上半身を起こしてくれた。
部屋の中に風が通り抜けた。横になっている方が身体は楽だが、起こしていると気持ちが少しすっきりして余裕が生まれる。
「なあ…黒船は、どうなったんだ?」
「…またその話か?」
「聞かせてくれよ。部屋の中にいると不安なんだ。もう既にメリケンの奴らが日本を闊歩しているんじゃないかって…」
この部屋を出て、この家を出ればまるで世界が変わってしまっているんじゃないか。見たこともない言葉を操り、見たこともない服装に身を包んだ異国人が我がもの顔で支配しているんじゃないか。
自分だけが置いて行かれているんじゃないか…そんな不安を漏らすと、親友はいつも笑う。
「そんなことあるわけないよ」
と。
その言葉に少しの安堵を覚えて、また視線を外に向けた。
皮肉なほどに澄み渡った青空が広がっている。病のせいで身体が思うように動かずに、地面に這いつくばるしかない自分を見下ろす。
「…お前は、西洋医学を学んでいるんだよな…」
「……」
吐き捨てるように訊ねると、親友は困った顔をした。
憎むべき異人達の西洋医学。今は江戸に西洋医学所ができて、親友はそこで未知の医学を学んでいる。もともと彼は頭が良く、医者になりたいと話していたが、まさか実現するとは思っていなかった。
「…西洋人から学んでいるわけじゃないよ。松本良順先生という西洋医学を学ばれた立派な先生がいるんだ。その方に…」
「俺たちの敵の学問だ…!それを…っ、ゲホッ!ゴホッ!」
彼の言葉を遮って叫ぶ。しかし、言葉の途中で咳き込み、前かがみになると親友がすかさず背中を摩った。病の宥め方を心得た親友は、こういう時になると医者の顔を見せる。彼が本当に医者の卵なのだと実感する。
それに比べて自分は、いつまでも病に侵されているばかりだ。
「やっぱり、横になったほうが良い」
親友にそう諭されて大人しく従った。痰が絡むと呼吸が苦しくなって、このまま死ぬんじゃないかと頭が真っ白になる。そしてたとえまた息を繰り返すことができたとしても、また同じような目に遭うのではないかと…脅える。どんなに強気なことを口にしても、身体の痛みを誤魔化すのはもう難しくなってきた。
「…なあ…」
「何だ?」
「俺…いつ、死ぬんだろうな」
弱音を吐くと、彼の表情が歪んだ。少し目を泳がせて、躊躇って、言葉を選んで
「そんなことを…考えるな」
そう言って布団を掛けた。
医者だから彼も分かっているだろう。この命の終わりが、いったいいつ頃なのか。
けれどこんな風に時折弱音を吐いてしまう自分と違って、彼は何も言わない。どれだけ医学の勉強が忙しくても愚痴ひとつ零さず笑顔を絶やさない。
昔はこうじゃなかった。体格が細身で一見女々しく見える彼はいつも弱音を吐いて、こちらが慰めていた。
それが逆転したのは
(俺が…病に倒れてからだ)
彼はそれから医学の道に邁進し続けた。言葉には出さないが、自分のこの病を治したい…彼はそう思っているのではないだろうか。真新しい西洋医学に飛び込んだのも、この病に打ち勝つ術を探しているからではないだろうか。
彼の健気な気持ちが嬉しい。
けれど、その一方でその気持ちに応えられないのが口惜しい。
「なあ…」
「何だ?」
親友へと手をのばすと、彼は手のひらを重ねた。
「俺の…遺言だ」
「ば…馬鹿なことを、言うなよ」
「いいから…聞いてくれ。身体がまだ動くうちに…お前に伝えておきたい」
力の入らない指に精一杯の力を込めて、彼の手を握りしめる。すると彼も覚悟を決めてくれたのか、もう片方の手を重ねた。
「俺の…志を継いで…いや、違うな…志を、覚えていてくれ」
「志…?」
「ああ…俺は異人が許せない。だから、俺の志は尊王攘夷…この身体さえ自由になれば、今すぐにでも…京に上り、この国の為、御上の為、この身を賭けてお役にたちたい…!」
この想いはちっぽけだ。
それに、きっと叶うことはない。
だから
「…そう…本気で想っているどうしようもない男が、ここに居た。…お前はそれを…忘れないでくれ」
お前だけは覚えていてくれ。
ここから、この世からいなくなったとしても、この志だけは置いていきたい。彼の心のなかだけだったとしても、この想いが残るならそれが叶うなら何もいらない。
親友はうっすらと涙を浮かべた。そして何度も頷いて「わかった」と繰り返し、
「わかったよ、三郎」
と名前を呼んだ。
別れの日は近い。
涙もろい友を置いていくのは気がかりだが、この身体の限界は訪れようとしている。



「なあなあなあ!聞けよ!どうやら、馬越の方が別れを切り出したらしいぜ?」
誰からともなく聞いてきた噂話を持ってきたのは原田だった。上機嫌で話す原田に対して、顔を顰めたのは永倉と藤堂だ。
「まったく…そんな仕様もない話、誰から聞いてきたんだ」
「そうですよ。いいじゃないですか、当人同士の問題ですよ」
「ったく!ノリが悪ぃなぁ!そう思わねえか、総司」
「は…はあ」
馬越とは関わりを持つまい…と土方の忠告を受け、そう思ったばかりだと言うのに原田は総司に話を振る。総司は返答に戸惑い、首を傾げるしかない。
しかし話足りないのか、原田は饒舌に続けた。
「まあ、馬越の方はよりどりみどり、男は選び放題だろうけどな、生粋の男色好きの武田は人生で最上の男を捕まえて、天にも昇る気持ちだったはずだよなあ!それを振られちまったら、追いすがりたくもなるって!」
「原田さん、言いすぎですよ」
年下の藤堂に窘められるが、原田の話は続く。
どうやら馬越は武田との関係を秘しておきたかったものの、武田が得意顔で言いふらしたため愛想が尽きたらしい。原田の話なので、それが本当かどうかはわからないが、彼の知るところになった話は二、三日中に隊内に広まるだろう。
(これはまた…土方さんの機嫌が悪くなりそうだ)
冷めた茶を啜りつつ、総司は内心ため息をついた。
ただでさえ土方が嫌っている武田が、若い隊士を追い回しているなんて知れば、理由をこぎつけて切腹でも申し付けそうなものだ。武田が一隊士なら影響は少ないが、組長が切腹ともなれば隊の規律に関わる。
(何とか…収まればいいけれど)
こういう時に山南がいてくれれば、間を取り持ってくれただろう。
いつまでも居なくなった人への想いに苛まれるのは良くないとは思いつつも、そう思わずにはいられない。自分が思った以上に、山南のことを頼りにしていたのだと思う。
いまだに原田の噂話で盛り上がる三人を横目に、そんなことを考えていると
「失礼いたします」
と突然、凛とした声が響いた。
「ま…馬越君」
声の主は噂の的である馬越だ。腰を落とし、ほっそりとした横顔は一瞬で男女の見分けがつかないほど中性的だ。伏せた瞳の睫毛が長いのが良く目立った。
「…よ、よう。どうしたんだ、珍しいじゃねえか」
先ほどまでベラベラと馬越の噂話をしていた原田は、居心地が悪いのか視線が泳いでいる。おそらくは馬越の耳には入っていたのだろうが、彼はそんな気配を微塵も感じさせずに首を横に振った。
「ご歓談中に申し訳ございません」
「いやあ…構わないが、何か用か?」
永倉が訊ねると、馬越は落としていた視線を上げて総司の方を見た。
「沖田先生に…ご相談がございます」
「え?わ、私…ですか?」
馬越は原田、永倉、藤堂、といるなかで総司を指名した。組下でもなく、話をしたこともない。そんな総司に何の相談があるのか。しかし
「おうおう!総司か、ちょうどいい相談相手じゃねえか!」
原田が適当な返答をしてしまい、総司の背中を押す。彼のどうにか場を誤魔化したいという気持ちが見え隠れするのだが、
「沖田先生、宜しいでしょうか?」
馬越がその切れ長の瞳で尋ねてくる。彼は浮世離れしていて、どこか歌舞伎役者のように見えた。戸惑いはあるが、断る理由はない。
「構いませんが…じゃあ、場所を移しましょうか」
「ありがとうございます」
丁寧に頭を下げた馬越に「行きましょう」と言って部屋から出る。
『馬越には関わるな』
土方の忠告が頭をよぎったが、話すだけなら構わないだろう…と、そんな言い訳を考えた。


358


馬越は良く目立つ。
今まで総司の目に入らなかったのが不思議なくらいで、屯所を二人で歩けば周囲の注目を集めた。原田が流布していた武田との噂のせいかもしれないが、その理由の大半は馬越の容姿にあるだろう。
「…場所を変えましょうか」
彼の相談の内容はわからないが、屯所での会話では誰かに聞き耳を立てられそうだ。総司が提案すると馬越も頷いて同意し、二人は屯所から出た。行く当てもなくぶらぶらと歩き始めると、馬越が口を開いた。
「申し訳ありません。沖田先生には良い迷惑ですよね」
しおらしく声を落とした馬越だが、その語尾にさえも冴えわたる品の良さを感じた。
「いえ…ただ、私が馬越君の相談相手として相応しいとは思えませんけど。馬越君は私の組下ではないし、口をきいたこともほとんどないでしょう。組長の源三郎おじさんの方が気が利く答えが得られると思いますけど…」
「そうですが…」
「…まあ、そんな私でも良ければお話は伺いますよ」
総司が微笑むと、馬越はほっと安堵した表情を浮かべた。彼も自分の容姿のことや噂のことは勘付いていて、迷いつつ総司に声をかけてきたのだろう。
「馬越君は甘いものは好きですか?この先に私の行きつけの甘味処があるんですけど、良かったらそこへ行きましょう」
「はい」
総司の誘いに馬越は嬉しそうに顔をほころばせた。その整った顔立ちのせいで人を寄せ付けない雰囲気があったけれど、笑うと彼はまだ若いのだと実感した。
そうしてようやく空気が和み、雑談を交わしつつ歩き進めたところで
「どこへ行く」
と声を掛けられた。
聞き覚えのある声に振り向くと斉藤がいた。
「甘味処ですよ。今日は相方に馬越君をお誘いしたんです」
「ふうん…」
総司はさらりと答えたが、斉藤はとあまり納得していないようだった。組下でもない馬越と二人きりで出かけるのは、おそらく誰が見ても不思議に思われるだろう。しかし、変に勘ぐられては相談事があると持ちかけた馬越が困ると思い「じゃあ」と、あっさり別れを告げる。
しかし、斉藤は
「俺も行く」
と言い出した。総司はぎょっとした。
「な、なんで斉藤さんが?行くのは甘味処ですよ。斉藤さんは甘いものはお嫌いでしょう」
「別に嫌いではない。たまには食いたい時もある」
「またそんな屁理屈みたいな…」
「屁理屈も理屈のうちだ」
「そういうことを言っているんじゃなくて…」
困る総司に対して斉藤にしては珍しく食い下がる。おそらくは土方と同じように何かを勘付いているのだろうと思うが、
「いいですから、またの機会にしてくださいよ」
と頑なに断った。
それでも斉藤は表情を変えずに固持するので困っていると
「構いません」
と今度は馬越の方が折れた。
「馬越君、でも…」
「誰にでもするご相談事ではありませんが、副長助勤である斉藤先生になら構いません」
戸惑いは隠せていなかったものの、それでも馬越は受け入れた。
「悪いな」
「いえ」
斉藤と馬越は短いやり取りを済ませて歩き始める。
総司は大きなため息をついたのだった。


行きつけの甘味屋に到着した三人は、奥の間の席に付きすぐに注文をした。総司と馬越は餡蜜を注文したが、斉藤は茶を頼んだだけだった。
(甘いものを食べたい時もあるって言っていたのに…)
あっさり手のひらを返す斉藤を恨めしく思っていると、
「早速なのですが…」
と、馬越が切り出した。
「相談事…ですか?」
「はい。その前に…沖田先生に今一度、ご確認をしたいことがあります。もしかしたら、とても失礼な質問になってしまうかもしれないのですが…」
「何ですか?」
前置きをしつつ、言葉を選びつつ…馬越は声を潜めた。
「沖田先生と土方副長が…衆道の関係だと言うのは、本当ですか?」
「えぇ?!」
馬越が声を潜めたというのに、総司の方は大きな声を上げてしまい周囲の注目を浴びてしまった。
「な、なんでそんなことを…?!」
「いえ…その、もし本当にそうだとしたら私の相談にはご理解を頂けるのかと思って…不躾な質問で、ご不快にさせてしまったら申し訳ございません」
丁寧に謝る馬越に「そんなことはないですけど」と総司は慌てて手を振りつつ、ちらりと斉藤の方を伺った。
無表情に輪をかけて不機嫌になってしまっている。
(参ったなあ…)
肯定すればさらに斉藤の不機嫌を加速させ、否定すれば馬越の相談事を聞かせてもらえなくなるだろう。
(でも斉藤さんは勝手についてきたんだし)
彼を気遣う必要もないだろう。
総司は仕返しのつもりで
「馬越君の言うとおりです」
と肯定した。斉藤はむっとした様な気がしたけれど嘘ではないのだし、隠す必要はない。すると馬越はほっと安堵の表情を浮かべて、話し始めた。
「おそらく既に先生方のお耳に入っているのではないかと思いますが…私と、武田先生の件です」
「…衆道関係、なのでしょう?」
「そうです…今までは」
馬越が目を伏せたとき、丁度看板娘が餡蜜二つと湯呑を持ってやってきた。娘は馬越を見てやや目を見開いてまじまじと見ていた。女の目から見ても彼の容姿は目につくのだろう。やがて他の客に呼ばれてしまい娘は後ろ髪をひかれつつ去って行った。
「今までは、ということはその関係は既に終わったということか?」
それまで話に加わらなかった斉藤が馬越に訊ねた。彼は頷いた。
「もともと…私は積極的に武田先生と関係を持ったわけではありません」
「じゃあ何か目的があったのか?」
「ちょっと斉藤さん」
あまりに直接的すぎやしないか、と思い斉藤を止めたが馬越は「構いません」と首を横に振った。
「目的は…失礼なお話ですが、武田先生を盾にしました」
「盾…とは?」
「自分の容姿については自覚をしています。いくら鍛錬を重ねても立派な男らしい体格にはならず、親の血でしょうか、自分自身が女々しい見目だということは重々承知しているつもりです」
淡々と話す馬越はまるで自分のことというよりも、人のことを話すような口調だった。彼自身は自分の容姿についてはある程度の諦めがあるということなのかもしれない。
馬越は続けた。
「入隊前からも、また入隊を果たしてからも自分が衆道の対象として見られるということはわかっていました。だからこそ、沢山の男の慰み者にされるくらいなら、隊内で力を持つ方を相手にした方が良いと思い、もともと衆道の気があった武田先生の相手を勤めていた…ということです」
「そういうことでしたか…」
総司はそれまで儚い見目をした弱弱しい青年かと思っていたが、彼の内面はそうではなく柳のようにしたたかだった。自分の身に降りかかるであろう災難を天秤に乗せて、軽い方を取っていた。武田との関係はまさに保身の為ということだったのだろう。
「では、何故武田との関係を終わらせた?」
さらに斉藤は淡々と訊ね、馬越は即答した。
「必要ないと思ったからです」
「…必要ない…?」
その答えが、その口調が、まるで馬越のものだとは思えないほどにあっさりとして、冷たい物言いだったことに総司は少し驚いた。しかし馬越はその口元に笑みを絶やさない。
「武田先生のお力を借りなくとも良いと思ったのです。私はもう二十歳を過ぎ、衆道の世界で考えれば終いの年です。それに隊内でも稽古をつけていただき、それなりに剣の腕も上達したつもりです。ですから、もう武田先生の後ろ盾は必要ないと思ったのです」
「なるほど…」
総司は圧倒された。馬越の割り切った言い分を、彼に熱を上げている武田が耳にすれば卒倒しそうなものだ。
(あの時は別れ話をしていたのか…)
鈴木と共に目撃したあの場面は二人の逢引ではなく、馬越が武田を拒んでいる場面だったということだ。近藤が見たというのも、武田が自分から離れて行こうとする馬越を引き留めようとしていたところだったのかもしれない。
「それで、私に相談というのは?」
これまでの話の流れからは、自分と馬越との共通点は衆道のみだ。まさかここまで自分の目的を暴露したあとで、今度は総司にその相手になってほしいとは言わないだろう。
すると馬越は困った表情を浮かべた。
「自分で蒔いた種だとは思うのですが…武田先生が私との関係を終わらせてくれないのです」
「それはそうだろう」
斉藤はあっさりと肯定する。しかし総司にもそれは想像がつきそうなことだった。
「近頃では度が過ぎて、私のあとを嗅ぎまわったり、待ち伏せをしたり…いまはどうにか堪えているのですが、いつか…私闘になるのではないかと危惧しています」
「それは…」
私の闘争を許さず。
局中法度にも記されている文言だ。
馬越は居住まいを正し、総司の方へ向き直った。
「無理を承知でお願いいたします。どうにか、土方副長から武田先生へ一言…ご忠告をいただけないでしょうか」
「忠告…ですか?」
「今のままでは、いつ私がこの鞘から刀を抜いてしまうか…わかりません。どうかその前に…」
「……」
総司は馬越の意図をようやく飲み込んだ。
衆道関係に理解のある総司なら、土方へと話を通して、武田に忠告をしてくれるだろうと踏んだのだろう。今のままではいつ自分の堪忍袋の緒が切れて武田を斬りつけてしまうかわからない。あらかじめ私闘を防ぎたいというのは馬越の希望だろう。
総司はちらりと斉藤を伺った。彼は無表情のまま視線を落として腕を組んでいた。
彼の言い分が全くを以て正しいと言い切れるかは難しい。もともと利害関係で一致していた衆道関係を一方的に破棄したいと願ったのは馬越の方だ。それを一人で始末がつけられずに、上司に懇願するのは筋違いなのかもしれない。
けれど武田の性格を考えれば、馬越が一人で片をつけるのは難しいだろうし、あらかじめ私闘を防ぐのも必要なことかもしれない。
「…ひとまず、土方さんに相談してみます」
的確な答えが出ず、総司は曖昧に濁したのだった。




359


すぐに巡察があるということなので馬越を先に屯所に戻らせて、総司と斉藤は甘味処に残った。
好物の餡蜜を食べ終え、斉藤が二杯目の茶を飲み終える頃、
「どう思います?」
総司は斉藤に訊ねた。
彼は少し間をおいて、「意外だった」と一言答えた。しかし、馬越に対して総司も同じ感想を持っていた。
「あの外見の割に、とても大人びているというか…賢いですよね」
「狡賢い、ともいえる」
「穿ちすぎですよ」
総司はそう指摘したが、斉藤は「そうでもない」と軽く首を横に振った。
「池田屋の頃、武田は桝屋を捕縛した功績もあり近藤局長から信頼されていた。文学師範も務めて、自分の学んだ軍術を嬉々として隊士に教えていたが…今はあまりにも時代遅れな内容に次第に隊士達からの人気も下がり武田の権威も落ちている。そんな状況だからこそ、馬越が自分の後ろ盾にならない武田を切った…そう考えれば、馬越は賢すぎるともいえる」
「彼なりの処世術じゃないですか?あの外見なら、今まで嫌な思いもしたのかもしれないし…」
「えらく、あいつを庇うんだな」
斉藤が少し呆れたように笑ったので、総司もつられて苦笑した。
「庇っているつもりはないんですけど…私もあの見た目にちょっと圧倒されているのかもしれませんね。…それはともかく、このことを土方さんに伝えるべきか否か…」
「伝える必要はないだろう」
総司は深く考えていたのだが、斉藤は意外なことにあっさりとそう答えた。
「どうしてですか?」
しかし、その答えは明確なものだった。
「すでに知っているに決まっている」


馬越が甘味処から屯所に戻ると、門番たちと話し込む武田の姿があった。話し込む、と言ってもおそらくは武田が一方的に自説を解いているだけで門番たちは面倒そうに相手をしているようにも見える。その光景を見るや馬越は内心、大きなため息をついた。
(私を待っていたに違いない…)
武田はあくまで偶然を装っているつもりだろうが、馬越が足を運ぶ場所すべてにその姿を見せられてはさすがにウンザリしてしまうのは当然だろう。最初は愛想程度に相手をしていたが、さすがに我慢も限界だ。
「ただ今戻りました」
馬越は武田を無視して、門番たちに軽く挨拶をし、西本願寺の門をくぐる。しかし武田は
「ま、馬越君」
と追いすがってきた。
「…何でしょう」
「ちょ、ちょうど良かった、話がある」
「話なら散々したはずです」
「まだ話足りないことがある」
「…先生…私は」
武田との押し問答になったところで、ふと門番の隊士たちが目に入った。彼らは二人のやり取りを嘲笑を含んだ表情で見ていた。今や武田と馬越の関係を知らない者はいない。痴話喧嘩だと思われているに違いない。
(ここで言い合いになっても仕方ないか…)
妙な噂や憶測が流れる前に、場を改めた方が良さそうだ。
「先生、ここでは何ですので…」
「あ、ああ。そうだな!」
馬越の申し出を聞いて武田の眼差しに期待が宿ったのが見て取れて、複雑な気持ちになった。
もともと男色家であった武田に目をつけて、自分の保身に走ったのは馬越の方だ。幸いなことに武田は馬越を大層気に入り、馬越が望むことすべてに答えた。ある意味純粋な気持ちで自分に接してくれた武田に対し、罪悪感がないといえば嘘になる。
(でも…もう十分だ)
今、彼の存在は自分の足枷になってしまう。彼と共に身を滅ぼすことはできない。
(私には…目的があるのだから)
人通りの少ない西本願寺の裏手にやってきたところで、馬越は決意を新たにする。そして武田に向かいあったその瞬間、
「…っ!」
油断していたところを強い力で押されて、馬越は壁で背中を強く打った。間近には息を荒くして迫る武田の姿があった。
文学師範を勤める武田は剣の腕では目立たないと思われがちだが、他の組長と比べて劣っているというわけではない。馬越のように剣術を始めて間もない者は簡単に組み伏せられてしまう。
「先生…」
「何が望みだ?」
「…何の…ことですか」
武田は必死の形相で馬越を問い詰めた。
「何か不満があるから別れようなどと言うのだろう…?」
「先生…」
「ついこの間の夜まで私に従順だったじゃないか。嫌な顔一つせずに夜を明かしていたというのに…お前は腹の中で私と別れることを考えていたのか…っ?」
悲しみと慟哭、裏切られたという憎しみ…様々なものが混じりあい、武田の瞳に宿る。それには狂気の片鱗さえ見えて、馬越は息を飲んだ。
「言え…!お前の為なら何でも叶えてやる」
「…」
彼の深く、狂おしいほどの愛情に触れて馬越も少し気が緩みそうになる。これほどまでに思われているという事実に悪い感情は無い。しかしその一方で客観的な視点で、武田を見下す自分がいた。
(何でも…なんて、できないくせに)
人間に出来ることには限界がある。
どうしても叶わない願いはある。いや、むしろそんな途方もない願いの方がこの世の中に溢れているというのに。
「何でも叶えてくださると言うのなら…私と、お別れをしてください」
「…なに…?」
その『願い』を耳にして、馬越を押さえつけていた武田の力が緩む。馬越はその一瞬を見計らって、武田の拘束から逃れた。
「何でも叶えてくださるのなら、そういう願いだって構わないでしょう」
「三郎…」
「…私は、先生のそういう浅はかな考えにはついていけないのです」
斬られるかもしれない。
そのセリフを口にした時、馬越はそう覚悟した。今まで隊士たちに持て囃され、尊敬される立場にあった武田にとってこれは罵倒に等しいからだ。
そして案の定馬越の言葉に、武田の表情が変わる。
「何だって…?」
「何度も申し上げたくはありませんが、先生には私の願いを叶えることなどできません。そして私も先生の願いに応えることはできないのです」
武田がわなわなと震えながら、その手を左の腰骨に伸ばした。カチャリという金属音が聞こえたときはやはりこのまま斬られるのだと思った。
男との痴話喧嘩の末に斬り伏せられた、などという死に際は決して望ましいものではないが、しかし今まで武田を利用して盾にしてきた自分への報いだと考えればそれも仕方ないと思えた。
しかし、その刀は抜かれることはなかった。
「何をしている」
厳しい声が二人の間に響いた。武田は慌てて刀に伸ばしていた手を引っ込める。
「これは…土方副長」
そこに現れたのは副長の土方だった。腕を組み、不遜な表情でこちらを不愉快そうに見ている。武田はまるで何事もなかったかのような作り笑いを浮かべて、
「何かございましたでしょうか?」
と訊ねた。私闘は法度により禁じられている。破れば切腹…それは骨の髄まで沁み込んだ新撰組の堅い掟だ。
「此方が聞いているんだ」
「え…ええ、少し馬越君と話を。…なあ、馬越君」
権力に弱い武田への嫌悪感は募ったが、「はい」と馬越は答えた。もっとも、二人が言い争っていたことなど土方にはお見通しだろうとは思った。
(どんなお咎めを受けるのか…)
馬越は息を飲んだが、土方は意外にあっさりと「そうか」と流した。
「このような陰気な場所でどんな話をしていたのかは知らねえが…少しは周囲の目を考えろ」
「は…はい、ご忠告痛み入ります…!」
武田は深々と頭を下げて馬越の前を去っていく。去り際に馬越へ向けた眼差しは、決して諦めがついたという様子ではなかったが、今よりは頭を冷やしてくれることだろう。
その場に残された馬越は
「失礼します」
と、土方に軽く挨拶をしたが「待て」とすぐに引き留められた。
「…何でしょうか」
馬越にも多少の緊張が走った。土方の周囲にはいつもぴりりとした空気が漂っていて、近寄れば近寄るほどそれを直接的に感じるのだ。
「お前の国はどこだ?」
「国…ですか?」
漂う雰囲気にそぐわない、意外な質問だった。拍子抜けしつつ
「…阿波ですが…」
と答える。土方は「ふうん」と聞いているのか、聞いていないのか、よくわからない返答した。
「あの…それが、何か?」
「阿波から、何故、京に出てきた?」
「それは…新撰組の噂を、耳にしたからです。尊王攘夷の志を遂げたいと思っています」
それは入隊時にも口にしたはずだ。入隊して一年ほど経つ自分に何故そんなことを問いかけるのか、馬越にはわからない。
しかし土方はその理由を教えずに
「そうか。じゃあいい」
とあっさりと踵を返してしまう。馬越は慌てて引き留めた。
「土方副長、あの、何か…?」
切れ者の副長だからこそ、その質問には何か意図があったはずだ。すると土方は足を止めてその表情を変えずに、淡々と告げた。
「お前の言葉には江戸の訛りがある。江戸の人間ではないかと思っただけだ」
馬越はドキリとした。
まるで、すべてを見抜かれているような気がして。
「……江戸には、剣術の修行で何年か住んでいました」
そんな咄嗟の言い訳も、土方には通じないのではないか。そう思ったが土方はそれ以上は聞かずに、去って行ってしまった。
ぽつんと一人残された馬越は、背筋が凍るような震えに包まれた。
(何か…疑われている…)
もしかしたら自分が、阿波という国に行ったことがないことすら、知られている気がした。



360


遠くで蝉の鳴き声が聞こえてくる初夏になった。総司が近藤の部屋を訪ねると、ちょうど土方もいた。
「へえ、伊東参謀からお手紙ですか」
何の気なしに総司は奈良の伊東から届いたという手紙を受け取った。総司は伊東の筆遣いを初めて見たが、その身形に相応しい達筆で優雅なものだった。難しい文字の羅列を読み進めていくうちに、何故近藤が困惑し、土方が不機嫌そうにしているのかが窺えた。
「どういうことなんですか、これは…?」
総司は首を傾げた。すると近藤はため息交じりに答えた。
「浪士捕縛の為に奈良に向かい、当初の目的通り見事に長州藩士を捕縛したそうだが…伊東参謀のお考えで、その者を留置してはどうか、と書かれてある」
「留置して、どうするんですか?」
「逆に利用して新撰組の間者として長州に戻す…そういうことだ。伊東の考えそうなことだ」
土方が不機嫌そうに吐き捨てると、近藤は「歳」と諌める。
「俺は悪くない考えだと思う。将軍がご上洛され、また不穏なことを企む浪士が京に集っているという噂も聞いた。情報網は多い方が良いだろう」
伊東の考えを擁護する近藤にさえ、土方は睨み付けた。
「馬鹿なことを言うな。その間者が伊東の意のままに操られるということだってある。その真偽を確かめないうちに、せっかく捕縛したものを放逐などできるか」
「お前はまたそういうことを言う。伊東参謀が何をしたというんだ、我々の仲間であり、同志だ。何でもかんでも疑ってかかるんじゃない」
「何でもかんでも疑っているわけじゃねえ」
「じゃあ何か疑う根拠でもあるとでもいうのか?」
「勘だ」
「全く、子供みたいなことを言うんじゃない!だいたい、お前は昔からそうやって…」
「ま、まあまあ」
二人がまるで試衛館にいた頃の様な言い合いを始めたので、総司は慌てて止めた。新撰組の局長である近藤と、鬼と呼ばれる土方が子供の様な喧嘩をしては外聞が悪い。
近藤は盛大にため息をつき、土方は「ふん」とまだ納得がいかない様子で腕を組んだ。
「…とにかく、その捕縛された浪士についてはどうするんですか?伊東参謀も意見を求めていらっしゃるようですが」
「俺は伊東参謀に賛成だ。手紙にはその捕縛した長州藩士については伊東参謀がすべて責任を負うと書いてある。参謀がそこまでいうのなら、賛成しても良いと思う」
近藤はやや意固地になってしまったようで、何が何でも伊東の考えに賛成という意思は変えるつもりはないようだ。頑固なところは昔からなので、総司は内心苦笑したが、幼馴染の頑固さは土方もよくよく知っているので少し間をおいて
「わかったよ」
と不遜な表情だが答えたのだった。


「かっちゃんは伊東贔屓で困る」
土方は寛ぎつつ、別宅で総司に漏らした。
「贔屓っていうか…伊東先生は『参謀』ですから、近藤先生は策を弄することを信頼して任せていらっしゃるんじゃないですか?」
「藤堂の紹介というだけの、会って間もない得体も知れない男の何を信頼するっていうんだ」
「会って間もないってことはないでしょう。伊東先生が入隊されてもう半年以上経っているんですから。まったく…土方さんは人嫌いが過ぎるんですよ」
総司は苦笑すると土方は「ふん」と鼻で笑って、冷たい茶を一気に飲み干した。
久々にやってきた別宅は、世話役のおみねの目が行き届いていて今日も塵一つなく綺麗なままだ。男所帯の屯所とは正反対なのでまるで人の家に来たようだ。ここで流れる時間は屯所の忙しないものとは全く違う。
「それよりも、松本先生に頼ませていた一件はあれからどうなっているんですか?」
「どうもこうも、何も手がかりがない。見当もつかない」
「あれ、珍しいですね。土方さんがお手上げ状態だなんて…」
監察の情報網を握る土方は大概何でも見当をつけていそうなものだが、今回の件は違うらしい。
土方はため息をついた。
「分かっているのはおおよその年齢と尊王攘夷の志を持つということだけ。この京に何人の尊王攘夷を口にする者がいると思っているんだ。その中から過去に医者を志した者を探り当てるなんて、奇跡でも起きない限り無理な話だ」
「それは…まあ、そうですよね。でも、松本先生もそのあたりはご理解いただいているでしょうし、早々見つかるとは思っていらっしゃらないんじゃないですか?」
総司の慰めに「まあな」と土方は答えたが
「…案外、灯台下暗しっていう奴かも知れねえけどな」
と小さく呟いた。その意味が分からずに「どういう意味ですか?」と訊ねたが、
「なんでもない」
土方は誤魔化すように身体を横たえて欠伸をした。
大集会所を区切っただけの屯所とは違い、別宅には風が通り抜ける。京の町屋は風が通り抜けられるような造りをしているらしいが、ここはまるで避暑地に来たかのような涼しさだ。
総司は急須から茶を注ぎつつ、おずおずと切り出した。
「あの、土方さん」
「何だ?」
「馬越君のこと…ですが」
「放って置け」
話す前に遮られ、総司は驚いた。
「まだ何も話していませんけど」
「何となく察しはつく。武田と揉めている一件だろう。…なんだ、馬越に助けでも求められたのか?」
「…」
その通り、というのは何となく悔しくて、総司は「そんな感じです」と曖昧に濁した。どうやら斉藤が察していた通り、土方は既に承知していたようだ。
「でも、二人のことは本当に噂になっているみたいですよ。風紀の乱れに繋がるんじゃないですか?」
「本人同士の問題だろう。それで私闘でもなればそれも自業自得だ」
「それは…そうですが」
放って置けばそれはそれで良い展開にはならない。土方の冷たい返答にはそんな悪い予感も感じたのだが「そんなことより」と土方が話を切り上げてしまった。
「ここに来たんだから、いい加減色気のない話はやめろ」
「色気のないって…」
「こっちにこい」
強引に手招きされて、総司は急須を置いた盆を部屋の隅に片付けた。そして言われるがままに土方に元へ向かい、そしてそのまま抱きしめられた。久し振りの抱擁だ。いくら我儘で横柄でも、こうしていると彼の心の奥底にある穏やかな優しさを感じることができる。首筋に感じる彼の吐息で、今ここに、一番近くにいるのだと実感することができる。
しかし、
「歳三さん」
「何だ?」
「前に言っていましたよね、馬越君に近づくなって。あれはどういう意味なんですか?」
そんな彼は耳元で盛大且つ大きなため息をついた。
「…お前、さっき俺が言ったこと聞いてなかったのか?」
「聞いていましたけど、組下ではないといえ助けを求められちゃったんですから、無下にできないじゃないですか」
責任…ではないが、彼に対してそれなりの返答をしなければならない。総司が食い下がると、土方は渋々ながらも腕の力を抜いた。そして少しだけ新撰組の鬼副長の顔に戻る。
「あいつは何で新撰組に居るんだと思う?」
「え?」
「新撰組は男ばかりの集団だ。そんななかに、あの見た目ならどんな目に遭うか…想像がつく話だろう」
「それは…そうですが。彼は無暗に迫られないように武田組長と衆道関係になったのだと話していましたよ」
彼自身も自分の容姿についてはよく自覚していて、武田という後ろ盾を得ていたのだと正直に話していた。だが、土方は納得せずに話は続く。
「盾にするのなら誰でも良かったはずだろう。新撰組には法度があって、馬越を襲う男は返り討ちだ。しかし、そんななかでかっちゃんが信用していて、幹部でありそれなりに力のある武田に近づき衆道関係になった」
「彼には、何か目的があるということですか?」
「ああ。それにあいつはどうにも『新撰組に相応しくない』気がする」
「…穿ちすぎですよ」
総司は斉藤にも告げた言葉を、土方にも告げた。
しかし、その一方で誰もかれもが彼の話の奥深くにある『何か』に不審なものを感じているのだとも思った。それは彼が整いすぎているせいか、それとも俯瞰的な物言いのせいか、漂う独特の雰囲気のせいか…わからない。
「そうかもな」
土方は息を吐き出しながらそう言って、「もういいだろう?」とまた話を切り上げる。そして総司の項に手をのばし優しく触れて引き寄せて、口付けた。
馬越もこうやって武田と関係を持った。
彼にどんな思惑があったのかはわからない。土方の言うとおり、彼のなかには目的や意図があるのかもしれない。けれど
(それだけで…こんな関係になれるのだろうか)
そしてもういらない、と淡白に捨ててしまえるほどの想いだったのだろうか。
武田が執着するほどの想いを感じていながらも、彼はこんなにもあっさりと無下にできてしまうのだろうか。
(悲しいな…)
総司はそう思った。





解説
351 山崎は針医者の息子としていますが、医家または薬種問屋の生まれだとも言われています。
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