わらべうた





361


三郎は思った。
(そろそろ死ぬだろう…)
それを受け入れるのには時間がかかった。まだ若い身体だ、いつか治って尊王攘夷の為に身を粉にして働く…そんな未来があるんじゃないかと抗った。頭の中で何度も想像し、その瞬間だけは幸福だった。
けれど、現実には抗いようもない。
日に日に身体の筋力が落ちて、今では歩くことも、身体を動かすこともできない。それを目の当たりにして「死ぬはずがない」と思っていた考えは、「死ぬのだろう」という諦めへと変わった。しかもそれは遠い先ではなく、明日なのか明後日なのか…すぐそこにある未来だ。
しかし医者を志す親友は真逆だった。彼は三郎が死へと近づくたびに、「死なせない」のだと息巻いた。懸命に医学を学び、寝るのも惜しんで知識を得ようとする姿は心強くもあり、しかし寂しくもあった。
(きっと間に合わない…)
この病がすぐに治るのなら、とっくの昔にこの病すらなくなっているはずだ。一朝一夕で克服できるような病ではないということは、誰よりも三郎が良く知っていた。
彼は落ち込むのだろう。
自分が死ねば、「助けられなかった」と自分を責めるのだろう。そんな彼が安易に想像できて、つらい。
「…なあ」
三郎は親友を手招いた。書物を読み耽る彼は、すかさず気が付いてこちらにやってくる。そして身体をゆっくりと起こしてくれた。
「何?もう尊王攘夷とか、そう言う話はするなよ。興奮して身体が疲れるんだから」
「…ああ…それよりも、これ…」
三郎は手にしていた読売を彼に渡した。すると親友は軽く目を通して嘆息した。
「また浪士組のこと?」
「ああ…身分を問わず、将軍の警護に参加…できる、なんて、夢のようだ…」
読売には幕府が募る『浪士組』に関することが書かれてある。将軍家茂公が上洛されるのに伴って治安の悪化している京の市中警護の為、浪士組が結成される。その浪士組は支度金が出て、身分に問わず参加できるらしく、いま江戸で評判になっているのだ。
「…羨ましい、なあ…」
心の奥底からそう思った。それに参加できればどれだけ心躍ることだろう。この身を顧みることなく、志を果たすために働けるなんて、どんなに光栄なことだろう。
しかし親友は顔を顰めたままだ。
「こんなの、江戸にいる厄介な浪士を排除したいだけだと、先生は言っていた」
「先生…?」
「良順先生だ」
「…ふふ」
『良順先生』は彼が心酔して教えを乞うている医者だ。長崎への留学経験もあり、西洋医学については国内で一、二を争う方だと、親友は自慢げに語っていた。三郎は『良順先生』に会ったことはないが、豪快で物怖じしないその性格は彼の語る逸話だけでも伝わった。三郎は気が合いそうな御仁だと勝手に思っている。
そんなことを話していると、開いている障子から冷たい風が吹き込んできた。冬の風にさらされて、三郎は突然、激しく咳き込んだ。
「げほ…っ!ごほ、ごほッ!」
「三郎…!」
親友は慌てたように三郎の背中に手を当てた。咳き込んでいる間は息もできないほど苦しいが、彼の手のひらの温かみだけは感じられる。そしてその温もりに導かれるように咳が収まっていくのだ。
しかし、口を押えた手のひらには少量の血があった。喀血だ。三郎は愕然としながら、真っ赤なそれを見つめるしかない。
「大丈夫か…?」
親友は三郎の手のひらにある血をふき取り、再び身体を横たえさせた。三郎は大人しく従い、目を閉じる。
ひーひーという呼吸が止まらない。血を吐く回数が増えている。
それがまるで死への階段を一歩、また一歩と登っているようだ。
いつ死ぬのだろう。
この身体はいつ限界を迎えるのだろう。
そして彼は…お前は、親友は、君は…何を思うのだろう。


総司は土方に呼ばれたので、何事かと思いながら急ぎ足で部屋に向かう。すぐに来い…とのことで返事も待たずに部屋に入ると、そこに居たのは武田と島田だった。近藤も揃い雰囲気は物々しい。
「何事です?」
「座れ」
土方が短く答えたので、総司は大人しく従った。
「先日、脱走した上田末次…わかるな?」
鬼の副長の口調で土方が語りだすと、武田の顔色ががらりと変わった。
「は…はい。私の組下でした…が…」
上田、という名前には総司も聞き覚えがあった。武田の組下でつい最近、巡察の途中に姿を眩ませたと聞いていたのだ。
部下の脱走を許す…その失態を詰られると思ったのか、武田は顔を強張らせる。しかし更に土方は武田を責めた。
「監察から報告があった。脱走したはずの上田はどうやら朝名を騙り、金策をしているらしい。…図々しい男だ」
「な…なんですって…!」
さすがに武田は愕然となる。彼はきっと安易に、上田の脱走は何かの間違いではないか、と考えていたのだろう。武田は近藤にも視線を送るが、近藤も深く頷いた。
土方は淡々と続けた。
「そこで、元監察であった島田とともに、武田組長には監察と共に上田の探索に加わってほしい」
「私も…ですか?しかし私には組を率いなければ…」
「他の者にも代わりは務まる。それに巡察の途中に逃げられるという失態を犯したのは誰だと思っている」
「…っ」
初めは組長である自分がなぜわざわざ、と言わんばかりの表情だったが、土方が声色を変えて責めたのですぐに縮こまって項垂れた。お前の代わりなどいくらでもいる…普段は媚び諂う近藤の前で土方にそう言われてしまっては、武田もあらがいようがないようで
「畏まり…ました」
と答えるのがせいぜいだった。顔色は真っ青になっている。
そして土方はようやく総司に目線を向ける。
「…というわけで、島田をしばらく借りる。伍長は別の者に代理をさせろ」
「わかりました」
島田も事前に了承していたようなので、総司にも異議はない。その後、武田の五番隊は六番隊とともに井上が率いると言うことで話は終わった。武田は終始落胆した様子で、そのまま重たい身体を引き摺るように、島田と共に部屋を出た。
そして総司は頃合いを見計らって
「土方さん、どうして私を呼んだんですか?代理を立てるなんて話、別にわざわざ私を呼び出してするほどのことじゃないでしょう?」
と訊ねた。古参隊士である島田は何かと重用されていて、一番隊を離れて仕事をする機会も多い。いつもは事後承諾のようなやり取りだけで済まされていたのだ。わざわざこの場に呼び出して頼むようなことではない。
すると近藤が苦笑して、土方は腕を組みなおした。
「なかなか鋭い。なあ、歳?」
「…そもそも、お前だって同じことを言っていただろう?」
「え?」
総司は首を傾げた。武田を監察に加えるような話を自分がするわけがなく、身に覚えがない。すると土方は深くため息をついた。
「全く、鋭いのか、鈍いのか…よくわからない奴だ」
「まあまあ歳。お前が回りくどい方法を取ったからじゃないか。…総司、俺も武田君と馬越君の件は懸念していたんだ。男色を否定するつもりはないが風紀が乱れるのも困るし、余計な争いの種になってしまっては元も子もない」
「ええ…」
そう言えば近藤も武田と馬越の関係を目撃してしまったのだと話していたし、今では武田と馬越の一件は隊内で一番の話題となってしまっている。
近藤は困った顔をして話を続けた。
「よくよく聞けば武田君が一方的に熱を上げているということだったから、彼には馬越君と距離を置いてもらおうと思ったんだ。脱走した上田君の件も、彼の責任と言えば彼の責任だからな。武田君には申し訳ないが、これは彼の頭を冷やすのにもいい機会だ」
「ああ、なるほど」
監察の一員ともなればろくに屯所には戻って来られない。つまりは『武田に忠告してほしい』という馬越の望みも叶ったというわけだ。
それを聞いた総司は途端に安堵した。馬越もまた心穏やかになることだろう。
「そういうことですか。だったら理解しました。馬越君にも伝えて…」
「いや、伝えなくていい」
土方は総司の言葉を遮った。
「どうしてですか?」
「結果的には馬越の望むようになったが、別に言うとおりにしたわけじゃねえ…今後またこちらを頼られても困るし、馬越贔屓だと他の隊士に噂されるのも面倒だ」
「馬越君はそう言う子じゃないと思いますけど…」
「いいから」
これ以上余計な詮索をするな、と言わんばかりに土方が軽く総司を睨んだので、仕方なく口を閉じる。どうも土方は馬越のことをどこか疑っている様子がある。
「…わかりました」
その理由は根拠はわからなかったけれど、総司は頷いた。
こういう時の土方の考えは、大抵あたるのだ。







362


武田が『特命』により新撰組を離れることを聞いたとき、馬越は総司に相談したことでそのように配慮されたのだと思った。思った以上に間接的な方法だが、武田と距離を取ることができたので十分だろう。
「良かったな」
と知らない隊士からも励まされて、このまま武田との関係も自然消滅になるのだろうとそんなことを思った。もちろん武田が納得するかどうかはわからないけれど。
しかしそれよりも馬越には不安があった。
『お前の言葉には江戸の訛りがある』
突然、土方にそう指摘されて咄嗟に剣術の修行で江戸に居たことがあると答えたが、もしそれ以上追及されればボロが出ていただろう。
(いや…もうボロが出ているのだろうか…?)
だから土方はあんなことを聞いたのだろうか。
自分の生まれが『どこ』かなんて、そんなことは入隊時の帳面を見ればわかることなのに。
もしかしたら何もかもお見通しで、こんなことをしている間にいつの間にか外堀を埋められていて、自分の『罪』を突きつけられるのではないだろうか。
馬越は膝を抱えて、頭を伏せた。そうしていると過去の出来事が次々と過って行った。


あれは江戸で結成された浪士組が京へ向かって旅立ってから、数日が経った頃だった。
自分も参加したい、と何度も何度も口にしていた三郎だったが、身体は弱りきってもうろくに話すこともできなかった。
労咳という病は残酷だ。ゆっくりと身体を蝕み、肉を減らし、骨を弱らせていく。老いも若いも関係なく人の生を少しずつ奪っていく。
三郎は何度も抗おうとした。見えない敵を打ち払うのだと強がっていた。
彼は剣術の腕もあり、頭も良い。過激な議論になると少々熱くなる性格だが、それでもこの混沌の世の中を上手に出世していける優秀さがあった。しかしそんな彼でもこの死病と恐れられる病には打ち勝てないのだ。
三郎の弱りきった手を握った。その手はあまりに冷たい。ヒューヒューと木枯らしの様な呼吸が聞こえるから、彼が生きているのだと分かるけれど、それ以外はもうすべて死んでいる躯のようだ。
あと一日も持たない。
いや、もしかしたら一刻も、半刻も…このときさえも、彼の命は尽きるだろう。医者である自分にはそれがわかる分、つらかった。
元気だった彼が血を吐いたとき、自分が医者になるのは運命だったのだ、と悟った。その頃の自分は医学の道の険しさに弱音を吐き、いつこの道を諦めようかと弱気になっていた。けれど、親友の三郎の死を目の前にそんな悠長なことは言っていられないのだと気が付いた。親友とのかけがえのない時間を過ごしたいならば、もっと努力をしなければならない。
彼の病を治す…それを目標として一心不乱に医学の道を究め始めた。師匠の『良順先生』も夜遅くまで勉強に付き合ってくれて、その勉強が楽しいとさえ思えるようになった。
けれどその反対に、三郎の病は進んでいった。目に見えなかった病が、彼の身体を貪っていく。
そして追い付けないまま、その病に三郎は殺される。
いま、目の前で。
「…ぁ…」
唇が震える程度だが、彼の声が聞こえてハッと目が覚めた。辛いのは彼であり、自分が感傷に浸っている場合では無い。額に置いた手拭いを絞りなおしてまた同じようにしておく。こんなことをやったって気休め程度でしかないけれど、できることはもう何もない。
あとどれだけ彼と同じ時間を生きられるのだろう。
「ゆ…う…」
三郎の目がうっすらと開いた。何か伝えたいことがある…そう気が付いて、顔を寄せた。
「…三郎?」
「もう…行った……の…か?」
彼の意識は常に朦朧としている。今という時間が昨日なのか、明日なのかわかっていないだろう。だから同じことを何度も告げた。
「ああ…浪士組は、もう出発したよ」
身体を治して是非参加したい…彼の願いは叶わず、浪士組は京へと向かった。そのことを伝えると、いつも三郎は悔しく悲しげな顔をする。
「…そう…か…」
三郎は目を細めてそしてそのままゆっくりと閉じた。
握った手のひらは益々冷たくなっていく。
「…ゆう…」
「なに…?」
蚊が鳴くような小さな声で判然としないが、おそらくは自分の名前が呼ばれたのだろうと思った。
三郎は声を絞り出す。
「あ…」
「ん…?」
「…もう、…いい…」
もういい。
もう終わりにしてもいい。
そんな風に聞こえて
「ダメだ…!」
と叫んだ。
今まで諦めなかったくせに。性懲りもなく、尊皇攘夷だとか浪士組だとか威勢の良いことばっかり言っていたくせに。
簡単に、諦めたりするな。
その言葉が届いたのか、届かなかったのかはわからない。
そして彼の木枯らしの様な呼吸さえも消えて、彼の身体からは何も聞こえなくなった。
「…あ…ああ…」
全てを察して、そんな声が漏れた。
あまりにも静かで、あまりにもあっけなく、あまりにも突然の別れを目の前にして、これまで以上の自分の無力さを感じた。
(僕は…一体、何をしていたのだろう…?)
身体が震え、涙があふれたけれど、不思議と悲しみはやってこない。それよりも先に苦しめたのは、彼が死に、自分という役立たずな存在が残ったという悔しさだった。
(僕ごときが…医者になって、どうするというんだ…)
目の前の親友すら救えなかった自分に、医者になる資格などあるのだろうか。
労咳という病は誰でも必ず死ぬ病ではない。奇跡的に助かり、癒えた者だっている。彼をそうできなかった自分が、いったい誰を救えると言うのだろう。
「…ああ、ああああ…!」
三郎の手を握った。もう何の温かさもない、彼が消えた骸を抱きしめた。
彼を殺したのは、自分だ。
例え、彼を殺した凶器を握っていなかったとしても、救えなかったのは殺したのと同じことだ。
『僕』はそう思った。



武田が屯所を離れてから、数日。
土方の思っていた通り、武田と馬越の噂をあれこれと口にする者はいなくなった。人の噂も七十五日…それよりも早い速度で消えて行き、そのことに総司はひとまず安堵した。馬越も己の希望が叶ったと思ったのか、総司に相談を持ちかけることもなくなった。
しかし、噂が消えれば新しい噂が立ち上ってくるのが常だ。そしてその中心にはいつも彼がいる。
「よう、総司、聞いたか―??」
稽古の汗を井戸で流していると、原田が軽快な口調でこちらにやってきた。武田と馬越のことを話していたときも同じような口調だったので
「今度は何ですか?」
と、総司はため息交じりに返答した。原田の話すことは虚言と感傷が入り混じっているので、話半分で聞かなければならないし、くだらない話なら適当に聞き流さなければならない。
しかし。
「んな、邪険な顔するなよ!近藤先生のことだぜ?」
「近藤先生…?」
その話題が敬愛する師匠である近藤のことだというなら、話は別だ。
「近藤先生が何か?」
「お前聞いてないのか?大坂に馴染みの女がいるって噂!」
「な…馴染みの女…?」
近藤には妻と娘がいるはずだ。総司はそんなはずはないとすぐに頭を振った。
「原田さん、さすがに近藤先生に関わる作り話は勘弁してくださいよ」
「作り話じゃねえし!この頃、大坂新町のなんとかっていう太夫が近藤先生と懇意だって聞いたんだよ。大坂に行くときは必ず通ってるって話」
「その、なんとかっていう太夫、というところが既に憶測じゃないですか」
「名前は聞いたんだが忘れちまっただけだ。…えーっと何だったかなあ…。すげえ、おめでたい名前だったのは何となく憶えているんだがなあ…」
腕組みして思い出そうとする原田に、総司は呆れて「もう行きますよ」と話を切り上げようとした。
その時。
「大変ですッ!」
と、島田が屯所に乗り込んできた。彼はその衣服を真っ赤に染めていて、それが血だと総司はすぐに分かった。
「どうした?!」
先ほどまで茶化して噂話を語っていた原田も急に険しい顔をした。
「脱走者の上田を捕獲!しかし抵抗したため斬殺しました!」
島田は元監察という経験を買われ、脱走した上田の捕獲の為、監察に加わっていた。その上田を殺したということなら、島田の真っ赤な血は上田のものか。総司は安堵したがそうではなかった。
「しかし、その際に武田組長が怪我を!」
「武田組長が?」
総司が驚くと、島田の後ろに戸板を担いだ隊士たちが駆け込んできた。そして戸板にはぐったりとした顔をした武田が横たわっていた。傷は深いようで、島田以上に武田は真っ赤に染まっている。
「医者を!可能であれば、南部先生を!」
総司は手近に居た隊士を捕まえて命令を出す。南部は新撰組の主治医として定期的に屯所に通っており、武田のことも知っているはずだ。
そして武田を部屋に運び込み、島田から事情を聴き始めたのだった。




363


武田は終始落ち込んだ様子で任務に臨んでいた。
「はあ…」
幾度となくため息をついている。共に監察方として上田の行方を探す島田も一緒にため息をついてしまいそうになった。
上田が知り合いの商家に匿われているらしいという情報が入り、二人は物乞いに身を窶し、ちらちらと商家の様子を窺っていた。一時ではあるが監察として働いていた島田とは違い、近藤に気に入られ文学師範兼副長助勤として、いわゆる出世の道を歩んできた武田にとって、小汚い物乞いの姿を装うと言うのは屈辱以外の何ものでもないのだろう。隊務にはもちろん乗り気ではない。
しかしこの仕事が乗り気ではないのは、島田も同じだった。一番隊に身を置く島田にとって、山野と共に任務に励むことが何よりもモチベーションを上げていたのだ。それなのに、元監察の経験を買われたとはいえ一番隊を離れてしまうとは…土方の命令に異存はないが、それでも落胆がなかったと言えばうそになる。
(早くとっ捕まえて戻ろう…)
気分を切り替えて、商家の方へ目をやる。すると、武田が
「島田君」
と声をかけてきた。蚊の鳴くような気力のない小さな声だ。島田は耳を寄せて「何か?」と訊ねる。すると
「君は山野君と良い仲なのだろう?」
そのあまりに突然の質問に、島田は「はっ!?」と大声を上げてしまった。その声は案外響いてしまい、通りかかった人々の視線を浴びる。物乞いとして姿を潜めているとはいえ目立ってしまい
「静かにしたまえ」
と武田に責められてしまった。
(俺のせいか…?)
首を傾げつつ
「すみません……それで、あ…あの、それが何か?」
「…羨ましいな」
武田は生粋の男色家だ。今は馬越に執心しているようだが、色目を使われたと語る隊士も少なくはない。
(まさか山野に目をつけたんじゃ…?)
隊士達は、武田が馬越の尻を追いかけまわしたせいで監察に飛ばされたのだと揶揄している。島田は咄嗟に馬越に相手にされなくなった武田が、可愛い恋人である山野に興味を持ったのかと焦ったのだが
「三郎のことがよくわからん」
と、武田は零した。
「…ま、馬越君のことですか?」
「ああ…あれは、あのような見てくれだろう。男に狙われる性質で、実際に言い寄ってきた隊士も大勢いたそうだ」
「…それは想像ができますが」
自分の恋人が一番可愛らしい、と自負している島田ではあるが、馬越の外見は山野とは違う雰囲気で整っている。もし町ですれ違ったなら、思わず振り返ってしまうだろう。
武田は続けた。
「私もその一人だが…大勢あれに言い寄る男がいたなかで何故、あれが私を選んだのかはよくわからん。本人に訊ねてもはぐらかすばかりだ」
「そ、それは…」
島田は思わず口ごもってしまった。武田は色男ではなく体格も武より文の人だけあって中肉中背、年相応の見た目だ。また近藤や土方に対して媚び諂うような態度を見せることから、隊士から人気があるとは言い難い。
言い淀んだ島田を見て、武田は深くため息をついた。
「…別に良い。私とて、三郎に選ばれるような人間ではないことはわかっている」
「はあ…」
「ただ…浮かれていたのかもしれないな。あのような役者絵のように美しい三郎に好かれている…その驕りがあったからこそ、三郎は私から遠ざかってしまったのかもしれない」
彼は愚痴をこぼし、心底落ち込んだ表情を見せた。
武田は見栄っ張りなところがあり、自分よりも立場の低い隊士を見下すような態度を取ることがある。そんな不遜でプライドの高い彼が、島田に対して感情を吐露し、監察の仕事に飛ばされてしまったことよりも馬越のことで頭がいっぱいになっている。島田は初めて武田の人間性を垣間見た気がした。そして彼の気持ちにも共感ができた。
「…それは、わかります」
順調な関係を築いている今ですら、島田にとって山野は高嶺の花だ。手をのばしても届かない彼が、偶然、たまたま、自分の一番近くにいてくれている。いまだに山野と一緒にいて地に足が付いていないような感覚があるくらいだ。
武田は自嘲して話しを続けた。
「昔からわかっていた。三郎には…私よりも何か大切な存在があるのだろう。それが男なのか女なのかはわからないが…三郎にとって私はもう必要がなくなったということだろうな…」
「武田組長…」
「…まったく、滑稽だな。三郎は私にとっては過ぎた存在で、所詮幻だったのだと思えば済むとわかっているのだが、同じ屯所に居て、姿を見かけてしまえば沈んだ気持ちが起き上がってきてしまうのだから、困ったものだな…」
「……」
武田が馬越の尻を追いかけまわしている。
つい先ほどまで、島田自身もそう思っていた。馬越が迷惑しているのに、武田は諦めない…彼を責める気持ちもあった。しかし武田の気持ちを前に、そんな風に断定することはできなかった。彼が持つその気持ちが純粋なものであると、おそらく誰よりも知っているのは島田だったからだ。
「…武田組長」
「なんだ?」
「もしよければ…この任務が終われば、飲みにいきませんか?」
島田は初めて武田を誘った。
武田は馬越から拒まれていることをちゃんと理解している。けれど、つもり募った彼への気持ちを今更消すことも、捨てることもできなくてもがいている。そんな彼の様子を指さして笑うことなどできない。だったら何の助言もできないけれど、せめて聞き役になってあげることくらいはできるんじゃないか。
「…ああ、頼む」
武田は少しだけ笑った。島田は彼が穏やかに笑っているのを初めてみるような気がした。
その時だった。
通りすがりの一人が、ふと足を止めた。傘を深く被っていたが、見覚えのある顔だった。
「うえ…!」
上田だ。
そう思った瞬間に、上田もまた物乞いが武田と島田であるとすぐに気が付いた。
「わあああああああああっ!」
上田はまるで獣のように突然叫び声をあげると、腰の刀を抜いて乱暴に振り回した。もちろん応戦はできたが物乞いの恰好をしていたせいで咄嗟に刀が出て来ない。
その一瞬のこと。
「あああっ!」
島田は、武田の真正面から血が噴き出すのを見たのだった。


屯所が俄かに騒がしくなったとき、馬越はようやく己の過去から現実に引き戻された気がした。あの時に味わった親友の死はまるで昨日の出来事のように思い出され、指先はすっかり冷たくなってしまっていた。
バタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。馬越は重たい身体をどうにか持ち上げて、部屋から出て様子を窺った。
「南部先生はまだか?」
「籠をやれ!」
「先生の具合はどうなんだ!」
行き交う怒号の様なやり取りで、どうやら誰かが怪我をしたのだろうと察することができた。先生というからには副長助勤以上…もしくは局長や副長なのかもしれない。
すると、ちょうど馬越の前を通りかかった一番隊の山野が「あ!」とこちらに近づいてきた。
「馬越さん、大変です!」
「誰か、お怪我でも?」
「武田組長です!」
「た…武田、先生が…?」
思わぬ名前に身体に緊張が走った。山野は口早に続けた。
「監察の任務中に、脱走した上田と遭遇したそうです。向かい傷ですが血まみれで…南部先生も今は往診中のようで、松本先生をお呼びしていますが間に合うかどうか…」
山野の顔が曇り、余程酷い状態であることがわかった。
馬越は咄嗟に
「武田先生はどこへ?!」
と訊ねた。理性よりも感情が勝っていて、いつもよりも大きな声が出た。山野は驚いた表情を見せたが「こちらです」と小走りに案内してくれた。
武田は病人が集められている一番奥の部屋に横たわっていた。思っていた以上に血まみれの武田は意識が無く、ぐったりとしている。傍には同じような物乞いの格好をしている島田と、近藤、土方を始めとした幹部が集まっていた。
「馬越君…?」
総司が馬越の登場に驚いたようだが、構っている暇はない。馬越はすぐに武田の傍に膝を折り、傷口を診た。血で真っ赤に染まっているが、傷自体は左程深くはない。馬越は傍に合った手拭いで強く傷口を押した。
「お、おい…?」
原田が止めようとしたが、馬越は「止血です」と淡々と答えた。
「深い傷ではありませんが、血を止めないと手遅れになります」
「お前、医学の知識があるのか?」
「……」
永倉に指摘されたが、馬越は聞こえないふりをした。話せば長くなって武田の処置が遅れてしまうかもしれない。傍に居た小者に手伝ってもらい、かつて身に付けた知識をどうにか思い出して大きな血脈がある箇所から止血を行った。
そしてようやく血が止まり始めた頃
「松本先生がお越しになられた!」
という朗報が耳に入った。周囲が安堵のため息を漏らすなか、馬越は身体を強張らせる。
「怪我人はここか?」
急いで駆け付けた松本はすぐに武田の元へ駆け寄ってきた。傷の具合を素早く観察して、頷く。
「…もう、大丈夫そうだな」
厳つい表情なのに、浮かべる笑顔はいつも柔和だった。彼が笑うともうその患者は大丈夫だと誰もが思える。
松本良順という男は昔から生粋の医者だった。
そして彼は
「お前さんが止血をしたのか?いい腕…」
馬越の顔を見て、言葉を失った。
「お前は…」
「…お久しぶりです。『良順先生』」
馬越は覚悟を決めていた。
ひた隠しにしてきた過去を晒すことになっても、武田を、目の前の人を助けたいと言う気持ちに偽りがなかったのだ。






364


向かい傷を負った武田の容体が安定したので、事情を知る土方と総司、そして松本と馬越は客間へと移った。総司がちらりと馬越の表情を伺うと、彼はまるで憑き物がすっかり落ちたかのような表情をしていた。気高い役者の様な面構えも、どこか穏やかに見えるのは、隠していた正体を見破られた安堵だろうか。
馬越は松本へ向き直ると
「ご無沙汰しております」
と改めて丁寧に頭を下げた。彼は落ち着き払い、取り繕うこともない。対して松本はこれまで見たこともないほど複雑に表情を歪めていた。
「悠太郎…だな?」
「はい」
松本の問いかけに、馬越はあっさりと頷いた。すると松本は大きなため息をつきながら、土方と総司の方へ目をやり
「俺が探していた男はこの男だ」
と告げた。土方は「そうですか」とまるで知っていたように納得したが、総司は「はあ」と少し首を傾げてしまった。
松本が語っていたかつての弟子は「尊王攘夷の志に熱く」「時代の波に流されるような」男だったはずだ。それがいつも清らかな雰囲気を放ち、冷静で淡々とした馬越のイメージには重ならなかった。
すると松本は視線を馬越へと戻した。
「昔のお前に戻ったようだな」
「…そうですか?」
「ああ…お前は俺の元を去る時、まるで別人のように『尊王攘夷の志を遂げる』なんてらしくなく息巻いていた。…あの時、俺は驚いた。人を助けたいのだと願ったお前が急に誰かを蹴落としてでも遂げたい志があるなんて信じられなかった…だが、お前の本性で、本音なのだと思った。だから何も言わずに見送ったが…さっきの、武田の治療をするお前はやはり医者に相応しい顔をしていた」
「……」
馬越は押し黙ったが、松本は詰め寄った。
「悠太郎。俺はお前が暇を申し出たあとに、お前の親友が死んだと聞いた。それが…お前の志す道を変えたのか?」
その問いかけのあと、馬越の表情が一層固くなりしばらくの沈黙が流れた。傍で聞いているだけの土方や総司さえも緊張する沈黙だった。
微動だにしない馬越は少し俯いていたが、まっすぐに強く見つめ続ける松本に降参したのか、ようやくゆっくりと口を開いた。
「…『馬越三郎』は、私の救えなかった友人の名前です」
「え?」
意外な事実に総司は小さく声を上げた。
「親友の『三郎』は黒船来航以来、誰よりも国のことを思い、自ら率先して働きたいという…若者らしい熱い志を持っていました。多少無茶をやったりして…でも本当に、男気溢れる良い男でした。しかし、彼は労咳に侵されてしまい、医者の卵だった私は必死に彼を助けようとしたけれど、間に合いませんでした」
「…そう、だったのか…」
「私は彼を助けることができなかった…あまりにも簡単に彼を失ってしまった…その時、きっと彼を殺したのは私だと思ったんです」
その言葉を耳にした途端、松本は叫んだ。
「そんなわけあるか!労咳はいまだに誰にも治すことができない病だ!それにあの頃のお前だって必死に労咳を治すための勉学を学んでいた!」
しかし馬越はぐっと唇を噛みしめて感情を押し殺すように
「でも間に合わなかったんです、先生」
馬越は穏やかに笑った。けれど、彼のその微笑みが総司には今にも泣きそうで、悲しげに見えた。彼は続けた。
「…先生、私は『三郎』が死んだとき、先生のような医者にはなれないと思ったんです。誰かを救うことができない自分があまりに不甲斐無くて情けなくて…私なんかが医者なんて、なれるわけないと思いました。だから、そんな私ができるのは死んでしまった『三郎』の為に何ができるのか…それだけでした」
「それが、『馬越三郎』の志を継ぐことだったというわけか?」
それまで一言も口を挟まなかった土方が淡々と訊ねた。
馬越はゆっくりと頷いた。
「二年前の冬…『三郎』は死に際、何度も『元気になったら浪士組に参加したい』と言っていました。身分や年齢にとらわれない浪士組を、羨ましいのだと…何度も、何度も、何度も…」
「それは…もしかして、私たちの参加した浪士組のことですか?」
「はい…私は『三郎』が死んで、彼の志を受け継ぐのと同時に彼の魂さえもこの身に宿したいと願った。だから、新撰組に加わりました。…もしかしたら松本先生には、私が人が変わったように見えたのかもしれません。私は馬越になりたかったのですから」
「そう…だったのか…」
松本はようやく腑に落ちた表情を見せ、総司もまた、松本から聞かされていた馬越のイメージとの齟齬を解消できたような気がした。彼は亡くしてしまった友人である『馬越三郎』の『志』を叶えるため、彼自身を捨てて『馬越三郎』となり、彼が願った新撰組に入隊を果たした。
彼とその親友がどんな関係だったのか…それはわからない。武田のように彼もまた男色の関係だったのかもしれない。けれど、馬越にとってその親友は自分を捨ててでも生かしたい存在だったのだ。
「…松本先生」
土方が腕を組みなおしつつ口を開いた。
「馬越に…話があったのではありませんか?」
「…あ、ああ…」
いつも飄々として余裕のある態度を崩さない松本が、珍しく動揺していた。雰囲気にのまれていた総司もすっかり忘れていたのだが、松本は彼を見つけ出したら「話がしたい」と言っていたのだ。
松本は姿勢を正し、大きく息を吐いた。
そして
「…戻ってこい」
と重々しく告げた。あまりに意外な言葉に、総司と、そして馬越が驚いた。
しかしいつもの冗談めいたものいいではない。
「せ、先生…?」
「お前が俺の元を去っていくときに、何でもっと強く引き留めなかったのかと後悔した。お前ほど医者に相応しい人間はいない」
「そんなことありません!私は…無力で、非力で…」
「馬鹿野郎。労咳を治せる医者なんていねえんだ!お前が治せちまったら、俺の立つ瀬がねえだろう!」
松本は少し茶化し、そして馬越の元へと近づいた。そして小さく震える馬越の肩に手を置いた。
「…なあ、悠太郎。お前の友人の…『馬越』は、お前がここにいることを望んだのか?」
「……」
「お前がもっと医学の道に精進して、労咳をやっつけるような…そんな医者になってほしいと、思っていたんじゃねえのか?」
それは幾度となく。
何度も、何度も自分に問いかけていた。
しかし、馬越は首を横に振った。
「…でも、私は耐えられないんです。『馬越』が死んだあの瞬間…私は自分が彼を『殺した』と思ったんです。何もできない自分が彼を死に追いやったのだと…」
「それはお前が誰よりも医者らしいからだろう」
「医者…らしい、から…?」
「普通の人間は、親友が死んだら泣くだけだ。悲しくて、塞ぎ込む…でも、お前はそれを自分の責任だと思った。いや、俺に言わせれば思いすぎちまった。医者としての責任感が、友人としての悲しみを越えたんだ」
トントン、と松本の懐かしい手のひらが肩を叩く。それがまるでゆっくりと融かされていくリズムのようになる。
「それに…さっき、武田を止血していた時の横顔。あれは…昔のお前だった。紛れもなく、医者の顔だった」
「…っ」
「もしお前が『親友を殺した』という負い目に苛まれているのなら…いま、武田を救ったことが罪滅ぼしになるんじゃねえのか?死んだ友人もそう思っているはずだ。だから今度は…お前が、お前を許してやれよ」
きっと
(誰かに…そう言ってほしかったんだ…)
馬越はそう思った。
きっと自分は誰かに許してほしかった。
『馬越』を殺した自分を、慰めてほしかった。嘘でも、『お前は悪くない』のだと言ってほしかった。
そして、冷え固まった氷が解けるように瞼から大粒の涙が零れた。
「…せん…せい…!」
松本はあの頃のままの懐かしい笑顔を浮かべて、馬越を強く抱きしめた。その胸元で馬越は脇目も振らずわんわん泣いていた。
あの時、流せなかった涙を流すかのように。


その後、松本が宿へ戻るというので、見送りに土方と総司が連れ添った。すっかり日は落ちて夜になっている。
「宗三郎の件といい、先生に関わると法度さえも形無しのようです」
半ば嫌味のように土方はため息交じりにそう告げた。
土方は結局、松本の望み通り馬越の脱退を承認した。情にほだされやすい近藤は事情を聴くと「先生の頼みだ」と二つ返事で了承した。
松本はにやりと笑った。
「『宗三郎』は火事で死んだ。それから『馬越三郎』という男も本来は死んでいる。だったら道理じゃねえか?」
「あはは、松本先生、屁理屈が上手ですね」
「だろう?」
総司は松本と笑うが、土方は大きくため息をつく。
すると、そこへ駕籠がやってきたのでそれに乗りつつ松本は苦笑した。
「だが、あんまりお前たちに無理を頼むわけにはいかねえな。これが最後だ、土方」
「…そうしていただければ幸いです」
「ああ」
松本は軽く手を振って駕籠で去っていく。
総司はどこか晴れやかな気持ちで松本を見送ったのだった。





365


武田は途切れ途切れの意識のなか、少しずつ自分の置かれた状況を理解していった。
まずは、自分は死んでいないということ。見知った隊士たちの声が聞こえており、どうやら屯所まで命からがら戻ってくることができたのだと思い、安堵した。
二つ目に、思った以上に傷は深いということに気が付いた。苛烈な痛みは今まで味わったことの無いもので、皮膚が裂けるように熱かった。しかしその痛みも徐々に引いて行ったので、治らない傷ではないようだ。
そして、起きては眠る微睡の様な眠りの中で、馬越の声が聞こえた。最後に言葉を交わした時の様な冷たいものではなく、穏やかで優しく武田に声をかけていた。
けれど、それは夢かもしれないと思った。最後に会話を交わした時の馬越はきっぱりと武田を拒んでいたのだ。その彼が自分を看病してくれているなんて、そんなのは烏滸がましい幻なのではないかと。
だが、時折襲ってくる猛烈な痛みに唸ると、必ず彼の声が聞こえてくる。
「大丈夫」
その声が、武田にとって真っ暗な暗闇に差しこむ一筋の光のようだった。そしてその光に抱かれて、武田はまた眠りに落ちる。
穏やかで、心地よい世界へ溶けるように。


隊士が眠りに落ちる真夜中。
松本の計らいによって脱退を許された馬越は、一通りの荷物を纏めてこっそり部屋を出た。松本による特例での脱退は、幹部まで箝口令が敷かれており、結果的には隊士たちにとっては馬越は脱走したということになる。その為長年苦楽を共にした仲間に別れを口にして去ることはできないのだ。
数少ない荷物のなか、手にはかつての親友『馬越三郎』が愛用していた刀がある。これは彼が死んだとき、彼の両親に無理を言って形見分けしてもらったものだ。この刀を帯び、彼の魂とともに、いや、彼の魂として生きようと決めた。そうすることが彼への弔いになるのだと思った。
(でも…結局、僕はお前にはなれなかったよ)
馬越は苦笑した。
いま振り返ると『馬越三郎』として新撰組で過ごした日々は、どこか夢を見ていたようだ。生と死を目の前で見せつけられる日々はまるで現実味がなくて、ふわふわとしていて、自分の時間なのに自分のものじゃないみたいだ。
けれど
(武田先生は…違った…)
「馬越君」
部屋を出て西本願寺の境内でぼんやりしていると、声を掛けられて驚いた。
「お…沖田、先生?」
「送りますよ」
どこへ、とも言わずに総司は穏やかに笑って、歩き出した。馬越は慌ててあとを付いていく。総司は深夜だと言うのにすたすたと歩き、大集会所を出て西本願寺の門をくぐる。
そこで馬越はふと立ち止まり、ゆっくり振り返った。そして門の前で深々と一礼した。
(もう二度とここには来ないだろう)
新撰組隊士をやめて、同時に『馬越三郎』としての人生も終わる。自分のなかの『馬越三郎』が消える…けれど、案外あっさりとしていて、呆気ないものだった。
(やはり、これは僕の人生ではなかったのだろう)
馬越はそう思った。所詮、誰の代わりになどなれない…そのことにもっと早く気が付くべきだったのかもしれない。
西本願寺から遠ざかり、東へと歩き出す。
「…これから松本先生の元へ?」
提灯を手にした総司が訊ねる。彼は一体どこまで送ってくれると言うのだろう…訝しげに思いながら馬越は答えた。
「いえ…私は医学の道を一度挫折した者です。幕府奥詰の良順先生の元で学ぶような立場ではありません。…ただ、良順先生のご紹介で江戸の医学所で再び学ばせていただけることになりました。なので、江戸に戻ります」
「そうですか…あなたなら立派な医者になれますよ」
「ありがとうございます」
穏やかなやりとりのあと、不意に会話が途切れた。馬越からすれば、こんな夜中に組下でも何でもない総司が送ってくれる方が不自然に感じていた。
すると、総司は突然、「ふふ」と笑った。
「すみません…馬越君に聞きたいことがあったんですけど、どう切り出せばいいのかわからなくなってしまいました。土方さんには余計な詮索をするべきじゃないと言われましたけど、聞いておかないと後悔する気がして」
「聞きたいこと?」
「…まあ、いいか」
総司は独り言のように呟いて足を止めて振り返った。
「武田さんのことです。回復するまで待って、ちゃんとお別れを告げた方が良かったのではないですか?」
「……」
馬越は言葉に詰まった。
武田はいまだに意識が朦朧としているようだ。深い傷ではないにせよ、相当な痛みのせいで魘されてばかりいる。そんな彼の看病を連日続けていた馬越だが、彼が完全に意識を取り戻す前に脱退することにした。
その理由は明確だった。
「…武田先生は、『馬越』に似ていました」
「へえ…?」
総司は意外そうな顔を浮かべた。馬越は総司が考えていることが何となくわかり、苦笑した。
「外見の話ではありません。…自論を熱く語り、少し無謀なところが…似ていました。沖田先生には武田組長との関係は自分の保身のためだとお話しましたが…それだけではなかったのだと思います」
「自分が救われたからですか?」
「…その通りです」
鋭い指摘に対して、馬越はもう隠し事をするつもりはなかった。
武田の熱量に触れると、時折懐かしく感じた。不器用ながらも国を思う志に『馬越』が語っていた言葉があるようで…それを耳にすると心が震えた。だから傍に居たいと願ってしまった。
「でも別れようと思ったのは?」
「……」
「本当に好きになったから、ですか?」
あまりにも率直な質問に、馬越は思わずうなずいていた。
「でも、確かな想いだったわけじゃありません。でもこれからそうなるんじゃないか…そんな予感がして怖くなったんです」
いまここに在るのは本当の自分じゃないはずなのに、武田に対する思いだけは本当の自分である。まるで身体と心が矛盾したかのような擦れ違いが、苦しかった。仮初の関係だったはずなのに、それが本物になってしまうのが恐ろしかった。
「ふうん…よくわからないなあ」
総司が漏らした感想に、馬越は(そうだろう)と思った。これは誰にもわかるはずはなく、誰にも理解されたいわけではない。
「これが私の我儘で、勝手なのは承知しています。武田先生にも…申し訳ないと思います。だから、せめて私のことを『酷い奴だ』と憎んでくれればいいと、そう思います。だから万が一にも私が武田先生を看病するなんてことができるはずはないんです」
美しい思い出は全て嘘だったのだと、そう思って忘れてほしい。『馬越三郎』はもともとどこにも存在しない人間だったのだから。
「沖田先生。ここまでで結構です」
西本願寺の屯所が見えなくなったところで、馬越は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「お世話になりました。最後の最後までご迷惑をおかけして申し訳ありません。武田先生のこと…よろしくお願いします」
「…わかりました」
総司はすっと目の前に手を差し出した。馬越は顔を上げ、首を傾げた。
「先生…?」
「握手です。松本先生が教えてくれました、異人は別れの時も握手をするのでしょう?…また、お会いしましょう、『馬越君』」
最後の別れ。何故、目の前の男が自分のことを『馬越』と呼んだのか。
馬越はすぐにわかった。
「はい…また」
自分にとって『馬越三郎』としての日々は嘘だったのかもしれない。
けれど、自分の周りにいた仲間や隊士たちはその日々を『嘘』なのだとは思わない。彼らにとって、自分は生涯『馬越三郎』であり、新撰組隊士なのだ。だから、その日々を否定してはいけない。忘れてはならない。
だから、総司は『新撰組隊士』の『馬越三郎』に別れを告げているのだ。
(ありがとうございます)
自分さえ認められなかった、『馬越三郎』という存在を認めてくれて。
馬越はその言葉を胸に秘めて、そのまま歩き出した。
一度も振り返らなかった。だからわからないけれど、きっと総司も振り返らなかっただろう。



混沌とした意識がようやく回復した頃、馬越が脱走したのだと聞かされた。もともと生真面目だった馬越が脱走るとはだれもが夢にも思わなかった。その理由は隊内でも様々な憶測が飛び交っているようで、誰もその本意はわからないらしい。
(ああ…やはり、幻だったのか…)
馬越がどうか捕まりませんように、と願う一方で、そんなことを思った。馬越はまるで泡沫のように自分の目の前から消えたのだ。彼は竹取物語のようにひと時の夢を自分に与えてくれた。けれど、自分が「足りない」と求めすぎたから呆気なく消えて、月へと戻って行ってしまったのだろう。
(いや…それでいい)
どうか手の届かない場所へ行ってくれ。
そしてどうか幸せになってほしい。
穏やかにそう思えるのは、彼の「大丈夫」という優しい声が木霊しているからだろう。
武田は目を閉じた。
ゆっくりと自分を納得させる。心にぽっかりと空いた穴は、きっとこの傷と共に塞がることだろう。





366


勘定方の河合耆三郎は緊張していた。
額にはうっすらと汗を掻き、手には冷たい汗を握るが、身体は硬直して微動だもしない。少しでも動けば何か悪いことが怒ってしまうのではないか…河合はそんな被害妄想に憑りつかれていた。
そんな河合の目の前に座って渋面を作っているのは、副長の土方歳三だ。入隊して数年、古参隊士の一人と言われる河合だが、いまだにこの鬼副長の前では緊張が抜けない。死の間際に立たされるような気持になる…のはやはり被害妄想だろう。
ちらりと様子を窺うと、土方は届いた手紙を読んでいた。わざわざ河合を呼びつけた理由はわからないが、何か重要な理由がその手紙にあるのだろう。
(一体何なんだ…)
呼びつけられた理由はわからない。何かしでかした覚えも、仕事を疎かにした覚えもない。
播磨の裕福な米問屋に生まれた河合は、剣など持ったことがない。しかし、世の中の困難に「何かできないか」と心が騒ぎ、新撰組…当時は壬生浪士組だったが、ここに若い勢いで入隊した。剣の腕だけが採用基準である新撰組では河合の居場所はなかったが、勘定の能力を見込まれて入隊を許された。それは幸運なことで、今は亡き山南が薦めてくれたらしいのだ。
(山南総長…)
彼が亡くなってから、河合の中では妙な脱力感を覚えていた。あんなにも優しく周囲から信頼された人格者である山南でさえ、新撰組を脱走した。詳しい理由はわからないが、きっと山南は新撰組に失望したのだろう…そんな漠然とした考えがあった。
「…河合」
「は、はいッ!」
虚を突かれ名前を呼ばれて、河合の声は裏返った。しかし土方は気にする様子もなく、手にしていた手紙を河合に広げて見せてくれた。
「……これは…」
丁寧な筆遣いだが、見覚えはない。勘定方を任される河合にとって初めて見る手紙だった。だが、そこに書かれている内容は、河合を呼び出す理由に間違いなかった。
「百両あまり用意してほしい」
土方の言葉に、河合は自分が助かったという大きな安堵とそして微かな失望感を抱いた。もしかしたら山南もこのような失望感を抱いていたのではないかと錯覚した。
手紙には近藤局長が大坂の芸妓、深雪太夫を身請けするための必要資金が書かれていたのだ。


別宅に呼ばれた総司は、久しぶりに怒っていた。
「私は反対です!」
到着して早々、総司はきっぱりとそう言い放った。
「深雪太夫がどのような女性かは知りませんが、近藤先生にはおつねさんという立派な奥方と、娘のたまちゃんだっているんです。そりゃあ、いまは京と江戸で離れて暮らしていて、近藤先生だって寂しい思いがあるかもしれませんが、それはおつねさんだって同じでしょう?おつねさんが試衛館を守ってくれているのに、近藤先生だけ女の人を妾にするなんて信じられません!」
「落ち着けよ」
熱が入る総司とは対照的に土方は冷静に答えて嘆息した。
総司が近藤が深雪太夫という大坂の芸妓を身請けする…と聞いたのは昨晩のことだった。その為の資金も準備され、既に準備は整いつつあるという。以前、原田からチラリと近藤が懇意にしている女性がいると言うことは聞いていた。その時は名前ははっきりしなかったけれど、それが深雪太夫ということだったのだろう。しかしそれは親しいというだけでなく、総司の知らないところで身請けということまで話が進んでいたのだ。
「大体、おつねさんの了解は得ているんですか?…いえ、毅然としたおつねさんのことだから、無理をして『構わない』という返事がくるかもしれませんけど!」
「ああ、つねさんの了解ならとっている。近藤先生の思うままにしてほしい、ってな」
土方にあっさり返答され、総司は苛立った。
「…っ、でも納得できません!」
「いいから、俺の話を聞けよ」
土方はおみねが入れた茶を総司の前に差し出した。衝動的にその茶を投げ飛ばしたくもなったが、それはおみねの仕事を増やすだけなので、どうにか堪えることにした。
「…深雪太夫は大坂で評判の芸妓だ。近藤さんと一緒に大坂に行く際は必ず深雪太夫の座敷に寄っていたから、人となりは俺も知っている。決して悪い女ではない」
「それは…近藤先生が選ばれた女性なら、そうなんでしょうけど…」
「近藤さんは深雪太夫に惚れきっているし、太夫はどんな金持ちに請われても決して身請けを受けなかった生真面目な女だ。だが、近藤さんになら身請けされてもいいと了承した。大坂の深雪太夫を妾にしたっていう評判が広まって、新撰組の近藤勇の男ぶりだってあがる」
「……」
近藤と深雪太夫の合意があり、また土方の思惑も重なっている。これは悪い話ではないのだろう。正妻であるつねが了承しているならなおのことだ。
総司が反論する言葉を探していると、土方は少し声のトーンを落としつつ「それに…」と続けた。
「近藤さんは試衛館の四代目だが、五代目になる男子がいない。谷の末弟を養子に迎えてはいるが、近藤さんとしてはあくまでも暫定的な跡継ぎで、本当は血が繋がった実子に継がせたいと考えているようだ。つねさんもその思いを知っているから、妾の子でも男子が欲しいという近藤先生の想いを拒むことができなかったんだ」
「…そう…ですか」
つねに葛藤はあったはずだ。しかし彼女は毅然とした態度で、御家の為に近藤の決断を受け入れることにしたのだろう。武家の娘に生まれたつねらしい、潔い回答だ。
しかし総司にはいまだに納得ができなかった。それは近藤とつね、そしてたまが幸せそうに家族として過ごしていた日々を知っているからだ。
「…身請けは明後日だと聞きましたけど…」
「ああ。明日には俺も近藤さんと一緒に大坂に行ってくる。伊東参謀も戻ってきたことだから、問題はない」
数日前、奈良行きを希望していた伊東が成果を上げて屯所に帰還した。その伊東参謀も同意したことで、深雪太夫の身請け話が表沙汰になったのだ。
「…私も同行してもいいですか?」
「お前が?」
総司は深く頷いた。
「近藤先生がお決めになったことなら、私だって反対したくはありません。きっと土方さんが悪い人じゃないと言うのなら、そうなんでしょう。でも納得できない…だから、せめて私も深雪太夫に会ってみたいんです。お願いします!」
会って納得できるかどうかはわからないけれど、このままではやりきれない。総司が必死に土方に懇願すると、彼はため息混じりながらも頷いた。
「わかった。ただし、もう決まった話だ。今更身請けをやめさせるような説得をするなよ」
「…わかりました」
返答しつつも、総司の気持ちは揺らいでいた。どんなに美しく、心の綺麗な女性であったとしても総司はおつねのことを考えて、近藤を引き留めたくなるだろう。
「…俺は屯所に戻る。お前は夕餉でも食べていけ」
迷う総司を振り切るように、土方はそう告げる。そして刀を持って忙しなく別宅を出て行ってしまった。もともと総司と話をするために忙しい合間を縫ってここにやってきたのだろう。
しばらくすると、別宅の世話をしてくれているおみねが夕餉を手に顔を出した。
「大きな声どしたなあ」
おみねはまるで孫を相手にするような優しい眼差しを総司に向けた。刺々しい殺伐とした気持ちになっていた総司も、ほっと気が緩み、彼女の前では柔和な気持ちになれた。
「…屯所では散々我慢していたから、別宅に来た途端、爆発してしまいました」
「ええ、ええ。土方さまも『きっと煩くなる』とおっしゃっておられましたよ」
「本当に嫌になるなあ。いつもいつもお見通しなんです、あの人は…」
そしておみねの持ってきた夕食の皿に並ぶのも、総司の好物ばかりだ。きっと土方が総司を慰めるために、おみねに準備するように伝えたのだろう。
(子ども扱い…)
そう思わないでもなかったが、食べ物に罪は無いので、有難く受け取ることにする。
おみねは総司の分と共に、自分の夕食も持ってきた。土方が居ないときはこうして二人で雑談を交わしながら夕食を共にするのだ。
「大坂の深雪太夫どしたら、お名前だけは知ってますえ。お美し見目だけやのうて、気立てのよい芸妓やと噂どす」
「…ふうん…有名なひとなんだ」
「決して悪いお人やない思います」
信頼するおみねにもそう言われてしまい、総司は自分だけが反対しているようだと内心ため息をついた。
「でも…近藤先生にはちゃんとした奥方がいらっしゃるんですよ。こうして離れ離れになってしまっても、定期的に贈り物をしたり手紙のやり取りだってしているのに…」
「…ふふふ」
おみねは総司をみて笑った。
「なんですか、おみねさん、変な笑い方をして…」
「へえ。なんや、純朴なんやなあって。うちは、男はんはそういうもんやと思うてました」
「そんなこと…」
「うちも、妾として囲われていた身どすからなあ…」
「え?!」
穏やかに笑うおみねに、総司は驚いた。
「そ、それって…?」
「ふふ、この話はまた今度にしまひょ」
総司の追及におみねは笑って誤魔化すと、ずずずっと味噌汁を啜ったのだった。





367


大坂への旅路は総司の心情とは裏腹に快晴だった。眩しい日差しを傘で隠しながら三人は歩く。
「やあ、いい天気だ!」
道中何度も近藤はそう言い放った。日差しは相変わらず厳しいが、涼しい風が吹き、まるで大坂へ向かう三人を後押ししているかのようだ。
「こうして三人で出かけるのも久々だなあ。残念ながら身請けが終わればすぐに屯所に戻らなければならないが、任務を忘れてつかの間の休暇になりそうだ。なあ、歳、総司!」
「そう…ですね」
「全く、ようやく身請けできるからってあんまりはしゃぎすぎるなよ、近藤先生」
曖昧な返答をする総司と、釘を刺す土方。しかし、有頂天の近藤の足取りは相変わらず軽い。
三人は深雪太夫を身請けするため、大坂の新町へと向かっていた。総司の知らないところで段取りは整っていたようで、仲介人とのあいだでも合意し、すでに身請け金である五百両は準備されていた。五百両なんてお金が新撰組にあったということだけでも総司は驚いてしまった。
大金を払ってまで女を請け出したい気持ちはいまだに理解できなかったが、逆に言えばそれほどまでに近藤は深雪太夫のことを想っているということでもある。嬉々として大坂へ向かう様子を見れば明らかだ。
(本当は祝福すべきなのだろうけれど…)
総司はため息をついた。
試衛館にいた頃、正妻であるつねと家族のように暮らした身としては、近藤が妾を囲うということを簡単に受け入れることはできない。土方の言うとおり、例え跡継ぎのためとはいえつねの心情を思うと居たたまれなくなる。
「ぎこちない」
土方がぽつりと呟いた。先導する小者と談笑する近藤には聞こえていないようので、総司に対しての言葉のようだ。
「…何がですか?」
「お前の態度だ。いいか、前にも言ったが今更話を真っ新に戻すなんてできねえんだからな。既に手付金としていくらか金を払っているんだ。お前はあくまで深雪を迎えに行く近藤先生の付き添いなんだ」
「…わかっていますよ」
そういいつつ、自分の口が尖がっているのは自覚していた。
「それにしても…既に屯所の近くに別宅まで準備しているなんて。土方さんだって私に少しくらい相談してくれてもいいのに」
「お前がごねると思っていたから、お前には黙っておくように伝えていた」
「別に…ごねるわけじゃありませんよ」
総司がそう言うと、土方は「どうかな」と苦笑して続けた。
「お前は案外、頭が堅いんだな。新撰組の局長ともなれば妾の一人や二人、囲っていたって誰も文句は言わねえだろう。体面を気にする必要はない」
「だから文句を言いたいわけじゃないんです。ただ…」
「ただ?」
「…何でもないです」
複雑な心中を上手く説明できる自信がなく、総司は口を閉じた。すると土方はわざとらしくため息をついた。
「お前もお前で相変わらずガキだな…お前だっていずれ同じ立場になるんだ。家事と私事は分けられるようになっておくべきだろう」
「え?」
「忘れたわけじゃねえだろうが、お前だって一応、沖田家の嫡男だ」
「…だから?」
土方の言わんとしていることが理解できず、総司は首を傾げる。すると土方は渋い顔をしつつ続けた。
「だから…いずれお前だって嫁を貰うことになるだろう」
「嫁…ですか?」
「家の為には跡継ぎは必要だろう。俺とお前とじゃあどうやっても無理だ」
土方の意外な言葉に、総司は「はあ」と首を傾げる。
「…でも、土方さんだって同じじゃないですか?」
「同じじゃない。俺は末っ子だし、守るべき家なんかないから、お前とは立場が違う」
「でも、私だって家は義兄さんが継いでいますし、甥っ子もいるのだから関係ないですよ。それに私は嫁を貰うつもりなんてさらさらないし…土方さんはあるんですか?」
「…ったく、何でもねえよ」
「ちょっ、土方さん!」
話を切り上げて、土方はスピードを上げて歩きだしてしまう。そして近藤と合流して何やら話し始めてしまった。
(どうしたんだろう…)
総司は違和感を覚えつつ、二人のあとを歩くのだった。



大坂の新町に到着すると、一行は寄り道もせずにすぐに「折屋」へ足を踏み入れた。総司は初めての店に目を泳がせたが、
「近藤せんせ!」
番頭の男が腰を低くして三人を出迎えた。そして「もうお越しです」と奥の部屋に案内するとそこには京屋忠兵衛の姿があった。
「近藤局長、土方副長、それから沖田組長…長旅、ご苦労さんでした」
「やあ、遅くなってしまった。お待たせいたしましたか」
「いえいえ」
愛想よく笑う京屋忠兵衛は大坂八軒屋の船宿の主人である。かつて新撰組が大坂で警護を勤めた際に知り合い、それ以来新撰組が定宿にさせてもらったりと、何かと世話を焼いてくれている協力者だ。
中年くらいの男だが、笑った時にできる深い笑窪が彼の人柄を如実に表しており、今回の深雪太夫の身請けの一件でも京屋がいろいろと世話を焼いてくれたのだ。
「ご無沙汰しております、京屋さん」
「沖田組長、相変わらず可愛らしい顔してはりますなあ。ああ、そうや、うちの女中たちが会いたい会いたいと言うておりました。良かったら帰りに顔出してやってください」
「ははは…」
「土方副長も、新町にいい女がおりましたらうちの方で話しつけさせてもらいますから、遠慮なく」
「…その時にはそうさせてもらいます」
総司と土方は顔を見合わせて苦笑した。忠兵衛は少しお節介な性格でもあるのだ。しかし、会津藩の力及ばぬ大坂で親身に接してくれる存在は貴重だ。
「深雪太夫は少々支度に手間がかかっているようやということです。もう少ししたら顔を出すかと思いますわ」
「そうですか…いや、ようやく実感がわいてきたなあ」
「何をおっしゃいますやら。今、新町ではあの難攻不落の深雪を近藤局長が落としたってえらい評判でっせ。このご時世に五百両なんて大金をぱーんと出されるなんて豪気な御方やと!」
「いやあ…照れるなあ…」
近藤は顔を綻ばせつつ、照れた様子で頭を掻いた。
総司は近藤の様子を横目で見ながら、ふと不思議な感覚を覚えた。
(近藤先生のこんな顔…見たことがない…)
数年前のつねとの結婚は、出自と家柄そして家を守る貞淑さをつねから感じて結婚をしたと後に語っていた。もちろんだからと言って仮面夫婦ではなくて娘のたまを授かり幸せな夫婦であることは間違いなかった。そして浪士組として上洛する際も別れを心から惜しんでいた。
しかし、目の前の近藤は顔をほんのりと染めてやや緊張した面持ちで深雪のことを待っている。少し落ち着かない様子で、でも表情は嬉々としていて…それはつねといた時とは違う、まるで子供の様なあどけなさだった。
(そうか…)
総司はその表情を見て腑に落ちた。
土方が五百両もの大金を準備してまで、深雪を身請けするのを受け入れた理由。
(先生は…恋をしているんだ)
近藤は深雪に本気で惚れている。恋焦がれている…だからこそ、土方も骨を折って近藤の恋を応援している。土方は幼馴染として近藤の恋を応援しているのだ。
(深雪という人は…それほどまでに良い人なのだろう)
「おや、来はったようですわ」
忠兵衛が声を上げたので、総司はつられて障子の外を見た。ギシ、ギシ、と小さな足音を立てて誰かがやってくる。
「失礼いたします」
声高の声が部屋中に響いた。透き通った声色に総司は思わず背筋を伸ばして構えた。
そしてゆっくりと障子が開く。
「…あ…」
「近藤せんせ、土方せんせ…遠いとこよう来てくれはりました」
にっこりとほほ笑んでいたのは、話に聞いていた深雪に違いない。ほっそりとした輪郭に微笑みを浮かべている姿は、初対面の総司ですら彼女が穏やかな人物であることを印象付けた。
「やあ…元気そうだな、太夫」
「もちろんです。このたびはお忙しい合間に、ほんまおおきに」
深雪は総司の方を見て微笑んだ。
「そちらは…?」
「深雪太夫、こちらは私の一番弟子であり、新撰組の一番隊組長の沖田総司だよ。今日は君に会いたいとついてきたんだ。総司のことは前にも話しただろう?」
「ああ!あの沖田先生…!なんや思うてたよりも可愛らしい御方やなあ。わざわざおおきに」
「は、はあ…初めまして、沖田です」
深雪はおっとりとした語り口で笑うので、戦々恐々と折屋に残りこんだ総司はまるで気が抜けてしまったのだった。



368


引手茶屋にて身請けの大きな宴が催され、大坂の新町は深雪太夫が近藤に身請けされるという話題で一色になった。楼内に赤飯や料理を馳走し、祝儀の包金を配り、妓女は昼夜、近藤による総揚げとなる。身請けのされる深雪太夫も新町中の羨望の眼差しを浴び、二人は派手に祝う人々の真ん中にいた。
まるでお祭り騒ぎの様な身請けの席に立ち会い、総司は正直面食らっていた。江戸にいた頃はもちろん京に上ってからもこのような場に同席したことはない。
注目が二人に集まる宴のなか、
「はああ…」
総司が雰囲気に飲まれ呆気にとられたため息を漏らすと、隣にいた土方が苦笑した。
「なんだ、疲れたのか?」
「そりゃ疲れます。これだけ大勢の人に囲まれて、近藤先生がまるで見世物みたいになってしまって…大丈夫でしょうか」
「こんな祝いの席に襲撃をかけるような馬鹿はいねえよ。深雪太夫の評判は大坂の民衆の誰もが知っている。こんな席に争いごとを持ち込もうとするなら大坂中を敵に回すだろう」
「それはそうかもしれませんし、いざとなれば必ず近藤先生は守りますけど…土方さんはこれで近藤先生の顔が売れたとか上手く行ったとか思っているんでしょう?」
「なんだ、わかってるじゃねえか」
にやりと笑みを浮かべた土方だが、総司にはいつになく彼の気分が弾んでいるようにも見えた。新撰組副長として近藤の名を挙げるという思惑と同時に、親友である近藤が想い人である深雪太夫とともに幸せそうな笑みを浮かべているのが嬉しいのかもしれない。…彼は決してそんなことを口にはしないだろうけれど。
「深雪太夫はどうだった?」
土方はこっそりと訊ねてきた。
「どうって…」
言葉に迷いつつ、総司はちらりと深雪へと視線を向けた。近藤の隣で美しく穏やかな笑みを浮かべている深雪は、目を奪われる美人というよりは、万人に好かれる穏やかな人であることが窺われた。まだ総司とは二、三言しか交わしていないものの、裏表のない好感のもてる女性だと言うことは何となく感じた。それに何よりも、近藤が深雪を見る目線はいつになく穏やかで優しいものだった。
「悪い人ではない…とは思います」
「なんだ、あまり気に入らなかったのか?」
「気に入らないわけじゃありません。ただ…」
言いかけて、しかし総司はやはり口を閉ざした。上手く感想が見つからなかったのだ。
深雪を否定するわけでも、近藤の妾として拒みたいわけでもない。ただ、彼女が新撰組というある意味殺伐とした世界に生きる近藤の隣にいるのが想像ができなかった。
そしてもう一つ理由があったのだが。
「…何でもありません」
正直な感想を口にして華やかな宴に水を差す気持ちにはなれず、総司はそういって誤魔化した。すると土方は何かを察したのか「ふうん」と深くは訊ねなかった。
そうしていると、挨拶回りに忙しくしていた深雪が土方と総司の元へやってきた。煌びやかな着物を身に纏い、太夫島田に結った髪が凛々しい。口元に鮮やかな紅を差した深雪は微笑んでまずは土方の前に座った。
「土方せんせ、このたびは数々の心配り、おおきに。ようやっと近藤先生のもとへ参れますことを、嬉しくおもうております」
徳利を手にした深雪は「さあさあ」と手慣れた様子で土方の盃に酒を注ぐ。本来は酒を好まない土方だが、すぐに受け取った。
「近藤はあなたが京に来るのを、今か今かと待ちわびているようです」
「まあ…うれしい。うちも、はよう京に行ってみとうございます」
些細な会話でも、深雪が言葉と表情に裏表のない女だということがわかる。近藤もまた愚直なほどに素直な性格であるからこそ、明るい性格の深雪に惹かれたのかもしれない。
「沖田せんせ」
「えっ?」
深雪は総司の前に座りなおして、徳利を差し出してきた。あわてて盃を差し出すと土方とは違い、少しだけ酒を注いだ。
「近藤せんせから聞いてます。あまりお酒はお得意やないと。せやからこれは、お近づきのしるしにすこしだけ」
「あ…はい、ありがとうございます」
総司は深雪を前に緊張しつつも、酒を飲みほした。飲み慣れない酒に喉がカッと熱くなったので、顔を顰めていると深雪は微笑んだ。
「ふふ…先ほどは失礼なことをすんませんでした」
「え?何のことですか?」
「可愛らしい…なんて、殿方が言われてうれしい言葉ではありまへんでした」
「い、いいえ、気にしてません」
「ほんまですか?よかった。でもほんまに可愛らしい御方やておもうたんです」
「…はは…」
ぎこちない会話を交わしていると、「太夫!」と別の席から声がかかった。深雪は「ほな」と軽く挨拶をして席を離れていく。あちらこちらに引っ張りだこのようだ。
やり取りを聞いていた土方は笑っていた。
「結局、可愛らしいっていう感想はそのままのようだな」
「何ていうか…不思議な雰囲気の人ですよね」
もともと深雪に対して小姑の様な気持ちで大阪まで出張ってきた自分が馬鹿らしくなるくらい、深雪はまるで浮雲のようにふわふわとしていた。彼女の周りだけゆっくりとした新鮮な空気が流れているようでつかみどころがない。
すると土方は
「ああいうのは間者には向かないだろう」
と意地悪く笑って囁いた。確かに感じた通りの表裏のない素直な彼女なら、間者には向かないのだが。
「…土方さん、そんなことを気にしていたんですか?」
「当たり前だろう」
土方が即答したので、総司は呆れてしまったのだった。


その夜、総司は身請けを祝う新町を抜け出した。
翌日には京に戻ることになっており、なかなか大坂に足を運ぶこともない総司にとって、慣れない大宴会よりも見知らぬ町での散歩の方が興味をそそったのだ。
歩きなれない町だが、陽が暮れても人々は明りの元へ集い酒を酌み交わしている。あちこちで楽しげな会話が聞こえてきて京ことばとはちがう、大坂独特のイントネーションはどこか快活で心地よい。遠慮のない客引きの女を躱しつつ、総司は町のど真ん中を流れる川べりにやってきた。違う場所に来ても、水のせせらぎは京のそれとは違わない。
「ふう…」
総司は橋桁を背にして一息ついた。見慣れない景色でも新町に身を置くよりは随分マシだ。ぼんやりと人が行き交う様子を見ると妙に落ち着いてくる。
けれど本当は、少し距離を置いて頭を冷やしたかったのかもしれない。身請けを喜ぶ深雪を目の前に、言葉にして不安を吐露すれば、それが言霊になるような気がしたから。
(君菊さんだって、明里さんだって…決して幸せになったわけじゃない)
総司が深雪太夫を大手を振って受け入れられない理由。
彼女を目の前に、総司には二人の顔が浮かんでいた。かつて新撰組の為に犠牲になった君菊と、そして愛する人と悲しい別れをすることになった明里のことだ。
新撰組に関わった女は不幸になる…そんな根拠もない世迷言を言うつもりはないけれど、二人とも新撰組が原因で悲しい結末となってしまった。新撰組局長の妾となる深雪が新撰組に関わらないでいられるわけはないのだ。
そして
(…この手で殺すこともあった)
随分昔のことのように思えるが、総司自身も芹沢の妾であった梅を殺した。それが仕方ないことで彼女の願いだったとしても、その結末を選ばせてしまったのが新撰組であることは間違いない。
土方は深雪のことを間者には向かないと言ったけれど、本当のことはわからない。
「…考えすぎかな」
総司はもう一度息を吐いて、頭をくしゃっと掻いた。
新撰組に関わる誰もが不幸になるわけではない。隊士にはそれぞれ懇意にする女がいるだろうし、原田だっておまさを妻としてからは一層気合を入れて隊務に励んでいるようだ。それを考えると、つねのことは気がかりではあるが、近藤の心の拠り所になるのなら良いことなのかもしれない。
少なくとも、土方は新撰組局長が妾を持つリスクよりも近藤の心の安寧を選んでいる。土方のことだから深雪の身辺についても探らせているだろうし、だったら彼の判断を信じるべきなのだろう。
「…よし」
総司はパンパン、と軽く頬を叩いた。深雪が京へやってきたら心から歓迎すればいい。そして君菊の様な同じ過ちを繰り返さないように自分が気を引き締めれば良い…そう思い直したときだった。
「もし…」
「え?」
目の前を通り過ぎるだけだった人混みの中から、ゆっくりとこちらを伺うように一人の女が近づいてきた。深く頭巾を被っているため、灯の影になってその顔立ちはよく見えない。
「新撰組の…沖田総司様ではありませんか?」
その声に聴き覚えがあるものの、総司は女が誰かがわからないのだが、女は総司の顔を知っているようだ。総司は少し警戒しつつも「そうですが」と答えた。
すると女は頭巾を取ると深々と頭を下げた。
「ご無沙汰を…しております」
「え…?」
ゆっくりと顔を上げて微笑んでいたのは
「明里…さん?」
迷いなく総司の目を見つめている明里だった。






369


「明里さん…どうして、ここへ?」
総司はまるで幽霊でも見たように呆然として彼女の姿を見た。
頭巾を被っている明里は旅姿をしていて、一見するとあの華やかな上七軒にいたとは思えないほど地味な姿だったが、しかし顔立ちは間違いなく明里に違いなかった。
「へえ…ちょうど、京へ戻るところやったんです。長崎からの船で、大坂についたところです」
「長崎…」
「異国の先生に見てもろうて、この通りすっかり良くなりました。沖田せんせの姿も…よう見えますえ」
明里は穏やかに微笑んでみせる。盲目の頃の明里はどこか焦点が合っていない視線を向けていたが、今は真っ直ぐに総司を見つめている。
「そうでしたか…まさか、こんなところでお会いできるなんて」
「へえ…良かったら、少しお話しまへんか?」
「もちろんです」
総司は頷いた。
しかし陽がすっかり暮れてしまっていたので開いている店は騒がしい居酒屋くらいしかない。男客ばかりの居酒屋に明里を誘うことは気が引けたが、彼女は
「ここで構いまへん」
と答えたので、手近な居酒屋に入った。よくよく考えれば、彼女もかつては花街で働いていた身だ。こういった男ばかりの騒がしさには慣れているのだろう。
二人で座敷に入る。明里は夕餉がまだだと言うので、適当なものを頼んだ。
「明里さんに会うのは…半年ぶり、くらいでしょうか?」
「…いいえ、そんなには経ってまへんえ。冬が過ぎて春が来て…まだ夏前どす」
「ああ…そうでしたか」
明里との別れは、山南との別れでもある。色々なことがあって随分時間が経ったように思っていたのだが、まだ半年にも満たない様だ。
すると明里はこれまでのことをゆっくりと話し始めた。
「大坂の商家へ身請けされた後に、長崎へと向かいました。異国の先生かて、治せるはずはないと思うておりましたが、このように良く見えるようにして頂きました」
「よく私のことがわかりましたね」
「お声で…」
「声で?」
「へえ、何か呟いておられましたでしょ?癖みたいなもので、まだ目よりも耳の方を頼りにしてしまいます」
明里は苦笑しつつ、続けた。光を取り戻したはずの彼女の瞳が少し翳る。
「ほんまは…もう見えへんかて、ええって思うていました。山南せんせが亡くなった時にうちも死んでしもうた…身請けされたかて、何にも楽しいことなんてあるはずがないって」
「明里さん…」
「でも…現金なものやとおもいます。目が見えるようになったら、こんなにもうちの周りは綺麗な景色やったんやなあって思うて。いろんなことが…うちのなかで、整理がついたんどす」
「整理が…?」
明里はゆっくりと頷いた。そして湯呑を手にして、温かい茶を啜る。しばらくの沈黙が総司には少し息苦しかったけれど、明里はゆっくりと言葉を選ぶように続きを話す。
「…山南せんせはほんに、頭の良い御方やったんやなあと、思います」
「え?」
「うちに残してくれた、最後の言葉…まだ、この耳に残ってますえ…」
『明里…君の名前は『冥利』とも読むんだ。だから、君の未来はきっと仏や菩薩に見守れている。だから、大丈夫だ。何も怖がることはない。この世界は…美しいのだから』
目を細めた明里の表情に、少しの憎しみも怒りもない。まるで山南の隣で微笑むあの頃のようだ。
「長崎で見た海はとても綺麗やったんどす。うちは生まれも大津で、そのまま売られて上七軒に来て…目が見えなくなって。せやから、海ゆうものを見たのは初めてで、こんなにも青くて澄んでいるのかと驚きました。まだこの世の中にはうちの知らない美しいものがある…山南せんせは最後の最後にそれを教えてくれはったんどす」
「…そうでしょうね」
確かなことはわからないけれど、総司には明里の言うとおりだと思った。
山南は脱走してから大津に向かい、そして死ぬ際までの時間で色々なことに思いを馳せたのだろう。それは新撰組の行く末だけではなく、頼るべき人を失う明里の今後のことまで。だからこそ、最後の言葉は、別れの言葉ではなく、これからへの希望を託す言葉だった。
(そんな風に解釈するのは、都合が良いかもしれないけれど…)
そうだと良いと、思える。
あの苦しくて悲しくて仕方なかった出来事を、ただ一人自分のせいだと背負ってきた総司にとって、明里の笑顔は救いでもあった。
そうしていると、店の娘が注文した料理などを持ってきた。
「…そういえば、これから京へ行かれるということでしたけど、もしかして光縁寺へ?」
「へえ。山南せんせのお墓詣りと…それから、お世話になった方々へのご挨拶にも。この目が治ったこともご報告せな。…ほんまは、西本願寺の屯所にも足を運ばせてもらうつもりやったんどす」
「そうなんですか?」
こうした偶然の機会でもなければもう二度と会うことはないだろうと思っていたのに、明里のほうはそうではなかったらしい。
「身請けの際には伊東先生にもお世話になりました。うちを身請けしてくれた旦那様はうちにようしてくれます」
「…そうですか、それは良かった…」
総司は少し言葉に詰まった。
そもそも山南の馴染みだった明里を身請けしようとしていたのは、鈴木だった。それは明里への恋心からではなく鈴木なりの思惑があったらしく正体を偽っての身請けだったのだが、結局は伊東参謀の縁のある商家の次男坊に身請けされたようだ。そして償いか尻拭いか、目の医者を紹介したのも伊東だった。明里は伊東への恩義を感じているようだが、総司から見れば明里は新撰組の事情に振り回されただけだ。
(でも…それでも)
明里が希望を持って生きている。
経過がどうであれ、山南が望む姿で彼女は歩み始めている。だとしたら、山南の願いも叶ったということになるだろう。
「…それに、うち、沖田せんせにも会いにいくつもりやったんです」
「私に、ですか?」
「へえ…」
明里は箸をおいて総司に向き直った。居住まいを正し、まっすぐに総司を見る。
「せんせ、あの時は…ほんまに、すんまへんでした」
「あの時?」
「西本願寺の時どす。うち、何の事情もわからんで、ただただ山南せんせを殺したひとが憎うて、憎うて…沖田せんせかて苦しかったのに、責めるような真似を…堪忍どす」
「謝らないでください!」
明里が頭を下げたのを見て総司は思わず声を張り上げた。幸いにも居酒屋の騒がしさで大声はかき消される。
「あれは…あなたのせいじゃない。それに私が山南さんの最期を引き受けたのも本当のことなんです。だからあなたが謝る必要はないんです!」
責められるべきは自分であり、他の誰もが悪くはない。
しかし明里は首を横に振った。
「へえ…せやったら…おおきに、と言います」
「え…?」
「死のうとしたうちを止めてくださった…うちはいま、心底、生きていてよかったと思ってます…おおきに、沖田せんせ」
西本願寺で悲しみに暮れ、泣き叫んでいたあの時にはこんな日が訪れるなんて思っていなかった。
彼女と二度と会えるとも、またこんな風に向かい合って話す日が来るとも思っていなかった。
そして、そんな優しい言葉を掛けてくれるなんて、夢にも思っていなかった。
「…せんせ?」
「え…?」
「いややわ、泣かんとして」
明里は手拭いを差し出して総司に渡す。
彼女の目が見えなければ、この涙に気が付かれることはなかっただろう。そう思うと、本当に未来というのはわからないもので、
(いくらでも…良くしていけるものなのだろう)
時がやがて、傷を癒すように。
悲しみと絶望の底に沈んだ明里も、心の拠り所を見つけることができたように。
総司はそんなことを思ったのだった。


明里を近くの宿に送り届け、総司は帰路につく。夜はすっかり更けてしまっていたが、月明かりが明るいので提灯は必要なかった。
食事は終始和やかなものだった。明里は長崎までの旅路について話し、子供のように目を輝かせていた。遊郭という檻から出た彼女は視覚を取り戻し山南の分まで明るく生きようとしているのだろう。そしてその人生はきっと、山南に見守られているはすだ。
(明里と書いて冥利…か)
山南らしい言葉に、胸が熱くなった。
また会えるかもしれない。もう会えないかもしれない。けれど、彼女の行く先はきっと幸せなことが待ち受けているはずだ。
そして総司は足取りも軽く身を置く宿に戻る。すると夜も遅いと言うのに土方がまだ起きていて
「遅い」
と怒っている様子だった。
(生娘じゃあるまいし…)
総司は苦笑しつつ「すみません」と謝った。
「…酒でも飲んでいたのか?」
居酒屋に長居してしまったせいで、酒の匂いがしたのだろう。土方が目敏く指摘した。
「いえ…思いがけない人に出会ったんです」
「ん?」
「そのおかげで…なんだか、大丈夫な気がしてきました。深雪太夫のこと…」
全てが上手く行くとは言えない。
深雪太夫も身請けされたところで、幸せなだけの生活が待っているということはないだろう。けれども、何があったとしても明里のように人生が開けることもある。
「そうか」
土方は何も聞かなかった。
月の明るさが差しこんで、部屋が明るく感じられた。




370


慶応元年、夏。
「…暑い…」
西本願寺の屯所から、照りつける太陽を睨み付けながら、総司はウンザリした様子で団扇を仰いでいた。今年は夏が早くやってきたように感じられる。こうして日陰に居なければ、頭がくらくらとしてしまいそうだ。
「先生、西瓜をお持ちしました」
そんな暑さの中でも爽やかな笑みを浮かべて、一番隊の山野が盆の上に切り分けた西瓜を並べたものを持ってきた。小柄で細身の彼は汗を掻く様子さえも清々しい。
「ありがとう。…山野君、こんな暑い日に張り切って働かなくてもいいですよ?」
「いえ、僕はこれくらいの暑さは平気です。先生は暑さに弱いんですよ」
うっかり彼に指摘されてしまい、総司はぐうの音も出ない。そう言えば池田屋で倒れた時もこんな風に暑い日だったのだ。
彼から渡された西瓜を受け取り、早速大きな口を開けて貪る。まだ甘さが足りずに熟れていないものの、冷たくてのど越しが良い。
そうしていると
「俺ももらう」
と淡々とした声が響く。山野はもちろん笑顔で答えた。
「斉藤先生、どうぞ」
「ああ」
斉藤は西瓜を受け取ると、総司の隣に座った。
「巡察はもう終わったんですか?」
「ああ。こんなクソ暑い日に不逞の輩を追い回す羽目になった」
この暑い日差しの中で不逞浪士と追いかけっこになると、いつもよりも数倍疲れることだろう。総司は苦笑して「不運でしたね」と答えた。
「じゃあ、僕、他の皆さんにお配りしてきます」
山野はそう言って離れていってしまうと斉藤と二人、肩を並べて西瓜を黙々と口にした。時折訪れる彼との沈黙が重たく感じる。斉藤は自ら『割り切った』とも言えることを言っていたけれど、その本心は良くわからないのだ。
総司が話題を探していると、
「そう言えば」
と、斉藤の方から口を開いた。普段は無口な斉藤だが、こういう時は先んじて口を開くことが多い。それも彼の気遣いなのだろう。
「え?何ですか?」
「深雪太夫…いや、今は深雪、か。妹がいるそうだな」
「へえ?」
近藤に華々しく身請けされた深雪は別宅で暮らしている。近藤も仕事が終われば大急ぎで別宅に向かい甘い時間を過ごしているようで、この頃は終始上機嫌だ。
「御幸太夫…というらしい」
「太夫、ということは、もちろん花街に?」
「そのようだ。姉にそっくりの容姿だそうで、今はいなくなった姉の分まで客を集めているらしい」
「ふうん…」
近藤や土方からそのような話を聞いたことはなかったが、もちろん二人は知っていることだろう。
「花街から身請けされるのは喜ばしいことでしょうけど、姉妹が離れ離れになってしまったのは寂しいでしょうね」
「ああ。だから、隊内では『そのうち妹も局長が身請けするのだろう』という噂になっている」
「まさか!」
総司は思わず声を上げた。いくら見目が似ている姉妹とはいえ、その人間は違う。近藤は姉の深雪を愛しているのだし、それに姉妹を囲っているともなればさすがに外聞が悪い。
「そんな節操のないことを近藤先生がするはずがありません!」
誠実な近藤に限ってそんなことはない。総司はムキになって反論するが、斉藤は表情を変えずに「大声出すな」と制した。
「噂話、と言っているだろう。むしろ隊士達のやっかみだ」
「ま…まあ、それはそうでしょうけど…」
「ただ、深雪太夫を請け出すのに百両ほどかかった。それを隊の金で工面したことが気に食わない者はいる…そう言うことだ」
「…」
近藤が単なる上司ではなく師匠という存在である総司には気が付きにくいことだが、近藤の振る舞いに反感を抱く者がいない訳ではない。食客であった永倉でさえ以前、近藤に反発したこともあったのだ。
「はあ…」
総司はうだるような暑さのなか、空を見上げた。晴れ晴れとした青い空に照り付ける太陽、茹だる汗をどこか不快に感じていた。


一方。
伊東の部屋に呼び出された内海は羨ましい、というよりも恨めしいという視線を向けた。
「あなたはいつも涼しい顔をして、汗ひとつかいていらっしゃらないですね」
内海の言葉に、伊東はふっと鼻で笑った。
「昔から夏には強いんだよ。汗を掻くと言うのは、剣術の稽古以外は美しくない」
「そういう台詞は内に秘めていただきたいものです」
ため息混じりに内海は小言を口にする。そしてもうこの話は十分だ、と言わんばかりに「それで」と話を変え、声を潜めた。
「彼からの手紙には何と?」
今日、伊東の元には「友人」と名乗る男から手紙が届いていたのだ。もちろん男は「友人」などではなく、先日奈良で捕縛した長州の浪士だ。伊東の考えで再び野に放っている。
内海はその手紙に何か書かれているのではないか、と期待したようだが、伊東はあっさりとその手紙を丸めて捨てた。
「別段、何もない。彼も下っ端の下っ端だ。もともと有益なことなど期待していない」
「は?…でしたら何故手紙など寄越させるのです。目をつけられては厄介では?」
奈良で一度捕縛した男を解放することについて、近藤は賛同したが土方は腑に落ちていないようで伊東に懐疑的な目を向けていた。伊東が最も警戒する相手である土方をわざと挑発するような真似だと、内海は批判しているのだ。
しかし伊東は首を横に振った。
「こうして普段から手紙のやり取りをしていれば返って怪しまれることはないだろう?」
「…そのような子供騙しの様な…土方副長に勘付かれます」
「そうかな。子供騙しの方が、彼の目を誤魔化せるのではないかと私は思うけどね。それに彼は私の『友人』なのだから、何も臆することはないよ」
伊東は穏やかな表情を見せ、内海は(こうやって手玉に取ったのだろう)と思った。一度は捕縛され、死を覚悟した男にこの美しい顔で囁いて、彼の思うままに動かしたのだろう。整った顔立ちもここまで自覚があり、そしてそれを武器として扱うのならそれは「妖美」と言い換えたようが良さそうだ。
(まあ…私も手の内で転がされている一人なのだろう)
内海は内心そう思い、それ以上の追及はやめた。
「…わかりました。ひとまず、その丸めて捨てた手紙をお渡しください。私の方で処分いたします」
「ああ…これか?」
「流石にそのまま屑籠に入れられては面倒なことになります」
「それはそうだな」
伊東は手紙を手にして内海に差し出した。そしてそれを内海が受け取ろうとした瞬間、伊東はその手紙を再び落として、代わりに内海の手首を掴んだ。そして己の方へ強く引いて、内海の身体のバランスを崩してしまう。内海は咄嗟に手をついて俯せで倒れるのを防いだが、これでは伊東を無理矢理押し倒したようにも見えてしまう。
「…何をなさるのです?」
伊東の突然の行動に、内海はしかし驚かなかった。細身で女性的に見える伊東だが、実は豪胆で力があり、こうして人を平伏せてしまうことも容易にできるのだ。それにこういった「遊び」を昔から好んでいた。
「内海は表情が変わら無すぎる。君は感情が欠落しているのか?」
「そんなことはありません。顔に出ない、というだけで今、あなたは本当に困った人だと思っています」
「表情に出なければ、君の言葉が本当なのか、嘘なのか、判断がつかないじゃないか」
伊東はさも残念そうな顔をしたが、内海は、その言葉をそっくりそのまま彼に返したい、と思った。
感情が表に出ない自分。
一方で何枚もの能面を被り続ける伊東。
その二人に何の違いがあると言うのだろう。
「兄上」
そうしていると鈴木の声が聞こえた。
「茶をお持ちしました」
伊東と血を分けた兄弟だけあってよく似た声だ。部屋に響くが、
「…鈴木君、ちょっと待っていてくれ」
何も答えようとしない伊東に代わり、内海が答えた。そして伊東に
「手を離してください」
と訴える。捕まれたままの手首は強く握りしめられたままで、その距離も近い。しかし伊東はにやりと笑って首を横に振った。そしてあろうことか「入りなさい」と鈴木に声をかける。
するともちろん、鈴木は障子を開けた。夏の照りつけるような日差しが映し出す伊東と内海の姿を見て、鈴木は唖然とした表情を浮かべた。何かを察した…いや、誤解したに違いない。どうにか持参した茶をこぼすことなかったようだが、
「…失礼します」
と暗い声を発して去っていく。そして伊東は手首を解き、内海はようやく伊東から距離を取ることができた。
「悪趣味です」
表情がない、と言われた内海だがさすがに顔を顰めた。仲が良くない兄弟だが、それは一方的に伊東が鈴木に距離を取っているだけで、鈴木の方はいまだに「兄上」と慕っているのだ。それなのにこんな場面を見せつけられては、心に傷を負ったことだろう。
しかし、目の前の兄はふっと暗い瞳を浮かべた。
「悪趣味なのはどちらか…」
そう呟いた彼は、その能面を少し外したように見えた。





解説
361脱走した上田末次が朝名を騙り金策をしているのは名古屋であり、捕縛に向かったのは伊東と島田ですが、話の都合上改変しています。
362上田は斬殺されずに、匿われたと言われています。
365男色家の武田に迫られて、土方に訴えて脱退がしたという話もありますが、これは創作の可能性が高いそうです。
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