わらべうた





371


周囲は『順風満帆の人生だ』と、言うが、その通りかどうかは私自身にしかわからない。
そしてその私自身は、決してそうは思わなかった。
恵まれた人生だとは思うが、喜ばしい人生とは言えないのだ。

私は志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として生まれた。
家を継ぐ長男という存在。周囲は私を大切に育てたが、特に厳しかったのは母だった。物心ついた頃には礼儀作法を厳しく叩き込まれて、浮かれた物語などを聞かせる前に古き和歌などを読み聞かせた。今から思えば子供に関心のない父の代わりに立派な跡継ぎに育てることに必死だったのだろうとも思う。
「大蔵、あなたは立派な武士になるのです。その為には誰からも後ろ指を指されないようにしなければなりません」
それが母の口癖だった。私は後ろ指を指されるような行いを何一つしていなかったのに、母は誰よりも周囲を目を気にする性格だった。
その正反対に放置されるように育てられたのが、二歳下の弟の多聞だった。母は私の教育にのめり込み、弟は乳母に世話を任せた。母の偏向的な性格ゆえ、跡継ぎではない次男坊には価値がないと斬り捨てて、目を向けることはなかった…ということだろう。
しかし私は、人なりに弟に対する愛情はあった。血を分けた兄弟という感覚もあり親しくも思っていた。…いや、親しい、などというのは偽善であり、これは同情ともいえる感情だったのかもしれない。自分は母の愛を十分に受け、弟は何も与えられていない…その事実を理解していた自分は、弟へ手を差し伸べることで、自分だけが愛されているという罪を許されようとしたのだ。
…もっとも、聡い私でもその頃はそんな風にわざとらしく弟に接していたわけではない。ただ、幼い私ながらに、弟に対する『申し訳なさ』を感じていただけだ。

そんな私が跡目を継いだのは、意外なことに青年期のことだった。
父は健在であったが、忠明が家老との諍いによって隠居したのだ。諍いの理由はわからないが、おそらく父が責められ、その座を明け渡すしかなかったのだろう。そして当然、長男である私が家督を相続した。
母は大変に喜んだ。彼女としては、自分が育て上げ、自分の思うとおりに成長した息子が家督を継ぐという事実は、自分自身の人生が認められたような心境だったのだろう。父が隠居し、鈴木家の肩身が狭くなったというのに歓喜していた。
そして、弟も喜んでいた。家督を継いだ私に
『おめでとうございます!兄上!』
と満面の笑みで告げた。
私としても、これでようやく母から独立できると思えた。この頃、母の愛情は青年期特有の心情における枷になっていたのだ。
(母の人形は十分だ)
家督を継いだ私には何だってできる。もう母の手は借りない。…そう思えたのだが、人生は上手くは行かない。
父の膨大な借財が明らかになったのだ。
その額は私では計り知れないほどの額で、母は天国から地獄へと突き落とされたかのように絶望し、部屋に引き籠ってしまった。それこそ、「後ろ指を指される」状況となり、母の理想と夢がガタガタと崩壊したのだろう。四六時中泣きわめく声が聞こえた。
そして借財のせいで、家名断絶となり領外への追放となった。
私は母ほど絶望はしなかった。いや、むしろ安堵していた。開放感を味わっていた。
(もうこれで母の思うように生きなくても良いのだ)
家の取り潰しは、家督を継ぐ、という選択しか与えられて来なかった私に差した光のようなものだった。
幸いにも、私には学があった。この点は母に感謝できる。
私は友人に誘われて水戸へ遊学することとなったのだ。

「兄上、水戸へ行かれるというのは本当ですか?」
弟が寂しげに訊ねた。出発を前日に控えていたのだが、弟は何も知らされていなかったのだろう。
旅支度をしながら、私は満面の笑みで答えた。
「そうだ。お家取り潰しになったのは不幸なことだが、これで私の枷は無くなった。思うように生きたところで誰に非難されるわけでもない」
「…ですが…」
「父は私塾を始めるそうだ。お前は父を手伝うといい」
藩を追放された父は、移り住んだ高浜村で私塾を開くことにしたようだ。武士は食わねど高楊枝というが、父は堅実だった。いや、父が本当は堅実な性格だということさえ、この時までわからなかったのだから、この鈴木という家には家族という輪郭はあっても、その事実はなかったのだろうと思う。
そして私はこの家族から離れる。手助けになるのは弟の多聞だけだ。私の陰に隠れてばかりだった弟にも、ついに光が差すのだろう…と思ったのだが、多聞は不安げな表情だった。
「しかし、父上は兄上とともに私塾を開くおつもりのようです。私など…何の役にも…」
母に厳しく育てられた私とは違い、乳母に育てられた多聞だが、学がないわけではない。藩士の子としてそれなりの教育を受けている。私塾を手伝えない訳ではないが、それでも自分に対して卑屈に想いがちなのは私のせいなのだろう。
私は選ばれ、彼は選ばれなかった。私が持っているものを、彼は持っていなかった。
生れながらにその環境で生きざるを得なかった弟は、常に自信がないのだ。
しかし、私はここで立ち止まるわけにはいかない。
母の傀儡に戻ることはできない。
「…多聞」
思えば。
私が弟の名を呼んだのはこの時が初めてだったのだろう。いつも「お前」と呼ばれる弟は驚いた顔をした。自分の名前を兄が知っていたということに心底驚いたのだろう。
「は…はい!」
「お前は決して浅学ではない。私と血を分けた兄弟なのだ…劣るわけがない」
私は膝を折り、腰を屈めた。二歳年下の弟は頭一つ分ほどまだ小さかったのだ。
そして私は彼の肩に手を置いた。骨ばった固い肩だった。
「兄上…」
「父上と母上…この家を、頼むよ」
そしてもう一つ気が付いたことがある。
多聞は私によく似ていた。
顔はよく見ていたはずなのに、不思議とその事実に気が付かなかった。兄弟だから似ているのは当たり前なのに、今まで何も思わなかった。
その多聞の表情がぱっと変わった。今まで見たこともない様な笑みを浮かべた。
「わかりました!兄上!」
まるでその笑顔は向日葵のようだった。
私とよく似ている多聞。血を分けた多聞。
けれど、その笑顔は私には似ていなかった。
唇の口角を等しく上げて、笑い顔を作るように意識して決して上品に笑う私とは違い、多聞の笑顔は歯を見せて顔の左右の均衡が崩れた笑い顔だった。けれど、どちらが心から自然に笑っているかと言えば、多聞の方なのだろう。
そして私はこの時に気がついた。
私の中で、初めて弟に対する劣等感が生れたのだ。
果たして私は幸せだったのだろうか?
母の思うままに育て上げられ、家督を継ぐ方法以外の道を見て来なかった自分に対して、多聞は一体どんな人生を歩んできたのだろう。多聞はどんな気色を…世界を見てきたのだろう。
家を出ることだってできた。次男坊として婿養子に入り別の家の人間になることもできた。武士としての地位を捨てて農民になる道だってあったのかもしれない。
私が難しい書物を読む頃に、彼は野に咲く花の名前を覚えていたのかもしれない。
私がどうでもよい説法に耳を傾けることに、彼は友達と喧嘩でもしていたのかもしれない。
多聞は何を見ているのだろう。
多聞はどんな景色を見ていたのだ?
そうだ。
私は、何もかもを知っているようで、何も知らないのではないか。書物に掛かれている文字だけを知って、その実を知らないのではないか。
それでいて弟よりも優れているなどという勘違いをしているのではないか…。
「…たまには手紙を出す。母上にもそう言っておいてくれ」
「はい!」
私はそう言って話を切り上げて、旅支度へと戻った。その手が、何故だか震えていた。
早く、家を出たかった。何も知らない自分と向き合いたくはなかった。

私はすぐに水戸へと遊学を果たした。水戸藩士の元で神道無念流を学び、水戸学も積極的に学んだ。私が学んでいた古めかしい学問よりも過激な思想に憑りつかれ、のめり込み、傾倒した。
この時が人生で最も輝かしいと思った。自分が自分の意志で生きる…ただそれだけのことなのに、私にはそれが酷く嬉しかった。
もうあの家の戻ることはないのだろう。
私はこの混乱の世の中で、私のできることを、命を賭けてやる。それが私の生れてきた意味であり、私の使命だ。
そう決意を固めた頃。
「おい、鈴木」
と道場で友人に呼びとめられた。稽古を終えた私は滴る汗を拭きながら「何だ?」と訊ねた。
「客が来てるぞ」
友人は答えたが、私には客の覚えがない。
「誰だ?」
「弟だよ」
「え?」
友人の返答に、私は顔を顰めた。弟…多聞のことを思いだすことはなかった。いや、記憶の彼方に、私の意思で消していた。
多聞はただ一人、私の劣等感を刺激する人物だからだ。
「そっくりだな」
友人はそう言って笑った。私も「そうかな」と彼にあわせて笑ったつもりだが、きっと笑えていなかっただろう。
私は早足で待たせているという道場の外に向かった。
するとそこには傘を目深に被った男がいた。
私の知らない弟の姿は、背丈も伸びた『男』になっていた。
「…兄上」
あの頃とは違う、少し低い声。しかしその眼差しはしっかりと覚えていた。




372


数年ぶりに私の前に現れた弟は、久し振りに会った私に恭しく頭を下げて
「父の具合が良くないのです」
と告げた。
私は父親の容体よりも、家を出る前に聞いていた弟の甲高い声がすっかり低くなったことの方が驚いた。自分にとってはあっという間だった水戸での遊学も、時間が経ってしまったのだと思い知らされたのだ。
父を心配する弟に私は「それで?」と問いかけた。私は家を出た時点で、もう縁を切ったようなつもりだった。「手紙を書く」と言って出て行ったくせに、一度も手紙など書いたことはなかった。私の家族への愛情はその程度だったのだ。
「一度、戻ってきてくださいませんか…?」
弟は私の顔色を窺うようにして訊ねてきた。予想できない質問ではなかったが、私はわざとらしくため息をついた。
「…断る。いま水戸を離れるわけにはいかない」
「何故です?父は…今この時にでも、もう…」
「だったらお前はすぐに踵を返して戻ればいい」
「兄上…」
冷たい私の反応に、弟は顔を顰めた。
不思議なものだ。家族に寵愛され尽くされてきた私の方が家族を見放して、生まれた時から劣った存在のようにぞんざいに扱われてきた弟の方が家族を心配している。子は親の思うようには育たないもので、弟は生来素直に生まれてきたようだ。
私の中で家族に対する愛情が欠けている…それは歴然としているのに、弟は食い下がってきた。
「父上が床につくようになってしまってから、母上も憔悴してしまって…夜毎に兄上の名を呼んでいるのです。どうか一目だけでも…」
「お前は何もわかっていない」
「兄上…?」
「私は父に恨みなどない。交わした言葉は少ないが、父として武士として立派な人物であると思っている」
「でしたら…母上ですか…?」
分かりきった質問に、頷く気すら失せた。それに、この年になって母に拘っているなどと思われたくはなかった。
「…わかったなら、帰ってくれ。今から講義が始まる」
私は強引に話を切り上げ、その場から立ち去ろうとした。しかし、そうはできなかった。
「待ってください!」
「?!」
私は弟に強く手を掴まれた。それは思わず私が身体の重心を崩してしまうほどの、振りほどけないほどの強い力だった。
(これが…)
これが、本当にあの弟なのだろうか。陰に隠れて、気弱で、脆弱な…そんな印象しかなかった私にとって、弟が己の意思を前面に出して私を引き留めた、ということだけでも驚きを隠せなかった。
「多聞…」
「お願いです、一目だけでも…私と共に戻ってください、兄上…」
「だから、嫌だと…」
「戻ってくださらないなら、私はずっとここに居座ります」
断れば引き下がると思っていた。私に絶対服従だった弟は、私の言うことは何でも聞くはずだと疑うこともなかった。
しかし目の前の弟は違う。私がいない間に何があったのかはわからないが、己の意思を頑固に貫こうとしている。
彼は子供ではなく、男へと成長を遂げていた。
そしてその強い眼差しに見つめられれば、彼が本当にここに居座り続けるのだろう…ということはすぐに理解できた。
「…わかった。先生に暇を申し出てくるから、待っていろ」
「はい!」
私が掴まれた手を振り払い、部屋を出る。弟が嬉しそうに「ありがとうございます」と礼を述べていたが、振り返ることなく去って行った。
弟に掴まれた手が、その体温を残している。
(何だ…あれは…)
すっかり背が伸びて、声も低くなり、自我を確立している。
それは私の想像する弟ではなかった。


私が弟と共に家に戻り、数日で父は亡くなった。聞いていた通りに母は憔悴していて、とても私の知っている横暴で繊細すぎる母ではなく、年老いた老婆になっていた。母が誇り高くしていられたのは、おそらくは父という存在があったからなのだろう。
父の葬儀が終わった後に、私はすぐに水戸へ引き返そうとしたものの、そうはできなかった。父が経営していた私塾の塾生から講師を懇願されてしまい、四十九日までは、という安易な安請け合いがずるずると延びてしまったのだ。加えて、私が水戸で学んだ新しい学問が田舎では新鮮だったらしく評判を呼び、思いがけず塾生が増えた。
「兄上のお蔭です」
弟は事あるごとに私に感謝を述べた。
成長を遂げた弟だったが、『人に教える』ということには不向きな性格のようだ。大勢を目の前にすると緊張して、すべてが覚束なくなってしまう。その点、水戸で多くの学友たちと学んだ私は、講師向きだったといえよう。そして私自身も塾生の前で弁舌を尽くすことを心地よくも感じていた。
しかし、そんなことを弟に言うわけにはいかない。
「区切りが良い所で私は水戸へ戻る」
「そうおっしゃらず…母上も寂しがります」
「お前がいれば良いだろう」
母への家族としての情は、家を出た時点で失せてしまった。
幼い頃は私を溺愛していた母だが、今ではすっかり弟の世話になっている。あれだけ弟を遠ざけていたくせに、兄である私が母を厭うていると知れば、己の立場が弱くなれば助けてくれる子供の方が可愛い様だ。
私はなお一層、母への軽蔑の気持ちが募った。弟が世話を焼いている姿を見ると、酷く苛立った。
「母上は…本当は兄上に世話になりたいはずです」
弟は少し寂しげに笑った。そんなわけがない…そう口に仕掛けてやめた。
弟の会話は億劫で、母と同じ屋根の下で暮らすことに嫌悪を覚えて。
(それでも私は何故ここにいるのか…)
その疑問に、答えがない。
口では、すぐに去ると言いながら、「行かないで」と言われれば居座る。心は冷め切っているくせに、この居心地の良い場所が私を離してはくれない。
(馬鹿らしい…)
私は内心ため息をついた。
「そういえば…兄上、手紙が届いておりました」
「手紙?」
「ご学友からでしょうか?」
弟が差し出した手紙を受け取ると、さらさらと綺麗な字で私の名前が記してあった。拡げてその差出人の名前を見たときに、
「内海か」
私の表情が綻んだ。
内海は水戸の学友だ。無口だが頭の良い男で、学友の中でも一番気が合うと思っている。
手紙には水戸での状況が事細かに書かれていた。無口な男だが、手紙の中ではまるで饒舌に語っていて、それが面白い。その内海の報告の中で一番目を見張ったのは「江戸へ行く」ということだった。江戸の深川佐賀町にある北辰一刀流の道場に誘われたとのこと。そして
「伊東誠一郎先生が…!」
道場を開いている伊東誠一郎が内海とともに私を道場へと誘ってくれていた。水戸では神道無念流を修めた私だが、北辰一刀流にも興味があった。しかもそれが江戸でも有数の名門道場の道場主からの誘いだ。断る理由はない。
私は即断した。
「多聞、明日には家を出る」
「…兄上…?!」
「またとない機会になりそうだ。こんな田舎にいつまでも居座るわけにはいかない」
私の心は急いていた。
たった半年、水戸から離れていただけだが、この世の中はまるで嵐のように動き始めている。その風に巻き込まれないことには私は何者にも為れないままだ。
私は手紙を懐に仕舞い、すぐに旅支度を始めることにする。
「しかし、兄上、塾はどうするのです…!」
「お前が継げばいい」
「皆は兄上の講義を聞きに来ているのです。私など…!」
「では塾をやめてしまえ」
「兄上!」
横暴だと分かっていても止めれなかった。
私は今までは何をしていたのだ。輪郭しかない家族の情に囚われて、悠々とこんな田舎に留まって。私は私の道を歩むと決めたのに。
(もう振り返ることはしない…)
私は家を出ることを決めた。


その夜。
私は明日には母に家を出ることを告げた。すると母は「わかりました」と淡々と答えた。いつかはこうなる、と母なりに覚悟を決めていたのだろう。こういうところは誇り高い武士の妻らしい姿だ。
一方で、弟とはろくな会話はしなかった。引き留められるだけと分かっていたし、無用なやり取りは面倒だった。
私はさっさと床についた。すぐには眠れなかったが、明日は早いのだと言い聞かせて無理矢理眠った。
すると部屋に誰かが入ってくる気配がした。
母であるはずはない。足腰を痛めた母は一人では動くことはできない。すると思い当たるのは弟だけだ。
(何の用だ…)
兄の寝所に声もかけずに潜り込んで…と不審に思っていると、弟は私の寝所の傍で膝を折った。
まじまじと彼が私を見ているのがわかる。
(何なんだ…)
私は寝たふりを続けた。
すると、近くに弟の体温を感じた。そして
(ん…?!)
私の体は硬直した。全く、予想だにできないことが起こったからだ。
そして弟は逃げるように去って行った。
彼は私に口付けた。
この唇に、何かを刻んだ。


373


朝日が昇る前に、重たい身体を起こして私は身支度を始めた。
ようやく水戸に戻れる…そして、江戸に向かい、学友と共に新たな道を歩き始める。ようやくその旅立ちの朝が訪れたと言うのに、私の気持ちは重い。
当然だ。
(何なんだ…一体…)
私は自分の唇に触れた。何も残っているはずはないのに、感覚だけはしっかりと刻まれていて…不快だった。
弟は何を考えていたのだろう。どういう意図でこんなことをしたのだろう。
いくら考えても答えは出なくて、当然のことながら眠れるはずもなく。結局は出発の時間を早めて、この家を出て行くことにした。答えを出すことをやめたのだ。そうすることでしか、心の整理はつかなかった。
私はできるだけ物音を立てないようにこっそりと部屋を出た。己の家から出るだけだと言うのに、まるで盗人の様な真似をするのは不本意ではあったが、仕方ない。弟に気づかれでもしたら、引き留められるに決まっている。
私は警戒しながら玄関までやってきた。人の気配がない…と安心したのはつかの間だった。
「兄上…」
弟は玄関で私を待っていた。いや、玄関で夜を過ごし、私が出て行くのを待っていたのだ。私は愕然とした。
「多聞…」
「兄上、本当に…行ってしまわれるのですか…?」
「……」
薄暗闇のなか、弟が真摯に私を引き留めようとしているのがわかる。
父が亡くなり、この家には私が厭う母と絆の浅い弟しか残っていない。そのことを考えればこれが兄弟の永久の別れになるだろう、と愚鈍な弟でもわかっていたのだ。
「…私は私のしたいように生きる。お前もそうすればいい。この家を守るなり、捨てるなり…好きにしろ。私は関知しない」
「しかし…」
「さようならだ」
私は弟の言葉を遮って告げた。それ以上はない。それ以下もない。これは別れであり、決別であり…そしていつか忘却されていくのだ。
忘却をされていかなければならないのだ。
弟の顔が歪んだ。そしてぽつりと呟いた。
「…兄上は…私のことが、お嫌いですか?」
「…」
私は弟の問いかけに聞こえないふりをして腰を屈め、草履を履く。弟の質問に応えたくはない…そして今答えるとすれば、「そうだ」という冷たい言葉しか浮かばない。さすがにそれを言い残すほど私は非道ではない…兄弟としての情は微かには残っている。
しかし、弟は私の思いもよらぬことを口にした。
「私が…母上の子ではないからですか…?」
「…な…?」
私は思わず、草履の紐を結んでいた手を止めた。
(何だって…?)
弟は一体何を言った?
血が繋がらない…?
私が唖然としていると同じように、弟も驚いたようだった。
「…兄上は…ご存じなかったのですか…?」
「何をだ…私は、聞いていない…」
「私は…父上が外に作った子なのです。生まれてすぐに産みの母が亡くなり、引き取られてこの家に…」
知らされていなかった事実に驚愕しつつ、しかし同時に私は納得した。
弟が何故、母に疎んじられ不遇の待遇を受けていたのか。乳母に育てられ、何故私とは距離を置かれていたのか。弟が何故、遠慮気味に私に接していたのか…。
全ては、弟が家族ではなかったから。
たった一つの、その理由だったのだ。
「…ですから、母上は今は世話をする者がいないので私を頼っていますが、本当は兄上に世話になりたいはずなのです。血の繋がらない私よりもよっぽど…」
「だとしても私はもう、この家に残るつもりはない」
「兄上…」
いくら母が私を頼っているからと言って、私の結論が変わるわけではない。
それに母だって家を出ることを告げた私に何も言わなかった。引き留めることもなく受け入れたのだから、それでいいということなのだろう。
「では、今度こそ行く」
「…っ!」
私は荷物を背負い、弟に背を向けた。足早に玄関を出て、外の空気に触れた。
もう弟の傍にいたくなかった。
もう何も聞きたくはなかった。
何も…考えたくはなかったのに。
考えてしまう。
じゃあ、あの口付けは何だったというのだ。家族愛だとか兄弟愛とか、異国風の挨拶のつもりか…どうにか穏便に考えようとしていたのに、「兄弟ではない」という事実でそのすべてが崩れていくではないか。
だったら、あれは…
(あれは…)
「兄上…っ!」
弟は私を追いかけてきた。裸足のままで私の後ろに立った。
朝霧が陽の光に照らされている。雲の合間から今日の一日の始まりを告げる。しんと静まった朝に、弟の声が響く。
「私は、兄上のことを…!」
彼が、何を言おうとしているのか。私は瞬間的に、理解した。そして
(駄目だ)
と思った。それを聞いてはいけない。
「何も言うな!」
だから、私は怒鳴った。こんなにも声を張り上げたことはないと言うほどに、声を上げた。
「何も…聞きたくない。お前の言うことは、何も…!」
「あ…兄上…」
「…昨夜のことは忘れる。だから、お前も忘れろ…っ」
「…!」
弟が怯んだのはわかった。気づかれていたという驚きと動揺が背中越しでも伝わってきた。私はそのままその場を去る…不本意ではあったが、弟から逃げるように走った。
私は自分が聡いことを恨んだ。
弟が何を考えているのか、気が付いてしまったことを後悔した。
…彼は私を愛おしく思っているのだろう。兄弟という情を越えた何かを、彼は私に向けている。
(大馬鹿者め…!)
私にとっては弟でしかない。
ただ、それだけしか、ないのに――。




「大蔵さん」
そう呼ばれて、伊東ははっと我に返った。目の前に内海は困惑した表情でこちらを見つめていた。鈴木が持ってきた茶はすっかり冷えてしまっていたので、それだけぼんやりとしていたのだろう。
「…その名前はもう私の名前ではないと言っているだろう、内海」
「そうでした。しかし、甲子太郎さん、というのはいまだにしっくりきません」
「それは同意する」
淡々と述べる内海に、伊東はふっと笑った。
家を出てすぐ、内海と共に江戸の伊東道場に入門した。道場主である伊東誠一郎に気に入られ、婿養子となって「伊東大蔵」と名乗ることになったのだ。
(そう言う意味ではもうあいつとは兄弟でも何でもない…)
名字さえ変わってしまった今では、面立ちが似ていると言うだけだ。他人の空似だと言い切ることだってできるだろう。
「話を戻しますが…いい加減、鈴木君を突き放すのはおやめになったほうが良いのではないですか?実の弟だというのは全隊士が知っていることです。あまり、あからさまに遠ざけては…」
「いいんだよ、内海…このままで」
「しかし…」
「こうしているのが…何よりも、あいつの為になるんだ」
幼い頃からの想いを、鈴木はいまだに持ちつづけている。不遇の扱いばかり受ける弟が唯一助けを求めたのが、兄だった。そして兄は母の寵愛を独り占めにしていることを申し訳なく思い、弟に温情を掛けた…ただそれだけのことだ。なのに、その同情を勘違いして、特別な感情を持つなんて…馬鹿げている。
(いつかその思いは無くならなければならない。それが誰よりもあいつの為だと言うのに…)
伊東は大きくため息をついた。
「…色々嗾けてみたものの、なかなかしつこい。お前との関係を匂わせてみたら良いかと思ったのだが…」
「私をそんなことに利用なさらないでください。ただでさえ鈴木君には嫌われている節があると言うのに…」
今度は内海がため息をついた。
鈴木は、伊東を水戸へと連れ戻したのが内海だと思い込んでいる。あの時の手紙さえなければ、兄はあのまま家にいたかもしれない…弟はそう勘違いしている。だから事あるごとに厳しい眼差しを内海に向けているのだ。
(いずれはこうなるはずだったんだ)
伊東があの家を出るのも。
そしてまた、弟の邪な気持ちに気が付くのも…時間の問題だった。だとすれば結果は同じことであり、だったら内海を恨むのは筋違いだろう。
伊東は不意に、自らの唇に触れた。
あの時の感覚はいまだにここに残っている。
(…全く馬鹿なことをしてくれたものだ…)
夏の何とも言えない暑さがじめじめと身体を虐めていた。



374


真夏の夜は、太陽が隠れていても茹だるような空気だけはそこに充満し続けている。京が山に囲まれた盆地だから、というのもあるだろうが、こんな夜にも関わらず浅黄色の羽織を着て走り回っているせいだろう。
「居たか?!」
「いや、こちらではいない!」
「くそ…!どこに行きやがった…!」
夜番の四番隊の隊士たちが灯りを片手に顔を顰めた。滝のように流れる汗を拭いつつ、彼らが捜しているのは京に潜伏する不逞浪士たちだ。
「まだ遠くには行っていないはずだ。旅籠や民家にも目を配れ!」
「はっ!」
四番隊を纏める松原忠司の号令に、組下たちは四方に別れて駆けだした。血気盛んな組下たちはこんなにも暑いなかでも全力で駆けて行く。松原は夜に消えていく隊士たちの背中を見送りながら
(まったくこんな暑い日に…不運だよなあ…)
と、内心では疲労感を覚えていた。
夏は苦手だ。冬であるならばどれだけ凍える様な寒さでも自分の気の持ちようで耐えることができる。身体を動かすのは好きだから、走り込みでもしていれば身体は自然と熱くなる。しかし、夏のこの暑さを凌ぐにはただただ時が過ぎて秋がやってくるのを待つしかない。
こんな暑い日々の巡察は、何事もなく…ましてや不逞浪士との追いかけっこなんてせずに済むのが理想だ。しかし今日はそうは行かなかったらしい。
(ツイてないようだ)
松原は走り出した。本来であれば隊士達とともに二人一組で行動するのが常だが、今日は暑さにやられて一人が屯所で寝込んでいるので、松原は単独行動になっている。
(どうか…当たりませんように!)
決して口にはしないものの、何となく気持ちは弱気になっていた。
不逞浪士を捕縛して手柄を挙げたいという気持ちはあるが、しかし結果は命あってのことだ。それに松原の得意は剣術ではなく柔術であるので、数人の敵に囲まれると太刀打ちできない。今宵が最後の日になるのか…。
そこまで考えて、松原はかぶりを振った。考えすぎだ、と己に言い聞かせた。
(悪い想像ばかりしてしまうのは、この暑さのせいかもしれない…)
しかし何故だろう。
悪い予感は拭えなかった。

松原は片っ端から民家を訪ねて不逞浪士の姿を探した。真夜中の訪問に十人は決して良い顔をしなかったが、それでも浅黄色の羽織を見ると恐縮して背筋を伸ばした。
「そのような者は見ておりません」
「そうか…」
「ご苦労さんどす」
冷たく言い放った老人はパシリと戸を閉めた。横柄な態度ではあったが、松原は
(申し訳ないな…)
と本気で思っていた。
松原は新撰組がまだ壬生浪士組と名乗っていた頃、一番最初の入隊試験で加わった。最初は興味半分、会津から給金が出ると言うことだったので(金がもらえるならば)と軽い気持ちで入隊した。
『たかが浪士の自分たちが、何かできるわけでもないだろう』
会津お抱えといっても、それは人数不足を補うため。居ても居なくても良いのだろう…正直、そんな風に呑気に考えていた。
しかし、松原の予感は外れた。
新撰組は八月十八日の政変、池田屋、蛤御門の変…次々と名を挙げていった。今ではこの浅黄色のダンダラ羽織を見るだけで人々は畏怖を抱き、怖がるように距離を取る。それを「気持ちがいい」と思っていたのは最初だけで、このところは寂しさを感じている。
(俺たちは…京を守っているのに)
まるで自分たちが京の安寧を乱しているような気がして、邪魔なのは自分たちなのではないかと思い始めた。
誇りを持って歩けられなくなったのは、いつからだろうか。
ただただ、任務をこなしているだけではないのだろうか。
そんなことを考えていると、遠くで激しい笛の音がした。
「! あちらか…!」
新撰組隊士たちが常に持っている笛の音は、その音で敵がいることを仲間に知らせる。松原はすぐに音が鳴る方へ走り出した。入り組んだ細道を駆け抜けつつ、音へと近づいていく。
松原は刀を抜いた。できれば血を流すことなく捕縛するのが理想だが、そうもいかなかったからこそいまだに笛の音が激しく鳴り響いているのだろう。
(もうすぐだ…!)
一歩、また一歩と近づいていく。この角を曲がれば…おそらくは。
「あっ…と!」
松原の思惑とは外れ、右に曲がってすぐに黒い影にぶつかった。スピードを出していたのは松原の方だったので、相手を突き飛ばす形になってしまった。
「すまない、急いでいたもので…」
咄嗟に謝った松原は相手に手を差し伸べた。しかし、その手に重ねられることはなかった。
「新撰組か…っ!」
突き飛ばされた相手…その男は松原の浅黄色の羽織を見るや跳ね上がるように立ち上がり、落としていた刀を手にした。薄暗闇のなかで、松原を射抜くように睨み付ける。
(落としていた…ということは、抜いていたということか!)
松原は男がこの先の新撰組から逃げている不逞浪士の一人だろう、と察した。ここで逃がすわけにはいかない、と差し出していた手を刀に持ち変える。
「大人しく捕まるんだ!」
「くそ…っ!」
男は雄たけびのような声を上げて松原に刀を振り落した。しかし、既にどこかに怪我を負っていたようで、その力は弱弱しい。
松原は相手の刀を打ち払った。そして致命傷にならない太腿に、軽い一太刀を浴びせた。
「ぐああああああっ!」
男は地面に倒れ込み、足を抱えた。痛みに悶絶する姿を見て、松原はちくりと罪悪感を覚えた。
(いつからだろうな…)
殺すことを億することになったのは。
出来れば殺したくないと思うようになったのは。
「…情けないな」
松原は刀を鞘に収めつつ、呟いた。
殺したくない、というのは、死にたくないと同義なのかもしれない。生きていることに執着しているからこそ、死を齎すこの刀が怖い。
(もっともそんなことを知られれば、切腹もんだよなあ…)
松原は苦笑した。そして懐から笛を手にした。この男を捕縛して屯所に連れて帰れば任務は終わり。無事に屯所に帰還できる…そう思った時だった。
「最早、これまで…!」
それまで唸り声をあげていた男がそう叫んだ。
「…あ…っ待て…!」
しかし、松原が気が付いたときには既に遅い。男は最後の力を振り絞るようにその刀を首筋に押し当て、絶命をしていたのだ。
先ほどまで息をしていた一人の男が、ただ一つの骸となる。力を失って、道端に転がる。
男が痛みを堪えきれなくなったのか、それともこの先に生きる希望を見いだせなかったのか…松原にはわからない。
ただ、
「むなしいな…」
死んでいった男も。
そしてその命を奪った自分も。
そう思った。


翌朝。
「…結局、三人とも自害…か」
松原は夜が明けるのを待って、副長である土方の元を訪れて言の顛末を説明した。男は三人組だったようで、松原の目の前で自害した男以外の二人も同じ道を選んだらしい。
彼らは自分たちのことを『志士』と呼んでいる。志を持ったさむらい…その精神に則って、捕縛され志を失う前に自らの命を絶ったのだろう。天晴ともいえる、最後だった。
「…申し訳ありませんでした」
新撰組の巡察では、捕縛が重要だとされている。死んでしまっては必要な情報も得られず、敵を警戒させるだけになるからだ。
三人共を自害させてしまった失態を詫びたが、土方は
「まあいい」
と返したので、松原は安堵した。
土方は続けた。
「結局は男たちが討幕派の浪士だったのか、それともただのごろつきだったのか分からん。監察に確認をさせたが、顔は見たことがないということだった」
「そうでしたか…」
「持ち物も財布だけ。手紙の類もなかった。…ああ、いや、これを持っていたな」
土方は懐から何かを取り出した。そしてそれを松原に向かって乱暴に投げた。
松原は目の前に転がったそれを手にした。普段なかなか目にする者ではなかったが、
「…簪、ですか?」
とすぐに分かった。
「お前の前で自害した男が持っていたものだ。女への贈り物だったのか、なんなのかはわからねえが…」
「……」
松原は胸が締め付けられるような思いを感じた。
簪は鼈甲で作られていて、そこそこ値段の張る品物のようだ。男の身形は左程金を持っているというわけではなかったので、格別の想いがある簪だろう。
女への贈り物か、母からの形見か…そのどちらにしても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
土方は
「一緒に葬ってやるか?それとも持ち主を捜すか?」
と訊ねてきた。男が肌身離さず持っていたものだとしたら一緒に冥土に持って行かせる方が良かったのかもしれない。
しかし、松原は
「俺が捜します」
と、すぐに決断して簪を強く握った。
自害させてしまったことを後悔しているわけではない。新撰組の隊士としてやるべきことをやっただけだということは理屈としてわかっている。
けれど、感情は違う。
(…この簪だけは)
男のことを知っている者に渡したい。そうしなければ、自分の気持ちが収まらない。
(俺は、同情しているだけだ…)
そうわかっていても、その選択しか松原にはなかった。
「…そうか」
土方は松原の選択に何も口出しはしなかった。淡々と受け入れるだけだった。




375


松原は土方への報告を終えると早速、出掛けることにした。今日は非番であるし、四番隊組長の立場ではいつまでも感傷的になって引き摺るわけにはいかない。
(仕方のないことだったんだ…)
松原は心の中で何度か繰り返した。
結果的に男を死に追いやったのは自分だが、そうしなければこちらが殺されていた。一昔前では考えられなかったことだが、優美な姿を見せる京がいまは戦場になっている。いつだれが死んでもおかしくはない…そういう場所で相反する敵同士が出会った故の結果だ。
(この簪の持ち主も…分かってくれるだろう)
松原は懐から簪を取り出した。土方から受け取った時には気が付かなかったが、それはまだ真新しいもののようで使用した形跡がない。母親の形見、というよりは女への贈り物の方が正しいのだろう。鼈甲の簪には男の想いが籠っているようで、酷く重く感じる。
それを考えると持ち主を「捜す」と言い出してしまったことへの後悔が芽生える。
(参ったなあ…)
ため息交じりに頭を掻いていると
「松原さん」
「はっ…はい!」
突然、後ろから呼び止められた。振り返えると穏やかな表情で微笑む総司がいた。
「お、沖田さん。おはようございます…」
「おはようございます。松原さん、今日は非番ですよね?」
「え?…ええ、はい、まあ…」
まだ朝も早いと言うのに、総司は稽古で一汗を掻いてきた様子だ。袖をたくし上げてその細腕を躊躇いもなく晒している。
(この細腕のどこに力があると言うのだろう…)
松原が毎度のことながらも不思議に思っていると、総司が
「丁度、一番隊も非番なんですよ。良かったら柔術の稽古をお願いできませんか?」
と誘ってきた。剣術は新撰組の中でも一、二を争う腕前の総司だが、このところは柔術に凝っているらしい。柔術師範を勤める松原はタイミングが合えば一番隊の平隊士とともに総司に稽古をつけていた。
(…とはいっても、沖田さんに稽古をつけるのは少し緊張するんだが…)
花形の一番隊組長、そして副長の想い人…ともなれば、怪我をさせるわけにはいかないという意識ができ、投げ飛ばす力も緩めざるを得なくなるので、やりづらくもあるのだ。勿論、そんなことを彼は気が付いていないだろうが。
「あの…すみません、今日は…ちょっと…」
「もしかして、女に会いに行くんですか?」
「え?」
「それ、簪ですよね」
総司は目敏く松原が手にしていた簪を見つけた様で指さした。松原は慌てて懐に仕舞うが、総司はにやにやと笑っていた。
「こ!これは…!」
「知らなかったなあ、親切者の松原さんに良い人がいたんですねえ。私は黙っておきますけど、原田さんにでも知られたら一気に話が拡がりそうだから、気を付けてくださいよ」
「ち、違います!これは昨日の…!」
「昨日?」
「あ!」
瞬時に、松原は余計なことを口走ったと思ったが既に総司は好奇な眼差しを向けている。
「…実は、その。昨日、巡察に際に自害した男の持ち物で…」
話しながら、
(こういうところで適当な嘘がつけないのは、性格故なのだろう…)
と自分自身で苦笑した。あれこれ策を巡らすのは苦手なのだ。
しかし事情を話し終えると、総司の表情は少し困惑したものへと変わっていった。そして
「…あまり関わらない方がいいんじゃないですか?」
と苦言を呈された。
「え?」
意外な返答に松原の方が驚いた。普段は話をしても茶々を入れるか、冗談で交わす総司にしては珍しい。
「その簪が死んだ男の大切な人へのものならば、渡してやるのも親切かと思いますけど…それが新撰組の、しかも自害へと追いやった直接の相手…というのは、相手としても受け入れ難いでしょう」
「…それは…そうです…」
総司の指摘はもっともで、松原が思い至らなかった点だ。
この簪を渡した自分は満足するだろう。これで死んだ男も成仏されるはずだ…と、そんな安易なことを思っていた。しかし、渡される身としては松原を前に悲しみ、怒り、罵倒ことだろう。決して喜ぶことはない。
「…まあ、でも。土方さんが良いと言うのなら、それでも良いということなのかもしれません。私が口を出すようなことじゃありませんよね」
松原の表情が淀んだのを察したのか、総司はそう言って話を切り上げた。そして「じゃあまた時間があるときにお願いしますね」と笑顔で去って行ったのだった。


松原は迷いつつ、屯所を出た。
総司に指摘されたことはその通りであり、そこまで考えが至らなかった自分を反省した。しかし、その一方で土方に「渡す」ということを述べてしまったので、それを今更撤回するのも億劫だったし、この簪を捨てる気にはなれなかった。
松原はひとまず昨日の巡察の現場へと向かうべく、大通りからいくつかの角を曲がった。記憶を頼りに昨晩、駆け抜けた細道を辿ると、ある一角に血だまりの痕があった。
(ここか…)
もちろん、既に男の死体はない。町衆によって引き取られたはずだ。しかし、そこには男が死んだあの時の生々しい記憶が確かに刻まれていた。
松原は手を合わせて目を伏せた。自らが手を下したというわけではないが、それでも罪の意識はあった。己を責める気持ちがあった。
(罪…か…)
幕府に反抗する者たちを捕縛する。そして治安を守る…その自分たちの行いを間違っているとは思わない。けれど命まで奪うことには懐疑的な想いがある。そこまでしなくてもいいのではないか、と思ってしまう。
そんな自分を、土方は甘いと言うのだろう。
…でも、山南は何と言うのだろうか。
壬生にいた頃、松原は山南と共に「新撰組の親切者」と呼ばれていた。自分では特段、変わったことをした覚えはないが、好意で住まわせてもらっている壬生の人々に感謝の気持ちは忘れないようにしていた。通りすがれば挨拶を欠かさず、困っている人がいれば手を貸した。そうしていることで自分自身が許されているような気がしたのだろう。
これでいいんだ、と思うことができた。
けれど、最近は良くわからない。これでいいのか、この生き方でいいのか、このままでいいのか…と悩んでしまうことが増えた。
(俺は…この先も、これでいいのだろうか…)
松原が手を合わせたまま考え込んでいると、パタパタとこちらに走ってくる足音が聞こえた。足取りが軽いので子供のものだろう…そう思い、目を開けるとやはり子供の姿があった。松原の半分の背丈もないほどの女の子だ。昨晩の血だまりを前に、しゃがみ込んでいる。目を丸くして興味津々の様子だ。
「おい、君…」
こんなところに遊びに来たのだろうかと思ったのだが、そうではなかった。
「おかあちゃん!」
突然子供が立ち上がり、そう呼んだ。松原の、その後ろを見ていたので松原は振り返る。すると、その子供の母親らしい女が、此方に向かってふらふらと近づいてきた。
両手を口元に当てていてよくわからないが、その表情は酷く青ざめている。まだ若い女のようだが、生気を失い、今まさに倒れそうだ。
「だ…大丈夫か?」
松原は思わずそう問いかけたが、女はそれを無視して松原の傍を通り過ぎた。そして血だまりを見て、膝から崩れ落ちた。
「ど、どうした?!」
力を失ったように倒れこむ女を、松原は慌てて支える。すると女は両手で顔を覆い、嗚咽していた。女は言葉にならないほどの悲しみに暮れていて、身体を震わせていた。ぽたぽたと地面に涙を落とし続けている。
そしてその嗚咽の中でようやく聞き取れた言葉は
「…旦那様ぁ…」
というものだった。
松原は咄嗟に女を慰めていた手を止めた。
(もしや…)
血だまりを前に泣きじゃくる女。彼女がこの簪の持ち主ではないのか。
(…だとすれば…)
泣きつづける女の傍で「おかあちゃん」と何度も呼ぶ子供が、あの男の子供か。
全てを察した瞬間、松原もまた血の気が引く思いがしして、女を慰めていた手を慌てて引っ込めた。
自分には彼女たちの悲しみを慰める権利などない。悲しませているのは自分自身なのだから、彼女の肩に触れて励ますなんて馬鹿げているし、喜ぶはずがない。
(だが…)
子供のように泣きじゃくり、旦那様、旦那様、と呼ぶ女を放ってはおけない。
それは「親切者」と呼ばれる自分の性格のせいか。
それとも…。
松原はもう一度、彼女の細い肩に手をのばした。そして、引き寄せた。そして女もまた悲しみをぶつける様に松原の胸の中で泣きつづけたのだった。


376


その夕方。
松原は悲しみに暮れる女の肩を抱きながら、とにかくその場所から離れた。身体の芯から力が抜けてしまったのか、女は寄りかかるように松原にすべてを任せていて、辛うじて歩いているようなありさまだった。その為、すれ違う人々から見れば仲睦まじい若い男女…のように見えてしまうかもしれない。松原は冷や汗をかくほど緊張していた。女と歩くなど久しぶりのことだ。
「おかあちゃん、どないしたん?」
事情を知らない子供は女にたびたび声を掛けるが、反応はない。彼女には何も聞こえていないのかもしれない。
「…お母さんは具合が悪いんだ」
女を支えつつ、代わりに松原が答えると、
「おっちゃんだれ?」
と子供は不審そうに見た。尤もな疑問だが、松原は困惑した。
(誰…と言われても…)
子供相手に馬鹿正直に答える必要はないにせよ、新撰組だと名乗るのは塩梅が悪い。松原はひとまず「通りすがりだ」と答えて家まで案内してほしいと頼んだ。
その案内でほどなく、家には辿りついた。複数の家族が狭い路地に家を構えているような場所で、一目で生活に苦難しているのがわかる住まいだ。しかし子供にとってはこれが自分の生活であり、家であることは間違いない。特に気負うこともなく
「なか、入ってええよ!」
とギギギと開きの悪い扉を開けつつ、松原を招き入れた。
土間らしき場所に足を踏み入れる。障子は破れ、畳は擦り切れていて、最低限の家財道具しかない狭い部屋だ。するとようやく女も意識がはっきりしてきたのか
「すんまへん…」
と呟いた。蚊の鳴くような声だったが、それまで受け答えがなかっただけに、松原は安堵した。
「ここがあんたの家か?」
「へえ…もう大丈夫やさかい…」
「そうはいかない」
女はそう言ったが、相変わらず身体に力は入っていない様子だ。松原は子供に布団を敷くようにと伝えると、子供は素直に薄っぺらな煎餅蒲団を敷いた。松原は女を抱きかかえて部屋に上がる。
(軽い…)
普段、隊士相手に柔術を教えている松原からすれば女はとても軽く感じた。何の重さも感じない、それでいて柔らかくて滑らかで…まるで絹のようだ。
(…って、何を考えているんだ…俺は)
松原は自分の邪な考えを振り切るように、女を布団の上に横たえた。そして傍に合った羽織を掛けてやる。男物の羽織だ。
「おおきに…」
そう言った女の目が潤む。
(あの男の…ものか…)
羽織の持ち主に思い至って、ちくっと胸が痛んだ。
「おかあちゃん、病なん?」
傍に居た子供は人懐っこい性格のようで、松原に問いかけてきた。
「病ではない…が、しばらくは寝かせてやるんだ。静かにしているんだぞ」
「ふうん…わかった」
「それから、これを…」
松原は懐から財布を取り出し、小判を一枚、子供に握らせてやった。一両あれば彼女たちの当面の生活はこれで大丈夫だろう。松原はこっそりと握らせてやったつもりだったのだが、
「わあ、お金や!小判や!」
と子供が嬉しそうに声を上げてしまった。物珍しいのか、見たことがないのか、子供は興味津々だ。しかし、女ははっと目を見開き、急いで身体を持ち上げた。
「あかん!あきまへん、そんなん…!」
「いや、いいんだ。それにこれも…何かの縁だ。この金で滋養のつくものをしっかり食べるんだ」
「でも…」
「いいんだ、気にするな」
新撰組の組長の給金は破格すぎて、女遊びをしない松原には手におえない金額なのだ。それを目の前の女に渡すことには何のためらいもなかった。
女はしばらくは難しい顔をしていたが、
「おおきに…すんまへん…」
と受け入れて、再び横になった。
「…じゃあ、俺はこの辺りで…」
いつまでも女の家に入り浸るわけにはいかない。新撰組だと気が付かれでもしたら、女をさらに傷つけてしまうことだろう。松原は財布を懐に直して去ろうとしたが、立ち上がった時にその懐から簪が落ちた。
「あ…」
「なに?これー…綺麗やなあ!」
松原が拾い上げる前に、子供は簪を手に取り笑う。しかし女の表情は青ざめた。
「…それ…」
彼女の持ち物なのか、それとも男のものなのか…どちらにしても女はその簪のことを知っていたようだ。松原は咄嗟に
「あ…いや、その…落ちていたんだ、あそこに…」
と、嘘をついた。手折れ、枯れ果てたように泣く女に、正直に話す勇気はなかった。
「それ…旦那様…の…?」
「わ、わからん。ただ落ちていたのを…拾っただけで…」
嘘に嘘を重ねる。罪悪感が募り、声が震えていた。
しかし女は気が付かずに、再び身体を起こすと子供の手から簪を受け取った。そしてまた一筋の涙を落とし、その簪をぎゅっと握りしめた。
「…これ…うちが、欲しいって…ねだってた…旦那様、買ってくれはったんやなあ…」
「……」
簪は女への贈り物だった。最後の贈り物だ。
男はこれをどういうつもりで買ったのだろう。小銭をかき集めて買い求めたのか、愛する女を驚かせようと懐に忍ばせていたのか。
(それを…新撰組の隊士である、俺が渡したのか…)
皮肉なことに男を死へを追いやった自分が彼女へ届けた。
その事実は松原をずん、と心に重石を抱えたような気持ちにさせた。
『あまり関わらない方がいいんじゃないですか?』
今になって総司の言葉はその通りだったのだと実感した。女にとっても、そしてまた自分にとってもこれは不幸な出来事にしかならない。
「…では、これで…」
松原は急いで立ち上がり、草履を履き家を飛び出た。逃げるように振り向くこともせず。子供が「待って」と言ったような気がしたが、聞こえぬふりをして去った。
狭い路地を抜け、大通りに出る。人が行き交う街中でひっそりとため息をつく。
(滑稽だ…)
そう思わざるを得なかった。


同じ夕暮れ時。
「難しい顔をしているな」
別宅で食事を共にしていると、土方がそんな風に言った。総司は首を傾げた。
「そうですか?おかしいなあ…おみねさんが作る夕餉は相変わらず美味しいのに」
「お前がそういう顔をしている時は、大抵何か悩んでいるのか、気になることがあるんだろう」
「気になること…かあ…」
総司は箸を置き、味噌汁を啜った。京風の白みそはどうにも口に合わなかった為、おみねに江戸の田舎味噌を使うように頼んでいる。その点は土方とも一致していて、二人とも料亭の味噌汁よりもおみねのそれのほうがおいしいと感じるようになっていた。
「土方さんは…松原さんの行動を止めなかったんですよね」
「松原?…ああ、お前が気になっているのはそれか」
「死んだ男の形見を届ける…なんて、松原さんには荷が重いんじゃないですか?」
「そうかもな」
土方は淡々と返答をして、続けた。
「だが、松原は隊士ではなく組長だ。立場がある自分が決めたことなんだから、責任を持つだろう」
「まあ…それはそうなんですけどね」
「お前ならどうするんだ?殺した相手から形見を預かったとしたら」
土方は夕餉を食べ終えて箸をおき、姿勢を崩しつつ訊ねた。総司もまた同じタイミングで平らげたので箸を置く。
「私なら…自分は関わらないですね。小者に頼んで送り届けるかな…」
「それは逃げるってことか?自分が殺したっていう罪悪から正面から向き合うのを」
「…なんだか意地悪な質問をしますね」
総司が訝しむと、土方はふっと鼻で笑った。雑談のつもりなのだろう。
「私が逃げるのだとすれば…許すって、誰からも言われたくないからかもしれません」
「ふうん?」
「そもそも人一人を殺しておいて許してもらえるなんて思いませんが、もし万が一にも許されたとしたら…この剣を振るう重さが軽くなってしまいそうで、それが…怖いのかもしれません」
許されないからこそ、刀の重さを、命の尊さを感じることができる。自分の行いを、自分に背負わせることができる。もし許されてしまったら、何も背負うことなく生きていくことになってしまう。
総司はそこまで考えて、しかし息を吐いた。
「…やめましょうよ、こんな話」
寛ぐために足を運んだというのに、仕事の話ばかりでは窮屈だ。土方も「そうだな」と頷いて、今度は手招きをした。
「こっちに来い」
「少し待ってください、御膳を下げないと…」
「いいから」
少し強引な土方の我儘はこの別宅で、二人きりでなければ聞けないものだ。だからこそ総司も許してしまう。
手招きをされるままに近づき、手をのばした土方に自らの手を重ねた。
夕暮れの褐色の太陽はいつの間にか落ち、薄暗い夜が空を覆っていた。


377


夏にしては珍しく、今日は朝から雨が降っていた。多少じめじめと空気は重たいものになっているが、日頃の身を虐める様な暑さに比べれば過ごしやすい。
壬生の屯所から移築した新撰組の道場では、今日も隊士たちが稽古に励んでいた。新撰組では撃剣師範、槍術師範、砲術師範…と各部門に師範を置き、そのもとで稽古を重ねることになっているが、今日の当番は柔術師範たちだ。普段は竹刀や木刀のぶつかる音が木霊しているが、今日は床に叩きつけられる鈍い音ばかりだ。
「もう一本!」
「まだまだ!」
隊士達の威勢の良い声が響いている。
柔術師範は三人いる。伊東甲子太郎の腹心の篠原泰之進、池田屋以前の古参隊士である柳田三二郎、そして四番隊組長の松原忠司だ。三人とも目で見て明らかなほど体格がしっかりしている。
「…松原先生?」
「おっ…おう?どうした」
稽古の様子を眺めていた松原は突然声を掛けられ驚いた。声の主は四番隊の組下だ。
「あちらで沖田先生が稽古をお待ちです」
「あ…ああ、そうだった。すまない」
「はあ…?」
いつもは師範として誰よりも積極的に稽古に臨む松原がぼんやりとしているのは珍しい。声を掛けた隊士も首を傾げていた。
(いかん、いかん…)
松原は袴の紐を結び直しつつ歩いた。
あの日、女と出会ってから数日。
逃げるように立ち去ったというのに、頭の中ではあの女のことばかりを考えていた。
『ちゃんと飯を食っただろうか』
『死を選んだりはしていないだろうか』
『まだ泣いているのだろうか』
寝ても覚めても心配は尽きず、こっそり女の元へ足を延ばそうかと考えたこともある。もう一度会って、元気な姿を見れば自分も安堵できるのではないか…しかしそれを寸でのところで踏みとどまったのは、やはり自分がどの面を下げて彼女に会えるのだろうか、という罪悪感があるからだ。
悲しませている元凶は自分自身だと言うのに。
松原は固く結び直し、総司の前に立った。
「よろしくお願いします」
いつも通りの穏やかな表情の総司を前に、松原は覚束なく「お願いします」と答えた。
(いかん…この人を見ると、思い出してしまう…)
あの日言われたセリフが、その通りだったということを。
しかし、松原の戸惑いをよそに組手は始まった。
お互いの隙を狙って手をのばす。素早さではやはり撃剣師範だけあって総司の方が上回るが、経験や体格では松原の方が上だ。掴まったとしても、簡単に体勢を崩されることはない。
(早く…終わらせよう)
松原は総司の襟の辺りを掴む。ぐいぐいと引き寄せるが、なかなか思うようにはいかない。も反対の手で彼の左手を掴むと、やはり思った以上に細い。
(あの女も細かった…)
泣きわめく女を抱き寄せ、抱え、家におくった。女はまるで綿か雲かというくらいに軽かった。肌は白く、大きな瞳から涙を流し、赤い唇が印象的で…
(って、何を考えているんだ、俺は…!)
心の動揺は、身体にも表れる。それは正直者と言われる松原の性格ゆえかもしれない。
総司にあっさりと襟を掴み返された。そして足を差しこまれ、バランスを失ってそのまま後ろに倒れた。上に乗りかかった総司は、素早く腕を回して絞め技に掛かろうとする。どんなに細腕でもそこは新撰組随一の遣い手だ。腕力は女の比ではない。
「こ、降参!」
松原は思わず声を上げた。
すると上に乗りあげている総司は
「やっと一本取れました」
と満足そうに笑った。そして腕を解き、松原からも離れる。
「は、はは…沖田さん、腕を上げたようですね…」
松原はどうにか笑って、総司に語りかけた。膝をつき、立ち上がる。すると総司は「そうでもありません」と首を横に振った。
「今日は松原さんに隙があったのだと思います」
「え…」
「それに、簡単に負けられると困りますよ。柔術師範、なんですからね」
総司の表情は穏やかだったが、しかし一方で窘められているような気がした。つまらない想像や憶測に囚われていないで、柔術師範、そして四番隊組長としてしっかりしろ…そう言われているように聞こえた。
「…そうですね…ちょっと顔、洗ってきます」
「そのほうが良さそうです」
松原は総司に一礼し、そのまま道場を出て行く。その背中は少し丸くなっている。
総司は彼の姿を見送りつつ、一息ついた。すると
「松原は一体どうしたんだ」
と斉藤がやってきた。同じ撃剣師範の彼だが、今日は総司と共に柔術を教わる側になっている。
「…さあ。何か悩んでいらっしゃるんでしょうね」
「女のことか?」
「?なんで女だと思うんです?」
松原と斉藤が話しこんでいる姿を見たことがなく、二人は左程仲良くはないはずだ。総司が不思議に思うと、斉藤は淡々と答えた。
「ああいう堅物が思い悩むとしたら、女のことしかない」
「はあ…そういうもんですかね…?」
斉藤が何を持ってそう断言しているのか、総司は見当がつかない。
「まあ、いい。稽古の相手になってくれ」
「…わかりました」
総司は斉藤と向かい合った。


雨が止み、地面に落ちた水溜りが静寂を迎えた。明日になればまた太陽の日差しを浴びて溶けてしまうのだろう。
稽古が終わると、松原はふらりと屯所を出た。稽古のあとは明日の朝まで巡察は無い。
あれから顔を洗って出直したものの、今日の稽古はやはり身が入らなかった。こんなにも思い悩むことは初めてで、どう吹っ切ればいいのかわからなかったのだ。
(原田さんあたりと飲みに行こうか…)
お調子者でいつも明るい原田と飲みに行けば気持ちも晴れるかもしれない。しかし最近、彼は任務を終えると屯所近くに構えた新妻の新居に一目散に帰る。晴れ晴れとした笑顔で「おまさちゃんが待っているんだ!」と周囲にふりまく姿は、まるで子供のようだ。
(かえって気が滅入るだろうか…)
そう思うとやはりぶらぶらと散歩をして気を紛らわせるほうが良いのかもしれない。久々に酒でも飲んで、酔いつぶれるのも悪くない…自分らしくはない、と思うが。
そう思い至って、松原は飲み屋の連なる大通りへと向かった。東へ進んでいくと祇園にたどり着く。夕暮れも近く、花街は賑わいはじめていた。
(女か…)
女にのめり込むのも悪くない。女のことが忘れられないのなら、別の女を好きになればいい。たまには大枚をはたいて天神や太夫を買うのも悪くはない。
「いや…好きに、というのはおかしいな…」
松原は呟きつつ、頭を掻いた。
そもそも自分は、あの女のことを気にかけてはいるが、好きだといわけではない。行きがかり上、心配になっているだけだ。
(割り切って、振り切ればいいんだ…)
二度と会うことはないのだと。
そんなことを考えていると、突然ぐいっと袖を引かれた。
「ん?」
後ろを振り向くが誰もいない。しかしもう一度引かれて、松原は視線を下に落とした。
「あ…」
「おっちゃんや!」
袖を引いていたのは子供だった。それは見知らぬこともではない。あの時、あの女とともにいた子供だ。
松原は己の血の気が引くのを感じた。
「お…おう…」
「見つけた!探しとったん!」
「そ、そうか…元気だったか?」
「うん!」
目をキラキラと輝かせて、松原との再会を喜ぶ子供。しかし対照的に松原の表情は曇る。二度と関わりあいになるつもりはなかったというのに、この広い京で出会ってしまったとは。
(なんと不運な…)
松原は子供を振り払おうとした。一刻も早く、逃げなければ。
「す、すまないが、おっちゃんは用事があるんだ。また今度にしよう」
「あかん!ちょっと待ってえな」
「いや…そう言われてもだな…」
「おかあちゃん!おかあちゃん!」
子供は袖をぎゅっと掴んだまま、母を呼ぶ。すると人混みの中から小走りでこちらに向かう女の姿があった。
(ま、マズイ…)
近づいてくるのは、あの日の女だ。
「サチ!もうどこ行ってん…!」
「おかあちゃん、せやかて、おっちゃんみぃつけたんやもん!」
子供が松原を指さす。すると松原と女の視線が重なった。女は松原を見ると驚いた表情を浮かべ、松原は咄嗟に目を逸らした。
(う…嘘だ…)
松原は愕然とした。
あの日、顔を真っ赤にして大粒の涙を流していた女。
その彼女が
「あの時は…おおきに。またお会いできるやなんて…」
こんなにも可愛らしく、
「嬉しい」
自分に微笑みかけてくれるだなんて。
松原の心臓がどくん、と高鳴った。初めて覚える感覚だが、この正体を知っている。いま間違いなく、落ちた気がした。
(ああ…抗えない)
あの日出会ってしまったのも、ここで再会してしまったのも『縁』という名の忌まわしき運命なのだろうか。
(俺はこの女に…惚れている)
おそらく出会ったあの時から、惚れてしまった。一目惚れだ。
身体が熱くなって、上手く言葉が出て来ない。
しかし、その一方で、彼女の髪に彩られた簪は、まるであの日の罪を責めているように鈍く輝いていた。


378


ここでは目立つ、と思い至った松原は女とその子供と共に近くの茶屋へ入った。店の者が案内するまま、三人で店の奥の座敷へ入る。人通りの多かった大通りからは見えなくなったので、知り合いに見られてしまうこともないだろう。松原はほっと安堵した。
「うち、お団子!お団子食べたい!」
「サチ!」
女は顔を顰めたが、サチと呼ばれていた幼子は心底嬉しそうな顔をしていた。家は暮らし向きが決して良いとは言えないようだったので、甘い物は贅沢なのかもしれない。
「い…いや、好きに頼んでくれ」
「いえ、そういうわけには…」
「いいんだ。俺も…腹が減っていたところだ」
松原は咄嗟に嘘を付いた。本当は腹なんか減っていない、むしろ女と再会したことで胸がいっぱいになっていたのだ。
そのうち、先ほどの者が来たので、松原はサチのリクエストである団子とぜんざいを三人分頼んだ。女は遠慮して何もいらないといったが、そういうわけにもいかない。
好奇心旺盛なサチを何とか宥めつつ、女は切り出した。
「あの…今更やけど、うちはなつといます。この子はサチ…数えで五つになります」
「そ、そうか…俺は…」
女の名前を知ることができた…その小さな喜びに唆され、松原はつい自分の名前を名乗りそうになったが、踏みとどまった。
(新撰組だと知らせてしまうのは…マズイ…)
自分が一平隊士ならば名乗っても問題はなかったかもしれないが、不都合なことに自分は四番隊組長。そこそこ名前は広まりつつあり、なつが知らないとも限らない。
「あの…?」
「お…小野だ」
なつに不審がられないように、拙いながらも小野、と答えたのは自分が播磨国の小野藩士の家柄だったからだ。脱藩したは遠い昔のことのようだが、咄嗟にその名前が出たあたり、案外自分の身に出自というものは染みているのかもしれない。
するとなつは袂から袱紗を取り出し、松原へと差し出した。
「小野様…これは、先日いただいたお金です」
「え?」
なかには、松原が先日渡した小判がそっくりそのまま入っていた。なつは手を付けなかったようだ。
「やはり…このような大金を頂くわけにはまいりません」
「いや、しかし…」
なつは首を横に振った。
「僅かですが、旦那様が残してくれたお金もあります故…この子とどうにか二人で暮らしていけます」
「だが…言っては何だが、暮らしは貧しいのだろう…?遠慮せず、貰ってくれ」
「小野様にそこまでしていただく所以はございませぬ」
なつは頑なだった。彼女曰く、あの時は悲しみに打ちひしがれていて受け取ったものの、「やはり貰えない」と思い直して、松原を探していたのだと言う。
(一本筋が通っている…)
己の状況の甘んじることなく、筋を通そうとするなつに松原はますます思いが募った。強気な性格は、昔から松原が惹かれてきた女性のタイプでもある。
松原は仕方なく彼女の言うままに袱紗を受け取って懐に収めた。あとでサチにこっそり渡してやればいい…そんなことを思った。
そうしていると、注文した団子とぜんざいが来た。サチは目を輝かせて団子に飛びつき、嬉しそうに頬張った。その姿を見るだけで松原は満足して、自分の分の団子もサチに渡した。
「…これからはどうするつもりなんだ?」
旦那様、と呼ぶ男は死んだ。どうにか暮らしていくといっても、女手一つで生きていくには難しいはずだ。
するとなつは少し目を伏せた。
「女が生きていくために選ぶ道は…いくつでもあります」
「…それは…」
「うちはもともと、安西に身請けされた身です。元の鞘に収まると思えば…大したことでは、ありませぬ」
安西、というのが彼女の呼ぶ旦那様の名前であり、追い詰めた男の名前だと松原は知る。そして彼女がもともとは花街出身で安西に身請けされた遊女だということも悟った。
松原は「そうか」と答えることしかできなかった。悲しげに表情を落とすなつにどんな言葉をかければ良いのかわからなかった。
すると、なつの方から「小野様」と声をかけてきた。その表情は無理矢理ながらも、穏やかなものに変わっていた。
「ずっと気になっていたのです。小野様はどうして…この簪をお持ちだったのです?」
「えっ?!あ、ああ…」
不意打ちの質問に、松原は冷や汗をかいた。なつの髪にささる簪は松原が手渡したものだが、もともと安西が持っていたものだ。
「そ、その…あの…」
しどろもどろになっていると、なつは首を傾げつつ「安西とは顔見知りで?」と矢継ぎ早に質問を続けた。
彼女の大きな黒い瞳に見つめられていると、それだけで心臓が口から出てしまいそうだ。嘘を重ねる罪悪感はあったが、しかし後戻りはできなかった。
「…あ、ああ…顔見知り…というわけではないが…居酒屋で、ちょっと。簪は…あの場所で、たまたま…拾っただけだ」
言葉を選びながらの返答は、土方ならば一発で嘘だと見抜いてしまっただろう。いや、土方でなくとも不審に思われてしまいそうなものだが、しかしなつは「そうでしたか」とあっさり納得した。
「おかあちゃん、これ、美味しい。おかあちゃんも食べてみて!」
「おかあちゃんは十分や。サチがお食べ」
「嘘や。おかあちゃん、何にも食べてへんのに!ほら!」
サチが団子を母に差し出す。なつは戸惑っていたが、松原が頷くと一口頬張った。形の良い小ぶりな唇が団子を含む…松原はそれだけでも何だか見てはいけないものを見てしまったような気持になって、目を逸らしてしまった。
しかし、彼女は表情を綻ばせ
「美味しい」
と笑った。サチが「せやろ!」と頷いて、二人が笑う。
いままで、ここにあの男…安西を交えて、三人で家族として暮らしてきたのだろう。貧しくとも楽しく幸せに暮らしてきたのだということは、サチの明るさでわかる。
「…サチは、どうするんだ…?」
「え?」
「君は…花街に…戻るだけなのかもしれないが…サチは、どうなる…?」
「……」
松原の指摘に、なつの表情が曇った。なつが花街に身を売るとなれば、サチは里子に出されるか、それともなつと同じように花街で暮らしていくしかない。これまで通りの暮らしなどできるはずがない。
(それに…俺が、そんなことを受け入れられない…)
なつが花街で、別の男に媚を売るくらいなら。
(俺で…いいじゃないか)
それまであやふやだった意識が、急にその輪郭を露わにして松原の心を動かした。
松原は先ほど懐に仕舞った袱紗を再び取り出した。そしてそれをなつに差し出す。
「小野様?」
「やはり…これは、君に渡す」
「でも…!」
「いいんだ!」
松原は声を上げた。サチが驚いていたが、構うことはない。
(俺はこの女に惚れてしまった。惚れてしまってはならない相手だとしても…せめて、俺は不幸せにしてはならないはずだ)
ここで別れて、二度と会わないのが正しいのだと分かっていた。
決して、許されない想いだとも、知っていた。新撰組の組長としても、なつに対しても、サチに対しても…真実が明らかになれば、誰もが不幸せになる。
けれど、この責任からは逃れられない。幸せな家族をこれ以上追い詰めることはできない。
だから、覚悟を決めた。
「…君たちは、俺が守る」
「え…?」
「何の心配もいらない」
それまで言葉を濁してばかりだったのに、覚悟を決めたとなればすらすらと口から出て行った。
それが間違った覚悟だったとしても、構わない。
そんな刹那的な感情に雁字搦めに囚われた。


屯所の提灯に明かりが灯り、夜の巡察の組が出立する頃。
「土方さん、入りますよ」
総司は土方の元を訪れた。声を掛けたときにガサガサっと音が聞こえたが「ああ」と了解の返事があった。
「すみません、仕事中でしたか?」
総司が中に入ると、土方は蝋燭を灯した文机に向かっていた。相変わらず手紙や書物の類が散乱していて、彼が多忙なのがわかる。
「ああ…まあな…」
土方は少し疲れた表情をしていた。手にしていた文を懐に仕舞いつつ、ため息をつく。
「それで、何の用だ?」
「石田散薬、あります?」
「あるが…何だ、身体の具合が悪いのか?」
総司の申し出に、さっと土方の表情が変わった。その表情の真摯さに総司は苦笑した。
「違いますよ。全く最近、大げさですよ、どうしたんですか。…土方さんの方がよっぽど顔色が悪いです」
「…うるさい」
「打身です。今日の柔術の稽古で青痣ができそうなほど投げられましたからね…全く、容赦ないんだからなあ…」
「松原か?それとも篠原か?」
土方は犯人は誰だ、と言わんばかりの形相だ。総司は「まさか」と笑った。
「斉藤さんですよ」
「斉藤?」
「柔術師範の先生方はある程度、手加減してくれるんですけどね。斉藤さんは本気で投げ飛ばすんです」
困った人ですよね、と総司は笑うが、土方は表情を顰めたままだ。文机の引出しから石田散薬を取り出すと「見せて見ろ」と手を差し出した。
「別に大丈夫ですよ。それに石田散薬は飲み薬でしょう?」
「昔から切り傷と打身は見慣れてる。具合を見てやるから、ちょっと見せて見ろ」
「見てわかるものですかねえ…?」
総司は首を傾げつつ、左腕の袖を捲った。肩口を強く痛めたので、少しだけ腫れている。土方はまじまじと見た。
「大丈夫そうだな」
「はい。念のため薬を貰いに来ただけですから」
「だったらいい」
「もう…いつからそんなに心配性になったんですか?」
総司はからかったが、土方は「ほっとけ」と素っ気なく答えて
「斉藤にも手加減をするように言っておけ」
と不機嫌そうに言い放ったのだった。



379


八月の太陽は、焦がすほどの眩しさで空に鎮座していた。雲一つない空を恨めしく見上げていたが、やはり眩しくて総司は境内の少しの日陰に隠れるように身を置いた。
「勘弁してほしいなあ…」
額に滲む汗を拭いつつ、総司は呟いた。凍えるように冷たい冬も得意ではないが、照りつける夏の熱さから逃げる術は無い。加えて総司の場合、きっちりを襟を正して衣服を着ているせいもあるだろう。
(本当は上半身、裸になって水浴びでもしたいところだけれど…)
そんなことをすると土方が不機嫌になってしまうのでできる限り避けているのだ。
「よっ 総司、暑いなあ…」
そうしていると、原田が団扇を仰ぎながら総司の元へやってきた。今の総司には恨めしいほどに、堂々と上半身と隆々とした筋肉を晒している。
普段はお調子者の原田でも、この暑さには辟易としているようで顔は少し疲れていた。
「…あれ?今日は非番でしょう?どうして屯所に居るんですか?」
彼は想いを寄せていたおまさと結婚し、本願寺筋に居を構えている。仕事が終われば家に帰るので、屯所に居るのは珍しい。
「まあ、ちょっとな。別に居たっていいだろう?」
「そりゃ、構いませんけど…」
原田が口ごもったので、総司は首を傾げた。おまさと喧嘩でもしたのだろうか。
すると「沖田先生!」と少し甲高い声で呼ぶ山野がやってきた。
「あ、原田先生も。お疲れ様です。あの、ちょうど屯所の前をところてん売りが通りかかったので、買い付けたんです。先生方、いかが…」
「おお、山野!気が利くじゃねえか!」
山野の台詞も終わらないうちに、早速、原田は盆に手をのばしひょいっと小鉢を取り上げた。その身のこなしの素早さはさすが食べ物に目がない原田らしい行動だ。
総司と山野は顔を見合わせて苦笑した。
「山野君は前も西瓜を持ってきてくれましたよね」
「はい。夏も、ここまで暑いと水をくみ上げるのも億劫でしょう。でも沖田先生にはちゃんと水分を取っていただかないと、また倒れられたら困ります」
「はは…もう一年も前のことですよ。山野君はよっぽど医学方に向いているようだ」
「お褒めの言葉として受け取りますけど、口煩いからって医学方へ追いやったりしないでくださいね」
山野は微笑みながら、ところてんの入った器を総司に渡した。見るのも涼やかなところてんに、夏の暑さで息を潜めていた食欲も急に湧き上がる。
「いただきます」
総司が手を合わせたが、
「げえ!」
と、その隣で既に頬張る原田が声を上げた。
「どうしたんですか?」
「こ、このところてん…甘いじゃねえかよ!」
「え?」
山野は首を傾げた。
「…原田先生、都ではところてんは甘味として食べられているんですよ」
「そうなのか!?俺んとこは、酢か醤油か…とにかく、こんなに甘かったことはねえよ」
「試衛館でも確かに酢にゴマを振りかけることが多かったですけど、こちらでは黒蜜を掛けたりするみたいですよ。私は案外こっちの方が好きですけど」
「マジかー…」
思わぬ食文化の違いに原田は絶句していたが、それでもところてんを恐る恐る口にする。のど越しの良いところてんはほんのり甘くて心地よい。
「でも、おまささんが作るところてんは甘いんじゃないんですか?」
二人が結婚して半年。おまさの手料理を毎晩楽しみにしている原田なので、そういった食文化の違いには慣れているはずだ。
総司が訊ねると、原田はまたも口ごもった。
「あー…おまさちゃん、いまはそれどころじゃねえんだよ。家で寝込んでる」
「え?!」
「…悪い病か何かですか…?」
彼の言葉に、さっと顔色を変えた総司と山野だが、原田は「そうじゃねえよ」と軽く手を振った。
「ま…ここだけの話にしておいてほしいんだがなあ、どうも身ごもったみたいでさ」
「赤子ですか…!?」
「まだ微妙な時期だからさ、おまさちゃんが落ち着いたら近藤先生たちに報告するつもりだけどよ…だからこうして俺は追い出されているわけ」
「どうしてですか?」
今度は山野が首を傾げると、原田は口を尖らせた。
「うるさいってさ。俺がいちいち心配して声を掛けたり、気を回したりするんだが、どうもから廻ってるみたいでさあ。『実家から乳母を呼ぶからしばらくあんたはどっかいっといて!』…って追い出されちまったんだ」
「それはまた…」
新撰組の組長相手でも怯まず、負けん気の強いおまさらしい言い分だ。しかし、その調子だとおまさも元気なのだろう。総司は内心安堵した。
そうしているとあっという間に原田はところてんを平らげて、空になった器を山野に返した。
「ま、俺は男の子だと思うんだ」
「何を根拠に?」
「俺の子なんだ、男子に決まってる!」
「…なるほど、そうやっておまささんに絡んでるんでしょう?」
「何でわかるんだよ」
『男の子に決まっている!』と決めつけて騒ぐ原田。そしてそれを鬱陶しがって追い払うおまさ…二人の様子が手に取るように想像できてしまい、総司は思わず吹き出して笑ってしまった。
そんな総司を見て原田は不服そうだ。
「ったく、何だよ全く…お!おい、松原!」
原田は手招きして姿を見つけた松原を呼び寄せた。彼はぼんやりとしていて原田に気が付かなかったようで
「おーいっ!松原ー!」
と、原田がしつこく呼んで、ようやく気が付いた。
「す、すみません。呼びましたか」
小走りで駆けつけた松原を、原田は「うまいもんがあるぜ」と誘い、山野からところてんを渡された。
「これは…旨そうだ」
「松原は播磨だったよな。だったら、甘いところてんは食いなれているか?」
「ええ…まあでも、甘いのは京に来てから初めて口にしましたが、なかなか旨いですよ」
そう言いつつ、松原はところてんを口にした。彼の言うとおり、甘さに躊躇う様子はない。
すると山野が「沖田先生」と声を掛けた。
「近藤局長の元へお持ちしようと思うんです。今はいらっしゃいますでしょうか?」
「ええ、たぶん部屋の方に。近藤先生も甘い物がお好きだから喜ぶと思いますよ」
「はい」
山野は嬉しそうにうなずくと「では」と離れようとした。すると原田が「待て」と言って
「今の話、まだ内緒だからな」
と念を押した。山野は「もちろんです」と答えて去っていく。その様子を眺めていた松原は首を傾げた。
「今の話…というと」
「ああ。うちの嫁さんが、身籠ったかもしれねえ…って話だ」
「そうなのですか。おめでとうございます」
「まだわかんねえよ。松原も内緒な」
「わかりました」
まだ内密に…という割には原田の口は軽い。本人のもともとの性格ゆえかもしれないが、本心では皆に言いふらしたいほどに喜んでいるのだろう。
「で、原田さんは男の子だと勝手に決めつけているようなんですよ」
「男の子…ですか」
「おう。当然だろう?」
何の根拠もなく決めつける原田に、さすがの松原も苦笑している。
「はは…まあ、女の子も悪くないものですけどね…」
「ん?お前、娘でもいるのか?」
松原としては無意識に零した言葉だったのだろう。原田に目敏く拾われてしまい、「あっ」と傍で見てあからさまなほどに顔色が変わった。
「い、い…いえ、そう言うわけでは…ありませんが…」
「なんだよ、なんだよ!壬生の馬鹿正直者と言われた松原にもついに春が来たのかーっ?」
「そういうわけではなく…!その、姪が…いて、ですね…!」
原田は本気で問い詰めているわけではない。あくまで茶化すように松原をからかっているだけだ。しかし、松原の方はそうと気が付いていないのか、本気で慌てていて顔色を真っ青にした。
「松原さん…?」
「し…失礼いたします」
そして松原は逃げるようにして二人の元を去って行ってしまう。原田は首を傾げつつ頭を掻いて「何だ、あいつ?」と不思議そうにしていた。そして総司は喉に小骨が引っかかったような、そんな違和感を覚えてしまった。


松原は深めに被った傘を、さらに目元を隠すように押し込んだ。傘の隙間から周囲の様子を伺い、知った顔がいないことを確認するとサッと狭い路地に入った。
大通りから急に生活感あふれる路地に入ると、足早に目的の家の前までやってきた。軽く戸を叩き
「…俺だ」
と言うと、中から彼女の声が聞こえる。松原はもう一度辺りを確認して、身体を滑り込ませるように家に入った。
「小野様…おかえりなさいませ」
なつはおかえり、と慣れた様子で微笑む。小野、と呼ばれた松原はぎこちなく笑った。
「ああ…サ、サチは…?」
「近所の子供たちと遊びに出ております」
「そ、そう…か…」
松原は草履を脱ぎ、家に上がった。
こうしてなつとサチのもとへ通うようになってから十日が過ぎていた。最初は金を渡して、生活の支援をしてやればいいと考えていた松原だが、次第に箍が外れるように、この家に入り浸る時間が増えた。
最近、知ったことだが、なつはもともとは京ではなく西の方の出らしい。家が貧しくて花街に売られた…というよくある話だが、それを聞いて以来、松原にはやはり『可哀そうだ』という気持ちが募った。
そして彼女は松原の前で京言葉をやめた。それは嘘の言葉だからと彼女は笑ったが、それを松原は『彼女が気を許してくれたのだ』と解釈した。
「小野様…」
なつは松原の背中からその細い腕を回した。首元に彼女の柔らかな唇が落ちて、くらっとするほどの甘い香りが松原を誘った。
「な…なつ…」
「小野様…」
なつが松原と唇を重ねた。慣れた仕草はやはり花街出身故だろう。そしてそれに簡単に惑わされてしまうのは、女に不得手な松原だから、なのだろうか。
「な、なつ…!」
サチがいない昼下がり。
松原はまるで急き立てられるかのようになつを抱きしめた。そして不器用ながらも噛みつくかのように彼女の白い肌に触れた。鎖骨、肩口、指先、乳房、太腿…すべてが柔らかく、まるで絹のようになめらかで。
(この世のものではないのだろう…)
そんな現実味のないことを本気で思い込んでいた。
松原はなつに溺れていた。



380


真夏の炎天下。なつが松原のことを、「小野様」という偽名で呼ぶのをやめ、「旦那様」と呼び始めたのは最近のことだった。娘のサチの前では遠慮をして相変わらず「小野様」と呼ぶものの、二人きりになれば「旦那様、旦那様」と愛おしそうに呼ぶ。
なつにとってはそれが愛情表現なのだろう。他人行儀な態度をやめ、一歩前に関係を縮めた…その証拠のつもりなのだ。
しかし、松原は複雑だった。
(それは…俺が殺した男のことなのか…)
愛する人がいなくなった悲しみや寂しさを、松原を代用品として埋めようとしているのか。それとも、松原のことを本気で想っているのか。松原にはわからなくて、なつに聞くこともできずに後者だと自分自身を誤魔化していた。
「旦那様…」
一切、衣をまとわぬなつが自分の腕の中で、甘く呼んだ。
いま、彼女の目には自分しか入っていないはずだ。
(それでいいんだ)
「…サチは?」
「あの子は…近所の子らと縁日に行ってます」
だから、大丈夫だ。
なつは松原を宥めるようにそう言った。松原は安堵した。サチは松原のことを時折家にやってくるおじさんくらいにしか思っていない。
なつは上半身を起こし、髪をかき上げた。かつては花街に身を置いていただけあって一つ一つの仕草が松原を誘う。松原は扇情的な彼女の姿に煽られて、手を伸ばした。そしてその頬から首筋、鎖骨、肩に触れた。
(俺のものだ)
心の中で、何度もその台詞を繰り返した。
そうすれば、その通りになる気がした。
「あの小袖…」
貧しく隙間風も入るボロ屋に似合わない小袖が掛けられている。松原がなつのために仕立てた小袖だ。紅色が好きだというなつのために誂えた。
「君に似合っている」
なつの身体は白くきめ細やかで滑らかで、しかし冷たい。そんな彼女に、赤い小袖は良く似合うことだろう。
「…おおきに」
なつは微笑んだ。その唇が赤く浮き立ってみえた。



連日の炎天下には辟易とするが、巡察の当番は容赦なく回ってくる。総司は先頭に立ち、一番隊の隊士たちが集まっていることを確認して屯所を出ようとした。
「…あれ?」
屯所にしている西本願寺の門前で見知った顔に出会い、総司は足を止めた。
「山崎さん」
元・監察方の山崎烝。監察方の頃は堂々と正面から屯所に出入りするようなことは決してなかったが、現在は医務方の一員として素顔を晒している。
「沖田先生。巡察ですか?」
「ええ、今からです」
「せやったら、こんなに暑いさかい、時折休憩を挟んで、茶の一杯でも飲んで、身体には気ぃつけて」
「はは、すっかりお医者様ですね」
山崎の医者のような小言に、総司は苦笑した。組下の隊士たちに「先に行ってください」と命令を出し島田とアイコンタクトを交わし、山崎と立ち話をすることにした。
「相変わらず、松本先生のところへ?」
「へえ、まあそれよりも南部先生のとこの方がよく足を運ばせてもろうてます」
「松本先生はお忙しいのですか?」
「そうやろうと思います。…ああいう気軽な方やけど、幕府御典医ですから」
ははっと笑う山崎に、総司もつられて笑った。江戸弁の軽快な松本であるからこそ忘れがちだが、その立場はこの日本国で一、二を争うほど高いのだ。
「南部先生…ということは、そう…英さんはお元気ですか?」
宗三郎から英(はなぶさ)へと名前を変えた彼は、南部の元で新しい人生を始めるのだと言っていた。あの火事以来、英には会っていないが総司は時折彼のことを気にかけていた。
すると山崎は笑った。
「元気も何も、南部先生のところで誰よりも熱心に医学を学んでますわ!」
「へえ?」
「南部先生はもともと頭が良いんやと。俺なんかでは足元にも及ばず、いまでは南部先生が助手代わりに連れ歩いてます。火傷の痕はともかくとしてもあの見目やさかい、患者も喜んでますし」
「…そうですか」
総司は英が元気に過ごしていることを聞いて安堵した。まだこの屯所までは来られないかもしれないが、近いうちに会うことができそうだ。
すると、突然、山崎が声を潜めた。
「…それで、今日は土方副長、おられますか?」
「部屋にいるとは思いますけど…どうかされましたか?」
総司は山崎の眼光が鋭くなり、かつて新撰組の監察方として働いていた時のように変わったのを見逃さなかった。しかし、彼はすぐに表情を明るく戻す。
「せやったら、お邪魔していきます」
「…そうですか。ゆっくりしていってください」
刹那見せた、山崎の物々しい雰囲気に総司はそれ以上の追及をやめる。山崎は「では」と軽く頭を下げて屯所の中に入って行った。
彼らしくあっさりと屯所の中にその気配を消していった。


総司との立ち話を終えた後、屯所奥の副長の部屋を訪ねた山崎は、
「悪かったな」
と、土方に声を掛けられた。彼が自分を労うのは珍しい。山崎は「いいえ」と首を横に振る。
「医務方に移ったからといって、監察の仕事をすべてやめるというわけではありまへん。むしろ、この医者という立場でも情報を得ることは多いと感じております」
病やけがを目の前にすると人間は弱くなる。普段は固く口を閉ざしていても、身体が弱くなれば心も弱くなる。そんな状況ならば、医者にも心を許しやすい。
土方は医務方である山崎を今更監察のように扱うことを詫びたようだが、山崎からすればまだ監察としての性分が抜けていないだけだと思っている。
「それで…どうだ?」
土方はすぐに本題に入った。彼の周りに散乱している書類や書物から多忙なのがわかる。
「松原組長本人だと確認いたしました。女の名前はなつ。娘が一人」
「…夫がいるのか?不義密通の類か」
そう土方は不快そうに吐き捨てる。新入隊士が入隊して以来、不義密通で切腹なる者が続いていたのだ。しかし、山崎は首を横に振った。
「いえ…夫は、最近亡くなったそうやと、近所の住民が」
「亡くなった?」
「それが、新撰組に斬られて死んだ、と」
山崎の報告に土方の眉間の皴が深くなる。
そもそも山崎が松原がなつのもとに通っていることを知ったのは偶然だった。近くの家に南部の指示で薬を持って行った際に、偶然松原と女の姿を見かけたのだ。二人の間には明らかに親密な空気が漂っていて近くのぼろ屋に入って行った。明らかに松原が挙動不審なほど周囲を気にして姿を隠しながら家に通っているのを見て、不審に思ったのだ。
「…死んだのはいつだ?」
勘の鋭い土方は早速、訊ねてきた。山崎は重々しく答える。
「二十日ほど前やと」
「…まさか、松原が夜の当番だったあの日か?」
「おそらく」
山崎の返答に土方は「ちっ」と鋭く舌打ちした。その表情が苛立つ。
「自分の旦那を殺した男と寝る…そのなつって女も、相当な阿婆擦れだな」
「いえ、おそらく女は松原組長が新撰組の者だということはしらないのではないかと」
「なに?」
土方の苛立ちが山崎に向く。しかし、入隊以来監察方として土方の近くで仕事を続けてきた山崎は怯むことはない。
「女は松原組長を『小野様』と呼んでおりました。おそらく、女に正体を明かすことができずに、関係に至っているのではないかと…」
「…」
土方にしては珍しく唖然とした顔を見せた。それも仕方ないだろう。正直者の松原の性格ではそんなことをできるわけがないのだ。
「…余程、女に惚れているのか…」
「松原組長はこれまで花街に出入りするようなこともなく、仕事に専念していた方です。それが逆に箍が外れて、一人の女に夢中になってしまった…考えられない話しではないのやと思います」
「……」
土方は文机に肘をつき、少し考え込むような仕草をした。
「…このことを知っている者は?」
「おそらくはまだ…。しかし、松原組長は器用な方やおへん。すぐに露見してしまうのではないかと思うてます」
「そうだな…」
山崎の答えに土方は頷いたものの、迷いがあるようだ。
(切腹…は重たいんや)
監察方で慣れたのか、土方の思考はある程度読める。これまでの不義密通ならば土方は問答無用で切腹に処するだろう。組長だからと言って敢えて容赦はしないはずだ。しかし、道徳的な問題はあれども、松原にとっては純粋な恋なのだ。
「…もう、下がっていい」
「はい」
山崎は指示を受けたまま、部屋を下がった。障子を閉め、廊下を歩く。
この結末が一体どんなものになるのか…山崎にさえわからなかった。





解説
なし
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